ヘリコニア談話室ログ(2006年7)




「素顔の時間」  投稿者:管理人  投稿日: 730()214749

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眉村卓『素顔の時間』(角川文庫、88)読了。
1980〜83にかけて<野性時代>誌に掲載された短篇を収録しており、言い換えれば著者46歳から49歳の、つまり50歳を目前に控えた頃の作品集ともいえる。

 点滅  野生時代80.6
 逢魔が時  野生時代80.11
 秋の陽炎  野生時代81.11
 枯れ葉  野生時代82.2
 素顔の時間  野生時代82.5
 減速期  野生時代82.8
 少し高い椅子  野生時代83.5

この執筆時期は重要で、「減速期」というタイトルが象徴的に示しているように、収録作品はすべて、内容的に壮年から老年へ向かう過渡期(人生の減速期)を捉えたものとなっている。

「点滅」の50手前の主人公は、自分が仕事上でも「守り」に入ったのを自覚しているし、「逢魔が時」の主人公は、若いときと比べて自分の能力が明らかに落ちてきていると感じている。
「秋の陽炎」の主人公が、「自分は確かに、日ごとに衰えているのだ……」と呟けば、「素顔の時間」は、<延伸時間>という通常の<基本時間>とは別の時間が存在する世界の話なのだが、主人公は「近年、彼の延伸時間は、ずいぶん短くなっている。若い時代には20数時間もあったのに、今ではせいぜい8時間なのだ。年とともに減少していくのであった」「片頬で笑」うばかり……。

「減速期」に入った主人公のもとには、それまでなりふり構わず走ってくる際に振り捨て、置き去りにしてきたことども、しかも無意識ではそのことを後ろめたく感じていた過去のものが、わっと立ち上がって主人公にまとわり付く。

『いいかげんワールド』の主人公は、堀晃さんが的確に指摘されているとおり、もはや「使命感のない(肩の荷を降ろした)司政官であり、退役した(戦闘意欲の希薄な)カルタゴの戦士である」わけだが、もとよりそのような境地は、言い換えればこれまで纏い、引きずってきた全てのしがらみをリセットし「ゼロ」から再出発するということでもあるのであって、そのような主人公の姿は「枯淡の境地」といったものではなく、岡本俊弥さんがおっしゃるように、むしろ「枯淡の境地からは対極にある」或るふっ切れた境地というべきだろう。『いいかげんワールド』の最終章が「第0章」であるのは、そのような意味合いが込められているのではないだろうか。

一方本書の主人公たちは、しかしいまだそこまでの境地には達しきれず、初めて経験する「減速期」「中途半端な過渡期」に戸惑い怯えつつも、何とかしがみつき、生きていこうとする姿が活写されているわけで、同様に中途半端なところでウジウジとうごめいている私としては、身に抓まされもするが共感も覚える、しっくり皮膚に馴染む作品集となった。

 


観劇前の寸暇ナンバCITYへ足を伸ばすの事  投稿者:管理人  投稿日: 730()120031

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最寄り駅の関係で、大阪へは大概JR阪和線なのだが、難波へ出るときにかぎっては偶に南海電車を利用する。昨日はうまい具合に乗換駅に滑り込んできたのが特急サザンで、予定より早い難波到着となった。

そういう次第で、オリゴ党開演時刻前に少し時間があき、思い立ってナンバCITYの旭屋まで足を伸ばす。SFMをチェックするも、購入欲求は購入行動を惹き起こすほどには高まらず、大橋コラムのみ立ち読みして平台に戻す。

『日本沈没第二部』、2刷りになっていて、やはり売れているんだなあ。しかし初刷8月1日、2刷8月10日って……。まだ7月だぎゃ。

そういえば日本作家があいうえお順に並ぶ棚に、法月綸太郎が、著者名忘れちゃったけど「ほ」の付く作家に挟まれて挿さっていたぞ、旭屋ともあろうものが……。というわけで、旭屋はジャイブを笑えない(>内輪ネタ)。

 


「新・ユウサクセブン」  投稿者:管理人  投稿日: 729()220924

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オリゴ党第22回公演『新・ユウサクセブン』(作・演出/岩橋貞典、於TORII HALL)の感想をチャチャヤン気分に掲載しました。

 


「天変地異の黙示録」  投稿者:管理人  投稿日: 728()220228

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小松左京『天変地異の黙示録』(パンドラ新書、06)読了。
書店で見かけたので購入。6月刊行されたばかりの新刊書ながら、内容は本書のために語り下ろされた第1部以外は70年代の論考。
とはいえ、内容は全然古びてないどころか、まさに時宜に適ったものとなっている。

第2部「終末観と未来のイメージ」は、まあある意味サイエンス・ライター小松左京という感じなのだが、第3部「ユートピアの終焉」は渾身の力作で、モア「ユートピア」から説き起こして、スウィフト「ガリバー」、バトラー「エレホン」を参看しつつハクスリー「すばらしい新世界」、オーウェル「1984」、さらにクラーク「都市と星」へ至る所論は、こうして名を挙げるといかにも通俗解説書風の並びではあるが、その内容は類書にない斬新さで、目を洗われる思いがした。本論を読むだけでも購入する価値あり。

第4部「地球政治時代への提言」では、近代科学の認識方法は、ミクロとマクロの両方向から世界像を再発見していったが、その間の領域すなわち人間がふつうに認識し行動する社会が含まれる「環境世界」はまだ科学的に捉えられてはいないとして、その環境世界の「有限性」の認識を強く提言している。

たしかに70年代「宇宙船地球号」といわれ、公害等の顕在化による生産ー廃棄システムの矛盾がようやく認識され始め(「おーい、出てこーい」)、エコノミーとエコロジーの関係に注目が向かいかけていた、そういう時期ではあったが、著者はいち早く問題を先取りして強く警告している。

さすが知の巨人(といっては著者に失礼か。今ならさしづめ知の中日ですな、決して知の阪神ではありえない。それはおこがましいにもほどがある
(怒))らしい目配りで、上述したようにいまこそ広く読まれて然るべき論集であるといえる。

 


「SF魂」  投稿者:管理人  投稿日: 727()215553

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小松左京『SF魂』(新潮新書、06)読了。
中相作さんも言っておられたが、本書を読んで、小松さんて昔と全然変わっていないなあ、そう思いました。SFへの想いが熱い。最終行の「SFとは希望である」――こんな言葉を吐けるのは著者の他には思い当たりません。

第1章では、高橋和巳との交友など、京大作家集団や文学修行期のエピソードを、個人的にはもっといろいろ読みたかった。高橋和巳が本質通俗であるというのは膝を打ちましたし、「邪宗門」がSFであるというのは私もずっと思っていたところ。

SFとの邂逅を語る第2章は、日本SF史的に貴重な証言なんですが、小松さんや筒井さんのこの頃は案外知られているのであって、実はエッセイを求められることが比較的少ない他のSF作家の「SFとの邂逅」を書き留めていくことが、焦眉の急となってきつつあるように感じています。大橋さんたちの「SFアーカイブ」はそのような試みではあるのですが、映像も大事ながら、インタビューも、少なくともこの「第2章」程度のボリュームは最低必要なのではないでしょうか。

第3章で、「日本沈没第二部」の原型的構想が語られていて興味深い。実際に書き上げられていたという140枚、これもぜひ公開してほしいです。「国土なき民族」としてのユダヤ人と日本人の考察は、私も著者の意見に近く、第2部は、私だったら(元来「ネーション」への自覚が薄い)日本人が、(一種必然的に)日本人でなくなっていく「哀しみ」を淡々と描くと思いました。

著者のノンフィクション系には、一部を除いて殆ど手を出してなかったのですが、やはり読まなければいけないのかなあ、と本書を読んで感じたことでありました。

というわけで、柄谷行人『世界共和国へ
 資本=ネーション=国家を超えてに着手。

 


メンチを切るローソン  投稿者:管理人  投稿日: 726()223539

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メンチきってカツ!

