【掲示板】


ヘリコニア談話室ログ(2004年3月)


「スペシャリストの帽子」より(12) 投稿者:管理人 投稿日: 3月31日(水)20時42分6秒

「生存者の舞踏会、あるいはドナー・パーティー」

これは堂々たる幻想小説。
幻想小説らしく、物語は「到着」をもって開始されます。あたかも「城」のように。「クレプシドラ・サナトリウム」のように。「アルゴールの城」のように。それからそうそう、「神聖代」のように……
冒頭はこうです。

 ジャスパーのレンタカーで三日間一緒に旅をしてきた二人は、ミルフォードサウンドに通じるトンネルの暗い入り口にさしかかった。セリーナはジャスパーになにやらとても大事なことを話している。(245p)

この「大事なこと」の内容は、直接明示されません。が、しばらく読み進めると、もう一度同じ場面が描写されます(252p)。それは、二人が乗った車がトンネルに入っていくシーンで、そこでセリーナがガイドブックに書かれている文章を読み上げています――このトンネルが完成までに4名の犠牲者を出していて、それ以後「山のことを言うときには必ず"おばあちゃん"って呼ばなければいけないの。敬意を表するために(……)」と。

したがってこの言葉こそが、冒頭の「大事なこと」であるはずです。
そしてそれは、まさにその通りで、このセリーナの言葉を受けて、ジャスパーが冗談めかしてこう呟くのです。

「まあ、おばあちゃん、なんて大きくて暗いお口なの」

このセリフは説明するまでもありません。ここに至ってこのトンネルは、童話「赤ずきん」の、おばあさんに扮したオオカミの口の中として、作者によって設定されたわけです。

かくしてオオカミの口の中に、いわば童話の世界に、ふたりは飛び込んでいきます。
やがてトンネルは出口に至り、二人の眼前に目的地ミルフォードサウンドがひろがるのですが、当然ながらそこは「通常空間」としてのミルフォードサウンドではないのは明らかです。そこは現実のミルフォードサウンドとは位相が異なる、いわば別の因果律が働く「幻想空間」としてのミルフォードサウンドでなければなりません(それが証拠に、ラストでジャスパーは、有袋類しかいない筈のここニュージーランドの「地の果て」で、いる筈のないオオカミの遠吠えを耳にします)。

図らずもジャスパーは(ミルフォードサウンドを「世界の果て」と評した旅行者の話をセリーナがしたのを承けて)こう思います。

 世界の果てにたどり着いたとき、そこではなにが起こるのだろう?(……)こういうパーティーでは奇妙なことが起きるものだ。とどのつまり、ここは世界の果てなのだから。(257p)

――彼の予感はもちろん当たります。
(つづく)


「スペシャリストの帽子」より(11) 投稿者:管理人 投稿日: 3月29日(月)21時28分14秒

「人間消滅」

これは素直にリニアな話。

冒頭のボートのイメージは、ジェニー・ローズの内意識の表象です。三本の口紅、三つの結び目、三切れのフルーツ、そして三個のオレンジ。

重要、かつ彼女が憧れていることは、三であること、完全な三角形で不足がないことだ。(205p)

209pで、3個のオレンジのうちの一個を、マイロンに取り上げられたときに、ジェーンが示す興奮は、このシーンが伏線となっているわけです。

ジェニー・ローズは宣教師の両親とインドネシアで暮らしていたが、1965年のクーデターの際、スパイ嫌疑でジャカルタの監房に両親共々幽閉された経験がある。このときある現象が彼女に発現する。その後嫌疑は晴れ、三人はシンガポールで4年半暮らすが、両親は再びインドネシアに渡ることになる。このときジェニー・ローズだけ、(その現象ゆえに)父親の姉モリー・ハーモン牧師の家に預けられることになる。

ジェニーはアメリカにやって来る。ハーモン家は牧師の母親と大学教師の父親とジェーンと同い年のヒルディと兄のジェームズの4人家族。
ハーモン家の一員に加わったジェニーは、しかしヒルディには、ほとんど植物人間かと思われるほど不活発な女の子に見える。おねしょもする。

その理由は、冒頭のイメージにすでに明示されているわけですが、作中人物はヒルディを除いてみな、それが理解できない。そしてその理解できない(特にヒルディの母親)ということのなかに埋め込まれているのが、ハーモン家という「ボート」それ自体の構造の不具合であるわけです。

やがてジェーンの内面に気づいたヒルディの機転と決断によって、ジェーンのボートは恢復・復元する。そしてこの決断が、またヒルディ自身も成長させ、ヒルディのボートの解体を直視させる。

ラストのジェニー・ローズからの手紙は、涙なしには読めません。
編集済


探偵講談会 投稿者:管理人 投稿日: 3月29日(月)19時12分23秒

昨日は、旭堂南湖さんの探偵講談の会「名探偵ナンコ」に行って来ました。前回は欠席したので、4カ月ぶり。2カ月に一度なので、一回休むとずいぶん間が空いてしまいます。

演目は、まずは古典講談「雷電の初相撲」。聞くのは2度目ですが、何度聞いても可笑しい(^^)。筒井康隆の、初期の(アフリカの爆弾系の)ドタバタは、あるいは筒井さんが子供の頃によく聞いた(と何かに書いてあった)という南陵の、このような関西独特のドタバタ古典講談から影響された部分が大いにあるのではないでしょうか。

続いては、本邦初演(^^;講談紙芝居「原子怪物ガニラ」(作画、左久良五郎)。左久良五郎というのは、酒井七馬のペンネームです。ご存じの方も多いと思われますが、手塚治虫と共に「新宝島」を描いた人物です。としたり顔に書いておりますが、私は全然知りませんでした(^^;ゞ
南湖さんが紙芝居博物館(?)に行って、原画をカラーコピーしてこられたのを使って演じられました。といっても第3部30枚のみ。実際は20何部あるそうです。

最後は明治の講釈師として名高い(落語でいえば円朝クラスらしい)松林伯圓作の「噂高倉 一名阿政暴殺」(うわさのたかくら いちめいおまさころし)。原作の長尺を南湖さんがアブリッジしたものですが、予想以上に面白かった。さすが名匠の作品と思わされました。いわば当時の犯罪実話ものなんですが、明治の犯罪ものなんて古びてしまっているのかと思いきや、人間の業の深淵を深く抉っており、現在の聴衆にも十分アピールする名作でした。もちろん南湖さんの編集と語り(読み)の力があったればこそですが。

中入り後は、恒例芦辺拓さんと南湖さんの対談。上に書いた酒井七馬と手塚治虫の関係やら、紙芝居のことやら、はては少女小説作家・西条八十のオモテウラにまで話は広がり、いつもながら芦辺さんの博覧強記ぶりに舌を巻きました。

その後いつもの店で打ち上げ。今回は常連が少なく、打ち上げも寂しいものでした。ところで対談で書いた内容は、打ち上げの席で聞いた話とごっちゃになっておりますので、為念(^^;。

次回は5月23日(日)です。最終日曜ではないので、お間違えなく。


お食事会と探偵講談 投稿者:管理人 投稿日: 3月28日(日)15時21分37秒

昨日は、ご主人のお仕事の関係で来神されていた高野史緒さんと、喜多哲士さんご夫妻と、1時に待ち合わせてお昼をご一緒させていただきました。
リアル高野さんには初めてお目にかかりました。私のイメージ通り、小さくてかわいらしい方でした(^^)。持参した「アイオーン」にサインしていただきました(ラッキー!)。

喜多さんは以前、草上仁さんのパーティでお見かけしたことがあるのですが、ご挨拶はしなかったので、実質初対面。とても気さくな方で、私もすぐ打ち解けてしまいました(打ち解けすぎてしまったような気が、、、)。奥さんとの息もぴったりで漫才をされているようでした。

食事の後、喫茶店に移っても話題は尽きなかったのですが、高野さんが東京へ帰られる時刻になり、4時半頃お開きとなりました。とても楽しい会でした。また機会がありましたらよろしくお願いします。

お話変わって、今夕は探偵講談名探偵ナンコの日。今回は「講談紙芝居・原子怪物ガニラ」とのこと。なにを見せていただけるのでしょうか、楽しみです(^^)


「スペシャリストの帽子」より(10) 投稿者:管理人 投稿日: 3月26日(金)20時34分28秒

「雪の女王と旅して」

「飛行訓練」はギリシャ神話のモチーフを素材にしていましたが、本篇では、神話のかわりに、おとぎ話や童話を用いているのだろうと思われます。が、残念ながら私自身はその類の物語に疎く、それらを確認することが出来ません。アリスなど、部分的にはこのお話かなあ、と思いつくものもあるのですが、砂浜で砂粒を拾っても詮ないと思いますので、パスしておきます。識者の教えを乞いたいと思います。

