【掲示板】


ヘリコニア談話室ログ(2004年10月)


「綺譚集」 投稿者:管理人 投稿日:10月31日(日)19時27分50秒

津原泰水「綺譚集」(集英社、04)読了。

これはとてつもないレベルの傑作! これほどの水準に達することができるのは、現役ばりばりの作家では他に車谷長吉ぐらいしか思い浮かびません。
だからといって、純文学に収まりきらないのは、中井英夫同様。いわば或る(本読みの)ユートピアの住人のためのエンターテインメント小説といえるかも。いやあ堪能しました。面白いです、酔えます!あなたがそのユートピアの住人ならば屹度!


乱調文学大辞典 投稿者:管理人 投稿日:10月29日(金)19時20分4秒

購入。文庫50円均一、単行本80%オフだったので!
また読みもしない本をいっぱい買ってしまいました、、、

見田宗介「現代社会の理論」(岩波新書、96)読了。
10年前の本ですが、これは必読ですよ。おまえに言われなくても読んでいるって?しつれーしました(^^;


バソコンが 投稿者:管理人 投稿日:10月27日(水)18時59分45秒

壊れたので、しばらく更新できません。
メールも昨日の18時までしかみていません。以降に送って頂いた分はみれてませんので悪しからず。
ここはケータイからみれますので何かありましたら、ここで呼んでください。ではでは。


南湖さんの同人誌 投稿者:管理人 投稿日:10月24日(日)14時12分28秒

私の駄文がどうやら載せてもらえるようです(^^;→台割


RE:新刊あれこれ 投稿者:管理人 投稿日:10月24日(日)12時23分55秒

土田さん
>河出のベスターが出ました
やあ、出ましたか(汗)
ベスターは本来短篇から入った方がいいと思うんですよね。短篇のソフィスティケートされた作風は、長篇のあの迫撃砲を食らった後では、物足りなく感じてしまうかも。コルトレーンとファラオサンダースの吹き合いの直後に繊細なジャズピアノを聞くようなものでしょうか(^^;。

>巻末には続刊予告がありまして
>ヘンダースンやデイヴィッドスン、特に嬉しいヤングの名前があります
話は飛びますが、おこづかいの関係で、国書と河出と晶文社は談合して同じ月にかたまらないようにしてほしいです(^^;ゞ。読者は共通固定だと思うので(Jコレが中断するのは、読者をそっちへ取られたからではないかと密かに思っています。やっぱり向こうが粒よりの名作力作を並べてきてるんだから、それなりに対抗できるラインナップを組まなきゃねえ。まあ息を潜めて嵐をやり過ごす手かも知れませんが、情けないっちゃあ情けない)。

そんなよしなしごとを思ったりするのは、特に今月から来月は(あ、12月もか)飲み会関係が目白押しで、おこづかいの残額を気にしながら生活しているからなのですが、きのう息子に「足らんから貸して」といわれてしまった。これは断るわけにはいきません。いや俺もないんや、とはいえませんからね(ーー; 「いくらや?」「フムそれでは足らんやろ」と(表面上は)気前よく渡してしまうわけでありまして……かといって返しに来た試しがないのが何だかなあ、なんですが、催促するのも沽券に関わりますしね。いやマイッタマイッタ、、、
#その息子は、早朝から飛び出していきました・・;
編集済


新刊あれこれ 投稿者:土田裕之 投稿日:10月23日(土)23時52分52秒

大熊さん

河出のベスターが出ました。
大好きな作家なのですごく嬉しいのですが、
それと別に巻末には続刊予告がありまして
ヘンダースンやデイヴィッドスン、特に嬉しいヤングの名前があります。

『SF』として刊行されないのだけがちょっと不満ですけれど。

それはそうと復刊はウィリアム・テンが仰天しました。
手持ちがあまり綺麗じゃないので読むために買おうか思案中。

国書刊行会はまずワトスンですか。
あいにく「マーシャンインカ」しか読んでませんが、大熊さん向きの作家ですよね。

http://www.02.246.ne.jp/~pooh


RE:百姓にいじめられた 投稿者:管理人 投稿日:10月23日(土)21時32分55秒

石川誠壱さん
>筒井康隆『乱調文学大辞典』の一節に、
>その視点から各作家を分類した例がありましたね
おや、そうでしたか。全然覚えてないです。てか中学で読んだので、たぶん理解の埒外で右から左だったんでしょうきっと。
ちょっと読み返してみようかな。この本友人に借りて読んだので持ってないんです。ブックオフにありますよね。
でも――
>百姓にいじめられた
てのは、なんとなく記憶が甦ってきました(疑似記憶かも(^^;)
編集済


焼け跡原っぱ派 投稿者:管理人 投稿日:10月23日(土)14時48分15秒

石川誠壱さん
訂正ありがとうございました。
そうでした「外地引揚派」でした五木は。五木と野坂は私のなかでセットになっており二人で一つという感じで、何となく五木も「焼跡闇市派」に無意識に分類してしまっていました。失礼しました。

石川さんのご投稿に触発されて、次のような感慨が去来しました。
それは「戦争」ではなく「戦後」に強く捕捉された作家たちにあって、「戦後」のどの状況どの断面に捕捉されたかは、当然ですが各人各様だったのだなということです。

五木の「外地引揚体験」、野坂の「焼跡闇市体験」にたいして、さしづめ眉村さんは「焼跡原っぱ派」といえるのではないでしょうか。
これが単なる「原っぱ派」ですと、1世代前の(というほどは離れてませんが)北杜夫を差すわけで、ややこしくなるのですが、青山脳病院の原っぱで恵まれた幼少期を過ごした北少年と、一面焼け野原で出来た原っぱで空腹をかかえて彷徨した(その辺の事情は「夕焼けの回転木馬」において印象的に描かれています)眉村少年とでは、やはりその文学の質は違うものがあり、そういう部分を読み比べるのは、読むことの悦楽の一つではありますね。
編集済


