ヘリコニア談話室ログ(20073)




60年代後半  投稿者:管理人  投稿日: 331()230216

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ザ・ショッキング・ブルー 悲しき鉄道員
ジリオラ・チンクェッティ 
リン・アンダーソン ローズ・ガーデン
シルビー・バルタン あなたのとりこ
ヴィッキー 恋は水色
ジ・オリジナル・キャスト ミスター・マンデイ

 




新羅=出雲連合王国の瓦解  投稿者:管理人  投稿日: 331()15292

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石原博士が連載中の「卑弥呼と日本書紀」ですが、ここ数日は新羅第四代王昔脱解の出自が考察されていて、とても啓発されました(^^)
私自身はずっと脱解の故国は出雲だと考えていたんですが、出雲がなぜ多婆那国なのかは解釈できずにいました。
今回、博士は多婆那国を、《籠神社》一帯の「丹波国(後に丹後に分国)」に国語学的根拠に基づき比定されており、納得できます。
うーむ、私の妄想古代史では、ある時期<新羅=出雲連合王国>が存在したことになっているのですが、これは破棄しなければならないようです(^^ゞ

ついでながら第二代南解次次雄の次次雄(ススン)は称号ですが、スサノオ(ススンの王)と読ませる説があり、書紀一書のスサノオが新羅からやってきたという説と併せて南解王の時に、この連合王国は出来上がっていた(出雲の脱解と新羅の南解が組んだ)というストーリーだったんですけどねえ……

ところで、新羅初代の赫居世の股肱の重臣である瓠公も倭人とされています。瓠公はホコウであり、九州説のいわゆるアマタリシホコのホコ(彦)と同じとすれば、出身は北九州の倭国である可能性があります。そうしますと新羅出身のアメノヒボコもホコであり、案外ヒボコは新倭混血だったのかもしれません。

 




読了  投稿者:管理人  投稿日: 331()015555

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<物質生成の場>の秘密」を読む。
本書収録作品はすべて50年から51年にかけてスタートリング誌に掲載されたものだそうですが、この短編企画が二年強で打ち切られたのも肯なるかな、という感じですな。
とはいえ本篇でも「若気の至り」をフォローするものとしての年配者の存在意義が語られており、以前の脳天気なスペオペから脱却しようという意志は感じられます。むしろこの7作での試行錯誤の結果、「向こうはどんなところだい?」(52)でニュー・ハミルトンが誕生する。打ち切りから僅か1年半後のことです。
そのような意味で本書はオールドハミルトンがニューハミルトンへと移行する過渡期的作品群といえるかもしれません。

本書にはあとコラム集「フューチャーメンとその仲間たち」が残っていますが、これはまあいいでしょう。
ということで、エドモンド・ハミルトン『鉄の神経お許しを 他全短編』野田昌弘他訳(創元文庫、07)の読み終りとします。

 




『鉄の神経お許しを 他全短編』より  投稿者:管理人  投稿日: 330()011018

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「忘れじの月」、「もう地球人では…」を読む。
後者は読了するのが苦痛だったが、前者はリイ・ブラケットのスタークものを彷彿とさせる佳作でした。「忘れじの月」もまた、肉体からの離脱願望がもろにでていますが、ある意味向日的な「太陽の子供たち」とは正反対に、うしろ向きに小暗い<過去>へと沈潜していく。
いずれにしても肉体嫌悪では共通しており、本書の諸篇が書かれたのが50年、51年ですから、ハミルトン40代半ば。まだ老いるには早すぎる気もしますが、迫り来る肉体老化への予感がかかる肉体からの離脱モチーフの形成に少なからず与っているのではないでしょうか。その意味で「忘れじの月」は眉村さんばりの老人SFといえましょう。

 




幻影城の時代トークショー  投稿者:管理人  投稿日: 329()024318

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『鉄の神経お許しを』
表題作まで読む。表題作はさすがに面白い。「太陽の子供たち」と「衛星タイタンの〈歌い鳥〉」は、数行読んでは居眠り、の繰り返しで全然駆動がかからなかったのだが、表題作は一気に読んでしまった。

