ヘリコニア談話室ログ(2008年3)




「フェミニズムの帝国」読み中  投稿者:管理人  投稿日:2008 330()14176

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昨夜はあれからすぐ寝てしまいました(ーー;ゞ
朝起きて少し読み、現在200pあたり。

いまから200年後、あるきっかけで女性が支配する社会と化してしまった世界。新宿の都庁ビルはキャバレービル呼ばれていて(都庁は亀戸の6階建て駅前雑居ビルの中に移転)ありとあらゆる性風俗の店がひしめき、東の歌舞伎町と並んで新宿歓楽街の象徴となっています。その最上階の秘密会議場では20世紀末のエロス&バイオレンス小説研究家にしてメンズリブ運動の理論的指導者である大杉博士による〈男性改造講座〉が開講されていた。

「(……)そもそも、向こうが拒否してくれないことには、レイプにならないんじゃないですか」
「ふむ、それはなかなかよい指摘だ。(……)昔の男は実に頭がよかったといわねばならない。まず、女が未婚で子供を産むのは恥かしいことだという社会通念をつくる。さらに、女が子どもをかかえて一人で生きていくのが難しいように、働き口を狭くし、給料も少なくする。それから、処女を尊重し、性体験のある女を“傷もの”と呼び、性体験が多いほど女の値打ちが下がるという考えを広める。こうした仕組みによって、おのずと男は女に対して性的に優位に立つことができ、レイプも可能になるというわけである」
 聴衆はみな、昔の人の知恵に感心して嘆声をもらした。(152p)


いや大笑い。靖国神社は《英雄》を祀る「ますらお神社」となっていたり(都庁ビル内のストリップ劇場では靖国の作法に則った儀場ショーが人気を呼んでいる)、これは、この《毒》はぜひオールディスに読ませたいですね。きっと大喜びするはず。
引き続く講義もめちゃくちゃ面白い。20世紀末のエロス&バイオレンス小説の読破から帰納された(笑)ロストパラダイス!

ところで、主人公はおそらく最終的には真理子に裏切られる(復讐される)のではないでしょうか。とりあえず予言しておきます(^^;

 




自然主義SF?  投稿者:管理人  投稿日:2008 330()015347

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『フェミニズムの帝国』130pまで。面白いんですが、ここんとこ忙しくてなかなか読書時間を捻出できません。今日は1ページも読めませんでした。文章は平易で読み易いですし、ストーリーも形式的な冒険は皆無なので(自然主義SFと呼びたい(^^;)、集中的に読めばすぐ読了できる筈なんですけどねえ。ああ悔しい。これから寝るまで、できるだけ読むつもり。

 




よもつくらさか  投稿者:管理人  投稿日:2008 328()22374

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「軍深く関与」
ごく当然の判決で、なぜこれが大ニュースになるのか、そっちの方が不思議。

〈1〉軍から、自決用の手榴(しゅりゅう)弾を受け取ったとする住民らの証言が多数ある
〈2〉沖縄で集団自決が発生したすべての場所に軍が駐屯し、軍のいない島では自決がなかった
――などから「軍が深くかかわった」と認定。


うちの両親や近所の年寄りに聞いても、「軍が関与しなかったはずがない」との認識ですね。彼らがなぜそう考えるのかといえば、それは、同様の心理的強制(上意下達)を、当時彼らもまた感じていたからに他ならない。そのような「空気」は、沖縄だけではなく日本全土を覆っていたのです。すなわち(支配者側の子息で幼少であったため完璧にガードされて「現実」を経験(認識)せずに済んだ幸福なごく少数者を除いて)戦争体験世代の共通認識といってよいものなのでしょう。

ただ91歳の原告が、本心から主張を行なっているのも間違いないはず。ただ、その根拠はおそらくは戦後に防衛本能的に「無意識」裡に構築した「偽記憶」に由来するものに違いないと思うのです。

私としては、軍の上意下達の《中間項》として「やむなく」自決命令を発し、戦後糾弾され世間からうとまれ疎外されひきこもっているうちに、被害者意識が高じどんどん記憶が捻じ曲げられていき、最終的に証言台に立って「正義の意志」に基づき自己の清廉潔白を堂々と揺るがず述べるまでを描いた「小説」を読みたいなあ。や、これって倉阪鬼一郎の世界ではないか!

ところで、mixiのコメントを読んでいたんですが、歴史認識が稚拙というか知らなすぎる。本当にがっかりしました。もっと歴史を勉強しろよと思わずにはいられません。結局学校でちゃんと歴史を教えてないから、こういう連中が「改ざん派」に丸め込まれて虚構の「大問題」を捏造してしまうわけです。大体今の若い連中は、と書こうと思って、一体いくつやねんと年齢みたら、46歳だったあちゃー。
そういえば、私たちの頃でさえ、近現代史は3学期も終わり頃にささっとなぞるだけだったなあ(ーー;

 




村田基  投稿者:管理人  投稿日:2008 327()000956

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『フェミニズムの帝国』(ハヤカワ文庫 91、元版 88)に着手。
著者略歴を見て驚いた。第3世代なんですが、昭和25年生まれなんですね。第2世代の山田正紀と同い年。85年のSFコンテスト入選なので35歳でデビューなのか。今なら普通ですが、第3世代のSF作家は大体20代でデビューしていますから、その中ではやや遅れてきた作家といえます。この作家も「群れ」から距離をおき孤立の印象がありますね。
第3世代というと、わたし的には岬兄悟と火浦功のイメージが先入観として強かったんですけど、実際は村田や野阿や水見など、バラエティに富んでいたのですね。

 




「月の王」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 326()01324

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夢枕獏『月の王』(徳間文庫 93、元版 89)

30〜40頁の短篇4本と、巻末に80頁(130〜140枚)の中篇1本が収録されています。古代インド+ヒロイック・ファンタジーという設定がユニークなので期待して読み始めたのでしたが、有体にいって短篇はつまらないものでした。すっかり失望し、表題作である巻末の中篇はパスしようかと、そんな気持ちになりつつも、まあ乗りかかった船だと、いやいや読み出したところが、これが大当たり、いや面白かった。
やはりこの著者は、少なくとも100枚以上の紙幅がないと物語が離陸していかないんでしょうな。考えてみれば、つらら文ですから、40頁ったって、普通に詰めて書き写せばショートショートに毛の生えた程度にしかならないはずで、たしかにそんなボリュームで短篇は書けませんわな。無駄に紙幅を食うといえば語弊があるか、紙幅を惜しんでいたら走り出せないという意味で、アメ車なんでしょうね、この著者の小説は(^^;。
アメ車にはアメ車のよさがあるわけでして、少なくともこの著者は、車体がデカくなればなるほど、アメ車ならではの乗り心地と、豪快な走行性はましていくようです。

ところで先日は時代を釈迦以前としましたが、「ウルヴェーラーの苦行林でゴータマに会った」という記述がありますから(191p)、どうやら同時代のようです。それがどういう意味を持つのか、続編も読みたくなってきました。「妖樹・あやかしのき」というのが続編なのかな。

 




