ヘリコニア談話室ログ(2006年4月)

TATARI  投稿者:管理人  投稿日: 429()013421

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DVD「TATARI」(99)を観ました。原題は゛House on Haunted Hill"。ベタなお化け屋敷映画であり、邦題はほとんど内容と無関係。
お化け屋敷映画と書いたが、粘着的なおどろおどろしさは乏しく、冒頭ジェットコースターのシーンがあるのだが、そのシーンが図らずも(というか周到にというべきか)象徴しているように、ジェットコースターでお化け屋敷内を駆け抜けるような印象。その意味ではゴシック的というよりはショッカーという感じかも。
キャラ設定がなかなかユニークで、パーティのホストであるいがみ合う夫婦が実に非現実感を帯びていて本篇の荒唐無稽さをある意味納得させてしまう。最初はこの二人のコンゲームのような感じで進んでいき、どう着地するか期待を持ったが、後半「お化け」が実体的に描かれてからはごくふつうの特撮ホラーになってしまったのは惜しかった。

 


「イベント・ホライズン」  投稿者:管理人  投稿日: 427()000254

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DVD「イベント・ホライズン」(97)を観ました。
「ゴースト・シップ」は幽霊船もので、船そのものを館に見立てれば館ものでもあったわけですが、その伝でいけば、この映画は幽霊宇宙船ものであり、宇宙船を館に見立てた館ものといえましょう。わたし的にはこの設定だけで十分満足。

最新鋭宇宙船イベント・ホライズンは初のワープ航法船で、試験飛行に飛び立ち行方不明になる。7年後海王星近傍で再発見される。地球から急遽イベント・ホライズンのワープ航法の開発責任者を加えた調査隊が海王星へと赴く。

で、このワープ船、空間を折り曲げてプロキシマ星へ向かうはずが、「地獄(?)」へ行ってしまい、地獄の生気(?)を浴びて帰還してきたものだった!

――これって、田中啓文と同じアイデアやん(笑)

以上の設定により、海王星近傍にお化け屋敷が完成する。イベント・ホライズンの外観が十字架型であるのも気が効いているというかご愛嬌だが、かかる容れ物に盛られたストーリーは、毎度おなじみのB級ホラーのそれで、最初の科学的というかSF的設定は完全に無視されてしまうのであった(^^;

私の場合、設定がオッケーならば、そこそこのストーリーで十分なので、この映画も当然満足できました。まあこんなもんでしょう。

 


しかし勝ったからといって  投稿者:管理人  投稿日: 426()211724

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何でも良しとする訳にはいきません。
今日の試合、濱中は5打席中3打席が回の先頭打者でした(ちなみに5打数3安打)。これだけで識者は私が何をいいたいか察知されたと思いますが、もうひとつデータをあげますと、濱中10本塁打中7本がソロHRなのです。もったいないと思いませんか?

かたや、5番バッターの今日は、当然濱中の裏返しで、5打席中3打席がスリーアウト目の打撃結果(5打数0安打)しかも、この3打席とも走者をおいての凡退でした。

当の5番バッターがシーズン通してこんな成績であるはずがありませんが、少なくとも現状では5番と6番を入れ替える方が理に適っていると思いませんか?

私はやはり成績が打順に反映されなければ、選手もやりがいがないと思います。それどころかモチベーション低下の原因ともなりかねないのではないか。一旦定位置を取ればあとは安泰というのでは、せっかく星野監督が阪神に導入した競争原理はいつのまにか元の木阿弥、阪神の伝統の風土に戻ってしまったというほかありません。

同様の不満が今日の投手交代で、なぜ金沢を使ってあげないのか? 能見と金沢を現時点で比べたら無失点継続中の金沢のほうが断然貢献しているわけで、案の定能見は(試合には影響なかったとはいえ)HRを浴びた。
私は岡田は決め付けが甚だしすぎると思います。濱中は性格的に気にしてない(逆に6番に安住しているかも。5番に上がれば緊張するのかも。それも問題)かも知れませんが、金沢は絶対内心面白くないはずです。

適材適所はシーズンを通して不動のものであるはずがないのであって、複数のいろんなサイクルにおいて異なった適材適所が存在するのです。それを上手に救い上げてオーダーに反映させるのが監督の手腕だと思うのです。

 


勝ったから  投稿者:管理人  投稿日: 423()221259

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まあいいとしましょう。
でもやはり残塁12、併殺2ですから無策は依然として解消されてませんね。
要は内海、川上、黒田といった投手成績5位以内のピッチャーが出てきたときなんですよね。こういうピッチャーには無策では勝てませんから。

 


わ!  投稿者:管理人  投稿日: 423()18368

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今岡ホームラン打った!?

 


岡田=ヒッキー説  投稿者:管理人  投稿日: 423()153148

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さてみなさん、ついに阪神は首位に7ゲーム離され、とうとう4位のヤクルトに並ばれてしまいました。
これはチームの個人成績を見ると、信じがたいことなんです。
たとえば打率は、巨人に次いで2位。本塁打は、巨人横浜の各22本に対して、1本劣るだけの21本で3位。防御率にいたっては、唯一2点台キープの1位なんです。

堂々たる成績です。これでなぜにヤクルトと同率の3位なんでしょうか。信じられません。しかも、ヤクルトの得失点差はマイナス12点、阪神はプラス19点なんですよ!

