ヘリコニア談話室ログ(2008年2)



連載小説  投稿者:管理人  投稿日:2008 229()221225

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「てろてろ」は200pあたりまで。やや(以下の理由で)速度落とし目です。ストーリーはあるんですが、ちょっと長篇小説としては構成が緩いんですな。メリハリというか。
昔の読書メモを引っ張り出して確認したところ、野坂を読むのは高一のとき、『ゲリラの群れ』を読んで以来のようで、71年11月13日に読了しています。「騒動師たち」を読んだように覚えていたので、我ながらたよりない記憶です。

ともあれ、内容はまったく忘却してしまっており(このブログによると兵庫国を独立させる話みたいですな(^^;)、しかし「筒井に似ているけど筒井の方がずっと上」と思ったことは覚えています(まあたよりない記憶ですが)。
今「てろてろ」を読んでいて気づいたんですが、おそらく当時の私は、(現在の私が感ずるところの)「長篇小説として構成が緩い」ところに焦れたのではないでしょうか。

「ぼくの他の小説もだいたいそうなのだが、支離滅裂まったく一寸先は闇といった気持ちのまま、主人公たちの気持ちをひたすら追うばかり(……)連載一回分が原稿用紙15枚半、平均2時間半で仕上げて、終了するまで、いっさい読みかえしをしなかった」(あとがき)という執筆手法とこの緩さは相関的な筈で、結局本篇にしろ「ゲリラの群れ」にしろ、〈長篇小説〉であるよりも〈連載小説〉なのですね。

つまり集中的に読み出すと、全体のバランスが考慮されてないので忽ちしんどくなってくる。そのかわり連載一回分であるところの8ページ(15枚半?)ほどの章単位で読むと、すーっと流れているわけです。
そういうわけで、今は意識して1章か2章読んだらちょっと間を置くようにしているという次第。

それともうひとつは文体です。現在の私はこの一種破格な音楽的文体が楽しくてしょうがないのですが、当時の私にはこの文体はいささか手に余るものだったのかもしれません。
いずれにしてもこれが平凡パンチに連載されていたのかと思うと、おそらく主体は学生であろう当時の平パン購読者のレベルの高さに愕然とします。



惑星X  投稿者:管理人  投稿日:2008 228()234546

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「惑星X」って(冥王星が第9番惑星であったことを前提に)第10番目の(未知の)惑星という意味ではなかったのかなあ?

『てろてろ』は半分くらいまで。
なんとなく「俗物図鑑」とコンセプトが似ているような。
ちょっと気になって、本書と『俗物図鑑』とではどちらが先に著されたのか、検索してみました。
すると――
「てろてろ」は《平凡パンチ》69年12月〜70年8月連載後、71年8月新潮社より単行本化。
「俗物図鑑」は、《週刊新潮》71年10月〜72年8月連載後、72年12月新潮社より単行本化。
だったようです。ふーん。
それにしても平パン連載だったのか。らしいといえば(^^;



今頃知って遅いのですが  投稿者:管理人  投稿日:2008 227()22480

  返信・引用

 

ただならぬ詩ですよね。
 →頬を刺す朝の山手通り 煙草の空き箱を捨てる

野坂昭如『てろてろ』に着手。



「六地蔵の影を斬る」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 227()001913

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笹沢佐保『木枯し紋次郎(三) 六地蔵の影を斬る』(光文社文庫 97)

本書では、天保9年の真夏から師走にかけて、野州、上州から信州へと旅を続ける紋次郎を追っています。
まあいつもの紋次郎ものです。変わり映えはしません。即ちこのスーパーヒーローは、ヒーローものでありながら、何も解決しないのですね。紋次郎の関わる誰も彼もがただ無意味に死んでいくばかり。そうして紋次郎のみ生き残り、旅をつづけ、また否応なく他者と関わり、彼らの無意味を明らかにしていく。その酷薄さがたまらんですなあ。

第三話「木枯しの音に消えた」がわたし的には本集のベストなんですが、この話では、紋次郎が道中ふと12年前に世話になった父娘のことを思い出して消息を尋ねたばかりに、身売りして宿場女郎となっていた娘と図らずも再会し、娘に過去を思い出させ、あげくに入水させてしまいます。紋次郎はこの娘に、楊枝をふるわせて笛のように鳴らすあの技を習ったのでした。紋次郎と再会さえしなければ、おそらく娘は、最底辺の生活は続いていくとしても自ら命を絶つことはなかったはず。

まったくのところ、紋次郎なんてヒーローはいない方がいいのです。解説者が「ヒーローは永遠に不滅である」などとほざいていますが、一体どこをどう読んだんでしょうかね(ーー;。
というわけで、本集でも「ああ人間て何のために生きているんだろう、空しい……」と読者をして落ち込ませずにはおかない苛烈なアンチ・ヒーロー物語としてのテンションを維持しており、堪能いたしました。

 It's Magic



文庫解説  投稿者:管理人  投稿日:2008 225()235116

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荒巻義雄さんの眉村卓論『遙かに照らせ』徳間文庫解説)

積読消化シリーズは、『木枯し紋次郎(三)六地蔵の影を斬る』に着手(鬼首峠以下略m(__)m)。

 BGM



阪急電車、或いは「被差別部落の青春」  投稿者:管理人  投稿日:2008 224()132932

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今津線を「阪急電車」といわれてもなー。
ピンと来ません。大袈裟な、という感じでしょうか(^^;。
「阪急」あるいは「阪急電車」と聞けば、ふつうは京都線とか神戸線を想起するように思います。
「阪急電車」と聞いてただちに今津線を思い浮かべる人は100パーセントいないのでは? たとえ沿線の住人であっても……。
学生時代、今津線で通学していましたが、その私の感覚でも「今津線」は「今津線」、せいぜい「阪急今津線」なのであって、その電車を指してことさらに「阪急電車」なんて言ったことは多分ないし、耳にしたこともない筈です。

とはいえ、あんなローカル線を小説の舞台にするくらいですから、著者はきっと沿線に土地鑑がある人なんでしょう。なら最近はそういうのが普通になっているのかもしれません。今津線を利用しなくなってウン10年の私にはそこまでのニュアンスの変化は分かりませんが、しかし違和感がありますなあ。

ということで、角岡伸彦『被差別部落の青春』(講談社文庫 04、元版 99)読了。
なにが「ということで」かといえば、著者はその今津線沿線にある母校のゼミの後輩に当たる人らしい。そのことを知ったのはかなり最近で、そうしたら先日ブックオフで本書を見かけた。これはシンクロニシティでもなんでもなく、著者のことが記憶に銘記されたことで、それまでは(棚に並んでいても)見えてなかった本書が可視化しただけのことでしょう(^^;

さて内容ですが、部落出身であるけれども「部落差別を直接的に体験したことはない」「実に幸せな部落民である」(15p)著者には常々、巷間目にする「活字にしろ映像にしろ」部落問題の報道に常に付きまとっている一種画一的な「暗さ」、「この半世紀間にわたってほとんど変わっていない」紋切り型の「描き方」(279p)が、変化し続けていてもはや一元的には括りきれないほど多様化した部落の実態とは、非現実的なほどかけ離れてしまっているというギャップに対する不満があったとのこと。本書はそれに対する「そんなもんではないやろ」という著者なりの反応であったわけです。ところが現実にはこのような報道を歓迎する活動家がいる、むしろ多いらしい。そういう硬直性に無縁なのが本書のよいところです。

そういう著者ですから、70年代〜80年代くらいまではそれなりの意義があり、(管見ではモノの面では)それなりの結果を出した同和対策事業が、今や既得権として遺制として残っている一面もきっちり書いています。
とはいえ「最近の批判は、運動や事業の問題ばかり集めて攻め立てているだけ」にすぎず「部落問題が、部落解放運動が抱える問題、すなわち部落解放運動問題にすりかわって」いて、「初めて部落問題に接する人が、部落解放運動の矛盾だけを見ることで新たな偏見をすりこまれ」(283p)かねないことについては強く警鐘を鳴らしています。

私見では、同和対策を既得権益として食い物にする者は、その人物が「部落民である」からではありえません。その人の個人の資質、志士でもないのに志士が就くべきポジションにいることが原因なのであって、そしてそういう人物をそういうポジションにのさばらせ続けた行政と組織の問題でしょう。
本書第四章で紹介される食肉工場の経営者のように、「会社の経営者として自分にできることがあれば、助けを請うものには可能な限り手を差しのべる」(151p)ことを実践している志士もいるわけです。

本書を読んで思ったのは、「寝た子を起こすな論」にも五分の利があり、差別はたしかになくなってきつつありますが、そういう透明化では、客観的には差別を自覚し、差別を否定する人が、たとえば子供の結婚問題等で、主体的な問題として対峙しなければならなくなったときに(かつての無意識な差別意識はもはやなくとも、逆向きの、自身が差別される側に引き込まれることへの恐怖で、あるいは自身は持ちこたえても親類の引き込まれる恐怖に引きずられて)、その人の「正論」があっけなく崩壊してしまう場合があることを防ぎ得ない。上記の正論は「無関係」「他人事」に依拠するものだからです。その意味で「寝た子を起こすな論」には五分の利しかないといえる。

