ヘリコニア談話室ログ(20054月)


 

「批評理論入門」  投稿者: 管理人  投稿日: 429()110412

引用

チャチャヤン気分に掲載しました。

ハミルトン『反対進化』に着手。

 

Re:ドメイン取りました  投稿者: 管理人  投稿日: 428()21527

引用

Yさん
ご連絡ありがとうございました。
早速リンク集を訂正しました。
それにしても、どんどん進化していきますね(^^) パソコンのスキルがある方がうらやましい(^^;
眉村卓書誌データ詳細はとても使いやすくて良いです。さらに充実を期待しております!

 

>河本さん  投稿者: 管理人  投稿日: 428()213218

引用

> 「たとえば‥‥」とキャンベルが例に挙げたのはダウジングロッドのことでした。
> 「科学者たちはたわごとだといっているが、実際に人々は利用し効果をあげているのだ、現時点では分からないが、いつの日か>より高次な科学的根拠が解明されることだろう」
> キャンベルは「SFもこれと同じだ」と言うのです。
> 「SFのほうが科学より、世界をまた未来を正確に描いていることがやがて証明されるだろう」

私のこの文章も読んでください。ここ
キャンベルと同じことを書いていますよね(^^;。
つまりキャンベルの考えは、SFファンが普通に持っている感覚です。したがって、

> ここまで書いてお分かりと思いますが、キャンベルの考えはムー民と同じなのです。
> 今のSFファンにこんなことを言ったら皆引いてしまうのではないだろうか。
というのは全く当りません。

> F氏はキャンベルの話をまるで疑似科学肯定主義者のような考え方だと思い、「SFとは大人の知的な娯楽文学であるのに」と
>辟易しながら聞いていた‥‥のではぜんぜんありませんよ。 >大熊さん
当然です。

> F氏はSFの正しさがそんなに容易く証明されるとは期待しないものの、こういう論理は「自分たちが普段よく使うものだ」と
>普通に彼の意見を受け止め、少なくとも「SFが、生理的嫌悪感さえ持つ、科学的常識主義、科学的事大主義について人々に疑問
>を起こさせ、それに対するアンチテーゼになればよい」というのが本音であると語っているのです。
というF氏の感想は、全く違和感なく私には受け入れられる意見です。
昨日も書いたように、ここで否定される「科学的常識主義、科学的事大主義」とは、「科学」そのものではなく、「科学」という社会に必然的に発生する「権力関係」の謂なのです。たとえば学会。
したがって、

> F氏は科学の人ではないと思う。
という結論を、上記から導くことはできません。「科学の人ではない」ということ自体は、別の文脈でならばありえます。それは昨日述べたとおり。

> いまのSFファン、SF作家のほとんどとは人種が違う。
少なくとも私たちのような極めて初期からのSFファンや第1世代作家は、みな同一人種でしょう。
「いまの」というのにこだわれば、確かに人種が違うのかもしれませんが(その意味では私も「いまのSFファン、SF作家のほとんどとは人種が違う」といい得る)、しかしそれは河本さんの言いたいことではないでしょ?

> なんとなく仏相対主義思想家の立場のような感じ。 >仏文科卒だ
仏哲学は知りませんが、価値の相対化はSFの本領ですよ! 筒井康隆を読まれたし。

>「科学的な娯楽文学」ではなく「科学と対立するファクトを娯楽文学で描いたもの」と思っていたのではないだろうか。
というご意見は私には(科学的なデータ帰納主義とは相反する)殆ど妄言にきこえます。ムー民国のSFはそうなのかもしれませんけど(汗)

> F氏が「鬼編集者」だった頃のSFマガジンに作品を書いていた作家たちは、F氏の「もっとエロを書け」のきびしい注文に答える>のが大変だったそうです
この出典は何? 反語表現ではないの?

今日はここまで。SSに関しては後日ということで。先にこっちを片付けてしまいましょう。

編集済

 

ドメインとりました  投稿者: Y  投稿日: 428()193010

引用

こちらではごぶさたしていました。
お忙しいところすみません。つい出来心でドメイン取得してしまいました(^_^;)。

http://wonder-tea.com/

よろしければこちらへリンクの変更をお願いします。
(旧アドレスでも当分置いておきますので、お時間のある時に……

しかし内容充実が大切ですね……書誌データも見直し中です。
間違いなどありましたらお知らせ下さい。
また、こちらのデータも利用させていただきますのでよろしくお願いします。
ではよい連休を〜。

http://wonder-tea.com/

 

レス  投稿者: 管理人  投稿日: 427()212925

引用

GWを直前に控えて突如忙しくなってしまいました。
というわけで簡単レスにて失礼。

ふみおさん

>チャンドラー
細部にこだわりますよね。
ロスマクが下の評論で、チャンドラーは(主人公の探偵に)感情を過度に投入しすぎるので、物語の進行が妨げられ、その意味が曖昧になる、と書いていますが、けだし至言ですね。私も、チャンドラーの長篇は、場面場面は鮮明であるにもかかわらず、通しのストーリーはよく判らないまま終わってしまいます(^^;

河本さん

> 「たとえば‥‥」とキャンベルが例に挙げたのはダウジングロッドのことでした。
> 「科学者たちはたわごとだといっているが、実際に人々は利用し効果をあげているのだ、現時点では分からないが、いつの日か>より高次な科学的根拠が解明されることだろう」
> キャンベルは「SFもこれと同じだ」と言うのです。

>F氏は
>こういう論理は「自分たちが普段よく使うものだ」と普通に彼の意見を受け止め、少なくとも「SFが、生理的嫌悪感さえ持つ、>科学的常識主義、科学的事大主義について人々に疑問を起こさせ、それに対するアンチテーゼになればよい」というのが本音であ>ると語っているのです。

私のこの文章をお読みください。

さて、この文脈での「科学的常識主義、科学的事大主義」は、SFが契機として内包する「科学的思考(志向)」とは別種のもの、しかも相反するものであるのは明らかでしょう。
河本さんは明らかにわざとそれを混同していますね。それによって

>F氏は科学の人ではないと思う。
という結論を引き出すためでしょうか。

とはいえ
>F氏は科学の人ではないと思う。
というのは、私も全く否定するわけではありません。氏は科学的知識はありましたが、「科学的に認識する」訓練は受けてなかった。科学的に認識するとは、定量的理解ということで、言い換えれば微分的理解ということです。
たとえば「真空被爆」は氏にとって直ちに「死」であったと思うのですが、実際は被爆から死までに微分的時差があるわけで(だから「地球光」のクラークの描写は間違ってないのです。文系の私は引っかかったんですが、理系の人はぜんぜん気にならなかったようです)、理科訓練を受けた人間と、文系で科学知識豊富な人間の差はそこにあります。

だからといって
>「科学的な娯楽文学」ではなく「科学と対立するファクトを娯楽文学で描いたもの」と思っていたのではないだろうか
というのは全く事実誤認です。というか上述のようにわざと捻じ曲げた結論ですね。

というところでタイムアウト。あしからず。上の私の文章読んでね。

編集済

 

