ヘリコニア談話室ログ(20055月)


 

AERAのプロジェクトX批判  投稿者: 管理人  投稿日: 531()191013

引用

「AERA」(05/6/6号)をぱらぱら捲っていて、次の記事が興味深かった。

「NHKプロXやめられない内情/底上げ美談まだある」
プロジェクトXという番組で、「荒れた」府立淀川工高に一人の教師が赴任し、合唱部を作って全国大会で金賞を取るまでを描いた美談らしい。
内容に「作った」ところがあまりにも多く、学校側が抗議し、NHKが行き過ぎた表現があったことを認めたというもの。
私はこの番組を見たことがないのですが(この番組どころかプロ野球以外の番組を見たことがないのですが)、どうやら「作りすぎ」を常態としているらしく、作られる側が「企業」のような営利団体であれば「宣伝」になるのでガマンしてしまうのだが、高校が舞台とあっては、そのような泣き寝入りを期待できなかったということらしい。

「虚構や誇張など感動を盛り上げるための過剰演出(物語化<大熊註)は、本来のドキュメンタリーとは無縁のもので、信頼性」「喪失」させるという松田浩さんのコメントで結ばれています。

このコメントについては、全くその通り! 何度も書いていますが、私は(通俗古代史やムーの目にあまる)「フィクションをノンフィクションとして売る」態度が大嫌いなんです。が、若い人はどうなんだろう?

このような「物語化」については、大塚英志がつとに論じていますが、『カーニヴァル化する社会』(現代新書、05)の著者鈴木謙介も、「自己目的化する感動」143p)として、最近の若者が、たとえば2004オリンピックでは、始まる前から「感動をありがとう」がコピーになっていたように143p)、要は感動の「ネタ」になりさえすれば、その内容は別にどうでもよい(つまり事実と異なっていることは問題ではない)という傾向があることを指摘しています(もっとも著者は、社会学の金科玉条である「没価値性」を持ち出して、それに対する判断は留保しています)。

むしろ錯綜する現実性(現実だから当然です)から、夾雑物を取り去って、「感動」に特化した判り易い「物語」を、若者は求めている。今回の問題はその意味で、NHKの視聴率対策が直接の原因かもしれませんが、そのような「事実より物語を求める」若者を生み出した社会の「駆動原理の大きな転換」154p)こそを問題としなければならないのではないでしょうか。
その意味ではこのAERAの記事も、週刊誌な射程の短さに留まっており(週刊誌ですから当然なんですが)、今一歩の踏み込みがないのがいかにも残念でした。

編集済

 

「火星の落日」  投稿者: 管理人  投稿日: 530()200712

引用

マリア四郎さま

わ、よくぞお越し下さいました!
四郎さんが歌われた「火星の落日」は、30年以上経つ今でも、ありありと耳のなかで聴こえてくるんですよ。
この曲、眉村先生の「スラリコスラリリ、ヒルルトリリリ……」という、あの独特の語感覚と、四郎さんのこれまた独特のお声が本当にマッチしてましたね。まさに引きずり込まれるような深い蒼色に沈んだ静謐な音世界でした。

「火星の落日」が市販のレコードではなく、テープであるのは当時から薄々感じてはいたのですが、眉村先生ご自身が四郎さんに曲を依頼されていたとは、初めて知りました。先生がパーソナリティをなさっていたラジオの深夜番組で、この曲はたびたび掛かっていたのですが、そのようないきさつはたぶん明かされていなかったと思います。

ところでこの「火星の落日」、ピアノの弾き語りだったと記憶しているのですが、ひょっとして眉村さんから「曲をつけて」と頼まれたときに、その場で即興でできたものなんでしょうか。そんな想像図が浮かんでまいりました。

>テープのコピーがあるか定かではないのですが、もし必要でしたら探して見ますけど・・・

本当ですか!? 「火星の落日」もう一度聴いてみたい、とずっと思っていたんです!!
(ちなみに眉村先生も現在テープを所持なさっていないそうです)
厚かましいお願いですが、そうして頂けたらとても嬉しいです。
て言うか、ぜひ見つけて下さい!(>急に強気になっております;;)
もちろんお暇なとき、ご都合よいときで結構ですので……よろしくお願いいたします。
わあ、うれしいなあ、、、 

ところで、四郎さんは今でも歌っていらっしゃるのでしょうか?
先生の奥様のご命日に思いがけない四郎さんのお便り――なんか不思議な因縁を感じてしまいました。
ともあれ、この度はご来信本当にありがとうございました。どうぞよろしくお願いいたします。

編集済

 

はじめまして。  投稿者: マリア四郎  投稿日: 529()21055

引用

掲示板の過去ログを拝見させていただきました。
どうやら、眉村卓先生の「火星の落日」のテープを探していらっしゃるようですね。
実は、私はテープを作ったマリア四郎です。

戸川昌子先生のお店「青い部屋」で唄っていた私に、眉村先生が「曲をつけて」と渡された原稿用紙を今でも大切に持っています。
でも、テープのコピーがあるか定かではないのですが、もし必要でしたら探して見ますけど・・・

 

文庫版「海を見る人」解説  投稿者: 管理人  投稿日: 529()200041

引用

文庫版『海を見る人』の向井淳解説がすばらしい!
そうそう、そうなんだよ、こうでなくっちゃ! と書店で立ち読みしながらうんうんと頷いていました(^^)
皆さんもぜひ手にとってみて下さい。ハードSFの解説は、すべからくこういうのであってほしいもんだと思いました。
ハードSFと書きましたが、ハードSFでなくてもその小説世界の構築を(ハードSF的見地から)解説することも可能でしょう。詰まらないヨイショでお茶を濁すくらいなら、このような客観性に耐える解説をどしどし採用してほしいものです>SF出版社各位。

