ヘリコニア談話室ログ(2008年12)





今年最後の投稿  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 1()002130

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-1を見終わった(まだやってるけど)。4時間近くずーっとテレビを見続けたのは去年のK-1以来です(笑)。つまらない試合はあんまりなくて(キン肉マンと武蔵くらいか)結構面白かったのだけど、K-1甲子園が一番よかった。去年も同じような感想を書いたっけ(^^;

今年の読了数は93冊。内訳は小説海外14冊、小説国内66冊、非小説13冊。去年68冊なのでまあよく読めた方でしょう。

今年のベスト5(但し暫定)は――
  川上未映子『先端で、さすはさされるわそらええわ』
  笙野頼子『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』
  高野史緒『赤い星』
  堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』
  眉村卓『司政官 全短編』
女性作家で統一してみました(眉村さんは当然別格)(^^;

今年最後の読了本は『原魚ヨネチ』、年越し本は『イスラム急進派』。

『原魚ヨネチ』の感想はこれから書くつもりですが、酔っ払っているので寝てしまうかも。考えてみれば「原魚ヨネチ」を参照して読み返すと書いた段階で、到達する結論は一つしかありません。わかる人には判ったのではないでしょうか。いやもちろん書きますけど……最後の最後でポカして予定が狂っちゃったなあ(ーー;

ということで今年もご愛読ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。といっているうちに既に年が変わっていますが(^^;

 





気を取り直して  投稿者:管理人  投稿日:20081231()181528

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元文章では、まず「ループ式」、「アプト式」、「スイッチバック式」の<トロッコ三部作>が、芸達者な著者の、多様な作品群のなかで、デビュー第2作「背(せな)で泣いてる」に端を発する<抽象小説>の、一つの達成であったことを縷々解説していたのですが、割愛。

次に、著者の<抽象小説>の特徴として、本来小説がストーリー(出来事)の深層に潜在させている一種の関係構造をストーリーから抽象することで顕在化してそれをそのまま提示するところにあり、しかしそれはしばしば、結果として「まんま」なものとして読者に認識されることを示した。たとえば三部作においては、突き詰めきれば、「兄貴、やっぱり山は世間でレールは人生やなあ!」(「スイッチバック式」243p)というひと言に集約できるわけで、世評は大方このレベルで評価されているようだ、というようなことをもっと細かく説明していたのですが、これも省略。

しかしながら「原魚ヨネチ」を読んだ目で振り返れば、もっと別の視界が開けてくるのではないか、ということでここから(多分新説であろう)本論に入ります。

これから家族的行事が続くので、更新は深夜の予定。

 





ガーン!!  投稿者:管理人  投稿日:20081231()134337

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今トロッコ三部作の感想を書き上げて、登録しようとしたつもりが消去してしもた。


神がかりで書いたので復元できるかどうか……立ち直れない。

 





「原魚ヨネチ」より(7)  投稿者:管理人  投稿日:20081230()171050

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「原魚ヨネチ」を読む。初出はSFアドベンチャー。これは幻想小説でしょう。非常に視覚的な作品で、描かれるシーンはさながら幻想的な図像が物語様に綴れ織られたタペストリーの質感があって、その美しい表面を眺めるだけでも楽しいのですが、もとよりそれだけの話ではありません。

原古、人間は「ケシモの海」に船を漕ぎ出し海の幸で生活していた。この海は深く、最深部では500キウス、平均でも300キウスあることが知られていたが、なぜか人間(や有機生物)は10キウスより深く潜航することができなかった。その深さに不思議な境界面が存在したのだ。
伝説では原魚ヨネチが、あるとき現れて人間に対して境界面より下方の海を閉ざすと宣言し、それ以降境界面より上の世界と下の世界は分離してしまったのだといいます。

釣りの餌は海面いたるところに浮遊するワシスという海虫で、なぜこのワシスが餌なのかというと、このワシスのみが境界面を突破して沈降することができ、境界面下に棲息する大型魚類を食いつかせ釣り上げることができたからなのです。

実はこのワシスは思惟の力を持っていた。ワシスは原魚ヨネチによって(人間の脳から)創造された生物で、人間がワシスの知性に気づいたとき、封印は解かれることになっていたのです。
しかし人間はいつまでたっても「隣人」の存在に気づかず、そのうち道具(テクノロジー)を工夫し始める。
釣り人ワスビルは歯車を組み合わせて巻き取り機を発明し、深海へ挑むのだったが……それは原魚ヨネチが望んだ他者との共感による道ではなく、別の道を歩み始めるということに他ならなかった。その道の行き着くところは人類の「破滅」だったのだけれども……

つまり本篇で著者は、ガス灯、蒸気船に代表させた18世紀以降の急速な物質文明の発達(進歩思想)が拙速であったという認識を示しているようです。順番を踏まない一足飛びの文明化、「近代化」が、おそらく宇宙時代に至って、「その行き着くところは、すなわち錯乱と分裂と、そして――破滅」(302p)をもたらすであろうと、慧眼にも1980年の時点で予言していたのです!

