ヘリコニア談話室ログ(200710)




座談会  投稿者:トマト  投稿日:20071031()171846

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久野四郎の企業人としての感覚は実にアクディブに感じられますね。とくに企画部宣伝課だからタレントさんを抱える芸能事務所との取引きあったでしょいう・・・。「獏喰らえ」なんてそんな業界の空気が如実に描写されていますね。金座で石を投げればコピーライターかカメラマンの卵にあたるなんていうところが・・・。(ちがったかな? )
で゜がラスのわら人形にもスパイスの聞いたせりふがあちこちにでてきました。
「パンスケが殺されたのを知っているかい?}
「呪いをかけてやったのよ。」
なんていうなんともスパイスの効いてフレーズがあちこちに出てきました。
実はこのガラスのわら人形の翌号であの「覆面座談会』が開催されていたんですね・・・。
久野四郎が覆面座談会では「あとがきが気に入らない。」とか「不真面目だ。」とか誰かに言われていました。久野四郎は企画部宣伝課の人間で理工系ではないので、理工系のたとえば石原藤夫なんかとはぜんぜん違う雰囲気だと思います。
気に入ららなかったあとがきというのは「福島さん、ケツを叩いてくださいな。」という書き方でしょう。SFマガジンではなく「アサヒ芸能」向きだというわけですね・・・。
しかし「福島派」主催の覆面座談会の批評対象として「うわさの二人」として福島正美と石川喬司」も登場させるのは不公平で非難されてもしょうがないですね・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%86%E9%9D%A2%E5%BA%A7%E8%AB%87%E4%BC%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 




「星ぼしの荒野から」  投稿者:管理人  投稿日:20071031()00008

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ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『星ぼしの荒野から』伊藤典夫・浅倉久志訳(ハヤカワ文庫、99)、読了。
面白い面白い。完璧にハマッてしまいました。こんな凄い作家だとは知らなんだ。わが不明を恥じるのみ。

ということで、『老いたる霊長類の星への賛歌』に着手。

 




Re: とんでもない!  投稿者:管理人  投稿日:20071029()195338

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> No.1014[元記事へ]

かんべさん

>君子、危うきに近寄らず。むさし、危うきを近寄せず。
ははーっ、これは失礼しましたm(__)m
うちみたいな無名掲示板なら問題なしですが、確かにかんべさんや堀さんのような著名人の方のブログは、訳のわからないネット怪人が出没しておかしくなってしまうことが多いですよね。残念ですが予防するに越したことはなさそうです。

ところで、フリーメモを拝読していますと、朝ミラ体験をもとに小説を書きたくてウズウズなさっているようにみえて仕方がないのですが(笑)……私もはやく読みたくて仕方がありません。完成を楽しみにしております!
といっても、現在進行形で真っ只中に巻き込まれているあいだは、対象化(小説化)するのは難しそうですね。気長に待たせていただきます(^^ゞ

 




とんでもない!  投稿者:かんべむさし  投稿日:20071029()124146

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フリーメモにコメント欄なんか作ったら、
それこそ下記のネット怪人みたいな、
有象無象がたかってくるやないですか。
君子、危うきに近寄らず。むさし、危うきを近寄せず。
では、では。

 




覆面座談会  投稿者:管理人  投稿日:20071028()18577

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>でも覆面座談会はまずかったですね
当時の文芸誌ではそういう風習があったそうですよ。
でも槍玉に挙げられる本人からすればたまったものじゃないですよね。テメエ、コノヤロー名を名乗れ、ってなりますよねえ(^^;

>久野四郎もだれかに批判されていましたね・・・。
下の星評伝によれば、石川喬司、稲葉明雄、福島正実、伊藤典夫、まとめ役・森優というメンバーだったようです。
私は大学時に借りて読んだきりなので、もはや全く内容を覚えておらず、久野四郎がどう批判されたのかも忘却のかなたなんですが、山野浩一が入っていないのは意外でした。当然加わってキビシイ意見を述べていたとばかり思っていました。

>ネット上の舌鋒とは裏腹
そんなもんなんでしょうね。気が弱くてリアル空間で吐き出せずたまった澱を、サイバースペースに撒き散らして平衡を保っている輩がいるんでしょうか。それにしても、トマトさんもいろいろ経験なさっているんですね。

 

 

 

 

(管理人追記。山野の例の「日本SFの原点と指向」では、
「小松左京の影響かどうかは判らないが、小松以後の作家の作品には主体体系の不在のものが多く、筒井康隆、眉村卓、平井和正、豊田有恒、石原藤夫、久野四郎らの作品には主体的論理体系の不備が最大の欠陥になっている」
と十把一絡げでバッサリ切り捨てられています。うーん、第1世代がみんな嫌っていたというウワサは事実でしょう。作家って酷評は意外に執念深く覚えているそうですからね(^^
でもこの評論が載ったってのも福島正実の意向が働いているわけですよね。

 




福島正美  投稿者:トマト  投稿日:20071028()163752

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亀田一家ならぬSF一家の専制君主…そうだったかもしれませんね・・・。

でも覆面座談会はまずかったですね。批判するんだったら批判者としての責任かあるから、自分の身を明かしてそして責任のある批判しないと、ネットの炎上ブログ状態になってしまいてますね・・・。なんかこんなことを考えると、福島さんていうのはネット怪人(人を批判する、自分か批判されると怒る、ウェブマスターでもないのに掲示板などを自分のイメージで仕切ろうとする)を連想してしまいますね。だから豊田氏などが怒るのももっともだと思います。SFは福島さんが開拓したものだけど、福島さんの私物ではないですからね・・・。
 しかし福島さんのこのSFMがわたしは一番好きです。あの頃のSFMの表紙は当然ながらフォトショップなどで作ったものではないのでなんとも味がありますね・・・。でもあの覆面座談会で久野四郎もだれかに批判されていましたね・・・。

