【掲示板】


ヘリコニア談話室ログ(2005年1月)


おいおい 投稿者:管理人 投稿日: 1月31日(月)21時43分47秒

SFM3月号の山田正紀「君よ、非情の川を下れ」って、まんま西村寿行やん→「君よ憤怒の河を渉れ」(汗)
いいけど恥かしくないのか?
編集済


眉村卓に捧げる歌 投稿者:管理人 投稿日: 1月31日(月)20時56分8秒

SFマガジン3月号の「地球スコープ2005」(笹公人)は、「眉村卓に捧げる歌」3首。
昨日の「囲む会」の直前に旭屋で立ち読みしていて気がつき、慌てて購入。早速眉村さんにお見せしました(^^;
私自身は3首目が(タルホっぽくて)よかった。

 流星は次元ジプシー ぬばたまの深夜ラジオを消してまどろむ

また巻末の作者のコメントもよい! いっぺんに好感を持ちました。75年生まれですか、どんな眉村歴なのかちょっと知りたい(^^;


眉村先生を囲む会 投稿者:管理人 投稿日: 1月31日(月)20時26分34秒

先生ならびにお集まり下さった皆さま、どうもありがとうございました。またお疲れ様でした。
いろんな話題が飛び交い、おかげさまで私自身とても楽しかったです! 
南湖さんにはお酒ビールの手配を引き受けてくださってとても助かりました。ありがとうございました。

edger_さん
初参加ということで、ずいぶんお気を使わせてしまいました。楽しんで頂けたのでしたらよかったです(^^)
もみじまんじゅう、美味しく頂きました。ありがとうございました。
次回からはどうぞお気遣いなく。お誘いし辛くなりますので(^^ゞ
頂いた御本はゆっくり拝見させていただきますね。

柳生さん
お疲れ様でした。
眉村さんのあの件、お手数をおかけしますm(__)m。
受け渡しですが、メール添付だと物凄く重くなりそうなので、よければ一時的に(隠れアドレスで)サイトに立ち上げていただき、それをダウンロードすればラクなのではないかなと思っております。ともあれよろしくお願いいたします。

なぜ川柳なのか、昨日の話の流れでなんとなく分かってきました。五七五は踏襲したいけど季語には煩わされたくない、しかし俳句で無季とかすると新傾向俳句とか自由律とか話がややこしくなる、ということで、では? 違う?(^^;

>幻の光
おお、この映画も宮本輝原作ですね。宮本輝さんのHPヒストリーをみてびっくりしたのですが、父親の事業失敗で親子離散したり、ものすごく苦労されているんですねえ。
「星新一と尾崎放哉」に眉村さんが、星と放哉の「挫折体験」について書いていらっしゃいますが、加えて車谷長吉の場合は特にそうですが、この3人は言っても大人になってからの挫折体験なんです。宮本輝は少年期のそれですから、刻印された傷はもっとざっくりと深いのではないでしょうか。そういう挫折体験が小説に滋味を与えているのは間違いないでしょう(もっとも宮本文学は書き過ぎで出来不出来が激しいという意見もあるようです(^^;)
ともあれ、ツタヤで探してみますね。

藤野さん
ご出席ありがとうございました。
まあ「評論家」の言う事は、実作者には百害あって一利なしなのであまり真剣に耳を貸さないほうが(自分で言うのもなんですが(^^;)。
ご自分の書きたいものを書きたいようにお書きになったら良いのではないでしょうか。昨日の続きになりますが、やっぱり「教えてもらう」ものではなく、おのずと「分かってくる」ものだと、私は思います。
第3作目も楽しみにしております!
編集済


昨日はありがとうございました 投稿者:藤野恵美 投稿日: 1月31日(月)11時43分4秒

おもしろSF裏話、文学談義、とっても楽しかったです。
しかし、自分は未熟者で知らないことばかりだなあと痛感しましたので、ちゃんとお話についていけるよう、これからも精進していきます……。
眉村先生のお言葉を胸に刻み込み、また今日から原稿がんばります。
ではでは! ぜひ、次回もお声をかけてくださいね☆


(無題) 投稿者:柳生真加 投稿日: 1月31日(月)08時03分20秒

きのうの眉村先生を囲む会、本当にありがとうございました。
楽しくて、あっというまに時間がすぎてしました。

「泥の河」といえば小栗さんに電話取材したことがあります。ちょっとぶっきらぼうで、ちょっと「俺様」で、それでいてとても温かなお人柄に大感激。「泥の河」大好きな映画です。あと別の監督ですが「幻の光」もいい!

>>売り上げ利益よりも広告掲載料のほうが多い
ついでに、フリーペーパーも広告収入で成り立ってます。

ではまた。

http://homepage2.nifty.com/kazenotsubasa/index.htm


 ゛ 今日は有り難うございました! ゛ 投稿者:edger_ 投稿日: 1月30日(日)22時23分36秒

 
 大熊 様 先生方は勿論 皆様

 無事に帰広しました。
 到底お会いすることが出来無い方々にお眼に掛かれて、貴重で楽しい様々な文学談義を
拝聴することが出来て、とても楽しい時間を過ごすことが出来ました、深謝深謝深謝!です。

 先ずはお礼まで。
 


湊橋 投稿者:管理人 投稿日: 1月29日(土)20時10分58秒

原田さん

>映画『泥の河』と『ピンクレディの活動大写真』では、
>後者の方が先ですね。失礼しました。
いやいやそうともいえませんよ。
宮本輝の原作は77年初出なので、ジェームス三木脚本『ピンクレディの活動大写真』(78)が、映画ではないにしても、小説の「泥の河」にヒントを得たというのは、大いにありえると思います。

>『荒野の少年イサム』の凧
>舞台に設定された時代にはありえないアイテム
いつもながら鋭いご指摘で恐れ入ります!
たしかにリアリズム映画としては絶対に犯してはならないミスですよね。

ところで、当の「廓舟」ですが、下述の本によりますと、小説には「湊橋の下に」停泊していたと書かれているそうで、そうしますと映画の舞台は私が通った下福島中学校から二百メートルと離れておらず(地図)、確かに私の子どもの頃(1960年代)にはそのような舟は影も形もなかったのですが、ここで仮説を提出いたしますと、実はジェームズ三木さんは、私の母校市岡高校の先輩に当たりまして、湊橋から市岡高校までは、かの川口居留地を横目に一本道(172号線)で2キロ程度なんです(地図)。

ジェームズ三木さんは昭和10年年生まれ(眉村さんより1歳年下)で、市岡高校には昭和26〜27年頃在籍しておられたはずです。その後中退されるのですが、映画の設定が昭和31年(小説では昭和30年)なので、しかもこの話は宮本輝の私小説ということなので、三木さんがこの廓舟のような「水上生活者」の舟を現実に見た可能性はかなり高いと思われます。(付記*私小説というのはどうも違うようです)

ですから、「泥の河」を読んで触発されたのは確かながら、「ああ、そういえばそんな舟があったな」と思い出されたのではないでしょうか。そういう体験的な記憶があったればこそ、ピンクレディの脚本に取り入れる気持ちにもなったのではないか、そんな風に想像しました。
だからといって時代考証をないがしろにしちゃいけませんよね(^^ゞ
編集済


おっと・・ 投稿者:原田 実 投稿日: 1月29日(土)13時37分37秒

映画『泥の河』と『ピンクレディの活動大写真』では、
後者の方が先ですね。失礼しました。

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


『泥の河』 投稿者:原田 実 投稿日: 1月29日(土)13時33分20秒

この作品で、水上生活者の船の中に
『荒野の少年イサム』の凧が張ってあったことが
奇妙に印象に残っています。
http://www.begets.co.jp/tvmanga/db/data/135isamu.html
もちろん舞台に設定された時代にはありえないアイテムなのですが、
これほどリアリティを追求した作品で、現場で誰も気づかなかったとすれば、
当時、子供のおもちゃが時代考証の対象たりうるとは思われていなかったのだな、
と変なところに感慨を覚えてしまいます。
ちなみにジェームス三木脚本『ピンクレディの活動大写真』
http://www.jmdb.ne.jp/1978/db003470.htm
オムニバスの1エピソードが『泥の河』にヒントを得たと思しき
水上生活者のラブストーリー。78年当時には、かつての水上生活者はもはや
定住に入っており、こちらでは三木氏の同時代感覚のなさに驚かされました。

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


訃報 投稿者:管理人 投稿日: 1月28日(金)20時20分7秒

かんべむさしさんのホームページふりーめもによりますと、イラストレーターの佐々木侃司さんが亡くなられたそうです。
大好きなイラストレーターさんでした。一番好きだったかもしれません。よく真似していました。高校のとき作っていたSF研会誌には、佐々木侃司さんのキャラクターそのまんまの私のカットが載っています。
72歳というのはいかにも慌ただしい旅立ちで、まことに残念な気がいたします。ともあれご冥福をお祈りいたします。


「ぜんぶ大阪の映画やねん」 投稿者:管理人 投稿日: 1月28日(金)19時52分30秒

edger_さん
そうか、広告収入ですね!
私は週刊誌を読まず、購入する雑誌といえばSFマガジンのような(殆ど広告がない)雑誌なので、まったく想像外でした。ご教示ありがとうございました。

つまり、コンビニに並ぶような雑誌のばあい、その主たる利益は、本筋の雑誌売り上げ利益よりも広告掲載料のほうが多いということなんでしょうね。
――が、しかしそのような状況は私にはとても胡散臭く感じられます。不自然としか思えないわけでありまして、これもまた70年代に萌芽し80年代に確立した消費資本主義の悪弊などと言うと、古いなあと笑われるのかも知れませんが、そういえばこの胡散臭さは<ポストモダンの・ようなもの>に感じるのと似ているかも。

>わたしのようなど素人が紛れ込んで大丈夫かなあ
ぜんぜん大丈夫です。ご安心を(^^)

