なにをいまさら、と言うなかれ。〈異形コレクション〉を読み続けていて、ずっと感じていた思いは、こういうのは、その昔、眉村卓とか第一期SF作家がたち書いていたんじゃないのか、ということ。それで本書を読み返してみたのだが、やはりその思いを強くする。
それにしても本書の前半分、現代、近未来篇はもう傑作ばかり。改めて著者の作家としての力量を再認識。つづいて遠未来篇、著者にかかると、宇宙船のコクピットも雑居ビルの事務所とそう変わらない印象になってしまうのが何ともいえずほほえましい。いかにも著者らしくていいのだ。
それはさておき、左は本書の作品名の下に、私が判断して〈異形コレクション〉のテーマを当てはめてみたものである。どうだろう、〈水妖〉だけは見あたらないが、それ以外のテーマは全部取り上げられているのだ。
〈第一部 現代〉
「いやな話」侵略。人間としての何かが侵略される
「ピーや」異形の愛。猫
「不満処理します」侵略。人間としての何かが侵略される
「交代の季節」侵略。文字どおり
「奇妙な妻」異形の愛。未来人
〈第二部 近未来〉
「決算の夜」悪魔の発明。タイムマシン
「悪夢の果て」変身、もしくは悪魔の発明。発明された技術(テレポーテーション)による変身
「クイズマン」屍者の行進。ユズルに読み取って貰うためだけに日夜知識の吸収に努めるクイズマンたちの行為は、まさに屍者たちの行進?
「暗い渦」異形の愛。セクソイド
〈間奏曲〉
「浜近くの町で」ショートショート。
「夜のたのしみ」ショートショート。
「われらの未来」ショートショート。
「お別れ」 ショートショート。
〈第三部 遠未来〉
「わがパキーネ」異形の愛。異星人
「使節」ファーストコンタクト
「時間と泥」ファーストコンタクト
「正接曲線」ファーストコンタクト
「還らざる空」山尾佑子ばりの硬質の幻想小説
「準B級市民」異形の愛。政策出生者。何と「アンドロイドは電気羊…」と同じテーマだったのだ!
「下級アイデアマン」侵略。
(初出、ヘテロ読誌98.9)
著者の最初期の作品群を含む短篇集。あとがきによれば、「終りとはじまり」、「紋章と白服」、「エピソ−ド」、「影の影」、「表と裏」(以上、1群とする)は、昭和36年から39年にかけて書かれたものであり、「信じていたい」、「コピ−ライタ−」、「泣いたらあかん」、「テキュニット」(以上、2群とする)は「つい最近のもの」ということで、あとがきの末尾に「1969年9月」と記されていることから、2群はおそらく昭和44年頃の作品と思われる(別資料に拠れば「終りとはじまり」は61年、「紋章と白服」は62年、「エピソ−ド」「影の影」は63年「表と裏」は64年に脱稿したものである。また「信じていたい」は調べがつかなかったが、「コピ−ライタ−」は69.4/10、「泣いたらあかん」は69.3/14の脱稿、「テキュニット」はSFM69.11月号の掲載である)。
著者によってこうして年代別に分けられた2グル−プ間には、たしかに歴然とした「差」が認められる。言うまでもなく2群のほうが小説として格段にすぐれている。昭和9年生まれの著者が、昭和39年から44年にかけて、すなわち30歳から35歳の頃に、技量的にも思索においても長足の進歩、深化を遂げていることが伺えて興味深い。
「信じていたい」(2群)
は、多元宇宙テ−マなのだが、初期の筒井康隆を読んでいるような雰囲気がある。
就職したての新入社員が、なぜか多元宇宙の錯綜現象のなかに投げ入れられる。原因は説明されない。けれども<新入社員>という、身分は社会人ながら、心構えではまだ学生気分をひきづっているという「両義性」が惹起したものであることは容易に知れよう。多元宇宙テ−マを日本的な<新入社員>という「場」に導入してみせた佳品であり、かつて山野浩一が分析した「SFの日本建築化」(だったか)の典型的な例であろうか。
「コピ−ライタ−」(2群)
は、小さなデザインル−ムが舞台。売上げの60%を占める最大の得意先である大阪工業が発注をやめると言い出す。コピ−が気に入らないらしい、ということで、急きょ捜し出してきた新しいコピ−ライタ−は「掘り出し物」だったが・・・。
「泣いたらあかん」(2群)
は、近未来というか、現未来の大阪の話。この時期東京への極端な一極集中があらゆる部面で起こっている(この予測はまさに的中している)。主人公竹内は、マイクロフィルムを使った雑誌を発行しているが、このような事態に対して大阪が対抗力を発揮しなければならないという考えの持ち主。
――はからずも、これは前回取り上げた[ふつう対畸形]の構図に対応する事態である。まさに構造の構造たる所以だが、ともあれ、ここでいわば「畸形」の立場に立つ主人公は、東京の<感覚テ−プ(?)>会社がそのユニ−クな感覚そのものを買いたいと申し出たとき、次のようにいう。
「すると・・・わたしのいうことが、ユニ−クでおもろいというわけでんな? つまり、見世物のタネになれるというわけでっか?」
というわけで、ここでも寺山修司が見通した<畸形の構造>が浮き彫りにされているわけである。
さて、主人公は机を叩いて飛び出して帰ってくるのだが、しかし会社で待っていたのは、「チンドンヤ」という、やはり見世物の道具一式だったのだ!
