<卓通信>に、村上知子さんの「母のこと」を掲載しました。編集済
矢作俊彦『ららら科學の子』(文藝春秋、2003)読了。 初出〈文學界〉97.6〜01.11 たまに十代の頃の写真を見ると、当時の顔と現在の顔が(同一人物であるということは当然わかるとしても)ずいぶん面変わりしていて、若い頃はこんな顔してたんだな、と驚くことはありませんか。 自分の顔ですから毎日鏡で見ています。日々の単位ではその変化に気づくことはありません。 それを、たとえば30年という時間をすぱっと切り取って、30年前の顔と現在の顔を突き合わせてはじめて、その変化に気づくわけです。 これを安部公房は、たしか〈微視的連続感〉に埋没して変化に気づかない状態、と表現していました。そしてかかる〈微視的連続感〉を打ち破る装置としてのSFの存在意義を高く評価していたと思います(それは新潮文庫版「第四間氷期」のまえがきに書かれていた筈なのですが、現在新潮文庫版が手許になく、「安部公房全作品」(4)をあたってみましたが、まえがきはカットされていました(ーー;)。 眉村卓も、「幻影の構成」で、それをコンフォーミズムの問題として考察しています。 じつは本書の方法論も、かかるSFの手法と同じと行ってよいと思います。 「第四間氷期」において、安部公房は、現在を未来から断罪するわけですが、本書は30年前の1968年から、現在を逆照射します。 30年前、主人公は過激派の学生で、警官殺人未遂ということもあって、当時文革のさなかの中国へ逃れる。いろいろ苦労し、30年後、蛇頭の手引きで日本に戻ってきます。 中国での生活がいろいろ描かれていますが、それが主人公の人間性を変えてしまうことはない。これは不自然です。その結果、中国での描写が妙に現実感がないのですが、作者の本意が「1968年の目で現在の日本を視る」ことにある以上、仕方がない。 主人公は30年前とそのままの心性をもって、1998年にやってこなければならないのです(だからラストは唐突)。 こうして30年前の視線が捉える現代トーキョーは、30年間微視的連続感の中で変化を意識し得なかった読者に、その変化をまざまざとみせつけます。今、当たり前と感じている社会現象は、30年前の目には明らかに当たり前のものではないのです。「現在」は明らかに30年前の「未来」ではないのです。 30年前の世界が想像した未来像――それは鉄腕アトムに代表される未来。 しかし、 あの過去と、この未来がどこか繋がって見えない(327p) と主人公は感じないではいられません。 以前にも書いたが、矢作は庄司薫の正統な後継者かもしれない。 本篇の主人公はおそらく1950年生まれ。矢作自身がそうだ。そして小説薫くんシリーズの主人公薫も、まさに1950年生まれなのだ。 ハワイにいて、電話のみで、30年ぶりにふらりと舞い戻った主人公に、変わらぬ友情を示し援助を惜しまない志垣は、まさに「ぼくの大好きな青髭」において電話でしか登場しない小林と同じポジションであります。 読みはじめてすぐ、10数ページも進まないうちに、私はうるうる状態になり、読み終えるまでそれは持続しました。そうなんだ、そうなんだという共感が身内に膨れ上がってきて仕方がありませんでした。。 私たち世代が10代に漠然と感じていた未来と、現実となった「未来」である現在は、違うものであることに、微視的連続感に埋没していた我々の世代はなかなか気づかず、いつの間にかそれを受け入れていました。 本書はそれを弾劾するわけではなく、そっと示してくれています。現代の象徴ともいうべき〈携帯電話〉が、実にうまく使われています。 昭和25年生まれの彼らに、私の世代は少し「遅れてきた」世代ですが、彼らの心性は、少なくとも私の世代には届いています。 それがどこまで届くものなのか、はなはだ心許ないのですが、アトムの未来を持つ30年前と、この現在である違う未来をぶつけて見せた本書は、まさしくSFの効果を十全に駆使した本年度最高最良のSF小説だといってよいと思います。編集済
E・キングさん >最近読書感想で名前を見受けられましたが 笹沢左保は、ミステリーは全く読んでないのですが、股旅ものを中心に時代小説は10冊ほど読みました。 今はまっている〈地獄の辰〉も第3巻を既に入手しておりまして待機中です(^^;。 シモンズという作家は、そうしますと非常に作風が多彩なようですね。逆に言えば、何でも書ける器用な作家、というイメージもわいてきました。 おっしゃるように、長編を読み込まねば作家像は確定できそうもないようですね。 〈火星シリーズ〉ですが、今回第1巻を読み返して見て、予想外によくできていて驚いています。イメージでは2巻、3巻の怒濤の展開に比べてややおとなしいかなという感じだったのです。 ともあれ、第3巻までは一連の物語になっており、1巻をお読みになったのでしたら、少なくとも第3巻までは通読された方が楽しめると思いますよ。編集済
今日は読んでみたりしました。これは普通にミステリ長編なのですが。知り合いの方に薦めてもらっておきながら、長らく積んでおった作品の一つでした。こちらでも最近読書感想で名前を見受けられましたが、その影響下な選択なのかも知れません? >管理人様 いやはや先の事は失礼いたしました。 >>やっぱりホラー系でしょうか? いえ、ゾンビやベトナムというのはこの作品集の中で比較的目だった特徴的な題材を取り上げただけで、さほど端的に作風を表す意味での発言ではありません。 全体的にホラーと呼べるほどの怪奇幻想色は少ない作品集ですね。生ける死者テーマ、ないしヴァンパイア・テーマを用いた「黄泉の川が逆流する」「最後のクラス写真」「ドラキュラの子供たち」等がありますが、それらもホラーというよりは、反自然的な要素がさもありふれたもののごとく混在することで、独特の味わいを成す世界を織り成しています。「黄泉の川が〜」は死者蘇生の魔術?の存在を裏に仄めかす奇妙な余韻を残す作品で、まあこれが唯一のホラーらしい作品といえるかもしれませんが、これが「最後のクラス写真」になると、ゾンビ掃討のアクション描写も派手かつ、微笑ましい感覚に満ちたユニーク編と、カラーが一転していたりします。奇想コレクションだけあって、つかみどころのない世界を堪能できるのではと思うのですが。ただダン・シモンズの世界を語ろうと思うと、これ一冊きりでは氷山の一角といった印象で、やはりどうも長編作家としての視点に立って読みこむ必要はあるのかな、とも考える次第で。 読書感想また懐かしいタイトルが!火星シリーズというと、すっかりミステリかぶれした後で収集に励んだので、去年ようやく全巻揃えながらも実は「火星のプリンセス」から後はいまだ手付かずという有様であります。先だってのランドオーヴァーといい、こちらを拝見していますと、脳裏に再継読を促す声が渦巻き出す今日この頃です。
