ヘリコニア談話室ログ(20081)


「仮面物語」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 130()213643

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山尾悠子『仮面物語 或は鏡の王国の記』(徳間書店 80)

「あなたはだれ」
ラストの、心を失った櫂の言葉に、思わず震えてしまいました。それに至る終末局面の、影盗み・スピンクス・ゴオレム・ドッペルゲンゲル・鉄仮面・自動人形、そして虎――たちが、玻璃の鏡面と石蚤の脱皮した結晶面に映し出される水盤都市に大集結する「大団円」がまた、実にこの著者らしくない、さながら「ハリウッド製のゴシック映画」というべき、凄まじいまでのド派手なシーンの連続で驚かされました。

本篇は、著者にとって、おそらく牧野修における『傀儡后』や、田中啓文における『忘却の船に流れは光』と同じ位置づけをもつ作品なんではないでしょうか。
この両作品は、その著者たちによれば彼らが小説を志した当初、中高生の頃に既にして啓いていたアイデアであり、しかしなかなか作品として結実させるに至らず、プロになってからようやく完成させた作品であるようです。なぜ小説化が遅れたのか、想像するにアイデアが本来簡単に小説化できるものではなかったからに違いない。それが証拠に、この両作品の印象はよく似ていまして、ともに、「不足であり且つ過剰な」ところがあるのです。すなわちまだそのアイデアを十全に表現しえていない。「思い入れ」が強すぎて、客体化がいまだ不十分なところが残ってしまっている。

本篇もまた、私には上記両作品に感じたのと同じような、「不足であり且つ過剰な」印象を受けました。けだし本篇のアイデアもまた、山尾悠子が小説というものを志した当初に啓示されたものであるからだと感じたわけです。やはり「思い入れ」が強すぎて、客体化がいまだ不十分なところが残ってしまっているのですね。

とりわけ第二部に入ってからは、即ち中盤から後半に入るあたりは、著者が幻視した「世界」を一生懸命「説明」しているような記述がつづいてやや単調。著者自身が焦ってしまって、描写するのがまどろっこしくなって説明になってしまっているように思われます。しかしながら小説ですから、説明したからといって読者に著者のイメージが詳細正確に伝わるわけではない。むしろ読者からすれば物語のディーテイルが省かれてしまうので、書き飛ばされているような感じがする。このあたりは「過剰であることで不足」な印象を受けました。

このような「執筆作品との距離」感が近すぎる憾みはあるのですが、個々の場面のイメージはさすがに屹立しており、その独特の「硬質」な幻想世界はたっぷりと味わうことができます。
決して完璧な作品ではありませんが、実に以って山尾悠子らしい、濃密な幻想風景が畳み込まれた逸品でありました。

 





「司政官 全短編」  投稿者:管理人  投稿日:2008 129()234633

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『司政官 全短編』がいよいよ発売となったようです。
昨日まで「在庫切れ」表示だったbk1が、[24時間]になっていました。amazonは未だ「在庫切れ」のままですし、紀伊国屋などリアル書店も未入荷みたいですから、「本日」購入できるのはbk1だけかもしれません。まあたぶん明日には一斉解禁になるとは思いますが(^^;
私はこの日曜日に大阪へ出かける予定ですので、そのとき購入するつもりです。しかし他の人より1分でも早く入手したいというせっかちな眉村ファン、司政官ファンの方は、早速bk1に注文してください(^^)→【bk1  著者あとがき(全文)

なお当掲示板における商用サイトへのリンクは自主的なものです。お買い物によって管理人に手数料等が入ることはありませんことを明記しておきます(^^;

『仮面物語』は半分弱まで。第2部に入ったところ。著者にはめずらしくストーリー性があるので、するすると読めます。全然日本らしくない石造りっぽい都市が舞台なのに、登場人物が善助だとか日本人名で不思議な感じ。で、最初は石川淳「鷹」みたいな方向性かなと思ったんですが、どうも違うみたい。ともあれこれから寝るまでの間専念しようと思います。

 





「恋は飛行船に乗って」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 127()225224

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高齋正『恋は飛行船に乗って』(トクマノベルス 86)

下の投稿でつまらない予感を書いてしまいました。深くお詫びいたします。本書、とても面白かったです(^^)
超飛行船《富嶽》の処女航海の旅は、前作『虚空の戦慄』の後を受けて、本作では香港に到着してから最終目的地フランクフルトに無事たどり着くまでの数日間が描かれています(厳密にはその後パリへレーシングカーで向かいます)。

事件は何も起こりません(笑)。
いや実際には前作同様、妨害工作があったのですが、いともあっさりと(しかも誰も気づかないうちに)解決してしまう。ただその数日間の、飛行船内の描写と停泊する香港やシンガポールでのショッピングや食事、500メートルから1000メートルの低空を飛ぶ飛行船の船内から見下ろす地上の風景が描写されるばかり(全長500メートルの飛行船が500メートルの高さで浮かんでいる絵を想像されたい)。

ある意味、旅情観光小説でありまして、どうやら女性読者をターゲットにしている気配。タイトルの臭さはこれだったのですね。まさに80年代バブル真っ盛りの時代背景で、しかしまだ現在ほど海外旅行が日常的なものとはなってなく、しかしその気になれば誰でも気軽に行ける状況は確立しており、世の若い女性はその種の情報を貪るように読み漁っていた、虎視眈々と出掛けるきっかけを窺っていた、そんな時代性を感じる作品でした。タイトルはまさにそのような層に向いているもので、あるいは編集サイドのアイデアなのかも。少なくとも同人誌的というのとは対極的なベクトルが働いたタイトルのようです。変に勘ぐったりして申し訳ありませんでした。

上記は貶しているのではありませんよ。実のところそれはそれでわたし的に楽しめるものでした。
しかし何といっても本書の白眉は、考えに考え抜かれた飛行船《富嶽》の内部のリアリティゆたかな描写で、このような旅客飛行船が存在するとしたら、接客サービスも含めてまさにこんな風に存在するのであろうなという、ありありとしたリアリティが感じられるところにあると思います。それはもう(500メートルの高さから見る地上の風景はどのようなものかというところまで)本当によく考えられていて、読んでいるあいだは、実際に飛行船に乗船しているような気分にさせられてしまいます。

ですから、つまらない「小説的(フィクショナル)な」筋立てなど不要なのです。それで十分に堪能できる。これはある意味ハードSFを読むのと同じ読み方ですね。
本書は厳密にはハードSFではありませんが、〈リアリズムSF〉とでも名づけたい、いかにもこの著者らしい独特の作風が(おっとりと上品なところも含めて)楽しめる佳品でした。
この<旅客飛行船シリーズ>は、あと『カリブの天使』という第3部があるらしいので、見つけて読みたいと思います。

このあとは山尾悠子『仮面物語』に着手の予定。

 





大蔵ざらえ継続中  投稿者:管理人  投稿日:2008 127()125851

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高齋正『恋は飛行船に乗って』(トクマノベルス 86)に着手。
《旅客飛行船シリーズ》の第2作です。この世界には存在しなかった(ありえたかもしれない)空の超高級ホテル、全長500メートルの超ジャンボ硬式飛行船をリアリスティックに存在せしめた第1作『虚空の戦慄』は迫真の傑作でした(といっても多元宇宙ものではありませんよ)。
その続編に取りかからなかったのは、ナイーブ過ぎるタイトルがどうも気に入らなかったから。『春はタイムマシンに乗って』(殿谷みな子)なんかもそうで、横光の元題がそもそもインパクトが強く、下敷きにしたい気持ちは判らないではないのですが、それは同人誌レベルの発想だろう。いわゆる「ベタ」「付きすぎ」なんです。
実際私自身中学のときに似たようなタイトルを考えており(汗)、おそらく同人誌あたりには無数の横光もどきが見つかるに違いありません。
すれた(執筆作品に距離を計れる)プロはそんな落とし穴は避けて通るはずなので、こういうタイトルで堂々と発表された作品には、タイトル同様作者と作品が「付きすぎ」な予感が働いてしまって中身に一抹の不安を感じてしまうんですよね。

などと読みもしないで愚痴っていても仕方がないですね。とにかく読んでみます。

見つけた珍しい映像

 





「不確定世界の探偵物語」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 125()19422

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鏡明『不確定世界の探偵物語』(トクマノベルス 84)

本篇は〈ワンダーマシン〉と名づけられた〈タイムマシン〉が大きな役割を果たすのですが、私の理解が正しければ、これはいわゆる〈タイムマシン〉とは別種の装置です。
この装置が行なうのは、都度々々無限に分岐生成していく「多世界宇宙」の、夫々の〈時間帯〉(本篇では〈時間帯〉と表現されているが、一般的なSF用語に戻せば〈時間線〉のことでしょう)を任意に結び合わせたりシャッフルしたりすることなんです。