はたせるかな著者の予言は的中し、宇宙時代の到来というべきこの21世紀のグローバル化した世界の状況は、まさにこの世界が、釣り人ワスビルが巻き取り機の力を借りて引き上げた世界そのものだったことが明らかになりつつあるように、私には思われてなりません。

 





「原魚ヨネチ」より(6)  投稿者:管理人  投稿日:20081230()11497

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「貸借対照日」補遺。
岩波新書の『イスラム急進派』を読み始めているのですが、アラブの大富豪の子弟はエリートとして西欧(欧米)で教育を受け(色は浅黒いが)殆ど白人の心性をもっていたと思われます。アチャメトにはこのような脱宗教化したアラブ・エリートの(うちの悪しき部分の)イメージが投影されているように思われます。とすれば監察委員の腕章を巻いたアラブ人は差し詰めイスラム原理主義者なのかも(本篇発表の丁度一年前にイランホメイニ革命が成就している)。メモ。

 





「原魚ヨネチ」より(5)  投稿者:管理人  投稿日:20081230()023722

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「貸借対照日」は<小説クラブ>初出。

「ラーメンからミサイルまで」、金儲けのためなら手段を選ばない総合商社を皮肉った小品です。もしくは社会関係の複雑化国際化(グローバル化)による間接性の増大が無自覚な加害者を生ぜしめる構図の顕在化。
「実験的」な作品が集められた本作品集の中においては、本篇はやや異質な作品。つまりは軽い読み物風なのだが、それは形式(スタイル)にも文体(スタイル)にもいえる。有体にいえば筒井康隆が初期に中間雑誌に書きまくっていたような、もしくは豊田有恒のコンサルタントシリーズのような、そんな作風にきわめて近い。

この時期の著者は、どこかのブログに書かれてましたけど(今確認しようとしたけど見つけられなかった)「尖がって」いた時期らしい。確かにそれは私も感じました。向かうところ敵なしの余勢を駆って実験的な方向へどんどん分け入っていたことは本集を読めば分かります。

あるいは編集部のたっての注文だったのかも>「うちの読者は難しいのはダメなんで」(^^;

総合商社員の俺は、東南アジアに商売の手を広げる大財閥の御曹司アチャメト(名前からしてアラブ系かイラン系?)とは大学以来の友人。そういう関係で、会えば仕事と称して遊び倒している。そんな二人の、前夜の痛飲で二日酔いの酔眼が目撃したのは、自分が具体的にいかなる犯罪を犯したのか知らない男が公開処刑される現場だった。いつの間にこの日本にこんな蛮行が? そこにアチャメトと同国人らしき男が「監理委員会」の腕章をつけてあらわれ、お前たち二人も同罪なのだというのだった……

私は、これはショートショートのアイデアだと思います。25頁(40枚)はこのアイデアでは長い。前半の(腐れ縁を説明する)ホテルのシーンがなくても成立するのではないか。むしろアチャメトと俺の関係を腐れ縁でなく真っ当な経済関係に設定しておいた方が、最後のオチはより「一般性」を読者に納得させるのではないでしょうか。70年代あたりからのこういう心性が21世紀の今の日本の心性のベースになっていると私は思うのですが、その意味で著者の糾弾はまことに予見的であったというべきで、面白くなかったわけではないが、ややモヤモヤも残る作品でした。

 





「原魚ヨネチ」より(4)  投稿者:管理人  投稿日:20081228()174159

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「そらあかんわ戦記」は<小説現代>初出。
これは多分モデルがある。あるいはモデルは複数あるのかも知れませんが、ともあれ「取材」に基づく小説であるのは間違いないだろうと思われます。
たしかに無類に面白いのですが、本篇の面白さは「事実」の面白さであるように感じられるからです(まあ<小説現代>的にはふさわしい)。
そして、本篇をとおして、著者は「悲惨な戦争も見方を変えれば面白い(面もある)」というSF特有の多元的なものの見方で、当時の(今はかなり事情が異なっているかも)支配的な(すなわち検証されず信仰された)言説を横から揺さぶっています。こんな表現があるのかどうか知りませんが、良篇と呼びたいと思います。

ただわたし的には、この無類のエピソード群は、いったん現実の戦争から離して、SF小説において使用しなければもったいない、とも思いました。
私の希望をいえば、『馬の首風雲録』的な遠未来宇宙での戦争に巻き込まれ翻弄される主人公という設定のなかで、これらのエピソードは読みたかった。一種のホメロス的神話譚のイメージが、今私の頭の中で渦巻いているのですが(^^ゞ

 





「原魚ヨネチ」より(3)  投稿者:管理人  投稿日:20081228()171324

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「事件関連死者控」は<SFアドベンチャー>初出。読んだことがあるのを思い出しました。
内容は、ある年の5月から翌年の年末までの1年半にわたって、東京を覆うように(川崎−船橋−松戸−浦和−大宮−三鷹−川崎を結ぶ線の内部)存在した「現場」において、それに関連して発生した死者の控帳です。まさに控え帳そのもの。何のだれ兵衛が、どこそこで、いかなる原因により死亡したかを、ごく簡単に数行で記載したものです。

これを読むと、「現場」が、最初は川崎で発生し、ぐるりと東京都心を囲むようにひろがっていき、その後都心部に向かって内側に拡大していったことが分かります。
「現場」とはなにか。具体的な説明はありません。それは突然発生し、接触すると人間なら熱傷、家屋は火事になるとあるので、多分高温の〈空間〉なんでしょう。私は『ストーカー』の〈ゾーン〉のごときものを想像しましたが。

で、この記録を仔細に読みますと、「現場」の発生から収束に至る1年半の東京の、住民の避難行動を中心に様々な事件が起こったことが読み取れるわけです。さながら都心パニック小説の始まりから終りまでの「記録」を読んでいるような気分になってきます。

