ヘリコニア談話室ログ(20085)


「蒸気駆動の少年」(2  投稿者:管理人  投稿日:2008 531()234614

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今日は3篇しか読めなかった。

「高速道路」 ああ、いいですねえ。安部公房とか、60〜70年代の日本の前衛小説みたい。主人公の存在がどんどん希薄になっていくところとか。最後に声をかけてくる見知らぬ人物は主人公ですよね。そういう円環構造とかも(ドッペルゲンガー小説でもある)。やっぱり70年代のテイストなんですよね。そういう時代性みたいなのは洋の東西を問わないのかな。

「悪への鉄槌、またはバスカル・ビジネススクール求職情報」 これは傑作(但しこの場合の傑作はここの意味)。逆説の掛け合い漫才みたい(^^)。「先生、ご自分も数のうちに入ってますか?」なんて、私自身がしでかしそうでゲラゲラ笑ってしまいました。この世界、なんとなく「脱走と追跡のサンバ」の世界のすぐ隣の並行世界のように感じました。っていっても伝わりませんか(^^;

「月の消失に関する証明」も、傑作(2)! こじつけに次ぐこじつけの結果、重力は消滅し、飛び降りた男は落下せず世界が浮上します(^^ゞ(円は存在しないという証明がよく判らなかったのは秘密だ)

ということで、以下次回。

 




「蒸気駆動の少年」読み始め  投稿者:管理人  投稿日:2008 530()203612

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平谷さん
とてもよく判ります。ある意味ロボットなんですよね。小説の巻末解説も、ロボットが書いたのはちっとも面白くありません。

さて――
たまたま『蒸気駆動の少年』貸して頂けることになり、着手。予定ではバリイ・N・マルツバーグ『アポロの彼方』を読むつもりだったのだが、後回しになります。申し訳ない(誰に向かって言うでもなく(^^;)

どうせ筒井康隆の亜流だろ、との偏見があり、スルーしていたのですが、縁あって読んでみたら、予想外に面白いではありませんか。自らの不明を恥じるばかり。確かに狙いは筒井のそれと重なる面はあります。例えば巻頭の「古カスタードの秘密」は、もろ筒井が60年代に量産したナンセンス・スパイものにシチュエーションは近似しています。ストーリーテリングも格段に筒井の方が上ですが、にもかかわらず筒井とは一味違う味わいがあってけっしてそれだけではないオリジナリティがあります。

「超越のサンドイッチ」はどうってことないブラックなオチ小説ですが、読後そこはかとない何かが漂ってくる。

「ベストセラー」は跳ばして(後で読む)、

「アイオア州ミルグローブの詩人たち」。これは間然としない傑作。日本の純文学雑誌に載ってもおかしくありません(〈海〉が潰れてなかったらなあ)。

「最後のクジラバーガー」は「わが良き狼」系。ラストが泣かせます。

「ピストン式」は、かんべむさしへのオマージュ。なわけがありませんね。この邦題を思いついた翻訳者の遊び心が楽しい。巨大な一物を持つ怪奇クルマ男がそこいらに駐車されている車を当るを幸い犯しまくるカーセックス小説! クルマ男の射精をもろに受け、その反動で衛星軌道に吹っ飛ばされます(^^;

以下次回。
なお本書の「解説」は、主体的な解説で、解説者自身はどう読んだのか、あるいは解説者自身は著者をどのように認識しているのか、がよく分かってとても参考になります。

 




文献主義  投稿者:平谷美樹  投稿日:2008 530()19508

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教師時代によく感じたことなんですが、お偉いさんたちは「文献主義」なんですよ。
「●●先生はその著書で××と仰っています」
文献を読み込んでそれを引用できるのが偉いと思っているんですね。
「では、あなたの考えはどうなんですか?」
と聞くと、その●●先生の仰るとおりの考えを話すんです。
で、こちらが体験的に獲得したデータをもとにお話ししても、「権威」の方を選び、ぜったいに譲らない。泣かされましたよ(笑)
我々下っ端教師は、実際に体験した生のデータをもとに日々の計画をたてるわけですが、その方が●●先生の仰ることよりも現実にそくしていて効果的なのです。
そういうお偉いさんが大嫌いだったので、自分自身が「あたまでっかち」になってしまわないように気をつけていました。
もっとも、そういう方ばかりではなく「すげぇなこの人」と思える方にも二十数年間で3人ほど出会いました。
教育関係にしろ、科学関係にしろ、オカルト関係にしろ、他人のふんどしで相撲をとっちゃダメよと(笑)
山ほどの吸血鬼蘊蓄もそういうサインだったりして。

 




Re: 感想ありがとうございました  投稿者:管理人  投稿日:2008 530()165819

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> No.1320[元記事へ]

平谷さん
お粗末な感想でお恥かしい限り。しかも読後熱いままに書き始めたので、今読み返してみますと表現が拙すぎる上にめくら撃ちの感もあります。文脈を読むに聡い平谷さんのことですから、もし深読みウラ読みされていましたら、そんな高等技術は用いておりませんので念のため(^^; その辺の(受け売りを専らとする)お兄ちゃんが読むように「オモテ読み」オンリーにてよろしくお願いします(汗)。
とりあえず「急」降下はあまりにも酷いので「急」展開に訂正いたしましたm(__)m

大体この小説の知識・情報を円で表現したら私の知識量なんて軽く包含されてしまいます。とりわけ神(話)や宗教に関しては、君子危うきに近寄らずで(笑)、「真紅の鏡像」もキイワードのひとつなんでしょうが、スルーさせていただきました。
とりあえず私が理解できた範囲でしか感想は(当然ながら)書き得ないわけでありまして、ご不満は多々ございましょうが悪しからず。

やはりこのボリュームは私の脳容量を超えていますね、読んでいる最中ここは言及しようと思った箇所が、読後ページを繰り直しても発見できないのですから(汗)。印をつけながら読むべきでしたね、後の祭りですが。

閑話休題。本篇の主題とはすこしずれるのかもしれませんのですが、特に私が共鳴したのが「受け売り」に関する考察で、科学に限らずソースを確認しに行かず鵜呑みにしてしまう態度が、とりわけネットを徘徊していますと目について仕方ありません。
たとえばネットではAという人物が偶像化されるとその言が全て正しいものとして認識され引用され伝播していくのです。
どうやらそこには白か黒かonかoffかしかない。
先日見つけたのですがここで
「ネットにアップされた書評は、自動的にその作品にかんする書評のデータベースを形づくる」
とあるのですが、これなんか完全にon&off思考でありまして、インターネット上の私たち素人の書評や感想文は、もとより発表を前提として完璧に書かれたものではありません。例えば私の感想文は前日の、あるいは前日に限らずそれ以前に書き込まれた内容をアプリオリに引きずっており、それをことさら改めて説明しているわけではありませんから、当該の感想文だけを検索で見つけて読まれたとしましても、私の見解は半分も伝わらないはずです。
ところが、東浩紀のいわゆるデータベース思考というのはこのへんをデジタル的にスパッと切り落としてしまうものであるのですよね。
それはネット上の個々の言説の受容の仕方にもいえます。言説A自体が持つ灰色の部分を等閑視して白か黒かに峻別する思考態度でもあるわけです。
それは同時に「主体的」な「検証」を介在させない態度にも繋がります。

このような態度は、実は昔からあり、最近の風潮というのは間違いですが、戦後から1980年代あたりまであった「科学的認識態度」が衰退した結果、ふたたび顕在化してきているのではないかというのがわが認識なんですが、『ヴァンパイア』はそのようなそのような思考態度(そのような人間)に対して(警告どころか)厳しく鉄槌を下しているように、私には感じられました。
まあこの辺は勝手読みになるかもしれませんね。

 




感想ありがとうございました  投稿者:平谷美樹  投稿日:2008 530()072537

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管理人さま
感想ありがとうございました。
とても嬉しいです。
拙著は「幾つかのキーワード」で、様々に読み説けるようになっています。
「あとがき」に書こうと思ったのですが、なにしろ枚数が枚数だったので、「あとがき」自体を遠慮してしまいました(笑)

 




「ヴァンパイア 真紅の鏡像」、読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 530()000939

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平谷美樹『ヴァンパイア 真紅の鏡像(角川春樹事務所 08)

「第3部 ディアボロス或いはテオス」「終章」を読み、全巻読了。
いやこれは凄い! 傑作!
第3部は予想どおり「転」であり「破」であり、そして一気に「結」へと「急」展開していくのでありました!

で、私は読了し、いま、呆然としております。
なんとなれば、ずっと悪であり敵だと思っていた者が、実は人類の進化を促す善意の存在だったのです。その結果、これまで感情移入していた主人公が、もはや人間性を失った(或いは超越してしまった)存在となってしまっていたと判れば、一般的な読者は、一体何を拠りどころにして読めばよいのかと、戸惑ってしまわざるを得ない。白は黒になり、逆に黒は白になる。そうしてまた逆転が起こり、結局白と黒相混じりあって混沌の灰色と化してしまう。言葉の正当な意味合いにおいてダークファンタジーとはまさにこのような小説をいうのではないかとさえ思われます(>違います)。

ハイブリッドなエンターテインメント小説として疾走していた本書が、最後の最後で読者に牙を剥くのです。これぞアンチクライマックス!
その結果、ラストは表面エンターテインメントノベルらしく夢枕や菊地のような超人バトル的バイオレンス小説の衣を被ってはいるのですが、読者が心を沿わすべき、共感すべき存在が定まらないので、カタルシスを生まない。実際のところ、これはニューウェーブの方法論なんですよね。

これでは直木賞は取れません。というのはもちろん誉め言葉で、つまり直木賞的共感的「人間原理」がくつがえされてしまうのです。これは『約束の地』の再現ですね。本書は『約束の地』の内的続編・ヴァリアントといってよいかもしれません。
ある意味《反小説》なのです。なんでもありのハイブリッドエンターテインメント小説として疾走するストーリーラインは、実にメビウスの帯だったのであり、疾走する速度そのままに、小説世界はいつの間にやら《反世界》へと突入してゆき……

――そして僕は途方に暮れる(大沢誉志幸)。

えーと(^^;
一般的な読者はそうならざるを得ません。このラストの《反ヒューマニズム》的境地を、私自身どう受け止めていいのか、実はよく判りません。おそらくクラークの反ヒューマニズムに繋がっていくものなんでしょう。ただクラークの場合は高所から見下ろした、一般化されたものなので生臭さは消されてしまっており、客観的な「知」として了解可能だったわけですが、本書のそれは、もっと個別的具体的で生々しい分、「知」では掬いきれず、こぼれ落ちてしまう部分があって、それが主体としての「我」に否応なく降りかかってくるのです。
プロローグである「Bar 《Vampir》T」において、超自然現象を非科学的と断ずる者のいうところの「科学」がおよそ単なる受け売りにしか過ぎないことが槍玉に上げられていて唐突感があったのですが、こうして読み終わってみるとまさにラストを見据えた伏線であったことが了解されます。

結局本書はハイブリッドなエンターテインメント小説として開始されるも、そのストーリーラインのメビウス的構造により裏返され、クラークを実感的に読者に体感させる思弁SFと化すのです。
しかも信じられないことにジュブナイル小説でもある。ただしジュブナイルのコードが解体される反ジュブナイル小説として、ではあるのですが。

とはいえ、このラストの境地が著者の結論であるとは私には思えません。『約束の地』のラストでも感じたのですが、これでは「内的には終わっていない」と思うのです。願わくはこの地点からのさらなる「思弁小説」の構築を切に望むものであります。つまりは「つづきを読ませてくれー」ってことなんですが(^^;

 




「走れ、ウィリー」  投稿者:管理人  投稿日:2008 528()01457

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今日は「ヴァンパイア」殆ど読めませんでした(現在355頁)。
理由は忙しかったからですが、もうひとつの理由として、本が大部すぎて(笑)持ち運べないため、仕事の合間に読みすすめることができなかったせいもあります。
その代わりポケットに入れていたのは『世界ショートショート傑作選1』(講談社文庫)。やはりそんなに読めなくて最初の2篇のみ。
しかし冒頭のヘンリー・スレッサー「走れ、ウィリー」は途轍もない傑作で、このラストから発するかろやかな悲哀と諦念には打ちのめされました。

打ちのめされるとともに、そしてただちに想起させられたのが『終わりの街の終わり』なのでした。
この作品は先日書いたようにある意味「設定」の勝利なのですが(つまりSFなのですが)、その一方で、登場人物たちが意識の流れ的に甦らせる過去の記憶、エピソードが積み重ねられており、そのエピソード群が、帯の惹句にあるように「世界消滅への穏やかな絶望」に満ち満ちていて強烈な印象を読者にもたらすのですね。そしてその印象が「走れ、ウィリー」と通底しているように、私には感じられたのでした。たしかに死刑囚ウィリーにとっても、世界は消滅するのですから。

つまりブロックマイヤーが狙った感覚は、実に60年代アメリカ大衆小説のセンチメントなんです(「走れ、ウィリー」のクレジットの記載はないのですが、スレッサーの盛期は基本的に60年代です)。
以上はブロックマイヤーを貶めているのではありません。古きよきアメリカ小説の伝統と感性を自家薬籠中のものとしそれらを素材としてそこから新しい造型を生み出しているわけです。その新しさの意味は形相の「奇妙さ」であり、質が変わったわけではない。

『終わりの街の終わり』の解説者は「侃々諤々」に「けんけんがくがく」と振り仮名を振ったその直後に、「一見SFとも思えるようなストーリー」などととんでもない妄言を吐いているのですが、それはまあ措いておきます。
今回問題にしたいのは、本篇に「文学の向こう側に開ける新しい世界がのぞいていることだ」と、本篇がこれまで類例にない新しい小説であるかのように喧伝していることです。
『終わりの街の終わり』のどこが新しいのでしょうか。上記の設定は非常に新味がありますが神話的世界観のヴァリアントを超えるものではありません。縦糸のストーリーも、今書いたように60年代アメリカ小説と変わらないセンチメントです(ヴォネガットも同じ。ヴォネガットの小説観は決して新しいものではないと思います)。その意味でブロックマイヤーは(少なくともこの長篇に関しては>と書くのは殆ど他の作品を読んだことがないからですが)伝統を継承したエンターテインメント作家のように私には見えます。
(そういえば解説者は「小説といえばリアリズムというアメリカの文学界」などとたわけたことをいっている。解説者はフォークナーを知らんのか? ポオは? 白鯨のメルヴィルは? ヘンリー・ミラーは? というかミステリもSFもアメリカで発達したのではないのか? 大体「最初のアメリカ小説」はリップヴァンウィンクルでしょう。言っていることが大雑把で観念的すぎる)
観念的といえば解説者は「新しい小説の"始まり"の物語でもあるのだ」と言いますが、具体的に解説して欲しいものです。この解説で行なわれているのは、ニューウェーブファビュリストとかアブサーディストとかスリップストリームとかスプロールフィクションとかニューウィアードとかストレンジフィクションとかインタースティシャルアートとか鬼面人を驚かす横文字のレッテルの羅列、言い換えにすぎず、その内実の解説は皆無であるようにしか私には見えません。解説ならば解説らしく当該作品を具体的に腑分けするべきです。