F氏  投稿者: 河本  投稿日: 426()122729

引用

 大熊さん
 >自分は障害者でない」ではなく、「自分は障害者だ」という自己認識から始めなければ何も始まらないのでは。しかる後「自分は障害者だ。それがどうした」というべきなのでは。

 世間では「SS障害者」なんてほとんど犯罪者と同義語でしょう。 
     「SS障害者」という表現で分かりますね?人聞きが悪すぎて原語のまま使う気がしない
 しかし、オフ生活でそんなことをしたら、アパート借りられないし仕事に就くこともできなくなります。
 いまは違うのかもしれませんが、少し前までは公の設備・乗り物等は「SS障害者」を断ることが法律によって認められていたそうです。>旅客機や銭湯など
 「SS病院」のあり方もだんだん改善されては来ていますが、まだ昔の「収容施設型」・「刑務所型」の病院は多いのです。
 患者には受刑者に与えられる人権さえもありません。

 >「四色問題」
 この本です。
    http://www.bk1.co.jp/product/02489706/review/0000410264/?partnerid=
 大熊さんの守備範囲は広いので、数学の本の話までならOKかなと思って書き込みました。
 しかし、このあいだ読んだ「スカイフィッシュ」の本、面白かったのですが、ぜったいに範囲外だと思うので、日記に感想書くことにしました。 (^^;) 

 >F氏とジュブナイル
 大熊さんのF氏へのイメージ=「科学の人」なのですが、ぼくは違うように感じるので日記に書きました。
    http://boat.zero.ad.jp/my_site/dialy/dialy.cgi?owner=zbi74583
 少ない資料とあの頃の思い出だけで書いてしまった。 >間違いがあったらただちに訂正します
    

 

「アジアの岸辺」  投稿者: ふみお  投稿日: 426()102658

引用

ご説明ありんがとうございます〜。これは面白そうですね。読んでみなければ。

ところでいきなりチャンドラーですが、チャンドラーの魅力って、ドライ、ハードボイルドと言いつつ、むっこう作者も登場人物(の内面)も饒舌で、けっこうウエットだったり感傷的だったりする側面が垣間見えたりするところにあるような気がします。マーロウの金魚好きとかも(笑)。

 

「ロス・マクドナルド傑作集」  投稿者: 管理人  投稿日: 425()203247

引用

ロス・マクドナルド『ロス・マクドナルド傑作集』小鷹信光訳(創元文庫、77)

ロス・マクドナルドを読むのは初めて。大昔、中学生のときに「魔のプール」だったか「動く標的」だったかを読みかけたことがありました。けれども読み終えることが出来なかった。ロスマクだけでなくチャンドラーも当時の私には手に余りました。
本格推理は(ロジックなので)中学生にも理解できますが、人間が主題のハードボイルドは、経験値が絶対的に少ない中学生にはなかなか難しいところがあるのではないでしょうか。

本書はすべてリュー・アーチャーもので、「女をさがせ」(46)、「追いつめられたブロンド」(54)、「ミッドナイト・ブルー」(60)、「眠る犬」(65)、中篇「運命の裁き」(58)と、著者自身の評論「主人公(ヒーロー)としての探偵と作家」を収録。

収録の4作品は、発表年代に20年の開きがあり、翻訳者は、アーチャー30代前半の「女をさがせ」と「追いつめられたブロンド」は一人称「おれ」、40代に入った「運命の裁き」と「ミッドナイト・ブルー」では「私」を選択している。そして「眠る犬」では、実験的に、会話以外は一人称を完全に省略して訳しており、それはマクドナルド自身の探偵観である「紙のように薄い存在」に即すならば、一人称「I」は限りなく透明に近いのではないかという翻訳者の問題提起とのこと(この方法論は笠井潔も実践していますね。私は笠井の独創かと思っていましたが、小鷹氏のほうが先だったのですね)。

さて、私自身は評論「主人公(ヒーロー)としての探偵と作家」を読んでも、ロスマクの考えは実はよく分からなかった。絶対的にロスマク読書量が不足しているからでしょう。なんせ初読ですから。
ともあれこの評論で著者はいろいろ語っているのですが、そのなかで唯一何となく理解できたのは、チャンドラーに対する批判(?)で、私が理解したところでは、ロスマクは、チャンドラーは饒舌すぎる、との考えであるようです。

これは確かにそのとおりなんです。しかしながらチャンドラーの魅力は、実にこの饒舌にあるのではないでしょうか。
その意味でチャンドラーファンにはいささか的外れな評言のように感じられるのですが、とにかくそれがロスマク自身の探偵小説観を表現したものであることは間違いない。

本書を読んだだけでもそれは明らかで、本書の諸篇はどれをとっても、チャンドラーのようにくどくなく、あっさりしています。リュー・アーチャーは、マーロウのように地の文で気障な台詞を吐かない。私は笹沢佐保を連想しました。笹沢佐保はロスマクの影響があるのではないでしょうか。

とはいえ、ロスマク描くところの卑しい街と富豪が住む郊外が共に太平洋に落ちる夕日に染まる戦後の南カリフォルニアの雰囲気は、チャンドラーのそれに負けず魅力的で、郷愁めいた気分に浸れて、なかなかよかったのでした。

『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義に着手しました。これは面白い!

編集済

 

処分  投稿者: 管理人  投稿日: 424()210436

引用

ブックオフへ、文庫本中心に60冊ほど持って行きました。半分撥ねられて360円也。撥ねられた本も置いてきたので、実質1冊6円。ちょっと安すぎないかい?
いつも持って行くブックオフとは違う店へ持っていってみたんだけど、店によって値付けが違うんでしょうか。

ともあれ今回は、新本格関係の未読本を処分しました。有栖川も綾辻も売っ払っちゃった。どうせ読まないもんね。
今後は、「読まないけど集める」のは、原則60〜70年代の純文学とハヤカワ文庫(と創元文庫)に限定しようと思います。といいつつ、衝動買いしちゃうんですよね。

 

「啖呵こそ、わが稼業」  投稿者: 管理人  投稿日: 424()170135

引用

塩野米松聞き書き『啖呵こそ、わが稼業 會津家本家六代目・坂田春夫(新潮社、03)読了。

「啖呵」とは、映画寅さん「けっこう毛だらけネコ灰だらけ」でお馴染みの、あの口上のこと。
本書は、寅さんもそうですが、お祭りや縁日の夜店――露天商つまり「香具師(やし)」の一家である會津家先代親分の坂田春夫が語ったことを聞き書きした記録。
こういう世界は全く知らないので、とても興味深かった。香具師は博徒とは違うことを、本書で坂田親分は訴えるのだが、たしかに我々は区別してないかもしれません。

啖呵売といって、口上の技術で群集心理に付け込んで売ってしまう手口が紹介されている。それが実に面白かった。とはいえ、有体にいってこれは詐欺ですよね(^^; ただ買わされた人から苦情が殆どないこと、同じ場所で興行しても客がいなくなることがないこと、などから推測するに、ある程度客のほうもその辺の事情は心得ていて、啖呵の面白さを楽しんだ料金の意味があったのかも。その意味で詐欺とも言い切れないところがあります。

