【掲示板】




ヘリコニア談話室ログ(2007年8月)





真面目の熊五郎  投稿者:管理人  投稿日:2007 831()114633

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NHK特集の眉村さんインタビューのこぼれ話(続)です。滅ぶもの

>ヒューマニズムが最高の価値という考え方はもはや長持ちしないでしょう
とはどういうニュアンスで発言なさったのか、興味あります。
ヒューマニズムが滅びて再び暗黒時代が来るという意味なのか、ヒューマニズムみたいな欠陥思想が滅びて人類は新たな階梯に進むという意味なのか。
10月の放送が楽しみ(^^)

 





眉村さんインタビュー  投稿者:管理人  投稿日:2007 830()014156

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例のNHK特集で、今日、眉村さんがインタビューを受けられた模様です。→大阪の夜

それはいいんですが、同じ日の日記の下のほうに、「今世の中を牛耳っているのは団塊世代から一つ下の世代で、かれらは権力を振りかざし若い人たちを追い詰めている」とあります。
団塊世代のひとつ下の世代とはまさに私の世代です。たしかに私が新卒で入り16年勤めた会社では、今年遂に同期の取締役が誕生しましたから、われわれの世代が天下を取ったというのは事実でしょう。

しかし、「権力を振りかざし若い人たちを追い詰めている」というのはどうか。
いえ、確かにこれも事実だと思います。ただ団塊世代の時代と現在では状況が違いすぎます。団塊世代の人たちが、もし今世の中を牛耳っていたら、やはり「若い人を追い詰めている」はず。世代論に矮小化してしまうのは間違いではないか。

今の世を「牛耳っている」人たちも、実はぎりぎりと締め付けられ、管理されているのです。誰に管理されているのか。それは「この世知辛い世の中(もっと具体的には会社組織)」に、という他ない。
で、今の社会を世知辛いものにした根源は、管見では差別化(差異化)によって生ぜしめた位置エネルギーを駆動力に回転するグローバル化した資本制そのものに求めなければならないと思うのです。

本日のBGM (24時間以内に消滅します)

 





ネットカフェのアパッチ  投稿者:管理人  投稿日:2007 828()155631

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ネットカフェ難民

21世紀のアパッチ族は彼らかも。
兵器工廠のアパッチは食鉄化して生き延びましたが、現代の彼らは何を食うようになるのか?
それは「情報」ではないでしょうか。
20世紀を支えたのが「鉄」であったのならば、今世紀でそれに相当するのは、当然「情報」でしょう。
インターネットが垂れ流す有象無象の「情報」を、彼らは食べ、エネルギーに変換します。ネットカフェで吸収し補充するのです!
当然情報の質によって栄養価が低かったり高かったりするわけでして、クズ情報ではいくら食べても腹はふくれない。2ちゃんねる情報なんて、逆に食べれば食べるほど飢餓感が(^^;

あれ、これってどっかで読んだような……

本日のBGM(24時間以内に消滅します)

 





書き続ける  投稿者:管理人  投稿日:2007 828()013740

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《同じSF作家の眉村卓さんは、癌に侵された妻のために毎日短い物語を書き続け、1500を越えるまでになった。本来、緻密なプロットを立てて小説を書く眉村さんが、これにてますます練達の作家になったというのは想像に難くない》――「定年再出発」より、夜中に目覚めて

たしかにそうですね。

BGM

 





眉村卓の創作教室  投稿者:管理人  投稿日:2007 826()223655

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毎日文化センターで、「眉村卓の創作教室」が開講されます。こちら
リンク先では判らないのですが、10月頃から開講の予定。まだ間に合うと思いますので、受講希望者は上記リンクより問い合わせや申し込みを行なってください。毎日文化センター

 





久しぶりに訪れたブログで  投稿者:管理人  投稿日:2007 826()214025

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冬ソナ=時かけ説
私自身は冬ソナを見ていないのでなんともいえませんが、なんとなく納得。

同じブログの別の記事には、おたく=草食動物説が。
なるほど! たしかに肉食動物ではありませんね。

 





「マジック・フォー・ビギナーズ」(7  投稿者:管理人  投稿日:2007 826()203820

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「大いなる離婚」

30頁にみたないショートストーリーで、本集ではめずらしいアイデアストーリー。ラストできっちりオチます。というか、ケリーの作品は基本的に(夢に触発された)アイデアストーリーなのですが、本集収録作品では、そのアイデアがきっかけとなってスペキュレーションが自走し始めるため、そこそこの長さが要請される。本篇はスペキュレーションがさほど膨らまなかった結果、結果的にいかにもショートストーリーらしい作品に仕上がったのかも。

冒頭の3行の「トンデモなさ」からは、いったいどんなシュールレアリスティックな、あるいはディック的な物語になるのかと期待させられたのでしたが、これが実に著者にはめずらしく、SFの構造に忠実で、生者と死者が結婚できるようになったらどのような変化を人間と社会は被るのかを、一種エクストラポレーション的に追求した作品に仕上がっています。

しかし――もっと破天荒に、もっと面白く出来たのではないかなあ、、、もう少し突き詰めてほしかったかも。

BGM(24時間以内に消滅します)

 