「虚無」という美酒に酔って 投稿者:管理人 投稿日:10月22日(金)20時39分18秒

「新刊展望」11月号に、『凶鳥の黒影』刊行を記念して、寄稿者の皆川博子、津原泰水各氏による対談(実は監修者の本多正一さんも加わった鼎談)《「虚無」という美酒に酔って》が掲載されています。中井英夫をめぐってキラキラきらめくような会話が交わされていて読み応え十分。ぜひご一読下さい。

そのなかで「風俗をアートに変える小説」という章立てがされているのですが、この章題は至言ですね。
先日読み返した「幻想博物館」の解説で、澁澤龍彦が「石川淳の匂い」と書いていることに、今更ながら気づいて、あっと思ったのですが、雑駁とした汚辱に満ちた現実社会そのものを素材にしながら、中井の小説が、天文学のように整然とした数学的美を放散させる方法論は、たしかに石川淳を受け継ぎ、昇華させたものかも知れません。
中井英夫の小説は、私には精巧に作られた入れ子細工という印象が強いです。順々に中から箱を取りだしていくと、最後は何もないのです(^^;。

本多さんが下記の発言をされていますが、『凶鳥の黒影』の鶴見俊輔の序文は、私も強い印象を受けました。

 ――鶴見俊輔さんが序文で「この実在は可能性の中の、ひとつの可能性。そういう感覚が、中井英夫の残した作品にはある」と書いてくださいました。中井さんや鶴見さんの世代には戦争の体験も大きいのだと感じますし、また少し年長の埴谷雄高さんにも共通する感覚ですが、自分の存在が非常に不確かで、現実というものに対して違和感を抱きつつ、でも生きることを選択していく。そういうアンビバレンツな思いの果てに現れた作家なのかなという気がします。

眉村さんの『夕焼けの回転木馬』がまさにそういう話で(眉村さんはこの作品の中で、自らの出自を《焼跡派》と書かれていますが野坂五木とは違って第1次戦後派により近い印象が強い)、そういう「今ある現実」に違和感を抱きつつ生きてきた作家が、あり得たかも知れない別の自分への大きな分岐点であった戦前戦後期と小説家となる直前のサラリーマン時代に立ち返って当時の自分と向き合い、おそらくトラウマの解消をもくろんだと思しき異様な傑作でした。
中井さんと眉村さんは10年程度年齢が離れていて、一世代違うので、その捉え方はやはり少し違うのかも知れませんが、不思議な暗合を覚えました。これは「虚無」を早く読めという天の声なのかな(汗)。


同期会前夜祭 投稿者:管理人 投稿日:10月21日(木)20時01分0秒

きのう書いた高校同期会の前夜祭が、来週火曜(26日)に急遽決まった(^^;ゞ。
といっても私が所属していたバドミントン部の同級生3名で、です。
あの子やこの子が来ることを想定した綿密な作戦を練る予定(汗)


同窓会 投稿者:管理人 投稿日:10月20日(水)22時08分54秒

ひっぱりますが「物語消滅論」、どこにも物語が消滅するなんて書かれてないんですよね(^^;
むしろ「物語」(説話的因果律)が過剰に現実を覆い始めていることを心配しているわけです。
だからタイトルは「逆説」なんです。

さて、先週末は大学時代の有志による同窓会がありました。結局12名集まり、女性が9名男性3名というわたし的には近来にない宴会となりました。

吉在門の本店で、おまかせコースというのでお願いしたら、これがおいしくて量もあってとてもよかった。最後の鯛飯はほとんど残してしまいました。あとで気が付いたんだけど折り詰めにしてもらえばよかった。女性陣にも好評でお褒めの言葉を頂き、幹事のしがいがありました(^^)

半分以上が25年ぶりだったんだけれども、案外顔は変わってなかったです。すぐに判別できましたね(^^;。これが高校や中学の同窓会だとあまりの面変わりに絶句する事態もあったりするんですが、やはり大学生となると顔も現在のそれとほとんど変わらないということなんでしょうね。

それにしても、これだけ女性上位だとほんとに「やかましい!」、というか「かしましい!!」 女の人はよう喋りはりますな(^^;。
実は来月は高校の同窓会が控えていて、こちらは正式なやつなんで何期生だったか忘れましたが、ホテルでの立食パーティ形式ということで、あの子が来るんじゃないか、この子も来るんでは、とかなり期待しており、その日にそなえてカラオケの練習をしておこうと、2次会はカラオケを目論んでいたのですがあっさり却下されてしまいました。しゃべる方がいいんだそうで(ーー;。
しかしまあ、久しぶりに会って喋るのは楽しかったです。
来月は楽しみです(^^;ゞ


「物語消滅論」読了 投稿者:管理人 投稿日:10月18日(月)21時28分22秒

チャチャヤン気分に掲載しました。一連の大塚論考の当面の集大成です。


「物語消滅論」 投稿者:管理人 投稿日:10月15日(金)20時11分13秒

読み始めました。や、ついに著者の本音が(^^;
編集済


『フェッセンデンの宇宙』 投稿者:管理人 投稿日:10月14日(木)22時49分25秒

チャチャヤン気分に掲載しました。


春がいっぱい 投稿者:管理人 投稿日:10月14日(木)19時19分8秒

臼田さん
「花のささやき」ってのは知らないのです。で、検索してみました。→続・僕たちの洋楽ヒット
げげ、65〜66年の曲ではないですか! さすがにその頃は小学生で、せいぜいグループサウンズを聞いていた(見ていた?)くらいですね。いやGSもまだかも。
この「続・僕たちの洋楽ヒット」、ツタヤにあったら借りてみます。「続」はなかったかも。