暴力団と一括されて香具師の活動場所がなくなってしまった現在、マル暴一緒くたにされ、結果的に「啖呵」という伝統芸能さえも消え去ってしまったのは時代の流れとはいえ、残念かも。

巻末に親分のお母さんの聞き書きも付録されている。こっちのほうが波乱万丈で面白い(^^;

さて、消え去りかけている伝統芸能ということでは「啖呵」と50歩100歩かも知れない「浪曲」ですが、こちらはかなりレコードや映像が残っています。
上方浪曲師、京山幸枝若(先年息子さんが跡を継ぎましたから先代となりますね)をCDではじめて聴きました。『任侠吉良の港/雷電・小田原情相撲』64)
いやあよかった(^^) どちらも3回聴いてしまいました。ことに後者は上方講談とネタが同じなんでしょう、いかにも上方らしいユーモアがあって楽しめました。
講談は基本的に(張り扇以外の)鳴り物は用いられないのですが、当然ながら浪曲には不可欠で、断然派手さが違います。ただ当録音では三味線だけでしかもあまり前面には出ない。もちろんこれが正調なんでしょうが、私は宮川左近ショーが刷り込まれてますので(汗)、ギター伴奏がないとやや物足りないですし、三味線も暁輝夫師匠のように浪曲師を押しのけて超絶技巧の早弾きプレイするくらいのほうが面白いのです。
聴いていていろいろ考えるのでしたが、こういうリズム感主体の芸能がなぜ廃れているのか不思議に思いました。やり方さえ考えれば復活するのではないか?
たとえばリズムを一部西洋リズムで演っても面白い。たとえばブギのリズムに口説をのせたらどうでしょう。そこまで行かなくても河内音頭でやってみたり阿波踊りのリズムでやっても面白いのではないか。
いやそういう試みは、既に行われているのではなかろうか。現京山幸枝若さんの芸は観たことがありませんが、いちど観てみたいなあ。

 

ジュブナイルの巻末解説  投稿者: 管理人  投稿日: 423()18334

引用

アレクすてさん
>参加したいのですがよろしいでしょうか
どうぞどうぞ(^^) 集合情報は柳生さんのブログを見てくださいね。

ふみおさん
あれ、「アジアの岸辺」未読でしたか。このディッシュの短篇は、高野史緒の作といわれても信じそうなイスタンブール幻想小説です(^^;。作品集『アジアの岸辺』(国書刊行会)に収録されています。機会があったら是非。おすすめです(^^)

>SFが味わえる若い世代が育たない背景そのものですよね
おっしゃるとおりです。私は小学生のとき「天文年鑑」買いましたよ(^^;。
先に星空を眺めて空想する、と書きましたが、それは単に星座を見て神話世界を想像する、ということではなく(それすら今はないかもですが)、「天文年鑑」に行き着くような質の「想像力」なんですね。SFはそんな想像力を育んでくれます。

私の場合、その興味はジュブナイルSFとその巻末にかならず収録されていた(日下実男さんが多かったと思いますが)「科学解説」との相乗効果によるところが大きかったように思い出されます。
その意味で先年出版された岩崎書店のシリーズは、「解説」が旧版のままであったのが、返すがえすも残念でなりません。ジュブナイルSF 自体は、たとえ科学的記述が時代遅れになろうとも作品そのものが古びることはありませんが、付される「科学解説」は常にホットなものでなければ意味がないのです。昔は日下さん(あるいは福島さん自身)しかいなかったかも知れませんが、今ならそのような仕事が出来る人材はたくさんいますよね。

『反対進化』に着手の予定。

 

アジアの岸辺  投稿者: ふみお  投稿日: 423()151119

引用

す、すいません……
これ、知らないです。小説ですか? 誰の作品なのでしょう? 
無知は相変わらずです(笑)。

一時期すごく話題になりましたが、地動説小学生が「わりと存在する」状況って、SFが味わえる若い世代が育たない背景そのものですよね。なんか太陽も月も回ってるし〜、そんなもんか〜、で終わりになっちゃってるわけだし。宇宙って、世界って、どうなってるんだろう? よその星にもボクたちみたいな人間がいるのかなあ、なーんて、考えもしないんでしょうし……

マンガ表紙でラノベ読者をだまして釣るのも、そのラノベ読者が新たにSFという地平を開拓するという結果を生むのでしたら大歓迎ですが、実際には何、冊か買ってつまらないと思って終わり、ハヤカワは短期的な利益をあげましたとさ、で終わっちゃいそうなところがイヤなんですよねえ。それに、ラノベ読者なら、そんな小手先のやり口で騙せる、とたかをくくってるってことですし。

 

今度の「風の翼」の会に  投稿者: アレクすて  投稿日: 423()141056

引用

参加したいのですがよろしいでしょうか?
(今、インターネットに接続できない状態なので
近所のネカフェから書いております)。では失礼いたします。

 

「最後の審判の巨匠」  投稿者: 管理人  投稿日: 422()214044

引用

を、チャチャヤン気分に掲載しました。
ドラッグ小説です(^^;

そういえば米朝さんがラジオで言っておられましたが、昔、ヒロポンを打って高座に上がると恐ろしいほどすごい出来映えになる、と言う同業者がいたそうです。一度だけ米朝さんも(やむにやまれぬ理由で)入れて高座に上がったことがあったそうなんですが、そうしますと疲れは見る見る吹き飛んですごく気分が高揚したのだけど、客の受けはもひとつだった。
で、米朝さんは考えます。その「すごい出来映え」というのはヒロポンで高揚した同業者の主観的脳内事実に他ならず、客観的にはそうでもなかったのではないかと。
そういう風に考えられるところに、米朝さんの(芸人らしからぬ)論理的資質が伺えますね。

『ロス・マクドナルド傑作集』読了。

(訂正) 
*)「論理的」というより「分析的」というべきでした。

編集済

 

ジュブナイルなら大橋商店  投稿者: 管理人  投稿日: 420()200249

引用

大橋さん

>まあ、何かの形で何とかしたいと思いつつ・・・
大橋さんがやらずして誰がやりますか!
この分野の企画が持ち上がったときは、編集者の脳裏に、自動的に大橋さんの顔がうかぶようになりたいですねえ。ちょうどSFのことなら福島正実、だったようにね(^^)

 

私に振られても・・・ボリボリ。  投稿者: 大橋  投稿日: 420()074054

引用

まあ、何かの形で何とかしたいと思いつつ・・・。
ちなみに、昔に一度、福島氏の記録をまとめる話があったのが流れた、というのを聞いたことがあります。

 

福島正実商店  投稿者: 管理人  投稿日: 419()204057

引用

柳生さん

>「SF離れは科学離れ」という眉村先生の朝日新聞記事
>次回の宴会の時に持参します
おお、そのタイトルはまさに時宜を得たものですね。よろしくお願いします。
大宴会、楽しみにしております。
#そういえば「ふたこぶラクダ」は眉村先生のお説であることを書き落としていました。