まあそんなことを「走れ、ウィリー」を読んで思ったことでした。

 




「ヴァンパイア」(2  投稿者:管理人  投稿日:2008 526()230745

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「第2部 エロス 1989年――死の島 夏」を読んだ。
舞台は日本に移って、岩手県三陸海岸の小島。ロンドンで小学6年生だった主人公は今高校3年生。祖父に引き取られこの島で暮らしている。しかし遂にヴァンパイアの魔手がこの島に迫ってきます!
ということで、第2部はさらにパワーアップして物語が疾走する。ヴァンパイアとエロティシズムは切っても切れない関係にあるわけですが、本章も「エロス」とあるように、大脳旧皮質を直撃する描写が続きます(^^;。
ところがですね、あまりに物語の速度が速すぎて、エロティックさを味わっている暇もないのでありました(^^ゞ
大体大脳旧皮質小説は、ホラーにしろ官能小説にしろストーリー展開が速いのはちょっと具合が悪いのです。むしろ停滞するくらいねちっこく描写しなければならないのであります。というか官能小説においてはストーリーは二の次なのですよね。
まあ岡本さんも書いていらっしゃるとおりで、本書は「そういう目的で読む本ではありません」。エロス描写はストーリーに奉仕するためのものであり、エロス描写のためにストーリーが奉仕するものではありませんので、お気をつけくださいますよう。

ところでやはり映画だなと思ったのが、ヴァンパイアに吸血されて(不完全な)ヴァンパイアと化した人々が、プラシーボ効果と言いますか、そのものが持っている吸血鬼の知識に縛められているという描写。たとえば銀の弾丸で撃たれたら死ぬという知識を持っているから実際に撃たれて死んでしまうわけです。(前例があるのかどうか知りませんが)この点が吸血鬼小説としてかなりユニークなんですが、それ以上に、こういう場面は映画では笑いを取るところだろうと思われます。著者ははっきり意識して書いている筈です。

本章のラストで、主人公の内部に変化が生じます。「我は神の鏡像」「真紅に染まった神の鏡像」という内なる声を聞きます。いよいよ物語は「転」(あるいは「破」)へと移っていくようです。
まとまりの悪い文章になりましたが、早く続きを読みたいのでこの辺で。

 




「ヴァンパイア」(1  投稿者:管理人  投稿日:2008 525()23108

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「第1部 サナトス――ロンドン 冬」を読み終えました。
かつて(古臭い)ゴシックホラーに対して、そのような超自然現象を措定しない心理的な恐怖を主題とした小説をモダンホラーと称した時期がありました(都筑道夫なんかはこの意味で使っているはずです)。前者を怪奇小説、後者を恐怖小説と言い換えることができると思います。
ところがその後、70年代後半からキングやクーンツが紹介され始めて人気を博するようになると、彼らの描くかつてのゴシックホラーを「現代化」したハイブリッドなジェットコースター小説がモダンホラーと呼ばれるようになります。現在ではモダンホラー自体が(SF以上に)浸透と拡散され尽くしてエンターテインメント小説の要件どころかベースとなってしまっており、もはやモダンホラーという言葉自体がほとんど見かけなくなってしまいましたが、本篇はまさにその(キング的な意味での)モダンホラーそのものといってよいハイブリッドなジェットコースター小説です。

実は千秋楽を見たり愚図愚図していて結局読み始めたのは夕食後になってしまったのですが、一旦読み出してしまえば、140頁になんなんとする第1部、一気でした。
ジェットコースター小説と書きましたが、もっとしっくりくるのはやはり「映画」ですね、それも趣味に走りがちな(勿論悪い意味ではありませんが)ハマープロでなくて(計算され尽くした)ハリウッドのそれ。本篇の各シーン割りはおそらく作者によってそのように企図されているはずで、記述はそのままシナリオに落とせる。映画的に改変を加える部分は殆どないと思います。これほどプロットの完璧な小説も最近少ないのではないでしょうか(逆に最近の変拍子小説に親しんできた読者にはエンターテインメント小説として正統すぎる本書は最初は稍々取っ付きが悪く感じられるかもしれません。勿論世界に入り込んでしまえばそんなのは関係なくなってしまいますが)。
しかも本書、どうやら「酒場のほら話」の形式も踏んでいるようで、手が込んでいます。

それにしても、こんな非道な可哀想な話を小説家はよくも平然と書きますなあ。人間性を疑います(>嘘です(^^;) 私は絶対に小説家にはなれないと思いました。
そうそう、早速教師批判が(^^; 学園内のいじめの描写なんかも、いかにも具体的でこれは現場にいたものの強みだろうなあと感じました。

これからSFになるのかならないのか、どっちにしても期待が高まりますね(^^)。ヴァンパイアが生気を吸い込む描写はヴァイトンを思い出しましたが。

 




到着  投稿者:管理人  投稿日:2008 525()13548

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bk1より平谷美樹『ヴァンパイア 真紅の鏡像』が、さっき到着しました。
先に1000枚?と書きましたが、いやいやとんでもない。2段組びっしりと文字が入っています。単純計算でも1500枚弱。1段25字なので改行の際の空白部分のロスもほとんどありませんから、0.95として実枚数1400枚くらいではないでしょうか。それにしても文字のびっしり詰まった本はいいですねえ。大好きです。目にはつらいですが(^^;

さらに好感を持ったのは帯がないこと。これはミスで帯が落ちたのではないと思います。なぜなら表紙カバーの装丁のデザインを見ると、日本語タイトル表示が、通例では帯に隠れてしまわないように上の方にくるはずなんですが、それが下に、著者名と2行併記で記されている。これは帯を最初から付けないことが前提の装丁デザインだと思います。

おっと、早くも岡本さんがレビューを→http://blog.kansai.com/bookreviewonline/232
ふむ。
>「自己自粛リミッター」を解除
とはそういうことだったのですね(^^ゞ。

ということで今から読み始めます。

 




テイクファイブで熟睡  投稿者:管理人  投稿日:2008 523()214143

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本日『ヴァンパイア 真紅の鏡像』bk1に注文しました。早ければ日曜、遅れても週明けには届くでしょう。
それまでにマルツバーグ『アポロの彼方』を片付けておこうかなと思いましたが、日程的に読みきるのは難しそうなので、〈休読日〉にすることに。

で、今日は以前から気にかかっていた疑問を解明すべくデイブ・ブルーベックをちょっと本気で聴いています。といっても一枚しかもってなくて、それもアルバム「タイムアウト」に、LIKE SOMEONE IN LOVE、IN YOUR OWN SWEET WAY、ALL THE THINGS YOU AREの3曲が追加された廉価盤。実はこのCD、もう10年以上前に購入したもので何十回と聴いているんですが、大体ナイトキャップ代わりなんです。つまり非常に導眠効果抜群。逆にいえば私に対して吸引力が全くない(^^;

やっていることを仔細に聴けば、意外にも(変拍子ということだけでなく)前衛的なんです(と私には思われます)。でも全体としての印象は典型的なウェストコーストジャズという感じで(でもブルーベックの音だけに耳をすませていると全然ウェストコーストとは思えないんです)、ファラオ・サンダースやアーチー・シェップはインタビューなどで仮想敵というか、われわれのはこういうジャズではないんだみたいなことを喋っているんですよね。

私も上記二人のような前衛ジャズは大好きで、そんな私が頭では「ブルーベックなかなか前衛的やん」と思うのですが、実際に聴いていると忽ち眠りに誘い込まれるのはなんでやねんと(^^;
それで今日は真剣にねっころがらずに聴き始めたんですが、なんと「TAKE FIVE」(*)の途中で既に熟睡していた模様(汗)。これって一体何なんですかねえ……ひとつ気づいたのはウェストコーストを感じさせる大半はポールデスモンドの力かも、ということなんですが。……

 (*)正直なところテイクファイブのブルーベックのピアノプレイは、私には単調なだけで全然魅力が判りません。

 




「終わりの街の終わり」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 523()002338

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ケヴィン・ブロックマイヤー『終わりの街の終わり』金子ゆき子訳(ランダムハウス講談社 08)

「2 シェルター」
現世で大量に人が死んだのはなぜか? 実は致死性のウィルスがばら撒かれたのです。誰がばら撒いたのかはわかりません。ただ、その手段としてコカコーラが利用された。世界的な水質の悪化を巧妙に(そして悪どく)販促に利用して、コカコーラ社はシェアを爆発的に拡大していました。犯人からすれば、コカコーラは「世界市場にもっとも広く届けられる製品、最も効率よくウィルスをばら撒ける」媒体だったわけです。で、一挙にウィルスは拡がり、人類は絶滅します。南極(温暖化で氷が解け始めており各国の基地は撤収。コカコーラ社が買収済み)に、新たな販促広告の一環で滞在していたコカコーラ社社員のローラ以外は。
――と書けばお分かりでしょう。この章は「復活の日」なのです。

「3 遭遇」
一方来世では、「街」に人影はありません。みんな消えてしまったのか? 誰もいない街を、新聞発行人のルカは毎日歩き回って生存者はいないか、捜しています。
――このシチュエーションは「さらば、ニッポン」ですね。

やがて彼は、(まず盲目の男を見つけ)服飾店のウィンドーの向こうにミニーという名の女を見つける。
――ベスター「昔を今になすよしもがな」だ!

で、結局ある一定の数の住民が確認されます。不思議なことに、その生き残った者たちはかなりの割合で互いに顔見知りだったのです。とりわけコカコーラ社の社員は多く、「街」にコカコーラ社のオフィスさえある。
これはつまり、「街」の住民全員が、現世の唯一の生存者であるローラによって記憶されている人々だからですね。「街」の住民たちも、次第に真相に近づいて行きます。

「4 長い道のり」
ローラは近くの基地(勿論コカコーラ社の)に向かってそりで出発します。この章は溶融してクレバスが開きディザスターエリアとなった南極横断パニック小説の趣き(田中光二?)。

こうしてあの世の「街」とこの世の南極パニック小説が交互に語られていくのですが、当然「街」のたたずまいはローラの状態に従属しているわけです。やがて……再び「変化」に街は見舞われていき、印象的な最終章「15 横断」に至る。

いやこれは面白いです。読者を先へ先へとぐいぐい引っ張っていく力が漲っています。読み始めたらやめられません。私も、もうやめよう、もうこの辺で擱いておこうと思いつつも一気に読まされてしまいました。
ケリー・リンクとはずいぶん様相を異にしていますね。
たしかに「1章」とラストの「15章」、つまり両端はこれだけ取り出せば素晴らしい幻想小説です(山尾悠子を連想しました)。が、キセルの羅宇の部分は、上記のように小松左京や田中光二的なエンターテインメント性が高い。
しかも「街」と現世の関係は理詰めに設定されており、私はいわゆる「新本格」的なパズル性を強く感じました(あるいは小林泰三「密室・殺人」とか)。

単純に幻想小説とは言い難いわけです。ケリー・リンクのように作家と作品の対応関係はあまり感じられなかった。むしろパズル的な世界創出こそが作者の狙いだったのではないか。その意味ではリンクよりもずっとジャンルSFらしいといえます。

解説で、ニュー・ウェーブ・ファビュリストとかスプロール・フィクションとかいろいろ言い換えしていますが、そんな大層なものではないと思う(というか何を言ってるのか私にはよく判りませんでした)。たとえばこの小説の駆動装置であるウィルスには何の観念性も認められません。コカコーラ社への怨念は強く感じますが(笑)、小説内のコカコーラ社は悪辣ではあっても利用された被害者であり、ウィルス混入の犯人は不明のままで、当然テロの意図も不明です。ウィルスはただ本篇の世界設定のために導入されたにすぎない。これはエンターテインメントの手法です。

かくのごとく、少なくともこの長篇に関しては、ごくふつうの(論理的に幻想を構築する類の)サイエンス・ファンタジーの範疇に属するSF小説として理解すればいいように思います。ただしこの著者、短篇は(1章や15章から想像するに)きわめて幻想小説っぽいのではないかという気はします。

ともあれ面白さは抜群であり、今年の海外SFの収穫のひとつであることは間違いありません。金子ゆき子の訳文も申し分なく、完璧に日本語にこなれており、翻訳小説特有のストレスをいささかも感じることなく読了することができました。

 

 

 

 

(管理人
「パニック小説」というよりも「サバイバル小説」ですね。訂正します。

 




「終わりの街の終わり」  投稿者:管理人  投稿日:2008 521()184645

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平谷さん
遅まきながら、新著の出版おめでとうございます。釣りの本が出たのは気づいていましたが、こちらは全くレーダーから洩れていました。本格的なSF長篇小説は久しぶりですね。楽しみです。↓の本を読み始めたので、着手するのはもうちょっと後になると思います。あ、その前にまず本を入手しなければ(^^;

ケヴィン・ブロックマイヤー『終わりの街の終わり』金子ゆき子訳(ランダムハウス講談社 08)に着手。アメリカでケリー・リンクと並び称されているときけば、これは読まないわけにはいきません。
まずは「1 街」を読みました。

死者は死んで天国や地獄へ行くのではなく、ある「街」にやってくる。死者(?)は、生者の世界でその人を憶えている人がいる限りその街に住んでいることができる。憶えている人がいなくなると、死者はその「街」から消えてしまう。つまりこの段階で再び「死ぬ」わけですが、そのあとどうなるのか、完全に消滅するのか、あるいはこれから天国や地獄に行くことになるのか、死者には判りません。だからこの「街」の住人にとって宗教は現世のときと同様有効なのです。というような設定が語られる。ところが、突然「街」にやってくる人が増え、次にどんどん「街」から人が消えていく。つまり現世で大量に人が死んだのです。そしてその結果、今度はこれまで街に住んでいた人々が現世に憶えている人がいなくなって消えていったというわけです。「街」からどんどん人がいなくなり、やがて……

いやー、これはよいですなあ!
とてもよい。こたえられません。この章だけで、一篇の短篇小説たりえています。
ここまでの印象ですが、リンクよりも幻想世界設定に論理性があって、よりSFっぽいです(いやもちろんSFなんですが(^^;)。
続きが楽しみ!

