【掲示板】


ヘリコニア談話室ログ(2004年2月)


エイリアン対ストレンジャー 投稿者:管理人 投稿日: 2月29日(日)20時17分59秒

岡本さんの「エイリアン・ベッドフェロウズ」のレビューを読んで、ちょっと興味が……。で、bk1で見てみたら、内容説明に、

SFを含む現代文学や映像作品に無数に出現する広義のエイリアンを分析し、社会において自ら異質であるのを自覚する人々の姿と、彼らを異質化する社会の規範と、そこに交錯する様々な問題系とを論じる。エイリアン文学論。

ふむ。これを見てただちに想起したのは、アルフレッド・シュッツの〈ストレンジャー〉です。
〈エイリアン〉と〈ストレンジャー〉、比べてみたら面白そうですねえ。
それに、本書でシュッツがどのように扱われているのか、あるいは扱われていないのか、その辺にも興味があります。図書館に入らんかな。


「夜更けのエントロピー」 投稿者:管理人 投稿日: 2月28日(土)18時32分8秒

臼田さん
HMMはなくてSFMがあるとは、よい本屋さんですねえ(^^)

>帰宅する時間には閉まっているもので
体にだけは気をつけて下さいよ(ーー;

ダン・シモンズ『夜更けのエントロピー』嶋田洋一訳(奇想コレクション、03)読了。

本作品集の全作品に渉って、著者自身が経験したとおぼしいベトナム戦争が色濃く影を落としています。それからエイズ、ドラッグ、教師体験…… 
すなわち60年代後半のアメリカに吹き荒れたフラワー・ムーブメント、アメリカン・ニューシネマ等に代表される時代の空気をもろに吸い、それを引きずった作家ではないでしょうか。48年生まれの著者は、あの68年当時、まさに多感な20歳の青年だったわけです。

これはもはやSFではありませんね。むしろアメリカ文学(読んでませんが)の範疇に入る作品集のように思いました。SFオタクがそのまま成長して作家になったブリンなどとは、明らかに異質なセンスを感じます(もちろんいい意味で)。

「黄泉の川が逆流する」は、形式としては(人工的な)ゾンビものといえますが、著者の関心は、ゾンビと化した母親を描くことにあるのではなく、母親がそのようなものとして存在することで、変化していく父親、兄、親戚、主人公自身のその変容にこそあります。

「ベトナムランド優待券」では、ベトナムは国を挙げてベトナム戦争を疑似体験するテーマパークとなっており、かつてベトナムに出征した兵士には、家族共々政府の援助により格安でツアーに参加することができるという設定。
主人公も息子家族とともにツアーに参加して何十年ぶりかでベトナムにやってくる。しかし彼は帰還兵として帰国当時、直接家に帰らず、オレゴンかどこかの森で二年暮らしていた事実があり、セラピーを受けていた。その彼がベトナム戦を「疑似体験」しているうちに……

「ドラキュラの子供たち」は、チャウシェスク失脚直後のルーマニアの話。チャウシェスク失脚のきっかけは「闇の顧問」から見放されたためだった。ドラキュラ伝説の故郷ルーマニアでエイズ発生の真因が明らかにされる……
チャウシェスクか、長い間忘れていました(^^; チトー、ゴムルカ、ノボトニー、ウルブリヒト、カダル、ジフコフ、、、

表題作「夜更けのエントロピー」に至っては、形式としてもSFではなく、日本で言えば純文学に相当する秀作。
娘(別れた妻が養育している)とのつかの間のドライブで出かけた主人公の脳裏に去来するのは、保険屋として経験した事故の数々。そして主人公の息子を襲った事故。こういうのを意識の流れ手法というのでしょうか。アルペン・スライドというコースを橇で滑り降りるレジャー施設で、主人公の前を滑る娘の橇は、スピードを上げて彼を引き離していき……主人公の心を苛んでいた不全感にひとつの決着が着けられる。

「ケリー・ダールを探して」は、荒巻的な雰囲気もある内宇宙もの。これも前作と似て子供の事故死、妻との離婚を経験し、アルコール依存症に陥った元教師が、教え子(事実そうなのか彼の内的創造物なのか)のケリーが(主人公の心の中から材を得て)「創造」した世界を彷徨し、ケリーと一体化することで回復を果たす話。

「最後のクラス写真」は、ゾンビが徘徊する世界で学校に立てこもった老女性教師が、子供のゾンビを捕まえて教育を施すという膠着的で不毛なモチーフが描かれる。なぜかラストが思考停止で大甘でマンガ的。

「バンコクに死す」は、異形コレクションの『アジアン怪綺』に収録されていそうな話。

というわけでアイデアストーリーとシリアスな話が混在する、非常に間口が広い作品集でした。わたし的にはこの2種はそりが合わないように思うので、どうせオリジナル編集なのだから去年のスタージョンの2作品集のように、傾向別に2冊に分けて出してほしかったように感じました。

次は『針』にするか『ヒトは環境を壊す動物である』にしようか思案中。
編集済


SFMのこと 投稿者:臼田惣介 投稿日: 2月28日(土)00時21分37秒

不思議なことはあるものです。
私の通勤経路の本屋さんからはHMMは姿を消してしまいました。
SFMは並んでいるのに。まぁ、最近はその本屋で買えなくなってしまったのですが。
帰宅する時間には閉まっているもので。
ともあれ、私の通勤経路ではSFMは確実に買えますね。どうしてかな不思議?


