【掲示板】


ヘリコニア談話室ログ(2003年4月)


南湖さんの大宴会 投稿者:管理人 投稿日: 4月28日(月)20時38分18秒

昨日は、旭堂南湖さんの大阪府舞台芸術新人賞受賞記念の大宴会でした。
2時半に天王寺で集合し、飛田新地の、大正時代にタイムスリップしたかと疑う色街を通り抜け(もう営業していたのにはびっくり。しっかしかわいー子ばかりですな(^^;)、たどり着いた「鯛よし百番」は、大正時代の元遊郭を改造したという、いかにもそれっぽい風情たたずまいでした。

3時から始まり、まずは南湖さんの探偵講談「海野十三一代記」を聞く。徳島での公演に備えて覚えたてということで、そろりそろりと試運転という感じの口演でした。
最初南湖さんは、十八番の「乱歩一代記」を読みましょうか、とおっしゃったのですが、どうせなら練習も兼ねて十三を、ということになったのでした。

しかし芦辺さんの本自体はきっちり事実をおさえてその上に空想を羽ばたかせていて、とてもよくできていると思いました。徳島ではきっと好評を博することでしょう。もちろん「名探偵ナンコ」でも口演されるはずで、そのとき完成版をきけることでしょう。

二十分程の講談が終わった頃、なんと名張市長さんが顔を出して下さいました。わざわざ名張から駆けつけて下さったのです。居られたのは三十分ほどでしたでしょうか、また名張で用事があると慌ただしく帰って行かれました。短い時間でしたが、とても気さくな方で好感。こういう方が市長であるかぎり、名張市の将来は安泰でしょう(^^;

宴席の話題は多岐にわたり、かつ酒が入っているとなれば当然ほとんど記憶に残っていないのですが、そういえば南山鳥27=小南陵説が、、、(^^;ゝ

2次会は、新世界はジャンジャン横町。この界隈は本当に久しぶりでした。やはり独特ですねえ、碁会所や将棋会所(?)が満員なのがいかにも。
新世界は朝が早い分閉店も早いらしく、10時前なのに結局3次会は天王寺に戻ってアポロビルの10F。11時にお開きとなりました。

主賓でありながら幹事して下さった南湖さん、講談まで披露して下さり本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。今年は飛躍の年にしましょうね! 微力ながら応援させていただきます。
中さん、芦辺さんをはじめ、駆けつけて下さった皆様も、お疲れさまでした。また講談会でお会いいたしましょう。

いやー、久々に8時間飲み続けた(^^)。めずらしく途中睡魔にも襲われず、翌朝すなわち今朝も二日酔いではなかった。少し体調が戻ってきたのかしらん(^^;ゝ


お早うございます。 投稿者:アレクすて 投稿日: 4月27日(日)09時01分40秒

管理人様、皆様、お早うございます。
実は、連絡の不手際で、今日の予定は何もありません(泣)
大熊さん、大宴会について御報告をお願いします。

>現在は、デザインは進化しましたが、見
>る側の想像力が枯渇したように思います。

今の社会は、どこヘどんなメッセージを送るか?あるいは
送られたメッセージが何かを読み取る力
といったものが、受けて、送り手とも見えなくなっているのかもしれませんね。

そういえば、梅田の古書店で ロジェ・カイヨワの「妖精物語からSFへ」を購入しました。
読んでみます。(いいなあ、これ)


大塚英志 投稿者:管理人 投稿日: 4月26日(土)23時52分44秒

アレクすてさん
宇宙家族ロビンソンは大好きで、ロスト・イン・スペースも見に行きましたよ。もちろんがっかりして帰って来ました(^^;
宇宙家族ロビンソンで、宇宙の百貨店で買った(んだったと思う)宇宙船を覚えています。昔のエレベーターのように格子戸が閉まり、昔の水洗トイレの水を流すヒモみたいなのを引っ張ってロケット噴射させる、なんともチャチな代物でしたが、私にはとても魅力的でした。現在的見地からは「ダサイ」造型でしょうが、当時の視聴者は想像力でそれを支えたんですね。現在は、デザインは進化しましたが、見る側の想像力が枯渇したように思います。

大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書、2003)
普通、小説(近代小説)に登場する作中人物は、生身の人間である。作者もそう想定して書くし、読者もそう認識します。これは少なくとも私にとっては自明中の自明であります。

ところが作者によれば、「キャラクター小説」なる小説ではそうではなく、作中人物は、作者も読者も、生身の人間としてではなく、アニメやマンガに描かれた絵としての人物を思い浮かべ、認識しているのだそうです。

そういう風にして書かれ、読まれる小説を、「キャラクター小説」と著者は定義します。
そのようなキャラクター小説では、当然ながら生身の人間とは異なった行動パターン、マンガやアニメの登場人物のような行動パターンを取るわけですから、生身の人間を自明のように思い浮かべて疑わない私のような読者がそのような小説を読みますと、忽ち違和感に襲われてしまう道理です。

キャラクター小説の表紙カバーに、必ずアニメやマンガ風のイラストが付いているのは、上のような次第で、極めて当然のことなのです。
翻って、キャラクター小説ではない小説本の表紙に、アニメ風のイラストを付けてあるのを見かけますが、これは論理的におかしいのだと著者は言います。それは小説の根本的な内容とは無関係な、アニメ絵が付いていたらアニメやマンガの読者が間違って買うだろうという姑息な(とは書かれてませんが)売らんかな主義に他ならないと。
なるほど!