さて、本篇は、主人公「あなた」が、雪の女王に連れ去られた(らしい)恋人カイを求めて旅する「物語」のパートと、語り手が〈雪の女王ツアー〉に参加した「女性の皆さん」に語りかけるパートで構成されています。

語り手に「あなた」と呼びかけられている主人公の名前は、途中で明らかにされます。ゲルダという名前です。
一方、「女性の皆さん」に語りかけるところの語り手の名前も、途中で自己紹介されるのですが、同じくゲルダといいます。そしてこのゲルダは第1回〈雪の女王ツアー〉のツアーガイドであるようです。

このふたりのゲルダはどういう関係なのでしょうか。
「物語」の終盤で、「あなた」であるゲルダに、雪の女王が、「あなたに仕事をお願いできるかも知れないわ」といっておりますから、〈雪の女王ツアー〉のツアーガイドであるゲルダは、雪の女王からの雇用の申し出を受け入れたところの、「物語」の「あなた」であるゲルダと同一人物であるといってよいと思われます。

傍証として、ツアーではガチョウの引く橇に乗って旅をすると書かれているのですが、本篇のラストで、橇を引く白いガチョウたちが、「あなた」であるゲルダの思い切りの悪い手綱さばきについて、不平をいっていますとあり、この一文で二つのパートは繋がると私は思います。

しかしまだ判らない点があります。それは「物語」パートで、ゲルダに対して「あなた」と呼びかけている語り手は、それでは一体誰なのか、という点です。
これも私はゲルダなのではないかと考えます。つまり物語パートの語り手と、ツアーガイドとして「女性の皆さん」に語りかける語り手は同一人物とみなすのが自然だと思われるからです。

これは一見矛盾しています。ゲルダがゲルダに語りかけるんですから。そうしますと、ではゲルダが「あなた」と呼びかける当のゲルダは一体誰か、ということになります。
私は、それは結局のところ、ツアー参加の「女性の皆さん」なのではないかと思うのです。

すなわちこの小説をリニアに延ばすならば、まずゲルダを主人公とする物語があり、ゲルダは雪の女王に雇われます。そして次にゲルダをツアーガイドとする〈雪の女王ツアー〉が催行され、そこでは「女性の皆さん」が「ゲルダ」として、ゲルダの物語を追体験するという設定になっているのではないでしょうか。

かくしてこの小説は、「女性の皆さん」が「ゲルダの物語」を追体験する物語なのでした。それではかくいう「ゲルダの物語」とは何でしょうか。
ゲルダは自分のもとを去った不実な男カイを追いかけて旅に出、試練の果てにカイに追いつくのですが、追いついたときには追いかけた理由の必然性が失われています。まるで「十牛図」のような話ではあります。ゲルダが「女性の皆さん」なのであれば、女性の皆さんが追いかけ、追いついたときにはその必然性が失われているものとは、一体何なんでしょうか。
不思議な余韻が残る佳品でした。


眉村先生、毎日新聞に登場 投稿者:管理人 投稿日: 3月25日(木)20時32分26秒

↓なぜ図書館にいたのかと言いますと、そういうわけで毎日新聞をチェックするためなのでした。

というわけで、〈毎日新聞〉の本日(3/25)付朝刊に、眉村さんが登場されました。

「紙面研究会から」という欄で、これは、毎日新聞大阪本社が、開かれた新聞をめざして定期的に、内外の有識者を招いて、意見、批判を承り、その主なやりとりを紹介する欄のようです。で、今回は眉村さんが招かれて、意見を述べられたということのようです。内容はいかにも眉村さんらしいもので、

 (大見出し)自衛隊派遣 多様な視点を

 (小見出し)二者択一に陥らず、「悩む新聞」も紙面に/書評欄もっと本数を/事件関係者の内面に肉薄、良かった


となっております。

ネットで全文読めるようですが、(ここ)、まだ前回のままで更新されてないですね。後日チェックしてみて下さい。
編集済


補足 投稿者:管理人@図書館 投稿日: 3月25日(木)12時16分40秒

世界大百科事典によりますと、ヘラの聖獣は、雌牛もしくは孔雀らしい。なるほど。


「スペシャリストの帽子」より(9) 投稿者:管理人 投稿日: 3月24日(水)21時47分28秒

(つづき)
案の定約束の時間にハンフリーは現れず、帰宅したジューンに母親は、ハンフリーの飛行機が鳥の群に突っ込まれて墜落したと告げる。

泊まり客のヴェラは宿をひき払っていた。その部屋に入ったジューンは部屋中羽毛が充満しているのを知る。
そこに現れたローズに、ジューンはハンフリーのいる冥界への行き方を教えてと頼む。

この冥界(地獄)への行き方が面白い。ロンドンから地下鉄で行けるのです。終着駅はボーンハウス(納骨堂)。
さて、このボーンハウスが、プルーン叔母が一年のうち半分を切り盛りしているロンドン郊外の施設ボンヌハウスと音通であることに気がつかれましたでしょうか。
ボンヌハウスこそボーンハウス、冥界なのです。
一年のうち半分しかいないというのは、冥界の女王ペルセフォネが一年の半分(春から秋)は地上で、残り半分(秋から春)は地下で暮らすという神話の記述に対応します。つまりプルーン叔母こそペルセフォネなのでした。

さて、こうなってくると次の事実に気づかざるを得ません。すなわち叔母たちがハンフリーを「秋になると」ボンヌハウスに手伝いにいかせるという記述です。
神話によれば、アフロディテとペルセフォネに愛されたアドニスは、一年のうち4カ月ずつを両女神と、残り4カ月を自由に暮らすのでした。つまりハンフリーはアドニスなのです。それが証拠に(?)アドニスが死んだとき、アフロディテの涙から生まれたのは、何を隠そうバラ(ローズ)だったのですから。

かくしてこの神話的な運命の物語は、ジューンが、ローズに導かれて、ハンフリーを救出するために、冥界(ボーンハウス)へと、既知の世界の端から足を踏み出した、ところで幕を閉じます。そこから先には、オルフェウスとエウリュディケのモチーフ(逆ですが)とアリアドネとテセウスのモチーフが待ちかまえています。
(この項、終)


「スペシャリストの帽子」より(8) 投稿者:管理人 投稿日: 3月24日(水)21時46分24秒

(つづき)
時間がないのでストーリーの紹介は端折ります。

ローズは愛と美の女神アフロディテなのです(いうまでもなくアフロディテは海の泡から生まれた女神。本篇でも、生まれたとき「最初の一歩を支えてくれた水」とあります)。そもそもアフロディテとエロスは神話上でもセットです。

ハンフリーが鳥恐怖症なのは、母親サラが孔雀に殺されたからです。ハンフリーの父親はゼウスのようです。ゼウスの嫉妬深き正妻ヘラによって殺されたことが暗示されます。ヘラはこの世界ではヴェラという名前のようです。

母なし子になったハンフリーを父親は彼の4人姉妹に預けます。この4人姉妹の一人がローズだったのです。あとダイ、プルーン、ミニー。
彼女らは嫉妬深いヘラがハンフリーを害さないように協力して育ててきたのですが、ハンフリーは空を飛ぶことで、鳥恐怖症を克服しようと思いつきます。
本篇ではヘラは鳥の女王であるようで(この繋がりは私には解読できていません。乞ご教示)、空に興味を持つことに危惧を覚えたローズが、愛(セックス)でハンフリーの空への興味を逸らそうと画策したわけです。

それはまあ成功して、ふたりはデーとしたりしているのですが、飛行訓練もつづけられています。
その頃、ジューンの家(安宿を経営している)に、空っぽの鳥かごを提げた一人の女が宿泊する。名前はヴェラ

備忘>夢のゴルフ場の場面は「パリスの3女神判定」のモチーフが援用されている。

夏は深まり、夜がより長くなった。町はフェスティバルで宿屋も忙しくなった。ハンフリーに単独飛行の許可が下りたが、ジューンは家業でつき合えない。飛行後駅で会おうと約束し、ハンフリーは自分の青いセーターを寒さで震えているジューンに渡して飛行場に出かける。

ここで大抵の読者は、ああ!とつぶやいたことでしょう。その青いセーターは、彼の叔母の一人ミニーが編んでくれた「鳥も女神も怖れなくていい」セーターだったのですから。
(つづく)