メンチ切るなんて、ちっとも誉められたことじゃないんだけどな。
亀田選手が自己を奮い立たせるためにそういうことをするについては、それはあなたの勝手とは思うけど、それを他人が、というか大企業のローソンが称揚するのはどうか。

亀田に就いてそれを認めるということは、翻って一般的な状況においてもそういう行為を許容することになりはしないか。いやなる筈だ。
それが広告の持つ(良くも悪くも)力なのだから。

つまりローソンの販売戦略は、結果的にメンチをきることが「悪い」という意識を鈍磨させることに加担しているわけで、遠からず「メンチ」は一般的な認知を得るに違いなく、この国はメンチの切り合いが「ふつうに」行なわれるギスギスした社会になっていくだろう。

けっきょく「応援」という名の「販促」なのであり、今の日本には売れるなら何をしてもいい、という「倫理なき」資本主義の悪弊が蔓延している。本件はその端的な一例といえるだろう。

 


新聞広告  投稿者:管理人  投稿日: 726()211050

  引用

 

 

読売新聞7月25日付朝刊第1面の広告欄に『いいかげんワールド』の広告が載りました。
鮎川哲也『山荘の死』とのジョイント広告でした。
なお上記は関西版でありまして、関東・東京方面では前日の24日に掲載されたようです。

久しぶりにアマゾンを覗いたら、いつの間にか在庫していたみたいです「いいかげんワールド」。ところが、在庫残り1冊になっているではありませんか。一体何冊仕入れたのか>アマゾン。
売り逃したくなけりゃ、もっとどーんと仕入にゃ、らちかんぞ(^^;
それとも出版芸術社はハリーポッターなみに買い取り制なのでしょうか。

 


「乾いた家族」  投稿者:管理人  投稿日: 725()222616

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眉村卓『乾いた家族』(ケイブンシャ文庫、93)読了。

短い掌篇を50篇収録したショートショート集なのだが、それと同時に、ある意味「長篇小説」でもあった。それはつまり、サザエさんやフジ三太郎やコボちゃんを長篇マンガとして捉えることが出来るならば、ということなのだが、たしかに本書は、長期連載される4コママンガとよく似た形式に則っており、つまり字で描かれた4コママンガといってもよさそうだ。(後記>ヨコジュン「スロッピー号」もこの手法である)

本書には、停年間近で本書の半分から3分の2あたりで実際に定年を迎える国友吾平と、その妻千枝、すでに社会人である息子の重助らの、日常と非日常、現実と幻想が50の掌篇にスケッチされているのだが、且つその50篇のスケッチが、全体として一本のストーリーになっていて、ショートショート集として読み始めた読者が読了したとき感ずるのは実に、短い章を積み重ねた一本の長篇小説を読み終わった、といった感懐なのだ。

このような形式を有する本書のショートショート群には、著者のショートショート作法のきわめて斬新な特色がストレートに現れている。
すなわちそれは、一話一話がすとんと落ちて完結する、いわば初期星新一タイプとは正反対の方法論であり、本篇の各ショートショートは、夫々それ自体では内的には完結しておらず、全体を通読し終えた時、初めて一個の完結した結構を形成する。まさにショートショートであり且つ長篇であるという相互内在性を契機とするきわめて独特の形式性を有しているといえる。

個々のショートショート群もそれ自体実に多様な現われを示し、具体的な物語から、ときにバーセルミを髣髴とさせる(「シャーシャーシャー」のような)抽象的な物語まで、きわめて多面的で、それがまた長篇小説という多面体の一断面のように読めるところが凄いというしかない。(以前にも書いたが、著者のある種の作品は、英訳してから再び日本語に訳しなおせば、おそらくそのバーセルミらしさが一層明確になるはず)

さて本書は、当初こそ三名の主人公が等頻度で登場するが、吾平が定年を迎える前あたりから次第に吾平の物語に焦点が絞られていく。その意味で一種老人文学、就中定年退職小説でもあるのであって、定年という「出口」を通過する人々が遭遇する幻想の断片、そのくすんだ煌めきといったものを実に的確に掴んでいるように思った。
著者の隠れた秀作といえるのではないだろうか。

 


眉村先生を囲む会  投稿者:管理人  投稿日: 724()211539

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昨日は「いいかげんワールド」刊行お祝いも兼ねた<眉村卓先生を囲む会>でした。10名ほどのメンバーがつどい、眉村先生のお話を身近で拝聴するという、ファン冥利に尽きる愉しくも至福の3時間を過ごすことが出来ました。

10名もいますと、端と端では別の話題で盛り上がったりしがちなのですが、この眉村先生の会に限ってはそういうことは一切なく、常に全員、先生のお話を拝聴する形になってしまいます。
拝聴するといいましても、それなりに応答になるのでありまして、ただしそれは常に眉村先生との会話に終始してしまいます。それだけ先生のお話が面白く、聞く者を逸らさないからですが、メンバーの方も先生のお言葉はひと言も聞き漏らすまじといったところもあります。

今回、私は作家の西秋生さんの隣の座席だったのですが、数ヶ月ぶりにお会いするにもかかわらず、西さんとは殆ど会話を交わさなかったような気がします。後から思い出して変だなあと笑ってしまいました。
岡本俊弥さんとも、その日アップされたばかりの「日本沈没第二部」のレビューに関して、いろいろ話を聞いて頂きたかったのですが、そんな時間は全くありませんでした。

それもまた好し。
ともあれ、気持ちのよい3時間(プラス2次会)を過ごすことが出来、ほろ酔い気分でアコリャなどと口ずさみながら帰宅したことでありました(^^;。
眉村先生ならびにメンバーの皆様、お疲れ様でした!

*なお、明日の読売朝刊に「いいかげんワールド」の広告が載るそうです。読売新聞購読の方はチェックしてみてください。
しかし出版芸術社が新聞広告を打つなんて、珍しいですね。よほど力が入っていると見た(^^ゞ

「いいかげんワールド」にサインされる眉村先生

 


ランキングあそび  投稿者:管理人  投稿日: 723()10007

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6,581位 (ーー;

昨夜からえらい下がってしまいました(9:50現在)。
原因としては@夜更けに注文かける人が増加した。A24h以内発送のbk1に流れた(^^;。

しかし上がっていくのは楽しみですが、どーんと下がると心臓に悪いですなあ。
いずれにせよ切りがないのでランキングウォッチはこれにて終了とします。

 


005現在のランキング  投稿者:管理人  投稿日: 723()001149

  引用

 

 

2,932位(^^)

うーむ、たぶん下の投稿以降になん冊か売れたんでしょう。着実に、地道に売れている模様(^^ゞ
私が観察していた数日来の在庫の減り具合から勘案して、売れたのは1冊だと思う。
だとすれば1冊の販売でランキングは3000位上昇するのか?

 


「いいかげんワールド」売れ行き好調  投稿者:管理人  投稿日: 722()205530

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アマゾン、まだ在庫補充されていません。もうしないつもりか?
もしそのつもりなら考え直した方がいいかも>アマゾン

なんとなれば、現時点(20:40)でランキングは5924位なんです。
昨日は4000位台だったので少し落ちましたが、しかしながらほぼ同じ発行日付の他の単行本、香納 諒一「冬の砦」が14,155位、柴田 哲孝「TENGU」が 92,228位、倉阪鬼一郎「下町の迷宮、昭和の幻」が102,913位、などと比較しますと、アマゾンの予測には反してかもしれませんが、現実よく健闘しているのではないでしょうか?(ちなみに「日本沈没第二部」は239位、桁が違いますな(^^;)

一方のbk1は24h以内を維持しております。したがってこのままにしておくと、どんどんbk1に購読者を奪われること必定。よってアマゾンも早く24h以内に復帰したほうがよさそうです(^^ゞ

 


アマゾン  投稿者:管理人  投稿日: 721()203847

  引用

 

 

「いいかげんワールド」の在庫、売り切れちゃったみたいですね。→amazon
だから補充しろと(ーー;

 


Re:これから読みます  投稿者:管理人  投稿日: 721()19565

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柳生さん
「いいかげんワールド」、さくさく読めて面白いですよ。お楽しみに〜(^^)
私ももういっぺん読み返そうかな、と思っています。
では当日よろしくです!