たとえば岩本博樹(28)は立ち入り禁止区内に家があるため妻子の安否を気遣って進入をはかり死ぬのですが、家族は千葉大園芸学部校舎に避難済みでした。
夏目弘雄(32)は勤務先が立ち入り禁止区内に含まれたことを苦にして自殺する。事務所に翌日支払わなければならないサラ金返済用現金を置いていたためと分かります。
このような人間模様や、「現場」発生によって生まれた終末思想的な新興宗教の信者が集団で「現場」に突入したり、そんな1年半の間に継起したいろいろな出来事が、この控え帳から読み取れる。小説でストーリーに沿って読む否読まされるのとはまた別の興趣があります。

つまり本篇は、パニック小説を「死者控え帳」という形式に「抽象化」したものであるのですね。死者名とその死因のみが抽出され、爾余はすべて「捨象」されたものが、本篇なのです。そういう形式を採ることにより、リニアな<ストーリー>では味わえない不思議な面白さが表現されています。
けだし本篇もまた、小説の異化作用ならぬ、小説そのものの異化を志向した「実験小説」であるといえる。だからといってエンターテインメントではないかといえばそんなことはない。メチャメチャおもろいのです。

ただ全面的に誉めるわけにはいかない。大いに問題があるのです。本篇はたった16ページしかない。たしかにこれをリニアな小説に仕上げればそこそこの長篇になるんでしょう。しかしそれではいけません。本篇の方法論により、長篇小説一冊分を16ページで表現できることが判りました。そうであれば、逆に長篇小説では長大になりすぎて書き上げるのも至難、読むのも困難というような物語を、本篇の方法論により圧縮して読者に提示してこそ本篇の方法論は生かされるのではないでしょうか。つまり眉村さんの方法論のバックを取るわけです。すなわちノンフィクションな記録文学ならぬ、精細を極めるフィクションの記録SFであります。多分精細になればなるほど面白さもセンスオブワンダーも飛躍的に拡大するはず(^^)
そのような作品を、改めて著者には期待したいと思います。

 





今年も終わった  投稿者:管理人  投稿日:20081228()00274

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今日でいちおう仕事納め(一応というのは電話が掛ってきたら対応せざるを得ないから)。やはり12月はかなり悪かったとです。来年が怖ろしか〜。

『原魚ヨネチ』「事件関連死者控」と「そらあかんわ戦記」を読みました。感想は明日にでも。

疲れたので今日はこのへんで。

  BGM  

 





「原魚ヨネチ」より(2)  投稿者:管理人  投稿日:20081224()215844

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「父からの手紙」と「議事ひきのばし」を読む。トロッコ三部作は最後にまとめて。

「父からの手紙」は<週刊小説>初出。著者には珍しいというか、ある意味、らしくないストレートな話で、その分中間小説誌っぽいとはいえるかも。
これはおそらく自伝的要素もあるのかもしれません(豊田さんの「渡り廊下」のような)。
生まれたばかりの子供を見ているうちに、主人公は、20年後成人したその息子に向かってある手紙を書くことを思い立ちます。それは主人公が社会人になりたての頃体験した或る不思議な現象についてだった……

目立たない階段を降りたり昇ったりすることで別の時間(おおむね過去)に移動するモチーフは、眉村さんも時おり使われますが、本篇でも効果的に利用されていて、主人公(著者?)の、中学時代に亡くなった父親へのオマージュが瑞々しく伝わってきます。
中学時代の英雄的(にみえた)父親。死後その反動で父親が彼のために残していた「遺書」を破り捨ててしまった主人公。読まなかった悔恨。息子への手紙という行為はそういうことから内発した一種の補償作用だったのでしょうか。

「議事ひきのばし」は、反対派が議案の採決を時間切れ廃案に持ち込まんと送り出されたいささか精神分裂気味の男の孤軍奮闘を活写したまさにかんべ調というべき屁理屈・牽強付会のオンパレード。
注目すべきは、この廃案化しようとしている議案が一体具体的になんであるのか、そもそも進行中の当の会議が、株主総会なのか議会なのかはたまた銀河連邦最高会議なのか、何の説明もない。ただ進行中の会議があるばかり。つまり設定がきわめて「抽象化」されているのです。

これは「牢名主」の設定もそうで、実はかんべSFの一大特徴といえるものなのです(トロッコ三部作がそのもっともうるわしい典型例)。
つまり(そこが国会であり、野党が抵抗しているといったような)具体的な設定には興味がなく、ただそれから抽象化された(抽象とは逆にいえば捨象です)関係性(構造)にのみ関心が向かう。
中間小説というのは、そのような具体的な(表層的な)「出来事」をえがくものですから、かかるかんべの創作態度は実は中間小説からは遠く隔たったものというべきで、むしろ「実験小説」と呼ぶべきものといえる。だからといってエンターテインメントではないかといえばそんなことはない。メチャメチャおもろいのです。
ただしその面白さは「九分九厘その気になったということは、残りの九割一厘はその気になっておらんということで」(131p)といった、とんでもない屁理屈、理屈によって理屈を崩してしまったりするところにあり、これは気をつけて読まないと、ともすれば気がつかずに読み落としてしまう。かんべ小説の面白さは細部に宿るというのはそのような意味でもあります。

なおこの部分、私自身初読時には目が滑って読み落としていた。前記ブログによって教えられ、且つ「九割一厘」の逆説たる所以を教示されたのでした。

 





年賀状完全版  投稿者:管理人  投稿日:20081223()172659

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今年の年賀状業務はすべて完了。これから投函してくる。

や、いま『幻影城の時代 完全版』が届きました(^^)

 





