ヘリコニア談話室ログ(2007年11月)





「アイヌの歴史」続考  投稿者:管理人  投稿日:20071130()211657

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下の(11/28の)『アイヌの歴史』感想文で、外在的、内在的という表現をしました。少々判りにくいかも知れませんので少し補います、というかもうちょっと考えてみたい。

1)硬直した自然利用と過剰生産、戦争の常態、極端な格差社会、サハリンを侵略征服し、その宗主国の元と戦うアイヌ(というか擦文人)というリアルな姿
は、
2)すべて和人圏の巨大な引力によって引き起こされた潮汐作用
というのが我が見解なんですが、
著者は、かかる1)の「リアルな」アイヌ(擦文人)を指して客観的な外在的な視点から捉えられた姿といっています。つまり「事実」であります。
で、かかる「事実」に、もっと立ち入って(内在的に)観察すると、それらの事実が和人文化圏という超巨大惑星の衛星軌道しかもロシュ限界ぎりぎりで周回する軌道に取り込まれてしまったことから発生していることが見えてくるわけです。
それはこの本を読めば誰でも理解できます。ただ著者は、これまで幅を利かせていた観念的無時間的アイヌ像にアンチを突きつけたいという動機がありますから、とりわけ1)の外在的視点からの視界を強調しているのです。
この偶像破壊的なパラダイム変換の試みはとても重要で、本書のすぐれたところなんですが、それをそのまま認めたうえで、本書にもあるように、元来縄文(含む続縄文)文化は争いのない、過少生産の社会(縄文エコシステム)であったのですが、そこに、1)のような世界観の劇的な変化を、擦文期にもたらしたのはなにかといえば、それはアイヌ文化圏が和人文化圏の商業活動の中に(著者に従えば主体的に)取り込まれてしまったからとしかいいようがない、と私には思われます。

元国会議員でアイヌ民族の萱野茂が祖母と山へ山菜取りに行ったとき、「一か所に座って取れば袋いっぱいになるものも、「隣のばあちゃんが来ると言うとったからね」と言って、少し採っては次へ移り、少し採っては次へ移動するというふうにして」、そのようなアイヌの自然との付き合い方を学んだと回想しています。(『アイヌ文化を伝承する』草風館、188p)
このようなエコロジカルなアイヌ像が現実にあります(中沢新一は神話の中にそれを認めます)。これはロシュ限界内の潮汐力で粉々に打ち砕かれた結果、アイヌ民族のうちに和人社会の重力圏で取らされていた(主観的には自らの意志で行なっていた)姿勢が取り払われてしまったということなのではないか、と書くと、これはまた観念的アイヌ像への逆戻りなんでしょうか?

話しが外れましたが、本書の射程には近世アイヌが松前藩→明治政府という巨大引力でばらばらにされていく過程は含まれていません。縄文エコシステムから一種資本主義的なアイヌエコシステム(擦文エコシステムのほうが妥当ではないのか)に劇的に変化した(させられた)アイヌ(擦文)文化がふたたび現在縄文エコシステムに戻っているのか、それはファンタジーなのか。その辺をもっと知りたい。
佐々木高明は「アイヌ民族というのは歴史的に形成されたもので、13、14世紀が、その出現の時期だというこのことを明快にしておかなければなりません。アイヌと言うと、すぐ縄文に連なると考えるのは間違いです」(『アイヌ文化を伝承する』草風館、208p)といっているように、安易な即断は避けなければなりません。佐々木が言うように、オホーツク文化と擦文文化が一緒になってアイヌ文化が形成されたのならば、あるいはオホーツク文化の中に縄文エコシステム的な世界観があって、それが流入した結果なのかも(ではアイヌ神話はいつ成立したのか? イオマンテ型の、即ち飼育した小グマで行なう熊祭りはオホーツク文化の系統を引くらしい。だとしたらオホーツク文化と擦文文化が合体した後ということになる)。ああもっと勉強しなければ。

 





「モンゴルの残光」  投稿者:管理人  投稿日:20071129()233134

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『アイヌの歴史』によれば、13世紀半ばに北海道よりサハリンに進出し、在地のニブフを圧迫したアイヌに対して、ニブフの宗主国である元朝が14世紀初頭まで長期にわたってサハリンに派兵し、アイヌの北上を阻止していたのだそうです。サハリン南端のクリリオン岬にある白主土城は、どうやら元が宗谷海峡を渡ってくるアイヌを阻止し且つ朝貢貿易を行なうために築いた施設だったことが近年明らかになったとのこと(181−182p)。九州の元寇だけじゃなかったんですね。
その事実に感銘を受けた私は、急に元の話が読みたくなり、だからといって『蒼き狼』でも『風濤』でもなく、やはり『モンゴルの残光』を手に取ってしまうのでありました。
で、130pくらいまで読んだ。
うーむ面白い。豊田有恒の筆致は、まるでアメリカ娯楽SFのようにバタ臭くていいですねえ。キース・ローマーみたい。日本的情念特有のしめっぽさは皆無です。山野浩一によれば第1世代はそれぞれの方針で西洋建築を和風に作り直していったわけだけれど、豊田有恒は良くも悪くもそんな意識は殆どなかったんでしょうね(但し「倭王の末裔」あたりからちょっと違ってくるのですが)。

 





corpus delicti  投稿者:管理人  投稿日:20071128()235055

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愛・蔵太の少し調べて書く日記の「巨塊」続報(朝日のコラムへのリンクが張られています)。

>「渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体」と書けば誰にでもわかりやすいテキストになったと思うのですが
というのははっきりいってそのとおりですね。
「沖縄ノート」は1970年刊。つまり著者弱冠35歳の作品というわけで、まさに若気の至りな衒いに満ちた造語ですね。こういうすかしたところがある種の人たちに嫌われる要素だと思うのですが、でもこのようなひねくれた造語や構文が、ひとたび創作上で駆使されるととてつもない効果を生むんですけどね。

 





ロッシュ限界内の「アイヌの歴史」  投稿者:管理人  投稿日:20071128()204147

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瀬川拓郎『アイヌの歴史 海と宝のノマド(選書メチエ、07)、読了。
先日も書いたように、一種〈無時間的〉なユートピアを想像させるアイヌ社会のイメージが一方にあり、たとえば中沢新一のアイヌ論がこれにあたるわけですが、そのような観念的理解が、実はアイヌ社会の「歴史」をある意味無視した所論であることに対して、著者は特に強く反応して本書を書いたに違いありません。即ちアイヌ社会も他の社会と同様に歴史的過程があり、即ち時間が流れているのだと。
社会学はかつて社会静学と社会動学に分類されていましたが、本書はまさにアイヌ〈静学〉に対置されるべきアイヌ〈動学〉として書かれています。この基本的態度が本書を単なる新知見・ニュースを概説する新書・選書のたぐいから突出させて、一個の(パーマネントな)「作品」として存在せしめているように思いました。

具体的には(通説とは違って)、硬直した自然利用と過剰生産、戦争の常態、極端な格差社会、サハリンを侵略征服し、その宗主国の元と戦うアイヌ(というか擦文人)というリアルな姿が本書では描かれていて、目を見開かされます。

