【掲示板】


ヘリコニア談話室ログ(2004年4月)


小松崎茂 投稿者:管理人 投稿日: 4月29日(木)22時05分2秒

ここ数日、あまり聴かないLPをごそごそ引っぱり出してきているんですが、冒険王南佳孝(84)のジャケットが小松崎茂であることに気がつきました。→ジャケット

このアルバムは火星旅行をテーマにしたトータルアルバムなんですが、その内容に合わせた挿し絵が、ジャケットだけではなく、挟み込まれた歌詞やクレジットの書かれた3つ折り6ページの紙にも載っているのです。
しかも1ページまるまる1枚の挿し絵(オールカラー)が3葉、3ページ分(つまり表面全部)と、10コマの絵物語(「いつも心に冒険王」というタイトル)が裏面3ページ分を使った歌詞カードの上部に一色刷りですが掲載されています(うち1葉はウェルズ「宇宙戦争」の挿し絵のようですが)。

いや〜実によいです(^^) しげしげと見入ってしまいました。それにしてもこの絵はアルバムのためにオリジナルに描かれたものなんでしょうか? 大橋さんに訊いてみようかな。

EACH TIME大瀧詠一(84)
編集済


岡田采配は 投稿者:管理人 投稿日: 4月29日(木)21時29分11秒

なんか変に固定的と思いませんか。
なぜ打率1割台の選手を(しかもふたりも)クリーンアップに固定するのか。打線が切れまくりでアリアスを殺してしまっている。せめてアリアスを5番にあげるべきでは。
今の濱中なら(強心臓の)桜井を使うべきだと思います。それから濱中を使うと外野3人とも肩が弱くなり、明らかに弱点になっています(桧山ならOK)。桜井がうまいとは決して思いませんが、今の臆病風に吹かれた濱中なら、打撃面でも守備面でも、桜井に変えて何らマイナスポイントが増えるとは思われません。
代打に鳥谷を使うのも不審。打撃の欠陥でレギュラー取り損ねた選手なのに。
藤本→矢野の打順も逆でしょう。鳥谷→矢野なら正解ですが、鳥谷から藤本にすげ替えただけではね。野村や星野なら藤本に変えた段階で入れ替えたのではないでしょうか。
野村のように日替わり打順もどうかと思いますが、実践や調子を無視した固定化もなあ(ーー;

私の考える打順
1番今岡 右
2番赤星 左
3番関本 右
4番金本 左
5番アリアス 右
6番桧山 左(桜井 右)
7番矢野 右 
8番藤本 左
9番投手 


眉村卓情報 投稿者:管理人 投稿日: 4月29日(木)10時10分48秒

「河南文藝漫画篇」が、発売になりました。→2004年初夏号

眉村先生関係としましては、「河南文藝小説篇」の方で過去2回連載されていた漫画家とのコラボレーション「ショートショート劇場」が、今回は「漫画篇」のほうに回ったようです。
内容は――
    原作は<日課・一日3枚以上>10巻の「おかしな柱時計」
    作画は「サワダハルカ」氏

上のリンクから購入可能です。定価500円。
関西では大きな書店では扱っていると思います。
編集済


「上海独酌」(2) 投稿者:管理人 投稿日: 4月27日(火)21時18分12秒

(承前)
 韻文、散文と形式としては分かれるけれども、内的には散文「あるクリスマス」と歌集「上海」でひとつのユニット、いわば「上海篇」をなしているといえる(この「上海篇」で本書のほぼ半分を占める)。とりわけ短歌は著者の心象が素直に、あるいは情熱的に表現されていて、深く迫ってくるものがある。

 いずれにせよこの「上海篇」、散文と短歌が互いに照応し合うその交差において、読者は、否応なく〈物語〉を読まないではおれない。そしてその物語に、私はとても清々しいものを感じた。とはいえ、かかる〈物語〉を読み取る読み自体は、ある意味下世話なといえるもので、著者としては心外であり不快かも知れないのだが……。

 もとより以上は、私の解釈あるいは私の裡から引きずり出された物語なのであり、何ら事実であるを保証しないのは無論である。

 あと、〈物語〉から自立した歌で気に入った作品を。

 早朝の屋台に齧る羊肉はこの路の果て烏魯木斉の味
 これはイメージ雄大な秀歌。ある意味技巧的かも。

 縦半分羊割られて吊り下がる市逞しく子供の走る
 パンティーとカットソー干すバルコニー解体近く秋の陽の射す
 も、視覚的で私好み。

 第二部は、「上海」の他に、「博多」、「異国(とつくに)」、「パリ」、「大阪」などの題のもと、ヴァリエーションに富んだ歌が収録されていて、著者の豊かな感性をたのしんだ。

 小糠雨渡しそびれし男傘携えて買う水菜ひと束
 「上海篇」を読んだ後では、このような歌にも〈物語〉を感じてしまうのは、人間の認識構造(物語造成能力)に由来するものだろうか。

 かくのごとく本集は、いくらでも深読みのできる、あるいは読者の裡から〈物語〉を引きずり出さずにはおかない、そういう途轍もない力を持った歌集である。
 多くの〈小説読み〉の方に読んでいただきたいと思います。
編集済


「上海独酌」(1) 投稿者:管理人 投稿日: 4月27日(火)21時17分12秒

村上知子『上海独酌』(新人物往来社、04)読了。

 畏友、村上知子さんの処女作品集です。→[bk1]

 帯には、「エトランゼの視界にとどまる心象風景を韻文と散文で描く魅惑の第一作品集」とある。収録作品中散文は一篇だけ。あとは韻文というか短歌なので、むしろ歌集というべきか。

 第一部「あるクリスマス」が、その唯一の散文で、妻子ある恋人との関係にある決着をつけた著者が、その恋人と旅した上海を、一ヶ月後のクリスマスに独り訪れる一種〈感傷旅行〉の記といえる。

 「ただ、わかったのは、男があのとき自分と二人旅をしていたのではなく、一人と一人の旅が連なっていたということだった。」(54p)

 と本篇ラスト近くで回想する最初の上海行きは、そう回想するからには、著者においてはそのときは確かに「二人旅」だったということだろう。そう規定することによって結果される諦念が、本篇をある色調に統一していて、独特のムードがある。

