ヘリコニア談話室ログ(200712)




よいお年を  投稿者:管理人  投稿日:20071231()110742

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年末の(年末だけではないですけど)テレビはツマラナイですね。一般的に、テレビが我々の内宇宙に及ぼした影響は計り知れないものがある筈なのですが、現実の・今放送されている・このテレビを眺めていると、こんなもんがホンマに我々の内宇宙を変容させたんやろかと、信じられない気持ちになってきます。
我々は既に、面白いか面白くないかの主体的判断まで、テレビの側に預けてしまったのでしょうか?
「幻影の構成」を読み返してみようかな。

一年のご愛顧まことにありがとうございました。来年もよろしくお願い申し上げます。

 




「天皇はどこから来たか」読了  投稿者:管理人  投稿日:20071231()011214

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長部日出雄『天皇はどこから来たか』(新潮文庫、96)

ちょっと想像していた内容とは違っていました。ゆるやかに繋がったエッセイ集というべき本で、天皇はどこから来たかについては、鹿児島湾を想定しているのだが、では天皇族は隼人系だったのかといえば、そのあたりは何の記述もない。拍子抜け。

それよりも津田左右吉の戦後の発言の不可解さを、法廷弁論をつぶさに追うことで、津田の天皇観に戦前戦後で矛盾のないことを確認した「津田左右吉の弁明」の章が、わたし的にはめざましく蒙を啓かれるものでした。
津田の誠実さに比べて、「ベルツの日記」にみえる森有礼や井上馨や伊藤博文らの方が、とりわけ伊藤は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の大日本帝国憲法の中心人物であるにもかかわらず、天皇を敬う様子は毫もなく、単に政治の道具としてしかみていないのですよね(「天皇のきた道」)。これはむしろ天皇制を小馬鹿にしている高等遊民やリベラリストの態度ですな。確かにこれでは青年将校も決起する筈だと変なところで納得してしまうわけですが、ある意味天皇家が、少なくとも継体以来1500年以上も継続しているのはこのような天皇を生身の人間とは考えず、一種の政治機関もしくは王冠として、時の(実質的)為政者に認識されてきた結果なのかもと考えてしまいました。

あと、信長をカラマーゾフの兄弟のイヴァンとの比較の上に論じた「日本教の解明」も、触発されるところ多々で面白かった。ただ、今の日本人が「自分の頭で深く考えたり、議論して掘り下げたりする習慣と能力を、ほとんど喪失してしまった」のを信長の呪縛であるとするのは単純すぎるのではないか。

 




「死の世界3」読了  投稿者:管理人  投稿日:20071230()021727

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ハリー・ハリスン『死の世界3』中村保男訳(創元文庫、69)

38年ぶりの再読。もともと傑作だという認識はあったのですが、読み返してみて、記憶よりも更にすばらしいSFであることを知りました。私のなかではオールタイムベスト級に印象が急上昇。

本篇は、ひとことで言えば「遊牧SF」です(^^; といいますか典型的な社会SFでして、遊牧民族が農耕文明に接触することで遊牧民族としてのアイデンティティを喪失していくという、歴史上で何度も繰り返された文化変容が銀河宇宙に移されて再現されている。これが横糸です。
この横糸だけでわたし的には大満足なんですが、縦糸である過酷な遊牧民の社会のなかに放り込まれた(潜入した)文明人の、知力を駆使したサバイバル小説としての面白さが一方にあり、これが尋常ではありません。
どうもこの縦糸の部分は完全に忘却していた。あるいは(初読が14歳のときだったので)十分に堪能するだけの基礎がなかったようです。というのは学術的な面白さは14歳でも判りますが、人間関係や社会関係は実際にそこに投げ込まれて体験しなければ本当に判ったとはいえないからで、ミステリでいえば、本格ものは理解しえても、ハードボイルドは中学生には本当には判らないのと同じです。とにかく今回読み返して、そのストーリーテリングに手に汗を握らされました。最高時の山田正紀に匹敵する面白さでした。

主人公のジェイソンは、(「死の世界1」を享けて)近々故郷を失ってしまうピラス星都市人のために新たな入植地としてフェリシティ星に目をつける。フェリシティ星唯一の大陸は南北に細長く、南半分は低地でほとんど階級分化段階の農耕社会が成立している。中央で東西に絶壁がのび、その北半は乾燥した高地で、遊牧民が割拠している。
絶壁に遮られて南北の交流はない。その高原では、今やすぐれた指導者テムチンが遊牧種族を統一しつつあります。有能なテムチンは定住の象徴である家の建築を厳禁しています。家ができれば集落が生まれ、やがて都市となる。それが遊牧民族にとって致命的なものであることを本能的に知っていたのです。なのでピラス人の入植などもってのほか。
そこでジェイソンは一計をめぐらし、高原世界を統一したテムチンの低地世界征服に肩入れしていくのです……

結論としてはゴート族やフン族やモンゴル、なかんずく元の衰亡と同じ事態が発生し(豊田さんの『モンゴルの残光』でも、元の中国化に抗するオゴタイ汗国や武宗海山の姿が描かれていました)、ジェイソンの目論見はなんとか最終的には成功します。しかし風来坊であるジェイソン自身も、その結果として(皮肉にも)農耕民的世界観に取り込まれてしまいます(遊牧民の文化を破壊した報いかも(^^;)

いやこれは面白かった。ハリスンの最高傑作と申して過言ではないでしょう。もっと認知されてよい作品だと思いました。

さて。
ということで、なぜ栄華を極めた平泉藤原氏があっけなく源氏軍に蹂躙されたか、です。
おそらく安倍氏も清原氏も、(苗字は和風ですが)その実体は蝦夷の大酋長だったのであり、その民族文化・風習を手放さなかったに違いありません。対して藤原氏は、黄金「都市」平泉を建設しました。都市とは、テムチンが本能的に覚っていたように「定住」のシンボルです。しかも平泉は平安京に匹敵する都市計画を持っていた(たとえば高橋富雄「平泉の世紀」)。前記の新野直吉は「京都化」と表現していますが、そう単純ではないでしょう。匹敵するとともに対抗するものでもあったはずです。
とはいえ、結局は山の民であり海の民であった蝦夷の風を捨て去り、「文明化」することに他なりませんでした。安倍や清原が率いたのは倭人とは別種の非農耕民族でしたが、文明化し柔弱化した蝦夷は和人と異なるところはない。
それゆえ安倍や清原にはてこずった源氏も、(平家との戦いでいくさ慣れしていたこともあって)平泉の軍勢は(泰衡が凡庸だったということもありますが)さほど脅威ではなくなっていたのではないでしょうか。

 




「みちのく古代蝦夷(えみし)の世界」読了  投稿者:管理人  投稿日:20071229()162025

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高井さん
>ライフワークとして、頑張ります
研究成果の発表を楽しみにしております(^^)
新聞や週刊誌には必ず4コママンガやジグソーパズル欄がありますが、ショートショートにもそのような「場」が確保されれば、下手すれば川柳なみの下支え層が形成されるかも、と思ったりするんですよね。
ともあれ来年、(星新一ブームが拡大しての)ショートショート復活の年になればと期待しております。

さて――
大塚初重・岡田茂弘・工藤雅樹・佐原眞・新野直吉・豊田有恒『みちのく古代蝦夷(えみし)の世界』(山川出版社、91)

シンポジウムの記録で、「考古学からみた古代蝦夷の文化」(工藤雅樹)、「蝦夷のくにの実像(新野直吉)」の二本の基調報告と、上記著者5名によるシンポジウム「いま みちのく古代」(司会・豊田有恒)を収録。

本書を手に取った最大の理由は、著者の一人である新野直吉が、名馬で名高い古代東北の馬の北方起源説を唱えていると知ったからです。
実際読んでみると、それはシンポジウムのなかの発言で、しかも大方は定説どおり関東から輸入されたものかもしれないと認めた上で、少数の北方由来の馬は確かに入ってきており(渤海などから)、その血が従来の関東馬の血に(自然)交雑されることで、大型の東北馬が形成された……かも。という論旨でした。
ところがこの論旨においてすら、他の論者(とりわけ佐原眞(^^;)にコテンパンにされているのでありました。

いろいろネットでも検索しているのですが、もともと馬のブランドといえば木曽駒で、木曽義仲の強さはその騎馬軍団にあった。その義仲を、宇治川を渡りきって破ったのが体高が高く力も強い東北産の名馬に打ち跨った義経軍。このとき名馬のブランドは木曽馬から蝦夷馬に移ったようです。
しかしながら、蝦夷馬が関東由来ならば木曽馬と同種のはずです。なぜ東北馬が大型化したのでしょう。
サラブレッドのようなかけ合わせで理想的な名馬を作り出すような血統的な操作は、わが国では明治に至るまで行なわれていなかったらしい。とすれば新野氏の説もあながち否定できないように、素人目には思われるんですよね(もっとも本書は古いので、発掘される馬の遺骨のDNA鑑定のような調査は行なわれていない。現在ではなされているのか。ならば答えは出ているはず)。

