ヘリコニア談話室

 

ヘリコニア過去ログ2005年11月)

 


 

脳科学最前線  投稿者: 管理人  投稿日:11月30日(水)19時51分27秒

引用

老眼が進んだせいだろうか、なかなか本に集中できないのである。で、最近眼鏡を外して読んでみたりする。
ところが、私の視力は左右で極端に違うのに加えて、両眼とも極度の乱視であるため、裸眼での両眼視が困難なのだ。
比較的よい方の右目に焦点を合わせると、左目は焦点が足らずぼやけてしまう。反対に左目に合わせると(この場合、文字と目の距離は10センチ以下となる)、右目としては距離が近すぎて焦点を合わせられなくなるのだ。

つまり裸眼での読書は、基本的に(右目にしろ左目にしろ)片目読書ということになる。
そんなことをしているうちに、あることに気づいた。
左目で読む時の方が、内容がするすると頭に入るような気がするのだ。

うーむ。と暫し黙考。
で、はたと気づいた。
脳が右脳と左脳で機能が違うことは今や誰でも知っている。その一方で、各半球が、それぞれ反対側の身体運動の制御を司っていることも。

いま、私の左目読書が右目読書よりも、内容理解において反応がよいというのが事実だとすれば、左目から入力された情報を処理する右脳の働きが、左脳の働きよりも私の場合優れているということにならないか。

そう思って、しばし鏡で自分の顔を眺めていると、こは不思議、わが顔面は左側の方が右側より大きいではないか。確かに目は左目の方が大きくパッチリしている。眉毛は左の方が右眉毛が描く水平線よりも若干上に位置している。口はその両端を比べると、左下がり気味だ。
つまり顔面の左半球が発達している(面積が大きい)ので、必然的に眉毛は左上がりになり、口は左下がりとなっているわけだ。
そういえば、ものを咀嚼する時、無意識だと左で噛んでいることが多い。そんなことよりなにより、大体私は左利きではないか!

ほほう、と私は感心する。これはどう考えても私の場合、右脳の活動が左脳より活発であるに違いないぞ。
ところで右脳と左脳の機能はどう違うんだっけ。とぐぐってみるに、左脳は言語・記号・数字・文字・論理的・分析的であり、右脳は音楽・映像・イメージ・絵画・写真・直感的・総合的とのこと→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Feigo.main.jp%2Feikai%2Fspeed2.html

だとすれば、私は文字情報を(本来機能にない)右脳で処理しているのだろうか?
うーむ、脳の機能と身体運動の統括は別に考えなければならないのかな。しかし本来左脳が処理すべき情報を私の場合は右脳で処理している、って考える方が楽しいんだけどなあ。

というわけで、打ち上げ花火のように掴み上々に開始されたわが考察は、しかしまさしく不発に終わった打ち上げ花火のように、唐突に竜頭蛇尾に終わるのであった。あーあーつらいのお!!

編集済

 

熊野は熊野でも  投稿者: 管理人  投稿日:11月29日(火)18時31分16秒

引用

武生尼さん

こんばんは、紀州熊野です(違います)。
いや分かってますがな皆まで言うな。そんなにコーフンせんでもよろし。タケちゃんが私の名前に掛けたかったのは、紀州の熊野ではなく、出雲の熊野であることくらい、ちゃんと分かってますって。

しかし何をそんなにコーフンしているのかな、と暫し黙考するに、ひょっとして昨日の芝居評、タケちゃんへのあてつけと取ったのではありませんか?
いや全然そんな気はなかったのですよ。まったく武ちゃんのことは頭になかったです。でもよく考えて見れば、先日来の「流れ」からではそう取られても仕方がないかなと反省しております。いや申し訳なかったです。

>代わりはいくらでもいます
ありゃー、武ちゃん(その他大勢)は多重人格者でしたか。あメンゴメンゴ(古っ!)、すぐ調子に乗ってしまう私をお許しくださいね。

>あなたの趣味は魅力的で捨てがたいです。
お褒めに預かり光栄です。そんなにストレートに誉めていただいたのは初めてですよ、ちょっと恥づかしいっす(^^ゞ

>美しく細やかな日本的ものを復活させるには実にあなたは惜しい人物だ
そうですかぁ?
仰せのとおり、私は自分自身を「愛国者」と認識しているんですが、というより私ほどの「愛国者」はそうそう見当たらないと思います。ただその方向性が、一般の幼稚な愛国者たちとは違うかも。

一例を挙げますと、大相撲における外国人力士の台頭を苦々しく思って、これを排除しようとする動きがありますよね。わたし的にはこれほど反愛国的な行為は他にないと考えております。
私は、日本の国技と言われた相撲が外国人にどんどん広がっていくのを支援することこそ真に愛国的な行為だと感じます。
相撲が国際的に大きくなっていく力を削ごうとするのは、日本を矮小化して愧じず、かつそれに甘んじて2等国、3等国で事たれりとする「ひきこもり」の発想ではないでしょうか? 武ちゃんどう思います?

そうそう、いま
松崎寿和『騎馬民族国家99の謎』(サンポウブックス、76)というのを読んでいるんですが、武ちゃんが読んだら怒りのあまり脳の線が切れて死んでしまいそうな内容が書かれていました。これは武ちゃんにチクらなくっちゃ、と思ったので、ちょっと引用してみますね(^^;。

 
(国引き神話で)それにしても、綱をうちかけられて出っぱり(註。志羅紀の三崎)をもぎとられた新羅こそいい迷惑といいたいが、なにせ新羅は黄金、白金さく宝の国なのだから、爪の垢ほどの痛さも感じなったに違いない。それとも出雲人にとってはそこがふるさと、祖先の地だったのだから、財産分与ぐらいにしかおもっていなかったのかもしれない。(147p)

 出雲といえば朝鮮系といわれるくらい、ここと朝鮮の関係は深い。(同p)


さて武ちゃん、まだ生きてますか(^^ゞ

編集済

 

大熊野宏俊  投稿者: 武生尼  投稿日:11月29日(火)03時07分41秒

引用

 熊野さんこの板で屈辱への感想をいってくださいよ。
なにか私が、無防備な一般人だとでもおもったのですか?
私は無防備ですが、代わりはいくらでもいます。

しかし最後の感想としては、あなたの趣味は魅力的で捨
てがたいです。美しく細やかな日本的ものを復活させる
には実にあなたは惜しい人物だ。

 

お芝居と講談会の一日  投稿者: 管理人  投稿日:11月28日(月)21時05分24秒

引用

昨日は、芝居と講談を観に行ってました。

まずお芝居は、劇団May公演「エリの花」(会場/アリス零番館-IST)
大阪の朝鮮学校が舞台のストレートでノスタルジックな青春グラフィティで大感動。よかったです。時代設定が不明なんですが、私には自分の中高生時代と重なってみえて、とても懐かしい世界だった。
感想をチャチャヤン気分に掲載しました。

で、終了後、本遇寺にて旭堂南湖講談会「名探偵ナンコ」。
演目は

「古典講談源平盛衰記より那須与一」旭堂南湖
「芦辺拓の文藝朗読パノラマ館」芦辺拓
「探偵講談・S巻美人」(原作・竹葉散人ちくしょうさんじん)旭堂南湖


「探偵講談・S巻美人」はお約束どおり(笑)完結せず。続きはあるのでしょうか(^^;
終演後、いつものとおり打ち上げに参加。ちょっと風邪気味だったんですが、酒を飲んでオダを上げていたら治ってしまいました。やっぱり好きな分野の仲間たちに接することが、一番の元気の薬ですね。

 

朝青龍  投稿者: 管理人  投稿日:11月26日(土)22時24分50秒

引用

「涙の勝ち名乗り」には感動しました。さしもの精神力の持ち主もさすがにプレッシャーがかかっていたのですね。これこそ横綱の責任感でしょう。
昨日の続きになりますが、おそらく朝青龍は、琴桜に負けないよい親分になると思います。まあずっと先に話ですが。きっとものすごく面倒見がいいと思う。もっとも嫌われたら大変かもしれませんが・・。太平シローさんがラジオで言っていましたが、土俵の外での普段の横綱はとても気さくな人柄らしい。

しかし先場所の涙も、今場所の涙も、琴欧州が迫ってきたからこそ。その意味で、これまで傍若無人さが目だっていたとしたら、それは一に既存の大関陣の不甲斐なさのなせるところと言うべきでしょう。それと朝潮の高砂親方の指導力不足。同じモンゴル人力士でも旭国の大島部屋の旭鷲山や旭天鵬は実に礼儀正しい印象があります。私は旭国と朝潮の人間力の差が顕著にそれぞれの弟子に現れているように思います。多分朝潮はなにも教えてない(というか教えられるようなものを何ももっていないんでしょう)。その意味で朝青龍はすべて自分で覚えていくしかなかったのであり、つまらない親方をもって可哀想だったと思います。もっとも朝青龍も朝潮をぜんぜん尊敬なんかしていないでしょうけどね(^^;

編集済

 

琴欧州  投稿者: 管理人  投稿日:11月25日(金)20時30分52秒

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親方定年退職の日に大関当確を決めるとは・・・。やはり上りつめる運命にあるんでしょうな。それにひきかえ実力で引けを取らない兄弟子は……不条理を感じますなあ。

