ヘリコニア談話室ログ(2009年1月)





「大江戸神仙伝」読み中 2  投稿者:管理人  投稿日:2009 131()230454

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「大江戸神仙伝」>240頁あたり。駘蕩すぎて、ひねもすのたりのたりかなになってきました(^^; 波頭がはじけないんですよね。
原因は長編形式にしたこと。語りたい薀蓄は一杯あるのに、それを乗せるストーリーが少なすぎる。短編連作形式でミステリ仕立てにした方がよかったかも。
とはいえ面白いのは面白い。79年(ほぼ高度成長が終焉した頃)の作品なんですが、非常に予見的でもあります。

「高度成長の20年かそこらで、まるで連鎖反応のように自然環境が荒廃したのを、便利さの代償というのは、一種のまやかしではあるまいか。本当の犯人は、10年使えるものでも、2年か3年で捨てて、新品に買換えさせないと成り立たないように作り上げてしまった社会組織そのものと、それを積極的にせよ消極的にせよ受け入れてきた私達なのだ。ああいう社会は、土地、資源、人口などが、無限に増加しない限り、早晩行き詰るに決まっているのに」(129p)
はたして少子化と団塊世代引退で行き詰っちゃいました。

「あの高度成長期というのは、まさに怒涛のような時代だったことがわかって来る。/その結果についての評価は、もとより私などのなし得る所ではないが、世界史上にかつて類を見なかったし、今後も二度と起こりそうにない、独特の強烈極まる平等革命だったのではないかという気がするのだ。(……)日本は、少なくとも世界でも有数の平等を達成してしまっている国だ」(184p)
田中角栄政権(1972-1974)は実質社会主義政権だったと、先日読んだ『「小さな政府」を問いなおす』にも書いてありましたっけ。今は昔でありますなあ。

小さな政府といえば、江戸幕府は「驚異的な安上がり政府(チープガバーメント)」だったらしい。「都庁と警視庁と裁判所を兼ねたような町奉行所は、南と北が月番制であったが、正式職員は(……)僅か290人で万事取り仕切っていた。/現在の都庁職員22万人から考えると、単純計算で700〜800分の1というところだ。行政範囲は広がっているが、今は、電話も自動車もある。一方、都民(庶民)の人口は、20倍程度に過ぎないのだから、驚くべき増加率ではないか」(194p)。「なぜこう安上がりに市中の治安を守れたかというと、実際の市政は、町(ちょう)役人という市民側の自治体に下請けをさせておいたからである」(195p)
まさに今流行の「民間へのアウトソーシング」ですね(汗)。

 





翻訳家パパ銀座のバーにて写真家元助手と宴す  投稿者:管理人  投稿日:2009 130()162112

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先般ご案内しました「本多正一展」が、今週よりすでに始まっております。
                ↓
    http://members.at.infoseek.co.jp/tanteisakka/

 2009年1月26日(月)−2月14日(土) 於:Gallery Bar Kajima
 営業時間:月曜日から土曜日18時〜24時。日曜日15時〜21時。(2月11日休み)
 東京都中央区銀座7−2−20 山城ビル2階 電話番号:03−3574-8720  【MAP

 「幻影城の時代 完全版」刊行記念イベント
 2月7日(土)19時〜:竹本健治&新保博久 サイン会+トーク
 2月7日(土)19時〜、14日(土)19時〜:津原泰水ライブ(チャージ500円+投げ銭)
 『幻影城の時代 完全版』は書店でご購入のうえ、ご来場ください。

ところで、会場のGallery Bar Kajimaですが、金原瑞人さん行きつけのバーらしいですね(なかなかリーズナブルみたい)→http://www.kanehara.jp/blog/index.htm(1/26)

本多さんも、期間中の火、木、土は詰めていらっしゃるとのことですので、ぜひぜひ!

 





「大江戸神仙伝」読み中  投稿者:管理人  投稿日:2009 129()235612

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160ページまで。駘蕩としていてよいですなあ。しかし本篇は、だんぜん東京(江戸)の地理が頭に入っているほうが面白いはず。東京在住者ならばくっきりイメージできるところが、たぶん焦点を結んでいない。歯がゆい。

昨日夜更かしてしまった反動で、今強烈な睡魔が……。ということで今日はこれにて。

 





「虚構機関」より(終)  投稿者:管理人  投稿日:2009 128()223712

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――以上で、大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 虚構機関』(創元文庫08)読了。
充実したアンソロジーでした(恩田陸以外は)。
ただ恩田陸を収録しているように、ある種の政治性が透けていて、その辺はイヤンな感じもしました。つまらない営業政策は折角のアンソロジーそのもののの価値を貶めてしまうように思います。一定の割合でSFゲットー外からもセレクトする方針は歓迎ですが、文庫版型で行くならマンガ等ビジュアルは不要だと感じました。

方針としてメリルと筒井を継ぐとありましたが、実際読み終わって感じたのは、実はメリルや筒井とは逆向きのベクトル。つまり浸透拡散し境界が曖昧になってしまったSFを再び回収し凝集して再確認しよう、してみせたのが本書ではないでしょうか。その意味で末永く続いてほしいと私は思いました。

ということで、石川英輔『大江戸神仙伝』に着手しました。したんですが――プロローグの江戸への移行のシーン、なんか既視感が……。

 

 

 

 

(追記メリルは「SFをぶっ壊そう」という確信的な作品セレクト。
筒井はジャンルSFがドーナツ化していくのは必然であり致し方なしという立場ですね。

 





「虚構機関」より(15  投稿者:管理人  投稿日:2009 128()214023

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伊藤計劃「The Indifference Engine」