ここまで通しての共通項は、いわば「肉体に鎖された精神」もしくは「牢獄しての肉体」というべきもので、「太陽の子供たち」では肉体から解き放たれた精神は、もはや肉体に戻ろうとしないし、 「衛星タイタンの〈歌い鳥〉」で図らずも肉体を得たサイモンは、その肉体から開放されてホッとするのである。

告知です。
地下室の古書店が来たる2007年5月27日(日)〜29日(火)、午前10時〜午後6時30分、東京古書会館地下ホールにて開催され、トークショー「幻影城の時代」として本多正一さんが、島崎博編集長の親友で文芸評論家の権田萬治さんのお話を伺います。既に予約は開始されているそうです。定員60名ですが、『幻影城の時代』は10日で完売したとのことなので、興味のある方は早めに予約されたほうが安全かも。詳しくはリンクで。

 




『鉄の神経お許しを 他全短編』  投稿者:管理人  投稿日: 325()123944

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巻頭の「キャプテン・フューチャーの帰還」を読みました。
なんか既視感があったので、末尾に付された初出情報を見ると、コラム集である「フューチャーメンとその仲間たち」を除いて創作はすべて既読でした。うーむ。
 「鉄の神経お許しを」→アンソロジー『太陽系無宿』所収
 「衛星タイタンの<青い鳥>」→SFM83年7月増刊号「キャプテン・フューチャー・ハンドブック」所収
 「キャプテン・フューチャーの帰還」→同上
 「太陽の子供たち」→同上
 「忘れじの月」→同上
 「もう地球人では……」→同上
 「<物質生成の場>の秘密」→同上


唯一、比較的最近読んだ「鉄の神経お許しを」は、シリーズ自体を相対化する視点があって、ニューハミルトンがキャプテンフューチャーに取り組んだといった、そんな新鮮さがとても面白かったのでよく覚えているのですが、SFM増刊号はその存在自体を失念していました。当然内容を覚えている筈がない(^^;
読了した「キャプテン・フューチャーの帰還」は、その意味でたしかに、我ながら覚えてないのも無理ないなという内容でありました。

 




プカプカ  投稿者:管理人  投稿日: 325()024540

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仕事さがしの高田渡に捧げるなぎら健壱

淋しい気持ちで斉藤哲夫

プカプカ西岡恭蔵

プカプカEarly Times Strings Band

『鉄の神経お許しを 他全短編』に着手。

 




「緑の資本論」  投稿者:管理人  投稿日: 320()002210

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高田渡生活の柄ブラザー軒

加川良生活の柄あきらめ節

西岡たかし遠い世界に

EL&PJazz improv

中沢新一『緑の資本論』(集英社、02)読了。

 




トレーン  投稿者:管理人  投稿日: 318()010221

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わ、コルトレーンが!
My Favourite ThingsドルフィーとImpressions
マイルスとSO WHAT

さすがにアイラーの映像はなかったけど→これは映画のBGMでしょうか?

 




ジョン・マクラフリン  投稿者:管理人  投稿日: 318()001810

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マハヴィシュヌ・オーケストラ
スーパーギタートリオ
シャクティ

 




懐かしきプログレ  投稿者:管理人  投稿日: 317()221021

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いやあ、youtubeって、凄いですねえ。ハマってしまいました。
で、こんなの見つけた。

ピンクフロイドの神秘
EL&Pのバーバリアン
同じくEL&Pのナイフエッジ賢人

なんとザ・ナイス時代のライブも!
実はナイスを聞くのは初めてなんですが、これがスタンダードなスタイルなら、やはりグレッグ・レイクあってのキース・エマーソンということになりますね。

ああ、今日は一晩中youtubeで遊んでいそう(^^;

オマケ>ELOのロールオーバー・ベートーベン
ウッドストックのサンタナ

 




「トゥバ紀行」  投稿者:管理人  投稿日: 315()202947

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メンヒェン=ヘルフェン『トゥバ紀行』田中克彦訳(岩波文庫、96)読了。
感想をチャチャヤン気分に掲載しました。

次は中沢新一『緑の資本論』に着手の予定。

 