それはそれとして、琴桜の佐渡ケ嶽親方は、現役中はそんなに好きな力士ではなかったんですが、ほんとうに親方らしい親方だと思います。理論家では全然なく、あけすけないい方をするならば究極の「身びいき人情家」なんではないでしょうか。きっと五分五分の勝負は7対3で弟子が有利とみえてしまう人なんではないでしょうか。
そのかわり弟子の過失は身を挺して守り通す。正義とか客観性は関係ない。自分を頼って弟子になった子は何が何でも守る人だと思います。そのかわり内に向かってはとてつもなく厳しいんでしょう。外に向かって守り通した弟子を、部屋に戻ってから張り倒して叱責するような人ではないでしょうか。

だから弟子も、その表裏のない性格に100%信頼して絶対服従する。昔ながらの主従関係といいますか親子関係のもっともよい部分を、この親方は体現していたと思います。だからこそ優秀な弟子が沢山育った。長谷川の秀ノ山親方なんか部屋を持っていて当然のキャリアなのに、佐渡ヶ嶽に残っているのは何故かなと考えるに、やはり琴桜を慕っていたからなんではないかな。

一方、たとえば野村は、私の周囲には地域柄南海時代の野村をよく知っている人がいるのですが、スポーツマンという一般的イメージがあるとしたら、徹底的に正反対の性格だったようですね。ですから試合に勝つための用兵能力はきわめて優れていたんだけど、人を育てることはほとんど出来なかった。彼を慕った江夏にせよ江本にせよ柏原らは(あるいは古田は)彼ら自身頭がよかったり、既にある程度自己を確立していたから野村について行けた。でも脳まで筋肉化した一般のスポーツマンタイプの選手は、野村の冷徹な客観性やそれに起因するシニシズムは、理解の埒外にあり、表裏と感じてしまったに違いない。

相撲部屋の親方の仕事は、野球と違って部屋で優勝を争うのではないので、その仕事は専ら人材育成に尽きます。野村が相撲部屋の親方だったら、並み以下の親方だったに違いありません。一方琴桜がプロ野球の監督だったら、やはり並み以下の監督だったでしょう。
どっちもかなり極端な、互いに正反対の資質の持ち主ですが、その活躍の分野が、それぞれ実にうまく嵌まったなあ、どちらもハッピーだなあと思わないではいられません。これもある意味不条理ですなあ。

いずれにせよ佐渡ヶ嶽親方には、長い間お疲れさまでした、とひとこと言わせて頂きたいと思います。

編集済

 

大阪のオバはん…  投稿者: 管理人  投稿日:11月24日(木)20時28分30秒

引用

 恐い!

 

SF文庫  投稿者: 管理人  投稿日:11月23日(水)14時37分54秒

引用

ずうぅぅぅぅっと、探していたラッカーの『ウェットウェア』をようやく入手できました。ブックオフで350円。SF文庫は105円でしか拾わない原則ですが、これは致し方ありません。なんせ全然どこにも落ちてなかったんだから。読むのはいつになるか分かりませんが(やはりソフトウェアから読んだ方がいいのかな)、とりあえずホッとするのであった。

蒐めるために買うことは切に戒めている昨今ですが、ハヤカワSF文庫だけは例外で、欲しいのがブックオフに出ていたら、ぽつぽつと購入しています。といっても全部蒐める気はさらさらなく、どうしても持っておきたい(いつか読む気になる可能性がある)ものだけ。
となりますと、私の場合下のリストとなるのですが、番号の小さいのはほとんど絶望的かも。1000番台以降のはブックオフにザラにありますが、これは105円落ち待ち(^^;

ハヤカワ文庫SF 1〜100
55 お祖母ちゃんと宇宙海賊 マッコネル,ジェイムズ他
64 地獄のハイウェイ ゼラズニイ,ロジャー

ハヤカワ文庫SF 101〜200
159 階層宇宙の危機 ファーマー,フィリップ・ホセ
163 地球の壁の裏に ファーマー,フィリップ・ホセ
197 魔法つかいの船 ボク,ハネス

ハヤカワ文庫SF 201〜300
218 エデンの授粉者 ボイド,ジョン
226 月は地獄だ! キャンベル・Jr,ジョン・W
295 殺意の惑星 ハリスン,ハリイ
297 成長の儀式 パンシン,アレクセイ

ハヤカワ文庫SF 301〜400
306 捜査 レム,スタニスワフ
312 神鯨 バス,T・J
359 地球からの贈り物 ニーヴン,ラリイ
370 虚像のエコー ディッシュ,トーマス・M
373 銀河の間隙より ギャレット,ランドル
379 残像 ヴァーリイ,ジョン
383 悪鬼の種族 シュミッツ,ジェイムズ・H
395 大いなる惑星 ヴァンス,ジャック

ハヤカワ文庫SF 401〜500
410 マストドニア シマック,クリフォード・D
422 秘密国家ICE ホイル,フレッド
423 アンドロメダのA ホイル,フレッド&エリオット,ジョン
437 人狼原理 シマック,クリフォード・D
450 大きな前庭 シマック,クリフォード・D
454 愚者の聖戦 シマック,クリフォード・D

ハヤカワ文庫SF 501〜600
506 プタヴの世界 ニーヴン,ラリイ
580 スターシップと俳句 スチャリトクル,ソムトウ

ハヤカワ文庫SF 601〜700
652 人間がいっぱい ハリスン,ハリイ
653 時間外世界 ニーヴン,ラリイ
679 収容所惑星 ストルガツキー,A&B

ハヤカワ文庫SF 701〜800
703 調停者の鉤爪 ウルフ,ジーン
710 ノーストリリア スミス,コードウェイナー
724 警士の剣 ウルフ,ジーン
730 愛はさだめ、さだめは死 ティプトリー・ジュニア,ジェイムズ
763 独裁者の城塞 ウルフ,ジーン

ハヤカワ文庫SF 801〜900
836 重力が衰えるとき エフィンジャー,ジョージ・アレック
855 蟻塚の中のかぶと虫 ストルガツキー,A&B
893 アンタレス突破 マッコーラム,マイクル

ハヤカワ文庫SF 901〜1000
972 ホワイト・ライト ラッカー,ルーディ
973 セックス・スフィア ラッカー,ルーディ

ハヤカワ文庫SF 1001〜1100
1068 スチール・ビーチ 上 ヴァーリイ,ジョン
1069 スチール・ビーチ 下 ヴァーリイ,ジョン

ハヤカワ文庫SF 1101〜1200
1109 ラッカー奇想博覧会 ラッカー,ルーディ

ハヤカワ文庫SF 1201〜1300
1249 時空ドーナッツ ラッカー,ルーディ

ハヤカワ文庫SF 1301〜1400
1304 フレームシフト ソウヤー,ロバート・J
1341 タクラマカン スターリング,ブルース
1342 フラッシュフォワード ソウヤー,ロバート・J
1393 フリーウェア ラッカー,ルーディ

ハヤカワ文庫SF 1401〜1500
1427 プランク・ゼロ バクスター,スティーヴン
1430 真空ダイヤグラム バクスター,スティーヴン
1437 ドゥームズデイ・ブック 上 ウィリス,コニー
1438 ドゥームズデイ・ブック 下 ウィリス,コニー
1451 しあわせの理由 イーガン,グレッグ
1458 あなたの人生の物語 チャン,テッド  
SF文庫データベースより)

 

Re:ゾンビはないでしょう>ひつれいしました!  投稿者: 管理人  投稿日:11月22日(火)21時35分52秒

引用

武生(安来尼) さま

こんばんは、濃茶尼です(違います)。
いや分かってますがな皆まで言うな、安来尼の尼が尼さんの尼ではないことくらい。
もちろん安来富田城に君臨した戦国大名尼子氏の尼ですよね>故に安来尼
私も毛利の覇権に小なりと言えど徹底抗戦した尼子氏は大好きです。そちらでは尼子氏は絶大な人気があるんでしょうね。
そういえば知人に旭堂南湖さんという講談師の方がいるのですが、武生さん、そちらで講談会開けるようなツテはありませんか?
「血煙月山富田城――尼子三代VS毛利」とか「出雲のゲバラ――山中鹿之助一代記」なんて、そちらでは人気を博すと思うんですが。
そんな広い場所は不要で、お寺のお堂なんか丁度よいのです。いちど当っていただけませんか?

それはさておき、「焼母・出母」説拝読しました。
なかなか面白い着眼で楽しめました(^^)。和泉を出水と書けますから同じ伝ですね(ウィキペディアも「稜威母(イズモ)」説を掲げていますね)。
これまでの武生さんの所論のなかではもっとも論理的で、わたし的にも許容範囲に収まっております(^^;

しかし「焼母」の論理性は今のところ、たとえば「八蜘蛛」(たくさんの土蜘蛛)の論理性と同じレベルなんです。もう一段上に立つためには、焼母の文献上の実例を発見するか、文法的な裏づけが必要ではないでしょうか。
つまり、
>私には「焼母」が一番ふさわしく思われます
だけでは、武生さんの主観でしかないということですね。一番ふさわしく思われると(武生さんだけでなく他の読者が納得するに足る)事例か文法的な理屈がやはりほしいところ。

たとえば金思か著「トンカラリンと狗奴国の謎」では、狗奴国を肥後にあった高句麗族の国とするんですが、万葉集に1箇所だけ「肥人」を「コマビト」と読ます記述があるのを盾にとって論を立てています。たった1箇所ですが、それだけで自余のトンデモ説より一段上のレベルに立ち、本になります。

これは余談ですが、「母」(モ)の上代語発音は「オモ」であるようです。イズ(オ)モもヤク(オ)モも、( )内は発音上消えてしまうと思われますので、もちろん上の説は「オモ」であっても妥当します。それはいいんですが、ただ岩波古語辞典には
「朝鮮語オミ(母)と同源か」と記されています。これは武生さん的にはいささか問題なのでは(^^ゞ

>ところで夜幣賀岐はどこか?それはいずれまたどこかで。。。。
そんなこといわずにここでお願いします(^^ゞ
ただし今回と同様理詰めでお願いしますね!