 


これから読みます  投稿者:柳生  投稿日: 721()09288

  引用

 

 

こんにちは。
たいへんな雨続きですね。
「いいかげんワールド」購入しました。
あとがきに、ここのサイトのことが載ってましたね!
おかげで意欲や元気がでてきたと。
よかったです。ファンとして、大熊さん感謝です。
あさっては、先生に花束を持って行きます!

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/

 


「いいかげんワールド」の  投稿者:管理人  投稿日: 720()213712

  引用

 

 

アマゾンの在庫が残り一冊になっています→【いいかげんワールド】
昨日確認した時は2冊残っていました。
一昨日は3冊。
ということで、日課・一日1冊のペースで順調に売れていますなあ。
アマゾンは可及的速やかに補充するように(^^;

 


「カトマンズ・イエティ・ハウス」  投稿者:管理人  投稿日: 718()224458

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河野典生『カトマンズ・イエティ・ハウス』(講談社、80)読了。

20頁程度の短めの短篇が14篇収録された小品集。
著者の(幻想系の)小説はもともとストーリー性に乏しく、本書もまたその例に洩れない。まあ心象風景を外化して描いているといってもよいのだが、そして『街の博物誌』のような秀作ではそれがかなり成功しているのだが、残念ながら本書の場合は心象風景自体が曖昧で、好意的にいっても、それは流れるような意識の断片を捉えているに過ぎない。時には陳腐でさえある。

それでも本書はよかった。
では何がよかったのか。
それはストーリー(内容)を容れている「器」がよいのだ。器、容器とはつまるところ「文体」である。

歌(アカペラ)に例えれば、文体とは声によって形作られるメロディであり、ストーリーは歌詞といえる。
外国語に疎い私が外国語の歌を聴くとき、私は歌詞の内容を理解していない。にもかかわらず、その歌を楽しむことが出来る。
それは純粋な「声」(言葉ではない)とそれが形成する「メロディ」自体を楽しんでいるのだろう。

同様のことが河野典生の小説を読む場合にも起こっているのだと思われる。本書は「文体」がとてもよい。

結局ジャズ小説とか音楽小説とかいう意味ではなく、音楽を聴くように読む、そんな小説ですな。

 


717日は  投稿者:管理人  投稿日: 718()021728

  引用

 

 

コルトレーンの命日でした。この日は毎年、レコードを何枚かかけてトレーンを偲ぶのが恒例で、7回忌の74年から続けているんですが(時々忘れる)、今年は「いいかげんワールド」を優先しました。
で読み終わったので、さっきから細々と「マイ・フェイヴァリット・シングズ」のB面を繰り返しかけています。理由はもともとターンテーブルにのっていたから(^^;
今年はこれだけで寝てしまいそうです。

 


「いいかげんワールド」  投稿者:管理人  投稿日: 718()004112

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眉村卓『いいかげんワールド』(出版芸術社、06)読了。

今日夕方に届き、さっき読み終わったところ。後半は一気呵成。読み終わってしばらく呆然としていました。
これは何だろう、異世界私小説? 内的ファンタジー?
ともあれタイトルどおりの、(近代小説的には)「いいかげん」を窮めた自在なストーリーで、おそらく本篇は、石川淳における「狂風記」、藤枝静男における「田紳有楽」のような位置づけを持つのではないでしょうか。

現実世界で老人性の鬱屈に捉えられていた主人公は、オマケのように引きずり込まれてしまった本作品世界「いいかげんワールド」を生きることによって、次第に癒されていきます。

主人公はその属性こそ少しずつ変えられていますが、眉村さんそのもの。作品世界において70歳を目前にした主人公すなわち眉村さんが、あのきわめて自制的な眉村さんが、これまでの来し方を、無防備なほどあからさまに、しかし恬淡と振り返っていて驚かされます。

結局本作は、著者が到達した或る心境を素直に小説化したものなのでしょう、ストーリーとしては最後の章である38章のタイトルが「達観? 諦め?」とあるように、これからの行く末について、達観といってもよい一種明るい諦念というべきまなざしで望見されます。

その意味で、本篇は、そんな眉村さんの(内的な)集大成的作品ではないかと感じました。
本篇を書いたことで、著者自身もずいぶんと肩が軽くなったのではないかな、そんな感じを持ったのですが、よく考えてみれば、この物語は(ストーリー的には)まだ完結していないのですよね。それどころかようやく始まったところなのではないでしょうか? 続編を切望したいと思います。

 


Re: 小松左京全集  投稿者:管理人  投稿日: 717()110816

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土田さん

限定500部というのは城西大学のページに記されていますね。でもこのページの記述は変ですね。第一回刊行が2006年7月とか。……
オンデマンド版の小松左京全集は刊行が始まっていて、現在すでに300篇以上に達しているようです。

思うにこれは、おそらく城西大学がこのオンデマンドシステムで全巻500部ずつ刊行していくという、そういう意味ではないでしょうか?
それが証拠に城西版「虚無回廊」は全1巻で4800円ですが、BOOK PARK版「虚無回廊」は3分冊(2310円+2426円+1701円=6437円)で、城西版のほうが(数を刷る分)安価になっているようです。

つまり城西版はオンデマンドを従来の書籍出版として利用しているのでは?
したがってオンデマンドの利点である購入者の側での自由な(ある程度ですが)本造り(合巻する楽しみ)はない代わりに、比較的安価に購入できることになるのでしょう。

この城西大学の出版計画とは関係なく、我々は、自分の好みの作品セレクションの本を、(いささか割高になりますが)1冊から注文できるのだろうと思います。

高橋たか子ですが、最近とつぜん何を表現したいのか理解できたような気分になりまして(錯覚かも)、俄然面白くなりました。
作品のなかには、高橋和巳や小松左京が入っていた往時の京大作家集団がモデルらしい話もあって、その無茶苦茶さに女性主人公が翻弄される話は高橋たか子の実体験なんだろうな、と考えると興味深いです。
この時代の心境を小松さんは、マジには殆ど語りませんね。

日本沈没は一部を読み返さずに2部に入ったので、人間関係がよく判らない部分がありました。そのために主筋が理解できなくなることはありませんが。33年も前に一度読んだきりの小説の登場人物なんか、とても覚えてられません。小野寺は覚えてましたけど(^^;

 


小松左京全集  投稿者:土田裕之  投稿日: 717()020513

  引用

 

 

が刊行されるようですね。
オンデマンド出版の技術で500部限定というのがなんだか良くわかりませんし
刊行ペースもえらくゆっくりしているようですが・・。
文庫でほとんど読めるとはいえ、
まとめてゆっくり読み返したいのも事実なので
多分買うだろうと思います。

で、これを知ったのも今日、本屋で即買いした小松さんの「SF魂」(新潮新書)巻末。
早速半分ほど読みましたが、SFに対する思いを綴った本と思いきや
タイトルのイメージとは違ってご自身の半生を振りかえる趣の語り下ろしでした。
ご高齢なので難しいのかもしれませんが、もっともっと分量が欲しいです。

いつも感想を拝見していますが、大熊さんも最近渋いところを集中的にお読みですね。
高橋たか子は「誘惑者」を大昔に読んでからなかなか機会がありませんし、
森万紀子もまだ手が出せていません。

最近、読むのが遅いせいか、読む本も選ばなきゃな、と思っております。
次は「日本地没」を再読してから、「第二部」に行く予定。

眉村さんの本は近所に無いので、bk1に注文するかも。

 


Re:Re: さらに「いいかげんワールド」続報  投稿者:管理人  投稿日: 716()225418

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斎藤さん
や、情報どうもありがとうございました!
やはり基幹店ではもう積まれているんですね。

>私はここで迷うことなく購入しました
あ〜ウラヤマシイ・・

>一冊物としては「消滅の光輪」「カルタゴの運命」に続く分厚さで嬉しくなりました。
>装丁は立派なハードカバーで、腰巻には新井素子さんの推薦文が記述されいます
おお、それは楽しみです(^^)
私の方も、bk1から出荷したとのメールが届きましたので、明日か明後日には手にすることができると思います。それまでじっとガマンの子です。ああ待ち遠しい(^^;

ともあれ8年ぶりの新作、どんどん売れてほしいですね〜!