以上から判るように、選手の総合力は巨人には劣るとはいえ、中日よりはるかに上回っています。
なのに、現状の順位というのは、これはもう采配の差であるとしかいいようがありません。

それは盗塁数を見るとよく判ります。巨人18に対して阪神4で、うち3は赤星。
赤星はノーサインで走りますし、もうひとつのは藤本でこれも完全ノーマークで陥れたんだったはず。つまりサインで走った(成功した)ことはまだ一度もないのです。

このように阪神野球は選手が主体で戦うのであって、監督の采配の関与する余地は投手交代以外にないというチームなのですね。監督が試合に殆どコミットしないというまことに珍しいチームが阪神タイガースなんです。

今、今岡の調子が最低です。5番で打線が切れるのを、一体何度見てきたことでしょう。もし5番と6番が入れ替わっていたら、と思った人は相当おられるのではないでしょうか。
ところが岡田監督は5番を変える気配がありません。これで今岡が復活すれば(もちろんいずれ復活するでしょう)、監督の大人采配としてもてはやされること請け合い。というわけで、これは磐石の信頼感のなせるものなんでしょうか。

私は違うと思います。現行のままにしておけば、敗因は選手にあります。ところが、選手起用を変更して負けたら、それは監督が責任を問われるわけです。いつか必ず復活するんだから、そのままにしておこう、というのが監督の真意なのでは。

でもそれは監督としては手抜き。今岡復活までに10敗するんであれば、それを1敗でも少なくなるよう調整するのが監督の仕事のはず。
そういう風に観察していますと、岡田の言動は、ある意味「ひきこもり」のそれによく似ていることに気づかざるを得ません。自分の行動に自信がないものだから、それならいっそ動かない方がまし。それなら傷つくこともないし、というアレです。

私はひきこもりでは監督の仕事はまっとうできないと考えます。大体去年お目付け役として送り込まれたはずの島野を二軍監督に祭り上げて閣僚から外してしまい、内閣をイエスマンで固めてしまった(全員岡田より年下)のも問題ですよね。

というわけで(どういうわけだ)、今日の第3戦は頑張ってほしいですねえ(^^)


「沖ノ鳥島爆破指令」  投稿者:管理人  投稿日: 422()22403

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大石英司『沖ノ鳥島爆破指令』(Cノベルズ、05)読了。

また何をトチ狂って、という感じですが、以前から興味があった沖ノ鳥島の具体的な景観を知るには丁度よいのではと思って、読んでみました。

ストーリーとしては単発の話ですが、陸自特殊部隊のミッションを描くシリーズの一環みたい。
感想は、まあ映画のシナリオを読んだという感じ。面白かったけど、たぶん映画で見たほうが数段面白いに違いない。私は山田正紀の冒険SFを「字で描いた映画」だと認識しているのですが、本書もそのようなものかというと違う。「字で描いた映画」には達しておらずやはり「映画のシナリオ」というのがふさわしい印象なのでした。

昔、門田泰明の黒豹シリーズの1冊を読んだ時にも感じた(ことを思い出した)のでしたが、作中人物から任務を取り去ると殆ど何も残らない。あるいは任務とか役割がヒトの皮を被っているという感じでしょうか。

本来人間は「泣きもせで泣く振りをするを見て泣いて泣かぬ顔する芝居見る人」という歌が示すような、一見非合理な複雑な反応を示す動物であるわけです。
が、本書の人物にそういう非合理を呑み込んだ厚みはない。目的本位で葛藤がないから、一見すがすがしい、スポーツマン的というか軍人的というか、そういう感じの人間像に見える。

しかしそれは単に人間としての厚みがないということの裏返しなんだと思います。小説を読みなれてない人には丁度よいのかも知れませんが、わたし的には頼りなくて物足りない。映画ならばこういうキャラクターでオッケーなんですが、逆にいえば小説なんだからこそ、映画では表現しにくい人間の複雑さを描かなければ小説にする意味がない。

まあ、もともとの目的であった沖ノ鳥島の地理的状況や景観的イメージは把握できたので、良しとしましょう。

 


『七時間目の占い入門』  投稿者:管理人  投稿日: 422()153542

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チャチャヤン気分に掲載しました。

 


「ゴースト・シップ」  投稿者:管理人  投稿日: 422()002144

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DVD「ゴースト・シップ」(02)を見ました。読んで字のごとく、まんま幽霊船ものなんですが、アプローチが山田正紀的なので面白かった。
私は、「これでもか」という感じの(とりわけ人体損壊的な)しつこいホラーは肌に合わないので、これくらいの軽めの方が好み。
そういえばよく似たタイトルの「ゴースト・オーシャン」てのを以前見たのでしたが、それよりストーリーは破綻しておらず、いちおう筋が通っている。唐突なラストの説明を受け入れるならばですが(わたし的にはオッケー)。
ただし設定に着目するならば、まんま幽霊船の本篇よりも、海底油田基地がお化け屋敷化してしまう「ゴースト・オーシャン」の設定のほうが捻ってある分ユニーク。
まあホラー映画といえども設定に感応してしまうところが、いかにもわれながらSF者ですなあ。

 


トレーンが泣いてるかも  投稿者:管理人  投稿日: 421()201749

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アーチー・シェップの「フレンチ・バラッズ」(原題デジャ・ヴュ)という01年のアルバムを聴いている。シャンソンの名曲を集めているのですが、うーむ、という感じですな。
昔のシェップを期待すると肩透かしを食います。初聴では不覚にも眠りに誘い込まれてしまいました。
再聴では、個々の音を聞き取る余裕がでてきて、随所にシェップらしい音を感じることができたのですが、バックにメロディが残りすぎで、それに引っ張られてかシェップのインプロヴィゼーションが発展していかないのでフラストレーションが……。
クレジットを見ると、プロデュースにTetsuo HaraとかAEにEiji Takasugiとか日本人らしき名前があり、あるいは日本御得意の企画品かも(ーー;

中川裕『アイヌの物語世界』(平凡社ライブラリー、97)読了。
や、これは勉強になった。アイヌの世界観のすばらしさ、思考の合理性にあらためて感嘆しないではいられません。
彼らを滅ぼした和人に災いあれ、と呪うまでもなく、アイヌとは正反対な地球と自然を収奪しつくす世界観に生きる我々に未来はないでしょう。自業自得なり。

 