うまい!と思わず膝を打つ快作。
「影の影」(1群)
は、近未来が舞台。出版物が多すぎてどれを読んだらいいかが深刻な課題となっている(この予測も的中している)。
そのとき現れたのが、感情投影器。前作の感覚テ−プと同種の機器である。これを付けたモニタ−が本を読むと、そのときの感情が記録されるのである。この感情の再生機が書店の店頭に置かれていて、客はかぶってその感情を追体験することができる。
これが本を買う際の重要な選択要素となるのだ。いわば近ごろの「帯惹句」の実感版である。本の売れ行きを左右するわけだから非常に影響力がある。そのモニタ−に現役の作家が志願してくる。自分の本を自分が読めば、すばらしい読後感が記録される・・・はずだったのだが。皮肉な小品。
「紋章と白服」(1群)
のちに『EXPO'87』において見事に造型される<ビッグ・タレント>の、前身みたいなタレント業<貴族>が描かれるが、最終場面が活劇に流れた。
「終りとはじまり」(1群)
遠未来の地球、衰亡し孤立したシテ(シティ)は修復機能を失っており、テックと呼ばれる一種の万能修繕屋が放浪の途中に立ち寄ってくれるのを待つばかり。
そんなテックたちが、テックだけのシテを建設するが、そこにロケットが降りてくる。設定にいささか無理があるので、登場人物も自在に動き出さない。通り一遍なスト−り−になってしまった気がする。
「表と裏」(1群)
これはよくできた短篇である。宇宙空軍の若い将校がひょんなことで無人ロケットに閉じ込められ、ロケットは出発する。ここまでの話はまるで絵に描いたように(映画のシ−ンのように)よくできている。閉じ込められた将校をロケットの人工頭脳は、かれの手足となるべく乗せられるはずのロボットと認識し、何ともおかしい悲喜劇が開始される。こういう<人外>との交流を描かせたら著者の右に出るものはいないだろう。オレ的にはいさましいちびのトースター的傑作。
「エピソ−ド」(1群)
光瀬龍のある種の作品を彷彿とさせる「地球を舞台とした宇宙小説」。問答無用の名篇。
「テキュニット」(2群)
ほとんど鎖国状態の火星の都市群テキュニットは、苛酷な自然条件からきわめて全体主義的な<ユ−トピア>を作りあげていた。・・・
中篇であるが、スト−り−もその長さに十分耐えるもので、各登場人物の造形もきっちり整理されている。終盤の展開なども、同趣向の「紋章と白服」と比べると一目瞭然、技術的にも思弁的にも格段の進歩である。
1群と2群、結局どこが違うかというと、思うに小説を作る段階での<対象化>と<整理>の差だと思われる。かかる客観化の力が、眉村作品を見通しのよい読みやすいものとしているのだと思われる。
(初出、ヘテロ読誌00.8)
実に20年ぶりに再読。白状すれば、初読時はあまりピンとこなかった作品だ。
今回読み直して、了解の糸口を掴んだ気がしている。
それはヴァイトンからソラリスに向かう線分上に本書を位置づけるのは、どうやら間違いらしいということ。
司政官の仕事は何か。原住種族と植民者の調整役であり、かつ惑星と連邦の間にあっては、惑星の側に立って調整するものであろうか?
本書の場合、原住種族にソラリス的なものを求めてはいけないのだ。
初読時の私の違和感は実にそれを求めてしまったことに起因する。
そういう読み方のモードに入ってしまうと〈何を今さら〉という感想に自動的に行き着いてしまう道理だ。
けれどもそれでは著者の意図を汲まない〈誤読〉になってしまうのである。
本書中のかれら原住種族は、すべて人間の姿が投影されたものであり、本質的に〈人間〉と考えて間違いない。そう考えなければいけない。
司政官が共感する「炎と花びら」のアミラも、「遙かなる真昼」のグゲンゲも、自立的開明的な理性人として描かれ、その意味において主人公の司政官に共感されるのであって、そこにはもはやSF的な認識の変革の入り込む余地はないのである。
つまり作者は、本書においてはもともとそのような、いわゆるセンス・オブ・ワンダーの発現を目指して創作しているのではないのである。
そういう意味でのSFではなく、作者にとって「あるべき人間」としての生き方を、具体的な小説、とりわけ自由なSF小説という形式に載せて表現しようとしているのだ。
作者にとっての理想像を開陳するという意味で、むしろ〈空想小説〉の系譜に位置づけられるべきものなのかも知れない。
もとよりそれが〈広義のSF〉に属すものであるのは間違いないが、ともあれ著者は、小説という形式を〈目的〉としてではなく、いわば〈手段〉として用いていることは指摘しておきたい。
「限界のヤヌス」では、主人公の理想からは忌むべき存在として待命司政官、即ち巡察官候補生が描かれる。
同時に司政官上がりの肯定さるべき巡察官も登場して、巡察官の性格の変遷が対比的に示されるが、加えてこの作品では司政官制度が機能しなくなってきた時期、司政官に見切りをつけて野に下った元司政官の革命家と、何とか司政官制度を維持しようと努力する主人公の司政官とが対比される。
巡察官はためらいなく連邦軍の出動を要請する。この辺りはこの作品の読みどころで、個人的には多元描写で、この巡察官の、巡察官としての職業意識と心情の軋轢も複眼的に描いて欲しかったような気がする。
複眼的といえば、司政官(制度)を見限った革命家の視点からの描写も是非欲しいところであった。
視点の固定(実は眉村SFに特徴的な要素ではあるのだ)が、本書の諸作を、〈第一次戦後派〉に源流を発する「全体小説」としての可能性を秘めながらも、いまだ(良くも悪くも)空想小説にとどめているように思われて、個人的には惜しい気がするのである。(初出、ヘテロ読誌98.12)
本書の評価は二方面よりあり得る。
その一は、従来的な意味で小説を読んでいる感覚とは少し違うものであり、ゲーム小説あるいはシミュレーション小説という言葉が浮かんでくる。
つまり、ある惑星上に諸々の(社会的/心理的)初期値を設定し、変数(司政官)を導入し、結果初期値がどのように変化していくかを記述するという、きわめて公開性の高い、まさしくゲーム的というのが妥当なスタイルを持つ小説である。
〈クトゥルー神話もの〉というジャンルは、原作者ラブクラフトの設定を踏まえて、いろいろな作家が参入しているわけだが、本書でもそのような展開が可能であると思われる。公開性が高いとはそのような意味である。
もとより書いている作者本人が一番楽しんでいるのだろうが、実のところ私自身も巡察官を主人公に据えた話を読みたい(書けるものなら書いてみたい)という気になった。そういう気持ちにさせる奥行きが設定自体にある。SFマガジン連載時に人気を博したのは専らこの方面であろう。
その二は、眉村従来からのテーマであるインサイダー文学論の展開である。
かかる見地から言えば、これは残酷なストーリーだ。
一人の中間管理職が「使い捨てられる」もしくは「使い物にならなくなる」までの物語なのだから。
管理職に抜擢人事的に新任されて希望に燃える有為のやる気満々の青年が、与えられたプロジェクトのもっとも肝腎な場面で「外されて」しまうのだ。
しかもそれは、最初から決められたことだった……。
――それはないでしょう、人事部長。
と、私なら訴えるだろう。
とにかく、こんな仕打ちを受けた管理職が、引き続いてその職務に打ち込めるだろうか?
