ヘリコニア談話室ログ(2007)

 


MISHIMA  投稿者:管理人  投稿日:2007 626()235048

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last moments
the death of

討論が続き、安田講堂の防衛隊のメンバーが決まっていった。(……)同じ頃、三島由紀夫たちも本格的な訓練を始めていた。(……)自衛隊の山本舜勝を講師として「盾の会」の合宿が行なわれた。
三島由紀夫は、青年たちの巨大な運動の中にほのみえる、迫り来る日本革命の予感に身を震わせていた。このとき、大人世代のなかでは三島由紀夫ただ一人がこの大学闘争のなかにある種の本質的なものを感じとっていた。それを理解できるのは自分ひとりであり、その革命に自らを反革命として立たせ、それによって革命と反革命の側に日本文化の精華としての意味を付与するという誇りを持っていたのだと、私は思っている。(180p-181p)
 ――島泰三『安田講堂
1968〜1969(中公新書、05)

ほぼひと月に亘ったエムシュ感想文も、いよいよ残すは表題作のみ!
月末の忙しい時期に食い込んでしまったのですが、なんとか今週中には片付けたいところ。

 




「すべての終わりの始まり」よりS  投稿者:管理人  投稿日:2007 625()001011

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「結局は」

誕生日がテーマの本篇は2002年に上梓された短篇集収録作品で書き下ろしのようだ。想像するに1921年生まれのエムシュが80歳の誕生日(2001年)にインスピレーションを得て書かれたものではないか。「石造りの円形図書館」にも同様のモチーフが出てくるが、エムシュ自身はいろいろ活動したいのに、娘や息子たちが「老人扱い」する。「ママ、自分で思うほど若くないのよ」(319p)。それが気に入らない。とはいえ「ボケる」恐怖感もある。「それはノン・コンポーゼ……だかなんだか……の兆候ではなくて、昔からそういうことには注意が向かなかった」(322p)
そういうこと全てから逃れて(「自己回避の旅」318p)どこかへ行ってしまいたい。と(現実か想像か判らないが)飛び出してはみたものの、やはり「死」の観念が付いてまわり、かつて自殺を試みた山へと足が向いている。かといって生への執着も消えたわけではなく、その想いが天変地異を待ち望む気持ちを生む……。
エムシュ80歳の所感。原題のAfter Allは文字どおりそのまま理解すべきでしょう。

 




「すべての終わりの始まり」よりR  投稿者:管理人  投稿日:2007 624()233131

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「偏見と自負」

ジェーン・オースティンの元ネタ小説の「その後」を、その論理にしたがって想像するといかに滑稽か。実は「グロテスクな老人」と同構造なのだが、それが過去(18世紀)の「日常」であるが故、現在の「スタンダード」「異化」できる。したがって「グロテスク」とはならず「滑稽」となる。

で、本篇の話者はそのような「滑稽」を反面で好感を持っている(ハンカチ王子や韓流ドラマに通ずる)。ところが翻ってそのような一途さが何故亭主には(今は)ないのか(求めてこないのか)と話者は考え、その理由として虚構としての「女性らしさ(エリザベスのような)」を演技でも見せないせいかも、と、そんな自分と、同時に「虚構」からいつまでもさめない亭主に対しても、いまいましく思ってしまうのです(笑)。

 




「すべての終わりの始まり」よりQ  投稿者:管理人  投稿日:2007 624()22580

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「母語の神秘」

「でもひとつ言わせてもらうと、人生はもっと長いと思っていた。時間があると思っていた」(290p)
と内心忸怩たるものをかかえていた老嬢が、(殆ど同名の言語学者と)間違われて配達された言語学のシンポジウムの招待状に出席の返事を出す。つまり「でも実を言えば、私は挫折していない。おそらく失敗するにはまずやってみなければならないのだ」(291p)というわけ。

シンポジウムではボロを出さないよう自分の言葉は喋らない。すべて(にわか仕込みの)引用で押し通します。
この作品もグロテスクさは薄まっていますが、やはり「グロテスクな老女」パターン。老女といえども見得も欲望も人並みにもっています、人間なんですから。恬淡と枯れた老人というイメージの方が虚構なんですね。そのような虚構がスタンダード化しているから、現実存在の老人のありのままが「グロテスク」として観念されてしまう。かくのごとくエムシュの作品はすべて現実の老人の姿がありのままに描かれているといえる。シチュエーションは独特ですが。異様なシチュエーションにありのままの老人が投げ込まれ、そのことで「日常の異化」(「私はそもそも「日常性を異化する」ために短篇小説に取り組んでいることが多いのです」ウィスコン・スピーチ334p)を達成している。

さて主人公の老嬢は、心の中に見栄や欲望を収めて、「外見」(294p)を取り繕うことで、一定の満足を得ます。しかしながら彼女はシンポジウムで出会ったある男性に惹かれるもの(欲望)を感じる。で、男性が、かつて恋人であったらしいところの、主人公と(またもや)殆ど同姓異人の女性(歌手)と主人公を同一視していることを知る(註)。実は男性は、なんとその歌手が騙ってこの場に来ていると思い込んでいるのです(かつての恋人に会う為に、とこの男性は自惚れているのかもしれません)。「あなたの秘密を知っています」(305p)はそういう意味だと思います。
そのことに気付いた主人公は……

「引用はいらない」(309p)と決意しながら、実際には(今度は)「歌手」に成りすましてしまう人間の浅墓さ欲どおしさ哀しさが笑いを誘います。

 (註)この辺は普通の小説だったらご都合主義的といわれてしまいますが、エムシュの場合はシチュエーションが極端なのでむしろそれらしく感じてしまうわけです。

 




3月30日の日曜日  投稿者:管理人  投稿日:2007 624()20510

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今回のSF大賞新人賞作品はフランス革命と68年のパリ五月革命がルソーを介して照応するらしい。→岡本さんのレビュー
面白そう!読んでみたい。 しかし「文章がそのレベルに達していない」とのことで躊躇しますな。

ということで「新谷のり子」を捜してみましたが、さすがのyoutubeにも登録されてなかった(^^;
そのかわりこんな珍しいのを発見したのですが、既に有名なのかな。
       ↓
  三島vs東大全共闘

  ついでに全共闘 安田講堂攻防戦 - 1969

 




「すべての終わりの始まり」よりP  投稿者:管理人  投稿日:2007 623()171456

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「いまいましい」

本篇の世界は、一見男と女が分離した世界のように見えますが、決してそうではありません。
たとえば司令官夫人はつい最近、「司令官が若い女を見遣ったすきにダイナーからこっそり脱け出してしまった」(281p)とあるように、女はちゃんといるのです。

