ヘリコニア談話室ログ(2006年3月)


「アメリカの七夜」 ②  投稿者:管理人  投稿日: 3月31日(金)21時52分33秒

  引用

 

 

昨日の投稿は、「アメリカの七夜」の時系列ストーリーと「日記」との対応関係です(コピペミスがあったので訂正しました)。
このように、日記は6日分だが、主人公の考えるアメリカ到着はそれより一日早い。つまり日記の日数と滞在日数は同じではないということです。
以下、疑問点、不審点と私の解釈。

○パラグラフ(以下P)3「疑問の余地はない……」はきわめて唐突で、直接的には前にも後にも(意味的な)繋がりが認められない。いちおう次のP4「ようやく不安が消えた……」でそのように思い込んだ理由が説明されているが、このP3の意味は、旧アメリカ以来のドラッグの伝統がいまも健在であることの読者への伏線であり、読者はそういう背景を頭の端にとどめているので、のちに博物館でドラッグを購入するという、一見唐突な行為を受け入れることができる。で、なぜドラッグを買うという唐突なエピソードが必要なのか。それは卵菓子のロシアンルーレットという本篇の根本的な枠組みを整えるためという要請に拠る。

○P6「夕食をとりに外出……」のなかのエピソード「時間の亀裂」はとても魅力的(バラードならばこのアイデアで一本の美しい短篇をものするだろう)なのだが、本筋に関わってくる意味は与えられてない。

○P9「おわかりのように……」の犬を射殺するシーンは、その日の夜(翌日未明)の怪物射殺(P12)の布石。主人公が咄嗟にそのような行動ができることを読者に予め受け入れさせるもの。

○P11「べつに幻覚……」で、主人公が思い出した老人のことば「女優はみんな売春婦だ」は主人公の記憶違い。事実は「エレンは売春婦だし」(P6)。この効果は何か? 主人公の記憶は完璧に信じられるものではないということか?ウルフがよく使う手。

○P14「人間とはなんと……」の一文、A「おお、日記帳よ、おまえはすでにぼくの空想になる出来事を聞かされた」はP12、P13を指すようだ。怪物射殺は空想だったという意味か? たぶんそうなのだろう。
そのすぐ後で、B「とつぜん、こんな確信が生まれた。夕べ自分が殺したあの魔物は、ドラッグの作用で生まれた幻影に過ぎなかったのだ、と」いう記述があり、このB文は、A文に引き続くC「では、実際に何が起きたかを、今からぼくに語らせてくれ」の後に続く文である。つまりこの時点では主人公はB文が実際に起きたことと思いなおし、P9の怪物射殺を否定したのだろう。
P16「いまは夕方……」でも主人公は、ドラッグは最初に食べた卵菓子に入っていた、それで怪物射殺の幻影を見たのかも、と書いている。

○卵菓子が1個足りないことについて―― 一日分主人公によって削除されて、その事実を隠しているのか?
これについては少なくとも5日目の日記と6日目の日記のあいだ消された一日はありえない。なぜなら、P17「このペンをとってから……」で女優はアパートでベッドを共にした後、明日はピクニックとパーティーに行きましょうと主人公に言っており、実際、6日目にピクニックに行き、パーティーに行っているから。そして5日目の夜に卵菓子が1個足りないことが発見されるわけだから、それ以前、たとえば4日目と5日目の間にそういうことを想定することは原理的にありえない。

○1個足りないことに気づいて、主人公はスパイの存在を疑う。スパイなんてものを疑うからには、主人公のアメリカ訪問は何か別の意図があったのだろうか? →「この病みおとろえた国を訪問する理由を書いたくだりを全部削除した」

<つづく>

 


「アメリカの七夜」  投稿者:管理人  投稿日: 3月31日(金)02時48分1秒

  引用  編集済

 

 

<日記記入日>  <パラグラフ>

初日        1、やっと到着(ただし記載内容は前日・船中のこと)

2日目       2、また日が暮れる
          3、疑問の余地はない
          4、ようやく不安が消えた
          5、北にある公共建築物
          6、夕食をとりに外出
          7、ここ一時間

3日目       8、きょうは朝食(ただし記載内容は昨晩・未明のこと)
          9、おわかりのように
          10、例の卵菓子をひとつ食べた
          11、べつに幻覚

4日目       12、いまは朝食前
          13、前のパラグラフ
          14、人間とはなんと

5日目       15、朝。早起きして
          16、いまは夕方
                   17、このペンをとってから

6日目       18、ふたたびホテルの部屋
          19、パーティーに出席するため
          20、いまは夜更けだ
          21、いま、自分に
          22、あのあと

     ――――――        ――――――――        ――――――――

    <ストーリー>

アメリカ第1日
「ぼくにとってのアメリカは、海の変色からはじまった」

第2日(日記初日)
日記を開始(内容は前日のこと)→第2日目自体の日記ははじめて見た沿岸風景をかくことが山ほどあり、「やむを得ず中断したのだ」(かく=描く?スケッチ?)→就眠、パンの夢

第3日(日記2日目)
建物を見物→博物館→ホテルへ戻る→レストランで夕食→芝居見物→卵菓子購入。老人2個・主人公1個食べ、6個残る→老人をおくる。ドラッグを購入→卵菓子6個のうちの1個にドラッグを注射→女を三人部屋へ

第4日(日記3日目)
公園見学→ホテル→卵菓子1個目食べる→レストラン→芝居→ホテル→いったんベッド→未明支配人室で住所調べ→女優の家を探しに出発→探し当てる→怪物?を射殺→ホテル?(記述なし)

第5日(日記4日目)
朝、怪物のもとへ戻るも死体なし→ホテル→女優への贈り物の購入のために外出→ホテルでディナー→2個目の卵菓子を食べる→芝居→ハリー(クレトン)役の男優と地下酒場へ→喧嘩となりハリーは捕縛→芝居に戻れずホテルへ→女優が部屋に訪ねて来る→女優帰る

第6日(日記5日目)
女優と一緒に留置された男優の釈放に奔走→ホテルへ戻り3個目の卵菓子→女優とレストランでディナー→劇場へ行くとハリーが戻っている→役者が行方不明になり、主人公が代演→女優のアパートへ→ホテルへ。3個残っているはずの卵菓子が2個しかなく、日記の置き場所が違っている

第7日(日記6日目)
女優とピクニック→ホテル(再びホテルの部屋。2個のうちの1個を食べる)→パーティー→女優とホテルへ戻る→女優の正体を見る(殺す?)→最後の卵菓子を食べる→クレトン(ハリー)が部屋の前の廊下を徘徊?

 


「モロー博士の島」  投稿者:管理人  投稿日: 3月30日(木)03時06分55秒

  引用

 

 

を、チャチャヤン気分に掲載しました。

 


「プランク・ダイヴ」再考  投稿者:管理人  投稿日: 3月28日(火)20時24分24秒

  引用  編集済

 

 

この話は、聡明な女の子がその聡明性ゆえに因習的な田舎に馴染めず、都会の大学に出て行って勉強したいんだけど、父親があまりに現実認識に乏しすぎる夢想家であるため、それが逆に足枷となって、父親を放り出して飛び出すこともできずにいる、という一種戦前の女流文学のような「物語」がまずある。
かかるジレンマを脱出するために、彼女は一計を案ずる。その計画が、まあSFでなければできないものなのだが、本篇は基本的に少女の計画とその成就の物語なのだ。父親もポリス人も共に少女に出し抜かれてしまう。

その計画に根本的に関わってくるのがオリジナルとコピー(クローン)の関係。少女の自己実現の試みは図らずもその両義性を炙り出す。
522pで、プランク・ダイヴするチームが
「無限の計算」ができる可能性、平たく言えば生存できる可能性が殆どないと聞いた少女は「あきらかに落ちこんだようす」になるのだが、もちろん最初から上記の計画の実行をもくろんでいたからに他ならない。その様子を見て勘違いしたポリス人ジゼラは「ダイブに送りこむのがクローンだというのは、わかっているのよね?」と少女に確認をする。

さて、下の文章では、著者のオリジナルとコピーに対する認識が揺れていると書いたのだが、それが勘違いだったようだ。揺れているのではなく、きちんと書き分けられているのだ。

上記のジゼラの言葉には、無意識に「オリジナルの優位性」というか「正統性」が図らずも表明されている。
下記で引用した、
「もし、おれのダイヴ・クローンがなんの知識も得ることなく死んだら、それでも彼は、おれが外部に存在しつづけると知っているから、満ち足りて死ぬだろう」(528p)
にもそれは現れている。

