ヘリコニア談話室ログ(2007年4月)


 

 

映画「日本沈没」  投稿者:管理人  投稿日:2007 430()13121

  返信・引用  編集済

 

 

クサナギ版「日本沈没」を観ました。
うーん、日本の地殻を引っ張り込まれるプレートから切り離すって・・。それはいいとしても(よくないけど)、そのメカニズムが絵にかいたような文系的アナロジーの実体化というやつなのはいかがなものか。
ストーリーも散漫で分散してしまっている(ラストの演説はまあ感動しましたが)。とくにクサナギ小野寺の設定が曖昧。前半もっと技術者エリートらしい利己的傲慢さを出さなければ、後半の回心が引き立ちませんね。シバサキ玲子はもっとクサナギ小野寺の嫌ッたらしさを(惹かれつつも)責めるべきなんですが、そこまでの葛藤はよう表現しませんか。ヘリポートでの(主題歌をバックに)抱擁シーンは無駄。主題歌自体がダメダメでしたね。やっぱりジョー山中でしょう(違うか)。
首相臨時代理は(土産を持って)アメリカへ行ったまま帰って来てなかったのね。これも途中で誰かに批判させなければ面白くない。もしくはアメリカの邸宅で酒を飲んでくつろぎながら日本のニュースを見ている場面とか。
あと羽田国際空港とか成田新国際空港という表記があったり、田舎の風景や都市(特に東京)から70年代っぽさを感じてしまうんですが、玲子が神戸の地震の被災者だったり、ラップトップパソコンなどOA機器は現代風で、時代性が曖昧。途中で設定が変えられたんでしょうか。
しかしまあ、最後まで飽きずに観られたので、よしとしましょうか。

 セロニアス・モンクトリオカルテット

 





フォルクローレの至宝  投稿者:管理人  投稿日:2007 429()203219

  返信・引用  編集済

 

 

今日もコテンパンでしたね>タイガース
昨日の試合も、魔球も凄かったですけど、阪神打線が不甲斐ないだけだったのかも。
いやいやそんなことはありませんね、今日だって13安打しているのですから(12残塁)。テレビの解説で木戸が言ってたように、単に采配が無策なだけ。むしろあの采配で最下位にいないという事実が、選手の実力の高さを証明しているといえますよね。

アタウアルパ・ユパンキ
 http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D4Rj17U1pqG0%26mode%3Drelated%26search%3D

 http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D0TNCWtrtdDM

 http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DQIyMt1bs1_0

 http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DdpmZhk1SvEQ

 http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3Djl_pZUfL6b8

 (参考)私の追悼文

 





フェルナンデスのナックルに  投稿者:管理人  投稿日:2007 428()231926

  返信・引用  編集済

 

 

阪神打者キリキリ舞い! いやあ愉快愉快(ーー;。
ナックルって本当に魔球ですねえ。大リーグのナックルボーラー(ウェイクフィールド?)の投球をテレビで見たことがありますが、本当に揺れながら落ちて行きました。あれには仰天しました。フォークボールも回転しないことで変化する球ですが、ナックルは更に回転数が少ないんでしょうか。劇的に変化しますね。
そういえば今日リリーフで投げた渡辺亮がナックルボールを投げられるらしいので、ぜひとも完璧に身につけて、試合で使得るようになってほしい。そういう特徴があれば人気もおのずと出てくるというもの。

キャメル醜い画家ラヤダー/ラヤダー街へ行くスノウグース
 
アンディ・ラティマーって小森健太朗さんに似てますね(^^;

 





A級戦犯合祀 「御意に召さず」  投稿者:管理人  投稿日:2007 427()011517

  返信・引用

 

 

卜部元侍従の日記が公開されたことで、富田メモの信憑性が確実なものとなったようです。報道ステーションで特集めいたのをやっていて、それで上記を知ったのですが、うーむ、昭和天皇ちょっと見直してしまいました。

渡辺香津美21世紀の精神異常者クリムゾン・キングの宮殿

 





