ヘリコニア談話室ログ(20084)




「妖樹・あやかしのき」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 430()20309

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夢枕獏『妖樹・あやかしのき』(徳間文庫 91、元版 87)

こんな他愛もない話が、なぜこんなに面白いんでしょうか!
筆力、いや「物語力」なんでしょうね。筆者のそれはバローズに匹敵する。読みながらそんなことを思っていました。

あとがきによるとこのシリーズ、著者としては初期に属するようで、1作目の「人の首の鬼になりたる」『月の王』所収)がSFAに載ったのは、実に闇狩り師シリーズの1年以上前とのことで、本作のアーモンこそ九十九乱蔵の原型らしい。
しかし、わたし的には闇狩り師よりもこっちが好みです。

それは端的に(これは筆者も述べているところですが)舞台が古代インドだから。それだけ(ではないけどまあ大きくは)。で、全然印象が違ってしまうのです。闇狩り師は現代日本が舞台だけに、どうしても荒唐無稽感を押さえきれないのですが、古代インドだとどんな怪異が起こってもオッケーという気になってしまうんですよね。

しかもこのシリーズ、2巻とも約200ページそこそこ。この長さも丁度よいのです。実は「えーこれでお終い?」という、ちょっと物足りないくらいの腹8分目感覚が、次作への渇望感を残さしめるわけです。げっぷが出るほど満腹してしまったらもう次のに手を出す気にはなりません(とはいえ著者も、ご多聞に漏れず後になればなるほど長大化していく傾向があります)。
で、本篇を読み終わって丁度よい腹具合なんですが、なんとこのシリーズ、2巻のみでもう続巻はないらしい。えー? それはないよ!

ということで次は、〈翻訳紹介されにくい作家〉のひとり、トマス・バーネット・スワンの『薔薇の荘園』に着手の予定。

 




「妖樹・あやかしのき」着手  投稿者:管理人  投稿日:2008 430()001740

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夢枕獏『妖樹・あやかしのき』(徳間文庫 91、元版 87)に着手。
先日読んだ『月の王』の続編。というかあとがきによればこっちが第1巻になるようです。
ガンジス川流域のヒンドスタン平原は、そのどこにいても常に北方にヒマヴァットの白きたおやかな峰々が望見できるのでしょうね。そのような、いわばジオ・コスモス感覚が本書の魅力です。夢枕獏の古代インドヒロイック・ファンタジー、いいですねえ。

まずは第一章を読みました。ストーリーがシーンの連続によって構成されるものであるなら、ここには有体にいってストーリーはありません(^^;。大体、50頁あるこの章の大半40頁が、主人公アーモンと従者のヴァシタが雨宿りに入った石小屋(カルカ)のなかでの話(もちろんそのなかで波乱万丈の事件が起こるわけですが、場面が変わっていくわけではない)。すなわちワンシーン(場面)で消費されているわけです。場面をここまで引っ張れる(というよりワンシーンにこれだけの分量を必要とする)作家って、少なくともSFやミステリには他にいないのではないか。たて糸のストーリーでなく横糸の〈関係性〉で物語を積み上げていくわけですね。これが著者の特徴かも。ある意味劇画的なんです。連載ものの劇画って基本的にストーリーないじゃないですか(悪く言えば話が全然前に進まない)。たしかに読んでいても、小説を読んでいるというよりも劇画を読んでいる感じが強いです。

 




翻訳紹介されにくい?  投稿者:管理人  投稿日:2008 429()005740

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パメラ・サージェント『エイリアン・チャイルド』(ハヤカワ文庫)をブックオフにてゲット。
解説で、翻訳紹介されにくい作家がタイプ別に分類されています。面白いのでご紹介。

1、無冠の作家:ヒューゴー賞やネビュラ賞などに縁のない作家。
2、凝り性の作家:チェリイ、ウルフ、ビショップ
3、短篇作家:エリスン、ラファティ
4、死んだ作家:スワン、パングボーン、スタージョン
5、イギリス作家:ライマン、ポラック、コールダー、メアリ・ジェントル
6、マイノリティ作家:オクテイヴィア・バトラー

本書は91年の出版なので、16、7年前の状況ということになります。で、現在の状況はどうでしょう。
様変わりしているような、していないような。
ウルフやスタージョンは今や人気作家でどんどん本が出てきていますね。
ラファティの場合は91年の段階で既に4冊出ており、それ以後も5冊出ています。もともと紹介は比較的進んでいた作家のような気も。
逆に5のイギリス作家や6のバトラー、本書のサージェントもそうですが、かれらはその後も殆ど紹介は進んでないようです。
にしても、上記は国書や奇コレの主たる分野というべきで、やはり状況は当時とはかなり変わってきているのは事実。
というか、これって当時のハヤカワの予断、思い込みだったのではないか。
国書や奇コレの成功がそれを証明しているのでは。こういう作家は少ないけれどもがっちり固定したファン層を持っており、プレゼンテーション含む売り方次第では、実は当時でも十分商売になったはずなんです(小部数発行も)。というよりも、上記6つのタイプそのものに、実は強力なアピール性があったんです。そこを逆に売り込んでいかなくては。凝った文体は売り物になるし(国書)、短篇集も売り物になる(奇コレ)。同様にマイノリティも売り物になるはずです。
結局ハヤカワSFってスーパー業界と同じ轍を踏んでいると思います。三浦展のいう「上に対してモノを売る」という意味がわかってない。というか未だに旧態依然たるスーパー的な意識のままのほほんとしているように思われて仕方がない(スーパーは必死に変わろうとしてます)。いつまでも大衆SFを売っていても読者数自体が減少していくんですから。そういう「先」がハヤカワには見えないのかな。
そういう意味では、本書も(まだ読んでないので内容は判りませんが)、こんな男性原理的表紙絵で売るんじゃなく、フェミニズムで売らないとね。買いたい層に届かない売り方をしていては、そりゃサージェントも次の本が出ないわけです。

 

 

 

 

(管理人
>これって当時のハヤカワの予断、思い込みだったのではないか
一晩寝て見直して、ちょっと文意が尽せてないと思うので補足します。

解説者は翻訳家なので、上記6項目は、自分が原稿を早川に持ち込んだ際の編集部の雰囲気を分析したものと考えられます。あるいは翻訳家仲間での共通認識みたいなものかも。
そういう意味で、上記6項目(1も積極的な意味に捉えて)のような作家をプッシュしたいのに、反応の鈍いハヤカワの旧態依然たる意識に対するもどかしさ、じれったさがそこはかとなく表現されているように感じたというわけです。その後、ハヤカワではあかんと見限って新天地を求めた結果が国書や河出で開花したといえるのかも。
というのは上記解説文から触発された私の妄想で、何の裏付けもありませんので念のため。

 




「クレプシドラ・サナトリウム」  投稿者:管理人  投稿日:2008 428()012733

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「クレプシドラ・サナトリウム」が読みたくなったので、平凡社ライブラリー版『シュルツ全小説』をひっぱり出してきた。
いやあ何度読んでも面白い。幻想小説の傑作です。

ところでこの版では、タイトルが「砂時計サナトリウム」と改題されています(元版の恒文社版では「クレプシドラ・サナトリウム」)。
なぜ改題したんかね。私は要らぬ改題だったと思います。

注釈に、「原語のSanatorium Pod Klepsydraの表記は固有の名称を表す。Klepsydraには(1)水時計、砂時計、(2)死亡ないし葬儀の通知または掲示という両様の意味がある」とあります。
本篇は、死亡した父親を生かすため、「時間を後退させる」技術が存在する街のサナトリウムへ父親を送り込んだ主人公が、父の様子を見にその街を訪れるという話で、この街では時間の流れが乱れまくっている。
つまり上記のどちらの意味も本篇の内容と関連しており、その意味で「砂時計」と限定するより両方を指示する「クレプシドラ」の方が内容に沿っていると私は思います。

良い小説なので、もっともっと読む人が増えてほしいと、常々そう願っているのですが、あまり読まれてないみたいですね。ネットでも殆ど感想文はヒットしません。
前から思っているのですが、SFマガジン載せたらいいのに。SF読みならばこの作品を正しく楽しむことができるはず。
ただ工藤幸雄の訳は正確なのかも知れませんがいささか生硬。もっともシュルツの原文もかなりくどいところがあるような気がします。なので工藤訳をそのまま載せるよりは池内紀のカフカ訳ような自在訳での新訳が好ましいんですけどね。池内紀はポーランド語はできないのかな。

 




「氷になった男」  投稿者:管理人  投稿日:2008 427()11519

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岡田斗司夫の『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書)が面白そう。
それにしてもなぜ「オタクはもう死んでいる」にしなかったのかな。そっちの方が商売的にもキャッチーなのに。
もとより岡田氏のそれに気づかぬはずがありません。だとすればそのオタクという言葉に込められた質(これを著者は分析批判しているんでしょう)と、(読者の脳には響いているであろう)ケンシロウの陰々たる声質や口調との間のギャップ、オマヌケ感を(それによってパロディ特有の笑いが生ずるわけですが)、岡田氏は自分の著作には不適と嫌ったからに違いありません。非常に論理的な判断です。同じ第1世代おたくとしてはその感覚は何となく判る気がしますね。

と書いていて突如「ミズコール・サムサ」を思い出した(笑)。
もちろんグレゴール・ザムザのもじり。オリジナル(世界的名作の主人公という質)とパロディ間のギャップ(ひきずりおろし)が笑いを発生せしめるのは上記と同じですね。
さて、ある朝目覚めると、ミズコール・サムサは氷になっていたという、この前代未聞にして前後不覚、前人未到にして前方不注意の傑作ナンセンスSFを書かれたかんべむさしさんからレスをいただきました(>枕が長すぎ(^^;)

かんべさん、ツッコミありがとうございます。
カメラ音痴なもので享生半世紀、はじめてネガとポジの実体的な違いを(言葉を知っていただけで)知ってなかったことを、知ることができました。まったくドジですねえ。人生の生き恥をさらしてしまいました。ああ舌噛んで死んじゃいたい。
ということでドジの投げ合い。これがほんとのドッジボール。あれ、私以外の全員がミズコール・サムサになってしまった。失礼しました〜m(__)m