なんですが……

ところが……
ふと解説に目を通して……
のっけから……
愕然。
多分ワープロ原稿と思いますが、こんなミスが起こるものでしょうか。しかも校正が見逃すかね。情けなや。
せっかく良質の本に出会えたと思っていたのに〜。高揚した気分が見る見るしぼんでしまいました。がっかり。
いやまあ気を取り直して続きに行きますけどね。小説は面白いんですから。

 




ありがとうございます  投稿者:平谷美樹  投稿日:2008 521()074458

  返信・引用

 

 

管理人さま
告知ありがとうございます。
教師という草鞋を脱いで、今までの「自己自粛リミッター」を解除した作品であります(笑)
一気読みしていただければ望外の幸せです。

 




「ヴァンパイア 真紅の鏡像」  投稿者:管理人  投稿日:2008 520()224341

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平谷美樹さんの最新長篇が出ている事に、今頃気づきました(>遅すぎる!)

『ヴァンパイア 真紅の鏡像』  角川春樹事務所amazonbk1

雑誌記者の高森は銀座のとあるバーで謎の老人と出会った。阿久津と名乗るその老人は、東欧にある吸血鬼が棲む城に手を出してはいけないと言う。吸血鬼特集を考えていた高森は、半信半疑ながらも老人の話を聞くことになった。それは1983年ロンドン、1988年日本の孤島、そして現代の東欧の小国まで続く、ある日本人家族と、200年の眠りから甦った不死者=吸血鬼の、不思議で悲しく、恐ろしい、壮大なる話だった。この話は本当のことなのか?果たして吸血鬼は実在するのか?

548ページ(1000枚?)の大長編のようです。先般読んだ山田正紀『天動説』は、江戸時代、ロシアから蝦夷地に渡ってきたヴァムピールが、北前船で江戸に潜入するという話で、面白かったんですが如何せん安普請でした(^^;。

もとより当方は本書の内容について一切前知識を持っておりませんが、とはいえ綿密な文献調査と映像的な描写で定評ある平谷さんのこと、紙幅も上述のように潤沢なようですから、きっと重厚に仕上がっているに違いありません。アッという新解釈も随所に盛り込まれているのではないでしょうか?
「天動説」が低予算B級映画だとしたら、本書はさしづめハリウッド大作映画では? 楽しみです〜(^^)

 *なお当掲示板での商用サイトへのリンクは自主的なものです。お買い物によって管理人に手数料等が入ることはありませんので念のため(^^;

 




器じゃない  投稿者:管理人  投稿日:2008 520()183337

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「はじめての部落問題」より引用――
これはもう、知っている人は知っていることで、検索すればばんばんヒットします。私も知っていましたが、より沢山の人が知っておくべきだと思うので。ご存知の方には今さらですが……。
次期総裁候補の筆頭らしい麻生太郎の差別発言です。
著者は野中広務の評伝『野中広務 差別と権力』(魚住昭、講談社、2004)から引用しています。私もそのまま(但し掻摘まんで)孫引きしちゃいます。

 総裁選(2001年)の最中にある有力代議士は私(魚住)にいった。
「野中というのは総理になれるような種類の人間じゃないんだ」(アンダーライン、管理人)
 自民党代議士の証言によると、総裁選に立候補したもと経企庁長官の麻生太郎は、党大会の前日に開かれた大勇会(河野グループ)の会合で野中の名前を挙げながら、
「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」
 と言い放った。(第16章 差別の闇)

 2003年9月21日、野中は最後の自民党総務会に望んだ。
(……)
「総務会長!」
 と(野中が)甲高い声を上げたのはそのときだった。
「総務会長、この発言は、私の最後の発言と肝に銘じて申し上げます」
 と断わって(……)政調会長の麻生のほうに顔を向けた。
「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を 日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の3人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずはないんだ。私は絶対に許さん!」
 野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。(エピローグ)

 野中が小泉首相も出席した総務会で差別発言を糾弾したにもかかわらず、不幸にも、麻生(福岡8区選出)はその直後、部落問題の担当官庁である総務省の大臣に就任した。泥棒が警察官になるようなもので、これほど不適切な人事はない。(105−106p)


私も著者のいうとおりと思います。こんなレベルの低い男が、現首相の支持率低落の状況で、今また自民党総裁候補と目されている。そのこと自体が、この党の、政権党としての資格というか要件を満たしていないレベルの低さを物語ってはいないでしょうか(上記に関して虚偽ならば麻生は名誉毀損で訴えればよい訳です。なぜか麻生はそれを行なってはいない。とwikipediaに記載されていることを付記しておきます)。

マルツバーグ『アポロの彼方』のつもりでしたが予定変更。ケヴィン・ブロックマイヤー『終わりの街の終わり』に着手すると思います。

 




「はじめての部落問題」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 519()214757

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「戸籍」というものを、われわれ日本人はあることが当たり前だと思っているわけですが、これって世界的に見ると普遍的なものではないそうです。著者が暮らしていたことがあるアメリカやオーストラリアには戸籍はおろか、住民票制度もないとのことで、この特殊日本的な制度(韓国には日本統治時代があった関係で戸籍制度はある)の存在が、部落差別のなくならない要因になっていると著者は考えます(制度のよしあしとは別に事実としてということです)。つまりアメリカの黒人差別やオーストラリアの原住民問題、日本でも在日朝鮮人差別とは画然と異なる特色として、部落差別は差別する側とされる側に、人種的・民族的差異がないわけですから、「部落」を離れて遠くへ、あるいは大都会の雑踏の中へ紛れてしまえば差別から自由になるはずなのです。ところが戸籍制度がある日本では、どんなに引越しをくり返し転籍を繰り返しても、差別する側は興信所などを使ってたやすくルーツにたどり着くことができる。こういうことが可能であることが判っているから、結婚差別は永遠になくならない事になるわけです。「日本社会は、籍の思想をてこにしてマイノリティを再生産している特殊な国家だという気がする」(167p)
こういうところに気づくのが、著者の非凡なところなのですが、私にはこういう着想の背後に著者の「師匠」(私の師匠でもある)の学問観が仄見える気がするんですよね。やっぱり「師匠」の弟子やなと。

閑話休題、部落差別はなぜ残っているか、上記はその温存をサポートする特殊日本的要因ですが、それ以前になぜ差別するのかその一般的人間的要因が先在しています。
著者はそれを、「家」「違い幻想」「異質排除」「差別されることへの恐怖」「普通願望」「世間」「マイナスイメージ」の7つのキイワードで説明できるとします。しかしその最も基底にあるのは「違い幻想」であるとします。なぜなら部落問題は「同質」のなかの差別だからです。
これらは「共同体」そのものの成立原理と密接に繋がっているので、これらの7つを解体していくことが部落差別の解体に繋がるとしても、それは同時に共同体そのものの解体を含意するものでもあるところが、部落差別撤廃の困難さをもあらわしているように思われます。結局は、我々ひとりひとりが、常識や通念を鵜呑みにせず、常に問題意識を持って目を見開いていることが大事なんですが、これがまた難しいのですよね。

以上で、角岡伸彦『はじめての部落問題』(文春新書 05)の読み終わりとします。

 




「はじめての部落問題」(4)  投稿者:管理人  投稿日:2008 519()01510

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部落差別の特徴として、差別する側とされる側に明確な差異が存在しないことを著者は挙げます。「部落と部落外は、人種的にも民族的にも違わない」(123p)、「異人種・異民族起源説は、現在では完全に否定されている」(122p)

ではおまえが書いていた「朝廷にとっての(非日常である)「異民族」も、穢れを清める資格はあったのではないか。とすればかつての、山人と被差別部落を関係付ける説も、新たな照明のもとに浮かび上がってくるのでは?」という「妄想」は、結局妄想だったわけだな、といわれそうですが、そうでもありません(^^;

私が念頭していたのは平安時代の、あるいはそれ以前の蝦夷であり、隼人のような存在としての山人なのです。蝦夷も隼人も縄文人の血を継承しており、実際のところ朝鮮系の血が入った平安貴族よりも、もっと純日本人であった可能性が高いのですが、それは擱くとしても、彼らは「まつろわぬ者」として異人と(都びとにより)観念されていただけですから、上の引用によって私の妄想が瓦解するわけではありません(*)

閑話休題。そういう次第で、部落差別とは、「基本的に日本人という同じグループの中での地縁と血縁をめぐる差別」であり、上記のように違いはないわけですから、部落外者による「部落民はわれわれと違う」という思い込み、「違い幻想」によると著者は述べます。実体のない幻想なんですね。

とはいえ幻想に基づく差別とはいえ、その結果は実体を伴うわけで、それは最終的に「貧しさ」として部落に刻印される。かつて(70年代以前には)部落にそのような貧しさがあったことは事実であり、知識として部落民と部落外者に実態的な差異がないことを知っている人であっても、そういうものの仲間とみなされたくない心理(恐怖)が、部落の貧しさが解消されてきた今日においてもいまだになくならない結婚差別をメインとする差別の温床となっていると著者は考える。現在の部落差別は、積極的に差別するというよりも、(子供の結婚などにより)自分がその中に組み込まれることで差別される側に回ってしまうことを恐れるところからの差別というかたちに、ある種差別の潜在化が進行しているのですね。

(*)ついでにさらに妄想を逞しくするならば、東北地方と沖縄と石川富山には(あと北海道と東京も)政府統計では同和地区はないということになっているそうですが、東北はまさに蝦夷の居住地ですし沖縄人はアイヌと並んで縄文形質の強い(石川富山は一向宗の地盤ということが関係しているかも)ですから、構造論的に天皇の聖性の対極に(「俗」を挟んで)布置された部落(という言葉は近代のものですが)と同視された結果、それらの地域全体が「部落」と、当時都びとによって認識されていたことをあらわしているのかも。いや妄想ですよ(^^ゞ

 




「はじめての部落問題」(3  投稿者:管理人  投稿日:2008 518()23548

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下記のように、「血縁的系譜観念は、まさに幻想であり、それがあたかも意味があるかのように認識すること自体が偏見・差別なのである」(70p)、つまり差別を合理化するものとして、穢多・非人が持ち出されてくるわけなんですが、別に部落民が穢多・非人の子孫であってもかまわないと著者は言います。それがこの著者のユニークなところ。問題は「エタ身分の子孫は賤しい、天皇・皇族は尊いなどと価値付けすることである」(71p)と著者は言います。
まったくそのとおりですね。王都論的な構造論的理由で賤民とされただけで、彼らは天皇と同じ人間なのですから、種として違いがあるわけではない。
先に書いたように、「部落外にとって、あくまでも賤視する空間が重要だった」だけであって、それを通時的歴史的に合理化するためにエタ・非人が援用されたにすぎません。

とはいえそのような差別構造が、実態的差別(教育差別、就業差別、結婚差別)を伴ったのは間違いない事実で、そのような結果として部落出身者にかつてヤクザが多かったのだそうですが、そういう事実は事実として認識すべきだと著者は考えます(在日コリアンも多いとのこと)。「誤解を生むからやめてくれ」といわれることがあるそうだが、きれいごとを言っても仕方がないと著者は考えます。もっとも70年代以降同和対策事業の推進(これは膿も伴いましたが)で、実態的差別は減少しており、その反映として若い世代でヤクザは減っているらしい。ところが在日コリアンの若い世代では減少しておらず、むしろ今では(同和対策に相当する恩恵を被らなかった)在日に対する差別の方が今なお厳しいことをあらわしているとのこと。

そのような(たとえばヤクザが多いというような)ところから、部落は怖いというような観念をもたれることが多いとのことですが、それは「不当な範疇化」とその「全体化」による「思考停止」だと著者は戒めています。結局目を瞑ってしまうということでしょう。そういう「事実」を見ようとしない態度が、差別を固定化してしまうのですね。

 




『はじめての部落問題』つづき  投稿者:管理人  投稿日:2008 518()203650

  返信・引用

 

 

先回は、部落の起源は平安時代に遡ると紹介しましたが、この「(賤民)部落」と、本書の主題である「部落」は、一直線に繋がるものではないようです。
たとえば、京都のある部落は、近時の調査によって、明治時代に調査されたときにいた構成員(部落民)の血縁は皆無になっており、現在ではその傍系や、後に流入した者に完全に入れ替わっているそうです。つまり「血縁」は一義的には関係ないのですね。「部落」という言葉自体は明治以降の指示語であり、結局「部落問題」としての部落民は、「近代になって成立した」(74p)社会的構成物に他ならず、(祖先が)穢多・非人であること(あったこと)とは別にして考えなければならないということのようです。

 




ドーム球場で草野球  投稿者:管理人  投稿日:2008 518()185540

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息子が草野球のチームをつくっているのですが、先日京セラドームで試合をしてきたとのこと。
今はそんなサービスもしているんですね。
高かったんとちゃうか、と聞きましたら、午前0時から2時間で10万円らしい。
午前0時からというのも凄いですが、チーム折半なので5万円、メンバー10名としてひとり頭5000円程度ときかされるとリーズナブルかなとも。
5000円あったら2回甲子園にいけるがな、というと、ベンチも使えるし、全然比較にならへんといっておりました。そら、ただ「見る」よりも自分が「する」方が格段に楽しいもんですわな(>小説も同じ)。

対戦チームも、ネットにそういう掲示板があって、日時場所を書き込んでおけば、いろんな(見ず知らずの)チームから対戦希望のレスが返って来るそうです。
そういうのを聞くと、本当にインターネット社会になってしまっているんだなあ、どんどん取り残されていくなあ、と思わされます。

 




Re: 消滅の光輪  投稿者:管理人  投稿日:2008 518()112736

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> No.1302[元記事へ]