味気ないハードボイルド  投稿者:管理人  投稿日:2007 424()001732

  返信・引用  編集済

 

 

≪でも、一人称の語りに支えられたあの一種の饒舌さが、ハードボイルド・ミステリの大きな魅力の一つなのは確かだ。三人称のプライベート・アイ物というのは、ほんとうに味気ない。≫――浅倉久志『ぼくがカンガルーに出会ったころ』(14p)

うーん、うーん(汗)

 





『失われた都』より(3)  投稿者:管理人  投稿日:2007 422()203247

  返信・引用  編集済

 

 

「水かけ不動」(VIKING、60)読了。上述のように法善寺の水かけ不動をテーマにバア天下茶屋に集まった4人がそれぞれにホラ話を語るという趣向。
 第一話佐々東吾の話
――水かけ不動発明家を志して失敗すること。知恵について。ボールト・ナットの怪。
 第二話マダムの話
――聖徳太子殺人事件。推理小説の害毒について。人みな水かけ不動尊を利用すべきこと。
 第三話鶴代の話
――黄金変相。しろうるりの愛と心の広さについて。水かけ不動殊勲大ホーマーを放つこと。
 第四話田神守の話
――善人なおもて往生す。ハモニカの中の人生。水かけ不動火ダルマ作戦にでること。

佐々東吾の会社に電話をかけてきたのはなんと水かけ不動さんなのであった。ボールトとナットが足りないので安いのを持ってきてくれとのこと。出かけると水かけ不動が裏庭で面妖な機械を作っているという第1話が一等よくできていて面白い。トールテール・アンソロジーにはまず取り上げたい傑作です。
この作品を含めてトールテールの要件はすべてみたしており(脱力感も含めて(^^;)、もとより登場人物は当然この4人で、途中酔っ払って眠り込んでしまった(とおぼしい)りすると、それがお話に取り込まれたりしていて(という趣向になっていたりしていて)、語られる場としてのバア天下茶屋が背後に見えるようで、全体としても面白い。

以上で、福田紀一『失われた都』(河出書房新社、73)の読み終わり。当時最新の純文学の方法論が「面白さ」のために駆使されており――「20世紀日本文学におけるリアリズム手法とかけて何と解く?」「石屋の宿替えと解く」「心は?」「みんなが重い、重い(思い思い)」(356p)――まだまだシリアスでなければ文学ではない、といった風潮が強かったに違いない当時の文壇で黙殺されてしまっていたのも頷ける。このような作風はまずもって「SF」が摂り込んで然るべきなんですが、当時のSFシーン(出版社-読者)もまた、福田作品をSFとして受け入れられるほどには成熟していなかった。
石原藤夫を「遅れてきたSF作家」といったのは石川喬司だが、その意味で福田紀一は「早すぎた作家」だったようです。そのSFも近頃はずいぶん成熟してきたようで(来月にはキャロル・エムシュが上梓されます。70年代には考えられなかった状況です(^^))、ラファティやデイヴィッドスンやビッスンが人気を博している昨今、ようやくSFも福田紀一に追いついてきたのではないでしょうか(正確には格差化が進行した?)。今なら福田紀一復刊しても十分受け入れられそうな気がします。創元文庫で出してくれないでしょうかね。

 





ハードボイルド文体につて(承前)  投稿者:管理人  投稿日:2007 422()122536

  返信・引用  編集済

 

 

臼田さん
ストルガツキーですか! いやあ一緒に盛り上がりたかったです。いつかまた是非(^^)

さて先日リンクしました孤底のつぶやきに、続稿が掲載されています。
読むと、「人の理性や個人的な感性による判断をしない「ハードボイルド文体」にも限界があるのでは」とあり、どうもハードボイルド文体に否定的な様子。
その意見は確かに妥当で、チャンドラーでも、たとえばマーロウが見ている部屋の中の様子が、淡々と「……がある。……がある」という感じに蜿蜒と続く(カメラ・アイ)と苦痛になってきます。