エピローグでマセは、内心をあからさまには語っていないが、連邦に対する忠誠心も、司政官としてのプライドもすべてなくなってしまっているはずだと私は推測する。
むしろ怨念めいたドロドロしたものでいっぱいのはずである。これこそまさしく、「使い捨て部隊」ではないのか。
それにしても(連邦の)人事担当者は、一体何を考えているのか。
他人事(小説事?)ながら、私は憤りを覚えないではいられない(笑)。
管理職を育てるという気が全くないとしか思えないのである。
司政官制度が衰退していくのも頷けるではないかっっ!
こんな酷い組織は早く去るにしくはないのだ。
マセは新天地の鉄道会社に請われて行くということのようだが、それがいいと思う。
私の場合、初読は思い出してみると24才の時だったのだが、今回読み直してみて、ほとんど内容を覚えていなかった。
さもありなん、入社一年目の使いっ走りが本書を読んで何の感想があるだろうか。
マセの心情など判るはずもなかろう。19年後の今だからこそ、マセの心情はしみじみと共有できる。
とはいえ、19年後という観点から言わせてもらうならば、たしかにマセの手法も正しかったとは決して言えないのである。
巡察官とはさしずめ今日のスーパーバイザーだろうか。
この世界では、司政官は極度に巡察官をライバル視し敵対的に位置づけがちだ。とりわけマセにはその傾向が強い。
しかし基本的にひとつの世界でしか実践せず(比較的に)視野が狭い司政官に対し、巡察官は多数の世界を広く浅くであるが経験し、いろんなタイプの司政官に遭遇してきているのであるから、ひとつの方法論しかなく煮詰まってしまった司政官に対して、別の方法や新しい技術をアドヴァイスすることができるはずだし、そういう指導も巡察官の職務のひとつではあるまいか。
マセはもっと巡察官とコンタクトを密にすべきだった。
たとえば「ふところに飛び込んでいく」といった処世法があるが、マセには性格的に出来ないのだろう。だとしたら、マセは光秀的な性格なのかも知れない。
そういった方向に深めていっても面白いと思うのだが、そのためには多元描写(少なくとも巡察官の視点)の導入は不可欠だろうと思われる。(――それにしても我ながら勝手なことを書いているなあ)
確かにマセの過剰な独立独歩志向は管理職としてはやや適性に欠ける一面だろう。
でも、それを切り捨てるのでなく教育というか啓発していく責任が、マセを司政官として任命した連邦にはあるはずなのだ。
どんな職位でも同じだと思うのだが、司政官職も職位であるからには、どの司政官も、最初から司政官として「ある」のではなく、司政官職に就いた後、遅れて司政官に「なっていく」ものであるはずなのだから。(初出、ヘテロ読誌99.1)
眉村卓待望の新作短編集は、これまでになく達観(老成?)したような話が多く、全体にペシミズムが強い。中期以降の短編に多かった現実をファンタジーで糖衣するものではなく、現実を見据えて、あるがままに受け入れているような印象だ。
しかしそのなかでも「分裂作戦」や「必死の奇策」は主人公が能動的に運命をきり拓こうとする意志があって好ましい。悲惨と滑稽は紙一重なのだ。
「ラッキーガール」は、モノとして扱われるラッキーガールの魂の荒廃(終盤、僅かにかいま見ることができるが)にもっと焦点を当ててほしかった。 「1号室の女」は、主人公が1号室の女に対する〈見者〉に終始しているように思われ、結末の反省も、著者にしては珍しく通り一遍で、どうしたのだろう?