 


Re: さらに「いいかげんワールド」続報  投稿者:斎藤  投稿日: 716()215112

  引用

 

 

関東(川崎)在住の眉村ファン:斎藤と言います。
昨日(土曜)ですが、新宿の紀伊国屋本店では、「エンタテインメントコーナー」の
平台に4〜5冊平積みになっていました。私はここで迷うことなく購入しました。
一冊物としては「消滅の光輪」「カルタゴの運命」に続く分厚さで嬉しくなりました。
装丁は立派なハードカバーで、腰巻には新井素子さんの推薦文が記述されいます。
巻末には近刊予告として、「新・異世界分岐点」が掲載されています。
「芳香と変身」「エイやん」「マントとマスク」の3編が追録(オリジナル版からは
3編だけが再録)となっています。
オリジナル版が6編収録でしたから、この「続」版も同じ6編収録としたのでしょう。
9月刊ということでこちらの発売も待ち遠しいです。
以上です。

 


今月の大橋さんのお仕事  投稿者:管理人  投稿日: 716()204236

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書き忘れていましたが、書店で大橋博之さんの近業をチェック。立ち読みで申し訳なし>大橋さん

まずは<本の雑誌>8月号の「武部本一郎と城青児と手塚治虫」
これまで手塚治虫の変名と思われていた城青児が、実は武部本一郎であったことを、大橋さんは突き止めていたのだが(直後に私は、直接大橋さんからその事実を聞いている)、それが諸般の事情で漏出してしまって、大橋さんのスクープがいささか衝撃力を欠いてしまい、残念だったのですが、その新事実発見の顛末をまとめたもの。
これは今後常識的事実となっていくものでありますから、ぜひおさえておきたい記事です。

次にSFM連載の「SF挿絵画家の系譜」
今月号より1画家2回分載形式に変わっています。8月号は「第5回「美しく力強い肉体柳柊二(前編)」
柳といえば、わたし的には旧版ファファード&グレイマウザーがまず浮かんでくるのですが、実はあんまり好きな画風ではないのでした(^^;
とはいえこの連載が完結した暁には、(これまで等閑視され続けていた)当時の挿絵画家事情が総体としてあるふくらみを持って実感できるようになるはず。大変貴重な労作であることは間違いなく、大橋さんには挫折することなく頑張って続けていただきたいものです。

最後に大橋さんプロデュース「柳柊二妖怪画展」のお知らせ。8月18日(金)〜20日(日)までstudio-ZONE galleryにて開催されるそうです。詳しくはこちらGARAMON

 


さらに「いいかげんワールド」続報  投稿者:管理人  投稿日: 716()18161

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とかいいながら、天王寺に出てみました。
しかし、ユーゴー書店にはまだ入荷していなかった。というか陳列されていませんでした。
アポロの喜久屋書店も見当たらなかった。喜久屋書店は「日本沈没第二部」もなかった(ユーゴーも1冊のみ、新刊書コーナーではなく、通常のミステリ単行本コーナーにあった。平積みで1冊だったので売れた結果かもしれませんが)。

うーむ、まだ基幹店にしか入荷していないようですな。梅田まで行ってみればよかったんですがそこまで元気がなかった。
ということで、阿倍野センタービルの古書さろん天地で高橋たか子『空の果てまで』(初版帯付き挟み込み付録付き)を購入するのみで帰宅。

ああ、でも久しぶりにしっかりと歩けてよかった。

河野典生『カトマンズ・イエティ・ハウス』80、講談社)に着手。

 


「いいかげんワールド」続報  投稿者:管理人  投稿日: 716()12508

  引用

 

 

紀伊国屋旭屋ジュンク堂の店頭には入荷した模様。

や、しまった! 昨晩bk1に注文してしまったではないか。
bk1から届くのは早くて明日、しかし祝日でも届くのでしょうか? 下手したら火曜日になってしまうなあ。

今から都会へ出て行って、状況調査してこようかな。と思ったけど、しかしそれは、まったく無駄で無意味な行為ではありますなあ。

 


「いいかげんワールド」  投稿者:管理人  投稿日: 715()222632

  引用

 

 

bk1で24時間以内出荷になりましたいいかげんワールド

さあ、みなさん注文しましょう!!(^^)

ちなみにアマゾンも予約から在庫ナシに変わっていますので、明日あたりから24時間以内発送になると思われます。

 


「黄色い娼婦」  投稿者:管理人  投稿日: 715()210856

  引用

 

 

森万紀子『黄色い娼婦』(文芸春秋、71)読了。
表題作は芥川賞候補作品ながら、未完成感をいかんともしがたい。いや他の作品もそれは同様なんだけれども、表題作が受賞できなかったのはある意味当然のような気がした。

それはどういうことかというと、この1971年上半期の芥川賞は、候補作品として「黄色い娼婦」の他に高橋たか子「彼方の水音」、森内俊雄「骨川に行く」、金石範「万徳幽霊奇譚」など秀作目白押しであった。そのなかで受賞作ナシとなったのだが、新しい小説を理解できない選考委員の古い文学観が揶揄されたことでよく覚えていたからで、どれほどの秀作が老害選考委員によって排斥されたのだろうか、という過剰な期待を、私は本篇に対してずっと抱いていたからだ。

で、読んだわけだけど、まあこの作品では新しい小説観云々とは関係なく無理だったに違いない。
と、まずはそう感じた

つまり有体にいってかなり作りが雑で、たとえばこの中に出てくる警官の会話は警察機構的に現実にはありえないものだし、それ以外にも、主人公に絡んでくる人々の対応は、常識的な目から見ればリアリティのないものとしか思えない。
でなければ、この小説世界は日本ではないとしか言いようがない。ところがそこは東京で、やがて主人公は上野から汽車に乗って北の港町阿木から串島へと渡る。この阿木と串島は架空の地名のようだが、とにかく日本だ。

しかし、すぐ考えは変わった。
それは長篇『雪女』を思い出したからで、この作品はリアリティを本義とする近代小説というよりも、日本の一地方を極端にデフォルメすることで、骨太な神話的世界として甦らせた作品だった。で、本篇も同様な神話的作品なのではないか、と思いついたわけだ。そのように角度を変えてみると、それが杜撰とは見えなくなったのだ。

本篇はたしかに日本の東京と東北の寒村が舞台だ。だがそれはリアルな東京や東北の寒村ではなく、神話的世界としての東京や寒村なのだ。だから主人公も含めて作中人物の行動や会話が現実の日本のリアリティから外れているのは、むしろ当然なのだ。本篇は「雪女」同様、我々が生きているこの世界をそのままリアルに描くのではなく、いったん神話化して語り直しているのではないだろうか。

高橋たか子の幻想描写が、内面的であるのとは正反対に、森万紀子のそれは神話的なのだ。その手法は、ある意味ケリー・リンクのそれとよく似ていて、

 朝、時々藍子の名が豪雨の中を流れていく。/窓を開けると工員の群れが追い風に飛ばされ転がって行った。(「人の立つ橋」、189p)

なんて描写はそっくりだと思った。森万紀子は和製ケリー・リンクではないだろうか!