さてお話変わって――
濃茶の尼といえば横溝正史ですが、明日11月23日、神戸に於きまして横溝正史生誕地碑建立1周年記念行事が行われます。→畸人郷
山前譲さんの講演会が併せて行われるとのこと。興味ある方はぜひお出かけください。私は残念ながら行けない模様(毎月のことですが20日前後は月の締めで身動き取れません)。行けたら参加します。

編集済

 

ゾンビはないでしょう  投稿者: 武生(安来尼)  投稿日:11月22日(火)01時14分18秒

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「八雲立つ」の意味。
古事記に出るスサノオが読んだ日本最古の和歌
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
にもでてくる「出雲」の枕詞となっていることは多くの人の知る
ところです。国学者たちはこの和歌の意味を、
「次々と雲がたちのぼる、わきでてくる雲は八重の垣のようにできる。新妻をこもらせようと八重の垣のように
作っている。すばらしい八重の垣だなぁ。」と意訳していますが、
原文は、
「夜久毛多都。伊豆毛夜幣賀岐。都麻碁微爾。夜幣賀岐都久流。曾能夜幣賀岐袁。」
とカナの変わりに漢字を用いたもので、音しか復元できません。

 一方万葉集には「八雲刺す」との言葉も出ており、この八雲とは一体なんであるのかは実は解釈が難しい言葉なのです。それでは「八雲」から導き出せる「出雲」という言葉を考えてみます。出雲の国は諸神の母神イザナミの眠る地で、そのため神在月には諸国の神々が集まると古来より信じられてきました。出雲という言葉は母親の出身地という「出母」というのが思い当たります。

 そうすると「八雲」→「やくも」→「やく母」となります。そうすると、この「やく母」を「たつ」ったり「さし」たりするのことばで
いちばんふさわしい「やく」を見つければ良いわけです。
私には「焼母」が一番ふさわしく思われます。焼母とはイザナミをしに至らしめた「火之加具土神」のことを指しているのだと思われます。つまり、「八雲立つ」→「焼母断つ」、「八雲刺す」→「焼母刺す」となり加具土(火神)を十拳の剣で惨殺したことを指していると思われます。
 つまり「八雲立つ出雲」とは「火神被殺のあった地、出母」ということになるのかと思います。

 こうするとさっきの和歌の意味は
「火神被殺のあった地、出母の夜幣賀岐の地に、妻をこもり住まわせよう。しっかりした夜幣賀岐つきで、まさにこの地の名のとおり。」
と読めてきます。

 ところで夜幣賀岐はどこか?それはいずれまたどこかで。。。。

 

「どんがらがん」読了  投稿者: 管理人  投稿日:11月21日(月)20時07分21秒

引用

表題作「どんがらがん」読みました。
ここまでの諸作品は、ある意味鼻につくほど技巧を凝らした緻密なものだったのが、本篇のデイヴィッドスンは180度違います。つまり本篇は「小説」ではなく「物語」なのです。

「物語」という能記ほど、発語する人によってその担わせる意味(所記)が様々なものはなく、私の用語もその例に漏れないので、まず注釈しておきますと、ここでいう「物語」とは、端的に口承文芸に近いものと考えていただきたいと思います。
口承文芸(講談がそう)は語られたもの=耳で聞くものですから、前から後へ、一方向へ不可逆的に進むもの。これに対して「小説」は書かれたもの=読むものでありますから、読者の意思で何度でも元へ戻ったりできるという意味で、一応リニアな体裁をとりつつも実際は可逆的な形式といえる。本格ミステリはまさに「小説」そのものであって、読者は探偵の謎解きを聞いた後、その探偵の推理を確認しながら後戻りすることで、楽しみを倍化します。
デイヴィッドスンが多用する伏線も、読者が読了後後戻りして楽しんでくれることを想定しているはず。
その意味で、本書のここまでの諸篇は純然たる意味で、「小説」だったといえます。

ところが本篇は、「物語」なのです。構成はゆるく、伏線といえる伏線はなく、ストーリーは前から後へ、一方向へ進むばかり。となれば、嫌でも思い出すのはラファティですね。
そう、本篇の筆法は、実にラファティの筆法にかなり近い。つまり、いわゆるトールテール(ほら話)の雰囲気が色濃い物語で、ラストの馬鹿馬鹿しさはある意味トールテールのお約束そのものといえるのではないでしょうか。

ラファティとデイヴィッドスン――両者は、そのモチベーションにおいてかなり似た気質の持ち主であることは既述したとおりなんですが、しかしその小説手法そのものは正反対といえるものだった。ところが本篇に限っては、手法的にも両者の距離は近接しており、そういう意味でも興味深い中篇といえると思います。

以上で、作品集
『どんがらがん』読了。いやあ今年のベストスリーに入る傑作集でした。ちなみに今思いつく限りでの今年のマイベストスリーは、「輝く断片」「宇宙舟歌」「どんがらがん」(^^)

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どんがらがん(続続続)  投稿者: 管理人  投稿日:11月20日(日)18時56分25秒

引用

「すべての根っこに宿る力」再読。
奇想幻想への先入見をはずして読み返してみたところ、昨日の後半の苦言は的外れであったことが判明。
いやこれはこれでじつに面白いではないですか。

読みどころは政教分離したばかりのメキシコという<時空間>。人々は――とりわけ公務員はその職掌上――理性(意識)の上で近代人たらんとし、しかしその感性(無意識)ではいまだに超自然が確固として存在する<宇宙>に生きています。そのような近代と前近代の、いわば裂け目を、作家は実に生き生きと活写している。南米の作家がマジックリアリズムで描いた世界を、デイヴィッドスンは近代の側からリアリズムで描き出したといえましょう。

つづいて
「ナイルの水源」
ある特殊な(超自然的な?)能力を持つ一族をめぐるトラジコメディ。主人公の作家はデイヴィッドスンの分身の一面があり、その痛烈なエンタテインメント小説批判(あるいは市場経済批判)は今でも十分に通用するものです。そういう背景世界の類似性かもしれませんが、野田大元帥のテレワークものを連想しました。

後半、作家が一族の女の子に執着していくゆくたては、単に女の子への未練だけでなく、その「逃した獲物」全体への未練であることが容易に見て取れて、その自虐性になおさら切なくなります(^^;
シャドウェルの栄華を克明に描写するラストも自虐にみちていて、デイヴィッドスン自身の性格まで想像してしまいます。

本篇に限らず全ての作品の背後には作者がおり、作家の「いまここにある」ことの不条理感がひしひしと伝わってきますね。この辺は「宇宙舟歌」のラファティととてもよく似ていると思います。
全体として、倉阪鬼一郎のモチベーションと近似したものを感じるのですが、最終的に読後感が違うのは、倉阪がその不条理感を形而上に展開できず(太宰的レベルに留まり)、けっきょく引かれ者の小唄としてしか表現しえなかったその差。それが証拠に、倉阪自身の生環境が向上するにつれ、その作品世界(クラサカワールド)はみるみる萎びていったことからも明らか。
それに対してデイヴィッドスンは、自身の不条理を形而上的に認識(一般化)しえたので、本作品集のような(作家の立ち位置の変化に引きずられない、作家から自立的な)傑作小説群を生み出すことが出来たのではないでしょうか。

わ、いよいよ残りあと一篇になってしまった。

編集済

 

どんがらがん(続続)  投稿者: 管理人  投稿日:11月19日(土)23時45分57秒

引用

「すべての根っこに宿る力」読みました。
本篇も伏線張りまくりの超絶技巧小説。全ての伏線が最終的に一点に結び合わされる結末は、いかにもデイヴィッドスンらしい皮肉にみちたもの。
解説者は「呪術の実在さえ前提すれば、ミステリとしても筋が通っている」と書いていますが、私は本篇に呪術の実在を想定しなければならないような要素はないように思いました。

主人公は、呪術師が調合した薬を妻によって服用させられたために幻覚をみるようになっただけであり、呪術師の予言どおりアナばあちゃんが死ぬのも(あるいは今まで生きていたのも)、呪術師の薬によるものと考えられるからです。
つまりこの超自然的雰囲気に満ちた小説には、しかし超自然的存在の介在は一切なく、すべては物理学と心理学で説明可能な、いわば実にまっとうな(笑)ミステリといってよいと思います。

ただ、この長さになりますと、さしもの超絶技巧も長さに埋没してしまって、短篇のときのような切れ味は薄れがちで、むしろ全ての伏線が一本に縒り合わされることの不自然さが、それに勝ってしまった感じ。しかしそれは、長くなればなるほど、読者は無意識に小説世界に擬似現実(リアリティ)を求めるからかもしれません。もうちょっと短いほうがよかったかも。
その意味で奇想作家デイヴィッドスンの作品としては、ややふつうっぽい印象が残りました。とはいえこの構成力は凄いの一語。

