ヘリコニア談話室ログ(20075)

 


「すべての終わりの始まり」より@  投稿者:管理人  投稿日:2007年 5月30日(水)19時20分54秒

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「私はあなたと暮らしているけれど、あなたはそれを知らない」を読む。

エムシュ版「家に棲むもの」です(>違います)。
これは「西洋ざしきわらし」の物語ですね。悪戯をしますし、家を繁栄させる(後述)。
目立たないため殆ど透明人間のように他人から注目されることなく生きてきた白髪頭の中年独身独居女性ノーラの家に、ひょんなきっかけで居ついてしまった「ざしきわらし」(当の女性と瓜二つで、同じく透明人間のような中年女性らしい)が、「家に棲むもの」のように居ついて、悪戯をしかけながらも当の女性を「リアル」にするため、(やはり透明人間の初老の)男を家に招き入れる。
結果的に「リアル」化に(生き返らせることに)成功する。日本のざしきわらしは家を繁栄させますが、このざしきわらしは憑いた女性を賦活再生させるんですね。しかしながらリアルになるということは、著者によればどうやら無味無臭ではなくなるということらしい。打算や好奇心、その他もろもろの人間的な感情を回復するからでしょう。
で、その結果これまで家に棲みつくことを(認めているわけではないが)何となく黙認していた(というより殆ど無関心だった)ざしきわらしに対して関心を持ち、「意地悪い表情を浮かべて」介入してくるようになるようです。それを(経験的に)知っているざしきわらしは、そんな事態に立ち至る前に、さっさと荷物をまとめて家を出て行く。さよならだけが人生さ……。
いや哀しくていい話でした。

翻訳で気になったところ。
1)18p1行目「残念無念」は、原文の単語はわかりませんが、コンテキストから類推するに、間投詞的に用いられているように思われる。原義では残念無念なのかもしれませんが、残念無念では前後が繋がりません。汚らしい風体の男に対してノーラが高価なローゼンタールのカップを出したことに対する意外感の表現なので、ここは「なんとまあ」と意訳するべきでは。

2)11p10行目「長年住んでいて、無事だったのに」も、「無事」ではおかしい。長年住んでいてこれまで変な現象は起こらなかったのに、の意味だから、「長年住んでいて、何事も無かったのに」がいいのでは。

 




編集者も劣化?  投稿者:管理人  投稿日:2007 530()001759

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堀さん
書評も書評ですが、こんなゴミを掲載してしまう「群像」が情けないですね。純文系の編集者ってこの程度なんでしょうか、などと書くと、一事で万事を計るなといわれそうですが、近年の芥川賞等も含めて純文の動向を見れば、やっぱりこの程度なんやろな、とするりと納得してしまうんですよね(^^;

>「本当なら」「問題作であることは間違いない」
いわれてみれば確かにこの論法は何も言っていないに等しく、主体性を回避した無責任な物言いですね。この論法は私にも身に覚えがあるのでギクリとしました(^^; 以後気をつけたいと思います。

不勉強で、矢吹晋という方を存じ上げなかったんですが、検索したら矢吹氏のページがありました→『マオ―誰も知らなかった毛沢東』を評す

 




Re:墜ちた偶像もとい群像  投稿者:堀 晃  投稿日:2007 529()190832

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龍野図書館へ行って『群像』の書評?を読んできました。
管理人さんの指摘、なんと的確な! 確かに「書評」と銘打たれてますが、こんな珍文、今世紀になってはじめてです。
ところで……書棚に今出ている週刊新潮があり、その中の福田和也コラム。
矢吹晋『激辛書評で知る 中国の政治・経済の真実』という本を紹介しています。
原本に当たりたいのですが、田舎にて無理。孫引きになりますが……。
これは中国について書かれた本を「批評的」に読むことによって中国の実像に迫る試みらしい。当然、見当違いな書評家がバッサバッサと斬りすてられることになります。
冒頭で斬られるのが朝日新聞で『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を書評した松原隆一郎。この本に書かれた毛沢東とスターリンの交渉について「本当なら」「問題作であることは間違いない」と書いた。
矢吹氏は「仮定法で逃げるのは、卑劣である。これらのやりとりについての『真偽の判断をすること』が書評の責務である。もしその知識を欠いているのなら、『書評能力なし』と辞退するのが良識というものだ」と。
で、「ド素人のたわごと」とバッサリ。
これが序の口なんだから恐ろしいですね。
帰阪したらこの本、探してみるつもり。
矢吹氏が群像の「書評」を読まれたらどう評されるか。「○○ガイのうわごと」ですかねえ。

