ヘリコニア談話室

 

ヘリコニア過去ログ2005年9月)

 


 

祝・優勝  投稿者: 管理人  投稿日: 9月30日(金)02時27分0秒

引用

>祝勝会場から各局中継
どうでもいいけど、ウメジュン声デカすぎ。他局の集音マイクが声を拾ってるぞ(ーー;。
あまりに煩いのでテレビを見るのをやめてしまいました。
ウメジュン、どうも好きになれません。オレがオレがのいわゆる壮士タイプですな。外(づら)しかない。内(面)はゼロ。嵩張るばかりの粗大ゴミ、は言い過ぎですか(ーー;。ABCの三代沢アナによれば、すぐに新地へ繰り出したがるんだそうな。アー嫌だ嫌だ。
ついさっきも久慈に向かって「いつまで(現役)やるの?」などと平気で言い、横にいた金村だったかが顔を顰めていました。アー嫌だ嫌だ、他人の気持ちを忖度できない輩は……。
昔はこんな輩うじゃうじゃいましたが、今では絶滅危惧種かも。とはいえこの絶滅危惧種、絶滅しても何の痛痒も感じません。むしろ可及的速やかに消滅してほしいです。

 嬉しさも 中くらいなり ウメの声

 

「ショートショートの世界」  投稿者: 管理人  投稿日: 9月27日(火)22時01分33秒

引用

高井信『ショートショートの世界』(集英社新書、05)読了。

発売されたのは知っていたので、行き付けの書店(近所に2軒あるのです)には日参していたのですが、全然棚に並ばないのです。今日はついに業を煮やしてしまい、なんとか時間を捻出し、少し遠い別の(比較的大きな)書店でようやく入手するを得ました。

しかし――近所の書店は、発売と同時に売り切れたのでしょうか? それとも刷り部数が少なく、田舎の小さな書店まで配本が行き渡らなかったのか? おそらく後者でありましょう(汗)。
ならば、私は言いたい。「集英社よ、今からでも遅くはない、どっと増刷せよ!」と(^^;

本書には二つの機能が認められます。
まずは――これは各家庭に一冊は常備しておきたい、読書人必携のショートショート事典としての機能。ショートショートに関する全てが、本書には収められています。
わずか200頁たらずの小著ですが、著者は簡にして要を得た、必要最低限の記述でそれを実現しています。少なくとも私は、常に座右に置いて、事あればすばやく索けるよう備えたいと考えています。

こういう書物が書かれたのは、本邦(いや世界的に見ても)初めてのことでしょう。本書を読めば、ショートショートの全てが一望にして見遙かすことができるのです。その定義から、その発生から、その歴史から、あまつさえその書き方さえ本書を読めば概括的には理解できるようになっています。つまりここにおいて初めて「スタンダード」が確定されたと言ってよい(特に19C後半〜20C初頭の海外作家をショートショートという見地から整理してみせたショートショート前史は画期的)。

かかる基準的基礎が確定されたからには、今後誰であれ、本書の記述を押さえずして、ショートショートを語ることはできないでしょう。このようなショートショート概説書が誕生したことを喜びたいと思います。

今ひとつの機能は――本書がショートショートを志す作家志望者には、これまた必携の指南書であるということ。というか、著者が担当した小説講座の講義録が本書の下敷きになっているのだと思うのですが、その意味ではこっちの機能の方が本義なのであって、タイトルも「ショートショート講義」とでもしたほうが本義に適っています。

でも、このタイトル(「ショートショートの世界」)を著者が選択したのは、おそらく著者の意識において、上記の最初の機能、「ショートショート事典」としての本書の価値を強く自負されているからではないでしょうか。もとよりその自負は正当なもので、何度も言いますが今後は本書を踏まえずしてショートショートを語ることはできません。

とりわけ個人的に共感したのは、ショートショートと掌篇(掌編)を弁別したことです。現実には個別作品はこの2要素(成分)を、割合はそれぞれであれ、かならず両者を含んでいるのですが、理念的には両者を弁別することはショートショート理解においてとても大事だと思います。

次に、昔は創作に手を染めていた経験からしても、20枚で線を引くのは全く妥当と感じます。その理由は本書にもあるとおり、アイデア一本で突っ走れるのはせいぜい20枚までだからで、私も長いこと20枚の線を越えられない時期がありました。短篇を書けるようになったのは、ショートショートと短篇の構造が全く違うものであることを体得してからで、いまは読み専門になりましたが、同じく20枚の作品でも、それがショートショートなのか短篇なのかは、ある意味明確に識別できます。

そのようなわが拙い経験にてらしても、本書の記述は、事典的部分も指南書的部分も、どちらも納得できる記述となっています。
願わくは、本書がショートショート復活の烽火とならんことを!

編集済

 

NHK  投稿者: 管理人  投稿日: 9月25日(日)22時44分35秒

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なにわタクシー日記…私事日々控経由で産経抄の記事を読みました。ウエちゃんと違って私が反応したのは後半で、「各地の放送局が県庁所在地の一等地にある必要もない」の部分。
近畿におきましても私の知る範囲ですが、確かに大阪局は大阪城の前、府庁とは家庭裁判所を挟んで対面しています。和歌山局も和歌山城横ですし、神戸局も奈良局もまさに一等地。京都局と大津局は知りませんが、同様の一等地なのでしょう。

この産経抄の
「一等地にある必要もない」はその通りなんですが、それ以前に、昔はいざ知らずこの情報化の極度に進展した現代社会において各県にそれぞれひとつずつ地方局(しかも立派すぎるほど立派な)が設置されている必要性、必然性は本当にあるでしょうか。近畿ならば大阪局があれば、あとは分室程度で十分なのでは?
これら地方局は、地方局とは言い条、その設備は関西の民放各局を凌駕する最新のものが備わっていると聞いたことがありますが、それも「必要」なものなのでしょうか。

