卓通信第4号−1


 

アイデア拾いのこと

 


 

 多少とも何かを作り出そうとする人にとって、アイデアをどうつかむかは、重要なことであろう。

 小説のアイデアというのも、例外ではない。

 それぞれ、苦労しているのではないかと思う。(白状すると、そうであって欲しい)

 まあ人によっては、泉のごとく抜群のアイデアが出てくるという天才もいるだろうが、ショートショートの神様といわれた星新一さんでさえ、書かれたものを読むと、机の前で何時間も苦しんで、やっとアイデアをつかむ――とある。

 ぼくなど、むろん机の前で必死に考えたりもするが、それだけではなかなかうまく行かないので、いろんな方法を講じなければならない。

 何人もの作家が書いているところでは、足裏への刺激が有効なのだそうである。足の裏には神経叢があって、刺激すると頭がよく働くのだそうだ。

 実際これは有効なようで、ぼくは案難航となると、その辺を歩き回る癖がある。本当ははだしがいいらしいが、そこまでの勇気も足の皮の厚さもないから、靴をはいてだ。近距離よりも遠距離がいいのは確かながら、遠歩きとなると歩くことのほうに神経が行ってしまって、アイデアつかみのほうを忘れてしまったりするので、一概にはいえない。

 もっとも、こんな原始的なやり方に執着しなくても、やり方はある。

 十数年前になると思うけれども、「アイデアの作り方」という本を読んだ。アメリカ人が書いたという薄っぺらな、だが丈夫な装丁の本で、竹内均氏が私の方法と同じだと解説していた。よく売れた本のようだから、ぼくは著者名も忘れてしまったが、詳しいことをご存じの方は多いのではあるまいか。

 その本によればこうである。

 まず、その事柄についてのデータを徹底的に集める。こぼれるものがないようにする。

 それから、そうしたデータをぶつけ合い、組み合わせたりして、いい案がないか、とことん考える。

 ここまでは常識だ。

 しかし、そうした後、一切を忘れて、別のことをしろというのだ。

 忘れてしまっているはずなのに、だが、何の関係もないときに、不意にアイデアがぽかリと浮き上がって来る。

 浮かんで来たアイデアを書きとめ、その中の実用に耐えるものを抜き出す。

 ――というようなことであった。

 あらゆる関連データをミックスし、ごちゃごちゃにして練って、それから放置しておくと、頭の中でひとりでにかたちを作って来るのだろう。

 その通りだ、と、ぼくは、自分の経験から納得した。

 他にも手段はないわけではないが、やり方としてはこの二つ、なかなか有効なのだ。

 そのわりにはお前の書くもののアイデアは大したことないではないか、といわれると……申しわけないと頭を下げるしかないのですなあ。

 しかし、である。

 ぼくは、かつて俳人の堀葦男さんとお話した折に聞いた言葉を、今もよく覚えている。

「要するに、湧いて来るものを溜めようとしてはいかんのです。底を浚わなければ。浚うとまたきれいな水が湧いて来ます」

 という意味のことだったのだ。

 もちろんこれは、俳句に関しての気持ちであろう。だがぼくは、ああ小説のアイデアもそうなんだろうな、と思ったのであった。

 同時にぼくは、浚ってしまってその後もう湧いて来なかったらどうなるのか、と考えたりもした。堀葦男さんはきっと、そうなったらそれまでで、それを承知で浚うのだといいたかったのではないか。

 そのつもりでやればいい、と、ぼくは信じるようになった。

 湧いて来なくなったら、それはそのときのことなのだ。

 それを覚悟でやっているのである。

 

「アイデア、いつ考えるんですか」

 と、よく聞かれる。

 今も述べたように、硬貨を入れてぽんと出てくるようなものではない。

 ひょいと浮かんで来るのだ。

 それも、二十四時間、いつどんな状況で出て来るかわからない。

 だからぼくは、アイデアメモを携行している。アイデアメモが手元にない場合は、日常生活用の手帳に書き留めて、後でアイデアメモに記入する。

 使用したアイデアにはしるしをつける。ただ、現在の日課を開始して以来、いつ、どういう具合にかたちにしたのかを、確認出来たほうがいいので、作品番号もしるしておくことにした。