4月号は出たのでしょうか 投稿者:管理人 投稿日: 2月27日(金)20時07分52秒

近所の書店(チェーン店)の売り場面積が縮小されて、SFマガジンが入荷しなくなった話は以前にいたしました(店員に確認した。店舗のランクが下がったため機械的に入荷しなくなったのでしょう)。以前はSFマガジンとミステリマガジンが1冊ずつ入荷していたのですが、改装後はミステリマガジンのみ、ただし2冊入荷するようになりました。これがおかしい。

私は週に最低1度はその書店を訪れます。するとこのHMM2冊がいつも、常に売れずに仲良く並んでいるわけです(昨日も確認してきた)。
それを見る度に、私はため息をつくのです。もし2冊のうちの1冊をSFMに振り替えていたら、少なくともそのSFMは(毎月ではないにしろ)私が購入するわけだから、書店にとってもその方が遙かにメリットがあるはず。

実際、面積が縮小したからといって(品目を減らすのは仕方がないとしても)品種を減らすのは小売業としては明らかに間違いですね。

それに、これは地域的特殊事情なんですが、周辺10キロ以内にSFMを常備している書店がないのです(ミステリマガジン常備店舗は複数ある)。つまりSFM真空地帯。小売業に従事する者なら、この立地特性を見落としたらあきませんがな。つねに透き間を突いていかなくちゃ。
競合店調査をしていないのでしょうか。小売業は売場責任者の創意工夫の有無で売り上げは激変するもの。マニュアル至上主義(実は怠慢)では売り上げを落とすばかりなのです。

けっきょく何が言いたいかというと「今からでも遅くない、SFMも置きなさい!」ってことなのでした(^^;ゞ
編集済


関西市民文化塾 投稿者:管理人 投稿日: 2月26日(木)22時44分46秒

のことが少し分かりました。
たしかに、6月12日に眉村先生の講演会が予定されていました。
ただし、これは年間(4月開始で10回の講演会あり)で申し込まなければならず、眉村さんのだけ受講するということはできないそうです。年間受講費24,500円。
詳しくは事務局(06−6346−3787)にお問い合わせ下さい。
編集済


SFM3月号より 投稿者:管理人 投稿日: 2月25日(水)20時51分25秒

アーシュラ・K・ル・グィン「ワイルド・ガールズ」は掛け値なしの傑作。著者十八番の社会人類学テーマのファンタジーです。
冠族、土族、根族の3分族を巡る不可逆的な婚姻システム、いわば双分制ならぬ3分制によって基礎付けられた架空の民族社会に繰り広げられる絢爛たる物語世界! まさに物語の醍醐味を味わえました。

この魅力的な異世界に展開される物語は、しかし結局は、アレゴリカルな、私たちが今生きている「この」世界に他ならない。いかにエキゾチックに見えようとも、著者はソラリスを描いているのではないのです。あくまでも著者の関心は、この世界に向けられています。なんの虚飾も、ハッタリもない、現実そのものに。スーパーマンなんてものはいない、善が勝つとは限らない、この世の不条理に……。

そしてそのような世界を、著者はキャラクターに頼らない、センチメンタルに流されない、純然たる物語の力でもって力強く、しかし哀切に描ききっています。この世の不条理に翻弄され、最後は月が満ちても陣痛がなくおなかの子が大きくなりすぎて死んでしまうのですが、常に毅然たる主人公の姿が実によい。

曖昧なところが微塵もない、きりりとした小尾芙佐の翻訳もすばらしいです。

今号の特集は外れなしでした。それにしてもアメリカSF、あなどれませんなあ。ハヤカワ文庫上下二分冊ばかりではないんですねえ、、、


フォア・ローゼス 投稿者:管理人 投稿日: 2月24日(火)21時58分11秒

柳生さんが、眉村先生を囲む会の時の写真を送って下さいました。私だけが飛び抜けて真っ赤っかで恥ずかしい。いつものことですが(^^;
アレクすてさんの分も預かっていますので、今度お渡ししますね。

頻繁に受信する迷惑メールが鬱陶しくなったので携帯のメールアドレスを変更しました。これでやれやれと思ったら甘かった、一日たたないうちにもう迷惑メールが(ーー;

フォア・ローゼスって、何となく名前が気に入らなくて飲んだことがなかったのです。初めて買ってみたら甘くて意外に美味しかった。というわけで毎晩飲んでいます。
しかもこいつがウェストコースト派によく合うんですよ(>思いこみ)。で、ここ数日、チェット・ベイカー&アート・ペッパー「プレイボーイズ」がターンテーブルにのりっぱなし。極楽ですなあ(^^;白人ジャズってのに偏見があったのですが最近許せるようになってきました。歳か?(汗)

おかげで読書があまり進みません(>これが言いたかった)(^^;ゞ
編集済


ダリ生誕100年 投稿者:管理人 投稿日: 2月23日(月)21時00分6秒

「MADO美術の窓」3月号は堂々116ページのダリ特集「生誕100年記念ダリ大図鑑」でしたか。
そうか、生誕100年なのか。今年はいろいろ行事がありそうですね。
ところで特集では、この「晩鐘」が掲載されているんですが、でもわたし的にはこちらの「晩鐘」(ちょっと色が変?)の方が好きです。というより、この絵がダリで一番好きなのです。
編集済


SFM3月号より 投稿者:管理人 投稿日: 2月21日(土)20時03分19秒

キャロル・エムシュウィラー「ロージー」

いまひとつのフランケンシュタインの物語といえます。ぱっと読めばなんということもない話ですが、よく読めば深い。
作者が「フランケンシュタイン」の物語にインスパイアされて書いたのは明らかで、本篇のシチュエーションはフランケンシュタインの〈モンスター〉とド・ラセー一家とのいきさつを踏まえているのではないでしょうか。

櫻井進によれば、「人間」の概念とは、他方で「人間」でない存在を排除することによって近代社会において成立した、きわめて特権的な概念であり、「フランケンシュタイン」は、ルソー的な共感的な共同体から排除される存在の側から、共感的共同体の持つ排除の力学を描こうとしたテクストだと考えられる、とします。(『江戸の無意識』)