そのような意味で非常に啓蒙的なすぐれた著作でありますが、それを全面的に認めたうえで、私が感じたのは、南サハリンから千島列島まで、ほとんど西南諸島から本州北端までに匹敵する広大な領域に生活していたとはいえ、たかだか3万人を越えないアイヌ(少なくとも擦文人以降)文化圏が、桁違い(二桁違い?)に巨大な和人文化圏を木星並みの巨大惑星にたとえるならば、その、いわばロッシュ限界内に軌道を持った矮衛星だったのだなということでした。
上記のリアルな、動態的なアイヌ像も、実にすべて和人圏の巨大な引力によって引き起こされた潮汐作用と見ることができる。

本書はリアルな歴史をあくまで客観的に外在的に描写しているわけですが、中沢新一が見たエコロジカルなアイヌもまた、(無時間的なものではなく)歴史の過程で成立したものかもしれませんが、たしかに現在しているわけで、そのような内在的な視点を一概に捨象することはできないように思われます(もちろん著者にそのような視点がないわけではなく、それは最後のアイヌのおばあさんのエピソードに垣間見られます)。というか乱獲的な擦文文化が、いかに現在のエコロジカルなアイヌに変動したのかが改めて知りたくなりました(本書の射程はそこまで延ばされていません)。ああ、もっと勉強しなければ。

 





沖縄ノート  投稿者:管理人  投稿日:20071127()164727

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寡聞にして「沖縄ノート」をめぐる裁判が行なわれたことすら知らず、お恥かしい限りなのですが(定年再出発)、というか当該書も未読ですし、当然裁判の内容にも通じていません。
しかしながら、(裁判とは独立的に)曽野綾子の「誤読」が噴飯モノであることは誰の目にも明らかです(愛・蔵太の少し調べて書く日記)。
ですよね?
いや、それが誰の目にも明らかでないからこのような事態に立ち至っているのか。うーむ・・
こちら(文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』へようこそ!!!)にあるごとく、けっきょく(曽野綾子著書も含めて)一次資料にあたっていないわけです。そこには学問的態度といいますか、科学的認識態度がかけらも見当たりません(ある意味疑ってかかることを知らないといえるかも)。一般化して言えばネット右翼に代表される最近の似非右翼の「検証せずに信じ込んでしまう」体質がここに典型的に表現されているようです。このブログを読むと、現今のわが国の集合的内宇宙の荒廃になんかボーゼンとしてしまいますね。井上光晴の「予言」がまざまざと甦ってきます。

セキレイは昨日、家の近くの畑沿いの道端で2羽。スズメは見かけず。
今日もセキレイを昨日と同じ場所で2羽(同じ個体か)、海岸の埋め立て地で2羽。スズメは見かけず。

 





「アイヌの歴史」  投稿者:管理人  投稿日:20071126()01007

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瀬川拓郎『アイヌの歴史 海と宝のノマド(選書メチエ、07)に着手。
「自然と共生」「平等」「平和」なアイヌ社会というのはどこまで本当なのか、アイヌ学の最新の知見を駆使してリアルなアイヌ像に迫っています。まだ90pですが、目からウロコぽろぽろでこれは面白いです。

 





「聖シュテファン寺院の鐘の音は」読了  投稿者:管理人  投稿日:20071125()105623

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ということで、荒巻義雄『聖シュテファン寺院の鐘の音は』(徳間書店、88)読了。
下に掲げたように前作『白き日旅立てば不死』の暗いロマンチシズムがひっくり返されてしまいます。中さんは出版直後に読み、「白き日」が冒涜されたように感じて投げ捨てたらしい。たしかに続編としてとらえるとそのように感じて当然だと私も思いますし、私もそう感じました。

しかしこれはやはり山野浩一が件の書評に書いているように「むしろ同じ題材を使った別の作品」として読まれるべきでしょう。あるいは後述のように螺旋的位相を異にしていると。
そのような観点から読めば、本篇は主人公の<夢界>の分析というかたちになっており、夢界でのいたって手前勝手な女性遍歴の相手はすべてユンク的な主人公のアニマであったことが明らかにされます。すなわち自己愛に他ならず、最後で再びソフィーが彼の手から引き離されるのは、「成長したくない」という主人公の無意識の願望でしょう。(ひょっとしたら続編を書きたいという意図があったのかもしれませんが)

山野は「前作には私小説的要素が強く、少々センチメンタルな感情に流される傾向もあったのだが、今回の作品は極めて冷酷に幻想世界を構築していて、もう一度同じ設定に取り組もうとした作者の意図はよく理解できる」としています。大筋はそのとおりで(ただし私小説的要素はむしろ今作の方が強いのではないか)、結局『聖シュテ』は、『白き日』の螺旋的に一段階上のレベルに移った再帰的物語、というかアンチ物語なのかも。当然具体的な面白さは後者がまさるわけです。

 





名張にて  投稿者:管理人  投稿日:20071125()093718

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昨日は名張にて、名張人外境の中さんを囲んで宴会。今回はこじんまりと5名の小宴会でしたが、久しぶりに飲んだ飲んだ。
乱歩宴会なのになぜかSFで盛り上がりました。中さんいわく「久しぶりにSFについて語った」(^^)
記憶を列挙すれば、乱歩はディックだ。ニューウェーブは凄かった。バラードは凄い。ヴァーミリオン・サンズなんかキチガイしか登場しない傑作。法水金太郎訳「残虐行為展覧会」もよい。北森鴻さんが講演のマクラで某アッシーさんを友人として紹介いろいろと。山沢晴雄と日影丈吉。コリアとサキ。

丁度「聖シュテ」を持参していたのですが、中さんによればこれが不評で荒巻さんは架空戦記に走ったとか(ほんまか?)。「白壁の文字は夕陽に映える」「ある晴れた日のウィーンは森の中にたたずむ」の頃はかっこよかった。「ある晴れた日」を長篇化した「白き日旅立てば不死」は必読書。続編の「聖シュテ」は「白き日」のオーラを剥いでしまった。

演劇をやっている若いが(といっても30半ばか)よく読んでおられる方と知り合いになりました。イワハシさんに紹介したくなった。眉村ファンとのことで、次回の眉村さんの会に来ていただくことに。

こんなところでしょうか。あー楽しかった。
往路の車中にて『聖シュテ』読了。感想はあとで。

 





スズメとセキレイ  投稿者:管理人  投稿日:20071124()004032

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最近、といってもここ数年というスパンの話なんですが、スズメを見かけなくなったと思いませんか?
いつだったか、あるときふとそう気がついたんです。そのかわりセキレイをよく目にします。
昔は、街なかで道端に小鳥がいたら、大概スズメでした。私の印象では、その、かつてのスズメの位置にセキレイがおさまっているような感じがしているのです。ひょっとして何らかの理由で、生態系のスズメの位置をセキレイが取って代わったのではないか? そう思いつくと、気になって気になって仕方なくなってしまい、ついに先日専門家の方にメールで質問してしまいました。

