ヘリコニア談話室ログ(20087)




「熱の檻」  投稿者:管理人  投稿日:2008 730()154945

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堀晃さんの『梅田地下オデッセイ』(ハヤカワ文庫 81)が、先日表題作を読んだまま畳に抛りっ放しになっていたのですが、ふと思いついて「熱の檻」を読み返してみました。この作品は本集以外には収録されてないのではないでしょうか。それはともかく、有名な冷やし中華のパラドックスを真剣に読んでみました(^^;

初読時は赤方変移した終末期の銀河系のイメージと「自殺」することで銀河系を救うロボットのイメージにくらくらしましたが、上記のパラドックスは、うーんややこしいなあ、パスっ!と、いう感じだったんですよね(^^;

で、わたし的にイメージするなら、
「現在」に水と即席めんが入った鍋がある(A)。
「未来」に火のついたコンロがある(B)。
(前提。未来への時間旅行は、少なくとも現在を改変しないので可能)。
ワープで(A)が(B)の上に載るように「現在」と「未来」が重ねあわされる。
(A)は熱せられて水は湯に沸騰し、即席めんが出来上がる。
ワープが解除される。
「現在」に戻った(A)は<自然に>水が湯になり(エントロピーが減少)、即席めんが出来上がったように見える。

事実はこのとき、「未来」のエネルギーで「現在」の水が湯になったわけで、「現在」は「未来」からエネルギーを獲得したことになる。

これを敷衍して、
現在の時間機(一応ガソリンで動くとする)をワープで未来へ運ぶ(最初の航行には現在のガソリンが必要)。
未来のGSで給油する。このときカラの予備タンクを満タンにする。
現在に戻る。メインタンクは差引ゼロですが、予備タンク分は行く前より増えている。しかし前提より「未来」は過去に向かってワープできないので、失ったエネルギを取り戻すことはできない。江戸のかたきは長崎(より未来)でうつ他ない。

しかししかし、上記の結果は、過去への時間旅行は不可との前提を一応崩さないで、事実上エネルギに関しては未来から現在への時間移動を可能にする抜け道となるものです。
いやとんでもない(>勿論誉め言葉)アイデアです(^^) その辺作者も自覚していることは、冷やし中華やハニー・ロイなどと作品の全体のタッチからはこの部分だけ多少おちゃらけた記述にわざわざしていることから推測できます。若い読者は知らないでしょうから教えてあげますが、当時真冬でも冷やし中華を食べよう、食べさせろ、という一大運動が澎湃として勃興し日本全土を揺り動かしたことがあったのですそのときはあわや自民党政府が崩壊寸前まで追い込まれたもんでしたよ若い人は知らないでしょうから教えてあげますが。いや昔はよかったなあ。

ここで疑問(無知をさらけ出すだけかも)。
こうして実用化された時間機は、次のような特徴を持つことになった。
時間機は出発以前の過去へは戻れない。
時間機の移動に伴うエネルギーは未来から供給される。(199p)


とあるのですが、時間機が過去へ戻れないのはこれらの設定の大前提、いわば公理であって、時間機に外在しているのではないでしょうか? そうとしか読めなかったのですが……違うのかなあ、、、

ともあれそのような前提的世界設定が示され、そこで主人公が「自殺」するために活動する物語があるのですが、この主人公、まさに「所有」を放棄するために(それを目的として)生きている存在なのです。
木枯し紋次郎は無目的に、いわば無自覚に所有の否定を実践していますが、本篇の主人公は自らのレゾンデートルとして所有の否定を実践しているわけで、紋次郎よりもさらに根源的といえると思います。

私が堀作品を好むのは、本篇に限らず、堀SFの主人公には多かれ少なかれ、このような性格が造型されているからではないでしょうか。本篇を読んで、ふとそんなことを感じたのでした。

 




Re:「ショートショートと長編」  投稿者:管理人  投稿日:2008 730()002748

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高井さん
>このエッセイ、多くの眉村ファンに読んでいただきたいと、切に願います
はい。旧帝大OBしか読めないというのはいかにも勿体ないですよね。HPで公開できるよう努力いたします。

笹沢佐保『木枯し紋次郎(四) 無縁仏に明日をみた』(光文社文庫 97)、読了。
以下備忘――
「無縁仏に明日をみた」、天保10年3月
「暁の追分に立つ」、同年5月
「女郎蜘蛛が泥に這う」、同年6月
「水車は夕映えに軋んだ」、同年2月
「獣道に涙を棄てた」、同年11月

ちなみに渡辺崋山、高野長英らが捕らえられた蛮社の獄はこの年の5月だったとのこと(76p)

 




「ショートショートと長編」  投稿者:高井 信  投稿日:2008 729()200024

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>俳句読者と小説読者を比較した説明に大いに納得しました。
 眉村さんの原点を見たような気がします。
 このエッセイ、多くの眉村ファンに読んでいただきたいと、切に願います。

 




Re: ありがとうございます!  投稿者:管理人  投稿日:2008 729()172952

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> No.1405[元記事へ]

高井さん
今回、「書き盡す」方向へ眉村さんの目を瞠かせた人物の名前が(私の記憶違いでなければ)はじめて明らかにされましたね。この部分、俳句読者と小説読者を比較した説明に大いに納得しました。
しかもラストでは、またわからなくなっている、とあり、眉村さんの安住しない誠実な態度に改めて感服したことでした。
また情報ありましたら、よろしくお願いします。

 




ありがとうございます!  投稿者:高井 信  投稿日:2008 729()072945

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>さて、学士会会報の眉村さんのエッセイですが、スキャナーで取り込んだ画像を
>メールにて送付させていただきました。お楽しみに(^^)
 朝起きたら、届いていました。さっそく印刷して、拝読。
 眉村さんのショートショート観あり、日本ショートショート黎明期の貴重な証言あり、さらには、奥様に捧げたショートショート……。ショートショート研究の資料として、大切に保存させていただきます。
 ありがとうございました。感謝感激、であります。

 




学士会会報  投稿者:管理人  投稿日:2008 729()002118

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高井さん
いつもありがとうございます。

>できることなら、私も聴講したい……。
同感です(^^)

さて、学士会会報の眉村さんのエッセイですが、スキャナーで取り込んだ画像をメールにて送付させていただきました。お楽しみに(^^)

 




Re:眉村さんの新講座  投稿者:高井 信  投稿日:2008 728()145535

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 詳細な情報、ありがとうございます。
 面白そうですねえ。>新講座
 できることなら、私も聴講したい……。
 それにしても、眉村さんの若々しい頭脳、そしてパワフルな活動には、頭が下がるばかりです。

 




眉村さんの新講座  投稿者:管理人  投稿日:2008 728()001311

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先日ご紹介しました今秋10月より開講予定の眉村卓先生の新講座ですが、講座名が判りました。

○発想と構成――ショートショート・SFを通して

お問い合わせは→大阪シナリオ学校まで(ただし秋季新講座はまだ反映されてないようです)。

さっきまで眉村さんと話していたのですが、そのなかで、最近の若い人向けの(あるいは若い人がつくった)映画に或る特徴がみとめられる、とのお話をうかがいました。非常に啓発される観点で、ここで紹介したい誘惑に駆られますけど、ガマンします。そのうち眉村さんがエッセイか何かでお書きになるでしょう。あるいは上記新講座でお話になるかも(^^; まさに講座名である「発想と構成」に関わってくる内容でして、律儀な先生らしく、早速新講座のネタを考えていらっしゃるのではないかと想像しニヤニヤしてしまいました(^^;

今日のyoutubeは、マサチューセッツ
でもって、こちらは見つけた詞評。鋭いです。これまたある意味「発想と構成」が分析されています。

 




「ポトラッチ戦史」と紋次郎  投稿者:管理人  投稿日:2008 727()183420

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かんべむさしさんに「ポトラッチ戦史」(『ポトラッチ戦史』講談社文庫79、所収)という傑作があって、この作品で〈ポトラッチ〉という概念を知った人も多いかと思います。まあ私は文化人類学寄りの専攻でしたから知ってましたけどね。
で、ちょっと思うところがあって読み返してみた。究極のドタバタで、狂騒的祝祭的なアセンションの果ての静謐なラストは今読んでも感動するというか呆れるというか、ようここまでやりますなあ、という感じで満足しました(^^)

