【掲示板】



ヘリコニア談話室ログ(2003年12月)


眉村卓先生を囲む会 投稿者:管理人  投稿日:12月29日(月)22時33分39秒

来年1月24日(土曜)に決定しました。眉村先生の了解を頂きました。
時間は午後3時頃からの予定。
場所は前回と同じ店が第1候補ですが、1枚テーブルだったとはいえ、テーブルが大きすぎて端の方が眉村さんとあまりお話が出来なかったのではなかったでしょうか。できれば個室がよいですよね。
というわけでもう少し考えてみます。南湖さんの会をした飛田の百番館(?)もよかったなあ。いずれにせよ天王寺界隈です。

ということで、これから詰めていきますが、出席者を募らせていただきます。出席希望者は私あてメール下さい。あるいはこの掲示板に書き込んで下さい。


「金輪際」 投稿者:管理人  投稿日:12月29日(月)20時46分39秒

ようやく今日で仕事納めとなりました。

車谷長吉『金輪際』(文藝春秋、1999)読了。
集中の「変」は、三島賞を取る以前の、作家としてまったく無名時代の話。リストラで会社を馘首になった作者は、心労で心因性の心臓発作を起こす。担当した医者に、

あなたは文章を書く人です。しかもあなたの小説を読んでみたら読む人が読むだけで気が滅入るような内容です、そんなものをあなたは書いているのだから、心臓に差し込みが来る内力(ストレス)が溜まるのは当然でしょう

と言われるのですが、まさにそのような作品が並んだ短編集です。
まあ、私自身は上の文を読んで、気が滅入るどころか、思わず笑ってしまったのですが(^^;
かくのごとく、この作者には巧まざるユーモアのセンスがあるように思います。「変」の内容を続けますが、芥川賞に落選した作者は、

おのれッ、と思うた。

そしてその夜、紙を切り抜いて9枚の人形(ひとがた)を作ります。その一枚一枚に、日野啓三、河野多恵子、黒井千次、三浦哲郎、大江健三郎、丸谷才一、大庭みな子、古井由吉、田久保英夫の名前を書きます。いうまでもなく芥川賞の銓衡委員たちです。
五寸釘と人形をもって深夜神社に向かいます。さよう、作者は彼を落選させた委員たちを丑の刻参りで呪い殺そうとするわけです(^^;

これなんか本人は結構本気なのでしょうが、読者は笑わないではいられないのではないでしょうか。

集中、昭和の作品が2篇収録されています。「ある平凡」(昭和57年)と「児玉まで」(昭和58年)です。
この2篇は、他の作品(平成6年〜平成11年)とは際立って違いますね。
私小説ではなく、小説を作ろうとする意思が感じられます。具体的には内向の世代風の小説です。とりわけ後者はポスト全共闘小説としても読めて、わたし的にはとても面白かった。これが70年代に発表されていたらそこそこ評価されたように思いますが、80年代に入っていて内向の世代風では、やや遅すぎたの感を否めませんね。

私小説も古い作品ほど締まっており、本書ではもっとも新しい平成11年の「花椿」は、実に平凡きわまる私小説で、内圧が弱まってきているのでは……と、ちょっと心配になりました。

ということで、次は2000年刊の『白痴群』に取りかかるつもりなんですが、さて(^^)。

編集済


「理由」 投稿者:管理人  投稿日:12月27日(土)22時12分55秒

「理由」を観ました。
ショーン・コネリー渋いねえ(^^)こればっかり(^^;
ストーリーは呆気にとられる大どんでん返し。
でもどんでん返しの結果、テーマがぼやけた。というかよく判らなくなっちゃった。
で、TSUTAYAのユーザーコメントを覗いてみました。
>浮世離れしたお白人のお大学教授さまには、南部の人種問題なんてわかりゃしねーよ、っ言いたいのか
に膝ポン(汗)。

ユーザーコメントって、初心者にはとても参考になりますね。
なるほどbk1の読者書評もこんな風に利用されてるんでしょうな。


「ライジング・サン」 投稿者:管理人  投稿日:12月25日(木)19時07分22秒

土田さん
>車谷長吉
『金輪際』に着手しました。これはまったく私小説のようで幻想性はないみたい(ーー;。

>ヴァージニア・ウルフ
おお、読んだことありません(^^;ゞ
「意識の流れ」って言葉から私がイメージするものはあるのですが、それが実際の意識の流れと同じものなのかどうか・・・
というわけで読んでみなくてはなりませんねえいつか

「ライジング・サン」を観ました。
やはりショーン・コネリーは渋くてかっこいいですね(^^)。
しかし何といっても本編の見どころは、「変な日本人」(^^;。これがアメリカ人の日本人観とは必ずしも思わないけれども、日本人が観たほうが笑えるのではないでしょうか。いやーこんな日本人いいですねー。は、これを萌えというのでしょうか(汗)
これはきっと豊田有恒さんが手伝っているに違いないと、クレジットをじっと睨みましたが、載ってなかった(^^;ゞ。しかし豊田さんが脚本を書いたとしか思えない面白さ!じつはマイクル・クライトンなんですよね。
「ラスト・サムライ」もこんな感じなら観てみたい(^^)


ウルフ 投稿者:土田裕之  投稿日:12月23日(火)21時13分37秒

車谷長吉は私小説と云われながらもぼくも興味があって、何冊か買ってあります。
読まなくてはいけませんね。

高井さんの本は、ぼくにも反省の本でありました。

昨日、今日と『ヴァージニア・ウルフ短編集』を読んでおりましたが
久々に手ごわい、というか歯が立ちませんでした。
意識の流れというのが難しいです。
ある意味幻想小説風にもなるのですが、行間スカスカの小説を読みなれた身には
それこそ流れを捉えるのが難しい。
(読んでいて小説というよりはアフォリズムかダダイズムの本を読んでいるみたいで
一番近いと思ったのが吉行エイスケだと思っているようぢゃいけません。。。)
もっと力をつけていつか読み返さなくては。
訳文は西崎氏ですので平易かつ格調もあるのですが・・・。