著者は本篇が初読。面白かった。この人はすぐにでもSFゲットーを出て行ける小説技倆の持ち主ですね。SFというよりも普通小説の感触です。

舞台はアフリカの小国家シェルミッケドム。この国はゼマ族とホア族の2種族で構成されているのですが、現在この2種族は内戦状態にある。両種族は互いに憎みあっています。
しかしながら、実はこの両種族、「しゃべっている言葉もいっしょだし、食いもんだって変わらん」(487p)とありますから、言語と文化を共有するのが民族であるならば、定義上同一「民族」といえるのです。
ただ顔立ちが少し違っており、この国の人々であれば容易に両種族を見分けることができる(とはいえ外国人には区別がつかないほど僅少な差異です。けだし本土人と沖縄人の差異のようなものでしょうか)。ところがあるとき何らかの理由で反目が生じ、両種族は内戦状態に入ります。そもそも同じ文化を持って共存していたのですから、両種族のリーダーはお互い不倶戴天の敵であるという対立の根拠を部族民に示さなければなりません。すなわち「線引き」の根拠を。一般的にそれは歴史を遡って設定されるのが常で、こうして「歴史」が「捏造」されるのです。これは特殊な例ではなく、ある意味「歴史」というものの成立の根本にあるものなんですね。歴史とは常に捏造されるのです。

主人公はゼマ族の戦士でした。彼は内戦で家族を全てホア族に惨殺され、ホア族への憎しみから軍隊に入隊する。もっとも孤児となりいやでも軍隊に入隊しなくてはならなかったのですが。
ところが(旧宗主国オランダの介入で)停戦になる。
停戦で、部族軍は解散となり、主人公は一種の社会更生施設に入所させられるも、同様に入所させられていたホア族と問題を起こし、別の施設に移される。そこはアメリカのNGOが経営する施設で、そこで主人公は「顔ゲシュタルト形成系神経構造局在遮断認識偏向」という医学処置を受ける。要は脳をいじって(顔で区別していた)ゼマ族とホア族の差異を識別できなくしてしまう処置だったのです。これがタイトルのインディファレンス・エンジンすなわち「公平化機関」の意味です。「差異」が判らなくなれば必然的に差別も無化してしまうというわけです。

これはいかにもアメリカ的な強引且つ脳天気な、しかも杜撰な解決方法というべきで、たしかにそれによって顔で判別はできなくなりましたが、当の被施術者たちの脳には捏造された歴史が刻印されたままなんですから、「お前は何族だ?」と聞けばたちどころに「一線」は復活する。
そもそも林作品で論じたように、人間の認識構造は彼我の区別に由来する。その下部構造に触らず表層だけ上部構造だけ間に合わせに糊塗しても頭隠して尻隠さずでしかないわけです。

果たせるかな、施設で親友になった友人がホア族であったことがわかり、主人公は施設から出奔します。けれども顔識別能力を失った主人公は、街なかで敵味方の判別がつかない。そのため食い物を捜すのも困難を極め、栄養失調で死にかけているところを部族軍での元上司に拾われる。この上司に主人公は反ホア精神を徹底的に叩き込まれたのでした。
ところがこの上司、今や非合法の麻薬でいっぱしの実業家になっていた。しかもホア族もゼマ族も区別なく雇い入れる戦後体制の模範ともいうべき人物に変化していたのです。上記引用の歴史捏造説を主人公に語り聞かせたのもこの上司でした。まあ、いわば鬼畜米英を叫び竹槍を持たせて一人一殺死んで来いといっていた町内会長が、戦後節操もなく駐留軍に媚びへつらって大儲けしていたみたいな感じでしょうか。

当然主人公は反発し、上司のもとからも出奔する。行くところがなくいつしか足は施設に向いている。ところが帰った施設は暴徒に襲撃されたように荒廃していたのです。結局主人公が出奔した当の事件が原因で、施設内で部族間抗争が再発してこうなったらしい。そりゃそうです。お前は何族か?と聞きまわれば再び一線は容易に復活する道理ですね。
残っていた施設の女教師からそのことを聞いた主人公の裡で、何かが「変化」します。お題目のように融和(同和)を唱え続けていた、そして今や傷心の極致の女教師の首に山刀を振り下ろし、主人公は山へと逃走し、やがて……

いやこれは実に面白かった。ストーリーテラーとして抜群であると同時に、テーマ性も安定していて、SFゲットーを離れて一般的な人気を博するのも時間の問題かと。

しかしながら私は、最後のこの「変化」が実は得心できないでいるのですね。この「変化」は、一見上司や女教師の方向への「変節」のように見えなくもない。しかし執拗にそういう戦後体制に抗してきた主人公が、いとも簡単に「変節」するとはとても思えないし、女教師の語った内容がそのような方向へと促す種類のものであったともみえません。主人公が組織した軍隊が、「公平化機関」の処置を受けたものが主体で構成されているとありますから、「そういうこと」に対する怨念? いやむしろ「そういうこと」を戦後体制の象徴と捉えるならば、「戦後」のまやかしの姿に対する鉄槌なのか?

この辺がまだ腹に嵌まらずにいるのです。ネットを見ると、殆ど例外なく評価が高いのですが、そのような主人公の「変化」に言及した書評は、見た限りでは皆無でした。皆さんはどう解釈されたのでしょうか? そのあたりを尋ねたい気持ちを強くもちました。

 





祝出版  投稿者:管理人  投稿日:2009 127()235743

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畸人郷代表・野村恒彦(亜駆良人)さんの初めてのご著書が、来月出版されます!
『神戸70s青春古書街図』というタイトルで、下のチラシにあるとおり、1970年代の神戸と阪神間の古書&読書事情を語り継ぐ一冊とのこと。これは楽しみです(^^)
1970年代といえば、集英社ではありませんが、わが「青春と読書」まっただなかの時代(^^; 私同様、70年代を「青春と読書」に明け暮れたという方にはぜひともお読みいただきたいと思います。
注文方法等詳細は判明し次第告知させていただきます。
いや、それにしてもめでたいめでたい(^^)
 

 





名探偵ナンコの会終了のいきさつ  投稿者:管理人  投稿日:2009 126()170612

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フクさんのHPで「名探偵ナンコ」が昨日をもって終了したことを知る。いや前から知ってましたけど(^^;