さて、本書は「キャラクター小説」作家志望者に、キャラクター小説の書き方を具体的に伝授する指導書です。
とはいえ、内容は通常の小説の作法書として読んで何ら問題ありません。キャラクター小説ではアニメの作中人物が動き、通常の小説では生身の人間が動く、というその行動原理の違いを除けば、両者の創作理論に差異はないということでしょう。

著者が力説する「背景の大きな物語」の(読者による)発見に伴う快感(物語消費)も、キャラクター小説固有のものではないと思われます。たとえばSFでは、かかる「背景の大きな物語」を発見することによって、センス・オヴ・ワンダーが開示されるのではないでしょうか。

「なるほど、そうか!」と、読中何度も膝をたたかされる好著でした。


大塚英志『定本 物語消費論』(角川文庫、2001)
これはエッセイ集。エッセイ集らしくテーマの上空を同一高度で周回するばかりで、テーマとしての発展はない。
ただ表題作は、エッセイというより論文である。前掲書とテーマを同じくするものであり、読み応えがある。
また「実録・都市伝説――<人面犬>の秘密」は、野田昌宏流の現実と虚構のあわいを騙りで繋ぐ「私SF」の傑作!
編集済


リメイク 投稿者:アレクすて 投稿日: 4月26日(土)08時59分00秒

今晩は、皆さん
>管理人様
テレビでやるサンダーバードは、昔のオリジナルです。(64本放送)
あの番組は、もう一度作るのは難しいでしょう。
製作者の ジェリー&シルビア・アンダーソンが、「人形劇なら予算が安くてすむぞ!」
と、思ったら、なんでもかんでも一から作らなければいけないわ、
テレビの勢いを、甘く見ていて、放映時間に追われるわ、大変だったそうです。
(評論家、岡田斗司夫 氏の意見による。大意)

>いま、60年代が「新しい」のでしょうか?

これも、岡田氏の意見ですが、今「レトロ・フューチャー」といって、
昔のSFや未来感がはやってるんですね)
(早い話が、野田大元帥のコレクションのような世界ですね。
実際、野田氏のコレクションが、今、本になってでていますし)

じゃあ、何故、こんな事になったかというと、昔の作品のほうが
大胆で、おおらかであったからではないでしょうか?
よくいわれる「奥様は魔女」等に対する「利便性やモダンなモノに対する憧れ」
(「奥様〜」はSFではないですが)が、古きよき時代の様式性を持って語られるという。
思うんですが、スター・ウォーズ以降のSFものは、何かデザインから何から、均一的だと思いますよ。
(昔のスタートレック=宇宙大作戦のエンタープライズ号のデザインは
円盤に円柱を三本足しただけですが、今の宇宙船より未来的な気がします)。
でも、それは、恐い事ですがね。
今と昔は違うわけで。
(大熊さんは見ておられないと思いますが、「宇宙家族ロビンソン」が
「ロスト・イン・スペース」としてリメイクされました。
作品としては……「馬鹿にするな!」という出来でした。
やっぱり、無理なんですよ。当時の作品をリメイクするというのは)。

あと、サンダーバードもリメイク作品が撮影中らしいです。
(くわしくは、ここを)
ttp://www.eiga.com/buzz/030114/12.shtml

ではでは。


「アメリカ銃の謎」 投稿者:管理人 投稿日: 4月25日(金)22時19分43秒

アレクすてさん
サンダーバードが放映されているそうですけど、新作ではないですよね。
なんかアトムも(これは新作らしい)も始まったのですか? きょうラジオで主題歌(ゾーン)がかかってました。
いま、60年代が「新しい」のでしょうか?
空中都市008も、もう一度みたい気もしますが、記憶の中に留めておいたほうがいいかも。

エラリー・クイーン『アメリカ銃の謎』井上勇訳(創元文庫、1961)読了。原作は1933年刊。
井上勇訳を確認したくて読んでみました。やはりこれは読みにくい。けっきょく機械的な訳文なんですね。たとえば「いいえ、ありがとう」は、たぶん「no thank you」の訳なんでしょう。気をつけて読むと、日本語になってない文が頻出します。まあ大体分かりますが、しかしストーリーの流れを分断しているのは確か。

内容的には、先週読んだヴァン・ダインと比べてずいぶん現代的です、ミステリとして1段階、階梯を上がっているのが明らか。というかヴァン・ダインは基本的に、ミステリとしてはまだルパンと同じ段階なんですね(だから駄目だといっているのではないですよ、為念)。
容疑者が2万人、という壮大な発端から論理的な結末まで、収束するミステリの醍醐味があって後半は一気に読んでしまいました。
動物トリックは、ほんまかな、と疑わしいですが、まあいいではないですか(^^;。
実は最後の最後の(JJとエラリーの会話の)意味が分からないのです。どなたかご教示を。


こんにちは、みなさん! 投稿者:アレクすて 投稿日: 4月25日(金)16時57分30秒

NHKのホームページで、昔懐かしい、人形劇などの歌がダウンロードできるようです。
008はないようですが、「宇宙船シリカ」「ひょっこりひょうたん島」などがありました。
ttp://www2.nhk.or.jp/tv50/archives/0301/music.html
では!


