「水かけ不動」(VIKING、60)読了。上述のように法善寺の水かけ不動をテーマにバア天下茶屋に集まった4人がそれぞれにホラ話を語るという趣向。 第一話佐々東吾の話――水かけ不動発明家を志して失敗すること。知恵について。ボールト・ナットの怪。 第二話マダムの話――聖徳太子殺人事件。推理小説の害毒について。人みな水かけ不動尊を利用すべきこと。 第三話鶴代の話――黄金変相。しろうるりの愛と心の広さについて。水かけ不動殊勲大ホーマーを放つこと。 第四話田神守の話――善人なおもて往生す。ハモニカの中の人生。水かけ不動火ダルマ作戦にでること。
佐々東吾の会社に電話をかけてきたのはなんと水かけ不動さんなのであった。ボールトとナットが足りないので安いのを持ってきてくれとのこと。出かけると水かけ不動が裏庭で面妖な機械を作っているという第1話が一等よくできていて面白い。トールテール・アンソロジーにはまず取り上げたい傑作です。 この作品を含めてトールテールの要件はすべてみたしており(脱力感も含めて(^^;)、もとより登場人物は当然この4人で、途中酔っ払って眠り込んでしまった(とおぼしい)りすると、それがお話に取り込まれたりしていて(という趣向になっていたりしていて)、語られる場としてのバア天下茶屋が背後に見えるようで、全体としても面白い。
以上で、福田紀一『失われた都』(河出書房新社、73)の読み終わり。当時最新の純文学の方法論が「面白さ」のために駆使されており――「20世紀日本文学におけるリアリズム手法とかけて何と解く?」「石屋の宿替えと解く」「心は?」「みんなが重い、重い(思い思い)」(356p)――まだまだシリアスでなければ文学ではない、といった風潮が強かったに違いない当時の文壇で黙殺されてしまっていたのも頷ける。このような作風はまずもって「SF」が摂り込んで然るべきなんですが、当時のSFシーン(出版社-読者)もまた、福田作品をSFとして受け入れられるほどには成熟していなかった。 石原藤夫を「遅れてきたSF作家」といったのは石川喬司だが、その意味で福田紀一は「早すぎた作家」だったようです。そのSFも近頃はずいぶん成熟してきたようで(来月にはキャロル・エムシュが上梓されます。70年代には考えられなかった状況です(^^))、ラファティやデイヴィッドスンやビッスンが人気を博している昨今、ようやくSFも福田紀一に追いついてきたのではないでしょうか(正確には格差化が進行した?)。今なら福田紀一復刊しても十分受け入れられそうな気がします。創元文庫で出してくれないでしょうかね。
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