ところで〈ポトラッチ〉というのは、作品内で説明されているとおり北米インデアンにおいて観察されたものですが、これは結局富(所有)が不均衡に個人に蓄積されるのを防ぐ〈制度〉だった。制度というのは実体的な強制力があったからです。社会的活動は不可避的に成功者、失敗者を生みます。大雑把にいって成功者と落伍者の社会内分化(有産者と無産者の分化)によって発生した位置エネルギーが、資本主義を回転させる原動力となります。
ポトラッチはこの分化(の拡大)を妨げる働きをします。労働の季節において、社会内の富は不可避的に偏在化する。それを一旦チャラにするのがポトラッチといえる(成功者はすべてを失うのではなく構成員からの尊敬はそれによって強化される)。
ポトラッチとは、本書に「元来はチヌーク語で「消費する」という意味」とありますが、その「消費」の内容は我々現代人の考える消費とは違う。獲得した富(所有)を「社会に還元」するということであり、その意味では元来の資本主義の、個人的な金儲けのために働くのではない、というのと異なるものではありません。ただしそれを制度化してしまっているので、蓄積は再生産に回らず、資本主義のように富が富を呼び、社会を拡大していく方向には向かわない。ポトラッチ社会ではずっと現状のサイズが維持されていくわけです(財産を破壊するのも一年間で増えたそれを元のゼロにもどす意味がある)。

実はこういう社会的無意識は(ポトラッチのように明確なかたちを取らずとも)遍在的で、江戸っ子の「宵越しの金はもたねえ」というのも同じ無意識なんだと思います。義賊が大商人の屋敷を襲って庶民にばら撒くというのも一種変形したポトラッチ的行為といえるでしょう。
宵越しの金はもたねえの意味は、もちろん年末ボーナス(金)を車やレジャー(モノ)に交換することではないわけです。これでは金がモノに変わるだけで所有であることは変わらない。
アメリカの大富豪が行なっている社会還元は資本主義の精神のなかに潜在しているポトラッチ的な無意識の残存といえるかも。そのような意味でディックの「太陽クイズ」(偶然世界)をポトラッチ的な観点から読み直すのも面白いのではないでしょうか。

木枯し紋次郎シリーズが語る「所有」の否定に人気が集まるのは、現代の人々の中に辛うじて残存している「ポトラッチ」的な観念を揺さぶるからではないでしょうか。

 




紋次郎と所有の否定  投稿者:管理人  投稿日:2008 727()111126

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読みかけて(諸般の事情で)先送りになっていた『木枯し紋次郎(四)』にようやく戻る。
相変わらず面白い。このシリーズになぜ惹かれるのか? テーマが「所有」の拒否だからではないか。
(ヴェーバーによれば)資本主義はプロテスタンティズムの倫理(カルヴァン主義の世俗内禁欲)から導出された「資本主義の精神」によって、初めて存在しえたということになる。
つまり一生懸命働くことが神の御心に沿う行為であるという確信(予定説)から出発する(小室直樹によれば仏教は一生懸命働くことを否定し、働かず(施しを受けつつ)修業することが第一に求められるとする。シッダルダ王子は自分の解脱のために自国が滅ぶのを甘受した)。
禁欲してあれが欲しいこれが欲しいなどとは思わず、働けば働くほど神の御心に沿う。決して豊かな生活をしたいために働くのではない。そうすると、儲けは消費されないから蓄積され、それが事業の拡大に回され、こうして資本主義の独特の回転が開始されたのだが、一旦回転を開始した資本主義は、もはや世俗内禁欲を契機とせずとも回転を維持し拡大し続けることができる。そこで資本主義の変質が起こり、アメリカ的資本主義(資本家(経営者)が自分の我欲のために儲けを独占する)に変質する。小室はこれを資本主義の爛熟・腐熟と規定する。小室は日本資本主義はアメリカ資本主義とは違う仏教資本主義とするのだが、これはやや眉唾。やはり小アメリカ病でしょう。
小室がほぼ筆業をやめた頃から進展する消費資本主義は、物欲の肯定に始まるもので、生産から消費への転換による。いまや資本家労働者を問わず、というか共におしなべて物欲我執の虜となり、もはや(資本家ではなく)資本主義という主人に飼い殺されているというべきでしょう。
そういう風潮というよりもっと深い構造に発するきしみが社会病理として発現している(あるいは無意識に潜在している)といってよい。これは日本において消費資本主義を準備した(輸出主体から国内消費主体へと転換した)70年代から始まるものであり、まさに木枯し紋次郎シリーズの開始と軌を一にしている。70年代においては新しい時代に対する古い思想的な危惧だったといえますが、現在から見ればその予見は当っていた。
そういう現代という時代において、木枯し紋次郎の一切の所有の否定(時間の否定(歴史の否定・記憶の否定)も含む)は、なにがしか心を洗われるものを私は感じずにはいられません。

「昔のことなんか、思い出しもしないって言いたいのかい!」
「明日もねえ者に、思い出す昨日があろうはずはありやせん」(「暁の追分に立つ」)

 




Re: 私説公開  投稿者:管理人  投稿日:2008 727()00168

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> No.1397[元記事へ]

石垣眞人さん
はじめまして。ようこそご来信くださいました。
こんな片田舎へお訪ね下さったのは望外の喜びではございますが、はじめてのご来信で何の挨拶もないのはいかがなものでしょうか。
ということで、貴兄のご投稿、一旦削除させていただきます。
常識の範囲内で結構ですので、文面を整えていただきまして、改めてご投稿下さいますようお願い申し上げます。恐惶謹言。

 




Re: 地震報告  投稿者:管理人  投稿日:2008 727()000828

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> No.1396[元記事へ]

平谷さん
ご無事とのこと何よりでした。安心しました(^^)

 




地震報告  投稿者:平谷美樹  投稿日:2008 726()071346

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ご心配をおかけしました。
今回の地震では、被害は出ませんでした。
揺れは大きかったですが、本も崩れずにすみました。

 




幽霊の辻  投稿者:管理人  投稿日:2008 726()020822

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あまりの暑さに本など読んでられるかという感じですな。とはいえ読書が進まないのを暑さのせいばかりにもできない。老眼で細かい文字が苦痛になってきていることも大きく、結局暑さと老眼の相乗効果で読めなくなっているというべきでしょう。
ということで思い立って、ついに読書用の眼鏡を新調しました。いっておきますが、老眼鏡ではありませんよ! 近視の度数を弱めたやつですから誤解なきよう。ただし受け取りは三日後とのことで、まあ三日ぐらい我慢しましょうか。
そういう次第で、今日はyoutubeを聴きまくっていたんですが、なんとこんなんもありました。納涼にどうぞ→幽霊の辻1/22/2

 




地震と詰め将棋  投稿者:管理人  投稿日:2008 725()000130

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またもや岩手を中心に地震があったのですね。沿岸部が震源だったとのことですが、平谷さん大丈夫だったでしょうか。大したことがなければよいのですが。ともあれ被災された皆さまには心よりお見舞い申し上げます。

ところで昨日のつづき(?)ですが、眉村さんが車中等で暇なときは詰め碁の本で遊んでいるとおっしゃったのを聞いて、私はいたく感心してしまい、早速詰め将棋の本を買ってきたのでした(型から入るタイプです(^^;)。将棋にしたのは囲碁よりは若干ましかなと思ったからですが、書店からの帰途電車の中で本を開けてはたと困ってしまいました。将棋盤がないではありませんか!
最初の布置だけは本に図がありますが、あとは頭の中で駒を動かしていかなければならないわけです。三手詰めまでは何とかなりました。しかし5手詰めとなると……もうお手上げなのであります。
これは日々修練していけば次第にできるようになるのかも知れませんが、若い時ならばともかく、今となっては手遅れでしょう。
ということで、三手詰めは何とか終わらせましたが、あとは早々に諦めてしまいました。型から入っても、そもそも能力がなければ持続しないのですね、あたりまえですが。
そういうわけで、詰め将棋の本は今も我が家のどこかに埋もれているはずです。……