「マジック・フォー・ビギナーズ」(6)  投稿者:管理人  投稿日:2007 826()143723

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「いくつかのゾンビ不測事態対応策」

「これは森で迷子になることをめぐる物語である」というフレーズで始まる本篇は、まさに「存在することのさびしさ」を描いた佳篇。いうまでもなく自然主義的な「生きることの辛さ」ではありません。ただ「在ること」そのこと自体に必然的契機である「さびしさ」の謂です。埴谷雄高のように「不快」として突き放すのではなく、甘美にいとおしんでいるところは、ある意味女性ならではなのですが、埴谷的には客体化が不十分といえるかも。ただそのような態度が逆に227pの「絵を持って二階に戻り」以下の断章の美しい描写を支えており、この部分、私は「白鳥の歌なんか聞こえない」を思い出したのですが、著者の資質にある「少女小説作家」の一面、一種「感傷的」な面が図らずも現れた作品といえるでしょう。とはいえ、そのままでは終わさらないのが著者の構想力の勁さではありますが。

「在ることのさびしさ」に通ずるのですが、本篇の文体はあきらかにヴォネガットを意識している。205pの吸血鬼とゾンビの比較なんか抱腹絶倒ものですが、なんとなくヴォネガットも言いそうではないですか。それ以上に、「人間はあと始末をする。ゾンビはしない」(212p)といった箴言めいたフレーズを、文の最後にくっつけてある効果を出させる構文にそれを感じました。おそらくは本篇のテーマに最適な文体を模索しているうちにこのような似た表現になったのでしょう。

それにしてもharaherizonbie.com、samisiizonbie.com、hadakanozonbie.com……」(218p)って(^^; これって翻訳者のお遊び? もし原文がこのとおりならば、(ここまで読んできた作品にも日本を感じさせるものがありましたし)著者はかなりの日本通なのかもですね。そうだとしたら、「猫の皮」でアイヌ民話との類似を指摘しましたが、著者はやはり知識があるのかもしれません。

本日のBGM(24時間以内に消滅します)

 





矛盾?  投稿者:管理人  投稿日:2007 825()00281

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白鵬の発言>「自分の場合は周りに仲間がいっぱいいるから、ホームシックとかにはならないな」

ということは、つまり朝青龍のまわりに仲間がいないということを暗に示していて興味深い発言ですな。

それよりも21日夜に朝青龍を見舞った朝赤龍の
A文)「10分ほど会話し、朝青龍は巡業のことを聞いてきた」
という言葉に私は反応しないではいられません。

なぜならばこちらの記事によれば
B文)「医師の問いかけに答えず布団をかぶっている。眠っているというよりも、昏迷(こんめい)状態」
ということであるのに、そんな朝青龍が(A文)のように、自分が休場した北海道巡業の様子を聞く/気遣うといったことがはたしてできるだろうか、と感じるからです。
心の病のことはよく判らないので安易な臆断はしませんが、普通に想像するならばA文の横綱とB文の横綱が同時にありうるということは、ありえないように思われます。

本日のBGM(24時間以内に消滅します)

 





温熱性湿疹?  投稿者:管理人  投稿日:2007 823()233440

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ある人と話していて、いつまでも暑いですねえという話から、その人が体が熱を持つと痒くなる温熱性湿疹で困っているという話になりました。
温熱性湿疹とははじめて聞く症名だったのですが、そういえば私もお酒を飲みすぎると体が痒くなってくるんですが、これも温熱性湿疹でしょうか、と聞くと、あんたの場合は肝臓でしょう、とあっさり言われてしまいました。

(ーー;

本日のBGM(24時間以内に消滅します)

 





しかし「ヘリコニアの秋」はない  投稿者:管理人  投稿日:2007 822()224242

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おお、いま雨が瀑布のように落ちてくるとともに、空じゅうで稲びかりがビカビカ光りまくっていますよ。まるでホラー映画みたい。
稲光は大好きなのです。
風下側の窓を開けて、見てたのしんでいるのですが、本当は戸外へ出て雨をかぶりながら見ていたいところ。気持ちええやろねえ。気温も一気に下がりました。

といっているうちに、雨も小降りとなり、稲妻はまだ光っていますが、回数も少なくなってゴロゴロいう音もだんだんと遠ざかっていくようです。

――終わった。

なんとなく夏の終わりの予感。そういえば甲子園も今日で終わりました。明日から涼しくなっていってほしいですねえ。

本日のBGM(24時間以内に消滅します)

 





朗報  投稿者:管理人  投稿日:2007 822()00393

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<日課>関連である企画が進行中。まだ詳細をお伝えできる段階ではありませんが、未刊の11巻から18巻がようやく読めるようになるかも(^^) 続報をお待ち下さい!