これは下手くそな前衛映画が単調でつまらないのと同じ理由ですね。で、それを救うのがアングルの切り替えです。小説で言えば場面展開(シーンの切り替え)です。映画の場合、死体を嘗めるように描写した視線が、次の瞬間ぐんと引いて、死体を中心に警官たちが右往左往している(横に停車したパトカーの回転灯を回転させている)図に切り替わる。一人称視点ではこれは不可能なので、探偵が死体の横から立ち上がってぐるりと見回すという図になります。つまりハードボイルド文体といえどもアングルに変化をもたせれば、ハードボイルド文体自体の単調さを救って余りある迫真性を獲得できるのではないでしょうか。

ネオリアリズモ映画の名作「自転車泥棒」は、小説でいえば三人称視点(三人称視点がハードボイルド文体に最も合っていることはリンク先の著者もはっきり書いています)ですが、カメラ・アイ(客観描写)は徹底しており、そこにいかなる「情意」も含まれていません。ただアングルの操作のみで、最終的にすごい感動を観客にもたらします。「自転車泥棒」は事実上ハードボイルド文体に基づいた映画といえるのかもしれません。
結局、客観描写といえども、小説であり映画であるわけですから、最終的に作者の「意図」が反映されているのは当然です。むしろ事実(≒客観描写)によって(事実のレベルを超えた)意図を語らしむというのがリアリズム文芸の根本原理。

リンク先の著者は「客観描写の限界」として「たとえば小説の文章は、時系列でしか語れない」と述べます。これは映画は「だだっ広くて蒸し暑くて人が大勢集まって賑やかな部屋」を同時に絵として見せうることが含意されているのですが、それは「程度の問題」に過ぎないのではないか。映画とて突っ込んだり引いたりという意図的なカメラ操作があってこそアクセントがつく。また別の場所で同時に起きたことを同一画面で表現することは(基本的には)できない。ただ漫然と広角でフィルムを回しているだけでは素人映画やできの悪い前衛映画と変わらず観客を楽しませることは出来ません。つまり映画にも「時系列」的操作は必須として組み込まれているはずです。「程度の問題」ですからあまり厳密に言いたてても不毛なのではないでしょうか。

それよりも問題なのは、ハードボイルド文体を全く無視した作品をハードボイルドと称する、あるいは称させる編集者、出版者の意識だと思います。作家がハードボイルド文体を(前提として)意識しているか否かは読めば一目瞭然です。いかにハードボイルド文体ばなれをした作品であろうと、その文体が前提的に意識され組み込まれていれば(言い換えればジャンル意識)、それをハードボイルド作品と称することに対して何ら躊躇をおぼえるものではありません。それはいかに既存のSFからかけ離れていようと(既存SFへのアンチを動機とする)ニューウェーブ作品がSF以外のなにものでもないのと同じです。SFへのアンチという動機自体がジャンル意識に発するものだからですね。

 





ストルガツキー兄弟  投稿者:臼田惣介  投稿日:2007 421()003528

  返信・引用

 

 

例会、管理人さんが来られないとは残念です。
最近、アルカジイ&ボリス・ストルガツキー「蟻塚の中のかぶと虫」を50円で買って、ストルガツキー兄弟の名前をン十年振りに思い出したので、明日は我が家にあるストルガツキー兄弟関連の本でも持って行って酒の肴にしようかなと思ったのですが、盛り上がりそうな出席者はすくないようですね。

 





Re:  投稿者:管理人  投稿日:2007 420()235037

  返信・引用

 

 