 




堕ちた偶像もとい群像  投稿者:管理人  投稿日:2007 529()003020

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「群像」今月号を手に取ったら『巨船ベラス・レトラス』の書評が載っていたので、パラパラと読む。
えーっなにこれ?
これで書評のつもりなのか?
見当はずれというのではない。見当はずれならまだいい。ある意味主体的であるからです。受容理論に従えばどのように読もうと読者の勝手なのですから。
ところがこの書評は「見当はずれ」ですらありません。はっきりいって5枚使って何も語っていないのです。
ファウンデーションシリーズで、大国の特使がやって来ていろいろ喋るのですが、帰ってからサイコヒストリーで分析したら実にひと言も喋っていなかったというエピソードがありましたよね。で、この特使の場合は高度なテクニックなんですが、上記書評の場合はただ単に読解力が『巨船ベラス・レトラス』に達してないだけ。文体について、読点がなく文章がうねうねとつらなっていて読みにくい、とかなんとか書いている時点でもうペケポンです。あのリズミカルな文章が味わえてないのですから。
理解できない作品の書評なんて書くなと言いたい。しかも手抜きの埋め草。そんなものを載せる群像も群像ですが。
SFMの時評子にも約一名訳の分からんのがいますが、ここまで酷くはない。少なくとも本人は本気で書いているぞ(^^;

キャロル・エムシュウィラー『すべての終わりの始まり』畔柳和代訳(国書刊行会、07)に着手。

 




「ハメット傑作集1」  投稿者:管理人  投稿日:2007 527()180114

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ダシール・ハメット『ハメット傑作集1』稲葉明雄訳(創元文庫、72)読了。

本書扉惹句でも援用されている「新鮮な語法」と「非情な文体」は、ハメットの作風を端的に表現する代名詞のようなものなのですが、これがどうも私にはピンと来ない。たしかにハメットの作風は、1920-30年代当時に於いては「新鮮な語法」であり、「非情な文体」であったかもしれないけれども、そのようなスタイルが受容され汎化し背景化した結果、そのような汎化を所与として育ったところの、つまり20世紀後半以降にハメットに接した私のような者には、ハメットの形式的な達成をさほどユニークなインパクトのあるものとは感じられなかったということでしょう。

同じ感覚は(ジャズの新しいスタイルを確立したとされる)オーネット・コールマンに就いてもありまして、今から30年前、予め与えられていたフリージャズの確立者というイメージに期待して聴いた「ジャズの来るべきもの」があまりにも普通のジャズで拍子抜けした記憶があります。これもまたオーネットの形式的達成が汎化し背景化した時点以降にジャズに触れ始めた(具体的にはコルトレーンから入門しドルフィーの音にも既に馴染んでいた)人間の、ある意味不幸かもしれません。

とは言い条、だからといってハメット作品が(オーネットが)つまらないということには決してならないことはいうまでもありません。そのような「時の侵食」を被る表面的な部分は確かにありますが、そのような風食に耐えて充分に現代人の鑑賞に耐える作品として、ハメットのハードボイルドが(オーネットのニュージャズもですが)あり得ていることは本書の収録作品の示すところであります。傑作集の第1巻である本書には、コンチネンタル・オプものが収録されています。

 「フェアウェルの殺人」(ブラックマスク誌、30.2)
 「黒づくめの女」(ブラックマスク誌、23.10/15)
 「うろつくシャム人」(ブラックマスク誌、26.3)
 「新任保安官」(ブラックマスク誌、25.9)
 「放火罪及び……」(ブラックマスク誌、23.10/1)
 「夜の銃声」(ブラックマスク誌、24.2/1)
 「王様稼業」(ブラックマスク誌、28.1)


ところで、20年代30年代のアメリカハードボイルド小説を私が好むのは、第1次大戦に漁夫の利を得て、一躍世界の一等国になったアメリカ(とは即ち両海岸の大都市帯の謂でありますが)の、とりわけ西海岸の大都市の深奥部に依然として残存している(良くも悪くも)前代の影、それとフォードに代表される勃興期の資本主義的世界との軋轢(や、場合によっては習合)が活写されているからなんですが、「新任保安官」ではまさに20世紀初頭に西部劇世界が現出します。
異色なのは「王様稼業」で、オプが活躍するのは東欧の架空の小国ムラヴィア。これは後のスパイ小説を彷彿とさせるもので、いかにも東欧の独裁小国らしいリアリティがみなぎっていて面白かった。

