【掲示板】


ヘリコニア談話室ログ(2000年12月)


ご挨拶 投稿者:管理人  投稿日:12月31日(日)14時19分49秒

いよいよ大晦日です。ようやく年賀状を書き上げました。これから投函してきます。
その年賀状にひとこと添えたことですが、2001年といえば、(私の感覚では)人類は少なくとも木星近傍へ有人宇宙船(ディスカバリー号)を飛ばしており、火星には基地が出来ており、月には初期のコロニーが営まれていなければならない筈なんですけど・・・
アポロ以降の、いったいどの時点で、正常な(?)時間線から分岐してしまったんでしょうねーこの世界は!!

とはいっても、今日のニュースでは木星のごく鮮明な画像が流されてましたが、遅ればせながらも、新しい太陽系像が次第に明らかになってきているのは事実です。
そのような次第である意味書きやすくなってきたのでしょうか、折しも日本の新しいSF作家たちは、たとえば藤崎慎吾が火星を描き、三雲岳斗が宇宙ステーションを描き、平谷美樹が月面を描き(小松賞の最新作では木星を描いているらしい)、という具合に、好んで太陽系世界を取り上げ始めました。
来年は、新しいデータを取り込んだ新しい太陽系を描くSFが、日本ではブームになるのではないか、いや、なって欲しいと期待を込めてそう願わずにいられません。
2001年という年が、後から振り返って、日本SFの新たな結節点であったと評価されるような年になって欲しいものです。

9月1日に公式にスタートしました拙サイトも、おかげさまで訪問者数1100名を数え、この掲示板にはおそらくそれ以上のアクセス数があると思われます。サイトを通して新しい出会いがあり、同士、友人もできました。しばらく途絶えていた眉村先生との交信も復活することが出来ました。管理者として本当に望外の喜びです。

2001年も眉村卓ウォッチングとSF話を2本柱に、サイト運営を継続いたします所存ですので、今年同様来年もどうか当掲示板へ足繁くご来訪下さいますようお願いいたします。
それではよいお年を!
 


SFを読むことの原理(承前) 投稿者:管理人  投稿日:12月29日(金)19時09分53秒



これに対して私の返信は、

<HR>
河本様
メールありがとうございます。
前回のメールで教えていただいたHPで河本さんの「計算」を見ました。目が回って
ぶっ倒れちまいました(笑)。

>  ”SF伝説”を読ませていただきました。
ありがとうございます。ほとんど思いつきをそのまま文にしているので、読みにく
かったでしょう。

> SFファンはおおらかに変な公理系を受け入れますから、それから演繹される
> 定理=悪魔たちが何者なのか、その世界とこの世界の関係、我々が実は何者か、な

> を楽しむことが出来ます。もちろん、そこで演じられる可笑しいドラマも鑑賞すべ

> 要素です。

おっしゃるとおりと思います。ファンタジーとSFの間に横たわる、そこら辺の微妙
な相違が(河本さんや私には自明なんですが)一般の人にはなかなか分かってもらえ
ません。

>  このように、SFの読み手からの仮想的なボケツッコミや、それに対する答えに

> いられる道具が論理や疑似論理なので、大熊さんはそれを”疑う”過程だと思われ

> のかも知れませんが、僕は疑わずに理解していく過程に思えます。

私の「疑う」という言葉に対する思い入れがちょっと特殊なんですね。
実は昔、SFという言葉が「科学」に傾きがちな気がして、シェクリーやブラウンの
書いたものに対する命名としては少し不適なんじゃないかと思った事があり、それ
じゃ何といえばいいのだ?ということで「怪奇小説」がふと浮かんだのです。

怪奇とはどういう意味でしょう?<怪>と<奇>の間に返り点を付けて読み下せば、
「奇ナルヲ怪シム」となります。<怪>を漢和辞典で牽きますと「あやしむ。不思議
に思う。いぶかる。」とあります。「いぶかる」と「うたがう」は同義です。
つまりこの伝でいけば怪奇小説とは、<奇>なるもの(すなわち「超常現象」)を
<怪>しむ(すなわち「疑う」)小説となります。

これを私なりに解釈すれば「超常現象を鵜呑みにしない(盲信しない)」態度で書か
れた小説ということになり、サイエンス・フィクション(科学小説)とほぼ同義にな
るのではないかと考えたのでした。
すなわち私の「疑う」というタームの用い方は、「盲信しないで理解しようとする」
(つまり「科学する」)というスタンスを表現しており、河本さんの「理解する」と
たぶん同じ事を表しているはずです。

しかし「理解する」という表現は書いているとき全然思い浮かびませんでした。今度
使わせて下さいね(^^;。

<HR>
河本さんがおっしゃっていることは、「SFを読むこと」の本質を衝いたものであるように私には思われます。
というか、私たち(SF読み)がSFを読むとき無意識に取っているスタンスが明らかにされているのではないでしょうか?重要なご指摘だと思います。

河本さん、ありがとうございました。よろしければこの掲示板にも訪れて下さると嬉しいです。



SFを読むことの原理 投稿者:管理人  投稿日:12月29日(金)19時08分35秒

ようやく仕事に目鼻が付いてきて一安心。といって明日も仕事ですが(i i)。
問題は年賀状だな・・・

SF作家森下一仁さんの日記でお馴染み、数学者の河本泰俊さんからメールを頂戴しました。
大変興味深いご意見ですので、河本さんの了解の上ここに転載します。

河本さんとは森下さんの日記の方で、SFの定義についてやり取りしており、それを踏まえていますので、できれば先にここここここを読んで下さい。

<HR>
 大熊様
 ”SF伝説”を読ませていただきました。
 僕の「SFとはSFファンの書いた文学作品である」いう定義は、たしかに、大熊
さんの書かれている「SFとはSF作家の書いた作品である」とか、「原初形態から
二次的三次的に発生したもの」という定義を思い起こさせますね。あっ、同じ様なこ
とを言っている、と思われたのでしょうか。
 文学の一ジャンルとしてSFを定義するなら、こういうふうにする他ないなー、と
思いながら読んでいたのですが、・・・ほとんどご意見には賛成できます・・・、
「疑うことから始まる」というのは、そうではないような気がします。