厚生労働省や大阪市が、年金や税金を無駄遣いしていた事実が明らかにされつつありますが、同様の事態がNHKにも蔓延している可能性があります。もしNHKが「支払い督促」など法的措置をとるようならば、上述のような問題点は、これまで以上に厳しい市民の視線に晒されることは必定であり、かかる法的措置の強行によって、むしろNHKというブラックボックスの中身が、受信料の無駄遣いによってのうのうと過ごしてきた事実が、逆に白日の下に曝け出される結果となるのではないでしょうか。まさに木乃伊取りが木乃伊の図ですが、それを期待したいところです。

お話変わって、懐かしい寺内タケシ&ブルージーンズを聴いています。
「超・極めつけ」という95年新録音のCDですが、「運命」(昔は「レッツゴー運命」ではなかったか)は全く同じアレンジで演奏していて、やはりすばらしい!
寺内は早弾きテクだけならスーパーギタートリオに勝らずとも劣らないと思うのですが(だからベンチャーズのコピーは、ボブ・サップが卓球しているようなもどかしさを感じる)、「フレーズ創造力」がないのですね。早弾も一つ一つを取り出せばスケールや指運びの練習曲のようにも聴こえる(^^;。そこがスーパーギタートリオとの決定的な差かも。

編集済

 

大相撲  投稿者: 管理人  投稿日: 9月25日(日)18時22分36秒

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今場所は面白かったですねえ。朝青龍が優勝したのはよかった。今の精神力で琴欧州が優勝してしまっては、本人のためになりません。横綱を見習って精神面でタフさを身につけて欲しい。まあこれは経験と相関値なので、場所ごとに上がっていくでしょう。
昇進も今回は見送られるようです。勝ち星は基準に達していますが、勝ち星ではなく、精神力が大関に適うレベルに達したとき、昇進すればよいのです。

とはいえ、案外それは来場所のことかも知れません。朝青龍も来場所は安閑としていられませんよ。今場所もヒヤヒヤでしたけど、そのヒヤヒヤは予想外のそれだった筈。来場所は更にパワーアップした琴欧州が立ち向かってくることは必至であり、そのことは横綱とっても、もはや想定の範囲内に違いありません。

しかも来場所は、怪我に泣いた白鵬も万全の体勢で臨んでくるだろうし、普天王も巻き返してくるだろうし、稀勢の里は琴欧州同様更にパワーアップして上位に上がってきます。
朝青龍の6場所制覇は達成されました。来場所に7連覇を目指しますが、上記若手の台頭で、こういうチャンスは今後かなり難しくなるのではないでしょうか。

ともあれ、一年前と比べて、大相撲が俄然面白くなってきました。かくなる上は、旧弊の大関陣は一斉退陣し、若手に席を空けていただきたい、などと考えるまでもなく、若手が順調に力をつければ彼らの勝ち星は今以上に減少することは必然的であり(上記新鋭だけで4人です、これに朝青龍で5敗、あと大関同士の星の潰しあいに負ければ2敗、これで既に7敗となるわけで、現大関陣は勝ち越すことすら至難となってくるような状況です)、ほっておいても若手が自らその地位を奪っていくのでしょうね。勝負の世界は厳しくも明快であります。

 

朝ミラに  投稿者: 管理人  投稿日: 9月20日(火)08時12分14秒

引用

わ、堀晃さんが出演なさってますよ!(^^)

 

「タクシードライバーは眠れない」  投稿者: 管理人  投稿日: 9月19日(月)19時03分48秒

引用

先日見逃してしまった「タクシードライバーは眠れない」 、今日の深夜(AM1:00)再放送されるということなので、忘れないようにと備忘をかねて記しておきます。

 

「靖国問題」  投稿者: 管理人  投稿日: 9月19日(月)10時38分32秒

引用

高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書、05)、読了。

これはよい本でした。

>するすると読めるのは、論理がクリアーだからでしょう
そうなんですが、もうひとつの要因としては、近現代史という分野が比較的私の得意分野であること、そして考え方の土台が同じ方向性を持っているため、理解が早かったように思われます。

その意味で、いま、工藤進『日本語はどこから生まれたか』に難渋しているのですが、それはこの本が論理的でないからではなく、言語学、国語学の述語に馴染みがないことに多く因っているようです。試みに任意のページをパッと開きますと、次のような文が目に飛び込んできました――

>動詞語尾の人称構造と人称代名詞構造とを一元的に比べることは無理である(工藤、74p)

動詞語尾の人称構造? 人称代名詞? といちいち脳の奥からほこりを被った知識を探し出してこなければならず、時間のかかることかかること!(^^;

閑話休題、話がそれました。
本書を読んで、新たに知識を得、考えたことを列挙します。
戦前の靖国神社は、「神社は宗教にあらず」国家そのものであるとして仏教者やキリスト者の合祀を合理化し、そのことによって個別宗教の上位に立つ「超宗教」となったわけですが、戦後、廃止となるか宗教法人として存続するかの選択を迫られ、「別格官幣社」から他の宗教宗派と同列の一「宗教法人」となる事を選んでて延命した。

しかし、思うにこの変更によって、仏教者やキリスト者を合祀する根拠は失われたのではないでしょうか?
戦後の68年、「明治以来初めて」、「霊璽簿抹消要求」(合祀絶止要求)がなされましたが、池田権宮司は
「天皇の意志により戦死者の合祀は行われたのであり、遺族の意志に関わりなく行われたのであるから抹消することはできない」と拒否したのですが、変更を選択し、単なる宗教法人となったからには、「別格官幣社」のときと同じつもりでいるのはおかしいように感じます。

また分祀論や朝鮮人、台湾人からの合祀絶止要求を拒否する根拠が、
「神社には「座」というものがある(……)靖国神社は他の神社と異なり、「座」がひとつしかない。250万柱の霊が一つの同じ座布団に座っている。それを引き離すことはできません」(松平宮司)というものなのだが、なぜ座がひとつしかないのか。「他の神社と異なり」、というのだから、他の神社なら「分祀」や「絶止」できるわけでしょう。
ところで、靖国神社は明治期にできた新しい神社なのであって、明治時代以前の「戦死者」は祀られていません。当然といえば当然ですが、ひとつの座布団論からすればおかしいのではないでしょうか?

