ヘリコニア談話室ログ(2004年12月)


東京宵待ち草 投稿者:管理人 投稿日:12月29日(水)16時31分6秒

先日ラジオで聞いた歌。演歌ですがアレンジが変わっていてちょっとよかったのだけれども、曲名を忘れちゃってた。さっきふいに思い出したので、メモしておきます(^^;。

アレクすてさん

今回のそれはクラカトア大噴火の津波を上回る規模だそうですね。

>「復活の日」とか「日本沈没」とか
私が思い出したのは、「南極大氷原北上す」でした。この小説ではスペインほどあるロス棚氷が、火山の噴火だったか温暖化だったかで、くっついていた大陸から流れ出し、融けながら北上し、その結果生じた海面上昇の大津波がニュージーランドをあっという間に呑み込んでしまう、というトンでもないものでしたが、そんな話は虚構の中だけで十分ですよね。

さて、今日で仕事納めだったんですが、今年は忘年会が少なかったなあ。いささか歌いたりない感じです。明日は久しぶりに梅田界隈をぶらぶらしようかな――って、けっきょく本屋めぐりなんですが。
編集済


(無題) 投稿者:アレクすて 投稿日:12月28日(火)01時02分50秒

あ、ごめんなさい。地震の関係者の皆様のご無事をお祈りします。


アレクすてでございます。 投稿者:アレクすて 投稿日:12月28日(火)00時58分23秒

こんばんは、管理人様、アレクすてでございます<(_ _)>
スマトラで起きた地震、大変な被害のようですね。
小松左京のシミュレーションもの(「復活の日」とか「日本沈没」とか)
を思い出しました。
アーサー・C・クラーク翁は、無事なようです。
係累でも、なんでもないのですから全然、関係がないわけですが
何か、ほっとしました…。
地球はどうなるのでしょう?といったところで失礼します、
おやすみなさい<(_ _)>


「時間のかかる彫刻」 投稿者:管理人 投稿日:12月27日(月)00時35分2秒

最後に残った「ここに、そしてイーゼルに」を読み、ようやく読了。
いやはやこの中篇だけに二日かかってしまった。正確には最初の数頁に二日かかったんですが、それを乗り越えたらあとは一気呵成でした。
この中篇のみ、50年代の作品で、50年代の作品らしく晦渋で凝りまくって、ある意味バロック小説です。
内容は、スタージョン版「十牛図」といえるかも。


「時間のかかる彫刻」備忘 投稿者:管理人 投稿日:12月26日(日)17時05分35秒

>「時間のかかる彫刻」
現代アメリカ文学といいましたが、もっと限定するならウェストコースト文学ですね。
この作風の変化は何なのか、と考えていて、そう思い至りました。
でも、スタージョンって西海岸だったっけ?
40年代〜50年代の作風は、その晦渋さ、暗さも含めて、私には如何にもNYというイメージがあります。
で、「不思議のひと触れ」を引っ張り出してきて大森さんの解説で確認したら、やはりスタージョンはNY生まれで、いろいろ移動していますが東海岸で活動していたようです。そしてようやく60年代に至ってロスに移ってきているのですね。
それで腑に落ちました。
つまりスタージョンは60年代後半の(サンフランシスコではなかったにせよ)西海岸のフラワームーブメントを目の当たりにし、強く惹きつけられたのではないでしょうか。もっともその引力は共感と違和感をない交ぜにしたものだったようで、その辺は作品に現れているとおり。
その結果、「69年の驚くべき夏」に、突如天啓のように11篇の「ウィナ・ストーリー」が生み出された。そう考えてもあながち的外れではないように思います。
編集済


竹山ひとり旅 投稿者:管理人 投稿日:12月25日(土)20時47分9秒

久しぶりのツタヤで<竹山ひとり旅>(77)を借りて観ました。
よかった!
津軽三味線の音色を満喫できました。ストーリーがあっさりしていて(本来内包している)ドラマに踏み込んでいかないのは、この映画が半分は津軽観光映画だからでしょうか。といってもそこはそれ、いかにも70年代シネマらしく、苛烈酷薄な戦前津軽の風景で、これが実に美しい。

点描されるひとつひとつのエピソードは、掘っていけばいくらでも重いドラマが姿を見せるはずなんですが、直接的な映像で見せられるのはわたし的にはつらいものがあるので(文字でならどんな悲惨な話にでも付いていけるのですが)、これはこれで不満はありません。

むしろ不満は、女性陣が美人すぎること。たとえば最初の妻の島村佳江は門付け先のお屋敷の主に強姦されるのだが、島村佳江では美人だから犯された風に見えてしまう。乞食同然人間以下の門付け芸人の妻だから屋敷の主は平然と犯す(そして米1升入った布袋をぽいっと彼女の前に放り出す)という本来のドラマが見えにくくなってしまうのです。

倍賞美津子はさすがの存在感で見終わった段階で全く不満はないのですが、本来竹山の奥さんは盲目でしかも片目は摘出されていたはず。そういうリアリティの積み重ねで撮って欲しかった。
その意味で、私がプロデューサーだったら盲目役は全員本当の盲目の人を使いたいところです。それでこそ日本版ネオリアリズモなんです、ってそんな意図はそもそも新藤兼人にはありませんかそうですか(^^;。


工藤幸雄 投稿者:管理人 投稿日:12月24日(金)19時51分19秒

今日書店へ寄ったら、中公新書から工藤幸雄が出ていてびっくり。>「ぼくの翻訳人生」
ぱらぱら立ち読みしましたが、面白そう! といいつつ買ったのは的場昭弘「マルクスだったらこう考える」(光文社新書)なんですが(汗)、さすがに年末、各社面白そうなのを並べて来ていて、目移りします。
岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書)や増田義郎「太平洋――開かれた海の歴史」(集英社新書)にも心が引かれるけれども、そんなに読めません(ーー;

シオドア・スタージョン『時間のかかる彫刻』読み中。これはいいですよ(^^) 「未熟」がキイワードだった作家の「円熟」の作品集で、ようやく晩年にいたって「ブラッドベリのライバル」という金看板に名実ともに偽りない(一般性のある)作品が書かれたように思われました。SFというよりも、現代アメリカ文学といったほうがしっくりする作品集かも。
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眉村さんの幻の作品発見! 投稿者:管理人 投稿日:12月23日(木)15時49分26秒

>虚無
ハッと気づいたこと。キミちゃんは黄美ちゃんだ!