 シェクリーの作品の場合、たとえば、悪魔との取引の話を始めようとしたら、懐疑
主義者なら、「悪魔?そんな者いないよ」とつっこむでしょう。書き手は「これは文
学なのであって、架空の物語なのである」と説明し、読み手は事実ではない作り話だ
と納得し読み進めます。嘘のことなのですから、描かれる世界の論理的な説明は要り
ません。仮定された舞台での、悪魔達の演じる何故か人間的なやりとりを読むことに
なるのでしょう。しかし、SFファンならば、どんなに変な話でもひとまず相手の話
を受け入れます。そんなことあり得ないのだ、などと言ったりせずに、お笑いで言う
と、”ボケツッコミ”でその世界の成り立ちの整合性や、そこに棲む生き物たちの生
態系について、細かく確認します。つっこんではいても相手といっしょに走り続ける
わけです。
(色変え、管理人)
    *ボケツッコミという用語は正しいのでしょうか。ツッコンでいながら、実
はボケているという、ただのツッコミより高度な技です。
 この結果、「悪魔たち」を物事を疑う普通の人々に話せば、悪魔たちの世界の構造
の整合性についての説明がなくなり、ただの異世界のおとぎ話になります。これに対
して、SFファンはおおらかに変な公理系を受け入れますから、それから演繹される
定理=悪魔たちが何者なのか、その世界とこの世界の関係、我々が実は何者か、など
を楽しむことが出来ます。もちろん、そこで演じられる可笑しいドラマも鑑賞すべき
要素です。


 このように、SFの読み手からの仮想的なボケツッコミや、それに対する答えに用
いられる道具が論理や疑似論理なので、大熊さんはそれを”疑う”過程だと思われる
のかも知れませんが、僕は疑わずに理解していく過程に思えます。

 河本


浜尾四郎『殺人鬼』(春陽文庫)読了 投稿者:管理人  投稿日:12月26日(火)22時42分17秒

戦前(昭和6年)にこんな堂々たる本格探偵小説が書かれていたのですね、いや、ビックリしました。
『グリーン家』の向こうを張る趣向で、しかも『グリーン家』よりも面白い。本格度においても上かも知れません。

私の考える本格ものの理念型では、謎解きはシステム内において終始するべきで、システム外からの導入はアンフェアとなります。
本書の場合、名探偵の名推理は、まさしく理念型どおりにシステム内の要素から帰納されて、この者しかありえないと犯人を特定するにいたるのですが(この過程は素晴らしいの一語)、しかし動機だけは判らない。

結局動機は探偵が調査に赴いて、システム外部から持ち帰ってきます。つまりシステムにとどまる限り、動機は発見できないのです。
さて本書を既読の方にお聞きしたいのですが、これはアンフェアとはならないのでしょうか?

それにしても(派手な乱歩とは正反対の)冷静着実な文体で語られる論理の詰めは一読の価値あり。日本本格派の成果だと思いました。
私は戦前の日本人の(外来的な)合理的思考の受容度は、本格探偵小説を生むほどには成熟していなかったと認識していたのですが、どうも考えを改める必要がありそうです。


『五人対賭博場』  投稿者:管理人  投稿日:12月25日(月)21時29分49秒

アレクすてさま
『五人対賭博場』 ですか?
私は読んだことがないです。
ここを見ると、ハヤカワポケットミステリ920からハヤカワミステリ文庫38-1に収録されていて、たしかに1955年映画化されているようです。

こういうことは「読んでも死なない」の臼田惣介さんに尋ねれば答え一発です(^^;。
早速メールで訊いてみますね。 しばしお待ちを。

あの分厚い『ハイペリオン』って、連作集だったんですか。だったら私も読んでみようかな(^^;。


ところで大熊様 投稿者:アレクすて  投稿日:12月25日(月)09時36分27秒

話は飛びますが、ジャック・フィニィの
『五人対賭博場』お読みになられた事がお有りでしょうか?
私はないんですね。でも噂ではとっても面白いとのことで
映画化もされているようです。
御存じでしたら御教授ください。
ではでは。


こんにちは 投稿者:アレクすて  投稿日:12月24日(日)20時38分58秒

管理人様、レスをありがとうございます。
大熊様もブラッドベリ、読まれましたか。よかったよかった。
さて、私は、近所の本屋へ出かけたのですが田舎の事で、SF御三家の著作がないのです。
仕方がないというか、なんというか、『ハイペリオン』を買ってしまいました。
 理由は後書きを、GAINAXの統括本部長武田さんが書いておられたからです。
武田さんいわく『ハイペリオンは「グランドホテル形式」の短編の寄り集まりである(大意)』とのこと。
その言葉を信じて、いま下巻の「探偵の物語」を読んでいます。
ではでは。


「ニコラス・ニックルビ−の友はわが友」 投稿者:管理人  投稿日:12月24日(日)14時06分24秒

アレクすてさま
長篇(盗まれた町)をお読みになったのですか。体調回復してきたんですね、よかったよかった(^^)。
ところで、そういえば積読本のなかに『歌おう、感電するほどの喜びを!』(ハヤカワ文庫)があったはず。と思い、ごそごそ掘り返していたら、案の定出てきました。(^^)。

――で、「ニコラス・ニックルビ−の友はわが友」、僕も読んでみました。うーん陶然!!いいですねえ!酔いますねえ。泣けますねえ。
この作品、書きっぷりから推察するに、ブラッドベリの若い頃のじゃないでしょうか? 歳取ってからだとしたら、それはそれですごいですけど。

この前、『太陽の黄金の林檎』を読み返したとき、何となくディケンズの市井小説を思い浮かべたのでしたが、そもそもディケンズをそんなに読んでないので(クリスマスキャロルのみ)確信が持てず、ヘテロ読誌ではあえて言及しなかったのです(あ、ちょっとしたかな)。ですが本篇を読んで、改めてその影響を確信しました。


見捨てられた銀背リスト 投稿者:管理人  投稿日:12月23日(土)19時47分37秒

北原尚彦『SF万国博覧会』は面白いです。
SF出版の歴史の中で、ハヤカワ文庫SFと創元SF文庫の2大メジャー以外にも海外SFを出してくれた出版社・シリーズがいくつかありました。
それらのなかには、時の流れのなかで消えてしまったSF叢書も多数存在したのです。そういう今はもうない叢書を順番に取り上げて、それらの叢書に収められていた(今はもう読めない)個々の作品について解説する第1章「空想科学叢書列伝」がとりわけ琴線に触れてきます。ああ、そんなシリーズがあったなあ、と、とても懐かしい気持ちになりました。

私自身は創元、ハヤカワ以外に目を向けることは、サンリオ文庫は別格としてほとんどなかったのでしたが、それでも書名ぐらいには記憶があり、本書を読んでなるほどそういう話だったのかとうなずくこと屡々でした。