>また、一杯飲んでゆっくりやりましょう
ぜひぜひ、今度の例会でひとつ、と書いてから、ふと気になっていま調べたら、あちゃー別件の飲み会が・・・(汗)
しまった、ダブルブッキングでした。別件は久しぶりの大学の同窓会なので、申し訳ありませんが今月の例会は欠席とさせていただきますm(__)m
ただし集合場所・時間が同じ(てか幹事が私なので、必然的にここになってしまうのでした(^^;)なので、近くに突っ立っていると思いますが、無視して下さいませ(^^;ゞ

ところでポップスとロックの違いはなんだろうか、と考えていました。具体的にはスリー・ドッグ・ナイトはポップスなのかロックなのか、ということですね。あるいはビートルズは?
で考えた結論ですが、ロックはLPで勝負できる。ポップスはあくまで単品のシングル盤勝負であり、LPで数十分保たせる力はない。といえるのではないか。
そういう観点で言えば、スリー・ドッグ・ナイトはポップスであり、ビートルズはロックである。とそういえるのではないでしょうか。
しかしこの伝で言うと、S&Gはロックになってしまうのですけど、それもなんだか違うような気がしますね。うーむ。


花のささやき 投稿者:臼田惣介 投稿日:10月13日(水)23時39分50秒

音楽談義楽しいですね。また、一杯飲んでゆっくりやりましょう。
ポップスが印象に残るのはやっぱり60年代まで。
チンクェッティも良いけど、私はウイルマ・ゴイク「花のささやき」
がお気に入りでしたね。・・・そんな時代もありました。


回想装置としてのポップス 投稿者:管理人 投稿日:10月13日(水)20時27分19秒

アレクすてさん
矢野徹さんの訃報、驚きました。リンクのSF作家クラブのページには生年が記されていませんね。矢野さんは確か大正12年生まれだったはず(第1世代作家の生年等のプロフィールはすべて頭に入っています)。そうしますと、お年は81歳。事故やご病気などではなく天寿を全うされたのなら、それはそれでめでたいことだと思います。なにはともあれご冥福をお祈りいたします。

>僕たちの洋楽ヒット
アレクすてさんには何度かお話ししたことがあるかと思うのですが、勤めはじめてからの10数年間である80年代から90年代にかけては、まさに「失われた時代」でありまして、それはSF同様、洋楽に於いても然りなわけで、列挙の曲目の大半を知りません(もちろん聞いたら「ああこれか」と思うでしょうけど)。唯一名前を見知っている「カーマは気まぐれ」にしたところで、70年代初頭のポップスのように、名前を聞くとただちにその音楽が頭の中に鳴り響く、というようには参らないのですね。

>80年代は、音楽が映像と共に流通していく時代だったのですね
70年代初頭のNHKのヤングミュージックショーやテレビ大阪のポップスインピクチャーは、そのハシリですね。リック・ウェイクマンにしろイアン・ギランにしろ、ルックス的にはキチャナイオッサンですよ彼らは。たいがいのニューロックバンドは汚いオッサンのバンドだったわけですが、そんなオッサンに観客は熱狂したんです。70年代は「顔じゃねえよ、腕だよ」だったのが、映像化と共に「絵的」でなくてはならなくなっていきます。カルチャークラブやデュランデュランの時代がやってきます。80年代です。考えてみれば「現在」は、80年代に始まった(きざした)のかも知れませんね。

>自分はポップスが好きなんだ、ロックや前衛音楽より好きなんだ
そこが私とアレクすてさんのちがうところかも(^^; もちろんそれが良いとか悪いとかではありませんよ(為念)。人それぞれです(^^;ゞ
私の場合は、端的にポップスは1通過点でしかなく、結局のところ聞いていた当時の時代の記憶とセットになって、はじめて楽しめるものであるようです(^^;
編集済


「カムイの剣」や「デューン/砂の惑星」の翻訳で有名な 投稿者:アレクすて 投稿日:10月13日(水)15時42分53秒

矢野徹さんが、お亡くなりになられました…。
ご冥福をお祈りいたします。


http://www.sfwj.or.jp/member/YANO-TETSU.html


[ 投稿者:アレクすて 投稿日:10月13日(水)15時41分2秒

http://www.sfwj.or.jp/member/YANO-TETSU.html


「僕たちの洋楽ヒット」と聞くと… 投稿者:アレクすて 投稿日:10月13日(水)01時27分37秒

こんばんは。ご無沙汰いたしております<m(__)m>
(季節の変わり目で、洋服に無頓着な自分は
風邪をひいて寝込んでおりました…(汗)
大熊さんのおっしゃる「僕たちの洋楽ヒット」は自分も
「 Vol.14 1982~83」
「 Vol.15 1983~84」
をもっております。
で聞くとわかるのはポップスですから時代をいやおうなく反映してる
ということですね。
そして、この曲たちの特徴として「MTV」などのプロモーションビデオ
とこみでお茶の間に入ってきたこと、
映画のサントラなどが多いことがあげられます。

たとえばVol.14 の選曲ですが
1.グロリア(ローラ・ブラニガン)
2.ガール・ライク・ユー(フォリナー)
3.愛の残り火(ヒューマン・リーグ)
4.マンイーター(ダリル・ホール&ジョン・オーツ)
5.ロザーナ(TOTO)
6.ノックは夜中に(メン・アット・ワーク)
7.ソー・マッチ・イン・ラヴ(ティモシー・B.シュミット)
8.汚れた英雄(Rinding High)(ローズマリー・バトラー)
9.汚れなき愛(ソフト・セル)
10.ホールド・ミー(フリートウッド・マック)
11.カーマは気まぐれ(カルチャー・クラブ)
12.ファー・フロム・オーヴァー(フランク・スタローン)
13.君はTOO SHY(カジャグーグー)
14.里見八犬伝(ジョン・オバニオン)
15.ミスター・ロボット(スティクス)
16.君に想いを(スティーヴン・ビショップ)
17.カモン・アイリーン(ディキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ)
18.ロンリー・ハート(イエス)