E・キングさん >「夜更けのエントロピー」が本当なのに おやまあ、私もぜんぜん気がつきませんでした(^^; >ゾンビとかベトナム戦争といった題材が目立った、とそんな作風でありました やっぱりホラー系でしょうか? >カーシュ「廃墟の歌声」も読了。 お、早い! 私も今年中には読むつもりです。 今年は海外短編集が豊作で、目移りしちゃいますね(^^; イーリイの「ヨットクラブ」も気になっています。 E・R・バローズ『火星のプリンセス』小西宏訳(創元文庫1965)、読了。 原書1917年刊。初出〈オール・ストーリー〉誌1912.2〜連載開始。 岩崎書店版が復活されたのを嘉して読み返してみました。 本編を読むのは、野田宏一郎訳の講談社版も含めれば何度目になるでしょうか、やっぱりさすがに面白いです(^^)。没頭して読みふけってしまいました。 今回、特に気がついたのは、描写が実にあっさりしていること。こんなにあっさりだとは思わなかった。まるで作者自身が焦っているかのように物語がどんどん展開していくのです。ストーリーを滞らせるような心理描写や情景描写は一切なし。 今日の感覚では、書き込みが不足しているといわれかねない走りっぷりです。 290p、530枚程度の長編ですが、最近の日本人作家だったら、この倍は書き込むでしょう。最近のアメリカ作家なら3倍は書き込むかも。 そうなんです。この程度の書き込みで十分なんですよ。実にくっきりと、イメージが浮かんできます。 最近の長大な作品が、いかに無駄な書き込みで肥満したものであるのか、本書を読むとよく判りますね。書きすぎは、逆にイメージをぼけさせてしまいます。 ちょっとはまってしまったので、続きを読むかも(^^; でもその前に『ららら科學の子』に取りかからなくては。土田さんが着手したということなので私も(^^;
ひいい、本カバーかけたまま読んでたので、ダン・シモンズの短編集すっかりタイトル思い違いしてることに気づいて大赤面。「夜更けのエントロピー」が本当なのに(汗)。「夜明け」じゃ見事に正反対ですね、、、もう机の角に頭をぶつけたいくらいです。しかも「愛死」の方の旧題も正しくは「真夜中のエントロピー・ベッド」であったりと。なんという記憶の誤差、、一度思い込むと脳内フィルターがかかったままになるから怖い。もしかしたら頭脳に巣食う小さな侵入者にやられておるのかもしれません。SF的侵略です(見苦しい^^;)。どなたも指摘くださいませんでしたので、誤解させましたこと、ここに謹んで責を負うものです。露とも疑うことなくレスくだすった管理人様。嘲罵の言葉をいくらでも投げかけてくださいませ。 そんなうっかりちゃんをヤラカしてしまってますが、今晩、前述の作品集とついでにカーシュ「廃墟の歌声」も読了。今月の新刊ではこの2冊は期待にそぐわぬ収穫だと断言できる質実豊かな内容でありました。後者は前集「壜の中の手記」が気に召された方には、十分手に取る価値はあるかと思います。今回はソノラマ文庫海外シリーズ「冷凍の美少女」収録作からの再録が若干と初訳等で構成されてありますね。 >「黄泉の川が逆流する」 は、ハヤカワから一号だけ出た〈ホラー・マガジン〉誌に掲載されたものでは? 管理人様のおっしゃるとおり、本編はSFマガジン87年7月臨時増刊号HORROR MAGAZINE訳載(と、某所のリストをカンニングしつつ)。 河出による本書の訳者あとがきの初出一覧には87年7月増刊、とだけしか記載がありませんが同誌に間違いなく、ご記憶の確かな通りであります。私とは大違いであります(自虐的)。 >私も「ハイペリオン」は未読(というより80年代からこっち、海外SFはほとんど読んでないのです)なので、ダン・シモンズという作家のイメージすらないんです。どんな感じなのか、お読みになったら教えて下さいね。 んー、なんといいますか、ゾンビとかベトナム戦争といった題材が目立った、とそんな作風でありました。なんじゃその簡略さは。 個人的には「ケリー・ダールを探して」「最後のクラス写真」の2編が集中では楽しめました。
C・L・ムーア『暗黒神のくちづけ』仁賀克雄訳(ハヤカワ文庫、1974) 表題作(ウィアード・テールズ誌1934,10)>既述。 「暗黒神の幻影」(同誌1934.12)>表題作の続編であり、同様の感想しかもてない。主人公と異世界のみがあり、対手というべき設定がない。すなわちムードのみあって物語がないので、文体の弱さが露呈する。 「魔法の国」(同誌1935.5)>本篇にはようやくジャリスメという対手があらわれ会話でストーリーが進むようになる。それでも120pから140pあたりまで、殆ど会話のない地の文が続く部分があり、苦しい。 「暗黒の国」(同誌1936.1)>本篇は、パヴという暗黒の国ロムニの王パヴとその妻(?)の魔女が、ジレルの敵手として登場し、上記三作がムードとイメージしかなかったのに対して、会話がバランスよくばらまかれて単調に陥るのを防いでいる。これはよくできた一篇。 「ヘルズガルド城」(同誌1939.4)>本篇のみ団精二訳。中村融編のヒロイックファンタジーアンソロジーにも新訳で収録されていたように、本シリーズ中傑出している。 どこが余編と違うのかと考えたら、登場人物の多さが際だっている。登場人物が多いというのは、それだけ作品世界に奥行きがあるということなのだろう。その意味で、小説といえるのは「暗黒の国」と本篇だけといって過言ではない。 残りは「あとがき」にもあるように、「主人公のマゾヒスティックな精神的闘争を主眼として」おり、実際の行動は「地底の暗黒の地獄めぐりであり、暗黒の国の彷徨」だけしかなく、(ひとりよがりな)散文詩に近いものかもしれない。 処女戦士ジョイリーのジレルシリーズはこの5篇のみらしい(中村アンソロジーによれば番外編が1編あるようだが)が、今日読むに耐えるのは「ヘルズガルド城」と「暗黒の国」の2篇だけのような気がする。
E・キングさん >「黄泉の川が逆流する」 は、ハヤカワから一号だけ出た〈ホラー・マガジン〉誌に掲載されたものでは? タイトルに記憶があります。内容はすっかり忘れております(^^; 私も「ハイペリオン」は未読(というより80年代からこっち、海外SFはほとんど読んでないのです)なので、ダン・シモンズという作家のイメージすらないんです。どんな感じなのか、お読みになったら教えて下さいね。 >ジェラルド・カーシュ「廃墟の歌声」 これも注目作ですね。前作「壜の中の手記」は傑作でした。 >奇想コレクションの続刊を意味しているなら多分短編集なんでしょうか ベスターの短編読みたいなあ、と思っていましたので、つい短編集と思いこんでしまいました。 でも多分短編集だと思いますよ。中村さんは、最近創元文庫のアンソロジーで「ごきげん目盛り」というイカす(^^;短篇を訳していますし。 編集済
読書中です。冒頭が処女短編である「黄泉の川が逆流する」を配しておりますが、今ではすっかり著者の代表編となった「ハイペリオン」以前に「カーリーの歌」に代表されるようなモダン・ホラーの新鋭作家だった頃の面影を窺うに格好の一編ですね。 と、すっかり知ったような口を聞いていますが、実はダン・シモンズは初読です(^^; 残りはこれから黄泉、もとい読み進めていくところです。 今日、ネット通販で予約した(メール配信による特典目当てで)ジェラルド・カーシュ「廃墟の歌声」が届きました。これも続けざまに手にとろうと思っております。 >おお、会場で読んでいらっしゃった本がこれでしたか! いえ、あそこで読んでたのは、早川ポケミスの「美の秘密」J・テイでした(笑)。 このあいだ復刊フェアで重版した一冊です。 >私は以前から中村融さんの仕事を評価しておりますし、注目しているのですが、ベスターの短篇とは、さすが目の付け所がいいですね(^^) 中村氏の発言が、奇想コレクションの続刊を意味しているなら多分短編集なんでしょうか。