ところで蝦夷馬といってもアイヌ人は騎馬の風習はなかったようなので、やはり東北の蝦夷(えみし)の地の馬という意味でしょう。アテルイをはじめ蝦夷の騎馬軍団は極めて精強で、投入される「征夷軍」が勝ったためしがないほどだったようですが、本書にも述べられているように、これは北米原住民の騎馬習慣の獲得と同じで、関東から受け入れたものだと思います。
安倍も清原も強勢で源氏軍は歯が立たなかった。それも彼らの騎馬軍団の強さでしょう。なのに藤原(泰衡)は頼朝軍に蹴散らされ、あっけなく仆れました。なぜか? その理由はまたおいおい。

ヒント>今、ハリー・ハリスン『死の世界3』を読み返しています(^^ゞ。

 




感涙です。  投稿者:高井 信  投稿日:20071229()112620

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 管理人さま

>2005年の出版なのですが、多分何の賞ももらっていなかったはずです。
 はい、その通りです。密かに泣きぬれておりました。
>それにしても『ショートショートの世界』のようなSF史的にも理論的にも価値がある
>研究書が候補にも挙がっていないのはまったく解せません。
 ありがとうございます。そういう方がいらっしゃるだけで、今後もショートショート収集および研究が続けられます。
 ライフワークとして、頑張ります。

 




「ショートショートの世界」と「異形」  投稿者:管理人  投稿日:20071228()233818

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『ひとにぎりの異形』以来、ショートショート付いておりまして、今日は高井信さんの労作『ショートショートの世界』(集英社新書、05)を読み返していたのですが、改めて〈現代の古典〉の感を強くしました。2005年の出版なのですが、多分何の賞ももらっていなかったはずです。ちなみに星雲賞を検索しますと、05年度の星雲賞ノンフィクション部門は――

○SF雑誌の歴史パルプマガジンの饗宴/マイク・アシュリー
○前田建設ファンタジー営業部/前田建設ファンタジー営業部 ご一同
○ライトノベル☆めった斬り!/大森望・三村美衣
○ファンタジーの歴史――空想世界/リン・カーター
○トンデモ本?違う、SFだ!/山本弘
○おたく:人格=空間=都市ヴェネチア・ビエンナーレ/第9回国際建築展−日本館出展フィギュア付きカタログ


が候補に挙がり、「前田建設ファンタジー営業部」が受賞したようです。

受賞作については何も語る資格はありませんが、それにしても『ショートショートの世界』のようなSF史的にも理論的にも価値がある研究書が候補にも挙がっていないのはまったく解せません。実は「学者」の存在意義はこのような部面においてあるのですが、まったく機能していないようです。
わが大師匠の蔵内数太は社会の過程に、個別的過程である理・法と超個別的な勢・命の4つの契機を措定しましたが(当然学者の機能は「理」に属す)、その伝でいくと、上記候補作-受賞作に見出せるのは専ら個別的過程における「勢」の放縦であります。教科書問題とは逆にSF賞では理が衰弱している。SFの学者たちは何処へいってしまったのでしょう。

閑話休題。
本書を読んで、やはり著者も日本におけるショートショートはその核に星新一を抱いているものであるとの認識でした。やはりと書いたのは私も同意見だからです。
そこで私なりに整理しますと、もともとショート・ショートストーリー(短短篇。ノベル・ノヴェラ・ノヴェレット・ショートストーリーと同位相の枚数的存在物)から、ある種の傾向作品が(星新一の巨大引力のもとで)切り取られてショートショートとして認識されていった。それをごくラフに「ブラウン=星新一」的な傾向とします。同時にそれに付随して「掌篇」として認識される作品もショートショートと呼ばれた。ただしこの掌篇は川端的掌篇とは(原則的には)別物である。
――と、こう位置づけできるのではないでしょうか。
図式化すればこうです。

1)|――――――ショート・ショートストーリー(短い短篇)――――――|
2)|――――――ショートショート――――――|   短い短篇    |
3)|――ショートショート――|―― 掌篇 ――|     短い短篇        |


「異形」の場合、(監修者の本音は違うようですが)存在物としての「異形」は1)のレベルでショートショートを捉えています。もちろんその基準が正しいとか正しくないとかいうつもりはありません。「異形」におけるショートショートの定義はそういうものだというだけの話なんですから。
個別作品的には、北原尚彦「ワトソン博士の内幕」がまさに上図の短い短篇の範疇に属する作品であるといえます。この作品、読み物小説として悪くはなかったのです。しかし私の感覚ではこれはあくまで短い短篇であり、ショートショートではないのです(それゆえ先日の感想文では無視させていただきました)。この私の感覚は、大方のSF読者(ショートショート読者)に受け入れられると確信しているのですが、如何でしょう(笑)

 




何を以って「強制」とするのか  投稿者:管理人  投稿日:20071228()165418

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[沖縄戦]集団自決の教科書での扱いに関する各紙の社説など(愛蔵太さんのブログより)

読んで思ったのは「強制」の解釈についてです。
一本道で、いかにもその筋の方だと思われる(それが事実であるかどうかは関係ない)人とすれ違うとします。どっちかが道を譲らなければなりません。そのとき、そのコワそうなおあにいさんがこっちをみて(無言で)目で合図をしたとします(本当に合図をしたのかどうかは関係ない)。きっと私は道を譲るでしょう(自分としては譲りたくはなかったとしても)。
これは、私の立場からすれば「強制」されたと感じると思います。
でもそれは「物理的な証拠」のない強制です。もし第3者が「あなたは道を譲れと目で合図しましたか」と尋ねれば「そんなことはしていない」と言い得る。客観的な判定では、「強制したかどうかは確認できない」とするしかない状況です。でも私自身の「強制された」と感じる心理は、「当事者」である私にすれば確実な「内的事実」なんです。

同じことが「沖縄戦集団自決」についても言える。
産経ニュースにある「住民の側から見て心理的に強制的な状況のもとで、集団自決に追い込まれたと読み取れる」というのは、まさに上記と同じシチュエーションでしょう。
ところが、産経ニュースは続けて、「などと説明しているが、国民には分かりにくい」とまとめているのが不可解。こんな判り易いシチュエーションはないでしょう。結局外側から(客観的対象として)見下ろして眺めるばかりで、当事者の内的心理に立ち入って内側から見上げる視点が欠如しているから「分かりにくい」と感じるのであろうと推察されるのです。これについては後述。

結局、教科書検定調査審議会の見解は訓詁学的な解釈で本質論議を避けているという他ありません。「当事者」の内的状況に立ち入って体験的に、主体的に考えるという意識が微塵もない態度です。なぜこんなしょーもない枝葉の議論にとらわれるのか? 教科書検定調査審議会のメンバーを調べてみました→教科用図書検定調査審議会 委員名簿・臨時委員名簿
見事なまでに学者によって占められていました。
学者とはなにものか? 生きた現実社会から隔絶された象牙の塔に引きこもって抽象的な観念をもてあそぶものに他なりません。
こんな連中ですから、ただ形式的な「強制」の意味内容の分析といった干からびた訓詁の学に、フィクションの世界に埋没するばかり。強制に対する質的な、生き生きとした共感的な思弁など求めようがないわけです。更に言えばそのようなメンバーで構成させた者(安倍さんか?)の意志も読み取れる。

産経の記事に戻って、
「そもそも、訂正申請は誤字・脱字などに対してのみ認められ、検定意見にかかわる訂正は許されていない。それについて、検定審が開かれた前例もない」
という言い方で今回の訂正を批判しているのですが、ここにあるのも訓詁学なんです。
本質をそらして枝葉の方へ議論を有耶無耶化してしまおうとする、まあこれは一種の弁論術ではあります。弁論術とはあくまで「術」なんで、本質論とは関係がありません。「詭弁」の一種といえますから。
産経の記事も学者臭紛々たるもので、形式議論(原理主義)ばかりで本質直観に欠けるところはいかにも産経らしい。

そもそも今の為政者自体が(安倍さんに限らず)学者化しているのかもしれません。

付記。私は「学者」を否定しているのではありません。「学者」は現実に必要です。ただ「学者」にこのような問題を委ねるなよといいたいだけです。このような生きた現実の考究に「学者」ほど不適な人種はいないと思うからです。

 




年賀状  投稿者:管理人  投稿日:20071227()01593

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ようやく書き終えた。ふう。
番地の細かい数字がみえにくくて書き損じ多数発生(ーー;
老眼が進んでいるのを実感しました。
明日投函。

 




電子本購入  投稿者:管理人  投稿日:20071224()131620

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昨夜遅く、高橋富雄「平泉の世紀―古代と中世の間」(NHKブックス)という本をどうしても確認したくなり、たまたまネットで調べていたら、eBookという電子本で販売されていることを知りました。値段も紙版の半値以下だったので、登録し、読むためのソフトもダウンロードして購入。瞬時に本がPC画面に現われた。
便利ですなあ。
しかし、PC画面に現われた紙面(?)は、まったく紙面そのものをコピーしたもので、画数の多い文字はつぶれているし、拡大しても文字が鮮明になるわけでもなく、逆に下のほうが画面からはみ出してしまったりして、やや使い勝手悪し。付箋機能はありますがページ単位で、行単位の指定はできません。当然ラインマーカーなど望むべくもない。コピペも不可能なようです。