ではなぜそんなことをするのか。そうすることにどのような利益があるのでしょうか。
この世界Aを基軸時間線とみなしましょう。このAに対して並行する無数の時間線があります。そのような無数の時間線においては、世界Aでは発達しなかった技術や生まれなかった発明が「必ずどこかの時間線において」発達したり生まれたりしているわけです。そのようなA世界に本来なかったものを、この装置を使えばA世界にもたらすことができるわけです。

すなわち「へびつかい座ホットライン」「バビロニア・ウェーブ」と同様の効果を多元宇宙の構造に求めたものであるといえるでしょう。
このアイデアはたしかに秀逸です(あるいはもっと主体的に、過去に働きかけ、任意の時間線を分岐発生させ、その世界が育んだ成果を「刈り取る」ようなこともできるようです)。

ただワンダーマシンは各時間線に1台しか存在できないとか、直近の70年は変化させられないといった制約があるのですが、その根拠がまったく示されず、その結果物語がまったく恣意的なものとなってしまっています。
仮令ワンダーマシンが1台しか存在できないという設定を認めたとしても、時間線における各瞬間瞬間の無数の「現在」にワンダーマシンは無限に存在している筈で、B時点においてワンダーマシンが行なった改変を、C時点のワンダーマシンが無化してしまうことも可能性として考えられます。あるいは各時間線に1台ずつあるワンダーマシンが互いに改変しあうという事態も考えられます。そういう矛盾や背理はまったく考慮されていないようです。

その結果は不確定世界というより杜撰な小説世界となってしまっており、物語自体も杜撰極まりないエピソードの羅列に終始してしまっているわけです。これは作家としての著者の小説に対する(舐めているとしか思えない)姿勢の安易さの反映といえる。たとえば第7話で副主人公の女性が敵と格闘中、主人公が敵から奪ったレーザー銃で敵を撃ったら、「チョークが開放になっていて」(絞りが甘く設定されていて)レーザー光が円錐状に拡がり、敵だけでなく副主人公も焼き殺してしまったという重要なシーンがあるのですが、主人公の手に渡るまで、その銃で敵は「一人一人」確実に殺していたのですから、あまりにも安易、ご都合主義という他ありません。

折角のアイデアがつまらないSF作家の脳に降臨したため、アイデアが十全に展開されることなく終わってしまったまことにもったいない小説でした。

 





ややっ!  投稿者:管理人  投稿日:2008 124()200616

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一番書きたかったことを書き落としてしまいました。何をやっているんだか。

『発明皇帝の遺産』なんですが、一晩寝たら少し考えが変わっていました。
本篇は主人公がSF評論家のライターで、作中人物にクラークやブラッドベリを薦めたりするにせよ、UFOが飛んでくるわけでも、原爆を無化する兵器が登場するわけでもなく、よく考えたらそういう超越的(SF的)な現象は何も起こっていないわけです。つまりまったくの「普通小説」なんです。いわば泰山鳴動してもネズミ一匹出てこない(テスラの残したペーパーといっても信者が発表できるような、発表しても何も身に危険が及ぶものではないようですし)。
ひょっとして作者は、「そして何も起こらなかった」物語を書いたのかも。つまり「反物語」を(あるいは反SFを)。
うーむ、それではまるでディッシュではありませんか。
天下の大エンタテインメント文庫で、一介の新進作家がそんな大それた無謀なことをするでしょうか? いやいや、それは読み過ぎですよね(^^;。いかに出自がNW系でもそんなことしたら折角もらったチャンスをみすみす潰してしまうことになりますがな。
しかし――ノンポシェットにその後著者の作品が入ることはなかったんだよなあ、ということは……うーん。

 





寒い  投稿者:管理人  投稿日:2008 124()18465

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数年ぶりに(10年ぶりくらいか)タイツをはいてしまいました。もう手放せない(^^;
しかしこの冬は近年で最も寒い冬なんでしょうか? そんな話は聞きませんよね。
とすれば、私の体のほうが寒さに弱く劣化したということになるのですが……まあそうかも(噫

鏡明『不確定世界の探偵小説』(トクマノベルス 84)に着手。
実は以前に一度着手しており、そのときは途中で抛りだしています。昨年文庫化され、ネットでは好評らしい。ふーん、そうなのか? とまた手に取ってみました。
まだ30pなので良いも悪いもない(設定も把握できていない)のですが、ハードボイルドを踏襲した一人称文体がどうもね、ベタッと寝ていて全然立ってこないのです。もちろんチャンドラーのように立ちまくった文章を期待しているわけではないんですけどね。これは小説の描写ではないような気が……。
とにかく読み進めてみます。

 





「発明皇帝の遺産」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 123()195659

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新戸雅章『発明皇帝の遺産』(ノン・ポシェット 90)

かつて〈NW-SF〉誌や〈SFの本〉誌で論陣を張っていた著者のエンタテインメント小説です(デビュー作かも)。面白い。評論家の小説とは思えない面白さ。

〈発明皇帝〉とは〈発明王〉エジソンの終生のライバルであったニコラ・テスラのこと。そのライバルぶりは、「エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となるも、双方これを拒否。互いが相手との同時受賞を嫌ったため」とwikipediaにあるほど。

さてその〈発明皇帝〉の死後、部屋の金庫が荒らされていることが判明します。この異常な事態に、巷間では金庫にあったはずの「数トンに及ぶとされる彼の発明品・設計図は「アメリカ軍とFBIが没収した」「ユーゴスラビアを通じてソ連の手にも渡った」と噂され、半ば伝説のように流布した」(wikipedia)らしい。

そういうスパイ映画さながらの「事実」を踏まえて、なぜそのような荒っぽいことが行なわれたのか。それはきっととてつもないアイデア、たとえば原爆を無効化するような、そんな「遺産」が秘匿されていたからに違いない、という「妄想」から、本篇は紡がれています。

これに、三島由紀夫や星新一も参加していた空飛ぶ円盤の会の〈コンタクト派〉と〈科学派〉のセクト抗争が絡んで、出だしから中盤にかけて、ストーリーはトップギアで進んでいきます。
この辺はまるで半村良の軽SFを彷彿とさせるところがあります。とりわけ会話の言い回しは半村そのもの。似すぎています。穿った見方ですが、元来NW系の理論派の著者ですから、おそらくエンターテインメント小説を書くにあたって、半村良を「下敷き」に使ったのでしょう。その痕跡が図らずも会話文に消え残ってしまったのではないでしょうか。
そういう意味では評論家の小説らしい小説といえるかも知れません。

半分強読んだ段階で、以上のような感想を持ちました。まさに掴みはオッケー。後半に期待を持たせられました。あとは「転」「結」で爆発させることができるか、はたまた尻すぼみに終わるかどうか。そういえば半村良も前半はとんでもなく面白いのに、後半でよく失速していたよな(例えば「不可触領域」は典型ですね)と思い出し、ちょっと不吉な予感が頭をよぎったのでした。

で、結果は――

爆発しなかった。
面白かったのは面白かったんですよ。ただその面白さはSFのそれではなかったということ。エンタテインメント小説としては最後まで読者の興味を引っ張っていく力があったと思います。ただ私はSF読みなので、このような魅力的な素材を使うからには、最後はセンス・オブ・ワンダーを爆発させてほしかった。

なぜ爆発しなかったのか。「発明皇帝の遺産」そのものの「ハッタリ」が決定的に不足していたからに他なりません。泰山のネズミ(?)と申しましょうか、結局「遺産」とはなんだったのか? 単にテスラ信者がその研究に資料として利用し、発表「できる」程度のものでしかなかったのではないか。そんな程度の「遺産」では爆発するどころか、線香花火くらいの価値しかありませんわな。それどころか、この結末のショボさ自体が、本篇の小説としてのリアリティを無化してしまうのです。

著者はここにおいてこそ、トンでもない大法螺を噛まさなければならなかったのに、「評論家」的な理性が働いてしまったようです(著者は日本におけるテスラ研究の第一人者らしい)。
とても面白かったのですが、最後の最後で梯子を外されてしまったような気分になってしまいました。

 





聖武天皇  投稿者:管理人  投稿日:2008 121()220927

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和人農民はなぜ蝦夷の土地に入植して行ったのか。豊田さんが言うように、良田百万町歩の宣伝と三世一身の法という甘い蜜に惹かれたのはそのとおりだとして(もちろん強制移住もあった)、ではなぜ国家はそのようにしてまで蝦夷の地を欲したのか。
初期においては、白村江等半島戦役の戦費(と兵士としての蝦夷)を新領土から調達しようとしたことは間違いないのですが、豊田さんもちょっと触れていますが、というかそれに触発されたんですが、「古代の東北経営は、仏法興隆と呼応して進められた」(123p)面があり、聖武天皇の仏教国家としての王化政策の一環でもあった。そういう視点に気づかされまして、いま聖武天皇に俄然興味がわいてきているところです。いろいろ調べてみたい。

読書は、新戸雅章『発明皇帝の遺産』(ノンポシェット 90)に着手しました。

 





「雪原のフロンティア」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 120()224016

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豊田有恒『雪原のフロンティア』(トクマノベルス 83)