訃報 投稿者:管理人 投稿日: 4月24日(木)20時52分07秒

三枝和子さんが逝去されました。
大学の大先輩であり、大好きな作家さんでした。
まことに残念というほかありません。
ご冥福をお祈りいたします。

アレクすてさん
それではまた別の機会にでもお会いしましょう。

大塚英志『定本 物語消費論』(角川文庫、2001)読了。

エラリー・クイーン「アメリカ銃の謎」に着手しました。


おひさしぶりです、みなさん 投稿者:アレクすて 投稿日: 4月24日(木)02時42分28秒

管理人様、皆様!おひさしぶりです!
松崎さま!エムシュウィラー受賞おめでとうございます!
翻訳はこれからですか?楽しみです!
(って最近、国の内外とわず、SF読んでないんですね、反省!)
あと、管理人様!用事があって、今度の南湖様の会に出席できなくなりました!
御容赦を!
では、では!


祝、受賞! 投稿者:管理人 投稿日: 4月21日(月)20時44分01秒

松崎@とりあえず、ラファティさん

>ネビュラ賞とP.K.ディック賞をダブル受賞しました
おお、嬉しい情報をありがとうございます。
それにしても、すごいすごい! 今年82歳ですよね。それが功労賞的な授賞ではなく、現役として正味の受賞というのがすごいです。
エムシュご本人の力であることは当然ですが、そんな彼女に活躍の場があり、かつ公正に評価することができるアメリカのSF界の懐の深さ、システムとしての健全さは、やはりなんだかんだ言っても素晴らしいと思います。

>これをきっかけに、翻訳紹介が進みますように
ぜひとも期待したいです(^^)

岡本俊弥さんの『不死鳥の剣』評。「主観的」には同感。9行目の「ハワード」は「ハガード」の誤記でしょうか。


エムシュ受賞! 投稿者:松崎@とりあえず、ラファティ 投稿日: 4月20日(日)20時52分04秒

キャロル・エムシュウィラーがネビュラ賞とP.K.ディック賞をダブル受賞しました。
ネビュラ賞短編部門が「creature」
P.K.ディック賞が長編「The Mount」
これをきっかけに、翻訳紹介が進みますように。

http://www.sfwa.org/members/emshwiller/CE_Info.html


間が空きました 投稿者:管理人 投稿日: 4月20日(日)11時02分18秒

きのうは辞めた会社の同期会。彼らと飲むと酔わないんですよね。二日酔いもなし。いい酒でした(^^)。20代30代と同じ釜の飯を食ってきた同質性の故でしょうか。それとも辞めたとはいえ、まだ競争相手であるという意識(構え)が残っているからでしょうか。同と制、どちらもありそうです。

読了書
1)大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書、2003)読了。

2)マレイ・ラインスター『異次元の彼方から』佐藤高子訳(HSFS、1969)読了。

3)S・S・ヴァン・ダイン『僧正殺人事件<乱歩が選ぶ黄金時代ミステリーBEST10(3)>日暮雅通訳(集英社文庫、1999)読了。

1)は、極めて興味深い小説論です。論考に触発されて、いろいろな考えが私の中から引きずり出されてきます。とてもおもしろい。
2)は、原著(エースブックス、1955)は1936年<アスタウンディング誌>連載の“The Incredible Invasion”を大幅に改稿したもの。大人物ですが、ジュヴナイルのような淡々とした印象。
3)は、原著はスクリブナー社1929。もちろん30年前に既読ですが、翻訳者の日暮さんが探偵講談の応援者なので(^^;
内容は、犯人が誰かは覚えていましたが、あとは完全に忘れていた。初読時は、というかヴァン・ダインは何を読んでも退屈と紙一重の面白さだったと記憶しているのですが、本書は全然退屈などせず、寝るのを忘れて読み耽ってしまいました。翻訳の違いでしょうか。しかし創元文庫版の明治っぽいNYの雰囲気(これが好きなのです)はあまり感じられなかった(当然ですが)。これは原作とは関係のない部分ですね。若い人は日暮訳で読んだほうがいいでしょう。

大塚英志『定本 物語消費論』に着手しました。
編集済


南湖さんの新人賞受賞記念大宴会、まだ大丈夫です 投稿者:管理人 投稿日: 4月15日(火)22時37分31秒

アレクすてさん、お忙しそうで何よりです(^^)
旭堂南湖さんの大阪舞台芸術新人賞受賞記念の大宴会の締め切りは4/22でした。すみません。→正直南湖をご覧下さい、
まだ大丈夫ですので、あいているのでしたら、南湖さん宛に出席のメールを送って下さいね。→メール

大塚英志「キャラクター小説の作り方」読み始めましたが、これがめっちゃ面白くて、止められません(^^;
ということで、今日はこれにて失礼させていただいて……さあ続きを読も。


御無沙汰してます。アレクすてです。ナンコ様。管理人様、受賞おめでとうございます! 投稿者:アレクすて 投稿日: 4月15日(火)22時17分52秒

管理人様、今晩は。御無沙汰しております。
実はまわりにいろいろ、用事があって書き込めませんでした。
橋爪さんとの筒井論の話や、眉村さんの「えいやん」の感想は
また今度と言う事で…。あと、