ちなみにダイナーが判らなかったので辞書を引きました。gooの国語辞書にはなく、diningと関係あるだろうという予測はつきましたので、英和辞書でdinerで検索したら食堂車とか簡易食堂の意味でした。国語辞書のリンク[ダイナー] の使用例をウェブから探すに跳んでみましたが、ダイナーをそのまま日本語として使用している例はほとんどない(ミッキー・ロークの映画「ダイナー」はそのものずばりの意味でしたが)。
つまり日本語としてはまだ決して一般に流通するほどには定着していないカタカナ語なんでしょう。(英語表現に堪能な)翻訳者にとってはあたりまえの単語かもしれませんが、おそらく日本人読者の半数以上ははわけが判らないのでは。特にこの場面はコンテキストから類推することも不可能で、英単語を無造作にカタカナ表記するだけでことたれりとする態度は、まったく翻訳者としては失格という他ありません。英語に堪能な人がイコール翻訳者として優秀であるとは限らないということでしょうか。

それはさておき、男たちの社会に女は存在するのに、なぜ彼らは「女」を未知の存在のように扱うのか。おそらく(実際は現実に存在しないのですが)男たちの脳内イメージの女が、男にとってこうであってほしいと願望する女たちが、現実世界から消えてしまったというメタファーなのではないでしょうか。

「ひどく注意散漫」で「興奮しやすく」「クスクス笑う。それは元来セクシュアルなものだから、我々(註:男)を見てその笑いが生じたらよい兆候」。「じっと坐っていられない」し、「果たすべき仕事から常に気を散らせ、毎回考えなしに結論に飛びつき、根拠のない思い込みをし、何でも当然だと思い込むこともあれば、一方で何事も当然と思わないこともある(たとえば我々の愛情)」
それが彼らの(男の)女というものに(勝手に付与した)脳内イメージです。
そういう女がいなくなってしまった事に男たちは気付いた。なぜいなくなったのか。我々の社会から逃亡したから。逃亡したのならどこかにコミューンを作っているはず。という論理の帰結で、<錯覚にすぎないアイデンティティを求めて高速飛行する未確認生物委員会>が組織された?

はじめから存在しなかった(脳内にしか存在しなかった)女のイメージを外化し空しく追いかける男たち――本篇は著者一流のファルスなんでしょう。

 




「すべての終わりの始まり」よりO  投稿者:管理人  投稿日:2007 623()004719

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「ジョゼフィーン」

先日はエムシュ版「春琴抄」と書きましたが、今回読み返して、たしかにそういう面もあるが、むしろ老人版「小さな恋のメロディ」かもと思い直しました。
若い頃はサーカスにでもいたのか、半ボケのジョゼフィーンは綱渡りの名手で、老人ホームのタレントショー(演芸大会?)の花形。しかし彼女は毎夜家出を繰り返す常習犯でもあった。その彼女を探しに行くのは常に「私」の役目。本人は脚が悪いことを理由に表向きその役を嫌がっているのだが……。
ジョゼフィーンはいう。「あなたが見つけてくれなきゃ、わざわざ行方不明になんかならないわ」(255p)

その日も私はジョゼフィーンを探しに出かけるが、不注意にも良いほうの足を怪我して立ち往生してしまう。ジョゼフィーンが現れ、歩けない私を(どこから拝借してきたのか)車に乗せる。夜中じゅう(よろよろと)車を走らせ、湖の廃コテージへ到着する。
ジョゼフィーンは全然ボケておらず二人の生活が始まる。それは一種の楽園の日々であった。
そんな数日が続いたあと、老人ホームの管理者(ジョゼフィーンに横恋慕しており毎夜せまって来るのが嫌で家出を繰り返していたとは彼女の弁)がコテージに現れ、ピストルをぶっ放す。車もそうだが廃コテージをなぜ彼女が知っていたのか、非常にご都合主義だし、管理者の描き方もまるでマンガ。そういうところも含めて本篇にはファンタジーっぽさが溢れている。

少し戻って、管理者が現れたとき、ジョゼフィーンは私に「ついてきて」という。どこかに隠れるつもりなのだが、私は「いや、私らは大人だ」といって隠れるのを拒む。ジョゼフィーンは「あなたはそうかもね」といい、姿を消す。その結果、私は管理者に捕まり手錠で固定されてしまうのだが、実はピストルを奪うチャンスがあった。しかし「例によって熟考しすぎ」てチャンスを失ったのだった。これらの描写に私の性格がよく表されている。

私を固定したあと、管理者はジョゼフィーンを探しに外へ出て行く。と、するりと彼女が現れて私を解き放ってくれる。そして今こそうしろから管理者を襲ってやっつけてしまえという。しかし逆に不意をつかれ、撃たれかけるのだが、雌鹿が跳びこんできて間一髪逃れる。そのとき私は見る。雌鹿の耳にイヤリングがついているのを。通り抜ける瞬間、私を見て眼を細めたのを……。

私は気付く。「いままで気づかなかったが、私は彼女を追うのが気に入っていた。それはわずかな自由と冒険を得るための我々の口実だったのだ。私は責任が気に入っており、ジョゼフィーンは不品行が気に入っていた」(273p)と。
全てが片付き、コテージに戻った私が見たのは、「頭上で再び電線に乗り、星座を背景に踊り、スカートとスカーフは風をはらみ、パラソルを手にして」踊るジョゼフィーンの姿だった。最高のシーンですね。それを見て、上記のような性格の私も「ついに勇気を奮って」踊るジョゼフィーンに言うのだった……。

ボケ一歩手前の老人ホームの男女が、青春を取り戻して輝く一瞬を活写した心地よいファンタジーでした。

 

 

 

 

(管理人この作品、人間と動物(や飾り物)が同じパースペクティヴに渾然とひしめき合っているところなど、絵画に譬えるならばシャガールですね。

 




EGO-WRAPPIN'  投稿者:管理人  投稿日:2007 621()015351

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 色彩のブルース
 Crazy Fruits
 くちばしにチェリー
 かつて
 Flowers

 

 

 

 

(管理人色彩のブルース
かつて

 




「すべての終わりの始まり」よりN  投稿者:管理人  投稿日:2007 620()223347

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「ジョーンズ夫人」

コーラとジャニスは、老女とまではいかないにしろ婚期をのがして久しいオールドミスの姉妹で、親が残した屋敷にふたりで住んでいる。
前半は、このオールドミス姉妹が、近所付き合いもなく閉鎖された屋敷で角突き合わせているありさまがありありと描写されていて、そのあまりのリアルさに黒い笑いに誘われないではいられません。
先回「グロテスクな老女」と書きましたが、ことほどさようにエムシュの筆は老年や若さの喪失を、「われら」として清潔に理想化する気はさらさらなく、どころか老女といえども性の問題など「枯れた」という境地とは正反対のドロドロしたなにかをあたりまえに抱えている存在であることを暴き出して容赦がありません。
というよりも「枯れた」という形容詞は、いわば「自分たち」(つまり著者を含む・老年の・女性)をそのようなある意味「清潔な」鋳型に押し込めるものに他ならず、そのような「押し付け」に対して「自分たち」は決して甘んじる存在ではない、良くも悪くもそのような鋳型からはみ出す部分を持つ存在である、すなわち「人間」である――ということを、主体性において主張しているのだと思います。