さてリンクを辿って見てきました。読み耽ってしまいました。これは貴重な記録ですね。
60年代のSF供給サイドの状況は、おそらく「福島正実商店」の独占的な影響力を振るっていたのでしょう。この商店がそこまで影響力を持ちえたのは、当然ながら福島さんが営業品目であるSFを吟味し尽くして店頭に並べていたからで、その信頼感は絶大なものがあったに違いありません。

しかしながら個人商店はやはり個人商店なのでありまして、いずこもそうですが、良くも悪くもオーナー社長の独断即決型経営だったに違いなく、その下に集められた職人さん(つまりSF作家ですね)にすれば大変にストレスを感じるものであったことは想像に難くありません。
豊田さんなどは、面と向って「君の書くものはアイデアがよくなければ読めないね」と言われたそうですから、ご本人の落ち込みはいかばかりだったことでしょうか(汗)。もっともこれは、逆に言えば、豊田さんのアイデアが、決まったときは小説の結構などどうでもよくなるほどすごい切れ味があったということなんであって、そういう意味ではけっこう的確な評ではなかったかと(^^;

そういう次第ですから、福島さん没後に発表された福島さんへの評価に、好意的なものが殆どないのもむべなるかなではあるのですが、私怨を捨象した客観的な福島正実像の功績がまとめられて然るべき時期が来ているのではないか、とそう思う今日この頃ではあります。>ねえ大橋さん(^^ゞ

 

(無題)  投稿者: 柳生真加  投稿日: 419()16222

引用

こんにちは。
SF離れは科学離れ」という眉村先生の朝日新聞記事(3月26日)があるので、次回の宴会の時に持参します。
福島正実のページを見ていたら若き眉村先生の写真が載ってました。
http://homepage3.nifty.com/nemo/page043.html
ではまた。

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/

 

ハヤカワに未来はあるか?  投稿者: 管理人  投稿日: 418()214057

引用

ふみおさん、土田さん

私の思いつきに反応してくださって、ありがとうございます。

>「再開発地域」へのテコ入れもやって欲しいですよね
そうなんですよ。まさに「も」なんであって、今の戦略は労多くして実り少ないピンポイントばかり狙っているからどうかなあと思うのです。やはり「ふたこぶラクダ」作戦のほうがリスクを分散できて、営業的にも無難では。今のやり方は、ほとんど大穴狙いに見えます。

>公平に見て若手の読者の育成を図らない限り、ジャンルとしての未来は無いことは
>誰が考えても明らかでしょう。
というのは、おっしゃるとおりなんですが、ラノベ読者の読書基準とSFのそれは相容れないものではないでしょうか。
ラノベ的な「萌え」は作中人物(作中美少女)に向うわけですが、SFの場合は(あえて「萌え」という言葉を使うならば)、それは想像(創造)された「世界」に対して「萌え」るわけです。美少女に対して萌えたいと思って読む読者を、創造世界に対して萌えさせるのは、管見では至難というほかないように思います。

>まあ、正直な話、明確なマーケティングに基づいた戦略というよりは
>周りを見て、いきあたりばったりに売り上げ増を期待しているようにしか見えませんが。
今の手法は、実は70年代に成功したんです。
森さんが編集長になって、福島さんなら絶対に採用しなかったスペオペ、ヒロイックファンタシー、クトゥルー(当時はク・リトル・リトル神話)を3本柱に、イラストを多用したSF文庫を立ち上げ、一挙にSF読者層を広げました。
しかしながらその成功は当時の主たる読者層が10代20代だったから成功したのです。
福島さんの考えるSFは「大人のSF」でしたが、ファン層は(背伸びした)若者だった。ギャップがあった。森さんはそこへ彼らに等身大なSFをぶっつけ、ギャップを解消したんです。

ところが、当然ながら読者は一年一年歳を取っていきます。開かれたジャンルでは、新しい年少者が流入してくるわけですが、SFではそれが阻害され、ある年齢集団がそのまま持ち上がって行った。その結果、現在では中年が主たる読者層を形成しています。
何のことはない、30年前20代だったファンが今、50代になって、やはり今でもSFを支えているわけです(スタージョンやハミルトンが売れているのがまさにその証明です)。

一般企業でもそうですが、うまくいかなくなると、まず試すのは昔成功した手法です。
今のハヤカワがそうで、30年前の、70年代の夢よもう一度、ということで、ラノベ読者切り崩し作戦が始まったのではないかと睨んでいるのですが、いかんせん時代が違うことを全く理解していません。
中年読者主体の市場にアニメ絵戦法が効果を発揮するはずがありません。同時に上の理由でラノベからの新規流入もほとんどありません。下に述べるようにSFフォーマット化がなされなかったからラノベが成立したのですからそれは当然の理屈です。

で、私は思うのですが、この中年読者に最後のご奉公をしてもらおうと考えるわけです。いま50代のファンは少なくともあと20年はSF読者であり続けますから、とりあえず彼らにマッチしたSFを供給します。
そしてその20年の間に、今の小学生をSF化してしまうんです!

SFというのは難儀なジャンルで、SFを楽しむには、脳がそのようにフォーマットされている必要がある、というのが、私の経験的な認識なんですが、それは早ければ早いほどいいのです。
早い話が、夜空の星を眺めて想像の翼を羽ばたかせる、そんな子供がSFを真に楽しめる大人になり得るのです。ジュブナイルSFはそんな子供を作り出します。
福島さんはその辺に気がついていて、ジュブナイルに関わったと思われます。それが正しかったことは、いまこの文章を打っている私という存在が証明しています(^^;。
先日の繰り返しですが、福島さん亡き後、かかるフォーマットが蔑ろにされた。その結果がラノベ世代です。
そういうわけで、中年世代が最後のご奉公をしている間に、ジュブナイルSFを強化して20年後を担うSF人を育成すればよいのです。

>少しでも可能性があるのであれば私はやはり期待はしてみたいと思います
私も同感です。そのためには遠大な計画が必要なのではないでしょうか? 夢想に過ぎますか(^^; 

そういう意味で、私はラノベ読者には史生さんと同意見ですし、SFに対する愛着やハヤカワに対する思いも、決して土田さんに負けません。
ただハヤカワのSF部門の企業としての活動は、あまりにも(自分の社会人としての経験からかんがみても)現実から遊離してほとんど公務員的無責任さを感じてしまいますね。今の方法論では需要と供給のギャップが開くばかりで、営利企業として遠からず潰れてしまうのは必然のような気がします。実はそれでもいいのではないかと私は考えていて、それについては最近アレクすてさんとよく話をしているのですが、いろいろ過激で差し障りがある考えなので、また別の機会に(^^;

>ふみおさん
新作、出たんですね「イスタンブール(ノット コンスタンティノープル)」(『魔地図』所収)
「アジアの岸辺」に喧嘩を売った作品でしょうか(>冗談ですよ(^^;) 楽しみです!