「スペシャリストの帽子」より(7) 投稿者:管理人 投稿日: 3月24日(水)21時44分54秒

(つづき)
本篇は、運命に翻弄されるせつない恋愛小説と冒頭に書きましたが、まさに神話的な運命の物語といえます。
すべてはあらかじめ定まっているのでした。

6月。ジューンは失敬した7ポンドで列車に乗り、海に向かう。隣に座った女が通俗恋愛小説らしき本を読んでいる。母親のリリーが好きそうな本だとジューンは興味を持つ。タイトルは「美の矢」、作者名はローズ・リード。読んでいた女が気がつき、「トロイのヘレネのことが書いてある」と言う。降りる駅の少し前に隣の女が居眠りを始め、本が手から滑り落ちそうになる。ジューンは上手にキャッチし列車から降りる。

さて、この場面は全く偶然のふとした出来心のようにも見えますが、後述のように、実はそうではないのです。

海辺の町で、ふとジューンは<かぐわしき香り 店主I.M.キュー>と看板が出た香水店へ入る。
そこに偶然(?)いたのがなんと本の作者ローズ・リードだった。ジューンは本にサインをしてもらう。ローズが聞く「あなた恋人はいるの?」
「関係ないでしょ」
「関係あるわよ、ねえキューさん」
何となく追いつめられたジューンは、とりあえずキューがローズのために調合した香水を失敬して店を飛び出す。そして海岸にいると、向こうにキューの姿が見える。彼はジュ−ンを見、指でピストルを作り、彼女をばーんと打つ

お分かりでしょうか。キューはキューピッドすなわちギリシャ神話のエロスです。キューは弓矢ではなくピストルで撃つ(まねをする)わけですが、結果は同じです。(ちなみに本のタイトルは「美の」ですよね)

盗難に気づき追いかけてきたのだと思ったジューンは、あわてて防波堤の下に隠れる。そしてそこで同い年くらいの少年と出会う。(ここにいたって読者は、はじめてジューンが若い女の子であることを知るわけです)少年は鳥恐怖症で、防波堤の上にカラスや雀がいるのでここに逃れていた、というより閉じ込められてどこへも行けずにいたのです。
キューピッドに撃たれたジューンは当然最初に出会った少年ハンフリー・ボガート・ストーンキングに恋してしまいます。

これは結局ローズのたくらみだったわけです。
(つづく)


「スペシャリストの帽子」より(6) 投稿者:管理人 投稿日: 3月24日(水)21時43分45秒

「飛行訓練」

短篇集の4篇目は、運命に翻弄されるせつない恋愛小説。
まあ4篇も読むと、作者の狙いというか、どのような小説を書きたいかというようなことが、大体判ってきます。

読んできた3篇を見ても判るように、一見シュールレアリスティックな外見のなかにあるのは、いたってリニアな物語なのでした。
これらの作品は、決して反物語的な前衛小説なのではありません。物語はちゃんとあります。ただその物語が畳み込まれているのです。実はその畳込みのスタイルを味わって欲しいというのが作者の眼目のひとつなのだろうと思われます。

そのためには、まず畳み込まれた物語を開いてみなければならない。開いて、いったんリニアな物語に戻してみると、逆に作者の小説作法が見えてくるのではないでしょうか。
そしてそこに見えてくるのは、徹底的に説明を回避し、描写のみで読者にインパクトを与えようとする作者の小説作法です。

たとえば、主人公のジューンは、17,8の娘なんですが、作者は間違っても「18歳の娘ジューンは」などといった説明的な書き方はしません。

ジューンは2号室と3号室から7ポンド失敬した。これを電車賃にして、残りはリリーの誕生日プレゼントに使おう。(116p)

この段階ではジューンが何者なのか、リリーとは誰なのか、さっぱり分かりません。それはかなり読み進んだ段階で自ずと明らかになっていくわけですが、自ずと明らかになるまで、作者は読者に説明で明らかにすることはありません。これはしかし小説の描写の根本原理なのですが、エンターテインメント小説では蔑ろにされているものです。

さて、本篇は、前3者に比べると、畳み込みがゆるく、かなりリニアな小説に近づいていて、こういう手法になじみのない読者にもわかりやすい作品になっています。
とはいえ説明皆無の作品であることに間違いはなく、そういうわけで、私にわかる限りですが、作者の描写を、説明してみようと思います(無謀だ(^^;)。
(つづく)
編集済


「なぞ転」 投稿者:管理人 投稿日: 3月23日(火)20時37分59秒

>NHKアーカイブス「なぞの転校生」
ご覧になりましたか。何度見てもいいですねえ(^^)
案内役のアナウンサーの方によれば、思った通り前回の放送が好評で、再放送の希望が多く寄せられたようです。

今回、最終回まで見て、やはり冷戦構造下にあった当時の世相が、ドラマの背景に見え隠れしていますね。この辺は若い人にはやや違和感があるかも知れません。
とはいえ、当時はまさに、高田渡がマグロの刺身を食いたいと女房が言うので、死んでもいいなら勝手に食えと歌ってた時代だったわけです(南太平洋の核実験ですな、為念)。

微視的連続感(安部公房)に身を任せていると、30年前と今とそんなに変わってないように感じられるのですが、こうして闖入してきた過去を目の当たりにしますと、実は認識の座標原点が当時とではかなりずれてしまっていることに気づかされました。

さはさあれ、今回の目玉は、出演した岩田広一役の高野浩幸さん、山沢典夫役の星野利晴さん、香川みどり役の杉田依子さん(旧姓 伊豆田)3名が、番組収録当時の思い出を語っていること。いやー30年後の彼らを見て、どんな感想をもたれたでしょうか(^^;
香川みどりは、わたし的には実に鼻持ちならん女なのですが、30年の年齢を重ねた杉田依子さんは、意外にもなかなかよかったです(^^;ゞ ビデオとっとけばよかった〜、、、

今度は「幕末未来人」を見てみたいですね。
編集済


「スペシャリストの帽子」より(5) 投稿者:管理人 投稿日: 3月21日(日)21時56分45秒

「スペシャリストの帽子」

表題作です。これは「カーネーション、リリー……」同様、無駄な部分の全くない構成しつくされた傑作。

サマンサとクレアは、二人併せて二十年四ヶ月と六日になる一卵性双生児。二人は今、父親の仕事の関係で、エイトチムニーズ荘と呼ばれる屋敷で暮らしている。父親は、19C末から20Cへの変わり目にこの屋敷で暮らしていたラッシュという詩人のことを調べている。

屋敷の管理人のコースラクさんによると、屋敷には幽霊がおり、森にはがいるので、屋根裏に入ってはいけないし、小道から外れてもいけないとのこと。到着して二日目に姉妹は森を散歩し、何かを見かける。サマンサは女の人だと思い、クレアはだと思った。

コーラクスさんによると、二人が寝室に使っている三階の部屋は、かつても子供部屋で、詩人も、詩人の娘もここで眠ったそうだ。詩人が姿を消したとき、十四歳の娘も消えた。

(エイトチムニーズの歴史の聞書き)妻の不倫を知った夫は蛇を……殺して血を抜き取り、ウイスキーに混ぜて妻に飲ましました。……妻の体内で蛇たちが生まれ、肉と皮の間に棲みつきました。……彼女の体は隅々までからっぽになって、死ぬまでそうだったと聞いています。私の父も見たと言っていました。

この聞き書きの話者は、十四歳で行方不明になった詩人の娘であると思われます。したがって、「私の父」とは詩人のことであって、「夫」も詩人のことだとしたら、「妻」は当然この娘の母親となります。

これは管理人の、詩人の夫人は「謎めいた消耗性の病気にかかって」死んだという言葉と符合します。

さらに「スペシャリストの帽子」なるものは、詩人が捕鯨船で乗り合わせた呪術師(妻を殺す呪術を教えたのも彼だろう)からもらい受けたか奪ったもの。あるいは遺品であることが示唆される。

あるとき、父親は(二階の)窓の向こうから見つめているものを見つけて驚く。
『窓越しに私を見つめている者』→詩人の唯一の長編小説のタイトル。

姉妹にベビーシッターがつく。理由は父親が森の中で出会った女の人と夜中に森で会うことになったため。しかし管理人は日没後屋敷に残るのを拒み、かわりにベビーシッターを見つけましょうと請け合うも、いつの間にかいなくなる。しかしベビーシッターは現れたので、父親はそそくさと出かける。

ベビーシッターは最初姉妹には大人に見えたけれど、よく見ると自分たちとさほど違わないことに気づく。ベビーシッターは、二人に昔このベッドで寝ていたという。その証拠に彼女が言う場所に屋根裏の鍵が見つかる。三人は屋根裏にはいる。そこには縁に歯が生えたスペシャリストの帽子があった。それで遊んでいるうちに帽子はころころ転がって階下へ消える。