E・キングさん どうもお疲れさまでした(^^) 今回は芦辺先生のご都合が悪く、恒例の対談がキャンセルになってしまったのは、楽しみにしていましただけに、とても残念でした。 そのかわり「魔術師」を再観できましたので、まあ良しと致しましょう(^^; 結局今回の出し物は「古典講談・真田の入城」、「探偵講談・お勢登場」(原作・江戸川乱歩)と、同じく乱歩原作「探偵講談・魔術師」の3本立てということになりました。 前2本がどちらも30分足らずの案外短めのものでしたので、もう一本聞けたというのは、ちょうど良いヴォリュームとなったように思います。 「お勢登場」は、お勢がいったん開けかけた長持ちの蓋を、寸前で止め、再び鍵をかけて自室に戻る場面が圧巻で、息を詰めて聞き入ってしまいました。 推理ものよりもこのような人間心理ものが講談には合うのかなあ、と考えたりいたしました。 さて、講談の会のあとは恒例の打ち上げで、ここでE・キングさんとお別れした次第ですが、ルパン研究会のすみださんがいろいろ貴重な資料を見せて下さって楽しい会となりました。 次回は是非、打ち上げの方もおつきあい下さいね(^^) >「夜明けのエントロピー」が発売されてましたので、早速購入していたりします おお、会場で読んでいらっしゃった本がこれでしたか! 奇想コレクションというネーミングも悪くないですが、どうせならJコレクションに対抗してKコレクションとしてほしかったですな(^^;ゞ >今後はシオドア・スタージョン、テリー・ビッスン、エドモンド・ハミルトンと決定しているようです。 それは期待大ですね。 「フェッセンデンの宇宙」は銀背で出たものの復刻ではなく、新たなチョイスで編まれているんでしょうね。スペオペとはまた違った、古き良きサイエンス・フィクションの味わいを期待したいです。 >中村氏はSFマガジンの後記でコメントを漏らされてるのを見る限り、A・ベスターを訳出にかかるらしいので これも嬉しいニュースです(^^) 一番嬉しいニュースかもしれません。短編作家としてのベスターは日本では殆ど紹介されていませんよね(創元の「ピー・アイ・マン」のみ)。長編のイメージとは異なり、ベスターはとても奇妙で洒落た短篇を書いていると思います。 私は以前から中村融さんの仕事を評価しておりますし、注目しているのですが、ベスターの短篇とは、さすが目の付け所がいいですね(^^) 是非とも完成させていただきたいものです。 ○『暗黒神のくちづけ』読了しました。
管理人様、探偵講談お付き合いどうもでした。今回はA先生の方の都合が・・・な例のない事態となって面喰らってしまいましたね。懐具合の悪さのせいで、打ち上げを遠慮せざるを得なかったことが残念でありました。せっかくなんで、持ち帰った柚子でも湯船に浮かべて、せいぜい身体を温めることにします(^^; しかし、なんですか、古本のダンセイニは題名違いでありましたか。ズッコケなオチに私までも、「あらら」な気持ちを味わってしまいました。 ちょうど中村融さんの名前が出ているのにかこつけてみますと、今日出掛けしなに寄った本屋でもう河出奇想コレクションのD・シモンズ「夜明けのエントロピー」が発売されてましたので、早速購入していたりします。あまり聡くないので調べてみますと、邦訳のシモンズ短編集としては角川の「愛死」以来の2冊目となるようですね。 今回の表題作は「愛死」所収の「夜明けのエントロピー・ベッド」の改題ということで。 ラインナップとしてはすでに方々で予告されていたように、今後はシオドア・スタージョン、テリー・ビッスン、エドモンド・ハミルトンと決定しているようです。 ただビッスンに関しては、巻末のラインナップ予定一覧を観る限り、表題が「熊が火を発見する」と予告されていたのが「ふたりジャネット」に改められているようです。 目下私の関心としては、次回配本となるスタージョンなどもそうですが、順当に第4弾と思われるハミルトン「フェッセンデンの宇宙」に早くも胸を焦がしております。ハミルトンの新短編集が編まれるのは青心社の「星々の轟き」以来21年ぶりのことになりますでしょうか。先の晶文社でのスタージョンも19年ぶりと長さでは拮抗しておりますが、発刊数の少ないという点の不遇さではハミルトンに譲ります。日本ではあまりにスペース・オペラの名手としての評判が先立ちすぎてしまったのが、SF作家としての真価を大衆に見誤られてしまったハミルトンという作家の不幸な裏面ですね。私は銀背時代に間に合わなかったので、プレミア覚悟で探さないとと覚悟していた所に、この名編をタイトルにひっさげて新訳編が出てくれるのは声がない程嬉しい報なんですね。ようやくか!という思いでいます。中村氏はSFマガジンの後記でコメントを漏らされてるのを見る限り、A・ベスターを訳出にかかるらしいので、今後どういう企画で臨んでくるのやら、いやはやもう楽しみでなりませんね。
遅くなりましたが、<卓通信>第3号「回転ドアとロッド・サーリング・ほか」を掲載しました。どうぞお楽しみ下さい。それにしても、もっと更新頻度を上げなければ(自戒)。 明日は探偵講談の日です。どなたさまもお忘れなく本遇寺へ集結して下さいね!
「魔法使いの弟子」の方でしたブックオフにあったのは(ーー;。 C・L・ムーア『暗黒神のくちづけ』に着手しました。〈処女戦士ジゼルシリーズ〉です。 中村融さんのヒロイックファンタジー傑作選に、集中の「ヘルズガルド城」が新訳で収録されていましたね。 まずは冒頭の表題作を読む。 うーむ。 この設定はわたし的にはツボなんですがねえ、、、 作者のたくらみはよく判ります。どの辺が読みどころかも。ここで、ああと感じ入る場面だなあ、などということが手に取るように判ります。 ですが―― いまいちでした。 理由は文体です。このような会話がなく、ひたすら主人公の行為を描写することに徹しなければならない話は、ビロードのような文体が要求されるべきなのですが、どうもその描写にうるおいがない。作品世界を支えるだけの力がないのです。 これは翻訳が悪いのでしょうか。実際のムーアの原文はもっとしなやかで粘り気があるのではないでしょうか。なんといってもシャンブロウの作家なんですから、文体が拙い筈がないと思うのですが、シャンブロウ読んだの大昔だからなあ。 まあともあれ、もう少し読んでみましょうか。