ハバロフスク小唄

冒頭「ハバロスク、ラララ、ハバロスク」のあとに続けて「嬉しかったらカラカラ笑え〜」と歌ってしまうのは私だけでしょうか。私だけですか。失礼しました。

土田さん
おお、情報ありがとうございます。
「司政官」が予想以上に好調で編集の方が喜んでおられたと聞いていましたので、ひょっとして……と思っていましたが、実現したんですね(^^)
しかし2巻本になりましたか。1巻本じゃないのですね。よかった(^^;

>反対に海外SFからは半分撤退したような状態ですが・・
ハヤカワも状況はそんなに変わりませんよ。
たとえば下記は今年(すでに半年近くになりましたが)出版されたハヤカワ文庫SFのリストです。

これからローダンシリーズを除き再刊復刊を除けば、新刊といえるのは以下のとおり。
しかもそのうち「反逆者の月[2]」「ジャンパー」「秋の星々の都」は既刊シリーズの続刊ですから、正真正銘の新刊は「ジェニー・ケイシー」シリーズ2巻のみとなってしまいます。

一方、創元SF文庫の方は、面倒くさいのでリストは挙げませんが、新刊は「黎明の星」上下巻で、結局のところ、実際はハヤカワも創元も文庫SFの新刊はどちらも2冊で同じなんですよね。

SF1647 鋼球帝国 フランシス&フォルツ ローダン343
SF1648 雄牛と槍 ムアコック 永遠の戦士コルム2
SF1649 反逆者の月[2]帝国の遺産 ウェーバー
SF1650 メールストロームでの邂逅 フォルス&フランシス ローダン344
SF1651 ジャンパー[上] グルード
SF1652 ジャンパー[下] グルード
SF1653 ジャンパー/グリフィンの物語 グルード
SF1654 肉体喪失者の逃亡 マール ローダン345
SF1655 ゴールデン・マン ディック ディック傑作集
SF1656 まだ人間じゃない ディック ディック傑作集
SF1657 HAMMERD/女戦士の帰還 ベア サイボーグ士官ジェニー・ケイシー1
SF1658 昆虫女王 ダールトン&エーヴェルス ローダン346
SF1659 SCARDOWN/軌道上の戦い ベア サイボーグ士官ジェニー・ケイシー2
SF1660 拷問者の影 ウルフ 新しい太陽の書
SF1661 秋の星々の都 ムアコック 永遠の戦士フォン・ベック2

海外SFの点数はハヤカワが圧倒的に多いのに、実際の新刊の点数は同じということは、実はハヤカワのほうがしんどいということだと思われます。結局既存のローダンファン、ディックファン、ムアコックファンの購買力に頼り切っている訳で、そんな状態でなお、未だに十年一日の如くヤング向け大衆宇宙SF路線を変更しない(冒険しない)ハヤカワって、やはり出版界の官公庁なんだなと思ってしまいます。

SFの購買層は固定しており、年々平均年齢は上がっていくというのは誰もが認めていることで、中年に達したメイン購買層は(確かに70年代は10代だったから、その年齢に見合った作品を求め、森さんの方針とぴったり合致したわけですが)、いまの自分たちの年齢に見合った作品を求めているのです。未来の文学や奇コレはそのような高年齢化した購買層のニーズを掬い上げたのであり、その分ハヤカワ文庫の売上は落ち込んでいるはずです。これは限られたパイにおける単純な引き算です。

や、つい興奮してしまい土田さんのレスであることを忘れてました。ごめんなさい。

某所の話題ですが、たしかにミュールの正体や第2ファンデーションの所在地にはアッと驚かされましたけれども、それはミステリの驚きなんですね。SFなのはやはり第1巻で、この巻の圧倒的なセンス・オブ・ワンダーには痺れました。

 

 

 

 

(管理人
と思ったら、「黎明の星」は「揺籃の星」3部作の第2部なんですね。訂正します。いずれにしろ低レベルの話ではあります。

 




消滅の光輪  投稿者:土田裕之  投稿日:2008 518()093220

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創元推理文庫から「消滅の光輪」が上下巻で再刊されるようですね。

ハルキ文庫がSFの再刊から撤退したような雰囲気がありますが、
創元推理文庫がその役目を引き継いだかのようです。

反対に海外SFからは半分撤退したような状態ですが・・

こういうのも編集者の交代が影響しているのですかねぇ。
(実際に交代したのかどうかは知りませんが)

 




士農工商○○SF作家  投稿者:管理人  投稿日:2008 517()230218

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ずっとさがしていた角岡伸彦『はじめての部落問題』(文春新書 05)を本日ようやくブックオフにてゲット。いやまだ生きている本なんですが(05年11月初版で、私がゲットしたのが06年3月5刷ですから比較的よく売れているのではないでしょうか)この男、不急の、「手に入ったら読む」類の本は、新刊書店では絶対に買おうとはしないのであります(^^;。

さっそくパラパラ見ていたら、のっけから面白い記述が。

士農工商が江戸時代の身分制度をあらわすという常識は間違っているらしい。実は老若男女と同じく「みんな」という意味の4文字熟語でしかなく、そんな制度はなかったらしい。せいぜい武士の下に町人と百姓がいるという構図だったとのこと。
また、部落の起源も、私たちが習ったように、江戸時代に意図的に作り出されたというのも、現在では完全に否定されており、実に荘園ができた平安時代にまで遡ることが出来るそうです。
「ときの権力者が部落をつくったのは、天皇と都を穢れから守るためで、そのため穢れを清める役割を死んだ牛や馬の処理や処刑などに従事していた穢多、非人に求めた」(20p)
つまりいわゆる「構造論」的な所産であったのですね。

となると、ここからは本書とは無関係な私の妄想ですが、だとしたら朝廷にとっての(非日常である)「異民族」も、穢れを清める資格はあったのではないか。とすればかつての、山人と被差別部落を関係付ける説も、新たな照明のもとに浮かび上がってくるのでは?
うーむ。「産霊山秘録」ではどうなっていたっけ。要再読ですな。

マルツバーグの『アポロの彼方』を読むつもりだったんですが、さてどっちから読むかな。

 




「橇・豚群」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 516()223237

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今日、ラジオからレディオヘッドの「ハイ・アンド・ドライ」が流れてきて、思わずサビの部分のあとにつづけて、「騒ぐ潮〜風」と歌ってしまいましたが、これって誰でもそうですよね。ね、ね。
あ、知りませんかそうですか。

黒島伝次『橇・豚群』(新日本文庫 77)、読了。
以前読んだときは、視野が狭いと感じたのだが、まったく著者の意図を理解していなかった。小説は「大説」ではないのだから、これでいいのです(^^;。なお作品の並びはほぼ執筆順のようです。

「電報」はデビュー作。小作人の父親が、わずかな身代を残すくらいならば(成績のよい)息子に教育をつけてやるほうがよいと、上級校を受験させるも、身の程を知れ、みたいな暗黙の圧力に屈していく話。ここで重要なのは、上からは当然として、自分と同じ「身分」の村人たちからの圧力です。合格した息子は「今、醤油屋の小僧にやられている」

「砂糖泥棒」。醤油醸造場に勤める主人公は砂糖倉から砂糖をくすねているのを見つかり解雇されたばかりか積立金を没収される。
「二、三日たって、若い労働者達が小麦俵を積み換えていると、俵の間から帆前垂にくるんだザラメが出てきた。/彼らは笑いながら、その砂糖を分けてなめてしまった。(主人公に実際に引導を渡した)杜氏(職工長)もその相伴をした」

「二銭銅貨」。子供たちの間で独楽が流行っていても、その家では子供に新品の独楽を買ってやれない。子は兄のお古を貰うのだが、ただ緒がなかった。緒だけは買ってもらえることになるが、母親が買ってきたのは寸足らずで2銭安くなっていたもの。子は緒が短いから、独楽に力が溜まらず勝てないと思い込み、暇があれば緒を引っ張っている。村の友達が田舎廻りの角力を見に行ったときも子は行かせて貰えず牛が小麦を挽く番をさせられていたが、それを利用して緒を延ばそうと思いつく。が、緒に引っかかって牛に踏み殺されてしまう。母は、
「あのとき、角力を見にやったらよかったんじゃ」「あんな緒を買うてやるんじゃなかったのに! 二銭やこし始末したってなんちゃになりゃせん!」といまだに涙を流す。

ここまでは同じ労働者や小作人が無知ゆえに団結できず、結果経営者や地主に手玉に取られるばかりです。しかし――

「豚群」。小作しても生活できないので、皆、今相場が高い豚を飼っている。地主が小作料代わりに豚を差し押さえに来る。そのことを知った村人は差し押さえられるくらいならばと、豚を野に放つことに衆議一致する。ところが裏切り者が出る。前作までですと、そういう事態になすすべもない状況が描写されたのが、今回は裏切り者は少数でそいつが痛い目にあうという話。これはスカッとして面白く、映画にしても面白そうな話です。そういえば、全体にイタリアネオリアリズモ風なんですね。

「橇」はシベリアもの。軍は、移動のためと偽って町の住民を橇とともに徴発する。ところが、実は赤衛軍討伐のためだった。将校は徴発した橇に乗っているが、雪原を歩行する兵隊たちは疲弊して戦闘意欲を失っている。ついに一部の兵士が叛軍する。将校は射殺を命じ橇を降りる。その隙に橇と御者である町民は逃げ去る。部隊は雪原の中に取り残され、やがて食料は尽き……。


「渦巻ける烏の群」もシベリアもの。駐屯地の町の「恋人」の家に忍んで行ったら、中隊長と鉢合わせになり、疎まれた主人公は、小隊ごと危険な斥候に出され、雪の中道に迷って全滅する。春になり、烏の大群が渦巻く下から、多数の遺体が……。

「浮動する地価」。主人公の父親は農民らしく、土地以外の一切を信じない。土地だけはなくならないからと。生活を切り詰め少しずつ土地を買い、それを担保にまた買い足していく。ところが、村に商品経済が入ってくる。夜なべで草鞋を作ったのが商店で靴を買うようになる。いつの間にか父親も「土地」を「地価」と同視しているのだった。首が回らなくなり、鉄道敷設の恩恵を期待するも計画自体がポシャり、全てを失った父はいっぺんに老け込み死ぬ。ゼロに戻った主人公は、しかしせいせいするものを感じている。

「腹の胼胝」。醤油工場で働く父は工場で夕食を食って帰宅する。そのとき家族の分をくすねて手拭に包み懐中に隠して帰ってくる。主人公は「親爺が食堂からぬすんできた飯で大きくな」り、やがて同じ工場で働きだす。争議となりピケを張っていた父親がスト破りの暴力団に半殺しにされる。そのとき子は、父親の腹に、黒焦げに焦げたたこができているのを見つける。「幾年も幾年もあつい飯をぬすんで帰っているうちに、その腹は火傷して焼け爛れ、ついには湯だこのようなたこになってしまったのだ」

「前哨」は北満もの。斥候隊がひょんなことで黒龍江軍の斥候部隊と鉢合わせとなるも、襲ってきた野犬を共同で退治したことで仲良くなってしまう。そこへ本体が合流してくる。将校が敵を殺せと彼らに命ずる……。
「うて、うち×せ」/だが、その時、銃を取った大西上等兵と浜田一等兵は、安全装置を戻すと、直ちに、×××××××××をねらって引き金を引いた。

とこの部分伏字によってリドルになっているんですよね。本集は黒島伝次全集を底本とし、他の版を参考にし伏字の起こしをおこなったものがあると、巻末に記されているのですが、判明しなかったのでしょうか。しかしこの場合は伏字によってより小説として面白くなっていると思います。ひょっとしてここは最初から伏字にしていたのでは……としばし妄想に耽る。ありえませんね(^^;

「傷病兵」は半分エッセイのような断章。

「貧農」は、解説者によると「おそらく未完の長篇の冒頭」とのことで「あえて短篇集に入れる」とあるが、これだけでは感想の書きようがない。

というわけで読了。プロレタリア文学というと、観念先行の、小説としては稚拙なものとの先入観を持ちがちですが、少なくとも本書はそのような先入観を打ち破るものです。上に記したようにネオリアリズモの小説版という感じがあります。
自然主義文学の理念は、日本では私小説へと小さく纏まりつつ後退していくわけですが、一方でプロレタリア文学をも結実させた。実はこの方面にこそその理念は正しく受け継がれたのではないか。そんなことを感じました(他に読んでいるわけではないので単なる印象ですが)。唯一の長篇「武装せる市街」も読んでみたいと思いました。

 




「橇・豚群」  投稿者:管理人  投稿日:2008 515()235411

  返信・引用

 

 

オホーツクの舟唄

というわけで(どういうわけだ?)、『橇・豚群』読み継続中。半分弱くらいまで読む。
いいですねえ、面白い。ほとんどスケッチに近いんですけど、それがよい。むしろ最近の小説が無駄に書き込みすぎに思えてきますね。

アンナ・カヴァン「氷」の翻訳ブログを発見→http://blog.goo.ne.jp/m1suzuki/e/f6badc62e012314cbc1110d043fe484f

 




ザ・ジェノバ  投稿者:管理人  投稿日:2008 514()22591

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サハリンの灯は消えず

というわけで(どういうわけだ?)、黒島伝治『橇・豚群』に着手。

 




「ダンシング・ヴァニティ」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 513()21565

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筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』(新潮社 08)、読了。

面白かった! 考えれば考えるほど面白さが増していくという、稀有な小説でしたね。
ジャズのアドリブとの一致は昨日書いたとおりなんですが(後でもう一回触れます)、本篇の面白さはそれだけではありません。面白さの第2の要素として、とくに前半ですが、現実と夢あるいは非現実が、メビウスの輪のように一直線に繋がっていて、夢から現実へ、現実から夢へという往還に、なんの閾もありません。これなんか著者は軽々と書いているようですが、実際はアクロバティックなテクニックなのであって、これは凄いです。それを簡単にやってしまう著者の技倆に改めて感じ入ってしまいました。

第3の要素として終盤に導入されるのが「昔はよかったなあ」と同じ設定。ここにおいて一転「せつなさ」が主人公に付与されて読者を共感と感動に包み込み終幕するという趣向です。ネットの感想文を通覧しますと、やはりこれを読解の手がかりにしているのが散見されました。
しかし管見によればこれは本篇をある意味矮小化してしまうものではないでしょうか。
というのは、これは第2の要素を無化してしまうものであるからで、このような解釈は(「昔はよかったなあ」の場合はこれがメインのアイデアなのでオッケーなんですよ)、一種近代主義的と言いますか、合理性へと回収してしまうものであって、だからこそネット書評子にとって縋り易く感じられたのではないか。