以上はマイナス面ですが、よい面もありまして、モニターの前にきちんと座って読まなければならないので、寝ころがって読み始めたらいつの間にか眠っていたというような状況は起こりえません。これはまことに都合がいいです(>いいのか)。

しかしこの手の本は、確認のため何度も元に戻ったり、見当をつけて任意のページをぱっと開けたりするものなんですが、これが極めてやりにくい。順々にページを繰っていく読み方しか想定されていないような気がします。まだ機能を把握できていないからかも知れませんが。

やはり紙の本には敵わないようです(関係ないですが、パピレスもテキスト文書ではなくてコピー画像なんでしょうか?)。

 




石原コレクション  投稿者:管理人  投稿日:20071223()233658

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石原藤夫さんの掲示板で、蒐集されたその厖大なコレクションの中から、SF画の展示が始まったようです→ヴァージル・フィンレイ「火星の運河」ワールズ・オブ・ファンタジー誌

これは大変嬉しい企画、稀少で貴重な作品が閲覧できそうです。興味のある方は必見ですよ。

 




2007年度読了書リスト(暫定)  投稿者:管理人  投稿日:20071223()141627

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今年もあとわずかということで、今年読了した本のタイトルを挙げておきます。最終的にはもう数冊増えると思います。赤字は各ジャンル暫定ベストワン(毎年のことながら最終的には決定当日の「温度と湿度」で微妙に変化しますので念のため)

 《小説 海外》
 18)  ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『老いたる霊長類の星への賛歌』(ハヤカワ文庫、89)
 17)ロバート・E・ハワード『黒河を越えて 新訂版コナン全集4』(創元文庫、07)
 16)  ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『星ぼしの荒野から』(ハヤカワ文庫、99)
 15)  ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たったひとつの冴えたやりかた』(ハヤカワ文庫、87)
 14)ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『輝くもの天より堕ち』(ハヤカワ文庫、07)
 13)ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』(早川書房、07)
 12)若島正編『狼の一族』(早川書房、07)
 11)シーバリー・クイン『グランダンの怪奇事件簿』(論創社、07)
 10)キャロル・エムシュウィラー『すべての終わりの始まり』(国書刊行会、07)
 9)ロバート・E・ハワード『黒い予言者 新訂版コナン全集3』(創元文庫、07)
 8)  ダシール・ハメット『ハメット傑作集1』(創元文庫、72)
 7)  J・G・バラード『残虐行為展覧会』(工作社、95)
 6)エドモンド・ハミルトン『鉄の神経お許しを 他全短編』(創元文庫、07)
 5)  コードウェイナー・スミス『第81Q戦争』(ハヤカワ文庫、97)
 4)  コードウェイナー・スミス『シェイヨルという名の星』(ハヤカワ文庫、94)
 3)  ラリイ・ニーヴン『中性子星』(ハヤカワ文庫、80)
 2)B・W・オールディス『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』(河出文庫、07)
 1)  ロバート・シェクリイ『明日を越える旅』(ハヤカワSFシリーズ、65)

 《小説 国内》
 17)深田享『深田享作品集 風の翼35周年記念号』(創作研究会=北西航路、07)
  16)井上雅彦監修『ひとにぎりの異形 異形コレクション』(光文社文庫、07)
 15)  笹沢佐保『女人講の闇を裂く』(光文社時代小説文庫、97)
 14)  平井和正『メガロポリスの虎』(角川文庫、75)
 13)  豊田有恒『モンゴルの残光』(講談社文庫、77)
 12)  荒巻義雄『聖シュテファン寺院の鐘の音は』(徳間書店、88)
 11)堀晃『遺跡の声』(創元SF文庫、07)
 10)  光瀬龍『明治残侠探偵帖』(徳間文庫、83)
 9)山沢晴雄『離れた家』(日本評論社、07)
 8)  高橋たか子『空の果てまで』(73、新潮社)
 7)筒井康隆『巨船ベラス・レトラス』(文藝春秋、07)
 6)  福田紀一『失われた都』(河出書房新社、73)
 5)藤野恵美『ハルさん』(東京創元社ミステリ・フロンティア、07)
 4)  山本弘『アイの物語』(角川書店、06)
 3)  堀晃『バビロニア・ウェーブ』(徳間書店、88)
 2)  眉村卓『なぞの転校生』(角川文庫、75)
 1)  瀬名秀明『第九の日』(光文社、06)

 《非小説 文学》
 12)  筒井康隆『虚構船団の逆襲』(中公文庫、88)
 11)最相葉月『星新一 1001話をつくった人』(新潮社、07)
 10)  立川談四楼『落語的ガチンコ人生講義』 (新潮OH!文庫、01)
 9)  高橋たか子『 境に居て』(講談社、95)
 8)  高橋たか子『放射する思い』(講談社、97)
 7)  高橋たか子『この晩年という時』(講談社、02)
 6)北杜夫『どくとるマンボウ回想記』 (日本経済新聞出版社、07)
 5)  メンヒェン=ヘルフェン『トゥバ紀行』田中克彦訳(岩波文庫、96)
 4)小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮文庫、07)
 3)  木田元『哲学の横町』(晶文社、04)
 2)  木田元『哲学の余白』(新書館、00)
 1)  「幻影城の時代」の会・編『幻影城の時代』(エディション・プヒプヒ、06)

 《非小説 非文学》
 17)片田珠美『やめたくてもやめられない 依存症の時代』(新書y、07)
  16)瀬川拓郎『アイヌの歴史 海と宝のノマド』(選書メチエ、07)
 15)大野晋『日本語の源流を求めて』(岩波新書、07)
 14)樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析 なぜ伝統や文化が求められるのか』(光文社新書、07)
 13)  田中秀臣『日本型サラリーマンは復活する』(NHKブックス、02)
 12)三浦展・上野千鶴子『消費社会から格差社会へ 中流団塊と下流ジュニアの未来』(河出書房、07)
 11)  高森明勅『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書、02)
 10)本上まもる『〈ポストモダン〉とは何だったのか』(PHP新書、07)
 9)香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』(講談社現代新書、07)
 8)  内倉武久『謎の巨大氏族・紀氏』(三一書房、94)
 7)  田中卓『海に書かれた邪馬台国』(プレイブックス、75)
 6)中野正志『万世一系のまぼろし』(朝日新書、07)
 5)  田中卓『日本国家の成立』國民會館叢書二(社団法人國民會館、92)
 4)  田中卓『日本の建国史―三替統合の精華―』國民會館叢書五十(國民會館、03)
 3)   水谷千秋『謎の豪族 蘇我氏』(文春新書、06)
 2)   中沢新一『対称性人類学 カイエ・ソバージュ5』(選書メチエ、04)
 1)  中沢新一『緑の資本論』(集英社、02)

 




日課電子化?  投稿者:管理人  投稿日:20071223()01454

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電子書店パピレスが、「日課一日3枚以上」を第1話から順次載せていくそうです。1話ずつ売るのか知らん。
ということで、パピレスのサイトへ行ってみてビックリ(→パピレス
「新・異世界分岐点」も「いいかげんワールド」も、堀さんの「バビロニア・ウェーブ」も既に販売されているではありませんか。大体文庫よりチョイ安くらいの単価設定ですね。
しかし日課をバラ売りするんでしょうか。一話50円として一冊分(100話)で5000円か。これは高すぎますね。1話10円で1000円なんですが、そんな売り方はしないような気がしてきました。無料で提供する? まさかね。

 




「やめたくてもやめられない」読了  投稿者:管理人  投稿日:20071222()001456

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片田珠美『やめたくてもやめられない依存症の時代』(新書y、07)

私自身「ネット中毒」(ネット依存症)だし、友人たちはみんな「一生かかっても読めないだけ抱え込んでいるのに、それでも本を買ってしまう、買わずにはいられない」購書中毒(?)の連中ばかりだし(笑)……そもこれはいったいどのような病理現象なのであるか、とずっと思っていましたので、書店でタイトルを見て思わず購入したのですが、うーん、ちょっと違っていた。

著者は去年出た『薬でうつは治るのか?』の著者だったんですね。購入してから気づいた(→感想)。アプローチは違いますが、内容は殆ど重なっている。
悪い本じゃないのはいうまでもありありませんが、前書を読んでいれば内容的に新しい発見はありません。その意味では無駄な買い物だったかも。

 




「深田享作品集」読了  投稿者:管理人  投稿日:20071219()231712

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『深田 享 作品集』<風の翼>35周年記念号(創作研究会=北西航路、07)

『ひとにぎりの異形』の拙感想文を読んで下さった深田享さんが、上記のご著書を送って下さいました。
早速読み始めましたところ止まらなくなってしまいました。あらゆるところで読み継いで、一日で読了。自費出版ですが、このままでじゅうぶん商業出版できる高レベルの作品集だと思いました。B6版155ページに全42編を収録。内訳は短篇2篇と残りショートショートです。