「アイの物語」補遺  投稿者:管理人  投稿日: 312()205156

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フラクタル的ということで、昨日書き落としたことがありますので補足。
「インターミッション8」で、TAIたちが宇宙空間にサーバーを移してそこに常駐し、もはや地球にはヒトを支援するマシンしかいないことが明かされるのですが、これは「未来のない」人類のために、彼らが地球を明け渡したということに他なりません。すなわち人類は、地球で、支援マシンに見守られながら、やがて滅亡していく……。

これって、「詩音が来た日」とフラクタルな関係にあるといえるのではないでしょうか。
そう、未来のない人類(老人)は介護ロボットに支援されながら、やがて確実に来る死を迎えるのです。地球という<介護老人施設>で……。

メンヒェン=ヘルフェン『トゥバ紀行』に着手。

 




「アイの物語」  投稿者:管理人  投稿日: 312()032133

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山本弘『アイの物語』(角川書店、06)読了。
いや〜、一気に読みました。瀬名秀明『第九の日』と同じテーマ。併読すれば料理の仕方の違いが楽しめます。
7編の中短編を8つの「インターミッション」で繋いだ長編ですが、第6話「詩音が来た日」は、老人介護の現場がよく取材され作中に反映されていて、「普通小説」としても非常によくできています。私は直木賞候補になっていてもおかしくなかったと思いました。

長編としてのテーマは、昨日の「すばらしき愚民社会」と通ずる面があります。著者はそれを「ヒトの限界」と考えているようです。私も「愚民」というよりは、そもそもこれが(現状)ヒトの限界なんだろうという考え方に惹かれます。実は愚民と考える立場のほうが人間をまだ見捨てていないんですよね。

ちなみに、先日『バビロニア・ウェーブ』の感想で、アポロ後の宇宙計画の停滞の影響で、人類は自力では恒星間飛行に至らないのではないかという共通認識を70年代以降のSF作家は抱いたという仮説を述べましたが、本書でも「ヒトの限界」の一例として同様の記述があります(458p)。

クラーク『幼年期の終り』では、人類の中から一握りのオーバーマインドが進化していくわけですが、山本弘はヒトは限界を超えられないとします。そうして人類の夢はオーバーマインドではなく、TAI(真AI)によって継がれ、宇宙に拡がっていくイメージが描写されるのですが、この辺は『ディアスポラ』と重なりますね。もっとも「ディアスポラ」では人間の脳の情報がVRにコピーされるわけですが。

というわけで、個々の直木賞的「普通小説」を連鎖した長編としての本篇は、ラストでクラーク的、あるいはイーガン的なアセンションが開示され、俄然堂々たる本格宇宙SFの様相を呈します。このように本書はミクロとマクロ、あるいは日常レベルと宇宙レベルの間をいとも易々と往還する、そのレンジの切り替わりが独特の浮揚感を読者にもたらすのですが、その構造は、振り返れば第1話「宇宙をぼくの手の上に」に於いて既にフラクタル構造的にあらわれています。

 




「すばらしき愚民社会」  投稿者:管理人  投稿日: 310()211920

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小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮文庫、07)読了。
おおむね首肯できます。
わたし的に要約するならば、小泉政権の施策で「一般大衆」の生活は更に苦しいものとなりましたが、その小泉政権を支えたのが他ならぬ彼らであったわけで、このような不合理な行動を取った彼らを著者はバカ呼ばわりしているわけです。これは根源的真実です。ところがマスコミの論調でそこまで徹底したものはありません。著者が社会党を罵倒するのも肯なるかなです。

ただ私も「ゆとり教育」(下にあわせる)を批判するものですが、その理由は「下に合わせた結果」として学校教育が生徒に付与できなかった部分を、事実上塾に丸投げする制度だからで、しかも本来の丸投げと違って塾の費用は、学校教育費とは別出費を親に強いるものだからです。
その結果親の経済状態が教育付与の質と相関してしまうのです。遺伝的要素は確かにあるかも知れませんが、それが平等な教育を与えなくていい理由にはなりません。

