「猫の皮」
ダンセイニの創造した或る傾向の作品群を「創作神話」と呼ぶのならば、本篇はさしづめ「創作民話」である。
しかも(私の主観では)非常にアイヌ民族のユカラ(神謡)やウェペケレ(民話)の影響が強い。つまり著者はアイヌの民話に接したことがあるかのように感じられた。
たとえば前作「石の動物」では、夢の中の1シーンとして、姉が兎の耳の後ろに人が座っているのを見る場面があるが(ラストでは夫が――現実なのか夢なのか――兎の耳の後ろに掴まり、戦さを開始する)、アイヌ神話では、たとえばクマ神はクマそのものではなくて、耳の後ろに座しており、クマを殺すことは必ずしも神を殺すことにはならない。むしろクマ神は人間に食料や毛皮を恵むために人間界に(クマに乗って)やってくるのだ(とアイヌ民族は観念する)。これは実に人間に都合のよい論理なのだが、逆に無闇な乱獲を規制する心的ブロックにもなっている。殺された熊(に乗っていたクマ神)は、人間が丁重に祀ることで(イナウというみやげ物をもって)神の世界に帰っていくことが出来、また熊に乗ってやってきてくれる。
本篇では人間(ただし魔女が拾ってきた子供)が猫の皮を被ることで物語が動き出すのだが、ここにある観念は、あきらかに上記兎に乗るものやクマ(神)と同様の観念が看取される。すなわち外観と中身の分離、二重構造(ただしメビウスの輪のオモテとウラ)で、主人公の魔女の子供は猫の皮を被ると(体は人間並み、皮のつなぎ目はボタンで留めてあるにもかかわらず)、見る者には猫として認識される。
この観念がさらに援用されて、本篇では敵の魔法使いの娘や息子たちは猫に変えられてしまうし、その猫の腹を割けばつるりと裸の彼や彼女が飛び出してくる。かかる動物(猫)と人間のくるくる入れ替わる二重構造(オモテからウラ、ウラからオモテ)が本篇の面白さを主に支えているように思われる。
ところで上記猫の皮を被るとどんなに猫として異相でも猫として認識されるというのは、演劇の前提でもある。すなわち本篇を劇化したとして、やはり猫の皮を被った役者は、観客には人間としか見えないが、劇の中の人物たちはそれを猫と(みな)して芝居を続けるだろう。本篇によって演劇と民話の相関性というか類縁性というか同根性に目を啓かされた。
ところで上に、著者はアイヌ神話をよく知っているのではないかと書いた。これはしかしかなり蓋然性が小さいようにも思われる。私は北米の神話や民話を読んでないのでそのように感じるほかなかったのだが、あるいはひょっとして北米神話にはアイヌ神話に似た観念があるのかもしれない。アイヌ神話と日本神話は、(伝播的関係は強いにせよ)その根底の観念でかなり異質なものだと私は感じている。むしろアイヌ神話は極東から北米の先住民族の神話とより強い繋がりがあるのだとしたら、著者がアイヌ的な心性や観念を、北米先住民の神話や民話から吸収した可能性があるだろう。
ともあれ創作民話(擬似民話)として本篇は大変よく出来ていて、とても面白かった(ところどころに警句的文句をはさむところなど心憎いばかり)。とはいえ本篇は民話ではないので、上述したアイヌ民話のような、行動原理の教科書としての機能はありえない。その意味では空無な民話といえる。擬似民話と書いたゆえんである。本篇はあくまでも(ダンセイニの擬似神話同様)文学作品なのであり、その意味では民話の観念を援用することで、非常に奇妙な感覚を読者に生じせしめることに成功している。
|