ところでわたしはかつてネット怪人にキレて素性を突き止めたことがありました。ネット上の舌鋒とは裏腹におとなしそうな人だったことにはびっくりしました。

あの頃のSFMの表紙は当然ながらフォトショップなどで作ったものではないのでなんとも味がありますね・・・。

 




祝在石上  投稿者:管理人  投稿日:20071028()13017

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かんべむさしさんのHPが来月10日で丸3年、朝ミラは既に2年半とのことで、おめでとうございます。→フリーメモ
私の感覚では「え、もう!」という感じですなあ。光速は矢よりもはやいはやい(あたりまえ)。

浜村さんが72歳なので、最低でも干支(えと)ひとめぐりは無問題のはずですが、もちろん本業に専念となればそれに如くはありません。
フリーメモの方は、(堀さんは撤退されましたけど)コメント欄があると便利なんですけどねえ。読んでツッコミ入れたいこと度々あれど、わざわざメールするほどの大した内容ではないので(^^ゞ

 




星新一と安部公房(仮説)  投稿者:管理人  投稿日:20071028()103825

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星新一のカフカ感想を読んだ記憶がないのだが、面白がらなかったはずがないと断定した上で、思いついたこと――
安部公房はカフカに実存を見たし、初期の短篇群にその影響を否定しなかった、むしろ積極的に影響を認めた。
対して星新一が(件の本にはそのような記述はないが)もしカフカを気に入っていたなら、むしろそのナンセンスを面白がったに違いない。
しかしながら、実存といい、ナンセンスといっても、実は両者は同じものを見ているのだ。カフカ小説の発する同じ転調部分に感応している。それを安部は実存と表現し、星はナンセンスと認識した。しかし実存もナンセンスも不条理の構成要素なのだから、結局盾の両面でしかないのだ。
ところが、文壇は実存といえば認めても、それをナンセンスとして提出すれば文学とは認めなかった。
これがある時期(「砂の女」以降)から両者を隔て始め、片やノーベル賞候補に、片や無冠の王様へと道を分けてしまったのではないか。星もまた純然たるナンセンスから、自作に「寓話」という「意味」与え始めていく。
これはある意味安部の(文壇に即した)プレゼンの勝利ともいえるかも。少なくとも(意図的に、文壇的・純文学的にわかり易くした)「砂の女」以降は別にして、少なくともそれ以前の安部と星のあいだは、実際はそんなに距離は離れていなかったのは間違いない。
したがって星がもっと額にしわを寄せているようにして(笑)、そしてそのような方向から批評する(ドナルド・キーンのような)評論家がついていたら、状況は全く変わっていたかもしれません。それもまたナンセンス・不条理ではありますが。

 




読了  投稿者:管理人  投稿日:20071028()001217

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最相葉月『星 新一 1001話をつくった人』(新潮社、07)、寸暇を惜しんで読了。
近頃では寸暇を惜しんで読むなんてめったにありません。それほど本書は面白く、驚きの連続でした(安部公房と気まずかったとか)。ある時期まで安部公房とは(ポジション的に)ライバル的関係だったというのも気づかなかった(いわれてみればなるほど)。星新一の評伝ですが、むしろ、といいますか、とりわけわたし的には、星新一を焦点とした日本SFの創生からある時期までの、いわば日本SF裏面史として実に興味深かった。

星が、終生売れることにこだわったというのは、(業界的には周知なのかもしれませんが)私には意外だったのですが、そういえば乱歩にしろ手塚治虫にしろ、ジャンルのパイオニアにしてジャンルの代名詞でもあった作家はみな、売れることにこだわっているのですね(あるいは売れなくなることへの恐怖)。

ある時期から全然読んでないのですが、晩年の、「全てを削ぎ落とし、まるで俳句のよう」になっているらしい作品は、これはぜひ読んでみたいと思いました。

ともあれ本書、年末の森下さんのベストSFにノミネート決定でしょう(^^)

 




「星新一 1001話を作った人」  投稿者:管理人  投稿日:20071025()224252

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トマトさん
あつかましく、なんてとんでもないです。どうぞいつでも書き込みに来てください。たまに呑みすぎてネットを見ずに寝てしまうこともあって、お返事がおくれることがあるかも知れませんが、必ずレスしますので(^^;

ところで、いま最相葉月『星新一 1001話を作った人』(新潮社、07)を読んでいるのですが、当時の内幕が赤裸々に記されていてとても面白いですよ。
この本では福島正実は専制君主的な面が色濃いのですが、たしかにそれも一面だったんでしょう。「闘う家長」とは森鴎外ですが、SF一家の家父長としての福島正実にもたぶんにこの面があったことは間違いないでしょう。オヤジというのは大概上から押さえつけてきますし、それゆえ家族からは煙たがられてしまいますよね(^^;。

>『広く人類に何かを問う。」
一種のタテマエかもしれませんが、それを本気で追求してましたよね。今やタテマエはうち捨て去られ、チマチマした作品が増えたというのは感じますねえ。

 




またまた失礼します。  投稿者:トマト  投稿日:20071025()165011

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またあつかましく書き込みしてすみません。トマトです。

確かにあの頃のSFというのは『広く人類に何かを問う。」というスピリットがこもっていたように感じます。2001年もそうだったし、アシモフのロボット三原則もそうだした。科学技術というものの使い方を阿山と大変なことになるという警鐘とともにわたしたち人類のあるいは社会の進化すべき方向を考えさせられるようなそんな要素もあったのではないかと思います。

 




「日本語の源流を求めて」  投稿者:管理人  投稿日:20071024()183611

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大野晋『日本語の源流を求めて』(岩波新書、07)読了。

著者88歳の最新作ですが、ぜんぜん緩んだところがないのが凄い。どころか、わたし的には本書が一番読みやすかったです。
本篇の特徴は、C14法の改良(AMS法)と年輪年代法の併用で弥生時代が500年繰り上がった事実を踏まえられている点ですね。
これに対して早期遺跡をBC10世紀とするならば、出土する鉄が、輸入もとの中国でまだ生産されていない矛盾が起こるとする反論が起こったそうで、著者はそれを逆手にとって、BC10世紀に既にインドでは存在しているとし、タミル人が稲作も鉄もともに携えて日本にやってきたと傍証にしてしまいます。