「夢の花」は、本書のベスト作品で、一見サラリと書かれた地味な話であるが、熟読すると非常に深い。主人公は、もしアイデア商品部に行かされなったら出向先を受け入れていたのではないだろうか。送別会を辞退するという事態は、サラリーマンにとって、それこそそれまでの四〇年近くを全否定することに等しいはずであろう。
表題作は、主人公の思考の過程、結論には異議がある。
「合宿の結果」は、本書中最も中間小説的で、論理的帰結のペシミズムが偶然の介在で救われ読後感を明るくしている。安直かも知れないが、これでいいのだ。じっさい現実のサラリーマンが、運や偶然に大きく作用されるものなのは、誰しも体験済なのではないだろうか。
久しぶりの眉村節、今回はより深いところで琴線に触れる作品が多く、十分堪能した。
(初出、ヘテロ読誌98.3)
「あまから手帳」という食と味の月刊誌に連載されたということで、食を主題にしたショートショート集ということになっている。実際、律儀にも全篇その方針は貫かれているが、それは「表向き」であって、このショートショート集の「内的」テーマは<時>なのである。
今は贅沢な食生活を送っているが、若い頃食ったあの安食堂の味にかなわないのはなぜか、という設問から、それが契機となって「現在」の裡に「過去」が甦ってくる、というか過去によって現在が批評される……そんな一種フィニ−的な世界がバラエティゆたかに変奏されていて、楽しませてもらいつつ、いろいろ考えさせられる。いい作品集(内的連作集?)だと思った。
全30篇中ベスト5(順不同)をあげると
「若い日の味」→大学の同窓会の目玉は学生食堂の再現であった。何から何まで、あのときを再現するのだ。食べる。うまい! あの頃の記憶の味なのだ……。それは心理的な過去還りが引き寄せた味覚の過去還りだったのか。
「おまかせ定食」→10年近い海外出張後戻った本社勤務の初仕事は、入社当時配属された工場への出張だった……。現在は言うまでもなく過去ではないのだ郷愁。
「山口先生のうどん」→3年前定年退職した美術の山口先生はその後世に認められるようになったこともあり、わが高校で講演してもらうことに話はなる。交渉に赴いた私は先生のアトリエが完全に過去を再現していることに驚く。それ以上に驚いたのは先生が若返っていたことだった……。BGMタイム・イズ・オン・マイ・サイド(Rストーンズ)
「親子」→私は魚を食べるのが苦手だった。死んだ父が上手すぎて反動形成されてしまったのだが一念発起して練習し、見違えるように上手になった。あるとき亡父の遺品の日記を整理していると……。時は繰り返す切ない佳篇。
「ドタ」→ドタは秋山の出世と共に肥え太り、やがてやせはじめ、退任し年金生活者となったある日、もう存在していなかった。秋山は泣いた。私も思わずもらい泣き感動の名篇。(初出、ヘテロ読誌00.7)
私は、ローマのライバルとしてのカルタゴに昔から判官贔屓的な興味があったのだが、しかし取り立てて勉強をする機会もないまま今日に至っている。
本書は勉強旁々に楽しむことができた。
そう言うわけで、この〈私たちの世界〉が、松田たちの工作の結果、改変された時間線上にあるという設定になっていると判ったのは、実は若くして死ぬ筈のカトーが、生き残るという顕在流に遷ったという記述によってであった。いや、コロッと騙されてしまった。
それにしてもカルタゴと日本の類似性の指摘には目を洗われる思いがした。
この視点(史観)で純然たる歴史小説として書いてもよかったのでは、と一瞬思ったが、すぐに、
――いや、それでは堺屋太一の亜流になってしまうわけで、あえて改変歴史SFにした理由には、それを避ける意味があったのではないか、と思い直した(消極的理由)。
もう一つの理由として、巷間にあふれる安易な(願望充足的)通俗改変歴史小説つまりは架空戦記物であるが、その隆盛に対するアンチテーゼの意味も、おそらくは作者の意識の裡にあったのではないかと思われる(日本SF創始者のひとりとしての見識)。
確かに、歴史とはある意味で必然的な過程なのであって、それを改変するというのは生半可な介入ではどうしようもないはずで、それを前提としていない改変歴史小説は単なる願望充足小説にすぎず、たとえ衣装はSFであっても、SFからはほど遠いものと言わざるをえない。
さらに歴史小説として書かれなかった理由として、これが最大の理由であろうが、ゲーム終了後、ドインたちが語る超越的認識論の開示によるセンス・オブ・ワンダーの発動がある(積極的理由)。
むしろ一般読者にはいささか難解な、かかる認識変革の発動に読者を至らしめるという、SFの本来の効能のために、多世界解釈(枝分かれ宇宙論)を前提とする長大な本書は書かれたのであり、それを純然たる歴史小説にした方が、と、一瞬でも思ったのはまさに短慮であった。
最後に、日常に戻った松田の許にエンノンが携えてきたアリアドーの手紙のエピソードは、一見ありふれた後日譚のようにみえるが、先のセンス・オブ・ワンダー発現の時とは全然別種の、もっと柔らかく深い感動を私に与えてくれたのだった。
ところで超長期の連載ということもあってか、本書は情報密度が極端にいびつ。
昔の作家が、連載に詰まって数回分麻雀をさせて急場をしのいだ、というエピソードを思い出したのだが、もう一段の整理というか、バランスへの配慮があった方がよかったのではないだろうか。(初出、ヘテロ読誌99.1)