「原魚ヨネチ」より(1  投稿者:管理人  投稿日:20081223()121648

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「牢名主」と「鏡人忌避」を読む。
うーむ、私はこの作品集を読んでいなかったみたいです(汗) 上記2篇、初読でした。トロッコ三部作が収録されているので読んだつもりになっていたのかも知れません。トロッコ三部作は<奇想天外>が初出ですが、他に見覚えのある作品も、「議事ひきのばし」が<SFM>、表題作が<SFアドベンチャー>と、すべて初出がSF専門誌でしたので、雑誌で読んだ記憶がごっちゃになってしまっていたようです。

「牢名主」は<小説現代>初出。いかにも中間小説誌的な設定ですが、<群像>に掲載されていても不思議ではない内容です。

どことも知れない4畳半の部屋で「待機」させられている4人の男。待機は際限なく続き、退屈した男たちは部屋を牢屋に見立てた牢屋ごっこをはじめるが……

3人集まれば派閥ができるといいます。これは言い換えれば3人集まれば差別が発生するということでもあります。これが4人になると4人目が被差別者に附いて勢力の均衡が回復する場合もありますが、4人目が多数派に附く場合、差別がさらに厳しいものとなる。本篇では3名の中ではいちばん好意的だった人物が、被差別者の窮鼠猫を噛む体の思わぬ反撃に態度を硬化させ、差別構造のマイナスループが極限化する状況を、掛け合い漫才というよりも演劇的手法で剔抉している。傑作。

「鏡人忌避」は<小説新潮>初出。出だしこそ中間小説的ですが、<新潮>掲載のほうがふさわしい作品。

鏡の中にあべこべの世界を想像するのはよくあります。現実の「実」世界に対する「虚」の世界に比定される。主人公は虚の世界が「虚」といわれるにふさわしく5感のうち4感を欠いて「実」世界に従属的であることから逆算して、逆に「実」世界を従属させている、つまり実世界が鏡の中の世界であるような「逆鏡面世界」を「発見」するのです。その結果彼は重大な疑念に囚われる。俺がいま自分の意志で為している(と思っている)この行為は、実は逆鏡面世界の俺の単なる反映に過ぎないのではないか?
その結果、彼が為した反抗とは……

哲学的ナンセンス小説の極致!

(メモ)かんべ小説の面白さは細部に宿る。

 





「議事ひきのばし」  投稿者:管理人  投稿日:20081223()00141

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年の瀬も押し迫って突如やってきた大不況、取引先の人と会っても、言われることは皆同じ、11月から急激にモノが動かなくなったということ。確かにこんな急降下は私もはじめてです。
2ヶ月前には24時間体制で稼動していた下請け工場(社長は「単価は厳しいけど満腹に食わしてくれてるからなあ」といってた)が、先日訪問すると、何と今は残業なしとのこと。
何とか年は越せるけど来年はどうなることやら、という同じ言葉をあっちこっちできかされては、そういうところに縋って糊口を凌いでいるこちらとしても平常心ではいられません。

そういう殺伐たる気分が読書にも影響していて、昨日のような感想文になった面があります。つまりゆったりと辛抱強く読めるようなゆとりがない。ちょっと今は長篇を読むのは不適当な時期かも。

などと思っていたら、某ブログでかんべむさしさんの「議事ひきのばし」という短編が話題になっていました(『原魚ヨネチ』収録)。
へえそんな面白い話あったっけかと当該短篇集を引っ張り出して来ました。
ちょっと読みかけたら思い出した。たぶん初読時は、
「まーたかんべむさし、訳のわからん屁理屈こねてるなあ、わしゃややこしいのは苦手じゃ、スマンのう」
とざっと目をとおすような読み方をしてしまったかもしれません。ああこんな面白い小説を飛ばし読みしてしまうなんて、なんて勿体ないことをしていたのであろう!
と反省すると共に、そうだ、丁度長篇読めそうにないし、折角引っ張り出してきたことだし、いい機会なので、年末にかけては『原魚ヨネチ』読み返しちゃろか。
――と、思うたわけです。
そういう次第で、『原魚ヨネチ』に着手しました。

 





「クロニカ」挫折  投稿者:管理人  投稿日:20081221()225927

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「クロニカ」は1章であえなく断念。いっときインカ帝国おたくだった私としては非常に期待して読み始めたのですが、残念ながらその構成に不信感を抱かずにはいられず前に進むことができませんでした。

そもそも本書のテーマはヨーロッパの文字の文化とインカの語りの文化(無文字文化)を二項対立的に照応させて考察するものであるようです。

ところが本書では木乃伊が語るのです。もとより木乃伊は確かに語ると思います。しかしそれはインカの人々の内宇宙においてでありましょう(精神世界的事実)。客観的事実として喋るはずはありませんよね。上記二項対立において(その設定は悪くありません)、併し語りの文化側をそのような(マジックリアリズムだか何だか知らないが超自然的な)木乃伊の語りに託したのでは実体的な根拠が瓦解してしまうように思うのです。

またその木乃伊の語りが冗長なんです。しかも三河弁! 木乃伊の語りが三河弁なのは必然性がない(おそらく筆者の裡ではインカの山岳地帯と北設楽郡豊根村あたりが通底しているのでしょう)。人によってはここが気に入りどころであることは私にも分かります。しかしそれはアニメの感性(ちょっとそれますが本篇は「字で書いたアニメ」の印象が濃厚にします)。アニメ的な印象といえば、作中人物(木乃伊も含めて)があまりに現代人に似すぎているのもアニメによくあるパターンで違和感を感じてしまいます(冗長さの原因でもあります)。