夢枕獏  投稿者:管理人  投稿日:2008 325()00011

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『月の王』に着手。
著者の本を読むのはずいぶん久しぶり。サイコダイバーとキマイラ吼を一時期熱心に追いかけていたのですが、ある日突然満腹感にとらえられ、もういいやとなってしまった。本篇はブッダ以前の古代インド、いわゆる十六大国の群雄割拠時代が舞台の、ヒロイックファンタジーのようです。バイオレンスものとはかなり雰囲気が違いますね。

 




オリゴ党観劇記  投稿者:管理人  投稿日:2008 323()23261

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下に記したように、今日はオリゴ党の公演を観て来ました。今回は短篇集。

会場のin→dependent theatre 1stはオタクの街日本橋の裏道にあって、不案内な私はなかなか行きつかなかったのですが、オリゴ党の公演にはピッタリな立地ではありました。

第一話『カーニバル・カーニバル』、これは小説でいえば土俗ホラーですね。山奥の土地成金を騙そうとして失敗し、這う這うの体で逃げ出した詐欺師二人組が山道に迷った末たどり着いたのは、村人たちが不思議な方言で話す山奥の部落で、丁度祭りの日だった。その祭りというのが……という異形コレクション的なストーリー。この方言が、なんというか聞いていて実に面白かった。文字での表現とはまた違った、視覚聴覚に訴える演劇だからこそ味わえる面白さだな、と、ふだん文字による表現ばかりと相対している私には妙に新鮮で刺激的でした。ストーリーも小説的な観点でしっかりしていて、このまま小説化しても十分通用すると思いました。

第二話『頭蓋骨からカレー』は、倉橋里実氏の一人芝居。一人で喋り詰めの一人芝居って、多分とても難易度が高いんでしょうね。それをほとんど痞えることなく演じきっていたのは、したがってすごい技倆なんだろうと思いました。ただ調子が一本調子だった分、ややこちらの注意力が散漫になるのを感じました。もっと緩急があったほうがよかったような。いや素人のくせにおこがましいことを述べてしまいました。申し訳ありませんm(__)m。

第三話『おじさんのジャム』とはジャムおじさんですね。非常に奇怪なパン屋さんの話。この話がわたし的には一番面白かったです。とりわけ尹千紘さんの熱演に好感。掛け合いの漫才というかコントみたいなパートがあって笑い転げてしまいました。イワハシ台本の新機軸か(笑)。
ただストーリーがちょっとバラついているように思った。ジャムおじさんをめぐって角突き合わせていた三人の女が、いつの間にか同盟を結んでいたのはいかにも唐突ですし、尹さんにジャムを渡しておきながら、パンを奪ったりするのは筋が通らないような。短篇にするためにその辺の因果関係が省略されてしまったのか知らん。

この3篇を繋ぐのが車椅子の紙芝居屋さんである宇野あいさんで、街角に、丁度車椅子が収まる程度の凹みがあって、そこが舞台であるという設定が、妙に琴線に触れました。ピアニカも哀愁があってよかった。ただ電動の車椅子は(演出的には)興醒めで、ここはやはり手動(?)でギーコギーコ出てきてほしかった。
けっきょくこの3篇は、街の猫や犬やネズミを観客とする想定なのかも。その伝でいうと、3篇の登場人物も、実は動物? 「カーニバル・カーニバル」で村人がやたら鼻をくんくんさせて臭いを嗅ぐのは、そういう意味合いがあったのかな。

今回はいつもにまして笑いの要素が強く、イワハシワールドがこれから変化していくのかなあ、という予感を感じました(それとも短篇集だからか?)。オタク的暗喩にみちているのは従来同様で、この辺わたし的には反応が鈍くなってしまう部分なんですが、とりわけ『おじさんのジャム』を観ていて、これはうちに娘に見せたら大うけするだろうな、と思っていました。つれてきたらよかった(^^;

今回も十二分に愉しませてもらえました。次回公演は9月とのことで、なんと宗教がテーマらしい。楽しみにしております(^^)

 




「夢魔のふる夜」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 323()213449

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今日はオリゴ党のお芝居を観てきました。『もう16年だよ! オリゴ党祭り 愛と勇気だけが友達』作・演出/岩橋貞典
観劇の感想は後刻ということにして、まずは読了本の感想――

水見稜『夢魔のふる夜』(ハヤカワ文庫 86、元版 83)

端的にいって、「空中分解」だったと思います(爆)。というか、SFのセンス・オブ・ワンダーは、管見ではすべての謎が明らかになってまず1点に収束し、しかる後にその1点から「断知識(断論理)膨張」するものなのですが、この伝でいうと、本篇は1点に収束しなかったといえます。

本篇の場合、1点に収束させる契機となるのが生体コンピュータMM6600の存在。著者がこの設定によって小松左京的なセンス・オブ・ワンダーをめざしたことはよく判るのですが、いかんせんこの設定が私にはふらふらしているように見えてよく判らなかった。
というか全体に説明不足で(著者自身は説明の必要を認めてなかったのでしょう)、なぜ17世紀初頭に集中的に介入するのか、論理的必然性が理解できませんでした。

ただし個々の謎自体はとても魅力的なんです。たとえば後半のケプラーの母親の物語は圧倒的で息つぐ暇もないほどだったんですが、この物語にしてもメインのストーリーに格別関与するものではありませんし、なぜ(MM6600の反映らしい)ウラニアが母親の身代わりになるのか、ついていけませんでした。

地動説をめぐるケプラーとガリレオとチコ・ブラーエの関係、地動説とキリスト教、新教と旧教、魔女裁判。16世紀初頭のヨーロッパにこのような魅力的な接点を見出したのは、まさに金鉱を掘り当てたに等しいといえると思います。が、それをSF化する段階でやや資料(リアル)に振り回されて「リアリティ」を減殺してしまったのではないか。いやどこまで史実的なのか私にはわかりませんが、ケプラーの造型にみえる矛盾は、それが史実にかなり忠実であることを示唆しているように思いました。

その意味で解説者が「SF的な設定は不要だ」ったと述べているのは、ある意味頷けるのです。小説の完成という観点からはそのとおり。
でも私自身は、この混沌とした暗さはとてもよかった。
道南さんがおっしゃるように「未完の大器」というべきで、この素材で性急に小松左京的なSFを目論んだところに無理があったのではないか。ここにある混沌とした暗さは、実に小松左京の明晰性とは正反対な資質でしょう、むしろ荒巻的だと思います。それにしても二人の教皇、二人の暗殺者という魅力的な発端が放り出されたままなのは残念。荒巻義雄ならばもっとこの謎に拘って奇怪な論理を組み上げるはず。

結局私自身は、著者が小松をめざした本篇を、荒巻的な観念をさがしつつ読んだといえるかもしれません。そのような読みは著者には心外かもしれませんが、私自身はかなり満足して本を閉じました。傑作になり損ねた圧倒的な怪作というべきでしょうか。

 




群れの構造  投稿者:管理人  投稿日:2008 323()11070

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道南さん

お久しぶりです。
おお、道南さんも水見稜がお好きでしたか!
土田さんも絶賛されてますが「マインド・イーター」がよさそうですね。これはちょくちょくブックオフで見かけますので、捜して見たいと思います。
「夢魔のふる夜」、さっき読み終えました(^^)
ただ、今から出かけますので、感想は今夜以降に。