8の「汚れた英雄」、14の「里美八犬伝」は角川映画、
11の「カーマは気まぐれ」、13の「君はTOO SHY」
15.ミスター・ロボット(スティクス)などは洋楽ビデオの紹介番組、
「MTV」や「小林克也のベスト・ヒット・USA」などで
耳にたこができるほど聞かされた記憶があります。
80年代は、音楽が映像と共に流通していく時代だったのですね。
曲も(使いたくない言葉ですが)バブル期を象徴して
なにやら賑やかでおかずの多い曲が多い気がします。
(とはいえ、ロック、ポップスでビジュアル面を強調するのは
元祖ロックンロールのプレスリー、ポップでくくるのには無理がある
「ビートルズ」、ロックにシュールリアリスムや世紀末音楽の手法を
ガンガン取り入れていったデビッド・ボウイなど昔からあったわけですが
それが大衆化し、商業として定着したのが80年代ということなのでしょうね。)
そして、このCDを聞いた感想をいうと、
自分はポップスが好きなんだ、ロックや前衛音楽より好きなんだ、
ということが再確認できました。
つまらない意見で、お目汚しをしてごめんなさい、
では、失礼いたします<m(__)m>


「僕たちの洋楽ヒット」 投稿者:管理人 投稿日:10月12日(火)20時46分45秒

シルヴィ・バルタン(とジョアン・ジルベルト)を返却してふと見ると、「僕たちの洋楽ヒット1965−1984」というシリーズが・・・
以前、洋楽の年代別セレクションはないのか、と書きましたが、まさにこれがそのものずばり(^^)
実はいつも利用していたツタヤより家に近いところに新しいツタヤが出来て、上記シルヴィ・バルタンはその新しい店での初利用だったのです。店が変われば品揃えが変わるようですね。

とりあえずVOL3(1968〜1970)とVOL4(1970〜1971)を借りてみました。

で、まずVOL3ですが、おお、と思ったのは、
2)キサナドゥーの伝説/デイブ・ディー・グループ
 は、私はむしろジャガーズのカバーの方がしっくりきます。
3)恋は水色/クロディーヌ・ロンジェ
 は、ヴィッキーでなじんでいる。そのあとポール・モーリア。
4)西暦2525年/ゼーガーとエヴァンス
 もよく知っている曲だけど、同時代では聞いてないですね。大体この辺(1968頃)はまだ深夜ラジオ未体験で、ラジオは南海ホークスの中継を聞くためにベッドの横にあった。
5)雪が降る/アダモ
 これはラジオでよりテレビで知っている。テレビの歌謡番組で日本語バージョンをよく聞きました。
8)男の世界/ジェリー・ウォレス
 でた! ようやくラジオでよく聞いた曲が出ました。周知のようにマンダムのCM曲。
9)雨/ジリオラ・チンクェッティ
 このあたりはもろ同時代です(^^)
12)スピニング・ホィール/BS&T
 シカゴに先立つブラスロック。この曲は好きだけど、あとは通俗化してよくない。
21)イエロー・リヴァー/クリスティ
 なつかしい。

と、こんなもん。どうも69年半ばくらいから洋楽ポップスを意識し始めたみたいです。
ちなみに69年は「赤ずきんちゃん気をつけて」が芥川賞をとった年。

つづいてVOL4(1970〜1971)、こっちはもろストライクゾーン(^^;
2)魔法/ルー・クリスティ
3)ブラック・マジック・ウーマン/サンタナ
5)霧の中の二人/マシュマカーン
 マッシュマッカーンでは? 眉村さんはそう発音していたと思う>チャチャヤン。
6)つばめのように/ジリオラ・チンクェッティ
9)ローズ・ガーデン/リン・アンダーソン
10)京都の恋/ベンチャーズ
 どうせなら渚夕子で聞きたかった。
13)悲しき鉄道員/ショッキング・ブルー
14)ナット・ロッカー/EL&P
15)ノックは3回/トニー・オーランド&ドーン
16)ミー・アンド・ボビー・マギー/ジャニス・ジョプリン
18)ナオミの夢/ヘドバとダビデ
19)青春に乾杯/ミッシェル・デルペッシュ
 おお、完全に忘却していました(^^;
20)黒い炎/チェイス
 原題ゲットイットオン。同題のTレックス曲とで、友人と頓珍漢な会話をした話は何度もしましたね(^^;ゞ

いや、懐かしかった(^^) 次はVOL5を借りてこよう、と思うんですが、70年、71年でたぶん私の洋楽ポップス熱は山を越して、以降は本格的なロックをLPで聞くようになって、軽い洋楽ポップスを馬鹿にしだすんですよね(汗)。それも数年(74、75年あたり)でジャズに移っていくのです。
中学、高校時代というのは、ものすごいスピードで耳が進化していくんですよねえ(本もそうだけど)。今やもう・・・(以下略)
編集済


中村ハミルトン、読み中 投稿者:管理人 投稿日:10月11日(月)18時40分8秒

さくさく読みすすんで、残り2篇。いやあ、いいですねえ(^^) この本は、まじ私の原点かも。
日本では(本国でも?)野田ハミルトンのイメージが強烈なんですが、野田ハミルトンは(おそらく)ハミルトン氏の「お仕事」なのであって、本来は本書の諸篇のような作品が作者の書きたかったものに違いありません。
中村さんは言外に(あとがきでちょっと書かれていますが)というよりも、本書の構成そのもので「これが本当のハミルトンなんだよ」と、そう主張されているように感じました。
とにかく古き良きサイエンス・フィクションの匂いがプンプン漂っていてとても良い本です。古き良きとは言い丈、この作風は今でも十分通用しますよ。
ハミルトンのこういう愛すべき小品群、もっと読みたいなあ。