もちろん著者はそういう解釈を強要しているわけではなく、逆に周到に、
「もしかすると逆に、同じことのくり返しそのものが実際にあったことなのかもしれない」(264p)
とフォローしているのですが、近代主義に縋りつきたい大多数の読者は、たぶん(無意識の作為により)見落としてしまうでしょう。その意味でラストの「大団円」は、ジャズ的というよりは予定調和的だったかも。

ところでジャズ的ということに関して、本篇は速読的にページを「面」で読む読者には面白さがわかりにくいと思います。なぜならそれでは折角のアドリブによるフレーズの展開がすべてコード(和音)に還元されてしまうからで、年間365冊以上読まれるような方は、本篇に限っては音読するくらいの気持ちで手に取るべきでしょう。老婆心ながら(^^ゞ

ともあれ齢70を超えてなお守りに入らず実験精神を失わない著者は(それは眉村さんも同じですが)、やはり偉大という他ありませんね。恐れ入りましたの一語。

 




「ダンシング・ヴァニティ」読み中  投稿者:管理人  投稿日:2008 512()231655

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「ダンシング・ヴァニティ」は、あと2、30ページというところ。今日じゅうに読んでしまいます。
昨日は「発狂した宇宙」かなと思ったんですが、どうもそれは戦争に行って帰ってきたところまでの印象だったようです。
それよりもやはり、この小説はジャズのアドリブを小説でやる実験だと思います。
たとえばCのコードの音をピアノなら和音として同時に鳴らすことができるわけですが、管楽器は和音は不可能。そのかわり和音を分解して「単」音の連なりで表現します。そして同じ連なりではなくその順列組み合わせを少しずつ変化させていくことである効果を聴衆に与えるわけですが、文章も管楽器と同じで和音は書けない(「決戦日本シリーズ」みたいな手もありますが)。文は「単」語の連なりで表現される。つまり管楽器と文章は同構造というか同型なんですね。その一致から、著者は文章でジャズの、就中単ノートの管楽器におけるアドリブと同じことをやろうとしているのではないでしょうか。

 




「ダンシング・ヴァニティ」  投稿者:管理人  投稿日:2008 511()225511

  返信・引用  編集済

 

 

読み始めました。面白すぎ!
読みながら何度も吹いてしまう。こんな読書も久しぶりではないか。
気がついたら90頁まで読んでしまっていた。慌てすぎ。で、無理矢理小休止。もっと落ち着いて読まなくては。
ジャズ的なフレーズの反復的進行がテーマみたいなんですが、過去の、エンターテインメント時代のフレーズが再現されてもいて、その辺もまたジャズ的かも。
あ、これは「発狂した宇宙」なのか?

と、小休止を兼ねて進行状況報告まで。
――白い顔の梟って何なんだろう。

 




「恋愛小説集」  投稿者:管理人  投稿日:2008 511()113612

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岸本佐知子編訳『恋愛小説集』は、「普通の恋愛小説の基準からはかなりはずれた、グロテスクだったり極端だったり変てこだったりする物語の数々」が収録されているらしいbk-1

「恋愛小説集」という文字列を目にしてただちに思い出したのが、宮脇孝雄選訳の、同じく「恋愛小説集」と題されたアンソロジーです。といっても単行本ではありません。ミステリマガジンに隔月連載されていたもので、そのセレクションのなかに、エマニュエル・リトヴィノフ「屋根からの眺め」という作品がありました。
それはとても素晴らしい小説でした。私は本当にいたく気に入ってしまって、友人に配るためコピーまで取ったほど。どんな内容かといいますと――

あれ?

全然思いだせないではないか。何たるちや、サンタルチヤ(>古っ)
でも大丈夫です。HMMの方は例に洩れず処分してしまったのですが、上記の次第でコピーが残っているはず。捜したら出てきました。

ということで再読。やはり最高にいい小説でありました。
時代は大戦間とおぼしいロンドンのイーストエンド地区(貧民街)。出だしはこう。

ぼくが16歳だったあの夏、街に雀の姿は見当たらず、太陽も輝くのをやめ、他人の声は遠くで笑いながら、ぼくの絶望を嘲った(HMM86年11月号 181p)

主人公は狭い家に大家族で住んでおり毛皮製造所で一日働き詰めで、体に死骸の臭いを染み付かせ、動物の毛を肺に溜め込み続けている。給料はとんでもなく安いが同じ作業場で働く経営者の姪の少女ルーバが見られることも給料のうちと諦めて働いている。
主人公(ユダヤ系らしい)の母親の一家はウクライナで飢え死にをした(主人公は共産主義青年同盟を(トロツキーと同様)除名され、「だから、ぼくは、もう共産主義者をやめ、ただの革命家になったのだ」)。彼の父は唯物論者のようです(「神は6日で世界を創った」「じゃあ、神を創ったのは誰なんだ?」)。
ルーバもボドルスク生まれで母親が死んだとき経営者に引き取られてイギリスに来た。経営者の家族はユダヤ教の熱心な信者。

「あんた、神を信じる?」
「神?」ぼくは笑った。
しばらくして、ぼくは神への疑問を口にした。
「それなのに革命は信じられるの?」
「神は革命を信じているのさ」


しぶるルーバを何とか説き伏せ、ルンルンで作業場の屋上で待っていると……

日本でいうならプロレタリア文学? いやそんな党派性を超越して〈人間存在の悲哀〉にまで昇華されています。そういう小説世界の色調がたまりません。
いやあ岸本佐知子編訳の『恋愛小説集』、よい小説を思い出させてくれました。と思ったら……

ありゃ?

上記リンク先bk-1の画面をよくよく(老眼なので眼鏡を外し目をモニターにくっつけて)見直してみたら、「恋」愛小説ではなく「変」愛小説じゃないか! ナンタルチヤ、サンタルチヤ(>もうええ)

うーむ。これは編訳者の思う壺にはまっちゃいました(^^;

 




Re: 「試みの岸」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 511()014748

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> No.1292[元記事へ]

追記。

>[この場面は察するに十吉が遠洋漁業船から岡に上がった(借金を完済した)後の話でしょうか。だとしたら十吉が乗っている馬は余一なのかも]

というのは、よく考えたらありえませんね。なぜなら完済には5度船に乗らねばならないとあり、その最初の航海から帰ってきたとき、すでに佐枝子は死んでいたのだから。

整理すると、
1)余一が馬に変身してから(つまり火事の翌日から)、港の馬喰に売られてくるまでに2ヶ月経過しています。
2)その直後に十吉は遠洋漁業船に乗り込み、3ヵ月後に帰港し、そのとき佐枝子の死を知るのです。

としますと、1)の2ヶ月の間に、十吉は港の馬喰の厄介になりながら馬方の仕事をしていたのかも。だとしたらこの日乗っていた馬は余一ではありえない。
とにかく何の説明もないので想像するしかないのです(^^;。

次は『ダンシング・ヴァニティ』に着手の予定。
その前に海外短篇を一本読みます。

 




「試みの岸」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 510()232357

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「静南村」、読了。

昨日は佐枝子と余一は姉弟と書きましたが、どうやらいとこ同士になるようです。佐枝子の母親が、十吉の、静南村に嫁いだ姉か妹(佐枝子と十吉の年齢が10歳違いであることが238pで判るので、姉でしょうか)なのです。では余一は誰の子か。これは判りません。判りませんが、祖父の益三郎と二人暮しだったようですから、実父母はいないようです。益三郎には十吉や佐枝子の母親の他にもう一人子供がいて、何らかの理由でその子供の子供(孫)である余一を引き取っていたもののようです。

さて本篇の主人公は前篇で自殺したことになっている佐枝子。
出だしはどうやら自殺するために静南村の磯の岩場へと歩いている。そして7年前、彼女が14歳のときの出来事を思い出しています。それは弟の昌一と十吉と三人で今向かっている岩場で鯛を釣ったときの記憶なのです。第1話でも、第2話でもそれは明らかに読み取れるのですが、佐枝子は十吉に恋情を抱いており、14歳のこのときすでに、その気持ちは強く持っているのでした。

佐枝子はかなり思い込みの激しい女で、どうも十吉は扱いあぐねている面もありますし、弟の昌一も(前作の)余一も、もてあまし気味です。

そんな佐枝子ですから幻影もくっきりと何度も見ます。馬になってしまった筈の余一(但し彼女ら作中人物は、余一は火事のとき行方不明になり死んだということになっている)が、彼女の前に現われ、それを十吉に知らせにいくのですが、十吉は取り合わない。

余一の姿を佐枝さんの眼が見たわけじゃない。ここが見たさ。/そういって、十吉さんは馬の上から身をかがめ、わたしのこめかみを人差し指で四、五回突いた(284p)

 [この場面は察するに十吉が遠洋漁業船から岡に上がった(借金を完済した)後の話でしょうか。だとしたら十吉が乗っている馬は余一なのかも]

本篇は、そんな佐枝子を或る人間類型として描出していて、こんな女、確かにいるなあ。オレの周囲にも。と思いつつも、その純真さ、ひたむきさをいとおしく感じさせる好篇でした(もっとも現実にこんな女が近くにいたら大迷惑でしょうけれども)。

そうして結局、佐枝子の自殺の場面は描かれないのです。前作で言及されている事柄だから書くに及ばないということなんでしょうか。それもまた「決まっている」と思いました。

以上で、小川国夫『試みの岸』(河出書房 72)の読みおわりとします。

 




め組の人  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 9()215442

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ところで、ギャラリー・オキュルスですが、渡辺東さんの画廊なんですってね。
そりゃあセンスがよい筈ですわな。
またすかたんかましてもた。
オキュルスで気づけよってことですね。
ああ恥かしい。穴があったら入りたい。山の穴、穴。火星をまわる穴、穴、穴……。

 




「試みの岸」より(2)  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 9()204553

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「黒馬に新しい日を」読了。

前作の後日譚です(発表時期はこちらが先)。
本篇は前作のように現実と非現実の間が曖昧模糊としてはいません。ずっとくっきりはっきりしています。夢でも妄想でもなく、主人公は実際に現実に、馬に変身してしまいます(^^;

前作の主人公十吉は、どうやら刑期を終えて(あるいは海辺の部落のものが前作で仄めかしていた取引で無罪となったのかも。何も説明がないので想像です)、故郷の山間の町で運送業をしている。借金の重みは一族のもの全てに重くのしかかっており、巻頭、本篇の主人公(十吉の甥?)余一は祖父と喧嘩して家を飛び出すのだが、これも説明はないけれど、学校になど行ってられない働く働かないということが遠因のようです。港で人足を欲しがっているというので港へと向かう途中、出奔してきた町が大火事とのニュースを聞き、引き返す。幸い祖父の家は被災を免れていたが、祖父よりも愛着のある十吉の家は全焼し、十吉は行方不明で飼っていた馬も自分で厩を破って逃走した形跡があった。
火事を知って帰ってきた姉の佐枝子と出会ったり(姉も借金返済のために働いているようです)しているうちに、馬が崖から落ちて川の中で怪我をして死にかけているのを発見する。助けようとして自分が大怪我をしてしまい、ようよう崖から這い上がって鉄道の駅の駅員に助けを求めるが、このときにはすでに馬に変身している(意識は人間のままだが言葉は喋れない)。駅員にすれば行方不明になっていた馬だけ駅に現われたという恰好。馬は主人公の祖父であり十吉の父であるもと馬喰の益三郎に引き渡される。馬は手当てされ、結局(借金返済のため)港の知り合いの馬喰に売り払われる。その馬喰は十吉の仲のよい顧客であり前作で十吉に船の話を持ち込んだ男。実は十吉は当の夜運送業に見切りをつけ、男を頼っていたのです(祖父も知っている)。この男の紹介で遠洋漁業船に乗り込んでちょっとでも早く完済しようとしていたのです(馬になっていた主人公は、そこで十吉を見、初めてそのようないきさつを知る)。主人公は、馬になったことをそんなに悲観していません。ここで働いておれば祖父の姿も十吉の姿も見れるなどと考えています。3ヵ月後、十吉が乗った船が戻り、祖父も港へと姿を見せる。そして祖父は十吉に、佐枝子が自殺したと伝える……

下にも書きましたが、本篇もまた、その面白さは説明もなく描写される〈小説世界〉の自立性に拠っています。
自立性とは、読者のいる、この現実になにも依存していないということです。その点、エンターテインメント小説とは対極的で、エンターテインメント小説はこの、読者の現実世界に小説世界が従属しているからこそ、多数の読者に受け入れられるエンターテインメント足りえているわけです。そのような意味でSF(というか純SFですね。エンターテインメントSFというのもありえますから)の面白さに通ずるところがあるといえるかも。

ということで、第三話は佐枝子の話になるようです。

 




「試みの岸」より  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 9()002721

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表題作、読了。
内向の世代が、この名称定着以前は「朦朧派」とも呼ばれていたことを思い出してしまいました(汗)。

外枠の話は、子供のころから船乗りに憧れていた馬喰(山の者)が、畑違いにも、遭難し浜に打ち上げられ競売にかけられた船を(借金してまで)競り落とす。しかし浜の者の悪意に囲まれ、一夜にして船の金目のものをすべて盗まれ、無一文どころか莫大な借金を抱える。自分の愛馬を酷使して借金の返済に身を削りつつ、犯人を捜索しているうちに、ある情報を耳にし、海辺の部落へと乗り込んでいく……

という話なんですが……
どこまでが現実で、どこからが夢や幻想なんでしょうか。説明は一切なし。描写のみ。ウルフよりも厄介です(^^;。

わたし的には戦前の貧しい生活や人間の在り方が(見たこともないのに)懐かしくてよかったのですが、それは一切の説明を拒絶する文体が醸し出すありありとした臨場感によるものに違いありません。小川国夫、面白いです。

 




「時間礁」  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 8()225221

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堀晃「時間礁」(『太陽風交点』徳間文庫所収)読了。
思っていた以上にストーリーがありました(^^;。記憶ではもうすこし散文詩的なイメージだったんですけど。