武部好伸『ぜんぶ大阪の映画やねん』(平凡社、00)という本をぱらぱら見ているのですが、「泥の河」に1章を割いており、
 「映画の基本はリアリズム」と小栗監督が信念を抱いているだけに、ディティールにとことんこだわり、ふくよかな余情を漂わせ、小説『泥の河』の世界を見事に銀幕に構築させた。
とあります。

一方、同じく宮本輝の小説の映画化、「道頓堀川」については、
 原作はしかし、決してラヴロマンスではない(……)それほどドラマチックではないのだ(……)しかるに映画では(……)はるかにドラマ性がある。(……)映画は思い切って原作をそぎ落とし、その一方で映像的に見映えする要素でたっぷり肉付けした。ちょっといじくりすぎた嫌いがあり(……)
と、批判ではないが不満めいた口調です。

「道頓堀川」は未見ですが、上の評言でなんとなく分かります。つまり深作欣二監督のこの作品は、私が日本映画の構成要素で最も嫌う特徴を強く備えているのでありましょう。
「泥の河」と「道頓堀川」を見比べてみるのも一興かも知れませんね(^^;
編集済


 ゛ そんなアルバイト募集見ましたー ゛ 投稿者:edger_ 投稿日: 1月27日(木)22時33分19秒

 
 囲む会、約1名、捕獲に失敗しました・・!
 で、変更無しで参ります、失礼しました。
 わたしのようなど素人が紛れ込んで大丈夫かなあという・・、笑って誤魔化しますっ・・。

 あるばいとの件はわたしが見たのはとある単行本でした。
 何かの本で読んだことがあったのですが、実際の募集記事にはやはりびっくりしました。
 雑誌の場合だと、広告料取得の為には部数さえ出せば良いので、
新しいそのままを流通にも乗せないで、直にごみ処理場にすら持ってゆくというのも
読んだような気がします・・、何だかこわいですね・・、そんなばかりでもないでしょうけれど。
 書店売り上げベスト入りする為には、調査該当書店でのみの買い占めあるばいと・・、
ああ・・。
 


雑誌社の奇妙なバイト 投稿者:管理人 投稿日: 1月27日(木)20時15分24秒

途中から聞いたので、どういう経緯の話か分からないのですが、河内屋菊水丸さんのラジオ番組にチューニングをあわせると、ちょうど雑誌社のアルバイトをしているというリスナーと電話で話をしていて、そのリスナーによれば、仕事はコンビニを回って、その社が出している雑誌が何冊売れているか調査すると共に、当のその雑誌を買い占めてしまうというアルバイトで、当然その買占め費用は雑誌社が出すのだそうです。

この話に、菊水丸さんは首をひねって、そんなところに金を使うくらいならば、内容に金をかけるべきなのに、けっきょく内容より目先の売れ行きが大事なのであろうという結論だったわけです(たとえ売れ行きだとしても表紙を改善するとか方法があるのではないか、とも)。

菊水丸さんは言及しなかったですが、これはまさに再販制の問題点が析出している事例ではないでしょうか。再販制では売れ残れば返品されるのですから、店頭で返品分を買い占めても実は同じ。コンビニに利益は落ちますが、おそらくそれも10%程度だとしたら、実際のところ10%の出費でとりあえず見かけ販売部数は増えるわけです。

再販制には、システムの合理的な部分も非合理的な部分も、それぞれあるのでしょうが、上は、その非合理的な部分が端的にあらわれているように思われます。
つまり出版社なり編集部のいわば「生存意志」が、本来目指さなければならない雑誌の内容の向上に、必ずしも向わず、再販制ゆえにあり得る「別の」生存可能性を選択してしまうという制度上の問題です。

今日の菊水丸さんの番組は、そのようなことを少し考えさせてくれて、なかなか勉強になりました。

>「虚無への供物」
なるほど!
おキミちゃん[黄薔薇:照明が突然真黄色:クリームいろのセーター:萌黄のスエード(靴)]
いや、はなから手掛かりが示されているではありませんか。そういうことが、再読すれば分かってくるという小説なのですね(^^;
かくのごとく、本書は再読してこそ面白さは倍増するのであって、再読は必須の小説だと知れました。
けだしウルフ「ケルベロス第五の首」は、アメリカの同族というべきかも。
編集済


ご好評につき 投稿者:管理人 投稿日: 1月26日(水)20時59分34秒

   ターザン映画   柊たんぽぽ

 ターザン映画が評判になっている。
 スクリーンの中の少年ターザンが日に日に大きく、強く、たくましく成長しているのだ。
それにつれて、映画館に足を運ぶ人が増えていってる。
 ロープにぶらさがって「アーアー」と叫びながら飛んでいるシーンが話題の中心。画面
の奥から手前のスクリーンの方に向って飛んでくるのだ。昔は少ししか飛べなかったが、
最近では大きくなった為か、ぐっと飛翔距離が伸びている。このままの調子でいくと数日
の内にスクリーンを破って出てくるのは必至だ。
 今日こそは、実物のターザンが見れる、見たい、体に触れたい、そうなんだ、絶対に今
日こそはスクリーンを破って現われるのだ。
 はたして、そのとおり。
「アッ・アアー」
 ターザンがスクリーンの奥から叫んで飛んできた。
「バリッ!」
 スクリーンが破れ、ターザンが映画館の舞台の上へ降り立った。
「ワァーすてき」
「ターザン、ターザン」
 ターザンの姿は精気に満ちていた。野性の香りがほとばしっていた。観客は有頂天になっ
て騒いでいる者、あるいはうっとりして放心状態になっている者、等々でザワザワしていた。
 一方、ターザンはスクリーンを破って、異様な世界へ飛びこんだ為か、ソワソワしだした。
そして、顔が真赤になりだし、俯き、モジモジしだした。やがて、スクリーンの破れた穴の
中へ入ってしまって隠れた。それから、ターザンは内側からその穴を縫ってしまった。
 それからのターザン映画はどうなったか。
 それからというもの、ターザンは決してスクリーンの方へは顔を向けず、ロープにぶらさ
がって、スクリーンの方から画面の奥の方へばかり飛んでいくようになった。
 ターザンも年老いたせいか、飛ぶ距離が短くなったように思える。
「アーアー」

                           <北西航路1号>(75)より


ラストの「アーアー」は横山たかし風に言うと吉(^^;

『虚無への供物』の再読に着手しました。                 


『無常の月』 投稿者:管理人 投稿日: 1月25日(火)20時43分48秒

edger_さん
前日(29日土曜)の夕方までに連絡いただければオッケーです。ただし私自身がPCに触れない可能性があるので、携帯の方にメールくださったほうが安全です。
ということで、当日楽しみにしております(^^)

>「オホーツク海」
みなさま、理解していただけましたか(^^;
これは少年が日本海をオホーツク海と勘違いしているのです。
日本海さんはどうも海面をひっかぶって昼寝していたようです。少年の間違って呼ぶ最初の声で片目が開きます。が、まだうつらうつらしています。
二度目の声でかなり目覚めます。が間違った名前なのでとりあえず無視します。日本海さんはつぶやきます「わしは日本海や、オホーツクたらいう名前と違うど」
三度目の声はかなり大きくて、さすがに日本海さんはムッとしたのでしょう、やおら引っ被っていた海面をめくりあげて叫び返します。「日本海!」
4こま漫画なら端っこにひっくり返った少年の足が二本だけ見えているかもしれません。日本海さんの不機嫌な顔が目に浮かぶようですね(^^ゞ

このへんてこな感覚はまさしくワン・アンド・オンリイな柊ワールド! さすが日本のラファティであります。
本編は比較的分かりやすい話なんですが、こんなリニアな話ばかりではありません。私のような感覚のレンジの狭い者には歯がたたない作品も多く、そんなところもラファティによく似ています。
そして昨日気がついたのですが、本篇掲載号の著者のメッセージ欄で、柊さんはなんとラファティの名前を挙げているんですね。この頃から既にラファティを意識されてたんですねえ。
最近は新作がありませんが、また昔のように楽しませていただきたいものです(ていうか、発表する場がないんだよね(ーー;)

ラリイ・ニーヴン『無常の月』小隅黎・他訳(ハヤカワ文庫、79)読了。

まず、本書は同じく79年に出た、正確には5ヶ月後に出た『太陽系辺境空域』と収録作品が3本も被っています。何故調整しなかったのか? という不満はありますが、作品集としてのレベルは高くて満足しました。
ニーヴンて面白い!
初期の作品集である『太陽系辺境空域』と本書を読み継いで、そう認識を改めました。というのも最初に読んだのが『リングワールド』だったので、冒険小説を書くためにハードSFを設定として利用する作家だと思い込んでしまっていたので(^^;
この短篇群のニーヴンはストーリイを語る作家ではなく、設定を語るためにプロットを利用するピュアなSF作家でした。

何はともあれ、表題作がすばらしい。森下さんの日記(1月14日)で取り上げられていたのが本書を読むきっかけですが、木星が(タイムラグで遅れて)輝きだす場面はセンス・オブ・ワンダーでゾクゾクしました!