いずれにしても当該問題に限らず「知る」ということが大事なんですね。小松さんのいう「叡知」です。もっともただ「知る」だけでなく、「主体的に知る」ことが大事なんですが。
著者が本書を書いたのも、突き詰めればそういうことなのでしょう。いささか例が飛びますが、ネット右翼の嫌韓言説の大部分は、本書の65pの父親のように「理屈やない、わしは怖いんや」という無知に帰着する。
その意味でも本書広く読んでほしいルポルタージュなんですが、今検索したら現在購入不可のようで残念。
私は思うのですが、SFなんてのは敷居が高くてもそれはそれでかまわない。読みたいものがゲットーを作って読んでいればそれでよい(極論ですが)。けれどもこのような類いの本はそうではない。敷居は限りなく低く、広く一般に読まれるべきだと考えるのです。古本屋で見かけたら是非。



帝国陸海軍もし戦わば  投稿者:管理人  投稿日:2008 224()004650

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かんべむさしさんのフリーメモ

陸軍と海軍が戦争を始めたら……って、めちゃ面白そうやないですか!
といっても、私には軍事の知識がまったくないので、具体的にはどんな戦争の形になるのか想像もつかないのですが(まあ呉は海軍ですわな)。
料理の仕方は、スラップスティックにしてもよしですし、226を踏まえた精緻なシミュレーション小説(改変歴史小説)にしてもいけそう。ヴィジュアル的にも派手ですから、映画化もありえそうで、これはぜひ読んでみたいアイデアですね(^^)。



1世代と第2世代の区分  投稿者:管理人  投稿日:2008 223()151414

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以下は1961〜1970年、1971〜1980年に処女出版を果たしたSF作家リストです(作家によっては「SF小説家」としてのデビュー出版年であることをお断わりしておきます>ex今日泊亜蘭、河野典生、石川喬司、野田昌弘、鈴木いづみ)。

生年  作家名  処女出版年 処女作タイトル

1926  星 新一   1961  人造美人
1912  今日泊亜蘭  1962  光の塔
1928  光瀬 龍   1963  墓碑銘2007年
1931  小松左京   1963  地には平和を
1934  眉村 卓   1963  燃える傾斜
1929  福島正実   1965  SFハイライト
1934  筒井康隆   1965  東海道戦争
1939  山野浩一   1965  X電車で行こう
1938  豊田有恒   1966  火星で最後の……
1933  石原藤夫   1967  ハイウェイ惑星
1938  平井和正   1967  虎は目覚める
1923  藤本 泉   1968  東京ゲリラ戦線
1930  石川喬司   1968  魔法つかいの夏
1923  矢野 徹   1969  地球0年 (1958 甘美な謎)
1932  久野四郎   1969  夢判断
1924  広瀬 正   1970  マイナス・ゼロ

1933  半村 良   1971  石の血脈
1938  高斎 正   1971  ムーン・バギー
1933  荒巻義雄   1972  白壁の文字は夕陽に映える
1935  河野典生   1972  緑の時代
1941  田中光二   1974  大滅亡
1914  五代 格   1975  クロノスの骨
1950  山田正紀   1975  神狩り
1933  野田昌宏   1976  レモン月夜の宇宙船
1948  かんべむさし 1976  決戦・日本シリーズ
1929  クライン・ユーベルシュタイン1977  緑の石
1945  横田順彌   1977  宇宙ゴミ大戦争
1951  高千穂遙   1977  連帯惑星ピザンの危機
1951  殿谷みな子  1977  許婚者の夜
1941  川田 武   1978  戦慄の神像
1949  鈴木いづみ  1978  女と女の世の中
1955  山尾悠子   1978  夢の棲む街
1960  新井素子   1978  あたしの中の……
1944  津山紘一   1979  プルシャンブルーの奇妙な黄昏
1947  梶尾真治   1979  地球はプレインヨーグルト
1948  川又千秋   1979  海神の逆襲
1951  夢枕 獏   1979  ねこひきのオルオラネ
1944  堀  晃   1980  太陽風交点
1951  森下一仁   1980  コスモス・ホテル

(参考)
1941  田中文雄/滝原満1981  竜戦士ハンニバル
1948  鏡明     1981  不死を狩る者
1953  神林長平   1981  狐と踊れ
1954  岬兄悟    1981  瞑想者の肖像
1949  亀和田武   1982  まだ地上的な天使
1959  大原まり子  1982  一人で歩いていった猫
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こうリスト化すると面白いのは、1961-70に処女作を出版した作家は第1世代と、同様に1971-1980は第2世代と、ほぼ対応していることが見て取れます(1981年になると第3世代が登場します。このリストでは鏡、亀和田、田中文雄は第3世代になります)。
従来いろんな要素(生年、活動歴、雑誌デビューetc)を加味して恣意的だった区分基準を、出版デビュー年のみに限定することで、論者によって異なっていた第1世代と第2世代の境い目が、出版年度でみれば案外くっきりと客観的に(しかもある程度納得できる)区分できるように思いました。

ただしこのリスト、かなり記憶に頼っているので、勘違い多数あるやも知れずです。鵜呑みになさらぬよう(矢野徹は58年にSF短篇集がありますがSFとして出版されていたのかどうか未確認)。

角岡伸彦『被差別部落の青春』(講談社文庫 03)読み中。



「天動説(二)」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 222()013258

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山田正紀『天動説(二)蝦夷伝奇篇』(カドカワノベルズ 89)、読了。

200p弱ということもあって、あっという間に読了。いやー面白かった。面白かったけどムチャクチャなストーリーでした。ムチャクチャというよりも、「仕上げ」が粗いというべきか。それを先回は「ストーリーが緩い」と表現したのでしたが、その緩さは、ある意味「映画」に似ています。

大体ヴァムピーレがどういういきさつで蝦夷地にやってきたのかはまったく説明されていません。
彼をエゾ地より江戸へ手引きしたのはダーキニを信仰する西の丸大奥のようですが、ダーキニ信仰はあくまで立川流であってダーキニ信仰者が直ちに吸血鬼を崇拝することはありえないはず。

同様に甲賀衆がヴァムピールを崇拝する理由として、200年前の島原天草の乱の鎮圧に甲賀衆が関わって殊勲功あり、伊賀衆に並ぶ地位を得たこと。さらに天草四郎の片腕に寿庵(実は幕府に内通していたという設定)という者がおり、(小説上の)現在の甲賀衆が、"いんへるの寿庵"というおそろしく高齢の頭領に率いられており、この両寿庵が同一人物であるかのように仄めかされていて、甲賀衆の殊勲とは端的に寿庵の殊勲であることが推測できること。しかも寿庵が(そんなことはどこにも書かれていませんが)カタリ派のような異端バテレンであり、(ヴァムピールがそうであるとされているように)不死人であったとしても、それとエゾ地のヴァムピールは関係があることにはならない。

それを本書は、語りの中で「なんとなく」同じものとして、なし崩し的に同一化しています。これは映画のような「時間芸術」に特有の非可逆性によるマジックで、実際は矛盾なのですが、経時的に物語を鑑賞している観客には(残像効果で)さほど矛盾とは感じられない。

おそらく著者は小説で「映画」をやりたかったのではないか。それも低予算なB級チャンバラ映画を(^^;。
そのことが明瞭にあらわれているのが第四話「蝦夷トランシルヴァニア」です。この話にいたって舞台はようやく蝦夷地に移るのですが、描写される風景は北海道なのに書き割りのように狭苦しい。というか往年のスタジオ特撮のチャンバラ映画(たとえば児雷也と大蛇丸の映画とか大魔神とか)を観ているような、そんな感じに、読んでいるとなってくるのです。そして、それはそれで面白いのですね(^^)。

手を入れたら、整合的になってもっと面白くなったものを、と小説的見地からは思わないではないのですが、これはこれで作者の意図的な試みなんだろうな、と、そう考えれば、まあ許せるかな(折角の魅力的なアイデアが殆ど展開されずに終わっておりもったいない気はしますが)。そういえば主人公小森・こうもり・鉄太郎がなぜ夜になると剣豪化するのか、結局その理屈は明らかにされなかったなあ。



「天動説(一)」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 220()235913

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山田正紀『天動説(一)江戸幻想篇』(カドカワノベルズ 88)読了。

一冊終わったのでまあ読了としましたが、収録4話中、曲がりなりにも独立しているのは第1話、せいぜい第2話あたりまでで、後半はほとんど長篇の一部という感じになり、(二)に続いていくようです。したがって「読了」という感じはまったくありません。

内容は――荒唐無稽文化財(古ッ)と申しましょうか(^^;。
田沼意次が派遣した蝦夷地検分隊は、エゾ人から、この当時すでに赤人(オロシャ人)がエゾ地に渡ってきていることを知らされる。そのエゾ人はまた、ヴァムピールというとんでもない化け物もまた、赤人についてやってきたと検分隊に訴えます。
そして60年後の天保年間、品川沖で漂流している北前船が発見される。救助に向かった人々が船上で見たのは、惨殺された乗組員とその血で真っ赤に染まった帆なのでした……。その当日の夜、汐留川を漕ぎ手もなしに、江戸城西の丸屋敷(現浜離宮)へと遡って行く無人の小舟があった。その小舟に乗っているのは、奇怪にも西洋風の棺桶! 当時西丸屋敷は隠居した徳川家斉が住んでいた……。