創造主ヴィクターに見捨てられた〈モンスター〉は森へ逃れ、そこに隠遁するド・ラセー一家に近づくことで、共感的な世界に入ろうと試みます。〈モンスター〉はそこで盲目の老人と共感的関係に入ることに成功するのですが、帰宅してきた老人の家族は〈モンスター〉を「見て」その「見てくれ」を根拠に、〈モンスター〉を拒絶し、排除します。

ここで注意を促したいのは、視線(まなざし)の存在です。盲目の老人は「まなざし」を持たないが故に、「外見」に目を曇らせられずに済んだ。先日読んだ「足が未来を作る」に、近代社会が「視覚の帝国」であるというのは、まさにこの事態を指すわけで、近代社会において「人間」とは「まなざし」であるといってもよいかも知れません。

本篇の主人公は、家族を失い一人で森に隠棲しています。彼の家に戦闘型生物兵器として〈創造〉された〈モンスター〉が訪れます。〈モンスター〉は怪我をしているようです。最初主人公は「食われてしまうかも知れない」と隠れますが、〈モンスター〉の様子に、見殺しにするに忍びず、ドアを開けて〈モンスター〉を招じ入れます。
主人公は盲目ではありませんが、「見てくれ」だけで判断する人間ではないように設定されています。本篇が「SF」である所以です。

「人間」の成立は、「非・人間」を同時に成立させるものであり、余談になりますが、「人間」と「非・人間」の峻別を契機として成立する類のホラー小説は、通念とは違って、近代社会の成立なしには生まれ得なかったジャンルといえましょう。

フランケンシュタインの物語が明らかにしたのは、近代社会の「かくある姿」だったわけですが、この物語にインスパイアされて、本篇で著者が表現したかったのは、いわば著者の信ずる「あるべき姿」のように思われます。すなわち視覚の帝国たる近代社会の弊害である「特権化したまなざし」へに異議申し立てといえるかも知れません。

特権化したまなざしとは、ありていにいえば「イケメン」のことです(^^;。その意味でイケメンは近代主義の必然的帰結といってもよいのですが、このような社会、すなわち「イケメン」でありさえすればその人の内面は不問にされるというよりも、イケメンは内面もイケメンであるという〈まなざし〉の監獄に幽囚されていては駄目なのだ。著者はそれを表現したかった。

ラストはちょっと曖昧なのですが、最初に「食われて」しまうことをおそれていた主人公が、〈モンスター〉を生きながらえさせるためには自らの肉を「食わせる」こともいとわない、と思うに至るストーリーは、まさに上述のスペキュレイションの過程から必然的であり、納得できるものです。

ジェフリイ・A・ランディス「人は空から降ってきた」

不思議なセンスがあっておもしろかった。ハードSF系の作家らしいが、すくなくとも本篇は異色作家風のテイスト。昔「海」という文芸誌があったが、あそこに載っていそうな作風です。
突き放したような記述は、緩む前のヴォネガットみたいな感じもあるし、コードウェイナー・スミス風でもある。
もしこれが主たる作風なら短編集を読んでみたいです。

ジェフリイ・フォード「創造」

本篇も純文学雑誌で見かけそうな作風で、というか、大体SFじゃないですね(^^;。厳密には(SFっぽい)普通小説です。宗教色の色濃い土地と無神論者の主人公の父親という設定がとてもよく描けています。ちょうど読んだばかりのダン・シモンズ「黄泉の河が逆流する」とも似た雰囲気があります。
上の2篇もそうですが、こういう作品がSFの賞を取るのですから、アメリカのSF界はかなり純文学化が進行しているのでしょうか。いいですねえ(^^)

『夜更けのエントロピー』も着々と読み中。思っていたよりずっといいです(^^)。
編集済


「シービスケット」 投稿者:管理人 投稿日: 2月20日(金)21時16分24秒

ローラ・ヒレンブランド『シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説奥田祐士訳(ソニーマガジンズ、03)読了。

一頭のサラブレッドが起こした奇跡――全米をゆるがした感動と再生の物語。(帯惹句)

解説で北上次郎が書いているように、まさにこんなドラマが本当にあったとは信じがたい。です。馬が馬なら、人も人。これほど波瀾万丈なドラマはめったにあるものではない。と私も思います。
とはいえ、全てが「事実」だったわけではないのではないでしょうか。おそらくは「意図せざるフィクション」というべきものが混じっているに違いありません。もとより著者が「膨らませた」と言っているのではなく、80年前の出来事を取材するわけですから、対象はすでに「伝説」なわけです。「伝説」と化した出来事を忠実に写し取ったとしても、それがそのまま「事実」とイコールであるわけがなかろうと思うのです。
だからといって、本書を貶めようと思っているわけではありません。むしろそのことに於いて、まさに本書は、American Legendをありありとした臨場感で描き尽くした傑作ノンフィクションとなり得ているように思われます。

ことに3人(4人?)と一頭が奇しき縁に導かれてチームを形成するまでの前日譚というべき第一部に克明に描かれる大恐慌下のアメリカ社会の「事実」(=伝説)が、通奏低音としてあまねく全編に響きわたり、本書を単なる名馬物語でなく、普遍的なAmerican Legendの物語たらしめています。

これを読むと映画がいかにも薄っぺらく感じられるわけですが、500ページを越える物語をわずか150分にまとめたのですから、それも当然といえば当然なので(余談ですが演劇でも講談でも1分は400字詰め1枚に相当するそうで、これを単純に映画に当てはめるならば、150分=150枚換算となるわけで、150枚といえば単行本100ページにも満たないということになります)、映画も本も両方楽しもうとするならば、まず映画を見てから本書を読む方がいいでしょう。

ほとんど駄馬同然から成り上がり、何度も挫折しては復活するシービスケット(とそのチーム)が不況下のアメリカの庶民から圧倒的な支持を獲得したのは、さもありなんと思わせられます。なぜなら、おそらく現在の阪神タイガースの人気とも通底するものがあるように思えるからです。エリートに対するたたき上げ、東部に対する西部、上に対する下、体制に対する反体制、という風にきちんと整理された観念となる以前の、それらを全て含み込んだ曖昧な反抗の「気分」とでもいうべきものを、シービスケットは(タイガースも)体現しているように思われます、というのはあまりにも牽強付会に過ぎるでしょうか(^^;。