ところで、この列伝、大変な叢書を見落としているのです。
何を隠そう、それはハヤカワSFシリ−ズいわゆる銀背であります。シリーズの主だった作品はハヤカワ文庫に移動しているのだろうが、それでもかなりの作品がシリ−ズそのものと無理心中させられている(たとえばブリッシュ『宇宙播種計画』)ように思われます。こういう見捨てられたシリ−ズ収録作品を取り上げてほしかった。

というわけで、試みに「見捨てられた銀背」リストを作ってみました。
私がよく利用させてもらっていますAmemiyaさんの労作「海外SF翻訳作品集成」のデータを並べ替えただけですが(^^;。
リストアップして分かったことは、銀背318冊中ハヤカワ文庫化された作品は181冊。つまり6割しか文庫化されなかったということです。完全に見捨てられている作品が101冊もあります。チャド・オリバーなどは全滅状態ですね。ちょっと面白いと思いますので、興味があればご覧下さい。


とりあえず 投稿者:アレクすて  投稿日:12月23日(土)02時25分52秒

本棚を覗いたら
サンリオ文庫の
『ブラッドベリは歌う』
が合ったので読んでみました。
よかった!『ニックルバイの友達なら誰でもみんな友達だ』ではつい泣いてしまいました。あと紀伊国屋にいったらフィニィの『盗まれた町』があったので購入。
読了しましたが、恐いハインラインの『人形使い』と双璧をなす恐さでした。
今度は、ハインラインに挑戦してみようか、とおもっています。
ではでは。


『深夜放送のハプニング』 投稿者:管理人  投稿日:12月20日(水)21時36分08秒

眉村ジュブナイルづいてしまって(笑)昨晩は『深夜放送のハプニング』(角川文庫)を読んでいました。この本は初読です。
表題作と「闇からのゆうわく」を収録。2作品とも瀬名さんの「決断」のモチーフが明瞭に現れていました。いちいちここが、とはメンドくさいので説明しません。そんなことをせずとも瀬名論文によって「決断」という<認識の台座>に立った者には、それは明瞭に視界に迫ってくるはずです。

表題作は「過去のないリクエスト・カード」「夜はだれのもの!?」「呪いの面」の3短篇からなる連作。
ところでこの連作、主人公は新進のイラストレーターで副業に深夜放送のパーソナリティをしている、という設定(余談ですがこの設定、いうまでもなく瀬名さんのいう「通りすがり」モチーフです)。つまり一般小説なんです。ジュブナイルではない。
私の著書リストでもJV篇に含めてしまっているのですが、巻末の新戸雅章の解説に[本書は作者お得意のジュヴナイルSF二篇を収めた中篇集である]とあったからで(と弁解する)、瀬名解説とは違ってずいぶん杜撰な解説であります。その証拠に4ペ−ジあまりの長さのうち3ページ半をインサイダー文学論に当てていることからもわかりましょう(^^;。つまり何も言っていないに等しい解説なのであります。

それはさておき、深夜放送が舞台ということで、70年代初頭の洋楽ヒット曲が頻出します。懐かしい(笑)。この連作、もっと続けてほしかった気がしました。
ところで本篇はSFではありません。第3話が一番SFに近いですが、<謎の面>にSFに必須な理屈がないので、ホラーです(他の二篇は純然たる普通小説)。
この結果明らかになるのは、いわゆる瀬名解が眉村「SF」に、ではなく眉村描く「小説」にかかわる解であるという事実であります。(←これ重要)

もう一篇の「闇からのゆうわく」は、これは純然たるジュヴナイルSF。松葉という先生の超能力は新人類(ミュ−タント)という根拠(理屈)をもちます。

二篇とも非常に面白く、また読みやすいのでアッちゅー間に読めてしまいます。おすすめです。古本屋で見かけたら即買いでしょう。


SFの共通認識 投稿者:日夏 杏子  投稿日:12月20日(水)21時11分21秒

確かに、SFの場合は、共通認識がミステリほどできてはいないし、また評論もミステリほど体系化されてはいないような気がします。
SFの個々の作品論が難しい理由はそこにあったのでしょうか。
ということは、SFの個別の作品に焦点をあてた評論は、今作られていく過程にあるのではないかという感想を持ちました。

SFの場合は個人個人のSFのものさしが重要になってくるようですね。
私も、もっとSFを読んでそのようなものさしを作りたいです。


レスです 投稿者:管理人  投稿日:12月19日(火)22時29分53秒

村田耿介さま
またそんなイジワルをー(笑)。
あの瞬間私の頭を駆けめぐったのは、
もう幹事はやりたくないなあ→あ、畸人郷例会なら幹事じゃないからいいか→まてよ均ちゃんは遠隔地だ→畸人郷に出席は事実上不可能だ(一泊しない限り)→となると均ちゃんを囲む会は昼過ぎに始めるものでなければならない→誰が幹事をする?→もう幹事はやりたくないなあ→
と、思考がループしてしまい、それがいわゆるひとつの「つれない言動」となってしまったのでしたーしつれいしましたー(^^;。

アレクすてさま
>ファウンデーションは駄目。あれ思いっきり長いから
別にシリ−ズ全作品を読破する必要もないでしょう。私も原型の三部作しか読んでいません(創元文庫版『銀河帝国の興亡』三部作)。
むしろ第一部なんか短篇連作という形式ですから、丁度手頃ではないでしょうか?面白いですよーハリ・セルダンの心理歴史学(^^)。
ハインラインなら世代宇宙船テーマの『宇宙の孤児』(ハヤカワ文庫)がオススメですが、もう大感動篇なので、アレクすてさんには不適かも。
そういう意味では<未来史シリーズ>の短篇群(とりわけ月世界もの)なんかいいですねえ(『地球の緑の丘』ハヤカワ文庫)。
クラークは何といっても『都市と星』(ハヤカワ文庫)が最高!これも短篇連作形式なので読みやすいと思います。
何だったら本お貸ししますよ。

日夏杏子さま

>SFの場合はなぜ、単体の作品論が難しいのかという点です。
たしかにSFの評論は形式は作品論なのに実質的に作家論をやっているということが多いですね。
ひとつはSFというものがミステリほど共通認識が出来てないからかも知れません。つまりSFの領域がミステリのそれほど確定していないため、批評の標準をジャンルに置きにくく、作家の個性に置いてしまいがちになるからかも知れません。
もうひとつは怠慢でしょう(^^;。たとえば「この作品はいかにもこの作家らしい奇想に充ち充ちている」なんてフレーズはありがちですが、よく読めば何も指示しない同義反復ですよね(しまった、ヤブヘビだー(^^;)。