読んでみると、「会場の都合により急遽今回が最終回になってしまった」とある。
ほんまか? と私は即座に疑問に感じたのでした。いろいろ聞いていたから。
で今日、ともあれ本遇寺さんに電話で確認した。
結論としては、本遇寺から「もうやめてほしい」と切り出したことは間違いなかった。
ただ、そういう行動に出るに至るまでのあれやこれやがあったということは、たぶん昨日の観客の方は知らされなかったのではないか。どういう説明であったか、フクさんにメールで確認しようと思ったけど、それも筋違いだなと思いなおした。ややこしい話をぶつけられても、フクさんとしても迷惑でしょうから(昨日観にいかれた方で、もしこれから述べることを南湖さんからお聞きでしたらご一報下さい。お詫びして訂正ないし削除いたします)。

ここで私が知りうることを列挙しようとも思ったのですが、それも詮方ないなあと……。一方的な聞き取りで、それに対する南湖氏の弁明を聞いていないし。

ひとつだけ象徴的に出しておくとしたら、50回を以って終了するというのは一年位前から南湖さんは告知していましたが、本遇寺にはひと言も伝えていなかった事実です。そういうのはまず何をおいても会場主に連絡しておくべきことではないでしょうかね。

このテキトーきわまりない態度なんですね、最大の原因は。私自身、何年も前に南湖さんには愛想尽かしして没交渉状態なんですが、その原因も知る人は知っているとおり。

有体にいって本遇寺の会場費用はお寺のご好意で無料だったのですよ。
そういう特殊な興行事情からすれば、南湖さんは本遇寺に対してもっとしなければいけないことが一杯あったはずですが(ギブアンドテイクという構造が消えたわけではない)、たぶん何もやっていない。
盆暮れの付け届けみたいな立ち入ったことは知りませんが、たまには一升瓶もって上がりこんだりもすればなにかあってもコミュニケーションは繋がっていくものです。最初は事前に呉れていたチラシもそのうちに全然くれなくなったそうで、さすがに性温厚にして篤実、気は優しくて力もなしという住職でも、それでは何のために使ってもらっているのかと、気分よくありませんわな。

で遂にもうはや我慢ならんええかげんにせえよとなったのは、何や知らんフリーペーパーをまとめた本が出るらしく、そこに名探偵ナンコの取材記事も載っていて、寺は場所を借りているだけで、後は全部自分でしているというようなことを喋っているらしい。それは違うやろと。ストーブも使えばエアコンも使う。終わった際椅子の片付けぐらいはしているけど、掃除はしてくれてるのかい、と。葬式(予定は組めませんよね)で会場が使えなくなる場合があるということは、最初からいっていたはずなのに、そのてんやわんやを面白おかしくかかれては、本として出版された日には檀家の人も読まないともかぎらん。たしかに南湖さんも芸人の端くれですから、そういうことは針小棒大に喋りたいというのは判らんでもない。しかしそれが関係者にどういう被害を与えるか、そういう可能性はあるやなしやということは、もう30をすぎた大人なのだから、よーく考えてから行動して欲しいものです。

老婆心ながら、南湖さんは交渉ごとが苦手というか嫌いのようですから、マネージャーを雇われたほうがいいのではないでしょうか。

や、詮方ないと言いながら、いろいろ書いてしまいました。たかだか10人から20人しか集まらない会でしたから(1500円x20人=3万円)会場が無料ならば会も維持しやすかろうと本遇寺を紹介したのは私なので、聞いたところの本遇寺へのテメーは何様やねん的仕打ちというか、無視は、ある意味私も顔に泥を塗られたようなものですので、ついカッとなってしまいました。

フクさんの記事を読み、南湖さんが会場主から理不尽にも追い出された的な想像をなさった方もいらっしゃると思いましたので、憚りながらひとこと。

 





「虚構機関」より(14  投稿者:管理人  投稿日:2009 125()105848

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林譲治「大使の孤独」
ファースト・コンタクトものです。ストリンガーという異星人との「最初の接触」があってから5年経過するも、いまだに有為なコンタクトには成功していない、という状況設定。本文において「いまから5年前(……)最初のコンタクトに成功した」(413p)とありますが、これは「ファースト・タッチ」乃至「ファースト・ミーティング」というべきもので、いまだ「コンタクト」といえるものに至っていない。だからこそ5年後の(小説上の)現在においてもコンタクトの試みが続けられているわけです。
なかなか進展しないコンタクトに業を煮やした地球側は、小集団による「共同生活」によって壁を突破できるのではないかと提案する。それは受け入れられ、孤立した天文台衛星にストリンガーが1個体、「大使」として乗り込んできます。

ところでなぜコンタクトが進まないかというと、それは人類とストリンガーの、あまりにもかけ離れた認識構造の差異に由来します。ストリンガーの受容器官は本体と分離するもので、分離した部分が(動き回って)受容してきた情報を、本体は再結合の際にはじめて「認識」できるのです。その結果、かれらの認識構造には主観と客観という区別が存在しないものとなっているらしく、当然、主客の分化に基礎付けられた人間とのコミュニケーションはきわめて難しいものとなってしまうわけです。

さて、共同生活が始まって半年が経過しています。相変わらず進展はない。5年前と同じ状況が再現して壁が立ちはだかる。しかしながら、逆に考えればそれなりに5年間の蓄積があるのですから、「同じパターン」になるはずがないのです。しかもそのパターンが二度続くに至って、あることに気づいたプロジェクトマネージャーは、大使(正確には大使の手足となるロボット。記述はないが「受容器部分」と繋がっているのでしょう)とサシで話をしようと、人があまりやってこない貨物専用のエアロックに呼び出す。つまり密室です。そこで事件が発生します……