ところで、先日の投稿で、
>SF界の「群れ」体質とは合わなかったのかも
と書いたのはそのとおりなんですが、言いたかったこととは微妙にずれてしまいました。
言いたかったのは、これは私自身昔から《SFファン》の一般的な傾向として感じているところなんですが、、「群れ」の中にいる作家しか《SF作家》として認識しない、という《SFファン》特有の「まなざしの在り方」なのでした(これは他のジャンルと比べてSFジャンルの、供給側と読者の距離が比較的近いこと、とりわけ読者層のうちのいわゆる《ファン層》の、一部で癒着が起こっていることによると思われます。ネット時代に入ってからは特にこの傾向は強く、現在ではかかる癒着部分から発信される情報が(絶対数が小さい)一般読者層の購買行動に大きく影響しているように私には思われます)。
そのようなSFファンの興味の〈偏り〉が、群れから離れたところにいる《SF作家》には不利に働くことは想像に難くなく、水見氏の時代はネット以前ではありますが、もし水見氏の立ち位置が私が想像するように群れから離れたところにあったのならば、上記のような偏りの結果、作品について言及される度合が比較的少なくなり、というよりもっと下のレベルで話題にされる度合が小さくなり、存在感が薄くなってしまい、結果として
>作品発表の機会が減っ
ていってしまったのではないか、そんなメカニズムを想像してしまった、と言いたかったのでした。この傾向、リゾーム的であってしかるべき網状インターネットが結果的に排除型グローバリズムに貢献しているのが面白いといっちゃ面白いですが。

 




水見稜氏  投稿者:道南  投稿日:2008 322()163745

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新潮文庫やハヤカワ文庫で活発に書下ろしを手がけておられた頃は好きな作家のランキング上位に位置していました。

『マインド・イーター』の中核を占める「野生の夢」が傑作であることには賛同してくれる方が多いのではないかと思いますが、『夢魔のふる夜』には「野生の夢」にまっすぐつながるものがあるというのが、初読時の読後感でした。

また、SFマガジン掲載時に、氏が、自分のSFの原点といいますか、SFにこんなことができるのかといったショックを与えてくれた作品として、小松氏の『ゴルディアスの結び目』を挙げておられたのに頷ける思いを感じたのを記憶しています。

氏には未完の大器といった印象がありましたが、作品発表の機会が減ったことには私も残念に思っていました。傑作か空中分解か、読後のご感想をまた読ませていただければと思います。

 




Re: 水見陵  投稿者:管理人  投稿日:2008 321()203753

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> No.1207[元記事へ]

土田さん

第3世代は殆ど読んでいませんが、そんな私でも大原まり子にしろ岬兄悟にしろ火浦功にしろ、その名前を見ただけで作風のイメージが浮かんできます。ところが水見陵の場合はそれが全く白紙。多分雑誌で読んだこともなかったに違いありません。第3世代の中ではかなり地味ですよね。あるいはSF界の「群れ」体質とは合わなかったのかも、とかいろいろ想像しております(^^;
ケプラー、ガリレオ、チコ・ブラーエ、デカルトと、1600年代初頭の同時代人総出演ながら、色調はあくまでも暗く、この辺は70年代SFの残照が感じられていいですね。しかし逆にいえばこのタッチが80年代以降の読者層には受け入れられなかったのかも、とも。

170pあたりまで進みましたが、いまだ全く先が読めません。これはよほどの傑作か、空中分解かのいずれかならんと、ゾクゾクしてきましたです(笑)。

 




水見陵  投稿者:土田裕之  投稿日:2008 321()080026

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>『夢魔のふる夜』
当時、現在のJコレクションと同じように鳴り物入りで
刊行され始めた新鋭作家の書き下ろしノベルスシリーズの第一回配本ですね。
この本も読んでおりますが内容は例によって忘却の彼方。

著者の本を全部読んでいるわけではありませんが、
個人的には「マインド・イーター」が大好きです。
80年代を代表する作品のひとつではないかとさえ思っています。

人気が伴わなかったのか、発表の機会が減って
結果的に本が出なくなってしまったのが非常に残念です。

 




天文城(ウラニブルグ)  投稿者:管理人  投稿日:2008 321()001037

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水見稜『夢魔のふる夜』に着手。
この著者を読むのは、本当に、完璧に初めて。予備知識も先入観も何もありません。真っ白な状態で読み始めたのですが(まだ30pそこそこ)、のっけから、ガリレオに「それでも地球は……」といわしめたウルバヌス8世は、個人としては実在しなかった――と、掴みはばっちりです。
これは面白くなりそうな予感――はするんですけどね、しかし先入観がないというよりも、(もちろん名前は知っていましたが)全く印象がないのですよね。ほとんど評判にならなかったんでしょうか。ちょっと不安も(^^;

 




巨星墜つ  投稿者:管理人  投稿日:2008 319()214720

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アーサー・C・クラーク氏逝去の報。享年90歳、心肺機能不全ということで、まあ大往生だったんでしょうけど、もっと長生きしてほしかった。がっくりです。
私のクラーク初読は、1969年9月で、『火星の砂』『海底牧場』を、大昔中央郵便局の筋向いにあった旭屋書店本店で購入しました。ちなみにこの2冊が初銀背でもありました。
読了日付はまだ付けてなかったので、詳細はわかりませんが、この当時の常で、おそらく数日以内に読み終わっていたはず。今みたいに買っておきながら読まない、なんてことはありませんでしたから。

で、よっぽど気に入ったのか、11月に『地球光』(ちなみに10月に『ソラリスの陽のもとに』)、翌年3月に『明日にとどく』を購読しています。

でも一番好きなのはなんといっても『都市と星』。読了したときは感動のため暫く動けなかった(いえ覚えていませんが(^^;)。当然この作品は、『都市』、『非A』、『ファウンデーション』、『火星年代記』などと並んでわが(オモテ版)オールタイムベスト5の一冊(というからにはウラ版ベストもあるわけです)。しかし読んだのはずいぶん遅くて、文庫版で1977年12月28日に購入しています。
おそらく文庫落ちして購入できたということでしょう。昔の銀背は欠品が常態でしたから、買いたくても店頭にずっとなかったのかも知れません。

そういう次第で大好きな作家でしたが、一時断筆していて復活してからは読んでないのですね。つまり『宇宙のランデヴー』以降。近年の共作ものは論外としても、少なくともこの3部作は(所持していることでもありますし)、せっかくですから著者をしのんで読んでみようと思います。合掌。

 #合掌と書くと、仏教徒でもない外人に向かって、としたり顔で言う輩がいますが、とんでもない話です。胸の前で掌を合わせるのは相手をうやまうときの無意識の自然な所作であり、宗教とは無関係な、人間の本能だと私は思います。

 




訂正  投稿者:管理人  投稿日:2008 319()09070

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うっかり、
>銀河系の形態上、ほとんど二次元的に把握できます
と書いてしまいましたが、たかだか直径100光年の光世紀球ですからそれはありえませんね(周辺部でも厚みは1000光年らしい)。
wikipediaの銀河系の項目を見ていて、自分の知識が完全に古びてしまっていることに愕然。銀河系って棒渦巻銀河だったのか!