ところで私は、ジュブナイルSFこそ科学解説が必須と考えるものですが、その理由は、往年のジュブナイルSFの名作群が、そのSF的面白さは不変ながら、科学的記述が古びてしまっているという場合、最新の科学知識による解説で補正するべきだと考えるからです。科学の入り口に立った小中学生の読者に与えるのですから、それくらいの配慮は必要でしょう。

勿論本解説のようなものをジュブナイルSFに付けよと言っているわけではありません。こんなものを読まされた日には、小学生は目を回してひっくり返ってしまいます。ジュブナイル解説は、数理的な裏づけを解説するのではなく、科学や天文学へのあこがれを読者にもたらすものであれば十分です。私が親しんだ福島正実の解説はまさにそのような「文系的」科学解説でした。

閑話休題。
話を戻しまして、非ハードSFの客観解説の場合を想像するに、先ず思い浮かぶのは、小説世界ではこのように描写されているが、実際はこうですよ、というもの。しかしこれはどうしても後ろ向きに捉えられがちで、書く方も書かれるほうもやや気乗りしません。

今ひとつは、現実の科学的にはありえない描写を、そのまま認めて、もしそのようなことが起るならばそれはこういう理屈が働いているのかもしれない、というアプローチ。これならば前向きだし面白そう。むしろ解説自体で自立した「作品」となりうる可能性も見えてきます。それはある意味、批評理論的な(脱構築的な?)アプローチといっても過言ではありません。
上記の向井氏にはそのような解説を書いて頂きたいなあ(^^)

それはそうと、今日は眉村先生の奥様、故・村上悦子さんのご命日でした。一年が早いです。今日はご生前に悦子さんから戴きましたTシャツを着ています(^^;

編集済

 

明日も仕事(とほほ)  投稿者: 管理人  投稿日: 528()204030

引用

19日に発注した『怪盗ファントム&ダークネス (EX-GP2)』(カラフル文庫)がまだ届きません。7&Y使えんなあ(ーー;。
使えんといえば、bk1もダメですね。"怪盗ファントム&ダークネス"で検索してもヒットしません。検索機能がめちゃくちゃ劣る。
私はピーアイマンなので、ガリバーなamazonはあまり利用したくないのですが(特に「売れている順番」が標準であるのが気に入りません)、今後bk1が復活しなければ、嫌でもamazonに頼らなければならないのかなあ(とほほ)。

>『カーニヴァル化する社会』
これは面白いです。最近の若者論は心理学的か、もしくは脳科学的なものばかりが目に付きますが、これはまさに社会学の手続きをまっすぐに踏んでいるので読んでいてすっきりします。瑣末なところで異論もあるけれど、好感が持てます。
しかし私も一応社会学士なんですが、名を挙げられる学者名に全然馴染みがありません。タルコット・パーソンズくらいでしょうか。うーむ、私の社会学の知識はもはや時代遅れなのかなあ(とほほ)。
ということで、再読開始。

 リラクシン/マイルス・デイビス(56)

編集済

 

暁師の独創  投稿者: 管理人  投稿日: 526()231327

引用

プロパー浪曲の曲師が、客席から見えない位置で演奏するように、その演奏自体も、ギターでいえばリズムギター、サイドギターに類する性質のもの、つまり伴奏であるのに対して、暁師のプレイは、まさにリードギターのそれであり、ヴォーカルと競い合って(押しのけて)前面に出てこようとします。
暁師が弾きまくるので、左近師匠はなかなかうなり始める糸口がつかめず、困った顔で暁師を横目でちらちら眺めるお約束がまた可笑しい。かんべさんのおっしゃる「困りのおかしさ」(落語・演芸・笑いのノート、29ですな。
先日記した伝統的三味線奏法との差異というのは、まさにこのプレイヤーの立ち位置(意識)に由来するはずで、たとえば暁師は三味線でスケールを、何というのですか、「スラー」で上下させるテクを用いたりするわけなんですが、こんな奏法は伝統奏法にはありえないのではないか。暁師の独創なのだろうと思うのです。

編集済

 

疑惑の酔狂賞  投稿者: 管理人  投稿日: 525()212035

引用

本多さん
今回の当該部門銓衡委員は誰々だったんでしょうね、ほんっとにどこを読んでいるのか……委員の顔を見てみたい、てか選考会の一部始終を公表してもらいたいですね(^^;
本多さんもお疲れ様でした。残念大宴会にはお邪魔できませんが、末永さん他皆様によろしくお伝えください。

さて――
お話変わって、宮川左近ショーのCDを聴くを得ました(なんと図書館に所蔵されていた)。
暁師匠の三味線は凄い! めちゃうまい、早弾きというだけでなく、天性のセンスでしょうかフレーズがキラキラしています。ずうううっとソロで聴いていたい(^^) 音も大きいですし、プロパー浪曲の三味線とは弾き方がかなり違うと思います。暁流といいますか、伝統からはかなり破格な、独自の奏法で日本のブルーグラスといってもよいのではないでしょうか。
松島さん(?)のギターもうまい。三味線もギターも一流なんですよね。だからこそ漫才として一世を風靡できたのでしょう。改めて納得。
#あ、左近さんの声も大好きですよ(^^ゞ

編集済

 

残念でした!!  投稿者: 本多正一  投稿日: 525()004330

引用

 こんばんは。推理作家協会賞評論その他の部門は日高恒太朗さんの『不時着』に決定しました。残念!!
 いま「子不語」スタッフの皆さんと残念会をやって帰ってきたのですが、私などより悔しい方がいらっしゃるので、関係各位にお疲れさまでしたとのみ申し上げます。O熊さんも御声援ありがとうございました。
 改めて残念会を開くことになると思います。どうぞよろしくお願いいたします。

http://www.libro-koseisha.co.jp/shifugo.html

http://www.libro-koseisha.co.jp/shifugo.html

 