またそれ以前にそれまでなかった「靖国神社」は人工的に作られた神社なのです。
伊勢神宮にしろ他の神社にしろ、それらはおそらくその成り立ちは自然発生的なものであるはずで、伊勢神宮が何度か場所を移して現在の地におさまったのはそうだとしても、もともとその地(伊勢)には、既に神社があったのであって、そこに鎮座したということです。
少なくとも人工的に作られたものは人工的に改変できる道理ではないでしょうか? 靖国神社側の言い分(そういうふうに昔からなっているものはいじれない)は、その意味でも言い逃れにしか見えません。

次にA級戦犯問題ですが、靖国に祀られるのは「国家のために戦死した者」だけとのことです。A級戦犯がなぜに「戦死者」なのでしょうか? よく分かりませんね。また「国家のために」に着目するならば「大日本帝国」国家を滅亡に追い込んだA級戦犯が、「国家のために」働いたとは絶対に思われません。A級戦犯が靖国に祀られていること自体が、とてもシュールな話のようにきこえます。

靖国神社は存続してもちっとも構いませんが、その前にまずは靖国がいち宗教法人であり、創価学会やかつてのオウム真理教と同じレベルの宗教団体であることを関係者にはきっちり認識させなければなりません。日本という国家体制は戦前と戦後では変わったように、靖国も戦前と戦後では(名称は同じでも)別の組織だということが周知徹底なされれば、他の宗教を信仰するものを合祀するのは論理的におかしいという認識もおのずと生まれるでしょう。朝鮮人や台湾人の合祀問題も、祀られたものが神道の信者であることが確実に証明されない限り、遺族によって絶止されて当然となります。現実的には、戦前の日本人は神道以外の「宗教」を必ずもっており、それは戸籍の宗教欄によって証明できるのではないでしょうか? とすれば日本人であってもその遺族は絶止を要求できるものとなります。(←この部分はいま思いつくままに書いているのでかなり問題がありそうです。もっと考えなくては)

国立追悼施設の問題は、そんなものは端から不要ではないのでしょうか? というか不可能。
たとえば一兵卒として戦死した者が、大陸で強姦や試し切りをしなかったことを、確実に証明することはできないでしょう。どんな形態を考えても、たとえ韓国や中国という国家が、国家的(政治的)見地から許容したとしても、被害者(やその遺族)からすれば許容できるものではないはずです。

編集済

 

杞憂  投稿者: 管理人  投稿日: 9月18日(日)20時40分43秒

引用

岡本俊弥さんのレビュー、今回は『デカルトの密室』です。
先日も書きましたように、岡本さんのところへはここから入られる方が多いと思うのですが、ぜひこちらでご覧になることをお勧めします。
なぜならこちらには、岡本さん本来(?)の黒い本音が記されているからで、この部分を読んで初めて、岡本さんの実際の評価が分かる仕掛けとなっています。

高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書、05)に着手、ほぼ半分読みました。
野球と相撲が終わってから読み始めたので、正味2時間弱で100ページ。私としては異例のスピードです。
するすると読めるのは、論理がクリアーだからでしょう。今日中に読み終わるかも。

しかし阪神打線、絶好調になるの早過ぎ。この調子じゃ、日本シリーズの頃に底が来てしまうではないか(^^ゞ

 

補足  投稿者: 管理人  投稿日: 9月18日(日)09時55分32秒

引用

下の投稿、舌足らずでしたので補足しました。青字が追加文章です。

 

またもや思い出したこと  投稿者: 管理人  投稿日: 9月17日(土)21時00分38秒

引用

かんべむさしさんが、HPのふりーめもに、20年間乗り続けた自転車を買い換えられた話を掲載されています。それを読んで、ちょっと思い出したことがあるので、書かせていただきます。

上掲頁では、当時2万4000円だったのが7980円で買えた、として、この自転車をこれから20年間乗ったとしたら、1日1円になると計算されています。7980円はたしかに安いですね(^^;。(下記のようにスーパーの店員だった10年前、日本製のママチャリが市価2万円前後でしたけど中国から輸入して1万円を切って売った記憶があるのですが、今はもっと下がっているのでしょうか)

ある種の商品の商品価格が20年前と比べて格段に安くなっているのは事実です。しかし性能が20年前と同じかどうか、という点は、一般論になりますが、私は同じとはいえないと思います。
おそらく同程度の性能や耐久性がある自転車は、やはり二十年前と比べていくらか安いとしても、そんなに差は出ないのではないでしょうか(折り畳み式ミニサイクルではなく、ごく一般のママチャリの場合です)。

私は10年ほど前まで大規模小売店に勤めていて、その最後の方は生活関連部門を管轄していたのですが、情けなかったのは自分が販売している商品の、実に頼りないことでした。

たとえば台所や風呂用品の吸盤で貼り付ける類のタオル掛けの当の吸盤の、なんとぺらぺらなこと。ちょっと重いものを掛けたら落ちてしまうのです。私は販売するのが実に苦痛でした。
なぜタオルをかけたら落ちるようなタオル掛けを売るのか。しかしその理由は明白でした。

仕入担当者はまず販売価格を決めるところから、商品作りをスタートさせるのです。
どういうことかというと、同業他社などが平均350円で売っていると確認しますと、メーカーや問屋に対して、当社で298円で売るタオル掛けをPBとして作りたいので協力して欲しい。ただし定番品扱いとしたいので荒利40%は必ず確保して欲しい、という形でPB商品作りを依頼します。

298円の40%は119円ですから、メーカーの納品価格は上限179円となります。そこからメーカーは、179円の販売価格で利益を出すよう原料や工賃等を計算するわけです。とうぜん179円から利益を差っぴいた金額内でそれらを手配しなければなりません。
勢い、原料のプラスティックは粗悪なものになり、吸盤の材質は極限まで薄くしなければなりません。
こうして新PBが出来上がりますが、その性能や耐久性は、当然350円の従来品よりも何ほどか劣ったものとなるのは理の当然です。