 




「光世紀パトロール」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 319()00041

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石原藤夫『光世紀パトロール』(徳間文庫 86、元版 81)

SFアドベンチャー80年から81年にかけて掲載された連作シリーズ。単行本のタイトルは『ランダウの幻視星』。
著者の独創であるところの、本書の舞台である《光世紀世界》とは、最初SFマガジンに連載されたのでしたが、太陽系を中心とした直径1光世紀(100光年)の球を想定し、その内部の宇宙空間のことです。といっても銀河系の形態上、ほとんど二次元的に把握できます。

従来われわれは太陽系の位置をどう認識していたかといいますと、まず銀河系の渦巻き円盤の上空に視点を設定し、そのうちの渦状肢のひとつ、オリオン腕の真ん中よりやや外側、すなわち核を中心とみればかなり田舎の星系として認識していたはずです。

またその一方で、地球(われわれの視点)を中心としてみる場合は、今度は天球というのを仮定し、そこに投影された星座として認識しています。この見方では、ヴェガとアルタイルは天の川を挟んで対峙しているように見えているわけですが、実際は太陽からヴェガの距離は25光年、太陽とアルタイルの距離は17光年というわけで、織女伝説を仮託するほど両星が並んでいるわけではない。というか全くかけ離れているのです。ヴェガとアルタイルはデネブとともに夏の大三角と呼ばれますね。ところがデネブに至っては、wikipediaによりますと、太陽からの距離は「1500〜3200光年である。あまりに遠いために年周視差が非常に小さく、いまだにはっきりとした物理量が不明である」のだそうです(笑)。

光世紀世界とはこの両者の欠点を省いて融合する考え方で、太陽(地球)を中心としますが、同時に客観的な(外からの)視点を持つもので、とても合理的な認識方法です。今後宇宙に進出していく人類は、この光世紀宇宙的な認識が要請されていく、というか、そうしなければ宇宙旅行もままなりませんね。

本書に登場する星々はすべて(第4話の幻視星以外は)実在の恒星であり実在の数値なのですが、だからといって、オロモルフシリーズのような、ガチガチの数理ハードSFではありません。むしろヒノシオシリーズに近い。つまり一種マンガ的な味わいがあります。それも(以前にも書きましたが)石森章太郎のコマ割りではなく、藤子不二雄のように描かれていて、独特のほのぼの感がある。
舞台設定はリアルなんですが、かかる光世紀宇宙を作中人物に縦横に駆け回らせるためには恒星間ラムジェットでは間に合わない、超光速推進が不可欠ということで、光速伸張航法なる、ハリー・ハリスンの膨張推進に勝るともおとらぬトンデモ駆動法が開発されているのです! 面白い(^^;

ただ、本書を読み終わっても回収されていない伏線がいっぱい残っています。第4勢力とは何者か、とか。ケプラーが周期的に自閉症になる理由も根本的にはよく判りません。
おそらく中断しているのでしょう(そういえば「創星記」(85)も「美獣」(85)も完結しているとは言い難い。これは80年代に入ってから急速にSFを書ける媒体がなくなっていったということを示しているのかもしれません)。とても残念です。光世紀宇宙の話、もっと読みたいです。わたし的には、光世紀宇宙の実際の地理(?)に基づく一種の鉄道ミステリみたいなものを妄想するんですけど(笑) そうすれば自然と光世紀宇宙の地図が頭に定着して、現実の星空を見る目も違ってくると思います。

 




「美獣(下)」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 316()22105

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高千穂遙『美獣 神々の戦士(下)』(集英社 85)

SFマガジンに78年から80年にかけて断続的に掲載された4章に、書き下ろしの第5章が付加され、上下巻として集英社から刊行されたもので、日本におけるコナン型ヒロイック・ファンタジーのはしりといえます。

もっとも、日本製ヒロイック・ファンタジーとしてはすでに、71年より開始された豊田有恒の《ヤマトタケルシリーズ》があります。しかしこれはコナン型のヒロイック・ファンタジーとは全く別物というべきで、良くも悪くも豊田有恒のオリジナリティに溢れた独自のヒロイック・ファンタジーになって(しまって)います。
これはこれで私は愛読していましたけれども、少なくともコナン的なヒロイック・ファンタジーではなかった。

本シリーズはその意味で、日本人作家によってはじめて書かれた(そして世界基準のレベルに達した)「正統的」ヒロイック・ファンタジーだったと思います(ジュブナイルではほぼ同時期に宮崎惇の「魔界剣士タケル」「太陽神の剣士タケル」二部作があり、ジュブナイルにしておくのはもったいない傑作でしたが、これもまたコナン型とは少し違いました)。

ところがSFマガジンでは中断したまま放置され、既存分のみでも十分単行本化する枚数に達していたにも関わらず(ハヤカワでは)本にならず、結局5年後に(一応の)完結篇が書き下ろされて、出版社もなぜか早川ではなく、集英社から上梓されました。しかも本書(下巻)のあとがきで、本書が「ミッドガルド篇」というべきパートであり、「このあとにニフルヘイム篇がつづくものと思われます」が、とりあえず封印すると書かれているのです。

一体何があったんでしょうねえ。著者がやる気を失った気配がありありです。

ところで、同じくあとがきで著者は、「ヒロイック・ファンタジーは終わりのない永遠の旅の物語」であると喝破しています。これは私も同意するもので、たしかにヒロイック・ファンタジーを含む伝奇小説とは、SFのように「膨張」もせず、ミステリのように「収束」もせず、そのかわり永遠に続いていくのです。半村良が常に着地に失敗するのはまさにその所以ですね。

で、著者によれば本シリーズはニフルヘイム篇において「ヒロイック・ファンタジーではなくなり、SFとしてしめくくられることになるでしょう」と書いているのは、非常に理に適っており、要は半村の徹は踏まないという意思表明に他ならないはずです。
それゆえわたし的には、より強く完結篇を読みたいと願う気持ちを押さえられないのですが、どうもかなえられる日は来ないようですな。

――で、私なりに推理してみました(^^;。
付されたミッドガルドの地図(下図。クリックで拡大)を見て、ぴんと来ませんか?
これ、どうみても南極大陸ですよね。
wikipediaによれば、「5000万年前頃には南アメリカ大陸、オーストラリア大陸が分裂して完全に孤立した大陸となった。それまでは他の大陸に沿って暖流が流れてきていたので、現在とほぼ同じ位置に移動した後も温暖な気候を保っていたが、孤立の結果南極大陸を取り囲むように南極環流と呼ばれる寒流が生まれ、暖流を遮った。このため急激に寒冷化し3000万年前頃には現在のような氷の大陸となった。」

本篇によればミッドガルドはおおむね「ツンドラ(北の地)」で、「白夜」があるようです。いうまでもなく白夜が見られるのは、南緯にしろ北緯にしろ66.6度以上の地です(90度−23.4度)。南極大陸の海岸部は南緯65度以南で、対応する北緯65度以北はどのあたりかと地図を見ると、いわゆるツンドラ帯なんですね。

もし美獣の時代が寒冷化し始めた直後の南極だとしたら、まだ氷河が乗っかっていませんから南極大陸はもっと浮上して更に海岸部はせり出していたはずで、地図のミッドガルドにより一層似てくるはずです。