E・キングさん おお、ドラマ化されるほど人気作品でしたか。ファンタシーはうといもので、そういうことはつゆ知らず、裏表紙の惹句にひかれて購入しました。 ダンセイニは私も大好きな作家ですが、物語よりも初期の神話的な掌篇が好みです。「魔法の国の旅人」はイギリスらしい〈酒場のほら話〉の型を踏んでいるようで、私向きかも知れません。ブックオフにあったと思いますので(^^;今度買ってきてみますね。 さて、テリー・ブルックス『魔法の王国売ります! ランドオーヴァー1』井辻朱美訳(ハヤカワ文庫、1989)読了。 妻の死で、弁護士の仕事はおろかすべてに対して厭世的になった主人公が、現実逃避の目的で購入した魔法の王国だったが、現実の(!)その世界は生半可な気持ちではとても経営など出来ない所だったのです。 ここは表面上はファンタジーの王国かも知れないが、実際は現実の国だ――願望や無理な思いこみじゃ、問題の解決にはならない!(308p) 本書は、ある意味「司政官シリーズ」と同じテーマです。よその世界からやってきた主人公ベン・ホリデイが坐る王座は、つまるところ眉村さん描く司政官と同じ機能を有するのです。 眉村さんが司政官シリーズを書き出した動機は、火星シリーズのように、単身異世界に乗り込んでいった一介の風来坊が、あんな風に活躍できるはずがない、組織を構築してはじめて経営が出来るのだ、というアンチ・テーゼの提出にあったわけですが、まさに本書の主人公ベン・ホリデイは、ジョン・カーターのように単身乗り込み、しかしジョン・カーターとは違って、失敗につぐ失敗、痛い目にあいつづけるのです。 王国の現実を身にしみたかれには、ジョン・カーターのような自信はとてももてません。常にここへ来るという決断は間違いだったのではないか、と後悔しつづけ、もとの世界を懐かしみつづけます。ぜんぜんヒーローではないのです。 しかしながら後悔すると同時に、来てしまったからには頑張ろうという向日的な精神の持ち主でもあります、この辺も眉村さんの描く主人公に似ています。あまり人の意見を聞かず、成功しても失敗しても自分の判断を優先するところや、その結果に対しては自らがその責を負い、誰にも責任転嫁しないようなところなどもそっくり(^^;ゞ ただ後半はかなりご都合主義に流れはじめ、ごく普通の異世界ファンタジーになってしまったのはやや残念。とはいえ、敏腕の弁護士が魔法の国の王位について、四分五裂した国内を建て直すというコンセプトは、主人公を中年の社会人に設定したことも含めて、SF的見地からとても面白く、事実とても楽しく読みました。井辻朱美の訳文は、さすが小説家らしくよくこなされていて内容にぴったりの文章で、まるで日本作家の作品を読んでいるように読みやすかったです。
「魔法の王国売ります!」うわあ、懐かしい(^^)。思わず書き込みの手をとってしまいました。ランドオーヴァーシリーズですか。3作目の「魔術師の大失敗」まで読んでました。それ以後はご無沙汰しちゃいましたが。その理由は、まあ表題というわけで(笑。 この作品、現在も続いているNHK-FMのオーディオドラマ番組「青春アドベンチャー」でかつて放送されていたりして、本を手に取っていた当時の頃を思い返せます。アバーナシーの滑稽ぶりが印象深かったですね。ラジオは続編も流れていたようですが、残念ながら聞く機会は逸してしまいました。ライトノベル・アニメにありがちな、「運命に選ばれて異世界に招かれた現実世界のヒーロー」といった不条理きわまりないステレオタイプの展開に食傷気味だった私としては、別荘でも買うような感覚で魔法の国の住人権を購うというアイディアは、まさにロー・ファンタジーの正統派として新鮮な設定で楽しめたものでしたが。序盤の現実世界のやりとりの描写は私も面白いとは思ってるのですけど、そうか、少数派だったんですか。 ハヤカワFTといえば早川文庫の特別重版とフェアが行われましたけど、自分はその内からダンセイニ卿の「魔法の国の旅人」など最近嗜んでおりました。「魔法使いの弟子」などの純粋な物語世界を舞台としたものと違い、奇矯な主人公が語る真実とも法螺話ともつかない奇譚の連作ですけれど、中の一編「われらの遠いいとこたち」はE・A・ポオの「ハンス・プファールの無類の冒険」などを彷彿とさせられるようなSF要素に満ちており興味深かったです。年末の早川書房は《プラチナ・ファンタジイ》叢書を立ち上げるなどいやにFTに力を入れてくるようですね。
テリー・ブルックス「魔法の王国売ります!」(ハヤカワ文庫)に着手しました。 これ出だしは「エイやん」と同じです。妻に先立たれ生きる意味を失った弁護士が、有名デパートのカタログに見つけたのは、「魔法の国売ります」の広告。 1000万ドルで魔法の国の王様になれるというその広告に惹かれた主人公は次第に本気になっていき、購入に至るのですが、その過程がファンタジーにあるまじき(笑)リアリティに満ちているのです。 弁護士の職をなげうつためにしなければいけない諸々の契約解除とか1000万ドルを換金するための税理士との一悶着とか、現実に山積する問題が。 またこの魔法の王国、気に入らなかったら10日以内ならクーリングオフがきくというところが妙に現実的で可笑しい。ファンタジーらしくありません。 そういう現実のしがらみをくぐり抜け、ようやく魔法の王国の入り口に達したところまで読みました。ここまではめっちゃ面白いです(^^) 検索してみると、魔法の国へ至るまでの、つまり私が面白がった部分が、ファンタジーの読者にはつまらなかったようで、むべなるかなと言う感じ(^^; ファンタジー界のハリー・ハリスンという位置づけでしょうか。編集済
キリンビールの鞠花一番搾りは、マリファナ一番搾りに聞こえますね(^^; 効きそう(汗) 昨日のマラソンはご覧になりましたか? あれはひどかった。 何がひどかったかって、優勝者インタビューです。おざなりな上に、高橋選手に声をかけてやって下さい、はないでしょう。アレム選手も唖然としたのでは。 まるでバレーボールを見ているような不快感をおぼえました。 スポーツ中継で、特別な個人を英雄扱いするようなしょーもない演出を付けるのは、やめて欲しいものです。 スタージョン作品集から、残り3篇を読了。 「そして私のおそれはつのる」 本集では一番長い、200枚の中篇ですが、スタージョンとしては水準作でしょう。世間のクズのような主人公が、小説の中に出てくる陰陽図のように、<真の片割れ>を見つけだし、合一することで一挙に人類に超越するという、いつものパターン。最初主人公を教導する超能力者が、やはり<片割れ>を求めていたことが明らかになるのが哀切。ムショ帰りのやはりクズがそれなりの役割を果たすように、スタージョンの底辺の人々を見る目は、(その愚かさもひっくるめて)共感に満ちています。 こういう視線は、ユーベルシュタインや「ウロボロスの波動」には絶対見つからないものです。後者で賞揚されるAADDのような組織では、本篇の主人公のいる場所はないのではないでしょうか。そしてそのような組織は本当に「人間的」な組織でしょうか。 とはいえユーベルシュタイン強化タイプというべき林さんの近作「記憶汚染」では、そのような底辺層に目が向けられていて、ようやく管理社会・情報社会から「排除された」人々や、たとえば課題を遂行しようとすればするほど、意識が課題から遠ざかっていってしまうような(まさに私がそうなのですが)「賢くない人々」が林さんの考察の視野に入ってきたのかなと、今後を楽しみにしているのです。 「墓読み」 これは傑作。深読みすれば会話によるコミュニケーションを必要としない妻と普通人の夫が、一緒になったことに起因するディスコミュニケーションの悲劇が出発点となっているといえるかも知れませんが、そういうことを考えずとも、本篇は一個の文学作品として鑑賞にたえるものとなっています。 とはいえ上の流れに沿わせれば、<墓読み>という技術も会話コミュニケーションとは別個のコミュニケーションの体系であり、それを修得することで、亡き妻とのディスコミュニケーションは解消され、それゆえ<墓読み>を行う動機も雲散霧消した、ということなのかも知れません。 