冗長なだけでなく非常に矛盾しているのが、木乃伊の語りの合間に著者による〈神の視点〉からの解説が入る点。語りを解説でおぎなわなければならないんであれば、それは最初から語りは文字に負けているのです。
つまりそもそもの構成からして文字の側から描いてしまっているといえる。これは上記のテーマを扱うには(そして著者には語りの文化が文字の文化に負けない豊穣性を持つことを描きたいのであるとすれば)きわめて不適当な選択だったといわざるを得ません。

語りを客観的な記述(筆者も書いているように当然すべてヨーロッパ側からの)でおぎなうのではなく、語りのまま(それが記述的に見て異様に歪んで見えるものだとしても)語らしめることで、少なくともインカ側からのパートは貫徹すべきだったと思うのです。それでこそ真のマジックリアリズムといえる。

まあたかだか100頁弱時点での感想なので、このあとどう展開するのか分かりませんが、少なくとも私をそこへ引っ張っていく力はこの100頁にはなかったということです。

 





年賀状  投稿者:管理人  投稿日:20081221()191229

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今日は昼から年賀状制作。インターネットで出来合いの絵柄取り込んでお茶を濁す。プリントゴッコで作っていた頃は楽しかったけど、今は半分義務の機械的作業ですな。
とりあえず個人関係分宛名書きまで仕上げる。あとは会社関係分の宛名書き。会社のは面倒くさいなー。

 





累卵の「幻影城の時代」  投稿者:管理人  投稿日:20081220()17332

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ややや、amazon品切れではないか!→幻影城の時代

こりゃ2年前の二の舞になるかも。二年前に入手できなかった人はお早めに(^^;
それにしてもネットオークションで売るために買う人はやめてほしいものである。

 





「果しなき河よ我を誘え」  投稿者:管理人  投稿日:20081219()234619

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フィリップ・ホセ・ファーマー『果しなき河よ我を誘え』岡部宏之訳(ハヤカワ文庫78 原著71)読了。

傑作というより怪作でした(^^; ストーリーは緊密というよりもゆるゆるで、けだし結末まで考えずに書き出したか、あるいは書いているうちにどんどん作中人物が勝手に動き出していったかのどちらかではないか。とりあえず『地球最後の男』とは執筆に対する姿勢が正反対だなと思った。これはもちろん貶しているのではありません。

ただ後半になるにしたがって筆が走っていき、主人公のリチャード・F・バートンを追うのに手一杯になって、世界観と世界観の衝突を楽しめた前半ほど楽しめなかった。後半はリバーワールドを作った超未来人の謎が主眼になっていくのだが、私は平板なストーリー展開に感じられた。
たとえばイエス・キリストも復活しているはずなので(バートンは何人もの(偽)キリストには出会っている)、そのイエスが自分の復活に対してどう感じたのか、キリスト者はリバーワールドという神の国ならざる物理的に復活した環境でイエスをどう迎えいれたのか、そんなエピソードも読みたいところでした。

ということで、ひきつづいて第二部『わが夢のリバーボート』に着手するか、それはちょっと時間をあけて、『クロニカ』を先に読むか思案中。

 





刷り込みは脊髄反射である  投稿者:管理人  投稿日:20081218()233315

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「河」>200頁ちょっと。
ゲーリングが登場しました。本篇によるとゲーリングはゲッペルスのような生粋の反ユダヤ主義者ではなく、それゆえもっとたちが悪いらしい。つまり反ユダヤ感情を自身が成り上がるための道具として利用したのだそうな。リヴァーワールドに復活したゲーリングもまた、反ユダヤ感情を掻き立てて地方ボスにおさまっている。で、その根本の反ユダヤ感情というのは……

「ユダヤ嫌いは、子どもの心に教え込まれるものだ」と、ターゴフ。「それは神経の一部になる。どんな意志の力もそれを追い払うことはできない(……)パブロフの犬は涎を流す。ユダヤ、という言葉をきくと、異邦人(註:非ユダヤ人のこと)の神経組織は、その心の奥底で嵐をおこす。ちょうどアラブという言葉が、私の心に嵐を起こすように」(182p)

かくのごとく本書は思考実験の場であると同時に著者ファーマーの史観の展開の場としての意味もあるようです。その点は『異星の客』と同じ執筆動機なのかもしれません、と言いつつ未読なので保留。

 





「幻影城の時代」  投稿者:管理人  投稿日:20081217()21301

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いよいよ発売のようです!amazon

でもバカにされてる(笑)→http://twitter.com/iori/statuses/1043338605

そうかバカなのか。確かにとんでもないバカ本ですな。そのバカ本の到着を待ちわびるバカ者なのであった(^^;

なお、iorinは1994年生まれの現在14歳(!)→http://iddy.jp/profile/iorin
若い子に嫌われちゃダメじゃん、講談社BOX。

 





究極の思弁小説  投稿者:管理人  投稿日:20081217()21027

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「河」>120頁手前まで。
これは傑作ではないでしょうか。
昨日書いたように邦題が気に食わなかったのと、『リングワールド』みたいな、壮大な設定ではあるにせよ本質は活劇だとばかり思い込んでいたのでスルーしていたのですが、これはそんなつまらない冒険小説ではないみたいです(^^;

21世紀初頭地球は文字どおり粉砕され、人類は滅亡するのですが、そのとき(理由は今のところ定かではありませんが)ネアンデルタール人以降のすべての地球に生まれ死んだ人間が、東西は峻険な山脈によって遮られ、南北に大河が流れる異世界に復活するのです! つまり織田信長も義経も東条英機もすべて同じ時間帯の同じ世界に出現する訳です(作中人物の試算によれば360億の人間が!)