「漂流物」 投稿者:管理人  投稿日:12月23日(火)18時12分46秒

車谷長吉『漂流物』(新潮社、1996)読了。
いわゆる「私小説」と、百鬼園風の「夢の私小説」の2系統があるようです。
短篇6篇と「愚か者」という掌篇集で構成されており、うち後者に属するのは、「蟲の息」、「木枯し」、「物騒」と「愚か者」集中の「光の壺」、「温み」。
私小説にしろ夢幻小説にしろ、この作者の文章には力が漲っています。文章をパンチにたとえるならば、さながらKOボクサーのそれであり、その切れと迫力は、純文学作家においてもずば抜けているように思われます。
その意味では、前者の系列と後者の系列に差を認めることは出来ないのですが、やはり幻想的なもののほうが色彩あざやかで先が読めず面白い。こういうのが読みたかったんですよね。

編集済


「ショートショートで日本語を遊ぼう」 (承前) 投稿者:管理人  投稿日:12月23日(火)12時30分55秒

高井信『ショートショートで日本語を遊ぼう』(ちくま文庫、2003)読了。
いや面白かった。日本語ショートショート10本(うち1本は正確には短い短篇)と誤用ショートショート8本が収録されています。
後者は、正確には、誤用のシチュエーションをショートショート風に描き、そのあとで解説を施したものといえます。前者の日本語ショートショートとは、突き詰めれば駄洒落ショートショート(^^;。なるほど、駄洒落こそはまさに「日本語」をもてあそぶことで「日本語」を相対化できるわけですね。

その意味で、田中啓文さんと著者は一見似ているのだけれど、実は正反対の方向性を持っている。同じ駄洒落といっても著者のそれは、理学部出身らしくいわば理系のセンスで発想されていているように感じました。

つまり田中啓文さんの場合、スサ脳→スサノオとか脳梗塞→脳光速といった具合に、レヴィストロースのいう一種「換喩的」変換が用いられるのに対して、著者の場合、下に書いた「やまいだれ症候群」のように、「因果論的」な変換が用いられる場合が多いようです(もちろん高井さんにも換喩的駄洒落もあるのですが、要は比率の違いです)。つまり田中さんの駄洒落SFは「共時的」(野生の思考的)であるのに対して、高井さんのそれは「通時的」(近代科学的)という傾向が認められるのではないでしょうか。

ベストは巻末の短篇「ニホン語」で、本集の集大成的な意味がある作品なのですが、同時にボリュームがある分、ショートショートに収まりきらない内容的なふくらみがあって、眉村さんが書きそうな話だなあと思いました。もちろん展開はいかにも高井さん的な展開になるのですけど(^^;。

「胃変」は田中啓文的な換喩ショートショートの傑作で、これは落語にできると思いました。「やまいだれ症候群」は漢字をイメージしなければならず落語にするのはむずかしいと思うのですが、これは語りでイメージできるので(^^)

「シミリ現象」も傑作(この掲示板で何度も誉めていますが)。デヴュー作品をいつまでも誉められるのは作家として複雑かも知れませんが、やはり傑作(^^;ゞ

あと「勘違い」は因果論的にシュールに落としたラストがアクロバチック>因果論的なので読めたけど(^^;。因果論は遡行可能なのですよ。換喩も読めるけどそれは推理ではなくアテモン。

オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』も読了しています。すばらしい作品でした! 感想は後日。

車谷長吉『漂流物』に着手。おおこんなに面白いとは知らなんだ〜!

編集済


「ショートショートで日本語を遊ぼう」 投稿者:管理人  投稿日:12月21日(日)20時56分39秒

アレクすてさん
昨日はお疲れさまでした。

>仕方ないので一駅歩きました。
それはまた災難でした(^^;
>久しぶりにリアルで話せて楽しかったです
私も楽しかったです。あと新年会等、スケジュールがあうようならば、またよろしくです。

ということで、畸人郷忘年会だったわけであります。なかなか賑やかな会となりました。
横溝正史のサイトをやっておられる方が出席されていて、お名刺を頂戴しましたので、リンクしておきます。→横溝正史ブックカバーライブラリー
後半は、村田さん、嵐山さん、日夏さんと車座で非常に濃い話が出来て、とても楽しかった(^^) あやうく終電に間に合わなくなるところでした(^^;。
帰途は滅・こぉるさんと同じ方向であることが判明、降車するまでずっと喋り続けて、お疲れなのにご迷惑だったかも。新本格等についていろいろ教えていただきました。

閑話休題、あなたは「役不足」といわれたら、腹を立てますか、よろこびますか?
高井信『ショートショートで日本語を遊ぼう』(ちくま文庫)を購入しました。作者久々の新刊で、得意のショートショート集です。いまどき個人作家のショートショート集は珍しく、希少価値があります。
そればかりかこの本、内容がとてもユニークです。

すなわち昨今の「日本語の乱れ」をテーマにしたもので、日本語ショートショートと誤用ショートショートが交互に配置されています。
まえがきによると、日本語SSで笑ってもらい、誤用SSで頭を捻ってもらおう、という趣向とのこと。前者は日本語そのものがテーマで、後者は日本語の誤用がテーマといえましょう。