「宇宙の果てには、準星が観測され、さらにその向うに絶対温度三度の黒体輻射の壁が観測されています。それは百億年過去の姿を観測しているだけで、われわれがワープ航法でそこにたどり着いたとき、そこにあるのは百億年後の宇宙、つまりここと同じ年齢の宇宙空間があるだけです。そこから銀河系をふりかえるとすれば何が見えると思います。準星があり、黒体輻射の熱の壁があります。/われわれの視覚では、どこへ行っても、宇宙の誕生――大爆発――から百億年経った宇宙をながめるだけのことです」(40p)

この文章だけで、もうセンス・オブ・ワンダーが、わっ、と拡がってきます。

しかし主人公には、このような宇宙像が全然気に入りません。ワープ航法の発見で、体力勝負な船乗り的なイメージがあった3次元宇宙飛行士の時代は過去のものとなってしまったのです。そのようなひとりである主人公は、そろそろ引退しようかと考えている。そんな折りも折り、太陽系から1万光年離れた、人類が未踏の大宇宙のどまんなかで、主人公の乗船したワープ船は人類のものとしか考えられない救難信号をキャッチします。やがて遭難したシャトルが発見されます。何とそのシャトルは主人公の船のそれと全く同じものだったのです。
主人公は、自船のシャトルに乗り込み、謎の遭難シャトルへと向かう。謎のシャトルに接舷し乗り移った主人公が発見したのは、なんと自分の死体だった……

というわけで、本篇はドッペルゲンガー小説でもあるのです。
というか謎のシャトルに乗り移った段階で、ほとんど超自然的な幻想ゴシック小説と同じ設定になっているのです。
そのような次第で、文脈的に主人公がシャトル内で何を発見するか、読者にはもう判ってしまっている。それがいつ見つかるのか、今か? 今か? というゴシック小説に読者が求めるものと同じものが、ここで強烈に発散されている。

もっとも、ゴシック小説ならばおどろおどろしく急に風が吹いて窓がすべてばたんばたんと開いたり、雷が鳴ったりラップ現象が起こるという趣向で、雰囲気を否が応でも盛り上げるところですが、本篇ではそんなことはない。
しん、と静まり返っているのです。
というのは外は宇宙空間ですから窓は開きません。そもそも空気がないから風も起こらない。雷鳴も轟かないのでありました。ということではありませんね。失礼しました(^^;。

そうではなくこれが趣向ならぬ、著者の志向なんですね。宇宙空間のゴシック小説はこうでなくちゃ。
本篇がハードSFでありながら、幻想小説の趣きがあるのは、実にこの辺の志向性によるのだと思います。

さて、ここからは余談。
私にはフィードバックの議論のところはよく判らなかったんですが、要は負のフィードバックを繰り返していくうちに異常な宇宙のほころび「時間礁」は安定していくようです。
では、この現象には「最初」があったわけですね(だから最後もある)。
第1回目は前回のシャトルという警告は現われませんから、主船ごと時間礁に乗り入れてしまい、時間礁の作用を大きく増幅してしまったのでしょう。その結果、2回目の船が見たのは主船そのものの残骸だったのかもしれません。で、それ以降シャトルを投入して警告するようになったのでしょうか。

そのように、次第に修復していく過程で、本文にもあるように主人公と前代の主人公が生きて顔を合わすようになる。最終的に時間礁が修復した段階で、ひとつの宇宙に二人の主人公が残されることになるのでしょうか。いろいろ考えていると頭が痛くなってきました(笑)。

 




「ショートショートの現在」資料  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 8()213818

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高井信さんより、先日のSFセミナーのプログラムと、「ショートショートの現在」の配布資料を拝受。
高井さん、ありがとうございました。
高井さん作成の「ショートショート出版史」が圧巻。星新一のデビュー年である1967年が日本におけるショートショート元年なのですね。なるほど。
眉村さんが「人造美人」と「ひとにぎりの異形」を挙げておられた意図が判った気がします。すなわち「人造美人」は、日本における最初の(もちろん象徴的な意味で)商業出版ショートショート集として、「ひとにぎりの異形」はショートショート出版のまさに「現在」を象徴するもの(いうまでもなく「象徴」です。事実は江坂遊さんがすでに最新ショートショート集「ひねくれアイテム」を上梓されていることはこの資料に記載済み)として、選ばれたのだと私は理解しました。その伝でいけば「NULL」は商業出版ショートショート史の、「前史」の位置づけでしょうか。

出演者によるベスト5では、高井さんの選択が、私の感覚に近いです。そういえば「到着」は「にぎやかな未来」所収でしたね。私も高井さんが書かれているように、「ショートショート」といえば日本人作家のをイメージします。星新一の呪縛でしょうが、外国のは「ショートショート」というイメージとは、ちょっと違うんですよね。

ともあれ面白い資料で30分くらい読み耽ってしまいました(そのうち半分は妄想していたのですが)。どうもありがとうございました。

 




W.W.W.  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 7()23286

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品川のギャラリーオキュルスという画廊で、渡辺啓助、温さんの展覧会が開かれるそうです。
   ↓
「W.W.W.展」
渡辺啓助、渡辺温、渡辺済・「新青年」とモダニストの影
    ――長すぎた男・短すぎた男・知りすぎた男――

            2008年5月17日(土)〜31日(土)

初日は夕刻よりオープニングパーティ(18:00〜)とのこと。
私はお邪魔できませんが、よかったらおでかけください。

ところで、このギャラリーオキュルスって全然知らないのですが、上記リンク先からHomeに戻ってみてください。すごく趣味がいいのです。これは渡辺先生の展覧会ならずとも観覧する価値がありそう。今度上京する機会があれば、ぜひとも訪れたいと思います。まあいつになることやらですけど(^^;

堀さんの「時間礁」が無性に読みたくなって、『太陽風交点』を引っ張り出してきました。これから読む!

 




ヒロイック・ファンタジー(承前)  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 6()192344

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というか、ソード&ソーサリーを使うようにすればおのずと正しくなるのか。
たとえばヒロイック・ファンタジーをwikipediaで牽くと、
「多くは架空の場所(異世界、土地、都市など)におけるヒーローまたはヒロインの活躍を年代記風に描いたもの。「善」と「悪」の対立がモチーフとされることが多い」
とあって、肝心要の剣と魔法(超自然の実在)を措定し忘れています。

その結果、エドガー・ライス・バローズ:火星シリーズ、「ターザン」シリーズを代表的な作家、作品として挙げるという間違いを犯している。
ターザンシリーズは未読なので棚上げしますが、火星シリーズの基本設定に「魔法」はなかったはずです。 ラス・サバスは魔術師ではなく、科学者もしくは医者です。ホーリー・サーンの宗教も結局似非宗教で手品の類でした。

ただし見た目は確かにヒロイック・ファンタジーっぽいですよね。
しかしヒロイック・ファンタジーをソード&ソーサリーと言い換えてみれば、はっきり別物であることが判るわけです。

 




Re: 「奇想天外」  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 6()165227

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> No.1282[元記事へ]

アッシュシリーズですが、またしても拙速にヒロイック・ファンタジーと書いてしまいましたが、実際はどうだったんでしょうか。
このシリーズ、雑誌掲載時に読んだきりなので印象が残っていないのです。

実は最近、ヒロイック・ファンタジーの範囲に就いていささか厳密に考えるようになってきておりまして、超自然的成分、神や精霊が実在している設定でないものは、ヒロイック・ファンタジーと呼ぶのは不適当なんではないかと考えるのです。

そういう意味でアッシュシリーズに超自然的成分はあったのか? この辺まったく記憶に残っていないわけです。
もしそういう成分がないのだったら、このシリーズはヒロイック・ファンタジーではなく、SFあるいはスペース・オペラというべきなんですが。
イメージ的にはヒロイック・ファンタジーなんですけどね。

それからたったいま思いついたこと。
堀さんは掲載され、石原さんはゼロだった理由なんですが、同じくハードSF・宇宙小説作家なのにこの差は一見矛盾するように思われます。
しかし、たぶん曽根編集長は堀作品をハードSFとしてではなく、幻想小説として読んだのではないでしょうか。そう思いついてみると、私自身も堀ハードSFに幻想小説を感じながら読んでいたような気がします。

そういう意味では「熱の檻」や「時間礁」には、山尾悠子や岸田理生の幻想掌篇と同じ<志向>が認められるんですよね。そしてそのような<志向>は、確かに石原作品には「ない」ものなんです。
ハードSFという切り口では石原、堀作品は同類であり、石原・堀|山尾・岸田という2集合に分かれます。が、そうではない別の切り口もあって、その観点からは山尾・岸田・堀|石原という分類も可能なんです。
曽根編集長は堀SFに幻想小説を見ていたのだと思います。

では曽根さんは石原SFにユーモア小説を見なかったのか?
ヨコジュンやかんべさんのように、奇想天外はユーモア系の小説を特に重用しました。石原作品をこの系譜に組み入れることも可能なはず。なのに、ゼロだったんですよね。謎です……(ーー;

 




Re: 『神聖代』  投稿者:山岸真  投稿日:2008 5 6()152740

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> No.1281[元記事へ]

高井信さま

 はじめまして。調べたことがお役に立てて幸いです。
 アンビのインデックスは出た当時に買って、これがきっかけで渡辺兄弟と知りあいました。手書きならではの号別リストの処理とか、安田コラムの紹介作品網羅とか、いま見てもうなるほかありません。
 広島大のほうは知りませんでした(出たのは気づいたが買うのをさぼったまま、忘れた可能性も高いですが)。こちらでも、連載2回までが「生」、という正しいデータは入手できないわけですね。情報をありがとうございました。
 奇天は78年6月号(『神聖代』単行本化の前月、4月末刊)からの遅れてきた読者ながら、掲載作には片っぱしから思いいれがありますし、なにより海外SF紹介に手を染めたのは安田コラムへのあこがれがきっかけで……とはじめるとキリがなくなりますので、このへんで失礼いたします。

 




「奇想天外」  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 6()143550

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奇想天外、懐かしいですね。
ここを見ながら懐旧に耽っていました。
そうして改めて、このSF専門誌が懐かしいだけの存在ではなく、想像以上に充実した誌面を維持していたことに気づかされました。わけても創刊当初は怒濤の勢いで傑作シリーズ群を生み出していますね

創刊号では田中光二のヒロイックファンタジー「アッシュシリーズ」、光瀬龍の「宇宙航路・猫柳ヨウレシリーズ」、都筑道夫「飛び去りしものの伝説」が始まっています。
通巻2号では高井さんも挙げておられる山田正紀「エルド・アナリュシス」
4巻では、いよいよ「神聖代」が発進し、
5号からは数奇な運命を辿った眉村卓「ゲームの戦士」が。
11号からはヨコジュン「ミラクルタウンシリーズ」
12号から豊田有恒の傑作時間SF 「過去の翳」が2回分載。また岸田理生がこの号より登場し、私を熱狂させます(^^; わたし的にはSFマガジンに山尾悠子、奇想天外に岸田理生ありという位置づけで、わがSF地図内の幻想山脈の2高峰として君臨していました。
14号で津山紘一登場。
16号、式貴士登場。
17号はネオヌル特集。
19号、夢枕獏「巨人伝」
などなど。写し疲れたのでこの辺で。

高井信さんは後半の45号から登場。その後は終刊までほぼ毎号のように掲載されていますね(45号、47号、48号、50号、51号、53号、54号、57号、58号、59号、62号、65号)。意外にも「シミリ現象」はネオヌル特集に収録されなかったんですね。
その点かんべむさしさんは創刊号から出ずっぱりで、掲載点数は一番多いのではないでしょうか。なかでも「トロッコ」3部作はかんべSFの最高傑作では?
堀晃さんはハードSFだからか案外作品数は少なかったんですが(ちなみに石原博士は1篇もなし)、少なくとも「時間礁」と「熱の檻」はわが最好傑作です(^^)
山尾悠子さんも後半はずいぶん掲載されていたんですね。

 




『神聖代』  投稿者:高井 信  投稿日:2008 5 6()090319

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 山岸真さま

 はじめまして。話題の「奇想天外」にちょこちょこと小説を書いていた高井信と申します。
『神聖代』は大好きな作品で、「奇想天外」連載時はもちろん、単行本化されてからも読みました。認識としては『神聖代』なんですが、しかし『神生代』というタイトルも頭の片隅に残っていて、もやもやしていました。なるほど、そういうことだったんですね。すっきりしました。ご調査、感謝いたします。
 うちには、石原藤夫さん編のものではない「奇想天外」インデックスが2種(総合SF研究会アンビヴァレンスと広島大学SF研究会が発行したもの)があって、確認してみたところ、どちらも『神聖代』と『神生代』の区別は不明確でした。(アンビヴァレンス版では「神聖代」で統一されていますし、広島大学SF同好会版では連載3回目まで「神生代」、4回目以降が「神聖代」となっています)
 ちょうど同じころに山田正紀さんの『地球・精神分析記録』も連載。『神聖代』とともに夢中になって読んでいたことを思い出しました。
 懐かしいです。

 




Re: 神聖代  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 5()234756

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> No.1279[元記事へ]

山岸真さん

大変貴重な情報をご投稿くださり、ありがとうございました。いろいろ調べていただいたようで感謝いたします。
そうでしたか、神生代は3回目から神聖代となっていたのですね。それは全然想像できませんでした。これでも神聖代は雑誌掲載時に貪るように読んだ筈なんですが……。

実は連作小説の『神聖代』が、「神聖代」というタイトルである事は、本(文庫版ですが)も所有し、またその本で再読してもいるのですから本来自明でなければなりません。ところが、にもかかわらず、ずーっと「神生代」と誤記していて全く違和感を感じておりませんでした。で、昨年末に当掲示板で指摘されて、なぜそんな間違いをしたのか自分でも不思議でならなかったわけです。

ところがある日ふと、(きっと無意識はずっと思い出そうとしていたのでしょう)雑誌では「神生代」というシリーズタイトルだった! と「思い出した」のでした。けれどもシリーズ名が変更していたことまでは思い出せなかった。実際はご指摘のように第1話と第2話だけだったのに、それをシリーズの最初から最後まで神生代だったと思い込んでしまっていたのですね。
そういう次第ですので、

>「連載時は「神生代」だったんですよ」といういいかたは、ふつうはしないというか、不正確ということになるかとは思います
というのは客観的にはおっしゃるとおりなんですが、端的に申しまして、ふつうはしないだとか、不正確だと認識するには、途中で変更になっていたという知識を持っていてはじめて可能なので、そういう客観的なポジションに達していなかった私としては「そういわれてもなあ」と頭を掻くことしかできないのですよね。申し訳ありません。