いやー面白かった。
堅苦しい都の風に合わず官を辞して陸奥に流れ着き、前作では敵ながらアテルイに見込まれ、信頼のしるしにキムンカムイ(ツキノワグマ)の首飾りを授けられた大野雄麻呂でしたが、その後本篇では、衣川の柵を越えて、祖父である大将軍大野東人が整備した雄勝城(大曲)へ至る道路を通過して、秋田城へと気ままな(といっても蝦夷の乱真っ最中の敵地まっただなかの)旅をつづけている(城といっても日本風の城を想像しないように)。そして秋田城近くの海岸にて、偶然漂着し蝦夷の襲撃を受けていた渤海使の船より大使の姪、呂銀英を救出します。
秋田城に至った雄麻呂と銀英は、救助を求めて先に秋田城に向かった大使を、蝦夷の蜂起におそれをなしていた鎮狄将軍藤原仲成が、逃げ帰る口実に裸同然で船に押し込めて出発したあとでした。
本篇はその銀英と、残されていた帝への献上品(これが何と世にも珍しいジャイアントパンダの毛皮(^^;)を、雄麻呂と、秋田城や秋田外城(八郎潟東岸)、能代営で意気投合した仲間たちとともに、京の都へ送り届けることになります。日本海の海岸部を南下するのが早いのですが、蝦夷が押さえています。そこで一行は、雄麻呂がやってきた東人将軍が築いた道路を通って太平洋側の多賀城へ向かう。一行を追って蝦夷の軍勢が執念深く追撃してきます。仲間が一人、二人と命を落としていく……

という筋立てなんですが、こんなジョン・ウェインの西部劇、ありませんでしたっけ。

本筋にはあまり関係ないが、現黒川油田のあたりで井戸から油を汲み上げて暖房している爺さんのエピソードが挿入されていまして、しばし妄想に耽ってしまいました。

もし平安時代に油田が開発されていたとします。石油は京都に持ち込まれ、京都に一大石油文明が開化していたら……公害にまみれた19世紀末的頽廃的なスチームパンク的平安京! 一方、供給地である秋田には、黄金で栄える平泉にまさるとも劣らぬクウェートのような石油立国都市が栄華をきわめている……。さしずめ本篇に出てくる能代営の安倍一族のような商人が、石油を京に運んで富豪化しています……。

妄想はそれくらいにして、能代営の商人にして雄麻呂一行に加わった引田の諸男(阿倍比羅夫の一族に引田姓がある)がなかなか面白い設定でした。奥州安倍氏と安倍比羅夫一族との関係はどうなっているのか勉強不足なんですが、(十三湊の安東氏も含めて)このような商人が環日本海貿易を担っており、本篇にあるように渤海は日本と修交する一方で、蝦夷とも交易していたに違いない。渡島のアイヌを干鮭流通体制に組み込んで文化変容させもしたわけです。

うーむ、古代の奥羽津軽は面白いなあ。この事件の功績で一旦京の右衛門府に復官した雄麻呂ですが、すぐに耐えられなくなり、田村麻呂副将軍を頼って、渤海馬を駆って北へ向かうところで本篇は終わっています。そして現在のところ続編はないようです。ああ続編読みたいなあ。

余談ですが受験知識の三世一身の法の意義やそれが20年で墾田永代私有令に代った理由を、今回はじめて本当に理解できました(>遅すぎる)(^^;

 





「帰らざる河」  投稿者:管理人  投稿日:2008 119()231814

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豊田有恒『雪原のフロンティア』(トクマノベルス 83)に着手。
『荒野のフロンティア』につづく〈陸奥の対決〉第2部。このシリーズは蝦夷と和人の関係をアメリカインディアンと白人開拓者の関係に引き寄せて描いています。アテルイはさながらジェロニモであるわけです。
主人公大野雄麻呂(陸奥按察使兼鎮守将軍大野東人の孫)が騎乗するのは渤海商人から買い求めた渤海馬で、蝦夷たちは(渤海馬よりは劣るがそれでも素晴らしい)蝦夷馬に乗っているとあります。案ずるに蝦夷馬を関東馬と渤海馬の掛け合わせとせず、蝦夷独自の(北経由の)馬と設定しているようです(北米インディアンの馬はもともと白人の持ち込んだ馬ですが)。
面白くなりそうです。

ところで西部開拓といえば、先日平谷さんの書き込みにオオヤマクイ神が「山の中に杭を打って領地を示す神」とありましたが、これって映画「帰らざる河」に描かれていたように、白人開拓者がインディアンの土地を杭で囲って行ったのを髣髴とさせますね。
ひょっとしてオオヤマクイは山の神は山の神でも、新来の山の神で、土地を杭で囲って旧来の山の神を排除していった神様なのではないでしょうか。もしそうだとしたら、オオヤマクイを秦氏が祭祀するのはとても納得できます。

 





「はじまりの骨の物語」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 118()232513

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五代ゆう『はじまりの骨の物語』(富士見ファンタジア文庫 93)

面白かったです。
著者は異形コレクションにちょくちょく短篇を発表しており、それがなかなか私好みな作風で、異形の中では優先順位の高い作家です。本書はそんな著者のデビュー作。異形作品とは違って、北欧神話をベースにしたガチガチのハイ・ファンタジーでした。ハイ・ファンタジー、とりわけ和製ハイ・ファンタジーは殆ど読んだことがないのですが、そんな私でも本書はじゅうぶんに楽しめました。

編集部解説によると、本篇は富士見ファンタジア長編小説大賞受賞作とのこと。つまり投稿作品なのです。しかも受賞当時の著者は大学生だったらしい。
うーむ。20歳そこそこでこの長篇を完成させたのはすごい。これだけの枚数を遅滞させず読ませる筆力は大したものです。物語に勢いがある。

想像するに、著者は執筆中、どんどん物語が湧き上がってきたのではないでしょうか。それが迸奔り、飛び散ってしまう前に、必死になって拾い集め原稿用紙に(ワープロか)描きとめたのではないか。おそらく噴出する物語とペン(キイタッチ?)との競争状態だったに違いない。そんな感じがひしひしと伝わってくるのです。事前の構想はそれなりにあったのでしょうが、書き継いでいるうちにどんどん物語が「おのずから」膨らんでいった気配があります。だからこそ物語に「勢い」があるのだと思います。

その一方で、私は本篇について、「とにかく勢いで押し切ってしまった作品」であるとも感じました。仔細に読むと、存外「人間は書けていないし、リアリティーもない、細かいところの整合性もおかしなところが多々ある」という今回の直木賞の選評がぴったり当て嵌まってしまうのが可笑しい。

たとえば、起承転結の連結性はかなり弱い。本篇は連続するシーンといいますか、ある場面と、それに直接する次の場面は繋がっているのですが、視点を後退させて全体を眺めてみると、いろいろ矛盾や了解できないところが見えてくる。全体としての整合性の欠如は、勢いにまかせて書くとき、得てして起こることです。

人間が描けていないというのはちょっと違うかも。大体〈始原の物語〉すなわち神話的物語なんだから別に人間が描かれてなくてもいいのです。そうではなくてむしろ「神話的物語であるにもかかわらず、作中人物の行動パターンが20歳そこそこの女性が観念的に理解している《人間》でしかない」のですね。それを私のようなトウの立った男が読むと、リアリティが感じられないということになるわけです。少女漫画的な世界観がベースにあるというべきか(レーベル的に仕方なく合わせているのかも知れませんが)。

そういう点、やはり若書きの印象は免れ得ません。勢いだけで書き切った作品ですね。ただ勢いで読ませてしまうのも筆力のうちではあります。本篇から既に15年経過しており、15歳年齢を重ねた著者のハイ・ファンタジーは当然進化しているはず。どのように進化しているのか、ちょっと興味があります。

 





手の乳と卵  投稿者:管理人  投稿日:2008 116()233748

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> No.1129[元記事へ]

平谷さん

秦氏といえば渡来系ですよね。山の神とも繋がっているのですか。知りませんでした。どっちかというと土木工事に強い開発開墾系という印象で山の神と喧嘩していそうなんですが(^^;
技術集団としてはバラバラに広い技術を持っているようですが、開発→水田→米→酒ということで、一応繋がっているんですね。

>相談
お役に立つのであれば喜んで。


芥川賞が決まったらしい。
別に興味もないのですが、「乳と卵」(ちちとらん)ですか。
うーん、ちょっとタイトルが不満。

おれだったら、絶対(無理してでも)「手の乳と卵」にするな(爆)

 





Re: 検祇所別当  投稿者:平谷美樹  投稿日:2008 116()225111

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> No.1128[元記事へ]

比叡山にはオオヤマクイという神様がいまして、元々秦氏の神様だったようなんですが、「山の中に杭を打って領地を示す神」だそうで山の神の性質を持つ神です。
そして、山の神は春には田の神になって里に下りてきます。
オオヤマクイは「松尾さま」として酒蔵に祀られています。
秦氏も酒造りに関与していたようなので、日本の米を使った酒造りは彼らが始祖なんでしょうね。
先日、酒蔵の取材をして知りました。