本書を一言で言うなら、それはショ−トショ−ト日記といってよいのではないだろうか。著者が病床の奥様のために毎日欠かさず書いたショ−トショ−トが3年足らずで1000篇を越えたので、とりあえず100話ずつ10巻に纏められることになった、その第1巻なのだ。
――という執筆の経緯からも推測できるように、作品のほとんどは著者自身がその日遭遇した出来事を核に書き上げたものに相違なく、もとよりSF作家の書くショートショートであるから、事実は極端にねじ曲げられ、もとのカタチは欠片もなくなっているに違いないにしても、その想像力と妄想力にとんだショートショートの向こうに、著者のその日一日が隠しようもなく透けていて(もちろん隠そうなどという意図は著者にもなく)、奥様は、読むことで著者のその日が想像できるという寸法である。もちろん本書を読む読者にも伝わってくるわけで、実にユニ−クなショートショート集に出来上がっているといえよう。
そういう意味では多少とも著者のお住まい付近を知っているほうが面白さは倍増する。小生にはその昔、毎月のように著者眉村先生のアトリエに通っていた時期があり、現在も仕事でその辺りを車で通過することが少なくなく、そういう関係で[あ、これはあそこだな]といちいち腑に落ちて興味深かったものである。
当然作中人物は作者と等身大である場合が多く、たとえば「階段の数」は地下から上がる階段の段数が常と違うという差異から異世界に紛れ込むという実に巧みな導入部なのだが、「わけのわからない異世界にまぎれ込むよりは、ずっとましなのではないだろうか」と現実世界に戻ってしまう。往年の著者ならこういう終わり方は決してしなかったはずである。いいとか悪いとかではなく、現在の著者の心境が素直に出ているだけの話で、なるほどと納得した次第である。
ベスト10は上掲作の他に、
不思議な地下街をさまよう「ビッグコ−ス」
奇妙にリアルな「立ち入り禁止」
せめて短篇に纏めてほしいイメ−ジ豊かな幻想譚「ある夜の夢」
ポジがネガに変相する恐怖譚「城跡」
こういう話は天下一品の一種ロボットテ−マ「扇風機」
『発想力獲得食』と同テ−マ「時代定食」
これぞショートショート「短刀」
切ない佳篇「歩道橋で歌う男」
理屈のあるホラ−「本」(初出、ヘテロ読誌00.9)
第一巻同様、著者の身辺から取材されたとおぼしい創作やエッセイがない混ぜになった101日目から200日目までの(奥様への)日報である。
著者は近作に自身の手になるオバQに似ていなくもないイラストを付けることが多い。それがなかなか可愛いのである。本シリ−ズでも扉ペ−ジや挟み込みの「卓通信」という付録にこのキャラクタ−が描かれている。その「卓通信」で著者はこのキャラ(仮称卓ちゃん人形)の名前を募集しているのだが、(タックンはどうかといった人もいたとか)、私はタッキ−というのはどうだろうかと提案したい。宇多田ヒカルはヒッキ−というらしいのでそれに対抗したわけだ。というのは余談である。
さてベスト10だが、
作りものの夏>老人向けのリフレッシュクラブの人工の海岸は眩しい光が溢れていた・・・。私自身も昔はもっと世界は明るかったはずだ、と最近よく思うもので、切実な共感をおぼえたのも事実である。
空き地のタイムマシン>ふと入り込んだ空地では、奇妙な風体の男がタイムマシンを修理していた・・・。日常と非日常の遭遇のさせ方が絶妙である。
一号館七階>私が昔住んでいた団地は、近いのでよく通るのだが、しかし二十年以上その中に入ったことはなかった・・・。
電飾看板のある屋上>男がよく泊まるホテルの屋上には上品な電飾看板が立っていた。男は一度それを間近に見たいと思っていたが・・・。
床の焦げ跡>新幹線の床に見つけたたばこの焦げ跡は、二十年前に私がつけたものなのか?・・・
予測された顔>友人の父が残していた私の「未来の顔」はあまりにも威厳に満ち立派だった・・・。
マンホ−ルのお化け>たまたま口の端にのぼった漢文に触発されて現れたのは、遠い少年時代の怪談だった・・・。ブラッドベリ的郷愁にみちた小品。
地下鉄代>この寸借詐欺は私(大熊)も遭っている。30年ほど前だが・・・。してみるとかれの次元は時間を超えてこの世界と接続しているらしい。
ロフトから>建て直したロフトからは昔なくしたものが出てくるのだった・・・。ショートショートは勿体ない。私なら脱獄囚の視点からも描いてバ−カ−風の短編にするのだが(ああ、また勝手なことを言ってる)。
隣の物音>そのマンションは先住者の抑圧された欲求が現住者に聞こえるのだった・・・。長編ホラ−にするべき秀逸なアイデア。
昔の流行歌>へたばるまでやればいいのだ。昔のように・・・。そうそう、これこそ眉村SFの主人公である。
相乗効果>夕暮れ、デパートの屋上の回転木馬に乗る女の子は一回りして少女になっていた!?
若年>人生とは何か、若さとは何か? 象徴主義的ショ−トショ−ト。
大晦日>「私、大晦日のお化けですよ」とそいつはいった・・・。ツボどまんなかの可笑しな怪奇小説。
ある議論>認識論的本格SF!
老人と犬>町で見かけた老人と犬・・・。エリスン「少年と犬」に勝るとも劣らない哀感溢れる秀作。
異世界への投げ釣り>次元の境目へ釣ざおを伸ばしている青年は何かを釣ろうとしているのではなく、釣られようとしていたのだ・・・。
来てくれ>自身喪失の男が自信回復のために試したまじないは・・・。これは長編ホラ−のアイデア。それを3枚程度に納めてしまうとは、何たる贅沢!