 第二部は短歌集。その冒頭は「上海」の題のもとに、上述の(1)最初の上海旅行と、(2)それからの帰国後の日、そして(3)「あるクリスマス」に描かれた上海一人旅、において折々に詠まれた歌が集められている。

 難波江の朝岸に待つ君ありて夢と思いし旅ははじまる

 という歌に始まる(1)の短歌群は、恋人と旅する素直な喜びに溢れている。
 船室というかりそめの新居にて我は羽織りぬ黒き旗袍

 とはいえ、岸壁の向こうに置いてきたものに気づかないわけではない。
 離れ行く岸を見ぬ君我は知る紙テープ引く誰か居ること

 そうして着いた上海は折悪しく雨天だったのだが、著者の内心は喜びにきらめき、その内面の光が上海の風景を明るく照らし出している。
 がたがたと濡れた舗道に鞄引く我取り囲む上海の声
 幻の日照雨見たさの道行きは歌えぬままに外灘(バンド)きらめく

 中国語で愛人とは妻の意なのであろうか、日中の語の違いを自らに引き寄せて、
 「愛人」という語の違いそのままに我はこの地の妻としてある

 と、自らを恋人の妻として思い振る舞う著者。
 嬉々として酸菜購う君の後附き従いぬ旅先の市

 しかし、旅程も半ばを過ぎ、次第に現実(日本、置いてきたもの)が脳裏をよぎり始め、光に満ちた内面に影が差し始める。
 君のいる朝に慣れまじ旅ゆえと言い訳し居る折り返しの朝

 やがて、帰る日が来る。中国語の愛人から日本のそれへと戻る哀しみ。
 外灘は曇天のもと遠ざかる「再会(ツェーウェ)」と言う、君の背に言う

 (2)日本へ帰着、直後に恋人との別れがあったのだろうか。後の「宿直(とのい)」の題のもとに収められた歌を関連させるなら死別か? しかし「あるクリスマス」からはそのような事態は読み取れないのだが。

 病棟に上海の菓子食べ尽きて旅路の終り霜月の末
 この病棟は著者自身の? それとも恋人の? いずれにしても上海旅行が土産の菓子を食べつくしたときに終わるという見立てが秀逸。

 (3)そうして病(?)癒えた著者は、クリスマス、再び赴く、夫婦であった上海へと。
 回転扉君と暮らせし客室は光るツリーのその奥であり

 短い感傷旅行は終わり、著者は心にひとつの決着をつける。
 君といた確かに君とこの街にそれを糧にし年越えて生く
(つづく)
編集済


「君は天然色」 投稿者:管理人 投稿日: 4月26日(月)21時36分9秒

最近、CMに使われていますよね。よく耳にするので聴きたくなって、LPを引っぱり出してきました(^^;

 夜明けまで長電話して 受話器持つ手がしびれたね

くー、懐かしい(笑) こんな詞だったんですね、すっかり忘れてました。
しかしこれは私たちの世代ならば誰でも経験したシチュエーションですな(^^;ゞ 現在では死語ならぬ「死場面」ですか?
このシチュエーションの甘酸っぱさは、しかしメールでは味わえないものではないでしょうか。ある意味いまの子は可哀想かも。

A LONG VACATION大瀧詠一(1981)


原田実さんの新著 投稿者:管理人 投稿日: 4月22日(木)20時18分38秒

原田実さんの新著が出たようです。→『邪馬台国浪漫譚』(梓書院)
邪馬台国大和説の「大海」に敢然と一石を投ずる意欲作なのではないでしょうか!! 楽しみ(^^)

田中克彦『ことばとは何か』読み中。
編集済


「ねこまた妖怪伝」 投稿者:管理人 投稿日: 4月21日(水)18時58分18秒

藤野恵美『ねこまた妖怪伝』(岩崎書店、04)読了。

第2回ジュニア冒険小説大賞受賞作品。これは面白いです!

「さよにゃら……」一言だけつぶやくと、ミィはそとに出ていった。(帯より)

二股の尻尾を持つ〈猫股〉の子供ミィは、育ててくれていたおばあさんが死んでしまい、やむなく町へ向かう。しかしミィには野良猫として生きていく知恵も技術もなく、空腹に弱っているところを、人間の女の子皆本まなかに助けられる。彼女には不思議な能力があり、それに目を付けたカラス天狗にさらわれる。一方ミィは、奇妙なおじいさんから聞いた妖怪たちの情報交換の場、「甘味処 霧氷」へと向かう。……

途中で何度か視点が変わるのですが、読者が子供でも、ほとんど戸惑わずにすっとその変化に対応できるであろうと思われます。これはなかなかに難度の高いテクニックなのですが、著者はさらりとクリアしています。このなめらかな筆力は大したものだと思いました。

選考委員である眉村卓さんの「筋としてよくできているし、付随する事柄への気配りもなされている」という選評が、帯に載っていますが、(以下に述べるように)さすがに的確な評だと思いました。

この小説には「世界」があります。大塚英志の所謂〈大きな物語〉が背後に設定されているのです。それは妖魔大帝と妖怪ハンターの抗争という物語なんですが、かかる〈大きな物語〉を背後に設定することによって、本書はわずか160pの作品なのですが(おそらくジュニア冒険小説大賞の規定枚数なんでしょう)、この限られたボリュームにもかかわらず、長編小説並みの奥行きと拡がりを、読んでいて感じさせられます。眉村先生がおっしゃる「付随する事柄への気配り」とはこのような背後の設定を指しているのだと思われます。

また、この枚数に収めるためにでしょうか、削るところは上手に削られています。著者の構想のなかには、〈魔境〉に飛ばされたまなかの冒険物語が、本当はあるのだと思うのですが、ばっさりと思い切りよく削られています。枚数に合わせるために、全体に書き込みを均質に薄くするのではなく、このようなメリハリを付けることで(しかも背後の大きな物語を利用することで)小説世界のリアリティが維持されており、その結果が「筋としてよくできている」という評価に結実しています。

一見恣意的に存在するかに見えたミイが、ラストでおばあさんの正体と共にその存在の因果性が明らかにされる構成も、実にストーリーに律儀で、まさに「筋としてよくできている」と思いました。