その意味で、本篇も含めて本作品集はとても面白かったのだが、とはいえ秀作として完結しているかといえば、実はそんなことはない。この作品集のモチーフはほぼ「雪女」に形を変えて流用されており、本書自体はむしろ傑作「雪女」のための習作集というべきなのかもしれない。
というのは、あるいは「雪女」を先に読んでしまった不幸なのかも。

 


「共生空間」  投稿者:管理人  投稿日: 714()234622

  引用  編集済

 

 

高橋たか子『共生空間』(新潮社、73)読了。
著者4冊目の短篇集。今回はやや不発だったような印象。
本集に収録の作品は、71年2作、72年1作、73年3作なのだが、この時期は、それまで年に2作品ほどを同人誌に発表していた著者が、商業誌に発表し始めた時期であり、71年6作、72年4作、73年3作+長篇1作と、その執筆量も急激に増えた時期でもある。

おそらく商業誌の注文をこなさなければいけない、というようなことが影響しているのだろうか、どうも醗酵が不十分なまま書かれたような浅さを感じないではいられなかった。
やはり商業誌に発表する当てなど全く考えずに、内的に突き動かされて書いた(書かないではいられなかった)に違いない作品群と比べて、小説世界に立ち籠める闇の密度が全然不十分な印象。

71年の「共生空間」は、まだしも先回述べたような「身内」「血縁」への嫌悪感が表現されていたのだが、その他の作品では若干テーマが変化してきているのかもしれない。「嫌悪」の前になすすべがなかったのが、もっと積極的な悪意のようなものが現れてきているように思われる。ただそれが女性性のなかだけに留まって、普遍性へ突き抜けてこないように感じた。

とはいえこの辺、まだわたし的にはぴんと来ないので、続けて読んでみたい。と思って、本箱をかき回しているのだが、74年の短篇集『没落風景』が出てこない。持っているはずなんだけど……

 


「いいかげんワールド」情報  投稿者:管理人  投稿日: 714()201721

  引用

 

 

各ネット書店でも取り扱い開始となってきたようです。でもまだ予約の段階のようですね。リアル店頭には出回ってないようです。

アマゾンで予約可となりましたhttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4882933020/503-3111411-1995930?v=glance&n=465392&m=AN1VRQENFRJN5

セブン&ワイで購入可能となりました(但し1〜3週間)http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31742452

紀伊国屋ブックウェブでも取り寄せできますhttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%82%A2%82%A2%82%A9%82%B0%82%F1%83%8F%81%5B%83%8B%83%68

旭屋ネットダイレクトhttp://www.netdirect.co.jp/search/ISSSchDetail.asp?ISBN=4882933020

 


「自閉症」  投稿者:管理人  投稿日: 713()21131

  引用

 

 

村瀬学『自閉症――これまでの見解に異議あり!(ちくま新書、06)読了。
これは面白かった。著者は根源から「自閉症」とは何かを問い、それが実のところ一種「見かけ」の現象に過ぎず、たしかに「遅れ」はあるにしても、別に「自閉症ッ!」と殊更言い立てる「特殊な」(私たち健常者とは隔絶した)現象ではないことを説く。

自閉症者の「症状」として一般的に挙げられる「変化への抵抗」「同一性保持」「強迫的な同一行為」であるが、一般に我々は、自己の周囲の状態を確実に把握することで、自己の位置が安全であるかどうかを測っている。いわゆる自閉症者においてもそれは同じなのだが、彼らはかかる周囲の状態(=並び)の変化に即応して自己の位置の変化させる柔軟性に欠けるからだと思うのだが、周囲の「並び」の変化にきわめて強い不安を覚えるのだろう。だからきわめて強く「変化への抵抗」を示し、「同一性保持」に努め、自己においても「強迫的な同一行為」で守りを固める。

その一連の行為は、たしかに健常者には「症状」として見えるかもしれないが、実は我々自身が行なっていることが極端に現れているだけであると著者は主張しているようだ。

大阪の自閉症児の「電車の旅」に付き合った著者が発見するのは、彼がただ無闇に電車を乗り継いでいるのではなく、「目的」を持って「計画」し「実行」しているということだった。つまりその「行動」が(社会的に)奇矯に見えようとも、その行動自体はきわめて「合理的」なのだった。
「自閉症」の見地から山下清の「放浪」を解読するくだりも同様。

私は未開人の論理を「前論理」として「一線」の向うに押しやっていたそれまでの西欧人の態度を否定して、未開の論理も近代的論理と構造は同じ、ただその現れ方が違うだけとしたレヴィストロースの考えと著者の考えは同じなのだと理解した。

イディオサバンの問題にも言及して、「地図」や「暦」がそれぞれ空間や時間を関数化して管理しようとするものであることから、規則性に強い安定感を求める「自閉症」者がこれらにとりわけ強く惹かれるのは当然だとして、「地図」や「暦」の基本にある「序数」を、彼らが根本的に理解していることを強調する。そういう意味で自閉症者は根源的に数学者なのだろう。数学や天文学ほど、法則が支配し、突発的な例外がない世界はないのだから。

著者の所論は、自閉症というものが特殊な病ではなく、人間がもともと具えている或るものが、この社会の文脈とは違う文法で表現されたにすぎないということで、現状の「自閉症」理解では何も解決しないとする。むしろそれは「遅れ」なのであって、ただし彼らは知的に遅れてはおらず(上記電車旅行でも明らかなように)、「社会的」な「遅れ」といえる。
では社会的な遅れとは何か。それは現社会システムを肯定した人々の「視点」からみえる「みかけ」の現象なのだ。時速60キロの車の窓から見ている人には、同じ方向に時速20キロで自転車に乗っている人はどんどん遅れていくように見える。でもその自転車の人はそれでも時速20キロで「進んで」いるのだ。
たぶん著者は、「自閉症は社会が作る」といいたいんだろうと思うのだが、それでは時速60キロも時速20キロもどちらも進んでいるように見える社会が作れるものだろうか? それに対する明確な示唆はない。

 


シド・バレット逝去  投稿者:管理人  投稿日: 713()193253

  引用

 

 

http://cnn.co.jp/showbiz/CNN200607120016.html
享年60歳。
「狂気」の次に出た「炎」所収の「あなたにここにいてほしい」はシドに捧げられた曲だそうで、「狂気」の世俗的成功で堕落の淵に立たされたメンバーの偽らざる気持ちだったのかもしれません。合掌。

BGM>帽子が笑う不気味に/シド・バレット(70)

 


「彼方の水音」  投稿者:管理人  投稿日: 712()21282

  引用  編集済

 

 

高橋たか子『彼方の水音』(講談社文庫、78)読了。
半村良「妖星伝」で、地球が生命に満ち溢れているのを異常だというくだりがあったが、本書の諸作において、著者が一貫して描写するのも、そういう「有機物」の「生命力」への嫌悪であり、「腐敗」すべき存在の「繁殖」への嫌悪である。

それを、著者は女性であるから、出産、血、娘といったものを手がかりに描写するのだが、根本にあるのは自己否定、自己の裡にある「女」の拒否に他ならない。かかるテーマ性ゆえ専ら女性性に偏した作家ではないかと想像されるかもしれない。が、それはいささか早合点というべきで、男の私が読んでも実にしっくりと了解できる作品群であった。
なぜなら女性的な手がかりの奥には、潰せば体液がぶちゅっとほとばしる「血の詰まった皮袋」としての人間を、いわば鉱物の眼で(或いはダリのように甲殻類の視線で)観察するという「普遍性」が確固としてあるからに他ならない。

ただ、本書は著者の第1作品集(実質的デビュー作は以前紹介した「骨の城」)ということで、ある意味若書きであって、子供(繁殖)と成人女性(腐敗)を嫌悪するなかで、その中間である「少女」を理想化する傾向があるのだが、やや一面的であるように思う。
そこには(枯れた)老女という視角がないことに、私のような年齢になると気がつかざるを得ない。もとより50代になった著者は気づいているのかもしれないわけで、というか気づかないはずがなく、著者の晩年の作品も読んでみたいと思った。というか継続的に順番に読んでいきたい作家だ。

 