三人は寝室に戻る。そこでベビーシッターは死人になって見せてくれる。そうして二人は十歳と十一歳に挟まれて身動きがとれなくなったことに気づく。
ふたりは、窓の外から呼びかける管理人の声を聞く。ふたりに大丈夫かと聞き、そしてつぶやく。「あいつらはいつも俺を道具小屋に閉じ込めやがる
管理人は帰っていく。

ベビーシッターは言う。「気を付けて。彼がやってくる。スペシャリストが」と。やがて、二人を呼ぶ声が聞こえる。父親の声のようにも聞こえるけど、ふたりはベビーシッターに促されて、屋根裏へ隠れるために暖炉のなかを登り始める。
スペシャリストの声がする。「サマンサ? なにかに噛まれたらしいんだ。蛇に噛まれたんだと思う

いやーまさに間然としない、水も漏らさぬ構築物といえます。ジャンル的にはホラー小説になるのでしょうが、用いられる概念には毫も曖昧なところはなく、ある意味図式的であり、その内的整合性への志向・意志は、この作家が、本質的にSF作家であることを示しているように思われます。
編集済


「スペシャリストの帽子」より(4) 投稿者:管理人 投稿日: 3月21日(日)20時16分54秒

「黒犬の背に水」

これは前作と違って殆どそのまんまのストーリー。あんまりひねくれた設定をしていません(と思う(^^;)。
現代アメリカの地方都市にゴシックホラーが復活したような不思議な味わいに、巻措くあたわずでした。

  ――――――――

主人公の大学院生キャロル(男)が、ようやくガールフレンドのレイチェルの家に招待されたのは、最初にベッドを共にしてから2カ月目のことだった(彼女とのなれそめは、バイト先の図書館で彼女が本に対して当たり散らしているのを見とがめたのがきっかけ)。

彼女の父親は鼻がなく、擬鼻を付けている(彼はさまざまな擬鼻のコレクションを持っている)。彼女の母親は片足がなく、義足である(義足にはエレンという名前がある)。2匹の黒いラブラドールがいて、一匹は妊娠している。
父親は彼に好意的だったが、母親は、本と、本に代表される全ての裕福なるもの、満たされたものに憎悪を持っており、「娘を妊娠させたら犬をけしかける」と警告する。

ふたたび彼がレイチェルの家を訪れたとき、犬はいつ出産してもおかしくない時期になっている。レイチェルと母親を捜して裏の池へ向かった彼は、エレンと刻まれた墓石を見つける (それは幼いときに死別したレイチェルの双子の姉妹の墓だった)。
その日、乗ってきた車の不調で彼はレイチェルの家に泊まる。翌朝、子犬が産まれていることが分かる。

図書館で、本の破損が目立ち始める。そればかりか図書館内に犬がいたとの苦情が持ち込まれる(調べてみるとそんな形跡はない)。

そんな頃、レイチェルが「私、妊娠してるの」と告白する。「そんなはずはない」と否定するキャロル。レイチェルはそうなんだけど、と認めつつも「とにかく妊娠しているの。時々あることよ」。
彼が「お母さんに犬をけしかけられる。これから僕たちどうする?」というと彼女は「これからどうしよう」とつぶやく。そして「愛と水、あなたどっちを選ぶ?」という謎めいた問いかけをキャロルに発する。
かれは「結婚しよう」という。レイチェルは「だめよ」と答える。どうしてと聞き返すキャロルに、レイチェルは、「あなたは結構いい人生を歩んできたから」、という。母親がいうには「結婚して私たちみたいな家族の一員になるような種類の人間じゃないんだって」。

失意のキャロルは図書館を休み下宿に引きこもる。彼は様々な奇怪な夢を見る。目覚めた彼は、レイチェルに、これからそっちへ向かう、と電話をする。到着した家に人影はなかった。2匹のラブラドールと6匹の子犬が、彼に警告する。レイチェルが現れ、彼に帰るように促す。

翌日、図書館に復帰した彼が夜間返却ポストから本を取り出そうとすると、大きな黒犬がポストから身をくねらせて出てくる。そして彼の小指を噛みきる。管理人が駆けつけたとき犬の姿は影も形もない。病院で犬に噛みきられたというと、噛みきられたにしては、この切断面はカッターで切ったようにきれいすぎる、と信じてもらえない。彼は病院を抜け出し、レイチェルの家へと向かう。欠落を知った彼はレイチェルとの結婚を許されるだろうと思う。失ったのが薬指でなく小指で運が良かったと思う。

  ――――――――

さほどひねくれてないと言っても、本篇が奇怪な小説であるのは間違いなく、こうあらすじを書いていても意味の通らない部分があります。これを私は整合的に解釈できないのですが、そしてそれができないからといって、本篇を読む楽しみは、一向に損なわれないのですが、とはいえ作者の裡では、必ず本篇を構想した段階でそれなりの(合理的ではないとしても内的な)整合性が意識されているはず(小説家とはそういうものだと私は信じています)なので、それを読み切れないのはちょっと悔しい。補助線に気がついたら解るはずなのですが(^^;


眉村さん情報&お願い 投稿者:管理人 投稿日: 3月21日(日)18時23分5秒

いよいよ今日深夜(正確には22日午前) 0:15〜2:10 (115分)NHK少年ドラマシリーズ「なぞの転校生」総集編が、ふたたび(というか、新たなヴァージョンで)「NHKアーカイブス」にて放送されます。
去年放送された総集編に、プラスそのときはカットされた最終回を加えた決定版です。お見逃しなく!

眉村さん情報をもうひとつ。
3月25日の毎日新聞朝刊に、眉村先生の御文が載ります。〈紙面研究会〉(?)という欄に掲載されるそうです。こちらもチェックよろしくお願いいたします。そういう私は毎日新聞ではないので、なんとか入手したいと思っていますが、毎日を購読されている方がいらっしゃいましたら、コピーなど融通して頂けましたら幸甚です。よろしくお願いいたします。


「スペシャリストの帽子」より(3) 投稿者:管理人 投稿日: 3月20日(土)12時12分8秒

(つづき)
そうして彼は、「ここ」にやってきたのです。やれやれ、ようやく主人公のいる世界にたどり着きました。
ここは、島で、誰もいないホテルに彼はいます。ビーチがあって、そこに降りていけば手紙を投函するポストがあります。このポストに彼は妻にあてた手紙を投函しており、その内容がこの小説であるわけです。

この海が奇妙で、満ち潮の時はポストの回りでフーッ、フーッと音を立てたり、潮の香りはなく、濡れたクッションのような焦げた毛皮の匂いがし、波の中には歯が見え、水は黒い。

そして、ビーチには、白っぽいものが握り拳大の固まりになって空から降ってきてビーチを覆い尽くします。

ホテルの部屋には木の下に女が座っている絵がが掛けられ、その女の表情はしかめ面をしている。

おわかりのように死んだ男が幽囚された島は、彼が事故を起こした現場、死んだ現場そのものであることは明らかです。(なぜ猫が海なのかといえば、以前寝ているとき、猫に顔の上に座られて窒息(=溺れ死)しかけた記憶が残っていたからでしょう)

そういうわけで、この世界は、主人公が木に衝突して死んだ、その瞬間に、一瞬に見ている(夢の言語に翻訳された)パノラマ視現象なのではないでしょうか。一種内宇宙といってよいでしょう。
一瞬の中に開示された内宇宙が指し示しているのは、主人公の人間性とそれに振り回された周囲であったわけです。
実によく構成された(きっちり伏線が張られた)異様な迫力の傑作ではないでしょうか。
(この項、終)
編集済


「スペシャリストの帽子より」(2) 投稿者:管理人 投稿日: 3月20日(土)12時10分3秒

(つづき)
結局、妻の流産後、ふたりの間には亀裂が入り(流産の原因は書かれてませんが主人公が介在したのかも)、主人公は不倫をし、それがばれ、最終局面に向かいます。

主人公と妻は「最後のセックス」をする。
それはぼくらが最後にセックスをしたときに君が噛んだ痕だ。君はあれが最後のセックスになると、どういうわけか気づいていたのかな?……(18p)

もちろん気づいていたのです妻は。これで最後にしようと。

……君の表情は悲しげだった。それに、怒っているようにも思う。(……)君はまばたきもせずに僕をにらみつけて、達するときに僕の名前を呼んだ。(……)君が憎んでいるみたいに僕の名前を呼んだことだけは覚えている。僕らは長いことセックスしていなかった。(18p)

そうして、

僕は君とセックスをして、そのあとで君はベッドから出て、そばに立って僕を見つめた。僕は君が許してくれたものと思って、これからも僕らは二人の生活をつづけていくんだと思った。(39p)

それは全くの考え違いで、

僕はベッドから出た。服を着て寝室を出た。君は後からついてきた。(39p)

