ヘリコニア談話室ログ(20086)




 

「チャンドス卿の手紙」  投稿者:管理人  投稿日:2008 630()005233

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ホフマンスタールは、表題作の「チャンドス卿の手紙」を読む。
はしがきによれば、「これは、バース伯の次男フィリップ・チャンドス卿が、フランシス・ベーコンにあてた手紙であり、文学活動をすべて放棄することについての自己弁明の書」とのことだが、チャンドス卿はどうも架空の人物らしく、つまりは本篇もやはり「小説」(創作)ということになるんでしょう。
才能に恵まれ若くして文学的名声を博したチャンドス卿が突然「書けなく」なってしまったのを心配して、フランシス・ベーコンが手紙を送った、それに対する返信という形式です。

チャンドス卿が書けなくなったのは(先日引用した「レトリック」への不信と通底するのですが)、文章を読んでも「さっと」理解できなくなってしまったことによります。言い換えれば、文章(言葉)の意味するものが、「腐れ茸のように口の中で崩れてしま」い、「口に浮かんだ概念がとつぜん曖昧な色合いになり、輪郭をなくして入り混じって」しまったのです。

この症状はしかし精神病理的な由来物ではありません。

そうではなくて、たとえば「州長官Nは悪人で牧師のTは善人だ、小作人のMは息子たちの金づかいが荒くて気の毒だ、また別のだれそれは娘たちがしっかり者でうらやましい、こちらの家は景気がよくてあちらは左前だ」といった会話は、実際のところごく普通のありきたりのものです。ところが卿には、こうした会話が「すべて、裏づけもなく偽りで、ひどく粗雑に」思えてきてしまうのです。
一般的に、人々はそんなに厳密に事実関係を吟味して喋ったり考えたりしていないわけで、それは私の言いように従えば、下に書いたように「そうね大体ね」的慣性に身を委ねている、といえます。ところがそういう(自然的)態度をとることがチャンドス卿はできなくなってしまった。
すべすべした皮膚も、拡大鏡で見ると、俄然「溝やくぼみのある平地」のように見えてくるように、「何でも単純化してしまう習慣的な眼差しでとらえること」ができなくなり「すべてが部分に、部分はまたさらなる部分へと解体し、もはやひとつの概念で包括しうるものは」なくなってしまう、そんな状態になってしまったわけです。

この感覚、私にはよく判ります。以下は著者の主題とは離れてしまうかもしれませんが、そもそも人間の認識(思考)過程自体に、一種ショートカット的な回路が備わっていて、「当然」のことや「言うまでもない」ようなことは深く吟味されずに慣性的に受け入れてしまうところがあります。ここがコンピュータと違うところで、それによって効率化が図られているんでしょう。
しかしながら、そういう思考態度が「本来深く吟味されなければならない」問題にまで援用されてしまう傾向が(ある種の人々には)あるように私には思われます。これを私は、「主体性」と「科学的認識態度」の問題として、本掲示板においてもよく言及するわけですが、あるいはホフマンスタールもそのような思考態度を苦々しく感じていたのではないでしょうか。
そう考えると、本篇がフランシス・ベーコンへの返信であるというも筋が通りますね(読み始めはなぜにフランシス・ベーコン? と思っていたんですが腑に落ちました)。

フランシス・ベーコンをWikipediaで引きますと、こう記述されています。
『ノヴム・オルガヌム』(新機関)
人間の陥りやすい偏見、先入観、誤りを4つのイドラ(idol 幻像)として指摘し、スコラ学的な議論のように一般的原理から結論を導く演繹法よりも、現実の観察や実験を重んじる「帰納法」を主張したもので、近代合理主義の道を開いた(イギリス経験論)。

 


 

繋がりを切断せよ  投稿者:管理人  投稿日:2008 627()224012

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【今日のお言葉】
≪修辞(レトリック)、それは御婦人がたないし下院向きではあっても、現在過大評価されているその威力は、ものの核心に迫るには不十分なのです。≫

ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」(104p)



昨日は、うっかり「男装の麗人」と書いてしまいましたが、ルツィドールは「13、4歳」と書かれているので、「麗人」という表現は当りません。ここは少女ないし美少女とするべきでした(訂正済み)。このうっかりは、結局「男装」といえば「麗人」がくっつく観念の連合によるもので、多かれ少なかれ小説のストーリー(たて糸)はこのような観念連合を契機として繋がっていく場合がある。人間の観念する因果関係とは厳密な論理学的な因果関係よりもよほどルーズなんですね。これに多く依存しているのが大衆小説なんですが、純小説といえども人間の認知構造からさほど離れるものではない。
ところが――
残雪の小説は、まさにかかる観念連合的な「そうね大体ね」的因果律を、すなわちストーリーそのものを、積極的に破壊すべくたくらまれているように思われます。(>メモ)

 BGM>Ezo Shika Dance!! & Romantic Natsu Mode

 


 

精神分析はなぜウィーンで生まれたのか  投稿者:管理人  投稿日:2008 626()231450

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ホフマンスタールは「ルツィドール」を読む。
男装の麗人少女が姉を思慕する男が好きになり(しかし身分というか性別を明かせず)、姉の名を騙って明りのない部屋で関係を結ぶ話。
これ、少女漫画のパターンでは?
大体ウィーン世紀末小説ってのが、シュニッツラーが典型だけれども、そもそもなんとなく隠微ですよね。フロイト精神分析がウィーンで誕生したのは必然なのかも(^^;

残雪は表題作を粛々と読み中。いや極北ですな。「氷」なんか目じゃなかとです。

 BGM>Caro Mozart

 


 

「チャンドス卿の手紙」  投稿者:管理人  投稿日:2008 625()003138

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ここのところ、集中力が弱化していて纏まった読書が叶いません。いろんなのを読み散らかしている。
で、今日は何となく、積読の山(>イメージです)からホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』(岩波文庫)を持って出ました。
「第六七二夜のメルヘン」、「騎兵物語」、「バッソンピエール元帥の体験」を読んだ。
面白い。幻想小説とは一概に言えない不思議な小説ですね。
著者に関する知識は一切ありませんが、まさに池内紀のいう《ウィーン世紀末文学》です。シュニッツラーの雰囲気に近い。了解不能というか、くっきりと焦点を結ばない。解説にもあるとおり、理屈で割り切れない曖昧さが全篇を覆っていて、奇妙な後味を残します。
あ、表現主義的なのかな。そういう感じです。
以上はここまでの感想。

 


 

蒸し暑かったり涼しかったり  投稿者:管理人  投稿日:2008 624()011234

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体調崩してしまいました。読書は1ページも進まず。疲れた。あとは焼酎をあおるだけ。

BGM>let it bleed
   tumbling dice
   love in vain

 


 

「日本の右翼と左翼」、読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 622()234029

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《 重信のパレスチナ行きには、その田宮(高麿)が関連しているという話がある。赤軍派議長の塩見孝也から重信房子に北朝鮮に渡って田宮と結婚せよという指令があり、それを嫌った重信がほとんど思い付きでパレスチナ行きを決意したというのである。これは事実だと思われる。》

別冊宝島編集部編『日本の右翼と左翼』(宝島SUGOI文庫 08)読了。
2006年刊の別冊宝島1366号の文庫化。メインは戦前から戦後にかけての右翼・左翼の著名な活動家の「人名辞典」といえるもの。まあ上記でわかるように一種の「読み物」的な人名辞典といえます。
これはこれで読む価値、所持する価値があると思います。
ただ先に引用した鈴木邦男の所論は本書で展開されることはなく、浮いてしまっている。要は本書の内容(=過去)をおさえた上で、「現在の右傾化」が、それらとはいかに異なっているか(あるいは同じか)を検証する本が、本書の続刊として必要なのですが、雑誌では出ているのかな。