これは最後の審判なのか?
とにかくこの設定の結果、時代精神というのか認識の台座というのか夫々の世界観が共通の土台のもとで相対的に再考を迫られずにはおかないわけです。これぞ究極の「思弁小説」ではないでしょうか。たとえばここ
認識系の差異はある意味笑いを惹起もする。ビクトリア朝の貴婦人の所作が20世紀人にはお笑い以外のなんでもなかったりして、ほとんどドタバタスラップスティック小説の一面「も」ある。
115pではユダヤ人の作中人物に対して21世紀のヤンキーが「おたくは本物のクリスチャンだなあ」といい、それに対して「君は話がわかると思っていたよ!」と答える場面など向こうの読者はニヤリとするところでしょう。
本書は(もともとは早い時期から温められていたアイデアのようですが)71年の出版で、著者53歳の作品。老年とはいえないんですけど、私は最近の眉村さんの試みと通底するものを感じます。
あとでヘルマン・ゲーリングも出てくるみたいでたのしみたのしみ。

 





 投稿者:管理人  投稿日:20081216()231119

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『果しなき河よ我を誘え』80頁。まだ全然視界が展けません。それはさておきこの邦題、大仰で西村寿行みたいで好みじゃないなあ。原題の「To Your Scattered Bodies Go」も訳のわからんタイトルですが、どうやら作品設定を暗示しているみたいなので、これはこれで謎めいていてよい。しかし邦題は……(ーー; この邦題でずいぶん読者を減らしているんじゃないのかな。

『地球最後の男』について、いろいろ考えていたのですが、判断を留保することにしました。確かにリーダビリティは高く、ラストのひっくり返しも決まっている。これはこれで傑作とまではいいませんが良質の〈SF〉だと思う気持ちがある一方で、これでは映画のシナリオ以上のものではないのではないかとも感じるのですね。このアイデアでマイクル・クライトンに書かせたらもっと迫真の作品になるような気も。いやいやこれでいいのだ。と、わが裡で評価が揺れて全然定まらないのでした。またいつか読み直してみようと思います。

   BGM

 

 

 

 

(管理人『地球最後の男』>わかった。このラストのオチはショートショートのそれなんですよ。
だからストーリーがオチに奉仕するために制約されてしまっているんです。ショートショートの長さならば気にならないのですが、中長篇でこれをやられるとストーリーの締め付けがあからさまに顕在化してしまう。どうもそこが違和感の原因のようです。

 





「地球最後の男」  投稿者:管理人  投稿日:20081215()224050

  返信・引用

 

 

リチャード・マシスン『地球最後の男』田中小実昌訳(ハヤカワ文庫77 原著54))読了。感想は後日。

ひきつづいて今さらシリーズ『果しなき河よ我を誘え』に着手。

 





遂に  投稿者:管理人  投稿日:20081214()230529

  返信・引用

 

 

『地球最後の男』に取り掛かる。100頁まで。今日中に読んでしまいそうです。
意外に地味ですなあ(^^;

 





ユニヴァース世界  投稿者:管理人  投稿日:20081214()193839

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『世界革命』>ひょんなところから出てきた。幻視体験ではなかったことが判明してほっとする。
で、パラパラと40ページほど。
「ただ一つの資本による(世界)帝国を生み出した」(10p)というのはちょっと時期尚早で、実は現在の状況こそふさわしいと思った。
本書は67年の出版ですが、私が学生当時(70年代後半)でさえ、社会学概念の「全体社会」が分からなくて教授に聞いたことがあって、日本では事実上日本国と同じと考えてよいとの答えだった(ヨーロッパは事情が違った)ことをはっきり憶えている。真に全体社会が「地球」になったのは、この21世紀初頭においてであり、遂に「世界」は「コスモス」の集合から「ユニヴァース」になってしまったわけです。
その意味で、実際のところロシア革命はメンシェビキ革命でよかったのかもしれない。とあとづけながら思ってしまうわけです。結局拙速により出来上がったのは「共産主義」とは似ても似つかないソ連という「国家」だったわけですから。
そして最悪なことに「ソ連帝国」を共産主義と同視してしまう誤認を後世に(特に日本の若者に)残してしまった。

今日たまたまwikipediaでフセインの項目を見ていたら、
「クルド人の政治家マフムド・オスマン(en:Mahmoud Othman)によると、大統領宮殿のサッダームのオフィスにはスターリンに関する本が揃えてあり、オスマンが「スターリンがお好きなようで」と言うと、「そうです。彼の統治の仕方が気に入っているので」と答えた。オスマンは、あなたは共産主義者のなのかと質問すると、サッダームは「スターリンが共産主義者とでも言うのかね」と反論し、サッダームはスターリンを共産主義者では無く国粋主義者と見ているとオスマンは推察したという。」
と書かれていてフセインの言うとおりだと思った。大方の日本人よりフセインのほうが何ほどか見識が高い(笑)。

さて、今さら気づいたというのも変だが、「スターリンというのは、あれはちょっと違うぞ」と分かり始めた50年代以降、日本人は「ソ連」国に嫌悪感を持ちつづけていたのですね。それは今も変わらない。ただ60―70年代は全共闘(新左翼)という受け皿があったのに、現在はそのような機能体が存在しないのが現在の若者にとって不幸なわけで、そんな彼らが行き場を失ってネトウ化してしまうのも仕方がない面がある。