臼田さん
ご教示ありがとうございました。早速閲覧してきました。(ハードボイルドって本当は何なの?蠅取り紙って見たことある?
ハードボイルド(文体)小説が必ずしも一人称ではない、むしろ三人称のほうが合っているという説明は非常に示唆的でした。
昨日も記したように、「色眼鏡でしかありえない、主観的な」一人称形式と「純客観的表現で道徳的批判を加えない」ハードボイルド文体は原理的にそりが合わないものであるはずなんです。その点でチャンドラー作品はハードボイルド原理からは何程か離れたものなんですね(特にセンチメンタリズムは主観性そのもの)。ところが小説としてあまりに凄すぎた(オレ標準)ため、とりわけ(チャンドラー比が高い)日本では(チャンドラーが標準となって)日本独特のハードボイルド観が生まれたのかもしれませんね。
その意味で、「日本では“ハードボイルド”という言葉が誤用されてるし、一人一人が勝手に解釈してるから、“ハードボイルド”なんて言葉は意味を持たなくなったんだ」という意見は納得できます。
もっとも三人称を(遍在する)「神の視点」と捉えるならば、「登場人物全員の心の動きは、動作や台詞だけで推測するしかない」とは矛盾してきます。ではハードボイルド小説の三人称とは何であるのか。やはりそれは映画の「カメラ・アイ」というか「アングル」に似たものといえましょう。ハードボイルド(文体)小説とは結局「字で書いた映画」なんだと思います。
 # 明日の例会>最近土曜日も平日並みに働いており、出席は難しそうです。申し訳ありませんがあしからず。

『失われた都』>「水かけ不動」に着手。これはまさに酒場のホラ話トールテールですな。
戎橋筋を小路に入ったバア「天下茶屋」で常連の主人公と友人、ママと手伝いの女の子が、店の暇なのにあかせて、近くの水かけ不動について話をこしらえて酒の肴にしようという趣向。第1話と第2話を読了。第1話は傑作。ビッスンのウィルスン・ウー・シリーズみたいな話。詳細はまたあした。

 





ハードボイルドについて  投稿者:臼田惣介  投稿日:2007 420()011416

  返信・引用

 

 

ハードボイルドの文体のことなら、木村二郎のHP「ガムシュー・サイト」掲載の『蝿取り紙って見たことある』が良い。是非覗いてみてください。

 





『失われた都』より(2  投稿者:管理人  投稿日:2007 419()235320

  返信・引用

 

 

「めくら・かめら」(VIKING、54)を読みました。
前作とは打って変わり、労働争議が経営者側の「会社解散」により潰えるという出だしは深刻で、一見プロレタリア小説風。ところが、労働者サイドを裏切って経営者側のスパイをしていたと噂があった男が殺され、ストーリーは俄然ミステリっぽくなっていく。と同時に、どんどんシリアスさが薄れパロディ風・マンガ風になっていくのです(会社を乗っ取ってしまう悪徳会社が社長以下を総理、外務、内務大臣、保安庁などと呼び交わしている図は、のちのオウムそのもので興味深い)。
そのあたりはなんとなく「虚無への供物」を彷彿とさせるものがあります。(東京ではなく大阪のですが)戦後風景が活写されているところも類似性を感じさせるところです(余談ですが回想で語られる兵器工廠入り口で父親を送り迎えする子供のエピソードがとてもよい)。
その上に主人公の一人であるかけだしの女性記者が、所謂世間知らずのお嬢さんで勝気行動派とくれば、「虚無」の久生を思い出さないではいられません。本篇が発表された54年は奇しくも洞爺湖の事件が起こった年であるのも面白い。
もっとも本篇は<アンチ・ミステリ>ではなく、むしろ<アンチ・ノベル>でありまして、最後に自作自身を批評してしまう。そこでは私が問題点もしくは欠点として挙げようとしていた項目がすべて語られていてありゃありゃとなった次第なのですが、とまれラストで主人公は消失し、小説そのものが解体してしまいます。筒井康隆より20年も以前にこのような作品が書かれていたというのは一種感動的でさえあります。以前にも書いた記憶がありますが、SF界(SF雑誌)がこの作家を無視し続けたのは残念というほかありません。「場」さえあれば、もっと沢山の作品が供給されたに違いないのですから(まああまりに先見性がありすぎて編集者がついていけなかったんでしょう。むしろ今なら読者が成熟しているので受け容れられる余地がありそうです)。

 





「失われた都」より  投稿者:管理人  投稿日:2007 418()212715

  返信・引用  編集済

 

 

表題作読了。初出「VIKING」(52)
内容は「梅田地下オデッセイ」ならぬ「ミナミ地下オデッセイ」(笑)で、なぜか心斎橋でナポレオンと出会った主人公。ナポレオンは大阪城の地下に埋蔵された秀吉の財宝探しをもくろんでおり、主人公は否応なくそれに巻き込まれ、時空を超越した(ただし大阪の)旅を経験します。
いや面白い!