という話。はっきりいってストーリーは緩い。その点は光瀬龍の時代SFのような感じ。たとえば西の丸を警護する甲賀衆がなぜかカタリ派かボゴミル派のように「さたん」を信奉しており、本書の最後で「さたん様は蝦夷にお帰りになられる」とありますから、棺桶の中の人が「さたん」らしいとか(^^;

まあ(二)を読めば解明されるのかもしれませんが、今のところ謎また謎。なんか茶化していますが面白いのは間違いなく面白いです。おそらく(二)では帰ったさたんを追って、主人公たちも蝦夷地へ向かうはず。早速続きに取りかかろうと思います。わくわく(^^)

 斎藤ネコ



エミシとエゾ  投稿者:管理人  投稿日:2008 219()173130

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蝦夷と書いてエゾともエミシとも読みます。エミシと読むと一般に古代の東北の先住民を、エゾと読むときは、近世のエゾ地即ち北海道の先住民(のちのアイヌ)をさすようです。つまり意味するものが時代と地域を異にしているわけです。ただしそれはエミシとエゾが別系統であることを意味するものでは必ずしもありません。同系とも別系ともまだ確定しているわけではなさそうです。
また同系だとしても、エミシ→エゾになった場合、縄文人が地域的に別途エミシとエゾに分化していった場合が想定できますし、「壺空」のように弥生人→エミシ、縄文人→エゾ(アイヌ)というのも、実はかつては大きな勢力でした(私の知識ではそのはず)。エミシを縄文人と弥生人との混血と考える人もいるでしょう。

というようなことを考えますと、不用意に蝦夷という漢字を使うのはいかがなものか、そんな気がしてきました。よって今後は基本的にカタカナでエゾなりエミシと表記するように努めたいと思った今日この頃であります。

山田正紀『天動説(一)江戸幻想篇』に着手。実は(二)が蝦夷伝奇篇という副題なんですね。この蝦夷は江戸時代ですから当然「エゾ」ということで、こっちを読みたいのですが、とりあえず順番に(^^;



「半島」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 219()005814

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松浦寿輝『半島』(文藝春秋 04)

まあ純文学ですから、自分としては一日1章ずつ読んで、週末に読み終わるかなと、それくらいの目分量でいたのですが、昨晩から読み始めて、なんとさっき読了してしまいました。面白すぎる!
いや〜これは21世紀版「田園の憂鬱」ですね(^^;。

中年の主人公は、何となく自由になりたくなって、いともあっさりと大学教授の職を捨ててしまいます。そして休養を兼ねてしばらく(東京を離れて)どこかで暮らしてみようかと考えます。そのとき思い出したのが、一度講演で行った事のある瀬戸内海に突き出た半島の先にあって、半島とは橋で繋がった島なのでした。のんびり一泊したときのことが「滅多にない思い出として残って」いたのです。こうして成り行き的な行動で主人公は島にやって来ます。そうして島で暮らし始めるのだが、知り合う人たちは皆謎めいているのでした。彼らを介して現実とも幻想ともつかぬ不思議な世界を体験していくとともに、それによって主人公の裡で、当初は軽く考えていた「何となく自由になりたくなって」の真の意味が、しだいに明確に自覚されて行きます。

と、少し先走ってしまいましたが、とにかくこの「島」が面白い。島自体が迷宮化しているのです。宿屋の温泉に入ってみれば、露天風呂がどんどん地下へ地下へと続いて、その最低部にはトロッコが走る地下隧道があったり、宿屋の階段をどんどん下りていくと、いつの間にか別のビルの地下に出ていたりと、「ちかくがとおかったり、とおくがちかかったり」、遠近法が混乱している。
島全体をテーマパーク化してしまう構想が、本篇の重要な要素なのですが、ポシャッてしまい、推進派の若者が、「今さらそんなものを造らなくても、この島自体、もうすでに浮き世離れした巨大テーマパークみたいなもんだし……」(286p)
と吐き捨てるのですが、これは上記を踏まえているのでしょう。

ともあれ本篇の内容は、客観的にはどこまでが現実でどこからが主人公の幻想なのか判然としません。むしろ外なる現実と主人公の精神が融合して出現した内宇宙と考えた方がよいかも。

主人公は今回の自由を求めた行動が、休暇なのか、余生なのかと再考させられる。「結局、休暇でもないし老後の余生でもない、それから雌伏でも潜伏でもないのだと」主人公は思い、そして「あえていえば執行猶予なんじゃないだろうか」(202p)
ラストで主人公は(占いの老人に予言されたとおり)ある〈罪悪〉を犯すのですが、それは内宇宙的には「自分殺し」なのでした。過去の自分を殺した主人公は「前へ、前へ」(297p)と、ロープウェイのようなものに乗って空を渡って行き、島から出る橋の手前に達します。あの橋の向こうこそ、「現実世界」なんだと主人公にはわかりますが、そのとき橋が真ん中から燃え始める。まさに「おお、薔薇、汝病めり!」ではありませんか。

本篇は幻想純文学ですが、その道具立てはテーマパーク的であり、幻想SF的なエンターテインメント小説としても楽しめるものとなっています。



こちらこそ  投稿者:管理人  投稿日:2008 218()013339

  返信・引用

 

平谷さん

こちらこそ楽しませていただき、ありがとうございました。
なるほど、ラストはそういう伏線でしたか。とすれば続編はゼラズニイ的な東北神話世界が現出するわけですね(^^)、それは読みたいなあ。

>足下を固めつつ、アピールしていきたいと思います
楽しみにお待ちしております(^^)



感想ありがとうございました  投稿者:平谷美樹  投稿日:2008 218()00371

  返信・引用

 

『壺空』の感想、ありがとうございました。
これ以後、東北は「モリ」に還り、精霊が跳梁跋扈する世界となっていくのですが……。
色々と複線も張っていたので、続きを書きたいんですけどね。
足下を固めつつ、アピールしていきたいと思います。



「壺空」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 217()213041

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平谷美樹『壺空 聖天神社怪異縁起』(カッパノベルス 04)読了。

前作『呪海』では、蝦夷の最終兵器が侵略してくる和人に対して使われないまま、いわば安全装置が掛けられた状態で残されていたのを、1200年ぶりに処分しようとして、逆に過って安全装置をはずしてしまうという話でしたが、本篇は更にタイムスケールがでかく、紀元前300年頃、侵略してきた弥生人であるところの蝦夷に対して、先住の縄文人が、最終兵器を発動させようとして果たせず、未完成のまま地中に埋もれて停止していたのが、発掘によって現代に甦り、停止が解除されてしまうという話です。

つまり大和朝廷に征服された蝦夷は、実は2300年前に東北へ渡来した弥生人で、彼らはそれ以前に1万年以上先住していた縄文人と戦い、彼らを北へ追い払って住み着いたという設定です。
私の中では、蝦夷は縄文人の後裔とする先入観があり、その記述が出てきたときは、あれ? コンテキストを誤読したのかなと読み返してしまいました(^^;。しかし考えてみればそういう設定もありですね(笑)。そうしますと、蝦夷とアイヌは別系統ということになり、確かに本篇では上記の縄文の最終兵器がアイヌ語で理解できるとなっています。矛盾はありません。

主人公の聖天一族は蝦夷の後裔であり、大酋長黒丸王の子孫です【註1】。ライバル法印一族は黒丸王の手首を名刀蕨手刀【註2】ごと切り取った忌部秋田の子孫。忌部ですから大和朝廷系ですね、田村麻呂に従っていたのでしたっけ。彼らの1200年つづくライバル関係も面白い。

これに検祇所の「国家公務員」(笑)も絡んでくるので、結構ラストはややこしいです。この検祇所の職員が最後に冥界と顕界が地続きになった空間を建物ごと封印しようとするのですが、その手続きがプロローグの描写と同じなんですね。ところが、プロローグは最終兵器製造に失敗し敗れた縄文人の村の焼け跡で、その最終兵器を封印しようとしているところと読めるのですが、だったらこの封印者は蝦夷でなければなりません。その術が蝦夷に伝わらず大和に伝わっているのはなぜか? プロローグの呪具に使われた土器は弥生式(ただし縄文と弥生の中間形)と書かれていますが、畿内で流行とも書かれているので大和朝廷とのつながりもあながち無視できません。この辺は続編で明らかになる予定だったのかもしれません。

法印空木の心境も、ラストで少し変化の兆しが見え、続編への期待が否が応でも高まってくるのですが、いまのところ予定がないというのは残念です。
いずれにしても、非常に正統的なエンターテインメント小説で、最近のノベルズ本に飽き足らないと感じている読者には(前作ともども)とても楽しめる面白小説だと思います。いろいろ難しい面もあるのかと思いますが、ぜひとも続編をお願いしたいです。

【註1】別途アテルイの名が出てきますが、黒丸王とはあまり聞かないので悪路王がモデル?

