今津線を「阪急電車」といわれてもなー。 ピンと来ません。大袈裟な、という感じでしょうか(^^;。 「阪急」あるいは「阪急電車」と聞けば、ふつうは京都線とか神戸線を想起するように思います。 「阪急電車」と聞いてただちに今津線を思い浮かべる人は100パーセントいないのでは? たとえ沿線の住人であっても……。 学生時代、今津線で通学していましたが、その私の感覚でも「今津線」は「今津線」、せいぜい「阪急今津線」なのであって、その電車を指してことさらに「阪急電車」なんて言ったことは多分ないし、耳にしたこともない筈です。
とはいえ、あんなローカル線を小説の舞台にするくらいですから、著者はきっと沿線に土地鑑がある人なんでしょう。なら最近はそういうのが普通になっているのかもしれません。今津線を利用しなくなってウン10年の私にはそこまでのニュアンスの変化は分かりませんが、しかし違和感がありますなあ。
ということで、角岡伸彦『被差別部落の青春』(講談社文庫 04、元版 99)読了。 なにが「ということで」かといえば、著者はその今津線沿線にある母校のゼミの後輩に当たる人らしい。そのことを知ったのはかなり最近で、そうしたら先日ブックオフで本書を見かけた。これはシンクロニシティでもなんでもなく、著者のことが記憶に銘記されたことで、それまでは(棚に並んでいても)見えてなかった本書が可視化しただけのことでしょう(^^;
さて内容ですが、部落出身であるけれども「部落差別を直接的に体験したことはない」「実に幸せな部落民である」(15p)著者には常々、巷間目にする「活字にしろ映像にしろ」部落問題の報道に常に付きまとっている一種画一的な「暗さ」、「この半世紀間にわたってほとんど変わっていない」紋切り型の「描き方」(279p)が、変化し続けていてもはや一元的には括りきれないほど多様化した部落の実態とは、非現実的なほどかけ離れてしまっているというギャップに対する不満があったとのこと。本書はそれに対する「そんなもんではないやろ」という著者なりの反応であったわけです。ところが現実にはこのような報道を歓迎する活動家がいる、むしろ多いらしい。そういう硬直性に無縁なのが本書のよいところです。
そういう著者ですから、70年代〜80年代くらいまではそれなりの意義があり、(管見ではモノの面では)それなりの結果を出した同和対策事業が、今や既得権として遺制として残っている一面もきっちり書いています。 とはいえ「最近の批判は、運動や事業の問題ばかり集めて攻め立てているだけ」にすぎず「部落問題が、部落解放運動が抱える問題、すなわち部落解放運動問題にすりかわって」いて、「初めて部落問題に接する人が、部落解放運動の矛盾だけを見ることで新たな偏見をすりこまれ」(283p)かねないことについては強く警鐘を鳴らしています。
私見では、同和対策を既得権益として食い物にする者は、その人物が「部落民である」からではありえません。その人の個人の資質、志士でもないのに志士が就くべきポジションにいることが原因なのであって、そしてそういう人物をそういうポジションにのさばらせ続けた行政と組織の問題でしょう。 本書第四章で紹介される食肉工場の経営者のように、「会社の経営者として自分にできることがあれば、助けを請うものには可能な限り手を差しのべる」(151p)ことを実践している志士もいるわけです。
本書を読んで思ったのは、「寝た子を起こすな論」にも五分の利があり、差別はたしかになくなってきつつありますが、そういう透明化では、客観的には差別を自覚し、差別を否定する人が、たとえば子供の結婚問題等で、主体的な問題として対峙しなければならなくなったときに(かつての無意識な差別意識はもはやなくとも、逆向きの、自身が差別される側に引き込まれることへの恐怖で、あるいは自身は持ちこたえても親類の引き込まれる恐怖に引きずられて)、その人の「正論」があっけなく崩壊してしまう場合があることを防ぎ得ない。上記の正論は「無関係」「他人事」に依拠するものだからです。その意味で「寝た子を起こすな論」には五分の利しかないといえる。
いずれにしても当該問題に限らず「知る」ということが大事なんですね。小松さんのいう「叡知」です。もっともただ「知る」だけでなく、「主体的に知る」ことが大事なんですが。 著者が本書を書いたのも、突き詰めればそういうことなのでしょう。いささか例が飛びますが、ネット右翼の嫌韓言説の大部分は、本書の65pの父親のように「理屈やない、わしは怖いんや」という無知に帰着する。 その意味でも本書広く読んでほしいルポルタージュなんですが、今検索したら現在購入不可のようで残念。 私は思うのですが、SFなんてのは敷居が高くてもそれはそれでかまわない。読みたいものがゲットーを作って読んでいればそれでよい(極論ですが)。けれどもこのような類いの本はそうではない。敷居は限りなく低く、広く一般に読まれるべきだと考えるのです。古本屋で見かけたら是非。
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