しかも従来タミル人は海路何処にも立ち寄らず(定着せず)日本に達したとしか述べられてなかった経路もかなり具体的になり、本職の国語学を援用して蝦夷と隼人を別語族と断定し、その真ん中にいたポリネシア系縄文人と合体してヤマトコトバ民族が生まれたとします。
茨城、栃木、福島、宮城と、宮崎、熊本、佐賀、長崎を帯状に結ぶ地域は、いわゆるアクセントのない「一型アクセント地帯」なのだそうですが(いわゆる平調)、これはヤマトコトバ族と蝦夷、隼人の境界、接触帯であったため、アクセントが消失してしまったのだと。

うーん、おもろいなあ! 「倭王の源流――小説タミル語到来説」てのを読みたいと思いました(^^)

 




Re: ローダンなど。  投稿者:管理人  投稿日:20071024()17410

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> No.1004[元記事へ]

>ローダン大会
おお、そんなのがありましたね(^^)

石森章太郎や手塚治虫が長編を連載し、藤子不二雄や松本零士が、短編を折に触れて載せていましたし、その後は萩尾望都らの少女漫画家が掲載していました。
今から振り返れば、実に豪華な雑誌だったんですよねえ>SFM

それから近所の商店街の小さな本屋にも、ふつうにSFMが並んでいました。いつ頃から都心の大型書店に行かなければ買えなくなってしまったんでしょうか。私のように田舎に逼塞しているものは立ち読みすら出来なくなってしまいましたです(ーー;

 




ローダンなど。  投稿者:トマト  投稿日:20071024()111953

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 友達がロダーンシリーズは友達がハマッてファンクラブにも入っていましたね・・・。ローダン大会なんがあって、そういえばプロレスのノリぽかったみたいですね。しかしとにかく書店の文庫本に行くと、依光さんの表紙絵のローダンの文庫か平積みでたくさん並んでいましたね。わたしは「あとかき」だけを立ち読みしていました。


 ところで70年代のSFマガジンには石森章太郎氏がコミックを書いていて、あれが好きでした。海魔とか、山椒魚戦争とか・・・。
 手塚治虫の鳥人大系など、あの時代のSFMも味かありましたね・・・。当時わたしは中学生で、部活帰りに古書店や書店によってSFMを立ち読みしていました。
アナログ時代アコースティック時代というのはあるいみで作家たちも宇宙というものを皮膚感覚で感じていたのかも・・・知れません。今の世代はパソコンのディスプレイで感じるという感じかな・・・。

 




ローダンシリーズ  投稿者:管理人  投稿日:20071023()221352

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トマトさん

中島靖侃さんのSFMの表紙絵はよかったですねえ、適度に抽象的で。私は金森達さんのHSFシリーズの表紙絵も好きなんですが、こちらは完全に抽象画でした。
リンク先を見てきましたが、ローダンファンの方の個人的な作品みたいですね。本家の依光隆さんのとは全然イメージが違ってかっこいいです(依光絵がかっこ悪いという意味ではありません。為念)。
実はこれでも、ほぼリアルタイムで17、8巻まで読んでいるんです。私もはまりかけたわけですが、あ、これはプロレスだ、と本質直観(笑)した時点で読むのをやめましたけど。
つまり必殺技の空手チョップ水平打ちや岩石落しが、いつのまにか必殺技に入る前の導入技になってしまうわけです(^^; デストロイヤーの4の字は一旦かかったら誰も(力道山でさえ)はずせなかったものですが(そのまま裏返れば逆転する)、そのうちになんぼでもするりと外れるようになってしまいました。猪木のコブラツイストも、卍固めが出てくると単なる導入技に格落ちしてしまいましたね。

 




(無題)  投稿者:トマト  投稿日:20071023()093325

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 どうも初期のSF作家と早川書房の関係は芸能プロダクションとタレントさんの関係みたいですね。そういはえば福島時代のSFMは中島靖侃氏のイラストが印象的でした。同人誌「宇宙塵」の時代が一番ほのぼのとしていたのかもしれません。

 商業的には大成功となったローダンシリーズは、後にアニメなどビュアル系オタク文化に通じる過渡的なものだったかもしれませんね・・・。ローダンシリーズのイラストのページ見つけましたが、たしかに一度ハマると抜け出せなくなりそうですね・・・。
http://homepage.mac.com/idc.dental/t-5/rhodan/pr-t.html

 




ローダン・ビル  投稿者:管理人  投稿日:20071022()22597

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トマトさん
お久しぶりです。

>ETV特集、途中で眠ってしまいました
それは残念でした(^^)。もっとも現在のオタク文化の源流にSFがあったという趣旨ですから、ちょっと私の関心からは外れるところがありましたね。
豊田さんのような例外を除けば、殆どの第1世代作家は、本当に書きたかったSFで食えないから、身過ぎ世過ぎのためにアニメの原作やジュブナイルに手を染めていたわけで、福島さんもSFMだけでは彼らの生活を支えてやれないという自覚があったればこそ、責任感からアニメや映画の仕事を仲介したり、ジュブナイルを企画して仕事を与えていたというのが実際のところだったと思います。
結果として源流であったかもしれませんが、それは結果論にすぎないわけで(その証拠に第1世代は全員アニメやビジュアルのジャンルに残らず小説に帰ってきています)、ちょっと我田引水的なものを感じました。
まあプロデューサーの山登さんは別にSFの愛読者だったわけではなく、単にテレビ屋的な視点から状況論を展開しているのは、ある意味仕方ないですね。貴重な映像が見れただけでよかったとしたいと思います。
それにしても福島正実は当時最先端のテープレコーダーや8ミリを駆使しての凄い記録魔だったんですね。意外でした。

>昔の社屋(福島さんが編集長していたころの)の映像見たかったですね
同感です。数年前に東京見物に行ったとき、早川書房の新社屋を見学し、下の喫茶店(クリスティでしたか)にも入ったんですが、この社屋、ローダンビルだったんですか! なるほど納得(^^;