ただし、
>もうちょっと疑われてもよかったのでは
というのは全くそのとおりでした。
実際、「出版社勤務」氏が、もうちょっとばかし本気を出して、奇想天外を引っ張り出して確認するという労力を厭わなければ、どうだ参ったかとばかりに3話以降の作品扉のスキャン画像を送りつけられてギャフンとなっていたはずです。いや〜危機一髪、実に危ないところでした。根が粗忽者ですので、致命傷になる前に事実を確認してくださって本当に助けられました。ありがとうございました。
というわけで、今後ともご教示を賜りたく、よろしくお願い申し上げますm(__)m

しかし神聖代を持ち出したのはヤブヘビでしたね。肝心の焦点がボケてしまいました。

 




神聖代  投稿者:山岸真  投稿日:2008 5 5()163522

  返信・引用

 

 

SF翻訳をしている山岸真と申します。
 神聖代の件について、第3話から最終第7話(誌面ではローマ数字表記)の掲載号が手もとにあるので見たところ、すべて、目次、作品扉とも「神聖代」となっていました。
 ところが、知りあいの方々に調べてもらったところ、76年7月号の第1話と9月号の第2話は、目次、扉とも「神生代」となっているとのことです。第3話の11月号をざっと見たかぎり、生が聖に変更になった旨の断り書きはないようです。(もし、掲載回[以降]の内容と関連しての変更だったら、作品論的に興味深いかも……というのは余談)
 ですから、生も聖もまちがいではないことになります。ただ、7回の掲載中5回(それも後半の)までが「聖」だったわけですから、「連載時は「神生代」だったんですよ」といういいかたは、ふつうはしないというか、不正確ということになるかとは思います。
 また、「検索してみました」というのがどういうキイワードを使われたのかわかりませんが、ちなみにいまグーグルで「神生代 荒巻義雄」といれると、こちらのページとその古書店さんしか引っかかりません。つまり、「『神聖代』は雑誌掲載時は2回だけ「神生代」表記だった」ことはネット上では事実上わからなかったわけで(石原藤夫氏のSF雑誌データベースが、うちではエラーが出て引けないのですが、これも知りあいによると、印刷物として出ていた奇想天外とSF宝石のインデックスでは、すべて「神聖代」表記とのこと)、これは情報としては貴重でしょう。(当時からファン活動をされていた方のあいだでは周知の事実かもしれませんが、ぼくはこの年からSFを読みはじめたばかりで、その後この件を耳にしたことはなかったと思いますし、該当号をバックナンバーで買うこともありませんでした。また余談でした)
 しかし、ご自分の文章以外にはひとつしかソースがなかったときに、「凄い値打ちもの」といった書きかたをされる前に、「連載時は「神生代」」という記憶(結果的にまちがいではなかったわけですが)をもうちょっと疑われてもよかったのでは、と外から見ていて思いました。

 




Re: SFセミナー  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 5()102154

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> No.1277[元記事へ]

土田さん

SFセミナーへ行かれたんですね。セミナーの後、高井さんたちと飲みに行かれたんでしょうか、楽しまれたことと思い、うらやましい限りです。

山野さんのモチベーションが低かったというのはわかるような気がします。横で荒巻さんがあの奔逸性の躁的なノリでいらっしゃったら、そりゃあ引いてしまわれるのではないかと(^^;

高井さんへのレスで書き落としてしまったのですが、「ひとにぎりの異形」の史的重要性です。
まず、この21世紀ショートショート冬の時代に尻尾の先までショートショートの詰まったショートショートアンソロジーを刊行した、刊行させてしまったというのは、出版社にとってはとんでもない暴挙だったのではないでしょうか。
それは専ら井上さんの熱意と豪腕の賜物だと思いますが(高井さんも熱意をもって企画の段階から協力されていたと聞き及んでいます)、出版社の説得にはとんでもないエネルギーが消費されたのではないかと想像します。そんな、彼らのある意味「回天」的な思いが籠められて誕生したこのアンソロジーは、おそらく後世の研究者によってショートショートというジャンルの中興のシンボルとして評価されることになるのかも知れません。最近そんな思いが強くなってきているんですよね。

 




SFセミナー  投稿者:土田裕之  投稿日:2008 5 5()09183

  返信・引用

 

 

SFセミナーへ行ってきました。

Speculative Japanでは荒巻さんがお元気で今後が期待される一方、
山野さんがややモチベーションが低くていらっしゃったのが少し残念でした。
(韜晦かもしれませんが)
うけたのが、巽さんがワールドSFコンの日本大会でニューウェーブのパネルを企画し、
荒巻さんと川又さんのお名前を挙げたところ、若いスタッフの方が
「ニューウェーブとは架空戦記のことでしょうか?」と尋ねたというエピソード。
お二方とも苦笑されていた感じでしたが、最近のお仕事しか意識しないと
そうかもしれませんが、荒巻さんもCノベルスのアンソロジーに架空戦記ではなく、
あえてマルセル・デュシャンをモチーフにスケッチ風幻想短編も寄せておられますし、
川又さんも近作に対するコメントからは
SFに対する気持ちは変わっていないようです。
これは期待大ですね。

ショートショートのセッションも江坂さんが面白い方で意外だった一方、
眉村さんはマイペース。
高井さんの今後の研究成果の発表も期待されます。

その後は高井さんたちとご一緒し、楽しいひと時を過ごさせていただきました。

ふと気がついたのですが、デビューの新しい藤崎慎吾さんも含めて
作家の方はみな自分より年上でした。
だからどうということでもないのですが、90年代にSFが下降線だったことも
関係するのかな、と思ったりもします。

 




Re: 事実誤認  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 5()033527

  返信・引用

 

 

> No.1274[元記事へ]

あれれ、レスを書いている間に、No.1274の記事の内容が変わっちゃってますねえ。どうしたんですか出版社勤務さん。

>私は早川書房の社員ではありません
そうでしたか、それは大変失礼いたしました。

だとしますと、
>なぜあとが続かなかったのか、よーく考えてみてみてください
とおっしゃる根拠はなんだったんでしょうか? お答えいただかないと、逆に早川書房に迷惑がかかると思いますが。

 




Re: 恥の上塗りはやめたほうがいいですよ  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 5()03296

  返信・引用  編集済

 

 

> No.1274[元記事へ]

出版勤務さん

レスありがとうございます。
>貴殿がお持ちの奇想天外と、私が所有する奇想天外はべつの歴史の産物らしいですな。
>記憶か視力の検査をお奨めします。

ご忠告ありがとうございます。
実は奇想天外は処分しちゃったので手許にないのです。なので、検索してみました。→http://members14.tsukaeru.net/thinkzink/sf/kt01.html

古書店のリストらしいのですが、「神生代シリーズ」となっているのをご確認いただけると思います。
しかしこれでは間接証拠なので、もしこちらをご覧の方で現物をお持ちの方がいらっしゃいましたら、お手数ですがご確認いただきご一報いただければ幸甚です。
というか、出版勤務さんが所持されている(という)別の歴史の奇想天外をスキャンして、ご投稿下さいませんか? もし本当に所持されているなら凄い値打ちものだと思います(^^;

 




事実誤認  投稿者:出版社勤務  投稿日:2008 5 5()030811

  返信・引用

 

 

私は早川書房の社員ではありません。
こういう下司の勘ぐりをされると、だれかに迷惑がかかりそうなので、これ以後の投稿は謹みます。

 




神生代  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 5()001222

  返信・引用  編集済

 

 

リモートホストを見ていて思い出しました。出版社勤務さんは見るに見かねた人さんですね。
その節はありがとうございました。
で、その後思い出したんですが、「神聖代」は奇想天外連載時は「神生代」だったんですよ。ことさら訂正するのもなんだかなと思っていたので、ご来信下さって丁度よかったです(^^;

小川国夫『試みの岸』(河出書房 72)に着手。

 




Re: 無知を嗤う  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 4()234614

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> No.1270[元記事へ]

出版社勤務さん

ご投稿ありがとうございました。
いやおっしゃるとおり無知無学の徒でありまして、面目も何もございません。どうぞ嗤ってやってくださいな。

ただ、
>ハヤカワ文庫FTから長篇の邦訳が2冊出たことを知ってのうえで書いていますか?
とのご指摘ですが、もちろん知っていて書きました。長篇『ミノタウロスの森』が1992年、長篇『幻獣の森』が1994年にハヤカワ文庫FTから出されていますね。
 で?
と私は憚りながら思うわけです。
私は、スワンの「全中篇」を読みたいと下に書いているのですが、読み取れませんでしたでしょうか?
スワンの長篇のことは知りません。読んでないのですから。ただ中篇集『薔薇の荘園』はとてもよい作品集でした。なので、私は(少なくともスワンの中篇は面白いという確信を持ったので)スワンの中篇を「全部」読んでみたい、きっと最近の読者には受けるに違いないから是非(どこの出版社からでもいいから)出してほしいと書いたわけですが、読み取っていただけませんでしたか?

だとしたら私の書き方が稚拙だったんでしょう、改めてお詫び申し上げます。

また、
>なぜあとが続かなかったのか、よーく考えてみてみてください。
とのことですが、私は早川書房の人間ではないので内部事情は当然ですが判りません。「よーく考えてみてください」とおっしゃるところを見ると、その「内部事情」に、出版社勤務さんは通じておられるようにみうけられますので、あるいは 出版社勤務さんは早川書房勤務さんなのかも知れませんね。ぜひとも「なぜあとが続かなかったのか」ご教示願えれば幸甚であります。

ただ私の推測を申し上げれば、「売れなかった」ということではないかと拝察いたします。しかし、当然それはそうでしょう、としか私には言うべき言葉がありません。下に引用したように91年時点では「翻訳紹介されにくい」作家の代表格だったわけですから。
ところが再三再四記しておりますように、国書未来の文学と河出奇コレで「時代は変わった(ハヤカワは変わらないが)」変わっちゃったんです。
ハヤカワで廃版になり捨て置かれていたスタージョンの短篇群が、奇コレに収録されて生き返ったんです。
ちなみに奇コレは2003年から、未来の文学は2004年からスタートしています。つまり「ミノタウロスの森」「幻獣の森」とは、ほぼ10年の時差があるわけです。
この時差、10年というのはひと昔といわれるほどある意味離れているわけで、10年前に売れなかったものが10年後も売れないなどと思う方が公務員的に浮き世離れしていると私には思われるんですが、どうでしょう?

あなたが早川書房勤務者さんだとしてですが、ご投稿下さった文章を拝見しまして、ああやっぱりな、と思ってしまったことをお許しくださいね(もし早川書房勤務者ではないのでしたらそうお知らせ下さい。事実誤認をお詫びいたします)。つまり1)他人の文章の文意を読み取れない(勿論編集さんではありませんよね)、2)状況判断が公務員的、とまさに私が想像していたハヤカワさんそのものだったので。

まあそういう次第ですので、きつーい返信お待ちしております。どうぞよろしくお願いいたします。恐惶謹言。

 




Re: SFセミナー  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 4()234225

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> No.1269[元記事へ]

高井信さん

SFセミナー、お疲れさまでした。そして貴重な情報をご投稿下さいましてありがとうございました。

>眉村卓のお気に入りショートショート作品集ベスト5

このなかで、「到着」は意外でしたが、たしかにショートショートの極限的作品ではありますよね(^^;
「人造美人」を挙げられているのも、おやっと思いました。なぜ「ボッコちゃん」ではないのかと思ったら、「ボッコちゃん」「人造美人」「ようこそ地球さん」からのセレクションでしたね。ということは眉村さんにはショートショート集としてはオリジナル「人造美人」のラインナップの方がよかったということなんでしょうか。

自作では「鳴りやすい鍵束」がお気に入りとは、これもちょっと意外でした。勿論ご承知のようにこのショートショート集は「飛べ熊五郎」というラジオ番組で、毎週リスナーからお題を頂くという趣向で出来上がったものですが、眉村さん自身にもやり遂げたことによる自信や充実感を得られたのかもしれないなと思いました。ちなみに私が最も好きなショートショート集は「C席の客」です(^^;

なんか眉村さんの多面性を見たような感じがしました。ありがとうございました。もう1件返信がありますのでこの辺で。

 




無知を嗤う  投稿者:出版社勤務  投稿日:2008 5 4()212947

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スワンの件ですが、ハヤカワ文庫FTから長篇の邦訳が2冊出たことを知ってのうえで書いていますか? なぜあとが続かなかったのか、よーく考えてみてみてください。

 




SFセミナー  投稿者:高井 信  投稿日:2008 5 4()191937

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 ご無沙汰しています。
 私もSFセミナーに行ってきました。というか、出演者なのですから当然なんですが。
 会場で配布された資料に掲載されていた眉村さんのお気に入りショートショート集を紹介いたします。

●眉村卓のお気に入りショートショート作品集ベスト5
○『NULL』3号「到着」
○『スポンサーから一言』フレドリック・ブラウン 東京創元社
○『人造美人』星新一 新潮社
○『異色作家短篇集5 メランコリイの妙薬』ブラッドベリ 早川書房
○『ひとにぎりの異形 異形コレクション』井上雅彦監修 光文社文庫

○『鳴りやすい鍵束』眉村卓 徳間書店1976 徳間文庫1983年

 『NULL』はどれも素晴らしいが、「到着」が入っている号を選びました。5作に加えて、自分の作品では『鳴りやすい鍵束』が気に入っています。

 




「薔薇の荘園」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 4()151547

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表題作を読んだ。本篇では更に時代が下って13世紀イギリスが舞台。さすがにこの時代までくると、神話的な要素はありません。とはいえ、マンドレイク族という植物人間(樹木人間?)が存在するイギリスという設定になっています。ウィキペディアの記述とはすこし違ってもっと人間に近く(子供のころは、とりわけ女の子はほとんど外見人間と区別がつかない。長ずるにつれ硬質化樹木化していく)、古代英語を解し変形したカトリックを信奉しているのですが、これはいわゆる七王国時代にアウグスティヌス(もちろんカンタベリーのアウグスティヌスの方)がイングランドに布教に来たとき、牧師の一人がマンドレイク族にも伝道したからのようです(224p)

