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アレクすてさんの
筒井康隆論



「風の翼」新年大宴会にいけなくてすみませんでした。 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月 5日(日)09時50分14秒

>筒井康隆論
いや、そんな大層なものではないのですが、ちょっと思いついた事どもなどを。
筒井康隆について面白い評論(正しいとかではなく)を書かれてる人といえば、平岡正明だと思います。
平岡さんには、楽しませてもらっただけでなく、知識もいろいろちょうだいしました
私が「政治」について、多少なりともお話ができるのは平岡さんのおかげです。
(あと、庶民派の半村良。もっとも、お二人のせいで、私の政治意識はかなり片寄ってます。)
で、平岡さんに言わせると、筒井さんの小説は「ジャズ感覚で書かれている(大意)」と。
で、ジャズについて、うまい小説は、いろいろあるが、「筒井さんと五木寛之であろう(大意)」と
(もちろん、河野典生、山野浩一、山下洋輔、風俗ものとして 色川武大なども
平岡さんはとりあげられてるわけですが)いわれてます。
すると疑問が生じるのですね。ジャズ芸人、タモリはどういう扱いになるのか?と。
平岡さんに言わせると、タモリは「ジャズ精神を体現した芸人(大意。すみません!
思いつきで書いてます。平岡さんの原典にあたって書いてるわけではないんで)」
しかし、タモリと、平岡さんが評価するジャズ小説家五木寛之は対立してるんですね。
不思議です。(実は五木さんについては、「さらばモスクワ愚連隊」「青春の門」
「戒厳令の夜」「風の王国」と、いくつかのエッセイしか読んでないのですが。)
で、平岡さんや五木さんの意見を見てみましたが、書いてない。
(平岡さん、五木さんは「五木批判」はタモリのギャグだと思ってるらしいです。
あくまで「らしい」ですが)
続きます。


筒井康隆について思った事ども2 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月 5日(日)10時06分06秒

(前より続き)
で、仕方ないから、タモリガ五木さんに言及した文章を見てみると、
「(五木さんの)「さらばモスクワ愚連隊」を読んでみたがジャズの匂いがしなかった(大意)」
と書かれていました。
ここで、ちょっと飛躍するのですが、タモリのいいたい事がわかるような気がしました。
つまり、タモリは、ジャズとは音楽なのだから、その本質はあくまで技法(山下洋輔氏がやってるような)
であると考えていてて、五木のような、ジャズへの思想的、歴史的アプローチは興味がないだけでなく
権威的にさえ見えるのですね。
(タモリの五木批判に、「五木のナンパの仕方(「フォスボラスの海を見よう!」とかいって旅行に誘ったりする。」
を笑うものがありました。あれ(五木のナンパ)は、実は スコット・フィッツジェラルドや、ヘンリー・ミラーあたりのジャズと親和性のあるモダンな作家のスタイルの模倣(および、私小説的実践)なのですがね)
続きます。


筒井康隆について思った事ども3 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月 5日(日)10時51分43秒

(前からの続き)
つまりタモリは形式主義者なんですね。
で、タモリと親和性のある、筒井康隆もそうであると。(二人の間に赤塚不二夫氏を置くとよくわかると思います。)
そう考えると、タモリと、筒井がデビュー当時何故過激であったか、
今はそうではないのかがよくわかります(タモリは、今では品行方正な優等生的司会者ですが
デビュー当時の過激さは、ビートたけしやダウンタウンの比ではありませんでした。
何せ「面白いけど放送できない」というネタが山積みでした。
(その片鱗は、現在も発禁になってる「タモリ3」というレコードを聞けばよくわかります。)
タモリがお昼の番組「笑っていいとも」の司会をやる時、野坂昭如氏が
「密室芸人でいてほしい」と発言したのも懐かしい思い出です。)
つまり、筒井、タモリの過激さは、「常識への挑戦」であり、
その対象の常識が、権威、権力と交わる時は、「反権威、反権力」となり得るが、
その常識が、普遍的、かつ観念的である場合、彼らの挑戦は「言葉遊び」の域をでない事になります。
(いいたくないですが、タモリの「冷し中華祭り」何かは「不発になった言葉遊び」という気がしますね。
平岡正明、坂田明、山下洋輔・筒井康隆、タモリ、長谷邦夫、赤塚不二夫、南伸坊、赤瀬川原平といった
疑似イヴェント系の人たちの夢の共演ですが、彼らの過去の遺業、たとえば平岡氏の「犯罪者同盟」
赤瀬川氏の「ニセ札事件」、筒井康隆氏の「ベトナム観光公社事件」
赤塚氏の「雑誌連載でペンネームを山田に変える事件などにくらべると、インパクトが弱いような気がします。)
続きます。