残念  投稿者: 管理人  投稿日: 524()192018

引用

本日、第58回日本推理作家協会賞選考会が開かれ、なんと『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』が受賞を逸したとの目を疑う結果が報告されました。人外境だより
ガチガチの本命ときいていたので、残念という以外の言葉がありません。関係者の皆様に掛ける言葉も思い浮かびませんが、中さんが書いているように、是非とも捲土重来を期して頂きたいと願うばかりです。
しかし何であれ、賞を授かるってのは「あなたまかせ」ですから、自分ではどうしようもありません。難儀なもんですな。

 

「魔術師・第二章」  投稿者: 管理人  投稿日: 523()194244

引用

昨日は久しぶりに、旭堂南湖さんの探偵講談の会「名探偵ナンコ」にお邪魔することができました。
ちょっと早めに家を出て、まずは梅田で本屋めぐり。
「快楽亭ブラック集」が出ていましたので、ぱらぱら立ち読み。おお「幻燈」が載っているではありませんか。で、解説に目を通しましたが、南湖さんのことはまったく記載なし。おいおい解説者、「幻燈」を収録しておいて探偵講談に言及しないとは、勉強不足も甚だしいぞ。
いささか気分を悪くして、書店を出、ウメチカからドウチカへ。
今日は健康のために本遇寺まで歩くつもりで出てきたのです。
渡辺橋の手前で地上に上がり、堂島川沿いに玉江橋まで来たところで、開場までまだ30分以上ある。少々足も疲れ、小腹もすいたので、右折してJR福島駅前のマクドナルドで一服することに。ここまで旭屋から時間にして約30分でした。うむ、よく歩いた(^^;

ということで、やってきた本遇寺ですが、なかなかの入りでした(見かけたことがない人がちらほら。ゲストのたまさんのファンの方?)。

演目は、まずは「探偵講談・魔術師 第1章」(江戸川乱歩原作)。もう何度も聴いている南湖さん得意の演目なので、いつもよりもさらりと淀みなく読まれました。これを「練れた」というのでしょうか。

つづいてゲスト笑福亭たまさんの「ミステリ落語・BE KILLED」。とある高校を襲った連続殺人事件、名探偵役の警部の推理や如何に!? ナンセンス落語というのかな、いや可笑しい(^^) 畳み掛けるようなリズム感に、やっぱり落語はいかに削ぎ落とすかだな、と納得。

また南湖さんが登場し「探偵講談・魔術師 第2章」。これが今日の会の眼目、待ちに待った第二章のお披露目であります。この段は、美女が両手両足を切断されたりと、乱歩の残酷猟奇趣味が強く出た原作で、これを南湖さんがどう料理するか、興味津々でしたが、原作の味をこわさず、妖しげな雰囲気を上手に醸し出していてよかった。

その後「講談紙芝居・ガニラ」、そして恒例芦辺拓さんとの対談へと進むのですが、私は住職と密談があり、うしろ髪を引かれる思いで会場を後にしました。そうして住職と居酒屋で密談していますと、一時間ほどして、会が終了した南湖さんたち一行がどやどやとやってき、楽しい打ち上げに(^^)。

たまさんが私と同じ市の人であることが判って驚いたり、落語と講談の違いとかを話していたような(^^;。
たまさんが「笑いを取ってなんぼの世界」とおっしゃったので、「笑いとは違う落語もあるのでは」と質問したら、かなり否定的な感じだったのが印象的でした。

久しぶりに講談を聞き、楽しかったです(^^)

『カーニヴァル化する社会』に着手。

編集済

 

「マイルス・デイヴィス」  投稿者: 管理人  投稿日: 522()11577

引用

堀さん
反応ありがとうございます。

>「SF界に於ける筒井康隆的なポジションだったのかも」はどうなんかしらん
トレーンは機関車やな、と思いついた瞬間、スポーツカーをすっ飛ばすマイルスが目に浮かんでしまったのでした(^^;

中山康樹、読了しました。後半のエレクトリックマイルスの評価はまだしも、晩年のポップなマイルス評価の仕方は苦しいものがあると思いました。この方は(マイルスなら何でも許せる)マイルス信者なんでしょうね。

ともあれ大絶賛の「ビッチェズ・ブリュー」(69)を聴いてみました。1曲目の「ファラオズ・ダンス」は、おお「アセンション」みたい!と思いましたが、どんどんダレていき、ラストのウエイン・ショーターの曲は最低でした(ま、私はウエイン・ショーターが苦手で一体どこがいいのかと思う者なので偏見が入っているんですが)。1曲目がよいと感じたのも、突き詰めればバスクラのベニー・モウピンのプレイが素晴らしくよかったということ、そしてときどき表面に浮かび上がって来てひらめくジョン・マクラフリンのフレイズのきらめきに拠っているかも知れません。
ま、悪いアルバムではなかったです。これから何度も聴き返しそう(^^)。

で、ジョン・マクラフリンですが、このわが最愛のギタリストについて、125pで
 このアルバム(イン・ア・サイレント・ウエイ)が示しているように、結果的にいえば、マイルスのアイデアを実現するためには複数のキーボードが必要であり、さらにはたんなるエレクトリック・ギターではなく、"ジョン・マクラフリン"というギタリストが必要だった。
とあり、わたし的にはマクラフリンのどの辺がマイルスに認められたのか、必要とされたのか、とても気になったのでしたが、それについてはなんの解釈も示されずやや消化不良となりました。

とはいえどんどん変化していったという知識しかなかったマイルスについて、一定の全体像を鳥瞰できたのはよかったと思います。

編集済

 