<補足>
つまり企画(製造)主体が製造者(実製造者)と違うので、そして企画主体(発注者)の要求が商品単価のみなので、実製造者ならば「こんなまがい物オレの名前で作れるかい!」となるような代物が、堂々と生産されてしまうのです。
企画主体つまりバイヤーの基本的態度が単価至上主義でありそれ以外の項目については「あなたまかせ」(言い換えれば「どうでもよい」「よきにはからえ」)なのですから、技術革新的なブレイクスルーはのぞめず、現状技術のなかで品質を落とすことで対応する結果とならざるを得ないのです。つまり(製造者責任の所在がある意味曖昧となってしまうため)「職人気質」とでもいうべき「本来的な資本主義」が持っていた「職業倫理」が駆動しにくい構造となってしまっているわけです。これは資本主義の進化形態たる「消費資本主義」一般の構造的矛盾点かもしれません


次に家具売り場を見ましょう。スーパーの家具売り場の商品は、そのへんの家具屋さんの同一アイテムのほとんど半額に設定されています。めちゃ安いです。
しかしお客さん、よーく観察してくださいよ。近くに寄って触ってみてください。当然安いものですから重厚な作りの筈はない。そんなことは分かっている? おっしゃる通りなんですが、たとえば食器棚の棚段の前面がきれいな曲線を描いたものだとしましょう。これは貼り合わせてあります。そこでお客さん、近くに係員がいないのを確認して、ちょっと引っ張ってみてください。驚くほどあっけなく剥がれかけましたでしょ(^^; スプーン曲げが流行った時、あんな硬いものを曲げるなんてとビックリしたものでした。ところが実際にスプーンを手で曲げてみたら、これが簡単にぐにゃりと曲がるので2度ビックリした記憶がありますが、まさにそんな感じ。

まあこんなおざなりで無責任で適当きわまるバイイングしかしてこなかったので、この10年でスーパーから生活関連部門(衣料部門も)はどんどん縮小して現在に至ってしまったわけです
(追記。スーパーは、専らNB購入で利用すべきです。PBはよく品物を確かめるべし。でもそうされるとスーパーは困るんですけどね(^^;)

以上はスーパーの話です。他の業態は分かりません。分かりませんが、似たようなものだと思います。それが資本主義とりわけ今日の消費資本主義の構造原理に沿ったものであるからです。

せっかくかんべさんが購入された自転車にけちをつけてしまったようで、まことに申し訳ないのですが、そんな気はさらさらないのです。実際かんべさんの場合は、お書きになっているように、折り畳み式ミニサイクルという、20年前は特殊だったけど今は普及しているという要因があるものなので、性能はそのままで単価は下がっているのかも知れません。

そういうわけで、全くの一般論を述べただけなのですが、かんべさんの当のエッセイを読んで、以上のようなことを思い出しましたので、マクラとして利用させていただきました。どうかご寛恕をm(__)m

編集済

 

最近  投稿者: 管理人  投稿日: 9月16日(金)20時15分16秒

引用

立て続けに昔のことを思い出すのですが、ひょっとしてこれは一種の「パノラマ視現象」? だとすると(汗)

昨日最後の書き込みは、甚だワキの甘い文になっていました。要は、そういう関わり方はもし赤軍派だったらソーカツされちまうぞ、と。いやまあそこが民青の民青たるところなのかもですが・・ [註]大昔の状況での話です為念。今のことは分かりません。

さて、もう少し引きずります。
学生運動にある一定の理解を示した三島由紀夫ですが、本書によりますと、

昭和天皇が戦争責任を果たさず、人間宣言をして生きながらえたことに対しては、嫌悪感を隠そうともしなかった(117p)

とあります。つまりはなぜ自害しなかった?ということですが、(先月河本さんとの応答の中で述べたように)私も全くそう感じていました。真の「愛国者」ならば、そう感じて当然なのです。戦後いかに好々爺を演じても(河本さんはころりと騙されたようですが(^^;)、それで免責されると考えていたのでしょうか。
大日本帝国と天皇は一体のものとして成立し存在していたのだから、片方が消滅したら、もう片方も消滅しなければ筋が通りませんよね。

しかしミシマと意見が同じとはうれしいなあ。と思ってハッと気づく。
上記は本当に私の意見?
ひょっとして三島の所論を読み理解したあとで、三島から啓発された事実を忘れ去ったのだとしたら……
うーむ、これは一度確認せずばなりません。『文化防衛論』でしょうか?

 

いまひとつ思い出したこと  投稿者: 管理人  投稿日: 9月15日(木)22時13分3秒

引用

<承前>
下の本に三田誠広「僕って何」のことがちょこっと書かれています。
著者の母校・早大をモデルにした、各党派が勢力争いを繰り広げる騒々しいキャンパス(123p)
当時注目作だったせいか、私は芥川賞受賞以前、雑誌掲載時(文学界でしたか)に読んでいます。
党派名はA派とかB派とアルファベットに隠されているとはいえ、判る人にはヘルメットの色で党派が特定できるようになっていた。
ちょうどその当時、ほんの短い間でしたが、民青をやめた女の子と付き合っており、彼女がアルファベットとヘルメットの色と現実の党派名を並べた表を、雑誌の余白に書いてくれたことがありました。
雑誌はとうに失くしてしまっており、本書の記述で卒然と思い出した次第。

ところで、件の子とは、彼女が民青のBFと別れ(民青もやめ)、私も同様に別れたばかりだったので、誰かの介在でだったと思います。続かなかったのは、どうも彼女が私をその民青の代替物としていた感じが否めず、それで積極的になれなかったせいだと思われます。案の定風の便りに彼女が民青とよりを戻し(民青に戻っ)たと聞き、さもありなんと感じた次第ですが、それと同時に、やはり女は個の感情と社会的理性をごっちゃにするなあ、いや前者が優先するのだなあと感じたことでした。大昔のことを思い出しました。

