こういうHPをやっているおかげで、最近いろんな方から眉村さん情報をいただけるようになりました。ありがたいことです。 さて、今日ご紹介するのは、眉村さんの珍しい新聞書評です。 新聞の切り抜きを頂いたのですが、実はご提供下さった方も何新聞だったか記憶しておられず、日付も判りません(神戸新聞の可能性が高いそうですが)。 ともあれいずれかの新聞の文芸欄でありましょうか、「20世紀ブックレビュー」というタイトルが付いています。おそらく21世紀に残したい本という企画であったと思われます(したがって2000年の末頃のものかと推測されます)。 そのSFの項を眉村さんが担当されたのではないでしょうか、「今世紀の目がとらえた未来」という見出しが付いています。 眉村さんは、まずSFなら、みんな21世紀に伝えたい。と説き起こされます。「SFこそ20世紀と共に歩み、発展し、変貌してきたものだからだ。それに、20世紀の目が未来をどうとらえようとしていたかも、わかってもらえるからである」。 そうして実際に挙げられた作品が、「華氏451度」と「都市と星」です。 いかにも眉村さんらしいバランスの取れたセレクションと思いませんか(^^)。 この眉村さんの記事、ご存じの方はいらっしゃいませんか? 何新聞のいつ日付の記事か、お知らせいただければ幸甚です。 いつも手抜きばかりで相済みませんが、よろしくです(^^;ゞ。
竹島将『ファントム強奪』(講談社文庫)読了。 先日読んだ『ネオ・ゼロ』は字で書いた映画でしたが、本書はさしづめ字で書いたマンガ(劇画?)やね(^^;。 マンガなんだからこんな事を言うのは筋違いなんでしょうが、作中人物に全然立体感(陰影)がない。特に女の描写がなってない(と私は思う)のでした。ここまで存在感のないヒロイン(まあ脇役なんだけど)も珍しいのでは。 ――といったことを除けば、一応読ませます。マンガなんだと思って読めば、そこそこ楽しめる(ゴルゴ13程度には)仕上がりにはなっています。まあpastime(文字通り)に最適な一冊でしょう。 主人公がF4EJファントムを飛ばすのは、実に最後の10ページだけ(^^;ゞ。最終場面は絵的には決まっていますが、荒唐無稽であるのは間違いない(^^;。 続篇への惹きは完璧。これは続きを買ってしまいますな(^^;。 閑話休題、今日久しぶりに阪急百貨店を覗いたら、書籍売り場が9階に追いやられていた。創元文庫とハヤカワ文庫で柱の裏3尺一本はあんまりでは(泣)。
yagyuさん よろしくお願いしますm(__)m>神戸新聞 戸田さんの絵、見せてもらいました。 3枚ともいいねえ、いわずもがなですが(^^)。 私は「風のない日」が特によかったです、なんかマグリットみたいで(^^;って書くのは失礼でしょうか? でも多分戸田さん、確信犯ですね。 ○風のない日 ○ひとり旅 ○LILLY BOOKS 最近、レオン・ラッセル「カーニー」を聴いています(日課・一日一回(^^;)。 聴けば聴くほど、渋いねえ(^^)。売れ線狙いのタイトロープやマスカレードより、シンプルで土臭いマイ・クリケットが好み。これはアメリカの長渕剛だな(ホントか)。
神戸新聞、ちゃんととってあります。すぐに郵送の準備をします。 「風の翼」の戸田さんの絵を変えましたので、見てくださいね。
神戸新聞に眉村さんの記事が載っているとの情報をメールで頂きました。 本日9月27日の神戸新聞の朝刊に、 「闘病の妻に1500話 1日1話で作家の眉村卓さん」 という記事が掲載されているそうです。 お読みになった方はいらっしゃいますか? 私の住む大阪南部では、大阪新聞は売っているんですけど、神戸新聞となると、さすがに置いているところはありません(T_T)。 私もぜひ読んでみたいです。現物お持ちの方、コピーを送って下さいませんか(特に神戸在住のyagyuさま、よろしくですm(__)m)。 Y店長 >基本的に脇役が適当です(^^;) そんな感じですね。 ところで、イスラエルの諜報員がずいぶん「いい人」っぽく設定されていますよね。この設定だとアラブ世界は必然的に「わるもの」になってしまいそうな気がします。続編にそんなシチュエーションありません? 私はあると踏んだのですが(^^; どうもこの著者の内にイスラエル○、アラブ×という構図が無条件に刷り込まれているような気がしました。よい子の秀才タイプに多いんですよね偏見ですが(^^;ゞ。 竹島将「ファントム強奪」読み始めました(^^)。
>鳴海章 の初期の小説は「純エンターティメント」といった感じで娯楽作なので 基本的に脇役が適当です(^^;)シリーズの中で設定が変わっちゃったり。 ゼロシリーズの最後にもちょっと伺えるのですが、最近は渋く「男の哀愁」 路線になってて、それもまた良。 >反在士 おもしろかったです。しかし、完全に終わってないような気がするのですが。 「火星人先史」もデュアル文庫ですね。買ってみます。 (私にはデュアル文庫より鳴海章まとめ買いの方が買いにくいです……)
鳴海章『ネオ・ゼロ』(集英社文庫)読了。 最初はいらいらさせられたけど、物語が動き始めてからは一気。面白かったです。 たしかに架空戦記ではないですね。ネオ・ゼロという<未来>なしには物語が成り立たないという意味で、ストーリーも(架空戦記的な)恣意性を免れており、かつ形式としてのSFを満たしていますが、これは素直に国際謀略/航空小説として楽しんだらいい話ですね。 基本的に「字で書いた映画」なんで、悪者は悪者、でオッケーなんですが、トリプルスパイの人はなぜそうなったのか、金なのか、掟というか親の遺言なのか、思想なのか、を書き込んでくれたらもっと必然性が出たのではないか、とは思いました。ちょっと絵空事に過ぎたように感じたのでした(^^;。
Y店長 ご教示ありがとうございます。 私、自分の記憶にほんとに自信をなくしてしまいました(とほほ)。 >大阪版とは違うのかも……。 そんなことはありえないでしょう(^^;。 しかし、それにしても、この、ありありと思い出せる別冊3面の眉村ショートショートの映像は、一体どこから私の記憶にやってきたんでしょう??? 川又千秋(わたし的)ベスト3 1 火星人先史 2 亜人戦士(1) 3 反在士の鏡 (補)海神の逆襲/赤道の魔界/幻獣の密使(のうちの1冊。どれでも可) (別)幻詩狩り いや、3冊に収められませんでした(^^;。