筒井康隆について思った事ども4 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月 5日(日)11時05分17秒

(前からの続き)
しかし、こうした事も考えると、当然のような気もします。
というのは、彼らの目的は、「世間を騒がせる事」であり、
それはフォルマリスムの方法を使う事であると。(パロディですね、つまり)。
そして、パロディの方法論は最終的に「形式そのものの破壊」へ向かいますから、
(たとえば、イギリスの「モンティ・パイソン」や、日本のパロディ番組「おれたちひょうきん族」の笑いは、決して強者だけに向いていません。実際は弱者を笑い者にしています。(片岡鶴太郎の「キューチャン!」というギャグは、
あきらかに、惚け老人を笑っています。)つまり、パロディの敵は常識ですから、そこに強者弱者という
思想的、あるいは歴史的区別はないのですね。パロディというのは無歴史的、無思想的なものなのです。
(続きます)


筒井康隆について思った事ども5 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月 5日(日)11時16分14秒

(前からの続き)
そして、そういうものが行き着くところへ行き着くと、どうなるか。
「冷し中華祭り」になるわけです。
権威、権力を笑い、常識を笑い、その、笑う枠組みさえ突破すると、
パロディは、「笑い」そのものを越えてしまいます。(実は笑い自体が、文化や、常識といった
「言葉の枠組み」にしばられたものですから)。
だから、筒井氏や、タモリといった人たちが最終的に
「冷し中華祭り」にいってしまうのは別に不思議ではありませんし、いっそ当たり前と言えるでしょう。
(たとえば、たけしや、ダウンタウン松本が、一時期、落ちのない笑いや、定型を壊した笑いに挑戦していた事がありました。結局、それは大衆の支持をえられず、彼らは「笑いとしては」テレビから撤退していくのですが、
彼らの究極の目的が「冷し中華祭り」だとすれば、それはよくわかります。)
(続きます)


筒井康隆について思った事ども6 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月 5日(日)11時35分21秒

(前からの続き)
さて、筒井、タモリについて、オタッキーな用語を垂れ流し、深夜の酔っ払いのような、
文体でオガオガ吐きつつづけることで、私は一体何をいいたいのでしょう?
わかりません。
ただ、筒井康隆に、もともと、風刺としてのパロディ(サタイアですね)を期待するのは無理である事。
(もっともフォルムのパロディという事でいえば、筒井は、何も変わっていません。というか
その一貫性が(前衛的笑いから撤退していった連中とくらべると、)
いっそ、すがすがしいです)。
あと、「パロディ(笑い)」の本質は結局、相対主義であり、歴史性が欠落してしまう事。
これは、じつはSF自体にも言える事ですね。過度の相対主義は、結局、(思想、歴史的には)
虚無主義へと行き着く。自制する事しかりです。
(だから平岡正明氏がジャズについて語る時、筒井的、形態論、技術論と、
五木寛之的歴史、思想論の両輪で批評する事は素晴らしいと思います。
もっとも、今の時代、平岡さんのような硬派な人は大変そうですが)
(続きます)


筒井康隆について思った事ども7 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月 5日(日)12時13分04秒