クローンチームが出発した後、ジゼラは喪失感を感じるのだが、それでもやはりクローンを
「拡張自我の構成要素」との考えから脱しきれない。

しかし考えてみると、たとえばPC上のテキスト文書をコピーして、別のメモ帳を開いてペーストしたとしよう。この二つの文書は、一応オリジナルとコピーといえるけど、オリジナルとコピーの間にどんな違いがあるだろう? 何もないのではないか。
同様な事情が電脳存在であるポリス人にもいえる。そういう意味で、上記のオリジナル人のクローン人観は偏見といえよう。

一方少女は、ジゼラの言葉に対して
「でも、あなたがそのクローンだとしたら……」と問いかける。これはつまるところ「オリジナルの正統性」への問いかけなのだ。それは少女の計画そのものが、実にオリジナルの正統性を否定する行動であるからで、更にいうならば「クローンこそ正統」という倒立したイメージさえ投影されている。
かかるイメージは、実際のところポリス人たちのクローンにも芽生えている。これはまた逆の意味で偏見である。

このように、下記の「揺れ」は揺れでもなんでもなく、オリジナルとクローンのそれぞれの視角の(当然の)差異として描き分けられているということなのだ。

少女自身もオリジナルの方は自分を正統と認識して父親の世話をする人生を送りつづけるのだろうし、クローンはクローンで、たとえその生涯は有限だとしても(電脳存在は原則として無限に生きる)、この自分こそ本来の自分と思って最後を迎えるに違いない。その意味でもラストのひと言はびしっと決まって感動に値するし、このひと言があるからこそ、本篇は小説として締まったものとなっている。

なおイーガンの小説の特徴であるフラクタル構造は本篇にも見出せる。527pでアテナポリスが
「ミーム的に閉じていて抜けられない表面を作って」いて「そこからの脱出は不可能」と書かれているが、これこそまさに(重力的に閉じた)ブラックホールと同型であるといえよう(メタファーかも(^^;)。
ところで上記の「ミームからの脱出」の「不可能性」は、少女によって覆されたわけだ。それならば「ブラックホールからの脱出」の「不可能性」もまた、覆される可能性があるのではないか。
「あの子はたしかに<アテナ>を脱出したよ」(535p)と作中人物にいわせたとき、作者は同時に、そこに「ブラックホールからの脱出」(という希望)もまた含意させていたのではないだろうか。そんなふうに想像するのだ。

 


Re:「プランク・ダイヴ」  投稿者:管理人  投稿日: 3月27日(月)21時12分43秒

  引用

 

 

仕事中、卒然と下の感想文、読み間違えていることに気づいた。
今から鋭意再読、確認の上訂正するつもりです。
とりあえず。

 


春場所  投稿者:管理人  投稿日: 3月26日(日)19時03分18秒

  引用

 

 

これ以上ない、八方丸くおさまりの結末となったような気がしますが、本当に面白かった(ギワクを感じてはイケマセン)。
魁皇の踏ん張りは神懸りでした。あんな力が出るなら最初から出せよという感じではありますが、やはりある時点でスイッチが入ったからこそなんでしょう。
それが証拠に、途中さすがと思わせた千代大海は、勝ち越した途端に力が抜けてしまった。相撲って、半分以上精神力なんですよね。
精神力といえば、本割りの白鵬もそうで、固くなって地力が出せなかった。朝青龍の本割りも、立会いは気が焦っての空回りだったような。

優勝決定戦はいい試合でしたね。がっぷり四つに組み合っての力勝負というのを久しぶりにみた気がしました。柏鵬(柏戸と大鵬のことです)戦はいつもこんな感じだったなと思い出しました。白鵬も早く横綱になって龍鵬時代と呼ばれるような一時代を築いてほしいものです。

その意味では、栃東と魁皇はどちらも本人にとってはいい結果となったけど、大相撲としては要らん結果かも。来場所は張出大関が3人になってしまうんですよね。

唯一心配は琴欧州で、出場は本当によかったのか? 旧大関陣も大関に上がった当時はいつ横綱になるかと期待されたものでしたが、みんなケガに泣かされてしまった。出島や雅山ら陥落組もそう。ある意味ケガに無縁だったからこそ朝青龍は横綱になれたといえるかも。
琴欧州も無理をした結果故障を慢性化してしまって先例を踏襲することになっては元も子もありません。しっかり治して白鵬に遅れずに附いていってほしいものです。

そういえば把瑠都は来場所幕の内に上がれるのかな。把瑠都も逸材ですね。金髪の大銀杏は人気が出るのでは(北の湖の横槍が心配(^^;)。
来場所は今場所以上に面白くなりそうです。

 


「その名はバレット」  投稿者:管理人  投稿日: 3月25日(土)20時34分1秒

  引用  編集済

 

 

ツタヤが半額セールとのことで、久しぶりに寄ってみたら、なんとシド・バレットのCDがありました。→「その名はバレット」(Barrett)

ライナーノートのよると、ピンクフロイド脱退後、ソロデビューアルバム「帽子が笑う…不気味に」(The Madcap laughs)が、デイブ・ギルモアやロジャー・ウォーターズらのプロデュースで70年1月に発売、続く第2作が本作「その名はバレット」で、プロデュースはギルモアとリック・ライト。ロジャー・ウォーターズはシドにプッツンと切れたらしく「もう誰もシドをプロデュースできない」と関わろうとしなかったとのこと。なるほど(汗)。

本アルバムは同年11月発売されたが、ピンクフロイドの面々は、6月に「原子心母」を初演してからスーパーグループの道を進み始めたこともあって、シドとの交流は途切れてしまう。

その後すぐ、シドは姿を消してしまい(以後80年代前半にフランスの雑誌アクチュエルが、母親の家にいたシドから「今でもギターを弾いてるよ」という短いコメントを聞きだすことができただけ)、ジミー・ペイジ、イーノらがシドのプロデュースをしたいと表明しているものの、実現には至っていない。……

で、聴いてみた。うーむ、初期ピンクフロイドのなかに充満している音であった。ピンクフロイドの中には、クラシック(あるいはコンストラクティブ)志向とサイケデリック(あるいはディストラクティブ)志向という相反する成分があり、実はこのサイケデリック成分を削ぎ落とすことで、ピンクフロイドはメジャー化していったんだよな、というようなことを改めて感じました。これはこれで私は納得しますが、チャート入りは果たさなかったというのもよく判ります。けれどもこのベクトルのすぐ隣にビートルズのベクトルもあるはずなわけで、ヒットやチャートのいわく言いがたい不思議(不条理)も感じるのでした。

「帽子が笑う…不気味に」も聴いてみたいなあ、ツタヤには「帽子が笑う…不気味に」の空ケースがあって、それには「移動中」とシールされていたんだけど、これはどういう意味でしょうか?

同時に借りたのは、サンタナの「スーパーナチュラル」と「シャーマン」。

 


「プランク・ダイヴ」  投稿者:管理人  投稿日: 3月24日(金)23時46分56秒

  引用  編集済

 

 

SFM600号よりイーガン「プランク・ダイヴ」を読む。
「ディアスポラ」と同様、人間が肉体的存在から電脳的存在に移行してポリスを形成している世界の話だが、「ディアスポラ」のポリスが物理的宇宙への興味を失い、地球を離れることを極端に忌避してポリスにひきこもっているのに対して、本篇のポリス・カルタンはブラックホールの軌道をめぐって、物理的宇宙への興味を持続しており、「ディアスポラ」とは設定を同じにしつつも、また別の系列の物語のようだ。

宇宙の量子論的解明に燃えて、カルタンの選ばれた者たちが、自らのクローンをブラックホールへ送り込む計画が進んでいる。
そこに地球・アテナ・ポリスから父娘が電送されてくる。父は吟遊詩人気取りの時代錯誤者(アテナ自体が時代錯誤なポリスらしい)だが、娘は真実への興味に燃えている。娘は自らのクローンを「落ちゆく船」へ密航させるのだった……

骨子は石原藤夫の先駆的作品「時間と空間の涯」と同じ。ブラックホールへ飛び込んでいく宇宙船の内部を描くものだが(本篇を読むと、石原作品はぜんぜん古びてないなあ)、乗員がクローン(といっても電気的存在であるからそのコピー)である点が異なる。
「ディアスポラ」においても一方のテーマだった「クローンはあくまでオリジナルのクローンなのか」が本篇でも問われる。で、「ディアスポラ」以上に著者の筆は揺れている。