満月の階段>満月の夜、その階段を使うものは・・・学校の怪談。
――あれれ、ベスト10を選ぶつもりがベスト20になってしまった(笑)。(初出、ヘテロ読誌00.10)
201日目から300日目までのショートショート風日報。折り込みの<卓通信>によれば、長篇『カルタゴの運命』の連載が終了した直後で、時間的余裕が出来た分、「アイデアによってはゆっくり時間と枚数をかけ出来た」ということである。
マイベスト10は――
「チャンネルを変える男」>昔食堂でよく出会った傍若無人にテレビのチャンネルを変える男。30年後の今日、私は入った食堂で、年月のうちに髪も髭もあらかた白くなっていたが紛れもない件の男が、テレビの番組を変えるのを目撃する……目撃した私の髪もあらかた白くなっていることが、言外に表現されているのである。時の理不尽。「古い硬貨」>券売機が受けつけない古い硬貨、よくみると小さくABCDEと印が付けられている。大学時代、暇つぶしに硬貨にAという印を刻んだことを思い出す。45年巡り巡って、再び手許に帰ってきたのだろうか。その間にBCDEと印を増やしていったのか? 私は保管することにするが、折角Eまで来た印を止めてしまってよいのだろうかとも考える……時の奇跡。
「STTC」>60歳以上で今さらパソコン通信など、と考える人向けの電話によるサービスの顛末……でもネットにも同様の効用があってなかなか楽しいもんですよ>先生(^^)
「乗り降りする青年」>バス停で下車した青年は次のバス停で乗ってきた。バス停で停車するたびに降り、また次のバス停で乗ってくるのだ。お化けだとしてもちゃんと料金を払うのだ……奇妙な怪談。
「先月の成績」>不思議な手紙が毎月届く。あなたの先月の成績とあり、生活態度、意欲、達成度、持久力、自戒と言う項目が5段階で評価されている。毎月来ると、成績を比較しないではいられない。評価が上がってくる。やがて終了の通知がくるが僕の気持ちは……共感。
「異常記憶」>男には異常記憶という写真のように精緻な記憶能力が……。だがそれが重要なことに対して働くわけではなかったのだ……時の不条理。
「定年前」>定年を前にしてV氏の性格が変わった。執着が消えて角が取れたのか? だが、私は深夜ビルの前でわめいているV氏を目撃する……しみじみ。
「鏡の中から」>ドッペルゲンガーか? 鏡に映った自分にウインクして背を向けたボクの背中に「替わってやるよ」と言う声が…… 幻聴? 翌日目覚めたぼくはテレビの中の子供が左手で字を書いていることに気づくが……アッ!
「物干し場とココアピーナツ」>ココアピーナツを物干し場に出しておいたらなくなっていた。5夜つづける。6夜目出さなかったら……怖い!
「学校へ」>電車のなかで本を読んでいたので降りる駅に着いたとき現実感覚が後ろに退いていた。スクールバスに乗ろうとして、逃げたいと思った。男は衝動的に路線バスにのる。そうして次第に現実感覚が戻ってくると……傑作!
こうして選んでいると、否応なく私自身の嗜好が顕われていて、なかなか興味深いのである。
(初出、ヘテロ読誌00.11)
遠未来、人類は事実上ロボットに取って変わられており、人類自体も次第にその数を減少させていた。その結果、対人サ−ビスを専らとする個人用ロボット(サバント)も社会的遺物となりつつあった……
本篇はまさに眉村卓にしか書けないであろうロボットテ−マの傑作であり、シマック『都市』を彷彿とさせる哀傷の名篇である。涙腺の弱い方はご注意。(初出、ヘテロ読誌00.11)
『ねじれた町』は、定評ある眉村ジュヴナイルのなかでも、とりわけ個人的に評価の高い作品である。
たしか筒井康隆が「奇想天外」の連載時評で褒めていたはずと思い、連載をまとめた『みだれ撃ち涜書ノート』(集英社文庫版)の目次をながめているのだが、見あたらない。勘違いだろうか?(昔の記憶がどんどん薄れていくのであります)今回、本書を取り上げるのは、ひとつにはこの作品がサイエンスを取り扱わないSFの典型的なカタチを見ることができるということと、いまひとつはハルキ文庫版の瀬名秀明の巻末解説が力作で一読の価値があるからである。
古い城下町で[……]いかにも平和な町Q市――ここに引っ越してきた和田行夫は、すぐにこの町の異様さに気が付いた。明治時代を思わせるポストや人力車、町の人々が信じて疑わない「鬼」、そして人間の意思力が生み出す超能力の存在……。時間・空間・生活、すべてがどこかでゆがんでいるこの町で行夫が体験する恐怖の世界とは?(ハルキ文庫版裏カバーより)
少年が引っ越してきた地方の城下町Q市の住民には、なぜか超能力(テレパシー、サイコキネシスなど)が備わっていて、しかも市はどうやら過去のQ市ともつながっているようなのだ。やがて主人公の少年自身も超能力が使えるようになる。
本書では<超能力>そのものに対しての「科学的」理屈付けはない。その点ではファンタジーやホラーと見紛うかも知れないが違うのである。
物語も終盤に近づいた「ここは怨念の世界」の章で、かかるホラー的小説世界は、一転SFに変相する。――すなわちその歴史を通じてQ市住民の意識に消しがたく刻印された旧弊な支配−被支配の傾斜が、見えざる制度として澱み固定化されることによって、否応なく生成され続ける虐げられた者の無意識的怨念が凝って実体化した一種<集合無意識>――かかる霊気が現実のQ市を包み込み、あわよくば介入しようと虎視眈々とねらっている。かかる霊気が<超能力>発現の源泉であるのだが、町の支配層は、しかしこの霊気を逆用してこれまで秩序を保ってきていた……という背理がここで説明される。
そしてこのメカニズムに気づいた主人公の提案を受け入れ、<怨念>が介入をやめることによって、支配層の支配の根拠が(皮肉にも)消滅し、はからずも怨念の目的は達成されるのである。かくのごとく本書は非常にシステマティックな世界構造を描写することで小説世界が構築されているのだ。
これは一種の<理屈>であることは疑いない。<怨念>や<超能力>それ自体はなんの根拠もない思弁であるが、一旦それを認めた上での展開において、この小説はSFなのだ。こうして本書は、結局超能力の無限定な受容を前提として成立するファンタジーとは一線を画すものであることが明らかとなるだろう……。
次に瀬名論文であるが、上述したように眉村卓論として出色のできばえだと思った。