「終末も遠くない」は一種<剣と魔法>ものですが、「超自然力」が「資源」のひとつであり、使い切ればなくなるという設定がいかにもハードSF作家らしく、ユーモアあふれた良質の作品に仕上がっている。

「路傍の神」はそのユーモア感覚が全面に発揮された泰平ヨンを彷彿とさせる宇宙ほら話。

「時は分かれて果てもなく」と「霧ふかい夜のために」は決断のたびに枝分かれしていく多元宇宙論がかなりストレートに語られていて興味深い。

「マンホールのふたに塗られたチョコレートについてきみには何を言えるか?」は、創世記神話に新解釈を施すユーモラスな哲学マンガ。

他に空想科学エッセイとか断章風の作品とか。
編集済


 ゛ お世話様になります ゛ 投稿者:edger_ 投稿日: 1月25日(火)20時12分15秒

 
 眉村さんを囲む会、不明なんですけれどもう1人引っ張って行くとしたら、
ぎりぎりいつまでに申し込めば大丈夫でしょうか。

 さて、もう前ですけれど、西村寿行さんのお名前、懐かしかったです、
きゃあーっっっっっっっ!!!くらい。
 


柊たんぽぽさんと 投稿者:管理人 投稿日: 1月24日(月)20時41分10秒

柊たんぽぽさんと連絡が取れました。
いま持病の痛風(!)が出ていて、仕事も休んでいるそうです。そういうわけなので1月30日の会は無理とのことでした。日曜出勤のお仕事らしく、いずれにしましても今のパターンでは出席は難しそうです。
電話でいろいろ近況を伺いました。その内容は当日会場で(^^;


   オホーツク海          柊たんぽぽ

 海辺。一人の少年が在た。
 少年は大きく拡がる海に向って叫んだ。
 「オホーツク海」
 その声は海面へ拡がっていって、消えた。
 そして、静かな波の音がくりかえす。
 少年はさらに大きな声で叫んだ。
 「オホーツク海」
 その声は空に海に拡がっていった。
 そして、再び波の音。
 少年はありったけの声を体からふりしぼって叫んだ。
 「オホーツク海」
 その声は海に轟き、ひびきわたった。
 すると、ガバと海面がめくれあがり、海の中から声あり。
 「日本海」
                  (北西航路1号より)
編集済


自虐と孤高 投稿者:管理人 投稿日: 1月23日(日)21時04分22秒

急遽和歌山へ出掛けることとなり、探偵講談をパスしてしまいました。今回はホームズ講談ということで楽しみにしていたのですが、残念です(ーー;
それに今日は拙文を載せていただいた同人誌を受け取ることにもなっていたので、こちらも残念。まあ次回ということで。

風野さんが尾崎放哉を話題にしています。
実は放哉って実作を殆ど知らなかったのです。なるほど、これは確かに心理状態によっては激しくハマってしまいそうな引力を感じますね。この引力が、裏を返せば眉村さんのおっしゃる「押し付けがましさ」となるんでしょう。

>自虐と孤高は紙一重
ふむ。
そういえばわれらが所与志夫も、自虐と孤高の詩人だな。

  ひとつ     
  駅を      
  乗り過ごした  
  ぼくは     
  そこに
  いなかった

  ときどき
  ぼくは
  おもに深夜だけど
  時の流れに
  乗り損なって
  壁に八つ当たりする
  もしくは
  アルコール

  ぼくは
  とても
  またぞろ
  つらくあります

  ああ
  ぼくは
  無自覚に
  幸せだ
  多分

  さて
  何をいたしましょうか

  小人閑居して
  不善をなす
  外は雨

  なんだか
  話すのも
  面倒だ
  ビールを飲む
  
編集済


『自由という服従』 投稿者:管理人 投稿日: 1月22日(土)19時59分46秒

数土直紀『自由という服従』(光文社新書、05)読了。

ううむ微妙。
自由である、という服従。自由だからこそ、権力に捉えられている――という一見不可解な機制について解説されています。
こういう鬼面人を驚かすような述語を使われるといったい何のことかと思うわけですが、読んで了えば、要は文化のシステム、つまりは「構造」のことを社会学のタームで語っているのだと思います。

わたし的に言い換えれば、フォーマットのことを初期化というように、「まっさら」(自由?)であることが、そうであることによって必然的に或る「かたち」を選択(服従?)させられている、ということを例を挙げて解説しているといえましょう。

これは文化構造論的にはかなり当たり前(周知という意味ではない)の議論なので、その意味で大筋首肯できるのですが、説明のために例としてあげられるものの中に、肯けないところがあります。
それは「自由恋愛、という支配」の説明の部分で、男性が積極戦略を取り、女性が消極戦略を取って安定するまでを進化論的に説明がなされていて、その部分はとても面白かったのですが、その可能性はどっちでもありえた、すなわち偶然だったとするのですが、やはりここも小田亮が言うように、進化論的にいって男性が積極戦略を取るのは必然だったのではないかと思います。

 より効率よく子孫を残すためには、オスはなるべく沢山のメスと交配した方がよく、メスは量より質というわけで交配するオスを「えり好み」する方がよい。メスはなかなかオッケーを与えない。じらす。もっと質の高いオスが現れるかも知れないからだ。(小田亮『サルのことば』京都大学学術出版会、99))

というのは枝葉の話で、この積極戦略-消極戦略が支配-被支配と呼べるものか私はやはり疑問。なぜなら当事者としての男が積極戦略でせまっても女が拒否することは日常的に観察されるからです。この例は不適当だったように思われました。

とはいえ上述のようにこのような認識は現在でも「周知」なものではないので本書の価値は些かも損なわれるものではありません。
編集済


「泥の河」 投稿者:管理人 投稿日: 1月21日(金)20時13分38秒

アレクすてさん
>泥の河
わざわざ見直してくださったんですね。恐縮です。

>確かに『泥の河』の表現(画面の質感や、そこから受ける登場人物の生活観や演技、
>また映画のストーリーから劇的なものをできるだけ外す)は、
>「自転車泥棒」や「にがい米」などと似たものを感じます
そうなんですよ。「画面の質感」とは言い得て妙ですね。絵画なら「タッチ」、小説なら「スタイル」というやつですね。それが「自転車泥棒」なんかの「質感」にとても近いと思いました。
日本の映画は、おっしゃる「劇的なストーリー」に依存しがちだというのが私の偏見なんですが、「泥の河」はそういうものを意図的にはずしていますよね。
(人間が想像する)「劇的」なものなんて高が知れているので、これほど「ありがち」で「単調」なものはないと思います。実際(「劇的」なものほど)簡単に先が読めてしまうんです(これも偏見(^^;)。

>大熊様も見てください、
>やはり最後まで見ないと、あの感動は…)。
いやおっしゃるとおり! 私もツタヤで借りてみてみますね。

ひきつづき、「『日本における』リアリズムの受容論」、期待しております!!

新書、1月分が店頭に並び始めましたね。岩波新書『ポストコロニアリズム』とかも面白そうなんですが、まずは光文社新書『自由という服従』を読み始めました。これはなかなか刺激的な予感(^^;
編集済


2.以降の 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月21日(金)07時36分37秒

日本における受容文化論は、また、今度書きます。
ちょっと、まだ考えがまとまらない部分があるので…


「泥の河」は、昔一回見ただけなので記憶に残ってなかった。 その2 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月21日(金)07時34分5秒

でもカテゴリやジャンルという縛りから、はなれてみると
確かに『泥の河』の表現(画面の質感や、そこから受ける登場人物の生活観や演技、
また映画のストーリーから劇的なものをできるだけ外す)は、
「自転車泥棒」や「にがい米」などと似たものを感じます。
また大熊様は

>実はあまりに可哀想で最後まで見ることが出来ず、途中までの印象ですが。

とおっしゃいますが(非常によくわかりますが)
最後まで見ると、チェーホフやバルザックに通じる「なるほど!
こういう話なら、こう終わるしかない!感動した!」という
骨太で、納得のいくFiction(作りはなし、という意味ではなく
「大文字の文学、小説」の意)でありました。
(ビデオで見直しました。大熊様も見てください、
やはり最後まで見ないと、あの感動は…)。


1. 「泥の河」は、昔一回見ただけなので記憶に残ってなかった。 その1 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月21日(金)06時40分54秒

実は、最初に「泥の河」が「『イタリアン・ネオ・レアリズモ』ではないか?」と
大熊様に言われたときに感じたのは、「違和感」であります。
それは、まるで「日本で書かれたハードボイルド小説といえば山本周五郎ではないか?(大意)(発言者は開高健、雑誌プレイボーイにて内藤陳との対談から)」
という意見を聞いたときのような「え?よく意味がわかりませんが?」といった
印象がありました。
つまり、ジャンルやカテゴリといった概念に縛られていたので、
その二つを比較しようという発想がなかったのですね。お恥ずかしい話です。


イタリアン・ネオ・リアリズモと日本の表現について 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月21日(金)06時25分58秒

おはようございます、大熊様。
返事が送れて申し訳ございません<(_ _)>。
そのことについて一つ二つ、言い訳させていただくなら

1. 「泥の河」は、昔一回見ただけなので記憶に残ってなかった。

2. 日本におけるリアリズム描写の受容のしかた、というのは
テーマとして非常に巨大なものであり、答えに困るところがあった。

3. 2と矛盾するが、実は「日本におけるリアリズム描写の受容の偏頗」
についての答えを、自分なりに持ってはいるが、それは他人が、考えたものであり、
自分の言葉にできていない。
また、その「他人の答え」というものに異論もあったりする。

4. 「『日本における』リアリズムの受容論」というテーマは、一種の文化論であるが
論を丁寧に展開しないと
「だから日本はダメなんだ!」という感情論の垂れ流しに陥ってしまい
建設的な発言になりにくい、

といったところで、ちょっと返事を躊躇しておりました。
ですが、そうもいってられないので、(かなり乱暴な展開になると思いますが)
ちょっと書いてみたいと思います。<(_ _)>


『イシャーの武器店』 投稿者:管理人 投稿日: 1月20日(木)20時28分5秒

ばあどさん
ようこそご来信くださいました(^^)

>「高斎正」で検索して
あわわ、申し訳ありませんm(__)m
貴ページ、さっそくリンクを辿って拝見させて頂きました。すばらしいサイトですね。
高齋正さんのエッセイが読めて嬉しかったです。
私はメカに弱いので、ガチガチのカーものは読めないのですが、飛行船ものが大好きです。大空を高級ホテルが飛翔する世界の物語、もっと読ませていただきたいですね。
といいつつ、まだ第3部は未読なんです(汗)。すみません。なんとか入手して読んでみたいと思っています。
ということで、気が向いたらまたお立ち寄りくださいね。お待ちしております!