と、今日は柄にもなく、「体験を語る、語りたいという欲望」を満足させてみました(>と誰に向かっていうでもなく)。

 




小説と詰め碁  投稿者:管理人  投稿日:2008 723()195811

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高井さん、お久しぶりです。
ご教示ありがとうございました。学士会会報でしたか。検索したらありました→871号(平成20年7月発行)
うーむ。会員資格がすごいですなあ(^^;

>市販はされないようです
はい。そういうことなので、向こうの求める基準をクリアして承認が得られれば転載可のようです。ということで今暫くのご猶予を(^^)

毎日文化センターの方は、大学で教えるのとは違って、生徒さんが若者から初老の方まで年齢差や社会経験もまちまちで最初は不安なご様子でしたが、今はとてもうまく回っているようです。50枚(だったか)の宿題で200枚書いてくる猛者もいて嬉しい悲鳴みたいですよ。
そういう意味で、大阪シナリオ学校の新講座も楽しみになさっています。

私は思うのですが、たとえプロにならなくても、小説を書くという体験は、その人にとってとても大きな財産になるのではないでしょうか。自分ではない別の人間を創造し動かすわけですから。
そういう意味で、小説を書くとは、詰め将棋や詰め碁と似ているように思います
実は子供のころ、私は詰め将棋が苦手でして、どうしてもどっちかに肩入れして指してしまうのです。
敵側では、わざと無意味な差し手を指したりして、自陣が勝つように動かしてしまうのです。虚心坦懐にどちらの側でも最善を尽すという態度がどうしてもできなかったですね。
小説でも無意味に行動して主人公を窮地に陥れるヒロインが登場する小説や、逆に主人公に都合よく展開する小説は、ある意味私の詰め将棋と同じ事をしているんでしょうね(眉村さんは電車で移動中、ネタ繰りをしているか俳句を考えているとき以外は詰め碁の本を読んでいるそうです)(^^;
その意味で「他者が苦手」「他者の気持ちが汲み取れない」と感じている人こそ、小説を書いてみるべきで、どしどし眉村さんの新講座に申し込んで欲しいと思います→大阪シナリオ学校(眉村さんの講座はまだ反映されてないみたいですが、お問い合わせはこちらへ)
あ、もちろん神戸方面の方は、わざわざ大阪まで出なくても高井信の小説講座をご利用くださいね(^^)

追記。小説家がよく言う「作中人物が自在に動き出す」とは、もちろん実際に動くわけではなく作者が動かすわけですが、それはおそらく作家の脳が詰め碁の状態になったときなのかもしれませんね。

 




Re:眉村卓情報  投稿者:高井 信  投稿日:2008 723()134056

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 眉村さん情報、ありがとうございます。
>○《学士界報》?という雑誌に、「ショートショートと長篇」というかなり本格的な
>エッセイが掲載されるとのこと。
 調べてみたら、正確には「学士会会報」ですね。残念ながら、市販はされないようです。
>うまくいけばHPに掲載できるかもしれません。乞うご期待。
 思い切り期待してしまいます。ぜひ読みたいです。

>○大阪シナリオ学校にて新講座を受け持たれます。テーマはショートショート、
>ショートストーリーのアイデアと構成とのこと。
 こちらもかなり気になる情報です。新しいショートショートの書き手が生まれると嬉しいです。

 




眉村卓情報  投稿者:管理人  投稿日:2008 722()233646

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順不同で。

○創元SF文庫版『消滅の光輪』(上下)は、今週末あたりから店頭に並ぶようです。

○大阪芸大の《河南文芸》ですが、小川国夫追悼号が出るらしく、眉村さんも寄稿されたそうです。

○《学士界報》?という雑誌に、「ショートショートと長篇」というかなり本格的なエッセイが掲載されるとのこと。『消滅の光輪』あとがきとリンクする内容らしいです。うまくいけばHPに掲載できるかもしれません。乞うご期待。

○眉村さん、DAICON出演決定! 日曜日、新井素子さんと共に《囲碁の部屋》に常駐される模様。眉村卓・新井素子対決が見られそうです(^^)

○大阪シナリオ学校にて新講座を受け持たれます。テーマはショートショート、ショートストーリーのアイデアと構成とのこと。月2回(第2、第4火曜)。毎日文化センターの「眉村卓の創作講座」(盛況で新規募集を中止しているそうです)は、主に実技中心だそうですが、こちらは実技より理論的な感じになるようです。

○近々京都で開催されるペンクラブの講演会(?)で、「時代遅れのSFを書く」という演題で講演されるとのことです。もちろん眉村さん一流の逆説的表現でしょう。これは聴講できるものなら聴講したいです。

以上、取り急ぎお知らせまで。

PS そうそう、最近はSCI-FIチャンネルを熱心に見られているようですよ(^^)

 




「廊下に植えた林檎の木」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 721()163355

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残雪『廊下に植えた林檎の木』(河出書房 95)、読了。

最後に残っていた表題作をようやく読み終った。
いやー難渋しました。小説の極北ですな。
小説に限らずコミュニケーション、いや人間の思考は、原則因果的理解の積み重ねといえます。
原因Aから結果Bが導出されます。次に原因Bから結果Cが求められるのですが、このとき原因Bは単に結果Bと同じではなく原因Aを内包しています。このようにどんどん高次の結果は内包するものが積み重なっていることになるわけですが、人間の脳はそれを殊更改めて意識しているわけではありません。コンピュータと違って人間の脳は圧縮してしまうことで扱う情報量を減らしてしまう。
それが嵩じるとたとえば先日私が連合させてしまった「男装の」といえば「麗人」のように、非常に繋がりやすい親和性の高い「観念連合」が生まれてしまう。かかる「観念連合」とは、結合度が高いので脳まで行かず、往々にして脊髄反射的に受容されます。一種の思考を慣性化することで、思考速度を落とさないようにしているのですが、反面教条主義を招いたりもします。

それはともかく人間の思考は良くも悪くもこのような脊髄反射的圧縮を契機として進行するものなんですね。
ところが残雪はかかる慣性化された思考の圧縮つまり無意識化した因果関係の癒着に「切断」を迫るのです。
有体にいって、Aというセンテンスの次に来るBというセンテンスは、元来センテンスAを前提としなければコミュニケーションが繋がらないのですが、残雪は平気で繋がらないものを繋いでしまう。しかして読者は途方にくれる、という次第。
ラストになるとそれがスピードアップしてめくるめくようなトリップ感も醸成されてくるのですが、それはバッドトリップというべきかも(この辺はちょっと北野勇作的かも)。いやすさまじい小説でありました(^^ゞ

 




SFと資本主義  投稿者:管理人  投稿日:2008 721()122630

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昨今、本の品切れの多さにうんざりしたり怒ったりしているのをよく見かけます。でも元来書籍とは初版一刷のみというのが原則で、重版は僥倖、売り切れたらおしまいというのが常態なのではないでしょうか(80年代90年代が異常に恵まれていただけでしょう)。

私がSFを読み始めた頃の銀背なんて、ないのが当たり前、今では品切れすることの方がありえないブラッドベリなども、さすがに当時でも重版はされますが、店頭にない時期も長いという状態でした。
1969年11月に「ウは宇宙船のウ」を読んで驚倒して以来必死に捜していた「火星年代記」を、実際に旭屋の店頭で発見して購入したのは70年2月でした。つまり少なくとも3ヶ月間は「火星年代記」は品切れしていたということです。

で、そのようなシステムを補完していたのが古書店の存在であったと思います。稀覯本はいざ知らず、SF、ミステリの類であれば大阪桜橋の古本屋で、当時定価の7〜8掛けぐらいで入手できたと記憶しています。
まあ当時は現在に比べれば貧しかったということもあるでしょうが、その一方で書籍は結果として「共同購入」するもの、との《無意識》もあったような気がします(古書店利用とは煎じ詰めれば一種の回し読みといえます>下記)。

また借りたり貸したりも当たり前で、私自身中高大の10年で読んだ本の2〜3割は友人に借りて読んでいるはずです。これもまた一種の共同購入といえます。
1冊600円の文庫本を6人回し読みすれば一人頭100円で済みます。もちろん6人金を持ち寄って買うわけではなく、たとえばAが600円で買うわけですが、BもCも、DもEもFも、当然別の本を購入するわけで、結果として負担が6分の1になっている(あるいは6倍読める)。

当時これを意識してやっていたわけではありませんが、結果としてそうなっている。で、これって実はレヴィストロースの言う交換理論なんですよね。別に「所有」は二の次だったわけです。

ところがあるとき、借りた本を返さない(次の者に流通させない)やつが出てきた。よほど面白くて「所有欲」が目覚めてしまったわけです。こうなるとあっというまに交換理論的ユートピアは崩壊してしまいます。他の5人にも「所有」意志が伝染してしまうからです。資本主義の発生です(>大袈裟な!)