朱鷺野さん
ようこそいらっしゃいませ(^^)。
忘年会、お疲れ様でした。あれからさらに盛り上がったのでしょうね。

貴志裕介は未読、歌野晶午は最初の3部作のうちのどれだったか一冊だけ、という体たらくで、何も反応できないのが申し訳ないのですが、どの稿もライターさんの熱気がこもっていて好感を持ちました。いや私にもこんな時代がかつてあったんだよな(^^;と、読ませていただき、懐かしく、また羨ましく感じた次第です。

具体的には貴志裕介も歌野晶午も、デヴューからの作家的変化がトレースされており、興味深かったです。私からすると二人ともつい最近デヴューした作家という印象なんですが、やはりそれなりの時間が経過しているんだなあ、ということを改めて認識しました(ーー;。

ともあれ来年もよろしくお願いしますね!

石川誠壱さんのご好意で眉村さんの単行本未収録の幻の作品を読むことができました。
タイトルは、「タイムマシン団地」<週刊少年サンデー>1967年11月12日号(通巻46号)掲載、文・眉村卓、え・山本輝也とクレジットされています。

内容は、団地が、管理人になりすました未来人の仕掛けたタイムスリップ装置によって武士の時代、マンモスのいる時代、恐竜時代へと、順々に飛ばされていく。実は未来人は団地ごと標本にするためか未来へ連れて行こうとして操作を誤ったらしいのだが、そのうち団地の住人が管理人に気がつき、管理人室へと押しかける。恐れをなした管理人は装置もろとも消え(未来へ帰る?)、ふと気がつくと、団地は元の時代に戻っており、ただひとつ、事件以前互いによそよそしかった住民の人間関係だけは、タイムスリップ中に築かれた暖かい緊密なものに変わっているのだった――というお話。

というわけで、大変よくできた話なんですが、枚数の関係でしょう、かなりストーリーを削られている様子で、小説的なふくらみに欠ける憾みが……。そのためほとんどシノプシスめいた印象で、文体もいつもの眉村らしさはないのですが、眉村書誌学(笑)的には、きわめて貴重な、重要なものです。
今度の新年会で眉村さんにお見せするつもりなんですが(持っていらっしゃらない筈です)、どんな顔をなさるか、とっても楽しみ(^^)。
許可いただければHPに復刻できるかもしれません!
いずれにしましても、石川誠壱さんには感謝の言葉もありません。ありがとうございました。
編集済


ご挨拶が遅くなりました 投稿者:朱鷺野耕一 投稿日:12月23日(木)00時26分9秒

畸人郷にて、お世話になりました。
カフェ・パズラーズの朱鷺野耕一です。もしかして、こちらに書き込みをさせて頂くのは初めてだったのでは? と、ちょっと恐縮しています。

忘年会は、中町先生が大変お話好きな方で楽しいひと時でした。あまり管理人様とお話をできなかったのは心残りですが、またの機会に色々とお話をさせて頂きたいものです。

>中町先生と山沢晴雄先生のツーショットを携帯のカメラで撮ったのですが
それは是非見たかったですね…。他では見られない珍しいツーショットになったのではないかと思うと惜しまれます。

>若手のホープ朱鷺野耕一さんから「Rits Mystery Magazine」No.72をご恵投いただきまし
>た。ありがとうございました。
胸を張って誇れるものではありませんが、どうぞご笑納下さい。
前号と比べると薄くなってしまい、残念でなりません(いつも通りに戻っただけという言い方もございますが。前号が厚すぎました・笑)。

また、例会にてお会いできるのを楽しみにしております。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Screen/2184/


「虚無への供物」 投稿者:管理人 投稿日:12月22日(水)20時44分35秒

中井英夫『虚無への供物』(講談社文庫、74)第一回目読み終えました。
いやーこれはとてつもない構築物、大伽藍でした!ある意味グロテスクな「不思議の国のアリス」! 面白くて後半ちょっと急ぎすぎた。もっと落ち着いて読むべきでしたが、早く先を知りたくて突っ走っちゃいました。というのもその段階で「これは再読しなければなるまい」という気分にになっていた、ということもあります。ていうか再読、三読して初めて読了したといえる、そんな小説だと思います。

なんといっても、まず作者はこのような謎めいた不思議な物語を「なぜ書こうと欲したのか」という動機が、まさに謎めいていて激しく興味を引かれます。

作中、氷沼家初代の誠太郎は、<三一版あとがき>によれば、中井自身の父方の祖父誠太郎の経歴そのままとのことで、そうだとすれば、
            
氷沼誠太郎――光太郎――紫司郎―― 蒼司(ダイヤ) 
           |     |
           |     |−紅司(ルビー)
           |
           |-朱 美―― 黄司(トパーズ)
           |
           |-橙二郎―― 緑司(エメラルド)
           |
           |-菫三郎―― 藍司( ? )

中井誠太郎――猛之進――長男 
           |               
           |-長女・次女
           |
           |-次男
           |
           |-英夫(サファイア)

という相同型が得られる(巻末年譜による)。
つまりこの伝でいくと、菫三郎は英夫となるのだが、またしても<三一版あとがき>によれば、猛之進も光太郎さながらに「子供たちめいめいに、その誕生石を買い与えて」い、9月生まれの英夫は「サファイアの青が、どれほど覗きこんでも尽きない深さを持っているものか、早くから思い知らされた」とある。

一方、上述のように光太郎も孫に誕生石を与えており、或いは石を欲する者がいるのだけれども、私が見落としているだけかもしれませんが、藍司の石が不明となっています。ひょっとしたら藍司の石は青のサファイアなのではないのか?