A・E・ヴァン・ヴォークト『イシャーの武器店』沼沢洽治訳(創元文庫、66)読了。

たぶん読み返すのは3回目。何度読んでも面白いですな。
ストーリーは穴だらけ、ギクシャクしてゴツゴツして、客観的には下手としか言いようがないのに、何ともいえぬオーラが出ていて魅せられますねえ。不思議ふしぎ。奇コレあたりで短篇のベスト集出してくれませんかね。

>眉村さんを囲む会
予定の店で予約できました(^^)


眉村卓さんのファンサイトだ 投稿者:ばあど 投稿日: 1月19日(水)22時14分16秒

はじめまして管理人様。
「高斎正」で検索して、こちらの過去掲示板がヒットしました。
「ねらわれた学園」や「まぼろしのペンフレンド」、懐かしいです。

作家のファンサイトを訪問すると、管理人さんたちの意気込みが伝わってきます。
高齋正さんのファンサイトを作ったものの、カーレースや自動車業界の作品が多く、SFや飛行船、カメラ本の話題が出てこないのが寂しいです。

http://www.geocities.jp/kosai_fan/


「三枝和子の狂言集」 投稿者:管理人 投稿日: 1月19日(水)20時04分2秒

大橋さん
今年もよろしくお願いします。
トークショー行かれたんですね。うらやましいなあ。
それはそうと、「『子不語の夢』に捧げる」届きました。ありがとうございました。
ダブリではありません。おかげさまではじめて現物を見ました。
それにしてもすごい面子ですねえ! 私は、ありがちな一般読者からの投稿をまとめたものと思っていたので、びっくりしました。
そういうわけで、奇をてらったような肩書きでは浮いてしまうと思い「自営業」としたんですが、こういう冊子と分かっていたら、堂々と「SF作家眉村卓ファンサイト管理人」という肩書きにしたのに(ーー;
しかしこのリーフレットはどこで手に入れられるんでしょうね。書店に置いてあるのかな。→「『子不語の夢』に捧げる」

それはさておき、SFもそろそろこのような事業に取り掛からなければならないのではないでしょうか。
とりわけ福島正実です。
現状では関わった作家の側からのルサンチマンばかりが聞こえてくる福島さんですが、その清濁あわせ持った業績の検討のためにも、関係者からの聞き取り、日記や書簡があるのならその公開がのぞまれます。また福島さんの全体像を知るためにはジュヴナイル方面の押さえは必須であり、大橋さんにはぜひその方面でイニシアチブを発揮していただきたいところですね(^^)

「三枝和子の狂言集」を読みました。
これは「馬場あき子の謡曲集」と合本で集英社文庫から出たもので(96刊)、三枝和子が口語訳した狂言が12本読むことが出来ます。
いや面白かった。
実は昨秋、名張で乱歩狂言を観る機会がありました(その前は高校のとき)。わずか一回とはいえ、これを観ていたからこそ面白さを感じることが出来たといって過言ではありません。つまり狂言の「節約」の面白さ、能舞台の配置、声や所作が、一応イメージでき、その結果12本の狂言が脳中の能舞台にかかっている状況を思い浮かべながら読むことが出来た。そういうイメージ化が可能であったればこそ面白いと感じることが出来たように思います。
「末広がり」や「佐渡狐」は落語になりそうな(いや既になっているのかも知れません)ネタで、思わず吹き出してしまいましたし、「月見座頭」はうーむ、とうならされてしまいました。
そういうわけで、ナマの狂言が見たくなってしまいました(^^;

翻って「謡曲集」は、謡曲(能)の舞台を見たことがないため、全然イメージできなかった。「井筒」と「忠度」はなるほど幽玄のかすかな匂いを感じましたが「熊野」は退屈で、これはやはり一度ナマを観なければ分からないのだろうと、あとは読むのを断念しました。まずは一度見に行かねば。


まあひとつ今年もよろしくということで。 投稿者:大橋 投稿日: 1月18日(火)23時19分48秒

「子不語の夢」記念トークショーに行ってきました。
なかなか盛況でしたよ。
で、トークショーの後は飲み会。こちらにも参加させて頂きました。
ダブリだとおもいますが「『子不語の夢』に捧げる」を今日、お送りしました。
大阪の飲み会にも参加させて頂きたいものの、ちょっと無理。残念です。


『アスペルガー症候群と学習障害』 投稿者:管理人 投稿日: 1月18日(火)22時11分55秒

榊原洋一『アスペルガー症候群と学習障害 ここまでわかった子どもの脳と心(講談社+α新書、02)読了。

著者によれば環境汚染の子どもの脳に対する影響の証拠は今のところないそうです(^^;

現在、子どもの心の問題(キレる。学級崩壊等)が増加しているという考えは、ほとんど暗黙の了解として一般に受け入れられているが、本当にそうかと著者は疑義を呈します。多くの大人を心配させているこれら子どもの心の問題といわれているものは、実はこれまでの知能テスト(の方法)では引っかかってこなかった(盲点だった)もので、最近急増したとはいえないのではないか、という立場のようです。
その前提にあるのは多重知能説、あるいは知能のモジュール説で、これらの問題がある子どもは、ソーシャルスキル(相手の表情を読んだり場の雰囲気を察したりするセンス)や社会的知能というような能力(モジュール)がうまく育ってない者たちなのだと著者は考える。
つまり(従来の意味での)知的発達に於いては大きな遅れがないために、気づかれず見過ごされて来ている障害があり、それは近年知られるようになったアスペルガー症候群や学習障害に共通するソーシャルスキルの獲得困難であるとする。

ソーシャルスキルが身につかない理由として、1)ソーシャルスキルを成立させる要件である心の理論や社会的知能、言語的知能が正常に機能していない。アスペルガー症候群や学習障害の一部の場合はソーシャルスキルを獲得するもともとの受け皿に問題がある(脳の高次機能の障害)。2)最近の子どもたちの生育環境がソーシャルスキルの訓練に向いていないものに変貌した(個室化、授業の斉一化等異質との触れ合いの減少)。
ではなぜ人は「心の問題が増えた」と感じるのかというと、1)少子化で子どもに対する関心の度合が上がった。2)これまでは全て「発達の遅れ」とか「勉強が出来ない子」の範疇に含まれていたのが別の項目として(大人の認識野に)独立した。からではないかと筆者は考えます。

それではどうしたら子どもたちはソーシャルスキルを獲得できるかといえば、実は著者も福島さん同様、テレビの影響とかあまり違ったことは言ってないように思われます。
また確かに著者の言うことを受け入れたとしても環境汚染の影響が否定されることにはならない。なぜならこれから影響が出てくるかもしれない、未来的な問題だからです。
著者自身も自閉症は精神疾患ではなく、生得的な脳疾患であるという立場のようだ。だとすれば環境ホルモンが脳に影響を及ぼすという仮説は原理的に否定できずただ可能性だけの問題になってくる筈で、著者の議論がどうもその辺を避けているような節があってやや歯切れの悪さを感じた。その辺は著者も(まえがきを読むと)よく認識しているようだけれども。


『子どもの脳が危ない』 投稿者:管理人 投稿日: 1月17日(月)20時27分28秒

福島章『子どもの脳が危ない』(PHP新書、00)読了。

著者は精神鑑定医として、酒鬼薔薇聖斗をはじめ多くの少年犯罪に関わるなかで、彼らの多くが脳に(それだけでは病気とはいえないが正常ともいえない)潜在的な異常所見が発見されることが多いことに気づき、追跡調査の結果、かかる脳の形成異常が、遺伝ではなく、環境や躾の過誤によるものでもなく、流産防止のために投与された黄体ホルモン製剤(環境ホルモン)が母親の胎盤と臍帯を通って、脳を発達させる過程にあった胎児の体のなかに侵入したことによって引き起こされたのではないかと考えるに至る。

著者によれば黄体ホルモン製剤は女性は男性化(半陰陽)させ、男性は《超男性化》させることが動物実験で確かめられているとする。超男性化とは人並みはずれた攻撃性と性衝動などをあらわす。

かかる(ある意味特殊な)事実から一般化して、著者はヒトの母親が自分の体内に蓄積したダイオキシン等の環境ホルモンが、一回の出産と授乳によってその半分を子供に転移する(しかもその大部分は母乳を経由する)ことに着目し、環境汚染の悪化が子供の脳を以前とは違うものに形成してしまう可能性について言及しているわけだ。

著者によれば19歳で出産した安室奈美恵が子供に転移させたダイオキシンの量は、30代後半ではじめて出産した黒木瞳のそれのちょど半分だったろうとして、若年出産を推奨しています(^^;

以上は脳というハードの変容について。以下はソフト面、OSの変容について著者は、昔と現在では乳児期から幼児期にかけてインプットされる情報の質・量共に変化しているとする。テレビが前提的に存在する現代の乳幼児はそれ以前に比してイメージ的、コラージュ的、直感的であるとする。

かくのごとく本書は事例から帰納し演繹する学術的な手順をきっちり踏んでいて説得力があります。しかもある意味非常にSF的で、田中光二ならこれで長篇一本書いてしまうのではないかと思わせられます。
ただ著者の論旨が優生学的なものではないことは強調しておきたい。その意味でこのタイトルは変な先入観を植え付けそうでやや安易だったかも。

ということで興味が出てきて、榊原洋一『アスペルガー症候群と学習障害ここまでわかった子どもの脳と心(講談社+α新書)というのを買ってきました。


『なぜフェミニズムは没落したのか』 投稿者:管理人 投稿日: 1月16日(日)20時45分25秒

荷宮和子『なぜフェミニズムは没落したのか』(中公新書ラクレ、04)読了。

うーん???
かなり勢いで書いているようなところがあって、前後で矛盾してたり自家撞着しているように思ったのだが、私自身も途中から興味を失ってとばし読みしているので、その辺は定かではありません。
だいたい、アンアンとJJの違いなんて知らないよ。わたし的にはものすごく瑣末的な現象を拡大絶対化して(たとえばDCブランド信仰の意味づけ)そこから語り始めているので、まず前提段階で疎外されました。
自分の体験から語り始めるのは好感を持ちますが、それが一挙に絶対化されてしまうのが問題。「私は」という主語を、いつの間にか「女は」にすりかえてしまう強引さがあって、いささか論理が乱暴であると思いました。
作者に対しては「思い込み」の極端に強い人のように感じて親近感を感じましたが(^^ゞ