管見では、塾なんかに通う暇がないくらい学校教育がすべての生徒に平等に拘束的で充実してあるべきだろうと考えます。そのような教育の平等が実現された結果、そのあとに遺伝的影響が認められたとしてもそれは構いません。ともあれ同じ年次で入学したものが揃って卒業するという悪平等な風習は是正されるべきでしょう。私などは脳の発達(特に抽象的・数学的思考力)がオクテでしたから、小学校を7年行くべきだったと今でも思っています(ただし具体的な空間の3次元的認識力は他の子に比べて発達が早かった。かくのごとく人間はその諸能力がすべて同じ速度で足並みをそろえて発達していくわけではありません)。

 




「第81Q戦争」読了  投稿者:管理人  投稿日: 3 9()214818

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ここからシリーズ外の作品に入ります。
まずは「西欧科学はすばらしい」(58)がすばらしいです。この中国雲南省奥地に隠遁する火星人魔術師がユニーク。どうやったらこんな存在を思いつけるんでしょうか(^^; 合衆国に渡った彼の、書かれざる行状を想像するだけで、私は笑いをこらえることができません(^^ゞ
共産主義者は唯物論者であらねばならないとして、そこに「あってはならない」火星人を、なんとか「自由の国」アメリカへ追っ払おうと巧言を弄するロシアと中国の共産党員が笑えます。
本篇や「ガスタブルの惑星より」を読めば、「ユーモア作品」が「決して得意だったとは思えない」(訳者あとがき)という評言がまったく的外れであることがわかるでしょう。スミスには、星新一に通じる(ちょっと意地悪な)「すれたユーモア感覚」があります。

「ナンシー」(59)は、どうということのない作品ですが、形式としてはトールテールであり、このトールテールという形式は、シリーズ外作品すべてに当て嵌まっているようです(そういえばスミスはラファティとも感覚を共有しているかも)。
「達磨大師の横笛」(59)は、ラストで壮大なホラ話となりますし、「アンガーヘルム」では死者がフルシチョフ以下ソヴィエト首脳をケムに巻いてしまう。

「親友たち」(63)は非常に残酷な話で、本篇を「補完機構もののひとつと考えてなんの違和感もない」(訳者あとがき)という意見に私も賛成なんですが、私自身はその根拠をかかる残酷さを惹起する「宇宙空間の神話的悲劇性」に求めたいと思います。

以上で、コードウェイナー・スミス『第81Q戦争』伊藤典夫訳(ハヤカワ文庫、97)の読み了りとします。いやバラエティに富んでいて楽しい作品集でした。

 




「第81Q戦争」より(3  投稿者:管理人  投稿日: 3 8()210621

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今朝のというか未明の午前四時、ガバと私は布団をはねのけて起き上がった。
なぜ起きたのか? その理由も起きた瞬間に把握していました。
それは――「昨日の下の記述、私の勘違いかも」(汗)

で、起き出して「マーク・エルフ」と「昼下がりの女王」をチェックしました……私の無意識は正しかった(^^;。と同時に私は非常に複雑な思いに捉えられてしまいました。

まずは記述を整理してみましょう。
1)「マーク・エルフ」35p「貴族階級の十六の娘」>これは1945年4月2日現在のカーロッタの年齢です。
ところが、
2)「昼下がりの女王」85pにカーラが凍眠状態にはいったのは(即ち1945年4月2日現在)「十六歳」であったと書かれています。この部分をみてハヤカワ編集部は「姉妹の年齢差がおかしい」と思ったんでしょう。
つまり「凍眠状態にはいったのは(カーラは)まだ16のときだから、この仕事はあなたのほうが適任だと思った」ので、カーラではなくユーリが目覚めさせられた。つまり「昼下がりの女王」では次女がユーリで末娘がカーラと考えられているわけです>後述参照。

ところが、
3)「マーク・エルフ」48pではこうも描写されています。
「カーロッタは全く成人していた」>これも1945年4月2日現在のカーロッタの年齢であり、1)とは矛盾する記述です。ナチスドイツにおける成人が何歳を差すのか私は知りませんが、現ドイツの成年は18歳なので(参照)、少なくとも18歳以上であることは間違いありません。
*ついでながら「昼下がりの女王」85pにカーロッタが「わたしよりふたつ年上」とのユーリの発言があり、そのユーリは(上記のように)カーラより年上ですから、カーラ16歳を基準にしますと、ユーリは17歳以上、カーロッタは19歳以上となります>下述参照のこと。

