横田順彌『寒い国へ行きたくないスパイ』(徳間文庫 85)
たとえば「月の法善寺横丁」は、<ハチャハチャSFのつくり方>を解説するという趣向なんですが、これなんか逆向きに見れば、ハチャハチャを(自らは)書きたくないので、このような形式にしただけのように思われます。
初出誌一覧を見ますと、「月の法善寺横丁」(アドベンチャー83/6)のあとは、「話にならない話」(同誌83/8)、「続・話にならない話」(同、83/10)となっており(この2篇は小説が書けないので、というエクスキューズのもとに語られるいわゆる雑文の形式)、全く小説化を放棄した形式が続いている。
そしてそのあとにつづく「中村一郎の場合」(小説別冊宝石84/5)にいたっては、ハチャハチャSFとして小説化を完成する、そのひとつ手前のシナリオをそのまま発表していような作品なのですね。本集の中では一番新しい「異星の客」(アドベンチャー85/4)もそのような傾向が感じられ、有体にいって作者のあらすじメモに毛を生やしたようなものです。本来ならばこれらの地点から、小説化(ハチャハチャSF化)が始められなければならないのです。なんというかハチャハチャを書こうとしても正面から立ち向かえないような心理的抑制があるとしか思えません。
「緊急手術」や「必殺ホース固め」や「異星の客」などは、このアイデアで十分100枚程度のハチャハチャに出来るはずなんですけどね。これらの作品は、たとえば主人公を荒熊雪之丞に変えるだけで、自動的にハチャハチャSFになるのではないかと素人目には思えて仕方がないのですが。というか副主人公たちがよってたかってハチャハチャにしてしまうに違いありません。
ということは、結局作者自身がハチャハチャにはしたくないという強い意志があったか(これは下に推測したとおり)、何らかのトラウマでハチャハチャに向かい合えなくなっているか、いずれかではないのでしょうか。(備忘)
まあこの一文ような、ヨコジュンにはハチャハチャを期待する(ハチャハチャしか期待しない)読者や編集者への反発が、大きく作用しているのかも。
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