また取りこぼす  投稿者:管理人  投稿日: 419()215715

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以前、タイガースは勝てば選手の力、負ければ監督の無策と書きましたが、今日の試合はまさにそのとおりの試合となりました。サヨナラ負けは久保田の責任のように見えますが、根本的にチャンスで取れる点を取っていないことが敗因。ランナーが出ても漫然と打たすだけでは川上を崩せるはずがない。向うは大エースなんだから選手の力だけではがっぷり四つに組んだまま身動き取れません。その状態に流れを呼び寄せるのが監督の采配でありましょう。盗塁、ヒットエンドランなど、何か仕掛けていかなければ……。
その意味で岡田は本当に策がないんですよね。勝てば大人野球に見えますが、実は試合を転がしていく手数(ノウハウ)を持っていないだけ。たぶんベンチで何かせなあかんとは感じているんだろうけど、何をしたらいいのか咄嗟に思いつかないんでしょう。そうこうしているうちに、ていうか何もしないでいるうちに、試合は勝手に進んでいってしまっているのでしょうね。
私も経験がありますが、こういう上司を持った部下は本当に可哀想です。

 


『ネオ共産主義論』  投稿者:管理人  投稿日: 418()231938

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的場昭弘『ネオ共産主義論』(光文社新書、06)読了。
これは面白かった。
昨日本屋に寄ったら出ていて、同じく光文社新書で去年だったか一昨年だったか出た『マルクスだったらこう考える』が割と面白かったので思わず買ってしまった。
この『マルクスだったらこう考える』には共産制を受け入れるために捨てなければいけない「(資本主義的)欲望」が明確に列挙されていて、それらは個人化し、消費文化にどっぷり浸かってしまった日本人には殆ど受け入れられないよなと、思わず笑ってしまったのでしたが、本書でも著者は、あっけらかんと(?)欲望の制限、忍耐、知性を共産主義の根源的契機として挙げており、たとえば私が稼いだ金のうち自分の生活する分を除いた「蓄積」は、今の社会では当然私自身の蓄積ですが、その「当然」を平然と否定し、その蓄積は「みんな」で使うための蓄積であると、まさに「当然」のように思い、実践する「私」でなければならないとします。
かくのごとく今の我々の「飼い慣らされた」思考には、「目からウロコ」か、はたまた「何を世迷いごとを」かは判りませんが、とにかく突き刺さってくることを、何も隠さずに書いているところがとても新鮮。
また共産主義を旧約聖書のユダヤ人との類比において説明している部分も斬新で面白い。

共産主義と聞いてスターリンとかキムジョンイルしか思い浮かばない人はもとより、現代のグローバル資本主義をあまりに当然のものとして受け入れ、動物における空気、魚における水のように透明化(いわばプチブル化)してしまっている人びとに読んでほしい本です。

 


いわんこっちゃない  投稿者:管理人  投稿日: 417()20473

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一昨日の畸人郷で、本が入ったままの本屋のビニール袋が部屋のあちこちに放置されていることについて、昔はこんなことはなかったなあと、何故こんなことになるんだろうと、愚痴をこぼしあったのでした。

そんな話題はひと晩寝て忘れていたんですが、無意識には残っていたのでしょうか、何をトチ狂ったか、昨日突如机や炬燵や畳の上の放置本をダンボール箱に詰め始めるという、なんともはや暴挙というしかない振る舞いに、発作的に及んでしまったのでありました。

もっとも、ただ片っ端から詰めていくだけならば簡単なのです。しかしながら私は変に整理好きなところがありまして、同じ作家は同じ箱に詰めなければ気がすみません。なので新たに詰め込むためには、何冊か抜いては別の箱に移し、その結果はみ出した何冊かをまた別の箱に詰め替えるという、気の遠くなるような作業がついてくるのです。そういう次第で、結局嫌気が差して中途半端な整理しか出来なかったのでした。整理好きな割には妥協も早いのです。

まあそれは、端から予想されたことではありましたからいいのですが、問題はその後――なのでした。
その後――つまり今日、朝起きて私は、何気なく左手を上げた。すると、哀号。左わき腹から腰にかけて、ビリッと電気が走ったのでした。あちゃー、ちょっと上げただけなのに〜。ある角度になると、あまりの痛さに息が詰まるのであった。というわけでまた今日一日、不自然な姿勢で過ごさざるを得なくなってしまったのでありました。いわんこっちゃない!

的場昭弘『ネオ共産主義論』(光文社新書、06)に着手しました。

 


『怪盗ファントム&ダークネス EX-GP3  投稿者:管理人  投稿日: 416()235226

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一気読了。感想をチャチャヤン気分に掲載しました。

<追記>
ギャ! つい読み耽って眉村さんのラジオ聴くのすっかり忘れてしまってました(ーー;

 


『最後の夢の物語』  投稿者:管理人  投稿日: 416()20541

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ロード・ダンセイニ『最後の夢の物語』中野善夫・他訳(河出文庫、06)読了。
いや〜堪能しました。
典型的ダンセイニたる「五十一話集」以外は、比較的後期の作品が収められており、確かに初期のように世界の果てへ赴くことは少なくなり、、代わりに諧謔と哄笑が強まっている。が、それらをひっくるめて、本書はやはりダンセイニ以外の誰にも書けない独特の雰囲気に満ちています。
五十一話集は当然ながらタルホっぽい(逆か)のですが、後期の諸作は意外に星新一っぽく(これも逆か)、星新一のルーツのひとつなのではないかと思いました。感想は後日。

ひきつづき、藤野恵美「怪盗ファントム&ダークネス EX−GP3 」に着手の予定。

 