>C席の客の連載は、日経の本紙ではなく、別刷(というのでしょうか)の >読書特集(の3面)だったと記憶しているのですが 縮刷版で見た限りでは普通の朝刊の27〜28面くらいの場所でした。 「サラリーマン」という特集で(「家庭」みたいな)周りは「会社で役立つナントカ」 みたいな記事でしたよ。大阪版とは違うのかも……。 「反在士」私も今読んでます。デュアル、いいですね。 といっても私は古本で集めたものを今更復刊してくれるなんて……もっと早くしてくれ! といいたいです。
アレクすてさん >反在士の指輪 おお、それは面白いですよ! 私は『反在士の鏡』のほうで読みましたが、川又千秋作品としてもベスト3に入れてよい本格SFだと思います。 先頃増補され『反在士の指輪』として上梓されたことは知っていましたが、まだ現物を目にしておりません。でも表紙絵のイメージ、見当がつきます(^^;。 大体、デュアル文庫って、都心の一般的な書店では扱っていないのではないでしょうか? ロードサイドの雑誌とコミックが主体の本屋さんではYA文庫棚で見かけることもありますが、それもたぶん表紙のせいでしょう。 ラインナップに日本SFとしても良質の作品が多いのに、徳間の売り方はまるでYA扱いですね(怒)。 まあ、その戦略判らないこともないのです。 YAの読者が間違って(笑)買ってくれたら儲けもの、そのうちの何パーセントかはSFの方へ流れてくるかも。 てな事ではないかと想像するのですが、それは甘い! と私は思います(^^;。 昔のジュヴナイルはSFから派生した、というよりハインラインもクラークも手がけている歴としたSFの1ジャンルですが、YAは違います。 YAはコミックの庶子なんであり、全然系統が違うものです。コミックの血を引いているから、だからYAはキャラ小説なんですね。 いかにSFのアイデアが盛り込まれていようと、YAの読者の主たる興味はキャラにあるのであり、SF的アイデアは従なんではないでしょうか。当然表紙絵は、中心に主人公と思われる人物の(それもコミックめいた)絵がでんと座った構図にならざるを得ません。 ところが、たとえば「反在士の鏡」ですが、この小説の魅力はキャラとしての主人公の若者(たしかライオンという名前でしたっけ)にあるのではなく(大体この主人公は「活躍」するというよりは「翻弄」されるばかりではなかったでしょうか)、主人公も内に取り込まれた小説の「世界」そのものの魅力であることは疑う余地がありません。 「反在士」は、ジュヴィナイルとはいえるかも知れませんが、YAでは絶対ないです。 このようにYAとJVは一見似ていますが、実は根本的に異なるジャンルであることは明らかです。 したがって、YAの読者が(間違って)購入し読んだとしても、結果その人がSFに遷ってくる可能性は、ないとはいいませんが、営業的に有意な数字には絶対に達しないように思われます。 むしろSF読者層の一番太い部分(30代後半から40代前半)の購入機会を奪ってしまっているだけのように推測します。 デュアル文庫の曖昧なところです(dualって名前からしてヌエ的ですね)。 事実を直視すれば、SFは中年の読み物なんです(^^;。 そういう事実を踏まえれば、SF(出版に携わる人)が参考とするべき道は、むしろ時代小説のほうにあるのではないでしょうか。 新しい血が供給されなければ、SFは腐ってしまう? そんなことはない。SFの血を持つ若い人は(昔と同じ比率で)潜在しているはずです。そんな人たちはいつかYAに飽き足らなくなり、YA棚から大人の棚のほうにやってくるに違いない。私は中学1年生の3学期に、はじめて創元文庫を購いました。 彼らが大人の棚の前に立ったとき、そのときSFがどれだけしっかりと売り場を確保しているか、それが大事なんです。 中年がSFをしっかり下ざさえする(できるような本の供給体制を出版人が考える)ことが新しい血をおのずから呼び込むのではないでしょうか。 そういう意味で、今こそ出版人としての福島正実の仕事を見直すべき時期が来ているのではないか、とさえ思われます。
管理人様、お久しぶりです。 実は私徳間デュアル文庫で川又千秋著「反在士の指環」(「反在士の鏡」の完全版) を買いました。表紙絵がイメージとちがうのですが、まぁ完結編付きというので気楽に読んでいこうと思います。 ではでは。
Y店長 どうもご苦労様でした。 >昭和45.5/1〜46.6/25の毎週金曜日(元旦は休載)の全52回 おやまあ、正月からじゃなかったですか(^^;。しかも日曜版でもないのか・・・ フーム、ちょっと昔の記憶に自信がなくなりました(汗)。 もう少し私の記憶を確認したいのですけど、C席の客の連載は、日経の本紙ではなく、別刷(というのでしょうか)の読書特集(の3面)だったと記憶しているのですが、それはどうでしたか? 第1回(つまり5/1)の1面には星新一のインタビュー(ショートショートもうすぐ一千篇という内容だったような)が載っていたと思うのですが・・・ 早速データを訂正しました。ご確認下さい。→63〜76 ありがとうございました。
C席の客、調べてきました。結論から言うと、連載期間は 日経新聞朝刊 昭和45.5/1〜46.6/25の毎週金曜日(元旦は休載)の全52回 です。イラストはクロイワ・カズ。半年前から始まっていたんですね。 日経の縮刷版には月ごとに主題別目次がついているのですが、 カテゴリが「サラリーマン→ショートショート」でした。 初めは「文芸→小説」で探して「あれ丹羽行雄のしか載ってねえぞ?」 などとちょっとアセりました。うーむアレを読みながら日本のお父さんたちは プロジェクトXな仕事に出かけていったのか……。隣の記事を見たりするのも おもしろかったです。「太陽の塔にたてこもり男」とか。 ついでに「あなたもSF作家になれるわけでもない」も読んできました。 アトムの脚本はやっぱり豊田氏で、「スーパージェッター」の 眉村氏・筒井氏はすぐにアニメ業界から身を引いた、とありました。 私の生まれた頃の日本をすこし知った、楽しい調査でした。
『日課・一日3枚以上』第10巻ですが、パーティでの配布を優先したので、一般購読者分は少し遅れるようです。 定期購読者の皆さん、もう暫くお待ち下さいね。 なお、非常に嬉しい最新情報をお伝えしますと、日課シリーズはすでに1500篇を越えているわけですが、引き続いて11巻以降も出版されるとのこと(^^)。ただし、すこし準備期間をおいての再開になる見込みだそうです。 丁度いい機会ですので、準備期間中に未読を消化しておきましょうね(>おれ(^^;ゞ)。