かくのごとく著者の筆致は堅実で、160pを書き急がず、滞りもさせず、実に安定しています。構成もバランスが取れていて、とても新人とは思えません。感心しました。こういう作家は、質を落とさず量産できるタイプだと思います。著者の頭のなかは、書かれるのを待っている物語で溢れ返っているのではないでしょうか。次作が楽しみです。
編集済


「動物と人間の世界認識」 投稿者:管理人 投稿日: 4月19日(月)18時36分2秒

日高敏隆『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない(筑摩書房、03)読了。

本書は、いうなれば「ソラリスの海は何百光年の彼方に赴かずとも、我々のごく身近にある」とでも言った話です。著者は、ユクスキュルの「環世界論」と岸田秀の「唯幻論」を参照しつつ「イリュージョン」という概念を提出します。

たとえば我々が飼っている犬や猫は、我々が見ている世界と同じ世界を見ていると、飼い主は思いがちだろうと思われます。ところが実際はそうではないらしいのです。

温血動物の生き血を食用とするダニは、適当な灌木によじ登り、そこで獲物を待つ。ほ乳類が通ると、即座に落下してその動物にとりつくのですが、だからといって、ダニが「見張っている」わけではない。ダニには目がないのです。かれらは、ほ乳類が出す酪酸の匂いをキャッチすることによって、それが信号となって落下するのだそうです。そして敏感な温度感覚によって、暖かいものに落ちたことを感じたら(信号を受け取ったら)、触覚によって毛の少ない場所を探し出し、口をつっこんで血を吸う。

この過程は一種機械的ですが、ダニは機械ではなく、機関士であり、それぞれの信号を意味のある知覚信号として認知し、それに対して主体として反応しているわけです。とはいえこのダニにとって、世界は匂いと体温と皮膚の接触刺激の三つのものだけで構成されているわけで、人間が見ているような世界を見ているわけではない。

つまり動物は周りの環境から自分にとって意味のあるものだけを認識し、それだけで彼らの(主観的)世界を構築しているのだと著者はいいます。ここまではほぼ「環世界論」と同じです。

それでは人間は客観的な環境を認識しているのか。そうではないと著者は考えます。動物に比べれば格段に客観的であるとはいえ、人間の認識も、その知覚の枠組みにを超えるものは認識できない。たとえば超音波は聞こえませんし、紫外線や赤外線は見えません。

しかしながら人間は、たとえば科学を発達させて(機械の力を借りて)見えないものを(擬似的に)見えるように、いわば認識の枠を拡張させてきたといえます。
が、これによって人間の認識は客観的環境に近づいたといえるものかと言えば、そうではないと著者は考えます。

たとえば地球が球体であるという「客観的事実」は、宇宙からの写真を見なければ、直接的には「見る」ことが出来ません。しかし写真など見ずとも、我々は地球は丸いと「思って」います。これは実は「概念」として知っているだけの話で、いわば(唯幻論のような)「イリュージョン」によって世界を構築しているわけです。

イリュージョンとは、客観的環境から、彼ら自身にとって意味ある要素だけを抽出した主観的世界であり、意味の束といえるのではないかと思います。その意味で、ダニは上記の3つの意味ある信号で「イリュージョン」を構成しているといえます。
著者のいう「イリュージョン」は、動物における「環世界論」と人間における「唯幻論」を統合するた原理であり、およそ「世界」を認識する(人間も含む)動物は、すべて「イリュージョン」に立脚しており、「イリュージョン」による現実の主観化がなければ、世界の認識は起こり得ない、と著者は述べます。まさに「イリュージョンなしに世界は見えない」のです。

かかる「イリュージョン」概念は、蓋しフーコーの「エピステーメー」やクーンツの「パラダイム」、あるいはリーチの文化論が、発生論的な説明を回避しているのに対して、それら諸概念にその発生論的な意味合い、生物学的根拠を与えるものなのではないかと思われます。

そう言う意味で、著者の「イリュージョン」は、一種統合的な説明原理たり得ているといえるかも知れません。

次は、藤野恵美『ねこまた妖怪伝』の予定。


Re:海外の国内SF  投稿者:管理人 投稿日: 4月16日(金)20時11分56秒

>日本のSFって(SF以外の小説も)海外でどれくらい知られているんでしょう

安部公房は殆ど全作品が英訳(だけでなく各国語に)されているのではないでしょうか。
プロパー作品では、まず思い出されるのがメリル女史の英訳プロジェクトでしょう。SFマガジンのメリル追悼号に、矢野徹や伊藤典夫らによって、メリルに振り回された(^^;当時が回想されていたと思います。このとき実現したのが、たしか「落陽2217年」の英訳だったのではなかったでしょうか。
最近では、菅浩江さんの作品が英訳されたことがあったと思います。
いずれにしても、安部公房をのぞけば、日本SFは殆ど海外の読者に知られてないのでは?

純文学は、ドナルド・キーンやサイデンステッカーという桁外れに凄い理解者が存在したので、案外恵まれていまして、三島由紀夫や大江健三郎や上述の安部公房を中心にそこそこ翻訳されているようです。
SFの場合も、ドナルド・キーンやサイデンステッカーレベルの理解者が現れたら、一挙に局面は開かれるのではないでしょうか。

Administratorは、Amazonで注文できるのですから、当然海外読者も買えるんですよね(^^)


海外の国内SF 投稿者:Y 投稿日: 4月15日(木)22時00分9秒

>AIDMAの法則ではありませんが、まずは海外ファンに対して認知させることが第一段階です。

日本のSFって(SF以外の小説も)海外でどれくらい知られているんでしょう?
文庫解説のどれかに(今思い出せませんが)「海外へ知らせたいSFアンケート」を
とったら眉村作品が複数上がっていた、と書いてあった気がします。


『「おたく」の精神史』 投稿者:管理人 投稿日: 4月15日(木)20時13分43秒

大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論(講談社現代新書、04)読了。

先日述べたように、論じられる主題についての知識、経験がないので、ピンと来ません。
ただ、私が95年頃に復帰(?)したとき、強く違和感を覚えたSF文庫やSF雑誌の表紙を飾るアニメ絵が、この80年代〈文化〉であることは確認できました。
ところで、著者の思考の基本は、いうなれば「現象」肯定型。「80年代」的現象を、前代からの「継続」面よりも「断絶」面に照明を当てて、その特殊独自性を強調する、いわば、〈構造〉よりも〈表層〉に重点を置くものです。

