ヘリコニア談話室ログ(2007年7月)


 

高森明勅著  投稿者:管理人  投稿日:2007 729()161743

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『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書、02)の再読に、ようやく本腰が入ってきました。現在3分の1程。
私は読むときは、邪魔なカバーや帯ははずしてしまいます。本書もそのようにして寝転がって読んでいました。ちくま新書はカバーを外した本体の表紙の上部にアルファベットで<CHIKUMA SHINSYO>と記載されています。それにふと目を止めた私は愕然としました。ええ!? と私は思わず叫んでしまいました。
ああ、なんということでしょう、老眼が進み、かすんだ目は、それを<OHKUMA SHINSYO>と読んでしまったのでした。哀号。

閑話休題、
いやあこれはやはり名著というべきですね。実に筋道が通っていて説得力がある。面白いです。いたるところで内容に触発されて妄想が、わが裡から引っ張り出されてきて、ちょっと読んではいつの間にか立ち止まって空想に耽ってしまい、なかなか進みません。まさに読書の悦楽ここに極まれり。チョチョイとつまみ読みするつもりだったんですが、方針を変更してじっくりと読みすすめることに。

 





朝日のあたる家  投稿者:管理人  投稿日:2007 728()234311

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ジョーン・バエズ

この際丸山健二のを消化しようと思ったんですが、出てきません。たぶん……所有しているはずなんですが……

 





おわび  投稿者:管理人  投稿日:2007 728()232236

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↓すみません、入れました。
ちょっと酔っ払っていて、メールアドをケータイのに変更したことをころっと忘れていました。どうも申し訳ございませんでした hic

 





お知らせ  投稿者:管理人  投稿日:2007 728()230927

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ミクシイに入れなくなってしまいました。
なぜか
>このメールアドレスは登録されていません。
となってしまいます。
ということで暫くメッセージも含めてチェックできませんので、なにかありましたらメールでお願いします。

 





「狼の一族」  投稿者:管理人  投稿日:2007 727()002014

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の感想をチャチャヤン気分に掲載しました。

 





動物は死を想わない  投稿者:管理人  投稿日:2007 725()210951

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動物は死を想わない

若島正編『狼の一族』(早川書房、07)読了。

 





The House of The Rising Sun  投稿者:管理人  投稿日:2007 724()235030

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ニーナ・シモンvsちあきなおみ

ちあきなおみ、って表現力にすぐれた歌い手というイメージでしたが、こうやって比較すると、いかにも解釈が凡庸ですな。ちょっとがっかり。ニーナ・シモンと比べちゃ可哀想ですか(笑)

 





久々ゆっくりした日曜日  投稿者:管理人  投稿日:2007 723()000816

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高森明勅『謎とき「日本」誕生』とか遠山美都男『天皇誕生』とかをパラパラ再読しているんですが、他の本も読まねばならなかったりして、あまり進んでいません(>いいわけ)。瀧浪貞子『女性天皇』は推古以前は全く対象としていなくてがっかり。成清弘和『女帝の古代史』は(ネットで目次を見た限りでは)ちょっと気になるので読んでみるかも。しかし記紀の方針と古代女帝を直接関係付けたものは見当たりませんね。

琴光喜が大関を確実なものとしましたが、ここ数日の取り口は元の琴光喜に戻っており、前途多難を予感させますな。
というのは、野村にいじめられた今岡が、星野阪神ではそれをバネにして大活躍したそのときは、目つきも目の色も変わってニュー今岡を感じさせたものでしたが、今や再び元のどんよりした死んだような目に戻っていて、レギュラーからもはずれがちという前例を知っているからなんですが、実際琴光喜が万年大関で終わるか横綱に駆け上がるかは、このあとの数場所で、遅くとも一年以内にはハッキリするはず。それもこれもほっと気を抜いてしまうか朝青龍並みの闘争心を維持できるかに掛っているわけなんですが、私自身は悲観的。わが予測を覆してほしいんですけどねえ。

 





「卑弥呼と日本書紀」完結  投稿者:管理人  投稿日:2007 719()233923

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オロモルフ先生の大労作「卑弥呼と日本書紀」が、全544回にして遂に完結しましたね。長いあいだお疲れさまでした。
本連載で私、とうとう洗脳されちゃいまいました。どう考えても纒向京こそ女王の都する所であり、箸墓の主こそ卑弥呼としか思えなくなってしまいました。いやー困った(困りませんけど(^^;)