著者の作品は殆ど読んでいるはずで、その作風は大別して二つに分けられると思います。
ひとつは最初期の「砂漠」(<チャチャ・ヤング=ショートショート>No.1、71)に端を発する本格的な幻想小説で、この方面での現在のところの最高傑作は「飼育」(<風の翼>30周年記念号所収)という短篇であります。これはある著名な海外幻想小説の後日譚として構想されており、主題を見据える透徹した視力が必然的に全てを暴き出してしまう、その一種凶暴なシニシズムに著者の新境地を感じたものでした。

いまひとつの方向性は、これも最初期の名作「岬」(<チャチャ・ヤング=ショートショート>No.2、71)に既に完成体として現われているところの、土俗的・民話的な作品群です。こちらは透徹するというよりはむしろやわらかく包み込んでしまうセンチメンタルでロマンティシズムにみちた作風で、著者のマイナーポエットとしての資質がよく現われているように思います。「異形」掲載作もこちらの作風でしたが、本書収録作品も、この系列に属している。どちらかといえば、こちらが著者の本領なのかもしれません。

さて、個別作品ですが、巻頭の「鎮金歌」から「クリスマスには紅酒をどうぞ」までのショートショート14篇は、基本的に男と女のお話であり、それにまつわる艶笑譚であり、しかして幻想譚であるという、不思議な作品が並んでいます。それはある意味古代歌謡のようにあけっぴろげであり、しかし今風でもあります。おしゃれな女性週刊誌に連載されていたといわれても納得するようなスマートな幻想ショートショートとなっています。
このなかでは、私は「レッスン」と「月光夜」が好き。特に後者は完璧な幻想掌篇となっています。「クリスマスには紅酒をどうぞ」のラストの1行は不要かも。

つづく「漂着」は短篇。古代日本らしきどこかの浜辺に漂着した水死体が異界からの来訪神として祭られる。肉体は腐り果てるが魂が残存し、ヒミコ的な巫女に斎き祭られる。そこに生きたまま漂着してきたのは、神とされた男を船から落として溺死させた憎き男、ヒホコだった……。著者得意の民俗学的モチーフで描かれる絢爛たる古代的世界が好いです。

「どうぶつえん」から「にわのにわとりとねこと、きのうえのからす」までのショートショート10篇は、ひらがなを多用して童話的な雰囲気を出していますが夢の世界の物語みたいでもあります。これはどれも好みで甲乙つけられません。全部よい。

「イブの前夜のできごと」は枚数的にはショートショートながら内容的には短い短篇小説というべきかも。イブの前夜にサンタクロースとトナカイたちが行なった善行に、プレゼントが届く――とてもあったかいクリスマス・ストーリーです。

「サンタクロースの秘密」から「たまかぎる」までのショートショート14篇は、テーマ性から離れた多彩なショートショート集です。やはりセンチメンタルな話、男女の話が多いです。このなかでは「コスモス畑」と「花見」が好み。特に後者は生者死者入り混じっての不思議な花見が描かれていて、一種のジェントルストーリーといえるでしょう。

「さくらのもりのまんかいのした(抄)」は、安吾の原作を現代に移して公園に住むホームレスと家出した人妻にした脚本で演じられた高校演劇部の発表会を小説で描写するという複雑な構成が効いていて面白い。

ラストの「星を売る街紀行」は純然たる短篇小説。タイトルは足穂風ですが、ひょんなことで夜の神戸に出向いた中年夫婦が、数十年ぶりに神戸界隈をデートする話。それだけの話ですが内的に深いものがみなぎっていて感動します。

改めて気づくのは、著者の季節感や天候に対するセンシティブな感性です。この辺はブラッドベリの感性に通ずるものがあると思いました。ちょっと甘いブラッドベリという感じでしょうか(ブラッドベリは実はそんなに甘くないんです)。
以上、上にも述べたように、じゅうぶん商業出版に耐える作品集であり、とりわけ女性読者には好評を持って迎えられるのではないでしょうか。良質の短篇・ショートショート集でした。

興味をもたれた方はこちらにお問い合わせを。

 




わっ(汗)(汗)  投稿者:管理人  投稿日:20071219()09114

  返信・引用

 

 

かんべさん、高井さん

ご指摘ありがとうございました。
うう、穴があったら入りたい。穴、穴、山の穴、穴、あなたもう寝ましょうよ。
失礼しました。

>蝶は、一頭二頭なんですよ
そうなんですか。この50年間、ずっと知らないで生きてきました。噫。

>正しければいいというものではないと思いますし……。
おありがとうございます。しかし知らなかったという事実は消えません。ああ恥かしい。

>本人に恥をかかせているといっても過言ではありません
私自身が大恥をかいちゃいましたです(^^ゞ
こうしてみると、編集のかたはちゃんと仕事をしていたのかも知れませんね。大変失礼しました>編集さまm(__)m

かくのごとく天命を知る年齢に達してまだまだ未熟者の私であります。今後もお気づきの点忌憚なくご指摘頂ければ幸甚です。よろしくお願い致します>かんべさん、高井さん

 




数え方  投稿者:高井 信  投稿日:20071219()080418

  返信・引用

 

 

 歴史的な意味があるようですが、現状にそぐわないことは確かです。蝶だけではなく、ウサギも納得できませんね。
 日本語には、ほかにも首を傾げるような数え方が多数あり、どれを使うべきか悩むことが多いです。正しければいいというものではないと思いますし……。
 難しいですね。>日本語

 




いやあ……  投稿者:かんべむさし  投稿日:20071219()031857

  返信・引用

 

 

蝶は、一頭二頭なんですよ。何でかまでは知らんけど、
昆虫採集の本なんかでは、そうなっておりますな。
おせっかいみたいで、すみません。

 




「ひとにぎりの異形」読了  投稿者:管理人  投稿日:20071218()233035

  返信・引用

 

 

平谷さん
おお、やはり修験者に注目されていましたね(^^;
しかし「歩き筋」というのは知りませんでした。けだし山の民の一種でしょうか。

>のちほどメールしていいですか
お待ちしております。ワクワク(^^)

さて、お話変わって――『ひとにぎりの異形』、一応最後までたどり着きました。いや〜ショートショートとはいえ81篇も読むとくらくらしてきますな。
今回の400ページ以降ラストまででは、残念ながら特にタイトルを挙げたい作品はありませんでした(もちろん既述の10篇以外ではということです)。

まとめとしましては、久しぶりにショートショートを集中的に読んでみて、自分のなかで、現実と繋がりがない想像力に頼った(幻想的であったりファンタジー的な)作品に対する評価が、ずいぶん辛いものになっていることに気づかされました。
一般に想像力に頼るものは、現実を頼りにしないわけですから、当然文章の表現力で読者にイメージを喚起するしかないわけです。その肝腎かなめの文章が稚拙だとどうしようもない。そのへんの基準が、馬齢を重ねて若い頃より厳しくなっているのかもしれません。その意味で本書には若書きの幻想掌篇が存外に多く、正直に言えば辟易させられました。とはいってもそんなに厳しい基準ではないんですがね。

たとえば(丁度読み終わったばかりなので例に挙げるのですが)「蝶を食った男の話」――
出だし2行目「青い翼のその蝶は」。蝶の飛翔器官は、翅(羽)というのであって、翼とはいわないと思います。あとは羽になっているので、修正漏れかもしれません。あるいは七五調に乗せるためかも知れませんが、後述のとおり。
「頼りなさげに」も、私は違和感がある。「頼りなげ」でいいのでは。

「どこか寂しく危なげな、羽の動きが眠気を誘う。甘く優しい誘惑に、抗う術などあるはずもなく、眼は瞼に閉ざされる」
まるで歌謡曲の歌詞みたいです(^^;。七五調にすると浮ついて軽薄な感じになることに、この著者は気づいていませんね。ついでにいえば眼は「まなこ」と直前で読ませていますから「まなこはまぶたにとざされる」と「ま」が重なり、無粋です。
はっきりいって幻想小説とはまったく不似合いな文体を選択しており、著者の読書体験の質量ともに絶対的な不足を感じさせられます。
あまりあげつらうのもなんですから、最後にひとつだけ。
「蝶は一頭ずつその数を増やしていった」
蝶は一頭二頭とは絶対に数えません(^^;
こうしてみると、編集は何をやっていたのかと思わないわけにはいきませんね。蝶の翼や一頭二頭は編集の怠慢で本人に恥をかかせているといっても過言ではありません。それ以前に掲載するレベルかという気もしますが、そういう意味では81篇のうちの何割かはレベルに達していない作品が並んでいます。
ただ監修者の方針が第一義に星新一(もしくは監修者自身)にゆかりのある作家を並べることにあったのならば、何もいうことはありません。

 




誰が義経を導いたか  投稿者:平谷美樹  投稿日:20071218()17211

  返信・引用

 

 