高井信『超能力パニック』(講談社Jノベルズ)読了。 短編集ですが、これは面白い! <SFアイデアびっくり箱>と副題されています。まさにそのとおりの内容(^^)。 以前『ダモクレス幻想』(出版芸術社)の感想でも書きましたが、著者の短篇の特徴は、等身大のレベルに世界設定したまま、プロパーなSFを起動し回転させ着地させるという、ケレン味たっぷりな大技にあります。 ちょっと見には、軽く書かれているように見えるかも知れませんが、どうしてどうして、実は大変な力技なのです。日常的等身大世界で非日常なSFの論理を貫徹させるというのは、なかなか精妙なコントロールを必要とするのではないでしょうか。阪神星野の超スローカーブと同じでほんの僅かでも球道を誤れば、目もあてられなくなりますが、決まればこれほど大向こうを唸らせるものはありません。本書はまさに読者を唸らせる出来映えになっています。 たとえば、「突然チャック」は、青木睦五郎という大学一年生の男が主人公なのだが、この男は入学以来10回目の合コンも不発で足取りも重く帰宅するのであるが、そういうことが重大事な、まさに平凡きわまる男として描かれており、しかもこの男の意識のレベルは最後までこのままなのであります。 一般にSFの主人公は、たとえ最初は平凡に登場しようとも、小説の進行に伴って、好むと好まざるとに関わらず、天下国家のレベルあるいは大自然宇宙のレベルに意識を拡大していくのが通例で、それは作品世界のSF的拡大に相関するのだが、この短篇では、青木睦五郎の意識は、最初から最後までそういうレベルのまま。 だからこそ、次に現れるSF的アイデアとの落差が大きく、独特のセンス・オブ・ワンダーを放つのであります。星野のカーブが、直球とのスピードの落差が命なのと同じです(^^;。 彼がアパートに帰ってくると、ドアになぜかチャックが付いている。チャックの金具を下ろすとチャックが開き、そこから部屋に入れた。入ってみれば、部屋の中はチャックだらけ。部屋の様々な場所に大小いろいろなチャックがうじゃうじゃいて、それがゲジゲジのように動き回るのだ……。この辺の描写は実にキモチが悪い。「奇ッ怪陋劣望遠鏡」を彷彿。 チャックは分裂で増殖し、どんどん増殖し、大繁殖し、やがて地球の赤道上に集まり、今度は一本に融合する。赤道を一周する一本の長大なチャックと化します。と、突然チャックの金具が勝手に動き出し、数時間で地球を一周してチャックが開くと・・・!! 日常的作品世界と最後のとんでもないオチの落差が、何ともいえぬ効果を上げています(^^)。 ベスト5は、他に 電球のように目玉が切れてしまう不条理小説「点滅の顛末」 テレポーテーションを会得した男がはじめて接触した同類の女性との、束の間の、しかし悲しい顛末が50年代短篇SFを彷彿とさせる佳篇「シャドウ効果」 悪魔と契約した者たちの魂を運ぶ容器にされた男のシェクリイな話「回収の日」 時震で恐竜の時代へタイムスリップした町の住民の身に起こった悲喜劇「突発性タイムスリップ」
眉村さんご夫妻のパーティ、盛況だったようですね(^^)。→堀晃さんの日記 それにしても堀さんの日記にある「フランドルの冬」をパクった(見事に換骨奪胎した)作品って、一体? 「某SF作家の出世作」で「中編」で、「フランドルの冬」ってんだからつまり精神医学でしょ? となると絞られてきますな、て言うか、あれしかないのでは(^^;ゞ でも、「フランドルの冬」、思いだそうとしても何も浮かんでこない(T_T)。「荒地を旅する者たち」は鮮明に思い出せるんですが。(余談ですが、正田昭は「宣告」のモデルです) あれ? 10巻出てるんですね。 Y店長 10巻届きました? うちはまだなんですけど。 >「C席の客」 >休日に調べてきます ご足労さまですが、よろしくお願いしますm(__)m 河本さん 犬養健は読んだことがない、というより全然知識がなかったです。ちょっと検索してみました。高見順が「昭和文学盛衰史」で犬養健の作品を激賞しているそうですね。→http://www.azaban.com/kajika/furusawa/980204.htm >『16歳のセアラが挑んだ世界最強の暗号』 >数学者の日常が分かって面白いですよ じゃあ一丁読んでみましょうか(^^)。
大熊さん 「現代日本文学大系」の犬養健についての解説を読んでいたら、彼は犬養木堂の息子なのですね。それなら、ぼくと縁があります。 犬養首相と僕の母方の祖父の母親が従兄弟同士です。読んでみようかなー。DNAが似ているということが嗅ぎ分けられるかしらん。 白樺派ねー、理系だからそんなもの全然知らない。(^^;) 牧野の作品集買いました。こっちのほうが字が大きくて読みやすい。 森下さんが日記に書かれている『16歳のセアラが挑んだ世界最強の暗号』読んでます。 大熊さんに絶対おすすめ。「コンテスト」の章が数学者の日常が分かって面白いですよ。 アレクすてさん SFの感想のメール、有り難うございます。
こんばんは。 >アトムの脚本?の件 そうですね。かんちがいっぽいです。 ただ情報提供者が今海外なので(^^;)詳しく聞けないんです。 いつも尋ねてばかりで申し訳ないので、「C席の客」を 調べようと思ったら当時の日経新聞を置いているところが 近くの図書館にありませんでした。休日に調べてきます。 「中村うさぎ」のエッセイ、好きです。 続編、週刊文春にて連載してますよ。
『だって、欲しいんだもん!――借金女王のビンボー日記――』(角川文庫)読了。 めっちゃ面白い! 著者は買い物依存症(?)なんだそうで、そのハンパじゃないブランド品等への衝動買いの実態を赤裸々に語っています。75万円のカーテンを買って大いに反省した翌日、今度は90万円のソファーを買ってしまう、あげくが450万円!のカード請求(^^;しかし税金は(取り立てがないので)払わない(^^;ゞ。たしかに「ビョーキ」ですな。 こう書くとなにやら重い鬱陶しい内容かと思われるかも知れませんが、全然違うのです。(弾けるような文章と相俟って)明るいのであります。もう抱腹絶倒ものなんであります。 それは、著者が自分の恥部(でしょう?)を、ここまで暴くかというくらい突き放して、ああ、どうぞこのバカな私を笑ってやって下さいと、徹底的に愚かしくさらけ出しているからだと思われます。 その姿勢はいさぎよい(笑)。上方のお笑いに通ずるものがあるのではないかと思われます。 それにしても、こんな生活はよっぽど神経が図太くなければ出来ない、というか、だからこそ心の病いなんでしょうけど、小心ものの私には絶対無理だなあ(T_T)。