数年前も何かに使われていたと記憶するのですが、最近、またCMで「あなたのとりこ」が流れてくるので、ツタヤで借りてきました。→ザ・ベスト・オブ・シルヴィ・バルタン
いやあらためて聞き惚れてしまいました。こんな実力派だったのか。
上記タイトルはもちろんですが、いい曲がいっぱいですね。もちろん全て知っている曲なんですが、たいていラジオなので、ちゃんとしたステレオの装置で聞いたことがなかったんですね。
「あなたのとりこ」以前は、アイドル系の歌い方なんだけど(とはいえ「アイドルを探せ」はグッド)、以降は声自体が変わってしまったように実力派の風格があります。「あなたのとりこ」は有名な(顔面に傷を負った)交通事故後のカムバック作品らしいので、アイドル路線からの離脱がうまくいったということでしょうか。
それにバックのアレンジが、当然ですがフレンチポップスっぽくて、ちょっと日本の歌謡曲と違います。やはりクラシックのバックボーンがアレンジににじみ出ています。バイオリンの弦をつま弾く弾き方をなんというのか知りませんが、そういう奏法も効果的に用いられている。歌謡曲でそんな奏法をしているのは、たぶん聞いたことがないと思います。
とりわけ「悲しみのシンフォニー」が素晴らしい。いうまでもなくモーツァルトの40番のあの曲ですが、これはたしかにAMラジオでは良さが判らないですね。
編集済


奇コレの中村ベスター 投稿者:管理人 投稿日:10月10日(日)13時15分30秒

やや、ベスターが早くもbk1に。→「願い星、叶い星」
ベスターって、短篇と長篇ではまるで別人で、長篇の(平井和正や眉村卓が影響を受けた)〈情念の作家〉のイメージで短篇に取りかかるとえらい肩すかしを食いますね。短篇はむしろ「SF文化爛熟のきわみ」ともいうべきソフィスティケーテッドな作風で、前衛からモダンまでこなすジャズ演奏なんですよね。→『ピー・アイ・マン』の感想
恥ずかしながら高校時代、「ぼくは屹度ピー・アイ・マンになるんだ!」と決心したことがありました(^^; そのお陰で、いまでもベストセラーは読まない(読めない)とか、その片鱗が残っています(^^;
待望の新作が10月下旬刊というわけで、とても楽しみ! しかしその前に中村ハミルトンを片づけておかないとな。
編集済


「トランス=アトランティック」読了 投稿者:管理人 投稿日:10月 9日(土)19時01分25秒

決闘時のハプニングで仲直りした、オカマと美少年の父親。仲直りを祝して、オカマが美少年父子とゴンブロを郊外の別荘に招く。そこはあらゆる贅が凝らされ、贅どうしが互いに反発しあって頭が痛くなる。飼われている動物は、雑種も雑種、「牡犬が雌猫だか牝狼だかや、鵞鳥の雌と番っていたり、雌鼠にぞっこんいれあげていたり、牝犬は牝犬でハムスターを迎え入れたり雄猫と川獺だったり、雄鼠と牝牛だったり」で、それらもまた反発しあって大変な騒々しさ。

そこでゴンブロは良心の呵責に絶えかねて、父親に決闘のカラクリを告白してしまい……父親はされば息子が物笑いになる前に、と息子を自らの手で殺害することを決意する。一方オカマは息子の手で父親を殺させようと、なにやら面妖なバカボコの術を施さんとする。

そのとき早く彼のとき遅く、あっけなくも敗戦した故国の情報に、ブエノスアイレスのポーランド人社会は激高したのかどうなのか、公使を先頭にオカマの別荘へ乱入。もはや何が何だかわからない。ドタバタのハチャメチャに突入して上を下への大騒ぎのなか、ついにバカボコの術が功を奏さんとしたそのとき、突如笑いの発作が大爆発、またたく間に笑いは笑いへと伝染し、笑いの大合唱のなか物語はめでたく大団円するのであります(^^;ゞ

一体これはなんだろうか。
まず在外留民の特殊な閉鎖社会に、本国の戦争がいかなる影響を及ぼしたかが考察されているのだと思われます。
そしてその事態によって、(当然ながら非常事態です)必然的に惹起される「祖国」意識が考察され、「祖国」に対置される「孫国」が提出されます(「ん」があるかないかで180度意味が転倒するこの訳語の選択に、翻訳者のセンスが光ります)。
ここでゴンブロは「祖国」を契機として構成する諸要素を摘出している。美少年の父親の退役軍人の男らしさはその典型的な一例で、対置されるオカマは(ポーランド人ではないにしろ)まさに反「祖国」的存在であるのは明らかです。美少年は「祖国」の庇護のもと馴致更生されるべきなのか、くそったれなオカマによって「祖国」から解放される(それは一面で悪の道に落ちること)べきなのか、しかしゴンブロは、そこで判断をためらっているように見えます。これは「祖国」に帰れば貴族であるゴンブロ自身の問題でもあるからです。それゆえラストはずいぶん甘いというか、判断留保なのではないかと思いました。思うに、本国で正統的な教育を受けたのであろう彼のなかにある「祖国」は、彼自身が考える以上に重いものがあったのでしょう。

このほかに、本国の戦争に対してある種「他人事」的な当事者意識を欠く在外留民小社会がみごとに活写(といっても戯画的にですが)されていて、作者の観察眼の鋭さ(と思索の強さ)にあらためて感心
した次第。
これ以外にもいろいろな読みが考えられます。その意味で薄い長篇ながらその内部には分厚い奥行きがあります。おそらく再読すればするほどいろいろ感じさせてくれるはずで、また読み返してみたいと思います。