もっともそのようなこじつけは本篇には不要であり、あるがままに味わえばいいと思います。 「海を失った男」 本篇は濃縮小説コンデンストノベルです。 主人公の子供時代の、砂浜を模型をかざして走り回った記憶と、もう少し大人になってから、グレナディン諸島でスキンダイビングをしておぼれかけた記憶と、火星に不時着したものの、放射能を浴びて火星の荒れた岸辺で半ば埋もれて死を待っている主人公の現在の状況とが、有機的に融合した内宇宙が、重層的に描かれています。小説的にも高度な、すばらしい傑作! 本篇もあるがままに味わって欲しい作品ですが、あとがきの学生がいうような「さっぱり何が書いてあるのか判りませんけど」というようなことはなく、その小説世界はあくまで明瞭です(本篇の中でもとりわけ明瞭な話かも)。 「墓読み」にしろ「海を失った男」にしろ、小説的に完成された作品では、作者のモチーフは背後に隠れてしまいます。もちろん見えないところで作品を支えているのは間違いありません。 という次第でシオドア・スタージョン『海を失った男』若島正=編(晶文社、2003)読了。編集済
自由都市文学賞の文学フォーラムは今日でしたね。 行かれた方いらっしゃいますか? 私は行けませんでした(ーー;。 どんな内容だったのか、よかったら教えて下さい>行かれた方 さて、そろそろ皆様におかれましても、忘年会が始まっているのではないか思うのですが、名張人外境の忘年会が決まりましたので、お知らせしておきます。 日時:12月6日(土)午後5時、集合 集合場所:梅田旭屋入り口 会費は実費ですが、5000円程度です。 会場はまだ決めていませんが、どうせお初天神通りのどこかでしょう。 参加希望者は、私あてにメールを下さい。 会場では、たぶん函も揃った「江戸川乱歩著書目録」を見ることが出来ると思いますよ(^^)
「3の法則」を読みました。 3×3−1=2×3+2=2×4という話。 純然たるSFとして始まりますが、終わってみれば、これもスタージョン作品というしかない、スタージョン以外の誰にも書けないお話なのでした。 そういうわけで本篇のモチーフも、仲間外れの解消、コミュニオンの形成(合一)への希求です。 後ろに流れているのは、ピアノとベースとボーカルによるジャムセッション。演奏場面を描かせて、スタージョンの右に出るものはいないのではないでしょうか。そういえば、うまくいった時のジャムセッションの一体感って、スタージョンが求めてやまなかったコミュニオンそのものといえますよね。 その意味で、本篇はまさに、ダウナー系のニューウェーブSFであり、テクストそれ自体が音楽を志向しており、濃密な文体がエロスとイマージュを喚起する結晶体もしくは水晶球のような作品、といっても、あながち的外れではないように思われます。ダウナー系というのは、ちょっと違うかも知れません(^^;編集済
今日は「シジジイじゃない」を読みました。 本篇でスタージョンが試みたのは、アイデアストーリーだったのだと思うのです。ヴォークト的なラストは、あまりにも恣意的なため、思うほどの効果を上げていませんが、それでもなおめくるめくめまいの感覚を読者にもたらします。 「本物の人間はそんなにたくさんはいないんだ(……)世界の多くは、ごく少数の人間の夢で占められているんだ。(……)世界全体についてなにがしか知っている人間がほんのわずかしかいないのは(……)人間の興味は限られていて、生活環境も狭いのは(……)大多数が人間なんかじゃないからだよ」(157p) アイデアストーリーといえども、スタージョンらしさは随所に認められるわけで、上のアイデアなど、まさにスタージョンの「自分はまともな・一人前の人間(男)じゃない」という疎外意識(があったと私は思っています)」がつむぎ出した観念ではないでしょうか。 すなわち本篇の核アイデア自体が、スタージョンの実存にその根拠を持っている。外的アイデアと内的世界が不可分であるからこそ、このシジジイ的コミュニオンへの憧憬と反発の物語は、客観的には綻びだらけのアイデアストーリーであるのに、読者を揺さぶり動かさずにはおかないのでしょう。
今日はSFMの「ディスチャージ」を読みました。 いやこれはすごい! 今月号はレベルが高いです。 140枚弱の中篇ですが、矯めに矯めていたものがラストで一挙に放電(ディスチャージ)されます。その圧倒的なイメージにぶっとばされてしまいました。この根源的な怖しさは、さすがプリースト! いわばダウナー系のニューウェーブSFであり、テクストそれ自体が絵画を志向しており、濃密な文体がエロスとイマージュを喚起する結晶体もしくは水晶球のような作品といえましょう。究極のホラーかも(^^; 私が倉阪鬼一郎さんに期待するのはこういう小説なんです。編集済
今日は「成熟」を読みました。 うーむ、力作です。ぐいぐい引っ張り込まれて読んでしまいました。 本篇には、スタージョンの二律背反的な特質が如実に現れています。 元来スタージョンには、自身の資質を無理矢理SFで表現しようとして、結局読者を困惑させてしまうところがあり、本篇も同じ轍を踏んでいるように思われるのです。 実はスタージョンは、自分が何を小説で表現したいのか、あるいは今何を書こうとしているのかが、意識としてははっきり把握出来ていなかったのではないでしょうか。 自分自身のことがよく判っていないので、それを判ろうとする作業が、実に小説の執筆の原動力であったかも知れません。 ともあれ自我の確立が弱かった(といわれる)スタージョンにとって、「成熟」というのは他の誰にもまして切実なテーマだったに違いありません。 彼が自身に対して持っていたイメージは、つきつめれば自分は他人とは違う、自分は社会の中で仲間外れであるという違和感だったようです。 スタージョンの、白痴や畸形に代表されるところの、この世界から閉め出された者たちに対する共感にみちた筆致は、かかる自身の違和感の投影であるわけで、彼らの姿に自分を認めていたといえるでしょう。 ところが、それが高じて白痴が実は人類を超えるものだったという風に超人(あるいは醜いアヒルの子)テーマに変型してしまう。 むろんそこには願望があるわけですが、しかしながらそれは、SFという型を用いるために自動的に起こってしまう書きすぎであると私には思われてなりません。それは別に作者にとって書かねばならぬものではなかった。 結果、読者は、いったい作者は何を表現したかったのか判らなくなってしまう。 ところが「ビアンカ」のようにことさらSFにしない作品では、読者をとまどわせるものは何もありません。 彼はキャンベル学校の優等生だったわけですが、自我の確立が弱かった彼は、キャンベルのアドバイスをそのまま信じ込んでしまう。他人の言葉を鵜呑みにしてしまう。スタージョン自身が本気で信じ込んでしまうわけです。 本来SF的テーマとは相容れない彼の資質が、結局SFという鋳型にはめられてしまいうことで、逆に読者には難解な作家になってしまった面があるのではないでしょうか。 そういうのがもろに現れた作品ではないかと思います。編集済