「大陸浪人」になるという〈動機〉が、私には想像もつかないのですが、ちょっぴり憧れますなあ(^^; 「亜細亜」があった戦前という時代がうらやましい(>問題発言)(汗)

 


 

所与  投稿者:管理人  投稿日:2008 622()013738

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【本日のお言葉】
《「じゃあ、やっぱりおめえさんは、木枯し紋次郎さんで……!」
 力蔵が、びっくりするほど大きな声を張り上げた。力蔵の脇を駆け抜けた一太郎が、前へ回り込んで紋次郎をシゲシゲと見やった。その大きな目が、父親の驚きように同調していた。一太郎はもちろん、木枯し紋次郎の名前を知ってはいない。
 だが、父親の力蔵が木枯し紋次郎と知って、憧憬と驚愕の感情を剥き出しにした。そこで一太郎も、木枯し紋次郎なる渡世人を見直したわけである。それはあくまで、父親の感情に沿っての価値判断なのだ。》

笹沢佐保「無縁仏に明日をみた」


残雪は「逢引」、「汚水の上の石鹸の泡」を読む。ここまでの4篇は20頁に満たない掌篇なので、いまいちインパクトに欠けます。もちろん内容的には母親が溶けて盥一杯の石鹸水になってしまったり、母親の通夜の席で、弔問客にまじって当の母親が夜食をムシャムシャ食っていたりと、とんでもないシチュエーションのオンパレードなんですが、そのシチュエーションが長さの不足で展開できていない憾みがあります。
残るは表題作のみ。この作品は一転100頁の中篇なので一発大逆転打を期待したいところ。

『日本の右翼と左翼』は、前半の「日本の右翼」を読了。

 


 

朝はミラクル」、今月末で終了  投稿者:管理人  投稿日:2008 620()234046

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だそうです。http://www.ne.jp/asahi/kanbe/musashi/memo.html
3年3ヶ月とのこと。もうそんなになるのか。はじまったのがつい「こないだ」のことのように感じます。
実はこの番組、時間帯的に私の生活パターンと相性が悪く、あんまり聞けなかったのが、今から思えば残念。
まあ残念は残念なんですが、リンク先にあるように、これから小説に本腰が入りそうで、その意味ではよかったよかった(^^)。
小説版「朝ミラ」が楽しみです。
またラジオの方も、OBCは再登板率が高いので、次回があればそのときは一生懸命聴きたいと思います。
ということで、あと1週間ありますが、まずは3年間お疲れさまでした!

 


 

読者を選ぶ  投稿者:管理人  投稿日:2008 620()174134

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【本日のお言葉】
《 書評家がしばしば用いる紋切り表現に、"読者を選ぶ作品"というのがある。この口あたりのよい言葉にくるまれているのは、「ボクには面白かったけどネ、あほうなキミらには難しいかもヨ」という傲慢、もしくは「ひゃあ、つまんねェ。けど、なんかご大層な本らしいから、貶すのはやばいかなァ」という怯懦である。言うまでもなく、作品が読者を選ぶのではなく、読者が作品を選ぶのだ。》

牧眞司(本の雑誌6月号)


残雪は「黄菊の花によせる遐(はる)かな想い」を読む。いやあ残雪ですなあ(^^;

『日本の右翼と左翼』は「憂国の志士たちの実像」のはじめの方。頭山満も内田良平も、具体的なことは何も知ってはいないことに気づかされる。自宅が外国大使館のように治外法権になっていた頭山満なんて、山田正紀が好みそうなシチュエーション。もう書いているのかな。

 


 

残雪、鈴木邦男  投稿者:管理人  投稿日:2008 619()22538

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残雪『廊下に植えた林檎の木』に着手(>積読消化)。
まずは巻頭の「帰り道」を読む。
いやー残雪ですな、あたりまえですが(^^ゞ なぜか中島みゆき「あぶな坂」が想起されました。

別冊宝島編集部編『日本の右翼と左翼』(宝島SUGOI文庫 08、元版06)購入。(amazon)

《急激に保守化、右傾化が進んでいる。(……) 国家的・政治的なものよりは、個人的・精神的なものが底流にある。(……)「暗いもの」「悲惨なもの」は見たくないのだ。「明るいもの」「元気になるもの」だけを見たいのだ。(……)
〈娯楽〉として歴史を見ているし、その中で、元気になり、癒されたいと思っている。「自虐史観」なんか嫌だ、韓国・中国になめられるな! そういった感情的な次元での反撥が、「ナショナリズム」へと突き進んでいる。(……)
愛国心・ナショナリズムの方は、国家と一体になり、自分が強くなった気がする。(……)
自分たちはバラバラな個人なのに、一気に国家に繋がる。いや、そう錯覚する。だから日本への批判は自分個人への批判だと思う。(……)「なめられるな!」「やっちまえ!」と叫ぶ。(……)それで自分が強くなったように思う。なんせ自分は国家と等身大の巨人なのだから。実にスカッとする。
戦争だって悲惨な面は見ないで、〈上澄み〉の、カッコいいところだけを見る。「日本は侵略戦争をしていたなんて嘘だ」「正義の戦争だった」「皆、勇敢に戦ったんだ」と、カッコいい部分だけを見て「安心」し、「自信」を持つ。そして元気が出て、癒される。》(鈴木邦男によるまえがき「なぜ日本は右傾化するのか」より)。


もっと写したいところですが、あまり引用しても何なのでこれ以上は差し控えます。鈴木邦男は三島由紀夫とも親交のあった「新右翼」の大物。この分析は的を射ていると思います。右翼の人たちにとっても、最近の「右傾化」にはどこか胡散臭いもの、違和感を感じるんでしょう。

 


 

「海王星市から来た男」、読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 618()221534

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今日泊亜蘭『海王星市から来た男』(ハヤカワ文庫 78)

実は何度か挑戦し、そのたびに撥ね返されてきた本です。その失敗に懲りて、今回は世評高い、巻末の「綺幻燈玻璃繪噺」から着手してみた。
や、これは傑作。光瀬龍の時代小説(明治ものも含めて)の江戸情緒をさらに濃厚にしたような味わい。資質的にかなり近いものを感じます。

時は日清の戦捷気分冷めやらぬ世紀末、海の向こうでは活動写真が発明され、わが国伝統の紙芝居、写し影絵、覗き機械(からくり)は遠からず淘汰されるかもと戦々恐々、そこに洋行帰りの琉球王族にして鎮西八郎為朝の裔につらなる公爵が、活動写真に勝るとも劣らぬ「動くパノラマ」を開発せんと、上記紙芝居師、写し影絵師、覗き機械師らを新橋の料亭に集めて意見を聞く……
パノラマ、シネマトグラフ等々の薀蓄も怠りなく悠々と物語は進行してゆくも、いつしか謎の「画灯幻人」の幻術に一同「からくり」の内部に閉じ込められ、幻燈の登場人物と化してしまっているのであった……

いやー面白い。著者の掌中で踊らされてしまいました。そのセピア色の描写といい雰囲気といい、申し分なし。一場の夢ともいうべきその境地は、ある意味意外ですが、後を追うように他界した野田昌弘の世界とも通底するものがあるように感じられます。

つづいて表題作を読む。
これはまた前作とは打って変わって、あわや日本列島がぽきりと折れてひっくり返ってしまう危機に直面するパニック小説。カヴァン「アイス」では「氷」に世界が覆われてしまいますが、本篇では「海王星人」の操る「水」によって世界が水没します。畑正憲の海洋SFと安部公房の「第四間氷期」が思い出されました。そのような海洋SFでもあります。少女ミネの設定がよく機能していて泣かされます。

ところでこの表題作、実は何度か撥ね返されていて、私の記憶では海王星でのハードボイルド風探偵小説だったように思うのですが、今回読んでストーリーが全然違っているのに愕然となりました。私が読んだ(と思っていた)のは一体なんだったんでしょう? 夢か?