>旭堂南湖さんの大阪舞台芸術新人賞受賞記念の大宴会

ナンコ様、おめでとうございます。
参加したかったです。芦辺さん、大熊さん、ナンコさん、
(そしておそらくは原田夫妻)や、しばらくお目にかかってない人外境領主サンデー先生様と、また、お会いしたいなあ
とは思っていたのですが、週末はあく、とわかったのが、今日であります(号泣)。
ナンコ様をお祝いしたい気持に偽りはないのですが、
大熊さまの掲示板にお目汚しの文を書く事でかわりとさせていただきます。
大熊さま、ナンコ様、すみません。
では、では。


「日本難民」 投稿者:管理人 投稿日: 4月14日(月)21時54分52秒

吉田知子『日本難民』(新潮社、2003)
近未来の日本(どこかに西暦が書いてあったと思ったのですが発見できず)、なぜか「連合国」が攻撃してきて、すでに東京は焼け野原になっているらしい。自衛隊も壊滅している。主人公は、そういう情報が断片的に入ってくる地方都市に住む中年女性。
その町にも数日前までは避難する車が溢れていたが、それも峠を過ぎて少なくなり、主人公の夫婦もようやく避難を決意します。
行き先は夫が30年も以前に一度行ったことがあるという山間の廃れた温泉場。ようよう着いた旅館は、すでに廃業されていた――が、夫婦同様に避難してきた数家族が先住していた……。

SFならこの辺で、鳥瞰的な説明の1章が挿入され、読者の見通しをよくしてくれるのですが、本書にはそんなものはありません。
とにかく外国の軍隊が攻め込んできていて(ただし主人公が実際に遭遇することはない)、それを逃れるために主人公の夫婦がたどり着いた温泉場での具体的な生活が描かれるばかりです。

その生活とは、まさに太平洋戦争末期から焼け跡闇市を彷彿させるアナーキーな世界であり、乏しい物資をめぐってサバイバルな角突き合わせが繰り広げられます。このあたりの描写は、さすが引揚者である著者の体験が色濃く反映しているのかも知れません。

いかにも著者らしい意地悪な筆致で描写される人々は、文明の虚飾を剥ぎ落とされ、生に執着する原型的な人間性をむき出しにされます。おそらく著者はこの部分を描きたかったのでしょう。
JGバラードは、「ハイライズ」において、高層建築に閉じこめられた人間の退行を活写しましたが、吉田知子も、人里離れた一種密室ともいうべき温泉旅館での人間の退行を執拗に追いかけます。

しかし温泉旅館での生活も破綻が訪れ、主人公たちは更なる内宇宙の奥地へと踏み入っていきます。そこはテキがまいたらしい毒ガスが淀み、水場の水は触るだけで死が訪れ、狂った自警団が徘徊する世界です。
主人公は夫とも別れ別れになり、というか置いてきぼりを食わされ、ひとり冬の訪れた山間に潜みますが……

面白く、かつ読みやすいので、一気に読んでしまいました。
幻想性は薄いです。それは連合国の攻撃という設定が中途半端に現実的なせいでしょう。このようなシチュエーションですと、どうしても著者は何を言いたかったのだろうとか考えてしまいます。もちろん「この日本」に対して、著者は何かいいたかったのかも知れません。

けれどもわたし的には、そのような「最近の日本(人)は……」的な説教は聞きたくないので、攻撃してくるものは、もっと具体性を薄めて、何か分からないもの、軍隊ですらないかも知れない何者か、という風に描いた方が「幻想小説」的に好ましかったように思われます。


河南文学第12号が発行されました 投稿者:管理人 投稿日: 4月14日(月)20時47分39秒

大阪芸術大学の<河南文学>(第12号)に、「一日一話から」のタイトルで、日課作品が6篇、掲載されました。
収録作品は、(1655)「前進旗手」、(1671)「船は朝五時に出る」、(1689)「土産の藁人形」、(1690)「檻の中のロボット」、(1701)「柱の唇」、(1703)「筆跡による性格分析」です。

上の記事を、<「河南文学」掲載作品リスト>及び<日課作品(第2期分1001〜)の雑誌等掲載状況>に反映させました。トップページをご覧下さい。


古代ウイグル族とは? 投稿者:管理人 投稿日: 4月13日(日)14時56分36秒

大江さん
いやあ、きのうは痛快でしたねえ(^^)
私もテレビをつけ(ただし音は消して)、MBSのラジオ放送を聞きながら(というのはラジオの中継は解説がタイガースびいきなので)、作業をしておりました。たしかに作業効率は極端に低下しますね(^^;ゝ
今日勝てば、6連戦を3勝2敗1分ですから、今日は大事な一戦ですね。下柳の奮起に期待しましょう! 