そうしますと、物語の開始以前に既に死んでしまっている菫三郎ではなく、その息子の藍司こそが、中井英夫その人に当たるのでは?

うーむ、この物語、おそらく「ケルベロス第五の首」同様、或いはそれ以上に、行間に謎が埋め込まれ隠されているのであって、読者の解明を待っているのに違いなく、そのためには、もっとこの小説世界の事情に通じなくてはどうにもしようがありません。
ということで、すぐにでも再読にかかりたいところなのですが、『子不語の夢』と『時間のかかる彫刻』が控えているばかりか、今日は『アジアの岸辺』が届いてしまいました。困った!
編集済


ジュニアSFからジュブナイルSFへ 投稿者:管理人 投稿日:12月21日(火)21時07分39秒

大橋さん
>思わずブラウザを閉じてしまいました
うーむ(ーー; そんな怖がらないでくださいな(^^;。
私は、著者が「一生懸命」書いたものだったら、たとえ内容が私と合わないものであっても尊重してますよ(大橋さんのレポートが私に合わないといっているのではありません、為念)。基本的に私が嫌うのは、たとえば火浦某の火星シリーズのような、「どうせあほな読者や、まあこんなもんでええやろ、チョチョイのチョイ、ほい出来上がり」といった体の読者を舐めた(火浦某の場合はまたパロディとしても原作への崇敬が感じられない舐めきった)作物です。ほんとうは「ヘイおおきに、ありがとさんでおま」と押し頂いてそれを許す編集者がもっと悪いのですが。

大橋さんの書くものは、いつも全力投球がひしひしと伝わって来、内容的にも触発されるところが多いです。むしろ問題は与えられた枚数が毎回あまりにも少なすぎることで、困っておられる様子が紙背に感じられて同情を禁じえません(^^;。まあ単行本化の際にじゅうぶん膨らませて頂ければと思います。

>ジュニアSFの盛期は決して短かったわけではない
>ジュニアSFは昭和30年の『少年少女科学小説選集』から始まり
そうですね。ただ、眉村さんが「3万部」と聞いてびっくりされているように、文庫化が開始されるまでは、やはり学習雑誌の添え物的な意味合いが強かったのではないでしょうか(学習雑誌のジュニアSFについては大橋さんが既にSFJでレポートされていますね)。つまり雑誌のなかの品目としての人気は高かったとはいえ、単行本が自立的に一定の売り上げを取った(大衆化した)のは、やはり文庫化以降だったように思われます。とりわけ角川文庫ですが、角川文庫の眉村作品は初版7万部、重版3万部だったと聞いた記憶があるのですが、今書いていて、あまりに大きな数字なので、思い違いかもしれません。いややっぱりそのように聞いたと思います。

「盛期」とはそのような意味合いで使ったのでしたが、半分思い付きで書いておりますので(汗)、やはり角川文庫やコバルト文庫のレポートが待たれる次第です(催促)。もちろん岩崎書店も楽しみにしておりますよ! そうなってきますと、SFJの刊行サイクルは、読者としてはいかにもゆっくり過ぎますね。本業のある大橋さん的には、これくらいの間隔はあったほうがよいのかも知れませんが。
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「少年小説の系譜」 投稿者:大橋 投稿日:12月20日(月)19時01分54秒

いつものように「とべクマ」の掲示板を何気なく覗くと自分の名前が・・・。

いや、ほんとドキリとしました。思わずブラウザを閉じてしまいました。いつもするどい論点で語る管理人さんの感想は、正直、読むのはちょっと怖かったです。恐る恐る読ませていただくと、おおむね好評かな、ということで少し安心しました。

「知っているつもりで実は何も知らない」というのは、「知る必要もない」のようにも思えて、『こんなことを知りたがる人がいるのだろうか?』と不安になります。ですからこうして書いていただけると、とても励みになります。

何故、秋元文庫が今はないのか、については人それぞれが考えてもらえればと思い、含みを持たせたつもりです。管理人さんが感じられたこと以外にも、新しい作家を生み出せなかったからとか、コバルト文庫路線を取ったため(SFそのものはそんなに大きな市場ではなかったのです)に、巨大資本の集英社に対抗できなかったからとか、いろいろ推測は出来ると思います。

>ではなぜ、純然たるジュニアSF小説は支持を失ったのか
ですが、まず、ジュニアSFの盛期は決して短かったわけではない。ということをお断りしておきます。
ジュニアSFは昭和30年の『少年少女科学小説選集』から始まり、昭和52年のソノラマ文庫『クラッシャージョウ』で終わったと思っています。「秋元文庫とソノラマ文庫」の巻きは、ジュニアSFの最後を書いたことになります。

秋元文庫が始まったのが必然による偶然の産物なら、ソノラマ文庫から『クラッシャージョウ』が出ることになったのも必然による偶然の産物でした。
作家主導で生まれたジュニアSFに対し、文庫という誰もが気軽に買うことが出来るものになったことで主導が読者へと移り、ジュニアSFの形が変わっていったのだと思います。
基本的にはジュニアSFにあった「僕たちのための小説」というコンセプトは、今も生き続けているのではないかと私は思っています。