但し本書収録作品に例外なくいえることですが、これら諸作品は現時点の目で振り返ればきわめて「映画的」というほかなく、言い換えれば映画で表現可能なものであるということで、『ベラス・レトラス』の登場人物にいわせれば新しい小説が捨て去ってしまうべき要素で成立しているものといえる。

しかしながらそれは現時点における判断に他ならず、それがハメット作品を貶めることにはならない。というのは、20年代という時代はようやくトーキーが始まった時代なのですから。ハメットの新しさは映画以前に映画的表現を先取りしていたということかも(あ、それが「新鮮な語法」の意味するところなのか!と今更ながら気付く私)。
ハメットが後年ハリウッドに「無能の日々を送るようになった」(訳者あとがき)のは、ある意味必然であったといえるかも知れませんね。

 




読了  投稿者:管理人  投稿日:2007 521()222610

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立川談四楼『落語的ガチンコ人生講義』 (新潮OH!文庫、01)読了。

ダシール・ハメット『ハメット傑作集1』稲葉明雄訳(創元文庫、80) 読み中なるも、さらに高橋たか子『空の果てまで』(新潮社、73)にも着手。あれもこれも手を出す私の悪いパターン。忙しくて集中できなくなってくると嵌まるいつものパターンです。
あ、『クラッシュ』も止まっている。ていうか、本が行方不明。どこに置き忘れたのかしらん。

 




森万紀子=カヴァン=バラード三角  投稿者:管理人  投稿日:2007 520()111040

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MZTさんのアンナ・カヴァン評を読んでただちに想起されたのが森万紀子であった。というのは他でもない、つい先だって読んだばかりの高橋たか子のエッセイ集『境に居て』に森万紀子への追悼エッセイが収録されてあったからで(「森万紀子さんについて思い出すこと」同書136p)、そのエッセイでは森万紀子に就いて「孤独の、極地」とか「孤独を凝縮した作風」と形容されていたのだ。
カヴァンは短篇「輝く草地」しか読んだことがないのでその連想が妥当かどうかわからないけれども、森が「孤独のもつ自由な相を生きて」いたという高橋の指摘には成る程と蒙を啓かれた。たしかに『雪女』のラストには、孤独の深奥へ更に突き進んでいこうとするある意味凄まじい意志が確かに感取され、少なくとも森万紀子に於いては孤独が負の意味を担わされていないことは高橋の指摘のとおりであろう(余談だがこのラストはバラード『沈んだ世界』のラストに、精神の軌跡において対応するというのが我が年来の主張なのだ。森の酷寒のイメージに対してバラードのそれは熱帯的ではあるけれども)。この辺を念頭にいちどカヴァンと読み比べしたくなった。
ともあれ、辛口で知られる高橋たか子の示した『雪女』は傑作であった」という最大級の評価に、(僭越ながら)いやよくお分かりでご同輩と、私は深く首肯したのでした。

 




さらに読了  投稿者:管理人  投稿日:2007 519()002214

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高橋たか子『 境に居て』(講談社、95)
高橋たか子『放射する思い』(講談社、97)

読了。どちらもエッセイ集。
本人は否定しているけれども、やっぱりナルシストですね良くも悪くもというか良い悪い関係なく事実として(^^;。
女・山野浩一かも(笑)

 




読了  投稿者:管理人  投稿日:2007 515()001932

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高橋たか子『この晩年という時』(講談社、02)
北杜夫『どくとるマンボウ回想記』 (日本経済新聞出版社、07)

読了。前者は70歳、後者は80歳時点での出版であり、そのことからも分かるように、どちらも人生の総決算的、回顧的な内容。
北杜夫が80歳!なんて俄かには受け入れられません。
両作家共に私が10代からずっと興味を持ち親しんできた作家たちであり、翻って自分も同じだけ歳を取ってしまったことに気付かされて、がっくりしてしまいました(ーー;。

 




チャチャヤン気分に  投稿者:管理人  投稿日:2007 513()153225

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筒井康隆『巨船ベラス・レトラス』(文藝春秋、07)の感想文を掲載しました。

 




北国の青い空  投稿者:管理人  投稿日:2007 511()235551

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 Gerry McGee vs Chiyo Okumura ついでにmidi(^^;