時あたかも少年十字軍の悲惨な結末がイギリスにも伝わっており、それでもいまだにエルサレムへと向かうものが引きもきらない。主人公の少年少女たちも(中世イングランドの片田舎の、陋固たる因習から逃れるための無意識の自己詭弁であったとはいえ)その一群のなかにあるのですが、著者の筆致は聖戦という名のキリスト教徒たちの欲望にきわめて批判的です。

「そして(マンドレイクは)、約束を守ったというわけか」
「もちろんよ、彼らはキリスト教徒ですもの」
 この話は彼を当惑させた。約束を守らないキリスト教徒の話をたくさん聞いているからである。たとえば十字軍は、ギリシャ人やサラセン人に対して大きな破誓をしたことがある。(233p)


最初、マンドレイク族はホラー小説の怪物のように作中人物によって考えられ、読者もそのように認識させられる(あるいはネット右翼における中朝韓民族のように)。が、次第に、現実のマンドレイクとの接触によって、(種の違いによる差異は確実に認められるにせよ)それが偏見にすぎず、むしろ人間よりもずっと誠実な面もあることが理解されていきます。かかる視線の複数化再帰化が、凡百の通俗ホラーから本篇をくっきりと際立たせてSFの方へと引き寄せているわけです。

13世紀イングランドの、(被支配民族の)サクソン人や(征服者の)ノルマン人の当時の生活状況も活写されており(風呂にほとんど入らないとか領主の息子であっても雑魚寝であったとか)実に興味深いです。

ということで、トマス・バーネット・スワン『薔薇の荘園』風見潤訳(ハヤカワ文庫 77)読了。

いやあ、とてもたのしい読書の時を持てました。
下に引用したように、スワンは91年当時は「翻訳紹介されにくい」作家の代表格だったらしいのですが、管見では時代は大きく変わっていると思います(ハヤカワは変わっていませんが)。
いまなら間違いなく好評を持って迎えられるに違いありません! 少なくともスタージョンを受け入れた読者はきっと受け入れるでしょう。
訳者あとがきによれば、スワンには生涯に中篇集が2冊あり、この2冊から本書の3篇はセレクトされたものであるようです。ところが、本書は今は廃版になっているらしい。

残念です――とはいいません。なぜなら「復刊」を望まないからです。

繰り返しますが、本書はすでに廃版化されているのです(言い換えれば早川は自ら廃版にしたのです)。実はこれはある意味よい機会なのです。つまり、復刊ではなく、新たにこの2冊をまるごと新訳で出すべきではないか。そう私は思ったわけです。
スワンの「全」中篇を読みたいではないですか。
需要は十分に見込めるはず。となれば(上記のようにハヤカワは変わってないので論外として)先見性のある優秀な編集者を擁する国書か河出となるわけですが(^^;
私としてはダンセイニ3巻を英断した河出文庫での出版が望ましいです。いや国書でも勿論いいのですが(表紙を丸めて持てない)ハードカバーは読みにくいんで(汗)
というわけで、こちらをご覧の方で国書や河出の方にお知り合いがいらっしゃったら(いうまでもなく他の出版社でもいいのです)、ぜひプッシュして下さいませんかm(__)m

 




Re: 行ってきました。  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 4()111035

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> No.1266[元記事へ]

道南さん

>幼い頃から親しんできた眉村さんの生の声を聞くことができました
それはようございました。おめでとうございます(^^)

>導体のないところに離れているほど大きく起きるスパーク
というのは私もはじめて聞く表現なんですが、按ずるに眉村さんのショートショートには「潮騒と春雷」、「椅子と雪」、「ウィスキーとフラメンコ」、「踏切と風船」、「ゴキブリ亭主と時報」、「めがねと海」、「つりかわとレモン」、「ネクタイと雲」、「セーターと紅茶」、「祭りと坂」(すべてショートショート集『鳴りやすい鉤束』所収)といった具合に、まったく繋がり(導体)のない、あい異なる二つの事物(観念)を(しかもその間の距離が空間的距離だけでなくあらゆる意味において離れていればいるほどよい)、いわば繋がるはずもないものを、あえて結合させることで、一種の効果(スパーク)を発生させることがよくあります。シュルレアリストのいう「ミシンと蝙蝠傘の手術台での結婚」ですね。そのような手法のことをおっしゃったのでしょうか。

とまれいろいろ興味深い話をお聞きになれたようでよかったですね。

さて昨日は、私は風の翼大宴会に参加。話題が尽きず5時から(気がつけば)10時過ぎまで居酒屋に居座っていて一同びっくりしたのでしたが(大変な迷惑客だったかも)、途中から私の席の真上のクーラーが動き出し、私は後半は震えながら喋っていました。うーむ、今こう書いていると、あるいは店の深謀遠慮だったような気がしはじめたのだが、違いますよね、客が増えたのでクーラーをきつくしただけですよね、ね、ね(^^;

ところで久しぶりに梅田、じっくりと書店内をうろつきました。近所の書店では見たこともない本が山積みで、さながら浦島太郎の気分を味わう愉しむ。
文庫コーナーでは「深海のYrr」という3分冊のハヤカワ文庫を見て呆れる。帯が表紙を7割方覆ってしまっているのです。表紙カバーはタイトル部分しか見えません。わざわざ表紙カバーを付けておいて、それを更に帯で隠してしまっているわけです。一体何のための表紙なのか。呆れてものが言えません。手間と経費(資源)の無駄遣いとしか思えませんね(現代新書も似ていまして見るたびに気分が悪いのですが、ただカバーはほぼ共通使用なのです。一方「深海の」はわざわざイラストレーターに稿料を支払ってカバーを描かせているのですからさらに悪質という他ありません)。JAROに通報しちゃろか、と思ってしまいました(ーー;

 




行ってきました。  投稿者:道南  投稿日:2008 5 3()23537

  返信・引用

 

 

> No.1265[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

このブログの記事がなければ、気が付かないままだったかもしれません。
おかげさまで、幼い頃から親しんできた眉村さんの生の声を聞くことができました。ありがとうございました。
ショートショートの俳句の手法へのたとえ、導体のないところに離れているほど大きく起きるスパーク、光瀬さんの「同業者」への評価等々…貴重な言葉の数々でした。
思えば、映像で拝見したり、年賀状に返事をいただいたりはあったのですが、生のお姿を拝見したのは本当に初めてだったかもしれません。
「ショートショートの現在」が終わったところで退場しましたが、同じくバイクで帰途につく森下一仁さんをお見かけし、十数年ぶりに御挨拶できたのも収穫でした。
おかげさまでよい連休初日となりました。

 




眉村さん情報  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 3()095445

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今日のSFセミナー、既報のとおり眉村卓さんが出演されます。→http://www.sfseminar.org/
眉村さんの出演時間は13時50分〜14時50分の予定。
本会は当日参加もオッケーのようですので、関東圏在住でナマ眉村さんをご覧になりたい方はぜひ!

一方大阪では、黄金週間吉例風の翼大宴会が……。私はこちらに出席します。関西圏の方は是非こちらに(^^;

 




「薔薇の荘園」(2  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 3()011146

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「ヴァシチ」を読む。
前作の紀元前8世紀のローマから、本篇は紀元前5世紀のペルシャへと跳びます。といってもこのペルシャは当然ながら歴史上のそれではなく、スサの王宮にユニコーンが飼われていたりと、半ば神話的なペルシャであります。
史実では後にサラミスの海戦で敗れるペルシャ王クセルクセスは、本篇では体は大人でも心は全然大人になっていない王で(それゆえ子どもっぽい征服欲からギリシャを狙っているというわけなんでしょう)、その純真さを慕ってギリシャからやってきたイアニスコスは仕えている。
イアニスコスは(王とは逆に)子どもの体に博識を蓄えた小人で、特に薬草の知識に秀でギリシャでは〈小さな治療師〉と呼ばれていました(と書くと、日本神話のスクナヒコナが思い出されますね。スクナヒコナも小人の神さまで医療医薬の知識に優れていたということになっています。これもまた人類共通の普遍的な神話素なのかも)。ところで彼はギリシャで奴隷市でまさに売られる寸前に意識を取り戻すのですがそれ以前の記憶は失われている。

クセルクセス王の后ヴァシチは子どもができず、王の右腕のクルド人の讒言で廃されます。そうして故郷のペトラへと帰され、王の後添えにユダヤ人のエステルが収まる。ウィキペディアによれば「(旧約の)エステル記では、アハシュエロス(クセルクセス)は后妃ワシテ(ワシュティ)が反抗的であるためこれを廃し、その代わりとしてユダヤ人の乙女エステルを后妃とする」となっており、本篇も外枠は史実に沿っていることがわかります。

ただ本篇のヴァシチは人間ではありません。ゾロアスターは〈さいはての地のさいはての崖〉に生える巨大な樹木から誕生したことになっており、彼女もその木の一族らしい。彼女はクセルクセスが父ダリウスの遺志を継いでギリシャに侵攻するのを阻止しようと王宮に入ったのだが、木から誕生したしるしが見つかりそうになってやむなく里に帰ったのです。
で、実はイアニスコスも同族で、しかも強力な力を持って誕生するはずだったのを、アフラ・マズダの不倶戴天の悪神アーリマンの一族に知られ、生まれる寸前に花弁の間から引き抜き拉致されてしまう(隊商に拾われ奴隷市に売られるわけです)。その結果成長が止まってしまう。偶然ペルシャの王宮に流れ着いたとき、ヴァシチは彼こそが拉致された当の子どもであることに気づく。
ヴァシチが里に帰ったとき、イアニスコスは自分でも判らない衝動に突き動かされて、大好きな王を捨ててまでヴァシチを追う(その間小さな体に知恵を詰め込んだ主人公とは逆に7フィートの巨躯ながら知識は未開人同然の若者の家族との確執を挟みつつ)のですが……。結果明らかになった彼の真の名前とは?
本篇でも樹木と生命力は同視されていて、興味深い。

前作同様、史実と神話のあわいにひらかれた幻想空間に、想像の翼を広げた作品で大いに楽しみました。

 




戯れの亡者  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 2()190437

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カーラジオをぼんやり聞いていたら、DJの女性が何やらお笑いのイベントの告知をはじめた。
「笑いの亡者が大集合」とか言ってる。
え、笑いの亡者って何?
とすこし意識がラジオに向かう。ザ・ぼんちが出演というのは聞き取れました。
ふーん。確かに復活ザ・ぼんちなら、笑いの亡者というのも判らんでもないなあ。しかしそんなひねくれた惹句、ラジオで使うかな、と思ったところではっと気づく。
  それって「笑いの猛者」とちゃうのん?
原稿に書かれた「猛者」を「もうじゃ」と読んでしまったんやね。
しかしまあ、こんなのはテレビやラジオでしょっちゅう。掲示板に書いてコマシたろとそのときは思っても、家に帰るとすでに忘れているのが常。いつも悔しい思いをしていたのですが、今回は丁度信号待ちだったので、辛うじてコンビニのレシートの裏にメモすることができたのでした(>しょーもないメモすなよ(^^;)

 




「薔薇の荘園」読み中  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 1()223018

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巻頭の「火の鳥はどこに」を読む。
ローマ建国神話のロムルス、レムスの話です。ロムルスとレムスの名前は、受験の知識で知っていましたが、いうまでもなくただ(内容を伴わない)言葉を暗記していただけ。本篇ではじめてわが知識が書き割りでなく奥行きを獲得したように思います。wikipediaで確認したら、ほぼ神話どおりの経緯を踏んでいるようです。

それでは本篇は単なる神話物語なのか。そうではないと思います。外枠は建国神話そのものですが、それに絡んで重要な役割を果たすファウニ族(ローマ神話のファウヌス。ギリシャ神話のパン)や木の精メロニアは作者によって付加されたものでしょう。すなわち建国神話を土台にしつつも、その上に著者の空想と妄想が籠められて本篇は一個の物語として出来上がっているに違いありません。面白かった。

ところで、木の精メロニアは樫の木の精なんですが、非常に長命ということになっています。何百年という年輪をもつ樹木の暗喩でしょう。
面白いことに先日読んだ『妖樹・あやかしのき』に出てきた永遠の若さを保つラ・ホーという美女妖怪も紅末利迦の樹の力で何度も若返るという設定でした。この発想を夢枕獏がどこから得たのか判りませんが、インド神話にも樹木=永遠の若さという設定があるのかもしれませんね。たぶん普遍的な神話素なんでしょう。
そういえば光瀬龍の「宇宙航路」でも、宇宙を漂いある惑星に漂着した樹木生物に対して、時そのものといってよいラナが「私と(時を)競ってみるか」と挑発する(カッコイイ)場面がありましたね。
長命な筈のメロニアが最初に犯されることで枯死し、次にレムスがロムルスに殺され、結局山羊と同様10歳が寿命のファウニ族のシルウァンが一番長生きするという悲劇の定石を踏む結末も実に苦くてよい。

形式的には神話とヒロイック・ファンタジーの中間的な形態で、ヒロイック・ファンタジーとしては戦闘場面が貧弱ですが、それを神話の様式美がおぎなっており、微妙なバランスのところで不思議な効果を出しているように思います。いいですねえ。

 




小川国夫さん逝去  投稿者:管理人  投稿日:2008 5 1()011252

  返信・引用

 

 

わ、小川国夫さんが亡くなっていたのか。
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20080509/CK2008040902002326.html

黒井千次、古井由吉らとともに「内向の世代」を代表する作家です(長老格か)。内向の世代グループは丁度私が純文学に興味を持ち始めた頃、文壇ジャーナリズムの台風の目になっていて、まさに同時代の文学という感じでよく読んだものでしたが、ただ小川国夫はなぜかほとんど読んでいません。当時は〈波〉を定期購読しており、連載されていた「青銅時代」という長篇小説が面白く、毎月(だったか隔月だったか)届くのを待ちかねて読み耽ったものなんですけど、なぜかそれ以外は(雑誌で読む短篇は別にして)読んでいない。

むしろ大阪芸大の教授時代、眉村先生とウマが合ったらしくて、よく話題に出ました。そっちのイメージの方が強い。一番印象に残っているのが河南文学での笙野頼子さんとの対談(鼎談)で、笙野さんのあの独特の攻撃的な個性を鷹揚に包み込む度量、器の大きさ(笙野さんも全面的な信頼を寄せていて)が印象深かった。

そういう関係で、なんとなく身近な印象があって、訃報はショックでした。ご冥福をお祈りいたします。
何冊か積読にしているので、とりあえず近々、追善を兼ねて何か読んでみたいと思います。

 




 

 

 

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