編集済

 

早川書房  投稿者: 土田裕之  投稿日: 418()001111

引用

何十年も継続してSFを出版してくれているたった二つの出版社のうちの一つなので
言いたいことがちょっとくらいあっても・・
(クロウリーの「エジプト」は?ブラナーの「ザンジバーに立つ」は?
危険なビジョンの続刊は?)
とりあえず早川書房は弁護はしませんが、応援はしたいと思います。

私はサラリーマンなので企業人的な見方をしてしまうのですが
原資がなければR&Dはありえないというのが私の感覚です。
文化的な意義はあっても、結局出版社は営利企業なので本が売れなくて
潰れてしまえば結局おしまいです。読者の手には本は渡りません。
だからアニメ表紙の本で売れるのであれば、SFが売れるのであれば
原資が作れるのであれば許してあげたい。

まあ、正直な話、明確なマーケティングに基づいた戦略というよりは
周りを見て、いきあたりばったりに売り上げ増を期待しているようにしか見えませんが。
でも、場合によっては一つの道になる可能性もゼロではない。
大熊さんの書かれている通り、
大人の読者の復活は戦略としてとても正当だと思いますし
おじさんとしては共感大(中年主人公賛成!)なのですが、
公平に見て若手の読者の育成を図らない限り、ジャンルとしての未来は無いことは
誰が考えても明らかでしょう。
だから少しでも可能性があるのであれば私はやはり期待はしてみたいと思います。
願わくば、表紙に惹かれて手に取った若い読者が
騙されたと思うのではなく、すばらしい新しい出会いだったと思われんことを。

日本SF新人賞の「終末の海」を読み終わったので2冊はさんで
「オルタード・カーボン」を読み始めました。
後者はまだ読みはじめなので内容はわかりませんが
とりあえず造本は格好良いです。

 

遅レス(ハヤカワ戦略)  投稿者: ふみお  投稿日: 417()222943

引用

えらい遅いレスですが、私はハヤカワの最近の傾向について、大熊さんよりも好意的ではないかもしれない見方になってしまっています。つまりその……ライトノベルの読者を騙して、とりあえず買わせよう、と。

バツクナンバーの表紙をラノベっぽくしてあるのが増えてますが、ラノベの読者さんに対しても、SFの読者さんに対しても、侮辱的では、と思ってしまいます。

ラノベはSF的な要素の強い作品も多いことですし、ちゃんと誠実にやれば、騙してとりあえず買わせるのではなく、ラノベからSFという領域にも読書範囲を広げる、という形でちゃんと導入できるのではないかと思うのですが……

まあどこの出版社もとりあえず売り上げを上げないことにはどうしようもないのかもしれませんが、それだったら、「再開発地域」へのテコ入れもやって欲しいですよね。

 

喇叭赤  投稿者: 管理人  投稿日: 417()171742

引用

『最後の審判の巨匠』読了。読書スタミナのない私ですが、一気に読みました。いやー面白かった! てかこれSFやん。なんでもSFにしてしまうヤツ(^^;
夜にでもパラパラッと再読してみるつもり。

編集済

 

播州路  投稿者: 管理人  投稿日: 417()143024

引用

堀先生

返信遅くなりました。マッドサイエンティストの手帳は毎日チェックしているのですが、生憎、昨夜は帰宅が遅くなり、ネットを開きませんでした。申し訳ありません。
さっそく拝見させていただきましたが、眉村さん、お元気そうですね(^^)。
おそらく西播、日生方面は、若き日の思い出が一杯詰まった特別の土地なんでしょうか(^^;。
最近連絡してなかったので安心しました。それにしてもわざわざお知らせ下さり、ありがとうございました。

#朝ミラですが、なんか投稿しようとは思うのですが、なかなかうまくまとまりません。ラジオの相応しい「どうでもいいようなこと(笑)」をさらっと書くのが苦手なんですよね(ーー;

 

眉村卓さんと……  投稿者: 堀 晃  投稿日: 416()213650

引用

本日ばったり会いました。
ほんとビックリ。
詳しくは、わがブロクを見て下さい。

http://hori.asablo.jp/blog/2005/04/16/1320

 

高田渡さんが  投稿者: 管理人  投稿日: 416()164343

引用

亡くなられたそうです。http://www.sponichi.co.jp/entertainment/flash/KFullFlash20050416015.html
ご冥福をお祈りします。

 

ブレイザー  投稿者: 管理人  投稿日: 415()203358

引用

ドナルド・ブラッシングゲーム(ドン・ブレイザー)さんのご冥福を祈ります。
南海ホークスの名セカンドとして、小学生のとき、野村克也と並ぶ私のヒーローでした。

また元広島の福士投手も亡くなりました。同投手は、巨人から(パームボールの)山内新一投手とともにトレードで南海にやって来て、当時は松原明夫という名前でしたが、野村政権下のホークスで開花しました。ご冥福を祈ります。

 

「7時間目の怪談授業」  投稿者: 管理人  投稿日: 414()210826

引用

スティーヴン・キング『ペット・セマタリー(上下)深町眞理子訳(文春文庫、89)読了。
感想は読書会後。

藤野恵美『七時間目の怪談授業』(青い鳥文庫、05)読了。

塾で帰りが遅くなると危険だからと両親を説得して、11歳の誕生日にようやく買ってもらったケータイに、変なメールが届く。それは<呪いのメール>で、9日以内に3人に転送しなければ幽霊に呪われるというのだ。気も動転したはるかは、校則を破って学校にケータイを持ち込み、友人に相談するが、先生に見つかり没収されてしまう。必死で訴えるはるかに、先生は幽霊は存在しないと断言する。さらに食い下がるはるか達に、先生は、もし先生を怪談で怖がらせることが出来たらケータイを返すと約束する。こうして毎日放課後(7時間目)の怪談授業が始まる。9日以内にはるかたちは、先生を怖がらせて、ケータイを取り返せるか?

というお話(^^)。
先日も書きましたように、ケータイ、呪いのメール(呪いの手紙のヴァリエーション)、怪談(百物語)という、小中学生が飛びつく3大好物が重要な道具立てとなっており、子供たちが興味を持たないはずがありません。このような切り口の見せ方は著者天性の才能を感じさせます。

しかも本書の好ましい点は、随所に幽霊のような超自然現象は存在しない、それは心理的、物理的な錯覚や見間違いであることを説明した上で、しかる後に幽霊とかいったものではない、人間の自然な死者への敬愛とその受け入れを教えている点です。
こうして年少の読者は、主観と客観を理解し、本篇で展開される百物語を「フィクション」として楽しむことを覚えることでしょう。

お話としても大変よく出来ていて面白く(ラストであっとおどろくミステリ的手法も駆使されていて、新人の筆とはとても思えません)、しかも科学的思考へと読者を導くベクトルをもっており、まさにこれこそジュブナイルの名に相応しい小説だと思いました。
おそらく福島正実はこのようなジュブナイルをこそ求めていたはずで、本書のようなジュブナイルがたくさん現れることで(福島さんに言わせれば、たくさん作って子供たちにどんどん提供することで)、それを読んで育った青少年が、未来のSFを担っていってくれるに違いない、という信念をもっておられたのではないでしょうか。

その企図は福島さんの早すぎる死によって頓挫したため、私たちの下の世代はその恩恵を被れず、ライトノベルという鬼子へとねじれて行ってしまったという印象を私は持っているのですが、それはまた別の話になります。