どういうことかといいますと、まず「80年代」現象ありき、なのです。しかしながら80年代の精神というものがもしあるとしても、それは必ず前代の精神の延長であり、変容したものであるはずで、無から忽然と現れたものではない。そういった因果的説明がないので、どうしても論考というよりもエッセイめいて見えてしまいます。

たとえば本書のなかでは比較的主題になじみがあって理解しやすかった「昭和天皇の死」で、著者は、意外なほど若い世代が皇居に記帳にやってきたことに着目し、その記帳に訪れた当の若い世代において、実のところ彼らに「語るべき天皇のイメージ」が欠落している事実を明らかにしているのですが、そしてその視点は鋭いのですが、ただその事実を述べるだけで、それに対する批評といいますか、「なぜそうなのか」という因果関係への視線がない点が、わたし的には不満が残るわけです。

著者によれば、天皇について語るべき何のイメージも持ち合わせてない彼らが記帳にやってくるのは、昭和天皇という時空連続体への敬意でも哀悼でもなく、昭和天皇の実存とは全く無関係な、彼ら自身の私的な思い入れであり、単に昭和天皇に「肯定さるべき自己イメージ」を見ているからだ、と指摘します。

昭和天皇の死が、「やさしいおじいさん」の死に換喩され、その結果彼らの裡に瞬間的に「おじいさんの死」の物語が構成されるのですが、その「おじいさん」はとりもなおさず「肯定さるべき自己イメージ」の反映に他ならず、結果として「責任の主体になれないイノセントさ」が自己憐憫的に肯定される、とする分析は全く正しい。これは「物語消費論」あるいは「キャラクター小説論」で論じられたことと同じ事態であるといえます。

だからこそ、ではなぜそのような精神が80年代に顕在化したのか、それを分析してほしかったと思わないではいられないのです。それがもどかしく、また不満なのですが、どうもこれは著者の〈筆法〉に起因するものであるようです。

私のカンでは、著者はそういう若い世代の「他者の不在」を肯定しているようにはとても見えない。むしろ苦々しく感じているように読めたのですが(それはライトノベルを論じる口調にも感じられたものです)、「80年代」的現象の独自性を強調する(あるいは現象の存在自体を肯定する)著者の〈筆法〉においては、そのような著者自身の肉声が占めるべき場所が「構成的に」排除されるからではないでしょうか。

ある意味、戦略的な文章家であるわけで、その内心はなかなか見えてきませんが、『キャラクター小説の作り方』の感想でも触れましたが、きっと著者自身の内部は70年代的な思考の枠組みが構造化されているに違いない。それゆえ、その表層の下にある「肉声」が私には感じられて、共感するものを覚えるのですが……さて、どうなんでしょう。

日高敏隆『動物と人間の世界認識』に着手しました。


司政官認知計画 投稿者:管理人 投稿日: 4月13日(火)21時35分11秒

Yさん
やあ、お久しぶりです(^^)。

>海外の人にどう受け取られるのか楽しみです
AIDMAの法則ではありませんが、まずは海外ファンに対して認知させることが第一段階です。
たとえば海外ファンジン(ローカスなど)に投書するとか、英語の堪能な方にお願いしたいですね(^^;

読書月記復活ですね、善哉々々(^^)

恵美さん
ジュニア冒険小説大賞受賞おめでとうございました(^^)
「ねこまた妖怪伝」>早速注文しました、届くのが楽しみです。

>少年少女を夢中にさせ、大人が読んでも面白いお話を書ければいいなあ
期待しております! 大いにがんばって下さい!!
また眉村先生の会でお会いできるのを楽しみにしております。


よろしくお願いします☆ 投稿者:恵美 投稿日: 4月13日(火)11時33分0秒

「ねこまた」ご紹介いただきありがとうございます。
授賞式でお会いした眉村先生は、やっぱり素敵でしたv
眉村先生のように、少年少女を夢中にさせ、大人が読んでも面白いお話を書ければいいなあ、と思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。


大変 投稿者:管理人 投稿日: 4月12日(月)23時21分0秒

土田さん
>ひゃあ、
今はもっと大変みたいです。私が辞めた頃社内結婚した後輩夫婦から、毎年年賀状が届きます。去年の賀状には「大変そうです。体が心配です」という奥さんの添え書きがあったんですが、今年の添え書きは「やっと転勤になったのですが、帰りがほとんど12時過ぎで、大変な所に転勤になりました」

同期だった男が労組の委員長なので、こういう賀状が来たぞ、と注進に及んだのですが、委員長殿うつむいていわく「旦那が三週間以上休めてない(何とかして)という電話が奥さんからかかってきたりするんや」とのことで、えらい時期に委員長になったもんやな、と同情してしまいました。

しかし土田さんも(日記を読むと)かなり大変そうですね。ご自愛専一に。

>「カルカッタ染色体」
最近の本ですね。まったくフォローしてない本でした。それでは読んでみますね。


お久しぶりです 投稿者:Y 投稿日: 4月12日(月)22時05分9秒

ずいぶんごぶさたしていました。2・3月はいろいろ手が離せなかったもので。
「司政官」英訳ですか。海外の人にどう受け取られるのか楽しみです。

>80年代
私はまさに中高生でしたが、それほど鮮やかな記憶がないです。
恩田陸は「ありえなかった懐かしさ」だと思います。


「司政官」英訳さる!! 投稿者:管理人 投稿日: 4月12日(月)19時25分44秒

○眉村卓先生の『司政官』が英訳されました!→Administrator (翻訳:Daniel JACKSON、カバー:Katoh Naoyuki、価格:US$15.00)

版元の黒田藩プレスは、日本在住の欧米人3人によって設立され、「古典」名作の翻訳や復刻本を中心に、お求めやすい価格で世界中の読者や専門家に本を届けていきたいとのこと。山田正紀『アフロディテ』も英訳されているようです。

さらに黒田藩プレスからは、『夕焼けの回転木馬』が復刊されるようです。こちらは日本語版です。
「エイやん」とも通底する本篇は、日本文芸大賞受賞の傑作ながら文庫オリジナルで出版されてしまったという、やや不運な作品だったので、新書版とはいえ立派な体裁で復刊されることになったのは、喜ばしいかぎり。