【註2】ところで、そういえばこの蕨手刀、前作では形状が七支刀となっていたと思うのですが百済といえば大和朝廷の同盟国(殆ど同じ民族で豊田さんは百済語と日本語は大体意味が通じたとどこかで書かれていたはず)、関係があるのか、それとも破魔刀の一般的な形なのか、興味がどんどんわいてきます。
興味ついでに、羽田野は秦野ですから、彼が土建屋であるのも興味深い。



「壺空」読み中  投稿者:管理人  投稿日:2008 217()135843

  返信・引用

 

↓とかいいながら、その後すぐ沈没してしまいました(爆)

で、起きてから読み始めて現在240p。丁度この辺で展開が変わりそうなので、小休止をかねてメモ――
昨日までは発掘小説でしたが、日本では殆どありえない泥炭遺体(岩手県にはアイルランドのような泥炭層があるんですね。たとえば→イギリス海岸)が発見されてからはまさに最新の考古学小説となっています。この辺のリアリティは瀬名秀明の「パラサイト・イヴ」の前半を彷彿とさせますね。実に面白くワクワクさせられます。

で、ふと思ったのですが、本書はかつての「ノベルズ」の正統な後継作品だなと。
かつての「ノベルズ」は、いわば社会人・サラリーマンの通勤本でありまして、情報小説としての一面は必須であった。その点は「ノベルズ」各社が必ず並べて発行していた「ブックス」(たとえばカッパブックス)と同じで、「ノベルズ」がフィクションという形式、「ブックス」がノンフィクションという形式であったにせよその担う機能は重なる部分があったわけです。つまりノベルズは電車読書に適うリーダビリティのあるフィクションに、社会人の知的好奇心を刺戟する知識(それは必ずしも科学的事実でなくてよい)がセットになっていなければならなかった。

ところが現在、ブックスは壊滅し(学術的な衣装を纏わせた新書に移行)、ノベルズも上記のような情報小説は消え、新本格がもともと構成要素としてもっていた「モラトリアム志向」が自走した「セカイ系」の拠点となっているではないですか。これは結局、いわゆる社会人の心性、感性が60年代70年代と現代では様変わりしていることをあらわしているのかも。社会(外部)への関心が後退しているのではないか。30代、40代になってもまだ自分探しに終始して(心理的に)社会へ出ていけない人が社会人をやっているということなのではないかと。

で、本書はその意味で70年代型のノベルズ本なんですね。小説の文体や作中人物も「70年的な意味で」しっかり描かれています。主人公は聖天弓弦(しょうでんゆずる)といって名前だけ見ると、キャラクター小説っぽいですがキャラ的には造型されていません。しかしもうひとりの法印空木(ほういんうつぎ)の方は名前の印象どおりいかにもキャラっぽい。
わたし的には嫌いなキャラクタですが、この現代にエンタメ小説ならぬ70年代型エンタテインメント小説を書こうとすればこれくらいのサービスは必要なんでしょう。

以上、とりあえず思いついたままメモ。



発掘小説  投稿者:管理人  投稿日:2008 217()004255

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平谷美樹『壺空』に着手、一気に170pくらいまで読みました。大体半分弱。
おお、ここまでは考古学小説、いや発掘小説ですな。面白い〜!
蝦夷=弥生人説というのが意想外で不意を衝かれてしまいました。ということは蝦夷と縄文人は別系統で、「さらに古い系統」というのが縄文人なんでしょうか。後半が楽しみ楽しみ。今日中に読んでしまえるかな。というか読まずにいられません(^^;

 The Story In Your Eyes



「司政官 全短編」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 216()003335

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「限界のヤヌス」を読む。

これにて〈司政官クロニクル〉は終幕するのですが、いやそれにしてもいろんな司政官が登場しましたね。
ただいえるのは、かれらは皆、間違っても無謬のスーパーマンではなく、欠点もあれば弱点もある〈人間〉であったことです。そんな〈人間〉たちが、内面に志を抱え、その志を(外から革命を起こすのではなく)権力構造の中にあって成就させんと悪戦苦闘している姿を、〈群像〉として本シリーズは描いているといえる。

本篇の標題の「ヤヌス」とは、植民者にも原住者にも等距離を保つ司政官が、当事者である植民者や原住者の立場からすれば、順慶的にみえることを差していますが、考えてみれば司政官の「中」の〈人間〉たち自身が、内面の志と、纏った司政官の衣装との間に引き裂かれています。

著者は第1作品集『準B級市民』のあとがきに、「人間は環境を支配する生物だといわれています。しかし人間が作りあげた社会という環境は、こんどはひとりひとりを拘束し、変形させようとはたらくのです」と書いているのですが、これは司政官にも当て嵌まるようです。
志を成し遂げるために、彼らは厳しい試練に耐えて司政官となりました。しかしひとたび司政官となってしまえば、今度はその司政官であることが彼らを拘束し、変形させようとはたらくからです。
司政官シリーズの各篇がおおむね(福島正実の言うように)「挫折」の物語であるのも、実はこのシリーズが内面の志と衣装の間に「引き裂かれた」存在としての司政官を描いているからではないでしょうか。

さて、本篇では、革命家に敗れ去る司政官が登場します。
時代は更に下って、前作より20年後、制度発足からは70年が経過しています。惑星ガンガゼンは原住者が大陸に、植民者が島嶼部に住み分けて、(司政官の監視のもと)互いに侵犯しあうことなく別個に発展してきたのですが、最近になって密貿易というかたちで両者の間に経済的な交流が始まってきています。司政官は連邦の定める統治段階を遵守してそれを禁じようとするのですが、そのような司政官を、彼らはもはや必要なき無用の長物として、独立を要求してきたのです。司政官セイは、頑として撥ね付けるのだけれど、有体にいって杓子定規な統治段階規定を墨守する司政官は、読者である私から見ても「連邦の手先」に見えてしまいます。といいますか司政官の衣装に「拘束」されているように思われます。

一方、独立派を率いるのは、元司政官のミシェル。司政官に達しながら自らそのポストを捨て、この惑星に流れ着き、短期間にぐんぐん頭角をあらわし自治組織を作りあげたオルガナイザーです。彼は司政官の経験から官僚ロボットを知悉しており、その弱点をついて、遂には司政官の外出中に司政庁を占拠し、SQ1を爆破してしまいます。
つまり、司政官セイは、いわば敵に本丸を奪われ、城外に逃れた敗将となってしまう。これは司政官史上前代未聞の大失態なのではないでしょうか。セイは司政官の意地にかけてミシェルを打ち破るため原住民を巻き込み、リメンバー司政庁とばかりに巻き返し戦を開始するのですが……

いや、この展開は「産業士官候補生」と同じですね。燃えます(^^; しかし……これはもはや「司政官」のやることではないですね。けだしセイは、このとき司政官の衣装を脱ぎ捨てたのです。彼は「私は司政官として行なったことの決着はつけねばならないのです(……)それが司政官というものなのです」と巡察官に言いつのる。しかしながら、実際のところこの戦闘は「私闘」であるというのが事実でしょう。
しかし、それでいいのではないでしょうか。平静を装って撤兵するのは〈司政官〉の衣装には適いますが、個人としての尊厳は徹底的に踏みにじられてしまうに違いありません。セイはこのとき、司政官をやめて裸の個人に戻ることを選択したといえます。そうして自らの内面の声のみに従って「突撃」して行く。組織的には、そして社会的には許されることではないかもしれませんが、それでいいのです。おそらくセイは、このとき「解放」された自由を感じていたのではないでしょうか。

以上で眉村卓『司政官 全短編』(創元SF文庫 08)読了。

ところで、最初私は〈クロニクル〉という形式には疑問を感じていました。連作集は発表順に並べるべきという持論からそう思っていたのですが、読み終わってみれば本シリーズに限っては、「長い暁」に始まり「限界のヤヌス」で終わるというこの順番は正解だったようで、以前に読んだときよりも数倍面白く読むことができました。二つの作品集として別々に読んだ時とは全然違うのです。おそらく始まりがあって終わりがあることで、統一感が生まれて全体として一個の作品であると感じられたからでしょうか。一巻に纏められたことで「完成品」になったと感じられました。

この(トータルの)感想文自体は、「衣装としての司政官」という、統一的な視点に引っ張られてやや強引な感想に、はからずもなっていますが、実際の読書体験では「群像としての司政官」の物語集として楽しみました。

ともあれ、〈司政官クロニクル〉として1巻に纏められたことで、〈司政官シリーズ〉は最良の「器」を得たように思います(大体形式的にも、火星シリーズではなく火星年代記的ですし(^^;)。

「器」というのは存外重要でありまして、もしまたどこかで日本SFオールタイムベスト投票が行なわれることがあれば、おそらくそのときはこの「器」がものをいうはず。
従来の2冊に分かれた形式では、上記の次第で「短篇集」の印象が強く、いささかベスト「長篇」としての選択にはためらわれる面がなきにしもあらずでしたが、かかる「器」を手にしたからには、定番の光瀬、小松作品に匹敵する票を獲得するというのもあながち夢ではなくなったような(^^;。なろうことなら「消滅の光輪」と「引き潮のとき」も組み込んだ「司政官クロニクル全作品」として上梓されるのがベストではありますが(さすがに1巻本にはできないと思いますけど(^^ゞ)。



