眉村さん情報です(^^) 1)<河南文藝>の秋号が出ました(町田康が表紙です)。特集は「河内の風土と文学」。 『芳香と変身』という短編(68枚)が掲載されています。 ショートショート劇場2(「クマのぬいぐるみと私」)、実作講座小説篇2も載ってます。 定価:476円+税。 2)月刊「潮」10月号にエッセイ「顔写真を捜す」(4枚)が掲載されました。 3)堺市の自由都市文学賞の、文学フォーラムというのに、パネリストで出られます。 文学フォーラム『発想と組み立て方』 パネリスト: 田辺聖子 藤本義一 眉村卓 難波利三 鮫島秀夫(第15回自由都市文学賞入賞者) 日時:11月15日(土)午後1時30分から4時まで。 (第1部表彰式・第2部がフォーラム) 会場:ウェスティホール(堺市立西文化会館) 堺市鳳東町6丁600 【申込方法】 往復はがきに住所・氏名・年齢・電話番号・希望人数(はがき一枚につき二人まで)を記入の上、11月4日(必着)までにお申込ください。(注:定員500人になり次第締め切りとのことです) 宛先:〒591-8037 堺市百舌鳥赤畑町1丁3番地 (財)堺市文化振興財団「文学フォーラム」係 ★問い合わせ:(財)堺市文化振興財団 電話 072−252−3993 ↑ ギリギリですが、明日投函すれば何とか間に合うかも(^^;
大橋さん お知らせありがとうございました。 >ボツにはなっていませんでした おめでとうございます。よかったよかった(^^) Amazon覗いてみましたが、まだ掲示されていないようです(ーー;。 近所の本屋には入荷しませんので、Amazon頼みなんですよね。 注文できるようになったら即購入させていただきますね。 ともあれ楽しみです〜(わくわく) 新風舎文庫という見慣れぬ文庫で『地には平和を』が出ていました。これは嬉しい出版です! なぜなら、何とこれHSFSで出たデビュー短編集の完全復刻版なのです(SFコンテストの選評も収録されています)。 この本に、私はもろ手をあげて賛成いたします。 SF出版界の風潮かなのか、SF作家の短編集がオリジナルのラインナップのまま復刊されることは全くといってよいほどありません。とりわけ小松左京の場合は、それが甚だしい。 そのかわりよくあるのがテーマ別編集というやつで、そのよい例が光瀬龍の宇宙年代記です。 光瀬龍は、宇宙年代記シリーズを、おそらく30年以上、デビュー以来死ぬまで書き継いでいたわけで、その間に作家の考え方も筆致も変わらないはずがないと私は思うのです。 実際、光瀬の宇宙年代記ものは、初期の作品と晩期のそれとではあきらかに作風に違いが認められます。 そういう時間的差異を無視して、ただ単純に小説内の西暦順に並べても、実際のところシリーズとしての連続感は、ぶったぎられてしまっているといえます。それはこのシリーズに対する冒涜とさえいえるのではないかと私は思います。 そういう意味で、もし年代記を編集するのなら、作品成立順に並べるのが正しいのですが、そんなことをするよりも、オリジナルの短編集をそのまま復刊するのが一番よいのです。 その点に関して、筒井康隆と星新一は意識的であったように思われます(最近筒井もテーマ別編集を出しましたけど)。 ところが小松左京の場合は、上に書きましたように、最初の文庫化『ウィンク』や『地球になった男』からしてオリジナルではなく、以後も復刻されるたびにいろんなセレクションで短編集が出ていてもはや混沌としたイメージしか私にはありません。 そういうわけで今回のオリジナル短編集での復活は、まことに時宜を得た好企画であると思った次第です。デビュー作には作家のすべてが詰まっているといいますが、それは本作品集にもいえることのように思われます。実際、小松の最良の短編集であるかも知れません。 本書で初期小松を今一度味わってみるのも一興かと思います。
明日、発売です。 とりあえず、眉村先生の記事、載ってます。 今日、見本が届きました。ボツにはなっていませんでした。 目を通された方は、ご不満な点も多いと思いますが、どうかご勘弁を・・・・。 改めて言い訳を書きます。 では・・・。
ハヤカワ文庫(SF、JA)は、活字が大きくなりましたね。 近ごろ老眼が出てきかけている私には、まことにありがたい配慮。おかげで「記憶汚染」、快適に読むことが出来ました。中年にやさしいハヤカワ文庫であります(^^; これまで私は、ハヤカワ文庫はアニメ表紙でYA読者層に媚びを売っている、とばかり思っていました。 そうじゃなかったのですね。 大きな活字とアニメ絵の表紙――この一見相反する戦略には、実はたいへんな意味が隠されていたのです! それは何か・・・ 私は気づいてしまいました。つまり「老眼の出かけた」中・老年で、かつ「アニメ絵」を好む読者層こそ、何をかくそうハヤカワ文庫のメインターゲットだったのだということに(^^; そやったんか〜(ーー; 時の流れに/ポ−ル・サイモン(1975)編集済
大江さん >私が読んでいるのは、筑摩書房の「魔術と錬金術」です? おお、面白そうですね(^^) 私も近代科学の胞衣であり、今一つの科学としての錬金術には興味があります(でも残念ながら、ちょっとそこまでは手が回り兼ねるというのが現状です(ーー;)。 魔術と科学の間に断絶を見るか、連続を見るかで、魔術観は随分違ってしまいますね。 『記憶汚染』読了。 いやあ本書も「水晶内制度」も、どちらも大変面白かったです(^^) はやく感想文をまとめたい気持ちは山々なんですが、いま読書がすいすい進むサイクルに入っており、読む方を優先させております(^^; しばしお待ちを(どうせすぐに読めなくなっちゃいます)。 ということで、原田実『日本王権と穆王伝承』に着手しました。