でも、そうすると記紀はなぜ卑弥呼すなわち倭迹迹日百襲姫命が「実質的には天皇(厳密には大王)であった」こと明示しなかったのでしょうか。崇神のことが判っているんだから卑弥呼のこともわかってなければおかしいんですから。
「推古天皇以前には女帝を認めなかった『記紀』編者の方針によって」とありますが、なぜ推古以前の女帝を記紀は認めなかったのか?
オロモルフ博士もそれについては考察を深められていないようです。

それについて、実は私に思いついたことがあるんです。
記紀は、卑弥呼が天皇(大王)であった事実を「ある目的のために」積極的に隠蔽したのではないでしょうか。で、実にその「ある目的のために」「推古天皇以前には女帝を認めな」いという方針、いやさトリックが導入された。すなわち卑弥呼「天皇」を隠蔽するため、「神功天皇」も「飯豊天皇」も一括してないものと記紀は看做したのでは? 卑弥呼を隠すために(推古以前の)すべての女帝が隠されたのだと思うのです。
そう、「木の葉は森に隠せ」です。何という大掛かりなトリックでありましょうか!

ではその「ある目的」とは一体なんであるのか?
ふふふ、それについては後日改めて(^^;
いえ引っ張るわけではないんですが、ザルはザルなりにちょこっとでも固めておきたいので……(^^ゞ

ともあれ「卑弥呼と日本書紀」、面白く勉強させてもらいました。著者のオロモルフ博士にお礼申し上げます。

 





「グランダンの怪奇事件簿」  投稿者:管理人  投稿日:2007 718()205523

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シーバリー・クイン『グランダンの怪奇事件簿』熊井ひろ美訳(論創社、07)読了。

あの傑作ファンタジー「道」のシーベリイ・クイン本邦初短篇集――ながら、「道」のような作風を期待するとエライ目にあいます。実は私がそうで、巻頭の「ゴルフリングの恐怖」を読み、あまりの乖離感にがっかりして投げ出してしまったのでした。

ところがミクシイでそのことを記したら、某氏にそれはあまりにも勿体ないと諌められ、それではと気を取り直して再度着手。着手して正解でした。
2篇目の「死人の手」もいまいちだったんですが、3篇目「ウバスティの子供たち」あたりからどんどん面白くなってき、あとはラストの「フィリップス家の悲運」まで尻上がりに面白さが上昇していき読了。いや面白かった(>勝手な奴です!)

途中から読みのスタンスが判ってきたこともあるでしょうが、内容自体も最初の2篇の薄っぺらさから回を追うごとに厚み(ウンチク度?)を増していく。初出情報の記載がないのですが、発表順に並んでいるんだとすれば、作者自身もこの形式に慣れていき自在に操れるようになっていったんだと思います。

とりわけ「フィリップス家の悲運」は、いわゆるフレンチ・アンド・インデアン戦争が背景にあり、本篇によれば、戦後アカディア人(カトリック系仏人植民者)たちがその宗教性(プロテスタントからすれば偶像崇拝の異教徒となる)により英国人植民者(WASP)に、大変な迫害を受けたみたいですね。本篇で初めて知りました。ちなみに彼らの多くは戦後南部のルイジアナに逃れたようで、「ケイジャン」とはアカディア人の米語発音。としますとレオン・ラッセルの名曲「ケイジャン・ラヴ・ソング」のケイジャンはアカディア人ということになる。それにしてはケルティックな印象なんですが。試聴する

閑話休題。
「回を追うごとに」と書きましたが、まさに60年代に流行したテレビの連続探偵ドラマの雰囲気なんです。良くも悪くもチープさが横溢しています。作中に多用される「行アケ」も、いかにもここでCMが入るんだな、という感じで、憶測するにクインってテレビの仕事もしていたのじゃないでしょうか。

ともあれ「道」のクインとは別作家と思って読むべきですね。これはぜひ続きを読みたい。グランダン・シリーズの続刊を希望します。

 





「ダーウィンが来た」  投稿者:管理人  投稿日:2007 715()210448

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たまたまNHK「ダーウィンが来た」という自然科学番組を見ていたんですけど、これはいささか動物の「擬人化」が過ぎるのではないかと思いました。
これではまるで動物(今回はカンムリウミスズメ)に心があるようにみえます。動物に心があるはずはありません、と強く言いきる自信はないですが、少なくとも鳥類に心はありえません。それをこんな風に描くのは、端的にいって「捏造」ではないのでしょうか?