かくのごとく本篇のテーマは幾重にも絡み合ったコミュニケーションの不全と、かかるコミュニケーションの不可能性に耐えられない人間の人間性とのギャップである。完全には分かり合えないということに関しては、人間と人工知能との違いと言えるものはないと著者は考えているようだ。いかにも著者らしいシニックな認識であるが、やはりそういうものなのだろうと納得せざるを得ません。 角度を変えてそれを言い直せば、本篇はみんなが互いに(人間もロボットも)「勘違い」している話としても読めます。こう読むと本篇は悲劇を通り越して喜劇となりますね。底意地の悪い嘲笑者オールディスの真骨頂爆発であリます(^^;ゞ。 おそらく著者はかかるダブルミーニングを意識的に行っています。まったく一筋縄では捕らえられない作家ですな。いいねえ(^^;。
(あらすじ) 第1部 いつまでもつづく夏 未来、人口過剰で4分の3の人々が飢えているこの世界で、ある種の人々は厳しい人口規制を実施する代わりに必要以上の食物を摂取している(できる)。彼らは大量の食物を腹に入れるのに、みな優雅にほっそりとしている。それはかれらがいくら食べても肥満しないように人工サナダムシ(!)を小腸に飼っているからだ(この辺の小道具の出し方がいかにもオールディスらしい)。 この人工サナダムシを売り出し、一財産築いたヘンリー・スウェントン夫妻は出産許可する親権くじになかなかあたらず、その代理にデイヴィッドという5歳の人工知能(A.I)を持つアンドロイドを息子として養育している。 だが、5歳のアンドロイドはまだ完璧なものではなく、しかも成長することはない。母親のモニカ・スウェントンは彼を愛そうとするが、その違和感に苦しめられている。その精神の失調はヘンリーが仕事一筋で家庭のことを顧みないことも一端を担っている。彼女の意識はデイヴィッドにも伝わりデイヴィッド(自分がアンドロイドとは知らない)の方も意識では母親を愛そうとするも何となく母親を避けている。彼のたったひとりの親友は、さらに単純な応答機能しかないテディというぬいぐるみのクマ型ロボットだけ。デイヴィッドはテディも(自分同様)ホンモノだと信じ込んでいる。デイヴィッドは常にホンモノとニセモノの区別が気にかかっている。 やがて夫妻に親権くじに当たったという連絡が入る。 第2部 冬きたりなば せっかく許可された赤ちゃんは、既に死んでしまっている。 相変わらずヘンリーはワーカホリックで、夫婦の会話は噛み合わない。モニカとデイヴィッドの会話と同じように。 モニカは孤独である。そういう精神状態のモニカが唯一気に入っていた従僕アンドロイドが事故で壊れ、デイヴィッドが、あれはただのアンドロイドだからすぐ別のが買えるといって慰める。その言葉に我を忘れて、モニカは「あんただってアンドロイドのくせに」と言ってしまう。その言葉にデイヴィッドが「切れる」。 このシーンがすごい。デイヴィッドは自分がホンモノであることを証明するために、同じくホンモノ(だと信じている)テディの腹を開け、結局テディがキカイであることを知り、同時に自分もホンモノではないことに気づく。逆上した彼は家のコントロールセンターを壊してしまい、(仮象の)庭も家も消滅してしまったあとに瓦礫と古い舗道(コカコーラの缶がころがっている)が姿を現すのだ。 母親の死体の上でデイヴィッドはこう呟く。「ぼくは人間だよ、ママ。ママを愛してるし、ほんとの人間のように悲しいんだ。だから、きっとぼくは人間だよ、そうでしょう?」 第3部 季節がめぐりて ヘンリーは失脚する。そうするとすべてが彼からさっと退いていった。一方デイヴィッドは「廃品地区」すなわち用済みになったキカイたちが暮らす一種の町に送られてきている。 ヘンリーはすべてを失い、はじめて死んだモニカを思い出す。モニカにオモチャの子供を与え、欺いていたことに気づく。そしてモニカを愛していたデイヴィッドに思いが至る。デイヴィッドは愛する妻の慰めだった(これは勘違い。ヘンリーはわかっていない。当然ながら)。彼は「廃品地区」でデイヴィッドを見つける。彼はデイヴィッドに言う。「おまえはテディやモニカを愛していたと思っているだけだ」 デイヴィッドが聞く。「モニカを愛していた?パパ」 かれはいう。「愛していたと思う」 彼はデイヴィッドをヴァージョンアップするため、彼に唯一残されたアンドロイド製造工場につれていく。そこでデイヴィッドは無数の彼自身を見つけ、自分が工業製品であることを理解するも、そのショックで機能を停止する。 デイヴィッドは脳を交換され(但し記憶は引き継がれ)再生される。テディ(但し工場に置いてあった在庫品のひとつだが、記憶は移し替えられている)がかたわらにいる。デイヴィッドが目を覚まし、父親は彼を抱え下ろす。デイヴィッドとテディは驚いて見つめ合い、そして抱き合う。 ――その様子はまるで人間のようだった。
ブライアン・オールディス「スーパートイズ」(『スーパートイズ』竹書房文庫、所収)を読む。 オールディスらしいひねくれた嫌らしい作品(^^)。甘美な結末にダマされてはいけません。 あまりにも面白い話なので、浜村純みたく全部書いちゃいます(これから読もうと思っている人は気をつけて下さい。もっとも、これはミステリじゃなくSFなんで、あらすじが判ったって、面白さが半減することはありえませんけど)。 (分割します)
河本さん >標準的な科学的世界観による世界の読み方とは別の、 >もう一つのずっと面白い世界の読み方が、この本を参考にすれば出来ます。 フーム、科学的なトンデモ本(形容矛盾?)というスタンスでしょうか? いや、私はトンデモ本けっこう好きなんです(^^; ちょっとはずれますが、小松さんの「こういう宇宙」は宇宙の定数がこの世界とは異なった世界での話でしたっけ。 >テスラ おお、私も先日、NFじゃなくSFですけど、ニコラ・テスラに材をとった『発明皇帝の遺産』新戸雅章(ノン・ポシェット)を購入したところです(^^)。