つまり1)を信用すれば、ハヤカワ編集部の疑問は正当なものですが、3)を信用すれば、疑問の根拠は失われてしまうのです。
「おそらくは彼女のケアレスミスだろう」という以前に、スミス自身がケアレスミスを犯していたのです。結果、編集部が正しいか、私が正しいかについては不定というほかありません。
しかしながらこれに気付いていない訳者はやはりゲラ校正を怠けているといわざるを得ませんよね(^^ゞ。

以上は「昼下がりの女王」の記述にしたがって、長女カーロッタ、次女ユーリ、末女カーラとみなしての話でした。
ところが――
4)「マーク・エルフ」48pにこんな記述が……。
カーロッタは「父・フォムマハト勲爵士の命ずるままに、姉や妹と別れて」別々のロケットに乗り込んだとあるではないですか。つまりこの記述に従えばカーロッタは次女となる。ユーリがカーロッタより2歳年下の妹であることは確定しているので、そうしますとカーラは末女ではなくて長女となってしまう。
ジュヌヴィエーヴがケアレスミスを犯しているとしたら、まさにこの部分を指摘すべきでしょう。

結局のところ、コードウェイナー・スミスが創造したのは、小説ではなく、まさに「神話」なのであって、神話であるからには細部に矛盾があるのはむしろ当然ともいえ、その矛盾を殊更追求するのはあまり意味がないということになりましょう。事実そのような細部の矛盾は、作品世界を全く損なっていません。というか編集部はスミスの本質が分かってなかったといえる。SF専門の編集部としてはお粗末な限りですが。
一方でそのような編集部を一喝できなかった伊藤典夫もなんだかなあ、と思わないではないのですが、まあ伊藤さんの(書かれたものから想像する)性格からすれば無理もないかもとも思ってしまうのでした(^^;

それにしても人間の無意識って凄いですねえ。

 




「第81Q戦争」より(2  投稿者:管理人  投稿日: 3 7()210035

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「昼下がりの女王」(78)と「大佐は無の極から帰った」(79)を読みました。
この2篇、一応シリーズ内作品なのですが、初出年を注目されたい。どちらもスミスの没後に発表されたもの。
前者は「スミスの2章分の原稿をもとに、未亡人のジュヌヴィエーブが完成させた」(訳者あとがき)ものですし、後者は「「酔いどれ船」の発表されなかったオリジナル・ヴァージョン」(同上)なのです。

まず前者について――
未亡人は、実は私が大好きな「星の海に魂の帆をかけた女」にも関与しています。でも最終的に仕上げたのは当然スミスでしょう。そこが本篇の成立事情と決定的に異なります。
本篇は出だしこそオリジナルですが、つまるところ未亡人の作品といって差し支えありません。オリジナル原理主義者の私としましてはきわめて胡散臭く感じざるを得ません。

で、実際に読んでみて……さほど悪くはなかった(^^)。というよりもずいぶん面白い作品に仕上がっていました。
でもこれは、ある意味ありきたりの児童文学的なファンタジーだと思いました。非常に起承転結がしっかりした「まともな」小説なのです。どういうことかというと、スミス特有の、あの飛躍と断絶に充ちた詩と小説のあわいに位置する神話・叙事詩・譚詩の趣きは殆どありません。オーラが出ていないんですね。

とはいえ「スミスの創作メモぐらいの気持ちでお読みいただくほうがいい」(同上)というのは言いすぎでしょう。これはこれでしっかりしたファンタジーの佳作だと思います。
ただしスミスの作品ではありません。
ジュヌヴィェーヴのオリジナルとみなすべきで、その意味でこのようにスミスの作品集に収めてしまうのはどうかなと思いました。

それから訳者あとがきによれば、「以前のSFマガジンに訳出したときも、今回ゲラになったときも、姉妹の年齢差がおかしいという疑問が編集部から出た」とありますが、どこが疑問なんでしょうか。年齢差の理由はちゃんと説明されていてそれは納得できるものだと思いますが。