畸人郷例会  投稿者:管理人  投稿日: 416()12465

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昨夕は畸人郷。5年ぶりの会誌<Quizinkyo 58>を受け取る。
収録作品中の白眉は、野村恒彦「みすてりあす・こうべ(1)」で、従来「やまもと・のぎたろう」で定着している「山本禾太郎」の読みは、「やまもと・かたろう」ではないか、という野村さんの推理が、証拠を挙げて展開されています。昨夕直接ご本人のお話によれば、乱歩が「探偵小説四十年」において、「のぎたろう」とルビを振ったのが、そもそもの誤伝の発端ではないかとのことでした。

また、昭和22年11月12日の「新港夕刊」に掲載された乱歩・耶止説夫(矢切止夫ですね)・西田政治・山本禾太郎他による「探てい小説放談会」が復刻されていて興味深い。

例によっての二次会は、今回若手のホープたちが1次会で帰ってしまいロートルのみの会となったせいか、読書における老眼の進行が如何に読書の妨げになっているかという話に(汗)
いや皆さん困ってはるんですなあ、私だけではなかったことが判って、いささか休心するのであった(^^ゞ

大阪市内は雨が上がっていたのに、最寄駅でおりて見ると、しっかりした雨ではないにしても小糠雨がびっしりと被っている。走って帰るもずぶぬれになったので、そのまま風呂にはいり、寝てしまいました。

 


掌篇朗読  投稿者:管理人  投稿日: 415()000926

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明日は書き込みできないかもしれませんので、忘れないよう書いておきます。

すでにホームページで告知しておりますが、
NHKラジオ第一放送で、日曜日(4/16)午後10時15分〜10時55分の「ラジオ文芸館」にて、眉村卓さんの日課掌篇が朗読されます(再放送)。
眉村さんは、基本的に「音読」を想定して文章を整えておられるので、耳で聞く印象は「黙読」するのとはまた異なった興趣があります。読んだ時とは違うのに驚かれるかもしれません。この違いは最初の放送のとき私もびっくりしたものです。その辺をぜひ聴き取っていただきたいと思います。
その意味で、眉村さんの前に朗読される阿刀田さんの文章は、基本的に「読む」オンリーな文章なので、黙読の印象と朗読を聞く時の印象がそれほどぶれません。比べてみたら面白いと思います。

 


Re:武部本一郎画伯のこと  投稿者:管理人  投稿日: 413()190647

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大橋さん

山本○嗣氏のコンテンツ拝見しました。
やはり20代の「漫画やアニメしかふだん目にせず、そこから間を飛ばして3DCGに行ってしまう」人びとには、武部絵は「変」に映るんですね。

>『面で物体を捉えて塗っていくスタイル』
なるほどと思いました。
そういわれてみれば、SFJの今号は、表紙絵にしろ口絵にしろ、絵の具と筆で描かれたものではありませんね。
たまたま手元にあるSFM154号の表紙絵は斎藤和明の宇宙画で、巻頭小説シーベリイ・クイン「道」のイラストは武部本一郎! 武部氏のは鉛筆画(ペン画?)です(これを見ると「動」の魅力であるというご指摘はたしかにそのとおりですね)。当然アミがけは一切使っていません。

この両誌を比べてみれば、イラストの表現技法自体が様変わりしていることにあらためて気づかざるを得ません。
それを前代、後代と分けるならば、「SF挿絵画家の系譜」で取り上げられるであろう画家は「前代」の技法の画家ということで括れるんでしょう。
加藤直之さんももちろん「前代」の画家ですよね。

で思い出しましたが、加藤さんの塗りは水彩的でぬっぺりしていると思いませんか? 油絵の原則である色を乗せていく手法を意図的に採用していないように思うのですが、もしイベントでお会いになるんでしたら、そのあたり聞いていただけると嬉しいです。

>キメポーズで描かれていない
というのも重要なご指摘ですね。というのも、近年のライトノベルがやっているのは(大塚英志も書いていたと思いますが)、結局のところ「決めポーズ」だと思うからで、その意味でも武部絵は現代では支持されにくいのではないかという感じがします。
ただ美女の顔は、50歳の今になっての感想ですが、ちょっと幼すぎる気がします。この幼さは今の世代にも受け入れられる要素かもしれませんが。

 


武部本一郎画伯のこと  投稿者:大橋  投稿日: 412()212726

  引用

 

 

毎度々、ありがとうございます。
若いアニメ絵ファンの感想という意味では、熱烈武部ファンの山本○嗣氏が
file:///C:/Documents%20and%20Settings/Okuma/My%20Documents/HP2/bbs?M=JU&JUR=http://www2.ttcn.ne.jp/~atsuji-ya/takebe.html
で書かれています。

SF挿絵画家の登場というのは、加藤直之氏からでしょう。それまでの挿絵画家は依頼されればなんでも描いたものです。
武部画伯の魅力は、今度、加藤直之さんとじっくり話し合う機会があるので、それまでにまとめないといけないんですが、〈SFマガジン〉で指摘した通り、「止まっていない」ことだと思うのです。全て物語の一場面を描いている。だから人物は全て正面を向いていない。正面を向いていても目線はずらしているんですよ。つまり、登場人物は読者を観ている訳ではないのです。
だから、キメポーズで描かれていない。自分自身、もう少し分析するので、また、改めて。
と、ヴェルヌといい、宿題が多くなった。

倍のページがあると月刊の締め切りも大変な訳で(汗)。

 


SF挿絵画家の系譜・武部本一郎  投稿者:管理人  投稿日: 412()201353

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SFマガジンの大橋博之さんの連載「SF挿絵画家の系譜」、第2回は武部本一郎。
武部本一郎も、アニメ絵全盛の昨今、かなりその存在感を薄れさせているように思います。今の若い人は、武部の描くような肉感的な美人画は受け付けないのでしょうか。若いアニメ絵ファンの感想を聞きたい気がします。
そういう意味においても、武部に限らず1970年代前後に活躍したSF挿絵画家をきっちり誌面に残そうとする本連載の意義は小さくありません。