ところで現在、ロードサイドにゴマンとある古書店を梯子しても青背がほとんど並んでない(どうかするとFT文庫よりも少ない)現状があります。
これは思うにSF読者が「所有」に目覚めてしまってストックされ、古書が市場に流通しなくなっている状態といえます。
どうやらSF読者は他ジャンルの読者に比べて所有欲が強く資本主義度が高いのかも知れませんね(たとえばネットオークション)。


 >>ゴジヤウダンですよ〜(^^;。

 




「火星のコッペリア」再読  投稿者:管理人  投稿日:2008 721()102117

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「火星のコッペリア」
間違ってふつうに起きてしまったので(今日は祝日なのだった)、そうだ朝の涼しいうちにと思い立って再読してみました。
ちょっと読み間違いしていました。
ジェミノイドが、その名称がジェミニに由来しているように、主となる人間と対でワンセットを構成するのは昨日書いたとおりで、主たる人間の遠隔操作(双方向リンク)により活動する従属的ロボットといえるでしょう。ただそのAIには、いうなれば「ボッコちゃん」よりはすこし上等な応答能力が備わっているとなっていますが、決してアトムのようなものではない。
結局死んで火星に埋葬された主たる人間の脳が、落雷によって一時的に活性化されるときのみジェミノイドは活動できるわけで、火星と宇宙船間のタイムラグは解消されません。これは瑕疵ですがとりあえず棚上げしておきます。
ただ読み間違っていたのは、著者の問題提起はジェミノイドそのものの意識にではなく、そのような「火星ですでに死んでいるはずの脳の神経繊維にイオンが流れるために、擬似的に自我を」回復し、「死んだあともまどろむように生きている」状態について、「神経繊維にイオンの流れが生じたからといって、それでその脳の持ち主に意識があるということになるのだろうか」という点で、もしそれが意識があるのならば、コンピュータにも意識はあるということになるとして、主人公にペンローズを援用させて否定させているわけです(小説的結末はまた別の話です)。ちなみにここは堀作品と読み比べると面白いですね。

タイムラグとか、女性隊員が(主人公の意識上)突如出現する不自然さとか、小説的には安易な作りが目に付くのですが、アイデアそのものはとても魅力的なんですねえ。もっとしっかり書いて欲しかった(^^;

わたし的には、火星に埋葬されたまま断続的に意識を回復して(タイムラグの伸縮に限定されながらも)ジェミノイドを操作して地球を牛耳る大物政治家みたいなディック的な物語を読みたくなってしまいました(^^;

 




「消滅の光輪」予約可  投稿者:管理人  投稿日:2008 720()215430

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いま確認しましたら、創元SF文庫版『消滅の光輪』(上下)が予約できるようになっているようです(発売は7月25日)。
  amazon bk1

また東京創元社HPでは、創元文庫版あとがき全文が読めます→著者あとがき
シリーズ最高傑作長篇です。未読の方はこのチャンスに是非!
*)なお、上記商用サイトへのリンクは自主的なものです。お買い物によって管理人に手数料等が入ることはありません。為念。

 BGM>Beautiful Brown Eyes

 




answer songs 読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 720()135743

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瀬名秀明「鶫とひばり」、山田正紀「火星のコッペリア」(answer songs所収)読了。
うーむ、わたし的には残念ながらどちらも今ひとつでした。
端的にいって前者は小説として「自走」するに至っておらず、後者は安易に「自走」してしまっているように感じました。
特に後者はストーリー的にアンフェアで、(主人公の感覚で)死んだはずの女性隊員のジェミノイド(アンドロイド)が帰途についた宇宙船内に「突然」出現するのはおかしい(実際は生きて活動しているのだから)。またこのジェミノイドは人間と双方向的に繋がっているタイプということになっています。事実「女性」のジェミノイドはそう主人公に説明しているのだが、そうだとしたら火星からホーマン軌道で地球に帰還する船は最大15分以上に達する・次第に引き伸ばされるタイムラグの影響を受けないはずがないわけですが(光より速い通信手段は原則ない)、このジェミノイドは即時的に反応している。またそのようなジェミノイドに対して「直観と洞察力」の有無を問うのもお門違いではないのか。ひょっとして作者はジェミノイドの設定をある段階以後アトム的なものと混同してしまったのでしょうか。

 




「日本資本主義崩壊の論理」  投稿者:管理人  投稿日:2008 720()000419

  返信・引用

 

 

小室直樹『日本資本主義崩壊の論理』(カッパビジネス 92)

なぜ日本では金融犯罪が頻発し、いかなる政治改革も無効にに帰するのか? それは資本主義の精神が未熟だからとし、それはプロテスタンティズムの倫理ではなく仏教のそれを代用した結果とします。ただし仏教自体にはそのような契機は存せず、鈴木正三の読み替えに求めているのですが、鈴木正三なんて私ははじめて耳にしました。そんな人の仏教読み替えが日本人の仏教倫理に影響を及ぼしたなんて考えられないと思うのですが。
というわけで、ほとんど政経講談の趣き。ウェーバーの解説は面白かったですが、日本資本主義を仏教資本主義に求めるのは無理があると思いました。プロテスタンティズムに対置できるのはせいぜいひと昔もふた昔も前の創価学会くらいではないでしょうか。

 




「梅田地下オデッセイ」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 719()160233

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堀さん
返信遅くなり申し訳ありません。昨日はぐでんぐでんだったので失礼しました。

>ゴローという名前は前作の赤ん坊の名前
あ、そうでしたか。朝起きて「梅地下」を再読しました。なるほど!
梅田の地下街がシャッターによって迷路化してしまう一種ゲーム的な趣向は憶えていたのですが、この話が(逆ラプラスの魔である)新種誕生(ミュータント)テーマであることは全く忘れてしまっていました。
今回読んでまず連想したのは、意外にもウィンダムでした。本篇はイギリスSF伝統の破滅もののヴァリエーションとしても読めますね(オールディスしかり、キース・ロバーツしかり、最近復活のコーニイしかり)。ただ主題はそこにないので、その方向には展開されない(する必要がないから)のが残念でした(読者とは勝手なのです。汗)。その破滅世界がファーマー「階層宇宙」的な<創造宇宙>ものの捻りであるのも面白いです。

いずれにしても、はばかりながら、ちと長さが足りませんな(>あ、すみませんすみません)
もっと紙幅があればゴローとチカコンとの虚々実々の騙しあいなんかもたのしませてもらえるんじゃないでしょうか。
そうか、チカコンに焦点を当てれば、ロボットSFですね。地下街というロボット(^^;

という風に、触発されていろいろ妄想が湧き上がってきます。で、そういう読者をして空想・妄想の境地にいざなう小説こそ、真の「傑作」の条件ではないでしょうか。その意味で、「梅田地下オデッセイ」(*)は紛れもない「傑作」だと思いました。