 

「昔、革命的だったお父さんたちへ」  投稿者: 管理人  投稿日: 9月15日(木)19時28分37秒

引用

林信吾・葛岡智恭『昔、革命的だったお父さんたちへ「団塊世代」の登場と終焉(平凡社新書、05)、読了。

これは面白かった。本書、「団塊世代」論だったのね。昨日は気づいてませんでした(^^;
しかしこれ、団塊世代論というより団塊世代罵倒の書やね。

10代後半に、新左翼運動で「社会」に登場した団塊世代ですが、当の新左翼運動を指導したのではなく、プレ団塊世代の指揮下の実働軍団つまり一兵卒であった。
20代、団塊世代が切り開いたとする70年代サブカルチャーも、担い手としてではなく、その圧倒的な数を頼りの消費者としてであった(少年漫画誌市場を巨大化させ、しかも大人になっても読み続け買い支えた)。
40代、バブル期のあらえっさっさも、主役としてではなく、巨大なマーケティングターゲットとして踊らされただけだし、狂気の経済活動の現場を駆け回っていたのも彼らだった。

彼らほど「論」から遠い存在はなく、建設的な議論が出来ず、キャッチコピーは作れてもボディコピーは書けず、そのキャッチコピーを連呼するだけの無内容なオヤジでしかない。
自分たちの価値観に同調しない若い部下を「新人類」と呼んで見下す彼らは、しかし著者に言わせれば「類人猿」なのだそうだ。それが証拠に、60を目前にした元人民の前衛たらんとした彼らが望むのは、「とにかく自分らが死ぬまでは年金なんとかしてくれ」(三田誠広)というジコチューまるだしの言葉なのだ。

著者らは1950年代後半生まれであり、著者によればほぼ51年生まれまでが団塊世代に属し、その後の50年代生まれは「ポスト団塊世代」なのだそうで(60年代生まれの「新人類」と団塊世代とを繋ぐ「ミッシングリンク」と呼ばれたりもするらしい。初めて聞いた)、さしづめ私自身もそのひとりなわけですが、この世代は団塊世代のすぐ後ろにいて、学生運動の造反有理から一転会社人間となった彼らの行状をずっと見続けてきた世代なので、団塊世代の本質は知悉しているとする。

よっぽど反りの合わない上司に仕えた経験があるのではなかろうか、と想像されるほど、著者らの弾劾は手厳しいです(^^;
逆に70年代以降に生まれたオタク世代が、その反動で持ち上げられすぎている気もします。

私自身は本書を読んで、団塊世代もオタクも同じ穴の狢ではないのかなという感想を持ちました。団塊が類人猿でオタクは動物、ケータイを操るのはサルとなると、いったい人間はどこにいるのかな(^^;
牽強付会になりますが、やはり著者らと同世代、いわば昭和30年前後に生まれた「ポスト団塊世代」と昭和40年前後の「新人類」(新しくても人類は人類でしょう。東浩紀の用語では「スノビズムのおたく」)ぐらいしか、日本には人間はいないのかも。いやはや、なぜか私もその世代なんですが、だから牽強付会といってますがな(^^ゞ

編集済

 

埋め草第二章  投稿者: 管理人  投稿日: 9月14日(水)20時20分6秒

引用

本日の購入本

 
林信吾・葛岡智恭『昔、革命的だったお父さんたちへ』(平凡社新書、05)

あかん。意志が弱いこと夥しい。また買うてしまいました(ーー;。
いや、立ち読みしていたらあまりに面白かったので、ついフラフラと、お国の為なのと言われるとね〜(>なんのこっちゃ)。

1章の新左翼運動史が面白いです(立ち読みで読んでしまった(^^;)。特に同時代を知らない若い人は必読でしょう。貶すにしろ誉めるにしろこの程度の知識は持っておいて欲しいところ。

後の革マル派議長黒田寛一が、1962年参院選に出馬したときの選挙参謀が、埴谷雄高というのは、何十年も忘れていました。危なく忘れたまま死んでしまうところだった(^^;

 

書きたいことは山ほどあれど  投稿者: 管理人  投稿日: 9月13日(火)20時28分43秒

引用

ネタはなんぼでもありますが、時間がない。
というわけで、埋め草ですが、きょう買った本をご紹介(^^;。

 高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書、05)
 稲葉振一郎『「資本」論――取引する身体/取引される身体(ちくま新書、05)


うーむ、最近ちょっと買いすぎ。原則は「読み終わったら買う」なんですが……。
この原則を守れば、少なくとも未読本在庫はプラスマイナスで現在のレベルで維持できます(とりあえず塩漬けの膨大な積読本は棚上げする)。
とはいえ、読み終わったからといって読了本を処分するわけではないので、総在庫数は固定的に右肩上がりであることに変わりはありません。

すべての本からカバーと帯を取っ払い、裸で書棚に並べれば、各段プラス1冊ぐらい詰められるのですが(検証済み)、まあ焼け石に水ですよね。というか書棚が満杯になってから既に久しいのであった(汗)。

いまは、仕事で寸法をを間違って作ってしまい使い道のない(但し本を収納するのには手頃なサイズの)段ボール箱が300枚あるので、それに詰めています。段ボール箱まだまだ残っているので、なんぼでもオッケー、まかせなさいウエルカムカムよ、てそんな話ではないのであった(^^ゞ

あかん、そんなことを書いている暇はないのでした。いやあ書き始めたら止まりませんなあ。話のネタはなんぼでもあるのですが・・

追記>段ボール箱に収本するとき忘れてはいけないのは、(積み上げる場合は)側面に必ず収めた書名を記入しておくこと。これを怠ると必要なときにジャスト・オン・タイムで利用できません

編集済

 

「炎の馬 アイヌ民話集」  投稿者: 管理人  投稿日: 9月11日(日)09時51分58秒

引用

を、チャチャヤン気分に掲載しました。

 