ぼくは「歩き筋」と「天台系山岳信仰の修験者」を想定しています。
「歩き筋」の中でも鋳物師。奥州平泉の初代藤原清衡は近江から鋳物師を呼んで平泉の建設に使いました。
天台系山岳信仰の修験者は平泉が勃興する以前から東北の山々を巡って経塚を作っていました。天台系の修験者たちが作る経塚、九州に多いんですよね。
この鋳物師の●●が、実は■■で、経塚が▲▲▲なのです!
と、ぼくも妄想が爆発していくのですが、実はこれ以上書くと小説のネタに触れてしまうので、のちほどメールしていいですか(笑)

 




Re: 義経北行伝説  投稿者:管理人  投稿日:20071218()155444

  返信・引用  編集済

 

 

> No.1083[元記事へ]

平谷さん

義経が山伏に身をやつして弁慶たちと平泉に落ちのびた経路は、おそらく山人や修験僧が通るような山間の杣道を辿ってだったのではないでしょうか。

異民族としての山人は実際にはいなかったみたいですが、昔は、久米から連綿と続く山人のネットワークみたいなのを想像していました。神武東征成功の真因は神武麾下の久米と吉野の山人集団の間にもともと交流(擬似親類関係)があったからではないかとか(笑)。
天皇家と山人族とのつながりといえば「産霊山秘録」ですね。

それはさておき、義経は鞍馬山時代に山人系の一族と強い繋がりを得たのでしょう。だから平泉入りも山人族の手引きで、その支配地域をたどるかたちでなされたし、それゆえ不良山伏が義経の名を騙っても案外信用されたのかもしれませんね。
山人族が本州や九州の山嶽地帯に逐われ取り残された蝦夷(縄文の直系)の遠い眷属ならば、蝦夷の血が確実に入っている藤原秀衡がなぜ不利を覚悟で義経を受け入れたのかも納得できるのです。
すみません。妄想が爆発してしまいました(汗)

 




義経北行伝説  投稿者:平谷美樹  投稿日:20071217()180913

  返信・引用

 

 

岩手には「義経北行伝説」が残っていまして、面白いことにその場所を繋ぐときちんとしたルートができあがるのです。
ただの伝説ならば県内のあちこちにアトランダムに話が残ると思うのですが、どうも「誰かが歩いた痕跡」としか思えないのです。
もっともぼくは義経が歩いた跡だとは思いません。
おそらく山伏かなにかが義経をかたって一夜の宿と飯を求めたのではないかと考えています。
北海道に残る足跡についても藤原の残党やら松前藩がらみの話やら色々な説があります。
義経は必ずしも英雄ではなく、略奪者として伝えられている地域もあります。
しかし、フィクションを考えた場合、色々な「パターン」が思い浮かび、「なぜ痕跡を残しつつ北へ向かったのか?」という謎解きが面白いです。
吾妻鏡を読んでみると頼朝が平泉に入城して発見した蔵一杯の財宝の話なども裏がありそうで面白いですよ。
現在、胆沢ダム広報誌「ササラ」というものに「妄想歴史紀行」のようなものを連載しておりまして、色々と素人の妄想を展開しております(笑)
おっと。古代東北の話になると長くなってしまいます。すみません(笑)

 




Re: 時代小説  投稿者:管理人  投稿日:20071216()231421

  返信・引用

 

 

> No.1080[元記事へ]

平谷さん
やっぱり時代小説といえば最終的に江戸モノに帰着しますよね。などと思いはじめたのは、実はここ10年くらいのことなんですが(^^;
しかしながら、
>阿倍氏・奥州藤原氏・源義経あたりはそろそろ書いてみようかと
これもいいですねえ。楽しみです。
私自身は、安倍氏、安東氏、藤原氏の関係がいまだによく判らないので、平谷さんの新解釈(がなされるんでしょう、きっと(笑))が今から待ち遠しいです!
そういえば、最近読んだ本によれば、アイヌの信仰に義経が登場するそうで、「衣川で戦死せず、北海道に逃げ渡ったとする伝説がアイヌのなかにあって、英雄視されていた」(「アイヌの歴史」62p)そうです。博覧強記の平谷さんのことですからとうにご承知かもしれませんが、モンゴルへ行く途中で北海道に立ち寄ったんでしょうね(^^ゞ

 




ひきつづき「ひとにぎりの異形」  投稿者:管理人  投稿日:20071216()22465

  返信・引用

 

 

400ページまで読み進めた。
前半よりも質は揃っていて(というか私好みの作品が並んだということかもしれませんが)、行けども行けども石ばかりの砂を噛むような徒労感は感じずに済みました。
今回の随一は何と言っても中井紀夫「こんなの、はじめて」。最初は詰まらない日常ものかと思っていたら、うまく出し抜いてくれました。

あと、岬兄悟「誘蛾灯なおれ」が、ワンアイデアを強引に拡大していくのは昔から相変わらずですがラストの処理が面白かった。
川又千秋「嘘三百日記」は夢日記の類いながらシュールレアリスティックなイメージがすばらしかった。
藤井俊「カワウソ男」は、不思議なシチュエーションが秀逸。
北野勇作「白昼」は安定した北野ワールドで、その離人症的な感覚の鈍磨感が不気味さを醸し出している。
山田正紀「THE SECONDS」はベテランらしい手際が光ります。幽霊が見える見えないということに関しての論理的解釈が面白かった。

 




時代小説  投稿者:平谷美樹  投稿日:20071216()22306

  返信・引用

 

 

江戸モノを書いてみたいとは思うのですが、資料が多すぎてどういうものから手をつけていいか判らず、困っています(笑)
とりあえず、阿倍氏・奥州藤原氏・源義経あたりはそろそろ書いてみようかと思っています。

 




その後の「ひとにぎりの異形」  投稿者:管理人  投稿日:20071216()011531

  返信・引用

 

 

阪神・林威助が米国で右肩手術 来季開幕は絶望
こうなりますと濱中の放出は早まった判断でしたね。まあザマアミロですが。
ここはひとつ、濱ちゃんには是非ともオリックスで大活躍してもらって、阪神首脳陣の鼻をあかしていただきたいものであります。

『ひとにぎりの異形』は爾余の作品に着手しまして、半分あたりまで。
うーん、先に美味しいところをつまんでしまったからでもあるのですが、玉石混交ですな。それも石の多い玉石混交(笑)。
そのなかでは、夫々正反対の作風ながら福澤徹三「ごみ屋敷」岡崎弘明「怪人 影法師」に特に感心しました。
前者は地味な作風ですがしっかり地に足の着いた文体にほっとしました。後者は逆にケレン味たっぷりなファンタジーの傑作でラストのオチも壮大で嬉しくなりました(^^)。
それに続くのが梶尾真治「カタミタケ汁」石神茉莉「Rusty Nail」でしょうか。
ということで、読書に戻ります(^^;

 




ご来信ありがとうございます  投稿者:管理人  投稿日:20071215()01102

  返信・引用

 

 

どうも、遅くなりました。

平谷さん
あ、専業になられたのですね。教師ほどストレスがたまって体に悪い職業はないと思うので、平谷さんにはよかったと思います。これからガンガン書いてください(時代小説なんかどうですか? 私は平谷さんなら面白いのが書けると思っているのですが)。
そういえば読み返していて気づいたんですが、ススキの間から目が見つめているシーン、映像がぱっと目の前に浮かんできました。さりげなく書かれていますが、いいですねえ。
来年の長篇、楽しみにしています(^^)。

高井さん
いよいよ日本語テーマが専売特許になってきましたね。星新一リバイバルの相乗効果でショートショートの発表場所が来年は増えるのではないかと、私は予想しているのですが、そうなりますと、確かにショートショートはおっしゃるように懐が深いジャンルかもしれませんが、やはり高井さんや今回の草上さんのようなショートショートらしいショートショートが、まず求められるのではないでしょうか。ジャンル牽引者として、ぜひ頑張っていただきたいと思います。
来年はショートショート集を出したいですね(^^)

私の拙い感想文に反応して下さりありがとうございました。またお気軽にお越し下さいね(^^;

 




いえいえ、  投稿者:高井 信  投稿日:20071214()15053

  返信・引用

 

 

 充分にショートショートと思いますよ。ショートショートは懐の深いジャンルなんです。楽しませていただきました。

 と、私も掲示板を私信に使ってしまいました。すみません。>管理人さま

 




わわっ  投稿者:平谷美樹  投稿日:20071214()123536

  返信・引用

 

 

高井信さま。
身も縮む思いです。ぼくのはショートショートとは似て非なるものでありまして……。
冷や汗が出ます。

管理人様。私信で掲示板使用しましてすみません。
これもまた身も縮む思いです。

 




感想ありがとうございます(2)  投稿者:高井 信  投稿日:20071214()080231

  返信・引用

 

 

「日本は天晴です」は私も気に入っていて、何とかオチに使いたかったのですが、それは叶いませんでした。

 平谷さん。はじめまして。
 ショートショート集『時間よ止まれ』、読みましたよ。

 




感想ありがとうございます  投稿者:平谷美樹  投稿日:20071214()073746

  返信・引用

 

 