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MIDI  投稿者: 管理人  投稿日:11月19日(土)21時32分58秒

引用

虹色の湖

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どんがらがん(続)  投稿者: 管理人  投稿日:11月18日(金)20時27分51秒

引用

「ナポリ」読みました。
素晴らしい幻想小説の傑作でした! それもそのはず、世界幻想文学大賞受賞作だそうです。
これは冒頭に、島尾敏雄のように
「夢の中で――」という文を補えば分かりやすくなるのではないでしょうか? 以下ネタ割しますので、お気をつけ下さい。

そう、本篇は現実のナポリのお話ではなく、デイヴィッドスンの内なるナポリ、内宇宙のナポリの話と読むべきなんだと思います。それが証拠に、このデイヴィッドスンのナポリを訪れた主人公は、この町の住人が
「短躯で色浅黒い」人々であるという外国での伝聞を伝えています。少なくとも中世以降、現実の南イタリアにそのような人種がいたということは、私は聞いたことがありませんから、この一文が、本篇のナポリが、デイヴィッドスンのナポリであることの、作者が残した手がかりなのかも。

おそらくデイヴィッドスンは、夢の中で何度もこのナポリを訪れているに違いありません。そこで見聞した、あるいは自分が体験した、いくつもの物語のうちの、これは1篇なんでしょう(夢の情景であるのは、細部が曖昧なところからも推測できます。たとえば
20年ほど前」(225p)という設定はなにも機能していませんし、満艦飾の洗濯物の描写などは過剰すぎてリアリティがない。町のたたずまい自体が曖昧と過剰の不均衡な歪みが強く滲み出ていていかにも夢のなかの世界っぽい。随所に挿入される「ナポリ。」も、私には「我が内なるナポリ」であることを強く示唆しているように思われます)。

そういうわけで、デイヴィッドスンのナポリ、作家の内なるナポリの町の、一種欧羅巴的陰鬱さを湛えて不思議な魅力を醸し出す、そのたたずまいをまずは堪能したいところ。

さて、ガイドの青年とともに町を徘徊する主人公ですが、やがて単なる旅行者ではなく、ある目的を持ってこの町を訪れたことが分かってきます。ガイドの青年にそっと伝えます。ガイドの青年はその申し出がめったにないことであるにしても、もちろんよく分かっています。彼は主人公を案内します(そっと人差し指と中指の間に親指を挟んで>魔よけですね)。

そうして、主人公が
「詐欺師の息子」、「娼婦の息子」(233p)である男から得たものは――
その男、
「魔女の息子」、「娼婦の息子」「魔女の私生児」(235p)が彼の母親(魔女)の母親(魔女)から奪って主人公に売り渡したものは――
それは魔女の「死」であったわけです。男はこれまでも
「もう何十回も」(同p)それを盗んで売っていたらしい。
ではなぜそんなことをしたのか。男は言います。
「――死ぬ? なぜおまえが死なねばならんのだ?おれには食べ物が必要なのに?……」(236p)

「死」とはなんでしょう? もとより死とは生の終わりですが、見方を変えれば死とは、始まりがあって終わりがないもの、すなわち「永遠」なのではないでしょうか? 人は死ねば、その死が永遠に持続するのです。魔女の「死」は、それを掠め取ったものに「永遠」を保証するものなのではないでしょうか。
このエピソードが強烈なのは、男が「当座の生活費」を得るために祖母の「永遠」を掠めて売るというアイロニーの面白さです。本篇は「異形コレクション」の「哀愁のヨーロッパ」の編纂時には、ディッシュの「アジアの岸辺」とともに必ず収録してほしい傑作中の傑作です。

編集済

 

>どんがらがん  投稿者: 管理人  投稿日:11月17日(木)20時17分13秒

引用

「サシェヴラル」読みました。
いやこれは「ゴーレム」とは別の意味で「完璧な短篇小説」。「ゴーレム」が静のそれだとしたら本篇は動のそれだといえる。以下ネタ割りしますのでご注意。

「主人公」のサシェヴラルは悪者のジョージに監禁されている。教授のもとに帰してくれと嘆願するサシェヴラルにジョージは、教授は心臓麻痺で死んだという。ここで主人公が小首を傾げる描写が挿入される。
ジョージによれば、サシェヴラルは言葉を解する知能あるサルで、100万ドルの価値があると踏んでいる。もともとカーニバルで芸をしていたのに、養育者の教授とともにそこを辞めて大学の実験室へ向かう途中で、教授は死に、サシェヴラルはジョージに捕まった。
ジョージは「なぜ大学へ向かったのか」サシェヴラルを問い詰める。「本当は別のどこかへ行くつもりだったんだろう?」。ジョージの知識では、実験室というところはサルを15ドルで切り刻むだけの場所だからだ。だからその別の場所こそ、ジョージに100万ドルをもたらす場所なのだ。
それが証拠に、ジョージを尾行している存在があることを、彼はサシェヴラルに明かす。当然尾行者は、サシェヴラルが目的に違いないとジョージは考える。
さて、その尾行者がジョージのアジトを突き止め、襲撃してジョージを殺し、サシェヴラルを開放する。解放者は、カーニバルの仲間だった。彼らに気づいて主人公はビックリする。女のプリンセス・ザーガは男の恰好、小人の老人ピンキー将軍は子供の恰好に変装していたからだ。
二人に付き添われて、サシェヴラルはアジトを出、待っていた車に乗り込む。車には母親同然のプリンセス・オーパルが待っていた。サシェヴラルは彼女の胸に飛び込んで、泣きながらこういう。ジョージはうそつきの悪者で、自分に嘘ばっかりいったのだが、とりわけひどい嘘を吐かれて「ぼくはもう少しで、自分が猿だと思い込むところだったんだ」。

さて、解説者はサシェヴラルが猿かどうかは、作家自身があいまいにしていると書いているが、私は明確に猿であることが暗示されていると思います。
なぜならストーリー上では、女のプリンセス・ザーガに男の恰好、小人の老人ピンキー将軍に子供の恰好に変装させる必然性はないからです。それらは一にサシェヴラルが自分で思い込んでいるところの存在ではないことを暗示するために置かれた手がかりとしての機能しかもっていない。男は女、子供は老人。ゆえに人間のサシェヴラルはサルというわけです。

ではなぜサシェヴラルはジョージがうそつきだと考えたのか? それは教授の死についての彼の説明が嘘であることを知っていたからです(だから小首を傾げるシーンが挿入されている)。サシェヴラルにとっては教授の例からジョージの言うことは全て嘘。ゆえに自分がサルだというジョージの言葉も嘘となるわけです。

次になぜ、突如教授はカーニバルと袂を分かったのか?というジョージの疑問は、ピンキー将軍の言葉が明らかにします。ピンキー将軍たちは、カーニバルの経営者が代わったとき、引退したのです。おそらくこのとき、教授も(サシェヴラルとともに)引退したんでしょう。で、新たな働き口として大学を訪れようとしていた。そういうことだったに違いない。

かくのごとく、全ては連関して再帰的に説明がなされる構造を本篇はもっている、ストーリーをリニアに読むだけでは分かりにくいですが、再読すればとても明瞭な話ですね。
これはすごいテクニックです。ですが、小説とはすべからくこのようなものであるべきなのであって、リニアなストーリーを円環させたり螺旋化させたりる意志は、作家たるもの常に心がけてほしいもの。ある意味本篇は作家志望者の教科書かもしれません。恩田陸も読むように(汗)。

冗談はさておき、続いて
「眺めのいい静かな部屋」、「グーバーども」、「パシャルーニー大尉」、「そして赤い薔薇一輪を忘れずに」
「グーバーども」は、S-Fマガジン2004年7月号に載ったものですが、「収録作品解題」にその記載がないのはなぜなんでしょう。かなり手が加わったのかな?

「パシャルーニー大尉」は、モロ松竹新喜劇でした(^^;。戦前の中ノ島の川舟か淀川下りを舞台に満州で一旗上げた軍人という風に変換したら舞台に出来そう。

 ゴールデン・サークルのオーネット・コールマンVOL.1(1965)

編集済

 

Re:古事記の剣  投稿者: 管理人  投稿日:11月16日(水)20時21分44秒

引用

武生さん

>先日はご批判どうもありがとうございました
いえいえ、中途半端なものになってしまい、申し訳ありませんでした。もっときちっと資料にあたればよかったのですが、図書館に行く時間がなくて……。この類の書籍を置いている大きな図書館はうちから遠いのです。電車で2時間弱、車で(高速を利用しても)1時間強かかるもので、おいそれとは出かけられません。そのうち機会を見つけて「古事記伝」の該当部分くらいは目を通してみますね。(*現在、岩波文庫版は品切れしてるようです)

お話変わって、『どんがらがん』
忙しくて今日読めたのは、
「尾をつながれた王族」のみ。
しかしこれは怪作ですなあ。
調性を無視、もしくは破壊する破格の構成は、文章で織り上げられた対位法というべき精妙無比の構成美でデーモン・ナイトをして「完璧な短篇小説」といわしめた「ゴーレム」とは、まさに対極的な作品で、137pから138pへの移行の間は、原稿が抜け落ちているのではないかとしばらく悩んだことであった(^^;