「もし、おれのダイヴ・クローンがなんの知識も得ることなく死んだら、それでも彼は、おれが外部に存在しつづけると知っているから、満ち足りて死ぬだろう」(528p)
は、オリジナルに対してクローンは従属している。
一方、
意識を持った瞬間から、このコーディリア(註、クローン)はまったく別個の人物になっていた。(534p)
では、オリジナルとクローンは対等の別人格として存在している。
「ディアスポラ」では、その揺れは後者に決着していたはずだが、本篇ではまだ揺れが色濃く残存している。実際のところ、オリジナルの存在が「満ち足りて死ぬ」気持ちにさせることはありえないのではないか。

また吟遊詩人な電脳存在自体が矛盾した存在で、その辺へのスペキュレーションがやや弱いように感じたけれども、小説としては実に面白かった。とりわけラストは「明るい諦念」が溢れていて、よかった。

 


1873年のテレビドラマ」  投稿者:管理人  投稿日: 3月24日(金)19時52分22秒

  引用  編集済

 

 

 ――でも今夜はここでやめよう。全部読んだら損しちゃう、あとは明日にとっておくんだ。(「デス博士…」37p)

というわけでウルフはちょっと中断(^^;
で、大枚2400円もはたいて購入したにもかかわらず小説は全然手つかずのままのSFM600号、そういえば明日には601号が出てしまうではないか――と気づいたこともあって、ずっと気にかかっていた
ラファティ1873年のテレビドラマ」を読みました。

いやオモロかった(^^)
公式なテレビの発明に先立って、アメリカで「いまひとつの方式による」テレビが開発されていた。しかしそれはある意味欠陥テレビで、それによって制作されたドラマは、テレビの機構上(スローライト性)、受像機に蓄積されていき、もとのドラマからどんどん変容し、かつは他のドラマへ相互侵犯し、はては現実をも変容してしまうという性質を持っていたのだ!?

これはすごいです。本篇の体裁は、たまたま発見されたそのテレビ受像機に(スローライト効果で)残存していた12本(あるいは13本)のテレビドラマを、順番に見ていくという形をとっており、回を追うごとにスローライト効果の蓄積で、どんどん歪み変容していくさまが見どころ。ラストの第13回はまさに混沌の極致! 昂然たるヒロインの退場がかっこいい(^^;

ある意味ディック的ですが、ただしそれは背後で共感や同調作用が働かないディックであり、結局のところ「やっぱりラファティやね」という以外にありません。傑作!

 


「島の博士の死」  投稿者:管理人  投稿日: 3月24日(金)01時39分35秒

  引用  編集済

 

 

「島の博士の死」は、「まえがき」のなかに組み込まれた掌篇。
そういう性格上、本篇は3部作を読むためのスタンスというか間合いの取り方を、掌篇という形で提示しているように思われる。「全ての歴史は主観的なもので、個々の歴史家の認識や、無自覚な偏見を反映している」(14p)のであって、「真実の歴史を書いた人間はいません」(同)という作中人物の発言は、まさにウルフの島三部作を貫く原理である。

インスラ博士はその名(ラテン語の島)のとおり「島」が専門で、新学期、彼のゼミに男女二人の学生が登録する。初めての講義のあと、博士は(実在の)ある小島を示し、学生二人にそこへ行き、その島でどんな不思議を見つけたか、次回報告してほしいという宿題を課す。男と女の学生は出掛け、半日その島で遊んだが、島には何の不思議もなかった。翌週ふたりは博士を訪ねるが、なんと博士は先週のゼミの前夜に亡くなっていたというのだ。そういったことを二人は時々会って話し合う。冬休みが訪れ二人が離れ離れになる段に至って、ようやく二人は気づく。島に不思議があったことを。……

読後感のよい怪談であり、存在するものはすべて「主観的」なもので、見えたり見えなかったりする(あるいは見えていることだけを描く)という、三部作の基本的スタンスが提示される。

 


「死の島の博士」メモ  投稿者:管理人  投稿日: 3月23日(木)20時53分11秒

  引用  編集済

 

 

149p、「バリーが来るぞ」は夢の中での発語。目覚めた瞬間に、「バリー」は「マーゴット」に変換(同視)されてしまっている。理由は224p。というか以下の全ての原因であり理由が224p

○157p、病院(不治患者用病棟)と金魚鉢の中の「死の島」の同視。
「その飾り物と、彼の働いていた病院は、サイズを別にすれば何の違いもなかった。その飾り物とおなじく、あの病院も、下から7分の6までは刑務所の混みあった活動のなかにあった」
では病院(刑務所の7階)がなぜ「死の島」なのか? それはこの病院とマーゴットが無意識に同視されているからだ。死の島の博士こそマーゴット。

「まわりの田園地帯からながめると(……)病院の最上階(……)マーゴット博士の病棟だけしか見えない。しかし、その最上階だけが死の棲み家であり、ひらいた窓を吹きぬける風が人々をさらっていくのだった」(157p)

40年後の今、アルヴァードは自分の病室が何階にあるのか気になってならない。どうも屋上に近い階であるような気がして不安なのだ。なぜなら不死が実現された今、不治患者用病室は不要になったはずだからで、この病室が7階である可能性が彼を不安にする。(157p)

○アルヴァードは病室が617号であることを知りほっとする(162p)。しかし「合衆国及び連合王国」と名称が変わった(172p)この国の国語は果たして米語なのか。もし英語だったら617号は7階に存在することになるではないか。(181p)
ということで、主人公は病室が死の島にあることを確信する。
「この階にいるのが嫌でね」(192p)

○ナースコールのボタンを押した主人公に「なんの用だね、617号」とマーゴット博士がドアの外から(頑丈な壁を透かして死体運搬カートと共に見えている、180p)声をかける。返事をするのが恐ろしくて主人公は沈黙を守るのだが、それは夢もしくは幻視(聴)で、実際はナースコールに返事したのはナースだったことが明らかになる。(177p)

○食事のナイフを隠す(195p)のはなぜか? もちろんそこが死の島であり、幻想のマーゴット博士を恐れてだ。

○余談だが「昔の知りあい」(195p)はいかにももっちゃりしている。呼びかけの言葉なんだから「どうも旧友さん!」くらいの意訳でもよかったのでは。

○次ぎはジェシーについて――
彼女はアルヴァードに未練を残している。ラストの行為への伏線。
1)組織再生作用の仮説がアルヴァードに伝わるよう画策している。
2)娘のリサを父親が必要というかたちで利用している。
 etc etc

○お遊び
トマス・ウルフ「汝再び故郷へ帰れず」のタイトルは結末を暗示。(204p)

○連作としての意味
「デス博士」は現実のリニアな時間を否定して、繰り返されるばかりで前へ進まない円環的時間を措定。「アイランド博士」は前者を否定してリニアな時間(不条理)を再提出。
本篇は「不死」。不死とはなにか。それは「流れる時間」の否定ではないか。つまり円環時間もリニアな時間もひっくるめて時間そのものを否定している(あるいは契機として含んでしまう)。
「わたしは一冊の本だ」(181p)。本とは、ある意味「永遠」ではないだろうか(実際には1000年保つ本は稀かも知れないが、象徴的には永遠と言ってもよいのでは?)。その意味で不死の人は「本」であり、「本」とは「物語」だとしたら、本篇は「デス博士」も「アイランド博士」もすべて含んでしまうことになり、しかして無時間な「永遠」なのだ。すなわちこの3部作は物語と時間に関する弁証法的三部作なのでは?

