長部日出雄『天皇はどこから来たか』(新潮文庫、96)
ちょっと想像していた内容とは違っていました。ゆるやかに繋がったエッセイ集というべき本で、天皇はどこから来たかについては、鹿児島湾を想定しているのだが、では天皇族は隼人系だったのかといえば、そのあたりは何の記述もない。拍子抜け。
それよりも津田左右吉の戦後の発言の不可解さを、法廷弁論をつぶさに追うことで、津田の天皇観に戦前戦後で矛盾のないことを確認した「津田左右吉の弁明」の章が、わたし的にはめざましく蒙を啓かれるものでした。
津田の誠実さに比べて、「ベルツの日記」にみえる森有礼や井上馨や伊藤博文らの方が、とりわけ伊藤は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の大日本帝国憲法の中心人物であるにもかかわらず、天皇を敬う様子は毫もなく、単に政治の道具としてしかみていないのですよね(「天皇のきた道」)。これはむしろ天皇制を小馬鹿にしている高等遊民やリベラリストの態度ですな。確かにこれでは青年将校も決起する筈だと変なところで納得してしまうわけですが、ある意味天皇家が、少なくとも継体以来1500年以上も継続しているのはこのような天皇を生身の人間とは考えず、一種の政治機関もしくは王冠として、時の(実質的)為政者に認識されてきた結果なのかもと考えてしまいました。
あと、信長をカラマーゾフの兄弟のイヴァンとの比較の上に論じた「日本教の解明」も、触発されるところ多々で面白かった。ただ、今の日本人が「自分の頭で深く考えたり、議論して掘り下げたりする習慣と能力を、ほとんど喪失してしまった」のを信長の呪縛であるとするのは単純すぎるのではないか。
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