しかし構成の基本はそんなに破格な訳ではなく、SFの定石を踏んでいます。
つまり奴隷と呼んで一族が蔑視する存在はやはり地球人なんであって、地球人によって「罠やテリヤ(犬)や白イタチ(天敵?)や毒や煙」を恐らくは地下の巣に通ずる穴に投入されるこの一族は、地球人にとって害獣、ネズミとかモグラの類として認識されている何かなのだ。それが尻尾を持っていることからもそういえそうである。
あるいは地球に不時着して退化した宇宙人の末裔なのかも知れません……しかしそういう風に説明して分かりやすくしてしまうと、これはシェクリイになってしまいます(汗)

一族が人間を奴隷と呼ぶのは事実ではなく、一種の強がりで、池のめだかさんが「今日はこのくらいにしといたろ」というのと同じ(^^;
結局、最初は「一族」を人間(または知性ある宇宙種族)と読者に思わせておいて、最後に「人間」を登場させて「一族」を害獣レベルに「サゲ」る一種SF的おとしばなしの定石を踏んでいるわけです。

そういう定石を踏みつつ、単にすっきり落とす落とし噺にしないで、なんか訳のわからん変な話にしてしまうのが、デイヴィッドスンの「奇想作家」としての面目ですね。いわばオーネット・コールマンがスタンダードを演奏するようなものでしょうか(笑)

編集済

 

古事記の剣  投稿者: 武生です  投稿日:11月16日(水)01時41分54秒

引用

大熊様、先日はご批判どうもありがとうございました。

 

眉村俳句のレトリック(訂正版)  投稿者: 管理人  投稿日:11月16日(水)00時20分58秒

引用

>俳句あるふぁ
入手しました。
予想とは違って、金子兜太さんが先生で眉村さんが生徒となり、眉村さんの投句を兜太先生が添削するという趣向でした。
眉村さんは17句ほど提出されたようで、そのうち10句が推薦句(◎5句、○5句)。
講評を読みますと、さすが兜太先生、読みが深いですなあ。私には全然気づけなかったレトリックが解読されていて、ほう、そう読みますかと感心することしきり。いや眉村俳句、奥が深いです。

私が一番気に入ったのは、

 
夜も暑し電球色の満月よ

電球色の満月とは、レモン月夜とはまた一風異なった独特の感覚表現ですよねえ。すばらしい(^^)

さて兜太先生に倣って、僭越ながら解釈してみました。
まず「夜」の「暗」と「電球色の満月」の「明」の対比が目に鮮やかです。次に「暑し」ですが、満月は秋の季語ですから、その日は夏をひきずるような蒸ッとする暑さが、夜まで残っていたのでしょうか。
秋の夜なのに暑いのは、それは電球色の満月がもたらしているのではないか、という見立てがあるのではないでしょうか?
電球とはもちろん、蛍光灯でなく熱を出す白熱電球ですよね。暑しと満月が電球によって結び付けられ、それが夜の蒸し暑さに掛けられているように読みました。

結局、
おや満月が電球色だ。そういえば昼間は夏のように暑かったが、涼しくなるはずの夜「も」この暑さはどうしたことか。あるいはこの白熱電球のような満月のせいかも知れんなあ。
という意味(レトリック)が畳み込まれているのではないでしょうか。

*季語を忘れていたので書き直しました。
**調べたら「暑し」は夏の季語なんですよね。だったら最初の解釈になる。レトリック的には大して違いはありませんが、問題は季節。うーん、こういう場合どっちになるんでしょうか?

編集済

 

>俳句あるふぁ  投稿者: 管理人  投稿日:11月14日(月)19時23分4秒

引用

もう入手されましたか?
私は近所の毎日新聞販売店に予約しました。2〜3日で届くそうです(^^)
電話して聞いたら、定期購読じゃなく今回だけ、というのもオッケーとのことだったので。
この手が一番確実かも。

MIDIにかまけて停滞していた『どんがらがん』ですが、ようやく本文を読み始めました。
読み始めるや否や、中毒症状に(^^;
「クイーン・エステル……」まで一気に読んだ、というか読まされてしまいました。うー酔ったぁhic
凄いです! これぞまさに傑作集!!

そしてどの話も「重い」。ずんと心にのしかかってくる重さがあるのです。(実は「宇宙舟歌」もそう。外的にはスチャラカな話ですが、内的には存在の不条理への洞察が貫徹しています。)
小説とは本来かくあるべしなんですよね。こういうのを読むとhic、いまの日本の小説なんてhic、ちゃんちゃらおかしゅうて読めまへんな。
たとえば本集中の短篇、どれでもいいから1篇取り出して、恩田陸のhic大長編と並べてみたらよろし。そうしてフーッと息を吹きかけてみなはれ。恩田陸は大長編のくせに簡単に吹き飛ばされてしまいますが、デイヴィッドスンのは微動ともしまへんでえ!
小説が存在の「ここにある」ことの悲哀を根源的に描かずしてなにが小説やっちゅねんhic。日本の小説も70年代まではそんなことはなかったんですけどねえ(ーー;

編集済

 

夜明けのコーヒー  投稿者: 管理人  投稿日:11月13日(日)15時04分15秒

引用

ギャ〜〜!!
指が滑って、あろうことか右上の×をクリックしてしもた、、、>MIDI「恋の季節」
一気呵成に作成していたので、全然バックアップとってなかったのでした。
立ち直れない(ーー;

 

MIDI  投稿者: 管理人  投稿日:11月13日(日)00時09分13秒

引用

今回はジャズっぽく(^^;
真赤な太陽

 

眉村さん情報  投稿者: 管理人  投稿日:11月12日(土)18時18分25秒

引用

明後日(11月14日)発売の、毎日新聞社の俳句誌<俳句あるふぁ>に、眉村卓先生が登場なさいます>「金子兜太のあるふぁ添削塾」
金子兜太さんと対談しながら添削されるのでしょうか?
書店で購入できますが、毎日新聞の販売店でも入手できるのではないでしょうか?
ともあれ楽しみ〜(^^)

 

『啓示空間』分冊化  投稿者: 管理人  投稿日:11月12日(土)17時04分29秒

引用

完成!
意外に簡単で拍子抜け。
で、あまったオリジナルカバーを利用して、函も作っちゃった!
まあまあではないでしょうか(^^;

「あとは読むだけやね」
「…… …… え?」

編集済

 

 

『啓示空間』分割計画  投稿者: 管理人  投稿日:11月11日(金)21時45分15秒

引用

まずは3分割して表紙をつけました。
7章と8章の間と、21章と22章の間が、丁度区切りよく分割できるようになっていたので、上巻1〜338p(338p)、中巻339p〜724p(386p)、下巻725p〜1040p(316p)と、だいたい似たような厚みにすることが出来ました(^^)。
明日、表紙をカラーコピーしてきたら完成(^^)

で、ちょっと考えてみた。
3分割した場合、換算すれば1470円÷3=490円と、1冊500円を切っちゃうのですよ!(1pあたり上巻1.45円、中巻1.26円、下巻1.55円)
ちなみに一番新しいハヤカワ文庫SF「サイナック脳の謀略」が271pで588円(同2.16円)。JAの「星界マスターガイドブック」にいたっては254pで567円(同2.23円)。おなじくJAの「スピードグラファー (2)」が282pで672円(同2.38円)。
つまり少なくとも1000pを超えると、頁単価は3分の2にまで抑えこむことが出来るわけです。

こんな辞書みたいな文庫、どうやって読むねん、通勤にも不便、寝転んで読むこともでけへんやないか、とお怒りの貴兄、まことに仰るとおりなんですけど、この頁単価は魅力ですよ。

要は持ち運べるよう自分で工夫したらいいわけです。3分割するとか(^^; どうせ読むための文庫本なんですから引きちぎってもいい(^^;
出来合いの文庫本を、自分の使い勝手に合わせて加工するなんて、楽しいではありませんか!

そのような習慣が読者に広がれば、出版社は1000p以上に合わせた本作りが出来る。一人の作家の長篇3本でもよいし、エースダブルみたく複数作家の長篇を収録するのも面白いですね(この場合トリプルか)。
それを読者がお好みで分割して製本したらいいわけですよ。うん、これは良いアイデアですなあ、、、

「ひとつ問題があるぞ」
「なんやなんや」
「もし宇宙舟歌とローダンとグインサーガをくっつけられたら、どないする?」
「あーあーそれはつらいのお!」



ジャンルの真打ち  投稿者: 管理人  投稿日:11月11日(金)18時50分11秒

引用

わ、「タイタンの妖女」を忘れてた。真打を落としたらあきませんね。
というわけで、「宇宙舟歌」に「追記」を追加。
それにしても、本書を読んでいて気づいた<隠れジャンル>ですが、こうして気づいてみると、存外しっかりした伏流かも。

ところで、200pあたりの哀しき交通信号男は強烈で、ヨコジュンの横断歩道とコンビを組めるキャラだと思いました。わずか2頁で姿を消したのは残念。

うーん、どうも「宇宙舟歌」が引っ張りますな。昨日も書きましたが、傑作を読むと、しばらくは、無意識にストーリーを反芻している自分に気がつくことが多いです。今もその状態でして、で、割を食っているのが「どんがらがん」なのであった(^^ゞ

編集済

 

Re:宇宙舟歌  投稿者: 管理人  投稿日:11月10日(木)19時59分34秒

引用

らっぱ亭さん

>若いひとには原典がわからないかなあ
たしかに日本SFも、そろそろ「奇想コレクション」や「未来の文学」みたいなコンセプトの叢書が必要になってきているのかもしれませんね。