すると返事が来て――
大阪府全体ではセキレイ(ハクセキレイ)は増えている。
スズメが減ったと言っている人もいるが、調査した結果ではそういう事実は出てこない。解答してくれた方自身も減っているとは考えていない。
とのことでした。
ハクセキレイが増えている理由はよく判っていない。
スズメが減ったという人も、日常の経験に基づく印象のようで、説明できる仮説があるわけではないようです。
スズメもハクセキレイもどちらも市街地に生息します。それでも、巣場所の好み、食物や採食場所、いずれも重なる部分もありますが、けっこうずれているそうで、ある種がある種を駆逐するというのは、直接食べてしまうのでない限り、必要不可欠の資源が不足していて、その取り合いの結果生じるのであって、スズメとハクセキレイにそんな関係が生じるとは思えないとのことでした。

つまり私の印象には根拠がないようです(^^;
うーん、でもやっぱりスズメ、見かけないんですよね。他の地域ではどうなんでしょうか。
というわけで、しばらくは意識的に観察してやろうと考えています。

明日は恒例乱歩宴会に参加するため、名張に出かけてきます。

 





「聖シュテ」  投稿者:管理人  投稿日:20071122()234614

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あれから半ばまで読み進めました。うーん、今はダレ場かも。本篇は幻想青春小説の逸品『白き日旅立てば不死』の小説世界の10数年後の物語なんですが、「白き日……」では実に謎めいていた<異界>が、なんといいますか、白日のもとに曝され、あからさまになってしまって、余韻がなくなってしまったと感じがしないでもない。<異界>は主人公白樹自身の<夢界>なんですが(95p)、すなわち内宇宙なんですが、どうも単なる多元宇宙のひとつにみえてきてしまうのです。もっともそれは狂騒的な<超バロック世界>という設定からくるものなのかも知れません。
ともあれ今後の展開に期待。

 





「神聖代」  投稿者:管理人  投稿日:20071122()032022

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見るに見かねた人さん

ご投稿ありがとうございます。
>小説の題名は『神聖代』が正しい
やや、本当ですね。私の大好きな作品なのに何を勘違いしておるのか(たぶん「隠生代」とごっちゃになったんでしょう)、大変失礼致しました。

>題名くらい間違えずに書きましょう
おっしゃるとおりです。以後気をつけたいと思います。ご叱正まことにありがとうございました。今後とも当掲示板をよろしくお願い致しますm(__)m

ということで、(私は当掲示板に投稿があるとケータイに連絡が入るように設定しているのですが)ケータイのベルでいま目を覚ました次第です。というのは他でもありません、炬燵で「聖シュテファン寺院……」を読んでいるうちに、ついうたた寝してしてしまっていたようです(^^;
今年は灯油が高いので(爆)、ケチってこたつを活用しようと思っているのですが、うーん、炬燵はやはり眠ってしまう危険大ですね(汗)
そのようなわけで、「聖シュテファン寺院……」全然進んでいません。が、少し眠ってすっきりしましたので、今からもうちょっと読みたいと思います(ケータイで起こされなかったらそのまま朝まで寝てしまったと思われます。その意味でも見るに見かねた人さん、ありがとうございました(^^ゞ)

 





(無題)  投稿者:見るに見かねた人  投稿日:20071122()024455

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 貴殿が何度も言及している小説の題名は『神聖代』が正しい。題名くらい間違えずに書きましょう。

 





和製ゴーレム100乗か!?  投稿者:管理人  投稿日:20071121()200729

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『聖シュテファン寺院の鐘の音は』に着手。3分の1ほど。
いやあ面白い面白い(^^)。のっけから反精神医学や木村敏をとんでもなく拡大解釈した精神分析講義が蜿蜒と続いて嬉しくなってしまいました。
筒井康隆が山野浩一について内宇宙小説で登場人物が内宇宙について言及するのはどうなのか、とどこかに書いていましたが、荒巻義雄にも同様のことがいえます。荒巻の場合、それ自体が不可欠な構成要素として作品が成立しており、一種の私小説なので、これを認められなければ本書は楽しめないわけです。私はじゅうぶんに楽しんでおりますが(^^;

本書も『神生代』と同様、何の見取り図もないまま書き始められたとおぼしく、まるで小島信夫の後期小説のように、因果論的鳥瞰を拒否しており、かかる「どうなっていくの?」感も心地よい(のか?)。ただし舞台がウィーン(の影の世界)なので、「神生代」に比べて現実との繋がりがある分、十全に想像力が羽ばたかない憾みも。

まだ途中ながら、このあと(客観的な意味で)「傑作」になるかどうかは別にして、しかしこの無茶苦茶感はヴォークト作品や『ゴーレム100』に通底するものであるはずで、かの作品を気に入った方は楽しめること請け合いです。

ともあれいかにも荒巻らしい「怪作」でしょう(^^)

 





新市長誕生  投稿者:管理人  投稿日:20071120()214539

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平松アナが大阪市長になったのですね。興味がなかったので当選するまで立候補していることも知りませんでしたが、唐突感がありますね。
などと唐突に書きはじめたのは、それで思い出したことがあったからで、大学時代、仲間と行ったスキー場で知り合った女性グループのなかに、そういえば平松アナの妹さんという方がいたなあと。いやただそれだけなんですが,そんなことはどうでもいいんです。平松さんは、たしか近ちゃん(近藤光史)と同期入社でとても仲がよかったはず。これまで大阪市、関市長をクソミソにののしってきた近ちゃんが今後どういうスタンスを取るのか、実に興味深いところではないでしょうか。注目しましょう(笑)

 





「老いたる霊長類の星への賛歌」より  投稿者:管理人  投稿日:20071119()002014

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「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」読む。
一読、アメリカン・ニュー・シネマを連想しました。発表された1976年には、アメリカン・ニューシネマのムーブメントは終わっていたのではないかと思うのですが、船長のデイヴの造型は70年代なかばに至ってもこのような(日本人の感覚からは)超父性的な男たちがアメリカにはありふれて存在していた証左となるのかもしれません。この辺は日本に住む者の感覚からすればリアリティが希薄なんですが、デイヴから「ユダめ」と蔑まれるロリマーは切実にその存在を実感できるかも。意外にもこのロリマーもアメリカン・ニューシネマ的な人物で、デイヴが映画「JOE」のピーター・ボイルとするならば、ロリマーは、頭では進歩的な考えを持っていても一皮剥かれれば旧態依然たるデニス・パトリックではないでしょうか。
いずれにしても男性読者は平静ではいられない問題作で、序文のル・グインとは違って、よくネビュラ賞が取れたものだと思いました。

 





「ステーション233の水の彫刻師」  投稿者:管理人  投稿日:20071118()154053

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翻訳SF「ステーション233の水の彫刻師」(ジョージ・ゼブロウスキー)をチャチャヤン気分に掲載しました。
原文はこちらで読めます→SCI FICTION
初出はオリジナル・アンソロジー「インフィニティNo.1」ですが、1985年に改稿されており、おそらくタイトルもそのときにただの「水の彫刻師」と変えられたようですが、原題は明らかにバラード「コーラルDの雲の彫刻師」を踏んでいますし、内容的にもニューウェーブ派の一面である反テクノロジー主義が濃厚に認められるものなので、原題の方を尊重しました。
とはいえ、(本人の意気込みに反して?)バラードほど観念性があるわけではなく(クラーク的な観念も混在しており)、むしろ主情的で、光瀬的な無常観に近いかも知れません。ステーションの位置関係も恣意的だったりとか、客観的な視界を欠いており、一種「謡曲」的といえるかも。その分日本人には判り易いSFとなっているように思いました。