いずれにしてもこんなに面白い作品を書く作家だとは思っていなかった。びっくりしました。
以下次回。

 

 

 

 

(管理人
「奇妙な戦争」と巻頭の「ムムシュ王の墓」読む。これにて読了。
本書前半にあたるこの2篇は、以前読んだときと同様、そんなに感心するものではありませんでした。
こうなるとやはり、『縹渺譚』が読みたくなってきます。

 


 

竜宮城はヒアデス星団  投稿者:管理人  投稿日:2008 617()231941

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1)「あなたの隣の<モンスター>」は、モンスターペアレントと、根では繋がっている現象なのでしょうか?
もうすこし詳しく紹介して欲しいと思いました。
え、ラジオを聴けば判る? 失礼しました。

2)この人はテレパスか何かなのか?
いや小説家なのだと思います(^^;。
小説家ってのは、一瞬垣間見たワンシーンからその人の生涯の全物語を想像してしまう(見えてしまう)人種なんですね。
たとえば眉村さんは、列車の車窓から見える家並みから、その家がどんな家族構成でどんな問題をかかえていてどんな生活をしているか、想像するのが好きというか、つい考えてしまうそうです。まあ一種の「修行」の面もあるように思うのですが、優れた小説家はそんな刹那のシーンから永遠の真理を洞察してしまうようです。
佐木隆三の洞察力が如何ほどのものであるかは、読んだことがないので私には判りませんけれども(^^;

3)豊田有恒『知られざる古代史 神話の痕跡』(プレイブックス 97)、読了。
「丹後風土記」の浦嶋子伝説が、まさにウラシマ効果を描写したものだとし、風土記の記述の分析から、浦の嶋子が亜光速船に乗り、コールドスリープで行った「天上仙家」(書紀では蓬莱山、万葉集では常世、御伽草子では竜宮城)とは、(太陽から130光年の距離にある)ヒアデス星団の中の恒星牡牛座シータ・ワン(の惑星)だったのではないかと推理します。
ただそれだけで新書のボリュームを支えきれなかったのか、いろんなものが雑然とくっつきすぎで、全体とすればいささか統一性とベクトルに欠くように私には思われました。

 


 

「神話の痕跡」  投稿者:管理人  投稿日:2008 616()234120

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豊田有恒『知られざる古代史神話の痕跡』を読み始めた。昨日悩んでいたやつ。
不思議な本です。250頁のボリュームの、70頁まで読みましたが、まだ本題に入らない。何か本題に入るのが嫌で回避しているようにも読めます。
SF作家として、とりわけ著者が関わった「宇宙戦艦ヤマト」において、科学的とはいえない障碍(無知や先入見)にいかに対処してきたか、という話が続きます。関連して創成期のSF界や友人のSF作家の裏話が開陳されていたりして、これはこれで大層興味深いものではありますが、少なくともタイトルからは想像不可能な、殆どSFに纏わるエッセイの趣き。
どうやらこれは、これから語る内容はデニケン的と捉えられるかもしれないが、書いている本人はデニケンとは全く立場を異にしていることを、予め釈明しているのかも知れません(デニケンの考察のいかに杜撰であるかが記述されている)。

ということで、いよいよ本題に入りそうな気配です。

 BGM>永井龍雲 大塚まさじ 西岡恭蔵&加川良
    木村充揮&大西ユカリ

 


 

Re: 地震のまたの日  投稿者:管理人  投稿日:2008 615()22340

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> No.1348[元記事へ]

平谷さん
ご無事で何よりでした。ご自宅もさほど被害がなかったように拝察、よかったです。
ただ状況は、テレビでも水などのライフライン問題が取り上げられていましたし、道路が寸断されて、むしろこれからが大変かと思います。余震による二次災害も引き続くでしょうし、十分お気をつけくださいますよう。復旧の速やかならんことをお祈りしております。

さて今日は野暮用で半日つぶれてしまい読書する能わず。ていうか読む本を決められずに一日が終わってしまいました。というか豊田さんの新書を読みかけたら、これが浦島伝説は本当だったみたいな内容(いや判らないのですが)嫌な予感がしてなかなかその気になれず、代りに「幻象機械」を引っ張り出してきたのですが、そうしますと今度は、いや豊田さんがいやそんなトンデモ本書くはずがないよな、とも思えてきて、結局どっちつかずで読書する意欲自体が減退してしまい、またもやyoutubeを漫然と聴いて終わるという悪いパターンの一日でありました。うーんどうすんべかね。

 BGM>Let's Go 運命←テリーってジョンイルさんに似てない?
    霧のカレリア
    さすらいのギター
    春がいっぱい

 


 

地震のまたの日  投稿者:平谷美樹  投稿日:2008 615()172953

  返信・引用

 

 

管理人さん。ご心配をおかけしました。
我が家の周辺は大丈夫ですか、一関周辺から宮城県北の奥羽山脈の麓あたりは酷い状態です。
まだ停電、断水している所もあるようです。

 


 

平谷さん無事  投稿者:管理人  投稿日:2008 614()234212

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世間と隔絶した生活をしており、さっき帰宅してテレビで地震を知りました。
岩手在住の作家平谷美樹さんの安否が気遣われ、メールしました。早速「無事」との返信をいただきました。よかった。
かなりの縦揺れだったそうですが、被害は「書籍流」が少々あった程度だった由。もっとも余震はまだ続いているらしいので油断は禁物です。
何といっても岩手県各地を何度も「壊滅」させているワールドデストロイヤーならぬ「岩手デストロイヤー」の平谷さんだけに、うぬれ平谷許すまじ、と岩手の土地の神様の怒りが集中したらどうしようと、とても心配だったので、まずは一安心しました。

なんて不謹慎なことを言ってちゃ遺憾ですね。すみません。被害に遭われたみなさまには心よりお見舞い申し上げます。

 


 

「古代日本はどう誕生したか」、読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 614()161342

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豊田有恒『古代“日本”はどう誕生したか』(プレイブックス 99)

99年の出版で、縄文時代から古墳時代までを、主に考古学の(当時の)「最新」知見を入門者向きに判りやすく紹介したもの。
縄文時代が1万6500年前まで遡れるようになったこと、荒神谷遺跡の発掘で銅矛文化圏と銅鐸文化圏という区分が無化したことなど、かつての常識がどんどん覆されていき始めた最初の頃の本ですね。
著者は九州論者だったと思いますが、さすがに本書では慎重になっていまして、その方面はやや避けている気配(^^; 「もし、邪馬台国が大和にあったとしたらの話だが、現在の編年によれば、箸墓が卑弥呼の墓である可能性が高まってきた」(187p)とまで書いておられるところを見ると、豊田さんの中で、九州説はこの頃既に揺らぎだしていたのかも知れません。ここが陋固たる郷土史家と著者の決定的に違うところで、科学的態度といえましょう。世紀が変わってからの考古学の怒濤の進展はまさに九州説を葬り去ってしまっちゃいました。