○さてさて、その眉村先生が選考委員を務める岩崎書店のジュニア冒険小説大賞が決まりました!→入選発表
栄えある大賞には藤野恵美さんの「ねこまた妖怪伝」が選ばれ、このたび本になりました。→『ねこまた妖怪伝』

藤野恵美さんは関西在住で、先般の眉村先生を囲む会にも出席して下さり、そのときには既にジュニア冒険小説大賞受賞は決まっていたのですが、内定段階(?)だったので、ここで告知するのは控えていました。このたび正式に発表されたとのメールを頂きましたので、告知させていただきます。
いまみたらbk1でも買えるようです。私も早速注文することにします(^^)→bk1

いやーめでたい話題が続きますが、復刊ドットコムの「引き潮のとき第2巻」も、復刊交渉開始まであと24票。もうひといきですね(^^)

とりあえずお知らせのみ。またあとで。
編集済


続いて 投稿者:土田裕之 投稿日: 4月11日(日)22時52分16秒

「カルカッタ染色体」(DHC)読了しました。

アーサー・C・クラーク賞受賞(何でだ?)ということでSFとして読んだ場合、
科学的にちょっとなあ、とか話のまとめかたがちょっとなあとか
評価が下がってしまう可能性があるのは否定しませんが、
個人的にはSFとして読むような話では無いと思います。
マーケティング的には受賞を前面に出すのはいいのだろうし、
そうすれば多くの人の眼に触れる可能性があるので
一概に作品にとって不幸であるとは言えないのだけれど。

それよりも百年前と現代のインドの風景を活かして
マジックリアリズム的な手法で奇想を効かせたミステリアスな
幻想小説という表現がぴったりかと。

また、怪談好きには後半の無人駅でのエピソードが、鉄道怪談として抜群の怖さで嬉しくなります。
鉄道怪談のアンソロジーとかあったら、ここだけ収録したいくらい。

何にせよ、面白い小説なので、大熊さんには(多分)お勧めできると思います。

http://www.02.246.ne.jp/~pooh


そ、それは 投稿者:土田裕之 投稿日: 4月11日(日)13時36分55秒

大熊さん

>殆ど始発電車で出勤し、辛うじてプロ野球ニュースを見る時間に帰宅していたんですからね。
うひゃあ、それはすさまじいですね。

人って生きている総合計時間は同じでも、
携わる仕事によって、一生の仕事量、趣味時間は異なってしまうというのは感じますね。

「カルカッタ染色体」を読んでいます。


明日は名張人外境大宴会 投稿者:管理人 投稿日: 4月10日(土)21時17分31秒

『「おたく」の精神史』読み中。
読んでいてつくづく思ったのが、私が80年代を「生きていなかった」んだなあということ。
たしかに私は79年に就職したのですが、それから90年代半ば頃までは、仕事以外のことに殆ど関心を持つことができなかったんだなあ、と改めて気がつきました。
そりゃそうです。殆ど始発電車で出勤し、辛うじてプロ野球ニュースを見る時間に帰宅していたんですからね。
私にとって、79年の翌年は95年だったのかも。「ららら科学の子」やね。
私が恩田陸を面白いと思わないのは、「80年代」を未体験だからではないかとふと思ったり。


「戦間期の思想家たち」 投稿者:管理人 投稿日: 4月 9日(金)22時12分54秒

桜井哲夫『「戦間期」の思想家たち レヴィ=ストロース・ブルトン・バタイユ(平凡社新書、04)読了。

二つの世界大戦のはざま、戦間期のパリ――若き日のレヴィ=ストロースやアンドレ・ブルトンやバタイユ、シモーニュ・ヴェイユ、マルロー、サルトル、ボーヴォワールたちの知られざる結びつきと奮闘。政治的彷徨。邂逅と離別のドラマが描かれています。

驚きは、これら20世紀の大思想家たち、知の巨人たちが、若き無名時代、それぞれ顔見知りだったり先輩後輩の間柄だったりする、その世間の「狭さ」です。たとえば教員資格のための教育実習で、レヴィ=ストロースと一緒に実習に参加したのが、ボーヴォワールとメルロ=ポンティだった。ウヘーと思ってしまいますね。

ブルトンとナジャの「事実」は、私のような小説「ナジャ」に思い入れのある者には読みたくなかったような(^^;
しかしナジャがロシア語の「ナジェージダ」(希望)の前半であるという説明が、ブルトンのフィクションであり(ナジャがロシア語に堪能なはずがない)、そのような創作をした理由として、著者はナジェージダがレーニンの妻の名前だったからだという新知見が披露されています。

とりわけ、スヴァーリンのレーニン後のソ連・コミンテルンの現状認識は、著者も言うように、その先見性には目を見張るものがあります(144p)。トロツキーの脆弱さをその西欧性に求めた洞察力も凄い。当時の人が誰も理解できず孤立したというのも宜なるかなです。このスヴァーリンの苦言に腹を立てたトロツキーは、所詮スターリンの敵ではなかったといえましょう。

本書は、今や偶像と化している思想家たちが、その若き日、戦間期のパリで、くっついたり離れたりしていた姿をあからさまに描いていて、小説よりも面白い読み物となっています。


「スペシャリストの帽子」より(20) 投稿者:管理人 投稿日: 4月 8日(木)22時42分37秒

(つづき)
さて、「夢」とは、常に「誰かによって見られた」ところのものでしょう。とすれば本篇の世界もまた、誰かによって見られた「夢」でなければならないのではないでしょうか。

それは本篇の語り手である「僕」ではないでしょうか。
「僕」は、少女探偵の部屋の窓に面した木の枝に体をくくりつけて、少女探偵を見張っています。彼は「たとえ彼女(少女探偵)に頼まれても、降りるつもりはない」と考えていますが、その理由は「世界は危険な場所」「互いを信用しない人たちで満ちている」からだとしています。
この記述から窺えるのは、「僕」が、現実世界に出ていくことに一種怯えを感じている若者であることを暗示しています。「僕」はまだ現実に立ち向かっていく決心が出来ず木の枝にしがみついています。

そして彼がしがみついたまま見ているのは、少女探偵です。
「僕」は、木の上から少女探偵を「見続けて」います。しかしそれは実は、少女探偵を見続けることで、逆に少女探偵の視野から自分自身を外さないようにしているのではないでしょうか。
「いったい少女探偵以外に、誰が僕らを見つけてくれるんだ?」
という文が意味するのは、少女探偵のみが、未熟な自分を見守ってくれている、ということなのでは。