立ち読みなので(>ごめん。今号は海外作品ゼロなのでとても購入する気になりませんでした)引用とかできないのですが、児童ものの挿絵でそこそこの地位を得ていたとはいえ、武部の本領は肉感的な美人画にあった。だからこそ「火星のプリンセス」は画家の資質と小説の傾向がピタッと嵌まった。東京創元新社との出会いが、武部にとってターニングポイントになったのは間違いなく、その後は水を得た魚のごとく「美人画」を描き続けた、とのこと。

以下、読んでいろいろ思ったこと――
私も「火星のプリンセス」のカバー画は傑作だと思います。何度も見返したものです(^^;。あと「金星の海賊」もお気に入りでした。
ただし今の観点から見たら、小松崎の方がずっとうまいと思います。武部は案外うまくないように思います。それは特に構図においてそうで、というか背景に魅力がないといえる(その点上記2点は背景と人物のバランスが大変いいようです)。

まあ素人の放言で聞き流していただきたいのですが、たしかに美人画にすぐれた挿絵画家ではありましたが、SF画家であったかどうか。
管見では、SF画とはある意味人物はどうでもよく(ベムはまた意味が違う)、背景の空間的な広がりが表現できているかどうかが肝となるように思います。その点で、武部の描く異世界はやや弱かったと思います。もっともそれは現時点の感想であり、若い頃はあの独特の肉感はやはり強烈でした(^^ゞ

SFシーン的には1965年にパッと現れて、1980年に亡くなるまで15年しか活躍できなかったわけで、連載の前回で大橋さんが明らかにした「マンガ」との戦いみたいなものは全く経験せず、すでにマンガの勝利が決してからのメジャー化でもあり、むしろマンガとは領地を分けて共存していたのでしょうか? 武部のマンガ観とか、その辺をもっと知りたかった。

わずか2頁の紙幅ですから、著者もそんなところまでとても書き込めないわけで、やはり最低でもこの倍の頁は必要ですよ>SFマガジンさま(^^;

 


本復未だし  投稿者:管理人  投稿日: 411()20026

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まだ完全には回復してなかったらしく、昨日はレコードを聴いているうちに眠ってしまいました。ぐっすりと寝たらしく、目が覚めたときは「や、朝まで寝てしもた」と一瞬思ったほど。実は12時過ぎだったのですが、それでも起き出す気力はなく、また布団で寝なおしてしまった。
今日は雨だったせいもあるでしょうが、仕事中も肌寒くて、午前中は暖房を付けていました。今年はいつまでも寒い気がします。

ダンセイニ『最後の夢の物語』に着手しました。

 


追記  投稿者:管理人  投稿日: 4 9()14038

  引用

 

 

下記「ジュヴナイルSFにおけるジュール・ヴェルヌ」に追記しました。結論がすこし変わっちゃったかも(^^;

 


「ジュヴナイルSFにおけるジュール・ヴェルヌ」  投稿者:管理人  投稿日: 4 9()121742

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大橋博之日本ジュヴナイルSF戦後出版史C少年SFの系譜>「ジュヴナイルSFにおけるジュール・ヴェルヌ」(SFJ2006spring)の感想文をチャチャヤン気分に掲載しました。

 


「眼閃の奇蹟」  投稿者:管理人  投稿日: 4 8()204550

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「眼閃の奇蹟」読了。
いま、二度目を読みおわったところなのだが、本篇は(本篇もまた)再読してはじめて、読了したといえる物語だ。

たとえば冒頭1ページ目の、

杖を脇に置き、膝をつく場所を手で探る。大丈夫そうだった。少し軟らかすぎるが、ガラスは落ちていない。そこでひざまずき、水の匂いを嗅いだ。新鮮な匂いで指にも冷たかったので、リトル・ティブは体を曲げて口をつけて水を啜り、顔や首の裏にふりかけた。(309p)

この部分、初めて読み始めた読者は、(当然小説世界がまだ見えていないから)何も引っかからずに読み過ごしてしまうだろう。しかしながらリトル・ティブの物語を、一度ラストまで付き合った読者は、改めてこの冒頭部分を読み返して、涙が噴き出すのを押さえられないはずだ。この物語では語られない前日譚がまざまざと見えてしまうからに他ならない。

上は、ウルフの小説が、リニアに読むのみではその魅力の半分も楽しんだことにならないことを示す。

本篇においても、「現実」は激しく忌避され、「夢の世界(本篇では「オズの魔法使」が援用される)こそまこと」という乱歩ばりのウルフの観念が明瞭に現れている。

貨物列車に無賃乗車したリトル・ティブとパーカーさんとニッティは鉄道公安官に発見されるも、鉄道公安官はお目こぼしをしてくれ、親切めいた言葉をかけて次の車両へ去る。しかしその瞬間、公安官は催涙弾をいとも無造作に三人に向けて発射する。

「あの女の人が投げたの?」
「そうだよ(……)あんなに親切に話していて、それから登っていったと思ったらこんなことをするんだから」(329p)


これがウルフの認識する「現実」なのだ。
その後すぐ、疲れきって発熱したティブは夢の世界で出遭った紅冠鳥にこういう。

「どこへも行きたくないよ――もう二度と。いつまでもここにいたいよ。この道を歩いていたい」
「そうなるとも、わが子よ」よ紅冠鳥は言った。鳥は翼で十字を切った。(330p)


語られない前日譚で、ティブスと両親は、幸せに暮らしていた昔の家から新しい家に引っ越している。それは父親の経済的困窮のせいらしく、同時にその頃ティブスも網膜を失ったらしい(理由省略)。
この未来世界では、網膜でアイデンティティを確認するため、網膜を失ったティブスは幽霊でしかなく政府からの給付が受けられない。それでも母親は自分の給付からティブスの食い扶持を捻出していたらしい。だが結局ティブスは家出せざる(逃げ出さざる)を得なくなった。このあたりのいきさつは判らないが、ティブスの両親に対する気持ちはアンビバレントなものだ。