残念ながら次回は岩崎書店の巻きになります。コバルト文庫のレポートではないです。すみません。


「少年小説の系譜」 投稿者:管理人 投稿日:12月19日(日)12時47分5秒

大橋博之「少年小説の系譜」日本ジュヴナイルSF戦後出版史第1回(SFJapanVOL10)はとても面白かったです。第1回は「秋元文庫とソノラマ文庫」、私たちは秋元文庫もソノラマ文庫もその名前はよく知っているとはいえ、実体については何も知らないに等しいのではないでしょうか。このような、今まで「知っているつもりで実は何も知らない」部分に着目したレポートは、(その観点からまとまったものは)当然これまでに存在せず、SF読者の殆どが、実際のところこのレポートによってはじめてその実態を知ることになるはずで、実に貴重なSF史の間隙を埋める労作(の開始)といえるでしょう。

とりわけ、秋元文庫が、眉村卓の提案を発端に「SFの表紙と挿絵は著者に関係なく必ず依光隆にした」ことが、国産ジュヴナイルSFの成立とその後の発展に大きな影響を与えたというのは面白い。いわれてみれば確かにそのとおりで、小松崎茂描くところの、あのアクの強い(芸術性の高い)表紙絵では、とりわけ(あらゆる意味でナイーブな)女子中学生を取り込むことはできなかったろうことは想像に難くありません。

とはいえ、最初のジュニアSF文庫である眉村卓『天才はつくられる』が昭和49年に出てから一挙に時代を謳歌したとはいえ、純然たるジュニアSF小説の盛期は短かったのではないでしょうか。本稿では(少女小説で競合するコバルト文庫に競り負けた)秋元文庫のSF関係の実質的な終焉がいつだったのか明記されてないのだけれど、一方のソノラマ文庫が、クラッシャージョウ(52年)で次代の市場であるヤングアダルト小説の方向へ軌道修正しつつ愁眉を開いていったのに対して、秋元文庫にそのような市場対応力が不足していたのも生き残れなかった要因のひとつだったのではないかと思いました。

ではなぜ、純然たるジュニアSF小説は支持を失ったのか、その辺の経緯を想像するにつけても、次回掲載されるのだろうコバルト文庫のレポートが待望されるわけです。いや楽しみです(^^)
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畸人郷の 投稿者:管理人 投稿日:12月19日(日)01時23分35秒

忘年会から帰着しました。畸人郷のアイドル中町信先生にお会いでき、感激でした。ところで中町先生と山沢晴雄先生のツーショットを携帯のカメラで撮ったのですが、酔っていたせいかボケボケで、お見せすることができません。残念(^^;
若手のホープ朱鷺野耕一さんから「Rits Mystery Magazine」No.72をご恵投いただきました。ありがとうございました。
ということで、とても楽しかったです。今日は仕事でとても嫌なことがあったのですが、おかげでウサを晴らすことができました。来年もどうぞよろしく!

家に帰り着くと、『子不語の夢』が届いていました。ご恵投ありがとうございました>諸戸道雄先生。お正月に読もうと思います。



S・B園 投稿者:管理人 投稿日:12月17日(金)20時21分45秒

本多さん

>100部限定の特装本
豪華ですね! しかも完売!ってのが中井ファン層の厚みを感じます。
 
>創元の全集に『虚無』を収録するとき、底本を塔晶夫版にし
そうしますと、創元ライブラリ版は中井英夫名義の塔晶夫版ということになりますね。

「虚無への供物」(講談社文庫版)、326頁まで。旅程も半ばに達しました(^^;
ちょうど第二章を読み終わったわけですが、乱歩賞にはここまでの部分で応募したんですよね。ぜんぜん話が途中やん(^^; 
よくもまあ応募したもんだと感心しましたが、これで受賞は逃したとはいえ、次席を占めたんですから、やはり傑出していたんでしょう。選考委員のなかに慧眼の、強く推す方がおられたんでしょうが、ここまでの原稿で推すのはかなり勇気がいったのではないでしょうか。というかよほど惚れ込んだんでしょうね。

さて、「あとがき」に
推理体系版で書き加えた第二章の終わりの、“玄次の見立て”の場面はそのままに
とあります。これは、三人三様の勝手な見立て(文庫版322p)を指しているわけですが、当たってみますとたしかに2000年復刻版にはこの部分は見当たりませんでした。あ、やっぱり初刊版の忠実な復刻なんだ、と実感しました(^^)
ふと気がついたこと――復刻版のS・B園が、文庫版では聖母の園と改められています。S・B園の方がなんとなく幻想小説ぽくて、わたし的には好みです。

アレクすてさん
ご来信ありがとうございました。てかさっき電話でお話したとおり(^^;


こんばんは、大熊様、アレクすてでございます。 投稿者:アレクすて 投稿日:12月17日(金)13時32分32秒

こんばんは、大熊様、アレクすてでございます。
明日の畸人郷忘年会なのですが、とってもいきたかったのですが
身辺にいろいろあり、自由になるのが今日になってしまい、
野村様に連絡するのが今日では、いくらなんでも
野村様に失礼なので、今年は見送らせていただきます(汗。
大熊様と、会い話しできないのは残念です。
(本当はメールで送るべきなのですが
まだ、メールの調子がよくないのです…)


ミレニアム商品 投稿者:本多正一 投稿日:12月17日(金)09時50分10秒

>ではなぜ、2000年に復刻版が出た意義は何か? 