今、ちょっと、落ち着いて来ました。
落ち着いて下の文章をよむと、無茶苦茶ですな。
もっとも、勢いでかかないと、こうしたものは書けないので続けてかきます。

筒井康隆について見聞した事ども

筒井康隆の思想
よくいわれることですが、彼の思想のルーツはフロイトですね。
自分でいってます。「マルクスは受け付けなかった」とも。
フロイトは(あえていうなら)個別科学ですね。マルクスのような社会科学ではない。
(もっとも、岸田秀のような人は、フロイトを社会科学であるといってます。
つまり、人間を社会的生物と定義すれば、「種としての人間を定義すれば、
社会的に定義したことになる」ということでしょうか。
マルクス理論が、機能しにくい現在、フロイトについてもっと研究者の意見を聞きたいです。)
と、いうわけで、筒井氏は「種としての人について興味はあるが
社会的な存在としての人間には興味ないのでは?と取り合えず言えると思います。
(そういえば、筒井さんの父親は動物学者の筒井嘉隆さんでしたね。これも興味深いです)。

筒井康隆の文章はうまいのか?
これは、シャピオというところからでていた「SFイズム」という雑誌の引用ですが、
ま、普通です。下手ではないが、うまいとはとてもいえない。
これには理由があって、つまり、筒井さんの小説は「パロディ」なんですね。
対象がSFであろうと、純文であろうと。
すると、パロディは形式にこだわりますから、
もともとの素材(つまり、地の文章)はふつうでないと困る。奇怪なオノマトペーや、怪しい論理
を使う時、地の文まで変なら、読みようがない、ということですね。
(これは筒井さん自身も気づいておられたようで、エッセイによく出て来ます。
例えば、星新一氏との話として
「SFの文体をどうするか」という話になり、
星氏にきいたら「SFは、ストーリーや設定が飛んでいるのだから、文章まで飛ぶとまずい」
という答えが帰って来たとのこと。
あと、澁澤龍彦氏の談話として
「SFは、未来(架空)の話だが、文章や、登場人物のメンタリティは現在のままである」
という話に「俺は、『虚構船団』では文章や、メンタリティもシミュレートするぞ!」と思った事。
(あと、百目鬼 恭三郎氏や、ポスト構造主義者の人と、
「SFの方法論である「 外挿法 ( がいそうほう ) 」は、純文学の方法たりえるか?」について話し合った
ややこしい論争があるのですが、ここでは飛ばします)
(続きます)


筒井康隆について思った事ども8 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月 5日(日)12時29分46秒

筒井康隆の予言
昔、福島正美が、編集したムック、「SFファンタジア」で、ブラックユーモアについて語っているが
「自分の書くものは、そのうち誰も笑わなくなるだろう」といっている。
司会役の 石川 喬司が
「あおざめちゃってね」というと、
筒井さんは
「そうではなく、(自分の対象つまり笑いが)、どんどん先鋭化されていくと、
超音波(つまり、可聴音域をこえる。いわゆる約束ごとの笑いのルールを越えてしまう)
になる」とこたえている。
これは筒井氏が自分の本質に自覚的であり、なおかつ、今の筒井氏の制作態度と矛盾していない
(一貫性がある)事を意味する。
また、ビートたけしやダウンタウンの、前衛的な芸人の悩み
(大衆は、本当の(前衛の)笑いを理解してくれない)を70年代に先取りしていたと言える。
(続きます)


筒井康隆について思った事ども9 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月 5日(日)12時54分18秒