「いいかげんワールド」発売!  投稿者:管理人  投稿日: 712()201256

  引用  編集済

 

 

bk1で買えるようになったようですbk(アマゾンはまだみたい)
しかし、発送が1〜3Wとは(ーー;
これでは使えませんなあ。書店で買うか、24hになるのを待った方が早く入手できそう。

 


日本沈没は、単なる前触れに過ぎなかった!?  投稿者:管理人  投稿日: 711()233324

  引用

 

 

小松左京+谷甲州『日本沈没 第二部』(小学館、06)読了。

「日本沈没は、単なる前触れに過ぎなかった」(340p)
というか日本沈没が引き金となって、地球が沈没してしまうのであった!!(>誇張)
6章で解説されるメカニズムは圧巻です。

いや面白かった。これは傑作! ただし私が想像していたのとはかなり違う。あとがきにあるように、「国を失った日本人が難民として世界中に漂流していく」物語を想像していたので、最初は戸惑いました。

私の構想(笑)では、沈没後日本人は世界に「拡散」し、「浸透」したりしなかったりしながら、次第に居住地の人々や国家の「裏側」に回り込むように同化していきつつ、その同化の過程で「日本」を世界中に刻印していく――そんな物語をずっと夢想していたのです。

ところが、沈没の25年後が舞台なんですが、ちょっと恵まれすぎているなあ、と思いました。なぜなら国土はないのに世界の主要先進国であり続けているのです。主たる落ち着き場所であるニューギニアでは、受け入れ先のニューギニア政府にODAを拠出しているんですから。これはちょっと不自然では? 一体国土なき日本政府の財源は何? 拡散した日本人は、その受け入れ国に税金を払い、更に日本国に税金を払っているのでしょうか?

また、最初のうちは(とりわけ中田首相の言動に)「勤勉な日本人」とか日本人をひとつのイメージで捉えすぎていて違和感を覚えました。もちろん民族のアイデンティティの維持こそ日本政府の最大の使命なんだろうけど、たとえ、分散した結果否応なしに消えていくアイデンティティを何とか維持しようとするのが政府の施策であったとしても、それは一種ドンキホーテ的であり空しくなければリアリティがないのでは? と感じました。

そういう次第で、前半はややのっていけなかった。とりわけヘリや艦船の描写やカザフスタンでのサバイバル小説的な描写は、不必要に詳細で、そういうのを読みたくて「第二部」を購読したんじゃないぞ、と、この辺は谷甲州がやや前に出すぎていているように感じた。

しかしながら後半に入ってからは小松節全開となり(と私には感じられた)、前半の滞留感は吹っ飛んでしまいます。
テーマはPF(おお懐かしい(^^;)に収斂し、結局中田首相の「日本再浮上」論と鳥飼外相の「日本消滅」論の対決となる。そしてこの外相の所論こそ、おお、私が夢想した日本民族「浸透と拡散」論と同じではないですか。
そうして結局、日本の進路は鳥飼外相に舵取りが任されます。つまり鳥飼の思想こそ小松さんの結論だったわけで、それはとりもなおさず私が30年間夢想していた物語の骨子と同じだったわけで、わが意を得た結論でありました(^^;

「国を失った日本人が難民として世界中に漂流していく」物語は(カザフスタンの日本人集落以外は)具体的に物語られることはなかったけれど、それはやや残念ではあったのですけれど、読了後の満足感は十分に充たされるものでした。小野寺と玲子の再会シーンはいつもの小松左京の手ではありますが、やはり感動させられてしまいました。ずるい。

ともあれ33年待たされた完結篇ですが、待った甲斐がある作品に仕上がっています。「失望」を怖れて手を出しあぐねているオールドファンは安心して読んでいただきたいと思います(^^)

 


「日本沈没 第二部」  投稿者:管理人  投稿日: 710()195322

  引用

 

 

を近所の書店で見つけた。33年間待ち続けた本ですから感慨無量。
当然いま読んでいる本を中断し、100pまで読みました。
うーむ、しかしここまでストーリーが殆ど動きませんなあ。設定というか情勢の羅列がつづく。
470pの大作なので、まだはじまったばかり。これからの展開に期待。

 


「リオ・ブラボー」  投稿者:管理人  投稿日: 710()01078

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DVD「リオ・ブラボー」(59)を観る。
ほぼ「真昼の決闘」と同じ設定なのは、反・西部劇の「真昼の決闘」に反発したハワード・ホークスが、同じシチュエーションで反・西部劇ならぬ真・西部劇、これぞ西部劇中の西部劇を作ってみせたからだそうだ。
その思惑は成功し、本篇はメルヘンもしくはファンタジーとしてのウェスタンの傑作となった。

ミスター西部劇のジョン・ウェインは、「真昼の決闘」のゲイリー・クーパーとは違って自信を失っておどおどすることはない。まさにアメリカの夢を体現した強い男であり、町の人間も彼を信頼して決して裏切ることはない。
もちろん現実の西部を表現したものではない。これはリアリズムではなくイデアリズムなのであり、どこにも存在しない架空の西部――アメリカ人の心の中にのみ存在する理想の国なのだ。

その国では男はあくまで強く礼儀正しく、女はアンジー・ディキンスンのように活発で強く、男を手練手管で意のままに操るのだが、それも最終的には男に従属するためにそうしているのだ。
そのようなアメリカンドリームというファンタジーへの信仰は、しかしベトナム敗戦を契機にメッキが剥がれていく。それは現実があまりに理想から解離していったからで、それと軌を一にして、脳天気なウェスタンも次第に衰退していくのである。

 


「荒野の用心棒」  投稿者:管理人  投稿日: 7 9()182623

  引用

 

 

DVD「荒野の用心棒」(64)を観る。
いわずと知れたクロサワ「用心棒」のパクリにして、マカロニ・ウェスタンの第1作。多分テレビで何度も見ているはずなんですが(なぜなら音楽で覚えている)、殆ど初見といって過言ではありませんでした。

私はクロサワ用心棒を「意識」しては見ていない(つまりテレビで「無意識」に観ている可能性はある)ので、その面からの感想は述べられません。むしろ正統ウェスタンからどの面で本篇が離れているかを述べたいと思います(既に常識となっていることの後追いの可能性大です)。

とまれまずいえるのは、モラル観の希薄さで、最初から遠慮会釈もなく(確たる理由もなく)どんどん撃ち殺されていきます。「明日に向かって撃て」のブッチが死ぬまでひとりも殺さなかったのとは好対照で、アメリカ的モラル(アメリカの夢)を肯定する正統ウェスタンにせよ、その「反」であるアメリカン・ニューシネマにせよ、「モラル」というものが常に作品世界を規定しているのに対して、本篇はそのようなアメリカ的価値観から自由であります。もちろんこのような潮流を取り込んで以後のハリウッド映画は変わっていくわけでしょうが(アメリカン・ニューシネマもマカロニウェスタンの影響を何ほどか受け入れているはず)。

また、砂埃や爆煙の中から主人公が登場する、マカロニ独特のアングルも、従来のウェスタンにはなかった映像的新しさで、ヨーロッパ的な感覚が取り込まれているのでしょう。
ラストの決闘シーンは、日本映画ほど無駄に冗長ではないとはいえ、ちょっとしつこかった。これはクロサワ映画からの影響でしょうか。

ところで、マカロニといえば、まずジュリアーノ・ジェンマが思い浮かんだのでしたが、レンタル屋には一本もなかった。うーむ、たしかに俳優としては凡才だったかもしれませんが、あれほどマカロニで一世を風靡した人が一本もないとは……

 


「モンキー・ハウスへようこそ(2)」  投稿者:管理人  投稿日: 7 8()23495

  引用  編集済

 

 