では南極なのになぜ北の地なのか? 磁極が反転していたのでしょうか。
またなぜ北欧神話の世界が南極に実現していたのか? むしろ南極神話が北欧に伝播したのかも。

私の推理が正しければ、おそらくニフルヘイム篇のラストでその辺の謎が明らかにされ、それらを統一して説明する原理が導入されてSFとなるはず!
当たるも八卦当たらぬも八卦、ああニフルヘイム篇、読みたいなあ(笑)

 




本棚で自己表現  投稿者:管理人  投稿日:2008 316()142122

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さて、今日も「dankaiパンチ2月号」をパラパラ読んでいると、
「一年ほどで体重が117キロから67キロになった(取材時は、さらに2キロ減の65キロ)」
という岡田斗司夫氏のインタビュー記事が目に。
それまでは
「予算とスペースの許す限り、いろいろなものを買い足していく」「ひたすら拡大していくことが快感」「床に本が溢れていた」
のが、肉体的なダイエットによって生活までダイエット志向となり、
「近所の古本屋に」「段ボール箱6箱を3回運びました」
とのこと。
「今は、蔵書量じゃなくて、1000冊だったら1000冊、すべて自分を表現できる本を置いておくだけでいい」「並んでいる1000冊をみれば「岡田斗司夫」という人物がわかる、そんな本棚にしたい」
コレクションを誇るのではなく自己表現としての本棚ですか……これは私も見習いたい。

『美獣(下)』は上篇よりの続きのパートを読了。残るは単行本書き下ろしパートのみ。じつはここまでは私もSFマガジンで読んでいたはずなんですが、完全に覚えておらず初読同然でありました。

 




「美獣(上)」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 315()142659

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dankaiパンチ2月号」をパラパラ読んでいると、去年、蔵書6.5トン分処分した(まだ10トン弱残っているそうですが)という黒田日出雄氏のインタビュー記事が目に。
黒田氏を一念発起させたのは息子さんの、
「おやじ、死ぬ前に、あらかた片づけていってくれよ」
という言葉。
いや、ぐさっと来ました。本人がどれだけ苦労し、時に昼飯を抜いてまで蒐めたものであり、その一冊一冊に思い出と愛着が詰まっていたとしても、家人からすれば単なるゴミの山なのですな。

「(自分が)元気なうちに、本を自由にしてあげる」
という言葉もよい。その存在理由からして本は読まれたいはずで(そのためにこの世に生まれ出てきたのですから)、そういう意味では死蔵するのは、誘拐してきた子供を何十年も監禁するのと同様の虐待なんですよきっと。本は読まれたら古書店に出て、別の読者の手に渡るという風に、どんどん回転していくべきでしょう。
だいたい、
「いっぱい本を持っていても、読んでないでしょう」
はい(汗)。

ということで皆さんも、とりわけハヤカワSF文庫は、どんどん自由にしてやって下さい。できれば値付けに価値判断を加えないブックオフへ。最近ブックオフで青背がほんとに少ないんですよね。よろしくお願いしますよ、ってなんかはき違えてます?

高千穂遙『美獣(上) 神々の戦士』(集英社文庫 88、元版 85)読了。ひきつづき(下)に着手の予定。

 




わらった  投稿者:管理人  投稿日:2008 314()234054

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「積極的な提案です。早川書房の編集者(海外SF書籍担当)を転籍させてください」

ところで前から思っていて、今ふと思い出したので記しておくのですが、「終わらざりし物語」(原題はUnfinished Tales)って、意味としては間違いじゃないのかもしれないけど、日本語の語感としてなんか違和感を感じませんか?
「追いし者 追われし者」も同様。

 




眉村卓情報  投稿者:管理人  投稿日:2008 314()202442

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以前に、土田さんが書き込んで下さっていた「dankaiパンチ2月号」の眉村さんの最新エッセイというかインタビューの構成記事ですが、ようやく雑誌を入手いたしました。
タイトルは「妻の死とその後」。まさに「その後」の心境の移り変わりを正直に語っておられますね。
ご夫妻の14年前と50年前の貴重なお写真が掲載されています。

高千穂遙のヒロイックファンタジー『美獣(上)神々の戦士』に着手。

 




「銀河盗賊ビリイ・アレグロ」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 314()00165

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都筑道夫『銀河盗賊ビリイ・アレグロ』(集英社文庫83、元版81)

都筑道夫の珍重すべきスペオペ連作。一応スペオペの定型的な設定を踏襲しており、運び屋サムに於ける参謀役のグロクロボ人アクラム・シャラーンや、愛機マザー・ファッカー号のメインコンピュータと同じく、本書では第1話で意気投合して参謀役となるファタルデロンの変幻自在の知性ある〈蛇〉ダイジャや、愛機ブラック・ウィドウのメインコンピュータのタロウが脇を固めます。
そういえばアクラム・シャラーンやダイジャに相当するところの、光瀬龍のスペオペ・猫柳ヨウレシリーズに於ける存在が、ラナという宇宙生物でした。私はこの永劫に生き続ける賢者生物がとりわけ印象深く記憶に刻印されているのですが、本書のダイジャは《時》そのものの具象化というべきラナのように達観しておらず、もっと下世話な好奇心に満ち溢れていて、ビリイの房事まで興味深く観察しようとしてクローゼットだったかに閉じ込められてしまったりするという、本書はまさにそんな雑然たるスペオペ的雰囲気に満ちた連作集です。

とはいえはじめのうちは、著者がこのような設定に慣れていなかったからか、あまり機能していません。いやむしろスペオペを書くぞという意識が強すぎて、逆にスペオペという衣装に「着られて」しまっているといった方が正解か。
ところがストーリーの構造はやはりミステリのそれなんですよね(そのくせダイジャのテレパシー能力に頼るのがアンフェアですが)。スペオペを着ようとして逆に着られてしまい、しかもストーリーは(緩い)ミステリというわけで、ある意味引き裂かれており、チグハグでいまいち面白いと感じられなかった。

ところが、書きつぐうちに著者も次第に設定を御し始めてきます。また私自身も著者の狙った効果にようやくタイミングが合うようになってきたこともあるのかもしれません、後半の2篇、「メイド・イン・ジャパン」と「顔のない道化師」は無類の面白さでした。
とりわけ「顔のない道化師」では、もはやスペオペの衣装はかなぐり捨てられてしまっており、夢の世界めいたファンタスティックな幻想小説の趣きがあり、本集中の白眉といえる傑作となっています。ケレン味たっぷりなラストもなかなかのもの。もっともこのラストでは続編は書き得ないわけで、半村良の巻末解説の「うがった解釈」にニヤリとさせられたのでした。

 




「銀河盗賊」  投稿者:管理人  投稿日:2008 312()173225

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【備忘】 高千穂遙が、出来合いの、建売住宅ならぬ建売宇宙(?)を利用するのに対して、川又千秋は設計の段階から大いに趣味(観念)に淫したオーダー宇宙を建設する。ただ「創星記」に関しては建設を急いだためか、趣味(観念)の展開が中途半端で、部分的に間尺の合わないところが生じて(本来あるべきレベルよりも)仕上がりが粗くなっているように思う。一方高千穂の運び屋サムシリーズは、ハコモノ自体は建売であるとはいえ、その内装にセンスが発揮されており、建売とは思えない華やかな雰囲気を醸し出しているといえる。