なお、付随的な感想をミクシイに書いているのですが、それも含めた清書というか最終的まとめをチャチャヤン気分に掲載するつもり。

 


白鵬強し!  投稿者:管理人  投稿日: 3月22日(水)20時45分50秒

  引用  編集済

 

 

ガチンコ勝負、むしろ朝青龍有利な左4つで組み合っての勝利ですから、これは横綱ショックでしょう。
うーん、朝青龍は今後白鵬には勝てないんではないかなあ。そんな予感すら感じさせる堂々たる勝ちっぷりでした。

いっぽう栃東は引導を渡されました。実際栃東では横綱は無理でしょう。
むしろよかったのでは。なぜならば今場所白鵬が全勝もしくは1敗くらいで優勝し、来場所も13勝以上すれば白鵬が横綱になってしまいますから、いま無理して横綱を急造する必要はない。おっつけ琴欧州も昇進すれば、栃東の横綱は逆にお荷物になりかねませんからね。
いや楽しみですね。

それはそうと、モンゴル人東西横綱時代を迎えたら、やはりモンゴル場所が必要では?
昨今恥ずかしいくらい閑散としてしている九州場所はこれを廃止し、モンゴル場所を新設したらどうでしょうか?
もともとモンゴル相撲の盛んなモンゴル国、その人口の半分(100万人)が集積するウランバートルで場所をひらけば、毎日満員御礼間違いなしでは?
北の湖理事長は真剣に検討してほしいですねえ(^^;

訂正>モンゴル国の人口は250万人で、ウランバートルには3分の1の80万人が集積しているようです。

 


「アイランド博士の死」②  投稿者:管理人  投稿日: 3月21日(火)21時32分55秒

  引用  編集済

 

 

さて、一義的には浮島であるドクター島は、実は一種の人格を有しており、島はアイランド博士(ドクター・アイランド)でもある。
かかるダブルミーニングは意図的で、あるときは人格的に、またあるときは物理的な島を指示する。
ではなぜドクター・アイランドなのかというと、この島が一種精神科の医者(治療者)であるからで、ドクター島はすなわち精神治療施設なのだ。つまり「治療島」。おお「治療島惑星」だ!(厳密には「治療島衛星」ですけど)。
主人公のニコラスがこの島(の扇区)に送致されたとき、扇区にはすでにイグナシオとダイアンがいた。三人とも精神をわずらっており、治療島(アイランド博士)の説明では、この3人を同じ扇区に置いておくことが治療のためには効果的と判断したかららしい。

前作「デス博士……」のラストで、「きみ」は、読んでいる「デス博士の島」のストーリーの、「デス博士が焼け死に、女王タラーを残してランサム船長が去っていく」という結末を拒否するのだったが、本篇はその結末を踏んでいる。すなわち本篇の結末では、「イグナシオは去り、ダイアンは焼け死に、ニコラスが残る」のである。

かくのごとく構造において1対1対応関係が認められるのだ。とはいえ実体的な要素間の関係、デス博士:ダイアン、タラー:ニコラス、ランサム:イグナシオには、対応関係はなさそうだ。

前者のラストにおいては、主体の意思とは関係なく否応なしに時間がリニアに流れていく「現実」=「世間」(they)という「不条理」への抵抗、拒否が明瞭に認められた。そうして自閉的な円環時間(ネヴァーランド)に後退し閉じこもろうとするのが描かれていた。つまり現実へ出て行くことの拒否が、物語のレベルにおいてであるが、円環的な繰り返しというかたちで一応決着した・回避されたのであったが、そのような前者とは異なって、後者においては「きみ」が拒否した「現実」すなわち不条理が、実際に起こってしまう(アイランド博士は作中で何度も、自分は「世間」の代用物だと言明している)。
つまり前作では物語的に回避された「現実」が、本作では(現実の代替物ではあるにせよ)、主人公を蹂躙してしまう。
結局「アイランド博士」は現実を否定する「デス博士」の、その否定形なのだ。「デス博士」の否定を、「アイランド博士」はひっくり返し更に否定しているわけだ。

主人公ニコラス(左脳・右半身)も、ラストではぜんぜん主人公らしくない、単なるイグナシオの回復の為の道具でしかなかったことが明らかとなり、あまつさえ不条理なる現実に晒され、アイランド博士によって、ケネス(右脳・左半身)と置き換えられてしまう。まさにゴシックSFにふさわしい幕切れといえよう。

余談になるが、そうすると次の「死の島の博士」はその否定=「否定の否定」の否定である可能性が高く、あるいはこの3部作は弁証法的三部作なのでは、と想像するのだが……。

あ、それからこの話は「モロー博士の島」の完全な裏返しだね。
「アイランド博士の島」が「モロー博士」の裏返しであることは間違いないと思う。
うろ覚えだけれど「モロー博士」では「島」が、いつの間にか「現実」の世界を覆いつくしていたという話だったはず。翻って「アイランド博士」では「島」が、いつの間にか「現実」によって蹂躙されてしまうという話なのだから。

 


「アイランド博士の死」①  投稿者:管理人  投稿日: 3月21日(火)20時31分31秒

  引用  編集済

 

 

本篇は木星の静止軌道を周回する人工衛星が舞台。
この人工衛星がなかなかにユニークで、強化ガラスでできた中空の、いわば中心のないダイソン球なのだ。つまりそのガラス球の内側に遠心力で人も物もくっつけられている。

その環境描写は記述中に散在しており、一見判りにくい。私なりに整理したところでは――この衛星、人工衛星といってもかなり巨大でひとつのミクロ世界といってよい。ガラス球の内部は水で満たされている。まるまる水で充填されているのではない。おそらく赤道を中心にある一定の幅に水が溜まって水溜り(海)となっている。それがぐるりと帯状に赤道を一周している。つまり上空は逆半球の海ということ。
この海洋世界には島がひとつだけ存在する。

標題のアイランド博士(Dr.Island)は、その海に浮かぶ浮島のことで、一義的には、ドクター島というべき地名(島名)である。
この浮島は、ただしガラス球殻とはケーブルで繋がっているので位置的には固定されており、外球の出入り口(港?)と繋がっているようだ。

この静止衛星は、木星の<白斑>上空の静止軌道にある(ただしこの<白斑>、現実に存在する「白斑」とは別物らしく、一種の人工的な太陽であるようだ)。
静止衛星であるから(木星の自転と同じく約10時間で木星を回っている)、常に白斑の上空に人工衛星は位置している。この光と熱が太陽代わりなのだが、ドクター島から見れば、上空の海が白斑の光を攪拌するので、白斑(あるいは木星)が直接見えることはない(この海水透過で紫外線が除去されるらしい)。

ちなみに、木星の静止軌道の高度は、地球のそれが3万6000キロメートル(地表からの距離)であるのに対して8万9000キロで、そこから眺めた木星は、直径30cmの円を約30cm離れたところから見たサイズとだいたい同じらしい→http://lts.coco.co.jp/isana/review/view.cgi?search_id=200206

かくのごとくアイランド博士の島の昼とは、この白斑から届く光と熱が、上空の海面を透過して降り注いでくる時間帯のことで、夜とは、アイランド博士の島の下に白斑が位置した時で、島自体の影が夜の闇を作り出している。 >*疑問点後述

天候は住民の感情(の総意)と同調しており(理由省略)、悲哀が強くなると雨が降る。雨を降らせるメカニズムは、おそらく自転速度でコントロールするんだろう。自転を遅くすれば遠心力が弱まり、遠心力が弱まると海面の波は大きくなる。波しぶきは大きく跳ね上がり、(中心に近づくほど無重力だから)波しぶきが浮遊して、下の半球へと落ちていくという原理。それは雨が降り出すと体重が軽くなり、3~5メートルも跳びあがれるという記述から明らか。

またドクター島はおそらく円形で、中心部に山がある(中心点に頂上がある)。でその中心点から放射状に(扇形に)セクター(説明省略)が設定されている。翻訳ではセクターを扇区と訳しているが、けだし適訳だろう。

*疑問点。小衛星サイズのダイソン球がある一定のG(擬似重力)を発生させるための1日(1自転)は、衛星の直径が判らないけど、おそらく数時間のはず。ところが読む限りではドクター島の一日はもっと長いように(地球の一日と同じくらい)しか読めない。となると遠心力ではなくて別の機構、によって制御しているのだろうか? 84pの記述(空間を曲げる技術)はそれを示唆しているのかも。もとより扇区を作る技術があるんだから、当然そのくらいの技術があってもふしぎではないが、それでは何のためにダイソン球めいた設定が必要なのか。自在に重力を作り出せたら小さな人工衛星の表面でもハビタブルな環境は作れるのでは?