これは主人公の主観で、実は妻は主人公を追い立てるように出てきたに違いありません。

君は名前を次から次へと、切れ切れに、突き刺すように言った。(39p)

主人公は現在いろんな名前を忘れているという設定です。忘れるとは思い出したくないという意味です。つまりここで主人公が名前と認識したのは、思い出したくない言葉を浴びせられたと言うことでしょう。それで、

僕は君のほうを見なかった。僕は車のキイをつかみ、家を出た。君は戸口のところに立って、僕が車に乗り込むのをじっと見ていた。君の唇はまだ動いていたけど、僕には何も聞こえなかった。(39p)

何も聞こえなかったのではなく、聞くことをシャットアウトしたのです。
彼はかなり興奮していたのかも知れません。追い出されたのですから。

ツリーが前にいて、気づいた僕はハンドルを切った。(……)スピードが出すぎていた。車は猫をポストに叩きつけ、それからライラックの木に衝突した。白い花びらが降ってきた。君は悲鳴を上げた。それからどうなったのかは思い出せない。(39p)
(つづく)


「スペシャリストの帽子」より(1) 投稿者:管理人 投稿日: 3月20日(土)12時08分30秒

「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」を読む。

昔、安部公房が〈波〉に連載していた掌篇連作があった。単行本化されたときのタイトルは忘れましたが、それらは夢をモチーフにしたものであると了解できるものでした。おそらく作家が夢として見たシーンに、(そのままでは使えませんから)意図的な小説化を施したものだったのでしょう。それらの作品は現実的な枠組みから自由な、しかしきわめて現実的な生々しさをそなえた、いわばシュールレアリズム絵画に似た不思議な喚起力があって、面白かったものでした。

今回、ケリー・リンクの初短編集の冒頭の作品である上記タイトルを読みました。そしてただちに上述の安部の掌篇連作を思い出したわけですが、たしかにこの作品、「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」も、安部作品同様、夢をモチーフにし、それを加工したものであることは明らかです。
その意味で大変わかりやすい話であるといえます。作者がこの話を冒頭に持ってきた理由も頷けますね。
このきわめて非現実的でしかし生々しい作品を解読してみますと、次のようなストーリーが浮かんできます。

先週、僕はずっと何かが起こりそうな感じがして、なんだかむずがゆい感じがしていた。確かに何かが起こりそうだった。僕は授業をして、帰宅し、ベッドに入り、これから起こるはずの何かを待ちつづけ、そして金曜日に死んだ。(13〜14p)

ところで死んだ主人公は、

僕がなくしたものの一つは、”どうやって”という経緯だ。いや、”なぜ”という理由かも知れない。

と、つまり「どのようにして、なぜ」死んだかということを覚えていない、という設定です。そしてこの作品を通読すると、それがおぼろげながら見えてくるという寸法です。

(死んで自分お名前を忘れてしまった)主人公は、同様に名前を忘れてしまった妻と結婚し、9年間暮らし、子供はなく、ただし一度子供を流産している。
しかし彼は産まれてくる子供の名前をいろいろ考えるのだが、それらの名前は、「しかめ面ばかりしていそうな少女の名前」であったり、彼が昔、脳腫瘍で保護のためにかぶっていたカツラを無理矢理はがして顔じゅうにしみ出した体液でまみれさせた(その後死んだ)学友の少女の名前だったりするのだった。つまり主人公が、産まれてくる子供を望んでなかったのでしょう。

また、この主人公は大学の教え子と不倫をしていたようで、妻もそれを知っていたことが暗示されている。

さて、主人公の妻は主人公と結婚する前から、ツリーという名前の黒猫を飼っており(猫の名前は覚えている)、この猫は主人公を好いておらず、おそらく主人公も同じだったのだろう。(後述)

その他にもいろいろ伏線は張られているのですが、いちいち書くと長くなるので、省略。
(つづく)


「地獄の辰」 投稿者:管理人 投稿日: 3月17日(水)19時11分52秒

笹沢左保『地獄の辰・無惨捕物控 明日は冥土か京の夢(光文社文庫86、元版75)読了。

〈地獄の辰〉シリーズ最終巻。といっても、物語は前2巻で終わっています。おそらく雑誌連載好評につき請われて続投ということなのではないでしょうか。
というわけで、主筋を離れた番外編というべきオムニバス長編です。

全てが終わり岡っ引きをやめた辰は、傷心のまま箱根熱海の湯治場巡りをしていた。その彼を、元部下の留三郎と銀太が、幕府御目付綾部修理の密命を帯びて追いかけてくる。最初辰は相手にしないが、銀太が何者かに殺された。辰は、銀太の敵討ちのために仕事を引き受ける……

という次第で辰と留三郎は、小田原から、謎の祈祷師京極紫雲斎の後を追って東海道を西へ……という所謂〈道中もの〉です。メインストーリーを象る、同心に操られる辰というユニークな設定から醸成される独特のキャラクターの酷薄さは薄まっていますが、やはり面白い。

これは時代小説そのものの性格かも知れませんが、〈ヒロイック・ファンタジー〉を読んでいるのに近い感興を覚えました(魔法や妖術の類は出てきませんが)。
その辺が歴史小説と時代小説の違いかも知れません。たとえば司馬遼太郎が描く世界は、たしかにその延長線上に〈今〉がある、同じ時間線上の話として了解されるのに対して、時代小説が描く〈江戸時代〉って、別の時間線上の世界のような感じがする。というより通時的なイメージがほとんどないように感じられるのです。
この〈江戸時代〉は、永遠に江戸時代のままで、とてもこの世界が明治に繋がっていくようには思えない。むしろネーウォンやキンメリアみたいな感じで存在する〈江戸時代〉という感じです。

一本の時間線上に、〈今〉を挟んで〈歴史小説〉と〈SF(未来小説)〉は対峙しており、他方〈時代小説〉と〈ヒロイック・ファンタジー〉は〈今〉の両側に並んでいる、そういったイメージでしょうか。

次はケリー・リンクの予定。
編集済


朝日のごとくさわやかに 投稿者:管理人 投稿日: 3月16日(火)20時45分52秒

暖かくなってきて、戸外活動が苦にならなくなってきたせいか(なぜか真冬と真夏は見たことがありません)、今日はよくねずみ取りを見かけました。

私は思うのですが、警察の方々が、まるで甲賀忍者か何かのごとく木遁の術で茂みと一体化したり、太った身体を窮屈そうに折り曲げて、身体よりも小さな立て看板の裏にカエルか曙のようにへばりついたりしながら、スピード違反やベルト未着用を取り締まろうとなされているその涙ぐましい努力の数々は、ぜひとも全国民の方々に知っていただきたいものです。

ことにも今日見た警察官の方は、匍匐前進するような不自然な格好のまま速度計器を捧げ持ち、石のように凍り付いておられました。その尊いお姿に接して、これぞシャッターチャンスと心の中で叫んだのでしたが、肝心のカメラを持っていなかった。返す返すも残念でなりません。

警官の方があの手この手で(たとえば坂道だと必ず下りの車線に身を潜めておいでです。下り坂は気がつかないうちにスピードが出過ぎてしまうのですよね。かしこい!)道路交通法を守らない不逞の輩を取り締まってやろう、取り締まらずにはおくものか、と傍目にも奮い立って職務に励んでおられる姿は、きっと一億国民に清々しい感動を与えること間違いありません。
私がテレビプロデューサーだったら、絶対「特捜最前線・ねずみ取り警官の一日」を制作するんだがな。

とはいえ私は思うのですが、イスや机を道路沿いに並べて何十人も警官の方が待機するくらいなら、各交差点に一人ずつ(ぼおっとでいいから)突っ立っている方が、もしくはパトカーで回遊する方が、はるかに予防効果はあるのではないかと思ったりもするのですが気のせいですね。

そうそう、3月15日は確定申告の最終日で、たくさんの納税者が税務署に訪れ、長蛇の列をなしたのでしたが、お昼12時になると、長蛇の列はそのままに、窓口は閉ざされたそうです。そりゃ〜そうだ。いくら並んでいようと、お昼休みは取らなければなりません。それも職員全員いっせいに。当然ですよね。たとえ最終日だからといって、混雑が容易に予想されたからといって、例外は認められません!
もちろん、並んでいる人は、だからといって昼ご飯を食べに行くわけには行きません。列を離れたらまた最後尾に並び直さなければなりませんから。「ここはTDLか?確定申告最後の日」というドキュメンタリーも放送したら好評を博すること間違いなし。