かんべむさしさんのHP内フリーメモに「切れやすい子供」についての本の紹介があって気になっていたのですが、書店で同じ作者の本を見つけて買ったところ、作者違いでした(^^;。
かんべさんの紹介本は、小田晋『神に近い人、爬虫類に近い人』(はまの出版)で、私が購入したのは福島章『子どもの脳が危ない』(PHP新書)。
この手の本は警戒心が働いてなかなか食指が動かないので、勘違いはちょうどよかったかも。というわけで、今から読むつもり。
編集済


泥の河は? 投稿者:管理人 投稿日: 1月15日(土)18時52分45秒

アレクすてさん
きのう布団のなかで、ふと「泥の河」を思い出したのですが、これはどうでしょうか。ネオリアリズモのような気がするのですが、実はあまりに可哀想で最後まで見ることが出来ず、途中までの印象ですが。

前にも言いましたがATG系の暗さは好みなんです。が、不満も同じくらい感じます。それは結局ATGは映画表現が分かっておらず、舞台演劇の手法を持ち込んでしまうところで、そこが(舞台ならともかく)映画ではわざとらしくなって白けてしまいますね。


「渦」 投稿者:管理人 投稿日: 1月14日(金)20時24分7秒

眉村さんが俳句結社誌「渦」に連載されている「眉村卓の談話室」の内容が分かりましたので、お知らせします。昨年11月号からの連載開始で現在3回まで。各回俳句6句とエッセイが掲載されています。
04年11月号は「噴水」の題で6句とエッセイ「コキ」
04年12月号は「秋陽」の題で6句とエッセイ「数字」
05年 1月号は「冬晴」の題で6句とエッセイ「放浪あるいは漂泊願望」は自筆カット付。
となっています。

土田さん
今年もよろしくお願いします。
去年はとてもお忙しそうにお見受けしましたが、今年も大変そうですね。お仕事も大事ですがそれより前にお体が大事ですからね、お仕事もHPも、まずはそろりそろりと参りましょう(^^;

アレクすてさん
今年もよろしくお願いします。

>成瀬巳喜男の『浮雲』
それはぜひ観てみたいです。ツタヤにあるかな。

>ストーリーにドラマチックなものや登場人物に類型的造作を望むもののようです
そうですね。
他国は分かりませんが、一般に日本人は静止したポーズに美を感じるんでしょうね。いわゆる「見得」というやつでありまして、現代においてもこの心性は相変わらず、とりわけ「政治」の世界と「演歌」の世界にこれが蔓延していてうんざりします。
かかる心性は日本人の無意識に深く根を張っていて各種の「アプリオリ」を形成しているように思います。最近よく聞く「絵的」とか、内容ではなく形式に傾いた「ルックス」であるとか、あるいは「キャラ」と総称される類型的登場人物などはすべてかかる「アプリオリ」の所産ではないでしょうか。
文学における自然主義はこの日本人のアプリオリから離脱する試みと捉えられるわけですが、実際の作品ではなかなか成功していないのも事実。
たしか大塚英志も「キャラクター小説」は伏流していた江戸文学(硯友社含む)の顕在化であるといっていたように思います。

などとくさしながらも、今読んでいるのは「狂言集」だったりするのですが(汗)
狂言、面白いですねえ! 
結局狂言は歳月の侵食に耐えた作品が現在残っているということであって、ライトノベルも100年後には、歳月に耐え得た10タイトルや20タイトルくらいは残っているのではないでしょうか。イーヤー、イーヤー、ヤットナ(^^ゞ。
編集済


あけましておめでとうございます 投稿者:土田裕之 投稿日: 1月14日(金)02時07分8秒

今年もよろしくお願いします。

amazonは私も良く利用します。
特にワンクリックはボタン一個で購入できるという恐ろしいシステムです。
送料が1冊ごとにかかるのはちょっと嫌ですね。
良心的な古本屋さんでは本に切手が同封されていたこともありましたけど。

12月に読んだ本では横山秀夫の「顔」がだんとつに面白かったです。
本当に上手いと思いました。

あと川端裕人の「ニコチアナ」がバランスが悪いように思うのですが
不思議に惹かれる伝奇小説で印象に残りました。

年越しは冲方丁の「ばいばい、アース」(上)(下)を読みましたが
ファンタジーの苦手な私にも好感の持てる力作。
ライトノベルという殻は破っていると思いました。
表紙は天野嘉孝でかろうじて大熊さんにも耐えられるかもしれません。
品切れですが、機会があればお手にとって見てください。

ニール・ゲイマンの「ネバーウェア」がもう少しで読了。
ロンドンの地下世界を舞台にしたダークファンタジー。
好みです。

http://www.02.246.ne.jp/~pooh


お久しぶりです。今年もよろしくお願いします。 投稿者:アレクすて 投稿日: 1月13日(木)22時11分51秒

こんばんは、アレクすてでございます。
返信が送れて申し訳ございません。<(_ _)>
ぜひ出席させてほしいです。
よろしくお願いいたします。

あと、関係のない話ですが
前に、大熊様と喋っていた「日本に『イタリアン・ネオ・リアリスム』風作品ってあるのか?の件」ですが
知り合いの映画好きの人に尋ねたら
成瀬巳喜男の『浮雲』がそれにあたる、唯一の作品ではないか?
とのことでした。
日本において、「リアル」というのは、どうも西洋人の考えるものとは違うようで
たとえば、最近はやりの韓流ドラマ「冬のソナタ」を見てもわかるように
われわれ、アジア、それも儒教文化圏の人間は、(リアリズムがテーマであっても)
ストーリーにドラマチックなものや登場人物に類型的造作を望むもののようです。
映画が第七芸術である、とか
カメラ万年筆論といったものから考えれば、これは日本人、および日本文化の民度が低い
とも考えられますね。
(とはいえ、これは逆説的ではありますが、韓流などに代表される「情動丸出しドラマ」というものの
持つ原初的な力というものは、すさまじいものがあります。
なぜならいままで盧泰愚や日本政府がオリンピックやなんやで旗を振ってきたのに
日本人は韓国について興味を持ちませんでした。
憎むというのではなく、普通の日本人にとり、韓国はインヴィジブルな国だったわけです。
でも、あのドラマのせいで、日本人は功罪はあるでしょうが、韓国に目を向けることっとなりました。
自分は、前に『冬のソナタ』や『火山高』をみましたが、「こりゃ、日本の気取った
トレンディ・ドラマより面白いわ」と思いました。
いま、日本に貧困を実感するような環境で、進められるドラマはありません。
あったとしても、シャボン玉ホリデーのハナ肇のようなパロディのようなものとなるでしょう。
この国の娯楽や表現はどこにいくのか、いろいろ、思ったりしました)。

そういえば、今晩
NHK-BS2で『テキサスの五人仲間』という映画をいやるそうですが
これは大熊様と、前に掲示板で話した
ジャック・フィニィの「」五人対賭博場」の映画化作品です。
フィニィですから、男の友情とロジックを鋭く描いた
一級の娯楽作品なのでしょう。
(うちでは見れないのですが)

それでは、また、眉村さんの会でお会いしましょう、では<(_ _)>


「星新一と尾崎放哉」 投稿者:管理人 投稿日: 1月13日(木)19時46分51秒

「俳句界」04年12月号に掲載された眉村卓「星新一と尾崎放哉」を読むことが出来ました。
内容は、星新一が何気なく言った「放哉なんかいいですなあ」という言葉についての眉村さんの所感です。星新一も放哉も、何の挫折もなく東大まで行ったが、そのあと社会の荒波をかぶって挫折した。世間的にも恵まれたコースを歩んでいたのが破綻するのです。その点が共通している。その後、星はショートショートというこれまで存在しなかったジャンルを立ち上げたように、「師」といえる人は持たなかった。一方放哉は挫折後酒に溺れ、師(井泉水)に依存し続けた。結果として放哉は優れた業績を残し、眉村さんも昔「はまっていた」そうです。が、その句に見え隠れする甘えや押し付けがましさを感じもしたといいます。そのような眉村さん自身の放哉像から類推して、星は放哉に対して自身との共通性に親近感を感じつつも「自分は違う生き方を選んだ」という自覚が、上の言葉に籠められているのではないか、今となっては確かめようがないが、と結ばれます。なるほど、そういうものかもしれませんねえ……。

Yさん
あの当時の文庫本は、ブックオフでも見かけなくなってきましたから、300円というのは妥当な値段かもですね。
編集済


10円とはいっても 投稿者:Y 投稿日: 1月12日(水)23時02分45秒

送料込みだと300円ぐらいになってしまうんですが、探す手間を考えれば
まあいいかな、と。また同じ古書店から複数買ってもそれぞれにかかって
しまうのが難点ですね。

大阪の方に値段を聞くときは気を付けます(^_^;)


『中国文明の歴史』 投稿者:管理人 投稿日: 1月12日(水)19時06分2秒

Yさん
残念です。来年はぜひ(^^;

>いま見てきたら10円で(^_^;)ありました
おおおお! 大阪人なのでとてもシットしてしまいました(汗)
余談ですが、東京人と違って大阪人が「これ、いくらやったと思う?」と聞いてきたら、それは必ず破格の安さで手に入れたものですから、安物そうやなと思ってもとりあえず高めの値段をいってあげると吉ですよ。「うひひひ、そう見えるやろ。けどちゃうねん。これ○○円やってん。な、安いやろ、ぐひひひ」と実にうれしそうな顔をする事請け合いです(^^)