結局早すぎた共産革命がそのことによって変質し共産主義とは名ばかりの「国家」となってしまった結果、今こそ必要なというべきこの時代に、共産主義が全然期待されないという悪循環を呈してしまっているように思われます。これはマルクスが資本主義の最終段階として考えた後に今一段の高度資本主義化があった(見田宗介)というマルクス理論の不備にも一端があるのかも知れませんが。

 





あと半月  投稿者:管理人  投稿日:20081214()03095

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今年の読了冊数は現在のところ89冊。今の調子では、あと2〜3冊がいいところか。どう頑張っても100冊は不可能ですな。
なんて言ってますが、40年になんなんとするわが読書人生において年間100冊を越えたのはたぶん五指に満たないはず。昨年の68冊は軽くクリアしましたし、一昨年の90冊も多分越えるので、まあよく読めた年であったと思われます。肩痛も収まってきたので、明日から復帰の予定。あっ年賀状!

     

 





終末曲面の壷振りお竜  投稿者:管理人  投稿日:20081212()010950

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48冊で1650円だった。うーん。
これはちょっとあんまりではないか。内訳を見たら文庫が1冊あたり12円強、単行本が70円弱、新書が29円たらずでした。今回は新刊率かなり高めで帯つきも多かったのにー(但し別途30円分の割引券くれた)。定価2000円以上のもあったから、これを半額で売るとしたらあまりにもぼろ儲け過ぎではないのか。

しかし、読んでしまって今後読み返すことはないであろうというのや、未読ながら今後読むことはあるまいというのばかりだから、まあそんなものかと無理やり納得するのであった。

     

 





 投稿者:管理人  投稿日:20081210()223259

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もの入りになりそうなので、足しにするつもりで昨晩から処分する本の品定めをしている。今回は段ボール箱も一部開けてみた。紛失した(or誰かに貸して返ってこない)と思っていた栗原登一(太田竜)の『世界革命』の背表紙が見えた(背表紙が見えるように詰め込んである)。
おお、こんなところにあったのか。これはブックオフではタダだけど然るべきところへ持っていけばそこそこの値が付くはずと、そのときはスルーした。
今日、読み返すのも一興かと再度段ボール箱を開けた。

――ない。

あれは夢だったのだろうか。夢の中でも私は処分本の物色をしていたのだろうか。

  BGM

 





こがらし偶成せりQの下宿屋  投稿者:管理人  投稿日:20081210()18462

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    1 2 3 4

 





インシャラー  投稿者:管理人  投稿日:20081210()001338

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ガチガチに肩が凝っていて、痛いくらい。違和感で気持ち悪い。しばらく本は読めないかも。
疲れたので今日はこれまで。

BGM 1 2 3

 





同窓会忘年会  投稿者:管理人  投稿日:200812 7()111748

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きのうは10年ぶりの小学校の同窓会&忘年会。
そもそもわが小学校は中央卸売市場の近くという立地条件のせいで、市場関係者の子息が多かったのですが、当然いまは家業を継いでいるものも少なくありません。仕事柄舌は肥えているし、取引先の有名料亭と仲がよかったりします。そういう関係で、今回の会場はテレビ「ちちんぷいぷい」(関西ローカル)水曜日担当浦上浩さんのお店「石和川(いわかわ)」
ちなみに幹事のN君によれば、浦上さんを育てたのは自分であるとのこと(>ほんとかよー)。

ということで出かけました。
曽根崎新地に足を踏み入れるのは21世紀になって初めてではないか(汗)
で、N君提供のトラフグを、特別メニューにて食しました(^^) まいうー!!

ひれ酒に、煮凝り→てっさ→から揚げ→白子焼き→皮のシャブシャブ(?)→てっちり→ふぐ雑炊とフグづくし。量もたっぷりで、ここまでしつこい(笑)コースはないぞとはN君の弁。たっぷりと堪能いたしました。

メンバーは小学校というか中学校卒業以来(私学に行かない限り同じ公立中学校に進むので)というメンツもいて、話がはずむはずむ(^^) 40年ぶりでも即、構えなく喋れるというのは不思議といえば不思議ですが、こんなもんなんでしょう。

で、私は自分が、話の中に出てくる共通の話題に関して、記憶がないことが多くあることに気づいて愕然とするのであった。あのときおまえさんはああだったこうだったと聞かされても、ハテそんなことあったっけという感じ。で、俺は小学校時代何をしていたんだろうというと、即座に本ばっかり読んでいたという返事。しかも声をそろえて(汗)
もっともこれは多分に中学時代の印象が雑じっていると思います。でも記憶に関しては、土地を離れてしまったせいもありそうです。やはり土地に居ついて幼馴染と顔を合わす環境にあるのと、そういう人間関係が完全に切れてしまったのとでは、記憶の持続に差が出てくるのではないでしょうか。

しかも当時から理屈っぽかったらしい(笑)。これも信じられません。そんなはずはない。やはり中学時代の印象ではないのか。そうなのだ。きっとそうに違いない。
私の記憶では、私の中に「私」が発生したのは中学2年くらいからのはず。小学校時代は体は大きかったですが、精神の発達は遅く、ぼーっとしていたんじゃないのかな、という「確固とした」先入見を持っていたんですけど……違うのかな(汗)

ともあれ6時から始めて、気が付けば11時。あっという間でした。市場関係者は皆朝が早い(午前1時起き!)ので、ほぼ徹夜と同じ状態ということで、二次会はなくお開きになりましたが、久々に楽しい時間でありました。

 





「マイナス・ゼロ」読了  投稿者:管理人  投稿日:200812 6()14014

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広瀬正『マイナス・ゼロ』(集英社文庫82、初出70)読了。