かくのごとく本篇は『タイタンの妖女』や『明日を越える旅』につらなる<時空オデッセイ>です。当然ラファティ的でもあります(ホラのテキトーさとか。大体秀吉の隠し財宝のなかに西鶴と近松と蕪村の木像があるんですから)。日本ではやはり『脱走と追跡のサンバ』に近いですが、筆法的には『鷹』(「群像」、53)や『S・カルマ氏……』(新日本文学、51)を彷彿とさせる。同時代性でしょう。ただタッチはオデッセイらしくギリシア的明るさがあり、そのあたりは牧野信一と通底するものを感じました。影響関係はあると思います。

ラストで、なぜナポレオンが戦後の心斎橋に現れたか、その脱力(^^;の謎が明かされます。まあその辺もラファティ的かも。

ハードボイルド文体について(孤低のつぶやき)
この定義はハードボイルドの契機(Moment)というべき基本中の基本でしょう。この観点からいえば、日本のハードボイルド(と謳われる)作品の殆どがハードボイルドではないことが分かります。ハードボイルド(文体)は形式論であり、なんら価値判断を含んではいません。その意味で、よく使われる(私もうっかり使いがちですが)「ハードボイルド・タッチ」というシニフィアンはシニフィエをもたない、いわば浮遊するシニフィアンであり空無です。
ただ私自身は一人称での「カメラアイ」という形式は厳密には矛盾があるように考えています。「私」の「視線」はなにほどか感情によって色づけされた「色眼鏡」であることを免れられないからです。大好きな異性の微笑みはこの上もなく美しく見えますが、一旦破局し憎みあうと、同じ微笑が全然別の色合いを帯びて見えてくるものです。
そういう意味で、一人称(主観)とカメラアイ(客観)というハードボイルドの2契機は、実は相互排除的であり、そこにハードボイルドの脆弱さがあるように思っています。

 





収穫  投稿者:管理人  投稿日:2007 417()23455

  返信・引用  編集済

 

 

福田紀一『失われた都』(河出書房新社、73)>ブックオフにて105円でゲット! たまにはブックオフに立ち寄ってみるもんです(^^;
ということで、バラードは一旦棚上げしてこちらに着手することに。

ショッキング・ブルーショッキング・ユー(71)←71年の作品ですが、基本は60年代ポップスですね。

70年代に入るとポップスもロックも俄然レベルが上がります。成熟したといいますか。それ以前とは台座が変わってしまったという感じを強くもちます。
ポップスではシンガー・ソングライターといわれる人たちがぞくぞく登場してきましたね。

キャロル・キングイッツ・トゥ・レイト(71)
カーリー・サイモンうつろな愛(72)
ビリー・ジョエルピアノマン(73)

 





70年前後  投稿者:管理人  投稿日:2007 416()23598

  返信・引用  編集済

 

 

レッド・ツェッペリン移民の歌(68)

ルー・クリスティ魔法(70)←うーん、この人は画像はいらんかも(汗)

ショッキング・ブルー悲しき恋心(71)←ヴォーカルのマリスカさんは昨年末に亡くなっていたんですね。ここ

『クラッシュ』(73)はほぼ半分近くまで消化。ようやく面白くなってきました。しかしなまじストーリーがあるので没入しづらい。むしろ『残虐行為展覧会』(70)のように「字で書かれた前衛映画」的な断片の集積のほうが読みやすい、というのも変な話ですが。

 





訃報、他  投稿者:管理人  投稿日:2007 415()00004

  返信・引用  編集済

 

 