 




あきらめの悪いやっちゃな!  投稿者:かんべむさし  投稿日:2008 426()221815

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管理人様。悠子オタクの某中年SFファンにお伝えくだされ。
写真はネガではなく、スライドに使うタイプのポジなのよ。
それをパソコンに取り込む方法って、ありますかえ?
え、あるんですか。すんません。私、ポジではなくて、ドジでした。

 




裸眼立体視  投稿者:管理人  投稿日:2008 426()150753

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かんべむさしさんがふりーめもにおきまして、「中年と思われる某SFファン男性」の要求が実現不可能であることを、その、いかにもSFファンらしく頑固で無粋で原理主義的で融通がきかなそうな「中年と思われる某SFファン男性」に判らせるために、ステレオカメラの仕組みから説明してくださっています。

なるほど、つまりは立体視の原理ですね。だったらビュアーを使わなくても目の訓練で立体画像は得られるのではないでしょうか。
ということで、下はネットで捜してきた立体視図形(平行法)のモデルです(http://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/~shinmori/3D.html)。
角度がすこし違う同じ風景が横に2枚並んでいるのはステレオカメラと同じですね。ステレオカメラの仕組み上平行法になるはずなので、これを見ながら目の焦点を開放系にしていくと、2枚の画像は右目と左目に別々に認識されあわせて4枚の画像が見える筈です。これを内側の二枚が重なるように視線を操作すれば、ある瞬間、像が重なって3枚の同じ立体画像が得られるはずです。どうぞお試しあれ。実はこれわりと得意なんです(近眼ほど向いているらしい)。

ですから高齋正さんがステレオカメラでお撮りになった2枚の(角度がわずかにずれた)写真を並べてパソコンに取り込み、これをアップすれば、閲覧者は(多少の訓練は必要ですが)ビュアーで見るのと同じくっきりとした立体映像を見ることが出来るはず――だと私は思います。
というわけで、私の想像に間違いなければ、「中年と思われる某SFファン男性」の希望は、ひょっとしたら叶えられるかもよ(>こらこら(^^;)

 




「たまご猫」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 426()00411

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皆川博子『たまご猫』(ハヤカワ文庫 98、元版 91)

このようなセンシティブでセンシュアルな作品群に接すると、SFって本当に鈍感でダサい小説形式だなとつくづく思ってしまいます。いやまあSFとは元来がそういう性質のものなんで、だから上記は卑下でもなんでもなく、世にはいろんなジャンルのいろんなタイプの小説があり、それぞれに異なったたのしみかたがあるということですね。

実は巻頭の表題作を読んだときは、どうも反りが合わなくて、つづけて読み進めるのをやめようかと思ったのでした。この作品自体は露伴の「観画談」めいた話で、冒頭から主人公が〈クライン・キャット〉(たまご猫)を見つけそのなかに取り込まれていくあたりまではぐいぐい引き込まれて読んでいたんですが、最後のシーン(オチ)で一気に違和感におそわれた。私にはそのシーンがそれまでのいきさつからは(論理的には)「繋がらない」ように感じられたのです。しかもずいぶん安直な(誰でも考えつきそうな)イメージかなとも。

しかし次の「をぐり」以降は、全く違和感なく惹きこまれて一気に読んでしまいましたから、これはやはり「表題作」を読む時点では、私の読みのスタンスにSFのそれが(とりわけSFらしいSFを読んだ直後だったので)残存していたせいかも知れません。SFの言語は、小説の言語としてはかなり〈理〉に傾いており、その分「日常の言語」に近い一面が確かにあります。すなわち(先日引用した)諏訪哲史の所謂「非日常の文学的言語」とは案外相性が悪いといえるのです。そういう(良くも悪くも)SF特有の観点を、どうも引きずって読んでしまったのではないかと思われます。

結局、本書はわたし的には順番が後の作品になればなるほどしっくりと肌に馴染んでいったのですが、これは逆に私の読みのスタンスが、読み継ぐほどに皆川ワールドならぬ「皆川魔界」(東雅夫の解説)に〈最適化〉されていったということなのかもしれません。

たしかに本書の諸篇はいずれも〈日常的な思考〉からは思い切り逸脱しており、そういう観点からは了解不能な話ばかりが並んでいるといえます。本書の愉しみは、読むことによって日常的世間的思考体系を一旦棚上げにし、「非日常の文学言語」空間に身をまかせることによって得られる愉悦なのだと思います。そんなことはまあ読めば誰でもわかることですね(汗)。
とはいえ「朱の檻」や「骨董屋」などオチにいたる首尾が一貫した作品もあり、そのような作品ではSFに類似した感興も味わえ、そういう意味でもなかなかバラエティに富んだ好作品集でもあり、とてもよかった。堪能しました。

 




空を飛ぶのは羽根があるから  投稿者:管理人  投稿日:2008 425()000210

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【本日の名セリフ】
 偶然が3回重なることは、現実の世界でしか有り得ない。(「本を貶す」より)

【BGM】
 「たくろう・オン・ステージ・ともだち」版より>詞が一部違いますね。声もなんか軽い。

今日は疲れたのでこの辺で。

 




「夏の涯ての島」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 423()195047

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「息吹き苔」読了。
実は三読目なのでした(^^;

この話は(「転落のイサベル」とともに)、歯応えのあるSFが揃った本集の中でも、とりわけジャンルSFの素養がなければ楽しめない、あるいは「楽しみにくい」作品といえるかも知れません。
もちろんSFに対してずぶの素人が読んでも読めないことは決してありません。ただある程度「素養」があったほうが理解しやすい。それがないと、おそらく読んでいても面白いとは感じられないであろうことは容易に想像されます(ただし何とか我慢して読了できさえすれば、ラストでさーっと感動が広がることは請けあいます)。

それは設定が理解できないと、読みの視界が暗闇のなかを手探りしながら進んでいくような、くっきりとしない、はっきりとしない、もやもやっとしたものに閉ざされてしまうからなのですが、とはいえその設定の一々は高邁な哲学的知識や厳密な科学的思考を要求されるものではなく、事前に設定を聞いておきさえすればかなり霧が晴れて読める、そんな程度の「素養」なんです。

それをある程度おぎなうのが、SFの本には大抵付されている巻末の解説の役割なんですね。SF小説に「解説」が必須であることはつとに指摘されておりますが、それは上記のような理解の助けがどうしても必要である(場合がある)からでありまして、福島正実の解説をお読みになると判りますが、福島さんはその点をきわめて意識して解説を書いています。私もSFに入門したての頃、どれだけ福島解説に助けられたことか。

その意味では、本篇こそ「解説」が必要とされる作品なのですが、実際これはかなりの至難です。本書の解説はそのような設定解説を「完全に」回避しており、その態度自体はどうかとは思いますが、これは責められないなあ。このレベルの作品に対して解説できるのは故福島さんや浅倉さんなどほんの数名しか日本にはいないでしょう。

で、私も三回読んで判らないながらもいろいろ考えました。その結果とりあえず現時点で「こういうことではないかな」という「仮説」を「一部」得ましたので、ここに開陳して諸賢の批判を仰ぎたいと思います。

まず、本篇の魅力として、何がなんだかよく判らない「世界の在り方」が、それにもかかわらず非常にリアリティをもって、ありありとそこに存在している感じがあることが挙げられると思います。
実はそう感じさせるのが、ストーリーに絡んでこないディーテイルの豊富さで、たとえば聖ジョアンナや先住民レヴィアタンの謎めいた伝説は、ストーリーとはまったく絡みませんが、この世界の住人にとっては既成事実なのでことさらに説明されない、そのことによって作品世界に奥行きが与えられている。なぜ「ロケットの夏」があり(オマージュは明白ですが。ついでに「〈すべての道の果てにある都市〉ゲジラー」(392p)のオマージュも明白ですね)、そのときに限ってエイリアンたちがやってくるのかも、読者にはさっぱりわかりませんが、作中の住民にはこれも何の説明も要らない当然の事実なんです。凡百のストーリーはどんどん読者の側に擦り寄って来て逆にリアリティを失ってしまうのですが、本篇ではそんなこざかしいストーリーラインを採用していないのです。こういう描写ができる筆力が、本篇を、「よく判らないけど偽物ではありえない」と読者に「信じさせる」力になっているのは間違いありません。

さて、本篇のメインテーマは「距離の苦痛」という概念であるようです。
紙片を折り曲げてワープを説明するのはSFの基本ですが、本篇でもレヴィアタンの遺跡である城砦(カスル)に住まう老神秘修行者(タリーカ)によってそれがなされます。ただその意味付けがきわめてユニークで、これを「距離の苦痛」とするのです。

「さあ、想像してみなさい、ジャリラ。この宇宙がたったひとつのもの、〈これ〉が〈あれ〉のあとにつづくようなひとつながりでなく、潜在的可能性の果てしない枝分かれだとしたら? 宇宙は天地創造の日からそうだったし、いまもそうなのよ(……)あらゆる瞬間にいろいろの変化が含まれている(……)枝分かれ(……)このカスルのなかには、おまえもわたしもまだすわったことのない宇宙がいくつもある。そこにはジャリラのいない宇宙もある(……)いまのが〈距離の苦痛〉――あらゆる潜在的可能性の感覚なの」(396-397p)。

これは先日かんべさんのエッセイ「脳の美化作用」について書いた拙文と同じことを言っていると思います(「並行世界の玉突き現象」4/12の記事参照)。なんというシンクロニシティ!
つまりこの小説世界におけるワープとはひとつの時間線内の空間に起こるのではなく、時間線も別のに移ってしまうという性質なのです。ワープはそれを意識的に利用する技術ということになりますが、実はそれはワープのときだけでなく、日常頻繁に「あらゆる瞬間に」起こっていることが示唆されます。
前半に出てくる唐突な文章――