『ねじれた町』評について 投稿者:日夏 杏子  投稿日:12月19日(火)15時55分59秒

なるほど、『ねじれた町』は、怨霊という存在が出ているために、いくら説明されても、これはSFではないなと感じていましたが、これは偏見で、怨霊もガジェットの一部として見ると、見事に合理的な説明がされている、ゆえにれっきとしたSFであったのですね。
大熊さんの「ヘテロ読誌」は楽しく読ませていただいており、勉強にもさせていただいていてのですが、その根本姿勢は、やはり作品論の立場に立たれたものだったのですね。純粋な作品論が理想的な評論の一形態でもあると私は考えています。もちろん、複合した評論の中にも瀬名さんの『ねじれた町』評のように優れたものもあることは承知していますし、複合された評論ならではのよさもありますよね。
瀬名さんの『ねじれた町』評ですが、確かに私もその2点が優れていると感じました。なぜ優れているかは、大熊さんのように、それが示されたときにパタパタと再編され、収まる点です。これは、瀬名さんの評論が、ふだん見過ごしていた平凡の中に非凡を見るという、理想的なものであったからではないかと思います。
ただ、そのような形のすばらしい評論を読んで満足すると同時にやはり不思議に思うのは、SFの場合はなぜ、単体の作品論が難しいのかという点です。ミステリに比べ単体の作品論、言うなればテキスト論が難しいというのが、これまでSFについて何かを書こうとした場合に必ず突き当たった問題です。「ヘテロ読誌」は、作品のプロットの運びを描かれ、そこで起こり得る問題点の提起などをして、単体の作品論を可能にしてらっしゃるのかしらと思っております。
どうもつれづれと、SFビギナーの悩みを書いてしまいました。お返事お待ちしています。
眉村作品ですが、『魔性の町』(おお、タイトルから町ときましたね)を購入しました。瀬名さんの切り口を一時忘れ、自分なりのものさしを持って読みたいと思っています。
大熊さんならではの、眉村論も期待しております。


(無題) 投稿者:アレクすて  投稿日:12月19日(火)03時19分55秒

そういえばアシモフ原作の『アンドリューNDR114』っていうのが公開されてましたよねえ。
私は今、洋もののクラシックSF(クラーク、アシモフ、ハインラインなど)を読んでみたいなあと思っております。(ファウンデーションは駄目。あれ思いっきり長いから)
ではでは。


ふふふふふ。 投稿者:村田耿介  投稿日:12月19日(火)00時58分20秒

 忘年会での大熊様のつれない言動を某掲示板で告げ口しようとしたら壮絶に投稿に失敗!
 ぐふ!
 罰があたったのでしょうか!

 結局、今年はお借りした『ぬばたまの…』だけでしたが、来年は私も眉村さんの作品をもっと読んでみようとたくらんでいるのでした。
 ではでは。

http://www.alles.or.jp/~toki0504/


瀬名さんの眉村解 投稿者:管理人  投稿日:12月18日(月)21時42分28秒

『ねじれた町』の批評が確かに書かれていたはず、と筒井康隆『みだれ撃ち涜書ノート』をめくっていたら、面白くてつい読みふけってしまいました(^^)。
しかし該当箇所は見つからず仕舞い。おかしいなあ。

そのかわりこんな文章を発見。キングズリイ・エイミスの『地獄の新地図』を取り上げた部分で、筒井さんはエイミスの主張(フレデリック・ポ−ルの方法論の称揚)を批判して眉村さんを例に挙げているのです。

<今や似たような資質、似たような地点から出発したわが国の眉村卓は「消滅の光輪」を書いたことによってポ−ルどころか類似のすべての英米SFを抜いた。この観念小説的大長篇をエイミスに読ませたいものである。>(283ペ−ジ)

いや手放しの大絶賛ですねえ(^^)。

先日、瀬名さんの「ねじれた町」の解説について書きましたが、実は本屋で立ち読みした時の印象だけで書いてしまいました(^^;。(MZTさんがいみじくも指摘されたように、既に所有している本を改めて買い直すなんて、よほどのことがない限りしないですよね)
しかしそれはちょっと問題かなと、今日、ハルキ文庫版を買ってきました。
それで瀬名論文をじっくり読んでみたのですが、やはり印象は変わらず、眉村卓論として出色のできばえだと思いました。

瀬名論文のユニークな点は、眉村作品を読み解くときに誰もが必ず引き合いに出す「インサイダー文学論」をとりあえずカッコに括って、独自の切り口を提示している点です。
すなわち「決断」と「通りすがりの感覚」なんですが、前者について瀬名さんは「決断を強いられる自分と決断につきまとうためらい、そして決断後に感じるなんともいえない疲れ。これらこそが眉村卓の主要なテーマなのではないか」と分析されています。

これを読んで全くその通りだと私は思いました。というか、読むことによって、その事実にはじめて気づかされました。
この切り口は瀬名さん独自のものですが、それが妥当かどうかは、かかる切り口を提出されたとき「私」において、眉村作品が(殆ど例外なく)かかる切り口に基づいてパタパタパタと再編され収まるかどうかによって検証されるわけです。
そして上にも書きましたようにそれは「私」において「その通りだ」と納得されるものでありました。つまり妥当な、有意な切り口であると検証されたわけです。

瀬名さんの「ねじれた町」の解説は、このように評論として自立性を主張できる優れたものです。評論とはかくありたいものです。
日夏さんに「SF評論を考える恰好のお手本かも知れません」と書いたのはこのような理由からなんでした。

もとより瀬名論文だけが唯一の「眉村解」ではないのはいうまでもありません。別の切り口が必ずあるはずです。私も瀬名解に匹敵する切り口を発見したいものです。


『ねじれた町』 投稿者:管理人  投稿日:12月17日(日)18時43分05秒

日夏杏子さま
>『ねじれた町』は、超常現象に関しての説明は薄いですよね。
>それなのになぜ、この作品がファンタジーではなく、SFなのかしらとも不思議に感じました

『ねじれた町』、完ぺきに忘れ果ててしまっているので、22年ぶり(^^;に読み返してみました(秋元文庫版)。
ウーン、私はやっぱりこの小説はSFだと思います。
超常現象の説明ですが、「ここは怨念の世界」の章でそのメカニズムが説明されています。