この手のガイドブック(ジャズだけでなく音楽一般における)を、私は全く読んだことがありません。というのも、ジャズと言ってもイージーリスニングからフリーまで裾野が広く、かたや当方の聴くものはジャズの領域の中でも、非常に偏ったごく狭い範囲に限られているので、そのような体系的な知識を必要としなかったからということもあるけれど、むしろジャズ(に限らず音楽)は聴くものであって、読むものではないだろう、という気持ちが強いからでもあります。 したがって私にはジャズの体系的な知識が殆どないのです。 今回たまたま図書館でパラパラとめくっていたら、ローランド・カークに関する記述(といってもわずか数行ですが)を見つけ、何となく読み出したのでした。 というわけで、半分くらいは右から左へぬけてしまうような読み方になったわけですが、ちょっとなかなかおもしろい記述があったので書き写しておこうと思います。 まず作者はベン・ウェブスターの演奏はジャズと呼ばれるのに、同じテナーサックス奏者でもシル・オースティンやサム・テイラーの演奏はムード・テナーとか呼ばれて、ジャズとは呼ばれないと前振りします。 ――変な話、なのである。同じ曲で同じように聞こえたとしても、一方はジャズで、もう一方はジャズではない。一体どういうことなのだろう? ジャズとジャズでないものとのあいだには、初心者には見えない壁が何かあるのではないか。 (中略) 実際には、そうした壁などは全く存在しないのだが、しかし、そうは言っても、音楽を組み立てる方法論や感覚の違いはある。だからジャズはジャズと呼ばれ、似てはいるけれどあれはジャズではない(強調、大熊)、という言い方も可能となってくる。 では、その演奏方法の違いとは? と、もしそのことに疑問を持ったとしても、最初はただ何も考えずに聞き続けるだけでいい。それだけで、いつのまにかその違いが聴き取れるようになって来る(強調、大熊)。それがジャズという音楽のまたおもしろいところなのである。―― なんか既知感があるでしょう。そうです、この言葉、ジャズをSFと言い換えても通ずるのですね。 「あれはジャズではない」→「あれはSFではない」(^^;ゞ 著者の主張は(現実的に)正しい。当然「いつのまにか聴き取れるようになってくる」はSFにも当てはまるわけです。読み続けりゃ、そのうち判ってくるものだ。 ところがSFの特殊(?)な点は、SFファンはSFファンになるや否や、その区別を体系付けたいと、皆が皆、考え始めるところなんですね(^^;。つまり「SFとは何か」を考え始めないファンは、まだSFファンではない、、、のかも知れません。いや冗談ですが(汗)。
大熊さん 「火星の謎」学研、も買いました。面白かったです。 この現実の世界を、「物語」だと思ったりはしませんか? 標準的な科学的世界観による世界の読み方とは別の、もう一つのずっと面白い世界の読み方が、この本を参考にすれば出来ます。 ただ、その読み方=思考法を日常生活にはけっして持ち込まないように。(^^;) ふーむ、火星の空は青く、気圧は地球の1/3で、草花は生え、火星人も棲んでいるのか。 さてさて僕はこのあいだ本の山を掘り返して見つけたテスラの本を読むことにします。今気に入っているSFは「この世界」なんです。(^^)
昨夕は畸人郷。 その席で、「日課」読んだよ面白かったよ、賞賛のお言葉を賜りました(^^)。 「SRの会」の大会(?)で販売されていた由。 そうなんですよ、日課シリーズは面白いのです(自慢)! 仕事の合間に気分転換に読むというのもいいです。サクサクよめてあとに残りません。もうひとつ、もうひとつとなるのが難点ですが(^^;。 閑話休題。 『C席の客』ですが、気になったので少し考えてみました。 データを出します。 (A) 『C席の客』は、71.8.11に日本経済新聞社から出版されました。 (B) ショートショートが52篇収録されています。 (C) もともと日経新聞に連載されたものです。 以上は100%確実なデータであり前提条件です。 さて、今回ご提供いただきました中島河太郎編「戦後推理小説総目録」日本推理作家協会(昭和50年5月30日発行)によりますと、連載期間は (D) 71.1/16〜6/25となっています。 ――カレンダーを確認したところ、71.1/16は土曜日、6/25は金曜日でした。 次に私の記憶です。 私の記憶によれば (1)眉村さんの日経連載はたしか<日曜版>でした(毎週楽しみにしていたので間違いないと思うのですが)。 (2)連載の開始は<元旦>でした(但し(1)より確信性におとります)。 ――カレンダーによれば71年は1/3が最初の日曜日ですので、一応私の記憶は妥当性があります。 ここから推測です。 本書には(B)52篇収録されているわけですから、もし(1)が正なら当然連載は52週に亘ったのではないでしょうか?つまり丁度一年間ですね。 しかしデータによれば71.1/16から6/25ですから連載は半年間となります。 次に52篇を1/16〜6/25(71年は閏年ではないので、1月=15日、2月=28日、・・・6月=25日。計160日)で連載するというのは、約3日に一篇ということになり、現実的でないように思われます。 以上より、71.1/16〜6/25というデータは誤りではないか、という見解に傾いたのでしたが…… ガーン!! (A)単行本『C席の客』の発行年月日は、71.8.11!! 私の推理は大前提を満たしていないではありませんか(汗) アリャアリャ(^^; とすると、やはり週1連載というのが、もともと記憶違いなのかな? 何かご存じの方、ぜひ情報をお寄せ下さいませ。
Y店長 >「眉村卓は昔虫プロにいてアトムの脚本を書いていた」 そういわれればそんな気も一瞬した(^^;ゞ付和雷同の管理人ですが、くだんの大魔人ならぬ某大恩人(^^)さまから情報を頂きましたので、お知らせします。 結論としては「眉村さんが虫プロに所属していた」という事実はおそらくないのでは、とのこと。まあ、外注として、アトムのシナリオを執筆したことがあるのかもしれませんが…… 知人の方は豊田有恒と混同されているのではないでしょうか(豊田さんが虫プロ社員だったことは有名です)。 むかし徳間書店から出た豊田さんの本「あなたもSF作家になれるわけではない」を読めば、そのあたりのことが明らかになるのではないか、とおっしゃっておられましたが、私は奇想天外の連載時には熱心に読みましたが、本は持っていません。もしお持ちでしたら、ぜひご確認を。
―――――――――――― ○慶應義塾大学推理小説同好会編「宝石作品総目録」慶應義塾大学推理小説同好会(昭和48年3月25日発行)より―― 「目前の事実」本誌37年11月 「出会い」本誌38年12月←これは判りません。大熊註 「くり返し」別冊107号/ショート・ショートのすべて(第14巻4号) 「影の影」別冊122号/世界のSF傑作集(第16巻8号) 「悪夢の果て」別冊3月/特集・世界のSF(第17巻3号) ○中島河太郎編「戦後推理小説総目録」日本推理作家協会(昭和50年5月30日発行)より――(「SFマガジン」掲載作品は省略) 「ショート・ショート集」ヒチ36・5(ヒチ:ヒッチコック・マガジン)←これは判りません。大熊註 「古都で」ヒチ36・6←これは判りません。大熊註 「お別れ」ヒチ36・7 「夜のたのしみ」ヒチ36・8 「雑種」ヒチ36・10←これは判りません。大熊註 「世界は生きているの?」