「私たちは出発点に戻ってきたんだわ」「いや、それは無理だ」「じゃ、ここはどこなのよ?」「どこかちょっと別の場所さ。この潮の花も以前とは変わっているはずだし、われわれも以前のわれわれじゃない」(353p)

というのは前後のコンテキストのなかでは理解不可能なんですが、「距離の苦痛」の先触れとして、あえて著者は挿入したのではないか。

「ひきかえそうか?」やがてカラルがたずねた(……)「ひきかえさなくたって――このままどんどん進めば出発点へ帰れるのに」(……)「賭けるか?」(354p)

「そこでふたりはそのまま進み続けた」(同)
わけですが、その結果二人が到達したのはタリーカの住まうカスルであったのも示唆的(意図的)です。「距離の苦痛」にたどり着いたわけですから。城内に入ったジャリラの頭に突如、その言葉が宿ります――

「〈距離の苦痛〉――おや、その言葉はいったいどこからやってきたのだろう?」(357p)

さてこのカスルで、ふたりはタリーカの背中に石を投げて逃げ出すことになるのですが、最初二人は「このカスルでも高い場所」にいて中庭にいるタリーカを見下ろしています。投石した場所は定かではありませんが、逃げ出す瞬間、主人公は「急いで階段をのぼる前に、ジャリラはちらと背後をふりかえり、カスルの高い窓からひとすじの熱い光の流れが自分の顔を横切るのを感じた。タリーカは見えない白い目をまっすぐこちらに向けていた」(358p)となっていて、タリーカとふたりの位置関係が逆転していることに気づかされます。あるいはこの瞬間もまた、次元転移が起こっていたのではないかと想像されるのです。

「でも忘れちゃいけないのは、もう自分の出発点にはもどれないってこと」(410p)
は、上記のようにジャリラが何度も口にする「出発点にもどる」への回答でしょう。

後年母親の葬儀で帰ってきたジャリラはカスルを訪れその荒廃した城内に息吹き苔をふりかけるのですが、
「カスルをあとにするとき、彼女は一度だけうしろをふりかえった。もしかすると視力が本当に弱っているのだろうか。その古い建物がきらきら光りながら変化したように思えたからだ。いま断崖の上にそびえているのは、すっかり息吹き苔に覆われた美しい緑の城だった」(428p)

この切り替わりも次元転移によるものかもしれません。そしてすでに(次元転移を操る技術者である)タリーカとなっているジャリラにはそれが理解できたに違いありません、だからこそつづけて「はるかな遠い時代から訪れた驚異。鞍の上で、ジャリラは昔からよく知っている古い歌の一節を口ずさんだ。星ぼしのあいだの愛と喪失をうたった歌だった」(同)となるのではないか。

かくのごとく、「距離の苦痛」とは最初の時間線から、どんどん枝分かれ世界のかなたへと(不可逆的な)転移を繰り返す世界のありかたの苦痛なのではないでしょうか。

まさに時の風の吹き抜ける音が聞こえてきそうな名品で感動しました。
解説でグレッグ・イーガンの名が挙げられていましたが、なるほど多世界解釈のユニークさはたしかにイーガンにまさるともおとらないもの(しかも文系の)がありますね。面白かった。

ということで、イアン・R・マクラウド『夏の涯ての島』浅倉久志他訳(早川書房 08)の読み終わりとします(読み返したら、またいろいろ発見があるはずなんですが、まあとりあえず)。

 

 

 

 

(管理人
>ただし何とか我慢して読了できさえすれば、ラストでさーっと感動が広がることは請けあいます
でもそれでは本篇を存分に味わったことにならないのはいうまでもありませんし、そもそもそんなマゾ的な読書が楽しいはずありませんよね。

 




「伸びるのびる」  投稿者:管理人  投稿日:2008 422()23337

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「見えるみえる」を思い出してからこっち、意識の流れなのかパノラマ視なのかよく判りませんが、今日一日、折に触れかんべさんの昔の作品が走馬灯のように甦ってきてこんなこともあるんやなと面白かった。

で、「伸びるのびる」を思い出し、これはろくろ首を絞首刑にしようとして大騒ぎするドタバタSFなのですが、そういえばあのラストのシーン、軌道エレベータの建造方法と同じではないかとふと気がついたのでした。
「楽園の泉」は未読なので知らないのですが、シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」は読んでいまして、その建造方法が、静止衛星軌道から上下にケーブルを繰り出していくことで遠心力と重力の平衡を取って行くというものだったと思います。余談ですが、ということは3万6千キロメートル×2のケーブルの半分しか利用しないということだったっけ(>今さら気づいた疑問)。

で、私の妄想は広がりまして、静止軌道上に作ったカタパルトに乗った絞首刑台からろくろ首を突き落とし、同時に絞首刑台を上方に向けて射出するという図が突如浮かんできて、丁度そのときは周りに人もいたので、笑いを抑えるのに苦労したのでした。なかなかいいアイデアでしょ?
ただ、今気づいたのですが、ろくろ首自身にはスペーススーツを装着させるのは可能としても、伸びていく首は保護することができませんね。ということで、結局使えないアイデアなのでありました。チャンチャン(^^;

 




レス2題  投稿者:管理人  投稿日:2008 422()00372

  返信・引用

 

 

かんべさん
くー、うらやましかですたい!
メカに弱いのでステレオカメラを知らないのですが、透け透けカメラではないとしますと……わかりました。あれですね、三文雑誌の広告に「見えるみえる、何でも透けて見える」とあるので助平心出して購入してみたら、見えたのはいいけどところが……という、あのカメラですね。や、あれはカメラじゃなくてメガネだっけか。失礼しました〜(^^ゞ

その3D写真、願わくは是非ふりーめもの写真コーナーにアップして下さいませm(__)m

Takemanさん
はじめまして。書き込みありがとうございました。
「アルファ・ラルファ大通りの脇道」は、いつも楽しく読ませていただいております。

>解説に引きずられたということは無く
ということで、大変失礼いたしました。思い込みが激しいたちで短絡してしまいました。申し訳ございません。
私やTakemanさんのような市井の読書家が本を読むということに於いては、もちろん(著者の意図は別にして)どんな風に読もうとそれは読者である我々の自由であり権利だと思っています。従ってTakemanさんが「主体的」にそのように読まれ感じられたのであれば、それを私がどうこういう気は全くありませんし、そんな立場でもありません。それを青天の霹靂のように見たことも聞いたこともない赤の他人から、しかも事実を誤認されて批判されて、まことにお腹立ちのことと拝察いたします。本当に済みませんでした。
ただ、解説者となると、上記のような自由な読者である訳には参りません。そこには何ほどか「権威」が発生してくるからで、そのことはもう何度も書きましたので繰り返しませんがどうぞお察し下さいますように。

とまれ、どうぞこれに懲りず、これからも多種多様な本の感想で愉しませて下さいますよう。どこかでお会いできて本の話ができたらなあと思わずにはいられません。今後ともよろしくお願いいたします。

 




Re: 「夏の涯ての島」(7  投稿者:Takeman  投稿日:2008 421()201850

  返信・引用

 

 

> No.1246[元記事へ]

管理人様はじめまして、「アルファ・ラルファ大通りの脇道」のTakemanです。
私は単なるSF好きな市井の人間ですので、読みの達人と言われますのはおそれ多すぎで少々恐縮しております。
ただ、この本の感想に関しては解説に引きずられたということは無く、ひとえに私自身の読みの浅さゆえの代物で、SFとしての面白さの部分まで読みとることが出来なかっただけでございます。申し訳ありません。
マクラウドの作品についてはもやもやとした物が残ったままなのですが、それが何なのかうまく言葉に出来ないでいます。本を読むということは難しいですねえ。

 




しつこく悠子様  投稿者:かんべむさし  投稿日:2008 421()160825

  返信・引用

 

 

管理人いわく、きっとお会いになったことがあるんでしょうね……
あったりまえですがな。食事も一緒にしましたぜ。
ただしそれは星さんも一緒のときだった。うむ。確かそれを高齋さんが写真に……
で、探したら、出てきましたねステレオカメラのやつが(透け透けカメラと違うよ)
星さん上品、悠子様美貌、私若くて髪多し。それがあなた、3Dでっせ。むひひひ。

 




「夏の涯ての島」(7  投稿者:管理人  投稿日:2008 421()020729

  返信・引用

 

 

「転落のイサベル」再読、了。
二度目は初読よりもさらによかった〜(^^)。やはり小説は再読すべしということですね。その意味でまことに再読に耐えない小説は小説ではないと言い得るかも。

内容に関しては先回の記事に付け加えることはないのですが、とりあえず設定――。
やはりダイソン球だと思われます。それも「天井(屋根(323p))がある」ダイソン球ですね(「それはサビルという名の太陽の周囲をめぐる輝かしい網を織り上げた島々だった」(296p)の「網」はこの天井のことなのかな)。

なぜそんな変なダイソン球なのか? 一般的なダイソン球の建設動機は弱まった太陽のエネルギーをすべて利用しつくすためなので天井は無意味です。おそらくこの(ダイソン球の名でありその最大の都市の名でもある)ゲジラーは、太陽(サビル)のきわめて内側の軌道でサビルを包み込んでいるのでしょう(理由は判りませんが、距離が近ければ近いほど包み込む材料は少なくて済むから?)。その距離では天井がないと全てが焼き尽くされてしまう。で、時間を決めて天井(の一部)が開かれ、日光を採り込む。これが光塔の役目です。それゆえ「原子時計」で厳しく管理されているばかりか、トワイライトゾーンはなく、朝と夜はいずれも「とつぜんに訪れる」(302p)道理です。
イザベルが最後の登る教会の城砦は、天井にまで達していたわけです。
そういう世界ですから、地平線(というよりもスカイラインならぬランドラインでしょう)は常に「盛り上がっ」て見え、その向こうにある海は、当然「地平線の上で、〈浮かぶ大洋〉」として「宙にかかって」(299p)見えるのですね。