ひっく、う〜い。まあ、これも人生ですね。ありがとう!!星野監督! 現在、私が読んでいるのは、筑摩書房の「魔術と錬金術」です? おやすみなさいませ♪
もうちょっと抵抗してほしかったですけど仕方ありません。相手の方が一枚上手でした。ダイエーさすが! 広沢が有終の美(たぶん)を飾れたのはよかった。 『水晶内制度』読了。 林譲治『記憶汚染』に着手しました。
大江さん 今日は負けちゃいましたねえ・・・体揺すり戦法、ころっと忘れていました(^^;ゝ それにしても黄金の左封じのパターンが確立したからには、それで押して行かなきゃ。あと1勝でいいんですからね。 ムーア先発、吉野、井川、ウィリアムスの小刻み継投だと、今日は思っていたんですが。 いくら一流でも、右投手でダイエー打線は押さえられません。 明日は先発井川で、あと左を並べるんでしょう。とにかく先取点ですね。 「水晶内制度」あと少し。編集済
今日はリアルタイムで見ました。「三つ勝っちゃった」(星野監督:談) 日本一になるには、甲子園で3連勝するしかないと思っていましたが、まさか本当に3連勝してしまうとは! 8回は、絶対に安藤を出すと思いました。出してくれと願いました。やっぱり、星野監督は出しました! 福岡での6・7戦、難しそうですが、一生、心に残る試合をしてくれれば、それで良いとも思っています。 管理人様、もっと、もっと、激しく身体を前後に揺らして下さい!
大江さん 今日もリアルタイムで見てしまいました。連夜痺れまくっております。監督の弁ではないですが疲れました(^^) アレクすてさん これで甲子園を離れ、地の利はダイエーに移りますが、阪神は左砲封じの黄金パターンが確立したことで、私は5分5分と見ております。が―― この甲子園3連戦で、実は私、ある法則を発見しました。それはチャンスに応援にあわせて私が体を前後に揺すると、タイムリーが出る確率が非常に高くなったのです。どうやら阪神のタイムリーと私が体を前後に揺することの間に、なにやら玄妙不可思議な連動性があるようなのです。まるで北杜夫のヨガ式阪神を優勝させる法みたいですが(^^; 今日は桧山のときには成功しましたが、沖原の時は効きませんでした。揺らし方が不足していたようです。 第6戦ではもっと体を激しく揺らして、阪神に勝利をもたらすつもり(汗) 笙野頼子『水晶内制度』に着手しました。編集済
阪神、また勝ちました!!ペナントのときも思いましたが、「甲子園」というファクターは、やっぱり大きいんですかねえ。 目が離せませんねえ。
泪なしには語れません。 阪神がサヨナラで勝ったということを知り、トラブルの疲れもふっとんで帰宅しました。 そして、ケーブルテレビで再放送を見終わりました。(明日のことなど考えず!) いやあ、結果を知っていてもこんなに緊張するとは! 凄い試合でした。こんな試合をリアルタイムで見ていたら、「白髪鬼」になってしまいます。
大江さん こんなことがあるんでしょうか、痺れました〜!!
安心してしまった為か、寝てしまいました。こそこそ起き出して書き込んでおります。 最後の勝利監督インタビューを聞いて、何故だか涙ぐんでしまいました。
いやあ、最後は無意識に正座して見ておりました。5分間立ち上がれませんでした。いえ足が痺れて(^^;
北杜夫『どくとるマンボウ医局記』(中央公論社、1993) やっぱり<どくとるマンボウ>ものはいいですね。「雑文を集めた」<マンボウ>ものと、「一定のテーマに基づいて」集中的に書き上げられた、いわば長編エッセイである<どくとるマンボウ>ものは、著者のなかでも画然と区別されているらしいことが、「あとがき」を読むと分かります。 「どくとるマンボウ追想記」以来17年ぶりの<どくとるマンボウ>ものである本書は、10年前の出版ですが、今までのところ一番新しい(おそらくは最後の)<どくとるマンボウ>シリーズとなりますので、これで私もこのシリーズは完読したことになります。 もっとも、私の場合「追想記」を76年の出版時にリアルタイムで読んで以来ですので、実に27年ぶりの再会というわけで、何とまあ歳月の流れ過ぎたことよとうたた感慨を禁じ得ません。 それにしても、なぜに27年ぶりなのかといいますと、80年代に量産された<マンボウ>ものの衰弱ぶりに、ある時期から読まなくなってしまったからに他なりません。 もとより「神々の消えた土地」や「母の影」のような、90年代の純文学作品は読んでおり、堪能していたわけですが、ことマンボウものに関しては「もういいか」という感じになっていたのでした。 しかし、<どくとるマンボウ>ものである本書は、著者の20代後半、大学卒業後、慶応病院の医局に入局してからマンボウ航海に出発する前あたりまでをテーマとしており、その当時の資料に基づいて書かれているからでしょうか、毫も衰弱したところはなく、きびきびとした往年の名文が甦っていて実に面白かった。 内容的にも、医局記と銘打たれているように、精神科の医者としての若き日の著者の姿が、著者が出会った患者たちの姿と共に生き生きと描かれていて、ユーモアエッセイというよりも、真摯な一種精神科の病院論といった趣きがあります。 当時も書き続けていた小説家としての著者のことは最小限に押さえられ、専ら精神科の医師と患者の関係について、著者が体験してきたことが正直に描かれていて共感を覚えました。 「青春記」と並ぶ<どくとるマンボウ>シリーズの双璧といってよい好篇でした。