さて物語はそのような二人の「無時間」に「悪魔」が空から堕ちてくる。実際は蝙蝠の翼を持つ異人なんですが、結末をみれば彼が悪魔であったことは明らかでしょう。翼に怪我していて飛べない。飛べない蝙蝠ほど無力な存在はないわけで、ジャニスは易々と異人を捕まえ、監禁する(首輪をつける)。このあとの陰惨なゆくたてを要約する気になれないので省略しますが、オールドミスの性欲がそのはけ口を見出したわけです。ジャニスの思い込みはどんどん突っ走り(それはオールドミスのコンプレックスの裏返しです)、その果てに結婚した自分の姿を見出す。
ジャニスは異人(正当にもジャニスは異人にかつて飼っていたイヌの名前をつける)にお仕着せの衣装をつけ(首輪は見えないように)新婚旅行に出発するのですが……
妹が出て行き一人残されたコーラが、あれほど角突き合わせていたジャニスの不在におろおろしてしまうのも哀れ。

というような陰惨きわまる話で、ホラーの範疇に分類できるかもしれません。しかしながら凡百の通俗ホラーが異形を区別し「一線」の外へ排除するメカニズムを駆動原理とするに対し、本篇では人間の内部こそ異形であるとして「一線」を無化してしまうベクトルをもつことでしょう。その意味では「アンチ・ホラー」というべきかも知れません。

 

 

 

 

(管理人しかしこの物語に対して、私がなぜ陰惨と感じたのか。
その理由を考えてみるに、そこに「老女」を「外化」して観念している
私自身の無意識に気付かざるを得なかったのでした。

 




「すべての終わりの始まり」よりM  投稿者:管理人  投稿日:2007 620()02480

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「石造りの円形図書館」

主人公の老女は、毎日「遺跡」で石を掘っている。彼女が掘り当てたのはインディアン時代以前の都市の遺構らしい。というのは老女の妄想なのかもしれない。少なくとも(結婚して?)別居している主人公の娘たちはそう思っているようで(インディアン時代以前の都市なんてありえない!)、母親に老人ホームへ入るように勧めている。「ノー」(221p)
それでも老女には遺構の往時の姿がありありと目に浮かぶ。一日が終わって家に帰ると、左手にペンを持ち、自動筆記を試みる。意味のある言葉は出てこない。
ある日、円を描く石の並びを発掘した老女は、それが円形図書館の跡だと直観する。高揚し普段より遅くまで作業して帰った家で、初めて自動筆記が意味のある言葉をつむぎだす。それは図書館の存在を裏付ける言葉だった。その夜は夢の中で往時の図書館に招待される。
図書館の話を娘たちにし、証拠のムーンストーンを見せると、それは以前から持っていたもの、お祖母ちゃんがくれたものじゃないのと言われる。
老女は一層石堀りに精出するが、疲れて家に帰ると、発掘し保管してあった石がすべて消えている。「石が私を家から追い出しつつあると娘たちは判断したわけだ」(223p)
またある日帰宅すると、衣類やスーツケースがなくなっており、いよいよ娘たちが明日にも実力行使に出ることを老女は察する。時間がないことを知った老女は、発掘現場に戻る。その前に自動筆記を試みると、「指示」が示された。
老女は星空の下、遺跡へ戻り、指示通り円形図書館の中心に浅い墓を掘る。そのなかに横たわり、空を見上げると、白鳥座が羽ばたき飛翔を始め、「私の頭上をひゅーっと飛んだため、素早い気流を感じた」(227p)。この、タルホもかくやの描写がとてもよい。いつの間にか老女のまわりには円形図書館が現前していた(あるいは図書館が存在していた蒼古に老女は移動している)。横に(彼女が発掘した豊穣の女神「図書館の母」)ビーナスがいて、彼女に「ここにいなさい」という。それが「死のことだと突然わかった」。老女は……。

「信用できない語り手」(訳者あとがき)などというしたり顔の言葉が実につまらなく浅薄に感じられる幻想小説の絶品です。

ロバート・E・ハワード『黒い予言者
 新訂版コナン全集3宇野利泰・中村融訳(創元文庫、07)読了。

 




いろいろ  投稿者:管理人  投稿日:2007 618()014644

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>エムシュ
今日中に片付けてしまおうと考えていたが、雑用で果たせず。まあぼちぼちと。
とはいっても、今月末に社屋(プレハブですけど)を移転せねばならず忙しくなるので、今週中には目鼻を付けたいところ。

とかいいながらE・R・ハワード『黒い予言者』(創元文庫、07)に着手してしまったのはいかにもまずかったかも(^^ゞ
しかし訳文が安定しているのでほっとします。

山沢晴雄先生の『離れた家』(日本評論社、07)がようやくネット書店に登録されましたね。[bk1][amazon]
しかしアマゾンはユースト商品のみ、というのはどういうことでしょうか。

『中井英夫
虚実の間に生きた作家(河出書房、07)も。
こちらは逆にbk1でまだ未登録です。[amazon]

 




「すべての終わりの始まり」よりL  投稿者:管理人  投稿日:2007 617()17336

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「ユーコン」

表題からして、舞台はユーコン準州の大自然のただなからしい。
「彼は竜だ。狼だ。トナカイだ」という最初の出だしで、本作品のスタイルは決まる。エンゲルマントウヒの森の中、未完成の(玄関ホールと塔しかできあがってない)住居に主人公の女は夫と共に住んでいる。あるいは女は攫われてきたのかもしれず(209pに「横柄な、法律上の亭主」とありますが)、外出(冬のユーコンで)するために必要な毛皮のブーツも毛皮の帽子もない。

彼女は妊娠しており、そのせいで少々気がおかしくなっている。
夫に対してはある隔たりを感じており、周囲のエンゲルマントウヒに一種族的なシンパシーを感じている。夫の留守中に夫の帽子とブーツをつけて家を出る。南へ下(って文明へ出)ればいいものを、更に気候が厳しい北へ登り始める。足を踏み外して雪斜面を転げ落ちるが、木の幹にぶつかって何とか止まる。それを「一本のやせ古木エンゲルマンに救われた」(208p)と感じる。この辺から作品は動植物が人間と交感するフォークロア的様相を帯びはじめる。