私は19日からシーズン突入! また肝臓が(ーー; 「アウダゴストの正餐」があまりにもよかったので、中公新書で出たばかりの『ローマ帝国の神々』というのを発作的に買ってしまいました。古代ローマ帝国で信仰されたイシス神、バール神、ミトラ信仰、グノーシス派などの実態と盛衰が書かれているようで、楽しみです。 SFMは、つづいてケリー・リンク「キャノン」を読みました。森青花風というか……不思議な話。よく判りませんでした(汗)。もっと読めば何とかなるかも。今度出るらしい短編集は要チェック。 〈河南文藝文学篇〉からは眉村卓のショートショート劇場(2)「クマのぬいぐるみと私」。これは『日課・第10巻』からの転載。この話を秋本梨奈という大阪芸大の学生さんがマンガ化したものと読み比べるという趣向です。 眉村さんもかかれていますが、本篇が表現しているのは老い先への不安色濃い独居老人の気鬱なのですが、秋本さんが想定しているのは心理的にも安定した裕福な中年男性であるようです。というか20代前半の若者には、老人という存在は透明化されて見えないのかも知れません。そこまで意識が達しないのでしょう。その辺の解釈の違いが、このコラボレーションの面白いところです。 スタージョンは、まずは璧頭の「ミュージック」。掌篇ですが、ラストの様式美がすばらしい!タイトルは「音楽」の方がよかったように思います。 「ビアンカの手」は、いかにもこれがスタージョンというべきどろりとした描写に感嘆。官能的で退廃的で……。編集済
地獄の辰シリーズは、どうももう1巻あるらしい。bk1 話は2巻で完結しているんやけどねえ(嫌な予感)、、、しかしここまできたら、読まずばならんでしょう。探そう。 眉村卓「芳香と変身」(〈河南文藝文学篇〉2003秋号、所収) 眉村さんの最新作(68枚)です(^^)。 眉村さんの近作は、一種〈老人文学〉の試みといってよいのではないでしょうか。本篇もそうで、主人公岡村は60代後半、10年前に妻に先立たれて以降一人暮らし。いろいろな仕事に手を出して、今はしがない文具店で細々と生きている。 恩師の告別式で出会った同級生から、ある種の花の香りを嗅ぎながら念ずると若返ることが出来るのだという話を聞かされる。当人は本気のようだが、岡村に信じられる筈もない。 ところが、ある日、岡村は散歩で熱帯植物園へ向かう途中、くだんの同級生の、高校時代とそっくりな若者を見かける。植物園の園内で、ふと同級生の話が甦る。まさか! そう思いながらも試してみる。と―― これは一種八百比丘尼テーマの変型です。あるいは最近の、不老不死の方に意識を向けたヴァンパイア小説と近いものといえるかも知れません。 老人がひょんなことで(内的意識は持続したまま)高校時代の姿・体力を取り戻したとき、一体どのような事態が、内的、社会的に出来するか、を具体的に考察していて、とても面白いです。 植物園で若さを取り戻した瞬間の描写は、私にはとてもよくわかりました。が、5年前では納得できなかったかも。やはりある一定の年齢に達してないと、面白さが伝わりにくいかも知れないのですが、〈老人文学〉という、これまであまりなかったテーマに一定のかたちを、眉村さんは作り上げようとしているように思われます。今後の展開が期待されます。 SFM今月号のスターリングの短篇ファンタシー「アウダゴストの正餐」は傑作! 設定が素晴らしいです。西アフリカファンタシー(^^) こういうの、高野史緒さんに書いてほしいなあ(^^;
笹沢左保『地獄の辰・無残捕物控岡っ引きが十手を捨てた』(光文社文庫、1985)読了。元版1972年刊。 というわけで先にこちらを片づけました。 面白かった。エンドレスな木枯し紋次郎と違って、本シリーズはちゃんと結末が用意されている。辰造が十手をあずかることになる要因が、最後に取り除かれ(十手をあずかる意味が無くなり)、辰造を岡っ引きたらしめていたメカニズムが解消されて本シリーズはラストをむかえます。それは大団円という言葉とはほど遠い結末だったとしても。 私の予想は外れましたが、まあ当たらずとも遠からず。それなりに構造的な物語で満足しました。 それにしても久しぶりに時速100ページを達成。SFと違ってこの手の小説はやたらすぐ読めちゃいますな(^^;。
雑誌を仕事場に忘れて来ちゃったので、感想は明日にでも。 このモチーフ、たしか<日課>にあったような気が……。 昨日は畸人郷例会でした。 出かける前、電車で読む本を、「地獄の辰」か「海を失った男」かどっちにしようかさんざん迷った末、文庫本の地獄の辰にしたんですが、例会で日夏さんとスタージョン話になり、日夏さんが「海を……」を絶賛されて、「それ今日読もうと思ってたんですよ」と悔しがったことでありました(^^;。 というわけで次回の例会では、日夏さんが(私のオススメの)「夢みる宝石」を、私が「海を……」を読んで来て感想を述べ合うということになりました。 そのような次第で、今週は「地獄の辰」と「海を……」を併読するか、先に「地獄」を読んでしまうか、思案中。 それはそうと、「海を……」は早くも重版なんですね。売れてるんやね。
「奴はウィントン・ケリーの“ウィスパー・ノット”を全部口笛で奏(や)れた。(…)しかしな、俺だって“マイ・フェイバリット・シングズ”を口先だけで、一ヵ所も間違わずに真似できたんだぜ。“ビレッジ・バンガード”のコルトレーンだ。判るか?」(「リンゴォ・キッドの休日」115p) 矢作俊彦『リンゴォ・キッドの休日』(ハヤカワ文庫、87)読了。元版1980年。 表題作と「陽のあたる大通り」の2中編を収録。 著者の作品は、何を読んでもストーリーが覚えられません。残っているのは、主人公が身に纏った哀愁と感傷と、かっこいい文章を読んだという満足感なのです。今回もやはりそうでした。 表題作は1976年の話なのですが、本文中のどこにもこの数字はあからさまには出てきません。読者は作中に散りばめられた数字を足したり引いたりして、はじめて1976という数字を得ることが出来るのです。 こういう描写のセンスに接すると、しばらくは「2045年5月1日、地球は突如銀河連合軍の攻撃にさらされた」などと書きがちなSFの文体が読めなくなってしまうんですよね。 その女がセイブルミンクの半コートを煌らせてバァに現れたとき、私は思わず天井を見上げた。彼女を正面から捉える数百キロのライトが、何処かにあるような気がしたのだった。(「陽のあたる大通り」200p)なんて、臭いといえばその通りですが、通り一遍のSF作家にはちょっと書けない表現であるのは間違いないでしょう。 それから今回気づいたのは、庄司薫との類似です。とりわけ表題作にそれを感じました。そうか、薫くんシリーズはハードボイルドだったんだ。 三派系全学連などという言葉に、何ともいえない甘酸っぱいものを感じる世代には、こたえられない中篇集でしょう。 <河南文藝文学篇>2003年秋号が届きました(^^)編集済