次は「夜更けのエントロピー」の予定。
編集済


2ちゃんねる(承前) 投稿者:管理人 投稿日: 2月19日(木)20時49分16秒

作法が違うとお叱りを受けてしまいました(汗)
いやしつれーいたしました!
どうかな、と一瞬思っことは思ったんですが、どうも自己顕示欲が強いもので、つい(^^;
ということで以後気をつけます。とはいえ自分の文には責任を持ちたいので、今後は作法通り投稿するにしても、その場合こっちに再録することで対応するかも。

>次元放浪民
おお、もう読まれたのですね、するどい指摘(^^)

>復刊?
こちらも鋭いです。どうなんでしょう。再刊が正しいのかな。

「関西市民文化塾」という講演会(?)に登壇されるとの未確認情報をキャッチしました。詳細をご存じの方はいらっしゃいませんか?

エムシュウィラーの「ロージー」(SFM3月号)は傑作! 「フランケンシュタイン」を読み返さなくては。


2ちゃんねる 投稿者:管理人 投稿日: 2月18日(水)21時42分48秒

いま今こそ「眉村卓」について語るときじゃないか?2に初書き込みしてまいりました。

>「とべ、クマゴロー!」ってラジオ聞いたことない。
>どんな放送だったんでしょうか?
という書き込みがあったので、以下の文を投稿しました。

 ――――――――――
31 :名無しは無慈悲な夜の女王 :04/02/18 21:09
とべ、クマゴロー!管理人です。お世話になっております。
「飛べ熊五郎 只今大奮闘」は、ラジオ関西(現AMコーベ)で
毎週土曜午前7時半〜9時に放送されていました。
アシスタントの女性アナの注文に応じて毎週書き下ろし自ら朗読された
ショートショートを集めたのが『鳴りやすい鍵束』(76年10月刊)です。
残念ながら私は(仕事で)聞いておらず記憶も曖昧なのですが、
75年か76年頃オンエアされていたと思われます。
 ――――――――――

ところが、書き込んでから気がついたのですが、75年、76年頃は私はまだ大学生で働いてないのでした(^^;大チョンボ!
ではなぜ聞いてなかったんだろうと、しばらく考えてしまいました。
結局9時半なんていう早朝に起きることができなかっただけだろうと結論に達した次第ですが、今から考えたらもったいないことでした(^^;ゞ

Yさん
>蘇部健一(……)
お気に入りですねえ(^^;ゞ感想楽しみにしてます。読書月記復活して下さいね(^^)。


出たんですか 投稿者: 投稿日: 2月17日(火)22時11分15秒

青い鳥文庫出たんですね。今ちょっと書店に行く余裕がないので
週末に行って来ようと思います。
同時に出たはずの蘇部健一(……)もひっそり楽しみにしていたり。


「なぞの転校生」 投稿者:管理人 投稿日: 2月16日(月)18時57分18秒

出たみたいですね(^^)→青い鳥文庫版


「SFの夜」 投稿者:管理人 投稿日: 2月15日(日)13時35分22秒

アレクすてさん
昨日はすみませんでした。実をいえばごく近所でとぐろを巻いていたんですけどね(^^;
おっしゃるように、畸人郷のいいところは私どものような初心者でもまったく居心地が悪くないこと。野村会長の人徳でしょうか。一度覗いてみたいんだけど、と思いつつ二の足を踏まれている方がもしいらっしゃったら、ぜひ参加してほしいと思います。ぜんぜん怖いところではありませんからね(^^;ゞ

福島正実『SFの夜』(ハヤカワSFシリーズ、66)読了。

全18編(ほかにエッセイ5編)中SFMに掲載されたのは以下の4編(SF雑誌データベース検索サービスによる)。
 「JJJ」1965年08月増刊号
 「SFの夜」1966年02月
 「ちがう」1966年08月
 「ゴースト・プラネット」1966年08月増刊号

上3作は短篇ですが、「ゴーストプラネット」のみショートショート。
その他の14編は、おそらく一般誌に発表されたものでしょうが、「愛は惜しみなく」のみ短篇で、あとはすべて20枚程度のショートショート。

ショートショートはさながらSFアイデアの展覧会で、一般の読者向けにSF普及を意図して書かれたものでしょうか。ただ枚数が制限されたためか、SF設定の展開が不十分であるのは否めません。

短篇群は、まさに福島ワールド全開で、作者の中でぐつぐつと煮えたぎっていたのであろう不信、不満、不安、猜疑、ストレスやフラストレーションや不定愁訴感が作中に渦巻いていて、独特の迫力で読者にせまってきます。

ショートショート群もこうしてまとめて読むと、単なるアイデアの陳列に終わっておらず、やはり短篇同様タールのような黒い粘汁がべったりと付着しており、SFマガジン編集長という重責が、作者のような勁い精神力の持ち主でさえこれほどまでに蝕んでいたのだなと、一種痛ましさを覚えずにはいられません。かっと枝をひろげた大木ほど北風をまともに受けるのでしょうか。

ということで、いよいよ「シービスケット」に着手します。
編集済


大熊様、畸人郷例会に行ってまいりました。 投稿者:アレクすて 投稿日: 2月15日(日)01時03分38秒

管理人様、アレクすてです。今日畸人郷の例会に行ってまいりました。
(管理人様と入れ違いというか、会えなかったのは残念でした。)
今日は、野村さまら、「ミステリーの鬼」の方々と話が弾み
SF畑の私ですが、聞いていて楽しかったです。
また、近代エンターテインメントのつねとして、
ミステリーの世界とSF の世界に重なり合う部分が多く、楽しかったです。
「ミステリーの外様」である私が、畸人郷の「鬼」の皆さんの
間に入るのは、(読書量をかんがみると)心苦しかったのですが、野村様たちは、
非常におおらかに迎えてもらえました。(本当に畸人郷、および、人外境、
南湖さまの会にと、管理人様をはじめとしてさまざまな方にお世話になっております
m(_ _)m
また、おあいしましょう、では!