クマの冬眠穴にもぐりこみ、クマと生活を始める。クマは時折、魚を持ち帰って女に与える。女は自分が望んでいた生活だと満足し、出産するも、春になって活動的になったクマは次第に巣穴には戻らなくなり土産も減る。やがてまったっく戻らなくなった。女は子供を肩にとまらせて出発する。が、肩から子供は羽ばたき飛び立ち彼女の上を旋回し、やがて谷向こうに飛んでいく。

結局女はひとりに戻った。ひとりに戻り歩き出す。「私がいつまでもともに幸せに暮らせる生き物はどこにいるのか」と考えながら。彼女は下り始めるのだが、すると下の方から……

こう書き記していると、なんとなくエムシュ版「十牛図」みたいに思えてきました。いや実際そうなのかもしれません。

 




「すべての終わりの始まり」よりK  投稿者:管理人  投稿日:2007 617()110155

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「セックスおよび/またはモリソン氏」
 <浜村純風に書きますので、未読の方はお気をつけ下さい>

窃視症気味でちょっと妄想(この世には「常人」「ほかの者」が存在する)の入った老女が、「熱烈な関心」(198p)つまり性的な関心を寄せる、自分の末息子(但し自身は未婚未経験のよう)ほどの年齢の階上の隣人モリソン氏の留守の部屋に潜んでいるところに、当の隣人が帰宅する。バスルームで素っ裸になった彼を覗き見て……

本集の他の収録作品にも頻出する(個別的にも女性一般的にもでしょう)一種自虐的な「グロテスクな老女」の造型のこれはきわめつけかも。

「私は自分の受胎に関わる器官は、父のも母のも見たことがない」(195p)と予めあるように、主人公は男性の性器を想像上でしか知らない。わずかにロイヤルバレエ団のマチネーで「裸スーツ」姿のダンサーを見たことがある程度。
その老女が具体的に見たものは……

「だが私には彼が見える。皮膚はちょうどその部分でたるんだプラスティック状のひだになり、小さい銅色の円が、1ペニー銅貨で作った25セント硬貨のよう。中央に穴があき、その周囲は腐食して緑色だ」(200p) 言うまでもなく「彼」とは性器のこと。

これを彼女は、
「きっと「裸スーツ」の一種で、生殖器は何であれ、この熱い人工皮膚の小さな穴とあばたの向こう側にあるのだ」(同上)
と認識するのです(笑)。

が、内心では事実は判っており、ショックを受け自室へ逃げ帰ります。そうして考える。
「私たちは受け入れます」「あなたが何であろうとも」
「私たち」と女性一般化しているところが笑える。そうして彼は「ほかの者」だったんだと自分を納得させようとする。更に「私が常人の一人であるのかどうかさえ」「わかるもんですか」とも(笑)

その後に続く「裸スーツは醜い。真実は美しい」というのは、まだ言うかという感じで意外だったのですが、直後に「あなたの輪っか、紐、ミミズ、ボタン、イチジク、チェリー、花びら、やわらかい小さいヒキガエル型でいぼがあったり緑色だったりするところ、猫の舌、ネズミの尻尾、脚のあいだにある独眼のオイスター、ガーターヘビ、カタツムリを受け容れます」(いつだって真実のほうが愛すべきものじゃないのか?)といっているので、ここでの裸スーツは本来の意味に戻っているようです。
結局はいかず後家でその歳までいた主人公のプライドとコンプレックスがない混ぜになったなかば「つくられた妄想」だったのでしょう。

隣人が追いかけてくるのを怖れて、ベッドの下に隠れた老女は、しかし部屋に鍵をかけていない。そしてつぶやく。
「あの人はどうして来ないの?」

 




「すべての終わりの始まり」よりJ  投稿者:管理人  投稿日:2007 617()004146

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「悪を見るなかれ、喜ぶなかれ」

中世以来の山上の修道院のような禁欲的コミュニティが舞台。
ただキリスト教の修道院と異なって、このコミュニティは、山から下りたところにある文明、「何もかもが邪悪で危険――人は撃ち合い、戦い、空気は汚染され、騒音に満ち、通りは乞食であふれている」町へのアンチテーゼとして存在している。そのような「町」は、結局「欲望」を全肯定する世界観の上に成り立っているので、コミュニティは従ってすべての「欲望」の否定を根本原理としている。しかも徹底的な否定なのであって、つまるところ「盲人であれ」という「見ることの否定」が構成員に課せられた金科玉条となる。

初期の資本主義は「狩猟的」であった。資本主義は二重構造(格差)をドライビングフォースとして回転するのだが、初期は狩場は無限にあった。ところがそれが行き着くところまで行き、もはやどこにも処女地がなくなったとき、資本主義は次の段階に変形する(社会政策はその萌芽)。狩猟から農耕(あるいは遊牧)へと。この段階においては人間は徹底的に収奪疎外され捨てられるのではなく、餌と塒を保証された家畜的状態にある。ぬくぬくと飼われ、しかして資本に「欲望」を喚起され、一生涯「消費」する家畜として生かされる。この段階では欲望が自己増殖を開始し、「欲望はさらなる欲望しか生み出さない」(188p)

本篇の禁欲コミューンは、そういう次第で人間をかかる「欲望」する家畜と化す「町」から逃れた人々のコミューンであるようで、「見る」ことは必ず欲望を喚起するのでこれを禁じ、恋もキリがないものなので禁じられている。生殖行為はただコミューンの維持のためだけに「必要」において適宜実施される。
そのようなコミューンで、ひとりの(閉経も遠くない)女性が偶然ある男と目を見交わしてしまうことで、コミューン自体に疑問を持ちはじめる。……

ここで重要なのは「目覚めた」女は、「町」へ下りていくのではなく、さらなる山の奥をめざす点で、欲望の奴隷となることはよいことではないが、だからといってすべての欲望を罪悪視するのも行き過ぎだという著者の考えが表現されているのだろう。
しかし本篇の読みどころはそこではなく、山上に残った女のところへ男が戻ってくる場面だろう。女が男を突き落としたあとに残された荷物は……。なんとも切ない行き違い。女は新しい服を着て、さらに上へ上へと上がっていく。このラストは、やはりすべてから切り離された女が雪山を奥へとめざす森万紀子「雪女」のラストと共鳴し、重なるように思った。名品です。

 




「すべての終わりの始まり」よりI  投稿者:管理人  投稿日:2007 614()223640

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「いまいましい」、「母語の神秘」、「偏見と自負」、「結局は」を読む。
某所でよく判らないと評された「いまいましい」ですが、ふふふ、わかりましたよ、というか解釈できたと思います(^^)

「ウィスコン・スピーチ」は既に読了済み。なので残すはいよいよ問題の表題作のみ!