「トランス=アトランティック」(2) 投稿者:管理人 投稿日:10月 8日(金)20時25分11秒

>「ケルベロス第五の首」やっと読み終えました
お疲れさまでした(^^;
第2部と第3部は、第1部のために存在する従属的性格のものなので、自立した作品は第1部だけなんですね。つまり第1部を説明するためにのみ存在理由があるものといえるようです。
したがって第3部まで読み終わったら、第1部へ戻らなくてはならないのです。つまりこの本は、第3部の終わりにダ・カーポ(D.C.)、第1部の終わりにフィーネ(Fine)がなくてはいけないのに、それが脱落していると考えたらいいのではないかと思います。
そうしますと、第1部へ戻るのは再読を意味せず、本作品を「たのしむ」ための必要な手続きなので、ぜひ第1部へ戻ってみて下さい。きっと一回目の時とは比べものにならない面白さが迫ってくるはずですので(^^;ゞ
それで味をしめたら(?)、また一回転(2→3→1)してみて下さい。するとさらにいままで謎だった箇所が実は意味を持っていたことに気づいて、面白さが倍増しますよ(^^)

「太陽の書」は第2卷が入手できてなく、未読です。このシリーズはケルベロスみたいに「読めるもんなら読んでみやがれ」といった、挑戦的なものではなく、読者への親切心(笑)に目覚めた作品らしいですよ。

>頭の使い方が天城一の長編版みたいな感じ(^_^;)
いやこれは言い得て妙(^^)
全くおっしゃるとおりです。ウルフは基本的にパズル小説ですよね(ただし解答は明示されない)。

「トランス=アトランティック」はあまり時間を捻出できず、122Pまで。
ちょうど「決闘」の場面だったのですが、いや面白い! こんな悪ふざけな極端な話を書きながら、ほろりとさせるなんて、ゴンブロうますぎ(^^)

時局柄「祖国」心が高まるなか、オカマが言った「孫国」にいたく共鳴するゴンブロ。「祖国」とは先祖第一、大人による矯正、栄光の過去etcが内包されていますが、「孫国」は子孫第一、子供の自由、
栄光の未来なのですよね。この「孫国」だけで私はゴンブロが信用するにたる作家であることを理解します。

そうして今予感しているのですが、本書はゴンブロ版「馬の首風雲録」なのではないか。と、とりあえずメモっておきます。


ケルベロス読みました 投稿者:Y 投稿日:10月 7日(木)22時01分37秒

こちらにも来ていただきありがとうございます。

「ケルベロス第五の首」やっと読み終えました。買ったのはずいぶん前なのですが時間が
かかってしまいました。
うーん、難しいですね。それぞれ単独ではおもしろい……かな?と思えなくもないんですが
トータルでどういう話なのかつかむのは難しいです。
異種族の立場からも地球人を描く「最果ての銀河船団」みたいな話かとも思いましたが
そうでもないみたいですね。

「太陽の書」は読んだことがないのですが、それもこういう感じなんでしょうか。
頭の使い方が天城一の長編版みたいな感じ(^_^;)


「トランス=アトランティック」読み中 投稿者:管理人 投稿日:10月 7日(木)21時45分56秒

97pまで読みました。190pの中長篇なので、ちょうど半分。

1939年、ゴンブローヴィッチがブエノスアイレスに旅行したとき、おりしも海に向こうで戦争が始まる。故国に帰り着けるかどうかも定かでない帰途に着く船を脱出し、ゴンブロは彼の地に残る。

最初は、その戯画化された描写に鼻白んだのですが、大富豪で美少年食いのオカマとともに、「すたすた歩き」でパーティ会場を脱出してから俄然面白くなります。馬鹿馬鹿しくもクソッたれな、悪夢のような世界での冒険譚!!

悪夢の世界とは言い丈、もとより作家の実体験がベースにある。しかしゴンブロが普通のリアリズム小説を書くわけがなく、帯惹句にあるように「グロテスク・リアリズム」というのですか、極端に誇張されねじ曲げられて、もはやリアリズムはかけらもそこには残っていず、寓話的、あるいはマンガ的といってもよい過激さで、ブエノスアイレスがどこか異星の都市のようにも思えてきます。

いや面白い面白い(^^)。まったく案ずるより生むが易しでした。ある種筒井康隆的でして、最初、文体をもっと筒井調に似せたらいいのに、などと思ったりしたのでしたが、だんだん慣れてきたのか、この文体、これはこれでオッケーといまは感じている次第。

あまりの面白さにずるずる読み急いでしまいそうなので、とりあえず無理矢理本を閉じました。ゆっくり味わって読まないとね(^^;


戸川昌子とアンヌベール 投稿者:管理人 投稿日:10月 6日(水)22時21分46秒

はぁ、きのう遊びすぎて今日は昼休みもとれなかった(ーー;。
ゴンブロ>解説をぱらぱらと読んだだけ(なんかムツカシそう)。本文にはまだ取りかかれておりません。

kichineさん(Yさん)の読書メモ:50音の短編集は、今日は戸川昌子。
私は「透明女」しか読んだことがないのですが、この作品は、まあ70年代の基準でもFの境界すれすれのSFで、たしかにYさんが書かれているように「妖美な」、「独特の世界に引き込まれ」るような作風で、その底なし沼めいた雰囲気はなかなかよかったです。

そのことを思い出すと同時に、SFMにかつて1篇だけ掲載されたことがあるシャルル・アンヌベールに、そういえば雰囲気が似てるなあ、と卒然と気が付いた次第。
戸川昌子、また読んでみようかな、と思うと同時に、アンヌベールの翻訳が他にないのか、気になり始めました。ざっと検索した限りではなさそう。掲載されたSFMは、処分してしまったので、再読もかないません。哀号。