もちろんフィクション(虚構)で鳥を擬人化して描くのはオッケーなのです。あれは鳥のカタチをした人間の物語なんですから。

しかしながら、自然・科学番組でそういう手法を採用するのは問題外なのでは?(もちろん動物に心があるのかどうかを検証する番組ならば大歓迎です。飼いイヌには心があるように、飼い主には見えて仕方がありませんが、それが本当に「心」に根ざした表情や態度なのか、そんな検証を行なう番組ならばぜひ見てみたいものです)

番組のタイトルに名前を使われたダーウィンも泣いているのでは。

 





走る音符  投稿者:管理人  投稿日:2007 715()133616

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> ウッ……。
ふっふっふ

さて、休み明けの7月17日は、ジョン・コルトレーン40回目の命日です。
毎年その日には数枚見繕って聴いているのですけど、今年はちょっと無理かも。

しかし40年とは……。トレーン7回忌という小文を「北西航路」に掲載してもらっているので、私が聴き始めてからでも33年になるようです。いや〜はるけくも来つるものかな……行き着く先も近くなってまいりました。
というようなことはまあ措いといて(汗)、コルトレーンで検索していて面白い映像とインタビューを見つけましたのでご紹介。

 インタビュー
 ジャイアント・ステップス

 





(無題)  投稿者:大橋  投稿日:2007 713()070817

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> 若くないんですからね(^^ゞ

ウッ……。

 





年々夏がつらくなってくるのであった>オレ  投稿者:管理人  投稿日:2007 712()223950

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大橋さん
今は無理をするときですから「あまり無理なさらずに」とはいいませんが、体調管理はおさおさ怠りなく。若くないんですからね(^^ゞ

渡辺香津美vsチャー
チャーは同い年。香津美も同じと思っていたら、今調べたら2歳上でした。中さんと同級生ですな。

 





申し訳ない。  投稿者:大橋  投稿日:2007 712()071549

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大橋、多忙。申し訳ない。落ち着いたらゆっくり。いつ落ち着くかは不明。
告知、感謝。

 





折角  投稿者:管理人  投稿日:2007 711()20578

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今日は早く帰宅したというのに、野球中継はないのか? 巨人阪神戦なのに〜??

そういうわけで、中断していたシーバリー・クイン『グランダンの怪奇事件簿』熊井ひろ美訳(論創社、07)に再着手することに。

BGM〉J-Bossaの系譜を辿る 丸山圭子八神純子小野リサ

 





『離れた家』読了  投稿者:管理人  投稿日:2007 710()234821

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Part3の表題作を読む。100頁180枚の中篇です。芦辺さんが書いておられますが、「そもそも山沢作品イコール難解という評判を生んできたのは、そのほとんどが50枚程度という窮屈な枠内で書かれ、謎解き以外の人物や情景、ときには事件そのものについてすら省筆せざるを得なかったため」(419p)なんですね。
とりわけPart1の4篇中3篇は懸賞応募作品というわけで、枚数制限のしばりはきわめてきつかった。その結果としての「謎解き専一」なので、それが著者の作風というものではなかったのです。

そのような現象面のみが一人歩きした結果(いうまでもなくそれを助長したのが鮎川哲也でした。解説で巽さんは次のように指摘しておられます。「彼の(鮎川のそのような)状況認識が的確であったかどうかをここで論ずるつもりはない」(406p)。これは大作家に敬意を表した言い回しですが、結局はその状況認識は的確なものではなかったと言っているのだと思います)、「事実から逸脱したイメージ」が伝説化され、それを出版社は利用するわで、読者の中には(実際に読みもせずに)それに振り回され、また振り回すものも出てきたというのが、良くも悪くも現在の状況なのではないかと思われます。

えー最初から脱線してしまいました。
芦辺さんの評言が正しいのは、180枚の中篇ということで、紙幅を比較的潤沢に使えた本篇が証明しています。本篇では極端な省略は一切ありません。それはむしろ懇切丁寧といってよいほどでありまして、本篇では「論理的帰結として当然であることは書く必要はないであろう」といった部分は皆無です。著者は必要以上に切り詰める必要がない紙幅を与えられ、伸び伸びと本篇を執筆したように読んでいて感じられました。実は著者は、本来長編型の作家なのではないでしょうか。