まだ読み始めたばかりですが、早くもわが身を省みて冷や汗がたらたら(^^; それこそ岡っ引きに捕まってしまいそうです(>ごようだごようだ!)
あちゃー、上に用いた「閑話休題」も、間違った用法になるのかな(汗)。

この本は、とりわけサイトに文章を晒している人は必携でしょう。この本で指摘されている誤用は、ネット上でしばしば見かけますから。
兎に角、面白いだけでなく、しかもその上、正しい日本語が身につくという、一粒で二度おいしいお買徳本であると思います。
上にも述べましたが、ショートショート作家である高井さんにとって、昨今のショートショート冬の状況は、まことに具合が悪くワリを食っていましたが、本書では矯めに矯めていた力が爆発しています(^^)。

ひとつご紹介(ネタばれ注意)
ある日突如「やまいだれ症候群」が日本中を襲う。寺の住職は痔になり、飼っている羊は痒みに身をふるわせ、そのうち住職と知人の「おれ」は、相次いで……(「やまいだれ症候群」)

編集済


どうも、お久しぶりでした。 投稿者:アレクすて  投稿日:12月21日(日)01時55分2秒

今晩は、アレクすてです。
畸人郷例会から
今、帰宅しました。実は、一駅乗り越したら、終電で
「しかたないなあ、タクシーに乗るか」
と思ったら、実はタクシーは、積雪のため終業、
(いつもは、終電が出るまで開いている。)仕方ないので一駅歩きました。
久しぶりにリアルで話せて楽しかったです、では!
(実際に話したのは、宴会の帰り道の10分ほどでしたが、楽しかったです)。


『廃墟の歌声』 投稿者:管理人  投稿日:12月16日(火)22時22分22秒

○「魚のお告げ」
○「クックー伍長の身の上話」
どちらも集中では比較的長めの短篇で、前者は地底世界テーマ、後者は不死人テーマ。同様にSFと怪奇小説の境界あたりをねらった作品だが、後者が格段に面白かった。前者はもっと面白くなってもよいネタだと思うのだが、書きすぎで鈍重な印象。もっと絞って欲しかった。あとがきによると晩年(1962年)の作のようで、歳を取るとくどくなるのかも。

以上で、ジェラルド・カーシュ『廃墟の歌声』西崎憲他訳(晶文社、2003)読了です。

プレイボーイズ/チェット・ベイカー&アート・ペッパー・セクステット(1956)


神田川 投稿者:管理人  投稿日:12月15日(月)18時54分8秒

アレクすてさん
早速お返事ありがとうございます。土日というのは変えられないと思いますので、残念ですが仕方ないですね。うまくスケジュールがあいたら是非。

先日ラジオで、たまたま喜多条忠さんのインタビューをやっていました。
「神田川」は、喜多条さんがデモからドロドロになって帰ってくると、同棲中の彼女が食事の支度をしている。寝ッ転がってその後ろ姿を見ているとき、最後のフレーズ「ただ、あなたのやさしさが、こわかった」が浮かんだ、といった話だったのですが、私が感心したのは、そこではなく、当時流行った「同棲」が、いかに先端的に見えていたにせよ、結局のところ女が男に尽くすという形式だったことを思い出し、懐かしかったからです。
いわゆる「同棲」が最近の男女の共同生活と決定的に異なる点ではないでしょうか。

当時、同棲という、なかなか先端的な生活をしていた者たちですが、その内実は、下宿では何もしない男と、世話を焼く女という図式に収まるのは、今から振り返るととても不思議な気がします。
少なくとも私の学生時代、同棲している友人たちは例外なくそのような図式に当てはまっていました。

私自身は残念なことにそのような経験はないのですが、それでも空腹に耐えかねて同級生の下宿へ行くと、結構な料理を、母親にはついぞ作ってもらったことがないような洒落た料理を、別に嫌がりもせず、むしろ喜んで(と私は思うのですが定かではありません)作って食べさせてくれました。それこそ寝ッ転がって、その甲斐甲斐しい後ろ姿を眺めながら、出来上がるのを待っていました。現在では考えられないことではないでしょうか。たとえ作ってくれたとしても、材料費と人件費を請求されるのではないでしょうか。

いつからそのようなよき伝統(^^;が失われてしまったのか知りませんが、劇画の「同棲時代」が出る以前からそのような伝統は連綿としてあったようです。
三枝和子さんの「わが青春の京都時代」(高橋和巳コレクション9「日本の悪霊」巻末エッセイ)には、高橋和巳・たか子夫妻の次のような情景が(批判的に)回想されています。

たか子さんはひどくまめまめしかった。私の目には和巳さんが我が儘いっぱいに甘えて、たか子さんが一生懸命に仕える、そんなカップルの在りように思えた。/ ――たか子さん、惚れ過ぎちゃったんだ。

というわけで、上のような形式は、昭和30年代のいわゆる進歩的知識人においても、おそらく普通に見られたものだったのではないでしょうか(補注:高橋夫妻の吹田時代(1958〜1965)の話。正式に結婚されているので同棲の例には不適切ですが、片や進歩的知識人の暁将、片や女性性を追求した文学者のカップルからして上のような次第ということで)。

私にはとても懐かしく、甘美な思い出であり(と申しますのも、今の私の状況はとてもそのようなことが許されないからなのですが(^^;、そして許されることではないと今では考えているのですが)、やはりよい時代だったなあ、と思うのは事実です。現代のフェミニストはこれを嗤うのかも知れません。

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フセイン大統領が 投稿者:アレクすて  投稿日:12月15日(月)01時52分1秒

米軍につかまったそうです。
いろいろ思うところがあるのですが、今日は、ご報告まで。
管理人様。おそらく、私は、土日はあかないと思いますので、
また参加できないと思います。