「司政官 全短編」より(6  投稿者:管理人  投稿日:2008 214()220153

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「遺跡の風」を読む。

本篇では、司政官制が開始されてから半世紀が経過しており、初期には有効に機能したこの制度にも、いろいろ矛盾が露呈し始めています。
植民者は既に2世、3世の世代に代っており、彼らにとって司政官は生まれたときから君臨している「体制」に他ならず、司政官を中央の走狗としか認識していないようです。当の司政官組織も巨大化し厖大な官僚ロボット群を抱え込んでおり、植民者と司政官の間に距離が生じてきています。

一方、司政官と中央との関係においても、司政官制を採用する惑星が一般化し司政官の数が増加すると、連邦経営機構としても把握しきれなくなって、かつてのような信頼関係が薄れてきました。司政官を監督する《巡察官》制度が導入されるのもこの時期です(けだし巡察官とは漢代の刺史の如きものでしょうか)。
すなわち対植民者、対中央のいずれにおいてもコミュニケーションが不全化してきたのがこの時代なのです。

しかしそのような時代、状況にあって、惑星タユネインだけは、(原住者は滅亡しており植民者しかいない)その恵まれた環境のおかげで、司政官を煩わせる問題も少なく、これほど統治しやすい惑星もない。そういう惑星ですから、連邦もそろそろ引退間近な司政官の、最後の赴任地として位置づけているようで、拝命する司政官も一種の「肩たたき」と覚悟する。というかこのタユネインでしばらく過ごすと、もはや生き馬の目を抜くような過酷な司政官稼業に気持ち的に戻れなくなってしまい、自らこの地を最後の赴任地と考えてしまうのです。

いわば、本社で野心に燃え馬車馬のように働き且つそのことに生きがいを感じていた者が、ひょんなことで地方の工場に転勤させられ、いつのまにかのんびりした雰囲気に馴染んでしまい現地採用の女子社員と結婚しやがて自ら一線から外れることを願い出て現地採用扱いとなりその工場で定年退職してしまうようなものかも。そんな司政官がいたっていいではないか(^^;

カゼタもまた、数々の惑星の統治に携わった後、このタユネインにやってきた初老の司政官であり、やはりもう次はないと考えています。おそらく50代のはずですが、どうも、といいますかようやく、といいますか恋人もできたようです。「恋人がいてもいいではないか」という心境になったのでしょう。

そんな司政官が主人公ですから、(これまで語られてきた司政官たちとは違って)ぎらぎらした野心とも無縁、それゆえ司政官の衣装に押しつぶされることもありません。

ちょっと確認しておきますと、眉村卓といえば〈インサイダー文学論〉となるわけですが、著者の言うインサイダーとは、「インサイドにいるけれども、内面はアウトサイダーである人間」のことなのです(著者はどこかで「複眼的」と述べていたと思います)。一般的な意味でのインサイダーとは、権力の側にいる者ですが、それとはちょっと違うのです。

ですから〈司政官〉という役職そのものが即ち(著者の定義するところの)〈インサイダー〉なのではないことをまず指摘しておきたいと思います。
司政官という役職を纏うもののうち、内面がアウトサイダーである者のみが〈インサイダー〉であるわけです。ちょっとややこしいのでアウトサイダーを「良心」(あるいは「志」)と言い換えましょう。

本篇で、タユネインに実習にやってきた待命司政官トマスが「われわれは原住者や植民者とは違うんです。統治の側に立っているんですからね」と語りますが、これはある意味司政官の定義としては正しい。
これに対してカゼタは「そのトマスのいいかたに(……)非司政官的なものを感じ」るのですが、この場合カゼタが感じているのは司政官という権力を纏うものの「あるべき態度」の方なんですね。この態度すなわち(良心的な)「志」が内面にあってはじめて、その司政官は〈インサイダー〉であり得る。結局、当シリーズはあまたの司政官の中から〈インサイダー〉(志士)と呼ぶにふさわしい者たちを取り上げてきたものと言えるかも知れません。1期、2期の創成期の司政官たちは皆そのような志士であったかも知れませんが、時代が下るにつれ、技術は伝達されてもそのような志の部分は伝達されなくなっていったのでしょう。トマスのような志なき司政官が増えたことも、巡察官の創設の遠因となった可能性もありますね。

ハヤカワ文庫版『司政官』の解説で、福島正実は「だが、それにしては、どうして彼の司政官たちは、こうも挫折しなければならないのだろうか?」と書いていますが、やはりかかる〈インサイダー〉という在り方は、権力の外側からは〈走狗〉にしか見えませんし、権力の内部で良心的であろうとすれば、その組織圧力に押しつぶされかねないという、前門の虎後門の狼と言いますか、きわめて狭い足場で戦いを強いられるわけで、やはり挫折の繰り返しというのが実際的な姿なのに違いありません。

さて、本篇は、そのような(連邦自体の巨大化に伴う硬直化、形式化に連鎖する)司政官制度の曲がり角、それを補う巡察官制の創設という時期を描いています。創設期の巡察官は司政官から人材を引き抜いていたのですが、それでは司政官と馴れ合いが生じるとの判断から、連邦は生え抜きの巡察官を養成しようと考えます。実はトマスは巡察官となるべく実習に来ていたのです。車の両輪となるべき司政官と巡察官の、その一方が最初からこのような「志」のない人間であるということは……。連邦の望む巡察官とは「連邦に忠実な番犬」であることが明らかとなります。いよいよ銀河世界は混迷を深めていきそうな気配ですね(^^;

本シリーズの司政官たちはこれまで皆、〈アウトサイダー〉たらんとする意志(良心)と、纏った組織の構成要素である〈司政官〉という衣装との間の矛盾に悩んできたわけです。本篇はそのような司政官の内面の葛藤がメインなのではありません。上記のような曲がり角を俯瞰するのが主たる意図の作品であったように思います。



今日のところは  投稿者:管理人  投稿日:2008 214()004641

  返信・引用

 

「遺跡の風」を既に読み終わっているのですが、いろいろあって雑念で集中できません。感想は明日にでも。

  Julia Dream



知事 vs NHK  投稿者:管理人  投稿日:2008 212()232838

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NHK「かんさい特集」(1) (2) (3) (4) (5) (6)

司会者と知事は北野高校の同級生らしい。ふーん。
知事よりも市長の方が、大丈夫かいな、という気がしてきました(ーー;

 音響良



「司政官 全短編」より(5  投稿者:管理人  投稿日:2008 211()133756

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「遙かなる真昼」を読む。

「制度化されたエリートは、つねに時代を超えられない」(293p)とは、「炎と花びら」で大カルガイストが司政官クロベに吐いた言葉です。制度化されたエリートとはいうまでもなく司政官のこと。

「たしかにそれはいえるかも知れない」とクロベも思います。
もとより司政官制は、後ろ盾である連邦の権威が確立していてはじめて有効な統治制度なのですね。というか司政官とは上意下達の中間に位置してその流れが最も効果的に有効化するよう、強めたり弱めたり言い換えたりと、一種「弁」として機能するべき存在といえます。
あるいはそれだけの存在、というべきか。

いったん連邦の権威が失墜すれば忽ち存在価値がなくなってしまう。転換期には司政官は無力なのです。いわんや連邦そのものを「超えて」、「更に良きもの」をめざす運動はその制度からは起こりえない。
そのような下克上は、信長のような開明的な「制外者」、既存の制度から外れた(自由な)者の仕事となる。すなわち「革命家」とか「改革者」です。

さて、本篇「遙かなる真昼」の時代は、制度発足以来40年、前作「扉の開くとき」からでも20年経過しており、「概要」の区分で「中期」にあたるようです。
そういう次第で、本篇においてはじめて、地球人入植者が存在する惑星が扱われることになる。

惑星ネネギンは雨と泥海の世界であり、分厚い雨雲に覆われて光の差さない地上は常に半闇に閉ざされて色彩がありません。
この環境は人間に耐えられるものではなく、植民などもっての他の世界なのですが、それが逆に作用してこの地に(短期滞在者として)降り立った地球人は例外なく色彩を求める無意識の欲求が「色覚補償作用」を引き起こし、彼らの目にこの世界はとてつもなく色彩に満ちた世界に見える。
それは一種麻薬のように作用し、このような地球人には劣悪きわまる環境なのにあえてこのネネギンに留まるものがあらわれ、数百人のコロニーを形成している。しかし彼らは敗残者なのであり不法滞在者なのです。しかしそんな彼らでも司政官はそれなりの面倒をみなければなりません。

一方、ネネギンの原住者ネネギアは両棲類から進化した種属で、地球的にいえばムラから原始国家への過程と封建制から産業革命準備期への過程が混在する社会なのだが、その中から一人の(種属的レベルから突出した)「風雲児」があらわれ、とんでもないスピードで社会を近代化していきます。「改革者」(457p)が登場したのです。

司政官オキは立場上肩入れすることはできませんが、あたたかく見守っています。しかし、その急激な改革は内部にも外部にも反発を生みます。ネネギアの文明度の低さに付け入って利益を享受してきた植民者も面白くありません。そしてそれらの反作用が期せずして一挙にはじけたとき……。
司政官的公正への配慮が一瞬の遅れを招き、改革者は死にます。オキはやはり〈守り〉の司政官であり、〈攻撃〉の改革者ではなかった。