>ロボット開発は大阪が中心
あ、浅田先生ですね。梅地下オデッセイをロボットSFと読めば、ロボットSFの世界でも大阪が中心(^^)

(*) 「梅田地下オデッセイ」は堀さんのHPで閲覧できます→http://www.jali.or.jp/hr/katasumi-j.html

 




Re: 「笑う闇」  投稿者:堀 晃  投稿日:2008 718()223231

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> No.1377[元記事へ]

ご高評多謝。
今日、山田正紀『火星のコッペリア』公開で、「answer songs」の短編が出そろいました。
ぼくはゲラで事前に読んでいたのですが、他のが秀作揃いなので、ちと落ち込んでおりました。
まあ、大阪舞台のがひとつあってもいいかなという気分。
コメントふたつ。
・「梅地下」がらみ。番外編なのはその通りで、ゴローという名前は前作の赤ん坊の名前でもあるのです。(同一人物ではないですが)
・瀬名さんの『あしたのロボット』(文庫は『ハル』かな)は秀作揃いですが「ロボット開発は大阪が中心なのに、大阪を舞台にしたのがないのが不満」という感想を瀬名さんに話したことがあります。ぼくとしては、そちらへんanswerでもありました。

 




トレーン忌  投稿者:管理人  投稿日:2008 718()003441

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今日(厳密には昨日)はコルトレーンの命日でした。どこのジャズ喫茶もトレーン一色だったことでしょう。
当掲示板もささやかながらトレーン特集を(^^;。至上の愛パート1、パート2をお送りします(ただし時限アップロード。24時間以内に消去します)。お楽しみ下さい!

至上の愛

 [おまけ]youtubeより、
 ファラオ・サンダースNAIMA
 ライブ至上の愛

 




小松と高橋  投稿者:管理人  投稿日:2008 716()191034

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ブックオフで見つけた小松左京『机上の遭遇』(集英社文庫 86、元版82)より、高橋和巳関連の2編を読む(「高橋和巳の姿勢」、「「内部の友」とその死」)。
こんなエッセイ集があったとは今日まで知りませんでした。

高橋和巳が不治の病で「命旦夕にせまっている」のを小松左京が知ったのは、高橋の親族からではなく、SF作家のHからだったそうです(Hが星新一であることは文脈で明らかです)。
Hはとある編集者からそれを聞いたとのこと。Hによれば編集者はHに喋ってから、あ、Hさんは小松さんと知り合いだったんだな、とすこしあわて出し、実は高橋さんの家族から、小松さんには知らせないで欲しいと釘を刺されているから、小松さんには言わないでくれ、と釘を刺されたんだというのです。
いうまでもなくHと高橋和巳に繋がりはありません。Hはつづけます。
だけど、あなたと高橋和巳の関係は常々あなたからきかされているし、ぼくと君との関係も編集者はよく知っているはずだ。それを知っている上で、言わないでくれというのは、実はそれとなく知らせてくれ、という意味だろうと思って電話した……。

実は高橋家は(というよりも高橋たか子さんは)京大系の友人すべてに対して緘口令を敷いていたのです。小松左京のような朋友に大挙して関西から見舞いにこられては高橋が死期を覚ってしまうとの判断があったのは確かでしょうが、この辺の経緯については、今日の主題と関係ないので割愛します。ただ高橋が立命から明治に移籍し居を鎌倉に移したのを一番喜んだのはたか子でしたし、恩師吉川幸次郎の引きで和巳が京大へ戻ったときも、たか子は鎌倉に留まっています。

それはさておき、上記のような一種「ウラ読み」式の以心伝心的コミュニケーションは、我々の世代くらいまでは大体できていたと思うのです。Hは所謂ボンボンでそういうのはわりと苦手な方だったのではないかと想像するのですが、そのHにしてからがちゃんと編集者の意図を「察して」いる。

ところが最近は、そういうスキルが衰退してしまったのではないでしょうか。かかるスキルは、実のところ〈社会的関係〉のなかで鍛えられていくんですよね。
で、実は今日――と、私が今日目撃したある若者(といっても30前。しかし雰囲気は学生にしか見えない)の行動(といっても大した行動ではないのですが)について書こうと思った、上記はそのマクラだったんですが、なんか肝腎の本題を書く意欲がなくなってしまったので、これにて終了。
竜頭蛇尾お粗末m(__)m

 




「さかしま」  投稿者:管理人  投稿日:2008 716()013438

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円城塔「さかしま」(answer songs所収)、読了。
面白かった。素養がないのでヴォークト読みですが(^^)。ちょっとレムを感じました。いやレムに見えて実はラファティかも(^^;
「ひとつの不連続体」であるウルが実に魅力的です。「単語にひきずられた勝手な想像」がどんどん膨らんできて参りました。そこに進入するためには人間は何や知らん「数学的操作」で改変されてしまうところなどはW・S・バロウズを連想しました。
ところで上記とは別の(マルチプレックスな)意味で、本篇は「論理」(因果)の問題を扱っているように思います。そもそも「論理」(因果)とは〈連続体〉の上でのみ有効なんですね。連続体とは時間が流れる世界でもあります。不連続もしくは離散的な世界では、論理はそもそもありえません(時間もありえません)。

ここからちょっと飛躍しますが、その意味で、〈ウル〉とは「小説」のアナロジーとして読めると思いました。たしかに小説は「そこから情報を取り出されることにより拡大を続け、情報を押し込まれることにより」、すなわち解釈されることによって「縮小する」ではないですか!
したがってウル(小説)はこの連続的論理世界から遠く離れれば離れるほどよい。理想的な小説は因果律にも時間にもとらわれないものであるべきでしょう。とはいえウルと違って小説は人間の所産ですから、(人間である)作家がちょっと気を抜くと、いともたやすく微視的連続世界に取り込まれてしまいます(大衆小説に至ってはそれが要件となるわけですが、本来の小説はウルのようにして存在すべきなんでしょう)。それを回避するために、たとえばバロウズはカットアップといったシュルレアリスティックな方法論を持ち込んで自己の人間的連続性を可能な限り排除して連続性を切断しようとしたわけですが(バラード濃縮小説も同じ意図です)、ところが残雪などは、そんな手法に頼らなくても、もっとかろやかにしなやかに物語世界の因果性を切断していますね。その結果、因果律的世界観にがんじがらめになった読者にはきわめて読みにくいものであるわけですが、そうであればあるほど、ある瞬間(あるいは読了時)、ぱっと「判る」瞬間があって、その時感ずる一種のセンス・オブ・ワンダーは、けだし因果律の「ほどけ」なのかもしれません(ラファティはそれを天然でやっているのかも)。

本篇は残雪ほど読むのに難渋するようなことはなく、ヴォークト読みで筋が通ってしまうのですが、それがまた魅力的な世界になっており、マルチプレックスな作品といえるのではないでしょうか。

 




「古代中国と倭族」読了  投稿者:管理人  投稿日:2008 713()23090

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鳥越憲三郎『古代中国と倭族』(中公新書 00)

先述したように、著者のいう「倭族」とは、(ひと言も出てきませんが)《照葉樹林文化》の担い手のことです。〈文化〉を共有するのが〈民族〉ですから、(倭族という命名の当否はさておき)もっとも広義な意味では間違ってないといえましょう。まあ照葉樹林文化論とは異なり、稲作と高床式住居のセットに着目し長江中流を始原地とする点、その始まりでは同じ民族だった、ということでしょう。アーリア人みたいな概念か。
ところでこの「稲作と高床式住居のセットに着目し長江中流を始原地とする」という点では、『照葉樹林文化とは何か』の座談会における安田喜憲の主張とほぼ等しい。同様に山から平地への照葉樹林文化論に対して、安田・鳥越説は平地から山へ追い上げられて焼畑民化したと考える点で同じ。違うのは安田が苗族を長江文明の担い手とするに対し、鳥越憲三郎は苗族の住習慣に高床式住居がないところから、もともと苗族は黄河文明圏(畑作農耕文化)に属していた民族であり、逆にその南下で長江文明を崩壊させた張本人とする点です。このあたりは文献史学に詳しい鳥越説に軍配を上げたくなります。
私が気になったのは言語学的裏づけが皆無な点で(その点大野晋とは正反対)、アジア各地に分散した倭族、たとえばタイ族、クメール族、倭人、トラジャ族(!)の言語に共通性があるのかないのか(そういえば安本美典が日本語とモン・クメール語が近いと述べていたようなうっすらとした記憶が)、本書の弱点ではないかと思われます。
いずれにせよ気宇壮大な仮説で、残念ながらネットをざっと眺めてもアカデミズムには追随者がほとんどなさそうなのですが、大筋は妥当な議論ではないでしょうか。大変面白い。もうちょっと追いかけてみたいと思います。