編集済


補遺 投稿者:管理人 投稿日:10月 5日(火)21時28分4秒

小説をそれ自体として批評しようとせず、作家の来歴に答えを探すのは、旧来の純文系の批評に多い欠点ですね。
ていうか、私小説を典型として、昔の日本の小説は、小説そのものが作家の個人史にパラレルなものなんですよね。だから批評もそうなってしまったんだけれども。少なくとも安部公房以降の「新しい小説」に、その手法は通用しません。だからでしょうか、本書では安部はほとんど数行しか扱われてない。著者の批評のノルムというか形式にうまく填らないんでしょうね。
編集済


読了 投稿者:管理人 投稿日:10月 5日(火)20時59分6秒

 ↓ と言っているうちに読了しました。

川西政明『小説の終焉』(岩波新書、04)

二葉亭四迷に始まる小説の120年の歴史、それを45年8月15日を境に前後期に分けて、

 私の終焉/家の終焉/性の終焉/神の終焉
 芥川龍之介の終焉/志賀直哉の終焉/太宰治の終焉/大江健三郎の終焉/村上春樹の終焉
 戦争の終焉/革命の終焉/原爆の終焉/存在の終焉/歴史の終焉

という風に、じつに要領よくまとめてくれていて、面白く勉強できます。
その意味ではよい本ですが、「終焉」とはこれいかに。
要は著者自身が60年間読み続けて、もう満腹、ご馳走さま、もう結構。ということなんですね。
旧来の私も家も性も神も、もはや現代には通用しないのは明らかですが、しかして新しい私が家が性が神が、実際のところ厳然としてあるのですから(人間が終焉していないのですから)、何をか謂わん、です。著者に新しい現実を見つめる意欲がないだけの話。
ガリレオの「それでも地球は動いている」にひっかけて、「それでも小説は終わらない」と言っておきましょう。
余談ですが、藤村のような昔の、というかもはや亡くなって久しい作家には「裏側の事情」からの考察は有効でしょうが、津島佑子のような(現在も書き続けている)同時代作家に対して同様の手法で解説されても、何だかなあ、と思います。なぜなら一般の読者には太宰家の家庭事情のような情報は、もともと持っているはずがないからです。一般の津島佑子の読者は、そのような事情は関係なしに津島の小説を楽しんでいるのではないでしょうか。


「小説の終焉」 投稿者:管理人 投稿日:10月 5日(火)18時49分25秒

パブロンS さん
ようこそいらっしゃいませ。
眉村さんを読んでおられた方が、拙サイトを見つけて来て下さるのは、管理人冥利に尽きます(^^)
自慢ではありませんが、拙サイトは世界で一番早く、眉村先生情報をスクープし、発信しております(^^;。
アンビリーバボーのように、なま眉村先生を見ることができる情報も、たまに載ることがありますので、ときどき覗いてみて下さいね。今後ともよろしくお願いします!

>ゴンブロヴィッチ
――のつもりが、昼休みたまたま覗いた書店に『小説の終焉』なる岩波新書を見つけて、ついフラフラと衝動買い。喫茶店でパラパラ読み始めたら、これが意外に面白い(津島佑子のこの読みは全く認識の埒外だった)。で、ほとんど読んでしまいました。「埴谷雄高」の手前まで。
この章は真剣に読まずばなるまいぞ、とそこで読むのを中断しました。これからつづき読みます。わくわく。

なのでゴンブロは明日から(^^;ゞ
編集済


はじめまして 投稿者:パブロンS 投稿日:10月 5日(火)01時45分28秒

ふとした事で本棚の奥にあったショートショート見つけネットで検索してたどり着きました
眉村先生の作品を読み漁った学生時代がとても懐かしく思い出されます

こちらのページで名前以外何も知らなかった眉村先生の事を色々知ることが出来て
あまりの感激に書き込んでしまいました、アンビリーバボー、見たかったなあ






「悪夢の骨牌」 投稿者:管理人 投稿日:10月 4日(月)21時08分10秒

中井英夫『悪夢の骨牌』(講談社文庫、81)読了。

本書は第2回泉鏡花賞受賞作品。昨今は「ナニナニ文学賞受賞」などとという冠が付くと、忽ち読む気が失せてしまうのですが、さすがにこの当時の文学賞はその名にふさわしいものがちゃんと選ばれていますね。いや面白かった。前作以上に連鎖が緊密で、もはや長篇小説といってよいかも知れません。

『幻想博物館』が時間SFならば、本書は多元宇宙SF(^^;。これが現実かと思えば、するりとその裏に現実があり、さらにその裏にまた……と、まるでヴォクトを読んでいるよう。その眩暈感はまさにSFにおなじみのあの感覚です。

しかもウルフばりに曖昧模糊としていて、どれがこの現実、あるいはこの時間線上の話なのか判然としません。いや全て現実なんでしょう。それは――

ちょうど同じ角度から撮った震災直後の銀座通りと復興後のそれと、あるいは空襲後の瓦礫の街と現在と、さらにいえば明治初年ごろの赤煉瓦と瓦斯燈の街並みとがこともなく一つの空間に包含されているように(…)(188p)

という描写に端的に表現されています。さらに言うなら、中井特有の入れ子構造こそ、まさに針の先一点に無数の世界が存在する多元宇宙の構造と同型といえるのではないでしょうか。

『凶鳥の黒影』所収の「黄泉戸喫」には、著者のSFに対する興味が語られていますが、とりわけ本書は、著者のSF趣味が色濃く出た作品のように思われました。

で、ひきつづいて第3部「人外境通信」を読み返すかというと、やや微妙。実はずいぶん溜まってきたので、ちょっと休憩して、積読を先に掃いてしまおうかと。それに記憶では(1)(2)と比して(3)(4)は少し弛んでいるように思うんだよね。
というわけで、次はいよいよゴンブロヴィッチ『トランス=アトランティック』に挑戦! 読めるんやろか(^^;ゞ
編集済