今日も気持ちのよい一日でした。
編集済


NHKアーカイブ「なぞ転」 投稿者:管理人 投稿日: 3月15日(月)21時37分14秒

山柚樹さま

はじめまして(^^)
お知らせありがとうございました。
早速書き込んで下さったアドレスに行ってまいりました。
なるほど、今回放送される「なぞ転」は、去年放送された「総集編」ではカットされていた「最終回」が見れるのですね。これは楽しみです!
本掲示版にも投稿がありましたが、きっと最終回も見せろ、という声がたくさんNHKに寄せられたのではないでしょうか。

>出演した岩田広一役の高野浩幸さん、山沢典夫役の星野利晴さん、香川みどり役の杉田依子さん(旧姓 伊豆田)3名に番組収録当時の思い出を語っていただきます。
おお、これも見物ですね(^^)

ということで、21日深夜(22日午前) 0:15〜2:10 は、忘れずテレビの前に座ることにいたします。
あとでトップページに告知しておきますね。山柚樹さま、どうもありがとうございました。またお越し下さいね。感想などお聞かせ頂けたらうれしいです。
編集済


↓すみません 投稿者:山柚樹 投稿日: 3月15日(月)00時50分4秒

はじめまして。
ご存じかもしれませんが、来週、NHKアーカイブで、「なぞの転校生」を放送
するそうです。
見たことがありませんので、ぜひ見ようと思っています。


こんばんわ 投稿者:山柚樹 投稿日: 3月15日(月)00時40分40秒

http://www.nhk.or.jp/archives/


Time waits for no one 投稿者:管理人 投稿日: 3月14日(日)17時23分10秒

土田さん
>ノスタルジーの強い作風
ある意味そうかも知れませんね。
私も他の作品は読んでないのですが、この作品から感じるのは、「今、かく在る」ことへの不全感といったもので、それが過去へ向かえば、過去の美化(paradise past)となりますね。

それで思ったのですが、この作品はまさに中年男や中年宇宙人(?)の「おれの人生って何だったんだろう」という哀感であるわけですが、発表された63年といえば、日本SFのまさに勃興期、幼年期の始まりであったわけで、いまSF界を支えている40代、50代のファンが10代前後の前途洋々たる少年だったときです(ていうかSFはこの世代と運命を共にする文芸なのだというのが私の認識なんですけど)。

10代や20代の若造に、テヴィスのこの諦観が分かるはずがないのであって、かれらが中年化し、バラ色の未来が、到着してみればそんなに輝かしくもなかったことが何となく分かってきたこの時期だからこそ、翻訳の機が熟したのではないでしょうか。この作品は翻訳が遅れたのではなく、この作品にようやく日本のファンが追いついた、そういえるのではないかと愚考した次第です(汗)。


原田さん
>デビッド・ボウイが来日してライブも行ったそうですね
おや、それはグッドタイミングでしたね。それにしてもボウイも57歳ですか(遠い眼)。
うーむ。私も歳を取るはずですね。
まさしく私の人生って何だったんだろう、ですな(ーー;

Time is on my side
と歌っていたミックが、
Time waits for no one
と歌い直してからでさえ、もはや30年が経ちました。
編集済


『地球に落ちて来た男』といえば・・・ 投稿者:原田 実 投稿日: 3月13日(土)12時12分18秒

今週、デビッド・ボウイが来日してライブも行ったそうですね。
 http://www.daily.co.jp/gossip/2004/03/09/119366.shtml
『地球に落ちて来た男』といえば、脳裏にまず浮かぶのは、
飲んだくれているデビッド・ボウイの顔だったりします。
村上龍『だいじょうぶマイ・フレンド』(原作小説ではなく映画の方)での
ピーター・フォンダの役作りに、この映画でのボウイの雰囲気が
参考にされていたように思われます。

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


テヴィス 投稿者:土田裕之 投稿日: 3月12日(金)23時54分4秒

>ウォルター・テヴィス『地球に落ちて来た男』
昔映画は見ましたけど、なんだか良くわからない映画でした。
原作はずいぶん違うのでしょうね。
読まなければ。
テヴィスは「モッキンバード」も「ふるさと遠く」も読んでいないのですが
当時の書評とかではノスタルジーの強い作風のような印象を受けています。

久しぶりに草上仁の短編集(『こちらITT』)を読んでいます。
再読ですが、デジャブはあるもののほとんど覚えていないようで面白いです。
ある意味便利というかお得だったりして。


「地球に落ちて来た男」 投稿者:管理人 投稿日: 3月12日(金)22時50分5秒

ウォルター・テヴィス『地球に落ちて来た男』古沢嘉通訳(扶桑社03、原書63)読了。

これはよかった! 心に沁み入る佳品です。
主人公の母星アンシアは、地球よりも遙かに進んでおり、その結果地球よりも早く最終戦争が起こり、アンシア人はわずかしか残っていない。しかも資源は使い果たしてしまっていて、このままではもはや座して滅亡を待つしかなかった。そこでアンシア人は、星に残された最後の(片道分の)燃料を宇宙船に積み込み、主人公を地球へ派遣する。

主人公の使命は、アンシアの高度な技術を元手に地球で宇宙船を建造し、それでアンシア人を地球に救出すること。すべて秘密裏に。

かくして、主人公は(地球人には未来技術に見える)超技術を駆使して企業を興し、たちまち財を築く。そして所期の目的である宇宙船建造に着手する。だが時間がないことを主人公は悟る。この地球も最終戦争への秒読み段階に入っていたのだ。またその超技術ゆえに、地球人の中に主人公の正体を詮索する者が現れる。個人だけではない。国家もだ。時間は限られている上に、主人公本人の身辺も風雲急を告げてくるのだった。

さて、このように書くと、派手な宇宙スパイ小説を思い浮かべられるかも知れません。全然違うのです。主人公は、金はあるが孤独で、心を許せる(真実は明かせないにしても)のはアルコール依存の無学な家政婦と彼の正体を知ろうと近づいてきたのだが、なぜか主人公に惹かれるものを次第に感じていく化学者だけ。

やがて主人公は次第に酒に溺れ始めます。それは孤独のせいでもあるし、一人の身に余る責任の重さのせいもあるだろう。主人公の種族と同様に、破滅への道を邁進してその愚考に気がつかない地球人への失望感もある。

彼は地球人の中で孤独で疎外されていますし、アンシア人としましても、ある意味島流しにされているばかりか、とてつもない責任を負わされていることで、二重の意味で疎外されているように感じています。最初は意識していませんが、次第にそのことに気づいてくるのです。

かくして小説は、疎外感と孤独と感傷に満ちた静謐さの中を、最初はゆるやかに、しかし次第に急流となって、ラストのカタストロフへと向かって流れ落ちていきます。

本書は、解説の高橋良平がいみじくも「存在の悲しみ」と指摘した、この世に(自ら望んだわけでもないのに)生まれてこなければならなかった「意識を持つ者」の、その存在の「不条理」のある断面を、切り口も生々しく読者に見せつけます。

アンシア人である主人公は、結局われわれ自身なのです。そのように了解させる説得力が本書にはあり、その力が読者にしみじみとした感動と共感をもたらすのだと思われます。

タイプとすればスタージョン系といってもよいでしょう。このような埋もれた傑作に接しますと、イーリイでも感じたのですが、アメリカSFの日本的受容といいますか、従来の翻訳の傾向が、実はかなり偏ったものだったのではないかと疑いたくなりますね。

ともあれ本書を読むことができてよかったと、素直に喜びたい気持ちです。


カレンダーをながめて 投稿者:管理人 投稿日: 3月11日(木)20時43分55秒

>畸人郷例会
今月も変則で第2週、3/13(土)だそうです。つまりあさってです。お間違いなきよう。
アレクすてさん、出席されますか? お借りしていた本を持って行きますが。

もひとつ、名探偵南湖の会は、3/28(日)ですよ。

それから名張人外境大宴会が決定しました。→4/11(日)PM3時〜
こちらもよろしく。

3/20、21の連休が空いちゃったな。


「女性状無意識」(承前) 投稿者:管理人 投稿日: 3月10日(水)21時45分32秒

(つづき)
しかしながら、そのことは即ち、現時点から振り返れば、それこそ小田亮ら近年の進化論的人文諸科学のアプローチはフォローされておらず(もっとも新しいのでも93年雑誌初出)、オスとメスは別の進化をした生物であるとでもいった差異の事実は射程外であるようです。

とはいえ、女性SF論として提出された解読は、大変ユニークで興味深いとはいえ、その発想の根底にあるのは、つまるところ、極めて一般的なSF解読ともいえるものであるように私には思えました。
それは、
 SFというジャンルは、それ自体ひとつの「批評性」を内包する。(75p)
とか、
 まさしく編集という作業により、すなわちフェミニスト的再解釈、あるいはポストフェミニスト的再解釈によりいかに物語が変貌していくか、その点にこそ物語のSF的センス・オヴ・ワンダーがひそむ。(165p)
という「視座」は、まさにSF特有のものであります。
(試みに引用中の赤字の「すなわち」「たとえば」に変えてみましょう。
 まさしく編集という作業により、たとえばフェミニスト的再解釈、あるいはポストフェミニスト的再解釈によりいかに物語が変貌していくか、その点にこそ物語のSF的センス・オヴ・ワンダーがひそむ。
これはSF一般の定義といえるものです。再解釈は超虚構化と言い換えてもよい。)