リンド・ウォード『狂人の太鼓』(国書刊行会、2002) 奴隷商人がアフリカから持ち帰った太鼓は何をもたらしたのか。書物に埋もれた生活を送る男を次々に見舞う恐るべき死と厄災。グロテスクな想像力にあふれた120枚の木版画で綴る運命奇譚。←帯惹句 木版画による(文字のない)小説の試みです。 こういうのに出会うと、人はすぐ想像力を働かせて自由に読めばよいと、きいた風なことをいいます(たとえばbk1の当該読者書評)。そんなはずがないでしょう。 タイトルの下に記されたA NOVEL IN WOODCUTSが示しているように、本書は「小説」として構想され、そのようなものとして完成されたものなんですから、読者の恣意的な空想の入り込む余地は原理上あり得ないはずです。 読者は木版画の1枚1枚を目を皿のようにして眺め、否、凝視め、作者が表現しようとした「或る」ストーリーを、版画のなかに残された手がかりをもとに読みとらなければならないのです。 そういう意味で、この「謎」めいた書は、読者たる私の前に峨峨たる山脈として聳え立っています。 私が感じる「謎」は、しかしある意味作者と私の<距離>に比例しています。 すなわち1905年に生まれ1930年に本書を上梓したこのアメリカ人版画家が呼吸した文化・教養圏と21世紀の日本に住まう私のそれがあまりに隔絶しているために、読みとれない部分が少なからずあるようです。というとかっこいいですが、ただ単に私がもの知らずなだけであるのかも知れません。 たとえばスフィンクスが描かれた書物の画のあとに、主人公が十字架を投げ捨てる画が並べられているのですが、このつながりが正直なところ私には掴めていません。 また望遠鏡の画→ハレー彗星の画→天文学の論文の草稿の画→天文台で学者がその草稿を読んでいる画は、主人公がキリスト教的な世界観から近代科学的世界観へ目覚めた経緯を私は現していると読んだのですが、科学者の顔はあざ笑っているようにも見え、そうすると天文学とは相容れない宇宙論なのかとも思えてきます。 骸骨に女性が口づけしている本の画や、労働者の蜂起を促すパンフレットなども、あるいは当時の作者の教養体系のなかでは、自明の意味を担う記号なのかも知れません。 そういう意味では、読み解く鍵となる解説がほしかった気がしますが、だからといって放縦に勝手読みしていいというものではないのは当然です。 というわけで、本書はいまだに私の前に謎めいて聳え立っているのですが、読み解くための鍵を調べる余裕は今のところ無いというのが正直なところです。
眉村先生のエッセイ「卓通信」第2号の2「卓ちゃん人形」を掲載しました。トップページよりご覧下さい。 前回からずいぶん時が経ってしまいました。反省。次回はもう少し早く更新したいと思います。編集済
(つづき) 本書ではこのような会話文が多用されています。会話文で進んでいく小説はあまたありますが、私はこれを「演劇的」と「落語的」に大別できるのではないかと思います。前者の代表は、いうまでもなく筒井康隆ですが、本書の著者は後者にあてはまるのではないでしょうか。そう推測させる手がかりが上の場面転換の手法です。 ところで、この落語風がさらに進化して、「演劇風」になった場合もあります。とりわけ掉尾を飾る「闇鍋奉行」の最終部のナンセンスの極致は、さながら筒井康隆の再来かと見紛うばかりの華麗さで私を魅了しましたが、このような展開のもって行き方や速度感を、筒井は演劇から学び進化させたのですが、著者は(もし演劇体験がないのであれば)それを落語から独自に進化させたのではないでしょうか。 本書のユニークさは、このような、会話重視の文体や落語の定型的作法、演劇の臨場感と速度などに多く拠っているのではないかと思います。 このほか、「飛び小母さん」の出だしがまさに乱歩のパスティーシュであるように、乱歩以外にもミステリーの名作へのオマージュが散りばめられているようで、その辺の仕掛けもおさおさ怠りなく、ミステリファンをニヤリとさせます。 かように、本書は他にちょっと類例のないユニークな魅力にあふれた傑作短編集であり、最近のSFは痩せてしまったとお嘆きの貴兄にぴったりの、実にうれしい贈り物であると確信しております。 他に、 「隠密行動」(SFM02年5月) 「若松岩松教授のかくも驚くべき冒険」(HMM93年11月) 「飛び小母さん」(SFM01年7月) 「愛の陥穽」(SFM00年4月・5月) 「トップレス獅子舞考」(HMM96年11月) 「闇鍋奉行」(書き下ろし) どれも甲乙つけがたい。すべて面白いです! 草々。編集済
前略、 深堀骨『アマチャ・ズルチャ柴刈天神前風土記』(ハヤカワJコレクション、2003)とても面白かったです。 随分奇妙な小説が8篇収められています。帯にスタージョンとラファティの名前が挙げられていますが、これは全く別種の作風でしょう(大体スタージョンとラファティ自体が互いに異質であります)。 たとえば、「バフ熱」(SFM99年9月)は、 ――矢田部医師は、史郎をバフ熱であると診断する。バフ熱は浅蜊に似たバフ貝を食うと感染する。浅蜊とよく似ているので、最近食卓に上がるケースが多くなった。感染すると患者は「バフバフ」としか言えなくなるのだ。そうこうしているうちに三軒先の人が「ブハブハ」としか言えなくなるブハ熱に罹る。「ブハブハとしか云えないよりはバフバフとしか云えない方が、何か男っぽいっていうか、一本芯が通っているって感じがするじゃない」と妻。