ご無沙汰しています。平谷美樹です。
感想ありがとうございました。
ぼくは、自分の病気だろうが自分の死だろうが、面白そうなら何でも題材にしてしまいます(笑)
不治の病なのでかえって鬱々と悩んでも仕方なく、どうせならネタに使ってやれ、と(笑)
恐怖の質については実感をそのまま書きました。
このごろ、異形コレクションにはよくお世話になっています。
しばらく短編が多かったのですが、やっと来年2月頃、2連発で長篇がでます。

体は壊れていても、草鞋を一足にしたので壊れ続けることなく、黒い連中に“喰われずに”すんでいます(笑)

 




「ひとにぎりの異形」  投稿者:管理人  投稿日:20071213()085831

  返信・引用  編集済

 

 

ようやく井上雅彦監修『ひとにぎりの異形』(光文社文庫、07)を入手。早速着手(なお例によってオチを割っている部分があり、気になる方は先に現物をお読み下さい)。

○芦辺拓「シミュラクラの罠」
本格の鬼がSFの王道たる認識論テーマに挑んでいます。
《類像現象》という言葉は知りませんでしたが、私は(3点でなくても)水平に2点が並んでいるだけで顔と認識します。管見では、この「能力」は、社会的存在となった人間が進化論的に獲得した能力であり、「他者の顔」がいかに個人の生存にとって最重要であるかを示すものです。余談ですが、KYというのは端的にこの能力が劣化した存在なのかも(空気を読めないというより顔を読めないという方が近いのでは。プリミティブな社会では淘汰されていたはずです)。
従ってこの能力を《ノイズ》と捉えたQは間違っていたわけです。《類像現象》は人間を人間たらしめる不可欠のプライマリーな必須要素だったのであり、だからこそ彼は死なねばならなかったのではないか。Qの「デラックスな発明」いやさ「悪魔の発明」は、やがて人類社会を滅亡に追い込むことになるんでしょうね。いやー面白かった(^^)
余談ですが、文字をじっと凝視していると、次第に文字から「意味」がほどけおちていく経験は、おそらく著者の体験的事実なんでしょうが、私も何度か経験しています。これはほんとうに恐しい体験でありました。

○眉村卓「危険な人間」
本篇も芦辺作品同様、「変容」した人間を探知する方法を発見した(とおぼしい)男がそれによって行方不明(命を落とした?)になってしまう。
「変容」した人間とは、突如キレテ殺人を犯すといった、「了解不能」な人間のことで、管見ではKYとパラレルな現象であり、人間を社会的存在としてきた要件に変容が起こっているのかもしれません。あるいは社会そのものの変容に原因を求めるべきかもしれません。本篇は前者の立場を取るわけですが、ただそこに芦辺作品のような「論理」は導入されません。
本篇はむしろ著者の融通無碍な文体をたのしみ味わうべき作品だと思います。この文体は、初期の緊密な文体を知る者にはもはや小島信夫や藤枝静男の「変容」にも匹敵するものであるといえます。「彫琢」とは一見正反対なようで実は「彫琢」しつくされた文体であり、一種孤高の高みに達しているように思われます。

○平谷美樹「恐怖のかたち」
余命宣告に等しい診断を受けた小説家の主人公は、しかし意外なほど恐怖を感じない。どうも身近に感じている恐怖とは違うようなのだ。むしろ自分が書いたり読んだり(体験したり)しているフィクショナルな物の怪の方により切実な恐怖を感じる。やがて主人公はその違いが何に起因するものであるのかに気づく……。
この分析は非常に説得力があって面白い。著者自身もお体を悪くされたと聞き及んでいるのですが(どうぞお大事に)、本篇は体験に基づいた一種私小説的ショートショートのように思いました。体験的な確信感が感じられるからです。しかし自分の病気まで素材に供してしまう作家稼業って(汗)

○草上仁「どこかの――」
これぞショートショートの鑑というべき切れ味鋭い1篇。元来(狭義の)ショートショートとはこういう種類のものを指していたのではないか。作者名知らずに読めばその論理オチにフレドリック・ブラウンを想起するのではないでしょうか(いやまあ日本語ネタですが(^^;) 何の解説も不要なベテランの快作です!

○西秋生「チャップリンの幽霊」
本篇は最近著者が書き継いでいる幻の神戸というかもうひとつの神戸を主題にした連作の系列作品です(あれ、コンテンツが消えているぞ)。
これぞ怪奇幻想小説(KGU)のひとつの完成されたカタチといっても過言ではないでしょう。贅言は不要、まさに西秋生節全開の懐かしくもダークな世界を味わっていただきたいと思います。
本篇が気に入った方はこちらもどうぞ→神樂坂隧道

○堀晃「開封」
ショートショートの神さまへのオマージュにみちた巧作! 4行目でシチュエーションに爆笑。
構造的にはウィリアム・バロウズ「おぼえていないときもある」を連想しました。バロウズは1段目の噴射のみで終わらせていて、その分ショートショートとしてのキレは出しやすいわけですが、著者は神さまへのオマージュのためにもう1段の噴射を用意しており、しかもきっちり制御して着地させているのはさすが! リドルストーリーながら、主人公はこの状況は初体験ではないようなので、収束はなされるのでしょう。ただその収束の具体的な描写はなくリドルのまま残されて読者の想像力に預けられます。もちろんこれでいいのです。《吹雪の宇宙船》テーマ(違うか(^^;)の快作。

○かんべむさし「それは確かです」
これはまたオキテ破りの傑作。こんなの書いていいのか>「筒井康隆、豊田有恒。彼らも呼ぼう」(^^;
堀作品同様オマージュ作品で、ただしSF作家就中第1世代へのオマージュとなっています。同時に著者自身の年齢的な感慨も含まれており、本篇もまた平谷作品とは違う意味で一種の私小説的ショートショートといえるものでしょう。読後感のさわやかな(といっていいのかな)好篇でした。

○高井信「さかさま」
著者がこのところ書き続けている日本語テーマのショートショート。SF版「チャイナ橙の謎」です(違います(^^;)
すべてがさかさまになってしまう怪現象が起こり、それが書かれたり語られたりする二字熟語にも波及していく……。「日本は天晴(あっぱれ)です」に大笑い(^^)
このジャンルはある意味(筒井康隆が言っている)映像では表現できない「小説」に残された最後の領域なのかなとも感じました。

○森下一仁「階段」
森下版「シジフォスの神話」でしょうか。山の斜面に標高差1000メートル以上もまっすぐに続く白い階段のイメージがすばらしい。けだしこの若い主人公は、上っていく年配の男の「一度目」に違いありません。わずか5ページに長大な「時間」(おそらく「永遠」)が畳み込まれている。まさにSFの醍醐味ですね。
山尾悠子的な人工的幻想世界構造(ボルヘス的というべきか)を日常的というか自然的な風景に嵌め込んだ作品と言え、この辺がいかにも森下SFらしいところですね。

○深田享「バディ・システム」
ああ、いいですねえ。本篇も森下作品同様、わずか4ページに「時間」が畳み込まれています。老夫婦の現在に一瞬少年少女であった頃が接続される。ここがとてもよい。その接続の位置取りが名人芸なんですよね。この辺は技術というよりも持って生まれたセンスでしょう。センチメンタルな佳篇でした。
著者には近作に或る有名な海外作品の後日譚があり、これが傑作なんです。興味のある方は
こちらにお問い合わせ下さい。

以上、とりあえず駆け足で。

 




Re: 「鬼首峠に棄てた鈴」がベスト  投稿者:管理人  投稿日:20071211()020151

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> No.1070[元記事へ]

臼田さん、ご無沙汰しております。最近はなかなか顔を出せず申し訳ありません。
そうそう、「見かえり峠の落日」なんですよね。以前から臼田さんにおすすめしていただいている本で、(ブックオフでは)探しているんですが、なかなか見つけられずにいます。近所の図書館にも所蔵されていないのです。でも今調べたら大阪府立図書館にはあるようなので、丁度よい機会ですし、近所の図書館で取り寄せしてもらおうと思います(^^)。

ところで畸人郷忘年会、調整中なんですが、年末体制でちょっと難しいかも。1月3日の風の翼新年会には出るつもりですので、そのとき楽しみにしております!