以上は私の解釈が正しかったら、という留保つきでの感想ですので念のため(^^;
それもふくめて、今回、翻訳とは解釈であるなということをひしひしと感じさせられました。部分的にかなり意訳していますが(原文と突き合わせて下さい)、私が読んだ「ステーション233の水の彫刻師」はこういう小説なんでした、ということで(平身低頭)。

 





「聖シュテファン寺院の鐘の音は」ゲット  投稿者:管理人  投稿日:20071118()001114

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荒巻義雄『聖シュテファン寺院の鐘の音は』(徳間書店、88)をブックオフでゲット(^^)。
これはSFアドベンチャー連載時に読んでいるので、本はもってなかったのですが、ブックオフで本書を見つけたとき、懐かしくて手にとってみたところ、内容がまったく浮かんでこず、愕然として思わず購入してしまいました。

で、家に帰ってからパラパラ捲っていたら、新聞の切抜きが……。なんと山野浩一の書評がきれいに切り取られて挟んであったのです。切り抜きなので何新聞なのかは判りませんが、急に前の持ち主に対して親近感を持ってしまいました(^^;。書評はかなり好意的な内容で、書き写そうかと一瞬思いましたが、めんどくさいのでパス。
近々読んでみることにします。楽しみ〜(^^)

ところで検索していて気づいたんですが、本書、文庫化されていないようです。意外でした。

 





「司政官全短編」  投稿者:管理人  投稿日:20071116()23463

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眉村卓ワンダー・ティー・ルームさん経由ですが、創元SF文庫から『司政官全短編』が出るようです→東京創元社メールマガジン

「著者を代表する本格SF未来史全短編7編を年代順に配して収録」とのことで、『司政官』の4編(JDC版で329p )と『長い暁』の3編(ハヤカワ文庫版で332p)が一冊に合本されるということなんでしょうか。だとしたら単純計算で660ページの分厚い文庫になってしまうわけですが(^^;、うーむ、どんな本が出来上がってくるのか楽しみです〜!

 





「老いたる霊長類の星への賛歌」より  投稿者:管理人  投稿日:20071116()230912

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ティプトリー遡行中。

「ネズミに残酷なことができない心理学者」を読む。
小品かと思って取りかかったらとんでもない、ニヒリズムとセンチメンタリズムがないまぜになった強烈な(非情な)ビートにしびれました。
初期は知らず(というのは未読だからですが)、少なくとも正体が判明した以降のティプトリーほど主体的なSF作家は他にいないのではないか。それが作品をくすませるのではなく、逆に輝かせている(ただし暗い輝きではありますが)ところが、この作家のすごいというか偉大なところだと思います。それゆえ、ある意味逆説的ですが、いわゆる「SFファン」がもっとも困惑する(感応できない)作品になっているように思ったんですがどうなんでしょう。

 





「黒河を越えて」  投稿者:管理人  投稿日:20071115()222726

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ロバート・E・ハワード『黒河を越えて 新訂版コナン全集4宇野利泰・中村融訳(創元文庫、07)読了。

コナンシリーズ3篇収録。そのうち1篇目の「赤い釘」は160ページの長中篇だったが、残る2篇、「古代王国の秘宝」表題作は、80ページ、110ページと、ともに中篇のボリュームで、しかし面白さはどちらも1篇目の長中篇よりずっと引き締まっていて上だった。逆にいえば長中篇のほうはストーリーに、収斂に不要な無駄が多かったということで(ある意味大衆小説の筆法ではあるのですが)、やはり100頁前後というのがこのシリーズのスイートスポットなのかも(そういえば大昔読んだ長篇の「征服王コナン」はもうひとつだったようなかすかな記憶が……)。

とりわけ表題作は解説にもあるとおり、たしかに「シリーズ最高傑作」かもです(というのは私自身はまだ全作品を通読したわけではないので)。
コナンシリーズの場合、脇役に魅力的な造型を配している方がよいみたいで、この作品でも若者と老犬のコンビの活躍が面白さに厚みを加えています。コナンシリーズには珍しい「ラストで泣ける」お話でした。

 





「赤い釘」  投稿者:管理人  投稿日:20071113()003255

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『黒河を越えて』より、「赤い釘」読了。170ページの長中篇で、先に書いたように饒舌な印象は変わらなかった。先日は大衆小説的な文体に変わっていく過程かと書きましたが、よく考えたら本篇はコナンシリーズの、発表順での最終篇であり、実に本篇ウィアードテールズ連載中にハワードは亡くなっているのですから、これ以上変わって行きようがないのでした(^^;

 





「明治残侠探偵帖」  投稿者:管理人  投稿日:20071111()230446

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光瀬龍『明治残侠探偵帖』(徳間文庫、83) 初出は立風書房、78。

実は8月末に読了していた本。後述のように事実関係をしっかり調べてから感想を、と思っていたのですが、まあいつものパターンでそのままになっていました。でいまだにそのままなんですが、もはや調べるモチベーションも消え果てており、とにかく記録だけでも残しておくことに。

時は明治24年、日清戦争の始まる3年前。薩長政府の威光は薄れ、世はその国家を食い物にしてのし上がってきた産業資本家が幅を利かせ始めている。そんな日本の近代の始まりという転換期に、帝大卒洋行帰りの白皙の名探偵、警視庁嘱託探偵・客警視の新宮寺清之輔と、八丁堀常廻り同心の子として生まれ、警視庁秘密探偵の捨吉のコンビが快刀乱麻の活躍をする。三話連作。明治の捕物帖という設定が利いています。

江戸以後、モダン東京以前という舞台設定もユニーク。ただ当方にこの時期の知識が殆どないので、新鮮ではあるが、第一話は設定の把握に追われてしまった。第二話にいたってようやく小説世界に慣れて、俄然面白くなる。
いやこれは乱歩の通俗長編の味わいですね。
たとえば捨吉が賊の手でぐるぐる巻きにされて海に放り込まれる場面がある。で、「魔術師」同様死んだことになっていて、それが再び登場するとき、わざと水浸しにびしょびしょに濡れた姿で現れるのだが、その行為はストーリー的には何の必然性もないのです(^^;

かくのごとくストーリーは存外ゆるい。かなり調べて書かれているという感じがするのですが、もともと東京下町育ちの著者はそれを妄想的に膨らませて、著者の内なる明治の東京、著者が幼少時に暮らした戦前の東京も加味された「なつかしい」明治・東京を「絵」として見せようという趣向のように思われます。
設定描写がしっかりしている分、そのつもりで読むと、逆にストーリーの恣意性に不満を感ずるので、これはやはりしっかり設定が描かれた乱歩の通俗長編と思って読むのが正しい読み方だろう。