青空を仰いでから 大蜥蜴 振り返えり 投稿者:管理人 投稿日:10月 4日(月)20時21分22秒

宗左近『蜃気樓』を掲載しました。


世界遺産 講談 投稿者:管理人 投稿日:10月 3日(日)22時16分14秒

懸案だった南湖さんの同人誌「世界に一つだけの講談」に載せてもらう文章をようやく書き上げました。今メール送信したところで、ボツにならなければ載るでしょう(^^;
次は「生きている小平次」を講談台本に仕上げたいと思う今日この頃、、、


ビート・オン・プラザ 投稿者:管理人 投稿日:10月 2日(土)21時05分9秒

アシモフ「われはロボット」を映画「アイ・ロボット」の原作として広告をうつのは、エリスン「世界の中心で愛を叫ぶけもの」を、映画「世界の中心で愛を叫ぶ」の原作として売るのと同じくらい恥ずかしい行為ではないかと思う今日この頃(ーー;

大昔、FM大阪で「ビート・オン・プラザ」という番組があって、毎日LP一枚まるまるオンエアしていました。今から考えると信じられない話ですが、ここでエアチェックして購入するLPの選択をしたもので、こづかいの乏しい中高生にとってはとてもありがたい番組でした。

何故今頃こんな古ぼけた話を持ち出したかといいますと、ラジ関で「ばんば・ひろふみレディオでショー」という、最近ではめずらしく洋楽のリクエストに応えてくれる番組があって、60,70年代の懐かしいのが、それこそばんばん((^^;)かかるので、出来るだけ聞くようにしているのですが、きのう、このビート・オン・プラザのオープニング曲を、というリスナーのリクエストがあったのです。で実際かかって懐かしかったのですが、きのう初めてこの曲の名前を知りました。なんとポール・マッカートニーの曲で「ママ・ミス・アメリカ」という曲だったのですね。きのう聞くまで完全に忘れていたのでした。きのう聞かなかったらそれこそ死ぬまで思い出すことがなかったかも、なんて考えると、何か変なセンス・オブ・ワンダーというかゾクゾクするものがありました(^^;。

眉村さんには「異次元分岐点」というタイトルが示すように、とりわけ「可能性の時間線」という観念に一種とりつかれていて、その成果が『夕焼けの回転木馬』であるわけですが、中井英夫にも同様の観念があるみたいでとても面白く感じたのでしたが、よくよく考えれば、ある程度馬齢を重ねてくると、いやでもそのような思いに達するものかも知れませんね。

中井英夫『悪夢の骨牌』読み中。
編集済


完成版「夕焼けの回転木馬」 投稿者:管理人 投稿日:10月 1日(金)20時07分32秒

edger_さん
>いつかお邪魔してみたいものです
ぜひぜひ! たのしいですよ。

>nhk.少年ドラマシリーズ、大好きでした
少年ドラマシリーズで眉村ファンになられた方って多いですよね。眉村ファンの、けっこうな割合を占めているんではないでしょうか。もっとも(当然ながら)年齢層的には40歳台に集中しているわけですが(^^;

加筆訂正完成版『夕焼けの回転木馬』(黒田藩プレス、04)読了。

昨夜イッキ読みしました(^^) 
恥ずかしながら、実は初読だったのですが、いやこれは、眉村先生畢生の大傑作ではないでしょうか!
凄い!の一語。眉村SF、否、眉村文学の最高の達成と申し上げて何の誇張もありません。

中井英夫オマージュ集『凶鳥の黒影』で、鶴見俊輔が

 この実在は可能性の中の、ひとつの可能性。
 そういうものとして、自分を感じ、自分の生きるこの時代を感じ、この時代を過ぎていく宇宙そのものを感じる。
 そういう感覚が、中井英夫の残した作品にはある。そこには、実現しなかったさまざまの可能性への通路がひそんでいる。
(序文――中井英夫について)

と書いていますが、この言葉、そのまま眉村さんのこの作品に対する的確な批評となっているのではないでしょうか。

同じく中井英夫『幻想博物館』(講談社文庫)では、澁澤龍彦が解説で

 時間旅行の目的とはなにか。過去から、あるいは未来から、現在の私たちのほうへ向って近づいてくる、私たちの分身と遭遇することに他なるまい。オイディープスのように、自己の起源を探索するのがそもそも小説の発生だとすれば、すべての小説家の目は過去を向いているということにもなりかねないが、とくに中井英夫の場合に特徴的なのは、その過去から近づいてくる分身が、いつも現在の自分と二重写しになって、独特のノスタルジアを醸し出しているという点であろう。

と述べているのですが、この一文など、まさに「夕焼けの回転木馬」の内容そのものといえます。
1章と7章と12章に、作者である眉村さん自身が登場する、いわゆるメタ小説的な趣向も持つ本書ですが、二人の主人公中原と村上もまた、作家自身の分身であることは明らかで、中原は作家の子供時代、戦前から焼け跡期の作者の直接大人になった分身であり、村上は作家を志しつつもサラリーマンをしていた雌伏期の分身で、ともに1,7,12章の「ぼく」すなわち作家眉村卓の今現在をあらしめている分岐点でシュレディンガーの猫的状況に巻き込まれ、可能性の大海に溺れかけ藻掻きます。ことにも中原は(上の澁澤の文字通り言葉通り)自ら過去から現在(そして未来)へと文字通り歩き続けるわけですし、片や村上は時間的には同一ながら無限に広がった可能性の平行世界をさまようのです。それは実のところ、どちらの世界も作家自身の「内宇宙」であることは言うを俟ちません。
2章で出会ったこの二人は、以後、それぞれ上述のオデュセウス的遍歴の果てに最終章で再会を果たします。かれらはかかる遍歴によって自己をある意味かたちづくっていたトラウマに真正面から向き合い、そうすることで、一種フロイト的な解消を果たすといえるのですが……

まさに「自己の起源を探索する」真っ向勝負の「内宇宙SF」の傑作!!
編集済


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