「いくつかのゾンビ不測事態対応策」読了。
おお、これはヴォネガットですね(^^;

 





「マジック・フォー・ビギナーズ」(5)  投稿者:管理人  投稿日:2007 819()131038

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「猫の皮」

ダンセイニの創造した或る傾向の作品群を「創作神話」と呼ぶのならば、本篇はさしづめ「創作民話」である。
しかも(私の主観では)非常にアイヌ民族のユカラ(神謡)やウェペケレ(民話)の影響が強い。つまり著者はアイヌの民話に接したことがあるかのように感じられた。

たとえば前作「石の動物」では、夢の中の1シーンとして、姉が兎の耳の後ろに人が座っているのを見る場面があるが(ラストでは夫が――現実なのか夢なのか――兎の耳の後ろに掴まり、戦さを開始する)、アイヌ神話では、たとえばクマ神はクマそのものではなくて、耳の後ろに座しており、クマを殺すことは必ずしも神を殺すことにはならない。むしろクマ神は人間に食料や毛皮を恵むために人間界に(クマに乗って)やってくるのだ(とアイヌ民族は観念する)。これは実に人間に都合のよい論理なのだが、逆に無闇な乱獲を規制する心的ブロックにもなっている。殺された熊(に乗っていたクマ神)は、人間が丁重に祀ることで(イナウというみやげ物をもって)神の世界に帰っていくことが出来、また熊に乗ってやってきてくれる。

本篇では人間(ただし魔女が拾ってきた子供)が猫の皮を被ることで物語が動き出すのだが、ここにある観念は、あきらかに上記兎に乗るものやクマ(神)と同様の観念が看取される。すなわち外観と中身の分離、二重構造(ただしメビウスの輪のオモテとウラ)で、主人公の魔女の子供は猫の皮を被ると(体は人間並み、皮のつなぎ目はボタンで留めてあるにもかかわらず)、見る者には猫として認識される。

この観念がさらに援用されて、本篇では敵の魔法使いの娘や息子たちは猫に変えられてしまうし、その猫の腹を割けばつるりと裸の彼や彼女が飛び出してくる。かかる動物(猫)と人間のくるくる入れ替わる二重構造(オモテからウラ、ウラからオモテ)が本篇の面白さを主に支えているように思われる。

ところで上記猫の皮を被るとどんなに猫として異相でも猫として認識されるというのは、演劇の前提でもある。すなわち本篇を劇化したとして、やはり猫の皮を被った役者は、観客には人間としか見えないが、劇の中の人物たちはそれを猫と(みな)して芝居を続けるだろう。本篇によって演劇と民話の相関性というか類縁性というか同根性に目を啓かされた。

ところで上に、著者はアイヌ神話をよく知っているのではないかと書いた。これはしかしかなり蓋然性が小さいようにも思われる。私は北米の神話や民話を読んでないのでそのように感じるほかなかったのだが、あるいはひょっとして北米神話にはアイヌ神話に似た観念があるのかもしれない。アイヌ神話と日本神話は、(伝播的関係は強いにせよ)その根底の観念でかなり異質なものだと私は感じている。むしろアイヌ神話は極東から北米の先住民族の神話とより強い繋がりがあるのだとしたら、著者がアイヌ的な心性や観念を、北米先住民の神話や民話から吸収した可能性があるだろう。

ともあれ創作民話(擬似民話)として本篇は大変よく出来ていて、とても面白かった(ところどころに警句的文句をはさむところなど心憎いばかり)。とはいえ本篇は民話ではないので、上述したアイヌ民話のような、行動原理の教科書としての機能はありえない。その意味では空無な民話といえる。擬似民話と書いたゆえんである。本篇はあくまでも(ダンセイニの擬似神話同様)文学作品なのであり、その意味では民話の観念を援用することで、非常に奇妙な感覚を読者に生じせしめることに成功している。

 





始まりはみな同じ  投稿者:管理人  投稿日:2007 819()012055

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NHKFMで、「今日は一日フォーク三昧」という長時間番組(9:00〜22:00)をやっていて、たまたま私は車を運転していた午前11時台と午後5時半ごろ、それをカーラジオで聞いていたのでした。
午前中は山本コータローがナヴィゲーターで、1970年以前の、日本のフォークの創成期の曲がかかって懐かしかったのですが(曲目はリンク先をご覧下さい)、彼が言うに、この時代のフォーク(いわゆる関西フォーク)は、70年代に入ってからのフォークが商業主義に取り込まれてしまったのに対して、まだそこまで商売のタネとは認識されていなかった。その分、歌い手も純粋に曲をつくり歌っていた(意訳)、といっていたのが興味深かった。

夕方聞いたときは、きたやまおさむがナヴィゲーターで、丁度友川かずき「生きてるって言ってみろ」が終わるところで、きたやまが、友川いいねえ、それまでの曲が甘いのばっかりだったので、ほんとのフォークを聞いたって感じ(意訳)、という意味のことを言っていて、ほほう山本コータローの言と通ずるなあ、と感心したのでした(で、友川かずきの前は一体何がかかっていたのかと、リンク先で確認すると、「岬めぐり」だったというオチが(^^;)。

山本が謂う「70年以前のフォーク」というのは、思うに黎明期の日本SFと、私は重なるのではないかと思います。SFの場合の画期は日本沈没で、これ以降、SFは商売になるとして、SF作家は(良くも悪くも)商業主義のなかに取り込まれていきますが、それ以前は御三家以外は商売になっていなかったのではないか。ほとんどセミプロ状態で、それが金になるとかならないとかは二の次で、ただSFを書きたいから書いていたのが、いわゆる第1世代といわれる人たちであった。まさに黄金時代だったのではないでしょうか?