 




「すべての終わりの始まり」よりH  投稿者:管理人  投稿日:2007 613()23105

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「ジョーンズ夫人」と「ジョゼフィーン」を読みました。どっちもめちゃ面白い!
両者ともめずらしく(特に前者)リニアなストーリー小説(>籠めた意味だけお汲み下さい(^^;)。
前者は共に結婚できず一つ屋根に暮らす老姉妹の反目がめちゃリアルで笑える。その「ユートピア」に悪魔が介入する。これぞホラー。
後者はエムシュ版「春琴抄」ですな。これもホラー。
まずはとりあえず……。

それにしてもやはり訳文が細かいところで変(大きくは妥当)。
ということで、「石造りの円形図書館」において首をかしげた部分を、丁度いい具合にこの作品はらっぱ亭さんの先行訳「石環の図書館」(≪らっぱ亭奇譚集 その弐≫所収)があるので、参照してみました。

しかも私があらわにしたいのは、主として石だ(215p)
 それに、わたしが発掘しているのは、主に石だ(49p)
 石をあらわにしたい、という言い方は変に意味不明。後者の「発掘している」は意訳だろうけど、すっきりと意味が通る。

もしくは我々には絵でしかやり方で(216p)
 わたしたちが、絵画の中にのみみいだせるような(49p)
 校正不足?

石はあらゆる平面と棚からもことごとく消えている(224p)
 おいてあった石も、しまってあった石も、ぜんぶ、ない。(54p)
 「平面」って何よ(笑) おそらく原文はflatかなにかでしょう。それは確かに平面ですが、棚と対には絶対に用いない。端的に「床」の意味でしょう。後者は意味を汲んだ意訳で、これだとストレスとなりません。やはりこれくらいは噛み砕いてほしい。

どうしていつも私が留守にするとわかっている昼間に来るんだろう? なぜ対峙を恐れる?
 どうして、わたしがいない昼間に限って来るんだろう? どうしてわたしと会うのを避けるのか?
 対峙には笑っちゃいました。「対峙を恐れる」なんて言葉日常では使わんでしょう。変だと感じないかね。「会うのを避ける」のほうがずっと自然。

まだまだあるけどこのくらいにしておきましょう。私が気に入らないのは上記のように直訳で済ませてしまう安易さ。気にならないんですかね。エムシュの小説は確かにリニアではないので読みにくいですが、むしろ訳語の選択における吟味不足とセンスのなさのほうが、読みにくさの原因として、より問題が大きいように感じました。

但し公正にみて、作品の根幹というか肝は外していない。それは間違いない。問題は理解できていたとしてもそれを日本語に移し変える段階で、日本語のセンスが不足していることですね。訳者はもっと日本の小説を読んで日本語力を鍛えるべきでしょう。「交尾の日を愛好できるのは、君といるときだけだ」(131p)なんて、中学生の英文解釈じゃあるまいし。

 




「すべての終わりの始まり」より(番外2  投稿者:管理人  投稿日:2007 613()00006

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「セックスおよび/またはモリソン氏」、「ユーコン」、「石造りの円形図書館」が読了済み。
「石造りの円形図書館」は堂々たる幻想小説(幻想小説とは現実には存在しないものが圧倒的な存在感をもって立ち現れる小説なんですから)、本集中今のところベストです!

感想が間に合っていませんが、週末には何とか。
実は新規の仕事が増えまして、早ければ8時半ごろには帰れるんですが、遅いときは11時過ぎになることもあり、今日は10時30分でした。この程度で大騒ぎしていては土田さんにフンと鼻で笑われそうですが、とまれそういう次第で読書時間(and感想書き時間)が激減しています。だからといって急ぐつもりはありません。読み終わるのがもったいないので、できるだけゆっくりと読んで行くつもり。たとえ一ヶ月かかってもこのペースで読み進めたいと思っているのであります(エムシュの場合、あまり急いで読んでしまってはその魅力が伝わってきませんから)。

 




中井英夫のムック  投稿者:管理人  投稿日:2007 610()22090

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河出書房より『中井英夫 虚実の間に生きた作家というムック(?)が、今月21日に発売されるそうです(^^)→KAWADE道の手帳
単行本未収録短篇が掲載されるようで、中井ファンは見逃せません!
さらに噂によりますと、あのアレクセイこと田中幸一さんも寄稿しているみたいですよ。楽しみです(^^ゞ

 




「すべての終わりの始まり」よりG  投稿者:管理人  投稿日:2007 610()14386

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「待っている女」
消え残る街あかり〜♪>それは五木ひろし(^^;
本篇はエムシュ版「魍魎の匣」です(違う)。
飛行場で便を待つ主人公の女性はどうやら人間ではないらしい。精神に応じて(比喩的ではなく実際に)体が伸縮するようで、たとえば気分が落ち込むと小さくなる。だからでしょうか飛行機が離陸し、上空に上がっていくにつれ、地上が小さくなっていく様を、飛行機や搭乗している者が大きくなっていく、という風に認識します。ここが面白いところか。

「上空で私がこの巨大なカンタローブ(メロン)を落とせたら、それは高度ゆえふくれあがった状態でどこかの小さなビルに落下し、カンタローブ色の果肉でビルを覆い、何もかもに濃厚な甘い香りを広げ、月ほどのカンタローブが熟して準備を整え、ありあまる甘さとありあまる果汁であらゆるものを押しつぶす」(153p)

この文はいいですね。ここだけで本篇を読む価値があります。エムシュ版「檸檬」ですか。

 




「すべての終わりの始まり」よりF  投稿者:管理人  投稿日:2007 610()123639

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「男性倶楽部への報告」

以下ゴチャゴチャ冗長ですが、半分以上メモのつもりもあるのであしからず。

小説を読むということにおいて、著者の創作動機や意図を類推したりする内容的な吟味や解釈は必ずしも読書に必須の要素ではない。只管その様式美を味わう類の小説も当然ありえます。「ベラス・レトラス」の、小説に残された最後のフィールドは文体であるというのはその内的な、極北的な立場ですが、もっと無自覚な外的なストーリー・オンリーといった立場もその点は同じです。むしろそのような推理や裏読みを必要としない小説のほうが一般的には(つまりSF以外では)主流でありましょう。
本作品集の場合も、ここまでは解釈を要求される作品が並んでいましたが、今後はそうではない作品も当然出てくるでしょう。

さて本篇は創作ではありますが、一般的な「小説」ではなく「スピーチ」として語られたものという形式をとっています。著者がなぜこのような形式を選択したかその意図は明らかで、純然たる小説よりもより一層内容の解読を読者に期待しているからに他ならない。本篇でエムシュがまず行なうのは「肉の要素を捨象した」抽象的な「男」概念の確認です。