さすが定評に偽りなしの名作でした。面白かった(^^)

「ママは自分の母親で自分の娘だった」???
うーむ、ではそもそものはじまりは?
頭が痛くなってくるので追求は放棄(^^;
「夏への扉」よりも「発狂した宇宙」を感じた。「発狂した宇宙」でも主人公は軍隊に入ったんでしたよね(あれ? 「タイタンの妖女」だったっけ)。わたし的には軍隊で転戦するエピソードがほしかった(それがないから不条理小説としては弱い)。

直木賞候補ということで端から敬遠していたのは大失敗(^^) むしろ直木賞落選に着目するべきでした。これは取れませんよ。直木賞レベルには収まりきれない設定ですからね! 大半の選考委員は理解できなかったんでしょう。
 *ちなみに第64回の選考委員とその評価は――ここから引用
  石坂 洋次郎 ナシ
  大佛 次郎、ナシ
  川口 松太郎、ナシ(欠席/書面回答)
  源氏 鶏太
  今 日出海、ナシ
  司馬 遼太郎
  柴田 錬三郎、
  松本 清張、ナシ
  水上 勉、ナシ
  村上 元三

  [選評]

「直木賞作品となると別のことのように思わせられた」(源氏)というのはまさにそのとおりですね。評言はおおむね正解で、評言した4名は大体読解できているといえる。村上の終章の否定はSF読みの肯定部分で(このシーンが面白いんです)評価が逆なだけ。
評言ナシの人は、そもそも内容がムズカシクテ理解できなかったんでしょう(笑)。

直木賞落選はSF作品として優れた作品であったということの証しなのであって、そこまで読めなかった当時の私は見る目がなかったということです(ーー;
広瀬正はたぶん全部持っているので、おいおい読みつぶしていこうと思います。

 





蜜柑の夢  投稿者:管理人  投稿日:200812 5()19597

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「マイナス・ゼロ」は330頁。昭和7年帝都周遊が終り仕掛けもたんと施して、いよいよストーリーが動き出しました(^^)
なるほど、なんとなく構成が見えてきたような(^^; 今日中に読んでしまいたいなあ。

A) 1 2

B) 1 2

C) 1 2

D) 1 2

 





危機  投稿者:管理人  投稿日:200812 5()003019

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「マイナス・ゼロ」は250頁。昭和7年の世界が生き生きとありありと描かれていて引き込まれます。まとまった時間を捻出できないのがつらい。

A)1 2

B)1 2

 





「幻影城の時代 完全版」  投稿者:管理人  投稿日:200812 3()223947

  返信・引用

 

 

2006年12月刊行忽ち売り切れ、洛陽の紙価ならぬネットオークションの書価を高からしめた記憶も新しい伝説の『幻影城の時代』が、愈々本多正一編『幻影城の時代 完全版』として、待ちに待ったり12月中旬に刊行されるようですよ!→http://members.at.infoseek.co.jp/tanteisakka/

HPの目次を見ると、単なる復刊ではなく、バックナンバーを継いだ《幻影城》最新号が入れ子になっているまさに鬼に金棒向かうところ敵なしの2段構え、これで面白くない筈がありません(^^)

いやこれは年末の読書界の話題を独占しそうですね。楽しみ楽しみ!!
ともあれ本多さん、2年間のご苦労お疲れさまでした。

 





小説世界の小説  投稿者:管理人  投稿日:200812 3()213515

  返信・引用

 

 

「マイナス・ゼロ」は200頁ちょっと。時間が取れない。このあたり内容的には昭和7年東京の再構築。ストーリーをほっぽり出して、作家は当時の再現に耽溺しています(^^; そうそう、小説はストーリーだけではない。人がパンのみに生きているんじゃないように。なんのこっちゃ。

こうなってくると、石川英輔も読まなくてはという気がひしひしとしてきました。『亜空間不動産』は読んでいて非常に面白かったのですが、仄聞するところの江戸礼賛が鼻について、それ以来読んでいない。やはり大江戸シリーズ、食わず嫌いで済ましていてはいけないかも。

 





「マイナス・ゼロ」読み中  投稿者:管理人  投稿日:200812 2()224211

  返信・引用

 

 

「(……)そのうちにIBMを使って分析しよう」
「なあに? それ」
「電子計算機だ」
「ああ、計算機。あたしがソロバンでやりましょうか。二級のお免状持ってるの」
「うん、ありがとう」(85p)

150ページくらいまで。
めちゃくちゃ面白いです。ブッと噴き出す場面が随所にあって、こんな面白い作家だったとは(^^;

 





年刊SF傑作選  投稿者:管理人  投稿日:200812 1()223710

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巷間話題の創元文庫版年刊日本SF傑作選『虚構機関』、創元のホームページに書影が出ましたね。→http://www.tsogen.co.jp/np/detail.do?goods_id=3944
収録作品の発表はまだですが、書影から作家名を判読してみました。

  小川一水
  山本 弘
  田中哲弥
  北国浩二
  円城 塔
  中原昌也
  岸本佐知子
   ?
  堀  晃
  かんべむさし
  萩尾望都
   ?
  八杉将司
  平谷美樹
  林 譲治
  伊藤計劃

何とかこれだけ読み取ったんですが、二名はどうしても分からず。あと岸本佐知子って読めたんですけど……
訂正等の情報よろしくお願いします。

広瀬正『マイナス・ゼロ』に(いまごろ)着手。まだ読み始めたところですが、なんかジュブナイルみたい。

 




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