都筑道夫『銀河盗賊ビリイ・アレグロ』に着手。

 




「銀河番外地」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 312()014124

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高千穂遙『銀河番外地 運び屋サム・シリーズ〈1〉』(徳間文庫 80)

『五月ゲーム』の感想で、運び屋サムシリーズに言及しました。ところが、では一体どんな話だったのか思い出そうとして愕然としたことに、内容を完全に忘却しているではありませんか。

面白かった、気に入った、といった読後《感覚》はありありと残っていますし、このシリーズのジャンルにおける《ポジション》も明確にわが内なる日本SF地図に布置されているのですが、しかし個別具体的なストーリーそのものは全く消えうせてしまっていた。例えていえば運び屋サムシリーズを(30年前に)収納した箱は残っているので安心していたら、いざ蓋をあけてみると、なんと箱の底が(長い年月の間に)腐ってしまっていて、内容物がすっかり零れ落ちて紛失していた、そんな感じでしょうか。

そういう次第でほとんど30年ぶりに読み返してみた。
やはり面白かったです。わたし的には、クラッシャージョウでもダーティペアでもなく、このシリーズが著者の代表作だと思います(美獣は留保)。

では、なぜ忘却してしまっていたのかといえば、私自身が、縦糸よりも横糸に反応するタイプだからに違いなく、そういう意味ではこのシリーズの横糸はありきたりで、著者自身の観念が反映された特有のものはあまり見あたらないのですね。そのため印象が薄いのではないか。それは、例えば『創星記』(の前半)などと比べてみれば一目瞭然でしょう。本シリーズを軽SFであるとみなす所以です。

この手の作風に対してよく言われるところの、「地上的な話を宇宙に移し変えただけ」の典型的作品といえます。でも、地上的な話を宇宙に移し変えるだけで別の感興が付加されることもあるわけで、本シリーズはそういう機能がかなりうまく働いたシリーズなのだと思います。また、あくまでも〈大人〉向きのストーリーを維持しているのも、和製スペオペとしてはかなり稀有なことで、その点もわたし的にはポイントが高い要素です。

なかなかよかったので、第2巻も読み返してみるかも(^^)。

 




「創星記」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 311()01031

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川又千秋『創星記』(早川書房 85)

390頁の長篇ですが、あっという間に読み終わります。
短い。短すぎる(^^;。
もちろん、面白いからそう感じるわけですが、それだけでなく390頁のボリュームは感じられません。いわゆるツララ文なので、詰めれば320〜330頁くらいしかないのではないか。
そんな紙幅で、そもそもこの壮大な物語が語れるはずがないのです。
実際のところ、作者もあとがきで言い訳しているように、まさしく「この物語は、終わっていません。それどころか、はじまったばかり」なんですよね。
そして本書を、更に続いていく物語の<序章>としてみた場合でも、本篇はやはり駆け足という他ありません。欲をいえば、もっとじっくりと書き込んでほしかった。

主人公が金星を周回する基地衛星ヴィーナスターに到着し、金星地表で発見された《星母像》の存在を知らされ、右も左も判らぬうちにトラブルに巻き込まれて半ば強制的に金星表面へ連れて行かれるのですが、ここまでですでに紙幅の半分弱が消化されてしまっているのです。まだ何も始まっていないのに……
事実この段階で、私自身「残り半分でちゃんと着地して終われるんかいな」と思ったのでした。終わりませんでした(^^;

ところで、このヴィーナスターの、奇怪なゴシック風のたたずまいが実に魅力的なんですよね。ある意味ソラリスの基地衛星(ただしタルコフスキーの)にまさるともおとらない独特の異様な雰囲気を発散しているのです。ここはもっといろいろ読ませてほしかった。展開されるいとまもあらばこそ、主人公が金星に降りてしまったのはいかにも勿体ないと感じました。
かかるゴシックSF風味は、金星に着陸後はまったく顧みられず、物語はいともあっさりと神話風ファンタジーに取って替わられ、主人公は、神々のレベルでは金星そのものであるアフロディーテを救出するため単身冥界へと乗り込んでいくところで終わっています。

結局、ゴシックSFとして十全に展開されなかった物語は、神話ファンタジーとしてもほとんど膨らまされないまま、紙幅を使い切ってしまいます。
本書の文庫版は上下巻で500頁以上あるので、あるいは大幅に加筆されているのかもしれませんが、少なくとも単行本版の本書では提出されるアイデアの何もかもが十分に展開されずに打ち捨てられて駆け足で走り抜けていってしまう。
まことに勿体ないかぎりなんですが、それでも本書は面白い! 確かに傑作と呼ぶにはいささか小説としての均整を欠いており、また完結もしていないんだけれども、一種独特の磁力を放射していて捨て難い。〈怪作〉といえるのではないでしょうか。続きを読みたいと強く思いました。でも書かれてないようですね(文庫版では完結してるのかな)。

 




「創星記」に着手  投稿者:管理人  投稿日:2008 3 9()210923

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野阿梓の次は、同じく言葉(造語)の喚起力に自覚的でそれを効果的に用いる川又千秋の『創星記』を選択。
単行本版で読みます。390頁の大作。金星の分厚い大気の底の崖壁に人間の女性らしき浮き彫りが発見される出だしは掴みばっちり。

で、検索して気づいたんですが、文庫版は上下巻で500頁以上あるのですね。文庫化の際、大幅に加筆されたんでしょうか?

 




オリゴ党公演  投稿者:管理人  投稿日:2008 3 9()192218

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劇団オリゴ党の定期公演が、来たる3月22日(土曜)、23日(日曜)に計4公演行なわれます。
  →詳細

今回は短編集とのことで、多様なイワハシワールドが楽しめるのではないでしょうか。
私は日曜の昼の部に伺うつもり。ご一緒してくれる方いらっしゃいましたらメール下さい(^^;
わ、今回はトリイホールではないのか。間違わないようにしなくては。

 




「五月ゲーム」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 3 9()171337

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「妖精の夏」を読む。190頁(約300枚)の長中篇で、これは面白かった。
とはいえ最初の3分の1くらいは、レモンが私立探偵に化けていることもあって、ハードボイルド小説のように物語が進んでいくのです。つまり全然《謎小説》らしくなく、おいおい、と思いつつもこれはこれでなかなかよくできていて楽しめた。

このあたりは、〈運び屋サム〉シリーズみたいな上質の軽エンターテインメントSFを志向しているのかな、まあそれはそれでよしかも、と思いつつ辿っていたら、誘い込まれたHaunted Houseで、2種のナノウィルスに感染したレモンは〈夢〉の世界に引きずり込まれ、一気に《謎小説》そのものと化して、レモンの怒濤のソロ・プレイが始まります。ただ、それはHaunted Spaceと化したクローズドな層構造を、ある局面をクリアーすると次の局面に移動するといった体の、いかにも(テレビ)ゲーム的な世界でありまして、いわばコルトレーンではなくフュージョン的なプレイであるため、それが延々と繰り返されるので、最後はやや飽きてしまいました。