カート・ヴォネガット・ジュニア『モンキー・ハウスへようこそ〔2〕』(ハヤカワ文庫、89)読了。

錚々たる日本SF第1世代であったが、そのなかにおいてさえ、筒井康隆というのはひとりだけぽつんと浮いていたように思う。
それは仲間はずれだったという意味ではなく(当然だ)、資質において他の第1世代作家とは全く異質な才能だったという意味でなのだが、ヴォネガットも、アメリカSF界での立ち位置は、どうも筒井康隆のそれと同じだったといえるのではないか。
両作家ともに、その(爾余のSF作家をはるか後方に置き去りにしてしまう)洗練されたスタイルは最初から確立されていたし、筒井にとってSFとは方法論だったように、ヴォネガットにおいてもSFは数ある手段の一つだった。また共にその作風は高踏的冷笑的で、しかしときにはベタなほど感傷的でもある(もっともヴォネガットは筒井よりも3倍ほど感傷過多ではあるが)。また両者とも、その筆法は一種演劇的である点も共通している。

たとえば、「ユーフィオ論議」(51)は傑作なスラップスティックコメディなのだが、この作品、筒井作として提示されても全然違和感なく納得してしまいそうだ。
冷笑性において共通するとはいえ、ヴォネガットのそれはドレスデン大空襲という原体験より来たるものなので、特に初期作品ではそれに囚われてしまって「滑稽なる悲惨」という形式をとりがちなようだ。デビュー作のテロ小説「バーンハウス効果に関する報告書」(50)や「王様の馬がみんな……」(51)にそれは顕著だが、「ハイアニス・ポート物語」(63)あたりになると、そういうパセティックな感情は影をひそめて、むしろ厭世的倦怠感が前に出て来ている。
しかしこの「ハイアニス・ポート物語」、地味な話ながら、読めば読むほど味わいがあるなあ。傑作である。
この「ハイアニス・ポート物語」を含む一連の「セールスマンもの」(「フォスター家の財産目録」(51)「帰れ、いとしき妻子のもとへ」(62)「わが村」(64))はそういう味わいで読ませる。

「夢の家」(51)や「こんどはだれに?」(64)や「手に負えなかった子供」(55)や「誘惑嬢」(56<邦題悪し)は、「ローズウォーターさん……に通ずる「変人もの」で優しさに満ちており、「孤児」(53)や「アダム」(54)や「人間ミサイル」(58<邦題悪し)や「永遠への長い道」(60)はむしろベタな人情噺(や恋愛もの)。
「ほら話、トム・エジソン」は愛すべきトールテールといえるか。

ともあれSFからスラップスティックから人情噺まで、一見多種多様な物語が収録されているが、どれを読んでも結局「ヴォネガット小説」という他なく、そのスタイルは安定している。

収録作品(但し発表年月順)
50.2バーンハウス効果に関する報告書
50.11エピカック
51.2王様の馬がみんな……
51.5ユーフィオ論議
51.9フォスター家の財産目録
51.12夢の家
53.3ほら話、トム・エジソン
53.4未製服
53.8孤児
54.1明日も明日もその明日も
54.4アダム
55.4となりの部屋
55.4構内の鹿
55.9手に負えなかった子供
56誘惑嬢
58人間ミサイル
60永遠への長い道
61ハリスン・バージロン
62.2嘘
62.7帰れ、いとしき妻子のもとへ
63ハイアニス・ポート物語
64.10わが村
64.12こんどはだれに?
66新しい辞書
68モンキー・ハウスへようこそ

 


「明日に向かって撃て」  投稿者:管理人  投稿日: 7 7()231032

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DVD「明日に向かって撃て」を観る。
いわずと知れたアメリカン・ニューシネマの代表作(69)。もう何回も観ているのだが、ウェスタン特集(笑)ということで、比較したくなってまた観てしまった。

というわけで新たな感想は別にないのだが、西部劇の名作を二本観た流れでいうならば、ウェスタンとしては洗練されすぎているなあ、というのが正直な感想。
ロケーションも前2本に比べて案外せせこましく、それは予算の関係もあるのかも知れないが、やはり50年代と69年という時代の相違だろう。かつてのビッグカントリーは、二人の強盗をも許容しないスモールカントリーへと変貌してしまったのだ。というか、69年という時代は、そういう設定にこそ人々がリアリティを感じられる時代に、もはや否応なく入り込んでいたということなのかも。

レッドフォードとニューマンがボリビアで更生を誓うシーンで、いみじくも牧場も農民も性が合わないというように、本篇は結局そのような規格化され管理された時代には生きられない人種たちへの弔鐘なのだろう。
すでに58年の「ビッグ・カントリー」においてすら、東部(WASP/スクエア)の優越が描かれていたわけで、そうであれば69年という時代のウェスタンには、もはや「無法」(ヒップ)へ引導を渡す物語しか残されていなかったともいえる。

ベトナム敗戦以降、アメリカでは管理社会化が急速に進んでいく。それはつとに人々の無意識に重くのしかかってきていたのであり、本篇を含めてアメリカン・ニューシネマは、そういった上記の無意識の澱みにいち早く気づき、映像化した潮流だったといえよう。

 


「モンキー・ハウスへようこそ(1)」  投稿者:管理人  投稿日: 7 6()204036

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カート・ヴォネガット・ジュニア『モンキー・ハウスへようこそ〔1〕』(ハヤカワ文庫、89)読了。
50年代、60年代の初期短篇集。というか、著者は70年以降、短篇は1篇しか発表していない(83年現在。〔2〕解説に拠る)らしいので、ほぼベスト集成といえる。

著者自身は、
 「この本の中身は、わたしが長篇小説を書く資金を作るために売った作品の見本帳」で「ここに見つかるのは、自由企業の果実である」(6p)
と、いかにもこの著者らしく自己卑下してみせるが、どの作品も面白くて、あっという間に読んでしまった。

まあ読み易いのも著者の特徴なのだが、平明ながらスタイルは最初から確立しており、むしろ初期の方がそれは顕著で、大抵のSFが鈍色に濁った文体であるとすれば、著者の文体はきりりと澄み切っており、彼我の差は甚だしく大きいといわざるを得ない。

もっとも、ベストセラー作家になってからの長篇作品では、そのスタイルはかなり緩んでしまっていて私自身は感心しないのだが、少なくとも本作品集がカバーする時期は、ブラッドベリなどとは別の意味で、そのスタイルを味わう悦びを堪能できる作家だなあと改めて思った。

ひきつづき、『モンキー・ハウスへようこそ〔2〕』に着手。

 


「大いなる西部」  投稿者:管理人  投稿日: 7 6()000227

  引用

 

 

DVD「大いなる西部(ザ・ビッグ・カントリー)」を観た。58年公開の2時間46分の大作だが、途中全然だれるところもなく、一気に観てしまった。
風景も雄大でよかったのが、ストーリーも東部と西部の文化衝突がテーマの、けっこう雄大な骨太の物語で面白かった。東部文化を体現する主人公にグレゴリー・ペックを配したのは適役。

ただ最終的に、グレゴリー・ペックと教師役で(西部の人間ながら教養という点で東部的な)ジーン・シモンズが(ある意味)勝ち残る筋立ては、、東部的な文化が西部的なそれに優越していく(べきだ)というもので、(西部的な心性への愛惜もバール・アイブスの演技に籠められているとはいえ)若干鼻についた。

ラストの、アイブスとチャールズ・ビックフォードの決闘シーンは実にあっけない。もちろんよい意味で言っているのであって、このシーン日本だったら「ナンジャコリャー」とかスローモーションを使いまくってしつこくて胸焼けするような演出になるんだろうな。すべからく映画はかくあるべし。

チャールトン・ヘストンは若すぎて暫く気がつかなかった(^^;

 


「使えるヘーゲル」  投稿者:管理人  投稿日: 7 4()223935

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福吉勝男『使えるヘーゲル社会のかたち、福祉の思想(平凡社新書、06)読了。

わたし的には、著作も読んだことはないし、名前はよく知っているんだけど、では一体どんな仕事をしたのか、といえば、マルクスに影響を与えたとか、現象学や弁証法など純粋哲学の先駆者といった、通り一遍な「知識」以外には殆ど知らなかったので、ヘーゲルってこんな具体的なことを考えていたのか。というのが読み始めての印象だった。