そういう意味で本篇は、著者の、Part1のパズラー的資質と、Part2の文学的資質とが、余裕のある紙幅を与えられたことで幸福な結婚を成し遂げた傑作であるといえます(このような配置を考えた編者のもくろみはまさに成功しています)。

本篇のメインアイデア(トリックとは言いません)の最初の1手である時間差攻撃は、私でもなんなく看破しえるものでしたが、それを更に捻じ曲げる第2手には驚かされました。まさに巽さんの的確な「そのトリックは論理の極限において辛うじて成立する」(408p)という評言どおりの作品で、これを別言すれば「殆ど幻想的なトリック」と言いえるのではないか。つまり極限的な論理は殆ど「幻想(ファンタジー)」同然というわけです。上にトリックといわずアイデアと書いたのはそういう理由からで、「論理」と(論理の彼岸物である)「運命」という相反する2要素を、本来的に懐胎する著者の特色が如実に現れた傑作中篇でした。

以上で、山沢晴雄『離れた家』(日本評論社、07)の読み終りと致します。

 





『離れた家』より  投稿者:管理人  投稿日:2007 710()000524

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PART2〈扉の向こう側〉の6篇を読む。
このパートはガチガチの本格ではない作品が主に収められており、非常にヴァリエーションにとんでいる。

とりわけ「宗歩忌」は日影丈吉ばりの幻想小説で、(表題作未読ながら)本集中ベスト級の傑作でした。
ラストの1行の、まるで中国の怪談を髣髴とさせるオチは絶品の味わい! このような作品を読むと、著者がパズラー的構成に専心するあまり小説としての完成(総合的な美しさ)を蔑ろにしているというような世評がいかに的をはずしたものかよく判るというもの。

「時計」もドッペルゲンゲル・テーマの幻想譚で、著者の興味が謎の合理的解明のみにあるのではないことが了解されるのです。
「扉」は本格パズラーですが、むしろ主人公の女性の存在感がくっきりと際立つ作品に仕上がっており、ここでもまた「パズラーに奉仕する登場人物」といった流布するイメージが実体から何ほどかずれていることに気付かされます。
「罠」では一転して、犯罪者の側から一人称で描かれる心理的サスペンス小説として開始され、ラストではそれがピカレスクに反転している、メビウスの輪のような巧緻の一篇。

このように本パートは著者の流布するイメージを覆す意図があるかのようなセレクションになっているのですが、そのなかで「神技」と「厄日」の連作は、珍しくも(笑)、流布するイメージどおりの作品といえるかも。

しかしそれにしても「宗歩忌」は絶品でした。こういう作品をもっと読みたい!といったら、著者は気を悪くされるのでしょうか? そんなことはないですよね(^^;

 





『離れた家』絶賛読み中!  投稿者:管理人  投稿日:2007 7 8()143632

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まずはPART1<砧順之介の事件簿>4篇を読みました。
著者の作品を読むのは、実は本書が初めて。
巷間難解難解と喧伝され身構えて読み始めたのですが、これらの探偵小説のどこが……(^^;。
難解どころか、これほど明快至極な探偵小説も珍しいのではないでしょうか。
いや面白いです。久しぶりに読むことで「頭がすっきりする」という体験をしております。誰だったか(ヴァン・ダインでしたか)寝る前に探偵小説を読んで一日稼動した脳をリフレッシュさせたといいますが、まさに探偵小説の原初形態を体現しているのが本書なのではないか。

そういえば贅肉と断じられ廃棄されたものには、《遊び》や《余裕》、そして《読んでいるだけで楽しめるか否か》なども含まれている。という評を見かけましたが、私はそうは思いません。
私は充分に《読んでいるだけで楽しめ》ましたし、編者解題で引用されている「しかしあまりといえばあまりに日常的な、いくぶんうらぶれてさえいる空間に、これもまたあまりに平凡な勤め人の男女がくりひろげる非日常なトリック&ロジック劇は、多くのミステリファンにとって新鮮でしょう」という芦辺拓氏の一文がまさにそれを証明していますね。

この芦辺さんの評言は言いえて妙、実に鋭い指摘だと思いました。
とりわけ「勤め人」という用語を選択されたセンス……山沢文学を実に的確に捉えたものだと思います。読み終えた4篇には舞台となる大阪南部市域独特の空間の匂いが濃厚に立ち籠めていて、同じ地域をよく舞台とされる眉村さんとの強い類似性を感じた。それもそのはずで著者は、眉村さんが住まうA区の、HS区を挟んだ西隣(眉村さんが「血ィお呉れ」で活写された)H区の住人で、これらの地域独特のディープな大阪の匂いを体で知っておられるからでしょうか。そういえば芦辺さんもA区の北隣 I 区の出身だったはず。