Re:ジャズを超えて    投稿者: 堀 晃  投稿日: 521()212752

引用

いいなあ……たまらんご意見。
現代新書、明日買ってくることにしますが、おれのマイルス観、「いまいち熱狂できない」というのがまったく同じなのであります。
ただ「SF界に於ける筒井康隆的なポジションだったのかも」はどうなんかしらん。
ともに「知的」なのは間違いないですが、筒井ファンに関していえば「熱狂的」でないのが例外的であります。
ジャズとSFのアナロジーはむつかしいですね。
中山康樹読んで、ちょっと考えてみます。

 

ジャズを超えて  投稿者: 管理人  投稿日: 520()21216

引用

やっぱりホークスは強いなあ。
ということが十分に確認できたので、テレビをやめてパソコンに転戦(汗)

中山康樹『マイルス・デイヴィス ジャズを超えて(現代新書、00)読み中。
マイルスはいまいち熱狂できないのですが、何となく腑に落ちた。
ジャズ奏者にしては知的すぎるのでしょう。ライブよりレコーディング重視(ライブはレコーディングのリハーサルと考えたらしい)。1955年の(コロンビアでの)初レコーディングで既に複数のテイクをつぎはぎして仕上げるという、今でいうリミックスの手法を取り入れていたというんですから、出発点からして反ジャズ的な、言い換えればジャズに囚われない新しさがあった。むろんチャーリー・パーカーなどから言わせればもっての他な所業(^^;
ある意味、SF界に於ける筒井康隆的なポジションだったのかも。でも私は、華麗な、頬っぺたが膨らまないように吹いたマイルスよりも、よだれをだらだら垂らしながら吹きまくったコルトレーンの愚直な肉体労働が好きですな。

 ライブ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード/ジョン・コルトレーン(61) 

編集済

 

セブンイレブン受け取り  投稿者: 管理人  投稿日: 519()22235

引用

下記、藤野さんの新刊本、仕事場から車で1分のところに(>歩けよ)セブンイレブンが開店したので、久しぶりにセブンアンドYで注文してみました。名称がセブンアンドYに変わってからは初めて。
しかしリードタイム1週間ですか。別に急がないからいいんだけど、amazonなら24時間なんですよね。

 クッキン/マイルス・デイビス(56)

編集済

 

「怪盗ファントム&ダークネス (EX-GP2)  投稿者: 管理人  投稿日: 518()215533

引用

藤野恵美さんの新作『怪盗ファントム&ダークネス (EX-GP2)』(カラフル文庫)が出版されました。
前回未解決だった謎が回収されているそうです(^^; 

編集済

 

「自己愛型社会」  投稿者: 管理人  投稿日: 518()195611

引用

岡田尊司『自己愛型社会 ナルシスの時代の終焉(平凡社新書、05)読了。
著者は小笠原慧名義で横溝正史賞を受賞している。精神科医と作家の二足の草鞋?
予想していた内容と違っていて、途中止めようかと思ったんですが、求めるものを捨てたらけっこう面白かった。概念化がルーズで、良くも悪くも精神科医というよりも小説家の作物でした。ご隠居が八つぁん熊さんに吹いているような言説ですが、言っていることは首肯できます。

 ジャズ来るべきもの/オーネット・コールマン(59)

編集済

 

「課長の厄年」  投稿者: 管理人  投稿日: 517()202715

引用

本多さん
いやー、エッセイまるまる投稿してくださり、感謝感激です!
しかしいいんですか?原稿料はよう出しませんからね(^^;
昨日も書きましたが、乱歩がまだ見ぬ未知の恋人に宛て、ありったけの思いをこめて書いた「恋文」という「見立て」が効いています(^^) 
「自作に対する自負」というのが、ふつう一般的な見方だと思うのですが、ちょっと視線の角度をずらすことで、思いがけない新鮮な様相が見えてきました。まさにエッセイは切り口こそ命ですね。ありがとうございました。

かんべむさし『課長の厄年』(光文社文庫、92)読了。よかったあ〜(^^) 感想は後日。
ちょっと溜まってきましたが、読書の時間は(細切れ可なので)ふつうにあるのですが、文章を考えて書くという(まとまった)時間が(精神的に)もてない状況なので、あしからず。

『DNAから見た日本人』を読むか『自己愛型社会』を読むか考え中(^^ゞ

編集済

 

乱歩の恋文  投稿者: 本多正一  投稿日: 517()130643

引用

 乱歩の恋文 / 本多正一

【思いのたけ】
 大正十一年の終りごろ、一人の青年が探偵小説を書き上げ、英文学者・馬場孤蝶にその出来栄えを乞うたことがある。ところが数週間たっても返事が来ない。業を煮やした青年は「一、読むひまがない。一、読んだがつまらない。一、原稿を紛失した。」という返信用葉書を同封して原稿を取り戻し、その後改めて「新青年」へ送ることにした。青年の名は平井太郎、のちの江戸川乱歩である。
 「今度は探偵小説の本舞台「新青年」の森下氏に送った。無論返送料つきだ。すぐに送り返して来るだろう。ざまあ見ろと思っていた。決してあてにしていなかった。/森下氏もなかなか読んで呉れなかった。目下投書山積、急には読めない。(略)益々癪に触った。馬鹿にするな。もうこれ以上誰が頼むものかと憤怒した。そして早速手紙を書いた。読むひまがなければ直ちに送り返して呉れ。」(江戸川乱歩「二銭銅貨」/「探偵趣味」大正十五年五月号)
 こうした乱歩の強い言動は、自作に対する自負というよりも、自分と真摯に向き合ってくれる他者を探し求めていた孤独な文学青年の嘆きの姿であっただろう。そう、江戸川乱歩はまだ見ぬ未知の恋人に宛て、ありったけの思いをこめて恋文を書いていたのである。
 「二銭銅貨」を一読した雨村は驚嘆し、斯界の先達・小酒井不木に推薦文を依頼する。