信長の死にはいろいろと面白い謎が多いので、「その日」の他の武将たちの動きを調べながら色々と妄想しています。
やはり管理人さんの仰る通り「情報網」が大きな鍵になりそうです。
妄想がまとまりましたら相談させてください。

 





検祇所別当  投稿者:管理人  投稿日:2008 116()215414

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平谷さん

広島に淡島神社がある平行世界の話としておけばいいのでは(笑)
昔、平井和正さんがマグナムライフルの口径を、間違って現実にはないサイズで記述し、読者からチェックされたことがあった。そのとき平井さん慌てず騒がず、平然として「この小説世界の宇宙には存在するのだ、ばかもの」とのたまわれた――そんな記憶が微かに残っているのですが、例によって老年性偽記憶かもしれません(^^;

>「聖天神社怪異縁起」はシリーズだったのですが、色々な事情で休止中です
それは残念。まつろわぬものの立場からお書きになっているので、その筋――検祇所でしたっけ――から光文社に圧力がかかったのでは?
でもシリーズとしては、もう1冊『壺空』という長篇小説があるんですよね。見つけたら読んでみたいと思います。

>現在歴史推理モノを書いています
そうそう、今回読みながら、平谷さんにはまだ、はっきりとミステリジャンルのがないんだよな、と考えていたところでした。怪奇実話ならぬホラー小説は(嗜好的に)客層が偏っていて案外市場は(SFよりも)小さいのではないでしょうか。やはりミステリの土俵に立たないと一般の読者に認知してもらえないのかも。その意味でミステリは大賛成です(先日時代小説をリクエストしたのも同じ意味で、なんですが)。
三津田信三氏なんか本質はホラーだと思うんですがミステリの土俵にいるので(ミステリの形式で書くので)固定ファンを確立して流行作家になっちゃいましたもんね。

>「本能寺」
うーむ。光秀は土岐氏といいますが実際は判りません。美濃飛騨の山の民との関係も想像されます。それにしては情報収集力が秀吉に比べて弱かったですね。
むしろ秀吉は幼名の日吉丸が比叡山の日吉(ひえ)神社との関係を疑わせます(長尾誠夫の説)。しかも日吉神社は、今wikipediaをみたら、猿が使神だそうで(^^;。その強力な情報網といい、山の民は秀吉の方に太いパイプがありそうな感じですね。
ともあれ本能寺をどう料理されるのか、楽しみにしております!

五代ゆう『はじまりの骨の物語』に着手しました。

 





Re: 「呪海」読了  投稿者:平谷美樹  投稿日:2008 116()173143

  返信・引用

 

 

> No.1126[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

あわわ…。

>(註)蓋し和歌山の誤記か。もしくは並行世界なのかも。

チェック漏れだったようです。増刷があるときには直します。
ご指摘ありがとうございます。

拙著への感想、ありがとうございます。
「聖天神社怪異縁起」はシリーズだったのですが、色々な事情で休止中です。
続きを書きたいんですけどね……。
そういう思いも込めながら、現在歴史推理モノを書いています。どっちかというと伝奇モノに近いのかな……。
正史の断片を切り張りしていると、思いもかけないモノが姿を現して、とても面白いです。科学理論の断片を切り張りしてネタを作るのに似ています。

今、興味があるのは「本能寺」。色々と正史を切り張りして妄想を広げつつあります(笑)

 





「呪海」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 116()020832

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平谷美樹『呪海 聖天神社怪異縁起』(カッパノベルス 02)

しまった。読む本をミスった。昼休みにちょっと読み始めたら全然とまらなくなって、午後は仕事にならなかったではないか。
ということで、読了してしまいました(^^;
傑作です!

専ら超自然現象を扱っているのでホラーなんでしょうが、手続きの仕方はSFですから、70年代ならば十分SFで通用したに違いありません。ラストでは著者独壇場の「めくるめく」眩惑感に揺られて船酔い(?)すること間違いなし。1500万年から2500万年前と繋がり、切れて、ブナの珪化木の根元で結跏趺坐した人骨が真言を唱えます……(何ノコッチャ(^^;)

岩手県下津町神嶋地区(旧神嶋村)に、広島の淡島神社(註)と並んで人形神社として有名な神嶋神社がある。神社が面する湾には神社のご神体である無人島、神嶌があり、年に二回、大祓いの儀式として全国から送られてきた人形が供養され舟に乗せられて島に向かって浜から流される。舟は島の手前あたりで沈むように穴が開けられており、島の周囲の海底は人形で埋め尽くされている(ちょっと潤色)。もちろん人形供養ではない大祓の儀式は全国の神社で行なわれているわけで、全国でこのとき穢れが(象徴的にであれ)川に流され海に流れ込む。そうして穢れは海で浄化される、というか希釈され拡散するわけです。

ところで日本列島を取り巻いて流れる海流は、実は三陸沖で集合しているのです。だから豊富な漁場であるわけですが、それはとりもなおさず、海に流された日本中の穢レもまた、海流に乗って集合する場所でもある。即ち拡散したはずの穢れは湾に至って再び濃縮されてしまう。
さて、全国の穢レが流れ込む湾の海底は人形で埋め尽くされている。当然カタチのない穢レはヒトガタに吸い込まれてしまいます。そしてヒトガタに宿った穢れは式神として用いることが可能となるわけで、実はこの地方を支配していたもともとは蝦夷である安東水軍の一族が、征服者である和人に反抗する際の秘密兵器としてこういう仕掛けを編み出していたのです!
でも、それを用いることなく明治の世が来る。このシステム自体が無意味化していることに気づいた時の宮司が、このシステムに引導を渡そうとしたとき、悲劇の幕が切って落とされるのであった……

というのが本篇の設定というか横糸です。
いやー凄い凄い!まことに壮大な構想のSFホラースペクタクルであり、しかもノンストップムービーそこのけの臨場感というわけで、最後まで読み切るまで目を離すことができませんでした。
著者はあとがきで「始めに物語が在る。そこから小説に仕上げていく」と書いています。物語自身がジャンルを選択するという意味だと思います。それは本書を読むとよく判ります。しかし、とはいっても本篇は、ジャンルホラー作家には(たとえキングでも)逆立ちしても書けないものであるように私には思えるのです。つまりそれが上記の設定の存在なんですが、この理屈っぽさというのか整合性への志向性こそ他ならぬSF作家のそれなのであり、やはり本篇はSF作家の書いたホラーという他ない――と思ったら、ちゃんとあとがきにそう書かれていますね。失礼しました(^^ゞ

(註)蓋し和歌山の誤記か。もしくは並行世界なのかも。

 





「タイムスリップ・コンビナート」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 114()115457

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笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』(文芸春秋 94)

笙野頼子は倉阪鬼一郎に似ていると思う。それは何を読んでも作中人物が著者でしかないところで、両者とも《内的》私小説である以上それは当然なのだが、その行動のパターンがとてもよく似ているように感じるのです。

たとえば表題作で海芝浦という駅を訪れるために主人公は鶴見駅までやって来ている。件の駅へ向かう鶴見線の電車は2時間待たなければ発車しない。そこで今日はあきらめて帰ろう「と思っている内に、うっかりと鶴見線の自動改札に切符を持って入ってしま」うのです。で、主人公は「ホームに立ち、自分のした馬鹿げた行いについて、出来るだけ考えないようにあちこちを眺め」たりしている。いま書き写しているときはもはやそんなにではなかったのだが、初読時は思わず吹き出してしまうとともに、(端的にはこのシーンで)ああ倉阪に似ているなあと感じたわけです。本人は真剣なのに結果としてユーモラスな行動パターンになってしまうあたりに同質性を感じた次第。この両者、ドタバタホラーと幻想小説というふうにジャンルは異なりますが、やっていることは同じなのかも。いわば悲惨な笑劇。……

表題作は、ホームの片面が海で出口は一箇所しかなくしかもそれは東芝の工場敷地に接続しており東芝の社員しか通れないという「海芝浦」という駅の設定(現実に存在するらしい)が秀逸で、このアイデアだけで既に作品としての成功は約束されており、文学賞を授賞したというのも頷けるのですが、かかる「海芝浦」へと電車に乗って出かけるその道すがら車窓に見えるのはいわゆる(かつての)京浜工業地帯なのです。

主人公は京浜工業地帯の最深部へと踏み込んでいく。車窓に見える工場群は、次第に主人公を、彼女が生まれた四日市市、すなわち中京工業地帯の最深奥というべきフードリ(煙突)の林立する往時のコンビナートの街の記憶へと誘います。
彼女は海芝浦にある東芝に彼女の母親が一時勤めていたことを想い出しますし、途中で立ち寄った沖縄会館では彼女の父親の仕事が沖縄の駐留軍と関係があり、よく沖縄へ出張していたこと(当時はアメリカへ出張していたと思っていた)も想い出すという具合に、すべてが不思議な暗合を以って繋がっていき、現時の横浜鶴見と往時の四日市が彼女の意識の中でダブルイメージとなって内宇宙世界に現前していく……。