ヒチ37・6 「目前の事実」宝石37・11 「われらの未来」ヒチ38・1 「出会い」宝石38・12 「悪夢の果て」別宝39・3(別宝:別冊宝石) 「紋章と白服」別宝39・5(なぜか「宝石作品総目録」には載っていませ ん) 「暗い渦」小現40・5(小現:小説現代) 「セールスマン」推界42・7(推界:推理界) 「針」推界43・12 「むかで」推界44・1 「蝶」推界44・2 「できすぎた子」推界44・3 「モデル・コーポ」週刊言論44・3/12 「やめたくなった」推界44・4 「機械」推界44・5 「コピーライター」小ク44・6(小ク:小説クラブ) 「信じていたい」推界44・6 「サルがいる」推界44・7 「風が吹きますか」小ク44・10 「酔えば戦場」小ク45・3 「あの真珠色の朝を……」小新45・5(小新:小説新潮) 「悪夢の日」週言45・5/15 「隣りの子」週カ45・7(週カ:週刊朝日カラー別冊) 「緋と銀のバラード」サンデー46・1/10−2/7(サンデー:サンデ ー毎日) 「ショート・ショート」日経新聞46・1/16−6/25 ←「C席の客」ですが、不審です。理由は本文に書きました。<大熊註 「真昼の断層」小新46・3 「もと級長」問小46・5(問小:問題小説)←これは判りません。大熊註 「直感」別小宝46・6(別小宝:別冊小説宝石) 「狂った夜明け」小新46・7 「青い道化」推理46・8 「錯視症アニマル」別小宝46・9 「ワルのり旅行」推理47・3 「われら恍惚組合」週朝47・9/29(週朝:週刊朝日) 「主任地獄」別小新48・7(別小新:別冊小説新潮) 「教えてくれ」問小48・9 「トドワラの女」小ク48・11増 ○朝日ネットの会議室に旧「NULL」の総目次(平石滋編)が掲載さ れています。眉村作品を抜粋してみました。 「墓地」NULL5号(1961・10・1発行)←これは判りません。大熊註 「傾斜の中で」同上←これは判りません。大熊註 「あなたはまだ?」NULL6号(1962・2・1発行)←これは判りません。大熊註 「目前の事実」NULL7号(1962・7・1発行) 「静かな終末」NULL8号(1962・12・1発行)←これは判りません。大熊註 「錆びた温室」NULL9号(1963・5・1発行)←これは判りません。大熊註 「エピソード」NULL10号(1964・1・1発行) 「悪魔の世界の最終作戦」(筒井康隆と共作)NULL臨時号(1964・9・1発行)←これは判りません。大熊註 ○現在手元にあるSF同人誌から眉村作品を―― 「午後」パラノイアNo.7(昭和40年7月25日発行) 「ある夜のめざめ」SFストーリイ創刊号(昭和46年6月1日発行)←これは判りません。大熊註 ―――――――――――― 以上。 <←これは判りません。大熊註>と付した分、単行本未収録か、改題されたかだと推測します。心当たりのある方はご教示下さい。
某眉村卓ファンの方からご提供いただいておりました初出誌データを、今ようやくアップいたしました。 大半が「眉村卓著書リスト63〜76」への増補ですが、一部「77〜84」にも追加しております。 某眉村卓ファンさまには、大変お世話になりありがとうございました。ひきつづき、よろしくお願いいたしますm(__)m。 気をつけて打ち込んだつもりですが、ミスがあるかも知れません(実はよくあります(^^;)。 以下に頂いたリストをコピーしますので、どうかみなさまでチェックをお願いいたします。 なお、拙リストにも註として記していますが、 「宝石作品総目録」からのデータは末尾に* 中島河太郎編「戦後推理小説総目録」からのデータは末尾に: 朝日ネットの会議室に掲載されている旧「NULL」の総目次(平石滋編)からのデータは末尾に# その他同人誌関係(パラノイア)からのデータは末尾に% を付していますので、検索にご利用下さい。 長くなりましたので分割します
初出情報、期待しています。 ところで知人から「眉村卓は昔虫プロにいてアトムの脚本を書いていた」 との情報をいただいたのですが、眉村先生の書いたアトムってあったんでしょうか? 私が検索した範囲では「スーパージェッター」しか見あたらなかったのですが。 (「スーパー」は見てないんですが……)分かりましたら教えてください。
またまた新情報が!(^^) 朝日ネットの会議室に旧「NULL」の総目次(平石滋編)が掲載されているそうです。 そこから眉村先生の作品のみを抜粋したリストを送っていただきました。 ↓ 「墓地」NULL5号(1961・10・1発行) 「傾斜の中で」同上 「あなたはまだ?」NULL6号(1962・2・1発行) 「目前の事実」NULL7号(1962・7・1発行) 「静かな終末」NULL8号(1962・12・1発行) 「錆びた温室」NULL9号(1963・5・1発行) 「エピソード」NULL10号(1964・1・1発行) 「悪魔の世界の最終作戦」(筒井康隆と共作)NULL臨時号(1964・9・1発行) さらにさらに、 「午後」パラノイアNo.7(昭和40年7月25日発行) 「ある夜のめざめ」SFストーリイ創刊号(昭和46年6月1日発行) おお、どんどん視界が開けていくような気分です(^^)。 それにしても、筒井さんとの共作があったなんて・・・ いったいどんなお話なんでしょうか?興味津々です。 ――などといっているうちに、また新たな情報が!! >「悪魔の世界の最終作戦」(眉村卓との合作, > のちに、筒井康隆担当部分を独立させて > 「悪魔の契約」とした。 とのこと。うーむ、「悪魔の契約」ってどんな話でしたっけ、にわかに思い出せません(^^;ゞ。 ともあれ貴重な情報をありがとうございましたm(___)m。 あとはこのすばらしい情報を最大限に生かしたコンテンツを、どうやって作るかだな。責任重大だ(汗)。
さる方が眉村作品の初出誌リストを作って送って下さいました。 今まではハヤカワ文庫版の各短編集に眉村さん自身が付された脱稿日のメモを拾い上げてはいたのですが、初出誌データはお寒い限りでした。 おかげさまで初期の眉村作品に関しては、ほぼ掲載号を網羅できるのではないかと思われます。 労作をありがとうございました。 なお、データの更新はぼちぼちすすめたいと思います。15,16日の連休でどこまでやれるか、さて(^^;ゞ。
>デクスター・ゴードン「アワ・マン・イン・パリス」 聞き慣れたからか、そんなに悪くないように思えてきました(^^;。 でも、まだぼんやり聴いていると眠ってしまうぞ。 50分くらいあるんですが、ライブならぬステレオ鑑賞では、かれの技量では長すぎるのかも。 輸入盤なのでライナーを何とか解読(汗)していたら、最後の2曲はCDのボーナストラックらしいことが判明。そうそう、この2曲分が多すぎるのですよ(だいたい、このあたりで意識がなくなる(^^;)。