すなわち旧弊なQ市が支配的制度としてその存在を続けることによって否応なく生成され続ける虐げられた者の無意識的怨念が凝って実体化した一種<集合無意識>が現実のQ市を包み込み、あわよくば介入しようと虎視眈々とねらっており、町の支配階級はその霊気を逆用して秩序を保っているという背理がここに説明されています。

その結果、怨念が介入をやめることによって、支配層の支配の根拠が(皮肉にも)消滅し、怨念の目的は達成されたのでした。すなわち非常にシステマティックな世界構造を描写することで小説世界が構築されているのです。

これは<理屈>であります。<怨念>や<超能力>それ自体はなんの根拠もない思弁ですが、一旦それを認めた上での展開において、この小説はSFなんですね。超能力の無限定な受容を前提として成立するファンタジーとは一線を画すものだと私は思うのですが・・・。


『日課・一日3枚以上』第4巻 投稿者:管理人  投稿日:12月17日(日)16時10分55秒

眉村先生の最新ショートショート集『日課・一日3枚以上』第4巻(真生印刷)が発売されました。
実は先週届いていたのですが、告知が送れてしまいました。
それにしても予定より1週間以上発売が遅れたのは、折り込みの<卓通信>によれば、「日々のスケジュールに追われ、ついに体調を崩してダウンしてしまったため」だったそうです。
想像するにチーフプロデューサーをされているイベント「おもしろロボット塾」のお世話が想像以上に大変だったのでしょうか?
ともあれ、「今は元気であります」とのことです。
奥様の方も、「しんどいという日はあるものの、週一度の通院で点滴を受け、家で、ゆっくり寝たりテレビを見たり、ときどき食事の支度や洗濯をしたりの生活を送って」おられるということで、まずは一安心。
最新ショートショート集『日課・一日3枚以上』第4巻は、送料込み2500円、購入等のお問い合わせは、0722−27−8911真生印刷(株)までお願いします。

Yさま
新しいパソコンですか、うらやましい! 

>「ねじれた町」ですがなんとハングルでも出ているらしいです。
情報ありがとうございます。案外韓国の人には眉村ジュヴナイルの清廉潔白な主人公像は好まれるのではないでしょうか。

>「還らざる城」かな?
JVリストを作っていて気づいたのですが、この作品だけ角川にも秋元にも収録されなかったのですね。
僕自身は結構気に入ってたんですが(『戦国自衛隊』とどちらが先でしょう)、本書もYさんがいわれる<著者廃棄作品>のひとつなんでしょうか?

日夏杏子さま
評論といってもその目的によっていろいろ分けることができますね、たとえば新刊時評は何を読もうかなと迷っている読者にこんなおもしろい本が出たよという紹介を本義とするものです。現在雑誌等(あるいはネット上)に掲載されているのは大半がこの手ですね(したがって未読の読者が対象になります)。
次に作品論と作家論があります。この二種はしかし、複合的になされることが多いようです。瀬名さんの解説はこの範疇に属しますね。それで作品論の体裁ながら
>作者の作品の俯瞰像
が援用されたわけですね。もちろん厳密に分けてすることも可能です。瀬名さんの解説は(購入の指針にされる場合もあり得る)巻末解説という読者の便宜を図るものであるという性質上、あのようなかたちになったわけです。
さて、私が「ヘテロ読誌」でやっている(つもりな)のは、そういう客観性を求めるものではなく、もっと個人の感覚に偏した読解です。
つまり読むことによって私の内部に生まれたある反応を書き記しています。したがってある意味作家の意図はどうでもいいのです。作者の創作意図を察してあげる読み方ではなく、あくまでその本自体が私の内部に触媒として働いた結果、出てきたものを写しています。そうして出てきたものは私にとっても(自分から出てきた筈なのに)思いがけないものであることが多いですね。
読んでくれた読者が「ほほう、そう読みますか(そういう読み方をしますか)」と思ってくれたら良いと思っています。その意味で、ヘテロ読誌は取り上げる作品を既に読んでいる読者が対象といえるかも知れません。(つづく)

アレクすてさま
K人郷忘年会、楽しかったですよ(^^)。
あなたもくればよかったのに。宴会の部は9時から11時の2時間限定だったので、アレクすてさんの体調にも好都合な長さだったのではないでしょうか。もっとも私は電車の関係で11時半に失礼したので、本当にアッという間でした。
次回はぜひ!


大熊様は 投稿者:アレクすて  投稿日:12月17日(日)00時46分07秒

今頃、忘年会参加中なのでしょうか?
カラオケを歌っていらっしゃるのでしょうか?
私はオツムの病気で今回は不参加だったのですが。
管理人様
お元気で。


『ねじれた町』読了 投稿者:日夏 杏子  投稿日:12月16日(土)22時47分14秒

『ねじれた町』を実に楽しく読みました。
眉村ジュブナイルの傑作と評されていますね。解説で瀬名さんが指摘されている通り、学園外で物語が展開される点が、実に珍しく、楽しく読めたと思います。
ただ、ジュブナイルのキレとしては、ミステリになりますが、天藤さんの方がやや上回っているのではないかと思います。
SFの評論がミステリと異なる点は、SFはなるべく多くの、その作者の作品の俯瞰像を自身の中に持っていなければ、解説が書けない点かしらと思いました。
『ねじれた町』の瀬名さんの、2つの切り口にしても、多くの眉村作品を考慮に入れていますよね。
『ねじれた町』は、超常現象に関しての説明は薄いですよね。それなのになぜ、この作品がファンタジーではなく、SFなのかしらとも不思議に感じました。
私は、SFに関してはまだまだ読書量が足りないので、読んでいる方からすればずいぶんと見当違いの質問をするかもしれませんが、どうぞご教授ください。


ねじれた町ですが 投稿者:Y  投稿日:12月16日(土)22時44分11秒

またおじゃまします。新しいパソコンが来たのでチェックもかねて
書き込ませていただきます〜。いつも変なネタで失礼します。
 で「ねじれた町」ですがなんとハングルでも出ているらしいです。
他「メビウスの城」という題のものも出ているらしいですが(「還
らざる城」かな?)、韓国の方の反応が聞きたいですね。
詳細は「高麗書林」HP(すみません今アドレスがわかりませんがヤフー
で探せます)まで。