まことに非合理的な(笑)、一種ゴシック建築的世界であり、それゆえ独特の歪んだ魅力に溢れています。いうまでもありませんが、この世界設定なしに、本篇のストーリーはありえないわけです。ネット感想文を見渡しますと解説の文に引きずられたものが多く、たとえば「おもしろさがSFとしての設定に依存していないというか、一見するとSF的な設定など必要としないのではないかと思ってしまうほど設定と主題が融合しきっている。まあSFでなくても書けそうな話もあるんだけれどもね」などと書かれていて(たまたま引用していますが他意はありません。むしろこの方の感想文は常々参考にさせて頂いている位で、そんな読みの達人でも時として解説に引きずられてしまうのかと、それが残念でもあるのですが、同種の言説はネット上の感想文の大半に見つけられるものです。その一例として引用させてもらいました。従ってリンクもしません)、設定と主題が融合しきっているというのはそのとおりなんですが、SFでなくても書けそうな話は只の一篇もない。よしや書き得たとしても本書の魅力の半分も表現し得ないものとなることでしょう。私が殊更解説をあげつらうのは、このような糞文が解説として付されることで権威を持ってしまい、読者の思考を縛ってしまうからなんですよね。おそらく顰蹙を買っていることと思いますがそういう次第ですのでご理解を。

 




Re: SF新鋭7人特集V  投稿者:管理人  投稿日:2008 420()214136

  返信・引用

 

 

> No.1243[元記事へ]

やや、堀さんまで!
いつもありがとうございます>堀さん
(堀SF開眼に就いては下に書かせていただきました(^^;)
それにしてもさすが山尾悠子効果ですなあ。当時はいろいろエピソードがあったんでしょうね(^^;
そらそうですね、一介の読者であるわれわれの周辺ですらお祭り騒ぎでしたから。

あれ?
>かんべさんのいう「アホの○○○」がらみでは
という文脈からすると、私の推理は見当ハズレでしたか。重ね々々失礼しました>かんべさん。

 




Re: SF新鋭7人特集  投稿者:管理人  投稿日:2008 420()21298

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> No.1241[元記事へ]

かんべむさしさん

ご来信ありがとうございますm(__)m。
きっとかんべさんはナマ山尾悠子さんにお会いになったことがあるんでしょうね。うらやましい……。
いま検索しましたら、スーパー源氏で2200円でした。山尾悠子効果でしょうか? いえいえ、もちろん収録作品のレベルが高いからですよね!
ところで「アホの○○○なんか」の○○○さんって、もしかして名字三文字のあの○○○さん? 失礼しました〜(^^;

道南さん

お久しぶりです。そうですか、道南さんもお持ちでしたか(^^)
梶尾さんのエピソードを読ませていただき、「ああそういえば」とその話は私もなんとなく思い出してきました。
山尾悠子さんはこの特集で目を見開かされたのでしたが、堀晃さん開眼は、それよりちょっと前の奇想天外でしたね。「時間礁」とか「熱の檻」とか、ショートショートに近い長さに、何や知らん強烈なセンス・オブ・ワンダーがまるで濃縮小説のように詰め込まれていて(ストーリーなんか殆どないんですよね)、ああこんなSFがあるんか、すごいなあ、海外にもないぞと酔いしれたものでした(^^;

>見る影もなく茶変
おおそれはいけません。折角の宝物、次の里帰りの折にはぜひともパラフィン紙をかけてあげて下さいね(^^;

かんべさん、道南さん、ありがとうございました。

 




SF新鋭7人特集V  投稿者:堀 晃  投稿日:2008 420()211849

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悪のりしてヤツガレも久しぶりに一言。
かんべさんのいう「アホの○○○」がらみでは、某NOVAに「山尾悠子氏に第三種以上の接近遭遇をはかるフトドキモノがいる」なんて記事がありました。
さらに『そんな悠子にほれました』なんて戯れ歌がはやりましたなあ……。
原曲を歌った増井山は、わが郷土のご近所・姫路の出身ですが。関係ないか。

 




SF新鋭7人特集U  投稿者:道南  投稿日:2008 420()180457

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別冊新評、星さんや豊田さん・平井さん特集は立ち読みだけでなぜか買わずじまいでしたが、新鋭7人特集は私も買って読みました。
かんべさん自らお書きなので、私などが補足することもないですが、記憶が裏切られることはないだろうと私も思います。

梶尾さんは、後に岡山駅のホームに降り立った際、ここを山尾さんが歩いたのだなあ、ホームに頬ずりしようかしらなどと書いていたのではなかったかしら(SFイズムの連載だった
かと思います。)。

私は管理人様より少し下の世代かと思いますが、山田正紀、かんべさん、横田さんには当時既に親しんでいたものの、堀さんや山尾さんは別冊新評で初めて読んで印象づけられ作品を追うようになった体験は共通しています。

私の別冊新評はおそらくは実家にあって離れること20数年。今でもそのまま書棚にあるとしたら、陽射しの強い部屋だったから見る影もなく茶変していたりなんてことがなければよいが…などと今回の記事を拝読して思いました。

 




SF新鋭7人特集  投稿者:かんべむさし  投稿日:2008 420()155916

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それは、たとえ1万円でも、見つけ次第お買いになるべきです。
山尾悠子氏の美人ぶりときたら、それはもう、当時カジシンが……わはははは。
しかし、それなんかまだおとなしいほうで、アホの○○○なんか、
「山尾悠子さんと一緒に」云々などと、勝手に彼女扱いした文を書きおった。
いやまあ、けしからん男でございます。

 




売る不適なのは面白い  投稿者:管理人  投稿日:2008 420()140942

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わ、9時間も寝てしまいました。それでもまだ眠い。いまこうしてPCの画面を見ていても、ときどき頸がかくんとなります。左の首筋から肩甲骨辺りまでガチガチに凝っていて、さっき遂に湿布薬を張ってしまいました。
暖かくなって体が緩んで、奥に溜まっていた疲れがどっと表面に出てきたのでしょうか。

ジーン・ウルフの《新しい太陽の書》は、ウルフが調子を落として書いた通俗作品だとなぜか思い込んでいて、端からスルーしていたのですが、中野善夫さんが書かれている感想(*)を読むとそんなことはなく、十分にウルフウルフしているようです。なんせ作中で主人公が「読み返せ」というらしいんですから(^^; ちょっと興味が出てきました。第1巻は持っていた筈。

「読み返せ」といえば、私も《10001世界》を読み返しているところなのですが(忙しくて読書時間が細切れ過ぎて全然進んでいません)、読めば読むほど描写が「一見」(なのか?)矛盾しているんですよね(島の筈なのに地平線があったり、ここは島だから南へずっと進んで行けばもとに戻れるとか)。やはりウルフ的な作風なんでしょうか(どうでもいいが「売る不適」と変換した。中ってるかも(^^ゞ)。今日はできるだけ読み進めるつもりなんですが(といって無理に急いだりはしない)、体がだるい肩がいたい……

 (*)リンク先ページの左下方にある[日記検索(2004年10月以降)]で「ウルフ」を検索。「2008年3月9日(日)」の日記以降。

 




脳の激烈化作用  投稿者:管理人  投稿日:2008 420()010449

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かんべむさしさんがフリーメモで「別冊新評・星新一の世界」を取り上げて「脳の激烈化」作用について書いておられます。私にとって「別冊新評」といえば、これはなんといっても「SF――新鋭7人特集」です。というかこれしかありません。

この新鋭7人というのが実に山田正紀、かんべむさし、横田順彌、津山紘一、山尾悠子、堀晃、鏡明の各氏であります。若い人にとっては生まれたときから大ベテランだったようなイメージのかんべさんにも新鋭と呼ばれた時代があったわけです(^^;
ところでこの特集号、よくあるような単なる顔見世興行ではなく、作品的にも、各氏とも腕によりをかけた粒よりの作品を発表されていました。
たとえば堀さんは「電送都市」、かんべさんは「宇宙の坊ちゃん」を寄稿されています。山田作品は現代史ものでイスラエルが舞台の、傑作ではなかったかもしれませんが、短い分骨格が浮き上がって山田さんの創作の構造が透けて見えて、この作品で山田正紀の筆法を見切ったぞ、と(その当時は)得意になったものでありました。
ヨコジュンさんの「平国家ニッポン」は、ヨコジュン短篇マイベストワンですし、山尾さんはボルヘスを彷彿させる傑作「遠近法」で、一読私は驚倒し、山尾悠子という作家を印象付けられたのだったと思い出します(それ以前のSFM掲載作品は読んでなかったはず)。これはまたとんでもない新鋭が現われたなと思い、さらに巻頭のグラビアを見て、あまりの美人に二度びっくり――というのはもとより私のみの体験ではありますまい(^^;

ところがこの特集号、何度か転居を繰り返すうちに紛失してしまったのでした。
しまったことをしたなあと思い、しかしまあ仕方ないやとも思って、そのままになっていたのですが、もし上記のかんべ理論が正しいとするならば、たとえ古本屋でセロファン紙で厳重に密封された1000円のその特集号を見かけたとしても、いかに懐かしさにかられたとしても、購入するのは避けるべきなのでしょうか。間違ってもこっそりセロファンをはがし、グラビアだけでも見ようなどと助平ごころを起こさぬ方がよいのでしょうか。記憶は脳の「美化作用」のままに、墓場までもっていくべきなのですね(笑)。

今日は疲れているのでこの辺で。

 聖地エルサレム(1)
        (2)

 




眉村さん情報(西さん情報も)  投稿者:管理人  投稿日:2008 418()22019

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来月、5月3日(土・祝日)に開催される〈SFセミナー〉に、眉村卓さんが出演なさるそうです。詳細はこちらで→SFセミナーホームページ

本会企画の「ショートショートの現在」というパネルディスカッション(?)に出演されます。他の出演者は、井上雅彦さん、江坂遊さん、高井信さん。おおショートショートの俊英大集合ですね。聞き手は牧眞司さん。
星新一リバイバルと相俟って最近にわかに復活の兆しも感じさせるショートショートですが、その「現在」が総括されるようで、これはまたまことに時宜を得た好企画ではないでしょうか。

リンク先のHPを見ると、他にも、荒巻義雄さん、山野浩一さん、川又千秋さんも(別の企画で)参加されるみたいですし、藤崎慎吾さんのインタビューは海洋SFがテーマらしい。
いやこれは面白い企画目白押しです。行けるものならば是非参加したいところですが、開催地が東京とのことで、ちょっと私は無理。参加可能な方はぜひぜひ!