「十牛図」ではなく、「自覚の現象学」でした。
河本さん >かなり利己的な所有感を持っているように思われます うぐ、おっしゃるとおりですね(汗)。 私の所論には「他者」が完全に抜け落ちてますね。 上田閑照も上のような私を「我(が)」と名付けて私の否定的な変容態であるとし、現実的にはほとんどの場合そうなっている、と書いてます。 「私は私ならずして私である」 の「私ならずして」、即ち私の内なる「他者」をどう組み込んだらいいのか・・・もう少し考えてみます(^^;ゞ。 >点我 について、正確に理解してくれたのは河本さんが初めてです(^^;。うれしい。 ただし点我というのは私の造語のつもりでしたが、西田幾太郎の主要なタームらしいです。意味するものが同じかどうかはまだわからない。 上田閑照には「十牛図」という論文があります。学生時代ゼミで読まされたのですが、ギブアップしたような(^^;ゞ Y店長 >本籍は本格推理(s40年代) というと、森村誠一「新幹線殺人事件」とか? 西村京太郎や斎藤栄もこの当時は本格派だったのではなかったでしょうか。よく知りませんが(^^;
当掲示板8月22日(水)の私の書き込み「勘違い?」で、私は次のように書きました。 >ところで眉村さんの宝石(旧宝石)初登場は、「悪夢の果て」でした。 >これはテレポーテーションを企業小説に導入した傑作なんですが(掲載号は不明)、 >脱稿は63年12月25日であることは判っています(拙HP眉村卓著書リスト【一般小説(63〜76)】)参看)。 >つまり小松さんが「愚行の輪」を書き上げた時、眉村さんはまだ宝石への登場を果たしていないのです この記事について、さる方から次のような情報を賜りました。 すなわち、「悪夢の果て」は、「別冊宝石」の昭和39年3月号「特集・世界のSF」に掲載されたものである由です。 3月号なら実際の発売は1月下旬の筈。脱稿が前年のクリスマスということですから、時系列的にもピッタシカンカン(^^)。 さっそく、著書リストを訂正しました。→眉村 卓 著書リスト【一般小説(63〜76)】 貴重な情報のご提供、感謝いたします。ありがとうございましたm(__)m。 他にも何かありましたら、御一報下さい>ALL 河本さん、Yさん 済みません、レスは明日にでも(^^;。
ども。今日は出張でちょっと疲れています。 >若いって (^^;)これを書いた頃は「自分ももう若くない」なんて思うことが重なったので……。 深い意味はありません。 >神津本 私はちょっと加わっているだけで、主催者は別におられます。 でもこの辺のミステリ、好きなんですよ。本籍は本格推理(s40年代) のつもりなんですが……いつのまにかSFに出張。 まだ原稿募集中みたいなので我こそは、と言う方がいらしたらご連絡ください。
大熊さん >「私の範囲論」を読んであれこれ思うこと。 普通、自分の身体や恋人が「私の範囲」に含まれると考える場合、人にはそれらの物を所有しているという意識があるのではないでしょうか? ほんとうに相手を思いやり、愛するがゆえに、恋人も自分のことのように感じられるというのではなく、恋人は自分のものだから、他人と親しくしていると嫉妬を感じたり、自分の思い通りにあってくれと願ったり……、かなり利己的な所有感を持っているように思われます。じぶんの身体についても愛していると言えるでしょうか?お酒を飲みたばこを吸い健康に悪いことをしても、自分の身体なのだから好きにしても構わないだろう、と勝手に考えたりしますよね。 この考え方で行く限り、どんなに私の範囲を広げても仏陀やキリストの全体我にはたどり着かないと思います。 大きさのない分析する私……点我というのは面白い言葉ですね……の構造や実体を知ることこそ、「自分を探求する旅」なのでしょうね。 私のうち、個性に属する物……知識、性格、才能、経験、歴史、環境、人間関係、などなど……をすべて捨て去り、物を認識し、思考し、表現することを抽象化したものがチューリング・マシンなのでしょう。 この抽象化された私はロボットでも持ちうる「私」です。 これは確かに私の一つの本質ではありますが、価値あるものさえも捨て去った実体ですね。 もう一つの道は、何一つ捨てることのない禅の悟りのようなものが、その候補でしょうか? 田中さんが「銀河帝国……」の中で、数字の、1,2,3……が何を表すかを空海に言わせている場面で、アホな説明の中ただ一つ浮いている0の表現するものが禅の十牛図の一つの円相のことだろうと思うのですが、この図は自分探しの段階をとても良く表しています。 http://www.sun-inet.or.jp/~khattori/new_page_46.htm えーと、ぼくの段階は「見牛」のあたりかな?なにしろ、自分を捜すということの意味を理解したのさえずいぶんあとのことですから。(^^;) このHPの主を全然存じ上げないのですが、良い解説なので無断で拝借します。(^^;) 道具のこと 前にこんな書き込みをケダBBSにしたことがあります。 > 空耳博士 このあいだ書き込んだ計算は、Winが凍っても良いようにプログラムを書き換えて、RUNしております。アイドリング・タイムを使って計算させているので、今1/5ぐらいのところです。牧野淳一郎さんのGRAPEのようなマルチCPUのスパコンを使えば、10分ぐらいで終わるんですけどねえ。 コンピュータに計算させてると自分が仕事しているみたいに感じますね。パソコンのCPUが身体の一部になっている人って少ないだろうな。 あっそうだ、メモリーをたくさん積むのはできません。何故かというと、森下さんの5月29日の日記に引用されているように、パソコンのケースを開けると、シャーシに納豆をぶちまけたくなるとゆー持病があるので。(^^;)
「どっぺるげんげる」(異形コレクション『夢魔』所収)を読みました(立ち読み(^^;)。 いいねえ! 小説の愉しみとはこういう話をいうのでしょうね。 前に読んだ異形作品(「さん候」で終わるやつ)も一頭抜きんでていましたが、この路線(和もの怪談?)、ずっと続けてほしいですね。 でもこれは厳密にはドッペルゲンガーじゃないですね(^^;。 そういえば私も昔ドッペルゲンガーSFを書いたな。時間があったらアップしようかな。実はドッペルゲンガー解釈にちょっと自信があったりします(^^)。