またラストで、SFとしては当然なのですが、いわゆるマッドサイエンティスト(もしくは超越的存在)による謎解明があり、すべてが腑に落ちてしまう。
つまりまっとうなSFになってしまっており、著者にバラード的な割り切れないものを求めて読んでいるわたし的には少し残念ではありました。
本篇にテクストラ・テレストリアルという魅力的な観念が展開されているのですが、著者自身にもっとテクストラ・テレストリアルに徹してほしかったように思います。

ということで、野阿梓『五月ゲーム』(ハヤカワ文庫 92)読了。

 




「五月ゲーム」着手  投稿者:管理人  投稿日:2008 3 8()13419

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『兇天使』を開けてみたのですが、惹句をみると何となく違うっぽい。〈銀河帝国もの〉ではないのでした。調べたら『武装音楽祭』がレモンもので、『銀河赤道祭』がオージュールもののようなんですが、生憎積読の中にはどちらもありませんでした。持っている中では『五月ゲーム』がレモンものらしいので、急遽こちらに変更。

で、表題作読んだ。
うわ、出た。これぞ私が予断していた野阿梓なのですよ。つまり少女漫画。
時系列的には「眼狩都市」から一ヵ月後の話なんですが、なぜかレモンの横にシャンブロウ少女がくっついている(前作の結末の謎はどうなっているんだ?)。兎と帽子屋も顔を揃えて下手な漫才をやっている。まさにキャラ化してしまっているのです。

本篇自体も、謎らしい謎はなーんにもなく、レモンらが乗り合わせたライナーが、別の過激派に乗っ取られ、燃料補給に着陸するのですが、その星ではおりしもクーデタが起こっており、反乱派と反クーデタ派が交戦しているというあらすじ。キャラ漫画と退屈な戦記シーンが交互に現れてくるだけ。

もっとも著者も自覚的で、それゆえタイトルが「五月革命」ならぬ「五月ゲーム」なんでしょう。
前作のむんむんする熱気はかけらもありません。非常に判り易く、簡単に割り切れて、「あまり」つまり謎は残りません。有体にいって二次創作ですな。しかし本人が自作を二次創作してどないすんねん。
がっかり。

解説者が「本書こそは(……)「革命」である」とぶち上げていますが、どこが? 作家本人が「ゲーム」って書いてはりますやん。

とりあえず残りの中篇も読んでみますが……。

 




「花狩人」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 3 7()204723

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野阿梓『花狩人』(ハヤカワ文庫 84)

デビュー作の表題作品を含めて3篇を収録した第1作品集。
表題作と巻末の「眼狩都市」は、前者が銀河連邦、後者は銀河帝国と、少し設定は違いますが(あるいは連邦制(共和政?)と帝政の違いは同じ世界で時代が違うのかも)、同様に遠未来の銀河辺境星域にある惑星の都市が舞台となっていて、小説としての構成も大変よく似ています。

前者では、ある特殊な惑星から、そのテレパシー能力で連邦にGメンとして出向している主人公オージュールが、休暇中に弟の死を知らされて、急遽その終焉の星にやってくるところから。また後者では、反体制的革命党〈狂茶党〉の武闘派急先鋒ながら、ヘゲモニーを穏健派に奪われたため大学でのオルグ活動という閑職に回されたレモン・トロツキーが、大学の夏休みで空いた休暇を、夏のリゾート惑星都市にサマータイムポリスの警官助手というアルバイトにやってくるところから、ともに物語が始まります(主人公のベクトルは正反対ですが、構造は同じです)。

わたし的には《銀河帝国シリーズ》と呼びたいこの2篇がとりわけ気に入りました。なぜそう呼びたいのかといえば、前者ではプロフェッサー・セルダンの言葉が引用されていますし(どうやらこの惑星の学園に赴任しているらしい)、後者の、いわば設定集というべき「趣意書」に「(彼は)簡単にいってしまえば、宇宙時代に帝国の存在を確信する思想音痴である――K・Y」という文が引用されているからで、いうまでもなくK・Yは山野浩一であり、上記の如くに山野が罵倒した(彼)とは、アイザック・アシモフに他なりません(cf「日本SFの原点と指向」)。

ここで少しそれますが、アシモフが山野のいうように「宇宙時代に帝国の存在を確信する思想音痴」であったとは私には思われません。私にいわせれば、アシモフは単にギボンの「ローマ帝国衰亡史」を銀河系を舞台に再話したかっただけなのであり、それは複数の日本人作家が「三国志」を銀河系を舞台に再話しているのと同様です。無論山野自身も上記の言説を信じ込んでいるわけではなく、上記評論がある意味「政治的」なものとして書かれたことに拠るのではないか。政治の言葉をそのまま受容することはできません。もちろん上記のセンテンス自体の論旨は正しく、私自身も「宇宙時代に帝国の存在を確信する」のは「思想音痴」に違いないとは思いますが、ただアシモフがそのような「思想音痴」であったとはとても思われません。

本書の著者がことさらに山野の文を引用しているのは、思うに(山野の「正論」を確認した上で)まさに著者がアシモフと同じ動機であることを示すためでしょう。すなわち著者はアシモフの銀河帝国にインスパイアされた別の銀河帝国を企図したのだと思うのです。

その銀河帝国(連邦)はどのような世界なのでしょうか? これがまたとてつもなくて簡単には説明できません。少なくとも前者では神話的な世界と繋がっており、後者では「この世界」がだれかの見た夢なのかも知れないと暗示されています。
ストーリーはひねくれかえっており、簡単な因果律は峻拒されている。その結果、作中人物の行動はきわめて了解し難い成り行き的な印象があり、とりわけ後者は沙漠と海に囲まれたリゾート都市が舞台となっていることもあって、バラードの短篇を髣髴とさせます。同様にバラード的な作風ながら静的な飛浩隆よりも、バラードっぽさはより強く感じられます。そのような印象を補強するのが著者の言語センスで、その唯美的な独特の表現を辿るだけでも読むことの悦楽を感じさせてくれます。

ところで、同様にアシモフ的な銀河的政体を舞台にしたSFシリーズに眉村卓の司政官シリーズがあります。本書と司政官シリーズは極めて対照的で、司政官がそのアウトサイダー・インサイドというべき極めて倫理的な「志士」を描いているのに対し、本書のレモン・トロツキーは表面革命党の活動家ですが、テロリストとして銀河政府に対峙する存在です。それはレモンが到着するや否や、初対面の警察署長を殺害してしまうところですでにして明らかであり、結局レモン・トロツキーの(この後続いていくらしい)物語は、おそらく革命的な物語にはならないのでしょう。このシリーズは著者の、趣味に淫した内宇宙なのであり、そしてこの内宇宙は更に奥行き深く拡がっているんでしょうが、ただそれだけの世界ともいえる(だからといってこの世界が倫理的な眉村ワールドよりおとるということでは決してありません)。

実は私には偏見があって、少女漫画を小説で描く作家という、その一点でこれまで興味をもてなかったのですが、大変な考え違いだったようです。SF的には荒巻義雄、川又千秋や山尾悠子と同じく「言葉による喚起力」で世界構築する作家の一人であり、それをスペースオペラ的な銀河世界という舞台において絢爛ときらびやかに表現できるという点では日本作家では他に類例が思い浮かびません。ある意味ディレイニーに近い作風なのかも、と感じました。とても面白いです。
余談ですが、《独善協》とか、歌とダンスパーティの《民声》なんて、若い人にはもはや何のことやら判らんでしょうな(汗)
ということで、続いて『兇天使』に着手の予定。