「そうかな」妻の言葉は史郎には些か理解しかねるのだったが、とにかく発病しないうちにとイカを原材料にした洗濯干しの最中につまみ食いすることもできる洗濯ばさみの開発にさらに力を傾注する。それが当たり史郎は大金持ちになり、大往生を遂げる。遺言状が発見され開封されると…… という話。 また、「蚯蚓、赤ん坊、あるいは砂糖水の沼」(HMM92年11月)は、 ――1日の勤めを終えて帰宅途上の田々口牛於が、ある日ためいきらしいものを耳にして、思わずそっちを見るとそこにコインロッカーがあった。それがずっと気になってなじみの飲み屋でしゃべっていると、隣にすわった外人が異様な関心を示す。かれは国際「物の霊性」研究学会日本支部長であると名乗り、それは早速赴いてあらゆる面から調査検討せねばならぬと、去っていく。翌日、気になった牛於が勤めからの帰宅途上コインロッカーに立ち寄ってみると…… というような話。(*ちょっと定かではありませんが、この作品には乱歩が隠されているように思われます) 時間がないので、あらすじ紹介はこれだけにしておきますが、全篇このような、実にもって変てこりんな「日常だけど、ただしどこにもありはしない日常」が活写されています。私は北杜夫のユーモア小説を、もっとゆがめ突き放したような印象を持ちました。北杜夫のユーモア小説も、一見日常的な世界を描きながら、しかしその世界は、誇張された奇妙奇天烈な作中人物たちで満ちています。一見古風な文体も、北杜夫的だと思ったのですが、著者のインタビューを読むと、文体は漱石の影響とのこと。とすれば北杜夫は著者の年の離れた兄に当たるわけで、なるほどと納得しました。 また著者は、落語の影響も強く受けているようで、プロットの展開の仕方は落語の定型を意識している部分が多々あるように思いました。たとえば「バフ熱」22pで、矢田部医師と史郎がしゃべっています。当然場所は医院です。まず矢田部医師が、 「そりゃあ、分かりませんや」 「無責任ですね」 「無責任。冗談じゃない(……)現在の医学が悪いんです(……)ということで、事情はお分かりかな」 「なんだ、あの藪は」帰宅した史郎は憤懣やるかたない表情で語った。 という風に、改行のみで、場面が変わってしまっています。この手法は本書では多用されています。 これはまさに、落語の場面転換と同じですよね。この絶妙の間合いがいいです。 (つづく)編集済
(つづき) 8)私は廃墟への道を歩いている。「植物園」まで来ると今夜の夜会の出席者たちがたむろしていた。植物園は植物の芽をなかに閉じこめた結晶が転がっている。廃墟で行われるのは自殺パーティ。そこで私はリュミアと出会う。私は彼女を知っていた。なぜなら彼女がマネキン人形となって空を飛んでいるのを見たから。その後私はリュミアと親しくなり、彼女のアパルトマン(8階)へ招待される。その後アパルトマンへ出かけて行くが、エレベーターが5階までしかない。また出かけたとき、部屋に鍵が掛かっていない。私が扉を開くと、ベッドで、リュミアの上に巨大な爬虫類が覆い被さっている。私は広々とした草原にいる。遠くに何かが転がっている。近づくと、白いマネキンが草のなかに横たわっている。マネキンの股間から生々しい血が流れ出していた―― 9)私が歩いていると、ビルとビルの間から、黄昏時の長い影が伸びていた。私が踏むと、叫び声が聞こえ、たどっていくと影の先に老人の首が突き出ていて、「わしの体を踏んだな」。左右両端からは生きた手が出ていて、ローラーの両端の鉄棒を握っている。老人は自らの体にローラーをかけて、眼だけを残して死に至る訓練というのをしているのだという。老人は女たちを捕まえてはローラーをかけるが、彼女らの影は黒くなく赤みを帯びている。それは女どもが肉の醜さを認識していないからだという。私は、策を弄して捕まり、ローラーにかけられる―― 10)夕暮れが始まりかけていた。私は同窓会に出席するのだが、急がなければ間に合わない時間になっていた。何とか列車に間に合い、乗り込むが、じっと私を見つめる男の子が気になり、間違った駅で降りてしまう。次の列車は40分後。ところが案外早くやってきた列車に乗り込むと、それは違う方向に向かう列車だった。やむなく次の駅で下車し、夜道を歩き出す。矢印の張り紙があり、それをたどっていくと、一軒家が現れた。そこでは男たちが自殺について議論をしている。突然おまえは何者だと問いかけられる。黙っていると写真を撮られる。「外形を取るのではない。おまえの想いを撮るのだ」。写真に写っていたのは子宮で、その中にいるのはくだんの男の子だった。夜の次には夜があり、また夜の次には夜ばかりがあった―― 主調音をなすのは、著者の、自身の内にもある「女性」あるいは「肉」「業」への嫌悪である。それがすべての作品に共通するといってよいドッペルゲンゲル殺しというモチーフに結実しているわけだが、そういうことを措いても、上に要約したようにシチュエーションが奇妙でとても面白い。 あんがい私自身にあう作風であることがわかったので、今度は文芸誌デビュー当時の作品を集めた『彼方の水音』という作品集を読んでみようと想う。