「猫の皮」読了。

 

 

 

 

(管理人黄金時代といえば、一般的にいって日本沈没以降の10年くらいがイメージされがちですね。その意味ではここで使用するのは不適切かもしれません。青春時代と言い換えた方がいいかも。

 





岡田笑う  投稿者:管理人  投稿日:2007 818()125448

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「そんなん、アウトセーフ、ストライクボールは審判が言えばしょうがないことやろ」http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.nikkansports.com%2Fbaseball%2Fp-bb-tp0-20070818-243335.html

おいおい(^^ゞ

 





「マジック・フォー・ビギナーズ」(4)  投稿者:管理人  投稿日:2007 816()232538

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「石の動物」

玄関の両側に奇妙な石製の兎が侍り、幽霊が出るという噂もある屋敷を購入した家族が、その屋敷で体験する不思議な出来事が語られます。
かくのごとく一種ホラーの体裁を纏っており、著者自身も作中人物にその石兎に対して「ストーンヘンジ」や「装飾刈り込み」を連想させたりして、その辺意図的というか思わせぶりであるが(ストーンヘンジは古き種族、装飾刈り込みはいうまでもなくシャイニング)、もちろん純然たるホラーではありません。

夫婦と姉弟の4人家族はそれぞれに問題を抱えている。
妻は妊娠6ヶ月、大学の教員だったが同僚の性的スキャンダルで学科の全員が辞めてしまい失業する。それ以前に夫婦仲の悪さの売り言葉に買い言葉(だったんだろうか)、妻はこの同僚と不倫したと夫に嘘をついていたため、その嘘が瓢箪から駒式に事実化してしまう。それが変化となって夫婦仲は縒りが戻り、妻は妊娠するのだが、安定すると再び夫は仕事に没頭していく。
夫は仕事人間で家族を顧みないばかりか、アメリカ独特の隣人とのコミュニケーションも極端に嫌い、パーティなどにも姿をあらわさない。そのため妻は、夫がいるというのは嘘かもとさえ隣人に思われる始末。
姉は気難しい性格で夢遊病の気があり、それが理由で友人をつくろうとしない。弟は同年代に比べて体も小さく臆病で女々しく、やはり友達が出来ない。
そんな家族が心機一転のつもりで購入した家だったが、会社まで片道2時間ということもあって、夫は常に午前さまで帰宅、そんなこんなで妻の精神状態も安定せず、家の壁を強迫的にペンキで塗り替えることを繰り返し始める。

そんな家族が、それぞれに不思議な夢を見始め、それらが次第に現実を侵犯していく……

一読、私は井上光晴「眼の皮膚」を思い出しました。この作品は、主人公の若い主婦の、一種神経症的な日常が主観的に描かれており、60年代に始まるニューファミリーというか核家族化の、(それ以前の拡大家族においてはありえなかった)地縁や血縁から切れることで生じる孤立と不安(夫との乖離、育児の不安、地域社会からの断絶)が、いまだ自立化できていない個人を押しつぶさないまでも、強い圧力となっている状況が写し取られている。いろいろな関係性から解き放たれ自由になったはずのニューファミリーが、自由になったが故に被る新たな疎外を、すでに60年代前半という、ニューファミリー成立時点で、著者の作家的想像力が予測的予言的に捉えており、(井上光晴が当時実践していた)「ウェルズ流の未来小説」として描かれた現代小説の傑作なんですが、同じテーマを追求したリンクの方法論は、ウェルズ的な生真面目さは微塵もなく、家族のそれぞれがそれぞれの問題性に触発されて見る夢が、どんどん現実を侵犯していく、いわば「バラード的なニューウェーブの手法」で多面的に描かれている分、「眼の皮膚」をある意味凌駕しています。逆にいえば1960年代前半の井上未来小説にSFが追いつき、ようやく追い越したともいえる、と30年来井上光晴をSFであると主張してきたシンパとしてはそう考えたいと思います(^^)。

ところで、妻のせり出した大きなお腹に娘がノックするシーンがあって、妻が「どなた」と聞くと、娘が「蝋燭立てです」 というのだ。ファットマンです。ボックス。ハンマー。ミルクシェーク。クラリネット。鼠捕り。バイオリンの弓。104p)という風に言い換えるジョークなんですが、全て性的隠喩ですね。「大砲」もそうでしたが、リンクは俗流精神分析が好きなのか、アメリカ人らしいというべきなんでしょうか(^^;

 

 

 

 

(管理人なぜタイトルは「石の兎」ではなくて「石の動物」なのか?
そう思って見返してみると、最初息子は「犬」と思ったんだったし、妻は「ライオン」と思った。不動産屋の営業が「兎」といったから、みな何となくそう納得してしまっただけなんですね。
ということは、あれは「兎」ではなく(犬でもライオンでもなく)、まさにストーンヘンジ的な「石の動物」だったのかも知れませんなあ・・

 





Re: ブログであることの意味  投稿者:管理人  投稿日:2007 816()005212

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> No.920[元記事へ]