この間、主人公は半醒半睡の状態に設定されており、そのような状態のなか現在の芝浦と往時の四日市が彼女の意識の中で融合していくのですが、この手法はダリのパラノイアック・クリティックと同じですね。
「下落合の向こう」の、「一見普通に走っている電車を一瞬見て一瞬目を逸らし、またもう一度見る。電車の速度に負けぬように素早くである。すると、特に電車の外見がふっと消え後に人肉で出来た蛇のような塊が疾走しているのを見る事が出来る」という描写はまさにこの手法です。

本篇は短篇小説としてよく纏まっており、電車の車中に乗り合わせた今どきの女子高生の小鳥のさえずりのような言葉がまったく識別できないという批評的な部分もありますが、あまり著者の内宇宙との対応関係はなく、怪奇幻想譚として楽しめる作品で、SFマガジンもたまにはこのような作品を掲載していいのではないか(昔は載ったぞ)、とそんな風に感じる佳篇でした。

「シビレル夢ノ水」は圧倒的な傑作で、体中が痒くなって仕方がありませんでした。本篇では上記2篇のような、ダリ的な意識的な幻想の描出感は殆どなく、どこまでも現実が描写されているようで、いつの間に幻想的世界(妄想的世界)に入り込んでいるのかその継ぎ目をまったく読者に覚らせない。その分作品世界(内宇宙)に間然たるところのまったくないリアリティがあって一気に没入させられました。本集では最も完成された作品だと思いました。まあ著者のその後の仕事を見ると、結局こういう完成への志向はあまりなかったようですが。

 





アポロ11SF作家は書くことがなくなりましたねと言われたことを思い出した  投稿者:管理人  投稿日:2008 113()203046

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紀伊国屋で「絶版文庫復刊フェア」というのをやっているらしい。http://www.kinokuniya.co.jp/04f/d05/bunko/index.html

で、リンク先リストによれば『デリラと宇宙野郎たち(未来史シリーズ)』も復刊されたようです。それは結構なことなのですが、この本に対して仙台店・萩原正之さんが、
>今となっては古めかしい部分もあるのは否めないが、SFの原初的なおおらかさと魅力にあふれた屈指の名シリーズと考える。
とコメントなさっています。

「屈指の名シリーズ」というのはそのとおりだと思います。しかし「今となっては古めかしい部分もあるのは否めない」というのは、具体的にどの部分なんでしょうか?
一体にこの文脈はその「古めかしい」部分をマイナスに評価し、「にもかかわらず(差し引いても)」屈指の名シリーズであるという構成になっているわけです。

私自身はこれほどリアリティ(≠リアル)に溢れたSFは少ないと思います。そしてすべての要素が十全に機能した(何も引くことも足すこともできない)完璧な構成美を持ったSFだと感じます。萩原正之さんがどの部分を「古めかしい」として「差し引こう」と考えておられるのか判りませんが、どの部分をいかに「現代的」に改めても、このシリーズ作品の構成美は失われてしまうでしょう。

萩原正之さんに限らず、ときおりネットで任意のSF作品に対して「古めかしい」という類いの言説を見かけることがあります。私は思うのですが、たとえば火星に運河があり滅びゆく火星人がひっそりと暮らしているようなSF(「火星年代記」ですね)は、現代では読むに耐えない古めかしいものなんでしょうか。
これがミクシイならば、けっSFが判ってねえなあ、と毒づくところ、もちろんここではそんな暴言は吐きませんけど、少なくとも見当はずれな言いがかりはやめてほしいと思ったのでした。

『タイムスリップ・コンビナート』に着手しました。

 





「血ぬられた光源氏」  投稿者:管理人  投稿日:2008 113()09599

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藤本泉『血ぬられた光源氏』(廣済堂文庫 85)初出は潮出版社ゼロ・ブックス 76。

既述のとおり本書は「源氏物語を紫式部が書いたはずがない。どころか女性の書いたものでもない」という著者年来の王朝古典研究の成果を横糸に持つものです。がしかし、それは小説の重要な要素ではあっても、そのものずばりを追及した研究書ではありませんから、そっちの知識としての興味は存外満足させてはくれませんでした(小説なんだから当然です)。
それでも、「上皇中宮の実名を使って、その内裏女房紫式部は、姦通小説を書き得ない」とか、「平安時代あれほど多くの女流を輩出したにもかかわらず、その後、南北朝以後20世紀の初めまで700年近く、日本に紫女のような女流が現われていないのは不自然」といった著者の主張はなかなか刺激的で、これはやはり、著者の『源氏物語99の謎』などを読まなければならないと思いました。

さて本書は著者あとがきにもあるように、ある意味「源氏物語のパロディ」であるわけです。いわば「もし光源氏が現代に生きていたら」という思考実験なのです。
もし現代に光源氏がいたら――あの絢爛華麗な王朝的恋愛世界が現代に現出したのでしょうか。
とんでもない。その結果は陰惨きわまる血ぬられた連続殺人をもたらすのです。

光源氏に対してはつとに、たとえばここでは「光源氏には、皇子がそのまま権力を握ったような側面があり、聡明さとやさしさはあるがわがままといえばすこぶるわがままである。そのわがままさに焦点を当てれば、非道徳でもあり非常識でもある。まさに自由奔放な人・・・・それが光源氏である」と指摘されています。たしかにその振る舞いは近代的な観点から眺めればそうなります。源氏物語は光の行状を肯定的に描いて絢爛たる世界を創出しましたが、それはその世界が(なよやかな表層とは裏腹に)根源を男性原理によって貫かれていることを意味するものです。
女性であり近代的な意識の高い著者は、そんな話を女性である紫女が描くはずがないと考えたのではないでしょうか(この信念は私には異論があります)。
そこで著者は、そのような光源氏を、近代的自我観が確立した現代社会に甦らせてしまいます。

源氏の有力な書写本である洞院本を伝承した公卿の名家の裔であり、「源氏物語博士」としてマスコミにも露出する国文学界の重鎮洞院一史は、また「今光源氏」と謳われるように奔放な振る舞いを繰り返す人物として設定されています。

読者は現代社会に投げ込まれたこの今光源氏のおぞましい実像を目の当たりにして、源氏物語を相対化する視点を得るに違いありません。

しかしながら――それはそれとして――洞院家に半世紀近くいて(かつては洞院一史と関係もあり)家政婦頭として君臨する(といってもある意味世話好き話好きなお婆ちゃんなんですが)マサなどは洞院の悪もすべて含めて肯定しているように、近代的自我(それは獲得しなければ身につかないア・ポステリオリな構成物です)をいまだ持ち得ない人々にはぴんと来ない観念でもあります。上記の異論とはこの点で、平安時代の女性にそのような近代的自我があったとは思われない。ところが小説とは近代的自我の産物に他ならず、そのような近代的自我の確立していない平安女流に小説は創作し得ないとなり、パラドックスが発生してしまうんですよね(^^;

ともあれ本書は自明性に終始するべき〈中間小説〉という形式で書かれながら、その自明性を疑う〈反・中間小説〉としての内容を持つ、一種の実験小説といえるように思いました。

 





古典女流の謎  投稿者:管理人  投稿日:2008 110()22308

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一晩寝て起きたら、少し考えが変わっていました(^^;。ということで、大原まり子は少しお休みして、藤本泉『血ぬられた光源氏』に着手しました。まだ30pで何も始まっていませんが、源氏物語は紫式部の作ではないどころか、到底女性の筆ではありえない、という著者の所論が横糸になっているようです。面白そうです(^^)

 





「未来視たち」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 9()222041

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大原まり子『未来視たち』(ハヤカワ文庫86)

時間をひねり出しては貪るように読み継ぎ、今日一日で一気に読了。
いや面白かったです。文章も前書と比べて、ずいぶんこなれて読み易すぎるほど読み易くなっていました。
昨日は、著者がコードウェイナー・スミスをどのように改装するのか興味があるところと書きましたが、完璧に著者の、その資質に見合った住居に改築・改装されきっていました。
その結果、コードウェイナー・スミスを想起させる部分は完全に覆い隠されてしまっていて、もし前著を読まずに本書を読んでいたら、きっとスミスが下敷きであることに気づかなかったかもしれません。

昨日書いたことに引き寄せて言い換えれば、「やりたいこと」を「資質」の方に(無理やり)従わせてしまったともいえ、内容的にも、スミス作品がもっていた、いわば時空を超えた無限遠から俯瞰するような一種独特の「冷たい」静謐なイメージは微塵もなくなっており、むしろマグマのような「熱い」カオスが作品世界を支配していて混沌たる印象が強い。ラストに配された「アルザスの天使猫」には(本集では一番早く書かれたものであるからでしょう)スミス的な残影があるとはいえ、それ以外の〈シンク・シノハラの物語〉は、今風に言えば《セカイ系》といえるものです。