そして、いまひとつ告知をば。
上記「ショートショートの現在」に出席される井上雅彦さんが昨年刊行された異形ショートショート集『ひとにぎりの異形』に於いて、久しぶりに新作を発表してくれた西秋生さんが、神戸新聞にエッセーを連載中です。
「ハイカラ神戸幻視行」というタイトルで隔週火曜の夕刊に掲載。4月1日の第1回は、タルホについて書かれてあったようです。神戸新聞購読可能地域の方は、こちらも是非ご覧いただきたく。

 




重版決定!  投稿者:管理人  投稿日:2008 417()040349

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眉村卓『司政官 全短編』(創元SF文庫)の重版が決定したそうです(^^) いやめでたい。この調子で『消滅の光輪』も復刊していただきたいと思います>東京創元社さま。

イアン・R・マクラウドは、「息吹き苔」読了。うーん、ラストに感動!
このラストで印象が変わってしまいましたが、それまでは、これはジーン・ウルフだな、と思いながら読んでいました。ウルフということであれば、これは再読するに如くはありません。ということで〈10001世界〉シリーズの2篇は再読する予定。
それにしてもこの難物2篇をあっさり(かどうか判りませんが)日本語化してしまう浅倉久志さんはさすが。よう、こんなん訳しはりますなあ、と恐れ入るばかり。改めて浅倉さんのSF界にある僥倖を噛み締めましたです。

 




十一人大座談会  投稿者:管理人  投稿日:2008 415()001241

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文學界4月号に、「ニッポンの小説はどこへ行くのか」というテーマで標記の座談会の記録が掲載されています。(出席者;岡田利規、川上未映子、車谷長吉、島田雅彦、諏訪哲史、田中弥生、筒井康隆、中原昌也、古井由吉、山崎ナオコーラ。司会、高橋源一郎)

錚々たるメンバーですが、そのなかで、諏訪哲史という人の発言(読者の死)が実に私が普段もやもやと感じていることを的確に言葉としてあらわしてくれていて、そうそうそう!と何度も頷いてしまいました(文字にするとうそうそうそ!みたいでいやん)。以下引用します。

 ロラン・バルトはかつて作者を殺し、読者の自由を唱えましたが、未来の読書環境に関してはとても楽観的だったと思います。彼の言うテキストと幾重にも戯れて多様な快楽を得ることのできる理想的な読者は、最低限のリテラシーを備えた、いわば素養のある読者のことです。でも現代日本の読者の大半は、開かれてあるテキストではなく、その中の筋を辿ることでしか快楽を得られなくなってしまったんじゃないでしょうか。

 たとえば漱石の『草枕』で、那美さんが画工に言う有名なせりふ「(小説なんて)筋を読まなけりゃ何を読むんです」というものがあります。漱石にとっては、これらの思考は文学的文盲者です。つまりリズール(精読者)に対するレクトゥール(普通読者)であって、一蹴すべきなんです。現代はこの受動的読者であるレクトゥールによる多数決に商業的マスメディアが追随して、また同じマスメディアが多数派をさらに持ち上げることで、本の売れ行きから内容の評価までが左右されてしまうんです、その結果、読者に悪いハビトゥス(読書教育)を施して、より文学的文盲者が増えるという悪循環にあるような気がします。小説の優劣が売り上げと同一視されがちなのが現状なのですね。

 キャッチコピー的な言葉が安易に用いられ、共通言語として普及することによって、非日常の文学的言語が理解されない世の中になっているような気がします。それはハイデガーの言う「空語」と同じで、中身のない共通な言葉をただ交わしているだけなんです。文学的に考えれば、その人たちは生きていないのと一緒です。

 




「夏の涯ての島」読み中(5)  投稿者:管理人  投稿日:2008 413()105350

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「転落のイザベル」

おお、これは凄まじくすばらしいです! 今までのところ本集の白眉。
やはりコードウェイナー・スミスのスタイルを踏襲というか意識していて、遠未来に設定された極めて特異なSF的風景を、そのさらに遠未来に据えられた視点から、あまりに昔のことなので事実は歪曲されており半ば神話化した過去の出来事として、憶測も交えて振り返るという設定が、一種エルグレコの宗教画にも似た独特の効果をもって読者を引き込んでしまいます。

ただ設定そのものは描写されるばかりで説明がなく、読者の側に委ねられているのですが、私自身まだいまいち把握し切れていません(おそらくこの世界はダイソン球なのではないかと推測するのですが)。悔しいなあ。把握できていれば作品世界はもっとくっきり見えてきて面白さも倍加する筈なんです。ことほどさように、すぐれたSFになればなるほど設定はストーリーのなかにきつく編み込まれているのであって、設定とストーリーを分離してよいとする解説はむちゃくちゃなのであります。SFを知らない(いまだ体得していない)者の妄言という他ありません。

閑話休題。自分たちの個人的な悦楽のために〈召命〉としての職業を怠った主人公(たち)が、厳父(神)のごとき巨大な知能(けだし巨大コンピュータか)によって厳しく罰せられる後半は一瞬も目を離せません。外形、いかにも神話らしい道徳譚的な戒めの物語として語られる本篇は、その神話としての形式の必然でもありますが、全能者に(その気まぐれも含めて)情け容赦なく翻弄されるかよわき人間を一種運命的に(但し人間の側から言えば不条理的に)描き切っていて、感動せずにはいられません。まことに、SFであることによって、そのことによって文学たり得た傑作といえましょう。

設定を把握するため再読しようかと思ったのですが、どうやら次の作品も本篇と設定を同じくする《10001世界》シリーズの一篇みたいなので、再読は後回しにして先に進むことに。続けて読めばおのずと設定も判ってくるでしょう。

 




並行世界の玉突き現象  投稿者:管理人  投稿日:2008 412()161614

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かんべむさしさんのフリーメモ

「こちらの脳が勝手に、いつのまにか、光景を「美しく」作り替えていたのだ」

はたしてそうでしょうか。
記憶の風景と現実の風景が違っていた、ってのは私なんかしばしばあります。
でもそれは記憶の捏造だけなのでしょうか。
そうとは限らない。
実はこの一文を書いたかんべさんは、別の並行世界から跳ばされてきたかんべさんなのかもしれないのです。
この世界をW(n)とします。今この世界に存在する(かつて豊中稲荷で満開の桜を見た)かんべさんは、実は最近この世界とほとんど違わない近接した並行世界W(n-1)から跳ばされて来たのではないでしょうか。彼、かんべむさし(n-1)さんの、桜の咲き乱れる豊中稲荷という記憶は、W(n-1)での記憶なのかもしれない。
では、それまでこの世界の住人だったかんべさん(n)はどうなったか? 玉突き式に追い出されてW(n+1)世界へ移ったのです。そして当然そこの住人であるかんべさん(n+1)は、W(n+2)へ移ります。以下略。
このような玉突き式移転現象がたまに起こっているようです。あれ、記憶とちょっと違うぞ、と思ったときは、記憶の捏造のみならず、かかる玉突き式転移現象が起こった可能性も想定すべきでしょう。

だとすれば、桜が咲き誇っている豊中稲荷をかんべさん(n-1)が実際に見たのは、W(n-1)であるとは限らないわけですね。W(n-2)なのかも知れないではないですか。数学的思考に不自由な私には、それをどう記述したらいいのかとんと判らないんですけれども(^^;

――というようなSFが、「私の記憶」によれば、ハインラインにあったはずなんです(たぶん小学生のときに図書館で読んだ)。でも、このハインラインの作品が、この世界W(n)に残されているハインラインの著作にあるかどうかは、定かではありません(^^;

 




「夏の涯ての島」(ひと休み)  投稿者:管理人  投稿日:2008 411()235429

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「夏の涯ての島」の世界には、フランコもムッソリーニもいるのに、ヒトラーはどうもいないようです。これは考えてみたら当然で、戦勝国で国際連盟の盟主であり、アルザス・ロレーヌを失うどころかやがてフランスそのものを吸収してしまうドイツ(の民衆の無意識)はヒトラーを必要とすることがなかったんでしょう(絵描きにでもなっているのでしょうか)。逆にこの世界におけるワイマールドイツのポジションに押し込められたイギリス(の民衆)こそ、《ヒトラー》を必要としたわけですね。

いろいろ忙しくて、ようやく夕方から「転落のイザベル」に着手。
おお、これはコードウェイナー・スミスではありませんか!
「チョップ・ガール」のラファティに引き続いて、今回はスミスか〜。やるなー(^^;
ふーむ。とするとですな、「ドレイクの方程式……」121pの次の一文がにわかに気にかかってきますね。

「日頃の無口さはどこへやら、ジョン・ヴァーリイを雄弁に推薦した(……)やがてトムはお気に入りの作家のリストアップをはじめた(……)たとえばシマックやヴァン・ヴォクトやウィンダムやシェクリイ。さらにラファティコードウェイナー・スミス

はっ、そうすると「夏の涯ての島」の独裁者ジョン・アーサーって、ジョン・ウィンダムとアーサー・クラークなのかな!?