堀さん

たしかに明確に主題を意識し、展開するために書かれた、高度な文章ですね。
それからすると私の書く文章は、文章というもおこがましい、主題というものがなくあっちゃこっちゃに飛んでいくので、大体においてカテゴリ化不可能であることに気付かされます。
そういう意味では、山登氏のレベル(意識も含めて)に達して初めてブログというツールは有効化するんですね。

>「源田実」
ブログのコメント機能はいまいちですね。掲示板ならば管理人と投稿者は平等な位置にいますが……。
掲示板でも変なヤツはやってきますが、ブログのコメント機能は、そのコンセプト自体に無責任な「言いっ放し」を許容するような、そんな気持ちにさせるところがあるように思います。かといってクローズドにしてしまうのも常連さんの存在を考えれば躊躇してしまいますよね。
難しいですねえ・・

 





Re: ブログであることの意味  投稿者:堀 晃  投稿日:2007 815()212546

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> No.919[元記事へ]

あのブログはなかなか凄いと思います。
ただ、作者のプロフィールがないのが不思議です。
書かれている内容から、山登義明氏と特定できるんですけどねえ。
山登氏のブログはきちんとした「作品」として公開されているのだと思います。
そのまま本にしてもいいレベルだと思います。
ぼくは、ブログはもっと私的なものと考えてきました。
個人的なメモだが一応公開してもいいかなというような。作品とは考えてないのです。
ただ、コメントが苦痛になりました。
具体的には「源田実」ですけど、こんなのにいちいち対応せにゃならんのかと考えると、すべてが無駄な気になつてしまって。
このあたりは、もう少し考えますが。

 





ブログであることの意味  投稿者:管理人  投稿日:2007 815()125224

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そういえば堀さんは、先般ブログから「帰郷」なさったのでしたが、下のブログで、私ははじめてブログの有効性というか、使い勝手を理解しました。でも考えてみたら、私自身はブログで読書録をしているだけなので、全くブログである意味はないことにも同時に気付かされましたね。もしブログであることを有効化するためには、カテゴリを作家別にするとかの工夫が必要なんですよね。ちょっと考えてみよう。

 





Re: SF創成期の特集  投稿者:管理人  投稿日:2007 815()122646

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> No.917[元記事へ]

堀さん

ついさっき、読み終わりました。きのうはざっと目を通しただけだったのです。同じブログ内の別カテゴリ大伴昌司の遺産も興味深く、こちらにSF作家クラブ40周年記念パーティのことが出ていました。

どうやらETV特集で仮題が「21世紀を夢見た日々」。
ブログによれば、
「企画はこうである。この夏、横浜でSFの大きな国際大会が開かれる。日本にSFの同人誌が生まれて50年、作家クラブが結成されて45年ということを記念するものだ。これに合わせて、作家クラブの果たした役割を描いてみようと企画を立てたのだ」
とのこと。
大伴昌司の遺品から発見された69年の放談のテープや第1世代作家へのインタビュー、往時の日本SF作家クラブの「研修旅行」の8ミリを、筒井さん、小松さん、石川さんらに見てもらいながら、当時の思い出を語り合ってもらった映像も既に出来上がっているようです。
10月中旬放送とのことで、これは楽しみです!

さて――余談ですが、ブログの管理人さんが石川さんの
《秋のあとに冬が訪れ、有楽町駅のつぎは東京駅であり、隣に寝ている女はいつも女房――そういった日常生活が・・・》
という表現に、
>有楽町駅のつぎは東京駅、なんて表現はなかなか出てこないものだ。
と感心しておられますが、私はなぜか西岡たかしの
《屋台じゃ焼きそば20円 焼酎が25円で、靴は水の沁みるものさ、シャツとはボタンの取れるものさ・・・》
という歌詞が浮かんできました(^^;

福島正実が「科学技術の進展は21世紀を大変化させるだろうが、人類は20世紀後半から21世紀前半にかけてモラルを崩壊させおおいに悩むことになるだろうとしている」という記述も気になりました。福島さんはどのような論理でモラルが崩壊すると予測なさったのか、詳しいところを知りたいと感じました。

 





SF創成期の特集  投稿者:堀 晃  投稿日:2007 815()025524

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先日のSF作家クラブ40周年記念パーティにカメラが入っていて、そのようなアナウンスがありました。
小松左京マガジンの最新号にもちょっと記述があり……今手元にないので確認できませんが。手間がかかる仕事ですね。

 





偶然見つけた  投稿者:管理人  投稿日:2007 815()02159

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SF幼年期の、終わりに

上記ブログによりますと、なんかNHK(?)で、SF創成期の特集が予定されているのでしょうか。
大橋さんたちのプロジェクトと関係あるのかな?