読んでいるときは熱中させられたわけですから、その物語が優れていることは間違いないにしても、本来《セカイ系》は私の資質とは反りが合わないんですよね。だから熱中したからといって引き続いて読みたいという意欲は、実は薄い(^^;。
私自身は「アルザスの天使猫」のような物語を読みたいわけです。そういう次第でこの未来史シリーズがいったいこの先どうなっていくのか、それを確かめたい気持ちもあって、もうちょっと追いかけたい気もしないではありません。
にしても、このシリーズってあと何があるんでしょうか。「ハイブリッド・チャイルド」と「機械神アスラ」は持っているんですが……とりあえずどちらかを読んでみますか。

 





「一人で歩いていった猫」読了。  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 8()224830

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大原まり子『一人で歩いていった猫』(ハヤカワ文庫82)

実は大原まり子は、これまで読み始めたことはあっても、いまだかつて読了したことがありませんでした。「表題作」に至ってはSFM掲載時と文庫本になったとき、いずれも挫折を味わっています。今回三度目の正直で漸う恙無く読了するを得た次第。
とはいえやはり文章の練度が低くて、読み続けるのは大変な苦痛でした。ただ最後の最後で視界が開けて着地には成功しており、意外といえば意外な結末(ただし内的論理は通ってない)にそこそこの感動がありました。
おそらく著者はコードウェイナー・スミス的な効果を狙っており、本篇と「アムビヴァレンスの秋」では、いちおう狙い通りの効果を実現できているようです。しかしながら「リヴィング・インサイド・ユア・ラブ」と「親殺し」では(作家本人は目先を変えたつもりかどうか判りませんが)雑駁なものが不必要に夾まって混沌としており、まあそのように私には感じられて、楽しめませんでした。
著者のやりたいことが著者の資質と、実は合っていないのではないか。ふとそう思ったんですがよく判りません。
ただコードウェイナー・スミスの「改築」という試みにはとても惹かれるものがあり、折角乗りかかった舟ですから、引き続き著者の未来史シリーズの作品集『未来視たち』を読んでみるつもり。

 





Re: おまけです  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 8()012255

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> No.1118[元記事へ]

おお、情報ありがとうございます。
どうも眉村先生、なにか書きたいものができたみたいですね。たのしみたのしみ(^^)

山尾悠子は土田さんが大学生の頃はすでに断筆していたはずです。土田さんの周囲で知られてなかったのは当然です。

ところで「殿谷」は「とのがい」と読むんですね。今日はじめて気づきました。

>民話妖怪譚的だったような気はします
うーん、単なる民話妖怪譚ではね。「マキノ」っぽいのが読みたいです。なぜこの路線でいかなかったのか、私が編集者だったら絶対この路線で押しますけどねえ。
ああ、読みもせず想像で語っても詮方ないですね(^^;

 





おまけです  投稿者:土田裕之  投稿日:2008 1 8()004010

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創元SF文庫から刊行される「司政官 全短編」のあとがきが東京創元社のHPにアップされていました。

http://www.tsogen.co.jp/web_m/mayumura0801.html

 





山尾悠子  投稿者:土田裕之  投稿日:2008 1 7()23555

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>殿谷みな子
いずれも読んだのが20年から25年くらい前なので忘れておりコメントできません。
すみません。
ただ、民話妖怪譚的だったような気はします。

>山尾悠子
リアルタイムを知らないくせに知ったようなことを書いて申し訳ありませんでした。
高校時代はあまりSFファンが回りにいなかったのでわかりませんでしたが、
大学に入ってからの回りのSFファンは関心がなかったので
そのように思い込んでいました。
なってないですね。お恥ずかしい。

 





Re: 殿谷みな子  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 7()165416

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> No.1115[元記事へ]

土田さん

>「求婚者の夜」のような作品はあまり無いかもしれません
おや、そうなんですか。それは残念です。
「新・お伽話」というタイトルから連想するに、「求婚者の夜」にあった硬質なファンタジー成分がなくなった感じなんでしょうか。
そうしますと、更に憶測するに、表題作以前の実験小説的作風に、ケルト風妖精物語といいますか、あるいはもっと和風な民話的妖怪譚的要素が加わって「表題作」(と「海へ一歩を」)が生み出された。しかしその後は、今度は実験小説的な成分が後退して、民話的妖怪譚的成分が卓越していき、村田喜代子的な作風になってしまっているのかな、などと勝手に推理してみたんですが、逆にその辺の確認に興味がわいてきました(^^;。とにかく見つけて読んでみたいと思います。

>ちなみに山尾悠子が多少のポピュラリティを獲得したのは最近だと思いますが
あれ、山尾悠子が出てきたとき、私たちの周辺では一大ブームが巻き起こりましたけど(笑)、あれは生年が同じ(学年は山尾さんが一年先輩)、しかも関西の大学に在学中という非常に個別特殊的な条件が合致したせいかも知れません。わがSF友達が同じ大学に通っておりまして、とても親近感を感じていました。

>昔の幻想小説の書き手はみんな女性ですね
三枝和子が文庫版解説を、かなり親身に書いていますが、著者が変化していくのをどのように感じていたのか、それも興味深いです。

大原まり子『一人で歩いていった猫』に着手しました。

 





殿谷みな子  投稿者:土田裕之  投稿日:2008 1 7()011928

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「求婚者の夜」はずいぶん前に読みましたが、ぜんぜん覚えていません・・・。
最初川又千秋がSFマガジンのレビューに取り上げたのだと記憶しています。
(その後早川の文庫に編入)
昭和50年代半ばに新お伽話というシリーズを何篇か書いて沈黙し、
90年代に入って突然集英社文庫から恋愛小説を数冊刊行されました。
山尾悠子は大好きでしたが、上記シリーズは当時は私の好みではありませんでした。
今読めば違うかもしれませんけれど。
短編集は3冊くらいありますが、たぶん上記のシリーズに含まれる、
もしくは同傾向の作品のように思いますので、
「求婚者の夜」のような作品はあまり無いかもしれません。
それにしても渋い選択ですね。
再読したくなりました。

ちなみに山尾悠子が多少のポピュラリティを獲得したのは最近だと思いますが
作品的にはマイノリティだと思います。
(日下さんの「SF全集・総解説」には山尾悠子はあって殿谷みな子はなかった)

それにしても山尾悠子、殿谷みな子、倉橋由美子、初期の津島佑子、初期の高橋たか子、三枝和子、
思いつく昔の幻想小説の書き手はみんな女性ですね。
同系統の作品といっても男性作家が思い浮かびません。
長谷川修、福田紀一、黒井千次、後藤明生、やはり違いますねえ。
男性はSFを書いていて、女性が幻想小説を書いていたのかもしれませんね。
今は全然そんなことないですが。

 





「求婚者の夜」再帰  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 6()11108

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一晩寝て起きたら、少し印象が変わっていました。
まず「島」に関してですが、この作品は殿谷版の「城」なのですね。主人公は「島」へ渡りたいと強く願っているのですが、「いろいろ障害があって」なかなか叶わない。「城」の場合は人に由来する(悪意のような)障害なのですが、本作の場合はむしろ突然の悪天候であるとかそういう面もある点が独自な点でしょうか。
「転」がないと感じたのは、ラストの(一種の)オチも「いろいろ障害があって」のひとつとして読んでしまったからで、考え直せば船に乗り込んだところで「転」に移行していると読めます。そうしてラストでの最終的な「障害」が「結」となっているわけです(あるいは振り出しに戻る)。
不条理小説としてきっちり書き上げられた作品だと評価を改めました。

「暑すぎる一日」も、前述のように筒井康隆の書きそうな話で、それは作品が強烈に発する「女性」性嫌悪も含めてそう感じるのですが、本作に於けるような不条理(な仕打ち)を女性作家である著者が書いたというのもなかなか興味があります。いやこれを主人公への「仕打ち」と考える見方が男性原理的なのかも。著者は詩人などと称して責任を回避して愧じない主人公の「男性」性をこそ「罰して」いるのでしょうか。

 





「許婚者の夜」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 5()233134

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殿谷みな子『許婚者の夜』(ハヤカワ文庫79、初出77)

「島」と「暑すぎる一日」を読み、読了。

この2篇は(「海の城」もですが)、登場人物はAとかOといったアルファベットになっています。そのような記名法から想像できるように、一種の前衛的な観念小説、不条理小説の雰囲気が強い。その分「表題作」や「海へ一歩を」のような小説的なふくらみには欠けているように感じました。

たとえば「島」――私は先に、「表題作」の感想に「いろいろ障害があって(この部分の不条理感も申し分ない)」と書きましたが、本篇はまさにこの「いろいろ障害があって」のみで構築されているような作品なのです。表題作はこのあとから、(起承転結の)「転」のパートに入っていくわけです。その部分が欠落している。もっともラストの「結」の手際はなかなかにあざやかで(「プリズナーNo.6」風で)うならされましたけれども。