 




「改変歴史」考  投稿者:管理人  投稿日:2008 410()171552

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>第1次大戦頃にわれわれのこの時間線から分岐した世界の物語です
という記述はいけませんね。これではわれわれの時間線が〈幹〉で本篇の時間線は〈枝〉であるような先入観を与えてしまいます。その意味で本篇を「改変歴史テーマ」とする解説者の記述も正確とはいえません。

「改変」という語には常に「何者か」によって改変されるということが含意されているのであって、そのような意味での「改変歴史」SFというのは確かに存在するとはいえ、本篇はそういうものではありません。
改変歴史という観点はまさに上記の「この時間線至上主義」的な発想であって、いわゆるタイムパトロールによる「改変阻止」という「権力関係」を容認するものです。
現代の並行宇宙ものは、すべからく<多世界解釈>的な無限に分岐し続ける(ブラウンの名言のように針の先端の一点に無限の点が存在するという)ものであるべきで、しかもそれらに本流傍流の区別はなくどれも同等の価値があるとするものでなくてはなりません。タイムパトロールが介入して元に戻した世界は、実はその時点から新たに始まる分岐世界であることは、すでに40年前に豊田有恒が、「パチャカマに落ちる陽」などで書いています。眉村さんの「カルタゴの運命」はこの観点を逆手に取った、まさしく目のつけどころがシャープな作品でした。

もう「改変歴史」みたいな言い方は、架空戦記にくれてやって(^^;、なんか別の言い方を考えた方がいいのではないでしょうか。昔からあるオルターナティヴ・ユニヴァースというのも、今調べたら二者択一、代案、代替品という意味みたいであまり適切ではありませんね。「並行宇宙」テーマ、あるいは福島さんに戻って「イフの世界」でしょうか(笑)

 




「夏の涯ての島」読み中(4)  投稿者:管理人  投稿日:2008 410()021436

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「夏の涯ての島」

本篇は、第1次大戦頃にわれわれのこの時間線から分岐した世界の物語です。第一次大戦で、ドイツはボルシェビキからブレストリトフスク条約という名の無条件降伏を勝ち取り、東部戦力を大返しに西部戦線に投入します。われわれの歴史ではこのときアメリカが参戦して戦況は一変するのですが、本篇の世界ではアメリカはモンロー主義を堅持して動かず、英仏はドイツに敗れ去ります。その結果、敗戦国イギリスはわれわれの世界でのワイマール共和国がそうであったように、すべての植民地を失い過酷な賠償金を課せられとんでもないインフレを経験し、ドイツを中心として結成された国際連盟にも加入を許されず、極西の三等国に成り果てます。そうして、ワイマールドイツがアドルフ・ヒトラーとナチスを生んだように、ジョン・アーサーという労働者階級出身の指導者と彼の率いる暴力の匂いがぷんぷんする〈帝国同盟〉またの名を〈モダニスト〉という結社が人気を博していき、1932年秋遂に、この世界では既に首相となっていたチェンバレンから政権を引き継ぎます。ジョン・アーサーの施策はヒトラーのそれと極似しており、ユダヤ人はスコットランドの涯の荒蕪の無人島サマー諸島に棄民され、同性愛者はマン島の治療キャンプに送られます。
ナチズムに相当するのが「モダニズム」というのがなかなか示唆的です。「フェミニズムの帝国」でも男性原理や資本主義を「近代」の実体化したものとして考えられていました。

さて本篇の主人公は、1940年現在、癌で余命を宣告された60歳のオックスフォードの歴史学の教授なんですが、もともとは地方の田舎町の教師をしていた同性愛者。彼には30代前半の頃、元教え子で、「ユートピアだより」が愛読書のフランシスという恋人がいたのだが、折りしも1914年に主人公がフランシスと共にスコットランドを旅行中にイギリスとドイツは開戦します。そのときは北の果ての島サマー諸島に行こうと企画していたのだが、急遽取りやめて郷里へ取って返す。フランシスは志願して出征し、有名なソンムの戦いで戦死する。
イギリス敗戦後、主人公はぐんぐん頭角を現しつつあったジョン・アーサーを偶然見かける。なんとジョン・アーサーは、戦死したはずのフランシスその人なのだった! 「一瞬、私と目の合ったジョン・アーサーの目に、笑みのようなものが浮かんだ。誰だかわかったに違いない。そして彼はそっぽを向いた」(226p)

そのことを、彼は誰にも言わなかったのだが、アーサーが首相となったその就任演説で、アーサーは自分が感化を受けた人物として若い頃教えを乞うた主人公の名前を挙げたのです。その結果主人公は一躍時の人となり、雑誌に連載を持つほどになります。しかもさらにその後、オックスフォードから突然歴史学教授として招聘されます。
思うに、これはアーサーの差し金であり、一種の口封じだったのでしょう。かつてフランシスとスコットランドを旅行中、主人公はフランシスにオックスフォードで教師になりたいという<夢>を語ってフランシスに鼻で笑われたことがあった。アーサーは何十年も前の一言を覚えていたわけで、そこには単なる無言の取引だけでなく、やはり好意も入っていたに違いありません。そうして、「いつの間にか、わたしは忘れることを覚えていた」(242p)のですが――

そんなある日、主人公の現在の〈恋人〉が、その家族ごと連行される事件がおきます。〈恋人〉の奥さんが実はユダヤ人だったのです。彼らはサマー諸島へ送り込まれたのでした。
おりしも、それまで全く没交渉であったジョン・アーサーから、突然誕生パーティへの招待状が届きます。主人公はフランシスの「形見」の拳銃をトランクに忍ばせて、ロンドンへと向かうのでしたが……

これは切ないですなあ。あらゆる意味で。
上記のようなストーリーが、時間を行ったり来たり錯綜的なプロットで叙述されているのですが、それは(解説にあるように)本篇がもともと長篇として構想されていたのを圧縮して中篇化したものであるからかもしれません。もっとびっしり書き込まれたものを読みたいと思いました。長篇版も出ているようなので、こちらも翻訳してほしいです。

 




「くいだおれ」閉店へ  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 8()231150

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http://www.asahi.com/life/update/0408/OSK200804080073.html

ミナミはどの道も昔の情緒はなくなっていますが、この道頓堀川南側の道はそのなかでもとりわけ「荒廃」感を感じます。小さな子どもをつれては、あまり歩きたくない道になってしまいましたね。家族客がターゲットのくいだおれが立ち行かなくなるのは、ある意味当然の帰結だったのかも(味もとり立てて以下略)。

 




「夏の涯ての島」読み中(3)  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 8()022243

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「ドレイクの方程式に新しい光を」

泰西版〈せちやん〉のお話。とはいえこれはまた結末が東洋的です。というか殆ど〈志怪小説〉ですな。そこのところはとてもいいのだけれども、それに至るまでがいささか長いような。とりわけ著者自身の体験が反映されていると思しいバーミンガム時代の回想の部分が……。おそらくたぶん、それらのエピソードに愛着がありすぎて削れなかったんではないでしょうか。いやまあ再読してみたら、また印象が変わってこれでよいと思うかも知れないのですが。

70も間近になってひとり身で、異郷フランスの山の上で星からの便りに耳をすましているうちに、いつのまにか地上はナノテクの進化により身体改変も思うままで鳥人が空を舞っているほど変わり果ててしまっていて、主人公はいうなればリップ・ヴァン・ウィンクルとなってしまっている。そのような主人公にとってこの「現在」は、ほとんど〈未来〉世界そのものなのですね。そのような次第で、後半、「現在」とか「いま」というべきところを〈未来〉と言い換えているんですが、これがきまっています。

「この未来の時代からなにかを手に入れる人間の数に見あうだけ、なにかを失う人間もいるような気がする」(172p)
「ディッシュ・タオルが、いまトムのいるこの未来で忘れ去られるとは?」(173p)


山上で時間が止まっていた主人公は、恋人との邂逅(と示唆)によって、再び時間が動き出し、未来へと先に進んでいってしまった〈現在〉へ、追いつこうとする意志を回復させるところで本篇は終わっています。それはほとんど主人公自身も意義を失い、ただ慣性的になっていた(よって酒に溺れることにもなっていた)〈ドレイクの方程式〉に、まさに「新しい光を」当てることに他ならない。後味のよい佳篇でした。

 




星新一の自虐  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 7()151236

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島田 いわば純文学の金科玉条がまかり通っていた時代でもあったんだよね。星新一さんなんて、子どものころに読んでいるから、パーティで隣になったりすると、おおっと思うわけじゃない。星新一が横にいるよって。緊張しながら挨拶すると、延々と純文学への恨みつらみを語られたからね。SFやミステリーは長らく一段下に見られていた。
山田 私もいきつけのバーで、しょっ中お会いしていたので、製薬会社を築き上げた御父様のことを書かれた『人民は弱し、官吏は強し』が好きですと言ったら「君、どうしてそんなの? 珍しいね」って凄く喜ばれて(……)

山田詠美・島田雅彦「対話 鎮魂と教育」(新潮4月号)より



SFの自虐かも(ーー;

 




「夏の涯ての島」読み中(2  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 6()182430

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「チョップ・ガール」

これは面白かった。
「ラッキー!」というのが口癖のチョップ・ガールと呼ばれる不幸をもたらす女が、幸運の神にいだかれた男とであったとき……。というのが設定

第2次大戦下の英空軍基地。ドイツを空襲する若き飛行機乗りたちが死を覚悟しつつも何とかそれを免れたいと様々にゲンを担ぎやはり死んでいく描写が戦争の悲惨を活写していてよいです。最近はラノベから一般文芸の世界へ進出してくる作家が出てきているようですが、日本の架空戦記から出てくる気配もないのは、こういう主体的な視点をよう持てないからでしょう。というのはさて置いて――

解説で本篇を「ラブストーリー」(434p)といってますが、そうでしょうか。一見ラブストーリーの体裁をとってはいますが実はそんな簡単な話ではないように私には思われます。
この話は、幸運(「ラッキー」)にも絶対に死ねない(床がなくなったら空中に浮いてしまう)男が、その代償に「すべてが見え」(86p)るようになってしまい、そのために毎夜うなされるほど。そんな人生に生きる意欲を失い(この辺も皮肉な設定)、なんとか死んでしまいたいと思って、チョップ・ガールに接近するのです。
女が男に関心を持ったのも、自分とは正反対の設定の男だったからで、本来の意味で恋情ではない。
男は女と一夜を共にすることで、(おそらく幸運は中和され)翌日のフライトで(あっけなくも)、自分だけ搭載機から振り落とされてしまい、男の念願は成就する。
一方女の方も、男との交情の結果、憑き物がおち、普通の女性が得られるものを取り戻します。ある意味皮肉な話なのです。