 たびたび失礼いたします。えーと、2000年復刻版の意義についてです。
 実を申しますとあれ、あの時期横行したいわゆるミレニアム商品なのです(^^;)。そのころ書店で入手できた『虚無への供物』は、講談社文庫旧版と1996年に創元ライブラリ版『中井英夫全集』第一巻として刊行されたものと二種ございました。講談社文庫は最終決定版ですが、創元の全集に『虚無』を収録するとき、底本を塔晶夫版にし、差別化を図っていたのです(付言すれば、全集の方針として初刊本を底本にするということがありました)。
 2000年2月29日は『虚無への供物』が刊行されて36年目、9回目のお誕生日を迎えたわけです。そこで特別企画として中井英夫とは名コンビの建石修志さんの挿画装幀による単行本をつくってみたというわけです。年譜を参照していただければお分かりかと思いますが、『虚無への供物』は幾度も出版されていますが、塔晶夫名義のものは1964年の初版本だけでした。それから建石さんも『虚無』の装幀は手掛けたことがなかったのです。
 管理人さまご所蔵のものは4000円の普及版かと思いますが、同時期に100部限定の特装本も刊行され、畳み函に入った建石さんのエッチング3枚収録の豪華本も存在します。

http://www.tsogen.co.jp/wadai/0106_01.html
http://www1.odn.ne.jp/~aac65140/books/kyomu_ku.htm
http://homepage3.nifty.com/anti-podes/nakai.html
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/200004/forum.html

http://www43.tok2.com/home/aki0518/nakai/nakaigentei/nakaigenteikyomu.html


名セリフ 投稿者:管理人 投稿日:12月16日(木)21時52分10秒

サイエンス・フィクションは私の最良の友であり、最悪の敵である。――シオドア・スタージョン(『時間のかかる彫刻』より)

「虚無への供物」は209頁まで。ちょうど3分の1くらい。

>『アジアの岸辺』
bk1の予約が終了してます。いよいよ出るのですね。わくわく(^^)
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眉村先生、最新情報 投稿者:管理人 投稿日:12月14日(火)21時21分26秒

1)来年2月、青い鳥文庫から「ねじれた町」が出るそうです。
2)句誌<俳句界>(12月号?)に、エッセイ「尾崎放哉と星新一」が掲載されているそうです。近日中に確認したいと思います。放哉と星新一を一緒に論じたのはこれまでになかったのではないか、とのことです。
3)俳句同人誌<渦>に、俳句+エッセイを連載中とのこと。<渦>は会員にならないと入手できないそうなので、単行本にまとまってからのお楽しみとなります(^^)
4)黒田藩「引き潮のとき」は、原稿は渡したが、まだ連絡は何もないそうです。厳密には契約もまだ済んでなく、何巻本になるかも不明です。見本がそろそろ送られてくるかどうか、という段階らしく、いま少しお待ちください。

――ということで、ぜんぜん書いてないわけではないとのこと、小説のほうも少しずつ進めています、とおっしゃっておられました。

それから先生を囲む新年会、今年も、じゃなかった来年もやりますよ! 
編集済


復刻版の意義は? 投稿者:管理人 投稿日:12月14日(火)19時56分53秒

本多さん
あちゃー、そうなんですか。で、講談社文庫版の「あとがき」に目を通しました。すると、ちゃんと明記されているではないですか。すなわち――

 (1)1964年、塔晶夫名義の講談社版←オリジナル版
 (2)1969年、三一書房版
 (3)1973年、講談社「現代推理大系」別巻←大幅に手を入れる
 (4)1974年、講談社文庫版←細かい思い違いや表記ミスを最終的に訂正
さらに年譜(1997年第45刷版)で補足しますと、
 (5)1986年、三一書房版作品集全十巻刊行開始(〜1989年)

つまり、創元ライブラリ版(2000年塔晶夫復刻版)の「復刻」という意味は、(1)の完全復刻版ということなんですね。

ご指摘の冒頭を確認してみましたが、文庫版の方が表現が凝っていますね。
ところが、枚数計算してみたら、復刻版は47字×19行×約587頁/400字=約1311枚、文庫版は43字×19行×約623頁/400枚=約1273枚で、総枚数は逆に38枚少なくなっている。

このことからどんなことが推測されるか? 塔晶夫版よりも文庫版のほうがメリハリが付いているということが想像されます(^^;
ではなぜ、2000年に復刻版が出た意義は何か? と考えますと、これはすでに文庫版等で既読の読者が、改めてオリジナル版を読んでみたい、という要望にこたえたもの、ということ以外には考えられません。

そういう次第で、「初めて読むならまず文庫版から」という結論が帰結されるわけです。
復刻版は、文庫版に感嘆した読者が、オリジナル版に立ち還って、本書の成立の過程を楽しむものでしょう。

というわけで、私も文庫版で読み進めていくことにしました。いやこっちのほうが軽くていいんですよ(^^; 字が細かいのがちと辛い(汗)

現在138p(文庫版で)、合間に細切れで読むのでなかなか進みませんが、これ位のスピードがちょうどいいかも。
ご教示ありがとうございました>本多さん。


虚無への供物 投稿者:本多正一 投稿日:12月14日(火)09時42分5秒

>虚無
問題は内容が同一かどうかなんですが…。

 申し訳ございません。『虚無への供物』ですが、創元ライブラリ版(2000年塔晶夫復刻版)と講談社文庫版(旧版&新装版)、内容やストーリーは一緒ですが、文章、修辞が少し違います。冒頭の一行からして、

黒ビロードのカーテンは、ゆるやかに波をうって、少しずつ左右へ開きはじめた。(創元)
黒天鵞絨のカーテンは、そのとき、わずかにそよいだ。(講談社)

 となっております。生前の中井英夫は新版刊行の際、手を入れずにはいられず、三一書房版『中井英夫作品集』第十巻(1987年)には四種の刊本の詳細な校訂表がついております。よろしかったらご参照ください。

http://www.mystery.co.jp/guide/kyomu.html


ゴンブロヴィッチ 投稿者:管理人 投稿日:12月13日(月)22時01分4秒

『フェルディドゥルケ』出ましたね!