田中光二は好きな作家ですが、煙草の吸いさしを(燃費の悪い)アメ車の窓からポイポイ捨てながら環境問題を論じるようなところがあって、どこまで本気なのかよくわからんところがありますね。

岡田英弘『中国文明の歴史』(講談社現代新書、04)読了。
これはめっちゃ面白かった。「中国人」という語が指し示す実体とはそも何か? 目からうろこがポロポロ落ちるセンス・オブ・ワンダーにあふれた快著です! 東アジア史系SFファン(?)は必読でしょう。
編集済


ご盛会を…… 投稿者:Y 投稿日: 1月11日(火)22時15分43秒

いつもお世話になります。
せっかくなのにうかがえなくて残念ですが
みなさまによろしくお伝え下さい。

>田中光二『凶獣の島』
「エナリーものの番外編」読んでみたくなりました。

と、この時代の本を読みたくなると最近はアマゾンのユーズドで
即注文してしまいます。送料が割高ですが、たいていすぐ
揃うので助かっています。いま見てきたら10円で(^_^;)ありました。
今日も西村寿行を1冊買ったところ。


『凶獣の島』 投稿者:管理人 投稿日: 1月11日(火)20時32分11秒

『日本探偵小説全集1』より、甲賀三郎「琥珀のパイプ」は、昔読んだことがあるかも(^^; 関東大震災後の世相を映していて、阪神大震災と引き比べてしまいます。また当時の山の手の住人の意識が、現代人のそれとそんなに違わなかったことが覗えて興味深い。

山ノ手の所謂知識階級と称する介殻(……)見たいな家に猫の額よりまだ狭い庭を垣根で仕切って、隣の庭がみえても見えない振りをしながら、隣同志でも話をしたことのない(……)

夜警団を組織しても、そんな面倒なものは出来るだけ回避しようとする山の手の住民たちに対して悲憤慷慨する青木と、夜警団廃止の急先鋒松本の議論が、だんだんと横へずれていって軍隊是か非かといった議論に変わってしまうくだりは、最近の議論ではないかと思うほど現代的で面白かった。大正末期はまだこんな議論が出来たんでしょうね。

「支倉事件」は長篇なのでパス、次の「蜘蛛」は、かなり空想的な機械トリックで、ちょっと子供っぽい。小中生はこんなトリックは好きでしょうけどね。まあ乱歩は好きかも。

というわけで、ちょっと続きを読む気がなくなりました(^^;

なんとなく消化不良気味になったので、転がっていた田中光二の文庫を読み出したら、そこそこ面白くて読了(^^ゞ

田中光二『凶獣の島』(講談社文庫、82)
短篇集で、中間雑誌に載ったものばかり。SF味は薄いです。そういうこともあってか、とりあえず飛ぶように読めます。
面白いとはいえそこは田中光二、思想が浅はか。テクニックはすごいのに、何でこう深く考えようとしないのかね。突き詰めて考えてないので、ストーリーはほとんど尻切れトンボになってしまっています。

その典型が「返信」で、エナリーものの番外編、宇宙人へのメッセージを載せたパイオニア10号が、メッセージ板にいたずら書きされ地球へ投げ返されるという、とんでもなく魅力的な発端でわくわくさせられたのですが、エナリーが出てきて宇宙人皆兄弟みたいなつまらん演説で終わってしまう。どこにも発展していきませんし収束もしてない。。
面白かったのは、犯罪小説に徹した「冒険はポルシェに乗って」。登場人物は皆チンピラとか俗物作家とか程度の低い連中ばかりなので、作者の背伸びがなく楽しめました。サーフィンに材を取った「海の壁」も同様。
表題作「凶獣の島」は当時流行ったバイオレンスノベルへのアンチテーゼらしいのだが、どこが?という感じ。

なんかくさしてますが結構面白かったです(^^)
編集済


「作家・江戸川乱歩誕生の秘密に迫る!」 投稿者:管理人 投稿日: 1月10日(月)15時54分27秒

下記の次第で「子不語の夢」記念トークショーが行われます。
私は行けませんが、東京方面の方はぜひお越しください。

■1月16日(日) アンダーグラウンド・ブックカフェ:『子不語の夢』刊行記念トー
クショー 「作家・江戸川乱歩誕生の秘密に迫る!」 午後3時〜5時 入場無料
 ゲスト 浜田雄介(成蹊大学教授)阿部崇(小酒井不木研究家)末永昭二(大衆文
学研究家)本多正一(『凶鳥の黒影』監修者)ほか
 千代田区神田小川町・東京古書会館 2階情報コーナー

http://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_magatori.html
http://underg.cocolog-nifty.com/tikasitu/
http://homepage1.nifty.com/mole-uni/shifugo.html#new


「絶滅危惧種」(承前) 投稿者:管理人 投稿日: 1月10日(月)12時52分1秒

松崎さん
私は、何か説明するものはないかとドリフをひねりだしたんですが、なるほど確かにモンティ・パイソンですね。

>このような軽めの作品は、まだまだ未訳で眠っています
いやそれはもったいない!
どんがらがんの次は、松崎さん編集ラファティ・ナンセンスコメディ集を希望いたします(^^)

「取り換え子」は(この作品だけでは)ケルベロスのようなピースが嵌まっていくようなものではないと思います。(もしそうするならばケルベロス第2部、第3部みたいなのが後ろに必要です)
そういう意味で、ロジックではなく異形コレクション風の作品と理解しました(ウルフって案外日本人の感性の持ち主かも)。

つまりドッペルゲンガーと八百比丘尼をマジシャンの手さばきで精妙にシャッフルし、サッとテーブルに展開したような、不思議な効果があります。
昔のアルバムに自分が存在せず、自分がいた位置にピーターがいる場面は、実にゾッとする、うまいです。

あの年寄りは死んでいる、というのがよく判りません。ピートは5年生(11歳くらいか?)で町を出、20年後に戻ってきたとありますから、40歳にはなってないはずですよね。しかし洞窟で(手記を書き上げた後)死んだのなら、町の人がいろいろ供え物をしてくれるのも分かるし、冒頭の表現に繋がるものではありますね。

>アジアの岸辺
あれから私も調べてみました。
すみません、私の記憶違いでしたm(__)m。
サンリオ文庫版『334』の安田均の解説に、
この中の1篇「アングレーム」だけについて詳細な250ページの註解「アメリカの岸辺」The American Shore を著わしたサミュエル・R・ディレーニイの述べるように、云々――
という箇所がありました。どうも「アメリカの岸辺」を「アジアの岸辺」に勝手に変えて記憶していたみたいです。
この「334」も傑作なので、復刊して欲しい本です。ていうかレムコレクションの後はディッシュコレクションをお願いしたいところ。

ところで、ディレーニイ、ディレーニ、ディレイニーと表記が一定しないチップDですが、私はディレイニを推奨したいです。だってDUNSANYをダンセイニと詠ませるのならば、DELANYはディレイニでしょう(^^ゞ
編集済


Re: 絶滅危惧種 投稿者:松崎@らっぱ亭 投稿日: 1月10日(月)11時44分29秒

早速のご感想、有難うございます。
なるほど、ドリフですか。
(そういえば、モンティ・パイソン風と評してくれた方もおいでました)
ラファティのコメディ・タッチの作品には、
これでもか、というくらいの繰り返しギャグや、
お馴染みのキャラによるお約束のギャグが満載されているのも多く、
確かに、正統なナンセンス・コメディの路線を踏襲していると思います。
(このような軽めの作品は、まだまだ未訳で眠っています)

「取り換え子」、お気に入っていただき、なによりです。
私も、原稿を受け取った時のデーモン・ナイト同様、
ロジックがよく理解できていないのですが、
ともかく傑作だ、というのは間違いないところと思っています。
大好きな作品です。

ところで、ディッシュ「アジアの岸辺」の評論をディレイニが書いているらしい、とのことですが、私も初耳です。
ただ、"Fundamental Disch"というディッシュの短編集をディレイニが編んでいます。
アジアの岸辺も収録されており、序文で言及されている可能性はありますね。
今、取り寄せ中ですので、何かわかればお知らせします。

今年もよろしくお願いいたします。


「取り換え子」 投稿者:管理人 投稿日: 1月10日(月)00時57分46秒

ジーン・ウルフ「取り換え子」読了。
これまた記憶と現実の物語。文字で描かれたトロンプ・ルイユ。うまい。傑作!引き込まれて読んでしまいました。
ピーター・バルミエリはピート・パルマーなのか?(^^;。


眉村さんを囲む会 投稿者:管理人 投稿日: 1月 9日(日)21時38分44秒

標記の件、これまで出席くださったことがある方にはDMを送らせていただきました(Yさんへ。SのD様には、出し抜けでびっくりされるかもと思い、メールしていませんけど、よろしくお願いします)。

これまで出席したことはないが一度参加してみたいという方は、私へメールください。日程は1月30日(日)梅田にて16時からです。

阿部崇さん(「子不語の夢」不木文献翻刻者)の論文「短篇「闘争」について」(「『新青年』趣味」10号所収)を読みました。
不木の論文に読み取れる不木自身の現実の科学的認識に照らしても、「闘争」を支える科学的背景とは、最初から小酒井不木の頭の中だけで組み立てられ、現実から乖離したままで存在する、歪んだ優生学的イマジネーションでしかなく、もともと長編のモチーフであったものを短篇で表現したため、識者が好意的な「闘争」ですが、実は初期にもまして不健全さが前面に出た「不完全な小説」になってしまったのではないかとします。

なるほどそういわれてみれば(^^;
しかし読者が皆、不木の論文を押さえている筈はなく、私ももちろんそうで、現実の科学性から離れたゲームの文脈で読んでいた。まことに「論理の遊戯としての小説であるがゆえに、人物描写を犠牲にしている、とみなして」読んでしまったわけですが、そういう読み方のせいか、ほとんど気にならなかった。
でも、たしかにそういわれてみれば、モチーフに対して異様に感じて当然かもしれませんね。深い読みです(そうしますとヴァンダインなんかはどうなるんだろう?)。