そういえば前作「扉のひらくとき」では、女性芸術家に目を啓かされた司政官シゲイが、遂にラストで制度から突出してしまった(司政官の衣装を脱いだ)わけですが(当然事後何らかのペナルティがあったはず)、本篇のオキはちょっと脱ぐのが遅れてしまった例といえるのではないでしょうか。

いずれにしても、著者の「司政官」に注ぐ視線には、二律背反的なものがあるのは間違いなさそうです。



「司政官 全短編」より(4  投稿者:管理人  投稿日:2008 210()212630

  返信・引用

 

「扉のひらくとき」を読む。
本篇は、(「司政官制度概要」に従えば)司政官制度の開始から約20年後、前作「炎と花びら」からでも10年が経過し、司政官制度も広く一般化してゆるぎないものとなっているようです。
それが証拠に本篇の司政官シゲイは司政庁に自分のためのプールを建造させている。「長い暁」で軍に間借りして小さくなっていたことを思えば、わずか20年でえらい変わりようです。

これまでの司政官は全員初代の司政官でしたが、シゲイは「すでにふたつの惑星の司政官を、それも大過なく勤めあげてきて」、ここゼクテンに赴任しているベテランという設定です。仮に20代の10年間を候補生としてすごし、30代で司政官としてふたつの惑星を経験したとするならば、いまシゲイは40代前半から半ばということになるでしょう。

そんなシゲイが統治する惑星ゼクテンに、一人の女性芸術家グレイスがふらりと訪れます。ロボットに対しても相手が人間であるかのように接する彼女の振る舞いは、四角四面でやってきたシゲイにはすべてにおいていささか風変わりでまぶしい。そういう彼女に、シゲイは次第に惹かれていくのだが、彼の中の別の心はその気持ちを圧殺しようとします。シゲイには過去の候補生時代に付き合った女性がいて……彼はそれを振り切る形で司政官となった苦い経験があった。つまり司政官という衣装(笙野風にいえば着ぐるみスーツ)に身の丈を合わせたということでしょう。

そんなシゲイの昔話に対して、グレイスは傷つくのをおそれていただけではないのかと言います。いわれてようやく(40も半ばに至って)、シゲイは何かに気づきます。シゲイもまた司政官たらんとして、結果人間的な発達を阻害されていたのです。
つまり本篇は、なんと前作「炎と花びら」(ではある意味放り出されたままになっていた問題)への著者の解答となっているわけです。

余談ですが、一体に司政官は、どの司政官も、外に対しては客観的で適切な決断ができる優秀なエリートですが、こと自分のこととなるといまだ高校生の段階で留まってしまっている。このようなスーパーマンでありながら、世に晒されていないひ弱さを併せ持つ二重性、その不完全性が、案外多くのSF読者(男性)に「自分」を感じさせるところがあるのではないか。司政官シリーズの人気の一端がそこにあるように思われるのですが(^^;。

閑話休題、本篇では、著者は「炎と花びら」ほど司政官に対して辛辣ではありませんが、司政官という〈衣装〉が強制する姿勢に対する著者の批評性が、グレイスの言葉としてぶつけられている分、読者には判りやすくなっているように思います。



「司政官 全短編」より(3  投稿者:管理人  投稿日:2008 210()134012

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「炎と花びら」を読む。
クロニクルの形式で配列されている本書では3番目となるわけですが、執筆順としましては〈司政官シリーズ〉の記念すべき第1作です。

著者あとがきを読むと、本篇はもともとシリーズ化を考えられていたわけではないようです。しかしその後シリーズ化するにあたり、《設定》が一部変更されています。

それは、司政官が新たに置かれる惑星では、官僚ロボットは軍のそれを引き継がず(あるいは軍はロボット官僚というようなシステムを採用しておらず)、その惑星の実情に即応した、(汎用的ではない)当該惑星独特のシステムとして新規に製造構成されるとなっている点です。

そのような構想変更以前に書かれた本篇では、連邦軍のロボット官僚をそのまま引き継いで使用しているということになっており、結果、司政官は引き継いだロボット官僚の行動原理に刷り込まれた連邦軍的な〈ものの見方〉の「偏向」に悩まされます。

これを著者は、たとえば単行本化の段階で改訂しなかった。それは察するに上記の「偏向」という設定が、作品の成立に深く関与しており、単に一箇所訂正することで済むようなものではなく、そんなことをすれば作品自体が解体してしまう、そんな重要な設定だった。それゆえ著者は訂正をあきらめたのではないかと思い至りました。

とはいえ周到な著者のこと、ちゃんとシリーズと本篇との整合性の〈矛盾〉を、〈イレギュラー〉に解消する説明が、クロニクルとしてはひとつ前に当たる「照り返しの丘」に加えられていました。
221頁の、「惑星によっては、それまで連邦軍が使用したロボット群を、司政官がそのまま引き継ぐことも、めずらしくはない。場合によると、ロボット官僚のチーフであるSQ1でさえ、それまでのロボット群の統括役のロボットで充当する例もあるが……」
という記述は、まさに本篇を救済するために加えられたものに他ならないでしょう。シリーズとしての体系性に極力留意し、細かいところまで目配りをおさおさ怠らない著者の作品に対する誠実さ、真摯さを感じます(それに比べて鏡某以下略)。

さて、本篇は、クロニクルとしては(上記のとおり)3番目、付録の「司政官制度概要」によれば、司政官制開始より約10年後の話です。すなわち「概要」の区分での〈初期〉に該当し、司政官制がその有効性を認知され、旭日の如く着実に地歩を固めていった時期です。

そのような制度しての勃興期でありますが、早くも前作においては組織の目的と個人の目的(野心)のズレという、おなじみの問題が浮かび上がってきていました。
本篇においては、前篇とは正反対のベクトル、組織の中の個人ではなく、他者を求める個人の欲求が考察されています。端的には〈孤立〉という問題です。とりわけ司政官という「衣装」そのものに内在する個人の欲求を圧殺する問題が考察されています。

元来司政官とは、「行政専門家候補生として選抜され、圧縮学習期間を含む十数年という長い年月を訓練につぐ訓練で送ってきた。精神的にも肉体的にも徹底的にきたえられた真正のエリート」(278p)ですが、それは「情緒の排除を前提」(同)にするものであった。
考えてもみて下さい。司政官制とは「ひとり」の司政官と配下の官僚ロボット群で構成されている。これは非常に不自然というかいびつな組織である。
SQ1と「交流」している司政官もいるとはいえ、本能的なものを含めて一切の「欲求」に克己できること、克己できて当然であって、それではじめて「司政官」なのです。非人間的な「禁欲主義」こそ司政官の契機(Moment)といえる。きわめて儒教的といいましょうか(実際の、例えば科挙のような儒教組織には抜け道が数多ありますが、司政官制にはなさそうです)、ある意味司政官とは「ロボット」化することに他ならない。かかる「ロボット」化をクリアできずに脱落していった者も多かったようです(279p)。

(前作の)「組織」に圧殺される司政官とは逆に、「人間」を圧殺される司政官という問題・矛盾が、順風満帆に見える司政官制度の初期において、あらわれているわけです。

ところで、主人公の司政官クロベは、植物知性体であるアミラに「異性」を見出しているわけですが、これは錯覚(あるいは自己欺瞞(*))と思われます。アミラは唯一クロベにとって話の通ずる(話を理解し、的確に反応してくれ、倫理観も共通する)「同好の士」というべき存在なのです。それを錯覚し「異性」をみるところが実は重要なところで、それはクロベの一種の「幼さ」に由来するものである。
彼にとって「異性」とは――
「とても聡明で、無邪気で、可愛くって、何もかも知りつくした少女。女の狡さを男のため、自分の好きな男のためにしか利用しない女。頭が良くって冴えていて、誰の目にもつくくせに孤独な女の子。男の起伏に富んだ生涯に、影にも似て随ってくる天使、あるいは妖精でもある若い女。気が弱くって意志が強くて、庶民的な怒りを内包することのできる貴族――」(279p)
「そんなものがどこにいるのだ」とクロベ自身が一人ツッコミしているように、一種二次元の少女であることは明らかです。オトナの異性観としてはいびつに退行的ですらあります。この点は著者も自覚しており、「可愛くって」というように「っ」を挿入して舌足らずな幼さを強調しているのはそういう「否定」の表現だと思われます。

ではなぜクロベはこのような幼稚な異性観に留まり、「発達」させえなかったのか? それは端的にリアルな女性との交流関係を持たなかったからに他ならず、クロベの「思春期」が、司政官候補生としての研修期間に相当し、女性と付き合うようなことは物理的にも精神的にもありえなかったことに因るわけです。

(シリーズ化を考慮していない)本篇での著者は、「司政官」制というものを措定するとともに、完璧な制度というものはありえないこと、それが制度として「司政官」に値する人間を育成し得ない組織矛盾を描いているように私には思われました。

なお、これは私だけの感覚ですが、アミラに「福島正実」を感じました。それはおそらくリアル福島氏を知らない私の「内なる」福島正実かも知れません。少なくとも著者がそうイメージしていたということは100%ありえないと思いますが(^^;。