そういう次第で、本篇もまた「帰還」や「わが家のサッカーボール」と同じく、設定は内容(ストーリー)を規定しており(その設定のレベルは様々としても)、設定を没却してストーリーは成立しません。
しかしまあ、こんなことはSFとして当然の話ではないでしょうか。本解説は(しつこいようですが)昔よくSF外者にいわれたところの「これは単なるSFではない」と同じ構造を持つ文章で、それがSF内者である「SF評論家」(帯に記載)が書いているのですからやりきれません。
本書に与えられたプラチナ・ファンタジーという《場》は、SF文庫や海外SFノヴェルズなどとは段違いに、かどうか判りませんが、比較的「ジャンル外の読者」(432p)の目に触れやすいところのはずですよね。であればなおさら、SFの魅力を解説者は(彼がゲットー内の人であればあるほど)意を尽くして解説し、一人でも多くゲットーに誘い込んでしまうべき使命があるはず。それを「より普通小説の味わいに近い表題作だけでも」とはなあ。福島正実が泉下で怒っているぞ(ーー;

 




「夏の涯ての島」読み中(1  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 6()16156

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「わが家のサッカーボール」

誰もが随意に動物などに変身できる世界の話で、われわれの日常世界と違うのは、ただこの一点のみ。
著者はこの世界を全く当たり前のものとしてごく普通に描いています(だから疑似科学的説明も一切なされません。そういう世界なのですから)。
言い換えれば「<作者が想定する読者もまた変身できる人々である>ことを前提としている」という設定、小説なのです!

ふつう、SFはそのような世界とわれわれのあたりまえの日常世界(座標原点世界)との距離を測ることで、すなわち差異を際立たせることで、逆にわれわれ自身が内在しているために気づかない問題点を可視化したりもするわけです(異化作用)。「フェミニズムの帝国」などはまさにその文脈上にある。
本篇にはそのようなSFとしては当然なんですが、ある意味アプリオリに慣性化しているともいえる思考回路を(意図的に)拒否しており、結果としてラファティに近い味わいを生み出しています。ラファティは無意識ですが(多分)、それを意識的にやっているところが斬新。その意味でSFを体現したSFらしいSFといえるでしょう。

ただお母さんが患う精神的な病が、俗流の精神分析のアナロジーで易々と解釈できてしまうのが物足りません。前作「帰還」でも感じましたが、中途半端にチマチマと纏まっていて突き抜けるところがないのがいささか不満ではあります。

 




ターゲットは誰なの?  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 5()134243

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イアン・R・マクラウド『夏の涯ての島』を読み始める。まずは冒頭の「帰還」を読んだ。
ブラックホールをワームホールとして利用する際に、当の旅行者と地球の観測者に起こる諸問題を世界で最初にSF化したのは石原藤夫博士であったという。今から40年も前の話で、その後同アイデアで様々なバリエーションのSFが海外でも日本でも生み出されている。そういう意味でアイデアとしては新味がない。ただこのグランド・アイデアをちまちました家族小説に転用するところに、この著者の持ち味があるのだろう。

解説が不満。「もし、SF的な設定が前面に出た冒頭の数篇を読みにくいと感じたら、より普通小説に近い味わいの表題作だけでも、読んでみていただきたい」とは何事ぞ。なぜにそんな卑屈な態度をとりますか。仮にもSFファンでしょう?

大体そんな「薦め方」で非SF読者が大枚2200円(+税)も出して本書を買うか? 上記の書き様から解説のターゲットが「非SF読者」であろうことが推察されるのだが(プラチナ・ファンタジー双書の一冊だからその方針は正しい)、だとしたら、それこそ「グレッグ・イーガンと肩を並べる存在」だとか、「クリストファー・プリーストやキース・ロバーツのような」、とかいう文言は何の訴求力も持たないということに気づかないかね。
一体、SFに興味を持たない一般読書人がイーガンの名前を聞いて、「ははあそうなのか、そりゃすごそう!」なんて思う筈のなかとでしょ。

逆にSFの立場から言わせてもらえば、上の「薦め方」は、「おんしゃSFを馬鹿にしとっと?」ということになる。なにかね、「SFらしい奇抜な発想や異様な世界」はこの小説を読むためには別に理解する必要がないのかね。そんなことはない。むしろ「SFらしい奇抜な発想や異様な世界」を表現したいがために、本篇はこのようなストーリーを要請されたのだ。SF作家の手になる本書なんだから、SFとして面白いことを解説しろよということです。

「SF的な設定が前面に出た」「読みにくい」「冒頭の数篇」のひとつである本篇を例に挙げるならば、そんな逃げを打つ前に、本篇のSF的アイデアやそれを裏打ちしているワームホール設定や多世界解釈設定、シュバルツシルト面へと近づく物体の時間と観測者の時間の乖離現象などを「解説」するべきだろう。たとえ通り一遍な解説であっても、非SF読者には大変な読解の助けになり、著者の狙った「効果」により近づいたセンス・オブ・ワンダーを得ることができるはずだから。
イーガンやプリーストやキース・ロバーツの名前を印籠のように持ち出す紙幅があるなら、SF解説をしなさい(*)。というようなことを思った次第。

 (*)「海を見る人」の解説を参考にするといいと思う。

 




「新宿・アナーキー」読了。  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 4()224019

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井上光晴『新宿・アナーキー』(筑摩書房 82)

ほとんどが10〜20ページ、一番長いのでも30ページ程度の短篇が18篇、〈新宿・アナーキー〉、〈わらう花〉、〈蠅〉の3部に分かれて収録されています。短いのはほとんど掌篇、いや断章に近いのもあって、そのせいかとりわけ短い作品は淡彩画めいたあっさりした印象があり、往年の、ルオーの絵のようにこってりと分厚く塗りたくられたような作風を想定していると、ちょっと違います。

でもやはりいつもの井上光晴です。
作品の舞台は大都会の場末であり戦後の経済繁栄の負の産出物というべき収奪された地方都市であり、作中人物は皆、教育もなく智慧も知識もなくそれゆえに倫理観もなく、ただ地を這いずり回るばかりの人々。SF、とりわけハードSFには絶対に登場しない種類の人々です。

著者はこのような人々を容赦なく描き出す。井上作品を読むたび何度も書いていますが、そのような人々を憎悪しているかにすら見えます。帯に「退廃の巷の、男、女―。」とありますが、退廃ではなく荒廃ですね。彼らはある、達成された階梯から「退廃」したのではなく、もともと(状況の中で)「荒廃」しているのです。

で、著者が憎むのは、実に彼らそのものではなく、「荒廃」という彼らのその「在り方」なのだと思います。そのような状態に人々を留め置いている〈状況〉をこそ著者は憎んでいるのです。
とはいえかかる人間そのものとその存在形態を截然と分けて認識することは(還元的には可能ではあれ)実際的にはほとんど不可能です。結局著者の筆もその辺を行ったりきたりしている(のではないか)。

SF読者の多くはおそらくは裕福な家庭に育ち学歴も高く教養があり道理常識をわきまえた人々だと思いますが、彼らは例えば大都市の奥深くに広がる地理的だけでなく内宇宙のアンダーワールドをほとんど知らないか、たとえ感知しても本能的に忌避して顔をそむけているので、上記のような人々は一種理解を超えた存在に見えるかもしれません。

そのような(荒廃した世界を徘徊する荒廃した人々という)意味で井上ワールドははバラード的内宇宙世界に近接しています。私は(これも何度も書いていますが)井上光晴は日本のバラードだと思っています(年齢も一歳しか違わない)。
とりわけ本書第3部の「蠅」はコンデンストノベルと見ることも可能でしょう。

ちょっと先走りました。第1部では比較的あっさりした掌篇が多かったのですが、第2部、第3部と進むにつれ、次第に従来の著者らしさが出てきます。第2部はいわば「老人小説」集となっています。
ところで「あっさりした」という言葉に、私は「小説としての起承転結が放棄されている」という意味も含めていて、そういうのは「設定はしておいたから後はきみたち読者が勝手に想像力を働かせたまえ」という感じです。晩年の著者は小説というものをかなり自在に捉えるようになっていったのは確かですね。そういうのを認めるか認めないかは別にして。
私はそこに年齢という要素を考えたいのですが、本書出版時の著者の年齢は56歳なんですね。この歳で老人小説を書いているのはやはり優れた作家の想像力ということでしょうか。しかも枯れた老人など嘘だとばかりに、生臭い老人(男女とも)をこれでもかとしつこく描写しています。

第3部は2編だけですが、公害がテーマの一種実験小説で、蠅を飼う男の話である「蠅」は上記のとおり濃縮小説、もう一篇の「石油艦隊」は洋上備蓄を批判するコラージュ的構成の作品。「蠅」は成功していますが、「石油艦隊」は捕獲を禁じられている鴎を釣って食おうとしたら肉の間から石油が粒上になったチョコレートムースが出てきたという出だしこそいいのですが、上記の小説観の自在化が悪い方向に出たものといえるかも。
全体に晩年に向かっての作風の変化を先取りした作品集でした。
ああ井上光晴、もっと読みたくなってきました。

 




「新宿・アナーキー」読み中。  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 3()233546

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158ページまで。

とうちゃん、ほら食べてごらん、といってスパゲッティというものを差し出したのは、中学二年のときである。家庭科の調理実習とかで作ったのを、弁当箱に入れて持ってきてくれたのだ。ケチャップで味をつけた西洋うどんはそれまで食べたことのないハイカラな料理で、町の食堂で一度だけ食べたチキンライスに似ていたが、それより数倍もおいしかった。(「道行き」122p)

 




《卓通信》  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 2()230813

  返信・引用

 

 

『日課・一日3枚以上』の挟み込みエッセイ《卓通信》の、第4号-2「新制中学」をアップロードし、ようやく完集することができました。

このエッセイが掲載されていた《卓通信4号》が実は行方不明になっていまして、今日、他の探し物をしていたらひょんなところから出てきました。よかったよかった。

 