 




「はるかな響き」  投稿者:管理人  投稿日:2008 713()17078

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飛浩隆「はるかな響き」answer songs所収)、読了。
クラークを再考する傑作です。
人間が意識を「自覚」する前に持っていた《宇宙》との一体感、それは〈私〉が萌芽した瞬間に切断される。宇宙内存在である人間はその瞬間、宇宙に在りながら・宇宙から弾き出されて〈宇宙を視る者〉となる。かかる自覚の生成過程は現象学者たちによってかなりの程度明らかにされてきたとはいえ、いまだ完璧な答えは出ていないようです(他者の確知から自己の発見に至る過程がまだ繋がっていない)。
本篇はそのような生成過程を自生としないことでひとつの壮大な「物語」を生み出しています。

ただ、現実に提出された作品自体は、有体にいってそのような傑作SFの〈要約〉でしかないように思われます。その結果、本来この「物語」が懐胎している筈の爆発的なセンス・オブ・ワンダーを、本篇は残念ながら解放し切っていません。ただ予感させるばかり。
すなわち本篇は長篇のエスキースなのです。本篇を埋め尽くす〈説明〉を〈描写〉に置き換え十全に長篇化(=小説化)なされた暁にこそ、言葉の正当な意味で「傑作」といい得るようになるように私には感じられました。
これはぜひとも長篇化していただきたいと思います。

 




「笑う闇」  投稿者:管理人  投稿日:2008 712()125153

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堀晃「笑う闇」、読了。
ここで読めます。→answer songs
ロボットSFのオリジナルアンソロジーのサイトのようです。

内容は、何とロボット芸人魂SF(^^;
ニュータイプの演芸を模索中の「メディア実験シアター」、まずは人間国宝大名人を7回忌(笑)*に、そっくりなヒューマノイドロボットで復活させ当てる。味をしめたシアターは、ゴローシロー**という実力派しゃべくり漫才コンビで相方のシローが亡くなって以来、高座に上がれなくなってしまっていたゴローに着目、シローそっくりなヒューマノイドロボットを作ってゴローと漫才させる企画をもくろむ。ロボット工学の粋を集めて完成されたシローに、もともと座付き作者兼演出家役であったゴローは稽古を繰り返す。それは一種の「魂入れ」だった……

いやこれはすごい! ロボットSFの新たな局面が開示されています。ロボットが相方と、瞬時に阿吽の呼吸で心を合わせ、三原則もなんのその、ついには「芸のためなら女房も泣かす」境地に達してしまいます。
出だしは眉村さん風になるのかと思っていたのですが、途中かんべさん的漫才分析的考察が加わり、結局最後はやはり堀ハードSFなのでした。人間を超える科学的技術的観念を突き詰めた先に、古い、というか生身の人間の感覚が再び見出されるというのが、堀さんの基本パターンのひとつだと思います。
ある意味「梅田地下オデッセイ」のエクストラヴァージョンといえるのですが、むしろ今後書かれるのかも知れない《梅田地下クロニクル》に組み込まれる作品なのではないでしょうか。私はそう予感しました(^^)

* 笑ろたらあきませんね(笑)。いやその……(汗)
**ゴローシローという芸名からサブローシローを思い浮かべるかもしれません。体型的には踏襲していますがモデルではないようです。

 




「照葉樹林文化とは何か」  投稿者:管理人  投稿日:2008 710()23526

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ディッシュに続いて工藤幸雄もhttp://mainichi.jp/enta/art/news/20080706k0000m040105000c.html
決して流麗な訳文ではなかったと思いますが、ゴンブロビッチとかシュルツとか、本当に訳して欲しいものを発見し訳してくれるセンスは、たしかに本物の文学者のそれでした。合掌。

佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』(中公新書 07)
諸般の事情で標記タイトルとなったようですが、著者の考えていたタイトルは「照葉樹林文化再考」というもの。明らかにリーチの「人類学再考」を踏んでいると私は思うのですが、編集者は知らなかったんでしょう。60年代後半から70年代にかけて京都学派が構築した壮大な仮説<照葉樹林文化論>ですが、それから30余年、考古学等の新知見(稲作起源地の雲南アッサム説の瓦解など)と間尺が合わない部分が出てきて<照葉樹林文化>自体の存在そのものが危機に瀕していたと思います。著者は照葉樹林文化と稲作文化を区別することで照葉樹林文化の延命をはかっています(かかる区別自体は、「稲作以前」という著書がある著者の年来の主張であり、慌てて取り繕うために提出されたものではないことは明記しておきます)。とはいえ巻末の座談会で安田喜憲が鋭く衝いているように区別することに意味があるのかという問題は残されている。また(水田)稲作が長江中下流から逆に雲南方面へ(東は日本列島へ)拡がったという流れは、長江流域から雲南を経て東南アジア(たとえばタイ族)への民族移動の流れと照応しており合理的ですが、照葉樹林文化が主張する文化の流れ(山から平地へ)とどう折り合いがつくのでしょうか。

いずれにしても高床式住居に住み、ネバネバした食感への嗜好など「きわめて多岐にわたる共通の文化的特色」を有するかなり均一な<照葉樹林文化>がネパール・ブータンから日本列島まで東西に長く拡がっているのは間違いありません。ただこれらの文化が伝播したのかどうか、私の読むところ、照葉樹林文化論は文化の伝播をアプリオリに措定しているように感じられるのですが、照葉樹林帯というよく似た生態系・環境の中では、同じような文化が同時多発的に発生することはないのか。その辺がどうなのかもっと知りたいと思いました。

鳥越憲三郎『古代中国と倭族』に着手。ここでいう倭族とは、どうやら照葉樹林文化(=稲作文化)の担い手を広く指した概念のようです。

 




ディッシュ逝去  投稿者:管理人  投稿日:2008 7 9()182248

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T・M・ディッシュが亡くなったそうです。享年68才。→らっぱ亭さんによるダトロワの追悼文の抄訳
オールディスとともにわが最愛・偏愛のSF作家でした。オールディスのシニシズムをさらに精密にしたような作風で、『334』がマイベストです。
逆にいえばオールディスの磊落さには欠けていて、読者層が下に広がらなかった。
日本ではSF読者の年齢が上がって、ようやくその面白さが浸透し始めていました(たぶん世界的にも同じような潮流があったのでは)。その意味でとても残念です。
それにしても自殺とは……。
引き金となったことは追悼文のとおりですが、背中を押した真の動機を知りたいです。書けなくなった? 書く場所がなくなった?
上記の理由で読者層が狭く、まず出版社から撥ねられるポジションの作家ではあったでしょう。『アジアの岸辺』収録の「本を読んだ男」や「第一回パフォーマンス芸術祭、於スローターロック戦場跡」を読むと、ディッシュの状況が何となくわかって、「ああディッシュ、売れてないんだな」と実感したことを思い出した。あるいは亡くなったパートナーの収入に依存していた?(たとえば本多さんはパートナーではなく助手でしたが、もし本多さんがあまりの勝手わがままに愛想をつかせてしまったとしたら、中井はどうだったかと考えます。もちろん実際はそんなことは起こらなかったわけですが)
などといろいろ浮かんできます。しかしあれやこれや忖度しても詮ないことに違いはありません。ただ空しいばかり。がっかりでがっくりです。冥福を祈るような気持ちにもなれません。

   Tom, get your plane right on time

 