「眼の皮膚」再読中。

 





賛美歌百番  投稿者:管理人  投稿日:2007 814()115739

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下に書いた「黙示録」発見(但し画像も音も悪し)。
いやあyoutubeは探せば何でも見つかりますねえ。

Hymn To Him(モントルー、1974)

リンクは「石の動物」を読みました。これも傑作。井上光晴「眼の皮膚」を連想した。リンクにしてはわかりやすいのは、長さがある分リニア効果があらわれているからでしょう。感想はあとで(youtubeをうろついていると、2時間、3時間はあっという間に経ってしまうなあ(ーー;)

 





サンタナvsマクラフリン  投稿者:管理人  投稿日:2007 813()030019

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Let Us Go Into The House Of The Lord (モントルー、2004)
Canto de xango (モントルー、1993)

前者は「黙示録」と並んで大好きな「魂の兄弟たち」(72)の1曲。原曲はゴスペルのトラディショナルらしいが、ファラオ・サンダースが70年に録音しており(Deaf Dumb Blind - Summun Bukmun Umyun)、おそらくこちらに触発されたんではないでしょうか?
この演奏ではマクラフリンがやや不調なのが残念。

 





放電  投稿者:管理人  投稿日:2007 812()235336

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疲労が蓄積しているのは自覚していたのですが、昨日遂にディスチャージしてしまいました。突然背中が痛くなって動けなくなった。そのときふと閃いて、コップ1杯の塩水を作って飲んでみたところ、あら不思議、背中の痛みが取れました。どうやら汗の掻き過ぎで塩分が不足してしまったようです。味をしめてさらに2杯ほど塩水を飲んだんですが、逆に摂取しすぎたのか、夜半寝ながら少しもどしたようで、吐瀉物が鼻の中に入った痛みで目が覚めました。なぜ摂取しすぎと思ったのかというと、鼻に入った吐瀉物がものすごく辛かったからなんです。まあ本復していないということなんでしょう。

それにしても、今夏はそんなに気温は上がってない(大阪で猛暑日は一昨日から)けれども、異常なほど蒸し暑くないですか。もっともそう感じるのは私の体調のせいかもしれません。とにかくめちゃくちゃ汗を掻くんですよね。ここ一週間くらいはパンツまでぐしょぐしょになるので、下着を何度も着替えている。塩分が不足するのもある意味当然なのでした。

ということで、お盆休み初日の今日は、本も読まずに(読めずに)ごろごろと過ごしてしまいました。で、久しぶりにテレビで野球を見た。4対1と3点差もあるのに、なぜ6回で先発を引っ込めるかね。結局5対1での勝ち試合にJFKをつぎ込んじゃって……ほんとにこの監督は定型しか出来ないんだよね。今日の能見であればもう一回は絶対いけたはず。今後JFKも一試合二人にしてロ−テーション化することを考えないと夏場を乗り切れない。夏場を乗り切れたとしても終盤で息切れしてしまう。よしや今年はそれでいけても、来年付けがまわってくること必定では。まあ来年のことを考えている余裕は、この監督にはありませんけどね。

 





「マジック・フォー・ビギナーズ」(3  投稿者:管理人  投稿日:2007 810()010728

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まず昨日の感想で「予想を裏切ってストーリーはどんどんそれていき」と書きましたが、全く同じ表現が訳者あとがきで使われていることに気がつきました。真似をしたつもりはなく(というか誰でもそう感じるんでしょうけど)私としては不本意ですので、「予想を裏切りつづける<非リニア>なストーリー」と言い換えておきたいと思います(^^;

で、「大砲」を読みました。

これはSFマガジンで既読。初読時の感想→11/11。なるほど森青花風ねえ(^^;

というわけで、SFMの金子ゆき子訳と突き合わせて読んでみました。
つき合わせてみて、柴田訳は原文に忠実、金子訳は解釈優先なのかなと感じた。柴田訳のほうが正確なのかも知れませんが、金子訳のほうがリズム感というのか躍動感があって「小説の文体」になっているように思います。私は金子訳のほうが好きですね。
それにしてもリンクの筆先はまことに融通無碍ですな、「もうちょっと角度を上げなさいな」なんて、性的隠喩というよりも、もっと庶民的なくすぐりですし、ラストでは質問者が「正直に言ってくれてありがとう」と逆ギレしているところも哄笑させられます。大砲を妻にした砲手長が死後発射され首が羊飼いの娘の膝にのっかるシーンはいかにもマンガ的ですし、その一方でヴィーナス・シュピーゲルのエピソードはボルヘスっぽい。
このように下(しも)のほうから頭のほうまで、ごった煮状態でいろんな要素が詰まっており(著者の文学的来歴が垣間見えます)、というか重層的に非リニアにストーリー上に並んでおり、結果全体として不思議な色調の光線の中に作品世界が佇んでいる、そんな統一感が感じられる。味わい深い佳品ですね。

 