ところで、「宇宙舟歌」と「どんがらがん」、どちらにもらっぱ亭さんのお名前が!
まるでわがことののように嬉しくなってしまいましたよ(^^)
この分野では、もはやお名前は欠かせなくなりましたね。
こうなったら次のステップは、お名前を冠した翻訳とか論文とかエッセイですね(^^ゞ

>殊能センセーの「どんがらがん」編者に聞く(4)では
おおおお(^^ゞ ネットでは誰が読んでいるか分からないので、ある意味こわいですねえ(汗)。

さて、チャチャヤン気分の「宇宙舟歌」を少し訂正しました。
「脱走と追跡のサンバ」は、「馬の首風雲録」の方が適切かも、と思い直した次第。
実は「脱走と追跡のサンバ」と書きながら、頭の中では「馬の首風雲録」もイメージしていたようです。どうもごっちゃになっていました。
で、訂正したのですが、「脱走と追跡のサンバ」でも、さほど外してないぞいう気もしてきて、結局両者併記で手を打ちました(^^;

傑作は時間が経つほどに新たな感想がわいてくるので(無意識が、私の与り知らない所でいろいろ反芻するように考えをこねくり回しているらしい)、あまり早々と文章にしてはいけないんですよね。

 

宇宙舟歌  投稿者: らっぱ亭  投稿日:11月10日(木)01時54分27秒

引用

>「奇絶怪絶、また壮絶!」と訳してほしかったなあ(^^ゞ
いやあ。まさにおっしゃる通り。(若いひとには原典がわからないかなあ)

とにかく、翻訳がいいですね。ラファティ節をここまで伝えるのは、並大抵のことじゃないと思います。ニュアンスを損なわず、実のところラファティの原文よりも上手い(笑)文章になってるんじゃないかと。

ラファティ長篇がはじめてのひとも、「パストマスター」や「イースターワインに到着」で拒絶反応をしめされたかたも、まあ騙されたと思って読んでみていただきたい。

ところで、殊能センセーの「どんがらがん」編者に聞く(4)では、
大熊さんのコメントが引用されてましたね。
http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fsppad60.hp.infoseek.co.jp%2FADshunou4.html

 

吉朝さん逝去  投稿者: 管理人  投稿日:11月 9日(水)23時52分23秒

引用

テレビというものを見ないので、堀晃さんのブログでさっき初めて知りました。
お悪いのは聞いてましたが、50歳。私と同い年ですがな(学年は一年先輩)。うーん。
実力者で、米朝さんの実質的な後継者だったと思います。「頼りにしていたのに」と言っておられますね。本当にがっくりなさっているのではないでしょうか。私も何だかがっくりです。
ともあれ、ご冥福をお祈りいたします。

 

MIDIも  投稿者: 管理人  投稿日:11月 9日(水)22時51分29秒

引用

運命も手直し。

 

ちょっと手直し  投稿者: 管理人  投稿日:11月 9日(水)20時35分29秒

引用

『どんがらがん』に着手。
まずはグラニア・デイヴィスの「序文」と、編者による「解説」を読みました。
グラニア・デイヴィスが元奥さんであったことは知らなかったなあ。いやそういう知識を「目にした」ことはあったのかもしれませんが、頭に残ってないのであった。F&SF誌の編集長してたというのも。

「解説」は、この手のものでは近来出色ではないでしょうか? やはり「シンパセティック・クリティシズム」こそ巻末解説の基本であることを再確認。こういうの読むと否が応でも応援したくなってしまいますよね。
「ミステリ短篇」はどう考えても私向きの予感(^^; 翻訳してほしいなあ。

『宇宙舟歌』をちょっと手直ししました。

編集済

 

「宇宙舟歌」  投稿者: 管理人  投稿日:11月 8日(火)22時49分4秒

引用

を、チャチャヤン気分に掲載しました。

 

「妖星伝」分巻  投稿者: 管理人  投稿日:11月 8日(火)19時16分47秒

引用

完成(^^)

>『宇宙舟歌』
危うく読み終わりそうになるのをガマン。危なかった〜(^^;
ああでも、あと40pしか残ってないんだよなあ。

165pの「危機また危機! さらなる危機が襲い来る。」は、「奇絶怪絶、また壮絶!」と訳してほしかったなあ(^^ゞ

編集済

 

Re:ヴェルヌ  投稿者: 管理人  投稿日:11月 8日(火)03時40分58秒

引用

大橋さん
レス飛ばして済みませんでしたm(__)m
いえ、武生さんの訪問があまりに嬉しかったもので、つい(^^ゞ
ヴェルヌは中学時代に図書館でほとんど読んだのですが、創元の復刊を機会に読み返してみようかなあと思っていた矢先でした。SFJの記事期待しております。

さて、下記の文章は、幻想的掲示板に投稿しようと書き上げたものなんですが、邪魔(笑)が入って宙に浮いていたものです。私としてはなかなか力作で、このまま捨て置くのは忍びないと思っていたのですが、僥倖にも武生君が訪問してくださったことでもあり、よい機会ですので以下に掲載させていただきます(^^)
今にして思えば、ラストの一行は名探偵の名推理だったわけです(>手前味噌(^^;)

      ――――      ――――――      ――――――

最後にひとこと贅言を連ねておきます――
過日は見逃してしまっていたのですが、武生さんが接木した見苦しい文章(武生君の創作?)の最後の方、

 揖屋は古事記にある黄泉比良坂という顕界と幽界を分かつ場所であり、
幽界たる安来の記憶はほかにも様々な文書に隠されていると見るべきであろう

は、なるほどと膝を打ちました。

そうか、安来は幽界だったんだ〜!!

そういえば、古事記によれば、幽界たる黄泉国でイザナギが見たのは
「蛆たかれころき」たるイザナミでしたよね。さしづめ映画の「ゾンビ」のような姿だったのでしょうか。
しかも「黄泉醜女」とは(岩波文庫版の脚注によれば)「死の穢れの擬人化」であることからしても、安来が「幽界」であるという武生さんの指摘は実に的確ではないでしょうか。
この一文には、さすがの私も感心せざるを得ません。

つまり、幽界人たる安来市民はゾンビだと、武生君は言っているのですよね!
うーむ、これは卓見。武生君には珍しく理屈が通っています。

映画のゾンビは知性のかけらもなかったわけですが、それから類推しても本掲示板(註、幻想的掲示板)に入れ替わり立ち現れる安来サル軍団(笑)の書き込みの頭の悪さに、それこそ頭痛を来たしている身には、武生君の指摘はまことに当を得たものと言わざるを得ません(^^;。

しかもそれは学的にも検証可能で、上田正昭『日本神話』(岩波新書)を代表として挙げておきますが、出雲は、大和からいえば西北、戌亥に相当し、東方の日出づる所(即ち伊勢)に対して日の没する場所であり、顕界(伊勢)に対する幽界として観念されたがゆえに、構造論的神話論的に「出雲」=「死」という観念連合がなされていたようです。
だからこそ、イザナギが訪問する黄泉国は、日本中の他の何処でもなく、まさに出雲でなければならなかったのですが、さらにピンポイントで黄泉比良坂を揖屋に比定し安来幽界説を唱える武生さんの主張が正しいとするならば、安来こそ日本中でもっとも「死の穢れ」に満ちた場所であることになり、ゾンビまがいのサル軍団がいたってちっとも不思議じゃありませんわな(^^ゞ

で、ふと気づいたのですが、安来サル軍団の文章ってどれもよく似ているような……同一人物?

お粗末さまでしたm(__)m

編集済

 

武生さんこんばんは  投稿者: 管理人  投稿日:11月 8日(火)02時52分30秒

引用

武生さん
ようこそお越し(^^)
あっちでは迷惑がられますから、こちらへお越しになったのは正解でした(^^;

>本居宣長の件、回答いただけます?
あれ、武生さんは『式内社調査報告書全25巻』の文章を無断改変コピペしたあの犯罪者の武生さんですよね→幻想的掲示板
「古事記伝」の文章を投稿されたのは傍観者2さんだったはずですが……まあいいや(笑)

以下武生さん=傍観者2さんと認識しますね。
なのでまず、あちらの掲示板で書き込みましたように、

>実は「古事記伝」は読んでいないのです。すみません。今度図書館で確認してきたいと思いますので、出典と該当頁をお示し頂けたら幸甚です。……(1)

のご返事を頂かないと、正確なお返事が出来かねるんですが。
ご承知と思いますが、宣長の原文はとても難しいので、あなたが引用された訳文に当たってみたいのです。
お返事お待ちしております。よろしくね。

――と、まあこれでは、せっかく来てくださったのにあまりにもそっけないですよね(^^;。
もうすこし私の見解を申し述べましょう。
とりあえずいえるのは、本居宣長は、今の言葉で言うならば文献学者だということです。
文献を研究対象として、そこに何が書かれているかを分析するわけです。
つまり文献学者は考古学者ではないのです。
そしてその意味するところは、文献に書かれている内容の考古学的事実を問うているのではないということです。ここ重要ですよ。

話をこの引用文に戻しますと、この引用文の内容は、「伊邪那美の陵」が「考古学的事実であるかどうか」を問題にしているのではなく、各地の比定地の中で、「古事記」の文章にもっとも適合しているのはどこかという、そのことを解説している文なのです。今日の観点から整理するならばそういうことです。

