遅まきながら、『ディアスポラ』を読み始めました。
ていうか、 こたつの上に積ん読状態の「ディアスポラ」に手が触れたので、なんとなくパラパラと捲っていたら、面白くなって第1章「孤児発生」を読んでしまったのでした。
イーガンが現象学的な人文・社会諸科学の素養があることは、『祈りの海』でもよく表れていましたが、この章で扱われるヤチマの誕生(創出)から「我の自覚」までは、まんま(現象学的)社会学が明らかにしたところの「自覚の後至性(私の発見、構成される私)」の電脳的再現なんですね。
しかもこの「孤児」ヤチマは、『都市と星』における「ユニーク」アルヴィンに対応するものであることは、まず間違いなくイーガンによって意識されているでしょう(そしておそらく、同じ機能を持たされることになるのでしょう)。
クラークは当時のサイバネティックス・情報理論から「ユニーク」を設定したんだったと記憶していますが、それがとりもなおさず構造主義的文化理論における「マージナルマン」に重なる概念だったのと同様に、本章のラストで、電脳的存在であるヤチマの
(これを考えているのは誰だ?
わたしだ)
に至る契機は、ヒトが、社会の中において模倣から始めて「我」を構成していく過程を社会学が考究した契機に重なります。
本章においてヤチマ(となるもの)は、まず自分というものを認識していません。イノシロウがいいます。
「おまえ、自分が誰かわからないのか? 自分自身のシグネチャーを知らない?」
生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の範囲がわかりません。世界(環境)と身体的自己の境界線がない。
かかる自他未分化な状態からまず他者(他我)が分化され、その他者を鏡として自我が析出(構成)されるわけですが、かかる事態に対応するのが、「孤児」が「四人目の市民」を「見」れるようになることです。これこそG・ミードの「me」が構成された瞬間であり、身体的自己が環界から分離する契機であります。
このような過程を経て、ようやくヒトは「私」を獲得するわけです。
本章において、「私」は「社会」において構成される(社会でしか構成されない)、という事態が電脳的に再話されており、こうして「私」を獲得した「孤児」・「ユニーク」たるヤチマの今後の冒険(おそらく社会の根源的理解)が描写される「基礎」が示されたのだと思います。
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