ところで本書は左翼系の所謂自虐史観に対する批判の書でもあります。著者は70年代から一貫してそういう態度でつらぬいており、その目的は当時とすれば妥当だったと思います。想定される読者は70年代以降の日本を実質的に支配していたところの、戦後民主教育の申し子たる「団塊の世代」だったからです。
しかしながら21世紀も10年近く経過した現在においては、その妥当性はあまり妥当とはいえなくなっているのではないか。
つまり(ある意味自虐的となっても仕方なかった)「戦後史観」に、まったく無縁な新世代が成人になって来ている今日、著者の言説はそういう彼らには(批判とはならず、むしろ)「気持ちのよい」言葉に聞こえるように私には思われるからです。
「自文化に対してもっと自信を持ちなさい」という、団塊世代に対しては有効だった言説が、団塊ジュニア以降の世代に対しても同様に有効であるとは限らない。むしろ知識なき実体なき「夜郎自大化」に結果的に加担しているのではないか。たとえば「いい加減にしろ……」というタイトルが、その内容を吟味も確認もされず単にタイトルのみ参照され彼らの嫌韓のバナーと化している現実は、おそらく著者自身快くは思っていらっしゃらない筈だ、と私には思われます。
そういう意味で、いろいろ考えさせられる本でもありました。

 


 

四至本アイさん  投稿者:管理人  投稿日:2008 612()22590

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99歳の記憶
迅速なる行動を切望します。

 BGM>下宿屋

 


 

「大友の皇子東下り」、読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 612()173552

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豊田有恒『大友の皇子東下り』(講談社文庫 94、元版 90)

大友の皇子は壬申の乱で死なず、密かに東国に逃れていた!?
という、義経北行伝説と同様の伝説が、大友の皇子にも残されているのだそうです。日本人特有の判官びいき伝説の一種でしょうが、本篇は経路の各地に残されているそのような伝説を、空想力で繋ぎ合わせるかたちで物語が綴られます。

しかもそれは、単なるほしいままな空想ではなく、史実を「生かしつつ」、その上で伝説を「あり得たかも知れない」ものとして存在させ得ていて、伝説と史実を、あたかもメビウスの帯のように切れ目なしに繋いでしまうアクロバティックな構成が、本篇を「空想科学」ならぬ「空想歴史小説」として抜群に面白い読み物となさしめています。

例えば――
書紀によれば壬申の乱の戦後処理は、乱終結の一ヶ月も後に、天武の子の高市の皇子の名において行なわれている。普通は総大将の名において行なわれるものであり異例。これはひと月たっても天武がまだ「戻っていなかった」からではないか。
また天智側の第一の功臣右大臣中臣の金が捕縛された(とされる)長浜市で慌ただしく処刑されたのはなぜか。不破の本営や大津京へ連行するとなにかまずいことがあったのではないか。
さらに、中臣氏(藤原氏)は、天智側を支えた最大の氏族であり、金が斬られたのは当然。ところが鎌足の子不比等は没落するどころか、天武朝で勢力を急伸し、まさに「比ぶるものなき、等しむものなき」絶対権力を獲得しえたのはなぜか。
これらの何本もの謎が、大友の皇子の東下りを仮定することによって、すべて明快に解明されてしまうところは、まさに本格パズラー並みの快感!
歴史ミステリファンならずとも楽しめること請け合いの面白小説です。

ただ、筆法が小説のそれではないので、なれてない読者は戸惑うかも。私は慣れてしまいましたけど、著者の小説は(本篇に限らず)「字で書かれたマンガ」なのですね。中臣の金の造型など、まさにマンガ的キャラクターで、ひゃー、と悲鳴を上げて逃げ回るかと思えばラストでは身を犠牲にして大友を逃がす。そういう筆法という他ありません(^^;

 

 

 

 

(管理人
マンガ的な筆法とは即ち「一貫した性格設定志向は希薄」であり、作中人物の行動は、「付与された性格」よりも、各シーンでの「人的配置」が優先されるということです。

 


 

入鹿殺しは誰か  投稿者:管理人  投稿日:2008 611()175449

  返信・引用

 

 

ツタヤに寄ったら、タニヤ・タッカーのあの曲がかかっていて(但しリミックス盤みたい)、おー懐かしいと聞きほれていると、終了後DJの女性が曲紹介した。
「タニヤ・タッカーのデルタ・ダウン!」
ローマ字読みかよ(^^;

ということで、『大友の皇子東下り』は100頁あたりまで。

なんと大海人皇子は斎明=皇極の連れ子で、前夫高向王との間にできた漢皇子(あやのみこ)であるとします。これは大和岩雄の説らしい。
高向王は著者によれば高向玄麻呂と同族で渡来人であった。漢の皇子の漢は養家にちなんだもので東漢直氏だろう。つまり大海人皇子は渡来人とのハーフなのです。
で、ここからが面白い。
大化の改新クーデタの際、入鹿と同室していた中に大海人皇子の名はありません。ところで入鹿に威圧されて二人の刺客(佐伯子麻呂、稚犬養網田)が何もできなかったとき、史書では中大兄皇子が切りつけたとなっていますが、関係者以外で事件を唯一目撃した古人大兄皇子は「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。悼ましい事である」と不思議な言葉を吐いています。この韓人は刺客の二人でもなく、いったいどこにいたのでしょうか。
著者は実は大海人皇子も中大兄皇子と並んで控えていたいたのでは、と想像します。で、実際に切りつけたのは中大兄ではなく大海人だった、と……。
つまり、「韓人」は「あやひと」即ち「漢皇子」(あやのみこ)のことだった、として、突如出現した「余分のひとり」の謎を解いているのです。
これはアッと驚く解釈で、著者の独創だと思われます。
ではなぜ書紀で中大兄の仕業となっているのか。著者によれば、それは大海人が渡来人の子であり、母親もひょんなことで帝位につきましたが、血筋的には敏達の曾孫(4世)でほとんど皇族の範囲ぎりぎりというわけで、大海人=漢皇子(韓人)であることは隠しておきたかったからに他ならない。
いずれにしろ、著者の説に従えば、天武天皇には既にして渡来人の血が入っている(百済系かどうかわかりませんが)。桓武天皇よりも100年以上前から皇族の家系には半島の血が流入していたということになります。

 BGM>デルタの夜明け

 


 

ネットと身体性  投稿者:管理人  投稿日:2008 610()224641

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「筆名を使って韓国や韓国人を誹謗中傷する内容を書いている」という韓国人の大部分が拙著を読みもせずに、筆名ならぬ匿名で筆者を非難しているというのもつじつまの合わないことであるし……
水野俊平『韓vs日 偽史ワールド』(8p)


これは日本も同じですね。
先般の「沖縄ノート」訴訟でも、少なくとも原告のうちの一人は「沖縄ノート」を完読せず、当該部分しか見ていませんでした(おそらく使嗾者から見せられた)。ネットで騒いだ連中のほとんどが「沖縄ノート」を読んでいないのではないか。
「検証もせずに鵜呑みにする」
というのが、日韓に限らない、ネット時代の支配的行動様式なのでしょうか?
「ネット」とは「身体的行動性」がよくいえば軽減されるといえますが、悪くいえば衰退させられるものなのかも。
「鵜呑みにする」とは自分の頭で検討せず教条的に妄信することです。

つまり「検証もせずに鵜呑みにする」は、「身体を使わない」「<私>が消える」と言い換えられるのではないか。
とすれば、「体験我」を重視した現象学、就中メルロ=ポンティがにわかに気になってくるわけです。

閑話休題、ワタクシは現天皇家に百済の血は流れていると思っています。というか流れていないはずがないと思うのです。高野新笠が武寧王と血縁関係にあるかどうかなんて、細かいところを引っかいたって仕方がない。正史に書かれていることは畢竟点と線なんであって、いくら点を線で結んでも面にはなりえない。

ということで、豊田有恒『大友の皇子東下り』に着手。おお、冒頭早くも百済王族余昌成の命令で百済人憶礼仁竜が大友の皇子の影武者になりました!