カート・ヴォネガット氏逝去。ご冥福をお祈りいたします。
私も堀晃さんと同意見で、息子(ジュニア)の作品の方が好みでした。なんといっても『タイタンの妖女』が随一。『ローズウォーターさん……』もよいですし、『プレイヤー・ピアノ』ではまだ「ヴォネガットらしさ」は出ていませんが、その分構築的でよかった。比べて親父の作品はだらりんとしていてあまり好みではありませんでした。『母なる夜』が未読なので、これを機に読んでみようかと思っています。

かんべむさしさんが紹介しておられる『蜂起には至らず』(小嵐九八郎)が面白そう。これも読んでみたい1冊。

石原博士の卑弥呼論、いよいよ佳境に入ってますよ。卑弥呼とは一体誰だったのか、について、快刀乱麻を断つ証明がなされています。必読!

J・G・バラード『クラッシュ』に着手しました。どうもかなり私小説的な気がする(いや交通事故に関するディーテイルが、です(^^;)

 





友川かずき  投稿者:管理人  投稿日:2007 411()223850

  返信・引用

 

 

一切合財世も末だ似合った青春

 





「クラッシュ」  投稿者:管理人  投稿日:2007 411()214715

  返信・引用

 

 

『クラッシュ』に着手したいのですが、期末にかけて忙しくなりそうなので考え中(^^;

メリー・ホプキン いとしのベビー悲しき天使グッバイ(with Paul McCartney)

ヘビー・メタル・キッズ Delirious

 





『ハルさん』読了  投稿者:管理人  投稿日:2007 410()215812

  返信・引用

 

 

いやお見事(^^)
感想文をチャチャヤン気分に掲載しました。

 





「ハルさん」  投稿者:管理人  投稿日:2007 4 9()214924

  返信・引用

 

 

『残虐行為展覧会』を再読するつもりでしたが、少し措くことにしました。
というわけで、藤野恵美『ハルさん』に着手。

カンデイア
うーん、ちょっと低調だなあ。
で、これ。カンデイアの名曲を演奏しています(誰だか知りませんが)

 





『残虐行為展覧会』読了  投稿者:管理人  投稿日:2007 4 8()13386

  返信・引用  編集済

 

 

以下の章を読み、『残虐行為展覧会』読了。

 8章 人間の顔の耐久性
 9章 あなたとわたしと連続体
 10章 ジャクリーン・ケネディ暗殺計画
 11章 愛とナパーム弾/アメリカ輸出品
 12章 衝突!
 13章 アメリカの世代
 14章 どうしてわたしはロナルド・レーガンをファックしたいのか
 15章 下り坂自動車レースとみなしたJ・F・ケネディの暗殺

結局本書は事実上二部に分かれており、内宇宙の<風景>を描いている前半は「人間の顔の耐久性」までで、以降の章はそれの解釈篇的なレポートの形式をとる。
レポートで解釈されるのは、まず自動車のもつセクシュアリティであり、しかしこれは意外に通俗的な気がする。関西の自動車ディーラーのラジオCMに、女性の声が「来て見て触って乗って」と訴えるのがあるが、まさにこのコピーが示すごとく自動車の大衆的イメージには潜在的セクシュアリティが確実にある。
思うに1925年生まれのバラードの青春期は自動車の大衆化と軌を一にしている。輝かしい新技術として幼少期にあこがれをもったはずであり、そのあこがれの深奥には当然性的な欲望があった。幼少期にそれを刷り込まれたたバラードにとって、今から見れば通俗的な観念であっても、それはバラードにとってア・プリオリなものなんだろう。
と感ずるのは、私自身にそのようなオブセッションは微塵のないからかも知れない。バラードにとって<人類>とはこのようなオブセッションをアプリオリに内在化している者として認識されているのかも。なぜなら自動車へのオブセッションは自動車事故において爆発的に顕現するとされ、それは戦争(の残虐行為)に敷衍される。クラーク的観念に従えばそれは人間(人類)の限界(原罪)となるが、バラード自身にはそのような進化論的な思考の枠組みはなさそうだ。

アラン・パーソンズ・プロジェクト私はロボット宇宙の眼

 