 




「花狩人」読み中  投稿者:管理人  投稿日:2008 3 5()21464

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「眼狩都市」と「花狩人」を読み、つづけて「花狩人」を再読しました。感想は残る「ハムレット行」を読んでしまってからまとめて書きます。

 自然に生きてるって分かるなんて、何て不自然なんだろう

 




万博以前  投稿者:管理人  投稿日:2008 3 4()234421

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やっぱりあった1967年

        1968年

 




いとしのマックス  投稿者:管理人  投稿日:2008 3 4()00468

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野阿梓『花狩人』に着手。
「真夜中をすぎてレモンはその町に到着した」という出だしが気に入ったので、最後の「眼狩都市」から読み始めています。わが経験則では、到着するところから始まる幻想小説にハズレはないので(^^;
ところでこの作品、本文の前に、英文で、
 I feel lonely, Max, hold me.
と記されているのだが、これ、荒木一郎ですよね? 「マックス、淋しいんだよ、マックス、抱いてほしいのさ」(笑)

野阿を読むのは、実ははじめて(厳密には「砂路」という作品を同人誌で読んでいますが)。というか野阿に限らず第3世代作家を、私はほとんど読めていません。それは丁度私が就職で本を読めなくなった時期に彼らのデビューが重なったというだけのこと、サイバーパンクを読んでないのも同じ理由です。

それはさておき、作中に「戦闘艦〈北西〉号を旗艦とする特務機動部隊〈ステラウィング〉」なんて記述があるんですよね(笑)。で、やはり〈ステラウィング〉(星の翼)はいともあっさりレモン・トロツキー(別名サンキスト)にやっつけられちゃう。この辺ご愛嬌と取るかマジと取るか(判る人のみ判ってくださいな(^^;)

 




コナン全集  投稿者:管理人  投稿日:2008 3 2()212231

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次に何を読もうか思案中。
年末から怒濤の勢いで日本SFの読み残しを消化してきましたが、ここにきて少しお腹いっぱい感が(^^;

なんかヒロイックファンタジーが読みたくなってきた。
そういえば創元文庫のコナン全集がしばらく出ていませんよね。
大丈夫なんでしょうか?
わたし的には、一年に一冊くらいのペースで丁度いいんですけどね。
出してくれさえすれば(笑)

 




「てろてろ」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 3 2()140213

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野坂昭如『てろてろ』(ファラオ原点叢書 91、元版 71)

面白かった。中段でちょっと渋滞しますが、終盤はなかなかでした。
帯に「痛快テロ小説」とあります。しかし痛快ではないなあ。「イタい」のはそのとおりですが私のような常識にまみれた読者には「不快」な部分もある。
スカトロジスト、オナニスト、酒乱派の、それぞれ自分の嗜好に一家言ある自閉症三人組が、執筆当時(69〜70週刊誌連載)を反映して、正規軍派などのテロリスト学生運動に触発されテロ集団青糞党を結成、その過程で中野学校出身の元スパイの老人、囚人の皮をはいでランプのシェードを作ったナチ収容所長の奥さんヒルデガルドのような嗜虐憧憬の女を仲間に加え、各人各様のテロをめざします。

ところが、ここが連載小説の宿命なのか、それも含んで著者の意図なのか、もともとの動機からどんどんずれていき、テロルと単なる殺人嗜好の間を行ったりきたりし始めます。そのあたりが上記の渋滞と感じられた部分で、(三島が注目したとあるように、たしかに時代性は色濃く反映されていますが)時代批判の書としてみればいかにも行き当たりばったりで弱い。ただ実際に縁もゆかりも憎悪もない他人を殺害する場面は、相手の死の感触が殺人者の手先からこちらにぐっと伝わってくるようで、ミステリやホラーの殺人場面とは全然違う質感がありますが。

むしろ彼らが妄想する未来図、たとえば東京湾の海流は時計回りで入れ替わることがないため、とてつもないタンカー事故で油が海面を覆えば、海流で東京湾全体が油膜で覆い尽くされ首都が砂漠化する、といった妄想は、これはまんま「燃える世界」をトーキョーに現出させる設定で、しばし私も妄想に耽らされたのですが、そういうのが一つや二つではきかず、こういう世界自体を読みたいと思ったのは、お門違いですね。

閑話休題、そんな風に、いかにも連載小説らしく、あっちへよろよろ、こっちへよろよろと物語は進んでいき、ようやく物語が畳まれる段階に至って、老人が襲撃した重度障害児施設で逆に取り込まれてしまう恐怖のシーンから俄然流れがよくなり、ラストではビルの屋上に立てこもった女が自爆のため子宮に差し込んだダイナマイトを爆発させようと導線に火をつけたところ「おびただしい愛液に、導火線はマイトに着火する直前、じゅっときえてしま」い(後に性科学者が、しかし常に消えるとは限らないから、と流行を戒めます)、捕まった女の体内から取り出すために不発弾処理班が出動してベッドを土嚢で取り囲み、婦人科医の指導のもと、決死でコトに取り組む図など、本を放り出して抱腹絶倒してしまいました。

とはいえ、筒井康隆なら、これらの場面、もっと具体的に面白く書くに違いなく、やはり30年前に感じたのと同様の思いを抱かされました。
ひょっとして「俗物図鑑」は、筒井康隆が本書を読み、オレならもっと面白く書けるぞ、との動機が書かしめた作品なのではないのかな、とふと思ったりしたのですが、それは穿ちすぎというものに違いありませんね(^^;

 




百済語と万物理論  投稿者:管理人  投稿日:2008 3 1()15067

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大和田始のHP(とブログ)発見! まだ全部読んでいませんが、2本柱が古代史とSFでなかなか面白いです。古代史は古田派のようですね。「幻詩狩り」はパクリなんだって(笑)

「日本語の中の朝鮮語」>百済語と古代日本語が似ていたというのは私もそう想像しているのですが、その意味で「昔は韓国と日本は同じ言葉を話していたような気がする」というコメントはやや厳密さを欠くのではないか。
少なくとも現・朝鮮韓国語は百済語とは別系(百済滅亡の後を襲った言語)でしょう。それが新羅語なのか北方系なのか、私には分かりませんが、しかし現・韓国朝鮮語の「イントネーション」は山陰〜若狭あたりの人が聞くと、自分たちの方言のように聞こえるらしいそうで(そうと知って韓流ドラマ(ソウル方言?)をみたら、確かに私にもそう聞こえました。特にセンテンスの語尾が少し上がって下りるところ)、またわが妄想の世界では新羅と出雲・敦賀は同系なので(^^;、新羅語→現韓国朝鮮語説は私の中ではかなり好みっぽいです(事実っぽいとは言ってませんので念のため)。

「万物理論」>「近年まれに見る悪質な作品」とのこと。「SFを装」っているとも。ふーん。ネットでは絶賛の嵐だったと記憶しているので、この見解は興味深く感じました。読んでみようかな、と一瞬思ったけど、分厚いしなあ、、、(汗)

 



 

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