BGM>Seasons
    Mr.Monday

 


 

「世界ショートショート傑作選1」、読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 9()165449

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各務三郎編『世界ショートショート傑作選1』(講談社文庫 78)

本書で想定されている〈ショートショート〉とは、あくまで短い短篇、「小さい物語」なのですね。したがって「結末で読者にショックを与えるような」、いわば星新一的な「オチは小さい物語にとって決め手にはならない」とします。そこに主眼があるのではなく、「結びなど読者にはほとんど予測しうるもの」であって全然かまわないという立場のようです。編者にとっては、あくまで短い「小説」以外の何者でもない。これはこれで、ひとつの見識でしょう。

本書はまさに編者のそのような主張に沿った作品が集められています。最後のオチに向かって描写が研ぎ澄まされていく類の話は少なく、幾篇かの優れた作品では、たしかに「軽く読みすてるにはあまりにも重く、はかなく、うれしい内容をともなって」います。
スレッサー「走れ、ウィリー」、マッギヴァーン「死刑囚監房」、M・C・ブラックマン「心あたたまる記事」、エド・レイシー「特別サービス」、ロマン・ギャリ「ヒューマニスト」、オルガ・ロズマニス「人生の楽しみ」、コーリー・フォード「蛇踊り」、バッド・シュールバーグ「脚光」、ジョン・オハラ(サイモン&ガーファンクル「簡単で散漫な演説」で言及されているジョン・オハラでしょうか)「時間厳守」、ジェラルド・ミゲット「ヒーロー退場」、ショーン・オフェイラン「虹ます」、ブラッドベリ「わかれ」(「太陽の黄金の林檎」所収)、マッキンレイ・カンター「ライター」
などはそういう系統で、オチがバレバレどころかオチがない話もありますが、そういうのとは無関係な感動を得られる作品群です。

とはいえ奇妙な味あるいはミステリゾーン的な話も別系統としてありまして、
シド・ホフ「黒板に百回」、ナイジェル・ニール「風の中のジェレミイ」、ジョセフ・ペイン・ブレナン「浮遊術」、アンドレ・モロア(モロワ)「夢の家」、アルフレッド・ノイズ「深夜特急」、ブロック「ルーシーがいるから」、ハートリイ「メリー・クリスマス」、コリア「遅すぎた来訪」
などは異形コレクションに載りそうなホラー。

ナンセンスも数篇ある。なかでは、シェクリイ「では、ここで懐かしい原型を」、ウィリアム・ノーラン「ふだんの一日」がよかった。。
W・ヒルトン・ヤング「選択」はラストで大笑い。

ダール「昨日は美しかった」は本集マイベストワン。私のなかで、ディッシュ「アジアの岸辺」、デイヴィッドスン「ナポリ」、高野史緒「イスタンブール(ノット・コンスタンティノープル)」などをまとめて、いわば「南欧幻想小説」というべき個人的ジャンルがあるんですが、本篇も当然そのなかに含めなければならない傑作でした。まあこれをベストワンとするところに、私の小説に対する嗜好があらわれていますね(^^)。

 


 

「世界ショートショート傑作選1」  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 8()201241

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中断していた『世界ショートショート傑作選1』を再開。
もう数篇で「クライム&ミステリー」編を読み終わるところ。まあぼちぼち読むつもり。
洒落たストーリーはいわずもがな、わたし的には50年代60年代のアメリカ社会、都市風俗が、カメラのシャッターを切るように、「一瞬」に切り取られているようなところがよいですね。日本もそうですが、アメリカも、良くも悪くも70年代を境にさま変わりしてしまいました。

そういえばアメリカン・ニューシネマのなかでは古いアメリカはまだ元気で、「目の敵にするにたる」権威と権力を有していました。してみるとアメリカン・ニューシネマの衰退は「仮想敵」の消滅による必然だったのかも。そうしてその結果が、つまるところ(象徴的には「スターウォーズ」を嚆矢とする)「新しいハリウッド」の復権でしかなかったのは、これまたその後のグローバリズム化の反映なんでしょうな。その意味で70年代という時代は、日本でもアメリカでも希望が生まれ潰える(捻じ曲げられる)特異な10年だったといえるのではないでしょうか。

 


 

「氷」  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 8()094833

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アンナ・カヴァン『氷』、読了。
読んだのは最近出たバジリコ版ではなく、ましてやサンリオ文庫版でもありません。このブログに翻訳が公開されていたものを読ませていただきました。→連載第一回

ということで、感想――

突然の気象変動で急速に寒冷化・氷期化が進む世界。その影響は当然ながらまず北方の国々で姿をあらわす。ありえない速度で氷河が南下、寒冷化で北方諸国は疲弊し、国家は非常事態下、強力な軍事政権によって権力を掌握され、国家間に紛争が起こっている。
そんな北国に主人公が(再び)舞い戻ってきたのは、「この地域で今にも起ころうとしていると噂されているミステリアスな出来事を調べ」るためだが、同時にかつてこの国に住んでいたとき知り合った少女のことが気になっていたからでもあった。

その少女はサディスティックな母親のため人格がすっかり損なわれてしまっており、いつも何かにおびえていた。主人公が彼女に惹かれたのは「彼女のおどおどした態度とすぐにでも壊れそうな姿に同情し」、「世の中の冷酷さから彼女を守」らねばという気持ちからだった。

という記述からも推測できるとおり、主人公の少女に対する態度はじつは傲慢なものなんですね。

主人公自身は「彼女は私をほとんど受け入れようとしているように思われた」と感じているけれども、「全く突然に,彼女は他の男と結婚してしまい,私を捨てた」とあるように、彼女にとってはありがた迷惑でしかなかった。

今回戻ってきて主人公は少女の消息をたずね、再会を果たすのですが、すぐに少女は主人公のもとから姿を消す。主人公はそれを、たとえばこの国の総督に無理やり連れ去られた、という風に理解し、そのように記述しているのだが、読み進めていくと、むしろ主人公に捕まるくらいならば、という気持ちが少女の中に存在していることが想像されるのです。

そういう主人公は、折にふれて「幻視」を見ます。それが、現実描写と区別なく挿入されていて、最初は戸惑うのですが、これが効果をあげている。前衛映画っぽい手法ではありますね。

主人公は少女を追い求め、なかなか到達できない。そのゆくたては、まるでカフカの『城』におけるKと城の関係のようです。後半、ようやく主人公は少女の身柄を、まさに拘束しますが、それは単に「城」の入り口に達しただけで、その扉が開かれたわけではありません。

本篇は主人公による一人称描写なので、一見少女を思う主人公の一種自己犠牲的な一途な救出の物語のようですが、実はそこにあるのは、主人公の歪んだ精神なのかもしれません。とはいえ少女の精神も健全とはとてもいえず、主人公のドッペルゲンガーのような総督もやはり普通ではない。そうと知れば、本篇には健全な常識人はひとりも登場していませんねえ(^^;

そういうストーリーとは別に、いたるところにあらわれて描写される氷期の到来、国土の荒廃・廃墟化と、上記のように挿入される「ヴィジョン」が異様に美しいのも本篇の特徴でしょう。

全体を通してみると、小説としてはかなり爬行というか破綻しているのですが、それがまた本篇のそくそくたる異様な雰囲気、〈世界〉と〈精神〉の両面に於ける「終末論的イメージ」を醸成する一因ともなっていて、面白い小説でした。

 


 

「先端で、さすわさされるわそらええわ」、読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 7()160426

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川上未映子『先端で、さすわさされるわそらええわ』(青土社 08)

「ちょっきん、なー」、「彼女は四時の性交にうっとり、うっとりよ」、「象の目を焼いても焼いても」、「告白室の保存」の4篇は、私には抽象化(虚構化)がやや足りないように感じられました。
これらはいずれも「文学少女」的なテーマで、有体にいって新味はない。この程度の抽象度でこれらのテーマを展開する文学少女はざらにいるのではないか。いまいち捏ね具合が足りなかったように感じました。もっと練りに練りこんでネバネバさせてほしかった(^^;