 




「女人講の闇を裂く」読了  投稿者:管理人  投稿日:20071211()014257

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笹沢佐保『木枯し紋次郎(二)女人講の闇を裂く』(光文社時代小説文庫、97)元版71年。

天保8年7月から翌9年5月までの紋次郎の旅程が、100枚前後の中篇5編に収録されています。
どの作品も虚無と諦観にいろどられた悲惨で過酷な物語なのですが、それがいいのですね。薄幸の美学といいましょうか。

出生直後間引かれるはずだったが姉の機転で生き永らえることができた紋次郎は、長じて生まれてきたことが間違いであったとして人生を生き急いで行きます。
あーオレもこんな人生を送りたいものだと、いつも笹沢股旅小説を読むたびにそう思います。もっとも実際にそれが叶ったとしても、紋次郎ならぬ身、あっという間に切り殺されてしまうんでしょうけど……あこがれますなあ(^^;

ちなみに天保8年(1837)は、3月にいわゆる天保の大飢饉に端を発する大塩平八郎の乱があった年で、wikipediaによれば、天保の大飢饉は天保4年に始まり天保10年まで続いたとのこと。
本書でも「土煙に絵馬が舞う」で飢饉が物語の直接の遠因となっていますが、このような過酷な時代に時代設定したことが、紋次郎の物語に濃い影を落としていることは間違いありません。

ところで読中、どんどん既読感が強まってくるので、ひょっとして読んでいるのではないかと古い記録を見たのですが、紋次郎シリーズは93年に『赦免花は散った』を読んでいるけれども、本書の読了記録はありませんでした。
テレビシリーズの記憶が残っている可能性もありますが、やはりこのシリーズ、何を読んでもよく似ているというか、けっきょく同じ物語のバリエーションということなんでしょう。その意味で、たぶんどこかで飽きがくると思うんですが、そこまでは追いつづけたい(ただし急がず間を置きながら。その方が飽きにくいと思うので)。

 




「鬼首峠に棄てた鈴」がベスト  投稿者:臼田惣介  投稿日:20071210()23314

  返信・引用

 

 

久しぶりです。
紋次郎シリーズも面白いのですが、ちょっとウェットな感じがねぇ。どうもTVシリーズの印象が強くていけません。もちろん、シリーズ全作を読んだわけではないのですが。
笹沢左保の股旅物では「見かえり峠の落日」に始まる峠シリーズが秀逸。男はこうでなくちゃいけません。哀しい渡世だけれど虚無と孤愁を友とする男に涙はいらない。
これこそハードボイルドだぜ。暇があったら読んでみてください。

 




「女人講の闇を裂く」着手  投稿者:管理人  投稿日:200712 9()225941

  返信・引用

 

 

笹沢佐保『木枯し紋次郎(二)女人講の闇を裂く』に着手。まずは巻頭の表題作を読みました。
本シリーズの特徴のひとつに、大衆小説そのものというべき素朴な文体で書き継がれてきた股旅小説に、ハードボイルド的な外面描写を導入したことが挙げられると思うのですが、この作品ではかなり踏み込んで主人公の内面を描写していてちょっと異色。渡世に疲れて弱気になった(鬱期なのかも(^^;)紋次郎が好いです。作品としての出来も結構よくて、シリーズでも上等の部類でしょう。
夕方読み終わり、あと続けて読もうと思ったのですが、この作品が思いのほかよかったので、印象が脳に定着するまでちょっと間をおいています。続けて読むと印象が混ざってしまうので。でもそろそろ次作に取りかかるつもり。

 




「メガロポリスの虎」読了  投稿者:管理人  投稿日:200712 9()105418

  返信・引用  編集済

 

 

平井和正『メガロポリスの虎』(角川文庫、75)元版は68年。

近頃は読んでいてもすぐ集中力が途切れて、切れ切れの読書になってしまうのですが、さすがに平井和正、その迫真力で一気に読まされました。処女長篇なんですが、そういうリーダビリティがすでにして本書にはあります。

ただそこはかとなく習作感が漂っているのも事実で、ウルフガイシリーズのような、ストーリーをビシッとつらぬく太くて勁い鋼のような一本線はあまり感じられず、細く短い紐が何本も縒り合わさってなんとかストーリーが終結したという印象。

端的にいえば、作者の思弁がところどころぶれているような感じでしょうか。
具体的には「虎」に仮託されているのは一体なんだったのかという事で、「メガロポリスの虎」とは主人公のことかと思っていたら、そのうちに抑圧的なメガロポリス社会が生み出した一種イドの怪物である食人まで行なう若者の集団のことになっている。

主人公の「闘争」はメガロポリス社会から爪弾かれたからではなくて、いつのまにか単に上司の都合であり、闘争も私怨の域を超えない。それどころか、実は主人公はメガロポリス社会を事実上統べるビッグコンピューターに庇護される立場のものであることが明らかになっていきます。

当初リスクに満ちた宇宙進出を取るか安全なメガロポリス社会を取るかで後者を選択した結果、人類は動物化あわわもといもとい牙を抜かれて家畜化してしまうのですが、そのメガロポリス社会に対して牙ある「虎」として噛み付いたはずの主人公が、実にビッグコンピューター自身による自己否定であった? 一番正しかったのは結局ビッグコンピューターだったのか?

この辺読んでいてビシッと一本通らないもどかしさを感じました。まあ著者の傑作であるウルフガイシリーズにしてからが視線の射程は他の第1世代に比べて短いものであり、逆にその射程の短さが(他の第1世代を遙かに凌駕する)迫真的な小説世界の創造に与っているわけで、小説として一概に否定できません。
結局著者の路線は変わらず、ただ侠雑物が取り除かれ洗練度が加わってウルフガイシリーズに結実したといえましょう。その意味でも習作的な作品であると思いました。

 




「ひとにぎりの異形」  投稿者:管理人  投稿日:200712 8()000512

  返信・引用  編集済

 

 

異形コレクションの最新刊が出たようです。タイトルは『ひとにぎりの異形』で、なんとショートショートアンソロジーらしい。81篇収録されており、ラインナップを見るだけでも壮観の一語。
今回は久々に眉村さんも参加されているのですが、他にも嬉しい作家名が……。こんな具合。


芦辺 拓 シミュラクラの罠
眉村 卓 危険な人間
平谷美樹 恐怖の形
草上 仁 どこかの――
西 秋生 チャップリンの幽霊
堀  晃 開封
かんべむさし それは確かです
高井 信 さかさま
森下一仁 階段
深田 亨 バディ・システム


いやー絢爛豪華です〜。楽しみ楽しみ!!
とりわけ西秋生と深田享の名前が嬉しいですねえ(^^)

さっそく書店に寄ってみました。2軒まわったんですがなかった。田舎の書店には配本されないのかも。大阪市内にはいつ出て行けるか判らないのでネット書店を利用するしかないか。→作品一覧

読書は『メガロポリスの虎』に着手。

 




「老いたる霊長類の星への賛歌」読了  投稿者:管理人  投稿日:200712 6()235945

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「汝が半数染色体の心」(1969)読む。

本篇もまたSF的にとんでもない話ですなあ。
主人公は御者座イプシロン星の第5惑星エスザアに、そこの住民エスザアンが「人類」であるかどうかを検定するという密命をおびて派遣される。「人類」であるかどうかとは、端的に「地球人類」との間に子供を作れるかどうかということなのです。

しかしながら私が思うに、異星人がいかに地球人に似ていようと、別系統の生命発生であればそれは不可能なのではないか。系統的に人間と一番近いチンパンジーとさえ不可能なんですから(ネアンデルタール人とは可能と不可能の両説があるようですが。すなわちホモサピエンス・ネアンデルタレンシスなのかホモ・ネアンデルタレンシスなのかという話)。

で、ここで思い至るのが、作中に出てくる「伝播説」。これは人類の地球外起源説の謂だと思われます。本篇の銀河世界では、というか著者はこの説が通用する世界設定をしているんでしょうか。こうなってくるともはやスペオペの世界ですね。

それでは著者はスペオペを現代に甦らせたのでしょうか。どうやらそうらしい。
エスザアには、エスザアン以外に今ひとつの人類フレニが存在している。タネを割ればフレニはエスザアンの半数染色体体で両性体で、交接して生殖するのだが、生まれてくる子供はその倍体のまますなわちエスザアンとなるのです。エスザアンは従って単性であり、有性生殖ではなく出芽で出産し、その子供はフレニとなる。すなわち無性世代と有性世代が交互に現われる、いうなれば(本篇の定義上の)人類と非人類が交互に現われてくる特異な種族なのです。
まさにスペオペ的種族ですが、なんとなく石原藤夫のハードSFに出てきそうな雰囲気もありますね。

ところで、半数染色体体のほうは、当然(伴染色体がないので)欠陥遺伝子がそのまま発現するため、エスザアンはフレニを劣等とみなしています。上記の設定は一にかかる状況を作り出すための布石だったと私は考えています。
つまり銀河政府が人類・非人類の「区別」を行なうのは、地球人類への別系統の染色体流入を管理するためだったのですが、「区別」される側の異人類からすれば、「非認定」は劣っていることの証明のように取られてしまうわけです。

エスザアンにすればそれはコケンに関わる問題だった(実際には定義上エスザアンは非人類でフレニが人類なんですが)。そこで「劣等部分」であるフレニ世代を、人類であるエスザアンとは別の非人類とみなして、排除しようとした。かかる事態が始まったのは銀河政府との接触が始まってからとおぼしいとされています。結局、地球人類が接触してきたことで、エスザアの悲劇は始まったといえる。

著者が描きたかったのはまさにこのシチュエーションだったと思われます。そのためにスペオペ的設定が採用された。そういえるのではないかと思います。

そうそう、フレニは交合によって急速に老化するので、エスザアンはフレニのそのような特性を逆手にとり、性衝動を促進する音楽を流してフレニを抹殺しようとするのですが、その音楽を無効化するため、主人公は薬缶をガンガン叩き胴間声を張り上げ、無茶苦茶な演奏でフレニを身震いさせ耳をふさがせ、セックスどころではない状況にして彼らを救助する場面があって、これには大笑い。いやあ、SFって本当に面白いですね(^^)
ということで、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『老いたる霊長類の星への賛歌』伊藤典夫・友枝康子訳(ハヤカワ文庫、89)読了。