>長部日出雄の「津軽よされ節」を読みました。 >集中「津軽じょんから節」はジャズ小説にも通じる面白さで感心。 これは面白かったですねえ(^^)。 読んだのは学生時代で、相当昔なんですが、非常に印象が強烈だったからでしょう、(高橋竹山は有名ですからともかくとして)岸田りんしょうえ(さすがに漢字は忘れましたが)という名前(あってますよね)をいまだに覚えています。 竹山は聴いたことがあるのですが(ナマはない)、打楽器のように弾いたという岸田りんしょうえは、一度聴いてみたいと思いながら、いつの間にか忘れてしまっていたことを今思い出しました(^^;。 >演奏対決とかあって、津軽三味線は聞いたこと無いけどフリージャズみたい。 実際、竹山はすすんで他流試合をしたはずで、たぶんジャズの人ともセッションしていたのではないでしょうか。 太棹から発する野太い音は充分西洋楽器に拮抗するものでした。早弾きも凄いです! >長部日出雄は他の本も読もうと思いました。 ああ、私もこの本しか読んでませんねえ(^^;。 >SFでもなんでもない話題ですみませんでした。 とんでもないです。この小説もすっかり忘れられていますよね。土田さんの書き込みで、若い人が関心をもってくれることでしょう。これからもどんどん紹介して下さいね。よろしくお願いします。 もっとも、うちのような微小掲示板では、影響力はほとんどありませんので、土田さんの購書日記で、ぜひ感想文をお願いしておきますね(この前の「運転士」のは、本当にいい書評でした(^^))。
長部日出雄の「津軽よされ節」を読みました。 集中「津軽じょんから節」はジャズ小説にも通じる面白さで感心。 演奏対決とかあって、津軽三味線は聞いたこと無いけどフリージャズみたい。 (作中人物の口でジャズとは違うと言ってますが) 長部日出雄は他の本も読もうと思いました。 SFでもなんでもない話題ですみませんでした。 http://www.02.246.ne.jp/~pooh
http://www.02.246.ne.jp/~pooh
という記事が、今日の読売新聞朝刊(2面)に載っています。 道具で物に触れたとき、人はその感触を「手先」ではなく、「道具の先」で感じている。 という研究成果をつくばの産業技術総合研究所がまとめ、米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス」に発表したのだそうです。 道具と肉体が一体化する主観的な感覚は報告されており、今回この感覚を脳の働きから実証したとのこと。 先日、「私」(体験我)の範囲が身体にとどまるものではないということを書きましたが、上の記事はその傍証になるものかも知れません。 現象学的な(私の)体験構造の反省は往々にして科学知を先取りすることがありますね。 月刊センターさんHPの眉村卓ショートショートが更新されています。 今月の作品は勧誘電話。 仙人の話なんですが、作品そのものも肩の力が抜けていて、タイガース星野のスローカーブばりの飄々とした一球でした(^^;。 Y店長の眉村卓ワンダー・ティー・ルームも読書月記が更新されています。 それにしても店長に「若いっていいな」なんてしみじみされますと、「おいおい、このオレはどうなるんだよ」とツッコミたくもなる訳でして(^^;ゞ。 なお、Y店長の高木彬光・神津恭介本が12月刊行予定とのこと(^^)。楽しみです(^^)。関心のある方お問い合わせください。 私もヘテロ読誌7月8月分をようやくアップしてもらいました。またもや2か月分一挙掲載!(単になまけただけ(^^;)しかも小説は1篇のみという体たらく。とほほ。
ここ数日、本を読まずビデオを見たりCDを聞いたりしています。 昨日は「沈黙の戦艦」、一昨日は「セブンスデイ」。前者は個々のシーンは魅せるので最後まで飽きさせないが、つながりと流れが悪い。凡作。 後者はSF的にツッコミどころ満載(^^)。大体、合成(培養?)された身体に人格をコピーするのはクローンじゃないでしょう(^^;ゞ。うちの娘がいってましたが、コピーが生き残っても、結局オリジナルは死んでしまうのだから、つまりオリジナル自身の意識はそこで途絶えるのだから、生きながらえたことにはならないんじゃないかと。まったくそのとおりで、これは突き詰めたらイーガンになりますね。 デクスター・ゴードン「アワ・マン・イン・パリス」はやはり古色蒼然でした(彼は昔の彼でした)。辛うじて「スクラップル・フロム・ジ・アップル」だけは曲自体のノリの良さで聞けましたが、これも最近の愛聴盤「ブルース・ムーズ」でのブルー・ミッチェルのプレイと比べれば雲泥の差。 ジェファーソン・エアプレイン「フィルモア・ライブ」は、残念ながら聞き終えることが出来なかった。「時代」を共有したもののみが感動できるのかも(^^;。
眉村先生の先日のテレビ出演について、名張人外境ご主人・中相作さんが、今日の日記(人外境主人伝言)で触れられています。 天下御免の無断引用、ぶちかまします。中さん、ごめんなさいね。 眉村さんも「快老のすすめ」などという企画に引っ張り出されるご年配になられたかとうたた感慨に堪えませんが、テレビ画面で拝見していると、こんなことを書き連ねるのはじつにじつに気恥ずかしいのですけれど、ああこの人はきょうまでつねに誠実に生きてきたのだな、みたいなことが眉村さんの顔や表情や声つきや話の内容から実感された次第です。 そういえば「けむりの悲憤慷慨」の朗読もありました。なにしろ眉村さんは俳人でもあり、俳句の世界では「句ととのわずんば舌頭に千転せよ」などということがいわれておりますから、眉村作品の朗読が耳に心地よいのも当然だと思われます。 後半は本掲示版の8月30日の私の書き込みに対する反応です。 私は、少なくとも初期作品の文章に関しては、たしかによく彫琢されたものだと思いますが、中期(私見では作品集「あの真珠色の朝を」以降)の文章は、より平明になっていった分、しかし凝集度は低下していて、「眉村さんは推敲という作業をしないのだろうな、推敲をしなくてもこの文章なんだな、すごいなあ」などと感心していたのでした。 しかし音読という要素はぜんぜん念頭に浮かびませんでした(そういう習慣が私には全くないので)。 なるほど(^^;、初期の(ある意味かたい)文章がどんどんやわらかい平明なものに変化していったのを、私は凝集度の低下としてしか認識していなかった。ところが音読という部面において眉村さんの文体は初期より一貫していたのですね。というか俳人であり続けておられるわけか……。ああ、不覚でした(^^;ゞ なお、森下一仁先生も、HPの8月30日の日記で、眉村さんのテレビ出演を取り上げて下さっています。