つまりこの衛星は、壮大にして無意味な、合理性を超越したゴシック的建造物と呼んで差し支えないのではないか。まさにゴシック衛星! その一々の物理関係に合理的・合目的的な意味はなさそうだ。ではかかる設定にどのような意味があるのか。けだし本篇はゴシック小説(ゴシックSF)なのではないだろうか。ゴシック小説には(城であれ館であれ)奇怪なゴシック建築物は不可欠。ウルフは木星軌道上にそのようなゴシックな城館を建設したのだ。(この項、つづく)

 


「ぼくの作文わたしの作文」  投稿者:管理人  投稿日: 3月21日(火)11時36分59秒 p0904-ip04osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

>いくら早くてもいいのですが
願わくはうしろに拡張していただきたかったです~(汗)

>「ぼくの作文わたしの作文」
なるほど。
今でこそ、(よくも悪くも)小学生らしい定型的な作文になってきましたが、当初は「こんな文章なんで小学生に書けるねん」といった体の「表現力ゆたかな」作文が多かったですよね。
あれは屹度お母さんが、原文章の痕跡がなくなるまで徹底改稿して投稿されているんだろうと思っていましたが(>あ、問題発言!)、その手があるなあ(^^; いや私の子供も小学生であったのは遠い過去のことになってしまいましたが……

 


Re:拡張朝ミラ  投稿者:堀 晃  投稿日: 3月20日(月)22時39分36秒 softbank218125147178.bbtec.net

  引用

 

 

ぼくは午前4時起床だから、いくら早くてもいいのですが、むさしくん、さらに早起きになるのかなあ。
ショートショートコーナーは難しいかもしれませんので、ジュブナイルSFを「ぼくの作文わたしの作文」に投稿する手はあるかな。
とはいえ、わがボンクラ息子も小学校を卒業して久しいしなあ。
孫に短く子供に長し。反対か。

 


朝ミラ  投稿者:管理人  投稿日: 3月20日(月)21時04分20秒 p0957-ip02osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

『むさし・ふみ子の 朝はミラクル!』放送時間を拡張!とのことで、おめでとうございます(^^)
さては直前の「中西ふみ子の今日も元気に」の敵対的買収に成功されたのでしょうか(^^;
そういえば、中西ふみ子アナ、この前夕方の番組にも出ておられました。声が聞こえてきてびっくりしたんですが、14~15時間以上拘束勤務されているんでしょうか? 大変な職場ですね。

それはさておき、放送時間も長くなったことでもありますし、ここは一丁ショートショートコーナーの新設を、と希望したいところではありますが、(実際に聴取して判りましたが)この時間帯、けっこう慌ただしくて「ショートショートなんて言っている場合か!」という感じですね。よしやコーナーが設置されても、私自身責任を持って聴取する自信がありません。なので、とりあえず嘆願書は出さんときます(汗) あ、日曜の別ミラでなら可能か>冗談です

 


Re:Re: 橘之助  投稿者:管理人  投稿日: 3月19日(日)18時59分33秒 p0702-ip04osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

>大阪の清元の師匠宅に居候していたとありますね
読ませていただきました。かなり勝気といいますか、キツイ性格だったみたいですね。8歳で真打ちになれば、自然そうなるのかもしれませんが。蝶々さんを連想しました。

>あ、古今東西噺家紳士録に入っているのですね。
>まだ聴いてなかった。
わ、うらやましい。よければ感想をお聞かせください。

 


Re:橘之助  投稿者:堀 晃  投稿日: 3月19日(日)14時36分22秒 softbank218125147178.bbtec.net

  引用

 

 

あ、古今東西噺家紳士録に入っているのですね。
まだ聴いてなかった。大阪に戻ればさっそくに。
三林京子さんのエッセイによれば、震災で焼け出されて、大阪の清元の師匠宅に居候していたとありますね。

 


Re:橘之助  投稿者:管理人  投稿日: 3月19日(日)13時58分46秒 p0692-ip04osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

検索してみると、けっこうヒットしました。大名人だったんですね、私が無知だっただけでした(汗)。
昭和10年没で、晩年は京都に住んでいたようです。
ここのエピソードなど、橘之助の音が別格だったことを窺わせますが、ジャズの影響関係を論じたコンテンツは(パッと見ですが)見当たりませんでした。

 


橘之助  投稿者:堀 晃  投稿日: 3月19日(日)12時48分1秒 softbank218125147078.bbtec.net

  引用

 

 

昭和初期に大阪にいたら、関東大震災のあとで、東京から楽士が移り住んで、道頓堀界隈が日本でいちばんジャズが盛んだった時期ですね。
影響濃厚とみていいんじやないですか。

 


Re:しまった!  投稿者:管理人  投稿日: 3月19日(日)10時16分18秒 p0692-ip04osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

堀さん
やっぱり音楽はセンスですね。
大正モダニズムの名残なんでしょうか、三味線のトテチンシャン的な(?)基本は踏襲しつつも、(私の耳が確かならばですが)いわゆるホンキイトンク的な音はずしというか音ずらしなんかも自覚的にやっているように聴こえました。刻むリズムもバリバリで、当時の演芸小屋はきっとロックコンサートみたいなノリになったんではないでしょうか。
今気がつきましたが、1930年代といえば日本にもジャズは入ってきていたのでは? おそらく橘之助は耳がよかったでしょうから、そういう舶来のジャズ奏法を自覚的に摂り込んだかもしれませんね。

 


しまった!  投稿者:堀 晃  投稿日: 3月18日(土)20時07分0秒 softbank218125147178.bbtec.net

  引用

 

 

>昭和5年だか10年の音源が披露されましたが

聞き損ねました。
そんな音源があったのですか。
ジャズでいえばローレンス・マレロのバンジョーですかねえ。
音曲漫才がすたれ気味なのは寂しい限り。
照夫の弟子の暁明夫にはがんばってほしいところですね。

 


立花家橘之助  投稿者:管理人  投稿日: 3月18日(土)17時04分53秒 p0761-ip01osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

今日の米朝よもやま話は、女道楽・立花家橘之助の話題。昭和5年だか10年の音源が披露されましたが、素晴らしかった!!
三味線といえばわたし的には宮川左近ショーの暁照夫師ですが、今日聴いた立花家橘之助は、はっきりいってそれ以上でした。三味線を自在に操ってとんでもない早弾きの中に、軽妙なフェイクが入っていたりして、まさに融通無碍とはこのこと。ジャズの名手に感じるのと同じ凄さが発散されていました。

今から60年以上前の録音ですが、実に音がクリアで弾んでいるのは、録音技術なんて関係ないもともとの音が凄いんでしょうね。しかもこの演奏、60歳の時のだということで、そりゃあ女だてらに一枚看板を張るだけの事はあると、僅か数分聴いただけでも納得できました。
もっと聴きたいんですけど、ワッハ上方にいけば聴けるのかな?

ところで昨日書き忘れてましたが、ばんば・ひろふみさんのラジオ番組で、「クリムゾンキングの宮殿」のA面が掛かりました(^^) これは眉村さんが「原子心母」をCMすっとばしてかけて以来の快挙では?
しかもお昼の番組ですからすごい。
すごいのはすごいのですが、ところが――A面頭の「21世紀の精神異常者」、「風に語りて」ときて「エピタフ」に入ったところで、WBCアメリカ敗北のニュースが入ってきて途中で中断されてしまったのであった。
カーラジオからいい気分で聴いていた私はガックリしてしまったのはいうまでもありません。
みなさん、WBC情報が「クリムゾンキングの宮殿」を中断するほどのニュースでしょうか? ほんま責任者でてこーい、と言いたい!

WBCといえば、「ボブとアブラムほど違う」と巷間話題のデービッドソン氏ですが、なかなかお茶目なキャラですねえ。私がプロレス関係者なら即レフェリーとして引き抜きますけどね。
昔、沖識名が(わざと)えこひいきなジャッジをして日本人観客をヒートアップしましたが、ボブにレフェリーさせたらもっと観客が熱狂することは請け合いです。ボブのレフェリー姿、私は是非見てみたいですが、いまどき外人レスラー対日本人レスラーという構図は古すぎますかね(^^ゞ

PS>今日の畸人郷、メール拝受しました。ところがアメリカ在住の姪っ子が帰ってきており、残念ですが欠席します。申し訳ありませんがあしからず。出席者の方で、もしここを見ている方がおられましたら、よろしくお伝えください。

 


藤野恵美さんの新刊  投稿者:管理人  投稿日: 3月17日(金)19時34分6秒 p0979-ip04osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用  編集済

 

 

柳生さん
大阪の映画の話でしたが、私もバタバタしていて、切れ切れにしか聞けなかったので定かではありません(^^;

>お髭がダンディーな方ですね!
いやラジオなので(^^ゞ

それはそうと、amazonからメールが来ていて、何事ならんと開いてみると、藤野恵美さんの新刊の案内でした(^^)→『七時間目の占い入門』 >青い鳥文庫第2弾ですね!