とはいえ、新味がないから駄目だとは思わないのです。著者はそのような資質の作家ではないと思うからで、著者の本領は第1義にその実験的な文体の「驚かし」にあるからです。しかしその文体も、これらの作品ではいささか薄まっているように感じられた。

どちらの不足も、私の観ずるところでは前2篇と比べて大阪弁のフレーズが極端に少なくなっていることにあるように思われます。どうやら著者の文体のダイナミズムは大阪弁の多用と相関しているようで、著者が使い慣れた(しゃべり慣れた)大阪弁だからこそ、(テーマにしろスタイルにしろ)それを切断・超越し展開する自由度を獲得し得ていたのではないか。

と思いつつ最後の「夜の目硝子」を読むと、これが大阪弁は皆無ながら、最初の2篇並の力が作品にあるので、我ながら頼りない考察ではありますな(^^;

そういう意味で、いささか危ういものを感じさせるところはありますが、ハマッたときの衝撃力は余人の追随を許さないものがあり、そういえばウィリアム・バロウズもだらだらと詰まらないなかにところどころキラリと鋭利な光を輝かせるスタイルですから、これでいいのかも。
ともあれ、量産を強いられて質を落とさないことを祈る(良い編集者と仕事をしてほしいものです)。

 


 

野田昌弘(宏一郎)さん逝去  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 7()130212

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『SF英雄群像』から受けたショックは忘れられません。
初読は1969年の冬休みで、中ノ島図書館で借りて読みました。日本SFシリーズと同じ版型でした。今調べたらこの本、1969年の出版。ほぼ新刊で読んでいたんですね。
SFマガジン連載で読まれた雫石さんには負けますが。

そしてこの本でキャプテン・フューチャーを知った。なんと面白いSFがあるんだな、と慌てて銀背の3冊を買いに行きました。
ところが――
期待したほどには面白くない。
野田さんの紹介文のほうがずっとずっと面白かったのでした(^^;

『レモン月夜の宇宙船』もよかった。このシリーズも後になると同工異曲でマンネリ化してくるんですが、少なくともこの作品集は光っていました。

私にとって野田さんはもうこの2冊だけで十分。これまでも再読を繰り返してきましたが、今後も何度か読み返すと思います。合掌。

 


 

「先端で、さすわさされるわそらええわ」(2)  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 6()17125

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「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」を読む。
やはり冒頭の文がよい。掴みばっちり。

 「蒸す朝の、床にはきっとなにかあるものよ。電源のわき、無愛想な麺のような足もとのコードは、行き来する錯誤や主張や秘密などで燃えながら膨らんでいるのですが、その横で、人に見られんようにして本のなかに線をひく女学生のような顔をして、銀スプーンはいつかのヨーグルトで白く干からびつつ、いつからかころがっているのだった、を見て、それは詩の骨のよう。」

で、体がベトついたり窓から聞こえてくる電化製品回収車のマイクに嫌気がさして、主人公は銭湯へいく(この話はちゃんとストーリーがあるのです。いちおう)。
銭湯で主人公は9歳の少女に目で手首を掴まれる。というのは少女の両手はお母さんにつながれているから。
ガラス扉をガラガラ開けて湯気のこもる浴槽部屋に入ると、湯ぶねに白髪の老婆が浸かっており、その顔は少女のお母さんだった。
白髪のお母さんが、娘が信号を見ると、あ、お母さんやという、何年も、と言いつつ湯を飲みながら湯船にぶくぶく沈んでいく。さっきまで穏やかだった湯面から「幾つもの機関車が発車して、間隔の正しい笛の音と膨らみ増える熱い水蒸気の生で、その消滅の詳細はいつもみえない。」
体を洗おうとすると少女がやってきて石鹸を渡してくれる。お母さんはと聞くとここで待っておくように言われたとのこと。少女は、友達のあなたに読んでほしいものがあるのというと、「少女の顔はゆっくりと一冊の分厚い帳面に」なる。そこには湯船でこっそりおしっこをすることに関する内容が書かれている。
読んでいると、母親が服を着たままやってくる。
「あ、来はったで母親、といいながら少女の帳面の顔を見れば銀色の表紙はびゅうと閉じられ、しだいに表紙は形をつくり、少女の顔へと戻って」ゆく。スーツを着て高いかかとを響かせながら母親は少女を「軽々と持ち上げてざくざくと水を切って肩に担」いで出て行く。担がれた少女は鞄のように蝋人形のように見えた。

そしてラスト――
 「銭湯をはさんで、蒸す夜の、風にはきっとなにかあるものよ。湯の中の少女の爆破は論理上の大困難、緑色のペンでは書ける所と書けない所があるのです。足元にはまたヨーグルトでか細く縛られ眠っている銀スプーンは枯れながら、いつからか転がっているのだった、を見て、それは詩の骨。思いついて手にとってみるとスプーンの先には埃がからみついているので、あ、こんなところに、と思うもそれは雲。心はあせるわ。」

いやー、間然するところなき短篇小説の傑作というか名作であります。疑うらくは是れ日本のケリー・リンクかと。素晴らしいの一語(^^)。

 


 

「先端で、さすわさされるわそらええわ」  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 5()233532

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『先端で、さすわさされるわそらええわ』に着手。
表題作読む。わ、これはおもろい!
1行目からいっぺんに引き込まれてしまいました。
引用しましょう――

 「一日は憂鬱でありやくそく、叱責でありときどき逢瀬であり、自分と同じでかさ質量のずだ袋をひきずって、ずーるずーると歩く行為であって、それがわたしのコーヒー飲めやん癖とどう関係してるんかということはまったく考えたくないなあ。」

いやー、まるでウィリアム・バロウズみたいではありませんか(^^;。

 「空前絶後・空前絶後の響きありで前進の様子を彼にはみせたりたかったな、行った事もないのに懐かしゅうあるこの嘘っぱちが、目を一瞬生き返りの衝突をなげく小林秀雄があまりの一流好みの饒舌者、もっとどんどん言語に美学のいろはを! 婚儀を! 熱狂に駆り出される生活の両うでと両あしを!」

「英語と情事に耽っている」と評されたのはスタージョンですが、その伝でいえば「大阪弁と情事に耽っている」(^^;。まさに「言語に美学のいろはを!」ですな。この言語感覚は癖になりそう。

BGM>Sun Ra
    Akira Sakata

 


 

「アポロの彼方」、読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 5()134823

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バリー・N・マルツバーグ『アポロの彼方』黒丸尚訳(海外SFノヴェルズ80、原書72)

「太陽系小史」のパートは、巻末の対談でも言及されている「SFスキャナー」で読んだときは爆発的なセンス・オブ・ワンダーを感じたものでしたが(*)、そしてそのあまりの感動によってこの年になるまで鮮明に記憶が残っていたのですが、結局それが徒となってしまったのか、今回実見しても「ふーん」という感じにしかならなかったのは、返す返すも残念でならない。こういうアイデアは本格ミステリのトリックと同じで、ネタバレしてしまうと輝かないのかも知れません。

内容は、初の二人乗り有人金星探査船が金星近傍で船長を失い、副操縦士ただ一人金星に着陸せず帰還した、という大枠がまずあります。
船長はどうなったのか。本篇の主人公というか話者である副操縦士の供述は船長自らダスター部から船外へ出て、即ち自殺したというのですが、副操縦士が見る夢や幻覚や妄想では主人公によって殺されたシーンがあったりして曖昧です。
またなぜ任務を完遂せず帰還したかについては、金星人の警告を受け入れたという供述をして審問官を悩ませる。