(*)自己欺瞞と思うのは、アミラが異性ではなく、人間でもはなく、これ以上「のめりこむ」ことのありえない存在だからで、これは「幼い」ということとは別に、管見では保身的な「老獪さ」「いやらしさ」といえる。アミラが開花することを厭うのは、共感とは正反対なクロベの手前勝手な「我欲」に他ならない筈です。

以上のように、本篇はシリーズ化を前提としていなかったことによって独自性を獲得しえた、シリーズ作品としてはいささか特異な問題作といえるようです。



「司政官 全短編」より(2  投稿者:管理人  投稿日:2008 2 8()181027

  返信・引用

 

「照り返しの丘」を読む。
本篇の司政官ソウマは第2期生。ということで、前作の少し後の時代でしょう、一応連邦軍からの引継ぎは完了し、軍は既に引き払っています。ただ今回、引継ぎが恙無く行なわれたのは軍政の失敗があったからでもあります。
惑星テルセンの原住者はなんとロボット。そのロボットたちを作った真の原住者は、どうやら滅亡しており、いまはロボットだけがテルセンを支配しています(だから後継種との意味のSを付与されてS=テルセアと人類は命名)。
ロボットたちですから、自分たちの領域を侵されない限り、地球人たちが何をしようと一切無関心。これほど統治の楽な惑星もありません。

ただ植民に適地かどうかとなると、なぜ原住者が滅亡したのか、その理由を確かめなければいけないということで、軍は原住者の遺跡というべき所に無理矢理侵入しようとして逆にS=テルセアに撃退されるという失態を犯す。
そういう経緯もあって司政官が派遣された次第で、当然ソウマは武力など問題外、時間はかかっても一つ一つ障害を取り除いていき、最終的に原住者滅亡の謎に到達しようとします。司政官としては当然の態度です。
そのための具体的な行動はすべて官僚ロボットに任せておけばよい。司政官が決断し出張っていかなければならないようなことは何もないわけです。ただ待つだけ。すべての障害がなくなったとき、はじめて司政官の出番が訪れる。

しかし――
ロボットたちの時間感覚は生物種である人間とはかけ離れている。すべての障害が解除されるのが、20年後(地球時間で15年後)であることが判明したとき……

司政官の任期は5年を越えないという内規があり、ということは次の次の司政官のときになってはじめて司政官としての仕事が始まるわけです。つまりソウマ自身は何も仕事がないままに任期が明けてしまう仕儀となる。
何も「行為」しないということが、ソウマに課せられた任務となるのです。司政官として使命を確信し、叩き込まれた司政技術を駆使して使命を果たそうと、野心に燃えてテルセンにやってきたソウマにとって、これは矛盾以外のなにものでもなかった。しかし「組織」としてはそれが「正しい」ことになるのです。

もはやカルガイスト一族が活躍するゾンバルト的な膨張原理の時代は終わっており、それに代る司政官制度がようやく制度として機能し始めた時期、早くも司政官制度という組織原理が、当の司政官を圧殺する事態が起こっていたのです。
著者はジョン・カーターのような一介の風来坊が徒手空拳で一惑星を征服するような物語を否定するところから、SFを書き始めた。その意味で司政官シリーズはジョン・カーターの火星シリーズのアンチテーゼであるわけですが、そのような組織でなければなしえないプロジェクトが、逆に個人を圧迫していくという矛盾も、論理的に導かれるならば、それは当然描写されなければならない。本篇は著者のそのような創作態度が如実にあらわれていて、とても面白い作品となっています。



「司政官 全短編」より(1  投稿者:管理人  投稿日:2008 2 7()172336

  返信・引用

 

「長い暁」を読む。
司政官制度が立ち上がった最初期の話です。(おそらく)司政官一期生であるヤトウは、祭政分離が開始されるかしないかという文明段階、世界史でいえば〈古代〉にあたる惑星ミローゼンに配属されています。ただし司政制度という、ゼロから出発したばかりの新規事業の初代担当者でありますから、まだ何も整っていない。司政官本人とSQと15体の下級ロボット官僚が、独自の庁舎もなく、連邦軍の建物内に執務室と事務設備を借りて細々と仮住まいしているような状態。
いわば新規事業が立ち上がったとはいえ、いまだ何の利益ももたらさず既存の事務所内に仮住まいしてちいさくなっている状態ですな。あるいは大得意先の工場内にパーテーションで区切って机と電話だけあるような(^^;

前半はそんな仮住まいの肩身の狭い司政官の「気の使いぶり」が生き生きと、というよりも生々しく描写されていて、身につまされるような共感するようなむずむずした気分にさせられます。こういうのを書かせたら、眉村さんは実にうまい(^^)

後半は、後期のように巨大化して司政庁の地下に据えつけられる前の、可動的なSQが、その演算能力、論理回路を駆使し快刀乱麻の大活躍で司政官をバックアップします。その活躍ぶりが本篇の最大の面白いところでしょう。
SQの活躍は、連邦軍のようにロボットを単に人間の補助、使役するモノとしてみるのでなく、同格の(もちろん職位としての上下関係は守られる)パートナーとして遇する司政官システムの革新性が連邦軍の古いシステムに優ることを証明しているわけです。

このようにして、各星系で、司政官は次第にその存在価値を認められていくわけで、司政官制度は前途洋々たるように見えるのですが……さて。



自立的な文庫本と非主体的な公務員  投稿者:管理人  投稿日:2008 2 6()233426

  返信・引用  編集済

 

『司政官 全短編』は巻頭の「長い暁」から取り掛かる。60pあたり。
しかし727pの文庫本は扱いにくいねえ。重いし嵩張るし。半分に切って2分冊にしたくなる気分を押さえられません。サイン本ですからしませんけど(^^;
大体、この「長い暁」1篇で216pあるのですね。「だいにっほん、ろんちく……」が229p。1ページあたりの字数は「司政官」の方が多いので、枚数は同じくらいではないか。実質〈長編〉ですよね。これ一本で本にしてもよかったのではないでしょうか。
ちょっと薄いというのなら、眉村さんには異形コレクションに、司政官黎明期の「長い暁」より以前の、司政官前史にあたる「キガテア」という短い短編があるので、それを付けて本にしてもよかったんではないかな、と考えたり。

ちょこちょこと時間の隙間で読んでいる『モラトリアム人間の時代』の表題作を読み終わる。いやこれは啓発されたというか頭の中の整理に丁度よかった。
モラトリアム人間と消費資本主義の相関性を「だいにっほん、ろんちく……」では作家的直感によって感覚的に喝破してました。本書の前半はその辺を理屈で判り易く解説しており、うんうんと頷きつつ読んでいたのですが、当該概念を国家レベルに拡大した後半はやや首を傾げるところも。「自由からの逃走」のマゾヒズム型人間とは全然違うと好意的なのだが、そうだろうかと私は疑問。
たしかに、公務員というのはモラトリアム人間の職種であるわけで、しかしそう70年代後半に書いた著者は(もし存命だったら)モラトリアム公務員の30年後の「実績」をどう感じていたのか、興味あるところ。



「だいにっほん、ろんちくおげれつ記」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 2 5()222944

  返信・引用  編集済

 

笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』(講談社 07)

SFという視点から見れば、本書は《ディストピア未来小説》ということになるでしょう。
1部『だいにっほん、おんたこめいわく史』に引き続いて第2部である本書でも、タコグル率いるロリコン集団〈知感野労〉によって支配された近未来日本「大にっほん国」の、極端な地獄図絵が描写されるわけですが、いわゆるSFがエクストラポレーション的にあくまで「客観的な未来」を装うことが多いのに対して、本書のスタンスは、まさに著者の「主観的な未来」、著者の作家的直観と直感が捉えた、この社会をじわじわと犯しつつある、或る傾向を、悪夢と妄想の論理でカリカチュアして未来へ投影したものです。

したがってその外形は一種シュールレアリスム的といえ(人によってはマジックリアリズム的と形容するかも知れませんが、私はマジックリアリズムというものがよく判りませんので使いません)、その世界は遠近法的な意味でのリアリティは有効性を失っている。死者が死者のまま(あるいは霊として、ただし霊なのに物理的実体を持っていたりする)意識を持っていたり、2メートル近い巨大なロリ形少女がいたりする世界が現出します。それはカリカチュアによる風刺であり、ある意味本篇は、元来の、その言葉の原義であるところの「マンガ」を体現している。

古典的な意味でのストーリーは意味を失っているので、それを追いかけるのは無駄でしょう。山尾悠子のようなスタティックな幻想小説ではないのですね。上に「マンガ」と書きましたが、そのような意味でストーリーは副次的であり、むしろ著者の妄想した極端な人物や事物に付き従っていくべきだと思います。

私が特に感心させられたのは、本篇では少女が一種の形態矯正スーツ(というか着ぐるみ)を着せられて、アニメのロリ少女化させられているのですが、たしかにアニメ少女の不自然さが、そのアイデア(観念・感念)によってひしひしと読者に伝わってくる。そうしますと、ふたたびロリ少女の「アニメ絵」に目を転じたとき、その絵が、現実の「少女」が本体もっている可能性・多様性を緊縛し、ただひとつの(外在的な)観念のもとに実体のない空疎なフィギュアとしての意味を担わされていることが了解され、その気持ち悪さにオエーっと吐き気を覚えずにはいられませんでした。これぞ作家の想像力でありましょう。