>眉村さんを囲む会

ごめんなさい。
では。


眉村さんを囲む会 投稿者:管理人  投稿日:12月14日(日)20時08分34秒

今年同様、来年も1月末〜2月初あたりで開催します。
日はまったく決めてませんが、遠方より出席される方もいらっしゃるでしょうから、土曜日がいいですかね。


都筑道夫さん 投稿者:管理人  投稿日:12月13日(土)19時45分29秒

アレクすてさん
お知らせありがとうございました。
都筑道夫さんは、私の個人的視野においては、ミステリの作家ではなく、まず第一義に、福島さんの協力者であり、第二に、怪奇短篇の作家・評論家でした。
都筑さんの協力なくして、福島SFMはあり得なかったのはいうまでもありません。
HMMに連載されていた評論を一時期精読していました。海外の派手なホラー大作が津波のように押し寄せてきて、都筑さんが書くような小体な怪奇小説(言葉の正当な意味でモダンホラーだったと思います)がかすんでしまい、そういう作品の市場も消滅し(村田基さんはそのあおりを食った一人です)、そのうちに都筑さん自身もミステリのほうへ戻ってしまわれたのは、致し方ないとはいえ、まことに残念なことでした。
いまになって、キングやクーンツ全盛期には見向きもされなかったカーシュやイーリイやスタージョンの短篇が、ようやくそれなりの評判を取り始めたというのは、まったく皮肉な感じがいたします。
都筑道夫さんの魂の安らかならんことを。

オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』に着手しました。

編集済


いいわすれてました。 投稿者:アレクすて  投稿日:12月12日(金)23時36分37秒

都筑さんのご冥福をお祈りします。
では。


取り急ぎお伝え 投稿者:アレクすて  投稿日:12月12日(金)23時30分50秒

管理人様、皆様、こんばんは。
アレクすてです。
都筑道夫さんがおなくなりになられました。
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/20031213k0000m060068000c.html
(古書店で買ったのですが、)「 なめくじに聞いてみろ」や「やぶにらみの時計」
といった作品が好きでした。
つい、このまえ、「SFジャパン」のインタビューにお出になられていたと思っていたのですが…。
とりあえず、おつたえいたしました。


「ローマ帝国の神々」 投稿者:管理人  投稿日:12月12日(金)20時47分3秒

小川英雄『ローマ帝国の神々』(中公新書、2003)、読了。
何か教科書を読まされているような味気なさを感じた。その原因の大半は、私の無知のせいといえます。なんせ、出て来た単語の3分の1は、はじめて見る固有名詞なんですから。今、ぱっと開けたところを書き写してみましょう。
そこでは、ユピテル・ヘリオポリタヌスと後述するユピテル・ドリケヌスとが同一視され、ヌミディアのランバエシスやパンノニア属州(ドナウ川沿岸)の各地に崇拝の痕跡を残している。(67p)
人並みの知識があるユダヤ教とキリスト教の章は面白かったので、ま、そういうことなのでしょうな(汗)。

『廃墟の歌声』より――
○「飲酒の弊害」
まあその、アイデアストーリーといいますか、、、

○カームジンもの4篇。
1)「カームジンの銀行泥棒」
2)「カームジンの宝石泥棒」
3)「カームジンとあの世を信じない男」
4)「重ね着した名画」
なるほど著者の人気シリーズだけのことはあります。1)を読んだときはちょっと軽いなあ、と感じたのですが、続けて読み継いでいくとその世界にはまってしまいました。
わたし的には、3)が皮肉で一等よかったですが、4)も贋作をテーマにアイデアが面白く、なかなか捨てがたいものがありました。2)は精神科医の町としてのウィーンがおもしろい。この辺の話をもっと読みたいと思いました。

○わあ、あと残り2篇しかない! と思ったら、bk1より『廃墟の歌声』の購入特典「オックス博士真夜中に死す」のテキストファイルが届いていました(^^)

編集済


「ボウリング・フォー・コロンバイン」 投稿者:管理人  投稿日:12月10日(水)20時01分37秒

「ボウリング・フォー・コロンバイン」を観ました。
これはすばらしいドキュメンタリーですね。
この作品でマイケル・ムーア監督がいいたかったことは二つあると思います。

ひとつは、コロンバイン校の事件にせよ、6歳の少年が同い年の少女を撃ち殺した事件にせよ、その真の理由は不可知であるとしていること。
訳知り顔の解説を加えるのではなく、どんな深遠な理由があったにせよ、なかったにせよ、問題はそれよりも加害者が簡単に銃や銃弾を入手出来ない環境であったならば、少なくとも当該の事件は起こり得なかった、ということです。

もうひとつは、アメリカと同じように簡単に銃を所持できるカナダでは、しかしアメリカほど銃による殺人事件は起こらないのはなぜか、ということについて、監督は、ドアに鍵を掛けることに対する、両国民の正反対の考え方に着目します。
アメリカ人は自ら(の家族)を守るために鍵を掛けます。カナダ人にいわせれば、鍵を掛けるということは、自分を閉じ込める、社会から遠離ける行為として捉えるわけです。

そういうわけで、とりあえず前者より、アメリカ社会は銃を簡単には入手できなくするような社会にならなければならない、と監督は訴えます。これはまさに自然の理といいますか、もっとも簡単にして合理的な解決方法です。

ではなぜアメリカ社会は銃を手放したがらないか、ということになります。それは後者に顕著に表れているアメリカ人の「怯え」の意識に基づく防衛的な姿勢のなせるところといえます。そしてそれはただちに黒人への後ろめたさに起因する怯えであることを監督は指摘します。