筒井康隆は保守的か?
いろんな考え方がありますね。例えばエッセイとか見ると、すごい事いってるけれど、
「実はネタである」とか。(雑誌「噂の真相」でのエッセイで、「自分は常識的人間だが
編集長に頼まれて、常識はずれの事を言わせてもらってる」といってます。
これも「ネタ」と言えるでしょうが、いくつかの感動的な小説『我がよきウルフ』
や『脱走と追跡のサンバ』等を読むと、筒井さんが、
決して、弱者をただ弱者として差別しているわけではない、ということがわかります)。
では彼はリベラルか?左翼か?といわれると、ウ〜ン、悩みます。
彼は権力というものを根元的に憎みますが、権威は嫌いではないんですね。
文化人(日本の、ではなく、ヨーロッパ型の)に対する憧れを素直に語ってますし、
盟友大江健三郎のノーベル賞受賞を一番素直によろこんだのは彼でしょう。
保守的ですよねえ。でもわかるんです、彼の気持。
だって、世間で、反権力、過激といわれるイギリスのコメディアン、モンティ・パイソンの連中は
オックスフォードやケンブリッジの出身ですよ。
映画界に新風を巻き起こしたジャン・リュック・ゴダールだって、エリートの大金持ちですし。
つまり、芸術というものが知識や、経験の集大成なら、
そりゃあ、エリートのほうが目はこえる、という事を知ってるんですね。
だから、筒井氏の小説によく上流階級が没落していくものがありますが、
あれは相対的に笑うというのと、もうひとつ別に、ヴィスコンティ映画や「安城家の舞踏会」のような
旧支配階級への挽歌となってるのでしょう。
だから、僕は筒井氏が保守かと聞かれれば、こう答えます。
「彼は、貴族やエリートに憧れてる、プチブルジョアであろうと。
そのメンタリティは、石坂洋次郎のようなオールドリベラルであり、
それを批判するのはありかも知れないが、そういうメンタリティが、時代を動かした事も(昔は)
あったのだし、マルキシズムも今は、問題があるわけだし、
まあ、許容範囲ではないか?と」


筒井康隆について思った事ども10(最後に) 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月 5日(日)13時04分09秒

みなさん、どうもすみませんでした!
筒井康隆にタモリを絡ませて、書こうと思ったら、こんなに長く支離滅裂になりました!
ごめんなさい!
管理人様!もうしません、お許しを!
(私からいうのは何ですが、不快なら削除してください)
でも、楽しかった。筒井についていいたい放題いったわけで。

しかし、筒井さんのライバル達も最近、まとめに入ってるな。
野坂昭如、五木寛之(『青春の門完結編』と、『風の王国』はまだか?!)も、引退モードだし、
山野浩一先生、もう新作書かんの?競馬がいいの?とかおもったりします。
長文乱筆失礼多謝!

ではでは。


帰還いたしました。 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月19日(日)02時05分24秒

今晩は。管理人様。皆様。
今、騎人境の集まりから帰って参りました。管理人様。ナンコさんの会と、眉村先生の会であいましょう!
橋詰さんが、少し話がしたい、といっておられました。
筒井康隆について、ちょっと書きます。(といってもフラフラですので、ちょっとだけ。前にナンコさんの講談で
あって話した事とかぶります。

筒井康隆は文学か?