かくのごとく大枠の中のストーリーのひとつとして、審問官による(監禁された主人公の)事情聴取がある。この部分は、井上光晴の尋問小説『他国の死』によく似ており、主人公の審問官への不信感が顕わで、現実なのか夢なのか妄想なのか、主人公によって審問官が殺される場面がある(でもエピローグを見ると死んでないようです)。

一方、金星船で出発以前、主人公が適格者ナンバー2となった頃から顕在化する主人公と(主人公の金星行きをよく思わない)妻との「気持ちの離れ」も描かれており、妻は主人公を自分の(出世の)ことしか考えない「機械人間」であるとあしざまに言い放つ(主人公の自己中ぶりは夫婦の性生活にあからさまに描写される)。妻も妄想なのか夢なのか現実なのか主人公に殺害されたり金星船の中に出現したりします。

また金星探査計画自体が政治的なプロジェクトであり(直前に火星有人探査が失敗している)、付け焼刃であり促成栽培であり、船内の居住空間がきわめて劣悪な環境だった可能性があり、その結果、搭乗員を狂気に陥れた可能性も否定できません。

話者である主人公が語る内容自体が、すべて狂気の所産なのかも。あるいは保身のために狂気を装っているのかも。

かくのごとく大枠をめぐって幾重にも虚実が錯綜しており、どれが現実なのかはまさに藪の中です。実は本篇はインポテンツになった主人公の自己弁護の手記なのではないかとも思われます。このインポテンツ描写(オタオタしたりアセッたりの情けなさ感)が実にリアルで(大江健三郎の『われらの時代』などの初期長篇を思い出しました)、ではなにが主人公をそのような状態にしたかといえば、外面的には「英雄」に任命されたことによるように仄めかされていますが、それは症状の発現のきっかけになっただけで、実はそれ以前からの夫婦関係にあるのかも知れません。そうだとすれば、本篇は夫婦関係の不全が金星計画を破綻させた物語といえましょう。マルツバーグならばそれくらいのことはしそうです(^^;。
なんといっても宇宙計画の無意味さは著者のメインテーマですから。

結局本篇は、金星プロジェクトに焦点を結ぶ宇宙理解の政治化、プロジェクトに乗っかって「英雄」たらんとする浅薄な虚栄心、プロジェクトが関係者に強いる人間の機械化等々を夫婦の床生活の視座から告発する、そんな小説であるように思われます。

(*)追記:スキャナーだったか忘れた。黒丸が白川星紀名義で書いた別の紹介記事(奇想天外?)だったかも。ちなみに本書には72年5月号のスキャナーと記載されていますが、こちらのデータによればこの号のスキャナー担当は浅倉久志。岡田英明(鏡明)は翌月号になっていますね。どなたか確認していただけると幸甚です。

 


 

ランキング依存  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 4()223841

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NHKクローズアップ現代「ランキング依存が止まらない〜出版不況の裏側〜」を見た。
ランキング(あるいは文学賞受賞)が《黄門様の印籠化》しているらしい。
しかし、
文学賞授賞だから→面白い、のではありません。
面白いから→受賞、するだけの話(厳密には数ある面白い作品の中からたまたま1作が受賞する)。
したがって授賞したから購入に走るというのは本末転倒(同様にランキング1位だから購入するというのも)。
正しい読書の態度は、受賞なんかする前にすでに読了していて、「ああ、あれやっぱり受賞しましたんか。ぼくも多分獲るんちゃうか思てましたんや」と涼しい顔で言うことなんです(不幸にして未読作品が獲ってしまった場合は徹底的に無視しちゃう)(^^;

BGM>Kurdish Dance
    遠州つばめ返し1/22/2

 


 

書き間違いの無意識  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 4()174248

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承前、なぜ苦笑いしたかというと、「ゆたかな社会の成立がもたらした成熟の遅延」なんだから、モラトリアム人間でなくては筋が通りません。それをオタクと(思い込んで)書き間違える自分の「無意識」が面白かったわけです。否定的に書こうとしたことでオタクに入れ替わったわけです。
それで初めて「よっぽどオタクが嫌いらしい」に繋がるんですよね(^^;

という風に、書く事で思考がアナログ的に(つまり泥縄式に(^^;)深まっていく、そのような私の記述は、デジタルなデータベース思考とは相容れないもののようです。というこの文章もまた、過去のエントリを読んでいないと意味がとりにくいものだと思います。

『アポロの彼方』は91ページまで。ここまでは井上光晴『他国の死』みたい。

 


 

おとんま=モラトリアム人間説  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 3()230837

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承前。「オタク」はさすがに牽強付会でしたね。せいぜい「モラトリアム人間」にとどめておくべきでした。というか、自分ではモラトリアム人間と書いているつもりだったので、いま読み返してあらあらと苦笑い。まあ当らずとも遠からずですけどね。モラトリアム人間の数ある存在形態のうちのひとつにオタクという存在形態があるんでしょう(しかしよっぽどオタクが嫌いらしい>近親憎悪か(^^;)。

さて、『アポロの彼方』を読むつもりでいたら、『遊星よりの昆虫軍X』を持っていることを思い出しました。で、『遊星よりの昆虫軍X』に乗り換えようと思うも、待てよ、これ以上『アポロの彼方』を引き伸ばしていると、愛想づかされて空の彼方へ飛んでいってしまわれかねないぞ、そんな気がしてきました(^^;。
というわけで、当初予定通り『アポロの彼方』に着手することに(^^;

 


 

「蒸気駆動の少年」(読了)  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 2()234844

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「蒸気駆動の少年」は、多元宇宙を想定しない単線時間線におけるタイムパラドックスもの(なのか?)。一読では把握できず読み直してようやく全体像はつかめた。おそらく奇怪な「玉突き」をきちっと辿れば何も矛盾はないストーリーなんでしょう。しかしながらそこまでトレースする気力がありませんでした(ーー;
それにしてもこの作家、本篇に限らずオッカムの剃刀の対極に位置しており、何にせよ事態をわざわざ複雑に、混乱にもっていこうとするオブセッションに捉えられているように思われてなりません。だから面白いんですが。

「教育用書籍の渡りに関する報告書」 これは集中の最高傑作!
本が一斉に羽ばたき飛び立ち渡りを始めるのですよ(^^;。
それも読まれない本、読まれずに積ん読されていた本から飛び立っていく。
本とは読まれてなんぼの存在。読まれるために存在している。だとしたらこの現象は、かかるレゾンデートルを無視された本たちの、人類への逆恨み、反逆なのか? 著者は何も説明しようとはしません。
空を覆い尽す幾千幾万の本の群れ――いや壮観です!
ヨコジュンの「平国家ニッポン」のラストにも、まさるとも劣らぬシュールな幻想的光景であります。
本篇は蔵書家にとってはトラウマになりかねない恐怖の物語ではないでしょうか。私は全然怖ろしくありませんけどね(^^;

「おとんまたち全員集合!」 近頃の大人はなかなか大人になりたがらない。いつまでも子供のときのつもりでいるように思われます。それはどうやらあちらでも同じらしい。本篇はそんないつまでも遊びつづける子供じみた大人、「おとんまたち」に愛想をつかした子供たちが、ロボットやコンピュータと結託して、社会の中枢から大人を締め出してしまった社会の話。豊田有恒が書きそうなストーリーです。解説者は「現代のレジャー社会に対する諷刺」との解釈ですが、私はもっと広くゆたかな社会の成立がもたらした成熟の遅延、「オタク」化現象に対する揶揄も含まれているのではないかと思いました。本篇の初出は1983年ですから時代的にも合っていると思います。きっと英米にもオタクはいるんでしょうね。