「足が未来をつくる」 投稿者:管理人 投稿日: 2月13日(金)20時22分16秒

このところ家ではギターばかり弾いているので、読書が進みません(中島みゆき「遍路」を繰り返し練習中(^^;)
ようやく海野弘『足が未来をつくる〈視覚の帝国〉から〈足の文化〉へ(新書y、04)読了しました。

思っていたのとはちょっと違った。
まず著者は我々の世界認識における「視覚」の重要性を喚起する。とりわけ19世紀以降視覚文化は飛躍的に発展し、今日のデジタル社会は究極の視覚文化であるとする。これは至極当を得た整理で、こんにちの支配的原理である自然科学的世界観は、まさにこの視覚によって担われているわけです。
このいきつく果てに、著者はフーコーの所謂「監視社会」を見出すのですが、たしかに今日のデジタル社会は監視社会の完成型であるわけです。

たとえば最近は公務員の犯罪(賄賂にしろ教員の性犯罪にしろ)は、昔と比べて格段に我々に「見える」ようになってきています。我々は昔と比べたら格段に為政者や組織を監視できるようになった。ところがそれは逆もいえるわけで、我々の個人情報も以前より遙かに流出しやすくなっています。すなわち(誰かに)「監視」されている。まさに監視社会が現実化しているのですね。透明性の増大は見方を変えれば監視の容易さと同じです。

<第1章視覚の帝国>は、このような〈事実〉に読者の思いを至らせてくれるきわめて刺激的な整理がなされているのですが、これが<第2章足の文化史>に展開される拮抗文化としての足の文化というものに、著者のように至極当然のようには納得できない。
第1章に比べて論理展開がお粗末なように見えてなりません。というか思いつきに過ぎないのではないか。しかもここで肯定される<癒やし>や<ニューエイジ>や<気>や<ホリスティックセラピー>は、先日読んだ「カルト資本主義」で厳しく糾弾されていた<思考の停止>の諸形態であるわけです。

その意味で本書は現状の認識においては同意するのですが、未来の展望というかそれからの脱出方法に於いては稍あまいといわざるを得ません。

明日の畸人郷は、残念ながら欠席となりそうです。
編集済


徒手空拳の時代 投稿者:管理人 投稿日: 2月12日(木)20時20分35秒

今月の畸人郷は、あさっての土曜日(2/14)に急遽変更されたようです。お間違いなきよう。→例会案内

アレクすてさん
お知らせありがとうございました。私は週刊誌を読まない人間なので、そんな連載があることすら知りませんでした。

>なんだかんだ言っていい時代だったのだなあ、このころ
全くおっしゃり通りですね。この時代の翻訳家や編集者の事情は宮田昇『戦後翻訳風雲録』に活写されていましたが(そういえば都筑道夫はこの本では取り上げられてなかったような)、このような自由な雰囲気は今やかけらも残ってないのでしょうね。その分生活も不安定だったんだろうと想像されますが、そんなこと毛ほども気にしてないような大らかさが時代にあったのかも知れませんね。

いま福島正実の『SFの夜』を少しずつ読みかけているんですけど、福島さんがSFM編集長になったのは31歳のときなんですよね。この短編集が37歳のとき。弱冠30代の若造がほとんど一人で今のSF界の礎石を築いたのですね。今から考えれば信じられませんね。

福島さんがいなくても日本のSF界はそれなりに形成されたという考え方もあるかも分かりませんが、私は福島さんがいたからこそ、今のSF界があるんだと思います。福島正実なかりせば日本のSFは存在し得なかったんじゃないでしょうか(いまだにミステリのサブジャンルにとどまったんじゃないでしょうか)。
逆に言えばそれだけの権限を福島さんは持っていたわけで、(早川社長も当然福島さんの才能を見抜いたからこそ権限を与えたわけでしょうけれど)実力さえあれば個人が個人としてその力を発揮できる幸福な時代だったんだろうなあ、と、ある種羨ましさも感じないではいられませんね。


すみません 投稿者:アレクすて 投稿日: 2月12日(木)09時07分40秒

すみません、

>というもので、ミステリーの復興のため、ハヤカワ・ポケット・ミステリー・ブックスを
創刊したときに第一巻から翌年間まで巻末の解説を書き続け、シリーズ監修もつとめていた

のあとに

江戸川乱歩氏、

>そして早川のミステリー部門には、

のあとに
「その」をつけてください。

そうしないと、この文章、意味が通じません…
(そうしても意味が通じないかもしれませんが…(汗))


週刊文春を読んで 投稿者:アレクすて 投稿日: 2月12日(木)09時02分51秒

管理人様、皆様、おはようございます。
アレクすてでございます。
旧聞になる矢も知れませんが、2月12日号の週刊文春の
小林信彦氏のエッセイ「本音を申せば」第296回を読んでおりますと、
「カルト編集者」という題で都筑道夫さんについて書いてありました。
内容を、紹介すると、