著者の第2短編集ながら、同人誌時代の作品を集めており、実質的にデビュー作といえる。 時系列に沿って並べ替えると―― 1) 「きらめき」S40年4月(白描3号) 2) 「化身」 S40年7月(白描4号) 3) 「白夜」 S41年8月(白描6号) 4) 「交わり」 同上 5) 「半音階的幻想」S41年12月(白描7号) 6) 「眼」 (南北 S42年5月号) 7) 「神秘の湖」(三田文学 S42年6月号) 8) 「リュミリア」S43年11月(白描9号) 9) 「骨の城」S44年11月(白描10号) 10)「乗車錯誤」(早稲田文学 S47年1月号) 1)或る黄昏時、私(女)が見知らぬ駅で降り、迷路のように曲がりくねった道をあてもなく歩き回っていると、突然小さな野良犬がかみついてくる。思わず拳をふるうと、いつの間にか5,6歩先に子犬とそっくりな眼をした老婆と少女を二重写しにしたような婦人が立っていて、ぐんぐん近づいてきて、「私の魂をなぐったのね。私の魂にげんこつを喰らわしたのね」とかすれ声でいう―― 2)冷害に襲われた地方に、私(女)は一枚の古い羽織を救済物資として供出する。その後その羽織が空を飛ぶ幻を、私は見るようになる。2年後、汽車旅行していた私は、或る駅で乗り込んできた若い女性が、くだんの羽織を身につけているのを見かける。衝動的に彼女の前の席に座り、話をする。10日後、彼女から手紙が届き、彼女の娘殺しの顛末を知る。それはまるで自分の過去と同じものだった。私は彼女の家に赴き、羽織を燃やす。彼女の顔から過去の私にそっくりな表情は消え去り、そこにはありふれた農婦の顔があるばかりだった―― 4)うらぶれて黒くすすけ、果てしなく入り組んだ裏街で、その女は突然私(女)に立ち現れた。それからは日々に現れるようになる。私たちは一日、また一日といっそう深い、いっそう強烈な感応を発見していく。私は問う「あなたは誰」。短刀を取り出し、「せめて私の名前を告げさせて下さい。私の頭文字をあなたの肩に彫らせて下さい」私は住宅街の闇のなかを盲滅法に歩いている。左肩がずきんずきんと痛んだ―― 5)鏡と鏡の間に立って、私の前後に無限の私がいる。私はそのような鏡の一枚をめくる。それは硬い感触ではなく、妙にとろけたような手触りで、たちまち私を難なく通過させる。次の一枚をめくる。さらにもう一枚……鏡面の奥へ奥へとはいっていく―― 7)私は一人で遠いところへ来ていた。そこで金色に光る髪と深い青い瞳を持った少年と知り合う。少年は私をいろんな所へ案内してくれる。金色の木漏れ日がひらめく林の奥に深い青をたたえた神秘の湖があった。少年は湖の畔にいる。私はふらふらと少年を追いかける。少年が手招きする。気がつくと湖の漁師に助けられている。「季節はずれの宿になあ、女客が一人で泊まっていると、宿の者はひどく気にするもんでな」。「全然そんなつもりじゃ……」と私。「おじいさん、このあたりに外国人が住んでいますか。金髪の男の子が」そういった途端、私は酸っぱい水をたっぷり吐く―― (つづく)
すみません。やはり感染していました(既に駆除済)。大容量メールは、アメリカ在住の弟からの近況画像でしたので問題なかったのですが、、、 原因は先日最新版をダウンロードした筈なんですが、駆除ソフトがいつの間にかなくなっていました。ていうか半分眠りながら不要ファイルを削除しているときに、誤って削除した記憶が、、、 まことに申し訳ない限りですが、添付ファイル付きメールはどなた様にも一切送っていませんので、対処よろしくお願いします。 ところで、先ほど書き落としましたが、出来立てのほやほやの人外境ご主人の労作『江戸川乱歩著書目録』の現物が、大宴会で披露されました。めでたいめでたい。 大宴会参加者には特別に献本して下さるそうです。ラッキー! しばしお待ちあれ>大宴会参加のみなさま(^^) 編集済
河本さん >タイトルが「Re:」だけの添付ファイル付きメールが差出人「OKUMA」で来ました。 ウィルスですね。ご迷惑をおかけしました。その結果河本さんのメールアドレス名義でウイルスメールが、河本さんのアドレス帳などにあるメールアドレスに対して発信された可能性があります。申し訳ないですが対処よろしくお願いします。 実は、おとといメールを受信しようとすると、超大容量のファイル付きのメールが受信されてきて、これはウイルスメールかも(ある方にお願いしている眉村関係に画像かも知れないのですが)、という訳で、この二日間(忙しかったので)受信を中断したままにしております(この一両日メールを下さった方がいらっしゃいましたら、そのような次第でメールを読めておりません)。 なんとか処理しようと思いますが、誤ってまた感染メールをまき散らす可能性なきにしもあらずです。あらかじめお詫びするとともに、対処よろしくお願いします。>ALL >自由でなくても「言語」を使わないと人間でなくなる だから「不条理」なんですね。 最近の若者言葉「だせー」(ださい)、「たけー」(高い)、「はゑー(haye-)」(早い) など、形容詞語幹の子音[a]+その終止連体活用語尾[i]=[アイ]が、[エー]と発音されはじめました。これは日本語がフランス語化していく現れではないかと愚考しております(汗)。例aimer, gai, clair その結果、hayai→haye- のように上代語ゑが復活しているのは興味深い現象ですね。 大橋さん >何度もカキコしてすみません とんでもない。ありがたいです。どうぞ何度でもお越し下さい。 コンテンツ拝見しました。いやーやはり21世紀のジュブナイルって感じですね>イラスト(^^) SF新世紀の起爆剤になってほしいです。もう一度、ジュヴナイルSFからスタートしましょう! ということで、リンクを(当掲示板の上の方に)貼らせていただきました。 さて、土曜日は畸人郷、日曜日は名張人外境と、連日の大宴会でした(^^) とりわけ名張人外境開設4周年記念大宴会は、名張市長さんも顔を出して下さいまして大盛会となりました。 一年ぶりの名張でしたが、去年のことがついこの間のことのように思い出され、本当に歳を取ると一年が早くて悲しいです。 プレ企画の読書会も4名が集まり、やはり4人の衆知を集めますと、『狂人の太鼓』の全貌がそこそこ見えてまいりました。まだまだ奥が深いですが。 というわけでみなさまお疲れさまでした。