さて、「彼女を見ると僕らは自分の母親を思い出す」と「僕」は言います。
すなわち「僕」のなかで、少女探偵と「僕」の母親は同視されているのです。少女探偵=母親なのです。
だからこそ「いったい少女探偵以外に、誰が僕らを見つけてくれるんだ?」という言葉が出てくるのです。僕を見つけてくれるのは、まさしく(他の誰でもなく)僕の母親以外にはないでしょう。

ところで、少女探偵の母親はずいぶんと前から行方不明で、彼女はずっと母親を捜していることになっています。なぜ少女探偵に母親がいないという設定になっているのか。私は、少女探偵こそが母親であるからだと思うのです。少女探偵が母親ならば、少女探偵が(自分の外を)いくら探し回っても、母親は見つかるはずがありません(夢の論理だと考えて下さい)。

そういうことから、かつて僕は、「君が少女探偵なのだよ」とほのめかされたことがある、と言う謎めいた文は(決して恣意的ではなく)、「少女探偵はもうながいこと母親を捜しつづけている」ことに着目するならば、母親を求めているという意味において、ここでは「僕」と少女探偵は同視されていると私は考えます。少女探偵=僕。

それでは母親=少女探偵=僕なのか? そんなことはありません。これは神話や夢の思考特有の象徴的二元論です。「僕」は母親を捜しつづけているという意味において少女探偵であるし、他方「僕」を見つけてくれる唯一の存在という意味で、少女探偵は母親であるということです。少女探偵は、その立ち位置によって母親であったり僕自身であったりするのです。同時に僕自身であり母親であるわけではありません。作者はきわめて明確に(意図的に)夢の思考を本篇の構造に取り込んでいるわけです。

以上のような意味の構造を、本篇は抱え込んでいるように私には思われたのですが、だからといって、私に結論めいたものがあるわけではありません。そのような構想の元で、本篇が執筆されたのではないかと推測するばかりです。

「目覚めてみると」で、「僕」は、元の木の上に戻っているのですが、果たして彼は本当にアンダーワールドに行ったのでしょうか?
ひょっとして、それは彼が見た夢だったのではないか。タイトル通り、ここに至って、彼は「夢から覚めた」のかも。

その前の章「少女探偵、アンダーワールドに行く」に鍵があるようです。ここで少女探偵は母親に再会したように読めます。本篇は、少女探偵の母親探しの物語でもあったわけですから、物語を推進させる不足は解消され、平衡状態に至った物語はここで終わらなければなりません。夢なら覚めなければなりません。

そうしてラスト「なぜ僕は木から降りたのか」の見事な(?)結末。あるいはこの断章の世界こそ、鏡のこちら側、「現実」なのではないでしょうか。このラスト、意味が見えません。「不思議の国のアリス」のラストと同じなのでしょうか。
(この項、終わり)

以上で、ケリー・リンク『スペシャリストの帽子』金子ゆき子・佐田千織訳(ハヤカワ文庫、04)読了。
いや堪能させてもらいました(^^) 


「スペシャリストの帽子」より(19) 投稿者:管理人 投稿日: 4月 8日(木)22時23分52秒

(つづき)
夢が現実である世界、いわば鏡の向こうの世界のお話である本篇は、また(少女探偵を巡る)掌篇(あるいは断章)の集積としても読め、その意味では山尾悠子の世界に近いものを感じます。山尾悠子ファンにはとても取っつきやすい作品ではないでしょうか。
とりわけ「少女探偵が夕食に食べるもの」の、三番目の夫の夢を見ている女の家の地下室に住む男のエピソードがすばらしい。
「少女探偵からの二、三の質問」の、ラストの1行の乾いた転換も効いています。本集全体にいえることですが、作者の会話文は、機知に富んでいて実にうまい。これは山尾悠子にはない要素。

このように本篇は、夢の世界の不思議なお話を、そのまま楽しめばいいのですが、とは言い条、この謎めいた作品を作者はどう組み上げたのか、その過程を知りたいと思うのが人情。

他ではないこの作者に限って、その小説の叙述がいかに謎めいていたとしても、作者が作品の流れに何の関連もない文を挿入するとは考えられません。その謎めいた一連の文章には、必ず意味があるはずです。たとえば先に挙げた冒頭の引用文です。そういう次第で、本集を読み継いできた読者である私には、この作家が作品に何の関連もない恣意的な文章を書くはずがないという確信があります。同じように謎めいていても恩田陸とは違うのです。

「夢が現実である世界」のお話であると書きましたが、それが証拠に本篇は、私たちが見る夢同様、限られた素材から構成されています。
そのひとつがおとぎ話「十二人の踊る姫君」のモチーフです。このモチーフは、
 1)「タップダンス銀行強盗事件」の十二名の少女銀行強盗。
 2)「太った男の話」のアンダーワールドに降りていった十二名の少女姉妹。
 3)「少女探偵、トイレに行く」の十二名の女。

と3回現れます。これらはもちろん「十二人の踊る姫君」の夢のヴァリアントであり、とりわけ2)と3)は全く同一構造です。

1)において、この十二名の銀行強盗は、金庫室から盗む代わりに、さまざまな物を残します。まさに銀行強盗のあべこべです。
2)太った男は姉妹の後を付けてアンダーワールドに降りていく。姉妹は川を渡り、向こう岸のナイトクラブで踊り明かす。
3)僕と少女探偵は、女たちの後を付けてアンダーワールドに降りていく。川を渡り、向こう岸のナイトクラブで踊り明かす。

2)や3)は、踊るために(地下に)降りていくという「十二人の踊る姫君」のモチーフを踏襲しています。その関連で、上述の地下室の男のエピソードも、「降りていき」留まる「地下室」は一種の「アンダーワールド」とみなせます。
「険しい顔の背の高い女」のイメージも頻出します。赤と金色のバンも。……

このようなイメージの共有によって、作者は本篇の舞台が「夢の論理が作用する世界」であることを強調しているのだと私は思います。
(つづく)