本篇は、あるメンズクラブ(ウィキペディアによれば「イギリスのクラブは伝統的に男性中心であり、女性の立ち入りを受け付けない」とあります)に正会員として入会を承認された女性が(それが非常に稀有なことがスピーチで述べられる)その歓迎会の席上で行なったスピーチという趣向。

すなわちスピーカーである女性(以後「主人公」とする)はその会において抽象的な「男」として認められたわけです。この事実は、少なくともこのメンズクラブにおいては、身体性は二義的であるという了解が(少なくとも主人公を受け入れた時点で)なされたということになります。
では主人公は「性同一性障害」者だったのでしょうか。それははっきり違うといえます。なぜなら主人公は男を好きになり結婚もしていることを述べていることから明らかです。本篇は性同一性障害者が「自ら認識する性」を社会的にかちとるまでを特殊個別的に描いた「自然主義小説」でも一般性において描いた「社会小説」でもありません。もっと観念的な問題をエムシュは取り扱っています。その意味で主人公は純然たる(といっては不適切かも知れませんが)「女性」でなければならない。そうでなければ本篇の意図は果たされないのです。

本篇において著者が行なうのは、抽象的な「男」とは何であるかの考究です。但しその男は必ずしも身体性に規定されない男である。先走って敷衍すれば、かかる「男」とは身体的な「男女」とは位相の異なる概念といえる。
主人公は(自分が女だと認識した上で)小さい頃から「男」にあこがれています。彼女の価値観では男のほうが女より優越した存在なのです(こういう意識を持つ女性は案外存在すると思います。高橋たか子の初期短篇の主人公は大抵そうです)。そういう主人公のスピーチから彼女の考える男が浮かび上がってきます。

1)(男)は狩人たちの息子であって、恋人たちの息子ではありません(140p)
 ここでの「恋人たち」という語には肉体的な、生殖(生産・増殖)する存在の意が含まれています(生殖するのは男も同じなので、既にここで生殖する身体性を有する男は弾かれている)。「狩人」とは自然界から略奪するだけの存在であり生産性は皆無です。余談ながら人類学の知見によれば狩猟採集民から直接牧畜民が発生することはありません。農耕民(生産民)と接触することによって初めて牧畜は発生します(例えばハリイ・ハリスン「死の世界3」)。141pの女性の身体が不浄であるという記述も、人類学によれば(成人した)女性は月のもの(血)を契機とする存在であることに由来し、それは月の運行に支配されているとみなされ、文化−自然の二項対立において、「自然」の側の存在として観念される、そういう人間の無意識の構造が含意されている。女性が出産(生産)する存在であることも自然の側の存在であると観念される根拠です。

余談が長くなりましたが、エムシュが文化人類学的知見をそのバックグラウンドにもっていることを言いたかった次第。
同じく141pで、人類という意味の「マンカインド」に主人公は拘っていますが、以上より「マンカインド」という言葉に自然的な男女の別概念としての、生産(自然)から切り離された「男」を見ているようです(というかそういう構造が英語にはあるということ)。

2)わたくしの頭は想像によって乱されていないこと、真実だけを述べ、感情には左右されていない(……)しばしばわたしは即断いたしますし(……)軍人の名に値する素早さで決断を下します(143p)
これらは主人公が考える「男らしさ」ということになります。ですが男の中にもこれらの項目を満たさないものはいるわけで、そのような男は、主人公によれば女ということになるのでしょう。
結局主人公の考えは、自然的(身体的)に水平関係にある男女ではなく、文化的(想像的)に垂直的な男女関係(男尊女卑)を措定しているわけで、実のところこの主人公は、特定の個人ではなく、人間一般(あるいは英語スピーカー一般)と置き換えるべきでしょう。かかる垂直的な男女概念は、しかし身体的な男女の類型化から生じたものだとしても、出来上がった概念自体は自然的な男女概念とは無関係といえるのではないでしょうか(つまり男尊女卑として捉えるのは不適切)。
その一方で、主人公は、女の目標が「異性の生活の質の向上」であり、「自分のために望んだことは、彼(夫)と子どもたちの優秀性を呼びさますこと(……)自分の優秀性を見出そうなんて思っても見ませんでした」(144p)と否定的に述べていますが、実はこれ、人間の中の「利他性」をあらわしているんですね。で、その根拠に「エクスタシー」(身体性)を挙げていますが、このような利他性も身体性を超越して存在するものではないでしょうか。しかし主人公はそれに気付いていません。
実はエムシュは主人公に人類一般の「思考の慣性」を代表させているのですが、そうだとすると「しかし主人公はそれに気付いていません」は「しかし人類一般である主人公ははそれに気付いていません」と言い換えられます。つまり主人公の言説をエムシュの主張そのものとすることはできません。それは巻末のカフカからの引用が保証しています(但し否定もしていません。エムシュの立場は両義的だと思います)。

本篇は(何万年前か知りませんが)文化を持ったことで自らの内部に文化と自然の両方を持つことになった人類の、その膨大な歴史に由来し、しかもいまだに支配的な「思考の慣性」そのものにスピーチさせた壮大な作品なのではないでしょうか。

 




「すべての終わりの始まり」よりE  投稿者:管理人  投稿日:2007 6 8()042721

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「ボーイズ」

本篇読中、非常に強い既視感、既読感におそわれました。しかし本邦初訳ですから読んでいるはずがないのです。ひょっとして日本におけるエムシュ紹介の第一人者「でも」(笑)あるらっぱ亭さんが個人的に訳されたのを読んだのではないかなと思いつき、確認しましたら、翻訳はなさっていなかったのですが内容紹介をHPにアップされていた。私はこの紹介文を読んでいたのですね。でそれがあまりにも簡にして要を得たものだったので、まるで実際に小説を読んだような強いイメージが私のなかに形成されたらしい。ところが紹介文を読んだことは忘却してしまっていた。その結果本篇読中にイメージが甦って来、強い既視感にとらわれたということのようです。
そういう次第で、改めて紹介文を読んだのですが、「ジェンダーの対立を描いたものではなく、ガキども(boys)と母親たち(mothers)の物語なのだ」という指摘にうならされた。
エムシュの作品は、案外文化人類学的なところがあり(エムシュ自身文化人類学の素養があるのかも)、本篇も人類学でいう「若者組」が「スパルタ的」に発展し、結果として男女別住化したコスモス世界、但し双分性ではなく男集団1-女集団−男集団2の三分制を取る特異な社会集団が措定されている……というところから解釈しようかと思っていたのですが、らっぱ亭さんの解説を読んでしまったあとでは書き記す意欲を失ってしまいました。というよりも意味がなくなった。
というわけでわが感想は省略。らっぱ亭さんによるレビュウにリンクさせていただきます。

 




「すべての終わりの始まり」より(番外)  投稿者:管理人  投稿日:2007 6 7()22290

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「ボーイズ」、「男性倶楽部への報告」、「待っている女」、「悪を見るなかれ、喜ぶなかれ」を読む。
今いささか酩酊していますので、感想はあす以降に。
とりあえず「悪を見るなかれ、喜ぶなかれ」は大傑作です!