ともあれ、本書はというか著者は、福島ジュブナイル構想の正統なる嫡子であり、ひょっとしたら「SF」の救世主なのかもしれません。本書を読んでその意を強くしました。これまで我々の世代と共に墓場へ行くはずだった「SF」ですが、藤野恵美の登場によって、我々の世代が消え去った後も、生き残ることができるのではないか。そんな可能性が仄見えてきたような気がしてきました。
小学校上級生をお子さんにお持ちの親御さんは、ぜひ本書を買い与えてあげてほしいと思います。

それにしても挿絵の画家さんの名前がすごい>琉暮しお。ル・クレジオですね(^^ゞ

レオ・ペルッツ『最後の審判の巨匠』に着手の予定。

編集済

 

レオ・ペルッツ  投稿者: 管理人  投稿日: 411()223458

引用

『最後の審判の巨匠』購入特典のレオ・ペルッツの短篇「サラバンド」(垂野創一郎訳)がメールで届きましたので、早速読みました。
神聖ローマ皇帝ルドルフ2世治下のプラハを舞台にした寓話的雰囲気の皮肉なコメディ(?)。いや面白い。私はエステルハージイものに似た感興を覚えました。こういう雰囲気は大好き(^^)
『最後の審判の巨匠』がいよいよ楽しみになってきました!

 

2週目突入  投稿者: 管理人  投稿日: 411()185642

引用

>朝ミラ
2週目突入の今朝も断続的に聴く。
いつも投稿しようしようと思うのですが、断続的、というか途切れている時間のほうが長いため、流れがつかめず2の足を踏んでしまいます。出勤前の時間帯って、案外慌ただしくてそれどころではなかったり(^^;
制作する側も、ゆったり聴いてくれないので、スタンスをどう取るか難しいのではないでしょうか。
また、堀先生も書かれてましたが、確かに武田哲矢が暑苦しく、ここで嫌になって切ってしまうことが多い。この時間帯になると既に仕事場なので(ラジオを持ち込んだ)そうなると電話がかかってきたりして繋がなくなってしまいます。ただ出演者はこの時間でひといき入れているのでしょう。悩ましいところです。

『ペット・セマタリー』上巻を読了。ひきつづき下巻に着手。

 

SF円の拡張について  投稿者: 管理人  投稿日: 410()13261

引用

リニューアルしたbk1を見渡していて気づいたこと、それは「歴史小説・時代小説」というカテゴリーが、関連ジャンルからはずされてしまったことです。
なるほどね。
おそらく上記のジャンルを好む読者とネット書店利用者はほとんど一致しないのでしょう。時代小説ファンというのは高齢者が主流ですから、まずキイボードを操ったりしない世代だというのは容易に想像できますものね。私の同級生の場合を例に取りましても、その7割以上は、仕事以外でインターネットなんかしないようです。だからこれはある意味当然の改正だと思われます。
だからといって時代小説がジャンルとして死んでいるわけではないのも明らかで、むしろいまミステリと並んで一番盛況なのが時代小説でしょう。読者はSFと比べて1桁多いのではないでしょうか。

話は飛びますが、いまのハヤカワの戦略は、私が見るところ、ライトノベルファンから読者をSFへ引っ張り込もうとするもののように見えます。管見ではこの戦略は労多くして実り少ないものといわざるを得ません。
SFを好んで読むために読者に要求される要件があり、それは近代科学的認識方法が脳に組み込まれてなければならないということです。すべてのものごとを因果関係で理解する態度。端的に言えば「超自然現象があるのならばそれは自然現象である」という想像力が身についているかどうかということが、実はSF読者には要求されているのです。

しかしながらライトノベル読者の主流であるだろう人々(その上限が丁度SF読者層の下限と接している年齢層と考えているのですが)に於いては、一般的にかかる認識態度はその上の年齢層に比してずいぶん希薄なように思われるのです。
その傍証はまた別の機会にしたいと思いますが(ひとつだけ、「君と出会えた」ことが「奇跡」であるならばそれは「超自然現象」なのであり、そのような認識を持つ人たちをSFへ引っ張ってくるのは至難としか言いようがありません)、要は年少の(SF的思考とは馴染まない)読者を獲得しようとするよりも、ある意味(時代小説読者層のように)インターネットからは見えてこない中高年層にターゲットを絞ったほうが手っ取り早いのではないか、という話なのです。

なぜなら彼らは、(現象的には)サイバーパンク時代にSFから去った「元読者」なのですが、しかしサイバーパンクだからSFを見限ったのではなく、単に就職して(日本経済が最もよかった70年代後半から80年代ですから)仕事に追いまくられてSFを読む時間がなくなってしまい、ひいてはSFを読む習慣を失ってしまった「元読者」なのであって、もともと「SF的思考」は身についた人たちであると規定してもよいと思われるからです。ここのところが年少読者獲得に比べて最大の利点です。

しかも彼らは最近になり(リストラされて)読書に費やす時間をようやく回復しているのです。企業の走狗となり徹底的に使いまわされていたので他に趣味も持ちえず、いまや昔取った杵柄で本でも読まなければ時間を潰せない人々なんです。
どうしてこの豊穣な処女地(いや再開発地区か)に足を踏み入れないで置いておきますか。

ただ彼らはSFからの断絶があまりに長すぎたので、戻るきっかけがない。私だって1995年以降SFに復帰したときは、知らない作家ばかりで一体何を読めばいいか途方にくれたものです。ともかく手にはとっては見ても、主人公は「ヤング」ばかりではないですか。それは例えばJコレを見れば明らかでしょう。いま回想しても、中年が主人公というのは深堀骨と高野史緒くらいしか思い浮かびません。これでは50のオッサンが共感的に読めるはずがない。

だから――
もしSFが(つまりハヤカワが、ですが)ターゲットを中高年層に合わせるならば、まず主人公を中年や老人に設定した作品を、SF作家さんに注文する、書いてもらうことから始めたらよいのです。つまりいま活躍しているSF作家さんは、大体40代から50代なんですから、むしろ書きやすいのではないでしょうか。
年少読者対策を無碍に否定はしませんが、その傾注する労力とお金の一部でも年長読者引き戻しに使うという、いわば「ふたこぶラクダ」戦術のほうが、経営的にも効率的ではないかと愚考します。
結局、現状ネット書店利用者の円(C1)内に収まるSF読者の円(C2)を、C1の外へ向けて拡大していくような活動が、私は必要だと感じています。

編集済

 

備忘  投稿者: 管理人  投稿日: 4 9()205845

引用

 《備忘》
 発想の端緒は(・・・)すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている<世なおし>の思想を、教団の膨張にともなうさまざまの妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験してみたいということにあった。表記を「邪宗門」と銘うったのも、むしろ世人から邪宗と目される限りにおいて、宗教は熾烈にしてかつ本質的な問いかけの迫力を持ち、かつ人間の精神にとって宗教はいかなる位置をしめ、いかなる意味をもつかの問題性をも豊富にはらむと常々考えていたからである。(高橋和巳『邪宗門』あとがき)