「不安検出書(B式)」 付録みたいなもの。

「ベストセラー 」 初読時、途中でこんがらがってしまったので中断していました。改めて読み直したけど、やはり錯綜しすぎていてぴんとこなかった。「蒸気駆動の少年」のタイムパラドックスも、「見えざる手によって」の密室トリックもそうなんだけれども、やりすぎというか、無意味に過剰。それが嵌まるとこたえられないんですけどね(^^;

ということで、ジョン・スラデック『蒸気駆動の少年』柳下毅一郎編(奇想コレクション 08)読了。
わがベスト5は「アイオワ州ミルグローブの詩人たち」「ピストン式」「ゾイドたちの愛」「ホワイトハット」「教育用書籍の渡りに関する報告書」

いやそれにしてもスラデックがこんなに面白いとは知らなかったなあ(^^)
しかも間口が広く、いろんな傾向が楽しめますし、敷居も高くありません。まさに理想的な「エスエフ」小説ではないか。布教本に最適かも(^^ゞ

 


 

「蒸気駆動の少年」(6  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 2()025254

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「不在の友に」 酒場のほら話もの。語り手は笑顔の描かれた顔を持つロボット(したがって表情は動かない。笑顔のまま)。そのロボットが偽物の暖炉の前で空っぽのグラスで偽物の酒をあおりつつ語る嘘臭い物語――が、次第に現実を犯していく……。ラファティ描くオデッセイにも似た荒唐無稽譚・滑稽譚ながら、なんとなく不気味な読後感を残します。

「小熊座」 ミステリーゾーンにありそうな話。スラデクにはめずらしくきちっとした「小説」を書いていて(^^;、非常にまっとうな(つまり普通のエンターテインメントな)ホラー小説に仕上がっています。十分に面白くリーダビリティも高いですが、当然スラデクらしさは薄まってしまっています。

「ホワイトハット」 ハインライン「人形つかい」のパロディでもある一種の不条理小説。本篇の寄生生物はなんと西部劇マニア(^^; 人間を馬に見立てて、乗り回して喜んでいる。そういう一種子供っぽいところは「火星人ゴーホーム」に近いかも。かつては教壇でガリバー旅行記の「馬の国」を教えていた主人公は、馬の境遇に堕ちた今、以前以上にフイヌムに傾倒し、現実の馬にも共感を寄せます。あるとき「主人」の隙を突いて主人公は逃走を図るも、崖から落ちて骨折する。主人は涙ながらに「彼らは廃馬を撃つ」のであった。
結局寄生宇宙人は「人間」と重ねあわされ、というか「人間」そのものであり、その「動物愛護」がいかに手前勝手なものかが暴かれ、批判される。その意味で本篇はガリバー旅行記の内的続編になっているといえます。

以下次回。

 


 

「蒸気駆動の少年」(5  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 1()222226

  返信・引用  編集済

 

 

「おつぎのこびと」 わたし的には響いてくるものがない話だった。

「血とショウガパン」 グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」の再話。私の知っているのは子供向け改変ヘンゼルとグレーテルだけなのでオリジナルとの異同は判りませんが、非常に残酷な話。読むのがつらいほど。ここまで残酷な描写をなぜ重ねるのか、とさえ思われました(ところが既にして現実に存在したのですよね>下術)。
そこで「この残酷さがたまらん」みたいな意見がないかと検索してみました。見つけられなかった。ああよかった(^^)。
よかったというのは他でもなく、実に本篇はナチのユダヤ人強制収容所のメタファーでもあったのです。解説で指摘されるまで気づきませんでしたが、なるほど、それならばこの描写、了解できます。
たしかにいわれてみれば、このヘンゼルとグレーテルの所業は強制収容所がユダヤ人に行なったことと同じなんですね。したがってヘンゼルとグレーテルの所業を読んで(オモテ読みして)喜ぶ人がもしいるとしたら、それはナチスと同じなのです。教科書的にいえば、ナチスのホロコースト計画の非人間性が自分とは関係ない世界の話として、大きすぎて想像できない人に、喩え話として個人レベルに落とし込んだのが本篇であるといえる。またそのような残虐行為、あるいは差別的行為にややもすれば惹きこまれがちな人間の傾向も照射しているように思われます。
そのような意味で、本篇もまた「人間関係のあやや人の心の闇」を抉り出す作品であるといえましょう。

 


 

「蒸気駆動の少年」(4  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 1()182328

  返信・引用

 

 

「密室」 ラストはメタになっていますが、ほぼ密室トリック講義といってよいもの。いやむしろその「パロディ」ですね。スラデクにとってトリック小説とは「愛すべき稚戯」なのかも。
第1部で名探偵の書斎に依頼人がつめかける(というか出現する)ドタバタ場面は、まさしく筒井康隆の筆法です(さすがにターザンや白熊は出てきませんが)。影響関係があるはずがなく、「平行進化」の一例でしょうか?

「息を切らして」 ミステリとしてはいまいち。スラデクっぽさは認められるものの、軽い小噺程度の話。発表媒体がピカデリー劇場などの舞台パンフレットということで、まあそんなものでしょう。

「ゾイドたちの愛」は、なかなかにシリアスな小説。解説者によればスラデクは「人間関係のあやにも人の心の闇にも興味はない」(434p)とありますが、本篇は「人間関係のあやや人の心の闇」に焦点を当てたもの。スラデクには「アイオア州……」や「高速道路」や本篇のような作品もあるわけで、解説者のいう「四つの顔」に、私は5番目の顔を付け加えたいと思います。いうまでもなく「ニューウェーブ(スペキュレイティヴ・フィクション)作家」としてのスラデクですね。

以下次回。

 


 

「蒸気駆動の少年」(3  投稿者:管理人  投稿日:2008 6 1()154514

  返信・引用  編集済

 

 

<承前>
飛び降りた男が落下しない、といえば、石原藤夫「助かった三人」ですね(笑) 地表面は無数の点の集まりであり、無数の点の中の任意の一点に落下者の重心が落ちる確率は無限分の1となる、故に落下者は地上に落ちない、というこじつけを思い出しました(^^;
そういえばもうひとつのゼノンのパラドックスの方は、「悪への鉄槌」に出てきており、発射された弾丸が永遠に的に到達しないのを悲観して、運動をあきらめてしまいます(^^ゞ

そういう意味で、スラデクは石原藤夫とも似ていて、そうと気づいてみると、上記2作にとどまらず他の作品にもそこはかとなく石原藤夫っぽさが漂っている感じがします。これは両者が理系であるからというよりも、SF的思考を嗜好する脳の志向性によるものと思われます。

「神々の宇宙靴――考古学はくつがえされた」はトンデモ説をトンデモ読みした傑作(2)エッセイ(?)。
「しかし、シダがポケットにファスナーのついた服を着て、そんなところでなにをしていたのか、まだ説明はできていないのだ」(160p)
あのー(^^;

「見えざる手によって」
(霊媒師のトリックを見破った探偵に対し)
「でも」と、ドースン夫人は言った。「すこしは神秘的な力を持っているにちがいないわ。さもなきゃ、どうやって壁を抜けて人を殺せたっていうの?」(193p)
いやその(汗)

本篇はスラデクの本格ミステリですが、密室トリックはわたし的にはそんなにびっくりさせられるものではありません(解説にも書かれていますね)。むしろ本篇のきもは、ラストの、群衆に紛れてしまった犯人がどうして捕まったか、にあるのでは? 最初探偵の説明がぴんとこなかったので、すこし考えた。で、はっと気づいた。
私の推理では……(5行あけます。未読者はご注意)




……付け髭の下にはドーランが塗られてなかった。
からではないでしょうか?
うーん、違うのかな。そうだと思うのですが。諸賢の快刀乱麻の解説を期待します。

以下次回。

 


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