 




「〈ポストモダン〉とは何だったのか」  投稿者:管理人  投稿日:2007 6 6()193443

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本上まもる『〈ポストモダン〉とは何だったのか』PHP新書、07) 読了。

昨日の「考え中」は何だったんでしょうか(笑)。帯に斎藤環が「本書の主張には賛成できない」と書いていますが、私は全面的に賛成したい(つづく「しかし本書の「魂」には共振してしまった」には当然同意)。東浩紀は(コジェーヴからの援用で)措定した「動物化」を、その論理的帰結からして否定的でなければならないはずなのに、なぜか擁護的なニュアンスを私自身も感じていたのですが(だから一定の支持がある。先年の京フェスには東信者の若者が多数参加していて、ふつうのSFファンとは全く違う雰囲気を発散させていました)、著者もそのような東の態度に疑問を呈しています。

ただ私自身は「動物」という用語には違和感がある。著者も「動物として飼いならされている」(205p)という書き方をしていますが、飼いならされているのであればそれは「家畜」乃至「ペット」というべきでは。
動物という語に対して「野生の動物」をイメージしてしまうと、著者の云う「卑小なナルシシズム」とか「傷つくのが怖」いとか「他者との競争過程」の回避といった動物化の要件は、野生の動物のイメージからは外れてしまうように思います。平井和正が聞いたら烈火のごとく怒るでしょう(笑)。

閑話休題、著者は返す刀で「「癒し」と「オタク」と「オカルト」、これらはいずれも成熟した近代の矛盾に対するきわめて安易な処方箋であった」、とばっさり切り捨てます。その切れ味のあざやかさ、それを支えているのが「人間は環境に適応するばかりの動物ではなく、現状を変えていく存在であり」(26p)またそうあらねばならないとする著者の人間観です。かかる著者の姿勢に私は全面的に共感するものです。

読了して思ったのは、結局のところ動物化の蔓延は、「日本はそもそもモダンの原理が徹底していない」(26p)のが最大の原因で、そういう意味で実は今こそ「理性を持った自律的個人」(8p)というモダンの再建が急務なのではないでしょうか。

大学で社会学就中ドイツ哲学の流れを汲む知識社会学・文化社会学に啓蒙された者としては、著者の心理学化した社会学批判はまさにわが意を得たりでした。

 




「わかりやすさ」とは読者の知性を眠らせておくためにマトリックスが仕掛けた罠なのだ(17p)  投稿者:管理人  投稿日:2007 6 5()225627

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エムシュはちょっと休憩。
というのは他でもありません。探していた本上まもる『〈ポストモダン〉とは何だったのか』(PHP新書、07)が売っていたので購入、まずはサワリだけでも、と頁を開けたらずるずると60pほど読んでしまいました。
期待にたがわぬ面白さです。これはいいですよ。
エムシュと併読するか、エムシュに専心するか考え中。
#しかしなぜPHPみたいなところから出たんだろう?

 




「すべての終わりの始まり」よりD  投稿者:管理人  投稿日:2007 6 4()230352

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「ウォーターマスター」

永劫回帰がテーマのハイ・ファンタジー。険しい山頂に湖があり、ダムで下の平地の水をコントロールしているミクロコスモス的世界の描写が、ちょっと山尾悠子っぽくてとてもいいです(実は水が世界と人間をコントロールしているのかもしれない)。
主人公の女性がウォーターマスターの青い目の色に一目ぼれするのは、私には理解の範疇を超えているのでした。

 




「すべての終わりの始まり」よりC  投稿者:管理人  投稿日:2007 6 3()175913

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「育ての母」

本篇は「ロージー」の前日譚ですね(たぶん)。
子供を生み育てたかった主人公は、志願してある生物の育ての母となり、生まれたばかりの赤ちゃんを受け取るが、最初の契約(?)で、その子は最終的に手放さなければならない。「ゆくゆくは手放し、使命をまっとうさせてやってください」「それは我々のものであることをお忘れなく」

その子の脳は豆粒二個大しかなく、笑いや涙等感情と見えるものも実はそうではないかもしれない、と注意を与えられるのだが、育て始めた主人公には、その子は普通の子供並みに(いやそれ以上に)頭もよく活動的に思えます。
「ロージー」も念頭にして想像するならば、その子は改変された爬虫類で、一種戦闘型生物兵器として生み出されたものであるようです。「私たちは戦略上重要な道のてっぺんに住んでいる。この一帯を警備できるよう、あの子は徐々に知識を深めるべきだとされている」
成長した「わが子」の使命を主人公は薄々感じており、「行く末がよいわけがない。ひどい死に方で早世する」「誕生以来育てた生き物にそんなことを望むものはいない」と思い始める。
おそらく脳が小さい等の情報は虚偽であり、育母が過剰に感情移入してしまうのを妨げるためなのだ。しかしながら事態は、彼女を雇った側からすれば最も好ましくない方向へと転がっていく……

子供は成長するにつれ次第に爬虫類らしさを顕わにしていきます。が、たとえ姿かたちは異なっても、「心」をもっているように見え、「母」を認識しているように見えるその生物を、主人公は「わが子」としか考えられません。
いわゆる「人間の版図」とは何であるのかを考察して、「ロージー」とは対で読むべき作品です。

 




「すべての終わりの始まり」よりB  投稿者:管理人  投稿日:2007 6 3()122138

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「おばあちゃん」 (ストーリーを克明に書きますので、本篇未読の方はお気をつけ下さい)

エムシュ版「飛び小母さん」です(違います)。
でなくて本篇は「老いたるスーパーマンへの賛歌」(というかスーパーウーマンですけど)なのです。
ある意味――ですが。

おばあちゃんは昔、胸にエンブレムの入った赤いトレーナーとタイツを着け(ちっちゃなブラジャーもつけ)、ケープをひるがえしては飛び回り、人命(動物も)救助に邁進していた。今は髪の毛も細くなりちょっとはげている。常に頭にスカーフを巻いており、しわだらけの顔と首を隠して自転車に乗り町に出かけるのだが、あまりによろよろするので孫である「私」は見ていられない。

で今になって振り返ると、若き日の救助に明け暮れた(洪水まで押しとどめた)大活躍がけっきょくはどれも失敗だったとわかる。やってきたのは赤ちゃんを5人助けても3人捨てるようなことだった。腕は二本しかないのだから。
ということで、本篇がまずはスーパーマン・ヒーロー物語に対するアンチテーゼであることがわかります。