という風に話は密室トリック風に進む。誰が、なぜプロジェクト・マネージャーを殺害したのか(あるいは事故なのか)。現場にいたのはストリンガー(の受容器部分)が操るロボットですから、ストリンガーが当然一番疑われる。しかしコンタクトもままならない相手が、「殺意」というような「人間的な動機」をいだくものか? やはり事故なのか? 事故だとしてもそれはなぜ起こったのか?
プロマネ死亡後にやってきた後任のプロマネである「私」が、その謎に挑戦します……

古いスペオペはまったくもってそうなのですが、ニーヴン、ブリンのような現代SFにおいても、背景世界の記述は格段の進化を示しているのに、こと宇宙人の描写に関しては(外見はどうであれ)地球人そのものである場合が多い。[註]

それではリアリティがないやろ、実際はそんなもんではありえない、というのが著者の主張のようです。本篇は宇宙SFの、ある種の認識的慣性の後ろに回る、その意味で(社会学の社会学といった意味で)SFのSFといえる作品で楽しめました。

 [註]もちろん眉村さんのある種の作品のように、宇宙人として描いてはいるが実は人間の機微を表現しているというような場合もあることはもちろん認めます。でもそれはニーヴンやブリンの「中途半端さ」とはまったく意味が違います。

 





「虚構機関」より(13  投稿者:管理人  投稿日:2009 124()161011

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平谷美樹「自己相似荘(フラクタルハウス)」
死期をさとった三人の科学者が、「死」から逃れるために選んだのは、「科学的に」幽霊化して、この世に留まることだった……

これは現代のSRAの物語である。

「怪奇小説」というと、ホラー小説とほぼ同義的なイメージがあるのではないかと思います。しかしこの「怪奇」、返り点を付して読み下せば、「怪奇」すなわち「奇ナルヲ怪シム」となります。「怪しむ」の意を辞書で確認しますと「疑わしく思う。いぶかる」とあり、結局「怪奇」とは「奇態な、不思議な現象を、そのままでは信じず、疑ってみる」態度をあらわしているのです。これは最初に書いた「ホラー」としての「怪奇」とは、180度転倒した境地であるといえましょう。
この意味において「怪奇小説」を理解するならば、すなわちそれは「超自然現象」をそのまま妄信するのではなく、たとえそれが存在するとしても、それを自然現象として科学的態度で記述しようとする小説であると定義できそうです。と書けば大方の読者は既にご賢察のことでしょう、まさに「怪奇小説」とは「SF小説」(但し超自然現象を扱う)の謂であったのです。

本篇がSRAの物語であると書いたのはそういう意味でして、本篇の主人公町田が統括する<警察庁科学警察研究所法科学第五部>とはそのような、一般の警察では扱いに困る「オカルティズムを含む怪奇現象全般も調査対象に含まれ、それを科学的に解明する」(368p)特殊な部署であります。
本篇は、かかる第五部部長・町田敏行の活躍を描くもので、おそらく今後<第五部シリーズ>として連作化されるのではないでしょうか(なお第五部と町田は既に『銀の弦』においてお目見えしています)。

それはさておき、本篇の肝は、人間が死に瀕すると自己の全記憶(イプセトメモリア)がテラヘルツ波に変換されて放射されてしまう、これは一部の感応性のある人間(ミエリン下鞘が発達した人間)は感じることができるにせよ放っておけばすみやかに拡散し希釈化して消散してしまう、ところがある種の「場」(結界)が形成されていればそれは拡散しない(閉じ込められる)、その結果一種の霊的存在としてその生存(?)をある程度維持できる(完璧な結界化は現状不可能)――という疑似科学的説明です。
「幽霊とは、極論すればテラヘルツ波で構成された情報群のことなのである」(373p)
おそらく(時限的でなく長期にわたって姿をあらわす種類の)幽霊は何らかの偶然の条件で結界が形成されたのでしょう。それが証拠に呪縛霊のような土地に根ざす霊体は長期にわたって存在しているような気がします。
ではその結界は、人工的に形成できるものなのか?

上記三博士が研究していたのは、まさにこの結界に関するものだったのです! はたして三博士が(死が条件の揃わないうちに不意に訪れる前に)自殺した場所は、「数学者マンデルブロの理論に感銘を受けて」「フランク・ロイド・ライトが設計した」もので、オーナーである博士が「霊界通信で(……)ライトから設計図を送ってもらい建てた」(なぜならマンデルブロ理論が世にでる前にライトは亡くなっている)と噂されたこともある奇ッ怪な形をした屋敷で、その名も「自己相似荘(フラクタルハウス)」という建物なのでした!?

町田は部下と共に屋敷内に侵入し、怖い目に遭いながらも、ようやく三博士の霊とコンタクトに成功する。三博士は意外にも……

この「意外にも」の理由が明らかではないのが、わたし的には「鼻先にぶら下げられたニンジン」みたいでああ早く食べさせてよとじれったくてたまらないのですが(^^ゞ

ともあれ、このようにしてできあがった本篇は、出だしこそホラーっぽく恐ろしげですが、結局SF的な原理探求の物語となっており、ホラーとは似て非なる感興を読者にもたらします。思うに、こういうのはシリーズとして4、5本まとめて読んだほうが相乗効果でより面白くなるものです。著者には可及的速やかなる続篇の執筆と単行本化を希望いたします。

 





「虚構機関」より(12)  投稿者:管理人  投稿日:2009 123()194547

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福永信「いくさ 公転 星座から見た地球」
うむ、著者は手練れですね。トリッキーな話で驚きました。うまい! というかこんな話をいけしゃあしゃあと書く神経はただものではない。大森氏が「たぶん変わった人だと思う」といってますが、私も同意。

(完璧にネタを割りますので未読者は先にお読み下さい)

第1話と第2話は第3話のめくらましとして在るわけですが、第2話のエピソードがとてもよい。第2話のAは第1話のAの1年後の姿です。どうやら両親は離婚したようで母親の姿はない。その結果でしょうAと父親が、住んでいた家を出て行くところのようです。このエピソードが泣かせます。B、C、Dについては判断の手掛かりがないが、やはり同一人物の1年後と思う。Bはさらに女の子らしくなっている。

で、読者は第3話もその続きであろうとアプリオリに思うわけですが、そうだとするとなんか変なんですよね。ばらしちゃいますが、第3話のAは息吹きないしは風、いわゆるプネウマであります。Cはチョーク。Bがよく判りません。またの下をくぐりぬけ、単調なリズムを刻み、運動が得意でその結果故意にではないにしろ男の子の目の回りにあざを作ったり前歯を折ってしまうものって(^^; 自転車?