選挙  投稿者: 管理人  投稿日: 9月10日(土)16時31分39秒

引用

宝塚市議・大島淡紅子さんは、大学の同級仲間なのですが、全然地域が違うにもかかわらず、ときどきDM通信を送ってくれます。もっともあまり読んだことがありません。申し訳ない。
今日、仕事場の机の紙類の山の下からひょいと封筒が出てきたので、暇にあかせて読んでみたら、憲法9条は幣原喜重郎が強く主張して実現したもので、決して押し付けではない、ということが最近明らかになったというような内容が記されていました。
幣原喜重郎説というのは昔からありましたが、爾余の諸説のひとつに過ぎず、決定的な証拠はないというのが定説だったと記憶しているのですが、新事実が発見されたのでしょうか。
これは大島市議に確認せねば、と思った次第ですが、選挙(応援)で今は忙しいんだろうな。明日は選挙ですね。

<後記>
検索したら、大島さんのHPがあり、該当文が掲載されていました。→ここ

新聞報道>検索したが見つからず。

編集済

 

取り急ぎ  投稿者: 管理人  投稿日: 9月10日(土)15時47分19秒

引用

すみません、文脈読み違えてました。
著者は、大野晋のタミル語説(タミル語はドラヴィダ語の仲間)が、出アフリカ単系説からすれば当然成り立ちうることを認めた上で、しかし地理的な諸問題をクリアするのは至難だろうと考えており、著者自身は、原日本語はユーラシア語(カスピ海東岸でヨーロッパ方面へと西進したグループと分かれて、東行してバイカル湖畔へと至ったグループの仮想された言語)から更に分岐したものと考えているようです。
いずれにせよ原日本語(日本語とその隣接言語の共通祖先)を再構成する作業がまず優先的になされねばならないとします。

 

「日本語はどこから生まれたか」  投稿者: 管理人  投稿日: 9月 9日(金)20時06分34秒

引用

工藤進『日本語はどこから生まれたか「日本語」・「インド・ヨーロッパ語」同一起源説、読みはじめ。

わ、これはけっこう歯ごたえが! 詰まるところ、人類は15万年〜20万年前に出アフリカし世界に広がったという単系説からすれば、タイトルは理の当然なのです。
本書は、日本語を出来るだけ古い状態までさかのぼって「原日本語」を措定し、原日本語と、印欧語以前の言語とされるドラヴィダ語との間にあったかもしれない深層の共通点をさぐろう(つまり原ドラヴィダ語から印欧語と原日本語は枝分かれした)というものなんですが、私の日本語の教養が本書のレベルに達してない、ついていけませ〜ん(ーー;。

本書の一部は<大航海>に掲載されたもののようですが、内容的にはむしろ<季刊邪馬台国>と相性が良さそうな気がします。<季刊邪馬台国>の読者が好きそうなテーマです。

ま、ぼちぼち読みましょかね(^^ゞ

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「時と神々の物語」  投稿者: 管理人  投稿日: 9月 7日(水)19時39分36秒

引用

1)〈なかの海〉というところに、ちいさな島じまが浮かんでいる。その海には、なぎさというものがぐるりを取りまいてもいないし、また、どんな船もそこを航海したことがない――島じまに暮らすひとたちはそう信じてうたがわない。

2)島々が浮かぶは〈真中(まなか)の海〉、
  往けども往けども四方(よも)に陸(おか)なく、それゆえ通う船もなし――
  島々に住まう者らはそう信じて疑わない。


前者はハヤカワ版、後者は、このたび出た河出版『時と神々の物語』所収の「ペガーナの神々」冒頭部分の訳です。
前者では意味不明な部分(「なぎさ」以下)が、後者ではクリアに意味が通っていると感じられます。また原文の古雅な雰囲気(あとがきによる)もよく出ているようです。同一の原文でも、翻訳家の解釈次第でこれだけニュアンスの異なる日本文になるという例ですね。
いろいろ意見があるかと思いますが、私は河出版の解釈が好ましく思いました。

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「未来獣ヴァイブ」のレビューを読んで  投稿者: 管理人  投稿日: 9月 5日(月)20時58分29秒

引用

amazonを見ていたら、『未来獣ヴァイブ』のカスタマーレビュー「なんだかなあ」で、アッと思いました。

>ただ、会話のシーンがなあ……
>高校生の女の子が、同い年の男に向かって
>「○○さん」って、藤子不二雄ワールドですか。

たしかに、今年50歳になった私ですら、同級生の女子から「さん」付けで呼ばれたことはなかったですね。もちろん社会人になってからはずっと「さん」付けになるわけで、たまに同窓会に出て、「君」付けで呼ばれると、妙に新鮮なくすぐったさがあります。

だからといって、このレビュアー氏とは違って、小説中の主人公が同級女子から「さん」付けで呼ばれても、ちっとも違和感は感じません。
そういえば不思議だなあと、しばし考えて思い当たりました。子供のときより小説を読み続けてきた私は、「小説内現実」がリアルな「現実」と拮抗するか、あるいはむしろ「小説内現実」の方によりリアリティを感じてしまうのかも知れません。

 うつし世は夢、夜の夢こそまこと

は乱歩ですが、さしづめ私の場合は、うつし世はまこと、小説もまこと――なのかも。

なんて、油を売っている暇はないのであった。ささ、仕事仕事。

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書店にて  投稿者: 管理人  投稿日: 9月 5日(月)20時04分36秒

引用

正高信男『考えないヒト』(中公新書、05)と、中島義道『日本人を〈半分〉降りる』(ちくま文庫、05)を購入。

前者は昨日読んだ『ケータイを持ったサル』の続編。最近の日本人はケータイ等のIT環境下で、思考せず「サル化」しつつある、というのが著者の考えだが、これは、最近の若者はデータベース環境下で、思考せず「動物化」している、とする東浩紀の説と同じではないのか、違うのか、その辺を比べてみたくて。