 


 

承前  投稿者:管理人  投稿日:2007 4 6()215136

  返信・引用  編集済

 

 

当時チャチャヤングは(たとえばヤンリクやバチョンに比べて)そもそも洋楽の比率は高かったのですが、そのなかでも眉村さんのチャチャヤングは、ほとんど洋楽オンリーだったように思います。私は眉村さんのチャチャヤングで、はじめて洋楽に目覚めたといって過言ではありません。
考えてみればSFや創作における眉村さんの学恩はいうまでもありませんが、音楽の分野においても私の現在にいたる趣味のベースは、眉村さん(のチャチャヤング=嵯峨氏のセンス)に大きく影響を受けていたんだなあと今更ながら思わずにはいられません。今の私は、眉村さんなかりせばもっと全然違う私であったに違いなく、わずか2年半、しかも週一回のラジオの深夜放送が、40年になんなんとするその後の私をしっかり規定しているということに、あらためてふしぎな縁と驚きを覚えるのであります。

PPM 時代は変わる(ーー;→PPM

ブラザーズ・フォー →ブラザーズ・フォー

 





「ジェントル・ピープル」  投稿者:管理人  投稿日:2007 4 6()001311

  返信・引用

 

 

昨日リンクした「ジェントルピープル」ですが、別にヒットしたわけではないので知らない方も多いのではないでしょうか。ただ眉村さん担当のチャチャヤングでのみ一時期とてもよく掛っていて、私自身かなり好きな曲でした。
朋友のSF住職が当時「これってポルノ映画の主題歌らしいで」と言っていたのは記憶していたのですが(そのことを本人に確かめたことがあるんですが彼は覚えてないのであった)、昨日リンクをたどってはじめてそのタイトル(と内容)を知ったのでした。どうやら「キャンディ」風のポルノ映画みたいですね。

なぜこの曲が眉村さんの担当日でしか掛らなかったのか。眉村さんが映画を見て気に入ったからだとはとても考えられません。
これはおそらく担当ディレクターであった嵯峨芳春氏の趣味だったんでしょう(氏は「原子心母」をCMをはさまず全曲一挙に流すという暴挙(笑)を行なったディレクターでもあります)。
嵯峨氏はMBSの社員ではなかったようで、その後横浜のFM局へ移られた(と眉村さんにお聞きした記憶があるのですが、そのことをあるとき先生に確かめたら覚えておられないのでありました)そうで、音楽専門のフリーの放送関係者だったのでしょうか。
ともあれ、37年間謎だったことが解明され、喉に引っかかっていた小骨が取れた思いです。

『残虐行為展覧会』は「6章 巨大なアメリカのヌード」、「7章 夏の人食い人種たち」を読了。

 





『残虐行為展覧会』  投稿者:管理人  投稿日:2007 4 5()001829

  返信・引用  編集済

 

 

「暗殺兇器」、「あなた、コーマ、マリリン・モンロー」、「ある精神衰弱のための覚え書」まで読む。
この謎めいた(しかし魅力的な)荒涼たる世界(この世界のちょっと先のほうにはヴァーミリオン・サンズがありそう)、形式的にいえば「内宇宙」ということになる。バラードの所謂「内宇宙」は、内面が外界に投影されているというよりも、内界が外界を侵食し溶け合った世界の謂で、本篇のこの世界も、そのうしろには「現実(客観的世界)」がある。その「現実」が何なのか、精神病院なのか、ともあれダリが好んで描いたダブルイメージと同様の手法が用いられているのは間違いない。今のところそれは謎めいたままなのだが。
<memo>トラヴィス=タルボット=トラーヴン=タリス=トラヴァート=……

キャリー・ネイションズジェントル・ピープル ←Beyond the Valley of the Dolls

 





West Coast 60's  投稿者:管理人  投稿日:2007 4 2()22079

  返信・引用  編集済

 

 

ママス・アンド・パパス夢のカリフォルニア(66)
ジェファーソン・エアプレーンSomebody to Love(67)
ジェファーソン・エアプレーンSomebody to Love(Woodstock1969)
ビーチボーイズサーフィンUSA