>虚無
創元の塔晶夫版は重いので、外出用には講談社文庫版を携行することにしました。問題は内容が同一かどうかなんですが…今のところ問題なさそう。


無謀にも 投稿者:管理人 投稿日:12月12日(日)00時46分19秒

「虚無への供物」(塔晶夫)に着手しました。


「忌中」 投稿者:管理人 投稿日:12月11日(土)23時10分27秒

読了。感想文を、チャチャヤン気分に掲載しました。

アレクすてさん
新アドレスを登録しようとしますと、やはり「有効なアドレスではない」という表示が出ますね。
畸人郷は12月18日です。二次会は忘年会ですので、予約するため今回のみ出欠の申告をしてほしいそうです。メールが駄目なようでしたら、畸人郷の掲示板に出欠を書き込まれたらよいと思います。

>今日泊亜蘭氏へ訃報の電話をかけたが…
あの一文は何なのでしょうね。誰かが(あるいはどの組織かが)連絡する相手を選別したんでしょうね。人間関係は複雑怪奇です。


管理人様、皆様、お久しぶりです<(_ _)> 投稿者:アレクすて 投稿日:12月11日(土)19時52分33秒

管理人様、皆様、お久しぶりです、アレクすてでございます。
大熊様には、いつもお世話になっておりますが、当方、
PCが不調になり、メルアドを変えたのですが
アウトルックエクスプレスの設定に問題があるのか
メールが受信できません…(汗。
というわけで大熊様や、畸人郷の野村様に新しいメルアドを
書いたメールを送ったのですが多分届いていないでしょう…。

本当にご迷惑をおかけして
申し訳ございません!!

ところで私め、読まなければならない本がたくさんあるのに、
(らっぱ亭様、お世話になりました!お送りいただいた本は
今読んでいる最中でございます!)
S-Fマガジンを買ってしまいました…。
というのは、
「追悼:矢野徹」という特集があったためであります。
巻頭小説は「さまよえる騎士団の伝説」で既読でしたが
追悼文で、
石川喬氏の
「あの頃のSF作家クラブは思想信条を超えて文字通り仲良しクラブだった。」
という文章で目頭が熱くなり、
野田昌宏宇宙大元帥閣下の
今日泊亜蘭氏へ訃報の電話をかけたが…
という追悼文で
「ああ…」と思い、
とどめに、眉村卓氏の
「私にとっては、大先輩だった。」
という文章で、もう
「ああ…一つの時代が終わったのだ…」
と思いました。
(上の括弧は私がつけたものです。)
半村良氏と並び、SF界の長老、大人と呼ばれ、
座談やエッセイでは、人格者として有名な
矢野さんは、一方で「戦争」という不条理極まりないものに
まきこまれたことを生涯のテーマとして語ってこられました。
(「宇宙の戦士」の巻末の論争は、今読むと
若い人にはピンとこないでしょうが、
私には興味深かったです。)
取り留めのないことをかいてしまいました。
感情失禁が起こったのかもしれません。
恥をさらさないうちに失礼いたします、では<(_ _)>


車谷長吉 投稿者:管理人 投稿日:12月10日(金)22時13分19秒

『忌中』に着手しました。


「大鬼神」 投稿者:管理人 投稿日:12月 8日(水)21時06分57秒

本多さん
>『子不語の夢』&『凶鳥の黒影』日本推理作家協会賞同時受賞大宴会
そうか! そういうシナリオがあったか……。
いえ、私は『子不語の夢』と『凶鳥の黒影』が日本推理作家協会賞をめぐって真っ向激突することをひそかに危惧しておったのでした(^^;
同時受賞ならば、八方丸く収まってよいですね。うんうん。

>「薔薇の殺意ー虚無への供物」が 12月31日の大晦日、ミステリチャンネルで一挙再放映
情報ありがとうございます。それは楽しみですね〜!! しかし、私は見れないのでした、残念(ーー; 
見る手段をお持ちの方は幸いかな、この折角のチャンス徒や疎かになさらないよう、忘れずご覧になっていただきたいものです。
そのチャンスを享受できない私はといえば、そのかわりと言っては何ですが、年末年始で、これまで敬して遠ざけてきた原作に挑戦しようと思っております! ああ、そう表明するだけで緊張してきました(汗)

倉阪鬼一郎『大鬼神平成陰陽師国防指令(ノンノベル、04)読了。

村田さんのお勧め本、これは面白かったです(^^)さすが村田さん、私の趣味が分かってらっしゃる(笑)
何といいますか、基本的にめちゃくちゃ安普請な小説なんです。もちろん作者の意図した安普請なのですが、そのスタイルが70年代のノベルズ系の軽伝奇ミステリの味わいを出しています。私は邦光史郎の神原東洋ものを思い出しました。

いわばひとつ間違えば屑篭行きの、その一歩手前で奇妙に歪んだ妙な可笑しさを湛えていて、独特のチープな味わいがあります。作中、浦島伝説やニュートリノがかなり詳しく解説されるのですが、別に主筋に必要不可欠な要素というものではないところなど、邦光の伝奇SFに似ていると思います。
しかも次第にトンデモ方向へ歪曲されていくのが(もとより作者の目論見どおりなのでしょうが)可笑しい。

不満は、大鬼神のアクションがつぶさに描写されてないこと。おそらく腰を落とした摺り足に、腋をしめた寄りか突き押しの型でノシノシと進んでいったに違いないと想像したのですが、そのあたりちゃんと描いてほしかったところ(^^; それと随所に認められる作者の狂気観、これは残念ながら受け入れられません。

SFにワイドスクリーンバロックとよばれる作品群がありますが、本書はワイドスクリーンからはほど遠い、まことにちまちました14インチのブラウン管サイズではありますが、独特の安っぽさ、深みのなさが妙にツボを突いてきます。ワイドスクリーンとは一味違った、しかしバロック感覚横溢する怪作といえるのではないでしょうか。わたし的には、今年の日本SFのベスト作品かも(^^)