 




ストレートなティプトリー  投稿者:管理人  投稿日:200712 5()23324

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「エトセトラ、エトセトラ」(1970)

なじみのない名前が説明もなく出てきます。パスマンとかルトロイドとかスペースドッグとか。パスマンはパスファインダーでしょうか。スペースドッグは文字とおり?
内容もヴェガ人とかミルミディの侵略とかが作中人物によって解説抜きで当たり前に語られていたりして、ひとつの設定世界のワンピース感を著者はうまく醸成しています。

例によって想像で補いますと、どんどん拡散して来た人類は、ついに銀河系の果てに達したが、そこで銀河系が周囲を<雲>に蓋われていて(けだし物体Oのようなものか)人類はその外へ出て行けないことが判明する。フロンティアの喪失という状況が人類から活力を奪っていく。もう人類に未来はない。ニヒリズム。そんな話を豪華旅客宇宙船内でアームチェア的に喋りあっている頽廃的な大人たち、俗物たちの背後で、好奇心に満ちた少年が亜空間航行中で何も見えない「筈の」(と決めてかかって大人たちが誰も見ようとしない)スクリーンを覗き込もうとしていた……。冒頭6行目の「何かが起こった」はこれのことでしょう。

これまで遡ってきた後期ティプトリーからは異質な感じがしないでもないストレートな宇宙ものの小品でした。以後は(いやこれから以前は、ですな)こんな作風になっていくのか知らん。

 




ティプトリーの会心作  投稿者:管理人  投稿日:200712 5()201322

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「煙は永遠にたちのぼって」(1974)読む。

本篇は判りにくい。以下は私の解釈です。

主人公は既に死んでいる。というか世界(地球)そのものが滅亡している。理由は、主人公が116pで想像するばかり。また118pではそのどれが原因なのかわからないとしています。あるいは下述の異星人(?)の所業?

人類の死絶えた瓦礫の荒野にぽつんと立つ記念碑がある(120p)。
これはどうやら地球外生物の建造物らしく、これの作用なのか、人間は死んでもなお、いわば魂魄は残っており(108pに伏線)、しかも残存するのは生涯における「苦痛(苦悩)」の部分であるらしい。主人公(の残存精神)はかかる「生涯の苦痛」である4シーンを、〈永遠〉に繰り返し体験している。
記念碑の影響で、どうやらそういう事態になっているらしいのです。
主人公は考えます。「彼の弱々しい組織が働かなくなる(註、死ぬ)。そのときただ、どんな用事があってあのような存在が死んだ彼の燃えがらにやってきたのだろうか(……)使者だろうか(……)探検家か、エンジニアか、それともただの観光客?(……)自分たちの娯楽のためにわれわれの死のショーを楽しんだのではないか?(121p)」

そして異星人たちはそのまま帰ってしまったようです。全てほったらかしにして。
主人公は叫ぶ、「われわれを死なせてくれ!」(121p)

これが本篇のSF的部分。つまり横糸です。この部分は「ソラリス」や「路傍のピクニック(ストーカー)」などと共鳴する本格SFの醍醐味ですね。

で、縦糸の部分を、著者はフェミニズム的観点から編み上げて、主人公の「男」(あるいは制度の桎梏下の男)を観察している。描写されるところの、「自己」というものがない、ただ制度をなぞるだけの主人公が情けなくも哀れ。
研究室内のいろんな(カタい)風景の描写の中に、「女の子の前のあいた研究室着」をそっと忍び込ませるところなど、まったくもう実ににくいではありませんか(114p)。

本篇は本格的SFの骨格にフェミニズム観点からの「男」を肉付けした技巧的な傑作だと思いました。
それにしても原題の Her Smoke Rose Up Forever はなぜ"her"なんでしょう?

 




ティプトリー遡上  投稿者:管理人  投稿日:200712 3()155818

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「一瞬のいのちの味わい」読む。初出1976。
160pの殆ど長篇に近いノヴェラなんですが、メインのアイデア(謎)は、これははっきりいってショートショートのアイデアでしょう。とにかく人類が宇宙に憧れ、いかなる困難を排しても星野に出て行かないではいられないその衝動の根源が明らかにされます。人間は運搬者だった(^^;

かなり強引なんですが、そんな本篇を支えているのはむしろ新天地を求めて同じメンバーで何十年も宇宙船という閉鎖空間に閉じ込められていたクルーたちの「人間ドラマ」にあり、謎の宇宙植物の影響のもと、彼らが何十年も秘めていた内面が次第に顕在化していきます(「輝くもの天より堕ち」にしろ、ティプトリーってSF作家である以上に「小説家」なんですよね。アイデア自体は案外SF的には陳腐です)。

「ヒューストン、ヒューストン……」もそうだったが、アメリカ的ビッグファーザーとそれに臣従する「自由からの逃走」的パーソナリティが著者には耐えられないみたいですね。著者はそれをフェミニズム的な視座から感じているのかもしれませんが、それがある意味アメリカ的グローバリズムと同根であるからでしょう、私のような日本人にも共有できるものです。豊田さんの反コーカシズムもあるいはかなり近いものであるかも。そういう意味で、ティプトリーが日本で人気があるのもよく判るような気がしました(いやまあ世界的に人気があるんでしょうけど)。

 




「モンゴルの残光」読了  投稿者:管理人  投稿日:200712 1()162448

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豊田有恒『モンゴルの残光』(講談社文庫、77) 初出67年早川書房。

ストーリーの骨格は「航時軍団」ですね。ただし(この時間線の)元朝末期で交差する二つの時間線には、「航時軍団」のように彼我に明確な正邪の区別は(当然ながら)ありません。
シグルト・ラルセン(星卜刺)が本来属していた、黄人が白人の上に君臨する世界も、ヴィンス・エヴェレットの属する白人中心的なこの世界の裏返し、鏡面に過ぎず(それは倭人が北米大陸西岸に上陸し「東部劇」を繰り広げてイーストコートに至るという最初に出てくるギャグのようなエピソードに暗示されています)、けっきょく「どっちもどっち」な世界といえる。

そのような両世界の間に戦端が開かれるのだが、実際のところ戦端といっても、その戦いは突き詰めれば、シグルト・ラルセンという一個の人間の内面で〈葛藤〉として戦われているのですよね。この辺が単純な「航時軍団」と違ってソフィスティケートされていて現代的。面白い。

読者によれば、ラルセンの行動に一貫性がないと不満を感じられるかもしれませんが、以上のような次第でそれはお門違いと言えましょう。
ただ作中人物を描くときの筆者の筆がややぎくしゃくしているのは間違いなく、とはいえ現実の人間の行為自体が外在的には唐突で了解不能なものなのであり、例えば光秀謀反がそうで、それでは納得できない外在者が、信長と光秀の間に「金柑頭」を挿入されることで納得できるという構造があります(金柑頭は司馬遼太郎の創作だそうで、その結果読者(外在者)は本能寺を「了解」できるわけです)。
本来小説家は常に「金柑頭」を挿入していくべき行為者の筈なんですが、この著者に限ってはあっけらかんとしてそんな七面倒な手続きは省略してしまいがちですね。その辺はむしろ純文学的態度といえるかも(笑)。

ともあれ著者の構想した元朝世界の緻密さには舌を巻くばかり。よくぞここまで調べ尽くしたというだけでなく、それをバランスよく小説世界内に配置したものだと思いました。しかも本書は著者29歳の、処女長篇だというんですから驚かされます。力作というべきでしょう。

あとがきで著者はこう述べています。
「外見が長髪だとか、アイビー・スタイルであるとか、そんなことではなく、もっと本質的なところで、あたかもコーカソイドの一人であるかのように行動し、アジア人であるという事実につとめて触れまいとする――そんな日本人が増えているようです。この手合いは、コーカソイドの世界戦略に組みこまれ、便利な奴隷として利用されているのに気づいていないのです」(329p)
外見が長髪だとか、アイビー・スタイルであるとかというのはさすがに少し古いですけど(笑)、言われている日本人の「認識的慣性(アプリオリ)」自体は今も全然変わっていませんね。本書が上梓されて丁度40年ですが、この間の日本て一体なんだったのか。ラルセンとは(裏返しの)「日本人」だったのでしょうか。はたして著者の主張は現在でも有効なようです。

 




スズメ  投稿者:管理人  投稿日:200712 1()001045

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そういえば今日はスズメを見たのでした。埋め立て島で、なんと5羽まとまって路上でついばんでいた。目撃数で一挙に追いついてしまいました。
先日の専門家の方のメールに、スズメは年中いるが、繁殖期は散らばっているのに対して冬場は集団になる傾向があるので、この時期は集団にたまたま出会わないと減ったように感じるかも、とあったのだが、そのとおりだったなあ。
感動してしばらく見ていたら、スズメの上をセキレイが2羽飛んでいった。その様子を見ると、駆逐関係みたいなものを想定したのはたしかに空想的に過ぎたかなと思わされました。

 


 

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