瀬名論文のユニークな点は、眉村作品を読み解くときに誰もが必ず引き合いに出す「インサイダー文学論」をとりあえずカッコに括って、独自の切り口を提示している点である。すなわち「決断」と「通りすがりの感覚」という切り口である。前者について瀬名は「決断を強いられる自分と決断につきまとうためらい、そして決断後に感じるなんともいえない疲れ。これらこそが眉村卓の主要なテーマなのではないか」と分析する。
これを読み私は全くその通りだと思った、というか読むことによってその(気づいてなかった)事実にはじめて気づかされたのだった。或いは眉村本人でさえ気づいてなかったのではあるまいか。
著者の主張を代弁することが評論の任務ではあるまい。むしろ著者すら気づいてないモチーフや無意識的主張を作品から抽出してはじめて評論は自立的であり得る。この切り口は瀬名独自のものであるが、それが妥当かどうかは、かかる切り口を提出されたとき「私」において、眉村作品が(殆ど例外なく)その切り口に基づいて遡及的にパタパタパタと再編され収まるかどうかによって検証されるわけだ。
そして上にも書いたように、それは「私」において「その通りだ」と納得されるものであった。つまり妥当な、有意な切り口であると検証されたわけである。瀬名の「ねじれた町」の解説は、このように批評として自立性を主張できる優れたものである。批評とはかくありたいものだ。
とはいえ瀬名論文だけが唯一の「眉村解」ではないのはいうまでもない。別の切り口が必ずあるはずである。私も瀬名解に匹敵する切り口を発見したいものだと思った次第である。(初出、ヘテロ読誌00.12)
表題作と「闇からのゆうわく」を収録。2作品とも前項で述べた瀬名の「決断」のモチーフが明瞭に現れている。いちいちここが、と説明はしない。そんなことをせずとも瀬名論文によって「決断」という認識の台座に立った者には、それは明瞭に視界に迫ってくるはずだ。
表題作は「過去のないリクエスト・カード」「夜はだれのもの!?」「呪いの面」の3短篇からなる連作。この連作、深夜放送のパーソナリティが主人公の、一般小説である。今回が初読なのだったが、読んではじめてジュブナイルではないことに気づいた。
拙HP(とべ、クマゴロー!)の眉村卓著書リストでもうっかりJV篇に含めてしまっている。実は巻末の新戸雅章の解説に「本書は作者お得意のジュヴナイルSF二篇を収めた中篇集である」とあったからで(と弁解する)、瀬名解説とは違ってずいぶん杜撰な解説である。その証拠に4ペ−ジあまりの長さのうち3ページ半をインサイダー文学論に当てていることからもわかる。つまり何も言っていないに等しい解説なのだ。
深夜放送が舞台らしく、70年代初頭の洋楽ヒット曲が頻出する。懐かしい(しかしウソくさい曲名も散見する)。
さて本篇はSFではない。第3話が一番SFに近いが<謎の面>にメカニズムはない。理屈はない。
ここで明らかになるのは瀬名解が眉村SFではなく眉村描く小説にかかわる解である事実である。「闇からのゆうわく」は純然たるジュヴナイルSF。松葉という先生の超能力は新人類(ミュ−タント)という根拠をもつ。
(初出、ヘテロ読誌00.12)
教育テレビで表題作がドラマ化された。眉村ジュブナイルとしては久々のTVドラマ化である。
昔、「タイムトラベラー(時をかける少女)」や「なぞの転校生」を筆頭にぞくぞくとジュブナイルSFがテレビドラマ化された時期があった。これらの少年ドラマがSF盛期の基層ファン層を創出したことは間違いない。今回の「まぼろしのペンフレンド2001」が、再び往時の繁栄を甦らせる口火となってほしいと願っているのだが……さて。「まぼろしのペンフレンド」>主人公とコミュニケーションをとるうちに、しだい次第に人間らしくなっていくオリジナルアンドロイドの本郷令子が可哀想でいじらしい。著者はロボットや宇宙人など<人間以外>を描かせたら天下一品である。この素晴らしい話を、テレビドラマはどう料理していくのだろうか、興味津々。
「テスト」、「時間戦士」は、ともに主人公は<決断>(前月掲載『ねじれた町』参照)をせまられる。
角川文庫版の本書は絶版であるが、表題作はハルキ文庫『閉ざされた時間割』で読むことができる。
(初出、ヘテロ読誌01.01)
本書には、平成10年5月12日から8月19日までの100編が収録された。通番では301から400である。
今回は全体に長めの作品がふえたようでほとんど500ペ−ジに達するボリューム。平均1編5ペ−ジ、枚数にして10枚弱程度か。
ベスト10は以下のとおり。ライターのコレクション>Qさんの気持ちの変化が簡潔に、しかしあざやかに語られる。
バーン!>学生のやさしさが清々しい。
もと踏切>線路が高架になって廃止された開かずの踏切。幻覚か、男の前を列車が通りすぎる。
酔っての記録>酔うと記憶がなくなる男、メモをつけることにするが……
レポーターになった記憶>20年前レポーターの仕事で訪問した会社の前に偶然行き当たる。若い専務から経営論をとうとうと聞かされたその会社は、無人で放置されていた。
驟雨>通り雨に雨宿りした喫茶店で感じた一瞬の衝動……
研究室の鏡>見られるために存在する鏡が見られることを妨げられたとき……
薬と空腹>最後の一行、「テレビを見て、あはは、あははと笑っていたが、そのうち涙が出てきた。空しいのであった。」 まるで人生のよう。
日記の記述>私の日記の記述が現実と違う? あやふやな時間線の恐怖。
使わなかった手帳>一度も使われない手帳は、ひとことさよならと文字を残して行ってしまう。(初出、ヘテロ読誌01.01)
今回は作品番号401から500までを収録。
眉村さんのこのシリーズを読むときは、私は鉛筆を手にして読み始める。気に入ったのがあると、目次に印を打つのだ。100篇もあると、さすがに読了後、目次に戻ってタイトルを眺めても、内容を思い出せないことが多いからだ。
今回、印を付したタイトルが30篇になった。いつもより多いのである。411宝物との再会
415襖とハーモニカ
417半透明の弁421蟻を見て
422助手席の男
423花の野原
424夜中のわらび餅
425勧誘の標的
427閉じ込められて……
428ユセムネ、ハナミシヤ、オンザノウ
429地上経由と地下経由
430男とビル
432無数のチャンネル442話し手と聞き手
444壁に張る紙
445G氏のこと
446出してやる
447地下道で見た男
449人工音がなければ……
450コップを割る
452頑張ろう!