旧社屋の時代、SF作家たちは2階で原稿料を手形で受け取り、即一階へ下りて経理で割り引いて現金化していたとなにかで読んだ記憶がありますが、えげつない会社だったんですね(^^ゞ 福島さんがいろいろアルバイトの口探しに奔走していたというのも、むべなるかな、申し訳ないという気持ちがあったからかもしれませんね。

あ、最初の投稿は消しておきますね。

 




すみません。下の投稿の訂正です。  投稿者:トマト  投稿日:20071022()10367

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管理人様、お久しぶりです。

書類を書きながらの投稿で・・・乱文乱筆誤字脱字申し訳ありません。
大変失礼しました。

ETV特集、途中で眠ってしまいました・・・。いろいろ忙しかったので・・・。

日本のSFは神田の早川書房から始まった…んですね。

建築当時は「ローダンビル」とか呼ばれていたぴかぴかの現社屋以前の、
昔の社屋(福島さんが編集長していたころの)の映像見たかったですね・・・。
ボロだけどなんとも赴きがあったそうです。

 




ETV特集  投稿者:管理人  投稿日:20071021()235154

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見ました(^^)。

でもアンドロイドではなくてサイボーグなんですけど(汗)

というのはおいといて(^^;、貴重な映像が見れてよかったです。みんな若いですねえ。あの映像のなかの第一世代たちは、みな今の私よりも若いんですよね。うーん。

しかしまあこういう構成にしなければ通らなかったんでしょうけれど、わたし的にはもっとたくさんの第一世代作家にインタビューしてほしかったし、そしてもっと時間をさいてほしかったかも。
それは大橋さんたちに期待しましょう。実は大橋さんらの企画がモロに影響を被るんではないかと想像していたんですが、ほとんどバッティングしませんね。ある意味よかったよかった。

 




チャチャヤン気分更新  投稿者:管理人  投稿日:20071021()145727

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ETV特集「21世紀を夢見た日々〜日本SFの50年〜」、いよいよ本日10時PMの放送です。お見逃しなく!

久々にチャチャヤン気分を更新。
今回は翻訳SF「やさしき触れあい」です。
原作は1978年のアシモフ誌掲載で、その当時、同人誌用に訳したのでしたが、結局掲載しなかったもの。先日古い書類を整理していて筐底から断簡が出てきた。そういえばこんなものを訳したなあと、懐かしくなってひろい読みしていたら、翻訳はだめだめでしたが作品自体は結構いけてるんじゃないかな、と。
で、新たに訳しなおしてみました。ご笑覧いただけたらと思います。

 




「21世紀を夢見た日々〜日本SFの50年〜」  投稿者:管理人  投稿日:20071017()212727

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過日も一度お知らせしましたが、今月21日(日曜)夜10時から、NHK教育テレビのETV特集で、「21世紀を夢見た日々〜日本SFの50年〜」という番組が放送されます。→ETV特集HP
現在の眉村さん、筒井さん、小松さん、石川さん、豊田さんらへのインタビューのほか、SF作家クラブ発足当時の貴重な映像が流されるそうですので、これはぜひともお見逃しなくご覧いただきたいと思います。

 




「星ぼしの荒野から」  投稿者:管理人  投稿日:20071015()222630

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『星ぼしの荒野から』」に着手。
どの時点から作風が変化したのか確認したくて、うしろから遡ることにし、まずは表題作(81)を読みました。
うーむ、少なくともこの作品では、まだウェルメイドな良質のアメリカSFという感じで、85年以降のリフト宇宙シリーズ(?)にみられる実存的な主体性というものはあまり感じられませんね。となると変化はキンタナ・ローあたりからなのかな。

それはさておき、本篇を読んでビックラこいたのは、私が81年に書いた習作とほとんど同じ内容(内容であって質が同じとは間違っても言ってませんので念のため)だったこと(^^;。強調しておきますが、本篇の本邦初訳は「SFマガジン」1997年5月号なので、盗作(笑)はありえませんです。拙作はSFMコンテストに応募され、一次は通過しSFM1982年7月号にタイトルのみですが載っているのが動かぬ証拠(「3億キロサイクリング」)。
うーむ、これはひょっとして本篇の内容よろしく、1981年に、かたちなきもの天より堕ち来たりて日米の青年老女の裡に分かれて潜めるありけむということなのでしょうかもちろん違いますね(^^;。とりあえず原稿探してみよう!

Take Five

 




クライマックスシリーズ  投稿者:管理人  投稿日:20071014()221031

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第1ステージは、中日が勝ちました。まあ当然の結果でしょう。
それにしても今日はチャンスがなかったわけではない。7回無死1、2塁で、無策にも高橋光が凡フライを打ち上げましたが、たとえ4点差でもここは送っておくべきだった。結果論ですが、次の鳥谷の中飛で最低1点は入っており、少なくとも1点差で9回を迎えられたわけで、そうなれば(8回も含めて)心理戦的にもどう転がったかわかりません。まあシーズン中と変わらぬベンチの無采配の結果なわけですけど。
シーズン中と変わらないといえば、今岡を使ったこと。これは実(現在の成績)より名(過去の成績)を取るこの監督的には何ら不思議ではありませんが、3位まで復活できたのは、今岡を落としてからの(林や)桜井の活躍のおかげでしょう。だったら(シーズンの総決算でもあるクライマックスシリーズなんだから)なぜ桜井をスタメンで使わないか。人情的にもだめだめな采配です。
まあこんなチームが勝ち残らなくて本当によかったと思います。

ということで気分直しに久しぶりに「クルディッシュ・ダンス」を聴く。前にも書きましたが、この曲は、山下版テイクファイブ(あ、テイクナインか)だと睨んでいるのですが、いつもその変拍子が気になって指で数えてしまうんですよね。

捜したらyoutubeにありました(^^;→Kurdish dance (演奏後の香津美たちのホッとした顔がおもしろい)

 