実は、これには、触れたくなかったのですが、筒井さんについて話す時に避けられないので、少し。
例えば、筒井さんをつまらなくなったと言う人の意見は情緒的にはわかります。
確かに初期のモノと、対象が違うわけです。
考えられる事は
・大熊さんが言うように、偽装していた。
確かに、それを、裏付ける発言もあります。というのは、筒井さんが昔、「東海道戦争」を書かれた時、
筒井さんを担当されている編集者がえらく、これを気に入り、褒めちぎりました。
で、誉められてるうちは良かったのですが、編集者は、「東海道戦争のようなものを書け!」ト、ついに筒井さんに、
命令するようになり、「こりゃ、付き合えん」と、編集者を変わってもらったそうです。
ここで言える事は、
1.東海道戦争は(旧来的意味の)文学である。
2.筒井さんは、東海道戦争的世界を書くのに乗り気ではなかった。
ということになります。
1.は、例えば吉本隆明の文学観に照らし合わせるとわかります。
吉本隆明は、W村上が登場した時に、「文学は終った」として、文芸評をやめてしまいます。
その理由は、
1.貧困や差別と言った社会的問題が登場しない。(と言うか、二人の小説では、それらは、既に、解決済み、または
考慮の必要性がないもの、として書かれている。
2.主人公が成長しない。主人公が作者の思想や理想の代弁者とは言い難い。(ビルディングス・ロマンではない)
と、いったものです。よくわかる気もしますが、良くわからない気もします。
(私が物心がついた時、既に、W村上は作家だった。)
というものです。これに東海道戦争を当てはめると、
1.貧困
虚構とはいえ、戦争が起きてるし、戦争によって、主人公のまわりの環境は矛盾を露呈するわけだから、「文学的」といえる。
2.主人公
巻き込まれ型であるが、状況に対し、真摯であり、(主人公はSFの方法論に乗っ取り)戦争について考慮し行動している(思想と理想がある)。
また主人公は、他のスラプスティック小説と違い、はしゃいだりせず普通である。(作者=主人公、つまり私小説的、と取れない事もない)。
といえます。筒井さんは、「しつこい!」と怒られたようですが、編集者が筒井さんに「この方向で!」といわれるのは
情緒的にはよくわかります。(続きます)


筒井康隆は文学か? 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月19日(日)02時47分56秒

筒井さんが、東海道戦争的世界に積極的でなかったわけ

1.単純にしんどかった
これは御自身でいってます。同じ事はできない、書くのに(資料やら集中力やらで)
苦労したと。(だから編集者を理解が足りないと思った)。

2.東海道戦争が(重要であると)考えていない。
つまり、東海道戦争は、彼の手法の一つであり、別にそれを目的化したくない。
ということは

3.(少なくとも、東海道戦争執筆時は)大文字の文学(吉本隆明的文学)に興味や、意義を見いだせなかった
これは、わかります。というのは、筒井さんはエッセイで「昔、(SFマガジン編集者の)福島正美氏に
よく、原稿に朱をいれられた。当時は、意味が良くわからなかったが、今、考えると、(筒井さんが)
文学(純文学)を勉強しておらず、(文学としての書き方がわからなかった」とおっしゃってます。
つまり、これが本当なら、筒井さんは、デビュー当時いわゆる「文学」を意識してない事になります。
これでわかる事
1.福島正美はSF小説に、まず「文学」を期待していた。
これはよくわかります。福島さんがいってました。
「観念の骸骨が、論文をしょってるようなものは認めない(大意)」と。
実際、豊田さん等が、「(福島さんに)かきかえれた」とおっしゃってます。
(福島さんの文学観、書き替えの是非は譲ります)

2.デビュー当時の筒井さんは、いわゆる「文学」的教養がなかった。
筒井さんのお父さんは、動物学者の筒井嘉隆さんで、いわゆる、古典的教養としての文学(世界文学全集
などを、家に置く)については理解のある人でしょうが、いわゆる(吉本隆明的)文学については、
どうでもいいと思っておられたようです。(筒井嘉隆さんの時代の、教養人(学者)としては、当たり前でしょう。)
また、筒井さんも、面白いものは何でもよむ、濫読派で、興味も分裂しており(映画や、フロイト全集、笑いなど)
いわゆる文学青年ではなかった、といえます。(ただ、さっきも書きましたが、これは、職業的文学者としての筒井さんであって、一般人としては、すごい教養といえます。)
つまり、筒井さんはデビュー当時は、SF命であり、文学と、親和性はなかった。
それは、当時の文学観が、倫理的かつ閉鎖的、特権的である事によると思います。
(当時の文学者は、「進歩的知識人」といわれ、教養(それを支える財力と学閥)と
問題意識(大衆と、わかりあえるか?とか、国家をどうするか?とか)があり、
筒井さんには馴染めないということらしいです。(マルクスよりフロイト、という人ですから)

すみません。途中ですが、ここで打ち止めとさせていただきます。
とりあえず、昔の筒井さんは、文学とは無縁、ということで。

では!


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