怯えによる「過剰防衛」の心理がアメリカ(白)人に蔓延しているわけです(結果としてアメリカの黒人や他の有色人種も同じ怯えに感染してしまっています)。監督によればアフガンやイラクへの攻撃も、かかる過剰防衛心理の顕現であるわけです。

一方で、アメリカ軍需産業の要請も無視できないと監督は考えているようです。たしかに10年に一度は戦争を起こさないと、米政権は軍需産業に倒されてしまうというまことしやかな話はよく耳にしますが、アメリカ国民自身もまた、過剰防衛の心理を広告によって刺激され、銃や弾丸を買いまくって軍需産業に貢献しているのだ、と監督はいいたいようです。なるほどまさに。

この過剰防衛の心理こそ、アメリカをアメリカたらしめて来た精神であり、原動力であったかも知れません。
戦後日本は、まず物的にアメリカ化されましたが、70年代以降急速に心的にもアメリカナイズされてきたと、私は考えるものですが、かかる過剰防衛の心理もまた、日本人の生活様式の中に入り込んできているようです。

たとえば池田小学校の事件後の対策は、つまるところ鍵の強化だったわけです。ところがカナダのような対策もあり得る筈なのです。
すなわち学校をオープンにしてしまう。誰でも入れるようにする。その代わり不審な人物には教員が必ず声を掛ける、というより校内で出会う人には見知らぬ人であっても、必ず挨拶を交わす、というかつて日本社会では自明であった習慣を回復すればいいだけのこと。
というより、現状の日本の公的施設は十分にオープンであると思います。問題は施設内の職員がそのオープンさに対応できていないことでしょう。むしろ逆行するかのように放任的であるのではないでしょうか。

池田小学校の事件は、私が思うに、教師が敏速に行動していたら防げた可能性があるのではないかと思っています。もっとあからさまにいえば、かれらは職員室に閉じこもって、校内に分散していなかったのではないでしょうか。児童と触れ合うより自分自身の時間を優先していたのではないか。そんなことを当時考えたものでしたが、もちろん事件の詳細を調査しての発言ではないので念のため。個別的には不適切かも知れませんが、一般論としては間違ってないと思います。
ともあれこのドキュメンタリー映画には啓蒙されるところ触発されること大でした。


浅倉久志セレクション 投稿者:管理人  投稿日:12月 9日(火)19時50分34秒

土田さん
>創作をメインとする雑誌としてはまあ変ですよね。
ですよね。もう未訳が残ってないのなら別ですが、著作リストによれば今年も評論を出している現役バリバリの作家なんですからね。

>「エリ・エリ」
おお、お読みになりましたか。私も読まなくては。新刊を追っていると、なかなかこういう本が読めないですね。
SFの新刊、最近よく出てうれしい悲鳴ですが、今くらいのペースで押さえて欲しいです(>勝手な(^^;)

アレクすてさん
>日常の生活
それが一番だいじですよ(^^) 日常があってこその読書生活ですからね。
そういう私は、先月の読書高揚期の反動が来て、ちょっとへこみかけています。仕事をする(人と会う)気力がなく、今日は半日喫茶店やファミレスを渡り歩いていました。自営なので誰に気兼ねもしないのですが結局最終自分に返ってきて苦しむのは目に見えているんですけどね(^^;
で、何をしているかというと、サ店で本を読んでいたのでした(汗)。ぜんぜん変わってませんね(^^;ゞ

>中年期に入り
アレクすてさんが中年なら、私は老年ではないですか! むー(ーー;

SFMより――
タナナリーヴ・ドゥー「患者第一号」
浅倉久志セレクションの第1回。さすがに浅倉さんのメガネにかなった作品で、とてもよかったです。作者はアフリカ系アメリカ人の女性(タナナリーヴって、マダガスカルの首都だっけ)というわけで、これは当然ワスプ的アメリカSFとは視点が違うわけです。

人類滅亡テーマとしての新機軸はないのですが、既成のテーマでもこれだけのものが書けるということを見事に証明しています。

本篇に癒やし的なイメージを持たれるかも知れませんが、なんのなんの、不可抗力で注射針を誤ってしまった看護婦が「くそったれ、くそったれ」とつぶやきます。主人公がどうしたの、と訊ねると「まるでつきとばしそうないきおいで」主人公を押しのけるのは、当然気が動転しているからですが、その無意識には「元凶」に対して「くそったれ」であり、乱暴なつきとばしなのでしょう。

おまえなんか眠らせちゃえばよかったんだ」と酔っぱらって指弾する男は、ふだんはいつも優しくしてくれる人なのです。
どんなに主人公を理解する人も、主人公はその人にとってアンビバレンツな存在であるのは間違いない。主人公の存在は、単に癒やし小説であるにはあまりにも過剰です。

本篇は、書いてあることしか読まないSF読者には平凡な話に見えるかも知れません。深く共感的に読んで欲しいものです。
タイトルに仕掛けがあるというか、ラストで生きてきます。そう、主人公は最初の患者にして、最後の期待なのです。主人公は積極的に生を求めて「外」へ出ていきます。

その意味で、このイラストはあまりにもお粗末。もっとしっかり読んで描けといいたい。パターンで描いてはあきまへん。だいたい主人公は黒人なんだから。そして病室は走り回れるほど広く、主人公ははしゃぎすぎて肘をすりむくほど元気なのだから、このようなひ弱な病人のイメージではないはず。こんな姿ではラストのリアリティが失われてしまう。


あ、時間がなくなった。
『廃墟の歌声』より――
「盤上の悪魔」と「ミス・トリヴァーのおもてなし」を読む。いやどちらもうまい。うまいは巧いと書く。後者はブラッドベリを髣髴とさせられました。