 





コンデンスト・ノベル  投稿者:管理人  投稿日:2007 4 2()203957

  返信・引用  編集済

 

 

バラード『残虐行為展覧会』に着手。
まずは第1章「残虐行為展覧会」、第2章「死の大学」を読んだ。
前書が前書だっただけに、読む快感といいますか、隠された謎を考えながら読むことが頭をすっきりしてくれることをまざまざと感じました。

いやハミルトン、私は大好きなんですよ。ただキャプテンフューチャーシリーズは、ハミルトンの中でも最低のレベルなんですよね。スペオペとしても中途半端で、レンズマンやスカイラークの宇宙の拡がり感はないし、かといって火星シリーズのストーリー性、ドラマ性にもひけを取る。まあ私は海野十三がわからん人間ですからアレですが、旭堂南湖さんが海野作品を講談化したヤツは面白かったので、CFも講談化して耳から聴けばそれなりに面白く感じるのかもしれません。

閑話休題。
30年以上前に、<NW-SF>誌でこの第1章と第2章を読んでいるのですが、そのときは何とか読み終えたものの、何のことやらまったく分からなかった記憶があります。
今回着手して、とても面白く読みました。というか全然難解ではないことに気付きました。むしろ60年代三部作を書き上げたバラードが当然向かうであろう方向だと納得しました。
記述のスタイルは違いますが、読者にもたらされる効果は60年代三部作と同じですね。その意味でとても馴染み深いものを感じました。

濃縮小説(コンデンストノベル)というスタイルも(まあ私自身が30年間ですこしは進歩したということでしょうが)、全然違和感がない。
全体的に(三部作同様)、読む絵画(読む映像)として企図されており、三部作以上に超現実絵画的に仕上がっている。
ただしその、作品世界を超現実的にみせている記述上の謎は、ただ漫然と(ベストセラー小説を読むように)受身で読んでいては全然開示されません。そこはいろいろ想像でおぎなって、能動的主体的に読む必要はあります。本篇はあきらかに構成されたもので、その場限りの思いつきの羅列ではないので、謎を解明しようという努力は必ず一定の理解に読者を導きます。

ジャズにしろ、それまで(雑音めいた)意味不明だった音のつらなりが、ある瞬間突如有意味な、というかそれまで知っていた音階とは別種の、しかし紛れもなく体系的な音の連なりとして聴こえてくる瞬間があります。今回、というか今日私ははじめて、コンデンストノベルの音階が聞き取れた気がします。

 





豊田SF  投稿者:管理人  投稿日:2007 4 2()020022

  返信・引用

 

 

次元放浪民さん
お久しぶりです。
『時間砲計画』は多分読んでない筈ですが、豊田有恒さんのSFは大好きです。実は私の古代史趣味は、『倭王の末裔』を読んだのがきっかけなんです(^^;。この作品は騎馬民族征服説を小説化したものです。
豊田さんは時間SF歴史SFの第一人者ですが、作品はタイムマシンものとタイムマシンに拘らないものに大別でき、私は後者のほうが好きです。上記『倭王の末裔』はその代表作です。
前者では、タイムマシンと温血恐竜説を掛け合わせた『ダイノサウルス作戦』が面白いです。
『モンゴルの残光』や『退魔戦記』はタイムマシンとモンゴル(元)を掛け合わせたもので、ある意味両方の要素があります。短篇集ですが、インカ帝国とタイムマシンを掛け合わせた『パチャカマに落ちる陽』も面白いですよ。

 





お久しぶりです。  投稿者:次元放浪民  投稿日:2007 4 1()202953

  返信・引用

 

 

お久しぶりです。管理人さんは、豊田有恒はお好きですか。僕は、大好きです。好きな作品は、『時間砲計画』に収録されている『霧の中のとびら』と『少年エスパー戦隊』です。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fmembers.jcom.home.ne.jp%2Fnino-p

 


 

inserted by FC2 system