で、これらの推測は最終行に著者が仕掛けたヒント(Dの正体)によって(遡行的に)可能になる。謎がある意味明らかになるわけですが、こういう仕掛けの有無が恩田作品と決定的に違うところです。
同様の三位一体形式で連載中の一篇とのことですが、これは面白そう。

八杉将司「うつろなテレポーター」
これは『ディアスポラ』への返歌となっていますね。『ディアスポラ』では、並行宇宙に量子論的に存在するところの諸「私」を、すべて一個の主体である「私」として(アプリオリに)認識しているのですが、これに対して違和感を表明するブログ書評を多く見かけた記憶があります。日本人的には馴染めない発想であることは間違いないですね。
本篇の、量子コンピュータを搭載した社会シミュレータ一内に棲む擬似意識AIである人工高次認知体も、同様の認識を示します。彼らを管理する「生身の」人間であるイーシャは、一見「心」があるとしか思えない人工高次認知体ですが、「本当に心なんてなく、社会シミュレータの中で半ば自己組織的に作り上げられた倫理プログラムに従おうと、強引に設定された行動規範によって動いているだけ」(354p)かもしれないと悩むのです。あるいは「「俺」という主観概念がないんじゃないかしら」「言葉では「俺」といっているが、それは主語を必要とする言語コミュニケーションの便宜上のものに過ぎず、イーシャが言う「わたし」とは根本的に意味が違うのかもしれない」(352p)とも。

かくのごとく本篇は『ディアスポラ』を「日本人」の<感性>によって読み直したものといえ、非常に面白かった。ただラストのシーンは、これまた『ディアスポラ』のラストのイメージに対応するものなんですが、人類が滅びて何億年経ったのか記載がありませんが、その膨大な時間を一途に思い続けて揺るがないというのは「生身の」人間には考えられないことで、ここに着目するならば、AIはやはり「強引に設定された行動規範によって動いているだけ」という結論のようにもみえるのですが、たぶん著者の意図とは違うのでしょう。
翻って(生身の)人間はどうなのか。「古代の人間は主観概念がなかったのではないか」(354p)との記述もありますが、本篇ではそこまで突っ込んで考察はなされていません。その辺もあわせて本篇を発展させた長篇を読みたいと思いました。

 





「虚構機関」より(11  投稿者:管理人  投稿日:2009 123()001611

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堀晃「開封」
かんべむさし「それは確かです」
両ベテランの手馴れたショートショート。ショートショートとは名ばかりの(厳密にはカタチだけの)ものを読まされたあとでは正直ホッとします。実はこの2篇は既読。初出の異形コレクション『ひとにぎりの異形』で読みました。→初読時の感想

堀氏があとがきで書いておられますが、そもそもノックの音と「おーい出てこい」はセットだったんですね。「開封」はそれを踏まえた巧緻のトリビュート作品であると同時に、「便所SF」というミクロジャンルでもあるんですね。それについてはここで触れられています→http://www.jali.or.jp/hr/mad/mad118-j.html#19990830

「それは確かです」は切ない。初読時は「筒井康隆、豊田有恒、彼らも呼ぼう」で笑ってしまったものでしたが、今回読み返してはじめて、可笑しさより切なさがまさった作品であることに気づいたのでした。

萩尾望都「バースディ・ケーキ」は漫画。前々から感じていたことですが、(雑誌サイズが想定された)漫画を文庫の版型に押し込めるのははっきりいって見づらい。筒井版のように最低新書サイズくらいでないと著者もあまり嬉しくないのでは? そういう意味でいくら筒井版を踏襲するからといって、文庫版でのアンソロジーに漫画を収録するのは、形式にこだわって内実を蔑ろにするものであり、やはり無理があります。

 





「虚構機関」より(10  投稿者:管理人  投稿日:2009 122()222036

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中原昌也「声に出して読みたい名前」
文芸誌での対談は読んだことはありますが、小説ははじめて。「え、これで終り?」という感じなんですけど……。
大森氏は、「リスの檻」を思わせる、と書いていますが、確かにそういわれてみればそうかなと思う程度。ディッシュの場合は寓意がはっきりとわかる(透けて見えるともいう(^^;)けれども、本作に寓意ってあるのか知らん。似ているのは外見だけではないのか。
とにかくこれ1作だけでは何もいえませんね。こういうのっていわばアルバムの中で輝くていの作品だと思う。シングルカット向きではないのではないでしょうか。というか、アルバム一枚、短篇集一冊読みきってはじめて、なんか響いてくるものがある、見えてくるものがある、そんな作家のような感じがしました。アンソロジー向きではないかも。

岸本佐知子「ダース考 着ぐるみフォビア」
もともとは互いに独立した2本のエッセイ。これをくっつけると共鳴しあって奥行きができ「小説」になり「SF」となるのですね。くっつけたのは大森氏。まさに名アンソロジストの面目躍如。でも願わくは「着ぐるみ養成キャンプ」(魅力的なアイデアです。それとも実際にあるのかな、まさか)に参加した者の内側から描いたのを読みたい。あ、それは田中哲弥の領分か(^^;