【無二の同志】
 ここに日本における創作探偵小説の歴史が開幕することになるのだが、この江戸川乱歩と小酒井不木の往復書簡集『子不語の夢』(皓星社)が、ミステリーファンや文学研究者の注目を集めている。これまで類書に見られなかった書簡の直筆画像がCD-ROMとして添付され、浜田雄介、小松史生子、阿部崇、伊藤和孝ら第一線の研究者たちの行き届いた論考を収録、村上裕徳の詳細な脚注、末永昭二作成の索引まで、今後の近代文学研究の規範となるような至れり尽くせりの内容が用意されているからである。
 乱歩が専業作家として立つまでのドキュメント、二人の創作秘話、当時の大衆文学界の交流の様子等々、往事の肉声が甦り、時代の証言としても貴重だが、一読不木の温容と誠実が印象深い。
 「果して探偵小説家として一人前になれるかどうかを、先生に御判断願ひ度いのです。」(大正十三年十一月二十六日)との乱歩の打診には、即二十七日夜に主旨承諾の葉書を投じ、二日後、送られてきた「心理試験」を精読し、「あなたは探偵小説作家として十分立つて行くことが出来ると確信して居ます。」(同年十一月二十九日)と太鼓判を押す。人柄のにじみ出た応接である。
 いずれ乱歩と不木、それぞれの資質がもたらす「宿命的なズレ」(小松史生子)が用意されていようとも、このとき彼らは探偵小説という未知の文学の可能性へ賭けようとする無二の同志であった。書簡の往復より八十年余を経て、その交流と信頼はいまも新鮮である。
 なお今回の出版は三重県の公共事業の一環として名張の乱歩研究家・中相作によって企画され、『ハンセン病文学全集』で知られる皓星社の協力を得て可能となった。思えばハンセン病文学の嚆矢、北條民雄が世に出たのも川端康成への原稿精読の依頼がきっかけである。異質な文学世界を有する江戸川乱歩と北條民雄だが、尊敬する先達との出逢いが彼らの生と文学を支えた。労多くして報われることの少ない良心的な出版社の姿勢にも注目していただきたい。 (「公明新聞」2005/5/3)

http://www.libro-koseisha.co.jp/shifugo.html

 

Re:年齢と時間感覚  投稿者: 管理人  投稿日: 515()184514

引用

堀さん
早速『課長の厄年』の解説を読ませていただきました。
なるほど、ウラシマ効果ですね。
宇宙船内で1年の経過のあいだに、地球では(たとえば)3年経過していたりするわけですね。
そうして厄年あたりから外的時間と内的時間の差異が有意なものとして感じられ始める(相対論的効果が現れる)ということですね。
『課長の厄年』は、そのような相対論的効果による孤立の物語として読むことが出来るのでしょうか。ちょっと興味がわいてきました。読んでみようと思います。

――そうしますと、光速到達が「死」ということになるのかな。ところで、質量ある物質の光速到達は不可能という「知識」を私は持っているのですが

「神様、神様」
「なんじゃ」
「お願いがあります。やり残したことがあるので、もう一年だけ生きながらえさせてください」
「だめじゃ」
「そこをなんとか」
「そんな個別の要望を聞くことはでけん」
「では一年とはいいません、こういうのはどうでしょう」
「どういうのじゃ」
「一日ごとに残りの余命を半分にします」
「どういうことじゃ」
「余命を「1」と考えます。一日経つと余命が半分になります。2日目にはその半分で4分の1、3日目には8分の1、4日目には16分の1・・・」
「なるほど、それくらいならば許してやろう」
「しめしめ」
(神様はアキレスの亀を知らなかった!!)

F・W・ニーチェ『キリスト教は邪教です 現代語訳『アンチクリスト』適菜収訳(講談社+α新書、05)読了。なんか山形浩生みたいだった(^^;。感想は後日。

 

年齢と時間感覚  投稿者: 堀 晃  投稿日: 514()225723

引用

思い出しました。
かんべちゃん(ちゃんづけは今回限り。ふだん個人的にはこれでいいんだけど)の『課長の厄年』(光文社文庫)の解説に書いたのでした。
厄年あたりで時間感覚が変わる。
この作品はテレビドラマ「課長さんの厄年」(ショーケンが演じた)になったノンSFですが。
作中にジェットエンジンにからめた比喩が出てきたので、ぼくは「光速に近づきつつある宇宙船」に譬えたのでした。
これこそ思いつき。
ただ、1/年齢という直線感覚より、寿命を仮定して、そこらへんへの漸近感覚かなあ……
ここいらへん、また素面で再考ですね。

 

ではお言葉に甘えまして  投稿者: 管理人  投稿日: 514()212351

引用

堀さん
単なる思い付きに反応していただき、恐縮です。

>おれも年齢と時間感覚、光速に近づいたときの宇宙船の乗員みたいに考えたことがあるのですが
それはひょっとして渡辺慧の「時」について書かれたエッセイでしょうか? 内容はもはや覚えてないのですが、わが頭脳の理解力の埒外であったことは覚えております(汗)

>ちょっと落ち着いて(素面で)再考してみます
下の時間感覚を本当に「感じられる」ためには、やはり時の矢が逆転するような「アイデア」が要るようにおもうのですが……
ぜひ堀さんのハードSF頭脳が捉えた解釈をお聞かせいただければ嬉しいです!