編集済


お久しぶりです。 投稿者:アレクすて  投稿日:12月 9日(火)01時22分14秒

管理人様、皆様、おひさしぶりです。
SFマガジンのレム特集をまだ買っていません(汗。
晶文社のスタージョンもまだかってません……これでは『SFファンです!』といえません(大泣き)。・
では、何をしてるかというと、日常の生活と、あとは、梅田古書倶楽部(ヘップ阪急裏)
にいって、むかしのSFをかうことです。
中年期に入り、テッド・チャンや、グレッグ・イーガンといった新人?の作品世界に
入りにくくなっている上に、眉村さん、小松さん、光瀬さんといった人々の作品に
読みおとしがあるため、それらを買い集めているだけで時間が過ぎていくのです。
(そして、それらの人の作品は、好き嫌い、でき不出来以前に、
同時代人の感性ですので、面白いのです……)。
不勉強で申し訳ありません。管理人様、皆様。
このまえ、サンリオのクラーク翁の「スリランカから世界を眺めて」
と雑誌「SFの本」をかいました。しあわせでした。では。
(人外境ご主人の中様から乱歩の本が届きました。
造本の見事さに、ボーっと見ています。)
では。


ようやく読了 投稿者:土田裕之  投稿日:12月 8日(月)03時07分35秒

レムの作品が1篇もないのは、特集としては評論誌ならともかく
創作をメインとする雑誌としてはまあ変ですよね。

「エリ・エリ」平谷美樹をようやく読了しました。
PCが壊れたせいもあるけれど、都合6日間もかかってしまいました。
考え物です。
とりあえず力作ではありました。


レム特集 投稿者:管理人  投稿日:12月 7日(日)22時22分29秒

○芝田文乃「ポーランドにおけるレムの現在」
タイトルどおり、レムのポーランドでの受容状況。
レムはポーランドの書店でもっとも多くの場所を占めている作家(56p)
というわけで、国民的大作家のようです。
31pでの、
ロシアでは私の著作は700万部以上(・・・)統一後のドイツでもすでに700万部を超えている。ところが前政権崩壊後のポーランドでの刊行部数はわずかに2万5千部から3万部で、しかも非フィクションは1冊も刊行されていない
というレムの認識(インタビューは1994年)とは、大違いですね。

○ブルース・スターリング「世界認識の穂先」
レム讃であるが、ちょっと勘違いして誉めているような。

○フランツ・ロッテンシュタイナー「情報の海のロビンソン」
著者はレム支持者だが、これは面白い。
これまでの論考が概してレム絶賛だったのに対して、近くにいたから見えたレムの「事実」をややあけすけに語っている。ここから読みとれるレムは、見得を切る「文士」以外の何者でもない。偶像としてのレムではない。スターリングのレム像とは少し違うのだ。
上に挙げたポーランドでに出版状況とレム自身の認識との齟齬も、まさに本論を読めば納得できるだろう。
著者はレムの近くにいて、その発言放言の数々を、「やってられんなあ」とつぶやきながらも、そのドングリまなこをひん剥いて芝居がかるレムの稚戯というべきハッタリを愛おしんでいるように見える。

○宮尾大輔「レムの怒り、あるいはタルコフスキーのメロドラマ的想像力」
これはよい論文です。本特集中一番論文らしいといえるかも。
レムの怒りはマクラに過ぎず、映画における二元論的なメロドラマ論がメイン。ここにいうメロドラマとは、メロメロのドラマではなく「意味が物事の裏に隠された、過剰に表現主義的なドラマ」(ピーター・ブルックス)のこと。本論は「惑星ソラリス」がいかにかかるメロドラマの定義にかなった作品であったかを解説する。

あと、「邦訳作品解題」と母国で刊行された「著作リスト」が付されており、、<スタニスワフ・レム特集>としては以上です。しかしながらレム自身の作品が(小説非小説に関わらず)1篇もないというのはいかがなものか。

編集済


SFM1月号 投稿者:管理人  投稿日:12月 7日(日)13時57分7秒

昨日は「名張人外境大忘年会」でした。
というわけで今日は頭痛です……咽喉も痛い(汗)。

E・キングさん
>その宣伝は9日解禁
ありゃま、そうでした(^^;。

>「廃墟の歌声」
私もbk1で購入したのですが、予約ではなかったので、おまけの配信はE・キングさんより少し遅れるようです(ーー;。

SFマガジン1月号をようやく購入しました。スタニスワフ・レム特集。
○インタビュー「レム、科学と文学を語る」
レムの広範な知識に付いていけませーん(汗)。しかし現象学的な方法を、レムが評価していないことが判った。
哲学は明らかに科学の一派生物だ考えている。わたしにとって、人間の心についての実験によらない考察は、大して意味のある認識ではない。(18p−19p)
いささかずれますが、私自身は実験心理学なんてプラグマチックな学問は全然信用しませんけどね。

○巽孝之「もうアメリカの夢は見ない」
要するに、アメリカSF界にとって、ここでレムに指摘されてしまったことは、すべて図星なのである。(37p)
というのは全く同感。
「まことに不運なことであるが、いくらひどい生活水準で暮らしているからといって、ひどい文学作品を垂れ流していいという言い訳にはならないのである」(37p)というレムの発言は、日本の状況においても妥当。もっとも私自身は作家の側よりも、右肩下がりを続ける読者のレベルを後追いするばかりでレベルの引き上げを考えようとしない出版サイドをまず何とかしなければいけないとは思うが。