井上光晴  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 1()233648

  返信・引用

 

 

それにしても「フェミニズムの帝国」というタイトルは確かに内容にそぐわないものですね。先入見を誘引しやすい。おそらく著者の創案ではない。これまたハヤカワの編集者の思いつきであり、著者の案(多分地味だったんでしょう)を退けて強引にタイトルに決めたのではないでしょうか。

井上光晴『新宿・アナーキー』(筑摩書房 82)に着手。
まずは冒頭の「新宿のイエス」を読む。占い師と客の会話。

……お金、貸してるの?
「はい」
(……)そのお金、返して貰えないよ。
「それはいいです」
あなた、まだ若いんだから(……)今の相手とは別れなさい。
「ひとつだけきいていいですか」
どうぞ。
「奥さんと別れるというのは、ほんとですか」
(……)さっきからそれをいってるんだよ。でまかせだって。そういう男なんだから。そりゃいつかは別れるかもしれないよ。だからといって……。
「奥さんと別れるんですね」
そうはいってないよ。(……)騙されてるんだよ、あんたは。(……)
「奥さんは年上なんです」(11p)


愚かな、あまりにも愚かな、貧しき人々の群れ。著者の筆は容赦がありません。

 




  補遺  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 1()170713

  返信・引用

 

 

>前半で女性優位社会の男性支配が批判的に描かれますが、……(1)
>後半では一転、男の〈本性〉が批判的に描かれます。……(2)


舌たらずな表現だったので補います。
(1) 女性優位社会の男性支配が批判的に描かれているのではありませんね。「社会的立場を逆転する」ことによって可視化した男性優位社会そのもの(1980年代の現実そのもの)が批判されていたわけです。図式的にいうと、ここで読者は現社会つまり「近代(資本主義)社会」が男性原理につらぬかれていることに気づかされます。

(2)本篇成立の前提として著者が採用しているのは「男と女に生まれつきの差はそれほどなく、男と女のあり方の多くは社会的に規定される」(あとがき)という考え方です。遺伝(先天的)か環境(後天的)かという永遠の謎に対して、20世紀に入ってからアメリカ心理学の大勢は当時勃興した文化人類学(とフロイトの無意識論)を取り入れて環境の影響が大きいという方向に向き、〈文化とパーソナリティ〉という新しい学問を生み出しました。その流れを励起したのがマーガレット・ミードのニューギニアでの調査研究であったあるわけです。1970年代後半に私が在籍していた大学はアメリカ心理学の影響が大きかったこともあってほとんど「環境」によるパースナリティ規定を既定のものとする風潮で、私自身も99パーセント環境ではないかなどと考えていました。1970年代はたしかにそういう学的パラダイムが形成されていたと思います。著者の考えももろその線に沿ったものです。

その後、日本では京大系のサル学者が研究結果を人間に当て嵌めることを始め、生得的な本能がある程度人間の行動に関わっているとしました(その後DNA的な研究も開始される)。彼らは、オトコとオンナの差異、役割分担に対する進化論的に適応選択された本能の寄与を認めて説明しました。これが実に説得力があるのですが、著者はその説を採らず、育児が専ら母親によってなされ、父親は結局のところ子が本当に自分の子かどうか確信できないことなどが、オトコの本性の形成に与るという理論を本篇では展開し、その帰結として、「男の子は男が産めばよい」という結論に達するわけです!

後半で男の〈本性〉が批判的に描かれていますが、そのような批判さるべき「逸脱と暴走と力の信仰」として規定された男の本性は上記の男児と女児の育児における非対称に起因するのだから、非対称を解消してやれば「逸脱と暴走と力の信仰」という現在する男の契機はそもそも発現しないというわけです。

すなわち(2)では、(1)でみた男性原理社会を女性原理社会に取り替えても、男性原理そのものが出産と育児のメカニズムによって温存されている事実は変わらず、ただ秘匿されてしまうだけであり、いつこの本のストーリーのような〈革命ゴッコ〉が起こってもおかしくない。本篇は、結局のところ男女の非対称の解消による男女同権社会の建設のみが人類ヲ救フという物語なのです。しかしこれは大変な心理的なパラダイム変更が必要ですよね。少なくとも私には耐えられません(^^; 本書のストーリーが、男女同権的な新世界の建設の試みが近代の復活によって潰え去ってしまうという物語であるのは、実にそのようなユートピアの現実化については著者自身懐疑的なのかも知れませんね。

 




「フェミニズムの帝国」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 4 1()030134

  返信・引用

 

 

村田基『フェミニズムの帝国』(ハヤカワ文庫 91、元版 88)

いやこれは想像以上の傑作でした。世界に誇りうる日本SFの一大成果というべきでしょう。
山野浩一によれば、かつて日本SF第1世代は、あちらの間尺で設計されているため日本人にはあまり住み心地のよくなかったSFという名の洋式建売住宅を、いかに日本人にあったものに改造するか、その実践に腐心してきたということになるわけですが、その伝でいえば、本篇は、なんとニューウェーブ、それもバラードではなくオールディスのそれを、日本化する試みといえます。しかも完璧にそれに成功した稀有な例といえるように思われます。男性優位社会を可視化するために女性優位社会を仮構する方法論は、まさにオールディスが「暗い光年」他多くの作品で採用したのと同じものですし、ラストではディッシュ「334」とも照応する衝撃的な結論が開示されるのですから。

さて、前回言及した靖国神社の後身のますらお神社ですが、実はその神殿が上層階級の利用する娼館となっているのでした。神殿には(娼という字は女偏ですが)娼夫が侍っており、金持ちや地位の高い女性が利用していたのです!
このような涜神的な毒要素は随所にばらまかれていて、たとえばこの時代、軍隊は解散しており市ヶ谷駐屯地は戦争博物館となっているのですが、男性解放を主張するテロ集団革命党によって占拠されてしまいます。この場面、明らかにミシマが意識されているようです。この辺もオールディスやディッシュの日本化といえるかも(もちろん筒井康隆という先達がいるわけですが、筒井ほど戯画化は強くない)。

「当時もっとも活気をもっていた分野を押さえ込んだことで、科学とテクノロジーの全体が沈滞化してきたの。人類が末永く地球で生きていくためにはいいことだったわ」(340p)
これはエスタブリッシュメントの中枢にあるけれども穏健派(男女同権派)の指導者である総合医学研究所長の言葉(この人物に著者の主張が仮託されているようです)ですが、テクノロジーを憎悪し、進歩に対して《退歩》を対置させるイギリスニューウェーブ的な志向が明瞭です。川又千秋、荒巻義雄など、ニューウェーブに影響された日本作家はおりますが、人類の宇宙進出といった進歩史観に対しては必ずしも否定的でなく、この点、著者ほど徹底したNW的観念を体現したSF作家はにわかには思い浮かびません(プロパーSF作家ではありませんが中井英夫はそうかも)。

著者は1950年生まれということで、学生運動の最終世代にあたります。著者が運動の内部にいたかどうかは判りませんが、非常に影響されていたことは本篇に明瞭に現れており、デモから次第に暴動・テロに進展する男たちの行動の描写に生かされているようで興味深い。そこには一種郷愁めいたものも感じられるのですが、でも肯定はしていないのです。
前半で女性優位社会の男性支配が批判的に描かれますが、後半では一転、男の〈本性〉が批判的に描かれます。
すなわち《英雄》化するのを防ぐワクチンが開発されて男性を縛っていた枷が外され、男が次第に〈男性化〉していく。具体的には上述のデモからテロへ、そして男性原理的な革命党の結成が語られます。かつての革命党もまた、たとえば小松左京や高橋和巳らのグループが極めて男権的であったことは高橋たか子によってつとに暴露されているわけです。著者もまた、あるいはそのような革命党の中央集権的な上意下達構造を目の当たりにしたことがあったのかもしれません。
ともあれ、メンズリブ運動は次第に<男の本性>を顕わに見せ始め、なんと「まず国家をつくり、しかるのちそれを転覆する」(299p)「2段階革命論」を主張するに至ります。2段階革命論とはいうまでもなくスターリン主義であり、著者はかかる男性原理の行く末は抑圧的なスターリニズムでしかないとみなしているのでしょう。

ところで、かかる男性原理の暴力性の源泉を、著者は男の子が母親から生まれ、育てられるという点に求めるのです。女の子は同性である母親に育てられるから問題はないのですが、男の子は異性である母親に育てられ、ある時点で自己の模倣モデルを父親に変更しなければならない(エディプス葛藤)。かかる二重構造性が「逸脱と暴走と力の信仰」という男の本性の形成に与るとします。ではそれを除去するにはどうすればよいか? ここでディッシュの「334」との照応性が立ち現れてくるわけですね! いやあ面白い!

それにしても結局、著者の結論は、男女同権的な社会の構築というある意味常識的なところに収まります。非常にまっとうで健康的といえます。それを早川書房の単行本の担当編集者は「世紀末の耽美と退廃の画家の絵を表紙にして」(著者あとがき)刊行してしまったため「その不健全なイメージの絵と、「フェミニズムの帝国」というタイトルを考え合わせると、どうしても差別主義的な小説に見えるという困った事態になってしまった」のだそうです。そのために本書が行き渡ってほしい読者から色眼鏡で見られる結果になってしまったのではないかと著者は危惧しています。
全く(福島、森の時代は別格として)早川の編集者のレベルは、今も昔も変わらないということですな(ーー;

本篇はNWの日本化におそらくはじめて成功した作品であり、文章もこなれていて読み易く中間小説としても優れた小説となっています。笙野頼子の近作にも通ずる面がありますし、もっと人口に膾炙されてしかるべき秀作でしょう。ただやはり80年代に書かれた作品であり、裏返されているのが70年代頃までの女性像であるのはいかんともし難い。またグローバリズム資本主義も本書刊行当時はまだ顕在化していなかった。その辺を加味した新作をぜひ読ませていただきたいものです。

 



 

 

 

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