つまり同じ方法論で、日本書紀の記述にしたがって、紀伊國の熊野の有馬村近辺にあるのだろう複数の比定地からもっとも書紀の記述に適合した比定地を探すことも可能であり、この方法論では出雲説、紀州説両者間の真贋は判定できないわけです。

まあそれはそれとして、とりあえずあなたの「引用」(これが信用できるものだと仮定してですが)だけで分かることを書いてみたいと思います。

その前に先ず前提として、引用文は、古事記の
「その神避りし伊邪那美之命は出雲國と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき」
という一文について、繰り返しになりますが、本居宣長が、(事実であるかどうかは別にして)だとしたらその場所は何処に当るのかということを宣長なりに、というよりも「古事記の記述に忠実に」解釈したものといえるでしょう。

当時すでに下に挙げられているような候補地があったんでしょう。それらのなかから古事記の文章にもっともピッタリする場所はどこか、それを下の引用部は記述しているのです。繰り返しますが「それだけ」の話なんです。事実かどうかではなく、古事記の記述どおりかどうか、なんです。

「ある説に、出雲国秋鹿郡佐陀の神社であるといっているが、秋鹿は伯耆の境
ではない。出雲風土記の一部に、比婆の山は出雲国能義郡日波村の山だと書い
てある。また出雲風土記には仁多郡に灰火山があると書いてある。ここは伯耆
と近いので、ここが火灰(ひば)山ということも考えられる。また、出雲国大原
郡に比和社、日原社がある。しかし、ここは伯耆国との境ではない。また、
備中国の賀夜郡に日羽郷というのが和妙抄には書いてある。賀夜郡など場所も
知らないが、備中、備後、伯耆、出雲の四つの国境に位置することになるため
承服できない。枕草子に比波之山というくだりがあるがどこの国にあるのか
は書かれていない。また伯耆の人の物語に、出雲国内の伯耆に近いところの
山間に、たわの内という処がありここが、伊邪那美之命の陵であるとしている。」


これを整理して書き直しますと上記引用文は、基本的に、{比定地}――→{宣長の解釈}という構造に則っていることが看取できます。

   {比定地}  ――→     {宣長の解釈}
1)出雲国秋鹿郡佐陀の神社である ――→ 秋鹿は伯耆の境ではない。
2)比婆の山は出雲国能義郡日波村の山――→  解釈なし
3)仁多郡に灰火山がある ――→ここは伯耆と近いので、ここが火灰(ひば)山ということも考えられる。
4)大原郡に比和社、日原社がある ――→ ここは伯耆国との境ではない
5)備中国の賀夜郡に日羽郷 ――→ 賀夜郡など場所も知らないが、備中、備後、伯耆、出雲の四つの国境に位置することになるため承服できない。
6)比波之山 ――→ どこの国にあるのかは書かれていない
7)出雲国内の伯耆に近いところの山間に、たわの内という処がありここが、伊邪那美之命の陵であるとしている。――→  解釈なし

上の引用文に書かれている内容を整理したらこうなります。
これでお分かりと思いますが、この引用文だけでは何も決定的なことは書かれていませんね。
せいぜい(3)が古事記の記述にもっとも近いと読み取れる程度で、それも「考えられる」程度の話です。
この文章からいえるのはその程度です。
武生さん、お分かりいただけましたか?

>本居宣長の古事記伝は信憑性は高くないのでしょうか?
という問題に答えられるだけの「古事記伝」の知識を、私は持っていませんが、「信憑性」が「考古学的事実性」の意味であるならば、本居宣長の研究は、もともとそれを目指したものではないということはいえると思います。

最後に、私がたびたび出典を知りたいと申し上げるのは、(7)の信憑性に疑問があるからです。まず文体がそれまでと変わっていますよね。「伊邪那美之命の陵」なんて言葉は、古事記にはひと言として書かれていませんから、「古事記」の内容を厳密に実直に一言一句ゆるがせにしない(ということは書かれていない言葉は使うはずがない)学風の宣長がこんな不用意な言葉を使うはずがないと思われるからです。

そこで思い出されるのは、『式内社調査報告書全25巻』を無神経に改竄したあなたの手口なんですよね(^^;
『式内社調査報告書全25巻』の客観的な文章に、とんでもないあなたの空想(?)を接木していたあの方法論がここでも使われているのではありませんか?

ところが宣長の厳密な記述方式を理解できていなかったあなたは、比定地→解釈の体を取らない雑な文章を接木した。これではバレバレですよね。
もし間違っていたらゴメンナサイ。間違ってないというためには出典を明示してくだされば済むのですよ。そのためにも出典はぜひ教えてくださいね。

とりあえず今私が武生さんに示せるのはこんなところです。
お返事お待ちしてますね(^^)

 

大熊さんこんばんわ  投稿者: 武生です  投稿日:11月 8日(火)00時51分25秒

引用

 大熊さん、本居宣長の件、回答いただけます?
お待ちしております。

 

ヴェルヌ  投稿者: 大橋  投稿日:11月 7日(月)22時54分36秒

引用

>そうそう、ルパン研究家のS田さんによると、ヴェルヌの文章は実に古風で、ちょっとやそっとでは歯が立たないらしい。日本で言えば明治時代の文豪の文章みたいなもので、読めなくて当然だそうですよ>大橋さん

その前にフランス語が読めないです〜。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.garamon.jp.org%2F

 

予行演習  投稿者: 管理人  投稿日:11月 7日(月)22時11分7秒

引用

野村さん
名張ではお疲れ様でした。やはり最終に間に合わずタクシーでのご帰館だったのでしょうか(^^;

>ちょっとメロディが違いますが
ありゃありゃ、失礼しました。頭の中にあるメロディでぶっつけ本番でつくったので。勝手に編曲して記憶しているのかも知れませんね。

>「乙女の祈り」
了解しました(^^)v
「乙女の祈り」は私も大好きな曲です。

>「恋に燃える胸の願いはひとつ。好きな人と固く結ばれたい」
の部分は、バックコーラスがつくんでしたね。スクールメイツでしたっけ。

さて、『啓示空間』分割計画ですが、予行演習ということで、ノンポシェット版『妖星伝』の合本第3巻を3分割して、あり合せの表紙をつけてみました。
分割が厄介かなと思っていたのですが、全然問題なかった。昔の製本は、12pで1連になっていて縫ってたりしたものですが、最近の文庫は1枚1枚を簡単に糊付けしてあるだけなんですね。

明日、カヴァーをコンビニで3枚カラーコピーしてこよう。
折り目をずらして、カバーをつけて三冊並べたら、ちょうど元のカバー背のように見えるというアイデアなんですが…(^^;

 

恋のハレルヤ  投稿者: 野村恒彦  投稿日:11月 7日(月)21時53分40秒

引用

管理人さま
 11月5日(土)は名張までご苦労さまでした。その時お話のあった「恋のハレルヤ」聞かせていただきました。ちょっとメロディが違いますが、素晴らしい出来映えです(3回聞きました)。
MIDIは面白そうですが、なかなか手を出す機会に恵まれません。現在、フォークギターを取り出してきて面白そうな曲を適当にアレンジして弾いています。もちろん、「恋のハレルヤ」もレパートリーの一つです。先日「天使の誘惑」を何とか完成させました。歌を歌わないとダメなのですが、高い声がでなくなっているのでキーはGです(その方が弾きやすいこともありますが)。昔真剣に練習した曲も思い出しながらやっています。上田正樹と有山淳二「ぼちぼちいこか」の「梅田からナンバまで」も何とか思い出しました。
 MIDIでの次の黛ジュンは「乙女の祈り」をリクエストいたします。歌詞は「恋に燃える胸の願いはひとつ。好きな人と固く結ばれたい」という歌です。ビートがきいていて良い歌です。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.portnet.ne.jp%2F%7Enoraneko%2F

 

「宇宙舟歌」宜候  投稿者: 管理人  投稿日:11月 7日(月)18時15分10秒

引用

ちょっと根をつめ過ぎているところなきにしもあらずなんですが、MIDIインジケータ遊びって、かなり疲れますね。同じ時間読書するのより5倍くらい疲労します。脳の普段あんまり使ってない部分を活動させているからでしょう。それは悪いことではないというよりむしろいいことだと思うのですが、やり過ぎは別問題。今日は一日中フラフラしてたので早々に帰宅。少し自制しよう。

というわけで、上記のしわ寄せで全然進んでなかった「宇宙舟歌」を100pほど。
おお、これはヨコジュンさんの宇宙船スロッピー号ですよ!(^^;

ところで、今やってみたくて仕方ないこと――それは「啓示空間」を分割して製本することで、現在やり方のアイデアをこねくり回しているところ。
中野善夫さんが既に実践なさっているのを読んでから、寝てもさめてもそのことを考えている私なのであった(^^;。

編集済

 

レツゴー運命  投稿者: 管理人  投稿日:11月 6日(日)18時03分22秒

引用

未完成だが、疲れたのでとりあえず。
やっぱ難しい→レツゴー運命

一応完成(^^;

完成(^^)

編集済

 

名張乱歩祭  投稿者: 管理人  投稿日:11月 6日(日)01時27分40秒

引用

名張から帰還しました。いや〜楽しかったです! しばらjくこういう催事がなかった(というより参加できなかった)ために蓄積されていたストレスが適度にガス抜きされたようで、スッとしました(^^;