後者は、ぱらぱらめくっていたら、

 
「苦しんでいる」と言いながら行動しない人々

という見出しが目に入ったので発作的に購入したのですが、内容は、拡大解釈かもしれませんが「指示されなければ行動できない人々」を指摘しているように思いました。奇しくも前者とも関連する本のようです。ひょっとしたらウィリアム・バロウズに頻出する「放送(電波?)」を説明するものかも。

とかいって、いつ読むのでしょうか>私。昨日もbk1に注文したのに(ーー;
思うに、どうもストレスがかかってくると本を無闇に買ってしまうようです。忙しいと本が読めなくなり、読めない代償として本買い衝動が引き起こされるのかも。

――なんて、こんなこと書いている時間はないのであった。お仕事お仕事。

 

「日本語」・「インド=ヨーロッパ語」同一起源説  投稿者: 管理人  投稿日: 9月 4日(日)18時07分17秒

引用

四畳半神話体系って、めちゃめちゃ面白そうですね。このレビューを読むと、深堀骨を連想させられます。あっちはサーガでしたが、神話体系もサーガも似たようなものかも(^^;
しかし、栄えある新潮ファンタジーノベル大賞作家の受賞第一作が、なぜに太田出版から?

『時と神々の物語』をbk1に注文しました。送料を無料にするため、もう一冊何か面白そうなものはないかな、と物色していて、こんな本を見つけました。→『日本語はどこから生まれたか 「日本語」・「インド=ヨーロッパ語」同一起源説
これは現代の木村鷹太郎なのでしょうか、たのしみです(汗)

や、ツクツクボーシの声が聞こえてきました。いよいよ秋ですね。

正高信男『ケータイを持ったサル 「人間らしさ」の崩壊(中公新書、03)読了。

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シオドア・スタージョン  投稿者: 管理人  投稿日: 9月 4日(日)10時48分0秒

引用

『一角獣・多角獣』ですが、全10篇中、すでに4篇が最近、晶文社と河出から出版された作品集に新訳で収録されました。

「一角獣の泉」
「熊人形」
「ビアンカの手」→『海を失った男』
「孤独の円盤」 →『不思議のひと触れ』
「めぐりあい」 →『海を失った男』
「ふわふわちゃん」
「反対側のセックス」
「死ね、名演奏家、死ね」→『輝く断片』
「監房ともだち」
「考え方」


さらに晶文社から、もう一冊近日刊行予定とのことで、その作品集にも『一角獣・多角獣』から数篇採録されるのだとしたら、ハヤカワは、「今や半分の価値しか持たない」本を再刊することになります。

 #ついでにいえば『奇妙な触れ合い』に至っては収録7篇中、半分以上の4篇が新訳で読めるようになっています。

  「英雄コステロ氏」
  「おまえのやさしい手で」
  「みどり猿との情事」→『輝く断片』
  「リューエリン向きの犯罪」→『輝く断片』
  「空がひらける」
  「奇妙な触合い」→『不思議のひと触れ』
  「もう一人のセリア」→→『不思議のひと触れ』


それでも熱烈な読者は未読分のために本書を買うでしょう。読者のなかにはそれでもオッケーと思う方もいるかもしれません。高いなあと思う方もおられるでしょう。

問題は、それで出版社としてよろしいのですか、ということです。最近のはやり言葉で言うならば、CS(顧客満足)。
今や企業的には常識となっているCSですが、その考え方からすれば、『一角獣・多角獣』の芸のないそのままでの再刊は、まさにCS的には欠陥商品となります。消費者に無駄な費用を負担させるからです。具体的には上記の後者、高いなあと思いつつ(不満を抱きつつ)購入した顧客の足が遠のきます。

もし『一角獣・多角獣』の残りの作品を生かしたいのだったら、上の5篇を含む新編集の作品集を出すべきです。『輝く断片』の巻末リストによれば、以下の18篇が、SFマガジンやミステリマガジン、SF文庫やNV文庫のアンソロジーに掲載されたまま単行本化されずに現在埋もれているようです(ハヤカワ以外の埋没作品をふくめればもっとあります。上記リスト参看のこと)。

 皮膚騒動、それ、ポーカーフェイス、極小宇宙の神、記念物、空は船でいっぱい、禁断の谷、天国へ還る、少数報告、帰り道、黄金の螺旋、心臓、恐怖屋フィリプソ、死者はダイヤルを回さない、ヘリックス・ザ・キャット、シェイユートの保安官、復讐するは…、非情事。

死蔵しているこれらを生かさない手はない。そうそう、『奇妙な触れ合い』の残3篇もあるではないですか。既に訳文があるのですから、すぐにでも本に出来ます。

そのようなCS的発想が携わる人々に希薄だから(あるいは幻想の、彼らの頭の中だけに存在する顧客を想定している。たとえば老眼のアニメ絵オタクにはとても親切)、下に書いたようなSF文庫の事態(私の想像に過ぎませんが)も起ったのでしょう。いずれにしても、可及的速やかにCSを導入しない限り、ハヤカワの出版社としての未来は暗いのではないでしょうか?

#以上は既翻訳作品は全て読めるようにして欲しいという、ファンとしての気持ちを表現したものである。私の書く文章はこのように歪めて表現されることが多く、どうもそのまま鵜呑みにされる閲覧者もいるらしいので、ひとことお断りしておきます。為念(^^ゞ

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キース・ローマー  投稿者: 管理人  投稿日: 9月 3日(土)20時28分4秒

引用

1992年に亡くなっていたのですね。寡聞にして知りませんでした。日本に紹介されないだけで、向うではまだバリバリ活躍しているとばかり思っていました。でも享年67歳なんですね。生年の1925年は三島由紀夫と同い年。ちょっと意外でした。もっと若いと思っていた。作風からそう感じたのかな。

ローマー、好きでしたねえ。「前世再生機」と「多元宇宙」2部作は掛け値なしの傑作。ところが混戦次元シリーズになると、ちょっとアメリカ的な馬鹿らしさが出てくるのですが、少なくとも上記「前世再生機」と「多元宇宙」は実に北欧的陰鬱さを湛えていて本当に面白かったですね。
――こちらを見ると、多元宇宙シリーズは4作あるようです。未訳が2冊残っているのですね。これは読みたいなあ。
うむ、「銀河のさすらいびと」も読みたくなってきました。ブックオフ探そう(^^;