「仕方がないことではあるが都筑さんを追悼する文章の中に、編集者としての
氏を評価した文章が少なかった。(以下略)」

というもので、ミステリーの復興のため、ハヤカワ・ポケット・ミステリー・ブックスを
創刊したときに第一巻から翌年間まで巻末の解説を書き続け、
シリーズ監修もつとめていた、そして早川のミステリー部門には、乱歩が信用していた
田中潤司氏がいて、「ミステリー・マガジン」の前身、
「エラリイ・クイーンズ・ミステリー・マガジン(EQQM)」の創刊を準備していたが、
3号まで準備したところで、わけあって退社したところに
都筑さんが、化粧品会社から招かれたなどという(裏?)事情が載ってました。
小林氏も「ヒッチコック・マガジン」(乱歩配下の雑誌)編集長で
都筑氏をライバル視していた、などというのを読むと、
「なんだかんだ言っていい時代だったのだなあ、このころ」と思います。
本来、小林氏のこのエッセイは、ミステリーに属することですが、
編集者都筑氏に触れられている、ということで、
こちらに書かせていただきました。
では
m(_ _)m


半日入り浸り 投稿者:管理人 投稿日: 2月11日(水)21時45分50秒

とてもナイスなサイトを見つけました。→リバースギア
管理人のカイさんは、私とほぼ同世代の方のようで、青春記(?)私の黄金時代は自分のことかと思いました(^^;。

小説も載っていて、バルスーム小説の「火星放浪記」は、400枚の長編ですが、これが実に面白く一気に読んでしまいました。火星シリーズの番外編ですが、火星シリーズの設定を自家薬籠中のものされた、いかにもファン創作らしいたのしい話でした(^^)。じつは私も番外編3本くらいアイデアあるんですけどね(汗)

「文庫本を作っちゃおう」もすばらしい。私も手作り本は大好きなので、血が騒ぎます(^^;

管理人さんは私とよく似た嗜好(志向)感性の持ち主とお見受けしました。決定的に違うのが「実行力」!ああ私にカイさんの10分の1でもそれがあったなら……。
編集済


祝、新スレ 投稿者:管理人 投稿日: 2月10日(火)21時15分38秒

ぬばたまの…さん

お知らせありがとうございました。
今こそ「眉村 卓」について語るときじゃないか?は、ときどき拝見しておりますですよ(^^)

>もうすぐ1000レスに到達します
おお、おめでとうございます! 第2部もいよいよ立ち上がりましたね、しかも拙サイトにリンクまで貼って下さり、ありがたい限りです。眉村スレッドのますますのご盛況をお祈りいたします。

ところで、話題になっておりました眉村先生の新刊ですが……デマではありませんですよ(^^; まだ詳細を明らかにするわけにはいきませんが、まず間違いなく出るだろうというところにこぎつけているようです(>春頃か?)。発表できるようになったら告知しますので、もう暫くお待ち下さいと、お伝え頂ければと思います。なお小説ではありません。エッセイとショートショートで構成されたもののようです。ちょっと予想外のところから上梓されますのでお楽しみに〜(^^)

それから思い出しましたが、チャチャヤングで放送された「スラリコ・スラリリ(火星の落日)」(作曲・歌:マリア四郎)のテープは先生の手元にはないとのことで(先日の囲む会で確認しました)、MBSになければ(多分ないでしょう)、残るはディレクターだったSさんが頼みの綱となりますが、先生もSさんの近況はご存じないそうで、ちょっと難しそうですね(ーー;。私も是非もう一度聞いてみたいんですけどね。残念です。


(無題) 投稿者:ぬばたまの… 投稿日: 2月10日(火)01時11分8秒

今こそ「眉村 卓」について語るときじゃないか?@2ch
http://book.2ch.net/test/read.cgi/sf/1025145160/
がもうすぐ1000レスに到達します。

まだご覧になってない方は一度お読みになってください。


「ピー・アイ・マン」 投稿者:管理人 投稿日: 2月 9日(月)21時13分40秒

アルフレッド・ベスター『ピー・アイ・マン』大西尹明訳(創元文庫、1969)読了。

現在は『世界のもうひとつの顔』というタイトルになっているらしい(原題は"THE DARK SIDE OF THE EARTH" 、ピンクフロイドの"Dark Side of the Moon" は多分これから取ったと私はずっと思っています。ちなみに恩田陸「月の裏側」はピンクフロイドのぱくり)。
30数年ぶりに再読してみましたが、いや面白い(^^)、読み耽ってしまいました。

不思議な小説――としか言いようがないワン・アンド・オンリーな作風で、その意味ではイーリイやスタージョン同様「異色作家」という位置付けになると思われるのですが、もっとモダンな印象。とはいえそれは現在から振り返った印象で、同時代的に読んだ読者には、ある種「ポップ」な感じだったのではないでしょうか。

SFには、シュールレアリスム絵画と同じ何かを感じさせられる作品がありますが、本書のいくつかの作品は、わたし的には一種の抽象画もしくはポップアートの印象がありました。
それはおそらくその独特の(キラキラと硬質な)未来世界とそれを支えるにたる文体(スタイル)へのこだわりから醸成されるように思われます。ベスター描くところの未来のニューヨークは、カンディンスキーの、たとえば「モスクワ」という絵なんかぴったり合うように、私は感じたのですが、どうでしょうか?

巻頭の「時間は裏切りもの」の未来世界は、コードウェイナー・スミスの未来世界と同じ意味であまりにも荒唐無稽、最初は共感するとっかかりがなくて困りましたが、読み進んでいき、その独特の世界に馴染むや突然上記のキラキラ感がぱっと私のうちに拡がったのでした。

「マホメットを殺した男」や「花で飾られた寝室用便器」や「そのままお待ちになりますか」も、同様な、キラキラする未来でのドタバタ劇と読むことができます。ただしこのドタバタが、本訳文ではあまり効果的に訳されていないように感じました。あとがきにあるように翻訳家泣かせの文体なんでしょうが、もう少しうまく訳してほしかった。意味が分からないけどとりあえず直訳したと思われる文があるようです。

「ピー・アイ・マン」も同じなんですが、とりわけこの作品は、大勢への反抗という著者の「モダニズム」が顕著にうかがえて大好きな作品です。

その一方で、ジャズの名曲をタイトルに冠した「この世を離れて」(Out of This World)や巻末の「昔を今になすよしもがな」は、旧来のコード進行に則った危なげないモダンジャズ演奏になっていて、こちらも実に楽しい。