別の夢の中で、ティブスは大女が箒でネズミを叩くのを繰り返すのを目撃する。それは母親だった。銅男はその箒がティブを叩き殺すぞと警告するのだが、

「じゃあ止めてよ」とリトル・ティブは言った。はたく間に走り抜けられるのは間違いなかったが、リトル・ティブは母親が可哀想だった。いつまでもネズミを叩きつづけて、いつまでたっても休めないなんて。(332p)

上のエピソードは、まさにティブが、母親が自分を殺すかもしれないと思いつつも、その母親をいとおしんでいる(後出の父親に対する態度も同様)。

本篇のモチーフはキリスト(救世主)生誕説話の再話でもある。
上述の催涙弾は不発化し、その時狂っていたパーカーさんは正気を取り戻す。足の悪かった少女はティブスが触れたとたん回復するし(336p)、山の上で、人びとはティブスが空中浮遊するのを目撃する(349p)。
あるいは後述の東方三賢人の説話。

目が見えないティブスにはニッティの外貌は認識の外なのだが(ラストで衝撃的に明かされる)、ヒントがある。

「へぇ、奥様」(333p)(338p)

と二度、ニッティは言うが、再読しなければ、この言葉を作者が用いた意味に気づくことはない。
またこれは、とりもなおさず、未来のアメリカ社会(に仮託された「現実」)に対する著者の認識をも表している。

「貧乏な女の人の家に行ったんだ」とニッティは言った。「お腹が空いてどうしようもないときは、そういうところへ行くのがいちばんだよ。お金持ちはこっちを怖がるんだ」(341p)

これもまた「現実」。

野営してフクロウの声を聞き、ティブスは新しい家の時計を思い出す。朝早く鳴るそのうるさい時計で父親は起きて仕事に出かける。昔の家にいるときは時計は必要なかった。(340p)
その後眠ったティブスが見た夢は語られていないが、目覚めた時ニッティがこう言う。

「昨日の晩、寝ている間に泣いたから、頬に筋ができてるよ」(342p)

彼が見た夢は何?

ひょんなことで、ヒンズー教とキリスト教の融合を目指す老人と知り合い、彼が主催する宗教劇に、ティブスは、クリシュナ役で出演することになる。クリシュナに絡むインドラ役の男が、なんと父親なのだった。父親はティブスを捕まえるために彼を追っていたのだ(理由省略)。ティブスを捕まえ、殺すことで、彼と妻は使い捨ての一群から、アメリカを動かしている側に引き上げてもらえるのだと、父は語る。また彼が取替え子だとほのめかすが、ティブスは信じない。

だが、ティブスはそんな父から積極的には逃げようともしないのだった。あわや殺されようとした時、ニッティが現れて事態は回避されるが、ティブスはニッティに父親が何しにやってきたかを知らせない。
この場面は、現実世界において、虐待されてもなお当のその母親を求め近寄っていく幼な子を連想しないではいられず、切ない。

一方、彼の夢想の中で、昔の家から新しい家への引越しは、三賢者による警告でヨセフとマリアに連れられてのエジプト行きに同視されているようだ。(382p)

それもまたアンビバレンツで、また一方で(父親に首を絞められながら?)こうも思う。

自分のなかで、いつまでもいつまでも、それはぼくの本当のお母さんじゃないし、ぼくの本当のお父さんじゃない、と叫ぶ声がした。ぼくの本当のお母さんとお父さんは、昔の家にいた時のお母さんとお父さんなんだ、と。本当のお母さんとお父さんはいつでも自分の胸にしまってある。(391p)

さてパーカーさんの工作(説明省略)は奏効し、パ−カーさんは復職し、おかげでティブスは盲学校へ編入されるを得るも、ふたたび父親が現れる。ティブスは逃げ出し、線路で足の治った女の子(の天使)ドロシー(!)と、そして他ならぬニッティと再開する。

「パーカーさんに仕事を取り戻してもらわなかったの?」
「たぶんパーカーさんはぼくのこと忘れちゃったんじゃないかな」
「それはよくないよ」
「(……)パーカーさんは白人なんだよ。白人の人が黒人に助けてもらったときは、ときどき、そのことを忘れたくなっちゃうことがあるんだ」(400p)


現実! 現実!

とはいえ、3人そろってスキップしながら去るラスト――私は(暗転)の文字を付加したい――はすばらしい。ティブスは救世主なのか? おそらくそうなのだろう。本篇の「現実」のあまりのやるせなさに、このままにしておくに忍びず、著者はティブス(救世主)という観念を小説世界に残したのではないか。傑作でした。

 


おかげさまで  投稿者:管理人  投稿日: 4 7()212151

  引用

 

 

昨日下の記事を書いてすぐ就寝、今朝起きたら全快していました。
やはり疲れだったようです。体力が落ちてるなあ。
体力といえば、腕の力も往年に比べたら半減しているような。今日も、昔だったら軽々と持ち上げられていたんだけどなあ、と思うことがありました。
まあ腕力も腹筋や背筋にサポートされての腕力ですから当然なんですが、もともと力自慢だった人間なので、すべてのプライドの源泉だったその力の衰弱を目の当たりにしますと、がっくり落ち込んでしまいます。
とりあえず、歩こう!