「蜃気楼の戦士」に出てくる「古代ウイグル族」について、もう少し補足しておきます。
この、「古代ウイグル族」は、当然ながら現存のトルコ系「ウイグル族」とは別物であります。
ヨーロッパに進出したコーカソイド(厳密には印欧語族)の原郷が、だいたい黒海・カスピ海の北辺だったというのは、19世紀末には、一つの定説になっていたと思うのですが(印欧語族と推定される南ロシアのクルガン文化は紀元前4500年すなわち6500年前に開始されています)、本書が書かれた1932年といえば、ヒトラーが大統領選でヒンデンブルグに惜敗した年です(ただし翌年に首相、翌々年に総統)。つまりナチスが日の出の勢いで拡大した時期であり、当然ながら金髪碧眼の純血ゲルマン民族という観念が幅を利かせ始めていたのではないでしょうか。この「ゲルマン人種主義」と「印欧語族論」が通俗的に習合した観念をメリットは抱いていたように思われます。つまり今から少なくとも6500年以前に、金髪碧眼のヴァイキングは、カスピ海辺にいた、と。

さて、チャーチワードの「古代ウイグル帝国」は、12000年前まで栄えたとされるムー帝国の植民地で、中央アジアから中国大陸内陸部に版図を持つとされます。ムー帝国の支配人種は「白人」です。

ここで、メリットは考えます。6500年前に南ロシアにいたヴァイキングは、それ以前にはどこにいたのかと。彼らはどこから来たのか? それは12000年前に存在した古代ウイグル帝国からではないのか。そう考えたのではないでしょうか。
12000年前、古代ウイグル帝国は、母国ムーが一晩にして沈んだ(実際は氷河期の終焉による海面上昇に伴ってか?)結果、文明の供給を絶たれ、急速に退化しただろう。折しもムーを沈めた気候温暖化は古代ウイグル帝国のある中央アジアには乾燥化をもたらしたはずです。

小説中に古代ウイグル帝国が、邪神カルク・ルの崇拝を止めた結果、国土は乾燥化し荒廃したとありますが、上の事態に対応した記述のように思われます。

古代ウイグル帝国の衰退後、一部のカルク・ルへの信仰篤い古代ウイグル族は、辛うじて陸橋を維持していたか、少なくとも弧状には連なっていたベーリンジアからアラスカへ渡り、蜃気楼に隠された秘境に定住します。この地こそ、物語の舞台になる陰影の国です。

母国のウイグル族は退化し、周辺のトルコ族と混血して、白人としての形質は失われてしまいます。辛うじて支配層の子孫が細々と一族をなしており、彼らが、主人公リーフに、英雄の復活を見るわけです。

このような説明が本書に明示されているわけではありませんが、記述の断片を繋ぎ会わせると、以上のような設定のもとにメリットは小説を構築したのではないかということが伺われるのですが、はたして真相は(^^;ゝ

ラインスター「異次元の彼方から」に着手しました。

原子心母/ピンク・フロイド(1970)
編集済


悪夢を振り払った第2戦! 投稿者:大江十二階 投稿日: 4月13日(日)00時12分53秒

いつもタイガースの話題で、申し訳有りません。
11日の巨人との第一戦は、パソコンで阪神の公式サイトを開き、その傍らで作業をしていました。9回、7-1 で、当然勝つものと思い、意気揚々と作業を続けていたところ、あの悪夢です。
すっかり意気消沈してしまい、作業のペースも落ち、結局、家に帰ったのが午前1時半という状態でした。ああ、しかししかし、第二戦では、その悪夢を見事に振り払ってくれました!!
そこで一句、「阪神-巨人戦を気にしながら仕事をするのはやめましょう」


「蜃気楼の戦士」 投稿者:管理人 投稿日: 4月12日(土)18時06分48秒

エイヴラム・メリット『蜃気楼の戦士』鏡明訳(ハヤカワ文庫SF、1970)読了。
訳者解説によれば、この作品は1932年<アーゴシー誌>1/23号から2/27号まで6回にわたり連載されたものらしい(とすると、アーゴシーって週刊誌だったのですね。迂闊にも月刊誌と思っていました)。ところが、訳者が底本としたのは連載時の内容から結末部分が書き直されたヴァリアントなのだそうです(エイヴォンブックス1952版)。
しかし、じっさい優勢に流通しているのはオリジナルの方だといいます。ではなぜ訳者は、一般的な流布本を使用しなかったのでしょう。
実は、もともとメリットは、ヴァリアントの結末で構想していたのを、連載時に編集者の意向でオリジナル版の筋書きに変更させられたらしいのです。そういう経緯から、訳者は著者の意図を尊重してヴァリアント版を翻訳したのだと書いています。

さて、本書は先日読んだ「イシュタルの船」に比べれば、はるかにSF色が強くなっています。少なくとも「エイやん」程度にはSFであると思います。
感想にも書きましたが、「イシュタル」では小説世界で起こる超常現象に対して、主人公は何の疑問も抱かずアプリオリに受け入れてしまっています。それに対して、本作の主人公は、超常現象に対して、常に合理的な解釈を考えます。

主人公の探検家・リーフ・ラングドンは、外見ヴァイキングのような典型的な金髪碧眼の持ち主です。かつてモンゴルを探検中、ウイグル族の古い一族に遭遇し、その長老に、あなたは古代ウイグル族の伝説の英雄ドワヤヌの再来であると告げられる(私見では、この古代ウイグル族はチャーチワードの説に拠っているようです)。
そしてリーフは、不思議な宝石の填った指輪を授けられ、それを用いて、古代ウイグル族が信仰する邪神カルク・ルを召還する法を教えられる。カルク・ルは、クラーケンにも似た、触手を持つ黒い巨大な蛸のような存在だった!