というわけで、本書の作品群は、2大長編のベスターとはまったく趣の違ったベスターを魅せてくれます。とてもよかった。ベスターの短篇、もっと読みたいなあ。奇想コレクションで出してくれないかしらん。

海野弘「足が未来をつくる〈視覚の帝国〉から〈足の文化〉へ」に着手しました。これはおもしろそう(^^)
編集済


『楽園の知恵』読了 投稿者:管理人 投稿日: 2月 7日(土)19時49分58秒

牧野修『楽園の知恵』(ハヤカワJコレクション、03)

幻想短篇集。実は著者の短篇を読むのは、ほとんど今回が初めて。今まで食わず嫌いでした。こんなに面白いとは思ってもみなかった。いやお見それいたしました(恥)。
それにしても、著者の小説家としての技倆は、並大抵ではありませんね。少なくとも最近のSF作家で著者ほどの筆力の持ち主は、俄には思い浮かびません。小説として非常に高レベルな、完成度の高い作品集であり、テーマと文体を一致させようとする構成への意志がはっきり読みとれます。その意味で、もはや幻想小説家といってよいのではないでしょうか。

気に入ったのは、まさに幻想小説そのものといえる「召されし街」、「中華風の屍体」や「ドギイダディ」、「バロック」、エンタテインメントとしても出色な人体改変SFのとんでもない傑作「踊るバビロン」、宇宙喜劇(コスミコミケ)ともいうべき「或る芸人の記録」、クトゥルー小説風の「演歌の黙示録」、一見アイデアストーリー風だが読後に哀感を残す「憑依奇譚」、ヒト型の<物語>たちが人間によって追いつめられるブラッド縁(べり)なファンタジー「逃げゆく物語の話」など。

ただ気がかりな点があります。それは筒井康隆の影響がもろに感じられる場合があること。「インキュバス言語」が典型で、これは30年前に筒井ショックをもろに被った者のトラウマかも知れないのですが、作品がどんなに凄くても、このような作品は筒井の亜流としか認識できないようになってしまっているのです。
「或る芸人の記録」も同様で、この作品、著者名を筒井康隆として発表されても、きっと読者は信じるに違いありません。しかしこれは、逆に言えば、著者の技倆が天下の筒井康隆に勝るとも劣らないレベルであることを示しているともいえるわけですが……まあこのへんちょっと気になりました。

ともあれ、牧野修の短篇をもっと読んでみたいと思いました(でもこのような作風ばかりではないようですな(^^;)。
編集済


>「楽園の知恵」 投稿者:管理人 投稿日: 2月 6日(金)21時39分43秒

いいですねえ(^^) なのでゆっくり読むことにしました。これは精読するべき作品集だと思います。とはいえ週末には読み終わることでしょう。

あ・り・が・と・う|中島みゆき(1977)


ワイワイジャーナル 投稿者:管理人 投稿日: 2月 5日(木)22時22分45秒

昨日(2月4日)、OBCの「桂こごろうのワイワイジャーナル」に、田中啓文さんが出演されてましたね。お聞きになりましたか?
私はちょっと不満が残りました。というのは、対談者のこごろうさんの質問が的を外しすぎ。
たとえば高校でジャズに目覚め、即テナーを買った、となれば、まずは目覚めさせてくれたミュージシャンは誰だったのか、聞いてくれないと。当然テナー奏者だったんでしょうけれど。
最初YAで仕事していたが、YAは嫌だったのでおとなものを書きたかった、となれば、YAのどこが嫌になったのか、もっと突っ込んでくれないと。
小説すばる連載中の落語家シリーズは、成長物語とのこと。「田中さんが成長物語を書くんですか?」と少しは驚いてほしかった(^^; しかしホンマやろか(>疑っている(^^;ゞ)  

前任者の桂九雀さんだったらもっとうまく聞き出したのではないかと思います。そういえば以前は、カーラジオはずっとワイワイジャーナルをかけっぱなしだったのですが、最近は聞かなくなってしまいました。コメンテーターとしてどうもいまいちな気がしますね。考え方がふつうすぎ(だいたいジャズもSFも知らんのが問題だ。落語は知っているようですが>あたりまえ(^^;)。九雀さんはもっと毒がありましたね。

イッツ・オンリー・ロックンロール|ザ・ローリング・ストーンズ(1974)
編集済


「星の綿毛」 投稿者:管理人 投稿日: 2月 4日(水)21時08分53秒

藤田雅矢『星の綿毛』(ハヤカワJコレクション、03)読了。
一読受けた印象は光瀬龍。しかしこれは残念ながら失敗作というほかない。
光瀬龍も因果関係に難があったが、本書も同じことがいえる。よく似ている。光瀬SFの場合は、それでもその圧倒的な喚起力で読者をねじ伏せてしまったが、本書にはそこまでの力はない。想像力というか「妄像力」はなかなかのものがあるんですけどね。それを繋いでいく論理が破綻している。というよりも何よりもまず「小説」たり得ていない。形式としての小説が理解できていないのではないか。延々と話者によって「設定」が「説明」されます。たとえば作中人物の会話や思惟の中で表現できる部分があるのではないだろうか。これが3冊目の長編らしいが、だとしたら前2作は一体どんな「小説」だったんでしょう。

世界も破綻している。交易人は何のためにトシとムラを往還するのか、最初の説明が中段で無意味化してしまっている。ムラの住人は、女がいないと書かれているから「ハハ」が生産するのだろう。だとしたらなぜ長老は腐らないのか。ニセモノの(ハハが生産した)ニジダマがトシに入るやオリジナルに戻るのはなぜ? 非常に恣意的というよりもその場限りの思いつきでストーリーが進められていくようで読みついでいくのが苦しかった。