恩田陸「忠告」
うーん、これは傑作選に載るレベルか?
最初のひらがな文は知性を獲得した飼い犬がペンを口に咥えて書いた手紙です。ですから「おせわになっておりす」と「ま」が抜けたりするのは判る(慣れてないし、急いでいるので飛ばす)。しかし「外を歩く」を「そとをありく」と間違えることはありえません。ワープロで打ち間違えるわけではないのですから。最初の設定を作者自身が守ってないのは最低。テキトーすぎる。SF作家では考えられないことです。
ストーリーはつまらないものですからばらしちゃいますが、奥さんが間男にご主人を殺させようとしていることを知った(知性を持った)飼い犬が件の手紙で主人に知らせるわけです。間男がドアの呼び鈴を4回鳴らすのが合図なのです。ご主人は半信半疑ですが、突然犬が扉に向かって吼え始めると、呼び鈴が4回鳴る――という話。
これでショートショートのつもりなんでしょうか。一から十まで書いてしまって読者に「謎」は何も残りません。まさに円城塔とは正反対。
私なら犬が吼え始めて、外に誰かいるようだ。ドアにノックの音がした――で締める(星新一トリビュートですから当然呼び鈴ではなくノックでしょう)。そうすれば少なくともノックの回数だけは「謎」として残る。
きっと大森さんは恩田陸の名前だけ欲しかったんでしょうね。

 





「虚構機関」より(9)  投稿者:管理人  投稿日:2009 121()225425

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(承前)
6)「縞馬型をした我が父母について」
ああ、これもいいですなあ。縞馬が2頭しかいない「動物園」と何語か分からない本を売っている「本屋」と、私は盤古神をイメージしたのですが、そういう「世界」そのものの人格化されたゴリアスという巨人(巨人として認識されると同時に「街」に遍在もしている)しかいない「僕たちの街」のお話。お話というか「(散文)詩」ですね。

「(……)僕なき後のいつもとかわらぬささやき声が、人間の衝突しあうくぐもった響きが、人間が滅びて後にようやく地球へと到着したパルサーからのシグナルが、フレアに呑み込まれる地球の最後の挨拶が、銀河中心の歯車の立てる回転音が、そして決してやって来ることはない沈黙の一切合財が僕たちの周りには広がっていた」(223p)
「遠雷に発した暗雲は、定期的に僕らの頭の上まで広がってきて、僕たちの髪は静電気を帯びて立ち上がった。それを合図に稲妻の垂直線は仲間を呼んで驟雨と化し、僕たちへと突き刺さり、僕らを突き通していった」(224p)
なんて、疑うらくはこれブラッドベリかと。うーん痺れますなあ。こういう詩的美文が書けるのは、あるいは山尾悠子以来ではないでしょうか。

7)「波蘭あるいはアレフに関する記録」
美しい前作とは一転の哄笑譚。なんとポーランドがドイツを乗り越えベルギーを通り抜け、大西洋をわたりマンハッタンへ上陸する。ポーランドの西進はとどまることを知らず、西海岸に達し、太平洋へ姿を没する。やがて……。
たしかにポーランドは実際西へ西へと移動しているんですよね。でもポーランドは1908年以前から存在していたんですけど(^^;

ということで、以上「パリンプセスト」読了。いや面白かった。たしかに大森氏が「埋れさせるには惜しいのでここに入れましたが何か」と開き直るだけの価値ある作品でした。本篇を読めるかたちにしてくれたのはまことに嬉しくありがたいことでありました。他の作品も読まねば。

とはいえ、「円城塔と伊藤計劃のおかげでこの傑作選の企画が成立したとさえ言える」という一文にはやや唖然。「フィクサー大森が円城さんと共に(伊藤氏を)サルベージしたのだったものなあ」ということは知る人は知る事実じゃないですか。であれば、こういう書き方はいやったらしいもって回った自慢話以外のなにものでもありませんがな。もちろん円城塔の発掘者という伝説を確定したいという気持ちは判らないわけではありませんがそれを自分でやっちゃっちゃあ有難みも半減してしまうというもの(^^;

大森氏、日下氏ともそのアンソロジストとしての選択眼は既に定評があるわけでして(ここまで読んできた収録作品がその事実を強く裏付けている)、なのでよけいに上記の言で、本書のアンソロジーとしての価値がいささか割り引かれてしまったような感じがしてしまった。いや自慢話も悪くはないしアンソロジストの専権というものも認めるにやぶさかではありませんが、書かでもがなのことを……と少々残念に思ったのも事実なのでありました。

 





「虚構機関」より(8)  投稿者:管理人  投稿日:2009 121()210617

  返信・引用

 

 

(承前)
4)「紐虫をめぐる奇妙な性質」
山田正紀『超・博物誌』を髣髴とさせる幻想昆虫記。しかし後半で、紐虫が架空の虫でありこの「解説」も未発表であることが明かされる。ところがこの(発表されざる)「解説」を読んだという読者から紐虫の観察記録が送られてくる……。それによれば、一体の紐虫を硝子瓶に入れ坑道を下っていくと、光を発していた紐虫がある地点で光を発しなくなった。そこで観察者が瓶の中を覗くと、紐虫はいなくなっていた。さて地表に戻った観察者が瓶の中をあらためると、そこには2体の紐虫が確認されたのだった。……
いや〜いいですねえ。まるで十牛図のようなエピソードではないですか。は、本篇は禅問答(公案)なのか(^^;

5)「断絶と一つの解題」
これも禅問答みたい。15行前の文章の意外さ・新鮮さというのは、私も実感的に首肯するものです。話者の「僕」は、それは本(に書かれた内容)が変わったのではなく読書とはそこまであやういものではないと、珍しく(?)常識的なことを言います。敷衍するならば本の感想なんてのも、読むたびに変わっていて当り前なんであって、絶対的固定的なものではない、というのはちょっと考えれば判ることですが、一般的にはそうではないのかも。
「あなたが見ていない間でも、本に書かれていることは変わらない。それが一つの大前提だ」(217p)というテクストの形式的な存在形態にひきずられてしまうんでしょうね。

さて、218pにこう書かれています。
「例えば僕は今、曾祖父の書き残した八つのお話を、僕なりのやりかたでこうして解読し続けて、ようやく六つ目のお話までやってきた」
あれ、この話で5つ目じゃん。この話が6つ目なんだとしたら、私が 0) とした一番初めの断章も解読されたものということなのか?