453気分レコーダー
454リタイヤ半年458天与のとき
462机上の小人
464窓の赤い光
478天狗の絵の人相見
487愚痴男
488小さな駅で
494睡眠不足今回の特徴は気に入った作品が連続する傾向が現れたこと。たとえば421から432、442から454は殆ど途切れない。
実はこれ、私の精神状態に相関するものなのだ。私は本集を一気に通読したわけではなく、何度かに分けて読み終えた。その<何度か>の読書場面において、私の心身の状態がつねに同一の条件であったわけではもちろんない。
つまり私の側の事情で作品にA同期しやすい場合とB同期しにくい場合があったものと思われる。さらに思い起こしてみると、同期しにくい時の読みは、結果として「小説」の要素を重視していたように思われる。
たとえば427の「閉じ込められて……」は最初、作家志望者が主人公の実に迫真的な不条理小説(幻想小説)なのだが、最後にいたってそれ自体が小説であって、(創作教室の?)先生が感想を述べるかたちで締めくくられるという、ある意味メタな構造を取るのである。本集にはこのような展開が実に多い。つまり幻想的世界が最後で現実的なけりを付けられてしまうのである。
私の精神状態がBの場合、このような結末に同期できないのである。478「天狗の絵の人相見」では、圧倒的なホラーが展開される。凄いアイデアだと思う。ところが最後の最後で、作者が顔を出す。最後の3行は一般的見地からは不要だと思う。ところが本集の成立事情を考えると、この話は原則として特定単数の読者に向けて語られたものに他ならない。とすれば私の不満は実はお門違いなのである。最後は読者に対する語りかけなのだが、その「読者」に私は当然ながら含まれていないのだ。それが私に疎外感をもたらすのだろうか?
その点、464「窓の赤い光」はメタ構造に持ち込まれず物語として終始するので申し分ないのだ。うーむ、難しい。
(初出、ヘテロ読誌01.02)
作品ナンバー501から600まで。例によって、気に入った作品にチェックを入れながら読む。チェックした作品は、全部で22篇になった。
508 切り換え機 >近未来社会テーマ。週3日労働制社会、4日の休日のあとの出勤日の悲喜劇。
510 知っているか? >前半の夢の宇宙人の部分と後半の現実部分の対比が鮮やか。膨張させる通常のSF手法とは逆に、ズームをギュッと引き絞って余情を漂わせる。いい話。
511 Dからの便り >寄せる波、あるいは満ち潮とともに海辺の廃屋にやってくる海の者たち。やがて波が引き、潮が引いていくとき……。SFの理屈と幻想怪奇が幸福な結婚をした幻想ホラーSFの精華。
512 廃品回収車 >その廃品回収車はちゃんと読んだものほど高く買うのだった。異形としての廃品回収車。
513 ある会話 >純然たるショートショート。人類を継ぐものを待つ宇宙人……
519 ある性格 >純然たる小説。勝ち負けを生き甲斐に生きてきた男の皮肉な幸福。
521 変化の日 >不況下、個人消費の底上げのためにと制定された「変化の日」だったが……
525 仮校舎の二階から >ふと立ち寄った高校には、卒業後取り壊された筈の仮校舎が建っていた……。著者十八番のインナータイムトリップもの。
526 たわごと >民話風味の奇妙小説。ご神体の大岩は日々縮小していく。しかし重さは変わらない。次第に地面に沈んでいく……
527 〈部下〉屋 >部下屋と書くと奇抜だが、要は派遣社員であろう。派遣社員を本採用にしたとき……
528 ペットボトルの水の味 >この結末はよく判らない。単純に考えていいのだろうか?
532 ポストを追う >題名通り、ポストが逃げていく話。発端の不条理小説っぽい雰囲気がいい。
535 非常餅 >大晦日、過去と現在が出会い、明けて元日、いい正月である。
537 焚き火 >冬、海辺の淋しい町、海岸の焚き火、夕暮れ……。完璧なる怪奇幻想掌篇。
542 季節外れ >「季節外れ」という名のレストランは、その名の通り、季節はずれな企画が売りだったが、それは他方商店街としてのトータルイメージを乱すものだった……
544 店の終わり >馴染みのスナックが閉店するというので、男は顔を出すことにするが……。インナースペース・ファンタジーとも言うべき傑作掌篇。
550 絵の中の仙人 >その仙人の挿絵は、主人公が読む本の中にあらわれ、消え去る。しかしまた別の本の中にあらわれて笑いかける。押絵と旅する男か観画談か……神仙小説。
555 出勤前 >団地の入口で「ぼく」の前に突如あらわれた2人連れは、団地が戻ってきたと叫ぶ。彼らによれば団地は3年間消えていたというのだ。男が相手にしないでいると……。視点の位置が<認識の変容>を誘う多次元小説。
588ケースの中の宇宙人 >たわむれに切り抜いてケースに入れた宇宙人が、仕事疲れでぼうっとなってくると……動き出すのだ。なぜ?
594 ビデオカメラのニュータウン >そのニュータウンではだれもがビデオカメラを携行していた。明るい農村小説?
596 赤信号と子供 >信号を無視して横断するとき、必ずその子供は現れた。サイコホラー?
599 こんにちは >公務員を揶揄するショートショート。同感。とりわけ「Dからの便り」「焚き火」「店の終わり」はすばらしい。この三篇を読むだけでも本書を購う価値あり。
(初出、ヘテロ読誌01.04/05)