 




『巨船ベラス・レトラス』  投稿者:管理人  投稿日:2007 511()001859

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読了。これは面白かったです。豊田有恒の論文小説を精緻に発展させたものといえるかも。その文学論に触発されたりうんうん頷いたり、あまりの面白さに一気に(ではなく、こま切れになんですが、とにかく寸暇を惜しんでというよりも無理やり寸暇をひねり出して)読んでしまいました。現実と虚構が切れ目なく、メビウスの輪のようにするりと入れ替わる。著者の筆巧者ぶりを堪能。メタフィクションなんだが、ある意味演劇的手法ですね。ラストで実際に演劇が始まりますし。まとまった感想は後日。

 




お知らせ  投稿者:管理人  投稿日:2007 5 9()235046

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港を通じて欧米と最も近く、「ハイカラ」な文物が流入した町、神戸は、ジャズの町であり、また探偵小説の町でもありました。
神戸文学館では、5月3日より「探偵小説発祥の地 神戸」という企画展が開催されているそうです。横溝正史を中心に神戸ゆかりの探偵作家たちや、関西探偵作家クラブのことについても紹介されているとのこと。
しかも、期間中の6月2日(土)午後2時からは、畸人郷会長野村恒彦(亜駆良人)さんが「昭和50年代の横溝正史ブームを再検証する」という題で発表なさるということで、これは関西の探偵小説ファンは見逃せないイベントでしょう。正史ファン、探偵小説ファンの方は是非是非(^^)。
(なおチラシの神戸文学館の電話番号が一部間違っています。正しくは078-882-2028。詳しくは神戸文学館のHPをご覧下さい)
業務連絡。本日会費を振り込みました(^^ゞ
       ↓クリックで拡大↓

 




たかが1万部  投稿者:管理人  投稿日:2007 5 7()004013

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次元放浪民さん
ありがとうございます。ではそのうち(^^)。

さて、ちょっと調べ物でSFM98年2月号(500号)をめくっていたら、てれぽーと欄に梅原克文のこんな文章が……
――たかが1万部しか売れないポストモダン派作家
うーむ、10年前は「1万部」では「しか売れない」という評価だったんですね。僅か10年で隔世の感が(^^;

 




管理人さんへ  投稿者:次元放浪民  投稿日:2007 5 7()001812

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そうですか、もうDVDは、出ているのでレンタルしてみてはいかがですか。こちらこそちゃんと連絡すべきでした。すいませんでした。

http://members.jcom.home.ne.jp/nino-p

 




Re: 昨日は見られましたか  投稿者:管理人  投稿日:2007 5 7()001149

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> No.829[元記事へ]

次元放浪民さん
お久しぶりです。
や、テレビで放映されていたのですね(いま新聞で確認しました)。すみません、気がつきませんでした。というかテレビを観るという習慣が、基本的にないもので。
もっとも昨日は、阪神が負けたのを確認してから(7連敗ですよ7連敗(ーー;)外出したので、どっちにしろ観ることはできなかったとです。いずれまたの機会に(^^;

 




昨日は見られましたか  投稿者:次元放浪民  投稿日:2007 5 6()22141

  返信・引用

 

 

お久しぶりです。昨日、ブレイブストーリーは見られましたか。

http://members.jcom.home.ne.jp/nino-p

 




承前  投稿者:管理人  投稿日:2007 5 6()132723

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下の(著者のではなく)私の見解は単純すぎますね。
たとえば戦前の日本の庶民の文字に触れる時間はどうだったのかといえば、予断ですが、今と比べて多かったとは思えません。
ただ当時は「社会」は格段に狭かった。個人の無名性は殆どなく、どこのだれべえであるかみんな知っている社会であり、その分社会は今よりずっと自分の手前にあってリアリティがあった。接する相手は生まれたときから知っていて、性格も分かっている社会で、これはこれで読解力を文字から形成しなくても、「公共力」等の正のループは別の意味でスムーズに動いたのかも。
負のループは社会の流動化による個人の無名性の増大(無責任性)にも大きく与っています。「箱男」が書かれた時代(70年代)はまだ無名性に希望があった時代なのかも。今もし安部公房が生きていたら、今の社会をどう表現するでしょう?
ただ戦前の人々を、そのまま現代社会に放り込んだら、きっとあっという間に劣化は起こるに違いありません。
では昔のような相互監視社会に戻るべきなのか。今起こっている監視カメラ等も含めた法の強化はこれに相当しますが、それは根本的に違いますね(この志向するところは人間が「考えない」従順なほうが管理しやすいということになり、人間のロボット化が歓迎され(ディック的煩悶は等閑視され)、「200字以上の文章は理解できない」(16p)現在の若者のほうがよいことになってしまいます)。
外的な規制ではなく内的な、人間そのものの「強化」でなければなりません。それにはやはり「はじめにコトバありき」、「読解力」の強化から始めなければならないと思います。個々人の人間的強化、想像力の強化があって初めて、(貨幣経済に潰された)互酬制の再建は可能となるに違いありません。