おお、まだ『怪盗ファントム&ダークネス EX-GP3』を読了できてないのに、次の新刊が出ちゃいました!
うーむ、読むスピードより書くほうが早いってドヤサ!?>私が遅読なだけですね、失礼しました。

とはいってもここ4ヶ月で3冊の出版! ミステリではありえるでしょうが、児童文学界では稀有の売れっ子ぶりでしょう。児童文学ではもはや向うところ敵なし状態では?
こうなったら早く大人物へ進出してほしいものですね。女性作家では恩田陸のような非論理じゃなかった無論理な売れっ子は案外おりますが、ロジックで小説が書ける女性作家は俄かには思いつきません。つまり大人物の領域には藤野さんの開拓を待っている広大な処女地が広がっていることは間違いないでしょう。

今回の新刊『七時間目の占い入門』も、占いをアプリオリに妄信することへの辛口の視点がきっと隠されているはずで……え、そんなゴタクを並べてる暇があるなら早く出版に追いつけ、って? いやまったくそのとおりm(__)m

 


残念!  投稿者:柳生真加  投稿日: 3月17日(金)16時54分44秒 nthygo074159.hygo.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp

  引用

 

 

お知らせありがとうございます。
聞き逃してしまいました。というか、ラジオをあまり聞かないもので…。
アイルランドのお話でしたか?
全部大阪の映画やねんでしたか?
お髭がダンディーな方ですね!

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/tea/

 


業務連絡  投稿者:管理人  投稿日: 3月14日(火)19時21分48秒 p0524-ip04osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

柳生さんへ

明日の朝ミラは、武部好伸さんがゲストですよ(^^)
お見逃しなく~!!→朝はミラクル

うーむ見てくれているかな、心配なのであっちにも書き込んでおこう……
とおもったら、掲示板、なくなっていたのね・・

 


「デス博士の島その他の物語」 ②  投稿者:管理人  投稿日: 3月12日(日)19時59分34秒 p0998-ip01osakakita.osaka.ocn.ne.jp

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「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも、獣人も」(46p)

この言葉は、物語という世界が、リニアな時の流れを持たない、すなわち始まりと終わりがある限られた時間しか持たない世界であること、しかも再読を繰り返すことで何度でも再現可能な、すなわち円環的な時間が支配する世界であること、つまり結果的に「無時間」的といってよくネバーランドそのものであることを示している。
上記のデス博士の言葉は、したがって「物語を終わらせたくない」少年を慰める言葉になりえているといえよう。

しかもなお、つづけてデス博士が言うことには、
「きみだってそうなんだ」(46p)

これはどういうことなのか。「デス博士の島」の物語を読む少年の世界もまた、いまひとつの別の物語の中の世界なのだろうか?
ここにおいて、卒然と思い出されるのが本篇の奇妙なタイトル、「デス博士の島その他の物語」であろう。
それでは我々は「デス博士の島」を読む少年の物語を、読んだのだろうかか。もちろんそうだ。我々はウルフの創作した少年の物語を読み終わったのだから。

ここで二人称が用いられる問題を考えないわけにはいかない。なぜ主人公の少年は「きみ」という第2人称で呼びかけられるのだろう。
一般に二人称小説の効果とはなんだろうか。おそらく主人公と、読んでいる読者のあいだの距離をゼロにしてしまう手法なのだ。
ふつう小説内から「きみ」と呼びかけられたら、それは読んでいる読者自身に呼びかけられたように感じるものではないだろうか。もしそうだとしたら、けっきょく「きみ」とは主人公の少年タックマン・バブコックであり、かつその主人公の行動を追いかけている読者自身をも指しているのだ。ここにおいてタックマンは読者自身と一体化する。

だとすれば、結局この「デス博士の島」の物語を読んでいるタックマンの物語を読んでいる我々読者もまた、同じく虚構であると……他ならぬ読者自身の世界(=現実世界)をも、デス博士は「物語」の世界つまりは虚構なんだよ、と密かに(あるいは意地悪く)教えているのではないだろうか。……

 


「デス博士の島その他の物語」  投稿者:管理人  投稿日: 3月11日(土)20時40分16秒 p0404-ip03osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用  編集済

 

 

「ナポリ」がヨーロッパ幻想映画ならば、さしづめ本篇は近年流行のファンタジー映画と(一応)いえるのではないだろうか。
「一応」と但し書きを入れたのは、他でもないそのファンタジー映画が、結局のところ既存のファンタジー映画を逆照射する批評性を帯びた「反(アンチ)ファンタジー」であるからなのだが、いずれにしても主人公の二人称「きみ」(タックマン・バブコック)は、ファンタジー映画の主人公の要件を全て具えた孤独で想像力豊かな、そうして
「家で誰にもかまってもらえない少年」(21p)である。

この物語は、一面ではそのような孤独な少年が、たまたま入手した「モロー博士の島」によく似た怪奇冒険小説を読んだことで、その想像力が現実と虚構の世界を混同してしまったものであるのかもしれない。
つまり少年は本の中から脱け出してきたデス博士やランサム船長と「現実」に出会い、たとえばレストランのバルコニーでデス博士と会話したりするわけだが、それは全くの少年の想像の産物ではなく、実際に現実に(見知らぬ)誰かと会話していたのかもしれない。それが証拠に、メイおばさんは少年にたずねる。
「あなた、いま誰と話していたの?」(32p)と。
中井英夫「虚無への供物」は、現実に起こった事件が実はまったく別の意味を担っていたという反現実・反世界をきわめて精緻に構築することで我々を驚かせたが、上のエピソードは同じ手法なのではないだろうか。

一方、仮装パーティではラリッた娘が近づいてきた少年とタラーと船長を目にとめ、
「あなたたちを本物だと思っていい?」(42p)と聞く。少年が振り返ると二人はもう存在しない。つまり娘は架空の人物を現認し、かつ忽然と消えたのを目撃したからこそ、「あなたたちを本物だと思っていい?」と聞きなおしたのかもしれない。だとすれば作中人物は現実に存在していたということになる。

さりとて母親と女王タラー、ブラック医師とデス博士は明らかに対応関係があり、少年の世界解釈が本の作中人物によって想像的に再構築されている面も無視できず、本篇の一筋縄ではいかない複雑性が読み取れる。

そのような多元解釈を許容したまま、物語は母親の薬物中毒を明らかにし、主人公は施設へ送られることになる。現実の、パーティ直後の母親をめぐる騒動(ブラック医師が母親がベッドに倒れているのを発見したのだろうか?)と本の世界でのデス博士とタラー(&船長)の抗争が渾然となった世界で、少年はもう(デス博士が死に、ランサム船長が去っていくに決まっている)続きを読みたくないとデス博士に訴える。つまり少年は物語を終わらせたくないのだ。この場面はピーターパンが無時間的なネバーランドにとどまり永遠の少年のままでいるか、時間の流れる現実世界へ立ち還ってふたたび成長を開始するかという二者択一を思い起こさせる。

ところがデス博士はこう言う。
「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも、獣人も」(46p)
さらにデス博士が言う。
「きみだってそうなんだ」(46p)
これはどういうことなのか。「デス博士の島」の物語を読む少年の世界もまた、いまひとつの別の物語の中の世界なのだろうか?
ここにおいて、卒然と思い出されるのが本篇の奇妙なタイトル、「デス博士の島その他の物語」であろう。真相やいかに。

 


SFJapan  投稿者:管理人  投稿日: 3月11日(土)01時00分11秒 p0526-ip04osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

おお、その状況は(下記の本によれば)イギリスでも同じだったみたいですね(>挿絵ではなく挿文)。
どうもふたつの連載が互いにリンクしつつ進行していくのかな、まあ根本テーマが同じだから当然ですが、日本からフランス、昭和から19世紀と時空的にも拡がって、最終的には壮大なものになりそうな予感。いずれにしても楽しみです(^^)。

 


真央に萌え  投稿者:大橋  投稿日: 3月10日(金)21時37分58秒 219x123x11x254.ap219.ftth.ucom.ne.jp

  引用

 

 

SFJapan〉の方はジュール・ヴェルヌについて書いています。そこでも書いたのですが、19世紀に印刷技術が進歩し、文字だけでなく挿絵も印刷できるようになる訳ですね。だからヴェルヌの挿絵本が出来た。それはとてもよく売れた。だからしばしヴェルヌは「絵がすでに出来ているから」という理由で、原稿を書き直しすることもあったということです。
詳しくは〈SFJapan〉を読んでね(宣伝かい!)。

 


挿絵と旅する男  投稿者:管理人  投稿日: 3月10日(金)19時18分40秒 p0526-ip04osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

大橋さん

(手塚)マンガの台頭が絵物語(挿絵作家)の未来を奪ったというのは、卓見といいますか、言われて膝を打つといいますか、その業界では常識なのかもしれませんが、わたし的には眼からウロコでした。
そういう意味で、「遅れてきた挿絵作家」という観点に反応したわけです。