そして第三話――これが予想以上の傑作で、日清戦争を許容化する国内体制の再編成(殖産興業策)により産業資本家(政商、豪商)が誕生するのだが、その変化、すなわち資本主義化が一般庶民をいかに痛めつけるものであったかが活写されています。
実際こういう執筆姿勢は、著者にはかなり珍しいパターーンです。ひょっとして著者の家系的な怨念が入っているのかもと思わされました。登場人物はどこまで実在なのかな。これを調べようとして放り出しているわけです(^^;

ともあれ一話から二話、三話へと進むほどシリアスになっていきます。第一話の主人公で、昨今のキャラクタ小説を彷彿とさせる新宮寺清之輔は三話ではもはや殆ど活躍しません。書いているうちに書きたいものが変わってしまったように思われます。

 





究極のアニミズム小説  投稿者:管理人  投稿日:20071110()230129

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ロバート・E・ハワード『黒河を越えて』(創元文庫、07)に着手。まだ第1話(「赤い釘」)の冒頭50p弱のあたりなんですが、こんなに説明的な文章だったっけ、とちょっと予想外でした。デビューして10年目前後(1935年)の作品で、中村融の解説によれば、エージェントを雇い、いろんなジャンルの大衆小説に挑戦し始めた時期らしいので、これまでの専門読者向けの文体から、間口を広げた大衆小説的な文体に変わっていくのかもしれません。

丸山健二『千日の瑠璃』(文春文庫、96)にも着手。一日1ページで、きっちり1000ページの作品。まだ数ページなんですが、これは凄い。おそらくあるストーリーが(内面的にではなく)外部の、それも人間ではない風とか影とか棺桶といった外在的なものの視点から描かれているようです。これはある意味実験小説であり、究極の「アニミズム小説」かも。予定では1000日かけて読むつもり(^^;

あかん、また手を広げすぎているなあ・・

 





Re: なぞてん  投稿者:管理人  投稿日:200711 9()00155

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> No.1036[元記事へ]

トマトさん

NHK少年ドラマシリーズですね(^^)。
この放送が始まったのは私が高2のときでありまして、実は第1作の「タイムトラベラー」(時をかける少女)くらいしか熱心には見てなかったのです(しかも「時をかける少女」という名タイトルを改悪しやがった、とぷんぷん怒りながら見ていた記憶があります(^^;)。つまりこのシリーズは基本的に中学生向きでしたから、年齢的にしだいに疎遠になっていったようです。ですから私より少し下の世代でしょうね、このシリーズにはまったのは。つまりトマトさんは私より少し下の世代であることがこれから推理されますね(^^;

>「なぞ転」
角川文庫版と比べて最新の青い鳥文庫版では少し言葉が変えられているようです。次元ジプシーが次元放浪民に変えられたりとか(次元放浪民さんのハンドルから、青い鳥文庫読者であることが推量されます。まあ下でおっしゃっていますが)。ジプシーという言葉は、今は使ってはいけない言葉らしいです。

 





なぞてん  投稿者:トマト  投稿日:200711 8()08228

  返信・引用

 

 

なぞの転校生をわたしたちは「なぞてん」といっていました。
あれはテレビドラマ化されましたね・・・。
視聴必修番組で、あれをみていないと友達の輪に入れない・・・かんじでした。

次元放浪民の感想文を拝読しましたら、わたしも読んでみたくなりました。
先日娘にパソコン交わされたので、図書館で借りてこようと思います。

 





Re: お久しぶりです。  投稿者:管理人  投稿日:200711 7()213115

  返信・引用

 

 

> No.1034[元記事へ]

次元放浪民さん

お久しぶりです。『なぞの転校生』の感想、拝読させていただきました。
ご存知のようにこの作品は眉村さんのジュブナイル第一作です。先日のETV特集で眉村さんがおっしゃっていましたように(ご覧になりましたか?)、執筆依頼を受けるにあたって、版元からこと細かく禁止条項を突きつけられ、本来なら「やってられん」とへそを曲げてしまってもおかしくないのに、、ここが眉村さんのすごいところですが、それを逆手に「お前にできるか」という挑戦と受け止められ、「ではその挑戦受けましょう」と、制約を完全にクリアしつつ、もちろんレベルは落とさずに書き上げられたのが本書であります。これぞプロの鑑というべきでありますが、かくのごとくジュブナイルだからといって手を抜いていなかったからこそ、この作品は好評をもって迎えられたのだと思います。手を抜かなかったという点では、他のSF作家も同様で、だからこそ、(いわゆる児童文学とは一線を画した)ジュブナイルという新しいジャンルが隆盛を極めることができた。そのなかでも「なぞ転」が「ときかけ」と並んで、現在でもなお、かかるジュブナイルにおける窮めつきの名作という地位を獲得しているのは、まさに次元放浪民さんが感想でお書きになったような点においてすぐれた小説だったからだと思います。すばらしい感想文をお送りいただき、ありがとうございました。

願わくば、私の大好きな「EXPO'87」や「幻影の構成」などの初期長篇もぜひお読み下さいますように。ジュブナイルとはまた異なった眉村SFの醍醐味を味わえること請け合いです!

 





お久しぶりです。  投稿者:次元放浪民  投稿日:200711 7()190131

  返信・引用

 

 

お久しぶりです。
眉村卓の小説の中で一番好きな『なぞの転校生』の感想を書きたいと思います。
僕が読んだのは青い鳥文庫のバージョンです。知り合いの先生に勧められて読みました。
読んだ感想ですが、これは大人向けの児童書といっても過言ではないと思いました。
内容は、核戦争や科学の進歩における功罪など児童書にしては重いテーマを扱っているなと思いました。それに、この物語には、完璧におかしなことを言う人間(例えば科学は力だとか科学は完全だとか)はいなく岩田君や次元放浪民などの登場人物の主張していることにもそれぞれ説得力があるなと思いました。山沢君が、岩田君に「科学なしに生きていけるのか?君が使っていたレーザーだって科学の産物ではないか」と言われるシーンがありますが
このあたりは、科学は使い方を間違うと恐ろしいことになるとわかっていて嫌悪しながらも、科学なしでは生きられない人間の弱さを表していると思います。
屋上での別れの際に岩田君はこう言います「理想の世界なんてあるのでしょうか?住む人の気持ちしだいでどうにでもなるのではないでしょうか、そう思わないとこの世界にしか住めない僕達は救われません。自由に世界を移動できるから選り好みしてしまうのではないでしょうか?」この部分を読んだ時、僕は、心を打たれました。深いなと思いました。
それから、ラストの山沢君のお父さんの台詞。これは、人生観が変わるといえば大げさですがとても心を打たれました。この台詞が全てを物語っていると思いました。
この物語が書かれたのは40年ほど前ですが2007年の現在読んでも全く色あせないです。この物語のメッセージは今読んでも十分伝わると思います。この物語は、子供向けにかかれてますが、子供のみならず大人の方にも(今の混沌とした日本じゃ、むしろ大人の方こそ)読んで欲しいです。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.kappa-coo.com

 