大橋さん >私も大阪の阿倍野区の出身で、眉村さんは晴明ヶ丘小学校、阪南中学の大先輩です。 おお(^^) そういえばあの辺は異様にSF色が濃いんですよね。山野浩一さんは昭和中学ですし、筒井さんは南田辺小学校(^^;。魔のSFトライアングルですね! >眉村さんのジュヴナイルSFだけで一冊の本を作りたいですよね それ、いいですねえ。まるごと一冊眉村卓(^^) 私としましては、雑誌に発表されたまま単行本未収録作品やオリジナルアンソロジーに収録されたまま単行本未収録作品がかなりたまっていますので、これを本にまとめて欲しいですね。 思いつくまま挙げてみました↓ 「夢まかせ」なんか異様な傑作なんですけどねえ。 「ゲームの戦士」1〜6 奇天7608〜8006 「原因あれば結果あり」 奇天7706 「転回世界」 宝石8104 「夢まかせ」 SFM7902 「達成のあと」 SFM8108 「茅花照る」 SFM9511 「原っぱのリーダー」 少年の眼 「月光よ」 異形コレクション 「キガテア」 異形コレクション 「サバントとボク」 異形コレクション SF未来戦記全艦発進せよ! 8篇 「ヌジ」 ふりむけば闇 「エイやん」 河南文藝 「芳香と変身」 河南文藝 「マントとマスク」 寄港
管理人 様 読んで頂いてありがとうございました。 まあ、基本的にインタビュー記事ですから。私が書いたなどと大きなことは言えません。 でも、質問の悪さ。内容のまとめかたの悪さは私の責任です。 実は、私も大阪の阿倍野区の出身で、眉村さんは晴明ヶ丘小学校、阪南中学の大先輩です。 そんなわけで「阪南団地周辺文学散歩(笑)」は一度、やってみたかったのです。 阪南中学に通いながら眉村さんの作品を読んでいたので思い入れは特にあったりします。 眉村さんと一緒に歩いてみるとこの舞台も主人公だったんだな〜とよくわかりました。 眉村さんのジュヴナイルSFだけで一冊の本を作りたいですよね。 ドラマ化のことも盛り込みながら・・・。 ちょっと夢だったりします。
SFJapanの大橋博之さんの「少年ドラマシリーズとジュヴナイルSFの関係」読みました。 眉村さんのインタビューと阪南団地周辺文学散歩(笑)、そして岩崎書店冒険ファンタジー名作選紹介に岩淵慶造さんインタビューと盛りだくさん。この3倍のスペースは欲しかったですね(^^; 眉村さんのインタビューはとてもよいと思いました。眉村先生のしゃべり口調がうまくとらえられていて、先生がしゃべっている姿まで目に浮かんで来るようでした。 文学散歩で判るように、眉村さんはずーっと阪南団地の周辺から離れてないのですよね(エイやんにあるように堺に疎開していた時をのぞいて)。この記事にはなかったですが、先生が通っていた当時の阪大は、実に現・阪南団地の土地にあったのです。 思うに社会人になるまで、眉村さんは定期というものを持ったことがなかったのではないでしょうか。この事実は眉村文学を考える際のキイ概念になるように思います。 「親には親の理屈があるわけやから。それぞれに存在感があり、彼らを主人公にした目線で見ても成立するよう書かれなければいけない、というのが僕のセオリーですね」(183p)という言葉は、ぜひとも恩田陸に聞かせたい(汗)。 その恩田陸がまたもや迷セリフを吐いています(山田正紀との「家畜人ヤプー」読者対談)。 「つじつまが合わないとか、視点が変わるとか、普段つつかれているところを無視して、何も気にしない小説をダラダラと書いてみたい!」(152p)――って、気にしてへんから「つつかれ」てるんやんか(汗、汗) 矢作俊彦『リンゴォ・キッドの休日』に着手しました。
大橋さん SFJapanは、おそらく明日届くだろうと思います。楽しみにしております(^^) >いいわけは自分のサイトに書いていますので 貴サイトは、毎週チェックさせていただいてますよ(^^; 私は光瀬さんの影響も強く受けておりまして、昔は小説のまねごとをしていたのですが、文体はもろ光瀬節が刷り込まれておりました(汗) というわけで次号も期待してます。アンケートも忘れずに出しますね〜! 「産業士官候補生」が「レンズマン」のアンチテーゼだったとは・・・はじめて知りました。なるほど、と納得できます。 >眉村さんの作品のキャラはクールなんですよね たしかにそうなんですが、そのクールさが、主人公に感情移入しすぎて、ラストで熱さに席を譲っちゃうこともしばしばなんですよね(^^; 「産業士官候補生」なんか典型的にそう。それがまたいいんですけどね。 >こぼれた話はもっとあるのですがいずれまた何かの機会に・・・ ぜひぜひ(^^) 笹沢左保『地獄の辰・無残捕物控 首なし地蔵は語らず』(光文社文庫、85,88)読了。元版1972年。 たまに著者の時代小説が読みたくなったりするのですよね。5年10年に一回くらいですが。 これは数ある著者のシリーズものでも上位のシリーズかも知れません。木枯らし紋次郎は自由人ですが、関わりがないといいながらやむなく関わっていく。本書の岡っ引き地獄の辰は、「或る理由」で組織の中にがんじがらめにされてしまっている。したがって読者が受けるカタルシスが非常に屈折したものがあって重い。 出来はばらつきがあり、それは設定の不自然さと相関している。どれもかなり無理な設定を契機としているのだが、そのなかで「水茶屋の闇を突く」が設定の無理が気にならず、抜群の出来です。次に「縁切り寺で女が死んだ」か。 このシリーズ、もう一冊(結末編?)あるようですが、私は、上述の「或る理由」の下手人が判ったように思います(^^; 買ってきて確認しよう。
『SFJapanメイキング』などとたいそうなタイトルで書き込みをしたのが8月のこと。 気がつくともう11月。早いものです。10月は「冒険ファンタジー名作選」の応援月間だったのですが、 11月は「SFJapan」のPR月間だったりします。 あっ、でも特集が「エロチックSF」なので良い子は読まないほうがいいかもしれません(笑)。 で、内容ですが目を通して頂いた人には石を投げられそうです。すみません。もっと書きたいことは あったのですがいかんせん文字が入らない。もちろん文章力のなさもあってのことで反省しています。 いいわけは自分のサイトに書いていますので、ここではインタビューのこぽればなしを思い返してみ たいと思います。 眉村さんの『産業士官候補生』は、このサイトの著書リストではジュヴナイルではなくて、一般小説 の中にありますが、ご存知の通り「高一コース」(昭和44年12月号〜45年2月号)に掲載されたジュヴ ナイルSFなわけです。で、この『産業士官候補生』は実は『レンズマン』のアンチテーゼだったとい う話。 レンズマンは18歳のエリートだけど、そんなこと『ありうるのか』というのが眉村さんの思いとしてあ ったとのことです。レンズマンたちと同様の教育を受けたら、きっと欠けた人間にしか育たない。優秀 なやつが、何もかも優秀ということはありえない。という気持ちで書いたのが『産業士官候補生』だっ たと言うわけです。 眉村ジュヴナイルSFが女の子に受けて、光瀬ジュヴナイルSFが男の子に受けた というのもなんと なくわかるような気がします。眉村さんの作品のキャラはクールなんですよね。それは『産業士官候補 生』に限らず『そんなことが本当にあるのか? あったら本当はどうなるんだ』という眉村さんの客観 的な気持ちが反映されてクールになっているのだと思います。眉村ジュヴナイルSFワールドの魅力は、 子供にこびずに大人の目線で書かれていたことにあったのだと改めて思い知った次第でした。 こぼれた話はもっとあるのですがいずれまた何かの機会に・・・。
Amazonで注文可能になっていましたので、<河南文藝>と一緒に注文しました。 SFJapanは24時間以内出荷ですが、河南文藝は予約注文になっていた。 一応別配送で手続きしましたが、この場合、送料はどうなるんでしょうか?