「たったひとつの冴えたやりかた」読了  投稿者:管理人  投稿日:20071013()001745

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第二話「グッドナイト、スイートハーツ」
第三話「衝突」

ともに読み終わり、
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たったひとつの冴えたやりかた』浅倉久志訳(ハヤカワ文庫、87)
読了です。
ちと多忙につき、とりあえず記録のみ。

 




「たったひとつの冴えたやりかた」(2  投稿者:管理人  投稿日:20071012()01001

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承前(メモ代わりに)
主人公が被る「不条理」は明らかに「不治の病」のメタファーです。執筆当時の著者は、訳者あとがきによれば心臓疾患が悪化しており、84歳の夫は失明の上アルツハイマー病の疑いが出ていたとのことで、小説上の不条理は著者自身の切実な問題が反映されていることは間違いありません。
それは前作の「輝くもの天より堕ち」のラストでの女主人公の急激な老衰死(因果応報ですが、主観的には不条理な不治の病でもある)も同様でしょう。
「死」とは客観的には避けられない必然ではありますが、主観的には「不条理」です。老年になればなるほど死は確実なものと認識されますが、それが逆に当人に取れば不条理感を実感されるのではないか。とりわけ老年で病を患っているならば。
本篇は、著者自身が直面しつつあった「不条理」としての「死」という実存的主題の小説的展開に他ならず、きわめて主体的な小説といえます。いわば実存主義SFといえるかも。

 




「たったひとつの冴えたやりかた」  投稿者:管理人  投稿日:20071010()220710

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ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たったひとつの冴えたやりかた』浅倉久志訳(ハヤカワ文庫、87)に着手、まずは表題作を読了。
殆ど終盤まで、「主人公を男の子にすれば藤子不二雄だな」とか、「シロベーンの描写、ヨコジュンみたいだな」とか、半分うわの空で読んでいたのですが、最後でぐっと没頭することができた。うーむ「終わりよければすべてよし」という、SFの典型的作品でした。
「輝くもの天より堕ち」のプリンスもそうですが、著者70を超えた晩年になって少年少女を主役(級)に据えているのはいかなる心境のなせるところなんでしょうか。興味深いです。

 




今年の読了本  投稿者:管理人  投稿日:200710 8()120817

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今年の読了本を拾い上げて見ました。昨日までで49冊(小説海外14 小説国内11 非小説文学10 非小説非文学14)でした。よく行って今年は60冊かな。まあこんなところでしょう。
しかしいろいろなところに読了記録を書き散らしているので、探し回るのに一苦労(まだ拾い忘れているかも)。紙に読了本メモをつけないからですが、いつからつけなくなったんだろう。というか机の上に筆記具がそもそもない。読了記事を一箇所に一本化するか、鉛筆と紙を常備しておくか、どっちかですな。


10-1100
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『輝くもの天より堕ち』浅倉久志訳(ハヤカワ文庫、07)

堀晃『遺跡の声』(創元SF文庫、07)

9-1103
ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳(早川書房、07)

光瀬龍『明治残侠探偵帖』(徳間文庫、83)

樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析 なぜ伝統や文化が求められるのか』(光文社新書、07)
田中秀臣『日本型サラリーマンは復活する』(NHKブックス、02)
三浦展・上野千鶴子『消費社会から格差社会へ 中流団塊と下流ジュニアの未来』(河出書房、07)

8-0001

高森明勅『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書、02)

7-3200
若島正編『狼の一族』(早川書房、07)
シーバリー・クイン『グランダンの怪奇事件簿』熊井ひろ美訳(論創社、07)
キャロル・エムシュウィラー『すべての終わりの始まり』畔柳和代訳(国書刊行会、07)

山沢晴雄『離れた家』(日本評論社、07)
高橋たか子『空の果てまで』(73、新潮社)

6-1001
ロバート・E・ハワード『黒い予言者 新訂版コナン全集3』宇野利泰・中村融訳(創元文庫、07)

本上まもる『〈ポストモダン〉とは何だったのか』(PHP新書、07)

5-1151
ダシール・ハメット『ハメット傑作集1』稲葉明雄訳(創元文庫、72)

筒井康隆『巨船ベラス・レトラス』(文藝春秋、07)

立川談四楼『落語的ガチンコ人生講義』 (新潮OH!文庫、01)
高橋たか子『 境に居て』(講談社、95)
高橋たか子『放射する思い』(講談社、97)
高橋たか子『この晩年という時』(講談社、02)
北杜夫『どくとるマンボウ回想記』 (日本経済新聞出版社、07)

香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』(講談社現代新書、07)

4-1200
J・G・バラード『残虐行為展覧会』

福田紀一『失われた都』(河出書房新社、73)
藤野恵美『ハルさん』(東京創元社ミステリ・フロンティア、07)

3-3121
エドモンド・ハミルトン『鉄の神経お許しを 他全短編』野田昌弘他訳(創元文庫、07)
コードウェイナー・スミス『第81Q戦争』伊藤典夫訳(ハヤカワ文庫、97)
コードウェイナー・スミス『シェイヨルという名の星』伊藤典夫訳(ハヤカワ文庫、94)

山本弘『アイの物語』(角川書店、06)

メンヒェン=ヘルフェン『トゥバ紀行』田中克彦訳(岩波文庫、96)
中沢新一『緑の資本論』(集英社、02)

小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮文庫、07)

2-2315
ラリイ・ニーヴン『中性子星』小隅黎訳(ハヤカワ文庫、80)
B・W・オールディス『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』柳下毅一郎訳(河出文庫、07)

堀晃『バビロニア・ウェーブ』(徳間書店、88)
眉村卓『なぞの転校生』(角川文庫、75)
瀬名秀明『第九の日』

木田元『哲学の横町』(晶文社、04)

内倉武久『謎の巨大氏族・紀氏』(三一書房、94)
田中卓『海に書かれた邪馬台国』(プレイブックス、75)
中野正志『万世一系のまぼろし』(朝日新書、07)
田中卓『日本国家の成立』國民會館叢書二(社団法人國民會館、92)
田中卓『日本の建国史―三替統合の精華―』國民會館叢書五十(國民會館、03)