いま目の前に、
清水一嘉『挿絵画家の時代』(大修館書店、01)という本があるのですが、これによると、挿絵はディケンズの小説に付けられたのがその初出だそうで、19世紀ヴィクトリア朝英国は「小説の時代」だったと同時に、「挿絵の時代」でもあった。ただし絵柄は変遷しディケンズ当初の戯画的・風刺絵的な絵柄は次第にラファエル前派の影響のもと写実的な絵柄に変わって行くようです。

その流れはずっと続いて戦後日本にも至ったわけですが、英国と日本のあいだには、フラクタルな対応関係が認められるように思われます。
すなわち、戦前の戯画的風刺絵的絵柄は、戦後写実的になったのでは? 小松崎や武部、あるいは今後連載で取り上げられるであろう挿絵画家たちの絵柄はまさにデッサン主義、写実的といえるもののように思います。
これは、その後の(マンガ・アニメの影響を受けた)イラストレーターたちの挿絵とは決定的に異なって、非・マンガ絵、非アニメ絵という特徴を持っているようです。

かかる特徴はヴィクトリア朝以来の連綿たる流れの上に、彼らが存するということであり、逆にいえば(日本では)彼らにおいてその命脈は尽きたといえるのかも。
その意味でも、「遅れてきた挿絵作家」というのはいい得て妙だと思いました。

以上は、ひょっとして大橋さんの考えとは異なるものかもしれませんが、上のようなことを私に考えさせる力が、貴コラムにはあったというわけですから、それはそれで貴コラムの素晴らしい意義だと思います。

武部さんの項で一体何を書かれたのか、今から楽しみです(^^ゞ

 


トゥーランドットの奇跡  投稿者:大橋  投稿日: 3月10日(金)07時30分26秒 219x123x11x254.ap219.ftth.ucom.ne.jp

  引用

 

 

> 遅れてきた挿絵作家という観点が面白かった。

管理人さんがそこに引っかかるとは、実は驚きです。私としてはあまり意識せずに書いたことなんで。
だから、武部先生ではそこんところを意識して書いてみました。
鋭い論客の管理人さんにどう受け止めてもらえるのか、楽しみのような怖いような。

 


『アイルランドの柩』  投稿者:管理人  投稿日: 3月 9日(木)22時09分47秒 p0839-ip04osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用  編集済

 

 

エリン・ハート『アイルランドの柩』宇丹貴代実訳(ランダムハウス講談社文庫、06)チャチャヤン気分に掲載しました。
アイルランド版横溝正史(ロマンス小説風味)でした。拾い物(^^;

ということで、愈々『デス博士……』に着手の予定。

 


Re:朝ミラ情報  投稿者:管理人  投稿日: 3月 8日(水)20時33分25秒 p0709-ip04osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

堀さん

ご来信ありがとうございました。
すみません、今朝はちょうど堀さんが中山一江さんのお話を始められたところで、悪夢のクレーム電話がケータイに架かってきて、てんやわんやになり結局聴くこと能わずでした。申し訳ありませんでした。

>例の○○出版
といいますと、KD出版の話題だったんでしょうか。ああ、それは聴きたかったです、残念(ーー;

堀さんのブログの中山さんの記事にリンクされていたここを、今も見直していたんですけど、私自身「本を作る」出版するということは、ある意味、崇高な行為・事業であるというロマンを持っておりますので、(まっとうな営利は当然追求するべきですが)リンク先のようなことをするあくどい「出版屋」は、知識のないものを食い物にする点で、最近のリフォーム詐欺屋と同類項ではないかとさえ思います。

そういえば、堀さんもよくご存知の小説講座に以前、2、3年前にお邪魔した時、ある生徒さんがどこかの小説コンテストに佳作か何かで入選して、それはいいのですが、ところがその主催者から入選作を纏めたアンソロジーを出すけど参加しないか、ついてはこれこれの費用を負担して下さい、という連絡が来たことを報告&相談されているところに遭遇したことがありました。その事例を聞いた他の生徒さんからも、我も我もと申告があり、あ、最近は小説家志望者を食い物にするためのコンテストがあるんや、とびっくりしたことを思い出しました。まさにリンク先の文言そのものですね。

>ぼくよりもかんべさんの方が攻撃的な印象でした
いや~、それはぜひ聴きたかったです! たぶんかんべさんも私のように感じられたんではないでしょうか(^^;

いずれにしましても、このギスギスした世の中、出版という文化事業くらいは「性善説」が通用する世界であってほしいと思います。

 


>朝ミラ情報  投稿者:堀 晃  投稿日: 3月 8日(水)18時37分19秒 k169147.ppp.asahi-net.or.jp

  引用

 

 

本日のテーマは「自費出版」でした。
ぼくは「趣味としての本作り」くらいに思っていたのですが、
普通の出版でもなく自費出版でもない、例の○○出版が話題になって、
意外にも、ぼくよりもかんべさんの方が攻撃的な印象でした。

 


朝ミラ情報  投稿者:管理人  投稿日: 3月 7日(火)22時06分44秒 p0850-ip02osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

明日(3/8水曜)の朝ミラに、堀晃さんが出演されるようです。→朝はミラクル
たぶん7時40分くらいからだと思います。お聞き逃しなく!

 


ランダムハウス文庫  投稿者:管理人  投稿日: 3月 6日(月)23時15分24秒 p0366-ip01osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

エリン・ハート『アイルランドの柩』(ランダムハウス講談社文庫、06)に着手しました(こんな文庫があったなんて全然知らなかった)。
180p(3分の1)ほど。
通貨のユーロが出てくる小説を読んだのははじめて。しかしアイルランドはユーロなのにイギリスはまだポンドなんですね。
作者は女性で本篇が処女長篇らしい。
物語は、ようやくこれから回転しはじめるところなので、なんともいえませんが、この作家、なんとなくハーレクインロマンスのような恋愛小説出身、もしくはそのような素養の持ち主のような気がします。
そういう恋愛小説的骨格に、アイルランド特有の風景・雰囲気が張り付けられているような印象で、日本でいえばやや重いトラベルミステリーといった感じか。

 


彷書月刊より  投稿者:管理人  投稿日: 3月 6日(月)01時21分46秒 p0711-ip02osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用  編集済

 

 

安藤礼二「鴻巣玄次の犯罪――『虚無への供物』に封印された最後の秘密」を読んだ。
鴻巣玄次の殺人も、老人ホーム聖母の園火災事件などと同様、現実にあったことだったんですね!
「虚無」はチャチャヤン気分にも書いたように、現実にあった事件(事実)を焦点として、その向こう側に反転した反世界を定立させているのですが、本稿によると、
鴻巣玄次の事件だけが、重要な点で「事実」と大きな食い違いをみせているのだという。つまり作者による変更がなされているわけで、本稿においてその改変の理由が解釈・解明されているのです。あっと驚かされます。が十分に納得できるもので、なるほどそうだったのかと思わず膝を叩いてしまいました。作者が意図的に仕掛けたものであることが了解できます。「虚無」既読者は必見ではないでしょうか。
おそらく中井英夫の小説作法はジーン・ウルフのそれと同じなのです。あゝ中井が「ケルベロス……」をもし読んでいたら、と考えないではいられません。一体どんな風に評価したでしょうね。

 


Re:まあまあ  投稿者:管理人  投稿日: 3月 5日(日)20時31分22秒 p0165-ip02osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

かんべさん
ご投稿ありがとうございました。

>今日はえらい攻撃的ですなあ
いや滅相もございません! それは言いがかりというもの(^^; 私は常々かんべさんの「何でも理屈をつけなければ気がすまない」ようなところが大好きでありまして、ラジオもHPも、いつも楽しませてもらっておりますですよ(汗、汗)

今朝は(今朝も?)布団の中で別ミラを聞いておりました。終わったのをしおにノソノソと起きだしパソコンの前に坐ったものですから、頭の中が「総かんべむさし」状態になっていたようで、いろいろ思いついたことを垂れ流してしまいました。またホームズの真似事をやりたくなるのはいつものことでして、ところが大概の場合どくとるマンボウ的頓珍漢な推理にしかならないんですけど、ともあれ失礼の段はどうかお許しをm(__)m

>おまけに何と、いや、これはまだ言えんこっちゃけど
おお、気になるご発言ですねえ(^^) 一体なんでしょうか、とても気になります。言えるようになったら是非教えてください!