ちょっとそれましたけど、山沢探偵小説が純パズル同然みたいな認識が一人歩きすることには強く警告を発したいと思います(読者は流布するイメージに惑わされ流されるのではなく、自分自身の読書を信頼してほしいものです)。山沢トリック小説はもとより純パズル的な明快な・割り切れる・ものですが、それを純パズルの無味乾燥さから救っているのが、(「贅肉」ではないにしても)生活人としての「血肉」であるのは間違いありません。

 





告知  投稿者:管理人  投稿日:2007 7 7()142352

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本日より東京・弥生美術館において、『武部本一郎展〜紙芝居からSFアートまで〜永遠のヒーロー・ヒロインの世界』と題した、没後初めての回顧展が開催されるそうです。(7/7〜9/30)→ホームページ
懐かしのジュブナイル小説・SFアート研究家の大橋博之さんが関わっておられ、8/5(日曜)はイベントとして「懐かしの街頭紙芝居実演」も行なわれるとのこと(上記HPにてご確認下さい)。あの時代のあの空気を同時代として生き、通り抜けた方はもちろん、今新たに興味をもたれた方もぜひお立ち寄り下さい。

回顧展にあわせて、大橋さんの新著『武部本一郎少年SF挿絵原画集』<上・下>(ラピュータ、07が出版されましたので、併せてご案内→[bk1] [amazon] *

なお、大橋さんは今夏(8/30〜9/3)横浜で開かれる第65回世界SF大会Nippon2007にて、アートショーという絵の展示コーナーを担当されるそうです。ワールドコン参加者は是非こちらのコーナーも忘れずにお立ち寄り下さい。
 *この掲示板に限らず私のサイト内で商用サイトへのリンクは自主的なものです。お買い物によって管理人に手数料等が入ることはありません。

 





「離れた家」  投稿者:管理人  投稿日:2007 7 6()001055

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ミクシイのニュースに「<痴漢逮捕>高市氏のSP 電車内で女子大生触り」という記事が載っているんですが、例によってコメントは「市ね!」だとか罵倒の嵐(ーー;
しかしSPなんて、素人考えにもストレスのたまる仕事(cf映画ボディガード)。とすれば、仕事熱心で正義感に満ちたSPを想定し、その男が→(なぜ)→痴漢をするに至ったのか、この→の部分を想像し読者に「この男はオレかも」といった必然性を感じさせることができたら、それが「文学」なんですけどね。
「文学」が衰退する道理ですね。

山沢晴雄『離れた家』(日本評論社、07)に着手しました。

 





「すべての終わりの始まり」より(最終回)  投稿者:管理人  投稿日:2007 7 4()231314

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「すべての終りの始まり」(下)

本篇は本当に判り難い。ここまで(何度も繰り返してきたように)その判り難さの少なくとも半分は訳の拙さにあり、その拙さは主に翻訳に供される日本語が拙かったのだけれども、他方解釈自体はさほど外していなかったように思う。
しかしながら本篇では、その解釈自体に信用できないものを感じないではいられなかった。あまりにも筋が通らないからだ。
意味の通らない訳語が本篇には多すぎる。この辺はらっぱ亭さん他の原文で読む読みの達人たちに一度確認したいところ。
とまれこれまで何度もあげつらって来て、私自身これ以上やりたくないのだが、全く理解不能な文を2、3例挙げておく(これが最後だ)。

○あなた方がすでに人々をやわらげてくれているから、と(28p)

○彼に問われたとき、私は例によって擬人化しつつそう答える(30p)

ティーカップしか身に着けていない(30p)

これらの例は残念ながら私には全く意味が取れなかった。ふつう読書百遍意自ずから通ずというのは真理で、何度も読み返しているうちにだんだんと判ってくるものなのだが、本篇ではそれが機能しなかった。それが誤解釈だと思う根拠でもある。特に3例目のティーカップには何か別の(隠語的な)意味があるのではないのか?