結局著者が描くのは、本来あるべき〈自然な状態〉を不自然に捻じ曲げてくる〈力〉への抵抗であるように感じました。共に自然な状態を攀化する力体として、ネオリベ、グローバリズム的なものとロリコン、ペドフィリア的なものは相似的であり、だからこそ習合してしまいがちなのです。本書は笙野頼子の作家的想像力によって直覚された「現実」の拡大図といえると思われます。

次は『司政官 全短編』に着手します。



「日本SF・幼年期の終り」補完計画  投稿者:管理人  投稿日:2008 2 5()200931

  返信・引用

 

早川書房から『日本SF・幼年期の終り』という、いったい誰がターゲットなのかさっぱり判らない中途半端な本が出ており、定年再出発でも批判されていましたが(いま見たら削除されているようです。なぜ?)、このサイトで、上掲書に収録されなかった「残り71篇」をアップロードしてくれています。ありがたや(^^) こういう奇特な方がいらっしゃるので、玉石混交とはいえネットは侮れません。



書き落とし  投稿者:管理人  投稿日:2008 2 5()09031

  返信・引用  編集済

 

土田さん
や、眉村卓情報ありがとうございました。この雑誌ですね。
くだんの会で、そういえば仁来夢さんと眉村さんが話しておられたのがこの雑誌でしょうか。他の方と喋っていたのでよく聞いてなかったのですが。「高価な」という会話が耳に残っているので違うかも。聞いたことがない雑誌なので(といってもあまり雑誌売り場を覗く習慣がないのですが)近所の書店にあるとは思えませんが、捜してみます。



先生から電話  投稿者:管理人  投稿日:2008 2 4()235851

  返信・引用  編集済

 

土田さん
感想文、読ませて頂きました。

>迷宮的でかつ硬質
しっかりした幻想小説みたいですね。私好みな感じがします(^^;
や、そういえば「花腐し」も、お薦めしてもらっていながら読んでいませんね。申し訳ありません。
しかしまずは「半島」を読んでみますね(^^ゞ

笙野頼子は130pくらい。今日中に読んでしまえるかな。

柳生さん
お疲れさまでした。
>次回は会計係をしましょうか??
そう言ってもらえるのをお待ちしておりました!
だいたい幹事のくせに、一番先に酩酊してしまってますよね。実際半ばモーローとしてお勘定していたりするわけでして、今回は出席者が足りたので割引券を使わなくても問題ありませんでしたけど、催行人数ぎりぎりでやるときなどは本当に危なっかしい限りです。
次回からはぜひともよろしくお願いしますm(__)m。

雫石さん
お疲れさまでした。こちらこそありがとうございました。
>また、誘ってください
はい、もちろん。今後はぜひご常連となってくださいね(^^)

ところで、今日お昼頃、眉村先生よりお電話をいただきました。
大変楽しかったとのお電話で、感激したのでしたが、律儀な先生とはいえ、こんな電話は記憶でははじめてです。
昨日は面子も揃ったからでしょうか(久しぶりに服部さんも来て下さったし)、よほどお気分よく過ごしていただけたようです。幹事としてとても嬉しく思いました。
それもご出席のみなさまのおかげであります。ありがとうございました。次回もどうぞよろしく。



楽しかったです  投稿者:雫石鉄也  投稿日:2008 2 4()205342

  返信・引用

 

 2月3日の夜はとっても楽しかったです。
 幹事、ご苦労様でした。
 また、誘ってください。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703



Re: 眉村先生を囲む会  投稿者:柳生真加  投稿日:2008 2 4()193417

  返信・引用

 

> No.1145[元記事へ]

管理人さん
きのうはありがとうございました。
おかげでとても有意義で楽しい時間でした。眉村先生もお元気そうでなによりです。

> わ、柳生さんにもらった割引券使うの忘れていた、今気づいた(ーー;
ああ、もったいない! わたしは割引券が大好きなんです。次回は会計係をしましょうか??

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/tea/



松浦寿輝  投稿者:土田裕之  投稿日:2008 2 4()000428

  返信・引用

 

飛鳥新社のパンチという雑誌の2月号に眉村先生のエッセイが載っておりました。
ご報告まで。
(立ち読みですませていまいました。申し訳ありません)

松浦寿輝の「半島」を読みました。
個人的には傑作だと思いました。
(笙野頼子よりは私にあっておりました)



眉村先生を囲む会  投稿者:管理人  投稿日:2008 2 3()231651

  返信・引用  編集済

 

今日は恒例の眉村さんを囲む新年会でした。
盛会で、会うのはおそらくウン十年ぶりの雫石鉄也氏、S・A(深田享)氏、D野氏も参加して下さり、ほとんど同窓会状態(^^; とても楽しゅうございました。みなさまお疲れさまでした。

さて眉村さん近況ですが、『司政官 全短編』はすでに店頭に並んでおり、私も本日旭屋書店にて購入しました(サインしてもらった^^)v。
書き下ろし(?)で短篇集を出す予定があるみたいです。いま書き溜めているところらしく、書かれる予定のストーリー(複数)をお聞きしました。テーマは老人小説?
それから最近(昨日?)新井素子さんと囲碁を打ったそうです(勝ったらしい)。知らなかったのですが、新井素子さんって囲碁が強いのでしょうか。
あと日下三蔵氏の出版記念パーティで筒井さん、荒巻さんとお会いになった話とか、いろいろ興味深いお話しを伺うことができました。楽しかったです。

わ、柳生さんにもらった割引券使うの忘れていた、今気づいた(ーー;



「だいにっほん、おんたこめいわく史」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 2 2()00332

  返信・引用  編集済

 

笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(講談社 06)

わっ。100歳になった作者まで出てきたよ(筒井康隆みたいですな(^^;)。
つまりこの世界は2056年より後の近未来であるようです。筒井みたいといえば、初期の擬似イベントものに通じるものが本書にはありますね。60年代の筒井は、そろそろ兆しが現れていたマスコミ(とりわけテレビ)の人心支配、現実の劇場化をデフォルメして今ある世界を正確に予言していました。

一方、本篇がデフォルメして見せるのは非主体的なモラトリアム人間社会と市場原理の隠微な関係であります。などと唐突に言い出すのは、たまたま「モラトリアム人間の時代」(小此木啓吾)を読んでいる最中だからなんですが、モラトリアムとは猶予期間のことで、元来その語には、期間が終われば、大人になって現実社会に主体的に関与していくことが織り込まれている。ところが社会的な諸要因によってそのモラトリアム状態が固定化し、ある種の幼稚さ(≒ロリ嗜好)もまた固定化してしまっているのが現代の社会でして、このような社会的性格の一面が、意外にも市場原理グローバリズム、ネオリベラリズムと相性がよく習合してしまっているという現実を、著者はデフォルメして読者に開示してくれています。

おんたこの指導者アメノタコグルメノミコト(略称タコグ)のモデルはあからさま(^^;で、本篇はある意味タコグの内宇宙世界といえる。かかる(小説的に)実在化したタコグ内宇宙に百合若が投げ込まれ、オデュッセウス的遍歴が描かれるのかと思いきや、百合若は以後まったく登場しません。ただ自殺したみたこ教信徒埴輪木綿助が怨霊化しており、この怨霊がタコグに祟っていくのかと思えば、これもあっさりと一種の神様みたいな古墳の主に眠らされてしまう。ではこの埴輪木綿助の妹が連行されて悪名高き《火星人少女遊郭》というところで働かされているのですが、その彼女の苦界でのありさまが描かれるのかと思えば、著者が出てきて、

 書けん……これはひどすぎる。あまりにも無残である。いくらなんでも。

と描写することを拒否してしまう体たらく(ーー;
実のところ後半では〈物語〉的には殆ど進行していません。
ということで、ひきつづき第二部『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』を読んでみようと思います。



百合若伝説  投稿者:管理人  投稿日:2008 2 1()000752

  返信・引用  編集済

 

笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(講談社 06)に着手。
まだ90pあたりですが、うわーっ、これはオモロイ(^^)
これってヴォネガットではないですか(^^;
戦前2度弾圧された新興宗教みたこ教団は、百合子こと、エルビンジョーンズを信奉し一時はサン・ラっぽい演奏をしていたもとジャズドラマーの百合若の加入で一気に活性化尖鋭化するも、「知と感性の野党労働者党」(略して知感野労)に主導されたネオコン・ネオリベじゃなかったロリコン・ネオリベ独裁政権おんたこによって解散させられる。おんたこ政権のもと文学はラノベだけになり、日本国憲法はひらがなにされて幼児語で書かれたにっほんこく「憲法」となり、軍隊は美少女戦隊となっている、そんな近未来の物語。
百合若とくればユリシーズですよね。あるいは本書は「宇宙舟歌」のような、「タイタンの妖女」のような叙事詩SFになるのでしょうか。つづきがたのしみ(^^;


 
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