まずは辻真先脚本、劇団フーダニットによる推理劇「真理試験――江戸川乱歩に捧げる」。
ややバタバタした印象がありましたが、辻真先さん(会場にいらっしゃってましたよ(^^))の乱歩へのオマージュにあふれた作品でした。ラストの人間椅子ではもう一捻りあるのかと思ったら、案外あっさりと終わってしまった。あとの宴会ではチャイナ服のおネエさんがよかった、との意見で全員一致(^^ゞ

そこからコスプレの話に展開し、なんでメイドが持て囃されるか分からんという意見が(>いえ私ですが)。たしかに、スチュワーデスやナースならば分かるんだけど、この日本国でメイドなんて現実に見たことがないはずなのになぜ? ということで一部で一致(^^;

終了後、去年に引き続き、名張市中町の酒屋さん・すみた酒店で、歴史影絵劇「乱歩誕生」を見る(作・中相作)。漫才作家中相作の片鱗が伺える台本でした(中さんの教え子である名張高校の生徒さんが声優、酒屋さんの奥さんの角田久子さんが手製の人形師を務めました)。
上演途中に入室されて私の横に座られた人がいて、それがなんと平井憲太郎先生でした。ビックリ!! 平井先生はとても気さくな方でした(^^)

その後、大宴会に突入したのですが、平井先生や辻先生、有栖川先生、新保先生、田村会長など錚々たるメンバーの第一会場と、我々下々の者が集う第二会場を、中さんはいったり来たりで大変だったと思います。ご苦労様でした。
有栖川先生は(帰りの電車が一緒でした(^^;)、初めてご尊顔を拝見しましたが、紙風船の後藤悦治郎さんかと思ったのは内緒である(汗)。

若き乱歩の面倒を見られた川崎克(中相作作、旭堂南湖「探偵講談・乱歩一代記 川崎克と江戸川乱歩」参照)のお孫さんの厚生労働大臣川崎二郎先生は、祝電のみで欠席でしたが、まあ時期的に仕方がないですね。

ともあれ大盛況で、中さんがびっくりするほど車の往来も激しく、しょうもない名張エジプト化計画(名張人外境参照)のようなコケおどしではなく、町おこしになったかどうかは分かりませんが、少なくとも一日活気をもたらしたことはたしかだったのではないでしょうか。

皆様どうもお疲れ様でした。

そうそう、ルパン研究家のS田さんによると、ヴェルヌの文章は実に古風で、ちょっとやそっとでは歯が立たないらしい。日本で言えば明治時代の文豪の文章みたいなもので、読めなくて当然だそうですよ>大橋さん

酔っ払っていて全然まとまりがありませんが、ま、いいか。

 

明日は  投稿者: 管理人  投稿日:11月 4日(金)22時12分50秒

引用

いまや秋の名張の一大行事となった感が強い「乱歩祭」です(^^)
私は、有栖川有栖講演会には間に合わないと思います。「真理試験」に間に合うように出かけるつもり。
恒例大宴会は、「真理試験」の第一回公演後にありますので、参加予定の方は公演後ロビーにいて下さいね。

それでは明日!

 

2弾  投稿者: 管理人  投稿日:11月 4日(金)00時26分19秒

引用

恋のハレルヤ

 

midi  投稿者: 管理人  投稿日:11月 3日(木)20時52分8秒

引用

1曲完成(^^)
ブルーシャトー
弾き間違いそこらじゅうですが、見過ごしてね(^^ゞ

 

テキスト形式と読みのタイプの相関関係  投稿者: 管理人  投稿日:11月 3日(木)17時04分58秒

引用

大正区は沖縄の街ですが出身地で住む場所が分かれています!
おお、そこまでは知らなんだ(^^ゞ

ネット上のテキストには大枠2種類あって、ひとつは読む側のPCの画面幅に応じて自動的に改行される場合(この掲示板がそうですね)。もうひとつは一行あたりの字数が定まっており、しかもたいてい1行が20字から30字くらいで、見た目文章の塊が細長く上から下へ続いているように見えるタイプ(たとえばここ)が区別できるように思います。

どっちがどっちといいたいのではなく、それは単に好みの問題なのであり、私自身は前者が好みですが、現実に2種類の形式が存在するということは、私とは違って後者の形式の方が読みやすいと感じる人がいるということでしょう。

後者を好む人はどういう人なのか。
と考えて思いついたのが、私のように一字一字逐っていくのではなく、「何文字もまとめて」読む人。そういう人は、たしかに1行がだらっと横に寝ているよりも、適当な長さで改行されている文章の方が(視線を上下方向だけに固定化できるので)読み取りに都合がいいのではないかな。

逆に私などは、1行20文字の文章でも、僅かとはいえ視線を横に動かしますから、すぐに改行で折り返さなければならないとなると、折り返す回数は増加するわけで、むしろその頻繁な往復運動を無意識に煩瑣と感じているのかもしれません。

その観点から各所を巡回してみたら面白いかも(^^;

『宇宙舟歌』に着手。

編集済

 

「ある書評」朗読  投稿者: 管理人  投稿日:11月 2日(水)01時55分26秒

引用

聴きました(^^)
眉村さんがリズム感を大切にされる作家(執筆の際、音読してみて確かめられると聞いたことがあります)であることが、こういう朗読を聴くとまざまざと分かりますねえ。いやあよかった。感心しました。

日課作品は、その成立事情に基づく制約に従って、一面でストーリー性や意外性などに強烈さを欠くのですが、それをおぎなって余りあるのが、というより鑑賞の重心は、かかる文体の音楽性にあるのではないか。

言い換えれば、日課作品は黙読するより音読する方がずっと良いということです。
文体のリズム感や音楽性は、黙読でもある程度分かりますが、こうして朗読されると一目瞭然となります。

とはいえ音読は、一種ポジティブな姿勢が必要で、私のような音読する習慣のない人間にはなかなか困難。また空間的にも制約されます。たとえば通勤時間が読書時間という人は、満員電車で音読していたらはた迷惑ですよね(^^;

その意味で日課作品や同様の傾向のショートショート作品は、朗読CDみたいな聴覚形式で入手できるようにした方がいいかもしれませんね。これは今後の課題としてメモしておきます。

編集済

 

かんべむさしさんの新番組  投稿者: 管理人  投稿日:11月 1日(火)19時25分13秒

引用

本多さん

>斎藤和雄遺作展
不勉強にして斎藤和雄さんという画家さんをしかとは認識していませんでした。
さっそく本箱を掻き回して小栗虫太郎を引っ張り出してみました。
私が持っている「黒死館」は創元文庫版の日本探偵小説全集、「人外魔境」は角川ホラー文庫なので、残念ながら装幀は斎藤さんではなかった。

唯一「白蟻」が教養文庫でして、このカバーはたしかに斎藤和雄さんでした!

なるほど、見ている者を深い奈落に引きずりこむような不安感が絵にただよってますね。リンク先の松山俊太郎氏の文章に、「冥界的色調」とありますが、さもありなんと思いました。
これは見てみたいなあ。しかし東京は遠いなあ。
というわけで、毎度の常套句と化してきましたが、首都圏の方は幸いなるかな、このチャンスお見逃しなく!!
本多さん、お知らせどうもありがとうございました。

お話変わって――

かんべむさしさんのHPによりますと、現在OBC『むさし・ふみ子の 朝はミラクル!』を月から金まで大好評放送中のかんべさんですが、さらにパワーアップされて、11月6日より毎週日曜日、『別冊ミラクル、アンチエイジング宣言!』という番組(朝8時〜)も担当されるそうです。
おお、OBC乗っ取りだぁ!!
現在の番組は本当に切れ切れにしか聴けないので、日曜日の放送はとてもありがたいです(^^)
たかし「ただひとつ問題があるんじゃ」
ひろし「なんや何や?」
た「休日の8時に起きれるかどうかなんじゃ」
ひ「そんなら前の日から寝んと起きとけ(怒)」
た「あーあー、辛いのお!」

今日は愈々眉村さんの「ある書評」ですよ〜(^^)
うっかり寝たらダメよ(^^ゞ>あ、それは私か。笑えヨ〜!

編集済

 

齋藤和雄遺作展  投稿者: 本多正一  投稿日:11月 1日(火)11時14分14秒

引用

 ご無沙汰です。過日の『中井英夫戦中日記』&『澁澤龍彦との日々』トークショーには多数の来場を賜り、まことにありがとうございました。今回、定員80の予約が一時間ほどで満席、関係者40人を押し込んで総勢120名余の大盛況でした。キャンセルも一名だけで、いずれも古書会館の催しとしては新記録だったそうです。
 ゲストの齋藤愼爾さん、川崎賢子さん、澁澤龍子さん、東雅夫さん、それからご来場くださった多くの皆さま、雨のなかを本当にありがとうございました。またこのような機会が持てたらいいなと思っております。

 続いてお知らせです。元講談社の名編集者・宇山秀雄さんよりご案内をいただいたのですが、本日より『小栗虫太郎傑作選』(社会思想社)の装丁を手掛けられた齋藤和雄さんの遺作展が東京・渋谷のゆーじん画廊にて開かれます。おそらく教養文庫版『黒死館殺人事件』の挿画に魅了された読者の方々は多いのではないかと思われます。本年6月16日に逝去された孤高の画家を偲ぶ機会です。是非お運びください。

(私信)ああ、O熊さん、つまらぬお知らせをスミマセン。いつもいつもありがとうございます。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.cabbage-net.com%2Fsaitou%2F

 


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