E・キングさん ようこそお出で下さいました(^^)。某所ではいつもお世話になっております。 クレメントは、ミステリーとしても読めますよね。私も未読のをまた読んでみようと思います。 >昨今SFへの関心も数年前によく読んでいた時の気持ちが再燃してきており E・キングさん、それはとてもよい傾向です(^^; >”奇妙な味わい”を飛び越えて実に”ケッタイな”と関西的な表現をあてるのがぴったりな作品集ですね いや全くおっしゃるとおり「ケッタイな」作品集でしたね。 気に入っていただけたのならよかったですが、私のセンスは常人のかたとはいささかズレているらしいので、私が傑作だと叫んだ作品には、くれぐれもお気をつけ下さいませ(^^;ゞ。 しかしこの深堀さんというかた、かなりのミステリファン、乱歩ファンみたいですね、まあSRの会員だそうですから当然でしょうけれど。「飛び小母さん」の出だしにはほんとに笑ってしまいましたよねえ。 「闇鍋奉行」では「赤毛連盟」やってましたよね。ミステリの方が読めばもっといろいろクスグリを発見できるのでしょうね。 文藝ネットというのは知らないのですが、検索して見に行ってみたいと思います。 またいろいろ教えに来て下さいね。よろしくお願いします。 Yさん >「河南文藝」ネットで注文しました おお、ネットで買えるのですか。私も試してみようかな。 >最近は本を買っても読むのが追いつかないですね なんかお忙しそうですね。HPのお知らせ読みました。 お早い復活をお待ちしていますね。 クライン・ユーベルシュタイン『赤い星』読了。 アット・ザ・ファイブ・スポットVOL.1/エリック・ドルフィー(1961)
ご無沙汰しています。 「河南文藝」ネットで注文しました。楽しみにしています。 SFJapanも探してみます。これは近所で入手できそう。 最近は本を買っても読むのが追いつかないですね。 タイムマシンで本が買えなかった頃の自分に届けたい気分です。 クレメント、亡くなったんですね。(というかまだご存命でしたか……) 20億の針くらいしか読んでなかったのですが、他も探してみたいです。
初めてお邪魔させてもらいます。管理人さんやこちらの書き込み連の幾名の方々とは、別の場所と私的な機会ではたびたびお世話になっております青二才でございますが。 先日アレクすてさんの書き込みを拝見して、クレメントの訃報に接して驚かされました。今年「20億の針」「一千億の針」を読んでさほど時を経ておらず、残念至極な報でありました。ご冥福をお祈り申し上げます。思えば私にとって興味を抱いたその年に死去されてしまった作家がこの数年多くて、あまりのタイミングに、さながら彼らの著作を通して、そのいまわの際を見届ける役目を負わされてるような思いに駆られることがあります。まあ偶然の符合といわれればそれっきりなんですが。 それはさておき、普段はミステリ畑の方で話題を振るのを身上としておりましたが、昨今SFへの関心も数年前によく読んでいた時の気持ちが再燃してきており、気がつけばなんだかんだと手につけるようになってきたこともあり、そうした方面では、いろいろこちらの方々にもよろしくお世話になろうかなと考えてます。 今、深堀骨さんの「アマチャ・ズルチャ」をもうじき読了という所まで読んでおります。最初本屋で見かけた時に「スタージョンもラファティも亡い〜云々」の帯惹句に思わず反応してしまい非常に興味をそそられたのですが、今月は出費がかさんだ故、購入を躊躇っていた所、後で管理人さんが傑作と書き込まれていたので、それに背中を押される形で、結論としては結局購入してきてしまった次第です。 しかし、”奇妙な味わい”を飛び越えて実に”ケッタイな”と関西的な表現をあてるのがぴったりな作品集ですね。江戸川乱歩ファンの自分としては、「隠密行動」の三重渦状指紋(元ネタの「悪魔の紋章」も符節を合わせるかのように創元推理文庫から新刊で出ましたし 笑)だとか、「飛び小母さん」の書き出しの文章に思わず笑みを禁じえないものを覚えます。 余談ですが、この著者名どっかで聞き覚えがある名前だなあ、と思ってたら、以前知人からチャットでの会話で教えてもらった「文藝ネット」掲載の「白熊座の女は真夏の夜にここぞとばかり舌を鳴らす」の作者だったということに、後から思い至り、ああ、あの作者だったかと膝を叩いたものです。これも大笑いで読んだものでしたが。 此度初の作品集ということで、ますます注目のし甲斐があるというものです。 とまあ、そのような近況ですが、また徒然の駄弁を振るうために寄らせてもらえればと、ここは一つご挨拶ということで。
笙野頼子『水晶内制度』(新潮社、2003) 本書について、作者は「SF純文学」と自ら位置づけていますが(「河南文藝文学篇」2003年夏号、162p)、その創作動機を、私は3つの部面に分明出来るように思われます。 まずひとつは、女人国ウラミズモの制度を描写することにより、「今ここにある」この(日本)社会を支配している[男=人間]的無意識(原点・零度)を顕在化し白日のもとにさらけ出すことであるようです。 たとえば[学生:女子学生]、[作家:女流作家]、[医師:女医]といった具合に、この社会は[男=人]という観念を基礎に構成されていることは、よく考えれば明らかではありますが、通常私たちは、それを無意識的前提として透明化しています。 かかる認識の零度を、作者はウラミズモという国家を架構することによってずらし顕在化するのです。そのような価値転倒を、作者はこれでもかとグロテスクな笑いとともに見せつけます。 かかる価値転倒の論理は、たとえばオールディスが「暗い光年」などで試みたものでありますが、しかしながら男性であるオールディスは[人=男]的座標軸から自らをずらし得なかった。そういう意味で本書はオールディスがなし得なかった問題に取り組んだ思弁SFであるといえましょう。 ふたつめは、出雲神話を女の立場から書き換えること。作者は実在する出雲神話をよく読み込み、女という立ち位置から、ストーリーの外枠は改変せず、しかしその意味するところを180度転倒させてしまいました。その手際は見事という他はなく、この部分は本書において圧倒的に面白いところです。 三つめはかかるウラミズモという国に亡命して来、そうして出雲神話を書き換える作業に携わる(作者自身であるらしい)主人公の小説女(小説家)が、その過程において自らを再発見していく部分です。ここにおいて主人公が何故、女に対して愛憎二様のアンビバレンツな反応を示したのかが明らかになっていきます。 本書が(小説内でも攻撃しているように)単なる女性擁護の学者フェミニズムとは隔絶しているのは、かかる鋭利な刃(やいば)のような思索の鋭さであります。評論家的態度を排撃し、あくまで<私>に依拠する作者は、この思索の刃によって、ざっくりと<私>を切り込み、そしてその痛ましいまでの切り口を読者に開いてみせます。まさに「SF純文学」の純文学たる部分でありましょう。 このように本書は、日本では稀有なSF純文学、すなわち「ニューウェーブSF」の成果であり、このような世界的レベルの傑作が書かれたことを喜びたいと思います。編集済
アレクすてさん お知らせありがとうございます。 クレメントは、私も30年以上昔に読んだきりですが、「重力の挑戦」や「20億の針」は本当に面白かったです。 小林泰三さんの「アルファオメガ」も、「20億の針」のモチーフが使われてました。 「20億の針」の20億は、当時の地球人口なんですよね。今はどのくらいになっているんでしょうか、60億? 70億? いずれにしましてもクレメントのキャリアの長さを自ずと現していますね。 ご紹介下さったローカスオンラインニュースによれば、何と今年の初めにも長編を出版しているのですね。1922年生まれですから、81歳ですね! いやあ、あっちの作家は、エムシュウィラーもそうですが、老いてなお盛んです。出版環境も年寄りだからといって差別されないんでしょうね。アメリカSF界のよいところですね。 小松左京も、たかだか70くらいでしぼんでないで、もうひと暴れしてほしいですよね。 ともあれ、クレメントさんのご冥福をお祈りいたします。 『日本王権と穆王伝承』読了。 これを原田さんは20代で書き上げたのか、、、恐れ入りました(^^;