とある読書会に備えて、キング『ペット・セマタリー』に着手しました。キングを読むのはずいぶん久しぶり(^^)。

 

「世界終末戦争」追記  投稿者: 管理人  投稿日: 4 8()201551

引用

>残り3分の1
>たかだか私ごときに見通せるようなちゃちな小説ではない
とは言い条、私の理解力不足ばかりでなく、やはり書き込み不足は否めないのではないかと思われます。
記者については昨日も書きましたが、そのほかジュレーマの心理の変化とか、男爵と男爵夫人と侍女の三位一体とか、読者として了解できますか?
本篇は高橋和巳云う所の<全体小説>だと思うのですが、そうでありながら、終盤に至って、登場人物それぞれがそれぞれの内的論理に従うべきところを、作者は無理やりある方向へ捻じ曲げています。というか手に余ってきていささか楽しようとしたのではないか。このまま登場人物の思うままに行動させていたら小説が終わらないと危惧したのかも。
やはりこの長さは、この小説には短すぎたように思われます(長篇が苦手の私が言うのもなんですが)。カヌードスの内部分裂も含めて、もっと各登場人物に語らしむべきだったのではなかったかと思わないではいられません。

河本さん
リンクが切れていますね。「四色問題」の本でしょうか?

>彼の不遜な物言いは実は好きです
私も大概不遜な物言いをするんですけど、好かれるどころか、ヒンシュクしか買いません。「不遜な物言い」は同じなのに!!
同じ行為なのにミンコフスキーと私でなぜこんなに正反対な反応を示されるんでしょうか、世の中間違ってます(>うそ、大数学者とやくざ者という「背負った評価」の差ですよね(^^ゞ)

編集済

 

グラフ理論  投稿者: 河本  投稿日: 4 8()165820

引用

 大熊さん
 >「四色問題」
    http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_rev.cgi/4211979d2dc160100e88?aid=&bibid=02489706&volno=0000&r evid=0000410264

 数学の部分は、色分け問題の専門家のぼくでさえややこしいと思う議論なので、よほど数学が好きな人にしか薦められませんが、「四色問題」に取り組んだ数学者たちのエピソードは面白いです。

 >ぼくが気に入ったお話
 「ミンコフスキー時空」で知られる幾何学者ミンコフスキーが、学生に講義をしていた際に、「今話題になっている『四色問題』を誰も解決できないのは、問題に挑んでいる数学者たちが三流だからである。私ならこんな問題はササッと解いて見せよう」と証明を始めたのだそうです。
 ところが、講義時間をすべて使っても解けず、次の講義時間を費やしてもまだ解けず、次も次も‥‥、そしてとうとうこの問題が易しそうな外見と違って途方もなく込み入ったものであることを認めざるを得なかったのでした。
 優秀な数学者でさえそんな風に考えるのですから、素人に「どうということはない」問題と思えても無理はありません。
 彼の不遜な物言いは実は好きです。
 控えめな性格の数学者は、何百年も未解決な問題を自分が解こうと思ったりは決してしませんから。 (^^) 
   

 

「世界終末戦争」  投稿者: 管理人  投稿日: 4 7()192936

引用

ブックオフで『反対進化』を見つけてしまいました。うう見つけたくなかったぞ、ショック(ーー;。

M・バルガス=リョサ『世界終末戦争』旦敬介訳(新潮社、88)読了。
いやあ堪能しました!
3分の2までは想像の範囲内で進展したのですが、残り3分の1は私の理解が及ばないほどの重層的多面的な展開になっていきました。それはもとより、たかだか私ごときに見通せるようなちゃちな小説ではないことの証左で、これぞ小説のリアリズムだと思いました。すごさを実感しました。
アナーキスト亡き後急速にクローズアップされていく近眼の新聞記者が了解できなかった。作者はどのような理由でこの人物を登場させたのだろうか。また彼と三位一体を形成するジュレーマと小人の消息が明らかにされていないのが気になります。
気になるといえば、おそらくコンセリェイロが息を引き取ったあと、梁山泊は武断派と文治派に内部分解したと思われるんですが、たとえば文治派ベアチーニョは投降し、ヴィラノヴァは逃亡し、ナトゥーパのレオンは(自分の魂を優先して)コンセリェイロの墓所を敵に教える、といった具合に。それが事実なんでしょう。しかしその辺の軋轢を小説は曖昧にしている。かかる理想郷の崩壊部分をわたし的には読みたかった(さらに長くなってしまうわけですが)。
いずれにしても面白さ抜群の物凄い小説で、遠藤周作の「沈黙」と高橋和巳「邪宗門」と読み比べたくなりました。

井原康夫編著『脳はどこまでわかったか』(朝日選書、05)も読了。AERA編集部員という人が企画し寄稿もしているのですが、これが邪魔。悪い意味での科学ジャーナリズムの例かも。

 

メールを送ろう!  投稿者: 管理人  投稿日: 4 5()193550

引用

朝ミラHP
「日産ラジオナビ」のコーナーは「大人のためのオモシロ社会学」ということで、一番かんべさんらしさが出るコーナーだと思うんですが、今の生活パターンでは、その時間にちょうど歯を磨いたりしていて、聴くことあたわずなんですよね。
「ロッテ僕の作文・私の作文」あたりで身支度に取りかかればいいのかな。>だから6時半に起きてさっさと済ませちゃえばいいんだって。それが出来たら苦労はせんのじゃ。あーあーつらいのう!(横山たかし風に)
明日のテーマは「なつかしの新人時代」じゃ。聴けよー!

#そうそう、まだリスナー投稿が少なめみたいなので、いま出せば読まれる確率かなり高そうですよ。チャンス(^^ゞ メール

 

朝ミラなど  投稿者: 管理人  投稿日: 4 4()22255

引用

堀晃先生

お知らせありがとうございました。私のメールも読んでいただけたんですね(^^)
小松左京御大を筆頭に、石毛直道さん、小山修三さん、そして堀先生と、錚々たるメンバーによる祝辞が続いていて、これはちょっと順番は回ってこないな、とあきらめていたので、とてもうれしいです。しかしリスナーはびっくりしたのではないでしょうか(^^;

というわけで朝ミラ、オープニングから、途中何度か抜けながらですが、武田鉄也のコーナーまで聴きました。
いやー、かんべさんと中西アナ、息がピッタリ合っていましたね。もっとも今日はかなり緊張されていたんでしょう、話題が自然に発展していくところまでは行かず、すこし固く感じないでもなかったです。もうすこし場慣れしてきはったら、いい意味での脱線とかあったりして、のびのびとした放送になりそうに思いました。たのしみです!
かんべ先生、ペースをつかむまで暫く大変かと思いますが、頑張ってください!!

#早起き、そんなにつらくなかったので(^^;出来る限り聴こうと思っています。

河本さん
お久しぶりです。さっそくK君の句への感想ありがとうございます。
K君の場合は(本当のところは何も分かっちゃいないのですが。不自由だったのか私は知りません。ただ句から読み取るだけです)、たぶん何も隠そうなんていう気持ちはなかったんではないでしょうか?
だから素直に表現されているんだろうと思うのです。
表現することそれ自体が救いであったり癒しであったりする、という場合があるのだと思います。K君も、表現するのが楽しかったはずです。すっとしたんだと思うんです。表現とはそういうものではないでしょうか?