つまり、本書はある意味クトゥルー小説であるといえるのです。

リーフは考えます。このカルク・ルは、神のような超越者ではない。少なくとも現実に存在しており、おそらくこの世界と隣り合って、あるいは同一空間に重なって存在している異次元、あるいは他世界の生物に過ぎない。古代ウイグル族の科学技術は、この世界と異次元を繋ぐ扉をあける何らかの方法を発見したのだろう、と。

こういう思考は、「イシュタル」には全くなかったものです。
ここに面白い暗合があります。イシュタル(1924)と本書(1932)の間に、実はアメージング・ストーリーズ誌の創刊(1926)が挟まっているのですね。
私は思うのですが、おそらく、アメージング誌によって、あるいは科学を装うサイエンス・フィクション(というより実質的にはスペオペでしょうけど)の隆盛に、メリットは影響を受けたのではないでしょうか?

「イシュタルの船」がHSFSから文庫化されるとき、SF文庫ではなくファンタジー文庫に収録されているのは示唆的です。当時の早川書房の編集部の見識を感じますね。

本書もまた、「イシュタル」同様、ストーリーの魅力の多くの割合を、苛烈な悪女ラーに依っています。特にラーの場合は、「イシュタル」の悪女(もう名前を忘れています(^^;)のように「改心」しないのが、わたし的に好ましかったですね(^^)

吉田知子『日本難民』も読了。


ハマちゃん3ランも悔し 投稿者:管理人 投稿日: 4月 8日(火)22時28分06秒

うーむ。3ランで追いついたときは勝ったと思ったんだけどねえ、、、
しかし敵ながらクルーズ、バルデスが活躍したのは、嬉しいことでした。

《告知》
旭堂南湖さんの大阪舞台芸術新人賞受賞記念の大宴会が開かれます。

日時/2003年4月27日(日) 午後3時〜午後5時
会場/飛田「鯛よし百番」
予算/6000円〜7000円程
内容/南湖さんの講談一席&大宴会
待ち合わせ/午後2時半に近鉄電車「あべの橋」駅、西の改札を出たところ。
締め切り/2003年4月12日(土)午後9時
特別ゲスト/芦辺拓さん・中相作さん

会場はかつての遊郭をそのまま利用した建物だそうです。周辺はまさに飛田新地(^^)、非常に風情がありますよ。
参加希望者は主賓兼幹事の南湖さん宛にメールで申告して下さい。→メール
2次会は、新世界ジャンジャン町の由。これまた濃いですなあ(^^;

蜃気楼の戦士>142/374

ウマグマ(スタジオ・パート)/ピンク・フロイド(1969)
編集済


日本人の病気 投稿者:管理人 投稿日: 4月 7日(月)23時38分17秒

鎌田哲哉/「闇斎学と闇斎学派」について
著者の天皇制についての見解は、大塚に比べてさらにはっきりしていて、日本国憲法の第1章、とりわけその第1条を改正削除し、完全な共和制を今すぐにでも日本にもたらすべきだ、とする。
理由は、まず「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という原則を(世襲制度の痕跡を残さず)完全に実行したいという欲求(同時にそれは天皇や皇族の基本的人権の享受をも意味する)である。

今一つの理由は、それが建て前と本音を過度に平然と使い分ける日本国民の鈍さを打開する(52p)ことに繋がるからだとする。たとえば憲法上の基本的人権規定と第1条、あるいは安保と9条が、原理的に共在するものではないにもかかわらず、共在させて平然としている鈍感さ。実は社民的な「護憲」こそまさにそのひとつの典型といえる。鎌田はこれを日本人の精神の病気であると述べる。その意味では、日本においては正統も異端も、ある観点からみれば同じ穴の狢であるといえる。

同様に、鎌田は丸山真男の「闇斎学と闇斎学派」に言及して、キリスト教的(マルクス主義的)な「真理は一つしかない」と日本的(多神教的)な「真理は無数に雑居している」の対立は、しかし「真理は議論である」という定義を共犯的に回避している点で同じ穴の狢であることから、日本においてはマルクス主義者が実に容易に「天皇はひとりしかいない」国体論者に転向するメカニスムを明らかにする。

結局、竹内好が、一木一草にも天皇制がある、といったように、我々の活動の全領域を(……)天皇制的な活動様式が貫徹している。これを著者は、「天皇」は日本人から「天」を奪うと表現する。
かかる事態から切断されるためには、とりあえず天皇制の完全な廃止が必要と著者はいっているのだと思う。ただ、前半と後半の論理的なつながりが(感覚的には納得できるので単に説明不足なのだろう)いまいち明快ではない。


特集・天皇制への立場 投稿者:管理人 投稿日: 4月 5日(土)21時05分48秒

昨日、書き落としたのですが、「天皇抜きのナショナリズム」を唱える福田は、しかし天皇(皇室)を廃せよといっているのではないのです。
近代国民国家などというものの中央に天皇陛下を置いておくべきではないのではないか(39p)として、京都遷幸論を提案しているのですが、皇室とナショナリズムとは、本来相容れないのではないか(33p)、あるいはナショナリズムとは、本来共和的なものです(33p)とする福田の論の視点からは、ずいぶん唐突ですし、非常に曖昧な印象をもたらします。前者と後者は論理的に繋がらないものではないでしょうか。
私自身は、たとえ中央にではなく京都に隠棲したとしても、天皇という制度がある限り、我々日本人は、福田の言うナショナリズムには真に到達することはできないように思われます。