いま
『炎の馬』というアイヌ民話集を、寝る前少しずつ読んでいます。いや、これはいけますよ(^^)
また何を突然に、とおっしゃいますな。理由があるのです。
ケルトは西へ西へ追い立てられて西涯の島、アイルランド(スコットランド・ウェールズ)に達したのですが、アイヌも日本列島から追い立てられて東涯の島、北海道(樺太・千島)に達した。同じではないか。ケルト(アイルランド)民話があれほど面白いのだから、アイヌ民話も面白いのではないか。そう思ったわけです。
で、予想にたがわずアイヌ民話は実に面白く、味わい深いのでした。アイヌとケルトはぜったい似ていると思います!

で、BGMは「美(ちゅ)ら歌よ〜沖縄ベストソング・コレクション」(^^;
いやこれが実にアイヌ民話に合うのです。アイヌとオキナワ(琉球)は似ているかも(^^ゞ

そういえば、ダンセイニ『時と神々の物語』が出たようですね。早速注文しよう! でもハヤカワの『ペガーナの神々』は途中で投げ出したんだよな。私に読めるかしらん。

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眉村さん情報  投稿者: 管理人  投稿日: 9月 3日(土)16時53分29秒

引用

11月1日(火)NHKラジオ「ラジオ深夜便」において、ショートショート「ある書評」が朗読されるそうです(時間帯は午前1時台とのこと)。
詳しい内容が分かり次第掲示いたしますので、お楽しみに!

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Re:新刊の話題  投稿者: 管理人  投稿日: 9月 2日(金)19時25分29秒

引用

土田さん

>最近旧作の再刊がやたらに多い早川書房
あまり認識していませんでしたが、言われてみれば確かにそうですね。

SF文庫でいえば、「銀河のさすらいびと」が新刊として出ましたが、本来「改版」扱いでバックナンバーは継承されるべきものですよね。

それがバックナンバーも最新の数字がついて出たというのは、まず考えられるのは、SF文庫の実質的な縮小という事態ですね。
新刊を減らすが従来の刊行点数は維持したいという苦肉の策なのでしょうか。

言い換えるならばこれは、SF文庫として使える予算が減らされたという事でもあるかも知れません。まるまる新たに翻訳作品を一本作るよりも、文字を大きくしてカバーを一新するだけで済むのですから、点数は維持してしかし費用は少なくすることが出来ます。

でもねえ、「銀河のさすらいびと」は未読だったので、読もうかなと書店で手に取り、私は考えを改めました。あの表紙ではとても買う気になりません。

上記の推理が正しいとしたら、その原因は販売点数の減少で従来の予算を維持できなくなってしまったということに帰結するわけですが、(内容を云々する以前に)まず最近の営業方針が販促に結びつかなかったことを素直に反省するべきなのではないでしょうか。最近の営業方針とは、アニメ絵表紙と文字の拡大で単価を上げるということです。

つまり最近の方針がSF文庫の購入層に受け入れられなかったわけです。この事実(?)は、結局、SF文庫の主たる購入層が、依然として(オタクではない)中年であることの証左だろうと思われます。
今のSF文庫が獲得したいと考えている読者層は、ライトノベル読者層であるのは容易に想像されますが、上の方針でラノベ層は取り込めず、且つ従来の中年層は離れてしまった結果ではないでしょうか。
そりゃあそうでしょう。いくら表紙を変えて文字を大きくしたって、SFのコンセプトとラノベのそれは対極的なんですから。一度は騙されて買っても二度とは買ってくれません。

私の考えでは、今の方針で釣れるのは、「老眼の出てきた中年で且つアニメ絵ファン」(^^;という、きわめてピンポイントな読者層だけでしょう。はっきりいって、素人のマーケティングとしか思えません。ていうか、大体市場調査ちゃんとしているのか疑わしいもんです。

>話を戻すと今度は最初の配本で7巻の「さあ気ちがいになりなさい」が出るので
>全部出すのかもしれません
まあ読者としては拍手ですが、営業的には2〜3年手を打つのが遅すぎたと思います。
たとえばスタージョンですが、『一角獣、多角獣』と『奇妙な触れ合い』を、『海を失った男』出版にぶつけて復刊しておけば、河出の短篇集は出せなかったかもしれません。
今じゃ、逆に『一角獣、多角獣』を復刊する意味があるのかと問いたいですね。

>遺産
どころか、宝の持ち腐れで、どころか、完全に腐らせてしまいましたよね。

>早川ならブレーンはいっぱいいると思うんですが
商売上のブレーンがいないんですよね。昔からですが。編集部は、もう少し脳を通してものを考えて(SFとは何かをしっかり認識して)、営業サイドに提言するくらいでないと、縮小再生産はもっと進んでいくのではないでしょうか。

編集済

 

新刊の話題  投稿者: 土田裕之  投稿日: 9月 1日(木)23時01分32秒

引用

最近旧作の再刊がやたらに多い早川書房で
今度は異色作家短編集の新版が出るみたいです。
(本の流通寿命が短くなったことや、増えている新刊のレベルの維持という問題等
理由はいろいろあると思いますけど。まあ遺産は死ぬほどありますからね。)

話を戻すと今度は最初の配本で7巻の「さあ気ちがいになりなさい」が出るので
全部出すのかもしれません。
(もっとも改装版が品切れだったのかどうかも知らないのですが)

翻訳者の一部が物故している今となっては増補はないだろうから買いはしませんが。

まあ、個人的には旧版の復活はめでたいと思うものの
河出や晶文社とためをはって新しめの作家を選んで新編集の巻も出して欲しいところです。
さすがに作家的に古いし、翻訳も古いですからね。
早川ならブレーンはいっぱいいると思うんですが。

 


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