次に、このおばあちゃんである元スーパーウーマンは、若き日「選択的飼育」という当時の発想(制度?)に基づいて卵子を(それぞれに優れた)三人のドナーに提供していた。が、めぼしい子孫は誕生しなかったとなっています。ここでは優生的発想が断罪されています。

「私」は最後の3人目のドナーであるバレエダンサーの精子とおばあちゃんの卵子から誕生した子供の子、孫なのですが「一番の出来損ないで」「年のわりに小さく、脚は内側に曲がり、出っ歯で、片目斜視」という子供(おそらく10歳くらいか)。両親が亡くなっておばあちゃんが引き取ったのですが、思うにあまりの出来損ないに引き取り手がなく、見かねておばあちゃんが引き取ったんでしょう。なぜならそのときにはおばあちゃんは「すでに衰弱していた」のですから、よほどの事情がなければ引き取ったりしないでしょう。(余談ながら「衰弱」という語の当て嵌めは気に入りません。日本語の語感としてずれているように思います。私なら例えば「めっきり衰えていた(or弱っていた)」という風にフォントを修整しますけどね。本書ではこのような単語の無造作な当て嵌めが時々目に付きます)

で、この子供(10歳くらいの少女)の一人称の形式なんですが、この子が突如思い立ち、おばあちゃんの昔のユニフォームを身に着けて(ブラジャーのカップにクリネックスティシューを詰めケープをずるずる引きずりながら)「救助」(ここでは大仰な「救助」がふさわしい)しに出かけるのです。兎を一匹(一羽か)救助するんですが暗くなってしまう。目が悪いので暗くなると視界が見えにくくなる。で、そのことを知っているおばあちゃんが心配し救助に向かう。ところがお祖母ちゃん自身、もはや昔の視力を持っているわけではない。颯爽と飛び上がるもせいぜい1メートルがいいところ。しかも自転車のとき同様ふらふらよろよろで、この辺笑えないユーモアですね。そして案の定背の高い植物に引っかかって落下。僅か1メートルの落下ながら、彼女は昔の彼女ならず"She is not she was"であえなく落命してしまうのです。

で、娘はどうしたか。自分のせいでおばあちゃんが死んだことは認識しており、怖ろしくて誰にも告げられない。おばあちゃんの遺体はその場で砂や草をかけただけで帰宅するのです。おばあちゃんは前からそのように土に帰ることを望んでいたという理屈をつけて。

さて、この一時から明らかなように、本篇は訳者のいう「信用できない語り手」タイプの作品なのではないでしょうか。そのような意識で読後立ち戻って再読すれば、「私」(少女)の言葉はすべて疑わしく見えてきます。
それは、ラストの「家庭菜園には幸せな雑草が茂っている」という記述が裏付けていると私は思うのです。「レタスを植え、クワの実を摘み」(71p)とあるから、おばあちゃんは家庭菜園で雑草などは丹念に除去していたはずです。この作業に少女が関与していないことは引用の続きがヒントになる。すなわち「時にはクワの実パイが出来ていて(私が手伝った)」。すなわちパイ作りは手伝っているが菜園の方は全く関与していないことが暗示されている。
結局おばあちゃんが死んでから、菜園は荒れ放題になっているのであり、それを「幸せな雑草が茂っている」と言い換え、「これらも大切――おばあちゃんがしていた救助と同じくらい大切だ。とにかく雑草がそう思っていることは、私には分かっている」と、少女は言い切っています。
以上より本篇は、少女の自己弁護として構成されているというのが私の判定であり、してみると本篇は「老いたるスーパーウーマンへの哀歌」だったのかもしれません。

 




「すべての終わりの始まり」よりA  投稿者:管理人  投稿日:2007 6 2()15470

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「見下ろせば」

ふつうの「人間」(?)と有翼の鳥人が存在する世界が舞台。
鳥人は自分たちこそ「人間」であり、「奴ら」は「半人間」だと認識している。一方人間(?)たちは自らを「人間」だと考えているが、鳥人を「神」とみなしている。つまり鳥人は見下ろしており、人間(?)は見上げている。

 *人間(?)と?付きで表記するのは、我々人間と同種であるかどうか不明だから。というのも冬至の頃妊娠した女が春前に出産するからで、とはいえこの惑星の一年が地球と同じ長さである証拠もない。
 *また鳥人と人間(?)は交尾可能であり、そうするとこの2種属はもともと同種であったのかもしれない。
かくのごとくエムシュウィラーの小説世界は、巻末のエッセイ「ウィスコン・スピーチ」にあるように(但しエムシュは別の意味も籠めているのだが)海面上の「氷山」にすぎず、海面上の「小説世界」の下に豊穣な物語(設定)が隠されている。それを読み取り想像するのもエムシュを読む楽しみの一つだろう。

鳥人は渡りをし、冬が来る前に南へ移動する。ひとりの鳥人が翼に怪我をして居残らざるを得なくなる。翼を傷めているため狩りもできない。
人間は蛇と猫と鳥人を三位一体で崇めており、夕暮れにはミルクの入った鉢を家の前に供える風習があるようで、怪我をした鳥人は、このミルクを(猫や蛇を押しのけて)盗むように飲んで渇をいやしているが、そのうちに栄養失調でぶっ倒れて人間(半人間)に捕われとなる。
意識不明の間に人間の娘(巫女?)と結婚したことになり、実際にも交合させられ、娘は妊娠する。
この間、プライドの高い鳥人はやせ我慢をつづけるが、実際は娘に養われており次第に娘に依存していく。
女児が生まれ、その子は人間と鳥人の両特徴を備えていた。女児を見た瞬間鳥人は寛解し、人間たちに向かって鳥人も半人間と同じく欠点を持つ中途半端な生き物に過ぎないと語る。両種属に上下関係はなく、水平的であることを覚る。
この後の物語はないが、この傷付いた鳥人と娘を交点とする両種属の和解と統合(あるいは反動と分離)の物語が、おそらく著者の裡(海面下)には存在しているに違いない。
異文化理解がテーマのフォークロア的作品で、かつ設定が大きくて面白かった。これはル・グインが好みそう。
その一方で、生まれた子供が女児だったことを知った娘は嬰児を自らの手で殺そうとする。このシーンはすさまじくも面白い。娘は神の子(人間に君臨する王)を欲していたのであり、自分のライバルとなる可能性がある存在は欲していなかったのだ。むしろ排除しようとしたわけだが、このような(文学的)リアリティが随所にあるのもエムシュならではで、本篇を単なる道徳的ファンタジーから截然と屹立させている。

 


 

 

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