聴取時間が限られており、しかも不定なのでメールとかできないのですが、「朝ミラ」いつも楽しみにしております。

さて昼過ぎから天王寺へ出ました。
まずアポロの喜久屋書店へ行ったら、SFMは平積みでしたが、彷書月刊が見当たらない。で、近くで整理していた店員(男子、30代から40代)に尋ねました。ところがこの店員彷書月刊を知らないのであった。「ほう?」などと言うので、「ほうは彷徨うの彷」と教えたら「ああ」とかいって売り場を探し始めた。「ないですね」「売り切れたんですか?」「ええ」といって、また整理しに戻っていった。何だその態度は、とムカついたので(元々店員を長くしていたので態度の悪い店員に対してはとても厳しくみてしまいます)、SFMも売り場に戻してユーゴー書店に移動。無事購入できました(^^;

とりあえず――
SFMは大橋博之さんの新連載
「SF挿絵画家の系譜」の第一回、「僕らの夢、僕らの未来◎小松崎茂」を、彷書月刊は本多正一さんのインタビュー「三人のあいだに 堂本正樹さんに聞く」を読みました。

前者は、遅れてきた挿絵作家という観点が面白かった。私なんかは同類項としか認識していなかったけど、新興のマンガと競合し敗れたという一面は確かにありますね。挿絵画家としては武部本一郎よりもはるかにデッサン力に優れていたと思います。その武部本一郎は次回のようですね。

後者については、あまり前知識がないのですが、表題の三人とは作家の三島と編集者の中井とを繋ぐ読者の堂本の三人の謂。件の「愛の処刑」のナマ原稿の書写とは別のノートが今回発見されたわけですが、なぜわざわざ書き写させ中井の許に渡された写し原稿とは別の、三島真筆のノートが中井のところにあったのかは、謎のままですね。
三島に中井、澁澤、乱歩、塚本邦雄ら、「アドニス」につどった錚々たるメンバーですが、それぞれ嗜好が違っていたと言うのは面白い。同性愛とひと言で括っても、その内実はいろいろなんですね。

 


まあまあ  投稿者:かんべむさし  投稿日: 3月 5日(日)14時51分18秒 k170181.ppp.asahi-net.or.jp

  引用

 

 

えびす問題といい、小説構成問題といい、何やしらん、今日はえらい攻撃的ですなあ。
録音問題。そら、録音ですがな。日曜も早朝出勤したら、わたしゃ死にます。
いまも、産経のランダム案内を書いたところで、このあと、明日の用意なんやから。
おまけに何と、いや、これはまだ言えんこっちゃけど、いやまあ、実にどうも。

 


彷書月刊と別ミラ  投稿者:管理人  投稿日: 3月 5日(日)10時32分48秒 p0122-ip01osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用  編集済

 

 

本多さん
お知らせありがとうございました。
わたし的には、安藤礼二「鴻巣玄次の犯罪――『虚無への供物』に封印された最後の秘密」に興味が引かれますねえ。
SFMと一緒に購入してこようと思います。
また何かありましたらお知らせいただきたく思います。よろしくお願いします!

かんべむさしさんの玉石混淆・ふりーめもの頭の写真が交換されていて、関西では「戎」と記されるえびすが広島では「胡」と記されることから、お話が展開するのですが、しかしその伝でいけば「戎」も、国家ではありませんが南蛮北狄西戎東夷というように、西域(~シルクロード)地方の民族総称ですから(犬戎というのは民族名なのかな国名なのかな)、関西にも「鉤鼻に鋭い眼という人」が目だっていなければなりません。
しかしながら関西顔といえば、私は田辺聖子さんや笠置シヅ子さんの顔が浮かんでくるので、かんべさんの説は俄かには受け入れられませんですなあ(^^;

なお、本文の「社交ダンス」の項で、社交ダンスの「選択の連続による構成」が小説に応用できるのではないかというのは、できたとしてもそれではいわゆる「フォーミュラ・フィクション」にしかならないのではないでしょうか?
たしか大塚英志が同様の方法論を主張していたはずで、ただし彼の主張は、そうやってできたフォーミュラフィクションにさえ、今の「文学」は敵わないだろうというルサンチマンめいたコンプレックスが含意された、かなり折れ曲がった主張ではありましたが。

それはさておき、今日の別ミラは上記の社交ダンスの先生へのインタビューでありまして、つまりインタビューそのものよりも、それに対する感想が時系列的に先に発表されたわけで、別ミラが録音であったことが図らずも露呈されたと言えましょう(^^;
これはかんべさんのアリバイミスでありました(>なんでや!)
いやまあ薄々は感じてはいたのですが、でも録音がいつ行われているのかは不明だったわけで、これで録音が金曜日に(おそらく朝ミラ終了後に)行われるところまで確定できたと言えましょう。ちょっとすっきりしました。

 


『彷書月刊/アドニスの杯』  投稿者:本多正一  投稿日: 3月 5日(日)01時04分40秒 p1072-ipad64marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp

  引用

 

 

 ご無沙汰です。『彷書月刊/アドニスの杯』は以下の陣容です。どうぞよろしくお願いいたします。

  ・ 堂本正樹  インタビュー「三人のあいだに」(聞き手・本多正一)
 ・ 伏見憲明  「『アドニス』探究」
 ・ 安藤礼二  「鴻巣玄次の犯罪――『虚無への供物』に封印された最後の秘密」
 ・ 伊藤文学  「『アドニス』は『薔薇族』の原点だ――同性愛文学に思うこと」
 ・ 高原英理  「遠い記憶として」
 ・ 七面堂   「『アドニス』周辺の雑誌たち」
 ・ 村上博美  「『アドニス』主要記事解題」

http://www3.tky.3web.ne.jp/~honnoumi/

 


Re:SFMのエレジー  投稿者:管理人  投稿日: 3月 4日(土)16時42分15秒 p0878-ip03osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

大橋さん

>「売り切れた」
そうか、その可能性があったか!
SFMの話となると、どうもネガティブな考えしか出てこないようです、失礼しました(^^;
でも3月号が残っているということは……あ、またネガティブになってる

仕方がないからネットで購入することにします。それとも明日久しぶりに大阪へ出てみようかな。

 


SFMのエレジー  投稿者:大橋  投稿日: 3月 4日(土)10時24分5秒 219x123x11x254.ap219.ftth.ucom.ne.jp

  引用

 

 

「売り切れた」という解釈はないわけですね。
と、ひねりも何もない、普通の突っ込みを入れてみる。

 


蜘蛛はチョコレート味?  投稿者:管理人  投稿日: 3月 3日(金)20時53分49秒 p0068-ip02osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

陸自の昆虫レシピ→http://www.zakzak.co.jp/top/2006_03/t2006030201.html

 


SFMのエレジー  投稿者:管理人  投稿日: 3月 3日(金)20時28分9秒 p0068-ip02osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

近所の書店にSFMが入荷し始めたことは以前に書きました。わが町を中心に半径10キロの円内に唯一のSFM常備店ができたわけです。
で、今日「普通の3冊分のボリュームと値段」で巷間話題の4月号を買いに行ったわけです。

――置いてなかった!

HMMは4月号が並んでいるのに……ですよ。
ただし3月号は2冊ありました(1冊売れたようです)。

これはどう解釈したらよいのでしょうか?
①田舎なのでまだ入荷してない? しかし今日はもう3日です。
「普通の3冊分のボリュームと値段」なので売れないと店側が判断して入荷させなかった?
③刷り部数が極端に少ないので、田舎にまで回ってこなかった?

うーむ。

 


「愛の処刑」は三島の墓碑銘  投稿者:管理人  投稿日: 3月 2日(木)21時51分5秒 p0163-ip04osakakita.osaka.ocn.ne.jp

  引用

 

 

読売新聞の今日(3/2)の夕刊に、本多正一さんが標記のタイトルで三島由紀夫と中井英夫について書いておられます。
真作かどうか長らく議論の対象だった「愛の処刑」の自筆原稿が、最近中井英夫の筐底から発見されたということは、ニュースかなにかで聞き及んでいたのですが、どうやら本多さんが発見されたようですね。

この事実は、本多さんの記事にあるとおり三島と中井の密接な信頼関係を伺わせるものだと思いますが、それにしてもどういう経緯で中井の許に渡ったのか、詳しく知りたいものです。まあ興味本位ですけど(^^;。

『彷書月刊』の最新刊が、三島と中井が加盟していた秘密結社(>嘘)「アドニス」の特集らしく、本多さんも寄稿されているようです。それを読んだら少しは判るのか知らん。

 


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