「マジック・フォー・ビギナーズ」(2  投稿者:管理人  投稿日:2007 8 8()21555

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「ザ・ホルトラク」

SFマガジンで読んでいるので再読です。初読時の感想は→ここ
先日、「妖精のハンドバッグ」を傑作だと書きましたが、本篇はもっと傑作! いやほんま。
それにしても、初読時の印象をかなり忘れていました。というか勝手にストーリーを改変捏造しておりまして、私の記憶の中では、主人公は<聞こ見ゆる深淵>に途中まで降りていった筈なんですが、今読んだらそうではなかった。
それで当該SFマガジンを引っ張り出してきて確かめてみたんですが、やはりSFM版と単行本版は同じでした。私が勝手に物語を作り変えて記憶していたようです。それにしてもこの奇想天外な現実離れしたストーリーが醸し出すありありとしたリアリティはなんなんでしょう? これが筆力というものなんでしょうね、ぐいぐいと引きずり込まれていきます。とにかく最後まで(一度読んでいるにもかかわらず)予想を裏切ってストーリーはどんどんそれていき……そして印象的なラストシーン! これがすばらしい! 「助手席には一匹のラブラドル犬が乗っていた」からラストまでのわずか数行ですが、この部分読んでいるとき、私は一瞬バラードを読んでいるかのような錯覚にとらわれていました。視覚的で硬質で撥ねかえすような反射のきつい文章と、対象に近づかない距離感を保ったアングルがそう錯覚させたんでしょうか。ともあれ初手から傑作が二つ続きました。このあと一体どうなるんでしょうか、わくわく。

 





教訓  投稿者:管理人  投稿日:2007 8 7()005745

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今日は、終業間近に週末にやってしまった大変なミスが発覚し(といっても知れてるんですが、最近も同じミスを犯したばかりなんで)凹んで帰宅。こういう日はミジメソングにかぎりますな。ということでカロ川良
朝青龍のように布団を引っ被って不貞寝してしまうのであった(ーー;

 

 

 

 

(管理人リンク外しました(6/22

 





「マジック・フォー・ビギナーズ」(1  投稿者:管理人  投稿日:2007 8 5()204231

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ケリー・リンクの最新短篇集ですが、bk1に注文してから5日目にして、ようやくクロネコ便にて到着(今は中元繁忙期なんでしょうか)、早速巻頭の「妖精のハンドバッグ」を読みました。

例によって想像を逞しくすれば、本篇の根本的な創作契機は著者の身内(祖母?)の死だったのではないでしょうか。本篇は、おそらくは亡き祖母への追悼作品、追善興行の類だったのかも(もしご健在でしたら深くお詫びいたしますm(__)m)。なんとなくそんな確信めいたものがわき上がってくるのを押さえることが出来ません。

おそらく著者は、幼少期祖母からいろいろなお話を(それこそあることないこと、ときにはないことないことを)聞かされて育ったのでしょう。著者の資質の今あるは、そのような祖母の存在が大きかったに違いありません。

もしそうだとすれば、そんな祖母が亡くなったとき、著者は、上記のようなかけがえのない存在であり、「世界最高の嘘つき」12p)だった祖母に対して、いわば「虚構(うそ)返し」ともいうべき一種蠱業(まじわざ)めいた儀式として本篇を構想執筆したと想像することは、非常に自然なことのように私には思われます(「約束してほしい、こんな話、ひと言も信じないって」)。そうして著者は、亡くなった祖母の、しかしその前に「もう本当はその場にいなかった」(36p)ところのその「一部分」(35p)を、そっとハンドバックに封じ込めたのに違いありません。

傑作です。

ところで、本篇のハンドバッグは「都市と星」のリスではないでしょうか。ハンドバッグの中では永遠が支配しており時間は流れていない。ときどき、そこから出て来て現実世界と交流するものもいるが、リスにおいてもアバター、では逆ですね、電脳存在が現実世界と交流するために纏う身体みたいなもの、でときおり出現したんではなかったっけ。その伝でいくと祖母ゾフィアは「中継ステーション」のイノック。皮なし犬は自動防衛システムかも(^^;

 

 

 

 

(管理人殊更に著者を持ち出してくる必要はなかったかもしれません。ふつうに主人公による祖母への追善の「虚構返し」とみなすべきだったかも。
でもそういう風に読めちゃったんです。

 





貴乃花vs貴ノ花  投稿者:管理人  投稿日:2007 8 5()024131

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朝青龍vs貴乃花
貴ノ花vs三重ノ海、大受、高見山、増位山、豊山、北の湖

 





『謎とき「日本」誕生』  投稿者:管理人  投稿日:2007 8 3()221337

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高森明勅『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書、02)読了。
初読時の感想はこちら→1/9
第4章の評価は、初読時よりだいぶ変わりました。
で、今回感心したのは、「王朝交替説に立つ論者は「王朝の交替があったにもかかわらず倭という国名を変更しなかったのはなぜか」という問いに、まず回答する必要があるのではないか」(172p)という風に、「倭」国名の持続を、王朝持続の傍証とする著者が、その論理の帰結として(九州に確定した)倭奴国も同一王朝とみなさねばならず、必然的に東遷説を(ただし邪馬台国東遷ではなく倭国東遷)採用しているところです(オロモルフ説もその点同じですね)。さすが筋を通しているなあと思う反面、倭国の持続がすなわち王朝持続であると、そんなに機械的にいえるだろうかとも感じました。

 





Re: 納得するのも当然。  投稿者:管理人  投稿日:2007 8 2()232216

  返信・引用

 

 

> No.905[元記事へ]

高井さん
そうなんです。『ショートショートで日本語をあそぼう』85ページに気付いて、私はひっくら返りましたですよ。自分では独自の見解のつもりだったんですけど(^^ゞ
このように、自分ではイッパシの見解のつもりで喋っていることが、実はその分野では当たり前だったというのは、私の場合往々にありそうで、今も日本書紀の女帝隠しについて傍証を探し回っている最中なんですが、同じ惧れをひしひしと予感しております。
しかしまあ「いいではないか、どうせ<素人の端くれ>でしかないのだから」(突然眉村節になる)と開き直ってしまえるのが素人の強みではありますね。

>またいつか参上します
お待ちしております!