 むろん、アイデアメモに書くことなく、頭の中に現れたアイデアをそのまま作品化することも少なくないので、アイデアメモはぼくの全作品を網羅しているわけではないが、それでも現在八冊目になった。

 そのわりには大したアイデアはないなあ、と、またいわれそうだ。

 はいはい、申しわけありません。

 

 さて。

 この第四巻、平成十年五月十二日から八月十九日までの、(301) (400) である。

 妻の体調は平穏推移というところで、とにかく一日一日、趣向を変えながら書き上げることに努めていた。

 元来ぼくは、一時熱中型というより、多元平行型の人間らしい。外からはある時期何かに専念しているように見えても、実はそれは平行しているもののうちの、そのときの主流が目立っているに過ぎない――と、ぼく自身は解釈しているのだ。いや、そのときの主流にほとんどのめり込んでいるときもあるのは事実ながら、やはり、別に何かをせずにはいられないのである。このことは、生活を共にしている者にしか、わかってもらえないであろう。

 ただ、その多元平行なるものが、三十も五十もあるわけではなくて、せいぜい十足らずだから、主流があっちに移りこっちに移りしても、結果としては循環の恰好になってしまう。

 つまらぬことを長々と並べたが、この第四巻、主流のみならず傍流も含めて、その起伏の様相を露呈することになったようだ。

 例。

 (1)ひとつの流れがつづいてしまったものとして、(303) 想像力過剰。(304) Pについて。(305) 厚かましい男、というようなのがある。

 (2)私小説風の感覚、あるいは体験記述の衝動が起き上がって来たものとしての、(330) レポーターになった記憶。(340) ものを書く部屋。(343) 消えるインク。(345) 驟雨。(395) ?印。

 (3)自分がやっていたこと、やりたいことをお話に仕立ててみる癖が、そのまま出ている(302) カレンダーの日付け。(310) ライターのコレクション。(313) シュレッダー。(319) 不規則起き上がり小法師。ことに(このところその余裕がないのでめっきり回数が減っているが)遠歩きは、(321) 歩いて帰る。(331) 擦れ違う。(355) 交差点周回者とよく出て来る。

 保持する多元平行の事柄が三十も五十もあれば、もっと楽だろうと思う。もの書きというのは妙なもので、自分が書いた話のアウトラインやイメージはみな記憶している(あるいはこれは錯覚か?)つもりだけれども、逆にそれだけに、以前に書いたものに似てくるのが恐く、辛い。ことにこの日課のように毎日では、旧作の間隙を縫っていると感じる場合がたびたびあって、しかし、何とか新味を打ち出さなければと、頑張っているしだい。

 

 駄弁をつらねているうちに、こんな枚数になってしまった。お読みの方は退屈されたのではあるまいか。

 ともあれ、この原稿を書いている現在、ありがたいことに妻は、しんどいという日はあるものの、週一度の通院で点滴を受け、家で、ゆっくり寝たりテレビを見たり、ときどき食事の支度や洗濯をしたりの生活を送っていることを、ご報告しておきます。

 いつものように、この第四巻の百編のうち、すでに他に収録されたり紹介されたりしたものを、おしまいに掲げました。(リスト省略)

 

 本来なら、ここでそのリストになるのであるが、今回はお詫びを付け加えなければならない。

 この卓通信、十日以上も前に書き上げて真生印刷に渡す約束だったにかかわらず、ぼく自身が日々のスケジュールに追われ、ついに体調を崩してダウンしてしまったため、かくも遅くなってしまい、当然の結果としてお手元にお届けするのが、こんなにおそくなってしまった。ご容赦下さい。

 今は元気であります。

(一二・一一・二一)

 


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