○牧眞司編「スタニスワフ・レム語録」
レムの発言(放言(^^;)で構成した小評伝。よく構成されていて面白い。

○椎名誠「レムを読んでいたいい時代の話」
そうそう、そうであった。「惑星ソラリス」を著者は評価していない。私も初見では同意見だったが、後年見直したときは、原作の呪縛から脱することが出来て、これはこれなりに面白かったです。

○佐藤亜紀「暗黒卿ソダーバーグ」+佐藤哲也「ロクデナシ ソダーバーグ」
当の映画を見ていないのでなにもいえない。

○若島正「レム、ボルヘス、ナボコフ」
作家による小説世界の統御という問題は、私も最近「ららら科学の子」を読んで考えることがあった。高橋和巳はたしか統御しないという立場だった。矢作作品について、私は最初統御したという理解だったが、あとで統御せずとも結末に至ることに気づいた。つまりSFとしてならば統御することにあまり違和感を持たないのだが、文学作品としてみる場合は違和感を感じるという、私自身の傾向(?)があることに気づいた。一般的にもSF作品は統御しないとお話にならない場合が多いわけだが、レムはSF的作品においても、統御することに対して、即ち運命論的決定論的立場に立つことを潔しとしないということであろう。これは非常に困難なことで、そんな芸当が出来るのはレム以外に何人いるかというレベルであるのは間違いない。

○菊池誠「GO! REM,GO!」
レム作品が、いかにハードSFとして書かれているか、あるいはハードSFとして読むべきかを説明。なるほど。

とりあえずここまで。

編集済


ありゃま 投稿者:E・キング  投稿日:12月 6日(土)20時03分56秒

管理人様、その宣伝は9日解禁と日曜先生おっしゃられてますが、喜び勇んでおりますね?(^^;)。いやかくゆう私も某所では仄めかすことをやってきたばかりなのですが。
あちらの忘年会は今年もパスしなくてはならぬのが、残念無念であります。嗚呼!

「廃墟の歌声」というと、ネット通販での本書未収録短編のメール配信特典の第一次配信開始は今月10日だという通知メールが届いてました。これが目下楽しみであります。
ついで火星シリーズですが、とりあえず初期3作の続く2作は暮れから年明けにかけての間を目処に読み進めたい意向は持ち合わせております。


「江戸川乱歩著書目録」 投稿者:管理人  投稿日:12月 5日(金)20時34分56秒

名張図書館より、平井隆太郎・監修、中相作・編集江戸川乱歩リファレンスブック3江戸川乱歩著書目録』が届いてました。
すばらしい立派な本です(^^)
装幀はもちろん戸田勝久さん。扉に使われたのは「月の菴」(2001年)という作品。和風マグリットというべき玄妙な作品で、ぴったりですね。
協力者を見ると――おおよく知ったHNの方が本名で(^^;、、、白梅軒さんや小林文庫オーナーさん、末永さん、住田さん、玉川さん、本多さん、大江十二階さん、野村さん、橋詰さん、SPOOKYさん(ですよね?)。皆さん協力されたのですね(^^) 
これはもう、インターネットというものがこれほど普及していなかったら、あり得なかった事業であったかもしれません。
いや兎にも角にも、よかったよかった(^^)

○購入ご希望の方はこちらへ。

『廃墟の歌声』より――
「無学のシモンの書簡」>げに信仰とは盲目であることよ。信仰の人カエサレアのシモンが、主の許へ導かんと熱心に信仰を説いた当の相手は……
こういうのを「批評的」というのだと私は思います。風刺と諧謔、の毒素が充満する滑稽小説。

「一匙の偶然」>作家自身らしい主人公の作家に対して、悪党のスタヴロがいいます。
あんたの皮肉のきいた辛辣なペン(80p)(^^;
不自然なくらい偶然にいろどられた滑稽で悲しい物語。スタヴロがはじめてジーノの店にあらわれたとき、かれはまだ腕を三角巾で吊っていて絶え間ない痛みに襲われていたとありますから、事故の翌日か、遅くとも数日後だったのでしょう。まだ酒を飲みに来るような状態ではありません。ではなぜ来たのか? おそらく事故の瞬間、「伯爵夫人」を認識したから、ではないでしょうか。おお!

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「歴史地図で読み解く三国志」 投稿者:管理人  投稿日:12月 4日(木)22時48分23秒

武光誠『歴史地図で読み解く三国志』(プレイブックス・インテリジェンス、2003)読了。
羅貫中の「三国志演義」はどの程度まで史実なのか、どの部分が創作なのか、というテーマで、前半で三国時代の歴史を整理し、後半でそれをふまえて「三国志演義」の物語を見直す、という体裁。
あっという間に読めてしまった。あまりにも短すぎて物足りない。この倍のボリュームは欲しかった。このプレイブックスというシリーズは、安田喜憲の『長江文明の謎』でも同じ不満を感じた。想定するレベルが低すぎるのではないか。
これは、初心者が読むというより、ある程度知っている人が知識を整理するために使う、といったものか。
いささか欲求不満が残った。

『廃墟の歌声』より、
表題作>最後であっと驚く。いや、騙されちゃいました(^^;ゞ テーマ的にはありふれたテーマなのですが、それでなおこのラストの鮮やかさは、それまでの世界構築が巧みだから。並のSF作家など足元に及ばないセンスであり、筆力です。

「乞食の石」>なにも幻想的場面はないのに、幻想小説を読み終えたような読後感。これも独特のアングルからの世界構築の勝利。ハンガリーの原野が舞台なのだが、もっと幻想的な、抽象的な原野のようなイメージがあります。
途中のふたりの乞食の会話の場面は、筒井康隆の幻想的な小説を読んでいるような感じがした。そういえばこの小説、戯曲的なんだね。