 





「虚構機関」より(7)  投稿者:管理人  投稿日:2009 120()233425

  返信・引用

 

 

(承前)
3)「祖母祖父祖母祖父をなす四つの断章」は、「連続」をめぐる哲学コント集。
まずは00>「複製する」は「生む」に言い換えられるのではないか。言い換えてみましょう。「生む」が「生まれた」に「手を伸ば」す。/「生まれた」は「生まれたものが生む」に「手を伸ば」す。/「生まれたものが生む」は「手を伸ば」し、「生まれたものが生まれた」。「生む」はわき目もふらずただ自身を生み続けていた。
なるほど???

01>創造者(僕)と「宇宙」(彼女)の会話。ビッグバンの瞬間の法則を書き換えることができればやり直せる、ということは、書き換えなければやり直せないということで、つまり収縮に転じないということで、すなわち「この」宇宙は無限膨張を続ける宇宙ということになるのでしょうか?
ここで注意を喚起しておきたいのは、やり直したいと思っているのは彼女のほうだということ。
ところで、「僕の手は彼女のウェストにも回りきらない」の意味が、宇宙には「充分な体重」もとい「質量」があるということであるならば、ビッグクランチはあるということになるはず。
いやそうでなければなりません。なぜなら「この」宇宙ではかぎ括弧で括られるのは会話であって地の文ではないから。然るにこの二人の会話は……「すべてをあべこべのまま続けるつもりなの」
しかし「今」は「あべこべ」ではないから、この宇宙はやり直された、つまり「生み直された」宇宙のはず。
「誰が決めるんだ。/私が決める。/僕も決めたい。」
それは明らか。なぜなら「そして彼女は、静かに本を閉じる」

10>レムのような哲学問答。本断章のシステムは「悪」が蔓延れば蔓延るほど「善」が輝くという逆説。イスラエル軍のガザ侵攻によって原油価格が反転上昇し、アラブもアメリカ(ブッシュ)もウハウハという逆説。

11>母方の祖母が母方の祖父を「つかまえた」母方の祖父(主観)からみたいきさつ。

 





月末  投稿者:管理人  投稿日:2009 119()23284

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本日は疲れたので、ジョーダン・ルーディスによる「タルカス」カバーでお茶をにごさせていただきます。あしからず。オリジナル。(どちらもステレオ化済みなので、直接ではなくこのリンクからお入り下さい)

 





「虚構機関」より(6)  投稿者:管理人  投稿日:2009 119()001011

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(承前)
1)「砂鯨」
嘗て殷賑を極めるも今は滅亡し砂に埋れてしまった都市国家、そこでは奇妙な風習が行なわれていたことが発掘された記録の中に残されていた。その風習を詳述しませんが、それは都市全体でひとつのコンピュータとなさしめるものだった可能性がある。ところがその都市防衛型結界プログラムが、異邦の集団によりクラックされていたのです。そのことを察した都市は、対抗プログラムを走らせて防衛に努めるのだったが……
山尾悠子を彷彿とさせる硬質の幻想性がすばらしい。

2)「涙方程式始末」
これはまず(文脈とは無関係に)「涙含有量二リットル云々と法に則り明記された単行本の帯」(187p)という一文で妄想に誘い込まれました。これ現実に使えますね。「驚異の新作。涙含有量100トン! 涙に溺れよ!!」とか(^^;

さて、「涙方程式」とは国語学研究所の計算クラスタがたまたま見出した「三十億次元空間の中に浮かぶ特殊な高次元構造」(191p)で、この「高次元空間に浮かぶ宝石様の構造」「三次元断面」を「見た」者はすべからく号泣せずにはいられないのです。でもってこの構造の不思議な点は、「見ることと理解することはまったく違う」ところにあり、ひとたび「本質として理解」してしまうや、今度は一転、笑いの発作にとらえられ、笑い死にしてしまう。
これはたしかに真理でありまして、たとえば「美亜に贈る真珠」、この話、表層をサラッと読めば涙なくして読めませんが、ひとたびその構造を理解しようとすると、笑わずにはいられなくなります。

こうして発見された三次元涙構造物ですが、やがて産業化商品化されていきます。しかしそれは適切な角度で切り出し適切な三次元断面を示さなければ効果がなく、職人仕事として認められていく。このあたり、ステラヴィスタの雲の彫刻師とか「音響清掃」を連想させられ、想像力がかきたてられます(^^;

ラストの「レンズクリーナー」は失礼ながら分かりにくい。私なら「捜査員はしばらく首を傾げて腕を組んでいたが、おもむろにポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出し、カメラに向き直った。そして……」としますがね(^^ゞ

 





「虚構機関」より(5)読者を弄ぶにも程がある編  投稿者:管理人  投稿日:2009 118()154116

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円城塔「パリンプセスト あるいは重ね書きされた八つの物語」。著者は「さかしま」という短篇をインターネットで読んだことがあります(http://www.dot-anime.com/tb/a_songs/)。しかし紙媒体で読むのはこれがはじめて。

0)「■■■■■■■■」
「パリンプセスト」の意味はここ
本篇の話者である「僕」が曽祖父の死に際して入手した曽祖父のノートには、八つの■が並んでいるだけでした。曽祖父は「字送り」というものを知らなかったのです(汗)。いうならば一つの桝目に一つ(或いはそれ以上)の物語(乃至は論考)を書き残した。その結果、文字の上に文字が重ねられ、最終的に(投影的に)見た目、塗りつぶされたような■が出来上がったという趣向(^^;

「塗りつぶされているが故に、そこには何もかもが記されている。「■」がすべての文字を包含しているという単純極まりない理由によって」(171p)