「絶滅危惧種」 投稿者:管理人 投稿日: 1月 8日(土)20時47分21秒

松崎さんより頂いた「らっぱ亭は健在なりらっぱ亭奇譚集・号外」の唯一の掲載作品、
R・A・ラファティ「絶滅危惧種」松崎健司訳を読みました。
大丈夫やろか、私に理解できるやろかと、おそるおそる読み始めたのでしたが、オッケーでした(^^;
これは正統的なナンセンスコメディです。
大昔、伊藤典夫が不条理小説というとなんとなくいかめしいが要はナンセンス小説なんだ、と言ってましたが、それは言い過ぎ。日本語では、不条理とナンセンスはやはりニュアンスが違うのであって、ディッシュは不条理小説だけどナンセンス小説とはいえません。逆に本編はナンセンスコメディだけど不条理小説ではない。

たとえばマダム・ヘクサに誑かされたコンラッドがマダムの言ったことばを鸚鵡返しにいうところ。
私のイメージを言いますと、いじめられていたカトちゃんを見かねていかりや長さんが助けに入る。カトちゃんが長さんの背中に隠れて顔だけ覗かせる。長さんがいじめていた荒井注に説教をすると、長さんの言葉をカトちゃんがいちいち繰り返す。それが3回、4回となったところで、長さんが逆切れして「うるさい!黙れ!」とかカトちゃんに言う。するとカトちゃんがまた「うるさい!黙れ!」と繰り返してしまい、あわてて口を押さえて長さんにニッと愛想笑いをする。
というパターンを思い出したわけですが、これはナンセンスコメディの常道だと思うのですが、同じ手が使われているわけですね。

このように本編は「絵」を思い浮かべながら読むほうがより面白いと思います。その意味で、木槌で猫を「ぺしゃんこ」にする場面は、トムとジェリーみたいなアニメ絵を思い浮かべるとよいかも(^^;

それから形式として本編は、ラファティおじさんが語るほら話という形を取っており、その間接性が可笑しさを強調するべく作用しているのは北杜夫のマンボウものと同じ。訳文では後半「これはアガタを凍りつかせたね」とか「たしかに本物には遠く及ばなかったね」という具合に適切に表現されているのですが、前半ややあいまいになっている。特に冒頭の「ランバートは種族保護局の長官である」と「である」を採用したのは形式からいって不自然かも。ここはやはり「ランバートは種族保護局の長官なんだ」というような語り口調にしたほうが、冒頭だけに作品世界に入り込みやすいと思いました。「である」を採用しているのはここ1箇所だけなので、訳者は重々承知のケアレスミスかも知れません(ケアレスミスといえば、良類学者となっている部分が2箇所ありました。いちおうお知らせまで^^;)。

就中、昆虫学者の「昆虫ではないということが、いかに範囲を絞り込んでいるか」という言い草は爆笑もの。

ラファティおじさんの人情喜劇、大いに楽しみました(^^)


小酒井不木 投稿者:管理人 投稿日: 1月 7日(金)20時31分50秒

というわけで、『日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集』(創元文庫)から、不木を読んでみました。

「恋愛曲線」は「失恋」という語の「意味するところ」すなわちシニフィエをトリックに使った一種の叙述トリックで傑作。実にすっきり筋が通ったラストの種明かしにアッと驚かされます。乱歩が誉めたのも宜なるかなです。

「愚人の毒」は将棋の詰めを思わせるまことに正統的な推理が展開される教科書のような純探偵小説。

「闘争」は死後発表された最晩年(といっても39歳)の作で、解説で中島河太郎がいうように、単なるパズラーから離陸寸前のようにみえる。

「痴人の復讐」は推理ではなく、いわゆる不健全派の素質がよく出た怪奇犯罪小説。

作風はやはり将棋のような明快な論理性が強く、そのために人間は将棋の駒の位置に留まります。それはしかし純探偵小説としては欠点とはいえない。「闘争」ではそこからの脱却が予見されますが、いずれにしてもわたし的に嫌いな作風ではありません。文章も歯切れがよくて安定しており、たしかに長生きすればもっと傑作をものしたに違いなく、早世は惜しまれます。

つづいて甲賀三郎を読もうと思っていたのですが、松崎らっぱ亭さんから小冊子「らっぱ亭は健在なり」とウルフの「取り換え子」(以前お会いしたときに未読といったのを覚えていてくださって、コピーを送ってくださいました。)をご恵投いただきました(ありがとうございました>松崎さん)ので、先にこちらを読むかも。


「子不語の夢」 投稿者:管理人 投稿日: 1月 6日(木)19時19分51秒

浜田雄介編『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集(乱歩蔵びらき委員会、04)読了。

乱歩のデビュー作「二銭銅貨」は、新青年に不木の推薦文と共に掲載されたのは有名だが、その両者の、1923年から29年に不木が逝去する二日前まで続けられた往復書簡です。
 
これはすばらしい! 探偵小説勃興の最初期、いわば無から生じたその瞬間を追体験できるすばらしい記録といえる。10年にも満たない年月に、探偵小説が、乱歩という天の器を得て物凄い速度で蔓延っていく様が読み取れて興奮します。

それにしても乱歩というのはすごい人物で、デビュー2、3年にして既に探偵小説のリード・オフ・マンであり、森下雨村を君づけで呼ぶ(^^;ほどになってしまうのですから大した人物です。

不木と乱歩の人間そのものが行間から見えてきます。不木は何の他意もない素直な気持ちで、乱歩を盛り立てようとするのですが、その不木を乱歩は次第にうっとうしく感じ始める。そしてその気持ちもすごくよく判る(^^ゞ。He is not he was でデヴュー当時の庇護はもはや必要ないのに、不木はその変化が分からないのですね。とはいえ深い部分での盟友意識は不変なのであり、不木の死後の乱歩の行動は、まさに礼を尽くしたもので乱歩の人間性を現しています。

とにかく面白いです! 例の脚注も、うわさどおりの読み応え満点で、「ほんまかぁ!?」と突っ込みを入れながら楽しんだらよいのでしょう。

私は、不木は大昔に少年ものを、それもたぶんアブリッジで読んだだけで、もとより覚えてもいないのですが、知識としては本格派という印象があった。
ところが本書を読むと、乱歩以上に通俗小説志向で意外でした。乱歩は不木の死後、通俗長編に手を染めるようになるわけですが、むしろ不木の通俗小説志向に、乱歩は無意識に反発していたのではないか。
それゆえその死後ようやく心理的規制が取れ、通俗長編に取り掛かることが出来るようになったのではないか、なんとなくそんな風に感じました。
ともあれ不木、読んでみようかな、と思っています。
編集済


「アジアの岸辺」 投稿者:管理人 投稿日: 1月 4日(火)20時26分11秒

柳生さん

昨日はお疲れ様でした。あれからもう一度くだんのカラオケに行ったんですが、やはりどう見てもつぶれたようにしか見えず、けっきょくお開きとなりました(ーー;
1月30日、よろしくお願いいたします。

トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』若島正編(国書刊行会、04)読了。
感想文をチャチャヤン気分に掲載しました。


今年もよろしく 投稿者:柳生真加 投稿日: 1月 4日(火)08時29分4秒

おはようございます。
新年会、楽しかったです。
あ、けっこう早いお帰りだったんですね。
1月30日も、きっと参加いたします。楽しみです。

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/


名セリフ 投稿者:管理人 投稿日: 1月 4日(火)01時25分25秒

わたしが書いたものを、わたしのせいにしないでちょうだい。――ディッシュ「話にならない男」より


新年会 投稿者:管理人 投稿日: 1月 3日(月)20時27分36秒

《風の翼》新年会より帰着しました。楽しかった!
新年会でのスクープ>森下さんのショートノベル塾で活躍した柊たんぽぽ氏の生存が確認されました(^^;
眉村さんの会に呼ばなくては。

その眉村さんを囲む会ですが、1月30日(日曜)に決定しましたので、スケジュールの調整よろしくお願いします。
今回は遠くから来られる方の交通の便を考えて、梅田で行いたいと思っております。
昨年参加された方にはDM送ります。新しく出席を希望される方は、私までメール下さい。→o37okumagold.ocn.ne.jp(アットマークを半角文字に変えてください)

で、眉村さんのエッセイが載っている<俳句界>ですが、ジュンク堂で訊いたら、版元売り切れとのことで、思わずえー!と叫んでしまいました。もし現物確保された方がいらっしゃいましたら、コピーを頂けたら幸甚です。よろしくお願いいたします。


年末年始の読書 投稿者:管理人 投稿日: 1月 2日(日)22時53分14秒

昨年最後に読んだのは、的場昭弘『マルクスだったらこう考える』(光文社新書、04)
これはすごい刺激的な本で、共感するにせよ反発するにせよ、消費資本主義以降に生まれた若い人にぜひ読んで欲しい本です。感想を聞きたい(^^;

で、今年の「読みぞめ」はディッシュ『アジアの岸辺』。ちょうど半分ですが、いやこれは淒い。去年中に読んでたら当然ベスト5でしたね(^^;。おお!表題作は高野史緒だ(汗)

昨年末大阪に出たとき、眉村さんの載っている<俳句界>を探したのですが、旭屋には置いてませんでした。明日また大阪に行くので、今度はジュンク堂で探してみようと思っています。明日は風の翼の新年会です(^^)

<彷書月刊>1月号に本多正一さんのルポ「乱歩のはじまり、ミステリーのはじまり」が掲載されています。そのなかで拙掲示板の書き込みが引用されていますので、興味がおありの方は書店でお探しください。大阪では旭屋、ジュンク堂、ユーゴーには置かれていますが、紀伊国屋は取り扱っていないようなので、お気を付けください。
編集済