あとこの小説の話者は誰なのか。どう見ても客観描写なのに、描写原理が破綻している部分が何カ所かあった。たとえば127p。

 マンマンイスンを訪ねる前に、ドウグ掘りをしておくことにした。ノノフシに会う前に、再び出ていく準備をしておきたかったのだ。マンマンイスンにもいられないことを予感していたのだと思う。

この文はツキカゲという登場人物が主語である。ツキカゲの行動とその意図を客観描写で神の目から説明しているわけだ。では最後の(すわりの悪い)「思う」は何なんでしょう? 客観描写なら「思う」は不要ではないか。これは著者(私)が思わず出てきているのです。つまり神の目で描写しながら、ところどころ神ならぬ著者(私)の手記(一人称)の形式になってしまっている(一瞬叙述トリックかと思った)。小説の形式というものがはっきりと認識されていない証左です。上の延々と続く話者による説明も同じことに起因しているのでしょう。すでに3冊も著書がある作家とは思えない稚拙さです。逆に言えば編集者は何をしていたんでしょうか。

最初に述べたように妄像力はなかなかのものがあると思います。むしろ長編にせず、あまり因果(ストーリー)にこだわらなくていい短篇にした方がよかったのではないでしょうか。

次は「楽園の知恵」の予定。これを読み終わったらJコレ完読なので、いよいよ森下さんの2003ベスト投票を決めるつもり。
編集済


「日露戦争」 投稿者:管理人 投稿日: 2月 3日(火)20時56分27秒

長山靖生『日露戦争 もうひとつの物語(新潮新書、04)、読了。

百年前、すでに戦争は娯楽だった
とは帯の惹句ですが、本書を通読すると、たしかに日露戦争前後を境として、日本ははっきり「資本主義」に填り込んで行ったんだなと納得させられます。

本書は日露戦争がいかに新聞人、学者、文学者、一般大衆によって「消費」されたか、あるいは「消費」するために「生産」されたかを克明に跡付けていてとても刺激的です。
一体誰が戦争をのぞんだのか、学者の極論に世論が沸いた理由は? 金鉱発見のデマ(?)が開戦決断への堰を切ったとか、「七博士建議書」のスクープが実は伊藤博文の遠謀でありそれが逆に作用したとか、類書には見られない卓見もあり、本書によって我々は、教科書的な日露戦争理解には収まらない「事実」に接することができます。

著者も言うように、日露戦争はまさに日本の「分岐点」だったのであり、別の未来へ向かうことも可能だったこの時点を、なぜこの未来へ向かって分岐してしまったのか、本書を辿りつつ再考したいものです。


「ヨットクラブ」 投稿者:管理人 投稿日: 2月 2日(月)21時20分15秒

デイヴィッド・イーリイ『ヨットクラブ』白須清美訳(晶文社、03)、読了。

ちょっと予想していた作風とは違いました。確かに取り扱うシチュエーションは奇想であり異色作家風なのですが、その一方で、オーソドックスなといいますか、ふた昔ほど前の日本の純文学雑誌に載っていそうな作品もある。

「理想の学校」は、まさに理想的な短篇小説で、辛辣な批評性が突き抜けて、もはや幻想小説といってよいかも知れません。

「貝殻を集める女」、「慈悲の天使」、「隣人たち」「夜の音色」が、いうところの純文学的作品で、丸山健二や古井由吉や高橋たか子などの初期短篇が思い浮かびます。あるいは高井有一。この作品群のなかでは「夜の音色」が一等よかった。「隣人たち」もマンスフィールド風でよい。

かと思えば「面接」「大佐の災難」「ペルーのドリー・マディソン」「G.O'D.の栄光」「オルガン弾き」は、シチュエーションが筒井風にどんどんエスカレートしていきます。とりわけ「オルガン弾き」はSFともいえるシチュエーションが主人公のオルガン奏者を翻弄し、喜劇とも悲劇とも判然としない高みへ放り投げます。

「カウントダウン」は初期のバラードのアイデアストーリーにも比肩しうる宇宙飛行士もの。

「タイムアウト」はまさにSFならではのアイデアながら、センスオブワンダーの方向には絶対に向かいません。主人公の悲喜劇的状況に焦点は絞られていきます。

同じ意味で「夜の客」はホラーなんですが、超自然性が登場するとしてもメインはマンスフィールドばりの意地悪な視点でとらえた冷めた夫婦の滑稽な描写にある。

「日曜の礼拝がすんでから」も実に意地が悪い。
「ヨットクラブ」は、わたし的にはラストが肩透かしでした。

かくのごとく多彩な作風ながら、根本的には客観的な視者の文学であるといえましょう。同じく異色作家といっても、先日読んだスタージョンの作品が、内向きな、自分が溢れ返っているのとは全く正反対ですね。
予想とは違っていてちょっと面食らいましたが、読み終わってみればやはりすぐれた(面白い)短編集でした。

次は「星の綿毛」の予定。
編集済


「シービスケット」 投稿者:管理人 投稿日: 2月 1日(日)20時49分45秒

休日で映画の日ということで、「シービスケット」を見てきました。

1930年代のアメリカ、史上稀に見る大恐慌によって人々は仕事を失い、家をなくし、絶望のどん底で苦悩している彼らに、希望の灯をともしたのは、大統領でも銀幕のスターでもなく、一頭の小柄なサラブレッドだった……

よかった〜(^^)
最初はうるうる程度だったのが、そのうち頬や耳の方に流れ出してきまして、困ったなと思ってたら、ついには鼻水まで(^^; 恥ずかしかったです。
西の落ちこぼれが東の超エリートに勝ってしまうのですから、これはたまりません。
それ以上に、シービスケットによってそれぞれ救われる3人の男たちがすばらしい。と書いているだけでまたうるうるしてきちまいました(^^;

公式HPを見ると、映画はかなり事実とは変わっているみたいです。原作買わねば!!


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