 





納得するのも当然。  投稿者:高井 信  投稿日:2007 8 2()080238

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 私も『ショートショートで日本語をあそぼう』を読み直してみました。なるほど、“ら抜き言葉”に関して、大熊さんと同じような考察をしていたんですね。すんなり納得できたのも当然でした。
 日本語の乱れを気にし始めると、大変ですよ。ある程度の法則みたいなものはありますが、例外がたくさん。要するに、いいかげんな世界なのです。くれぐれも深入りしないことをお勧めします。
 では、またいつか参上します。

 





Re: ら抜き言葉  投稿者:管理人  投稿日:2007 8 1()235229

  返信・引用

 

 

> No.903[元記事へ]

高井信さん

や、これはようこそお越し下さいました(^^;

>“ら抜き言葉”に関する考察、納得です。
おお、ありがとうございます。名著『ショートショートで日本語をあそぼう』(ちくま文庫、私の感想文→12/2112/23)の著者にそういっていただけると心強いです!
しかし、うーむ……。とは言い条お尻がむずむずしてくるので書棚から御著書を取り出して来てみました。ギャッと叫んでそこら辺を走り回りたくなりました。いやお恥かしい、紅顔の至り、もとい汗顔の至りです(^^ゞ

> では、「打てれる」「書けれる」などの“れ入れ言葉”、「行かさせて」「読まさせて」などの
>“さ入れ言葉”はいかがですか。ぼくは耳障りで仕方がありません。
おお、こういう言い方については考えたことがありませんでした。たしかに「気持ち悪い」ですね。ただし大阪弁では“れ入れ言葉”的な表現を、ごく限定的部分的に使用する場合があります。たとえば「打てれへん」とか「書けれた」というのは私自身も無意識に使っていそうな気がします。
ところで「打てれる」は「打てる」という(架空の)動詞を仮定すれば、打てれない、打てれます、打てれる、打てれるとき、打てれれば、打てれ(ろ)すなわち「れ・れ・れる・れる・れれ・れろ」の下一段活用で説明できますね。で、「打てる」は「打つ」の可能態とみなせますから、やはり「ら抜き」同様「可能」に関しての変化のひとつと考えられるかもしれませんね。
ちょっと面白くなってきましたので、もっと調べてみたいと思います。

御著書にも取り上げられていましたが、私自身は「すごいよかった」といった連用形の無視の方がすごく気になってしまいます。

 





ら抜き言葉  投稿者:高井 信  投稿日:2007 8 1()134530

  返信・引用

 

 

 お初の書き込みです。頑ななまでにネットの掲示板には書き込みをしないと決めていましたが、最近、ちょっと軟化の傾向がありまして、ご挨拶に参りました。
 どうぞよろしくお願いします。

“ら抜き言葉”に関する考察、納得です。
 では、「打てれる」「書けれる」などの“れ入れ言葉”、「行かさせて」「読まさせて」などの“さ入れ言葉”はいかがですか。ぼくは耳障りで仕方がありません。
 日本語の乱れについて書き始めると、どこまでも果てしなくなってしまうので、これ以上話題を広げるのは慎みます。

 





ケリー・リンクの  投稿者:管理人  投稿日:2007 8 1()013746

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新刊が出ていることを、中野善夫さんの日記で知りました。でも2000円って……単行本やん。実は出るというのは耳にしていたんですがファンタジー文庫だと思っていたので気付いてませんでした。

中野さんの日記は、やる気がないようでそのくせ変なところで頑張ったりする日々の報告が面白くて毎日愛読しています。そんな中野さんの日記ですが、上記リンクによれば、リンクの訳書には「ら抜き言葉」が複数出てくるらしい。でも私はオッケーノープロブレムです(^^;
それは「ら抜き」という変化が文法的に理にかなっていると感じているからで、「られる」には受身、可能、尊敬といった意味がありますが、従来このなかで「可能」の意味が(とりわけ書き言葉では)一番弱かった(というかしっくりとしなかった)。たとえば可能の意味で「来られます」を使うと何か伝わらない感じがして、私は大概の場合「来ることが出来ます」という風に言い換えていましたね。その点「来れます」は実にしっくりと「可能」の意味が伝わって来るように思うのです。
このように「ら抜き言葉」はまさに「可能」の場合にのみ用いられている。私の目にしたところではこれに例外はありません。つまり「ら抜き言葉」とは「られる」のうち一番外側にあった「可能」の意味のみが分化特化したものと考えることが出来ます。すなわち「文法的な」変化として捉えることが出来るように思われるのです。
私は「ら抜き言葉」よりもむしろ、「なにげに」とか(「さりげに」は遡ってみれば判らんでもないですが)いった文法から外れた変化の方がよほど耳に障りますね。
というわけで、あわててbk1に発注。すぐには取りかかれないかもしれませんが、楽しみ(^^)

 キダ・タロー

 


 

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