「虚構船団の逆襲」  投稿者:管理人  投稿日:200711 7()18010

  返信・引用  編集済

 

 

筒井康隆『虚構船団の逆襲』(中公文庫、88)読了。元版84年。

著者の文学観が端的に示されていて面白かった。というか、うんうんと頷いてばかりいました。とてもよく理解できるし、著者の文学観に全面的に賛成するものであります。ただそれも今だからこそでありまして、当時リアルタイムで理解できていたかどうか。

しかしながら本書初出時の著者の年齢は50歳なのです。天才が50歳になって(勿論もっと前からでしょうけど)到達した境地を、若輩が簡単に理解できるわけがないのも事実で、ようやく当時の著者の年齢に達した今だからこそ、すーっと判ったのかもしれません。

とりあえず、メモしたものを貼り付けておきます。


 1)したがってこの長篇(註:「神生代」)、普通の小説の如く自らは何も創造せず想像もしない読者を目先の興味だけで機械的にページをめくらせていくような娯楽性はないし、かといって不条理を追求するといったていの文学性からも無縁なのである。(82p)

 2)「日常の瑣末的現実を拡大した」ような作品は第一番に落とす(……)ただしこれとて例えば「過激に拡大した」ものであれば別だ。(133p)

 3)良い批評家というのは、作家の思考の不徹底を「不徹底である」といって詰るのではなく、深読みというかたちで指摘してくれる。(137p)

 4)これは確信をもって言えることなのだが、それが何ゆえ「日本を代表する文学」なのか、本当にわかっている人は極めて少ないのである。想像だが、その人たちにとって(……)「日本を代表する文学」であるが故に日本を代表する文学なのである。(146p)

 5)実際には雨の木が宇宙の暗喩だと聞かされてああそうかと本当に納得できる読者は極めて少数の筈である。しかるに日本人読者の大多数はこれによって(なんと)納得してしまうのだ。彼らにとっては雨の木が宇宙の暗喩であることを理解できたからではなく単に知ることができたゆえに(……)。(147-148p)

 6)ノースロップ・フライが言うように、真の芸術は常に唖である。(158p)

 7)解釈の必要のない、隅から隅まで書きつくされた自己完結的な文学というものが、確かにあることはあるので、これを一方の極にとどめておき、ここではもう一方の極にある文学、つまり作品内で解釈することがまったくなし得ず、第三者によって自由自在、無制限に解釈可能な、幻想文学というものについて考えてみる。(158p)

 8)『洞窟の女王』の方は、エンターテインメントの読者の秩序希求に従って、原像をわかりやすく解説したため、原像を卑小化してしまっているが、『白鯨』にはなんの説明もない。奇怪なイメージは読者の無意識を刺戟し、芸術家の体験した幻視に神秘的関与を促すことになる。(161p)

 9)(註:ロブ=グリエによれば)作家は真実を知るものとして期待されているが、実は自分の書いた作品の意味さえ知らないのであり、意味が確定すれば文学は終ってしまう(……)むしろ真実などというものは、人びとが自由の不安定さにおびえている時、権力がしのび寄ってこようとするための衣なのである(……)。(165p)

 10)やっぱり読み手の想像力の不足ということがあるんですね。これはSF的思考に慣れてないということで(……)そういうものに慣れていない人が、『虚構船団』を退屈がるんですね。(246p)

著者が大江に対して説明しすぎと言っているのは上記の理由に拠るのでしょう。『神生代』が幻想文学とは異なっているというのも同じ理由ですね。しかしながら『神生代』はたしかにボッスやエッシャーの知識を前提として要求しますが、著者はそれを「説明」してはいなかったような。もはや記憶は曖昧ですが、もしそうならば、二次的な立脚点からの幻想小説といえそうな気もしました。
余談ながら5)などは昨今の「ゴーレム100乗」祭りをただちに想起させられました(^^;

 





石原藤夫さん  投稿者:管理人  投稿日:200711 6()215422

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トマトさん

石原さんは私も大好きな作家です。中学時代、眉村さんがやっていたラジオの深夜放送で、SF作家と電話でお話するコーナーがあったんですが、私、石原さんをリクエストするハガキを送ったことがあるかもしれないんです。おぼえていないのですが、つけていた日記に下書きが残っています(^^; だから下書きしただけで実際には送ってないのかもしれませんが、とにかくそれくらいファンでした。
現在はハードSFから古代史の分野に移られてしまいましたけど。と嘆いているわけではありませんよ。実は私、古代史も好きなもので、今は古代史研究家としての石原氏のファンなんです。それにしてもSFから古代史とは、これはまた大転身ですよね(^^;
今、有志の方によって第1世代を中心に当時のことをインタビューし映像を記録するプロジェクトが進行中なんですが、石原さんへのインタビューでは、ぜひ古代史へ転身された動機とかきっかけを訊いてほしいと思っています。
しかしやはりSFも書いてほしいですよね。「ハイウェイ惑星」は完璧な傑作でしたが、「ブラックホール惑星」や「タイムマシン惑星」なんか、私は藤子不二雄の絵が浮かんでくるんですが、海野十三そこのけの講談調で、でもハードSFなんですが、いい具合に脱力できます(^^ゞ

 





おはようございます。  投稿者:トマト  投稿日:200711 6()083343

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管理人さん、ありがとうございました。&どうもすみません。

私が中学時代に古本屋で買ってきた1969年のSFマガジン、いつのまにか捨てられてしまいましたね・・・。
「覆面座談会」も「ガラスのわら人形」も、みんなちり紙交換に出されてしまったらしいです。(苦笑)
しかし「ガラスのわら人形」は暗記するほど読んで、授業中ノートに書写していました。


わたしがよーく覚えているのは
福島さんがアンチSFの児童文学者から受けた私信をSFマガジンのコラムに
実名入りで紹介し、しかもパロディ化して載せていました。(面白かったなぁ・・・児童文学者のSF害悪論を引用して「こんな念仏を唱えてみるみといい」とか・・・。)
そのことで後日その児童文学者から訴えるぞという内容証明(弁護士名の入ったものだったかなぁ・・・)
をもらったことがありましたね・・・。
福島さんが電話口で怒鳴ったら、
児童文学者氏はひびってもうなにもいえない(依頼弁護士だってそうでしょうね。)と思います。
とにかく気迫は本物ですね。福島さんの文章は法的に見てどう見てもヤバかったけどメチャクチヤど面白かったですね。
あの気迫でもっと書きつづけてほしかったですね。
福島さん、あれだけ「ドス」の利いた文章を書けるSF作家、珍しいと思います。
SFというものを「純文学界」から守り戦い抜いてきた軌跡からかもしれまん。


同人誌、わたしも憧れました。「宇宙塵」とか・・・。石原藤夫なんかが輝いて見えましたね。「ハイウェイ惑星」とか・・・。
真鍋博さんのイラストも輝いていた・・・。

 





体育会系のノリ  投稿者:管理人  投稿日:200711 5()222726

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> No.1029[元記事へ]

堀さん

わざわざお調べ下さってありがとうございました。石川さんで間違いないのではないでしょうか。石川さんが体育会系のノリを嫌ったというのは、一般論として確かにそうだろうなと納得できます。