ついでだが、「彼らの生殖器は純然たるもので」(29p)というのは、これまで同様訳語の練度不足。意味は「彼らの性器は生殖のためのみにしか用いられないもので」だろう。そうだとしたら「純然たる」という訳語は不適切。

○行為は存在なり。存在は行為なり(35p)
これも文脈的にこんな文語は似合わないと感じる。「ヤルは在る。在るはヤル」と私なら訳す。

このような不適切な訳語は相変わらずで、さらに根本的な誤訳もあるようで、それらが相俟って(もともと難解な)本篇の読解をより困難にしているのではないだろうか。

――と、自分の読解力を棚に上げて言っておくのであった(^^;
そのようなエクスキューズを予めした上で、以下本篇の感想――

まずクリンプたちに協力するのが離婚経験者の・既に閉経した・老女であること。そういう彼女らも異性への関心や性欲は人並みにもっており、ただそれを満足させる機会には恵まれていないのはこれまでの作品にも出てきたモチーフである。
そのような彼女たちは(既述の女性の女性性により)いともあっさりと彼らを信用してしまう。それは結局裏切られるのだけれど、そのゆくたては彼女らの離婚の再話(再現)でもある。

クリンプたちは(前回書いたような)ある種の環境問題を負わされて存在させられているようだ。その意味でクリンプたちは宇宙人ではなく、(田中光二的な意味で)「人類に復讐する存在」なのだろう(ただし魚類的存在として設定されているので「猫」は排除される(^^;)。そう考えれば「で、エコロジーはどうなる?」(43p)という文の意味も推測できる。

ミノウ三兄弟どころか108匹ものミノウを出産した主人公は、唯一手許に残ったミノウを、全く「わが子」として観念している。ここにも著者の女性観がよく出ている。それは「で、エコロジーはどうなる?」と大局的な見地に立ったかと思いきや、その直後に「誰のために救う? 私の胸に乗っているものが安全に過ごせるように?」と母性的微視的世界観に収束してしまう点にも顕著だ(クリンプたちへの思いも、一瞬一瞬で好意と敵意がめまぐるしく入れ替わる)。

最終的に「疎外された女たちが世界を救う」という見地に達するのだが、それすら上記の次第で実際のところは泡のように空しい。
最後の一行「あんなもの、飛んでいたとは笑わせる」(45p)というのは、意外にも(といっては失礼か)締めにふさわしいリズム感のある大変良い訳文だと思った。

以上で、キャロル・エムシュウィラー『すべての終わりの始まり』畔柳和代訳(国書刊行会、07)の読み了りとします。

 





「空の果てまで」  投稿者:管理人  投稿日:2007 7 4()185216

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高橋たか子『空の果てまで』73、新潮社)の感想を掲載しました。チャチャヤン気分

 





「すべての終わりの始まり」より(21  投稿者:管理人  投稿日:2007 7 1()180513

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「すべての終わりの始まり」(前)

主人公の女性が出産する小魚に「ミノウ」とふり仮名が振ってあるのが気になって調べたら「ヒメハヤ; コイ科の小魚」とありました。
更に検索すると、こんなレポートが→メス化した魚環境ホルモン
「ミノウ」も「ローチ」も英英辞書で見ると、同じく清流に棲む小魚でほぼ同種、若干ミノウのほうが意味の範囲が広いようです。

エムシュは上記レポートのような事実を知っていたのでしょうか?
本篇執筆は1981年以前なんですが、その頃にすでに報告があったのかどうか、英語に不自由な私には調べがつきませんでした。
でもエムシュはたぶん執筆時点で知っていた。私にはそう思われてなりません。そういう事実を知ったことが執筆への駆動力になったのではないか。
なぜならそう考えてはじめてラストで言及される「ラブカナル」(45p)と照応関係が形成されるからです。そうでなければ「ラブカナル」が生きてきません。それでこそ本篇は構成の美しい、形式的に理に適った作品と言い得る。それから逆算しても、エムシュの執筆動機に環境問題があったことは間違いないように思われるのです。

 





物入り  投稿者:管理人  投稿日:2007 7 1()124351

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引越しがようやく終わった。
阪神大震災翌年4月会社設立すると共に建てたバラック小屋なんですが、地主が大型商業施設に土地を売ったので取り壊さねばならなくなった。先週あたりから移転を少しずつ進めて今日午前中で完了。
とにもかくにも丸11年を過ごした建物ですから、作業しながらさすがにうたた感慨を禁じえず、ふと思い立って携帯で写真を撮ってみました。

という次第で今日は腰や腕が痛い。それはいいのですが右脚の付け根外側がある角度で痛みが発生するのが少し心配。ともあれ今日は完全休養日に。気が向けば夜更新するかも知れません。

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