じゃ頼んだよ、堀ちゃん!(>わっゴメンナサイ、もう言いませんですうm(__)m

石川さん
あらら、そうでしたか。ご指摘ありがとうございました。
「破格」な小説なので、いかにも奇想天外っぽいと思い込んでしまってたようです(^^ゞ。

 

『急流』  投稿者: 堀 晃  投稿日: 513()222953

引用

管理人さんの時間感覚、身につまされるというか、たいへん面白いです。
「急流」……これ、確かにマンガが先という、珍しい作品ですよね。

で、おれも年齢と時間感覚、光速に近づいたときの宇宙船の乗員みたいに考えたことがあるのですが(主観的な時間感覚と世間の時間感覚の差)、いざその年齢になってみると、また違いますねえ。
ちょっと落ち着いて(素面で)再考してみます。

面白い話題なのでししゃり出てきましたが、この際「先生」などと返されず、ふつうの参加者として「さん」か「ちゃん」づけでよろしき。
でないと、敷居が高くなってしまいます。

http://hori.asablo.jp/blog/2005/04/16/1320

 

歳を取るにつれ1年が短くなっていく問題について  投稿者: 管理人  投稿日: 512()192414

引用

歳をとると一年が早いです。なんか、ほんとうにあっという間に過ぎていきます。筒井康隆の傑作「急流」は、最初「奇想天外」誌で読んだときは、むしろつまらん小説だと思ったものでしたが、今となると、これは筒井さん(当時40過ぎか)の当時の時間感覚を素直に小説化したものであったことが了解されます。

さて、なぜ歳をとると一年が早いのか。一説によりますと、無意識に生きてきた時間と対比してしまうからだそうです。どういうことかと言いますと、10歳の子供にとっての一年間は、その生きてきた時間の10分の1、10%にあたりますが、50歳の人間にとってのそれは、50分の1、なんとわずか2%でしかありません。
つまり50歳の人間の1年間は、その人が10歳当時に感じていた1年間に比べて、心理的に5分の1になってしまう、というわけです。

なるほど。
しかしながら、これでは1年がどんどん短くなっていくばかりです。読みたい本は沢山あるのに、時間は「急流」のようにどんどん早く流れ去っていき、最後に……となってしまいます。これはみなさん全員に当てはまる大問題なのではないでしょうか。

――が。
こう考えてみたらどうでしょうか。

上の説は「生まれてきた時」を起点にしています。だから歳をとるにしたがって分母が大きくなっていく道理です。
では「死ぬ時」を起点にしたら?
例えば70歳で死ぬとしましょう。もうすぐ50歳になる私に残された時間は20年ということになります。その20年に対しての1年間は、1/20で5%となります。
では60歳の人はどうか。70−60=10、1/10*100=10%となり、50歳に比べて60歳では、1年間の時間感覚は10/5=2倍に引き伸ばされるではないですか!

つまりこうすれば、歳を取ればとるほど1年間は長く(時間の流れは遅く)なっていくのです。

うん、これはわれながらいい方法を思いつきました。ある一定の年齢に達したら、「死ぬ日」を決定したらよいのです。
そんな死ぬ日をあらかじめ決めるなんて嫌だ〜、ですか?
ところが、それが案外そんなことないんですよ(^^)

説明しましょう。70歳に達したらどうなるか。70−70=0、1/0=となり、つまり70歳になるとその1年間は永遠に終わらなくなってしまうのです(^^;
永遠に続く一年間、私たちは永遠に本を読み続けられるのです。いや〜、最高の老後ではないですか(>ってそんなわけないやろ!)

編集済

 

「黄金の門」  投稿者: 管理人  投稿日: 511()203114

引用

連休明けで瞬間風速的に忙しいです。
ということで、簡単に。

河本さん
>これ、釈迦に説法するでない
>「東海道戦争」、「筒井順慶」など、SFマガジン、週刊文春連載のリアルタイムで読んでいる
しっつれーしました!
河本さんが大先輩であること、すっかり忘れてました(^^;。
「東海道戦争」は1965年のSFマガジン70号で私は小学4年生、「筒井順慶」は週刊文春1968年9月〜12月で同じく中学1年生ですね。うーむ、その当時はまだ筒井のツの字すら知らなかったです。いや恐れ入りました。

その私が、今月末でついに50の大台に乗ってしまうのですよ河本さん。なんか信じられませんねー。
そういえば大昔、中さんが幻想文学新人賞の授賞式に出席したとき、撰者の中井英夫と澁澤龍彦が、こんな話をしていたそうです。
澁「中井さん、いくつになったの」
中「もう60だよ、誰の歳かと思っちゃう」
この会話が最近、折に触れて思い出されるんですよね。いや、はるけくもきつるものかな、であります。

>科学と対立するファクト
これがまず歪んでいるのですよ。
たとえば(何でもいいんですが)「ESP」を扱う小説があったとして、「ESP」という超常現象を、どのようなスタンスで扱うか、その扱う仕方で、SFであったり、SFでなかったりするのです。ESPを扱うからムーなのではありません。

平谷美樹『黄金の門』(角川春樹事務所、05)読了。
その後、一時間半くらいで簡単に再読。なかなか興味深い。感想は余裕が出来てから。

「神」に興味がわいたので、巷間話題のニーチェ『キリスト教は邪教です! 現代語訳「アンチクリスト」』に着手。なんだこりゃ? ニーチェ本当にこんなこと書いているの(^^;

とりあえずこの辺で(今から内職だ)。

 

科学 SF ムー  投稿者: 河本  投稿日: 5 9()161234

引用

 大熊さん
 >>「科学的な娯楽文学」ではなく「科学と対立するファクトを娯楽文学で描いたもの」と思っていたのではないだろうか
 というのは全く事実誤認です。というか上述のようにわざと捻じ曲げた結論ですね。

 まっすぐですよ。
 キャンベルもF氏もESPを否定していないのだから、「あっムー民だ」と思うのは当然でしょう? >あとで検討します
 大熊さんの論理のほうが屈折しています。 