ひきつづいて読んだ、大塚英志/疎外された天皇を「断念」するためには、福田の論よりも、もう少し突っ込んでいて、(天皇制は)私たち個々人が自分が望むにせよ望まないにせよ帰属する行政単位としての「国家」に委託した自己の責任を自明のものとして引き受けるためには「天皇制」という政治制度をやはり断念するべきだ(42p)とします。

「国家」に委託した自己の責任、とはどういうことか。
まず大塚は、憲法が保障する自由とは「国家」に対する個々人の「自由」(42p)であり、例えば「表現の自由」とは個々人が表現することを国家から制限されないという「自由」(42p)を言うのであり、憲法とは、元来「国家」を制限するために必要なものであることを明らかにします。
つまり権力は、(一般に思われているように)国家に存するのではなく、議会制民主主義という政治システムに於いては、私たち個々人の中にそれは存在するのであり、かかる個々人に内在する権力を、選挙を通じて代表者に委託するという形を取るわけです。
「国家」に委託した自己の責任とはそういう意味です。

かかる責任に対する「自覚」が、福田が述べたように「天皇制」の存在によって見えにくくなっている状況があり、日本人特有の責任を回避する精神構造が醸成されているのだろうと私は思います。

このような理由から、大塚はぼくが天皇制を憲法上から削除すべきと考える第三の理由は、私たちが私たち自身で私たちの歴史と社会に責任を持ち得る主体(歴史的な主体)となるために(……)やはり「天皇」は断念されるべきだ(47p)、と述べます。
福田よりずいぶんはっきりしています。国籍と国民としての権利を得て、普通の人々の中で静かに生きていくのか、能や歌舞伎の宗家のように「伝統」をいきようとするのかは彼らの選択に任せるべきです、という大塚ですが、バチカン市国のように「天皇家市国」として独立させるという案も述べています。
とても面白い論文です。一読の価値は十分あります。


新現実vol.2 投稿者:管理人 投稿日: 4月 4日(金)21時53分07秒

土田さん
メリットは絵の出し方がうまいですね。「イシュタルの船」も、このまま忠実に映画化なりドラマ化すればいいようなつくりになっているように思います。現実と異世界の対応関係はアウターリミッツやミステリーゾーン風ですし、しかもその中にアクションがふんだんに盛られているという感じですね。

――で、『蜃気楼の戦士』に着手しました(^^)。

<新現実vol.2>というふしぎな雑誌を発見、衝動的に買ってしまいました。
「特集・天皇制への立場」ということで、まずは福田和也/「天皇制抜きのナショナリズム」についてを読みました。
要旨は――国民主義としてのナショナリズムは、本来、デモクラシーを契機とするものであり、日本の場合、ナショナリズム(国民主義)の成熟が、天皇(皇室)があることによって阻害されているのではないか――というものです。
なるほど。
そういえば、私は選挙権を得てから27年になりますが、まだ一度もその権利を行使していません、あるいは義務を果たしていません。これはある意味甘えているわけで、自分の責任を回避しているといえます。自分で言うのも何ですが、こういう態度は諸外国に比べて日本では比較的多いものではないかと思われます。その根源には福田の言うように「国民国家における天皇の存在は、あらゆる問題を、天皇へと収斂させてしまう。(……)ラディカルな問いが(……)すべて天皇に回収されることによって、完遂されることがない」(40p)という、主体性の放棄があるのではないでしょうか。
天皇があるからみんな天皇へ責任を転嫁するのだ、そういう態度がデモクラシー(ナショナリズム)を成熟させないのだ、だから「天皇抜きのナショナリズム」が必要なのだ、という論旨は正しいものだと思われます。
それによって、日本のオーナーは天皇ではなく、我々国民なのだということがはっきり自覚できるのではないでしょうか。

蜃気楼の戦士>48/374


メリット 投稿者:土田裕之 投稿日: 4月 2日(水)22時11分16秒

メリットは「黄金郷の蛇母神」を大昔読みました。
最後がびっくりするような終わり方だった気がしますが、正直全く憶えていません。
全体的には面白かったような覚えはあるのですが・・。

「イシュタルの船」はいつか読もうと思っております。

冲方丁「カオス・レギオン」(富士見ファンタジア文庫)読了。
ゲーム小説の部類に入るのかもしれませんが、ファンタジーの傑作でした。


「イシュタルの船」備忘 投稿者:管理人 投稿日: 4月 1日(火)23時21分13秒

エイヴラム・メリット『イシュタルの船』(HSFS、1968)
原著は1924年刊。翻訳は川口正吉。訳文はかなり荒っぽいエイヤ訳のようなところが散見するが、リズム感があってなかなかよい。惜しむらくは説明の部分がよく分からなかったりする。特に終盤の神々の会話は(原文どおりなのかも知れませんが)ついに何を言っているのか理解できなかった。そのせいかどうか、ハヤカワ文庫版では翻訳者が変わっていたはず。