 




読了  投稿者:管理人  投稿日:2007 5 6()120631

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香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』(講談社現代新書、07)
読んでおく価値がある本だと思います。面白かった。
ただ本書、口述筆記なんでしょうか、たまに表現にケアレスミスがあったり、文意がほぐれてなかったりしたのは「劣化」を扱っているだけにちょっと残念ではありました。
いろいろ引用したい文章があるんですが、時間がないので割愛。まあ読んでみてください。2時間もあれば読めるので。

著者は「劣化した」ものとして、読解力、想像力、公共力、辛抱力、配慮力、謙虚力、寛容力、ゲーム力、アニメ力、フェニミズム力、リベラル力、身体力、生命力……を列挙しています(180p)。ではなぜそれらが「同時多発的」に劣化し始めたのかといった因果的解説がなかったのは、やや不満に感じました。

管見では、これらは「同時多発」したのではないのではなく、まず「読解力」の劣化すなわち「日本語力」の低下が惹き起こしたものでしょう。ラカンではないですがまさに「はじめにコトバありき」なんですよね。
結局、読解力が低いから「ウラ」が読めない(反語表現を理解できない)→想像力(⊃公共力・配慮力・寛容力)が育たない→辛抱力・謙虚力の劣化(自己中)……という具合に負のループが形成され、本書に示された事例が「連鎖的多発」していると考えたほうがよいのでは。

では日本語読解力の劣化はなぜ起こったのか。これは端的に小学生の日本語に触れる体験時間(特に読書体験)がそれ以前に比べて劇的に減少した(テレビなど非文字メディアの増加)のが最大の原因ですが、いろいろ複雑に入り組んでいるのは間違いない。
たとえば「漢字」を「ひらがな」にする傾向は未だにつづいていますが、私は子供のころ、読書していて知らない漢字が出てきても、文脈からの類推で殆どその漢字の「読み」は分かりました。これは著者の言う「無理」の一例といえるでしょう。「無理」に読むことで、「漢字力・類推する力・文脈を掴む力」がついたと思う。現在の「難しい漢字は極力減らす」ような傾向そのものが「読解力」の育成を阻む要素となっている面があると思います。

それはさておき、最大の原因はテレビの登場であるのは間違いなく、したがって現在の「劣化」は、1960年代に端を発するといって過言ではありません。「劣化」は若者だけに起こっている現象ではないという著者の指摘は、したがって正しいといえます。

ではどうすれば「劣化」は防げるか。これも本書では明示されません。著者は上野千鶴子の言うように、「いいじゃん劣化民族は滅びたらいいじゃん」(大意(^^;)とは考えていないようですが。

(ここからは無責任な空想)
でも原因は明らかなのだから療法も実は明らかなんですね。つまり読解力の基礎が形成される小学生の間は「無理」やりテレビ等のメディアから引き離しておけばいいじゃん、ということになります。小学生は吸収力のかたまりですから、テレビ等がなければその意欲は否応なく文字へと向かう。目に付く文字は新聞でも哲学書でも兎に角読まずにはいられない。その結果「正のループ」が形成されるはずです。筈なんですけどねえ(^^ゞ
(空想、終)
ともあれ日本語力・読解力の劣化が、廻りまわって(負のループをたどって)現在の著者の所謂「排除型社会」に結実している(活字メディアの退潮は世界的ですから当然これは世界中で起こっている)のは間違いありません。端的にグローバリズム資本主義社会がそれであるわけですが、これに対置される考え方は、本書でも柄谷行人の「互酬制」の考えが紹介されています。私自身も「互酬制」しかないのではないかと考えるのですが、その意味で中沢新一の論考は柄谷よりも具体的であり、非常に示唆的で、注目しています。

 