トップシンバル  投稿者:管理人  投稿日:2008 7 9()000248

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堀さん
>「午後6時までは私語禁止」
あ、そうか、トップシンバルへは社会人になってから通い始めたので、入るのは大概お酒タイムになってからで、しかも座るのは大体カウンターでしたから、マスターも声をかけてくるわけですね。

>どうやら8月末で閉店のようです
そうなんですか。さびしいですね。私も閉店までにもう一度行って来ようと思います。

駆け込み寺が衰退したのは、なにも駆け込み寺に駆け込まずとも、自室にひきこもっておれるようになったからではないでしょうか。

佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』(中公新書 07)読了。感想は後日。

 




Re:ジャズ喫茶考  投稿者:堀 晃  投稿日:2008 7 8()062713

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モラスキーさんが前著で「挑発的」に書いたのは、例の私語禁止型ジャズ喫茶で、これを60年代の主流「寺」……戒律厳しい空間で規則を遵守して修行する……と考えたわけですが、意外にも「駆け込み寺」としても機能していたということですね。
今年2月にモラさんと初めてトップシンバルへ行きまして、「午後6時までは私語禁止」、その後で色々話を聞きました。
まだこのスタイルが守られている店が残っていたことが逆に嬉しくなったものです。関西では唯一でしょう。
が、そのトップシンバル、どうやら8月末で閉店のようです。
近いうち、また行ってみるつもりです。

 




ジャズ喫茶考  投稿者:管理人  投稿日:2008 7 8()02002

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堀さん、投稿ありがとうございます。

私がはじめて行ったジャズ喫茶は天王寺駅北口の、予備校へ通う道すがらにあったMUGENというジャズ喫茶で、毎日のように入り浸っていました。行けば最低でもLP3〜4枚は聴いていましたですね(当然片面ですが)。大学4年間も、天王寺は経由地点だったので通いました。社会人になり天王寺を通らなくなっても、休日にはわざわざ出かけていったものでした。しかし次第に通わなくなり、あるとき久々に寄ってみたら閉店していました(トップシンバルに行き始めたのはその後です)。
確かに、あの薄暗い空間に入ると、ほっと落ち着いたように思い出します。私自身は「私語禁止、ミイラみたいにLPのジャズを聴く」スタイルは好ましかったです。知らないジャズを聴いて勉強するというのが第1義でしたが(モラスキーさんは顔をしかめるでしょうか)、他人とひと言も喋らなくていい数時間というのも、それと同じくらい重要な要素だったかもしれませんね(トップシンバルはマスターがいろいろ話しかけてくれるので第1義的にいえばありがたい反面、「場」の意味ではちょっと、という感じです)。
そうしますと私の場合は、いわば人間(じんかん)にあることのストレスをジャズ喫茶で解消していたといえるように思われます。次第に行かなくなったのは、ツラの皮が厚くなってきてそういう場を必要としなくなったからかもしれません。そういう意味では、私にとってジャズ喫茶は「社会につながる場」というよりは「社会から切り離される場」であったように思います。
私にとってそのような場であるジャズ喫茶を、むしろ「社会につながる場」として感ずるというのは、これは相当(私などよりも桁外れに)対人関係に苦しんだ人なんだろうなと感じました。
それにしてもジャズ喫茶はどうして衰退したんでしょうね。私のようなものから上記のような方まで、そのような場を必要とする人は確実に存在する筈。むしろ自己責任等、社会のテンションがきつくなっている現在のほうが、必要とする人は増えているのではないかとさえ思われます。
あるいは、バブルとかジャパン・アズ・NO1を謳歌した80年代(〜90年代前半)のゆるゆるの時代に、一時的にジャズ喫茶的な空間はあまり必要とされなくなり、衰退してしまったということかも。その後、社会的テンションは再びきつくなりましたが、しかしそのときには既にジャズ喫茶はなくなっていたということではないでしょうか。

 




Re:ひきこもり考  投稿者:堀 晃  投稿日:2008 7 7()214919

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昨日、天六のワイルドバンチでマイク・モラスキーさんのトーク・イベントがありました。
テーマは「日本のジャズ喫茶文化」。
前の『戦後日本のジャズ文化』で、モラスキーさんは、60年代の「私語禁止、ミイラみたいにLPのジャズを聴く」ジャズ喫茶に「ジャズの自由」とは相容れないと、かなり挑発的な論評をやったわけです。
それに関して、幾つかの懺悔?もあり。
そのひとつ。
ある人から聞いたつぎのような述懐。
「私は対人関係が苦手で、ともかく自室のこもっていたかった。ジャズ喫茶に入った時、他から意見を求められず、対話を強制されず、しかし黙って同じ空間で共生できることに救いを感じた」……正確ではないけどそんな主旨。
モラさんの話は、オタクが秋葉原に「集結」する意味につながるわけですが。
ジャズ喫茶の衰退が「社会につながる場」を失ったのかなと感じたのでありました。

 




ひきこもり考  投稿者:管理人  投稿日:2008 7 6()203941

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「ひきこもり」は本人にとればこれほどのユートピアはないわけです(抑圧されたものを考えなければ)。問題のひとつはその家族が大変な負担を強いられるところにあり、40歳のひきこもりを養う親はおそらく70歳を超えている。もっとも70歳の親であっても資産家ならば一向に痛痒を感じない。斎藤環がいうとおり、そういう親を持つひきこもりは安心して引き篭もっていればよいわけです。
でも大半はそうではないでしょう。自分たちが受け取るなけなしの年金から、さらに工面して引き篭もりの40歳の子供を養っている。しかも自分たちが死んだ後、この子はどう生きていくんだろうとの心労もはかりしれません。
そういう家族の苦しみを度外視すれば「おせっかい」「余計なお世話」といいえるでしょうが、そのような言は、「ひきこもり」に理解があるようで実は第三者的なのであり、家族の苦しみが見えていない視野狭窄に他ならないように私には思われます(「おせっかい」として退けておいて、では養ってくれていた・金づるの・親が死んでしまった暁に、この人はひきこもりの、そろそろ初老になろうかという子に対して、どういう言葉をかけるつもりか)。たぶん周囲に本当の「引き篭もり」がいない人なんでしょう。いうまでもなくアルバイトであれ就業についている人は定義的に「ひきこもり」ではありません。
かように上記のような幸福な例外を除き、「ひきこもり」は「解決すべき社会問題」に他ならない。

以上は「本人」そのものは第2義的な視角から述べました。次に「本人」にとってもひきこもりは「甘美な快楽」とはとんでもない「地獄」であることを述べたい。
たとえば5歳のとき誘拐され誘拐者の部屋に20年監禁されていた人がいるとします。おそらくこの人にとり世界とはその「ひと部屋」の謂なんです。逃げ出したいなんていう動機は発動しないはず。
あるいはアマラとカマラのような動物に育てられ、救出された子供たちというのは極端な例かもしれませんが、構造は同じ。発達が阻害され「社会」が構成されません。社会化を何らかの要因で疎外されることによる不幸は気の毒という言葉もむなしいものだと思います。
木村敏がいうように、生物的「ヒト」は人間(じんかん)に交わってはじめて「人間(にんげん)」と「なる」のです。人間とは社会にあって獲得されるものです(現存在)。その意味でひきこもりは現存在からの疎外態といえる。有体にいってひきこもりは、人間として獲得するチャンスを放棄するものであり「損」です。
そういう意味でも「ひきこもり」は、原則として(たとえそれが本人にとり苦痛であっても)社会に投企さるべきなのです(言うまでもなく精神疾患によるものは定義的にひきこもりには含まれない)。大体社会に出るというのは誰でも苦痛なんです。私自身、もし親に余裕があればひきこもっていたかった。でも時代的にもそれは許されず、嫌々社会に出た。私に限らず今普通に社会人として一人前の顔をしている人たちのなかには、もし今の時代だったらひきこもっていたに違いない者が少なからず雑じっているはず。この事実は現在引きこもっている人の大半は無理矢理社会に放り出されればそれなりに(擬似的に)やっていける(そういうテクニックを身につける)。そして死ぬときには、吉田拓郎ではありませんが「来てみてよかった、君がいるから」と思うに違いない(君とは社会もしくは他者です)。体験的に私にはそれが確信できるのです。