2004年ベスト5(但し2004刊行作品に限る) 投稿者:管理人 投稿日: 1月 2日(日)21時05分8秒

(1)眉村卓『夕焼けの回転木馬』(黒田藩プレス、04)
 著者畢生の傑作の決定稿完成版。本来「焼跡派」である著者の原点回帰ながら、他ならぬSFという手法を選択した著者だけに、野坂等既存の「焼跡派」とは一線を画する思弁性が顕著で、むしろ第一次戦後派へ限りなく接近している。当時文庫オリジナルでひっそりと出版されたため、見逃した読者が多いと思われ、今回の発売はまことによろこばしい限り。ぜひこの機会に読んでいただきたい眉村文学の金字塔。

(2)ケリー・リンク『スペシャリストの帽子』金子ゆき子・佐田千織訳(ハヤカワFT文庫、04)
 今年は翻訳SFが活況を呈した一年だったが、その実体は遅れてきたニューウェーブ紹介であった面が強い。そのなかにあって本書は現代アメリカSFのレベルの高さを証明した傑作集。シリーズ本と上下2巻本しかないのかとさえ思っていた現代アメリカSFが、単に翻訳セレクションの偏向(臆病さ)であることに改めて気づかされた。同じ社内なのにここまで違うものか。

(3)ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』柳下毅一郎(国書刊行会、04)
 まさに遅きに失したとしかいいようがない日本紹介でしたが、翻訳者と出版社の勇気に拍手。

(4)シオドア・スタージョン『時間のかかる彫刻』大村美根子訳(創元文庫、04)
 スタージョン晩年の本集は、まさにシルヴァーバーグやポールに匹敵するニュー・スタージョンで堪能しました。本集以降の作品がとても気になります。

(5)ロード・ダンセイニ『世界の涯の物語』『夢見る人の物語』中野善夫・中村融・安野玲・吉村満美子訳(河出文庫、04)
 生硬であるが故に輝かしい初期ダンセイニの集成4分冊のうち2冊が昨年出た。珠玉のファンタシー世界が読める喜び。

(補)テリー・ビッスン『ふたりジャネット』中村融編訳(奇想コレクション、04)
 奇想コレクションの編集方針は、もともとベストを争うような破壊力のある作品ではなく、目立たないながらも忘れがたい作風に特化したシリーズ。その意味で、今回ビッスンを代表に選んだけれど、別にハミルトンでもベスターでもよかった。奇想コレクションという叢書そのものに対して。


《2004年読了書リスト》(続) 投稿者:管理人 投稿日: 1月 2日(日)17時39分41秒

(承前)
九月>10
ロード・ダンセイニ『夢見る人の物語』中野善夫・中村融・安野玲・吉村満美子訳(河出文庫、04)
笹沢左保『女無宿人・半身のお紺 お怨み申しません』(光文社文庫、86)
小林泰三『ネフィリム 超吸血幻想譚』(角川書店、04)
志村有弘編『怪奇・伝奇時代小説選集1』(春陽文庫、99)
志村有弘編『怪奇・伝奇時代小説選集2』(春陽文庫、99
三津田信三『ホラー作家の棲む家』(講談社ノベルス、01)
藤野恵美『怪盗ファントム&ダークネス』(カラフル文庫、04)
三遊亭円朝『怪談 牡丹燈籠』(岩波文庫、02)
本多正一監修『凶鳥の黒影』(河出書房、04)
中井英夫『幻想博物館』(講談社文庫、81)

十月>9
眉村卓『夕焼けの回転木馬』(黒田藩プレス、04)
  宗左近『蜃気樓』(芸林書房、04)
中井英夫『悪夢の骨牌』(講談社文庫、81)
  川西政明『小説の終焉』(岩波新書、04)
ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『トランス=アトランティック』西成彦(国書刊行会、04)
エドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』中村融編訳(奇想コレクション、04)
  大塚英志『物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』(角川ONEテーマ21、04)
  見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、96)
津原泰水『綺譚集』(集英社、04)

十一月>5
北野勇作『人面町四丁目』(角川ホラー文庫、04)
マイクル・マッコーラム『アンタレスの夜明け』小隅黎訳(ハヤカワ文庫、90)
ラリィ・ニーヴン『太陽系辺境空域』小隅黎訳(ハヤカワ文庫、79)
ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志・他訳(ハヤカワ文庫、94)
  春日武彦『ロマンティックな狂気は存在するか』(新潮OH!文庫、00)

十二月>7
アルフレッド・ベスター『願い星、叶い星』中村融編訳(奇想コレクション、04)
矢作俊彦『THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ』(角川書店、04)
倉阪鬼一郎『大鬼神 平成陰陽師国防指令』(ノンノベル、04)
車谷長吉『忌中』(文藝春秋、03)
中井英夫『虚無への供物』(講談社文庫、74)
シオドア・スタージョン『時間のかかる彫刻』大村美根子訳(創元文庫、04)
  的場昭弘『マルクスだったらこう考える』(光文社新書、04)

合計81冊
 小 説 56冊  
 非小説 25冊
編集済


《2004年読了書リスト》 投稿者:管理人 投稿日: 1月 2日(日)17時38分30秒

一月>9
車谷長吉『白痴群』(新潮社、00)
山本弘『神は沈黙せず』(角川書店、03)
井上雅彦監修『アジアン怪綺』(光文社文庫、03)
田中啓文『蒼白の城XXX』(スーパーファンタジー文庫、98)
田中啓文『慟哭の城XXX』(スーパーファンタジー文庫、99)
  中西秀彦『本は変わる! 印刷情報文化論』(東京創元社、03)
草上仁『スター・ダックス』(ソノラマノベルズ、03)
  斎藤貴男『カルト資本主義』(文春文庫、00)
シオドア・スタージョン『不思議のひと触れ』(河出書房奇想コレクション、03)

二月>9
デイヴィッド・イーリイ『ヨットクラブ』白須清美訳(晶文社、03)
  長山靖生『日露戦争 もうひとつの物語』(新潮新書、04)
藤田雅矢『星の綿毛』(ハヤカワJコレクション、03)
牧野修『楽園の知恵』(ハヤカワJコレクション、03)
アルフレッド・ベスター『ピー・アイ・マン』大西尹明訳(創元文庫、69)
  海野弘『足が未来をつくる〈視覚の帝国〉から〈足の文化〉へ』(新書y、04)
福島正実『SFの夜』(ハヤカワSFシリーズ、66)
  ローラ・ヒレンブランド『シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説』奥田祐士訳(ソニーマガジンズ、03)
ダン・シモンズ『夜更けのエントロピー』嶋田洋一訳(奇想コレクション、03)

三月>6
  小田亮『ヒトは環境を壊す動物である』(ちくま新書、04)
浅暮三文『針』(ハヤカワJコレクション、04)
  小田亮『サルのことば 比較行動学から見た言語の進化』(京都大学学術出版会、99)
  小谷真理『女性状無意識 女性SF論序説』(勁草書房、94)
ウォルター・テヴィス『地球に落ちて来た男』古沢嘉通訳(扶桑社03)
笹沢左保『地獄の辰・無惨捕物控 明日は冥土か京の夢』(光文社文庫86、元版75)

四月>6
ケリー・リンク『スペシャリストの帽子』金子ゆき子・佐田千織訳(ハヤカワ文庫、04
  桜井哲夫『「戦間期」の思想家たち レヴィ=ストロース・ブルトン・バタイユ』(平凡社新書、04)
  大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』(講談社現代新書、04)
  日高敏隆『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』(筑摩書房、03)
藤野恵美『ねこまた妖怪伝』(岩崎書店、04)
  村上知子『上海独酌』(新人物往来社、04)

五月>4
  田中克彦『ことばとは何か 言語学という冒険』(ちくま新書、04)
  原田実『邪馬台国浪漫譚 平塚川添遺跡とあさくら路』(梓書院、04)
ジョン・W・キャンベル『暗黒星通過!』野田昌弘訳(ハヤカワ文庫、83)
ロード・ダンセイニ『世界の涯の物語』中野善夫・中村融・安野玲・吉村満美子訳(河出文庫、04)

六月>7
テリー・ビッスン『ふたりジャネット』中村融編訳(奇想コレクション、04)
  眉村卓『妻に捧げた1778話』(新潮新書
  長部日出雄『仏教と資本主義』(新潮新書、04)
高野史緒『ラー』(Jコレクション、04)
森青花『さよなら』(角川書店、03)
畑正憲『海からきたチフス』(角川文庫、73)
  佐原真『魏志倭人伝の考古学』(岩波現代文庫、03)

七月>6
W・S・バロウズ『ソフトマシーン』山形浩生+曲守彦・訳(ペヨトル工房、89)
  藤原明『日本の偽書』(文春新書、04)
室生犀星『犀星王朝小品集』(岩波文庫、84)
曲亭馬琴『現代語訳南総里見八犬伝(上)』白井喬二訳(河出文庫、04)
曲亭馬琴『現代語訳 南総里見八犬伝(下)』白井喬二訳(河出文庫、04)
  斎藤貴男『安心のファシズム 支配されたがる人々』(岩波新書、04)

八月>3
ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』柳下毅一郎(国書刊行会、04)
畑正憲『深海艇F7号の冒険』(角川文庫、77)
平岩弓枝『滝沢馬琴 椿説弓張月』(学研M文庫、02)
(つづく)
編集済


謹賀新年 投稿者:管理人 投稿日: 1月 1日(土)16時39分3秒

新年明けましておめでとうございます。
昨年同様のご愛顧を賜りたくお願い申し上げる次第であります。
早いもので、HPを立ち上げてから足掛け6年、ある意味それは感想文書きに追われる歳月であったようにも振り返られます。
その間少しずつ溜まってきていたある表現欲求が、此処に至って切実で、今年はそれに何とか形を与えてやりたいと考えないでもなく、それがまあ年頭にあたっての抱負といえるかもです。ひょっとしたら意表をついたことをやらかしますので、期待せずにお待ち頂ければ幸いです。
ともあれ、今年もよろしくお願いいたします。

  庭陰にしがみつきおり去年の雪
編集済


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