1-1022
ロバート・シェクリイ『明日を越える旅』宇野利泰訳(ハヤカワSFシリーズ、65)

木田元『哲学の余白』(新書館、00)
「幻影城の時代」の会・編『幻影城の時代』(エディション・プヒプヒ/垂野創一郎、06)

水谷千秋『謎の豪族 蘇我氏』(文春新書、06)
中沢新一『対称性人類学 カイエ・ソバージュ5』

 




「輝くもの天より墜ち」(読了)  投稿者:管理人  投稿日:200710 8()014852

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ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『輝くもの天より堕ち』浅倉久志訳(ハヤカワ文庫、07)読了。

いやあ、序破から急に移った段階でSFになりました。この惑星の天使のように美しい原住民が、ノヴァ以前には、そういう記述が(当然残っていていいはずなのに)不思議に見当たらない、という謎が、最終的に解明されて、単なる物語(といってもとても深い実存的ドラマなんですが)は、見事にSFに構造化されます。終盤の展開は堂々たる巨船のそれではなく、ある意味ヴォクト的といっても過言でない跛行性を帯びてきて(たとえば時間揺動)、もう、頁を繰るのももどかしく感じました。
これぞ言葉の真の意味でニュースペースオペラでしょう。今年のベストを争う傑作だと思います。

 




「輝くもの天より墜ち」()  投稿者:管理人  投稿日:200710 7()181248

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350ページまで。遂にドラマが物語に動き出しました。
滑らかな海面を定速で航行していた巨船が突如大きく揺れた!
序破急でいえば、序から破に入ったところ。一つの陰謀と、横溝正史もかくやの因縁が、明らかになりつつあります。

オシビサ

 




Re: 『ふりむけば闇』  投稿者:管理人  投稿日:200710 7()002532

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> No.986[元記事へ]

道南さん

こちらこそはじめまして。おお、文庫化されていたのですね、全然気づいていませんでした(^^;

それにしても「CLONEと虹」ですか。道南さんがおっしゃるとおりいささか説明的ですよね。
とはいえ私も初読では全く気付いてなかったので大きな顔は出来ません(^^;
眉村さんに種明かししていただいてはじめてわかったような次第ですから(過去ログ8月20日、21日参看)
そういうわけで、このようなタイトルに変えられたのは、ひょっとして私にも責任があるかも知れません。でもたしかにヌジが虹の古語であることを知っていた方が、より味読できることは確かですね。
うーん難しいですねえ(^^;

またいろいろ教えて下さい。どうもありがとうございました。

 




『ふりむけば闇』  投稿者:道南  投稿日:200710 6()16131

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はじめまして。

徳間文庫になったので再度購入しました。
眉村さんの「ヌジ」が「CLONEと虹」と改題されていました。
ちょっと説明的になってしまったかとも思いますが、昨今の読者にはこちらがよいのでしょうか。

 




Re: SFM雑感  投稿者:管理人  投稿日:200710 6()141839

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> No.984[元記事へ]

トマトさん


「未来の記憶」がSFマガジンに掲載されていたというのは知りませんでした。でも、なんといっても副編集長の森優さんは、のちの南山宏さんですからね(^^;
というのは冗談ですが(もちろん森さんと南山さんは同一人物ですが)、福島さんも蓋然性としてはゼロではない、と思っていたのではないかと想像しています。
福島さんがデニケンをSFでてくたあだったかで取り上げていたのは覚えています(たぶん角川文庫版?)。どういう評価だったのかはもはや記憶の外ですが、想像でいえばデニケンみたいな発想は可能性としては受け入れていたのではないでしょうか(むしろチャーチワードみたいな説を否定していたと思います)。

いずれにしても、あの時代は光瀬さんもエゼキエル書と宇宙人を繋げた話をいくつも書いておられましたし、「アナログな」よい時代だったですね(^^)。

 




SFM雑感  投稿者:トマト  投稿日:200710 6()084234

  返信・引用

 

 

管理人さん、こんにちわ。

たしか六十年代のSFMに後に角川文庫から発売されて古代宇宙人ブームの火付け役になったデニケンの「未来の記憶」が載っていたと思います。聖書のエゼギエル書は宇宙人が地球に来た事実を記述しているという内容だとかキリスト宇宙人説などが図解入りで乗っていました。私は当時本気で信じていました。
あとで検索したら、『未来の記憶』も60年代に早川書房からもでいたんですね。あの時代はSFマガジンの中もどこかアナログでしたね。

 




「輝くもの天より墜ち」()  投稿者:管理人  投稿日:200710 5()201115

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280pまで読む。というか無理やり目を引き剥がしてきました(^^;。ほっておいたらなんぼでも読んでしまいそう。これからまだいろいろしなければいけないこともありますし、それよりもなによりも慌てて読みとばす内容ではない。ゆったりとゆっくりと味わいたい内容です。

つまりなんと申しましょうか、最初のページからラストまで、豪華客船に乗って旅しているような感じ?
実にゆったりと時間が流れていて、その分乗客たちの人間ドラマもきっちり書きこまれている。昨日は「物語」と書きましたが、これは「ドラマ」というべきでしょう。SF的舞台でのミステリという感じがどんどん強まってきました。クリスティがSFを書いたらこんな感じかも。

実はティプトリーはこれまで敬遠していたんですが、たぶん敬遠していた(初期の)作風とは全然違っているのではないか。本篇はエンターテインメントの王道を行く作品だと思います。この作風からは、大長編を何本もものしていてもおかしくないのですが、実際は長編が二本しかないというのも興味深いですね。

 




「輝くもの天より墜ち」読み始め  投稿者:管理人  投稿日:200710 4()204759

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ティプトリー『輝くもの天より墜ち』浅倉久志訳(ハヤカワ文庫、07)に着手。
120pあたりまで一気。いやこれは傑作なのではないか。ただしSFではありませんね。宇宙小説ではありますが。
同じ宇宙小説でありながら、堀作品とは正反対の「物語」作品です。おそらくオールディスにおける「マラキア・タペストリ」のような位置づけになるものかも。