その辺は興味深かったのだが、読みすすめていくうちに、だんだんつまらなくなってきた。
なんか当たり前の話ばかりでサプライズがないんだよね。200年前(江戸時代)にここまで、たとえば市場主義とグローバリズム化の問題点なんてのを考えていたというのは、たしかに凄いっちゃ凄いんだが、21世紀ニッポンという視座から見れば、すべて既視感があって、だからなに? と思ってしまった。これはヘーゲルに向けて、というよりは著者に向けて、というべきで、

 旧いどころかむしろ新しいのである。先にあげた<現代の問題>をすでに指摘し、それへの対応策さえ的確に提示している。(15p)

というんだけど、「すでに指摘し」というのは上に書いたようにそのとおりかも知れないが、「対応策さえ的確に提示」しているとはとてもいえない。

たとえば、

 特に戦争時の攻撃を、「平和な家庭生活や私的生活および私的人格」にむけてはならない、要するに民間人・民間施設を攻撃目標にしてはならない点の確認は大切である。(172p)

というのだが、200年前にそのような認識に達していたのは慧眼というほかないが、だからといってこれが的確な対応策を示したものといえるのか、といえば全然違うだろう。戦争はかく在るべし、といったって、そんな理想的なことを戦争の現場で求めて得られるものではないことは私にだって分かる。

あるいは、ヘーゲルは、家族の機能を市民社会、国家のそれと併置して重視するのだが、それはある意味理想論なのであって、ヘーゲルの思考から21世紀的現実である「家族崩壊」への対策は見えてこない。上記のサプライズがない、というのはそういうことだ。

もうひとつ、家族の教育的機能と解体的機能(市民社会への射出)も、理想論的に楽観的で、ここには(かかる正反二機能の不全だと思うのだが)「ひきこもり」は不可視となっている。

ヘーゲルが凄く真面目な社会思想家であることはよく判ったが、著者はそれに輪をかけて生真面目な学者なんだろう。真面目な思想家の言説を生真面目な学者が注釈すると、相乗効果でとんでもなく「現実」から遊離した(不良やぼんくらは視野の外に置かれてしまう)言説になってしまうのかも知れない。人間は「よい子」ばかりではないのだ。

もちろん「福祉自由主義」という(ヘーゲルの思考から著者が析出した)志向性は私も間違っていないと思う。だがそのような志向性は、改めてヘーゲルを持ち出さずとも、現に一定の勢力を有しているものなのではないだろうか。

 


表紙絵判明  投稿者:管理人  投稿日: 7 2()110752

  引用

 

 

眉村卓さんの待望の新作長篇『いいかげんワールド』の表紙が出来上がったようです。出版芸術社

うーむ、やっぱりオズっぽい雰囲気ですなあ(^^;
実は、猫とロボットをお供に諸国漫遊する眉村黄門様、というイメージがパッと浮かんでいたんですが・・・。

 


「真昼の決闘」  投稿者:管理人  投稿日: 7 2()000329

  引用  編集済

 

 

DVD「真昼の決闘(ハイヌーン)」を観る。
見るのは実は、これが初めて。
この映画、西部劇にメルヘンないしファンタジーを求める向きには不評だったらしい。
さもありなん。人間心理の綾が実にリアリスティック。52年の作品なのだが、後のアメリカン・ニューシネマ的な作劇法といえるかも。

絞首刑を免れてならず者が町に帰ってくると知って、結婚してバッジを捨てた保安官が、町を救いに戻ってくるのだが、町の人々は逆に「戻ってこなきゃよかったのに」と厄介者扱い。
屋根に登らされて梯子が外されるというより、勝手に登ったら梯子が自然に落ちていたという図で、実にかっこ悪い。自信満々だった保安官だが、誰も助っ人してくれず、次第に自信をなくしていく姿をゲイリークーパーが好演している。だんだん肩が落ちていき、目がおどおどして何となく背中までいじけた風に曲がって見えるのであった。
で、結局最後はカッコイイのだが、かっこ悪さをアウフヘーベンしたかっこよさで、その点は木枯し紋次郎に通ずるものがある。
ラストのならず者が保安官の新妻を盾にするシーンは、日本のドラマだったらこのシーン、蜿蜒と(アップを多用して)引っ張ってしらけさせられるところだが、あっという間に決着する。すべからく演出とはかくあるべしと思ったことであった。

 


「小説 金色のコルダ  投稿者:管理人  投稿日: 7 1()211716

  引用

 

 

藤野恵美さんの新作(ゲームのノベライズ)「小説 金色のコルダ 君のためにできること」がようやく本日発売になった模様です。アマゾン
ランキングを見てびっくり! なんと471位!
ちなみにハヤカワSF文庫新刊の「シンギュラリティ・スカイ」は1490位(^^;
まあこのランキング、同じ日であっても時間帯でごろっと順位が変動するらしいので(ざこばさんが自著についてラジオでそう言っておられました)、どこまで信用できるのかよく判りませんが、とにかく売れているのは間違いなさそうですね(^^)

 


PPM  投稿者:管理人  投稿日: 7 1()193238

  引用  編集済

 

 

ツタヤが半額なので、見繕って借りてみました(本当はそんな余裕はないのですが)。

「ベスト・オブ・P・P&M」>これはたぶん中学の頃持っていたLPのCD盤だと思う。
――と思ったけど違うかも。ベスト盤だから似たラインナップになりますもんね。

しかしやっぱりいいですなあ。パフ、レモントゥリー、500マイル、ハッシャバイ、ゴーン・ザ・レインボウ、クルエル・ウォー ……懐かしい。
最近はパソコンの(貧弱な)スピーカーで聴くことが多いからか、こういうシンプルな音に流れ気味です。
年とったせいもあるかも(^^;
よわいも磯路に入ると、またローティーンの頃の耳に戻ってしまうのでしょうか・・・。今度キングストン・トリオ借りよう。

 


「架空の王国」  投稿者:管理人  投稿日: 7 1()001914

  引用  編集済

 

 

高野史緒『架空の王国』(ブッキング、06)読了。

1997年刊行の中央公論社版に「外伝」が新たに付加されている。実際のところ元版は未完成品なのであり、「外伝」の付加によって初めて本書は完成したといえる。

いやこれは素晴らしい。本書は文字で書かれたゴシック建造物である。ある架空の小国の数奇な歴史と運命が、そして再現が、中世から現代に至るフランス史の土台の上に精緻に構築されており、どこまでが(歴史的)事実でどこからが虚構なのか、その接合部分はきわめて巧妙に読者の目から隠されている。その手際は半村良のそれに匹敵する。著者の西欧史への造詣の深さが十二分に生かされていて、よくもまあ、ここまで企んだものよと、その構築力に感嘆させられた。

と同時に、この著者の中には、相反する衝動である「神聖冒涜」へ向かう傾斜があって、堅牢に築かれたゴシック世界は、ある謎解明によって見事に化けの皮をひん剥かれて、電気仕掛け(IC仕掛け?)の内部が曝される。あたかも浜辺で砂山を築いていた子供が、完成した途端、一突きにその山を突き崩してしまうように……

本篇はまた青春小説でもあり、ボーイ・ミーツ・ガールの定型を踏む。ただしその成就は、実に400年の時を超えての成就なのだが……
と同時に、一見さわやかな青春小説の裏側には、なにやら怪しげな気配が見え隠れしているようでもあって、一筋縄ではいかない。

本篇は実質的な処女長篇らしいのだが、たしかに処女作らしく著者のありったけが本篇にはぶち込まれている。その分(特に後半)意あまって力尽きてしまったところもなきにしもあらずだが、そういう「向う傷」も含めて、著者の表現への貪欲な意志がひしひしと伝わってきて好感が持てる。本年度日本SFベスト級の傑作ではないだろうか。
詳しくは、チャチャヤン気分で!

 


 

 

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