#タイトルは素直に「大亀神」の方がよかった(^^;
編集済


「薔薇の殺意ー虚無への供物」 投稿者:本多正一 投稿日:12月 7日(火)19時44分44秒

管理人さま
 『子不語の夢』完成記念大宴会(東京篇)は残念です。来年には『子不語の夢』&『凶鳥の黒影』日本推理作家協会賞同時受賞大宴会を予定しておりますので、その節には是非お会いしたいものと思っております。(^^;)
 お知らせです。中井英夫の『虚無への供物』初映像化作品「薔薇の殺意ー虚無への供物」が 12月31日の大晦日、ミステリチャンネルで一挙再放映されます。

http://www.mystery.co.jp/guide/kyomu.html


「ロング・グッドバイ」 投稿者:管理人 投稿日:12月 7日(火)18時34分0秒

矢作俊彦THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ』(角川書店、04)読了。

言うことなし!
こういう作品には批評眼が起動しません。ただただ芳醇な美酒の如き小説世界に溺れ、酔うばかり。
うーむベトナムか・・
「輝ける闇」を読み返したくなりました。

(追記)
読売新聞に深町眞理子の書評が。→やせ我慢の美学貫く
そうそう(^^)
編集済


第二諸戸台風(汗)   投稿者:管理人 投稿日:12月 6日(月)21時17分11秒

本多さん
過日はすれ違いで残念でした。まあなんとか息を吐いております、青息ですが(^^;
それにしても、なんと『子不語の夢』完成記念大宴会(東京篇)ですか! 
盛り上がりそうですね(^^) 嗚呼、諸戸道雄先生の白衣が網膜で踊っております!
これはひとつ万艱を排してでも馳せ参じたいところではありますが、うーむ、25日ですか、年末も押し迫ってそれどころではないかもしれません。うーんうーん……うーむ、やはり残念ですが、ここはぐっと堪えて本業に精出したいと思います。折角お誘い下さったのにまことに申し訳ありませんm(__)m どうぞ皆さん打ち揃って「打ち上がって」くださいませ(^^; 玉川知花さんも参加なさるのでしたら、よろしくお伝えください。
ということで、またいずれ上京しましたら、その節にはぜひお付き合い願えればと思います。よろしくお願いいたします。

>「ロング・グッドバイ」
あっ、と気がつけば、残り100頁を切っているではないか。
いかんいかん、ゆっくり読まなくちゃ(^^;


『子不語の夢』完成記念大宴会(東京篇) 投稿者:本多正一 投稿日:12月 6日(月)13時20分59秒

 先日は失礼いたしました。ご無沙汰ですがお元気ですか。
 12/25に中さんを東京にお迎えして『子不語の夢』完成記念大宴会(東京篇)を催すことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。

http://homepage1.nifty.com/mole-uni/shifugo-party.html


BluegrassRadioを聴きながら 投稿者:管理人 投稿日:12月 5日(日)15時43分53秒

最近、BGMはインターネット・ラジオのBluegrassRadioという放送(局?)をかけることが多いです。
ほかにカントリーとクラシックロックの放送も聴取しますが、BGMとしてはブルーグラスが一番向いているかも。つづいて、カントリー→クラシックロックの順番でしょうか。ニューロックやプログレは真正面から聴くものなので、BGMとしては不向きですね。

つまり、やはり素朴な音のほうが耳にやさしいのでしょう。その意味では(ほとんど聞きませんが)モダンジャズよりもデキシーランドのほうがBGM向き。
だいたいデキシーとブルーグラスはものすごく近いような感じがします。

ところが。
これはばんばひろふみのラジオ番組のうけうりですが、ブルーグラスは、実は戦争直後の1945,46年頃生まれたジャンルらしい。案外新しい。5弦バンジョーの開発とスリーフィンガー奏法の導入がブルーグラスを確立させたそうです。

周知のようにバンジョーの(親指で弾く)第1弦は細い高音の弦が張られていて、その結果スリーフィンガーであの独特のコード分解を奏でるわけですが、5弦バンジョー以前は、件の第1弦がない4弦でシャカシャカとリズムを刻む楽器だったらしい(事実デキシーではリズム楽器)。ある意味この第1弦がブルーグラスというジャンルを確立したのです。

とはいえ、ブルーグラスが戦後突如現れた音楽かといえば、もちろんそんなことはありません。ではその前はなにか、というとヒルビリーらしい。ヒルビリーがカントリーに発展的解消していく段階で、枝分かれしたのがブルーグラス。と一応そういえます。

しかし、なるほどブルーグラス自体は新しいジャンルではありますが、開拓時代の素朴な音楽が進化し、枝分かれしていく中、シーラカンスのように殆ど変化をせずにメインストリームから取り残されてきた音楽が、現在ブルーグラスというジャンルに残っているのではないでしょうか。だからこそ、デキシーとの親和性を感じさせるのではないか、そのように思います。
BluegrassRadioを聴きながらふと頭に浮かんだ由無し事でした(^^;
編集済


私信 投稿者:管理人 投稿日:12月 5日(日)12時19分49秒

アレクすてさん
旧アドレスにメールしました。届いてますか?
新アドレスが無効のようです。


「引き潮のとき」復刊について 投稿者:管理人 投稿日:12月 5日(日)11時36分25秒

ミネルバの梟さん
どうも、お久しぶりです(^^)
>「引き潮のとき」 2005年中旬から順次発売予定だそうです

すみません、怠けていて(^^;
といっても、まだお知らせできるような情報を持っているわけではないんです。眉村先生が大変喜んでいらっしゃったとは聞いているのですが。
新書版とのことですから、5巻に収まるはずはないですよね。そういう具体的なところ、ひょっとしたらまだ確定してないのかもしれません。ともあれ、分かったことがありましたら、その都度お知らせしていきたいと思っております。よろしくお願いいたします。
編集済