 


風邪か?  投稿者:管理人  投稿日: 4 6()223510

  引用

 

 

昨日は15時頃から急に悪寒がしてきて、家に帰り着いた頃には殆ど死にかけていました(>オーバー)。
風邪なのか、疲れなのか、昼食べたものが悪かったのか、ともかくものすごい下痢(粥状というか吐瀉物のような)になり、布団にすっこんでふるえていました。ラジオで阪神戦を聞いていたのですが、断片的にしか覚えておらず、終了してもラジオを消すという行為がつらくてできず、その後の番組も付けっぱなしだった(野球中継の後は突如若者番組に変わるんですね)。

とりあえず12時間以上布団にもぐりこんで、朝起きたらかなり回復していました。仕事にも出かけ、仕事中はどんどん回復していく感じだったんですが、晩飯を食ったらまた少し調子が悪くなってきました。
先日来の頸痛、腰痛はこの前兆だったのかも。

で、こたつに肩まで入って阪神戦を聞いていたら、ゼロ封していたオクスプリングを交替させて(解説者もなぜ変えるのかと言ってましたが)、結局追いつかれてしまった。昨日大活躍した濱中と関本も、右腕だともう使わない。岡田はなぜ公式にこだわるのかね。考えるのが嫌いなんでしょう。
オクスプリングは、見ていたらかなり神経質そうなので、勝たねばと思うと潰れていくタイプではと思いました。初勝利を与えて楽にさせてやりたかったですね。

今年の阪神は凄い陣容ですから、ふつうに戦ったら負けるはずがないように思われます。負けるとしたら監督の采配ミス以外に考えられませんな。
あ、また頭痛がしてきた。

 


眉村さん情報  投稿者:管理人  投稿日: 4 5()015939

  引用

 

 

4月16日(日曜)のNHKラジオ第1放送「ラジオ文芸館」(午後10時15分〜10時55分)にて、眉村卓さんの新潮新書「妻に捧げた1778話」が朗読されます(といっても、おそらく集中の日課ショートショートが朗読されるのだと思われます)。お聞き逃しなきよう。

 


オーネット・コールマン大阪公演  投稿者:管理人  投稿日: 4 4()20473

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20年ぶりの来日ということで、行って来ました( at シンフォニーホール)。

よかった〜!!

74歳! 山下洋輔の「前座!」のあと、小さな歩幅でよちよちと出てきた姿に、おいおい大丈夫か?と一瞬心配になりましたが、なんのなんのまったくの杞憂でした(^^;
もう想像をはるかに超えた、掛け値なしに素晴らしい演奏の2時間! オーネットの音はスカッと透明(レコードとはぜんぜん違う。スピーカーのせいかも(ーー;)で、どうみても74歳の演奏には見えません。

トランペットも吹いていました(ドンチェリーに習ったのかな?)。トランペットこそ年寄りにはシンドイ吹奏楽器だと思うのですが、高音部からのトランペット独特の突き刺さる音も安心して聞けました。バイオリンもひいたのですが、今「ゴールデンサークル」を見たら、このアルバムで既にトランペットもバイオリンも使っているのですね、すっかり忘れてました。

さて私自身は、「サムシング・エルス」「ジャズ来るべきもの」と「ゴールデンサークルの……」の初期の3枚しか持ってないので、昨日の演奏のあいだに時間があきすぎており、いわばキセルの羅宇の部分を知らないでオーネットを語るという愚をおかしていることを、自覚しつつそれでも口幅ったく、今から語ろう(語りたい。語らせて!(^^;)と思うわけですが、昨日の演奏は、ところどころ初期の面影を見せつつも、その演奏の背後に、以後のニュージャズであるアイラーやトレーンの影が(電気マイルスも)はっきり感じとられるものであったように思います。いわばニュージャズの総決算的な演奏のように聞こえていたのでした。それほどすごいパフォーマンスだったわけです。

とりわけラストの数曲は山下洋輔さんも加わり、もう夢の共演!!! これがやはりすごかった。
オーネットの演奏は、西洋音楽の絶対的なスケールからはみ出す音使い(半音の半音とか連続的な音の昇降)をするので、西洋音階の権化であるピアノの音は合わないと思っていました。じじつ上記3アルバムではピアノは入ってなかったと思います。
ところが――
山下さんとのコラボレーションは、私の偏見を打ち破るものでありました。
むしろ山下さんが入ってからの音の方が、それまでのカルテット(Wベース、ドラムス)の数等上を行く演奏となりました。
まあ山下さんのピアノが、旧来のピアノのコンセプトを壊したものだからでしょうけど、オリジナルのカルテットでも凄かったのに、その数等上の演奏になったわけですから、これはもうトンデモナイわけです。
むしろ山下さんが全体をリードしていたような感じがしました。山下さんがオーネットの音を引き出している、そんな感じがしました。山下さんのプロデュース能力の賜物かもしれません。

終わって、いったんメンバーが引っ込みましたが、万雷の拍手にこたえて(私も目いっぱい手を叩きましたよ(^^;)ふたたび登場しての(山下さんも加わっての)アンコール曲が、なんと思いがけない「ロンリー・ウーマン」! このフレーズが飛び出して会場は一気に、というか、いや増してヒートアップしました。演奏もわたし的には今夕一番の感動でした!!

オーネットという人は、恥ずかしがりやなのか、演奏中も全然愛想を振りまかず、ひたすら演奏に没頭しており、アンコール曲が終わっても別に手を振るわけでもない。山下さんのプロデュース能力はここでも遺憾なく発揮されて、一生懸命オーネットを称え、持ち上げ、ファンサービスしていました。
で、ブスッとしているのかと思いきや、よく見たらオーネット本人が感動しているのでした(ように見えました)。おそらく自分自身でも満足のいく演奏ができたんでしょう。

私は拍手しながら、しばしオーネットと山下さん、組まないかなあ、と夢想していました。今夜限りで終わるのはとてももったいなく感じたのでした。それほどすばらしい演奏会でした。

今回はジャズ住職とふたりで出かけたのでしたが、なんと、奇遇にも我々の席の右隣が堀晃さんなのでした! しかも左隣が堀さんのご友人のNさんで、北海道在住の方なんですが、札幌公演が見れなかったので大阪に見にこられたという、オーネットファンの方だった。これにはびっくりしました。
なんと奇遇な、と話していましたら、何のことはない、皆ローソンで(同じ時期に)チケットを購入したことが判明。なーんだ、と笑い話に(^^)