本作品集も前作同様のレベルを維持しているようです。いかにもイギリス人らしい毒素が横溢しています。残りの話も楽しみだ(^^)

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「ららら科學の子」再考 投稿者:管理人  投稿日:12月 3日(水)21時30分49秒

実は昨日、さる方と『ららら科学の子』について、メールでお話していたのです。その際、

>ところで、『ららら科学の子』の、不思議な明るさは、矢作の未来感なのでしょうか?
と訊ねられたのです。私はそのとき深く考えず、
むしろ未来に対する期待も何も、興味すら失った果ての、無責任から来る明るさではないでしょうか。本作品の矢作は終始後ろ向きだと思いました。そういうわけで、私はラストには違和感があります(唐突というかリアリティを感じられないんですよね)。
とお返事をしたのですが、一晩寝て、それでは読めてないことに気がつきました。

当初私は、主人公の中国での生活に、現実感がなく、夢のような印象で、事実主人公は、中国でのある意味過酷な生活の過程で、考え方なり人生観が激変してもいい筈なのに、全く30年前のまま日本に戻ってきます。
それで私は、中国での30年にタイムマシンの代用としての意味しか見出せなかったのですが、そんな単純なものではなかったのです。

おそらく主人公は、立場の激変に30年間アパシーのような状態で、あたかも離人症のように何をするにも生き生きとした現実感をもてずに暮らしていたのではないでしょうか。現実に向かい合うことができず、(無意識ではすべてを拒否して)自分の中に閉じこもって30年を暮らしていたのではないでしょうか。

したがって開拓したり結婚したりと、一応それなりの生活をしているわけですが、それを行っている当の自分を、自分自身のこととして捉える(直視する)ことができず、いわば他人を見るように、他人事のように感じていたのです。

その結果、基本的な人生観は中国の影響を殆ど被らなかった。
(すなわち必然的にSF装置となった。私の当初の理解では、SF装置とするために操作的に中国へ行かせたとなり、文学的には不自然な手法ということになってしまいます。)

日本へ帰ろうと思えば出来たのに、行動しなかったと、主人公は作中で考えますが、その理由は、中国に生きる自分を自分のこととして捉えることが出来なかったからなのでしょう。
それが妻が広州に行ってしまったことがきっかけとなり、凍りついていた自我が少し綻び、日本へ帰るという意識が生じます。

そして日本に帰り着くわけですが、そこで旧友の無私の友情に触れ、旧友の部下やホテルの支配人や、いまどきの高校生とふれ合ううちに、急速に解凍され、妹と会話を交わすに至って、離人症的な状態を脱したのです。そしてその快癒の過程の最後の締めくくりとして、妻を日本に連れて帰ってくる、という意識が生じてきたのです。これは帰国してからずっと受動的だった主人公が、自ら決断した最初の行為であることは重要です。

妻を連れて帰ってきてはじめて、主人公の自己回復は成就する事になるわけです。それゆえ、広州に向けて出発するラストが「不思議な明るさ」をたたえているのは、したがってきわめて当然といえるでしょう。その意味で、ラストの広州行きは「唐突でリアリティがない」どころか、「こうでなければならない」必然的な行為だったわけです。

そう考えますと、私の最初の理解は、根本的な部分を理解していなかったわけで、恥ずかしい限り。
私は土田さんの掲示板に、本書について、SF的にはオッケーだが文学的には問題あり、などとしたり顔で書き込んでしまいましたが、それは単に私の読みが浅かっただけ。本書は文学的見地から見ても筋が通った傑作でした。

○『廃墟の歌声』に着手の予定。

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全滅 投稿者:管理人  投稿日:12月 2日(火)18時39分1秒

火星の大元帥とは、けだしわが国の征夷大将軍のようなものでしょうか。

今日こそは入荷しているかと、このところ毎日のぞきに行っていたのですが、今日ついに店員に訊ねましたところ、今月からカットされているとのこと、今後も入荷することはないということでした。
というわけで、泉州・泉南地域の、私の知る限りの書店の店頭から、SFマガジンは全滅してしまいました。めでたい(ーー;

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火星シリーズ 投稿者:管理人  投稿日:12月 1日(月)20時46分41秒

E・R・バローズ『火星の女神イサス』小西宏訳(創元文庫、1965)読了。
E・R・バローズ『火星の大元帥カーター』小西宏訳(創元文庫、1966)読了。

前者の原書は1918年刊。初出〈オール・ストーリー〉誌1913.1〜5
後者の原書は1919年刊。初出〈オール・ストーリー〉誌1913.12〜1914.3

先日も書きましたが、火星シリーズは1〜3巻で、ひとつらなりの物語がひとつの完結をみます。即ちある日火星へとばされてきた一介の風来坊が、やがて妻を娶り、友情にも恵まれて、ついに火星の主たる部分をほぼ統一し大元帥に推戴される、という成功物語です。

火星シリーズの大きな物語・ジョン・カーターの物語は、ほぼこの3巻で完結なのです。
あとの巻はいわば付けたりといって良いかもしれません。ストーリーは同工異曲になり、そのため楽しみは、作者がイマジネーション豊かに登場させる摩訶不思議な火星種族や魔法のような技術に移っていきます。

その意味でも、この3部作はシリーズ中の白眉であり、とりわけ2巻は派手さにおいても一等抜きんでていて、作者はこれでもかといわんばかりに、アイデアというより思いつき(汗)を投入し、しかも最終的にその雑多な思いつきを、とにもかくにもまとめ、収束させ得た力作です。

次の第4巻では、主人公は息子のカーソリスに移り、ジョン・カーターは暫く休憩となります(^^;
読み続けるかどうか、思案中(^^;ゞ

 


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