冒険ファンタジー名作選 図書館の片隅で僕たちは胸をわくわくさせながらSFを読んだものでした。 その、ジュブナイルSFのシリーズを数多く出版していた岩崎書店が、 久しぶりにジュブナイルSFを発刊しました。 岩崎書店が過去に出した「SFこども図書館」(1976)を底本としてセレクトした10冊。 訳はそのままにイラストレーターを変更しての発売です。 学校図書館を中心とした販売で、一般書店で直接、売られることはありません(注文は可能)。 その「冒険ファンタジー名作選」を、大橋は、勝手に応援しています。 http://www.kuusoushounenn.jp.org/ 岩崎書店に『購入ページを作ってくれ。宣伝するから』とお願いして、出来たページが、 http://www.iwasakishoten.co.jp/shop/new/new.html です。『あじゃ〜』という感じです。 しかも、岩崎書店のサイト http://www.iwasakishoten.co.jp/ からすぐにわからない。上のページを見つけた人は偉いです(笑)。 しかたがないので、自分で作っちゃいました。 http://www.kuusoushounenn.jp.org/iwasaki/ インターネットでどこまで売れるか? ちょっと実験的な意味もあったりします。 ちなみに、私と岩崎書店は何の関係もありません。 誤解のないように・・・・。 よろしくお願いします。 何度もカキコしてすみません。
大熊さん >ウイルス? タイトルが「Re:」だけの添付ファイル付きメールが差出人「OKUMA」で来ました。 クリックしたらO.E.が終了してしまった。 (^^;) こんなメール送りました?それともウイルス? >ディッシュの「プリズナーNo.6」 たしか実家に置いてあるので、今度捜してみます。 >我々が日常用いる「言語」そのものが「不自由」なんだといっているんですよね 自由でなくても「言語」を使わないと人間でなくなる。>ぼくはあまり人間ではないので、「不自由な言語」からは自由です。「自由な言語=数学」は愛用しています (^^) >「じゃん」と「やん」 スペイン語の「lla」は「ジャ」と言う地方と「リャ」または「ヤ」という地方があるそうです。 何か対応関係があると面白いですね。>たとえば、北の地方が「ジャ」で南が「ヤ」とか 編集済
そんな厄介なものを抱えて私がふらふら歩いていた道で、(……)私はアンドレ・ブルトンという人に出会った。その人は、すれ違った私に、ちょっと合図のような仕種をしてくれた。その瞬間、人に話してきかせようもなく話してきかせても納得してもらえそうにないと私が思っていたものに、文学的表現を与えることが可能なのだと私は悟ったのである。この本に納めたような小説が次から次へと私の頭のなかから出てきたのは、そのような次第である。きっかけとなったアンドレ・ブルトンという人には、私は一度すれ違っただけで、その後会ったこともなく、それにまた、これらの小説はその人にほとんど似ていないはずである。(『骨の城』あとがきより) 高橋たか子『骨の城』に着手しました(10篇中5篇読了)。 巻頭の表題作は安部公房風というかシュールレアリスム。肉的なものを没却するために体にローラーをかけてぺしゃんこの影と化す。 「化身」は超自然ホラーの傑作。 全体に、黄昏時に一瞬姿を垣間見せる不思議、狂気、幻想、を捕獲したものといえるようです。いいですねえ(^^)
桂米朝×筒井康隆『対談 笑いの世界』(朝日選書、2003)読了。 昼休みに立ち寄った書店に積んであって思わず衝動買いしてしまいました。 筒井 ところで、当時の寄席で浪花節というのは意外ですね。結構受けてたんですね。 米朝 受けてましたよ、もう。大変な力を持っていた。(76p〜77p) これは先月読んだ『<声>の国民国家・日本』の傍証ですな。 筒井 それが(管理人注旭堂南陵の)演目がいつも同じで「難波戦記」の「清正の鬚汁」(管理人注「荒大名の茶の湯」)。あれが嫌いでね。 (中略) 米朝 最低のお客のときにやるねやな(笑)。(77p〜80p) そうですか、名探偵ナンコの客は最低でしたか(^^; 米朝さんが相手だからだろうが、最近の筒井らしくなく、傲慢ではない(^^;。上手に米朝さんから話題を引き出し、かつ自身でも語り、それがまた米朝さんの中にあるものを引き出す契機となっている。 つまり帯の惹句ではないですが、両者ともに達人であることによってなし得た、もっとも理想的な「対談」を実現しています。資料的価値もあり、手許に置いて損はない本です。編集済
『アマチャ・ズルチャ』読了。感想文はもうすこし時間がとれるときに。 つづいてリンド・ウォード『狂人の太鼓』(国書刊行会)読み中。というかながめています。これは<名張人外境>大宴会プレ企画である南湖さん主催読書会の課題図書。 字のない小説なので、とりあえずすぐ読み終わるんだけど、自分でストーリーを想像しなければなりません。うーむ、むずかしい!!編集済