>障害者であることを隠さなくても暮らせる社会になって欲しいものです。
前も言いましたが、まず障害者が勇気を持って開示することが先だろうと私は思います。「自分は障害者でない」ではなく、「自分は障害者だ」という自己認識から始めなければ何も始まらないのでは。しかる後「自分は障害者だ。それがどうした」というべきなのでは。まあ障害者ではない私が言っても説得力ないですね。

 

Kさん  投稿者: 河本  投稿日: 4 4()185523

引用

 大熊さん
 ご無沙汰です。
 
 加本さんの句、引用されている四句だけで分かりすぎます。
 「自分は障害者でない」と思って走り続けてパタと倒れそのまま召されるというのが希望です。
 もちろん無謀なことはしませんが。>走り続けるために
 
 それにしても、身体障害者の人々のように障害者であることを隠さなくても暮らせる社会になって欲しいものです。
    
 「四色問題」の本の話しようと思っていたのですが、この次書き込みます。
    

 

朝ミラ  投稿者: 堀 晃  投稿日: 4 4()094122

引用

管理人さんのラジオメールは「飛べクマ」さんですね。
8時半頃に登場されてました。

 

ゴシック出帆!朝ミラ宜候  投稿者: 管理人  投稿日: 4 3()204029

引用

いよいよゴシック6時50分、かんべむさしさんの新番組「朝はミラクル」が始まります。初回くらいは最初から(聴けるところまで)聴こうと思っていますが、起きれるかどうか。とりあえず開始時刻に自動的にOBCが鳴り出すようラジオをセットしました。皆様も起床対策は万全でしょうか?
しかしOBCのサイトをみても、新番組の情報は殆どありませんな。MBSは朝ミラと競合する新番組を、ちゃんとサイトで宣伝しているのに(ーー; インターネットを軽視してるとニッポン放送の二の舞になるぞ>OBC
いま激励メール送りました(^^) 皆様もどしどし送りましょう。メール宛先はこちら

 

私はいるのか?  投稿者: 管理人  投稿日: 4 3()112551

引用

私はどうも行動を「開始」するのが遅いところがあります。
たとえば期日が決まっており、それに間に合わすにはもう始めなければいけないのに、そのことは重々認識しているのに、なかなか始めようとしない。もうぎりぎりになってから大慌てに慌て始めるのです。
あるいは「計画」をたてることが出来ない。卑近な例で「オフ会」の企画にしても、頭の隅のほうでは「もう始めないと」と警告が発せられているのに、なかなか行動に移せない。
分かっているんだから行動に移せばいいものを、[認識行動]のの部分ですごく時間がかかります。
つまり「腰が重い」のです。始めるのが遅いということは「止める・やめて別のことをする」のも遅い、ということで、この後半は、外見「粘り強い」と映るかもしれません。
自分はこういう性格なのかな、とずっと思っていました。

ところが『脳はどこまでわかったか』を読んでいて、おっ?と思いました。
頭のてっぺん部分に位置する「補足運動野」は、外界の情報ではなく脳に内に記憶された情報によって動作を制御する際に、動作の開始・選択に必要な過程を担う部分らしく、またその前に位置する「前補足運動野」は、「動作の開始に先立つ動作の企画や準備の段階で果たす役割」が大きく、動作の切り替えや動作パターンの入れ替えに際して際立った働きをするらしい。(128p〜130p)

うーむ。
これを読んで、ある記憶が甦ってきました。
小学校高学年(たぶん6年生)のとき、小学校の廊下で友人とふざけてプロレスごっこをしていました。友人が私をさかさまに抱えあげて何かの技をかけようとしたとき、足がふらついたのか腕がすべったのか、私は脳天から廊下に落下しました。頭蓋骨が割れたかと思いましたが、まあ血が出たわけでもなくそのときはどうもなかったと思っていたのです。
しかし。

あるいはこのとき、わたしの補足運動野ないし前補足運動野が傷ついていたとしたら・・・
上記の機能が阻害され、いまの私の「腰が重い」という行動パターンとして発現しているのではないか?
どうもそんな気がしてきました。
実は本当の私は、もっと計画性と行動の連動がうまくいく人間であったはずなんです。ところが補足運動野や前補足運動野が障害されたために、現在の行動力のなさ、計画性のなさが現れている。
つまりこの性格は実は私のせいではなかったのだ!
というわけで、これからは「何をさせてもお前は遅い!」と言って怒らないでください。それは私自身のせいではないんです。どうぞよろしく。

 

「病室の母のとぼけたセーターよ」  投稿者: 管理人  投稿日: 4 2()200710

引用

アレクすてさん
さっそくご感想ありがとうございます。
この作品集ですが、間隙をXY軸に見立てますと、その第2象限の句は、比較的シュールといいますか具体的ではないものが集まっていますね。わたし的にはこの第2象限のが好みではあります。

一方、それ以外の3つの象限の句は非常に具体的で可視的ですが、第1象限はもっとも古い作品群といえるように思われます。それは松葉杖から推測するのです。第3、第4象限では車椅子になっています。もちろん私は同君とは30年以上没交渉だったので、仔細は知らないのでまったくの想像です。
結局、作品の成立時期は第1第4第3の順だと思われ、たしかにこの順番にやるせなさが募ってきます。

第1象限では、アレクすてさんが選んだ句のように、健全な社会への抵抗精神が認められます。
第4象限でもまだ、いつか自分が健康になれるという気持ちの余裕があります。「車椅子夏シャツの腕太かりし」
同じ車椅子でも、第3象限になると、「すみませんすみません車椅子の夏」と気持ちが弱っています。さらに「風薫る年金だけで暮らしおり」には悔しさがにじみ出ています。

とは言い条、私が最もよいと思ったのはお母さんを詠んだ句なのです。40づら下げて年老いた母親に病院で世話してもらわなければならないかなしさ申し訳なさがあふれています。3句とも秀句ですが、並べて読んだ上で「病室の母のとぼけたセーターよ」に止めを刺します。

以上、故人の句をもてあそんでけしからんと思われる向きがあるかと思いますが、私は違う考えです。故人の句をみんなが読み感想を述べ合うこと、それこそ同君への供養であると思うのです。あらかじめ言い訳しておきます。

編集済

 

俳句を読ませていただいて  投稿者: アレクすて  投稿日: 4 2()04450

引用

おはようございます。アレクすてです。
畸人郷例会のときはお世話になりました<(_ _)>
加本さんの俳句、読ませていただきました。
この言葉が適当なのか、わかりませんが「戦士」という言葉が思い浮かびました。
加本さんが、自分のあふれる思いを5・7・5のことばに刻み込む
その作業を考えると、胸を打たれます。
あふれる思いと、それを、横から客観視できる
理性の二つがなければできないことだと思います。
私が、胸を打たれたのは

「焚火して通天閣を燃やしてしまえ」

でした、絵が浮かぶようでした。
では、また<(_ _)>

 


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