RE:ねじれた町 投稿者:管理人  投稿日:12月15日(金)20時08分55秒

日夏杏子さま
『ねじれた町』は眉村ジュヴナイルのなかでも個人的には1、2を争う出来映えです。
たしか筒井康隆が「奇想天外」の連載時評で褒めていたはずと思い、連載をまとめた『みだれ撃ち涜書ノート』(集英社文庫版)の目次をながめているのですが、見あたりません。勘違い?(昔の記憶がどんどん錯綜いや混濁していきます。トホホ)
日夏さんのお手許の本は、ハルキ文庫ですか? もしそうでしたら巻末の瀬名秀明さんの解説が実によいです。力作です。SF評論を考える恰好のお手本かも知れません。(つづく)


ねじれた町 投稿者:日夏 杏子  投稿日:12月13日(水)23時10分14秒

どうも、覚えていてくださって嬉しいです。
最近は、HPには書いていません。同人誌には書いていますよ。
>マニエリスムの香り高き典雅な文章
とは、どうもありがとうございます。今読み返すと稚拙で恥ずかしいんですけどね。
ここのHPは、眉村さんの著作リストがいいですね。
眉村さんは、ジュブナイルを結構書いてらっしゃるのですね。
今日、「ねじれた町」を購入してきました。
読むのが楽しみ。
SF評論に対する、大熊さんの明晰なお答えも楽しみにしています。


エゴ・ラッピン「色彩のブルース」 投稿者:管理人  投稿日:12月13日(水)21時23分11秒

エゴ・ラッピン情報、だんだんと集まってきました。
なんと大阪のインディーズユニットらしい。
エゴ・ラッピンの曲はここで試聴できますよ。(Real Player必要)
みなさん、今年の邦楽部門ベストワンのエゴ・ラッピン「色彩のブルース」を聴きましょう(ツタヤにあります)。
そしてあらゆるラジオ等の音楽番組にリクエストしましょう!ご協力お願いいたします!!


復た朋有り千里を越えて来たれり 投稿者:管理人  投稿日:12月12日(火)21時51分21秒

日夏杏子さま

おお!ご無沙汰しておりました。ようこそお越し下さいました。
こんな吹けば飛ぶような微小サイト、よくぞ見つけて下さいました。

>SF評論はどうあるべきかということなのですが
ウーム、これまたムツカシイご質問ですね(^^;。
ちょっと考えさせて下さい。

それにしても日夏さん、最近はいかがお過ごしですか? どこかに書いておられますか? 
機会があれば、マニエリスムの香り高き典雅な御文を読ませていただきとうございます。

またちょくちょくお寄り下さいね。今日はありがとうございました。


フォークとデキシーこの似て非なるもの 投稿者:管理人  投稿日:12月12日(火)21時28分35秒

蜆川さま
先日はどうも。
SCIENCE? SUPECULATION? FICTION? FANTASY?
ウーム、森編集長時代のSFMの標語でしたな(^^)。
ウーム・・・ウウム・・・(汗、汗)

しかしデキシーもフォークもルーツは同じですね(笑)。
しかし某K人郷のN村さんは、デキシー派とフォーク派は截然と違うと仰有っています。
たとえばミシシッピ・ジョン・ハートはギター一本で、私などはハーモニカが一枚噛んで欲しいなと思うのですが、N村さんはギターだけでよいとキッパリおっしゃいました。高田渡もおんなじようなことを言っていたような・・・
そうすると私などはさしづめデキシー派なんでしょうね。


こちらのページでははじめまして 投稿者:日夏 杏子  投稿日:12月12日(火)21時24分16秒

こんにちは。はじめて書き込みさせていただきます。かのSF伝説の方の個人ページを見つけて嬉しかったです。
SF伝説をご連載の頃に、本を薦めていただいき、今はSFにひたっています。眉村さん、いいですねえ。海外では、最近エフィンジャーも好きです。
最近悩んでいるのが、SF評論はどうあるべきかということなのですが、どういうものが理想なんでしょうか?
ミステリに対するアプローチとは当然異なるものであるだろうし、かといってあんまり分析論に陥るのも、SFの場合は、その作品の持っていた本質のようなものから遠ざかる気がして。
どうかご教授ください。


記憶違い 投稿者:蜆川 漁人  投稿日:12月11日(月)11時29分52秒

前日(正確には本日未明)に投稿した文面に誤りがありました。
高田 渡の「生活の柄」に類似した曲はPPMの「500マイル」でした。
たぶん「陽の当たる道で」(邦題)が演奏されている時にその話をしていたので
勘違いしてしまったようです。それを今日の仕事中にひらめくという時間の遅れに我乍らあきれかえります。


デキシーにはバーボンで 投稿者:蜆川 漁人  投稿日:12月11日(月)00時34分28秒

昨晩はどうも。無事帰宅されたようでなによりです。
それにしても管理人の「オンザサニーサイドオブザストリート」と「生活の柄」の類似の指摘には虚を衝かれました。まあともにメロディのルーツがトラディショナルということでしょうし、元を尋ねたらイングランドかスコットランドの民謡ということになるのでしょう。
表題でニューオーリンズではバーボンみたいなことを書きましたが、アメリカ南部でバーボンが飲まれているのかは定かでありません。バーボンとはケンタッキーでトウモロコシを原料に醸造された蒸留酒という明確な定義があり、他の州 例えばテネシー州で同じ製法で作られてもそれはテネシーウヰスキーと呼ばれるそうですから。
定義付けで思ったのですが、SFのSはサイエンスなのかスペキュレイテイブなのか、そしてFはフィクションなのかファンタジーなのか、その辺管理人はどのように定義されているか教えてほしい気がします。ではまた。


『ぼくらは虚空に夜を視る』読了 投稿者:管理人  投稿日:12月10日(日)18時09分28秒

SF的設定は面白いのですが、どうも具体的な整合性がよくわからない。この設定、私なりに理解するところでは、

人類は恒星間移民のためカプセル船という世代宇宙船で旅をしている。船内の人々は冬眠状態にあるが、夢を見ている。
このカプセル船を襲う虚空牙という存在があり、防衛隊みたいなのが闘っている。この戦いは熾烈なのでパイロットは戦闘時以外はその精神を癒やすためバーチャル空間の地球(これが実は私たちのこの世界なのです)の一人物をあてがわれている。パイロットたちのためにバーチャル現代地球(というより日本)はあり、そのリアリティのために冬眠中の人々のパーソナリティが利用されている。

という前提的設定をこの小説は(たぶん)持っています。
しかし、たとえば上にも書いたように、日本人しか出てこない理由の説明はない。個々に考えると設定に対するおさえが若干、というよりかなり甘いように思われます。根源的アイデアはSFだが、具体的な印象はファンタジーに近い。