 >私のこの文章をお読みください。

 大熊さんと知り合った頃、読ませて頂きました。
 「SFの定義」について、いろいろ議論しましたねえ。懐かしいです。>ぼくとしては「SFの帰納的定義」が気に入っています

    http://www2.ocn.ne.jp/~nukunuku/MyPage/K0011C.HTM

 SFが文学のジャンルの1つなのだとしたら、大熊さんのいう定義に賛成です。 >何回も言ったと思うな
 「未来主義」という言い方もそうだと思います。

 >科学の人

 ムー民谷住民票をF氏にあげていいかどうかまだ決まっていません。
 仮定の段階です。
 押し付ける気はありません。

 ムー民とSFファンを分けるものは、ある不思議なお話を「本当のこと」と言うか言わないかの差だと思います。
 たとえば、作家Xさんが何かUMAの一種類について、面白い架空の理論を基礎にしてその「UMAという現象」を描いて作品にしたら、それはSFですね。
 「フィクションだ」と言っているXさんはSF作家です。
 しかし、Xさんがその「架空の理論」をすごく気に入ってしまい、ついに「本当にこうなのかも知れぬ」と自費でそのUMA現象を観察し取材し、オリジナルな仮説をまとめあげ、尾ひれを付けた記事にして「ムー」に投稿したならば、彼はりっぱなムー民ですね。
 その説が正しい可能性が一万分の一ぐらいだとXさんが思っていても、たとえば「ついに解明された」などとタイトルをつけて「事実だ」と言ってしまっているのだとしたら。
 
 F氏はダウジングについてどう思っているのでしょうか?
 「本当のこと」と思うか、あるいは可能性は認めているように思えます。
 「権威」はこの場合「現代科学」ではありませんか?
 そうだとしたら、科学と整合性のないESP現象を、「本当だ」と言わなければ、アンチテーゼにならない。
 
 F氏は「科学の人ではない」「SF作家・SFファン」、といわれるわけですね。
 ぼくの言葉の使い方では、「科学の人ではない」「SF作家・SFファンではない」となります。
 もうすこし正確に言うと、「科学の人」=「現代科学を正しいと思う人」です。    
 {ムー民、相対主義思想家}、{科学者、SFファン}、分けるとしたらこうだと思います。 
 
 >仏哲学は知りませんが、価値の相対化はSFの本領ですよ! 筒井康隆を読まれたし。
 
 これ、釈迦に説法するでない。 (^^)   
 「東海道戦争」、「筒井順慶」など、SFマガジン、週刊文春連載のリアルタイムで読んでいる。

 PS
 大熊さんの「科学の人」という言葉の使い方が分ってきました。
    

 

チャチャヤン気分に  投稿者: 管理人  投稿日: 5 8()175820

引用

「妖魔と二剣士」を掲載しました。

 

「妖魔と二剣士」  投稿者: 管理人  投稿日: 5 8()133338

引用

ふみおさん
またパラパラ読み返していたのですが、そういえば「金髪」とは書かれていませんね。「金色の髪が微風にふわりとなびく」(82p)
最初日本人の可能性を排除したのは、いくらブリーチしても「金髪」にはならない、という先入見があったためで、そのとき想起している「金髪」とは、純ゲルマン的な(たとえばファファードなんかそんなイメージ、わたし的には)、文字通りのそれだったんですが、「金髪」ではなく「金色の髪」と区別したと解釈するならば、やはりYも「私」も日本人でいいのかもと考え直しています。
また「モン・デュー」ですが、ここで突然そういうルビが振られたのは、Yと「私」の会話がフランス語でなかったことを暗示しているのかも知れず、事故はフランス国内で間違いないとしても、ふたりがフランス人であることまで規定するものではありませんね。
以上から「日本人ではない」という排除も出来なくなり、さらに混沌としてまいりました(^^ゞ

――という具合に、著者には申し訳ないですが、いろいろ解釈を立てては消して、勝手に楽しませてもらっています(^^)

「クォーモールの王族」を読み終えました。本集中一番小説的に派手な話で面白かった。このシリーズの面白さは、コナンやジョン・カーターとは違って、二人の主人公が、客観的にはいつまでたってもその辺のゴロツキのまま終始しているところにあります。前2者はキンメリア王や火星大元帥に成り上がって、いわば支配者として君臨しますが、この二名は時に成功して大金や財宝を掴んでも、次の瞬間には色香や他愛もない計略に引っかかってもとの素寒貧の一文無しに戻る。本篇でもラストで、首尾よくせしめた金銀財宝積んだ荷車を放り出し、這うほうの体で逃げ出す仕儀となります。つまりぜんぜんヒーロー物語ではない、てか基本的にアンチヒーローなコメディなんです。ただ最終的には水泡に帰すにしても、途中は胸のすくような活躍をする「ことも」あり、しかして成功するかに見えたその瞬間に、元の木阿弥に帰るところが、アメリカSFファンの洒落た作風を愛する層に支持されたのでしょう。

以上、フリッツ・ライバー『妖魔と二剣士 ファファード&グレイ・マウザー4浅倉久志訳(創元文庫、05)読了。
次回はいよいよ最終巻、シリーズ初の長篇とのことで、可及的速やかな刊行を期待したいところ(^^)

平谷美樹『黄金の門』に着手の予定。

 

ひゃ〜(汗)  投稿者: ふみお  投稿日: 5 7()233821

引用

読ませて頂きました>「イスタンブール……」感想。

いつもながら、大熊さんには、「隠してあるような、見せたような」ところをきっちり補足されちゃってますね〜(笑)。Yと「私」の正体(職業とか国籍とか)が何だかよく分からないところ、エウゼビオスの目的、現実と幻視の境目等々、ちゃんと見ていて下さって、作家冥利に尽きますです。