こういう記述を目にしますと、私などはモクモクと見てきたような妄想がわいてきまして、この編集はきっと10分やそこらで本篇を「ざっと」読み、そのような疑問をもったんではないか。近年の無駄に分厚いニュースペオペならばそれでいいかもですが、スミスのような作家の佶屈した作品はきちんと「精読」してほしいものです(いやまあ実際はジュヌヴィエーヴの作品ですけど)。

また訳者も上記を受けて「おそらくは彼女のケアレスミスだろう」と記しているのも納得がいきません。
なんでやねん(^^;
なんで(翻訳のためおそらく原作者本人よりも丹念に何度も読んでいる筈の)訳者がそれに気付かないのか。
私の見るところおそらく伊藤さんは著者校を怠けたに違いない(^^;
本篇は92年にSFMに訳出されており、97年に本文庫が出るまでに5年の歳月があるため、訳者自身細かいところはすっかり忘れてしまっていたのではないでしょうか。で著者校を省いたため編集に言われたとき「そやったかいな」という感じだったのではないか。これは私の中では「確信」にちかいものがあります。目の前にありありと浮かんでくるのです(^^;

次に後者。これはスミス生前には発表されなかった、つまりスミスによって「反故」とされた作品に違いありません。意に染まない作品だったのでしょう。だから新たに「酔いどれ船」を書き上げたんです。
読み比べてみれば彼我の差は明らか。「酔いどれ船」にあった神話特有の「神々の戯れ=運命の悲劇性」は本篇には微塵もありません。スミスの研究家は別として、一般のSF読者が読む必要はあまりないように思いました。

 




「第81Q戦争」より  投稿者:管理人  投稿日: 3 6()22222

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本集には<人類補完機構もの>だけではなく、シリーズ外作品も収録されています。
というか、『鼠と竜のゲーム』『シェイヨルという名の星』の2アンソロジーから洩れた作品が拾い集められているというべきでしょうか。
で、そのうちのシリーズ作品をまず読んでみました。

表題作(28)は著者15歳のときの「記念すべき第1作」――なんですが、有体にいって中学生の習作以上のものではありませんな。本書の「おまけ」と考えるべきかも。

「マーク・エルフ」(57)は第2次大戦より2000年後、ドイツ第6帝国のAI戦車(人間狩猟機11号・メンシェンイェーガー・マーク・エルフ)が、もはや存在しない敵を求めて徘徊している荒廃した地球、という設定だけで読ませます。ジェイムスン教授のように地球軌道上で冬眠していたカーロッタが地上に降臨し、補完機構の名門ヴォマクト家の創始が語られます。

「人びとが降った日」(59)は、金星に中国人(チャイネシア人)が(言葉のそのままの意味で)雨のように降りそそぐ、トンデもない話(^^; そういえば最近のSFMでも似たような話が載ってました。

「青をこころに、一、二と数えよ」(63)は、これぞまさしくスミス・ワールドどまんなか。私が愛好する「星の海に魂の帆をかけた女」(『鼠と竜のゲーム』所収)に匹敵する譚詩(バラッド)でした。

「ガスタブルの惑星より」(62)は、これはまた一転して切れ味鋭いオチが星新一を髣髴とさせる乾いたブラックユーモアの効いたショートショート。

「酔いどれ船」(63)は典型的未来神話。タイトルから想像されるとおり未来のランボーが神(補完機構長官)の「戯れ」で過酷な運命に翻弄されます。

「夢幻世界へ」(59)は、訳者あとがきにあるとおり、シリーズ作品としての必然性はあまり感じられないけれども、スミスには珍しく「小説」になっていて、これはこれで面白かった。

 




ハルさん情報  投稿者:管理人  投稿日: 3 5()203137

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毎日新聞3月3日朝刊学芸欄に藤野恵美さんの新作『ハルさん』の紹介文が載りました。読む
そして早くもネット書評が!! 88点だそうですよ(^^)→ペンギンブックカフェ

コードウェイナー・スミス『第81Q戦争』に着手しました。

 