しかしながら、「夢判断」のあとがきを読み返してみたんですが、私自身は、このあとがきを読んでもそういう感じはしなかったです。目くじら立てるほどのものかなと思いましたが、原文のニュアンスが判りませんから……

桃色硬派とか文芸部を仮想敵にしているところがそうなのかも知れませんが、私はむしろ久野氏の韜晦のように感じました。「1984年」や「異邦人」「審判」に影響を受けたといっている時点で、文学的なセンスが判りますし、そうでなければPR誌の編集なんかに回されないのではないでしょうか。

ところでジョン・コリア風というのはなるほどと膝を叩きました! ただし私の感じでは、阿刀田的な「キレ」よりも、後の作品になるほどストーリー性の萌芽が感じられて、もし筆を折ってなければ伝奇長篇的な方向へ進化していったのではないかな、と感じました。いずれにしても惜しい才能だったと思います。筆を折った理由を知りたいです。内因なのか、外因なのか。ひょっとして本当にケツを叩かれなければ書けない人だったのでしょうか(^^;

 





Re: 自営業者のSF  投稿者:堀 晃  投稿日:200711 5()205436

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> No.1023[元記事へ]

久野四郎氏関係、実家書庫で調べてみましたが、69年のSFマガジンその他がきちんと揃っておらず、細部は確認できぬままです。すみません。
69年春に卒業、就職、1年半ほど実習その他で工場を転々だったので、この頃の本はダンボールに入ったままのもあり、整理してないままなのです。
ですから「でてくたあ」や、ミステリ・マガジンの「極楽の鬼」などを読んだ記憶での判断です。
ただ、この頃の記憶は割と確かですから、大筋は間違ってないと思います。

久野作品についていえば、とうぜん異色作家短編集のジョン・コリアあたりを思い浮かべますが、日本でいえば、阿刀田作品を先取りしていたとぼくは評価しています。

 





Re: 行き詰っています。  投稿者:管理人  投稿日:200711 4()175715

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> No.1027[元記事へ]

トマトさん

早とちり、失礼しましたm(__)m
なんか大変そうですね。こんなところですが、気分が紛れるならば、どうぞお気軽にお越し下さい。私もいろいろ昔話ができて楽しいです。

>東大仏文科卒の石川さん
まあ東大とはいえ仏文ですから、法律は得意ではなさそうな気が(^^;
おっしゃるとおり福島さんの文章には独特の迫力がありますね。内に抱えている想いが強いからでしょうか。白黒はっきり断定するからでしょうか。

石川さんのSFでてくたあは(完集ではないみたいですが)単行本化されているのですから、福島さんのも(SFMの巻頭言も併せて)まとめてほしいと、ずっと思っているんですけどねえ。

もしご存命だったら、SFは現在とはずいぶん違っていたように思います(無理かな。福島さんの影響力もかなり低下していたと思われますから。となれば福島=山野連合もありえたかも)。
私も同人誌出身ですから柴野さんの立場を否定する気はさらさらありませんが、両極に柴野・福島があってバランスが取れている状態がベターだったと思われます。
福島なきあとのSF界は、東西構造がソ連崩壊で破綻した状況のようです。
たまたま今読んでいる『虚構船団の逆襲』(筒井康隆)に、昭和59年のエゾコンのプログラムに筒井さんが寄稿した文章が載っているのですが、そのなかに次のような文言がありました。

「SF大会におけるショウ的なお祭り騒ぎはこの時期必ずしも相応しいものとはいえません。むしろ今こそSFの本質をSF界内部に収斂させるべき時でありましょう。そしてSFファンの交流の場、作品発表の場としてのSF大会からわれわれが真に新しい刺戟を汲みとるべき時でありましょう」(中公文庫版、136p)

昭和59年といえば福島さんが亡くなった昭和51年の8年後ですが、このときすでに筒井さんは(SF界の状況を反映するところの)SF大会がある方向へとカーブを切りかけていた状況に危惧を感じておられたと読めます。しかしながらそれから23年後の現在はと申しますと……噫(ーー;、

 





行き詰っています。  投稿者:トマト  投稿日:200711 4()130148

  返信・引用

 

 

東大仏文科卒の石川さん、なんしかしてくれないでしょうか・・・ね。
 モノモノしい法務文書をいきなり送りつけるかどうすべきか迷って困っています。法律ではどうにもならないことって世の中ゴマンとあるんですよね・・・。
角を立ててプロジェクトがぶっ壊れたらシャレにもならないし、かといって明確な「不法行為」に目をつぶるわけにもしかないし・・・。
それで困って家族に当り散らす前に気分転換に来てみました。

早川の「日本SF、幼年期の終わり」呼んでいますが、福島さんの文章は迫力ありますね・・・、石川さんは福島さんの大ファンという感じかなぁ・・・しかし福島さんはすごいなぁ・・・夭折しただけに惜しまれる。

では失礼します・・・。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%258A%25BC%25E5%25B7%259D%25E6%2598%25A5%25E6%25B5%25AA

 





(無題)  投稿者:トマト  投稿日:200711 4()112344

  返信・引用

 

 

管理人さん、リンク先はわたしのではなくダレかのブロクです。
今日は休日だというのに書類作成です。法律関係の・・・ああつまらない。


ではでは。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%258A%25BC%25E5%25B7%259D%25E6%2598%25A5%25E6%25B5%25AA

 





「世界から言葉を引けば」  投稿者:管理人  投稿日:200711 2()181421

  返信・引用

 

 

リンクの石川さんの著書は、いわゆる夢書房シリーズですよね。単行本としては読んでないんですが、このシリーズはSFMにも時々掲載されていて、それは読んでました。
石川さんの場合、場末の小便くさい路地裏やストリップ小屋など所謂下品な場所がよく出てきますよね。でも、なんかこう、フランス映画的というかシャンソン的というか(笑)、ちまちまと、しかし高尚でお上品なんですよね。
さすが天下の東大仏文出身(5年後輩の大江健三郎はたぶん高校でも後輩のはず)という感じで、アメリカンハードボイルドの主人公のような久野四郎とは、同じ題材を扱っても天と地ほど違いますから、カラーが合わなかったのかもしれませんね。

ところでリンク先のHPの日記、めちゃくちゃすごくて面白いんですけど、ひょっとしてトマトさんのHPですか?