河本さん >あれは全体主義社会のメタファーだと思っていました。 テレビの「プリズナーNO6」はそのとおりですね。 ディッシュの「プリズナー」は、ドラマの原作ではなく、ノベライズですね。全く違う話になっているので、もはやノベライズではなく別個の作品と考えた方がいいかもです。 >大衆は統制・管理されているのだ、ということなのだろうなと 毎回冒頭で、マッグーハンが「私は自由だ!」と叫びますよね。あれにテーマが集約されているのかも知れませんね。 ディッシュ版は、もひとつ踏み込んで、それではそのようにして奪い返そうとしている自由とは、ほんとうに「自由」なのか? そもそも自由とは何なんだろう、と問うているのだと思います(たとえばWSバロウズは、我々が日常用いる「言語」そのものが「不自由」なんだといっているんですよね)。ラストのばかばかしさは、ひとつの解答なんでしょう。 未読ならぜひお読みになることをお奨めします(^^) 深堀骨『アマチャ・ズルチャ』読み中(残りあと1篇)。これは大傑作です!!編集済
大熊さん ずっと前の書き込みで、不条理SFの例の一つに「プリズナーNo.6」を挙げておられましたが、あれは全体主義社会のメタファーだと思っていました。 むか〜しNHKで放送されていたTV版の「プリズナーNo.6」は、主演・製作のパトリック・マッグーハンが、ソ連の共和国の一つを旅行していて、ディッシュのSFを映画にしようと思ったと話していたのを覚えています。>原作もそうなのかは定かでない。持っているけど読んでないや TVは全部見ていました。彼の言いたかったのはいわゆるコミュニズム国家・全体主義国家だけではなく、民主主義と思われている社会も同じように、大衆は統制・管理されているのだ、ということなのだろうなと、最終回のそれを暗示する場面を見ながら思ったものでした。 何十年か経って、「プリズナーNo.6」そのまんまな世界になってしまいましたね。>英社会の異常な数の防犯カメラ、静止軌道を巡る米・エシェロンのアンテナ、米によって標準化された暗号、日本の住基ネット、など 編集済
川田武『戦慄の神像』(角川文庫、1981)読了。 元版は1978年の発行。 衆院選奈良全県区で、大番狂わせが起こる。泡沫候補の藤堂正道が地すべり的な得票でトップ当選したのだ。藤堂は議員になるや、奈良の山岳地帯の宇陀を工業地帯として開発するという計画を発表し、熱狂的な支持を受ける。藤堂には、人を惹きつける不思議な力があるらしい。しかし、逆に数は少数ながら一定の割合で藤堂に過剰に反感を示す者も存在した。 やがて、藤堂が藤原鎌足の直系の子孫であり、全国の籐氏が彼の計画の元にはせ参じていることが明らかになってくるとともに、彼に反感を示すグループが、かつて古代に藤原(中臣)氏と神祇において相競った忌部氏の子孫であることがわかる。 実は中臣と忌部は宇宙人の末裔で、地球に飛来する前からの不倶戴天の敵だったのだ。 藤堂は、鎌足の再来というべきその予知能力で、地球が滅亡に瀕していることを知り、藤氏を含めた多くの人類を宇宙に避難させようと宇陀に大宇宙船発進基地を建造しようとしていたのだ。 しかしその強引ともいえる計画の実行は、忌部の策謀もあって次第に人心を乖離させる方向に進み、宇陀は自衛隊によって攻撃される。 藤堂の計画は灰燼に帰すが、わずかに残った藤氏専用の宇宙船(地球に飛来したとき乗ってきたもの)に、藤堂の種を宿した藤氏の娘たちが乗り込み、宇宙へと去っていく。その中には、藤氏と忌部氏の血を両方受け継いだ娘が、主人公である土着地球人のとの愛の結晶を懐胎して乗り込んでいた。…… やがて地球は全世界的な大地震によって壊滅する。 という話。かくのごとく非常に荒っぽい、強引なストーリー展開なのですが(なに半村良だって結構強引だった(^^;)、読んでいる最中はそんなに違和感を感じないで読めました。いやむしろ大変面白く、ページを繰るのももどかしく読了しました。 中臣と忌部の古代氏族の抗争を現代に甦らせた設定が面白い(ムリムリですが(^^;)。まさに半村的な伝奇SFのパターンを踏襲した作品で、期を画するような傑作ではないけれども、いかにも70年代SFらしい、エンターテインメントとして十分娯しめる出来上がりとなっていると思いました。 こんな面白い話を作れる作家が、どうして書くのをやめてしまったのでしょうか。この作者が書き続けなかったのは、おそらくは、本業のテレビディレクターの仕事が忙しくなってきて、最終的に本業の方を選択したということではないでしょうか。まことに残念だったというほかありません。 書き続けていたら、古代史SF作家として一定の評価を得ることが出来たと思います。 もっとも、久野四郎の場合とは違って作家としての意欲はもっておられるようで、最近また書き始めているようですね。この人、もう還暦は越えたはずで、本業も第一線からは退いて、また執筆する環境が整ってきたのでしょうか。楽しみです。どんどん書いていただきたいものです。編集済