銀河系最縁部に位置し、原住種族保護のため3名の行政官が駐在するだけの惑星ダミエムに、めったと見られない天体現象を見学に、13名の旅行者が到着します。行政庁を兼ねるホステルに部屋割りされた彼らはそれぞれに謎めいていて、さながら本格ミステリの発端かと疑わされます。確かにこの設定、これぞ究極の孤島の山荘ではありませんか!(本格ミステリっぽくホステルの図面が付されているのもそれっぽい。そして私は早くもその図面に仕掛けられたトリックに気づいておるのです(^^ゞ)
そうしてストーリーは、巨船クイーンエリザベスよろしく悠揚として岸壁を離れていく……

これはまさに、「SF」というより「小説」ですね。それも連載小説の雰囲気。まあ本格ミステリにはならないと思いますが、13名の旅行者と3名の駐在官の人間模様が横糸、原住種族と彼らの間の緊張関係が縦糸となって、このあと物語がどう展開していくのか、楽しみ!!

 




「遺跡の声」(読了)  投稿者:管理人  投稿日:200710 3()194313

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「沈黙の波動」
惑星キューマ表面をびっしりと覆った岩の突起――それは一種の論理素子であった。すなわちキューマは惑星自体が論理回路を構成する「知的惑星」であり、コミュニケーションの手段は地震波なのだった!
だがそのファーストコンタクトを求める地震波により主人公の着陸艇は岩に挟まれて離陸不可能となる。ファーストコンタクトを成功させて離陸可能な状態にしなければ、主人公には死しかないのだが……本篇はそこで終わっている。未完なのだ。おお、盛り上がってきたところで殺生な!!
しかしながら本シリーズは本篇以降も続いているので、当然脱出できたはずなんですよね。解決編プリーズ(^^ゞ

「蜜の底」
惑星キューマから帰還した(?)主人公とトリニティの次なる使命は、1930年代の金星を彷彿とさせる分厚い雲で覆われた熱帯惑星での駐在員消失事件の解明。
主人公が基地の地下に発見した惑星文明の遺構では、遠い過去人口維持のために施されたシステムが暴走した地獄図絵が…… ヘルメットを外して外気を直接呼吸していた主人公にトリニティが警告を発す!!
この地獄図絵ですが、私は田中啓文さんのある長編を思い出しました(^^ゞ

「流砂都市」
地球と同じ直径で同じく24時間で自転する惑星。遭難した調査員救助に出動した主人公とトリニティは、その赤道上をぐるりと取り巻き、西に向かって定速で流れる流砂帯を発見する(それは24日で1回転しており、その流れに乗っていれば主観的に1日は25時間となる)。発見された遭難者は、その流砂帯が宇宙から飛来した25時間の概日リズムを有する「時虫」だと語るのだった……

概日リズムというのは本篇ではじめて知りました。私は若い頃全然朝起きられなかったのですが、その経験をもとに、地球人は原住の24時間サイクル人と宇宙からやってきた24時間37分サイクル人が雑居しており、平和的な24時間37分サイクル人は紛争を避けるためにその事実を意識から凍結していた。あるときその事実に気づいた24時間37分人の一味が覚醒を促し、地球乗っ取りを画策する……という半村良ばりのアイデアを考えたことがありました。アイデアだけでおわっちゃいましたけど(^^;

検索すると、概日リズムが25時間である理由は不明とのことですが、本篇でも遭難者に「この1時間の差が何故に生じたかが不思議でした」(190p)と言わしめていますが仮説は提出していません。今思いついたのは、かつて地球の自転は今より遅かったのかも、ということですが、25時間人の地球到来説もなかなか捨て難いですなあ。そう思いません?思いませんね(^^;

「ペルセウスの指」
主人公とトリニティがミュロン第4惑星の遺跡で発見したものは、壁一面に何百層、何千層と埋め込まれたメモリーユニットだった……
と書けばSF読みにはピンとくると思います。「都市と星」のリスですね。
ユニットをいたずらに抜き取るような暴挙を行なわなかった主人公に、情報と化した「老人」がアクセスして来、救助を請う。老人が話した「情報化社会の顛末」は、まさに現実の情報量増大と反比例する有効活用の問題ですね。ストック型からフロー型への転換というアイデアも面白い。そのフロー型情報文明を崩壊させた「巨人」とは?
この辺、光瀬龍的無常観も仄見えてきてたまりませんね。

「渦の底で」
サヴァン第2惑星の表面は亀裂もシワもない、完璧に滑らかな花崗岩で覆われていたが、探査機が接触しようとした途端に「液体化」するのだった! すなわち固体から液体へ瞬時に相転移を起こすのだった。それはどうやら地下の熱水噴出口から生まれた生物が進化した文明の人工生産物なのかもしれなかった!
という本篇に、通常の意味での「ストーリー」はありません。ひたすらこの奇妙な惑星表面の謎解明(というか仮説提出)と、ラストから暗示される壮大なイメージを想像的に楽しみ味わうばかり。

「遺跡の声」
本篇は堀版スフィンクスの謎かけです。
文明の行き止まりに逢着し、2万年前「スフィンクス」(番人)を残してピラミッドに冷凍冬眠し、謎を解いた存在(解くほどの高度な知性体)との接触に進化の可能性を賭けた種族。我らがトリニティがこの謎に挑戦し、果たせるかなその謎を解き明かしたのだったが、その結果は、主人公とトリニティの永遠の別れだった……
シリーズ掉尾を飾る傑作です(実際にはシリーズ第1作)。

以上で堀晃『遺跡の声』(創元SF文庫、07)読了。
トリニティの700年ごとに脱皮した殻(太陽風ヨット)がペルセウスの腕に沿って弧を描きつつ3000個、およそ9兆キロの間隔で全長2800光年の列を作り、秒速400キロで進んでいる――という壮大な茫漠たるイメージが最初に描写されているのですが、そのイメージどおりの、<物語を超えた詩情>を湛えた宇宙ハードSFの傑作でした。

――オリビアと初めて出会ったときの光、(……)あの時の光は今、太陽を中心とする半径12光年の球面上にある(20p)
このイメージも好きです。実は同じテーマでショートショートを書いたことがあります(^^;

 




Re: 五分前  投稿者:管理人  投稿日:200710 1()222452

  返信・引用

 

 

> No.979[元記事へ]

トマトさん
>「嫌だねぇ。分家の三郎に会うよ。私は三郎が嫌いなんだよ。」
ここもいいですねえ。まさにトマトさんがおっしゃるリアルな台詞ですよね。

>なんともみたらしダンゴのような味のある会話
言い得て妙!