「スペシャリストの帽子」より(18) 投稿者:管理人 投稿日: 4月 5日(月)21時59分8秒

「少女探偵」

いよいよラスト作品。トリに選ばれた本篇は、その意味でも当然ながら作家の自信作なのでしょうが、まさに掉尾を飾るにふさわしい傑作でした。

冒頭、
少女探偵は鏡に映る自分を見つめたの。この少女は違うわ。これはのべつチュ−インガムを噛んでいそうな少女だよ。(407p)

という文が引用されますが、この一文によって、本書の〈少女探偵〉が、いわゆる〈少女探偵ナンシー・ドルー〉そのものではないと設定されます。
どういうことかといいますと、〈少女探偵〉は、〈少女探偵ナンシー・ドルー〉の単なる鏡像ではなく、いわば「鏡のなか」の方の「存在」なのだと、そういうことです。

つまり引用文自体が既にして仕掛けになっているのであって、〈少女探偵〉が見ている(チュ−インガムを噛んでいそうな)鏡のなかの自分こそ、現実の(?)少女探偵ナンシー・ドルーということになるわけです。
本篇の小説世界が、最初から鏡のなかの世界――あべこべの世界――ということは即ち「夢が現実として在る」世界でのお話であることを、まず作者は示しているわけです。

野暮用が出来ましたので、とりあえず今日はここまでといたします。(つづく)


ウルトラQ 投稿者:管理人 投稿日: 4月 5日(月)20時37分4秒

大江さん
いよいよ始まりましたね>公式戦
今年も楽しませてもらえそうで、わくわくしています(^^)

>来週の名張人外境大宴会、是非、参加させて頂きたく思います
よろしくお願いします。大いに盛り上がりましょう!

ところで、巷間(一部?)話題沸騰のウルトラQ、東京では明日スタートのようですが、テレビ大阪の放送日がわかりました。東京より少し遅れて、4月10日スタート(毎週土曜日 深夜2時40分〜3時10分)のようですね。→情報源

いやあ楽しみ!といっていいんでしょうね(^^;ゞ


3タテ 投稿者:大江十二階 投稿日: 4月 4日(日)23時23分50秒

しても、何だか当たり前のような気がしてきました。

お久しぶりです。連絡遅れましたが、来週の名張人外境大宴会、是非、参加させて頂きたく思います。


3連勝 投稿者:管理人 投稿日: 4月 4日(日)22時43分35秒

たって、巨人相手じゃ自慢にもなりませんな(失笑)


「スペシャリストの帽子」より(17) 投稿者:管理人 投稿日: 4月 3日(土)17時45分43秒

(つづき)
これも道具立てが揃っていてぐいぐい読まされます。
と同時に、「私の友人は……」と続けて読むと、作者の弱点も浮かび上がってきたように思われました。
それは根本的な小説の核に、一種「少女趣味」といったものがかなり大きなウェイトを占めているように感じられる点です。

本篇も、根本的に描かれるのは、ルイーズ1自身は気づいてないにせよ、ルイーズ2に対する想い、欲望、あるいはジェラシーなのです。というか、でしかないのです。それゆえアンナの存在はルイーズ1には決して認められないことですし、チェリストたちのなかでも、女のナンバー5に対してだけ、温度差が感じられます。
ルイーズ1が妻帯者としか付き合わないのは、自ら結婚の可能性を封じているわけですし、アンナのベビーシッターを気に入らないのも、彼がルイーズ2に熱を上げているように見えるからです。
追い払ってしまいたかった幽霊を、いつのまにか渡したくないと思ってしまっているのも、ルイーズ2に対する欲望の無意識的シャットアウトの補償作用と考えられます。

そう言う意味で、一種唐突なラストのガールスカウトのキャンプのシーンもよく考えられた配置であることが判ります。つまりルイーズ1にとって、ルイーズ2は和解しないまま死んでしまったので(追悼演奏会のシーンから考えるとルイーズ2は死んでなおルイーズ1を赦していないようです)、ルイーズ1にとってすべての始まりであった、かのシーンが折に触れて想起されるのはきわめて当然だからです。

かくのごとく本篇は、その華麗な幻想性を取り払ってしまったとき、読者の目に露わにされるのは、小説の枠組みのいかにもアメリカ現代文学的な、(あるいは文学少女的な)「通俗性」なのです。
しかも本篇(と「私の友人は……」)は、本集のなかではもっとも執筆された時期が新しい作品(巻末の初出情報による)というわけで、いささか今後の展開に危惧を覚えないでもないところ。しかしまあ。作者の若さ(33才)を考えたら当然かも。エムシュウィラーの例からすれば、むしろこれから面白くなっていく作家なのかも知れません。
(この項、終)
編集済


「スペシャリストの帽子」より(16) 投稿者:管理人 投稿日: 4月 3日(土)17時44分46秒

「ルイーズのゴースト」

主人公ルイーズとルイーズはちっちゃな時、ガールスカウトのキャンプからの親友。(便宜上主人公のルイーズをルイーズ1,親友のルイーズをルイーズ2とします)
ルイーズ1は現在旅行会社勤務で老女専門のツアーを企画している。ルイーズ2はオーケストラの広報担当で、アンナという娘がいる。
アンナは緑色に執着する子で、着るものも食べるものも緑色の物しか受け入れない。緑色でない食物は母親のルイーズ2が色粉で着色しなければならない。また、アンナは自分がアンナになる前は犬だったと主張している。アンナとルイーズ1は気が合わない。

ルイーズ2は独り寝が出来ない質で、オーケストラの8人のチェリスト(男7,女1)を順番にベッドに引き入れている。現在はナンバー8がお相手でかなり気に入っている様子。ルイーズ1はナンバー1から7までのすべてのベッドでのマナーを知悉しているが、個々の1から8を具体的に知っているわけではない。ルイーズ2から訊いて知っているだけ。
アンナはチェリストたちのいずれかの子ではなく、それ以前の男とのあいだの子。
ルイーズ1も既婚者の男と付き合っている。

ルイーズ1の家に幽霊が住み着く。最初気味悪がって、いろいろ退散させようとするが、カントリーミュージックを好むことが判り、ルイーズ1は共有するものを感じ始める。
しかしルイーズ2に話したことから、チェリストたちにそのことが知れ、彼らはルイーズ1の家にやってくる。楽器に幽霊を住まわせると、音が素晴らしくなるというのだ。チェリストたちは演奏を開始する。ルイーズ1はチェロの音が幽霊に届かないよう、ポータブルプレイヤーを幽霊の隠れている場所に設置し、カントリーのCDをエンドレスでかける。
しかし幽霊はチェロの音に誘い出され、一人のチェロのなかに潜り込んでしまう。