追記。ひきこもった当の本人にとって、ひきこもりという状態は決して「甘美な快楽」ではありえない。親に養われている申し訳なさ、将来への不安、自身の不甲斐なさ等々で心はがんじがらめになっており、それらを直視したくない気持ちがさらに擬似離人症的な不活性化に自分自身を追い込んでしまう。最終的にはそれが地獄であることすら忘却してただ(「関係」から切り離されて)ふわふわと存在するのみ。それはまた別の意味で「ユートピア」なのかもしれません。ハクスリの「素晴らしき新世界」がユートピアならば。

*その一方で共依存によりひきこもりへ引き込まれてしまうケースもあるのですが、それについてはまた改めて。

 




Re: 昨日は楽しい時間でした  投稿者:管理人  投稿日:2008 7 6()004615

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> No.1368[元記事へ]

SF住職さん
昨日はお疲れさまでした。飲みすぎましたねえ。おかげで今日は朝から頭痛。昼飯食ったら治まるかと思っておりましたら、後頭部というか"ぼんのくぼ"が次第にずきずきしだして、触ってみると熱を持っている(直ぐ下の首筋は平温)、や、これは熱中症ならん、そういえば去年もなった、と慌てて湿布剤を貼るも、しかしそれではみっともなくて外出もできないと、玄関で思い返して引っぺがし、替わりに車をガンガンに冷やして仕事に出かけたことでした。飲みすぎと高温多湿の相乗効果でしょうか。
もともと熱の放散システムが弱く、マラソン(というか長距離)は苦手でしたが、何年生だったか高校のマラソン大会が雨天に決行されたことがあり、そのときは自分でも驚くほどよい成績だったことを今思い出しました(雨がラジエター代わりになったわけです)。とはいっても一昨年までは熱中症など患ったことがなかった、やはり年齢による衰えでしょうか。今も濡れタオルを首に巻いてクールダウンしております(^^;
とまあ、今日はそんな感じでした(笑)。

>また遊んでやってください
ぜひぜひ。

下のリンクは、お話したGiant Stepsのyoutubeです。
  Gaint Steps

 




昨日は楽しい時間でした  投稿者:SF住職  投稿日:2008 7 5()21115

  返信・引用

 

 

久しぶりの旭屋から曽根崎界隈のコースで○十年前を思い出しました。それにしても飲みすぎでした。次の日は8時前から車で出かけて、さらに法事ではちょっと受けをねらった話をしたら、そのあと未亡人の方のあいさつが、「まだ主人がいるようで・・・。」と涙されて完全に浮き上がってしまいました。まあそんなこんなで毎日やってますので、また遊んでやってください。

 




飲み会  投稿者:管理人  投稿日:2008 7 5()031855

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今日はSF住職と飲み会。前回会ったのがオーネット・コールマンのコンサートだからずいぶん久しぶり。お互い自営業者(?)なのでなかなか時間が合わないのである。たよし→ニューサントリーファイブ。このパターンもずいぶん久しぶり。藤本泉『秘聞一向一揆』について意見を交わす。本職の意見は意外と厳しいのであった。サントリーファイブは河村孝彦トリオ・プラスヴォーカル(松浦みゆきさん?)。ベーシストが女性で珍しかったのだが(HPでは「じんごろう」となっている。変わったのかな)、はきはきした強い音を出していてなかなかよかった。ストレートで5杯くらい。飲みすぎか。帰宅後バタンキュー。今頃目が覚めてこれを書いている。また寝るのである。

 youtube>本遇寺の除夜の鐘

 




暑かった  投稿者:管理人  投稿日:2008 7 4()00314

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今日はむし暑かった。まるで水中にいるのか空気中なのか判らないようなこの湿気は大阪地方特有なんでしょうね。車でも今日は冷房かけっぱなし。三日坊主なのであった(汗)。
というわけで、シンプルなロックとビールで暑気払い中。
   Joy to the World
   Black and White
   Old fashioned Love Song

 




計算して驚く  投稿者:管理人  投稿日:2008 7 3()00187

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今日も冷房をつけずに窓全開で走る(日光が直射するときは我慢できずに使いましたが)。
なかなか新鮮。木材団地の付近を走っていると材木の匂いが漂っていました。当たり前っちゃ当たり前なんですが、これまで全然気づかなかった。車が密室であることを実感しますね。

まあそれはそれとして……計算してみました。私は年間1万2千キロ走らせます。今のっている車はリッター12キロ以上走りますので年間使用量は1000リットルとなり、ガソリン、リッター175円としても、年間17万5千円ガソリン代を使う計算になる(さらに値段が上がればもっとかかる)。
底値のときはリッター90円台でしたから、ガソリン代は9万円〜10万円だったわけで(車の燃費はかなりよくなっているのですがとりあえず無視)、その頃からすると7万〜8万円負担増になっているのか、、、うーむ。


BGM>Kodachrome  The only living boy in new york
   Melody Fair  In The Morning

 




セルフスタンドでレギュラーガソリンを注入していると妙な話が浮かんできた  投稿者:管理人  投稿日:2008 7 2()005939

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しまった昨日入れとくんだった(ーー;

ということで、ケチってクーラーをかけず窓を開けて走っています。橋で繋がった埋め立て島の工場地帯を走っていると、あちこちから鳥の囀りが聞こえてきて、こんなところで棲息しているんだなと、妙に新鮮でした。
ところで、それはそれとしてガソリン税の一般財源化というのは不公平ではないか。我々のような田舎の住人にとって買い物に行くにしても車は生活の必需品で、なくては生活できません。都会の人は車などなくても一向に困らないでしょう。これは「公共交通に不自由な弱者」に対する不公平税制といえるのでは?
平等5%で一種の固定費といえる消費税が低所得者を直撃するのと同じですね。奢侈品と生活必需品の税率が一律同じというのはおかしい。違っていて当然のはず。
消費税に頼るのではなく、昔のように所得税に対する累進税率の強化によってお金持ちに頼るべきではないか(外国では、富豪の社会的喜捨に対するインフォーマルな強制力が潜在していますが日本にはない)。そんなことをしたら金持ちはみな海外へ移住してしまうという懸念に対しては、「愛国心」に訴えるのです。これは街宣活動が得意な右翼の皆さんに頑張っていただきたい。
というような豊田風ショートショートを考えたのですが、書くのがメンドーなので、アイデアだけ開陳させていただきました(^^;

 




「DNAから見た日本人」  投稿者:管理人  投稿日:2008 7 1()00057

  返信・引用

 

 

朝ミラは今日が最終回だったんですが、月末で聞くことあたわず。仕方がないけど残念。ともあれお疲れさまでした。

斎藤成也『DNAから見た日本人』(ちくま新書 05)をぱらぱらと摘み読み。
この本に、日本人はどこから来たか、とか日本人とは何ぞや、という問いに対して、こうだという断定的な答えを期待してもだめです(^^; いかにも理系的な記述で、自説の補強のためにデータを恣意的に使うのではなく、データに語らしめるばかり。そのデータにしてからが、DNA、骨、言語では指向する方向が異なり、読み終えてからのほうが、より混迷が深まってしまいました(^^;

ただ山東省臨シの、2500年前、2000年前、現代のミトコンドリアDNAサンプルを比較すると、2500年前はヨーロッパ現代集団に近く、2000年前は中央アジア現代集団の範疇に属し、現代は(まあ当然ですが)東アジア現代集団に遺伝的に近いという結果になるようで、これは妄想を刺戟されました。
2500年前は斉の後期です。太公望は宮城谷昌光によれば羌族となっていますが、あるいはトカラ語族だったのかも。
2000年前は前漢末期の衰退期で、匈奴の一派が南下していたのかも。とすれば匈奴は現在の中央アジア系(トルコ系?)に近かったのかも。
いろいろ妄想をかきたてられます(←文系だなあ)。

 



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