パイロットたちのバーチャル世界における対応人物が日本の同じ中学の同級生であるのは不自然だし、根本的になぜ中学生のような子供に設定しているのか腑に落ちません。
しかもバーチャル世界での主人公の中学生が後半、突然スーパーマン的活躍をするのも興が削がれます。

はじめに主人公の年齢設定ありきということならば、所詮はYAだな、というのが読後感。SFとしては全然ダメ。


色彩のブルース 投稿者:管理人  投稿日:12月10日(日)13時40分08秒

昨晩は蜆川氏と飲み会。居酒屋で飲み、且つ腹を充たしてからニュー・サントリー・ファイブへ。
そうです。ニューオーリンズ・ラスカルズであります。
昨日は蜆川さんのリクエストを演奏してもらえました。
リクエストは、オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート(^^)。そら演ってくれますわな(^^;。
それにしても昨夜のニュー・サントリー5は超満員で、カウンターは少々窮屈でした。年末なんですね。

帰宅後、ラスカルズに対抗して、ダークサイド・オブ・ザ・ムーンを聴こう――などとは全然思わず(^^;、
EGO-WRAPPIN'というグループの「色彩のブルース」をかける。
ここ数日聴きまくっているCDなんですが、これはおすすめです!
ミニCDというんですか、5曲入り時間にして30分足らずの盤で、実はツタヤの店内放送で
流れていたのを耳にして、ビンビンと感応するものがあり、即、借りてきました。
CDの記載を見ると、この9月にリリースされたもので、おそらくツタヤにも入荷したばかりでしょう。
一曲目はジャズ、2曲目はタンゴ風、3曲目のタイトルチューンはテンポのあるジャズ・ブルース、
4曲目もジャズ、5曲目はボサノバという具合にバラエティ豊かですが、どれも一定の水準を超えています。
とりわけ3曲目「色彩のブルース」が、素直なテナープレイとボーカルの(小柳ユキ似の)声が
マッチして素晴らしいです。是非聴いてみて下さい。
また、EGO-WRAPPIN'について情報をお持ちの方は、ぜひ教えて下さい。


ヘテロ読誌 投稿者:管理人  投稿日:12月 7日(木)22時22分36秒

ヘテロ読誌11月分が掲載されました。
今月は新鋭SF特集です(笑)。ご笑覧下さい。


古いSF 投稿者:管理人  投稿日:12月 7日(木)22時13分32秒

MZTさん

>YAになじんでいた層がハルキ等で出ている古いSFの復刊文庫に
>食指を伸ばすかといえば、一部の例外を除いてないと思います。

>30代のマニア層も一部の人たち(蔵書処分した
>人たち)を除いて、購入はしないと思うし。

これはツラいですねー。たしかに、僕も大体持ってますから改めて買ったりしませんものね。
上からも下からも無視されて、70年SF復活の日はついに来ないのでしょうか(^^;。

『神狩り』なんて、若い人が読んでも面白いと思うのですけどねー。田中光二の<怒りシリーズ>(『怒りの大洋』とか『怒りの聖樹』)なんかも、軽いので昔からマニア受けはしないのですが、案外にしっかりSFしてるんです。そういう意味では、逆に今の方が売り方次第で売れるんじゃないかな、と思っていたのです。古いSFの弱点は、「文体」でしょうか?


返信ありがとうございます 投稿者:MZT  投稿日:12月 6日(水)23時11分43秒

MZTです。こんばんは。

大熊さん>
インターネットの威力は本当にすごいと思っています。うちのページも当初は
弱小でビジターの方々に教えていただくことが多く、今までなんとかやってこれた
のもビジターの方々を含むページを見てくださっている人たちのおかげだと思って
います。実際、表現について色々と考えさせることが多いですし。

出版社の戦略としては差別化戦略は悪くないと思います。若手層(YAから成長した
読者層)と従来のSF読みの層を分離して、製品差別化による利益の確保は悪く
ない方法ですし、今後もそういう形で出版社は消費者のニーズを捉えようとする
でしょうね。

ところが、YAになじんでいた層がハルキ等で出ている古いSFの復刊文庫に
食指を伸ばすかといえば、一部の例外を除いてないと思います。これはブックオフ
でのゾッキ率を見ればわかるように、いまさら小松左京、いまさら光瀬龍という
感じなのではないかと思います。30代のマニア層も一部の人たち(蔵書処分した
人たち)を除いて、購入はしないと思うし。

 だから割合とぼくは悲観的な見方をしています。本当に儲かっているのかという
疑問があります。

 しかしながらデュアル文庫やハルキ文庫のYA作家の取りこみはプラスだと
思います。彼らがSF風作品を書くことで、手に取る可能性が強くなる。山田正紀
の『ジャグラー』をとって、山田正紀を読む読者が増えればよりコアなSFの
読者層は増える可能性は高まるとは思います。その意味で、大熊さんのおっしゃる
ようなベテランSF作家層をデュアル等の文庫で書かせることにより、興味の
ベクトルを増大させる可能性は高まるようには思います。ところが、その方向性は
今の所働いていないように見えるわけです。

となるとゲーム等のメディアミックスで売り出すしかなくなるのではないかと
思ったりします。ネットでも話題になっている「ガンパレード・マーチ」とか。


祝・復活 投稿者:管理人  投稿日:12月 6日(水)21時15分56秒

Yさま

>「ワンダーティールーム」やっと特集ページ更新しました。
早速見てきました(^^)。→眉村卓ワンダー・ティー・ルーム
おお、プロジェクトY「ラクザーン・一千万人の脱出」ですかー!
プロジェクトXは見たことがないのですが、うーむ、さすが眉村オタク(?)濃いネタですな(^^;。これからもどんどんお願いします!
ところで、白髪になったマセってアイデアは、おもしろロボット塾出席の成果なんでしょうか?