ここにSFM創刊号からのリストがありますが、福島編集長時代(〜1969年7月号)のリストには、本当に良質のアメリカSFが並んでいますね。この時代をオンタイムで過ごされた先輩たちがうらやましい(^^ゞ

――さて、『遺跡の声』は、「沈黙の波動」「蜜の底」「流砂都市」「ペルセウスの指」まで読了。時間が取れるようならば今日中に感想文をアップしたいと思います。

 




五分前  投稿者:トマト  投稿日:200710 1()192117

  返信・引用

 

 

管理人さん、わたしも
「おやっ 見えなくなった。」
「一つだけしか見えないよ。」
というおばあちゃんの台詞が好きです。あとは
「嫌だねぇ。分家の三郎に会うよ。私は三郎が嫌いなんだよ。」
という台詞もなんてもいいです。
 私は田舎育ちなので、こういうおばあちゃんの言い方がなんとも懐かしいですね。

前にお話した「ガラスのわら人形」にもこういうなんともみたらしダンゴのような味のある会話があちらこちらにちりばめられていて魅力盛りだくさんです。

ちなみに手元に「五分前」が載っているSFマガジン1966年四月号があるのですが、以前お話した「泡の女」もここに載っています。これは当時のアメリカの大衆的な文化が生き生きと感じられて本当に面白いです。

 




オリゴ党・備忘  投稿者:管理人  投稿日:200710 1()155239

  返信・引用

 

 

思いついたので取り急ぎ。
主人公は15年前の自分にタイムスリップしている。ところがその15年前のはずの世界では、2ちゃんねる言葉が飛び交っているのである。つまりこれは15年前とは現在のことということになる。では主人公は15年前に戻ってきたと信じているだけで実際は違うのか?
桂都んぼさんの出演場面は(15年後の)現在であるわけだが、ではこの場面はいつ?
主人公は同級生の一人からすべては記憶の捏造だと明かされるのだが、現在である15年前が記憶の捏造なのか。
テーマはカメラとしての記憶。カメラは全てを記録している。人間の視覚も実は全てを記憶している。ただ意識できるのはその中の一部(cf渡辺慧「認識とパタン」)

 




「遺跡の声」(2)  投稿者:管理人  投稿日:200710 1()010120

  返信・引用  編集済

 

 

「救助隊U」

本篇は、まさにSFの要件を具えた教科書のような作品ですね。本篇を楽しめたか楽しめなかったかは、12歳でSFに開眼しているか否かで判断が出来るように思われます。

SFというジャンル小説は、良くも悪くも前代の遺産を組み込んで進化していく、いわば堆積的なジャンルなので、それに付き合う読者も、過去作品に通暁している方がしていないよりも2倍も3倍も面白い。それも若いときにある程度基本的なところは読んでないといけません。なぜなら若いときの読書は、細部まで焼きついていて、脳の抽斗からすぐ出してくることが可能だからで、SFの黄金期が12歳といわれる所以です。トウが経ってからいくら集中的に読んでも、どうしても焼き付けは甘くなるんですよね。

さて本篇ですが、
「(流星雨か……)
(略)おびただしい輝点がスクリーンに映し出されていた」(88p)

という描写だけで、その一文に、「太陽系最後の日」と同じシナリオが「畳み込まれている」ことを、SF読みはただちに了解してしまいます。この時点で既にしてSFを読み込んでない読者は置いていかれてしまっているのです。

「太陽系最後の日」を念頭した読者は、次の場面で予想通り円筒型世代宇宙船(SF読者には自明で説明不要)を目撃するのですが、主人公とともに踏み込んだその内部が伽藍堂であることを目の当たりにして愕然とします。ここにおいて著者は、(おそらくニヤニヤほくそえみながら)SF読みの「読み」を外してしまう。もちろん読者は「読み」が外されて喜び満足するわけです。ですから、SFに不自由な人は二重に置いてきぼりを食わせられる。

ではなぜ「太陽系最後の日」と同じシチュエーションで出発したはずの世代宇宙船が無人だったのか?
ようやくここから本篇のメインのストーリーが回転を開始するわけです。

つまりメインのストーリーは、小説の分量で後半にいたってやっと開始される。つまり(通常のエンターテインメント小説とは違って)ストーリーは特権的な位置を有してはいない。本篇を成立させる複数の要素のひとつでしかないといえるでしょう。この点も非SF読みには理解し難いであろうと思われるSFの特徴なのでありまして、「バビロニア・ウェーブ」のウェブ感想で「ドラマ的な部分はいまいちかしらん」というのがありましたが、だからSFはドラマがメインではないのです。

「バビロニア・ウェーブ」といえば、本篇のレーザー推進(ヨットの原理)は同じ原理ですね。石原博士はラムジェット推進派(ジェット機の原理)ですが、このような推進原理にどのような工夫が凝らされているかというのも、ストーリーと同じくらい(人によってはストーリー以上に)重要な要素になります。

なお、伽藍堂の世代宇宙船が発散する「崇高美」(牧眞司)も、本篇で味わうべき要素です。

このように本篇は、SF読みの感性をビンビン刺激する、SF読みには堪えられない作品なんですが、あるいは非SF読みの方には???な作品であるのかも知れません。

 

 


 

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