チェリストたちは引き上げ、ルイーズ2も帰るが、一人の若いチェリストは残る。その夜、ルイーズ1はそのチェリストと寝る。が翌日、彼の体にルイーズ2のにおいをかぎ取り、彼がナンバー8であることを知る。
そのことでルイーズ1とルイーズ2は絶交状態になるが、ルイーズ2が事故で死んでしまう。遺言でアンナを引き取らねばならなくなる。がアンナは馴染まず、自ら父親と暮らしたいと申し立て、父親(もちろん妻子がある)が引き取られる。

ルイーズ2の追悼演奏会が開かれることになる。ルイーズも出席する。幽霊が憑いたチェロからは、件の幽霊がもやもやっと動き回っているのが見える。
ルイーズ1は女のチェリスト(ナンバー5)を見る。「どうしてあなたが相手だったの」/とルイーズは思う。

ナンバー5の隣のチェリストのチェロに何かが見える。ルイーズ1は目を凝らす。そこには……
(つづく)


「スペシャリストの帽子」より(15) 投稿者:管理人 投稿日: 4月 1日(木)22時04分42秒

「私の友人はたいてい三分の二が水でできている」

これはごくふつうの現代アメリカ文学という感じ。それ以下でもそれ以上でもない。
悪くはないんだけれど、謎めいた「靴と結婚」を読んだ後では、いささか薄味感が否めません。コルトレーンがストレートにバラードを吹いているような感じか。

うわ、あと2篇しか残ってない! ゆっくり読もう(^^;


「スペシャリストの帽子」より(14) 投稿者:管理人 投稿日: 4月 1日(木)21時04分32秒

「靴と結婚」

これは山尾悠子風ファンタシーといえるのではないでしょうか。
短い(とても奇妙な)話が四つ並んでいます。この四篇で「ひとつの物語」なのでしょうか。それともそれぞれが独立した話なのでしょうか。
その辺が初読では見極めがつきませんでした。で再読し、この四話は、「靴」と「結婚」というテーマは共有しているにせよ、とりあえず独立した話だと考えるほうがいいのではないかと判断しました。ゆるやかに連関しあいながらも、しかし独立したごく短い話が四つ。しかもこの四篇ともに、この世界の因果律では了解不能な、実に不可解な物語なのでした。
その不可解さ、奇妙さはどこから来るのかといえば、それはかなり明らかで、これらはまさに夢の論理によってつらぬかれた物語だから、といえるのではないかと思われます。山尾悠子風と感じた所以です。

一話、「ガラスの靴」は、シンデレラのモチーフのヴァリアント。
彼は以前舞踏会で踊った少女を捜している。少女は時計が12時を打つと、ガラスの靴の片方を残して去っていき、二度と見つからない。
彼はその靴を持ってほうぼう探し回っているが、その靴にあった足を持つ少女には出会わない。その過程で、彼はある家でその家の娘たちに靴を合わしてみせ、さらに台所の暖炉掃除で煤だらけの下働きの少女にも履かせてみる。彼女は足がとても大きかった。

「靴のサイズはいくつ?」と彼は訊いた。彼女の足はとても大きかった。/「私をどんな女の子だとお思いなの?」と彼女は言った。その声はまるで彼を叱りつけているみたいだった。彼が顔を上げると、彼女の顔はとても美しかった。

ということで、彼はこの煤だらけの娘と結婚する。彼は妻を非常に愛しており、幸せだ。
しかし、ガラスの靴に合う足の探索は続いており、妻との結婚の9年後、彼はエミりー・アップルという娘に靴を履かせてみる。

「ぴったりだわ」と彼女は言う。彼がなにも言わないと、彼女は訊く。/「私たち、これからどうするの?」/「私をどんな女の子だとお思いなの?」すすだらけの女の子(彼の妻)はそう言った。/彼はベッドに座る少女に言った。「靴を脱いで。そうすればまた履かせられるから」

二話、「ミス・カンザスの最後の審判の日」は、新婚カップルの妻が話者。彼女が見るのはまさに夢の美人コンテスト。

私たちは美人コンテストを観て(夢に見て)いる。

私たちはハネムーンでこのホテルに滞在している(なぜここにいるのか、どういう経緯でここにいるのかは判らない)。そしてホテルでは美人コンテストが行われている。彼らの前でコンテストが繰り広げられる。それはどう考えても、この因果空間の美人コンテストではあり得ない。
ミス・ニュージャージーは自分の付添人を食べたらしい。彼女がほほえむと鋭い歯が見えるし、尻尾がある。
ミス・コロラドは本当は男(のよう)だ。
ミス・ネヴァタは宇宙人に何度となく誘拐された。
ミス・モンタナは放火犯で、ミス・ロードアイランドは泳ぎがうまいが、足がやたらとたくさんあるように見える。などなど、奇怪な美人たちが描写される。
私たちが見ている間、夫はずっと私の足をつかんでいる。私も放さないでと思う。

三話 「独裁者の妻」
独裁者の妻は、靴博物館でベッドの中で暮らしている。独裁者の妻は、彼女の結婚式の当日、独裁者に見初められ、独裁者に婚約者と父、母、兄を殺され、結婚を承諾する。
母が殺されたとき落とした「片方の靴」を拾ったのを皮切りに、独裁者が殺した人々の靴を収集しはじめる。
独裁者が死んだとき、彼女は妹と共に国を逃れ、ここ靴博物館に身を落ち着ける。持ってきた荷物は全て収集した靴、靴、靴。

彼女が入館者に話し終えると、妹が(靴博物館の管理人らしい)閉館を告げる。「ハッピーエンドの映画が三時から上演でね。あれを見ようと思ってるの」
そして妹は、履いているサンダルからぽんと車輪を飛び出させ、通路を滑り去る。

四話 「ハッピーエンド」
男と女は、まもなく結婚する。彼らは裸足で、靴がテーブルに乗っている。靴占い師がその靴で彼らの未来を占う。それはバラ色の未来。……


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