読書館の方も期待してます(^^)。



デュアル文庫私見 投稿者:管理人  投稿日:12月 6日(水)20時28分48秒

MZTさま

ご無沙汰していました。Hybrid Cityでのコニイ談義には、僕も参加したかったんですが、『ハローサマー、グッドバイ』を読んでおらず、本自体も所持してないので、つい入りそびれてしまいました(^^;。
QT談義にも入りたくてウズウズしてたんですけど、時間帝国ケナされていたので二の足踏んでしまいました(汗)。

>YAで主に活躍していた作家陣を取りこむことによって、YAの読者層を
>獲得しようとしているのではないかと思います。

そうですね、そういう風にポジティヴに考えないとイカンのですよね。

実は、HPを開設して3か月、最近「見てますよ」という言葉を予想以上に耳にするのです(昨日も真生印刷さんに電話をしたら、電話を受けた女性に「あのホームページの・・・」って言われました)。
なるほどネットってすごいなあと改めて感心しているのですが、同時に、これは個人ページなんだけど、半分オフィシャルな要素もあると言うことでもあるわけで、その辺を意識しながら発言しなければいけないなあと思ったばかりなんです。

うーむ。ところが私自身は、もともと後ろ向きな人間なので、すぐネガティヴな言い方になってしまうのですね(反省)。SFを衰退させた元凶は私です(^^;っていうか、SFマニアの偏狭なエリート意識なんですよね。以後気を付けたいと思います。

そういうわけで、下の投げやりなネガティヴな発言を組み直して、建設的な苦言をデュアル文庫に呈したいと思います(^^)。

MZTさんの上の文の(省略されている)主語は、「SFは」とか「SF界は」ということになると思うのです。つまり、

>YAで主に活躍していた作家陣を取りこむことによって、(SFは)、YAの読者層を
>獲得しようとしているのではないかと思います。

ということですね。そして――

>YAで育ってきた若手読者が海外SFに移行するためには、デュアル
>文庫等の割とSFとYAの中間にあるような本を買わせて読ませる
>という戦略が一番なのではないかと思ったりします。

MZTさんの慧眼が喝破されたように、デュアル文庫がそのようなものとして立ち上げられたことは間違いないでしょう。ところがここに問題があります。
デュアル文庫を手にとって「おお、なかなか面白いやん」と思ってくれた年少の読者をハヤカワSF文庫に連れていく媒体がこの文庫には(現在のところ)ミッシングリンクとなっているのではないでしょうか。
わたしは、彼らが自発的にハヤカワ文庫へ行くことを期待するのは難しいと考えるものです。なぜなら、YAの読者層が、YAで主に活躍していた作家陣の書いた<SF>を読んで、はたしてそれを<SF>として認識してくれるでしょうか? 私は悲観的です。デュアル文庫のSFは、(たとえ帯にSFと銘打たれていたとしても)彼らには「面白いYA」としか認識されないのではないでしょうか。

この辺ハルキ文庫の方は、70年代SFのリバイバルも併せて行っているのでクリアしています――70年代日本SFは間違いなくYAと海外SFの(YA読者にとっての)ミッシングリンクを埋めるものです。
田中芳樹がラインナップされているじゃないかって? 私は銀英伝は(ウルフガイやサイコダイバーもそうですが)ミッシングリンクを埋める媒体とはなり得ないと思います。なぜなら銀英伝はもちろんSFですが、その魅力はSF本来のそれとは違うところに成立しており、「踏み台」となるものではなく、むしろ読者を「ため込んでしまう」方向に働くだけではないかと思うのです。

結論として、デュアル文庫がSF活性化に、すなわちSFの層拡大に寄与するためには、YA作家からの書き手のピックアップを続ける一方で、既成のSF作家の(リバイバルはハルキ文庫にまかせるとして)新作をラインナップしていくことが必要だと考えます。
たとえば田中光二、山田正紀、川又千秋などが、ぱっと思い浮かびます。彼らならYA読者にも受ける「純SF」を書けると信じています。眉村さんに新作ジュブナイルを書いてもらうってのはどうでしょう(^^;。ああいうのはもはや古いですか?>MZTさん。

あとデュアル文庫には「巻末解説」が必要ですね。今読んでいる『ぼくらは虚空に夜を視る』には解説がないのですが、たとえばバーサーカーやスターキングなんかを紹介する解説を付けたらどうでしょう? 『ぼくらは虚空に夜を視る』を気に入った読者のなかには、いっちょう読んでみるかと思う人も出てくるかも知れません。

いやあ、どんどん空想が膨らんで長くなってしまいました。MZTさん、ありがとうございました(なんか森下さんみたい(^^;ゞ)。


更新しました 投稿者:  投稿日:12月 5日(火)00時26分17秒

宣伝をかねておじゃましてます。
「ワンダーティールーム」やっと特集ページ更新しました。
リンクにこのページも入れさせていただきました。お暇な折りに。
読書関係はもう少し後になりそうです。

「サバントとボク」いいですよねー。私はちょっと泣けました。
眉村作品ならではの味です。うれしい!

http://www.usiwakamaru.or.jp/~yamas/index.html


ううむ 投稿者:MZT  投稿日:12月 4日(月)23時38分52秒

MZTです。こんばんは。

大熊さん>
ハルキ文庫や徳間デュアル文庫の戦略は間違ってはいないとは思います。
YAで主に活躍していた作家陣を取りこむことによって、YAの読者層を
獲得しようとしているのではないかと思います。
30代〜40代をターゲットとする戦略も悪くはないと思いますが、
それ以前に後のことを考えると「若手層」を何とかして取りこむ
方向に働きかけたいという意志の現われではないかと思います。

YAで育ってきた若手読者が海外SFに移行するためには、デュアル
文庫等の割とSFとYAの中間にあるような本を買わせて読ませる
という戦略が一番なのではないかと思ったりします。

今の世代はメディアミックス的な手法で攻めないと興味のベクトルが
働かないのではないかと思っています。

大熊さんの「表紙を見ると買う気を失せる」というのはわかります。
ぼくもそういうときがあります。30代・40代の世代の方々との兼ね合い
を考えると若年層ベクトルのマーケティング戦略とどちらがいいのか、
まだ出版社も模索中なのではないかと思います。わざわざレーベルを
つくったということは、若年層への売上の期待があるからではないか
と思います。


月刊センターHPのショートショート 投稿者:管理人  投稿日:12月 3日(日)17時53分26秒

月刊センターHPに連載中の眉村先生のショートショートが更新されていますので、ご覧になって下さい。
「刷り込み」というタイトルで、地下鉄の出口を間違う話ですが、地下街から地上へ出るときに何かが起
きるというモチーフを先生は「日課」シリーズで繰り返し使われています。
よほど地下街で迷うことが多いのでしょうか(笑)。
このショートショート、改行がちょっとおかしいです。たぶん原稿どおりではないはずで、出来たら訂正し
てほしいです>月刊センター様。
しかも更新で上書きされてしまって、連載前回分の「真っ白症」が読めなくなっています。バックナンバー
も読めるようにして欲しいです。


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