大橋さん >今、岩崎書店から、「岩崎書店 冒険ファンタジー名作選」が届きました。 これでひと安心ですね(^^) とりあえずはよかったよかった! あとは好評に売れてくれるのを祈るばかりです。 かくいう私も、小学校高学年の10歳くらいからかな、上のような少年ものSFシリーズを買ってもらったり図書館で借りたりして読み始めたのが、まさにSFにはまりこむきっかけでありました。 しかもそれは、同時に科学に対する興味とセットになっていたのでした。 といいますのは、大概の少年ものSFシリーズには、巻末にSF(疑似科学)解説と科学解説が付いていたのです。疑似科学解説は福島正実が、科学解説は日下実男が執筆していたでしょうか。 たとえば(ホントに思いつきのたとえばですよ)当の岩崎書店 「冒険ファンタジー名作選」全10巻 の第1巻に収められる『ロストワールド』であれば、私なら疑似科学解説でまずロストワールドものとはどういうものかを解説するでしょう。そしてペルシダーシリーズや同じくバローズの「時間に忘れられた国」のあらすじを紹介します(もっと適当な作品があるかも知れませんが、いまは浮かんできません)。「ジュラシックパーク」をつなぎとして、つづいて恐竜ものということで豊田さんの「ダイノサウルス作戦」を紹介し、恐竜人という疑似科学アイデアについての説明に持って行くでしょう。 科学解説では、これはもう恐竜学といいますか、ジュラ紀白亜紀の恐竜の時代とはどのような時代であったかを、たとえば金子隆一さんなんかに平明に書いてもらうでしょう。 昔の少年SFシリーズは大概このような構成だったように思います。 このような次第で子供の私は、SFの面白さと科学への興味が、いわばセットとなっていたようです。 で、これは実は福島正実さんの深謀遠慮だったのだと思うのです。こうしたかたちでSFを刻印されたものは、SFをファンタジーの一種としては読まず、それがいかに荒唐無稽であっても、あくまで科学を意識した空想小説として楽しむようになってしまうのです。 現在のSF核層は30代後半〜40代であろうと推測されるのですが、まさにこの世代は、福島さんの将来のSF読者育成計画(笑)にまんまとはまった者たちだと思われます。 大橋さんのサイト「空想少年」のリストによれば、1976年に福島さんが亡くなったあと、少年SFシリーズ的な企画は姿を消してしまいます(わずかに1977の『SFシリーズ』/インタナル出版、 1982の 『少年SF・ミステリ文庫』/国土社、1984の『ポプラ社のSF冒険文庫』/ポプラ社、1986に 『SFロマン文庫』/岩崎書店と散発的に出ていますが、未見なので推測ですが、福島さんのねらったコンセプトに沿ったものではなかったのではないでしょうか)。 その結果、我々の世代に続かなければならない「将来のSF読者」が育成されず、90年代の冬の時代を招来したというのが、私の考えるSF衰退のメカニズムなのです。 1976年に10歳だった人(1966年生まれ)は現在37歳なので、まさに核世代の最後衛であるといえるのではないでしょうか。かれは(順調なら)1988年に大学を卒業し、社会人となり読書量は激減するでしょう。即ち1990年代の冬の時代の始まりであります。 それより若い世代は、SFをファンタジーとして読んでしまうので、プロパーなSF読者とはなりがたいのです。編集済
今、岩崎書店から、「岩崎書店 冒険ファンタジー名作選」が届きました。 やはり、科学解説はないものの、「SFこども図書館」にあった、前書き、あとがきは、その ままになっていました。
原田さん ご教示ありがとうございました。 そうですか、やはり吉野ヶ里の南方には海が広がっておりましたか。 おお、私には目に見えるようです。楼観から見はるかす筑紫内海は駘蕩として波もなく、水鳥の浮かぶ水面には、漢人や韓人の交易船が行き交っております。 そして、水の彼方にうっすらと見えているのは、筑紫内海南岸に広がる八女の丘陵地帯であります。楼観からは水平線に隠れて見えないその麓に、邪馬台国(の前身?)の都城が広がっていたのではないでしょうか。 これではまるで、ヒロイックファンタジーの舞台ですね。しつれいしました〜(^^;
本当に見られなくって残念・・・と南湖先生、どうもすみません。 さて、現在の筑後川下流に海が入り込んでいた、というのは 単純に海抜と水位の問題です。 弥生時代前期には吉野ヶ里丘陵の眼下に海が迫っていたはずで、だからこそ 海上をみわたすための楼観を建てる意義もあったものと思われます。 http://www8.ocn.ne.jp/~douji/
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/
中国初の有人宇宙船の名前は「神舟5号」なのだそうな。 唯物論の国にあるまじきネーミングですな。あ、もう共産国ではないのかっ!オー・マイ・ゴッド(^^;ゝ 大橋さん >「SFJapan」の原稿を今日、入稿してきました お疲れさまでした(^^) >「冒険ファンタジー名作選」 >私のサイトで紹介文を掲載しました。 拝見しました(他のコンテンツはあとでじっくり見させていただきますね(^^))。 「SFJapan」は、ずいぶん眉村さんがコミットされているようで、たのしみです〜。 「火星のプリンセス」の表紙画、いいですねえ(^^)。今風の構図でありながら、しかしYA風ではないという、実に微妙なニュアンスを見事に表現していますね。とてもいいです! さすが大橋さんたちのメガネにかなったイラストレーターさんだけのことはあります。他のイラストレーターさんも期待がもてますね(^^) #これで科学(疑似科学)解説があったら完璧だったんですけどね。しかしそれは望みすぎというもの(^^;。このシリーズがきっかけとなって、ジュブナイルSF、どーんと復活してほしいです。 >今回のこのシリーズが次の世代のファーストインパクトになることを願っている。 同感です。 今頃、畸人郷狂虎会の祝勝会が行われているはずなんですよね。でも私は欠席なのです(ーー;。月末の翌日である今日は、わたし的にはいかにも日が悪いのでした(行けたら行くつもりだったのですが)。申し訳ない>狂虎会のみなさまm(__)m それにしても行きたかったなあ。