同様に「暑すぎる一日」も、「脱走と追跡のサンバ」的シチュエーションなんですが、ここにおける主人公を襲う「不条理」や寓意は何となく空回りしている印象があるのも、「転」の部分が弱いからのように思われます。

有体にいって、この2篇は、文体的にも表題作のような凝りに凝ったというところは認められず、いまだ習作的な色合いが濃いようです。おそらくは本集収録5編のうち、この2篇は時間的に先に書かれたものであるはずで、このような習作を書き上げた結果、「表題作」や「海へ一歩を」のような色彩豊かな傑作・秀作が生まれたのでしょう。成長期の作家が突如何かを「掴んで」一気に「完成」に近づいていくのはよくあることです。
ではこの観念小説的な2作に何が加わって「表題作」のような達成に至ったのか? 私は「観念性」にプラスしてケルトの妖精物語的な「具象性」が加わったことが決定的に大きかったと思います。

ともあれこの作家、ほぼ同時期にデビューし作風も同傾向で年齢もさほど変わらない山尾悠子に、決して引けを取らない優れた幻想小説の書き手であると思いました。ところが、私も不明でしたが、どうも山尾ほどポピュラリティを獲得できなかったようで、とても残念に思います。そのせいか、検索すると幻想短篇集はあと2,3冊あるくらいで、今は幻想小説ではない一般小説を主に書かれているようです。が、もっと幻想小説を書いてほしい作家だと思いました。

 





「許婚者の夜」(1  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 5()194459

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大橋さん
ご投稿ありがとうございます。
今年も忙しくなりそうですね(^^)
出版記念会の盛況ならんことをお祈りいたします。


殿谷みな子『求婚者の夜』に着手。
おお、これはいいですねえ。この著者のこと誤解していました。なんとなく少女趣味なファンタジーの作家だとばかり思い込んでいたのです。もっとはやく読んでおくべきだったと後悔しきり。
「表題作」、「海へ一歩を」、「海の城」まで読む。

表題作が断然よいです(他篇ももちろん悪くはないのだが、本篇は比較というレベルを超越した隔絶した傑作です)。
物語は恋人の父親に結婚の許しを貰いに、恋人の住む地方の海辺の町へと主人公が列車に乗っていく場面から始まります。と書くと、まさにベタな少女趣味な恋愛小説ではないですか。「よしわかった、これはおれの読む本じゃない」と思い込んでしまいますがな。それはしかし早とちりなのであって、列車に乗り込むことで、もしくは到着することで物語が開始されるのは、「神聖代」しかり、「クレプシドラ・サナトリウム」しかり、(何で到着したかは定かではありませんが)「城」しかり、幻想小説の王道であることに気づくべきでした。
いろいろ障害があって(この部分の不条理感も申し分ない)到着した〈アマノ海岸〉、そして恋人の父親アマノ氏、アマノ氏のメカケ、当の恋人、主人公を追跡する(追跡下手の)探偵の、なんとエキセントリックであることか! ふしぎなユーモアとペーソスがありそれがとてもよい。私はただちに牧野信一を想起していました。というか全体にタルホやマキノをほうふつとさせ戦前のモダニズムの作家の雰囲気に近いものがあります。著者は世代的にSF第2世代に属しますが、とてもそんな感じはしません。特に本篇は文章も凝りに凝っていて、文章を読むだけで幸せになれる(いや他の作品もよい文章ですが本篇は格別)。
ケルト風(?)のラストもよいです。
で、今思いついたんですが、なぜ本篇が爾余の作品に隔絶しているのか、それはこの作品に限って<硬質>なイメージもあるからではないか。そういえば本篇には安部公房の初期ショートショートに近い成分も感じられます(主人公を付け回す探偵というイメージとか)。

マキノを感じさせるのはむしろ2篇目の「海へ一歩を」かも。エキセントリックな詩人も登場しますし。表題作と同じく〈アマノ海岸〉が舞台で(「海の城」(2部構成になっている)の後半部の岬もおそらく〈アマノ海岸〉にある)、けだしこの地は著者の故郷の幻視化世界なのでしょう。マキノが故郷の小田原海岸にギリシア村を幻視した如く。ただラストはやはりケルト風で、「ひんやりした風が星々のあいだから吹いてくる」(74p)なんていう表現は、いかにもダンセイニが用いそうです。

3篇目の「海の城」は、ややスタンスが変わって抽象絵画的。この作品には倉橋由美子の寓意的な作風の影響を感じました。そういう意味では本篇も〈硬質〉といえますね。なんかバリノード的になってしまいましたが(いつものことですかそうですか)。

これまでのところの3篇は、独立した短篇ですが、内的な連作長篇なのかもしれません。

 





告知  投稿者:大橋  投稿日:2008 1 5()085410

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『金森達SFアート原画集』と出版記念のファンの集いのPR、ありがとうございました。
原画集の前半は光瀬龍先生の作品で、後半はいろんな作家先生の作品です。
印刷さえ上手く出来て入れば、面白いものになるのではないかと思っています。

 





「宇宙25時」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 4()165634

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昨日は風の翼新年会。楽しかったです(^^)
西さんから「ひとにぎりの異形」の西作品の、小説世界の前提(この並行世界における)を教えていただく。前提だから当然省かれているわけです。寡聞にしてそれは知りませんでした。うーむ。西さんはやはり本質的に小説家であるなあ。私だったら知っていることは一切合財全部書き込まないと気がすみません。もしこの作品を私が書いたら、きっと書き過ぎでくどくなって野暮ったいものになってしまったでしょう(^^;。
知っている人だけ気づけばいいという、書かないでおくことで野暮になるのを避ける態度はまさに文士というべきですね。

荒巻義雄『宇宙25時』(徳間文庫83、元版78)

残りの「無限への崩壊」(SFM71年11月号)「ああ荒野」(SFM71年8月号)を読んで読了。
前者は「アンドロイドは電気羊……」的なシチュエーションで、ハンターがミュータンツを狩り立てる話なのだが、あんまり機能していない。しかもこのディック的な前半と、主人公が(ミュータンツの精神攻撃で)カミュの「異邦人」の小説世界に取り込まれる後半が完全に分離してしまっている。ラストはある意味ヴォークト的結末なのだが、ヴォークトだからこそ効果を出すのであって、一般的にはこの結末は同人誌的にありふれている(不肖私も使ったことがある)。本篇も同人誌的範疇を突き破るものではない。

後者は人類の終末期、シベリアの雪原で最後の都市から派遣された猟人(コントロールを外れて野生化して自走する金鉱物採掘機械から採掘物を回収する男)が、ひょんなことで、老いて生殖機能を失った〈野の民〉の部落で請われて播種のためにひと冬を過ごすのだが……。
こちらは氷河期の訪れた大雪原で過酷な冬籠りの様子が生き生きと描写されています。前作の不自然ないびつさとは正反対な、一種原始的な自然回帰が描かれていて心地よい。小説的な面白さでは本集では一番だったと思います。

初出を載せたのは、本集収録作品が第1作品集「白壁の文字は夕陽に映える」(71)収録作品とまったく同じ時期に書かれたものであることを示したいためです。本集は元版が78年ですから、実に第1作品集のセレクションから洩れたばかりか6年も据え置かれていたことになる。これはやはり故ないことではないように思われるのです。

本篇はいずれも荒巻義雄らしさはこってりと濃厚にあらわれているのは間違いないのですが、同時に荒巻SFの欠点もまたかなりあからさまに目立ったように思われます。この欠点はどうやら荒巻SFのあの独特の魅力とは裏腹の、コインの両面のような関係にあるもので、したがって欠点だけ取り除けばよいというようなものではなく、長所が際立ったときは欠点があまり目立たず「神聖代」や「時の葦舟」のような傑作として結実するし、ちょっと筆がすべると「レムリアの日」のようななんとも言いようのない作品になってしまうのではないか。
その意味ではデビュー直後の作品群だけに、その辺の按配がまだうまくいってなかった作品群なのではないかな、と感じました。

 





「宇宙25時」より  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 3()111420

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ぎゃっ、下の「金森達SFアート原画集」出版記念会 の記事で、(既に訂正済みですが)エド・カーティアと書いていたのはエド・エムシュの間違いです。純粋に書き間違いというか、自分ではエムシュと書いたつもりだったんですが(最近こんなミスが多いなあ仕事でも。統覚力が老化しているんでしょうな)。ともあれお詫びして訂正します。いうまでもなくエド・エムシュはキャロル・エムシュのご主人。うーむ、紹介の仕方が今や逆転しましたね。これも感慨深い。

『宇宙25時』より――
表題作読む。本篇に限らずこの著者の女性描写はまんま〈オヤジ目線〉であるよなあ、女性の方の感想を聞きたいところであるな。などと思いつつ読んでいたら、後半のルナシティの描写が、オヤジ目線をそのままにマニエリスム化 していて、呆れ且つ驚嘆。これを読めば映画「ブレードランナー」なんて瞬時に色あせてしまいます。

内容的にもヴォークト的超人を設定しながらまったく機能していなかったのが、この「女が逆さになって股を展げているみたいな」(293p)ルナシティの、まさに文字どおりの《胎内めぐり》で一気に体勢を立て直してしまいました。本篇は初出SFM72年9月臨増号。映画「ブレードランナー」が82年公開なんですが、10年も前に既にして凌駕している。

著者は根本的に〈トラベルライター〉であり、さらにいえば〈著者の内なる世界の〉トラベルライターなのですが、その本質が顕在化すると一気に面白くなるのですね。このうっちゃり感がたまりません。

さて、「風の翼新年会」は5時からなんですが、久しぶりに都会へ出ることでもあり、ちょっと早めに、昼過ぎには出発してあちこちうろつく予定。
新年会は例年と同じく、5時に紀伊国屋書店向って右側(茶屋町側)入り口付近にて集合です。お間違いなく。

 





だるい  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 2()235024

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年末年始の不摂生と運動不足でそろそろ体がだるくなってきました。しかし明日は最大の難関、恒例風の翼新年会が……。これさえ乗り切れば。がんばれ肝臓!