映画ドラえもん  投稿者:管理人  投稿日:2007 5 5()001810

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「のび太の海底鬼岩城」87)を観る。
先日の「日本沈没」の感想文で分かるように、わが映画のたのしみ方はいたって許容度が高く(^^;、本篇もなかなか楽しめるものでした。
ただやはり心から楽しむというわけにはいかず、わずか100分弱なのに、お尻がむずむずしてくるのは如何ともしがたかった。つまりは時間当たりの情報量が少なさに焦燥感を感じるのでした。もとより子供向け映画にそれをいうのは本末転倒も甚だしいわけで、結局は当方の側にゆったりと付き合う余裕がなくなっているということでしょう。これは年齢的なものかも。実際100分なんてネットに繋いでいたらあっという間に過ぎてしまう時間なんですけどね。

 


高野連支持  投稿者:管理人  投稿日:2007 5 4()141730

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最近のマスコミの高野連叩きには違和感を覚えます。
かつて、蔦監督率いる池田高校をさわやかイレブンと称揚したのは、他ならぬマスコミでした。そこには確かに有名選手を県外から集めるセミプロ化した高校野球への批判であったと思います。ふつうの県立高校の、地域の生徒しかいない(部員11名の)野球部チームが、金で集めたセミプロチームを蹴散らしたその姿に、高校野球の本来の姿(もしくは理想像)を、マスコミは見出した筈です。高校野球はこうでなければならない、と。
高野連の方針は、まさにこの理想像に沿ったものです。

特待生制度は、サッカーなどでは当たり前というが、それは逆でむしろ野球以外が異常というべきなのではないでしょうか。少なくともマスコミがこのような論調を採ったことに対して私は「今頃なにをゆーてんねん」とある意味あきれてしまいました。

この記事によりますと、やはり特待制度違反376校中公立高校はわずか1校だったとのこと。この事実から分かるのは、特待制度とは、結局のところまず一義的に私立高校の「営業政策」であるということです。

日刊スポーツの記者によるこの記事は一見妥当な意見のように聞こえますが、実はそうではない。

>高校3年間をスポーツにかけたい、高校3年間で高い水準の教育を受けたい−。地方に住む、そんな子どもたちは親元を離れるしかない。
なぜそういう判断になるのか。部員9名の田舎の県立高校の野球部員の3年間はスポーツにかけた3年間ではないのか。私は中学でバスケ部でしたけれども、同級生は私ともう一人の計二人だけ。2年生3名とチームをつくって全敗でしたが、リーダーシップやメンバーシップなど濃密な小集団社会を経験できとてもいい思い出です。
「高校3年間で高い水準の教育を受けたい」のであれば、他の生徒と同じ授業料を払って志望校に入学すればいいだけでしょう。
のちに池田高校はマンモス野球部になったように思いますが、すくなくともその発端は「蔦監督に教えを請いたい」生徒が池田高校を志望した筈です。私立高校が校名の賞揚のために全国から特待制度をエサにかき集めたのとは訳が違うと思うのです。

それにしても野球有名私立高校で野球することが「高い水準の教育を受けたい」ことになるのか。確かに一面それはそうかもしれません。が、有名私立へ入れる最も大きな理由は甲子園に出場のチャンスが高いからなのでは。既にして特待制度を受け入れる生徒あるいは父兄の側に不純な動機があるように思われないでもない。
しかしながら阪神の矢野は大阪市立桜宮高校出身ですし、濱中は和歌山県立南部高校、藪恵壱は和歌山県立新宮高校(しかも高校時代は野球部ではなかったはず)ですから、県立高校出身でもプロの一流選手は数多い。日刊スポーツ記者の主張は前提として有名私立高校の現状を肯定しているところから出発しているもので、特待生制度が撤廃された暁には妥当性を失うように思われます。特待制度を全否定するものではありませんが、今問題となっているスポーツ特待制度は、その根本精神が歪んでいるので、廃止されるべきだと考えます。

 




噫、4連敗  投稿者:管理人  投稿日:2007 5 2()222719

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今岡のサード守備に目を瞑らなければならないことは重々承知ですが、ちっとは球に飛びつけよと思うのは、私だけではないでしょう。
ボーっと突っ立っているだけではね。鳥谷も大変なのでは。
捕れないにしても、捕る意志は見せてほしいものです。とは言い条、球は既にレフト線上に転々と抜けてしまったあとに、どてっと飛び込んでいる図も吉本みたいですけど(^^ゞ

 


 

 

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