『シェイヨルという名の星』読了  投稿者:管理人  投稿日: 3 4()202739

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「老いた大地の底で」

ギャラクシイ誌66年2月号に掲載されたスミスの遺作。スミスは66年8月6日に亡くなっているそうです。たしかに死の予感めいた雰囲気が作中に充満していて、一種異様な寒さを感じる作品でした。
斎藤別当実盛ではありませんが、死が目前に迫っている補完機構の長老ロード・ストー・オーディンが、秘中の秘<三重思考>でアクナトン(イクナートン)を気取るサン=ボーイと相打ちする凄絶な物語。

オーディンという名前からも明らかなように非常に神話的な物語で、オーディンが二人のロボット従者を従えて地球高空に聳えるアースポートから地下世界ベジアクへと天下っていくところなどは、さながらオリンポスの山からギリシャの神が地上へ下り降る姿を髣髴とさせられます。補完機構という存在自体が、一般人からすれば隔絶した存在であり、ヴォークト的な為政者のイメージが強いことは昨日も述べましたが、本篇でオーディンがサン=ボーイを倒すために用いた<三重思考>もまた、いかにもヴォークト的なガジェットですね。

ヴォークト的世界も、何ほどか神話的ですが、スミスは更に神話的雰囲気が濃厚で、形式的にも神話の構造をそなえており、とりわけ本篇では上記のようにそれはある意味あからさまといえます。
その結果、物語は「運命の物語」といって過言ではなく、その「物語」は決して「小説」ではありません。まさしく吟遊詩人によって歌い継がれる「叙事詩」の形式が踏襲されているように思われます。その分「小説」としては破格なので、小説に慣れた読者には「突拍子のなさや異様さ」(訳者あとがき)と感じられるのかもしれません。
むしろダンセイニのように「創作神話」を読むように読むべきでしょう。その形式に慣れさえすれば、違和感なんか吹き飛んで作品世界に憑り込まれてしまうこと疑いなし。

ところで、ニーヴンの中篇を読んで、そこにスミス的な雰囲気を感じたこと、またその理由を以前書きました(2/26)。そのときに書き忘れたのですが、たとえば「ウイ・メイド・イット星」がそうですが、そのような命名の傾向からもスミス的な雰囲気を感じたようです。
「シェイヨル……」に出てくるゴー=キャプテン・アルヴァレズのゴー=キャプテンというのも我々日本人にはふしぎな語感を感じさせます。ですがこの「ゴー」はいわゆる美称なんでしょう。記紀をひも解けば「武し」内の宿禰とか「大」足彦(オホタラシヒコ)尊のように類例はいっぱい見つかります。「ゴー=キャプテン」を和訳するならば「征将軍アルヴァレズ」となります。英語の知識のないことを棚に上げて断定しますと、英米人が「ゴー=キャプテン」に感じる語感は、我々が「征将軍」という言葉に感じる「古代的」な語感に近いものがあるのではないでしょうか。だとすればこのような語の選択も作品の「神話化」に一役買っている可能性がありそうです。

――ということで、コードウェイナー・スミス『シェイヨルという名の星』伊藤典夫訳(ハヤカワ文庫、94)の読み了りとします。

 




『シェイヨルという名の星』より  投稿者:管理人  投稿日: 3 3()214810

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「クラウン・タウンの死婦人」

本篇は150頁のノヴェラで、長尺な分ストーリーがリニアなので、スミスにしてはするする読めます。
とはいえナラティブが重層的なのは相変わらずであり、桁外れに前後に延びる時間(歴史)のなかの一場面という根本的設定は、先日も書いたようにシマック的なのだが、それは同時に光瀬龍的ともいえ、その意味で東洋的無常観めいたものを強く感じました。原書の編者ピアスの解説にある「中国風」という言葉はこのあたりも踏まえているのではないでしょうか。
また神の如く隔絶した権力者である人類補完機構の長官たち(たとえばロード・リマオーノ)のイメージはヴァン・ヴォークト的です。つまりスミスは、SF正統派のクラークやハインラインではなく、ある意味異端なヴォークトやシマックの血を濃くひいていることは間違いないでしょう。