冒険家(インディ・ジョーンズみたいな職業らしい)ケントンのNYの屋敷に、シリア砂漠で発見された古代バビロニアの石碑が届けられる。ケントンは、何かに促されるように石碑を打ち砕く。するとそこには船の模型があった……。
ケントンは、その船(模型)に引き寄せられるように、異世界に引き込まれる。そこは剣と魔法の古代世界だった。

実はこの船(模型)は、異世界に浮かぶ船の「分身(?)」で、この世界のNYと古代世界を繋いでいる。
なぜそうなのかの説明はない。また、ケントンも古代世界が何なのか、なぜ自分が古代世界に引き込まれたのか、全く疑問に思っていない。古代世界にいる自分というものを、アプリオリに受け入れてしまっている。

眉村さんの「エイやん」では、主人公の浦上は、なぜ自分がエイやんのいる世界に紛れ込んだのか、くどいほどああでもないこうでもないと思いめぐらせる。理屈をつけようとするのである。
「リアノン」では、主人公が行った異世界は、その小説世界の現在から、100万年前の火星であることははっきりしている。神のような存在は出てくるが、超越的存在ではなく、ただ科学が遙かにすすんだ種族であることが明らかにされる。

ところが「イシュタル」における神は、まったくの超越的な、神そのものとして描かれ、主人公のケントンはそれをアプリオリに受け入れている。

かかる違いこそ、SFとファンタジーを分けるものだろう。結局は作者が(広義の)幻想的小説執筆に際して、因果関係への顧慮の度合い(態度。志向性)に還元されるものなのだといえる。あるいは作家が小説によって表現するところの、世界への関わり方、認識の仕方。 

もとよりメリットがSFを書こうとして失敗したと言っているのではない。だいたい1924年にはまだSFは存在してないのだから。
本作は、剣と魔法的な冒険ファンタジーとしてとても面白い。ことに主人公が異世界とNYの自室を(どういうメカニズムかははんぜんとしないけれども)往還し、あっちとこっちでは時間の進み方が違うという設定が実によく効いている。傑作と言ってよいものである。船(模型)の扱い方もうまい。
だから、SFであるかないかは、作品の出来不出来とは別の次元の話である。

以上、時間がないので、思いつくまま備忘的に書きました。ヘテロ読誌に掲載時にきちんとまとめる予定。

ウマグマ(ライブ・パート)/ピンク・フロイド(1969)
編集済


名探偵ナンコ 投稿者:管理人 投稿日: 4月 1日(火)02時41分59秒

土田さん
ライオンズ、順調な滑り出しですが、近鉄も調子がよさそうですね。
今年のパは、3強3弱がはっきりしているようですね。

阪神は3タテと思っていたので、ちょっと不満です(贅沢ですね(^^;)。

>『新本格猛虎会の冒険』
昨日の探偵講談の会でも話題になりました。お客さんの中に、現物を持っている人がいました。すばやい!

ということで、昨日は旭堂南湖さんの探偵講談<名探偵ナンコ>の会でした。
アレクすてさんとマクドナルドでダベっていて、少し遅刻してしまい、会場の本遇寺に到着したのは、最初の「海野十三一代記」がちょうど終わるところでした。残念。
とはいっても、今回のは暫定版だったそうで、決定版は5/11の徳島公演で初演とのこと。名探偵ナンコでも、改めて読んでもらえるそうなので、楽しみです。

「新作講談・さやま遊園」は、大阪のローカルネタ(^^)。非常に軽妙な印象で、古典講談というと何となく「かたい」とか「熱演」というイメージがあるのですが、そういうイメージが払拭されて飄々とした軽さを感じました。新作講談というもののレゾンデートルといいますか、方向性を示しているように思いました。

「古典講談・太閤の風流」は、私は二度目なんですが、なんとなく短く感じました。あとで南湖さんにお聞きしましたが、元もと短い話で、今回特に端折った部分はないとのこと。あるいは、私のほうが講談を聞き慣れてきて、この程度の長さでは物足りなく感じてきているのかも知れません。

「探偵講談・まだらの紐」はご存じホームズものの名作。これまでのホームズものに比べて格段に分かりやすくなっていて、南湖さん「探偵小説の講談化」のコツをつかんだというか、ずいぶんこなれてきたのかな、と感じました。

今回はどの作品も15分程度でした。上にも書きましたが、わたし的にはややあっさりという感じで、少し物足りなさをかんじました。やはり1本は1時間前後の大作を聞きたいですね。

あと恒例の芦辺拓さんとの対談があり、終了後近くの店で打ち上げ。そこで、旭堂南湖・大阪舞台芸術新人賞受賞記念大宴会を4月か5月に開くことが決定しました(^^)。

本は、『イシュタルの船』を読了。小説内の主人公の現在からはじき飛ばされた別世界での冒険という、同様の設定を持つ『リアノンの魔剣』とは、しかしある意味好対称な作品です。つまり『リアノン』が形式的にSFであるのに対し、『イシュタル』はどう読んでもSFとは到底いえないのです。詳細は明日にでも。

ガウディ/アラン・パーソンズ・プロジェクト(1986)


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