このような次第で、本書は、著者のユニークな切り口が刺激的な女性SF作品論であり、かつ、そのユニークさは、しかし「SFを読む」というきわめて(SF的に)まっとうな方法論そのもので、正攻法で押し切った結果であるわけで、それが私にはとてもうれしかったのでした。
編集済


「女性状無意識」 投稿者:管理人 投稿日: 3月10日(水)21時44分57秒

小谷真理『女性状無意識――女性SF論序説(勁草書房、94)読了。

先に不満を。
本書はかなり読みづらい。カタカナのジャーゴンが頁上に散乱していて、見た目もチカチカします。字面の3分の1はカタカナではないかと怪しまれるほど。文章も不適切な表現が多く、推敲不足。いわゆるガチャ文といえましょう。それも躁的なガチャ文でおそらく著者は小松左京並のハイテンションな人なのだろうと思いました。

たとえば冒頭。
女性とサイエンス・フィクションの関係を考えるとき、同時に想起されるのは、サイエンス・フィクションと女性とのなさぬ仲と言ったイメージであろうか。
って、「女性とサイエンス・フィクションというのは一般的に結びつきにくいイメージがある」とさらっと書けばいいのにと思う。続けて、

SFの場合でもサイエンスの場合でも、両ジャンルにおいて女性は少数民族であった。この「イメージ」は今なお根強い。
わざわざ「イメージ」と括弧付きで強調するこの文脈から、読者がふつうに読みとるのは、「今なお根強いが、それは違う」という反意ではないだろうか。ですが実際は少数民族であることを否定していないことは、続けて読んでいくと明らかになります。

おそらく著者は、躁的な高揚感と集中力でものすごい速度で書く人なのでしょう。だから細かいチェックをし出したら収拾がつかなくなるのであり、読者は「そうね、大体ね」的な大陸的な読み方をした方がいいのかも知れません。

そのような態度で、ジャーゴンの意味を(判らないなりに)類推しながら読み進めていくと、それなりに納得させられる内容でした。

そうそう、もうひとつ。著者は男/女:純文学/大衆文学:文明/自然(*):中心/周縁という風に、二項対立を重視しているのですが、固定的に捉えすぎているように思いました。
二項対立は人間の認識作用の根底にある構造なのですが、それはもっと相対的であり、個々の要素は交換可能なのです(だから構造なんです)。

たとえば「科学」小説であるSFは、著者の言うとおり、男性の側に分類されるのですが、しかしながら科学「小説」に着目すれば、一般小説/科学小説と認識されて、ただちに女性の側に移るわけです(著者自身もSFが文学の辺境であると書いています)。

なるほど、「科学」=男性的なるジェンダー設定をもちながら、なぜSFは「男性」ファンのみならず「女性」ファンをも確実に増やしてしまったのか
という著者の設問は、だからあまり意味がないのです。

(*)それから、これも長嶋茂雄的ケアレスと捉えてあげたいんですが、「自然」に対置されるのは、「文明」ではなく、「文化」ですね。「文明」に対置されるのは「未開」でしょう。「文明」も「未開」も「文化」の下位概念であり、自然(女性)に対する文化(男性)に含まれるものであるにもかかわらず、未開/文明という二項対立上では、未開は女性原理に含まれることになります。

そのような不満はあるのですが、本書はとても面白かった。
形式としては、ル・グインら80年代女性作家によって書かれたSF作品について、それを家父長的男性原理的テクノロジー社会に噴出した女性的セクシュアリティの暴力的な噴出(女性状無意識)として読み解いてみようとするものであるようです。その読解がとても面白い。と言ってしまっては語弊があるのなら、大変興味深い、と言い直しましょう。もとの作品を殆ど読んでないので、一概には言えませんが、まさに深読みの極致といえるのではないでしょうか。

私とほぼ同世代の著者(58年生)は、男女はもともと両性を内包する両性具有的存在であり、それが社会的に男性性/女性性といった制度によって後天的に発達する、という反本質主義の立場のようで、この立場は昨日も書いたように、遺伝よりは環境に重きを置く、当時の支配的な人間観に親和的でとても馴染みやすいものです。(つづく)
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「サルのことば」 投稿者:管理人 投稿日: 3月 9日(火)20時54分49秒

というわけで、小田亮『サルのことば 比較行動学から見た言語の進化(京都大学学術出版会、99)読了。

ある動物種に見られる行動がなぜ、あるいはいかに進化してきたか(6p)を問うのが、本書でそのアプローチを垣間見させてくれる〈行動生態学〉という学問ですが、これは私が学生の頃にはなかった学問です。
私が大学生だった70年代後半当時、エソロジーがようやく脚光を浴び始めていましたが、ドーキンスはまだ翻訳もされてなかったのではないか(今調べたら「利己的な遺伝子」の邦訳は1980年)。

当時の流行はいまだ構造主義で、私もそちらの方面ばかり勉強しており、進化論は進歩主義と混同されて時代遅れの学問という印象でした(そういう意味で山野浩一の影響も無視できない)。
それでも渡辺格の分子生物学は読んでおり、これは構造主義と結局同じなんではないの、とか相当悩んだものでしたが、そこで思考停止して、いやいや進化論が構造主義のはずがないと放り出してしまったのでした。

で、小田亮氏の著作を2冊続けて読み、遅ればせながら、構造主義のいう(人間行動の)構造の根拠はやはり進化論的アプローチで明らかにされるのではないか、と思いました。

下に書いたニホンザルの性選択行動をそのままヒトに当てはめるわけにはいきませんが、とは言い条ヒトもまた、ある時期はニホンザルが辿った道を辿って、今のヒトにまで達したことは十分に考えられるわけで、現在でこそ(というのはこの1万年くらいという意味ですが(^^;)メスの発情音は愛情表現の一種であるとヒトは皆思いこみ、事実表層的にはそうだと思うのですが、その行動を枠付けている(でなければメスは声を出し、オスは比較的出さない現象を説明できない)深層(無意識構造)には、進化による適応ということを想定する他ない(1万年前の適応行動ですから、文明化した人間には不要ですが、しかしながら行動はそれに規定されているので、その「意味」の方を2次的に適応させたものか)。

たしかに構造主義は、レヴィ=ストロースもそうですが、彼が見出した社会構造の、その発生に関しては、根源的には説明していないのではないでしょうか。
著者によれば、
 生物学者と心理学者、そして経済学者をはじめとする人文系の学者は、今や進化論を共通基盤として新たなる人間研究を始めようとしている。(192p)
ということで、これからこれらの学問を始める若い人を、ちょっぴりうらやましく思いました。
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数うちゃ当たる戦術VSえり好み・じらし戦術 投稿者:管理人 投稿日: 3月 8日(月)19時06分39秒

オスとメスでは子孫をつくる、すなわち遺伝子を残す際にかかるコストが違うのだそうだ。
精子は生産コストが低く多く作ることができるが、卵子は生産コストが高いのでなかなか作ることができないからである。

より効率よく子孫を残すためには、オスはなるべく沢山のメスと交配した方がよく、メスは量より質というわけで交配するオスを「えり好み」する方がよい。メスはなかなかオッケーを与えない。じらす。もっと質の高いオスが現れるかも知れないからだ。

なるほど。
で、オスは数うちゃ当たる方式なので、メスの数は一定だから、必然的にオス間競争が生まれる。一般にオスの方が体格がよく力が強いわけは、外敵対策というより、このオス間競争の結果らしい。

それで、メスの発情音だ(オスは発情音をあげない)。
なぜメスはいたしておる時に発情音を発するのであるか? なんとこれが他のオスに気がつかせるためだったのだ。あー知らなんだ。発情音で他のオスに気づかせて妨害させるのだ。いたしているオスより強いオスが妨害にくると前者はことを中断して尻尾を巻いて退散し、メスはより質の高いオスと交配することができるわけだ。

なんとまあ、あの声はそのためであったか。すっかり騙されておったぞ。そうかだからメスが盛大に発情音をあげるとオスはぎくっとしあたふたあわてて周囲を見てしまうのだな。そういえばオスが早く終わらせるのをメスが嫌うのも、新たなオスにチャンスを与えるためなのかもな。
うーむ、なんという奸計なんという狡知だ。オスは三擦り半で次々相手を変える戦術の方がいいのだからな。メスというのはおそろしい奸智に長けた生き物だなあ。