荒巻義雄『宇宙25時』に着手。巻頭の「レムリアの日」を読む。
うーん(ーー;
はたして私はこの作品集を読了できるのか。

 





「歌麿(うた)さま参る」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 1()231658

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光瀬龍『歌麿(うた)さま参る』(ハヤカワ文庫、76)

光瀬流タイムパトロールもの6篇収録。
後半3篇はSFマガジンで既読。当時はさほどとは思わなかったのですが、今回読んで、傑作とはいえませんが、記憶の読後感よりもずっと面白く感じました。
思うに、雑誌で散発的に読んだ当時と違って、今回は連続して読んだことで、設定(かなり共通している)の世界観がよりくっきりと理解できたことが大きいかも。
巻頭の「関ヶ原始末」以外は江戸時代もので、著者には「江戸の廃寺や社に隠れひそむ時間逃亡者」というイメージがオブセッションとして強くあるようです。このイメージがなかなかよいです。

例によってストーリーは破綻しているのですが、どうもそれを承知で書いているのでは?と気づいたのが掉尾の表題作のラストの場面。
本篇は写楽=歌麿説が横糸になっていて、東洲斎写楽が描いたものはこれまで148種しか知られていない、と最初にあり、歌麿の版元蔦屋が、京都の本屋・西京屋のために請け負った150種に2枚足りないところで起こった事件が本篇の内容です。

そのラストで西京屋が、契約不履行を歌麿につめよる場面があり、そこに西京屋を押し留めて出張ってくるのが岡山の一竿堂で、一竿堂は東洲斎写楽名義で148種描いてもらったというのです。
では西京屋の148種とはなんなのか? と考えるに、明らかな矛盾をそのまま描くことで、創作であること(事実ではないこと)を言外に明かしているのではないか。そうだとすれば、本集収録作のいずれにも認められる矛盾や破綻は、実は最初からそれを判った上で書いているのかもしれません。
では、なんのためにそんなことをするのか? いま私(光瀬)が書き、あなた(読者)が読んでいるこの話は、他でもないほんの「小説」ですよ。と、そういう江戸かたぎの戯作者を気取っているのかな、と思いついたわけです。いや思いつきなんですが、どうなんでしょう。

 





昨年の読書。まとめ  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 1()164213

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昨年の読了冊数は68冊で、内訳は以下のとおりでした。

1)海外小説が19冊。うち新刊(07年刊)が9冊。
2)国内小説が17冊。同上6冊。
3)文学非小説が14冊。同3冊。
4)非文学非小説が18冊。同8冊。

1)の海外小説では『輝くもの天より堕ち』を読んでびっくら仰天し、それまで敬して遠ざけていた(というよりも出会いが不幸だった)ティプトリーをはじめてまともに読んだのが収穫。ティプトリーが世評どおりのすぐれた作家だったことを遅まきながら確認することができました。

2)の国内小説では、久しぶりに読んだ筒井康隆の新刊『巨船ベラス・レトラス』が、後期の筒井作品を一望のもとに見遙かす視点そのものをテーマにするもので、食わず嫌いだった後期作品が突如判ったような気がした(しただけかも)ので、ちょっと真剣にまとめて読んでいきたいという気持ちになっています。

山沢晴雄『離れた家』も収穫。巷間判で押したように言われる「本格の鬼」というイメージとは、実際の本質は違っていて、もっと幻想志向(超越性志向)があるのではないかという感じがした(この点で天城一とは本質的に異なる)。それも本書の出版で実作が読めるようになったから判ったのであって、出ていなければ上記のイメージのまま(天城一と並んで雛壇に飾られて)伝説化してしまったに違いなく、その意味でも本書の出版は意義があったと思います。

3)の文学非小説では最相葉月『星新一 1001話をつくった人』がこれまで読んできたところから(勝手に)作り上げてきたイメージを根底からくつがえす星新一像を提示していて意外の面白さがありました。が、それ以上に星新一も含めた創成期の日本SF第1世代の生き生きとした姿が活写されていてとても興味深かった(知っている人は知っていることかもしれませんが、それがまとまって活字化され万人が読めるようになったというところに意義があると思います)。

4)は非文学非小説。眺めていると私の興味のうねりが読み取れて面白いのですが、瀬川拓郎『アイヌの歴史 海と宝のノマド』が、擦文段階のアイヌ民族が、和人の市場経済に取り込まれて(川の民に)特化していった。その結果が現在のアイヌ人の文化を形成しているところを明確に論じていて目からうろこが落ちました。シニカルにいうならば、今日のアイヌのイメージであるエコロジカルなアイヌは、実は和人の商業圏に取り込まれ搾取された結果であって、その意味で和人こそエコロジカルなアイヌの事実上の形成者であったのかも、なんて考えてしまいました。従来のアイヌ像を再考させてくれる好著でした。
*無造作に和人と書きましたが、擦文人の実質的な交易相手は渡島や(のちの)十三湊や秋田などの(中央からの視点では)蝦夷の商人たちでしょう。擦文人からすれば和人ですが。

 





「金森達SFアート原画集」出版記念会  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 1()142536

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このたび『金森達SFアート原画集』が大橋博之さんのセレクションで出版されるそうです。金森達さん初めての画集とのことで、あわせて出版記念のファンの集いも開催される由(1月27日(日)於、セッションハウス)で、金森ファンの方は要チェックです。

金森さんといえばスタトレですが、今回の画集は〈SFマガジン〉に描かれたものから主にセレクトされているとのこと。しかし画集の表紙は光瀬龍『喪われた都市の記録』のハードカバー版のですね。そういえばSFマガジンの光瀬掲載作品のイラストは金森さんの専売特許でした。上記作品もそうですが、非常にゴシック感のある壮大なSF画を好んで描かれていました。
ところが石原博士の《惑星シリーズ》では、途中からユーモラスな絵に変わってきて、おや、と思ったものでした。もちろん惑星シリーズにはとても合っていたわけで、《惑星シリーズ》といえば金森さん描くところのヒノとシオダがまず目の前に浮かんできます。

ということで、興味のある方は大橋さんのブログで詳細をご確認下さい→こちら

石原博士といえば、過日もご紹介しましたが、ご自身のブログでSF画のコレクションの一端をご披露なさっていますが、これが今のところ、ヴァージル・フィンレイの絵がつづいているのです。
フィンレイといえば知らぬ者とてないSF画の名匠でありますが、実は私も、名前こそよく聞き知っていましたけど、その作品をじっくりと見た事はなかったのです。今回その数葉を拝見して、これはすばらしいと本気で思っています。dba

エド・エムシュの構図がユーモラスなのに対して()、フィンレイはパセティックで一種の崇高美を帯びているように感じます。まあ石原博士の鑑識眼に適った「とっておき」のから紹介されているのかもしれませんが。ということで、フィンレイの画集を検索したら……たっけー(ーー;
これはもう石原コレクションを愉しませていただくに如くはありませんな(^^ゞ

 





謹賀新年  投稿者:管理人  投稿日:2008 1 1()10557

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あけましておめでとうございます。
大晦日はK-1のテレビ観戦で過ごしました。まあよかったけど一番よかったのはK-1甲子園だったりして。真剣勝負で商業主義的なデコレーションがなくスポーツを感じさせてくれました。その意味でサップ=オロゴン戦はいらんと思った。

年越しの読書は光瀬龍『歌麿(うた)さま参る』を3分の1ほど。

年頭にあたって、もう新しいものを吸収するのは、そんな歳でもなしほどほどでいいのではないかと。むしろ格納したものを(醸成できているかどうかさだかではありませんが)吐き出し、かたちとして残していくような方向性の元年にしたいとぼんやり考えております。特に何か思いさだめているわけではありませんが。読書に関しても新刊より読み残しの気になる作品群の消化を優先したい。しかしまあ、どうなることやら。

とまれ本年もよろしくお願いいたします。

 

 


 

 

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