終了後、私とジャズ住職は堀さんと近くの居酒屋へ。堀さんは、会場に知人の方が多かったのですが、我々に付き合ってくださいました。ありがとうございました。
ビールを飲みながらの話は、当然ジャズとSFの話のみ(^^; ジャズとSFの話題のあいだをいったりきたりでとても楽しかったです。
私は最寄り駅近くの駐車場に車を入れてきたので、駐車場が閉まる12時までに帰り着かねばならないこともあって、10時半ごろお開きとなりました。堀さんはその後、ハチ方面へ向かわれた模様。

ともあれ、オーネットコールマンの最初で(おそらく)最後の生演奏の夜を堪能いたしました。

 


いよいよ明日  投稿者:管理人  投稿日: 4 2()184315

  引用  編集済

 

 

堀晃さんのHPを覗いたら、札幌でのオーネット・コールマンの感想が!
おお、明日が楽しみ(^^)

なのであるが、ここに来て腰痛が……
去年も今頃苦しんだんだよなあ。原因はわかっている。急に冷え込んだので(朝起きられず)毎朝欠かさなかったストレッチ体操を、1週間以上怠けてしまったのだ。覿面に障害が出たという次第。

根本的に腹筋に余裕がないから、ちょっと怠けたら安全レベルを割ってしまうわけです。だから対症療法は腹筋力の回復しかなく、昨日今日は頻繁に股関節のストレッチと腹筋の回復につとめました。

まあなんとかなりそうなんですが(急な動作はできませんが)、「満場のスタンディング・オベーション」ですか、それはちょっと厄介かも(汗)
とにかく片付けられる仕事は今日できるだけ片付けておこう。

――と書いたら、急にあせってきた。開場6時で友人と5時半に待ち合わせだから、わ、こっちを最悪でも4時に出発しないといけないのか。

 


Re:黒人兵が消えている  投稿者:管理人  投稿日: 4 2()17567

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かんべむさしさんのHPで朝ミラの予定表をみたら、火曜日は「UFOとポストモダン」の紹介となっていました。
この本は私も注目していたもので、タイトルから何となくユング系かなと思っていたのですが、いまアマゾンでみたら、著者はバラードの翻訳者のようですね。UFO言説から読み解くアメリカ近代社会論みたいなものでしょうか?
この本は読もうと思います。しかしすぐには取り掛かれそうにないなあ。新刊で買った本がけっこう溜まってしまっており、今月は消化月間の予定なので。

それはさておき、上記かんべさんのHPのふりーめもに、ジョン・ウェインの戦争映画に黒人兵がひとりも登場しないことを不審に思い、2種の写真集に当ってみたらやはり黒人兵が映っていないところから、アメリカ国防総省の「何らかの選択意思」を疑っておられます。

私もそれはありうる話だなあ、と思います。が、しかし、それも60年代後半までの話ではないでしょうか。

どこかで聞いた話ですが、現在のアメリカの映画は、必ず主要登場人物に黒人を使わなければならない内規(?)があるそうで、確かにアクション物を思い出すと納得できます。エディ・マーフィーのビバリーヒルズ・コップは1980年代のはじめ頃だったと思いますが、80年代にはそのような縛りが既にあったのではないでしょうか(エディ・マーフィーはドリトル先生もやってますね。いくらなんでもドリトル先生はやり過ぎだと思います。が、そういうのを後押しする風潮があるんでしょう)。時代が時代ならばジョン・ウェインも相棒に黒人を使わなければならなかったでしょうね(^^;

そういえばくだんのエディ・マーフィー、最近、といっても数年前ですが、やはり黒人と白人のチーム映画「アイ・スパイ」に出演してましたね。
この「アイ・スパイ」のオリジナルTVドラマ版は1960年代後半(65〜68)に放映されたもので、おそらく黒人と白人のチームというコンセプトのはしりでしょう。

68年といえばアメリカのベトナム戦争敗北の年であり、パリ5月革命の年。「俺たちに明日はない」でアメリカンニューシネマが開始されたのはその1年前の1967年というわけで、1960年代後半を境にアメリカの基本姿勢は、すくなくともタテマエ上はそれ以前とは180度転換しており、上記の規制もその頃導入されたのではないでしょうか?

以上は全くの思いつきの域を出ない想念ですが、そんなに外れていないのではないでしょうか? ともあれ情報をお持ちの方がいらっしゃったらご教示願えたらと思います。

 


「アメリカの七夜」 B  投稿者:管理人  投稿日: 4 1()144845

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<卵菓子消失の謎>
訳者は「この病みおとろえた国を訪問する理由を書いたくだりを全部削除した」とき、「欠けた一夜も日記から抜き取られたのでは?」と書いていますが、どうでしょうか?

今夜、アーディスのアパートメントからもどってくると、卵菓子がふたつしか残ってなかった。(……)アーディスとの待ちあわせにでかけたとき、卵菓子はまだ3つ残っていたはずだ。(289p)

下のストーリー表の該当部分は「ホテルへ戻り3個目の卵菓子→女優とレストランでディナー→劇場へ行くとハリーが戻っている→役者が行方不明になり、主人公が代演→女優のアパートへ→ホテルへ。3個残っているはずの卵菓子が2個しかなく、日記の置き場所が違っている」とストーリーは進みます。

つまり3個残っているのを確認した後、2個しか残ってないことに気づくまでに主人公は一睡もしていない(アーディスのベッドには入りましたが)。ストーリーは連続しています。しかしながら欠けた一日があるとしたら、卵菓子の証拠からこのあいだでなければなりません。しかしながら上記より、このあいだに欠けた一日(主人公が忘れている4個目を食べた日)を想定するのは難しいと思われます。

 


 

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