映像的というのは自分では意識していませんでしたが、確かに、著者校のためにゲラを読んでいた時、ふと、「文体や言葉」で進行している話ではなくて、「映像を小説化」した話だな、と自分でも思いました。現実には映像とか絵のセンスがないので(笑)インディーズ映画制作とかも考えたことさえないですが、「映像を作る才能」に対する憧れが常にあります。

「モン・デュー!」に反応してくれたのも嬉しかったです。もしかしたら、髪をブリーチしまくった語学堪能な日本人かもしれないし、フツウにヨーロッパ人かもしれない。読み手に対していろいろ丸投げしまくって(笑)も成り立つ(こともある)のが短編小説の魅力かもしれません。最近、ほんのちょっとですが、以前には分からなかったものがいろいろ見えてきたように思います。

何にしても、大熊さんのような読み手がいるということ自体、幸せなことです。ありがとうございます。

 

F&G  投稿者: 管理人  投稿日: 5 7()211939

引用

『妖魔と二剣士』読み中。
「魔女の天幕」はプロローグ。
中篇「星々の船」は何とも珍しいヒロイック山登りファンタジー(^^;。ラストの一言「すばらしい女たちだ、あの4者ともが」がかっこいい! もちろん4者とはヒリウィー、ケヤイラと氷猫フリッサ、そして気高きスタードックです。
幕間劇「ランクマー最高の二人の盗賊」はタイトルに偽りあり(笑)のアンチヒロイックコメディ。
ということで、ラストの中篇「クォーモールの王族」に着手。

 

交流戦  投稿者: 管理人  投稿日: 5 6()221921

引用

いやー、やっぱり新鮮で面白いですねえ(^^)

>ヒーローインタビュー
濱ちゃん、言うことが大人になったね。
人って、そうやって、どん底へ落ちて這い上がってくるのを繰り返して、大きくなっていくんですよ。
よかったよかった!

 

「イスタンブール(ノット・コンスタンティノープル)」  投稿者: 管理人  投稿日: 5 5()13139

引用

を、チャチャヤン気分に掲載しました。

 

眉村さん情報  投稿者: 管理人  投稿日: 5 5()091111

引用

少し前になりますが、朝日新聞3/26付夕刊に眉村さんの記事が掲載されました。「SF離れは科学離れに」
眉村さんが東京理科大で開催された日本物理学会で講演されたという記事で、子供のころ天文学者を目指したという眉村さんは、
「最近SFのように自然科学の概念で考えるものよりも、ファンタジーが好まれるようになった」
ことを案じ、
「理屈から逃げ、気分で動くような風潮が広がっているのではないか。今こそ科学に踏ん張ってもらいたい」
と持論を展開されたそうです。
柳生真加さんより切抜きを頂戴しました。ありがとうございました。

 

「理屈は理屈 神は神」  投稿者: 管理人  投稿日: 5 4()214542

引用

チャチャヤン気分に掲載しました。

 

風の翼大宴会  投稿者: 管理人  投稿日: 5 4()100233

引用

アレクすてさん
昨日は残念でした。ケータイに電話くれたらよかったのに(^^;
次回はお盆ですのでよろしく!

柳生さん
お疲れ様でした。
カラオケは高田渡追悼大会のはずが、いつのまにか「めばえ」なんかを歌っておりました。え、知らない? 「私の彼は左利き」ですがな(「めばえ」は歌詞をまだ覚えていた。なんか胸を張ってしまいました(^^;)
西さんの参加で、いつもよりも選曲が歌謡曲よりになり、珍しい歌が歌えてとても面白かったですよ(^^) 
しかしサビしか歌えなくなってる曲があったのには愕然としました。なんでも歌えるのが自慢だったんですが
ラストは「生活の柄」「銭がなけりゃ」「値上げ」を合唱(絶叫?)。高田渡さんにも聞こえたのではないでしょうか。

#なお、来週の木曜ABCラジオ夕方3時半頃からのばんばひろふみさんの番組で、高田渡ミニ特集があるようです。お知らせまで。

かんべむさし『理屈は理屈、神は神』と『魔地図』を購入しましたが、SFMはとんでもなくどうしようもない表紙だったのでパス。山田正紀が掲載されてるんだけど致し方ありません(ーー; 

編集済

 

Re: 大失敗しました。  投稿者: 柳生真加  投稿日: 5 4()090857

引用

おはようござます。
アレクすてさん
> 風の翼例会に参加しようと思ったのですが、集合場所を間違えたため
お会いできず残念でした。「風の翼」の宴会はいつも「がんこ」です。迷ったら梅田「がんこ」へどうぞ。
大熊さん、きのうはお世話になりました。
ずいぶん飲んでうたったようで何よりです。

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/

 

大失敗しました。  投稿者: アレクすて  投稿日: 5 3()16305

引用

大熊様、こんにちは。
風の翼例会に参加しようと思ったのですが、集合場所を間違えたため
(旭屋にいました・・・(汗)会えませんでした、どうもごめんなさい。
では失礼いたします・・・<(_ _)>

 

「反対進化」  投稿者: 管理人  投稿日: 5 1()143626

引用

を、チャチャヤン気分に掲載しました。

Yさん
下のリンク、蚕の繭で作る人形なんでしょうかね? それにしてもネットには想像できない面白いものが一杯ありますねえ(^^)

次はファファード&グレイマウザー新作『妖魔と二剣士』の予定。

 

リンクありがとうございます  投稿者: Y  投稿日: 5 1()00430

引用

早速ありがとうございます。
以前にも一度、プロバイダが身売りしてしまった(^_^;)ので
ドメインが変わったことがあったんですが、これで安住の地が。
lolipopでスペースも込みで借りているんですが、結構安いです。

そういえば検索していたらmayumura.comはとっている人がいました。
http://www.mayumura.com/
いや、眉村先生とは関係なさそうですけど……


過去ログへ

inserted by FC2 system