 





(無題)  投稿者:トマト  投稿日:200711 2()132345

  返信・引用

 

 

管理人さん、もう一段落しましたので、安堵の息をついております。
お気遣い、ありがとうございました。松下幸之助翁がクローンで
(脳内ハードディスク全データもコピー)二百人ぐらい生産できれば
どんなに楽かと・・。いやいや、タイムマシンであのときの取締役会
に乗り込めたらとか、いろいろ考えましたね。会社から利益を吸い上げている
狸親父の頭部に「脳梗塞発生装置」の照準をあわせて、そして進行宗教に夢中な筆頭株主に「いんちき宗教脱洗脳砲」を向けられればなぁ・・・と考えたものでしたね。というより狸親父の社屋ビルをら「電光艇」で攻撃できたらとか・・・
次から次へと「空想」が広がったものです。

久野四郎のあの「後書き』が嫌いだったのは「世界女優恥部図鑑」の石川さんだったんですか!
私も意外に感じました。
http://members.jcom.home.ne.jp/tana-masa/kansou/isikawa.html
石川さんの話にはストリッパーがステージ上で○○○○を始めるなんていうのも
あったから・・・。
美人のX先生と保健室で・・・という思春期の願望もSF化して、ノートに書いて先生に怒られたものでしたね。


体育会系SFというて、もしかしたら和製SF第一号押川春浪かな・・・。(違うかな・・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%B5%AA#
しかし押川の親父さんはなんだかまったくSF的じゃないキリスト教教育の草分けだとは・・・。

押川の代表作、1900年の「海島冒険奇譚 海底軍艦」も青空文庫にないな・・・と思ったらここにありました。
http://kindai.ndl.go.jp/BIBibDetail.php
しかしまったく読みにくくだめですね。海野十三は青空にたくさんあるのに押川のは三つしかないですね。(そのうち収録予定ということですが・・・。)
海底軍艦は有名な東映映画は何度も見ましたが、ぜひとも押川の現文(というより口語訳)
で読みたいものです。

 





Re: 自営業者のSF  投稿者:管理人  投稿日:200711 1()230928

  返信・引用  編集済

 

 

> No.1021[元記事へ]

あ、堀さん、ご指摘ありがとうございます。
石川さんだったかもしれないのですね? これは意外でした。
久野氏が大会社のPR誌の編集長だったのは知っていたのですが、作風から受ける印象が、なんか自営業のオッサンみたいやなと感じていたのでした。眉村さんの作中人物が大概サラリーマン、せいぜい部長か支店長クラスであるのと好一対で、読んでいてとても印象深かったのでした。PR誌編集部(比較的自由)と購買課(贈賄の標的だけに真面目な人ほど不自由)の差異かもしれませんね。

>自己本位的な理由
>「未来の自分相手に書いている」
うーん??? HPでの解説(?)を待ちたいと思います。

さて次は情報サイボーグシリーズですね! と勝手に決め付けておりますが、楽しみにしております(できれば新作も)(^^ゞ

(追記)HP拝見。過労とのことでまずはよかったです。どうぞご自愛下さい。私も読書が30分続かなくなってきました(ーー;

 





モラルとか成長とか  投稿者:管理人  投稿日:200711 1()223310

  返信・引用

 

 

トマトさん
なんか大変そうですね。私の友人も旧経営陣が総退陣した後、乗り込んできた新経営陣と生え抜き社員のあいだの調整で大苦労していました。NOVAもそうですが、経営者にモラルがなさすぎますよね。ウェーバーではないですが、神という規制がない日本人に資本主義をやらせると、徹底的に利己主義に頽落してしまうような印象が強いです。

>高校生の時には魅力的に見えた「神様」手塚治虫の作品がなんだかつまらなく感じられてしまいましたね
実は私もそうです。でもそれが成長というものではないんでしょうか。40になっても(ノスタルジーでなく)そのようなものを楽しめる人がいるとしたら、そっちの方が問題だと感じますね。

リンク先のwikipediaにある「眉村卓期待にこたえるべし 」が気になります。どんなことを言われているのか、よかったら教えていただけませんか?

 





Re: 自営業者のSF  投稿者:堀 晃  投稿日:200711 1()221851

  返信・引用

 

 

> No.1018[元記事へ]

久野四郎氏は確かサッポロビール勤務だったと思います。
「あとがき」の体育会系ノリを嫌ったのは石川さんではなかったかな?
手元に資料がないので、来週にでも調べてみます。

 





Re: とんでもない!  投稿者:堀 晃  投稿日:200711 1()221350

  返信・引用

 

 

> No.1015[元記事へ]

>かんべさんや堀さんのような著名人の方のブログは、訳のわからないネット怪人が出没して
>おかしくなってしまうことが多いですよね。

ぼくの場合はそうでもなかったです。
2年間ほどで、嫌なコメントは2、3件しかありませんでした。
情報提供やこちらのミスの指摘、さらにはネタの提供まで、ありがたいコメントがほとんどでした。もったいない話です。
では、なぜブログからHPに戻したかというと、「一匹のゴキブリ」で気が重くなってたこともありますが、身辺雑記を公開しているのは、かなり自己本位的な理由であるからです。
このことは、そのうちわがHPに書きますが、内田樹氏が的確に書かれてました。
「未来の自分相手に書いている」というのですが、これも含めてそのうちに。

『遺跡の声』についてのご高評、ありがとうございました。

 





(無題)  投稿者:トマト  投稿日:200711 1()111851

  返信・引用

 

 

自営業者(中小企業経営者)のSF・・・なるほど鋭いご指摘ですね。

私事で恐縮ですが私もついこないだままでやれ旧経営陣に対して特別
背任でだとか不当利益返還請求とかわいわいやらされて来たので・・・。
(大苦笑 監査役のお坊ちゃま弁護士の愚痴をえんえんとこぼしそうなのでこのことはここでやめます。)そういうことやらされてくると時には「星の輝くSFの世界」が懐かしくてどうしようもなくなるんですが、しかし高校生の時には魅力的に見えた「神様」手塚治虫の作品がなんだかつまらなく感じられてしまいましたね。ブラックジャックなんて見てもブラックジッャク先生、医師法違反で逮捕起訴ですめば良いほうではないか(もともと医師ではないものの外科手術に対して民事契約など存在しないとしてブラックジャック先生が脅迫されてしまうぞ・・・世間は恐ろしいぞ・・・と背筋が寒くなったりして・・・)なんていうことばかり頭を駆け巡ってしまいますね・・・。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E8%25A6%2586%25E9%259D%25A2%25E5%25BA%25A7%25E8%25AB%2587%25E4%25BC%259A%25E4%25BA%258B%25E4%25BB%25B6

 





自営業者のSF  投稿者:管理人  投稿日:200711 1()011941

  返信・引用  編集済

 

 

>久野四郎の企業人としての感覚は実にアクディブに感じられますね

掲示板過去ログに「夢判断」の感想を書いているんですが(こちらの511)、そこに述べているように、眉村さんがあくまで「サラリーマン」を描いているに対して、久野四郎には「自営業者」のメンタリティを、私は強く感じます(半村良になってくると、自営は自営でも水商売っぽいですね)。
その意味で久野四郎は、半村良と眉村卓の間に位置づけできるのではないかと思っています。
いずれにしてもオトナの小説なので、たとえば伊藤典夫のような社会経験ゼロ社会性ゼロの坊っちゃんお嬢ちゃんが主体の、当時の、いわゆる「SFファン」には異質すぎて了解不能だったのかもしれませんね。
実際「あとがきが気に入らない。」とか「不真面目だ。」といったのは伊藤典夫ではないでしょうか(もしくは稲葉明雄)。当時27歳で(たぶん)一度も就職したことがない伊藤には、久野のメンタリティや小説へのスタンスは理解できなかったと私は思うのですよね。

 

 


 

 

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