黒田藩 投稿者:ミネルバの梟 投稿日:12月 5日(日)00時41分3秒

こんばんわ
黒田藩にて
「引き潮のとき」 2005年中旬から順次発売予定だそうです。
情報追加よろしくお願いいたします。


ハードボイルド 投稿者:管理人 投稿日:12月 4日(土)19時56分31秒

そろそろ年賀状の準備をしなければいけません。
大体毎年、プリントごっこで作成していたのですが、先日近くのホームセンターに見に行ったらずいぶんささやかな展開しかしてなかった。やはり衰退商品なんでしょうか。私自身は非常に愛着のある器具なんですけどねえ。
発売の最初の頃からのユーザーで、その当時この道具で同人誌作れないかな、と真剣に考えていました。結局実現しませんでしたが。

ともあれ消耗品が揃いそうにないので、今年はパソコンで作成するつもり。パソコンプリンタのトナーは高いし、あまりプリンタに負担をかけたくないのですが、背に腹は変えられません。
しかしプリントごっこの、あのちゃちな味わいには捨てがたいものがあるので、なんか他に利用法がないものか考えたいものです。

「ロング・グッドバイ」は150頁を越えました。
そろそろ話がややこしくなってきた(^^; 矢作俊彦は特にそうですが、大体ハードボイルドは話の展開がよく把握できないことが多いです(^^;
私の頭が悪いのが最大の理由ですが、どうもそればかりではないような気がします。
あるいはハードボイルドの、その構造自体に起因する部分があるのではないでしょうか。

いうまでもなくハードボイルドは「一人称」が大原則です。作中主人公の探偵の視点に徹しています。探偵の視界に見えたものしか、読者には見えない。しかも探偵の心の奥底が見えない場合も多い。つまり探偵の視線がカメラの働きをするばかりで、それがどのような意味を持っているのかといった、一種の整理や判断は、読者には直接的には読めないのです。

SFの場合、大体一人称であることは少なく、たとえ一人称であっても、カメラに徹するのではなく、その視点者が話の内容を要約したり解説したりしてくれる鳥瞰的な配慮が必ずなされている。ハードボイルドではそのような配慮はありえません。

それが現実だろう、というのがハードボイルド派の主張で、たしかに我々は自身の周囲で継起する「出来事」を誰に解説してもらっているわけでもなく、ましてや鳥瞰的な視座を持つことはありえません。あいまいで不確かであることこそ、「現実」の契機であることは確かです。

そのような現実に近い視点をハードボイルド派は小説の世界に持ち込み、一世を風靡したわけですが、
結果、その小説世界は、現実世界同様のあいまいさ、不確かさに覆われてしまいます。私のような頭の悪い読者は、途中で何がなんだか分からなくなってしまうわけです。
自慢にもなりませんが、私はチャンドラーの小説はほとんど読みました。読後のああよかった!といった甘酸っぱい感動は覚えています。が、そのストーリー自体はまったく頭に残っておりません(^^;。そのような次第で本書は「長いお別れ」を踏んでいるそうですが、その辺はぜんぜん分かりません(汗)。

先日、ハードボイルドはリアリズムではなくファンタジーだと書きましたが、上の意味でのリアリティは確かにハードボイルドは契機として備えています。しかしながらそのようにして語られる物語が、結局「男のロマン」といった、リアリズムではなくファンタジーに傾斜していくところが、ハードボイルド小説のぬえ的な面白さといえるかもしれません。
編集済


「願い星、叶い星(補足)」 投稿者:管理人 投稿日:12月 3日(金)21時55分39秒

Yさん
>わたしもベスター買ってあるのですが、まだ読めていません
面白いですよ〜(^^)
ところでチャチャヤン気分にいろいろ書きましたけど、肝心なことを書き落としているんですよ。私の書くものはいつもこうなります(ーー;。

というわけで、それについての補足をチャチャヤン気分に掲載しました。

「ロング・グッドバイ」は100頁を越えました。
二村は警官であることをなぜか隠しているんだが、拳銃を所持していることが明らかになっても、「撃墜王」がぜんぜんそれを不審に思わないのは無理がありますな(^^;
ところがそれがまったく気にならないのは、私がストーリー(内容)ではなく「表現」(解釈)を楽しんでいるからでしょう。

本書の時代設定は、長嶋のチームとダイエーが優勝を争った年とありますから、2000年ということになります。このように本書には年号などがあからさまに記されることはありえません。また長嶋のチームと書いてあっても、決して巨人と書かない。作者の心情が大変よく窺えますね(^^;
しかし2000年の物語に、二村が「とっくに40を越えたよ」(66p)と言っているのは計算が合わない。サバをよんでやがる(^^;


見られました 投稿者: 投稿日:12月 2日(木)22時39分43秒

あ、「チャチャヤン気分」の方、直ってますね。
最新が頭から読めます。スタイルシートは難しいです。
わたしもベスター買ってあるのですが、まだ読めていません。


「THE WRONG GOODBYE  ロング・グッドバイ」 投稿者:管理人 投稿日:12月 2日(木)20時08分49秒

に着手しました。
いやもう1頁目からうるうる、矢作節全開です!まさに偉大なるワンパターン(^^;
21世紀の話なので二村は50歳を越えているはず。なのにぜんぜん変わっていません。まだ50pなので確言はできませんが、見た目も心も、どう贔屓目に見ても50代には見えない。ぜんぜん成長していないと言ったほうがよいかも(^^;。
でも、それでいいのです。誰も矢作にリアリズムを求めてなどいないのですから。
ハードボイルドはリアリズムと言いますが、本当は違うのです。ハードボイルドはファンタジーなんですよ。
21世紀日本にいかにあの60年代を現出させ得るか、それが本書の執筆意図でしょう。ある意味タイムスリップ小説といえるかも。いやあ楽しみ楽しみ(^^) しかし本を仕事場に忘れてきてしもた(泣)
編集済


『願い星、叶い星』 投稿者:管理人 投稿日:12月 1日(水)21時17分52秒

チャチャヤン気分に掲載しました。


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