何のはなしかって? ニホンザルの性選択行動がどのように進化したかという話ですがな。by小田亮『サルのことば 比較行動学から見た言語の進化』(一部捏造) 
編集済


リンク 投稿者:管理人 投稿日: 3月 7日(日)22時31分52秒

リンク集「原田実の幻想研究室」を追加しました(相互リンク)。
原田さんの最近のお仕事は、『別冊歴史読本77号』で読むことができます。

「キンケイド活躍しそうやな」
と息子にいったら、
「クルーズもこの時期はよかった」
と言われてしまいました。むう〜。


ローズガーデン 投稿者:管理人 投稿日: 3月 6日(土)19時56分16秒

練習の甲斐あってか、ようやくギターの弦を押さえる左手の指の先端部分の皮が固くなりました。いやー20年ぶりくらいですかね。なんかうれしいです(^^;
あと、カポがあればいうことなしなんですが。今はあり合わせで自作したので間に合わせているんですけど、やっぱり使い勝手が悪くて。

おお! いま、インターネットラジオでカントリーの放送を流しながら書いているんですが、ちょうど今「ローズガーデン」(リン・アンダーソン)がかかりました。いや懐かしい(^^)
そういえば、ツタヤに行くと昭和歌謡や年代別青春ソングなんていうシリーズが並んでいますが、洋楽のそういうヤツがないんですよね。さがしているんですけど。69年、70年頃の洋楽ポップス(ショッキングブルーやマッシュ・マッカーンなど、眉村さんのチャチャヤングでもよくかかっていましたっけ(^^;)のCDって、ないんでしょうかねえ。

読んでいるのは、小谷真理『女性状無意識』と小田亮『サルのことば』とテヴィス『地球に落ちて来た男』。3冊併読なのでなかなか進みませんね(^^;そのうちどれか突出してくるでしょう。
編集済


「針」 投稿者:管理人 投稿日: 3月 4日(木)20時05分42秒

浅暮三文『針』(ハヤカワJコレクション、04)、読了。

ハードボイルド小説や警察小説における探偵や刑事は、大体において貧乏でうだつが上がらないという設定ですよね。実はこの設定が読者の共感を引き出して作品世界へすっと引き込んでいくわけですが、凡百のハードボイルドになると、この設定だけしかないものがあります。つまり感傷だけ。そのような作品はハードボイルド小説のある出来上がった形式に寄りかかっているだけなわけで、一種自動的に(慣性で)作られていて、読者に対して提供すべき新しいものは何もないといえます。

筒井康隆の「富豪刑事」は、富豪刑事というその設定だけで、すでにしてそのような自動化された設定に対して「批評性」を有しているといえます。これがSFのSFたるところなのですが、「超虚構性」とはこのような「批評性」のことをいっているのだと私は理解しています(ただしその効果は一回的で、シリーズ化されてしまうと、別の慣性に取り込まれてしまいます)。浸透と拡散型のSFを書く場合、かかる既存ジャンルの裏側に回り込む超虚構性は必須でしょう。

さて本書ですが、上述の意味も含めて、これはSF的見地からは失敗作といわざるを得ないのではないでしょうか。
まず設定が脆弱。「架空の生物」(あとがき)である〈針〉の存在論理が曖昧で漠然としている。〈針〉の、遺伝子にも似た種族保存本能の強さが強調されているのに、発症した人間が比較的短期間に死んでいくのでは、そもそも自らのコピーを残す確率が減少するわけで、矛盾しているように感じました。少なくとも現地民に寄生した〈針〉は、その本来の目的(コピーの増殖)を全く果たしていません。(たとえばラストでの女性主人公とコンゴ帰りの男の出会いの場面には、明らかに〈針〉の種族保存本能が想定されているのに、です)

原住民や現地で寄生された日本人と、主人公では発症の様子が全く違っているのも納得できない。主人公の場合はアトピーでステロイド剤を常用しているために特殊な発現という設定なのでしょうか。(後述)
またオキシトシンが増加したのもその影響のせいなのかよく判らないし、それが一体どのような作用を主人公にもたらしたのかも不明としかいいようがなく、あまり小説に対して機能していないように思う。

このような設定に対するいい加減さに加えて、もうひとつは、最初こそ触覚の鋭敏化をこと細かく描写しているのに(このあたりでは面白くなりそうな予感がありました)、結局は異性性交(しかも男性視点の)に収斂してしまうのでは、触覚というテーマがもつ可能性からも逃げてしまっているわけで、著者は単に旧弊なポルノ小説が目的だったといわれても仕方ないように思われます(最初はそれなりに自立的個性だった女性主人公が、後半のポルノ場面では全く人形めいてしまい人間としての存在感を示さないのはどういうことだ)。

私はポルノにしたのは失敗だったといっているのではありません。ポルノ小説的な描写の裏側に超虚構性、批評性が認められないのが不満なのです。本書後半は、出来合いのジャンルポルノ小説と大同小異の描写に終始しています。

あとがきによれば、スキンシップのコミュニケーションを欠いて育った人間はどうなるのか、がテーマとしてあったようです。しかしながら本書からそれを読みとるのは至難ではないでしょうか。
そうだとしますと、主人公に触覚異常をもたらした〈針〉の設定は、単に主人公の触覚を鋭敏化させるための道具でしかなかったことになります(設定の無意味化)。ラストは何の意味があるのかということになってしまいます。この物語自体が矮小化されてしまうのではないでしょうか。もし上のテーマを表現したかったのだとしたら、この設定は不適当かつ不穏当だと思います。

そういう意味で、設定が充分生かされずに(設定自体練り込みが不十分ですし)不完全燃焼のまま尻すぼみに終わったの感を強く感じた作品でした。
(そういえば、あとがきで女性読者に言い訳しているのもがっかりしました。男性読者はみんな分かってくれてるのは自明だ、とでも思っているのかね)
編集済


「ヒトは環境を壊す動物である」 投稿者:管理人 投稿日: 3月 2日(火)19時48分48秒

小田亮『ヒトは環境を壊す動物である』(ちくま新書、04)読了。

これは面白かった。タイトルは内容と若干ずれています。実際は、ヒトが自らの生存に必須な環境の保護を現状なぜ効果的にし得ていないのかを「心の限界」という観点より解明しようとした内容です。このいささか扇情的なタイトルは、売らんがために出版社が付けたものでしょう。

著者は、専門の霊長類学に基づいて、少なくとも一万年前より以降、ヒトの身体には解剖学的な変化はほとんどなかったといいます。
一万年前と言えば、人類が農耕牧畜を開始した頃で、いわば環境を能動的に変えていくということを始めた時期です。これより後、人間は、現代に至る急速な生活環境の変化を経験していくわけです。
ところが文明的には未曾有の大変化の期間であったこの一万年という時間は、しかし私たちの形質的な特長に何らかの大きな進化が起こるには短すぎる時間なのだそうです。つまり私たちの身体的な特徴は、農耕牧畜以降の環境に追いついていないというのです。

たとえば、現代において文明病といわれるものの素である肥満ですが、肥満を引き起こす高カロリーで甘い食品(ハンバーガーやフライドチキン)を美味しいと感じたり、沢山食べたいと欲するのは、実は、1万年以上前の熱帯サバンナの狩猟採集生活においては、動物性タンパク質は常に不足しており、初期人類は、とにかくそれが摂れるときには無理してでも摂取しておかなければならなかった。すなわち食いだめは、生存に必要不可欠な適応行動だったのです。だからそのような食品に対して「舌」は、味覚は、美味しいと感じ、食い尽くすまで食わずにはいられないように進化したわけです。その当時の適応行動が、1万年という短い時間では(不要になってしまったにもかかわらず)残存していて、それが肥満の増加を現代に於いて招いている、というわけです。

(人間の)環境世界の保全への、我々現代人の(不合理的な)消極性も(地球に優しい○○という流行の標語に著者は疑義を提出しています。賛成。たしかに事実は、人間に優しい○○と言うべきです)、我々の脳が、したがって心が、一万年前のままで殆ど進化しておらず、その後の急速な環境の変化に適応できていないためであると、著者は述べています。

著者が駆使する「進化心理学」は、私には目新しい学問だったのですが、これを用いれば従来の社会学がごちゃごちゃ(笑)やってきたことがすぱっと見えてくるようです。確かに従来の社会学者としては受け入れがたい学問で、拒否反応があるというのは、私にもよく理解できるのです。ですが、これからは、社会学の知見をこのような新しい学問の視点から再照射することは、社会学にとっても必要なのかも知れませんね。
編集済


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