さて内容ですが――わたし的には何もいうことがありません。ただただ堪能しました。

唐突ですが、憲法第9条って、構想されたそもそもの最初はこのような在り方を念頭においていたのではないかと思います。中学の時、社会の教師はガンジーの思想が第9条の基本理念だと、確かにいっていたと記憶していますから。つまり自国を防衛するのは当然のことといった現実にまみれた観念とは全く位相が異なる高みから発想されているのであって、(少しそれますが)そのようななし崩し的なすり替えをする位なら憲法の改正(「正」かどうかは別として)で対応すべき。

ともあれ、この「革命」で語られる思想は、スミスが、タフでシビアで酷薄な政治の世界の裏側を生きてきたからこそ抱くに至った心境なのに違いありません。それが憲法第9条の理念と同じということは、憲法第9条の理念としての正しさを証明しているといえるかも知れませんね。

 




「ハルさん」  投稿者:管理人  投稿日: 3 2()214633

  引用

 

 

amazonから、藤野恵美さんの新刊『ハルさん』が出たよ、というお知らせメール(?)が届きました。→【amazon】

やあ遂に出ましたか! この作品、某畸人郷周辺では去年の年末あたりからぽつぽつと噂にのぼり、注目され始めていたんですが、ようやく無事刊行と相成ったようです。
藤野さん初の一般読者対象の本格ミステリ、しかも版元は東京創元社の看板シリーズ<ミステリ・フロンティア>となれば、ミステリ読者の期待が否が応でも膨らんでいくのは致し方ありませんな(^^;

内容は、東京創元社のサイトの紹介から想像するに、所謂コージー・ミステリというヤツではないでしょうか。表紙もそんな感じですね(^^;
コージーミステリって名前はなぜか知っていますが、読んだことはないので、その意味でも楽しみ楽しみ(^^)

ついでに先月徳間から出た『紫鳳伝』についてのインタビューはこちら
読むと『紫鳳伝』と『ハルさん』を同時進行で執筆していたみたいですね。もはや売れっ子ですなあ、というより(児童小説から少女小説から中華ファンタジーから本格ミステリまで)注文に応じて納品できるというのが凄い。しかもクオリティは下がるどころかむしろ上がっていっているのですから恐れ入ります。まさに超弩級新人登場といったところではないでしょうか?
腱鞘炎が心配ですが(^^;、新人作家の通過儀礼みたいなものですから、ここは目一杯頑張って乗り越えてほしいところ。ということで、皆様のご支援、よろしくお願い致します(^^ゞ

 




Re: 『燈台鬼』  投稿者:管理人  投稿日: 3 1()204948

  引用  編集済

 

 

石川さん

> 『ミステリ百科事典』でのダイジェスト紹介を先に読んでおくと、
> さらに興味が湧きますよ。
ご紹介ありがとうございます。
前も書いたかも知れませんが、式貴士って本当に芸(?)の幅が広いですねえ。博覧強記と申しますか、基本的に勉強家なんでしょうね。そういう意味では小松左京と同タイプかも。ただし小松左京の場合は幅が広いといってもジャンルが隣接している。
      -科学 -
例えばSF|    |-未来学 という具合に、繋がりながら拡がっていきます。
      -社会学-

比べて式貴士はもっとジャンル的にとりとめがないですね(リンク先のHPを読んだ限りでの感想ですが)。結果として「ものすごく幅広い人脈を持」ち得たといえるのかもしれませんが、それゆえに「全体像」は非常にイメージし難く、評価的にワリを食っていますよね。その意味で石川さんのページの意義はとても大きいと思われます。

よくもまあここまで、と脱帽するほかありません。この精緻さというのか持続力は、飽きっぽい私にはとても真似できません(石原藤夫さんのネット活動にも同じことを感じてます)。先日も眉村ファンの方から拙HPの杜撰さの指摘を受けたばかりですが、まあ私には向いてないようです(^^ゞ

と最後は話もそれてしまったばかりか、愚痴になってしまいました。ともあれ、文春文庫版が生きているようなのでチェックしてみますね。

 


 

 

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