という、冒頭の文によって一気に引き込まれてしまいます。
「ホワイトノイズ(雑音)」とは、白色がすべての色を含んだ状態であることに由来し、そのアナロジーから雑音にはすべての情報が包含されているとみなし、そこから人類に未知の情報を引き出そうとする有名なSFを思い出させられますね。
これは実際には熱力学法則に背反し不可能なんだそうですが、本篇では「僕」によって八つの■から八つの物語(乃至論考)が解読される。ではそれはどういう根拠によってであるのかというと、「僕」とはいわば曽祖父の「二の三乗分の一」の存在であることに拠るとします。さはさあれ、その理屈は全く無根拠ではないにしても、八分の一の根拠でしかないのも事実で、しかもなお、その舌の根も乾かぬうちに「解読の手引きは、全てのことを書かれた書物」(註:すなわち■)「に含まれている」。したがって「その事実が解読に寄与する部分はない」(173p)。とヌカす(^^ゞ
本篇は八つの物語を話者である僕が「読解」したものでありますが、しかしそうして解読された八つの物語(乃至論考)の、その根拠はそもそも最初から瓦解しているわけではないですか。いやはや著者の高笑いが聞こえてくるようであります。

しかも著者は「■■■■■■■■」の最後でも意地悪く追い討ちをかけてこう書いている。

「あなたがこの段落に辿りついている経緯は様々だろう。(……)所詮メモリーが足りないのだからその扱いは実装による。それともただ横へ泳いだだけの視線、或いはページがめくられたというそれだけの出来事により、あなたは曾祖父の置いた罠を乗り越えてここにたどり着いてきているのかもわからない」(177p、太字化は私)

ぎゃふん。読者を馬鹿にするにも程がある。いえそのとおりなんですが(爆)。上記はまさに初読時における私の状態そのもの。というわけで一度全文読了された方も、ごく少数の精読者以外は冒頭に立ち還って再読することをおすすめしておきます。二度目は飛躍的に面白くなることは請け合います(それが「実装」に依るとしても)。ということで――

「ようこそ、一番最初の無限の果てのこちら側へ」(177p)

 





「虚構機関」より(4)  投稿者:管理人  投稿日:2009 117()173356

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北國浩二「靄の中」。この著者もはじめて。事前知識もゼロだったのですが、少なくとも本篇に限ってはアメリカ大衆SF路線ですね。というかアイデアストーリー。まさにアメリカのSF雑誌に掲載されていそうな話で、ここまでの3篇が、一見大衆路線のようでありながら、それぞれに何か「過剰」で、アイデアストーリーに収まらない歪み(悪意?)が内包されていたのに比べると、きわめてまっとうな「ジャンルSF」の好編に仕上がっているといえる。いろんなタイプを採りたい、という編者の意向が伺えますね。

アメリカのSF雑誌と書きましたが、S&SF誌という感じではありませんね。かといってアナログ誌でもない。むしろイフとかギャラクシーという感じがするのですが、原書を読めない私がそれらの雑誌を系統的に読んでいるわけもなく、何となくぼんやりと抱いているイメージなので、正否は保証の限りではありません(^^;

さて、内容は、地球に寄生型の宇宙人が「侵略」してきている。寄生型といってもナメクジやヒル型ではなく、極小生物で直接脳に寄生します。だから外見では判別がつきません。主人公が属する特殊部隊は、チューリングテストとは違いますが、一種の判別テストで寄生された者を特定し抹殺するのが任務。主人公の上司は荒っぽいほどのやり方でどんどん侵略者を抹殺していくのですが……

ラストでさらなるひっくり返しが用意されていて、なかなかの技巧派であります。このラストがなければただの凡作。最後の最後であざやかな逆転の一本勝ちという感じですね(^^;
しかし厳密にはこのオチはショートショートのオチ。短編に使うのはかなり無理があると思います。ただ本篇は40枚前後ですが、じっくり書き込む類の話ではなく、長めのSSとみるべきでしょう。なのでこのオチであざやかに決めることができたのだと思います。

 





パトリック・マッグーハン氏逝去  投稿者:管理人  投稿日:2009 117()00592

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http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20090115-450313.html

「プリズナーNo.6」ほど強く影響を受けたテレビドラマはありませんでした。合掌。

 





「虚構機関」より(3)寡作にも程がある編  投稿者:管理人  投稿日:2009 116()222843

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田中哲弥「羊山羊」。田中哲弥をはじめて読みました。噂には聞いておりましたが、なるほどこれは噂にたがわぬ怪作。というか、まんま筒井康隆ですがな(^^; ストーリーの展開から文体まですべてにおいて(文体はわざと模写している気配も感じる)。そういう意味で「うまい!」。何度も噴いて本を汚してしまいました。大森さんも「フルスロットルの筒井康隆にも匹敵する」(112p)と書いていますね。ともあれこれを読んで、筒井康隆を想起しない人はいないでしょう(それとも本篇は筒井トリビュート作品なのかな)。
唯一違うのがラストの締め方。筒井のこの手の作品では、ラストは開放系で、あらえっさっさ的無政府状態で無限上昇していくのが多かったと思うのですが、本篇ではきれいに(か?)収束する。最終行は「ルビーの指輪」のパロディでしょう、実にカッコいいのであったが、当然この行だけ浮いてるのでありました(笑)。もっと読みたくなりました(「やみなべの陰謀」がブックオフにあったはず。「大久保町の……」というのを持ってるのですが、まず短編を読みたい)。

ところで、著者は親指シフトのワープロを、二年前にごく一般的なローマ字入力配列のに切り替えたそうです。で、
「「羊山羊」はぼくがローマ字入力で書いた最初の小説である」(137p著者のことば)
もしもし?(^^ゞ

 





「虚構機関」より(2)  投稿者:管理人  投稿日:2009 115()234825

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昨日書いた「対人態度の硬直化」とはどういうことかについて、ちょっと補足しておきます。社会的スキルがふつうにある人は、一般的に対人関係において、相手の反応を見ながらフレキシブルに「押したり引いたり」しているといえます(といっても殆ど無意識ですが)。ところが社会的スキルに未熟な人は、対人関係に自信が持てません。なので、とりあえず「最大に譲歩しておこう」と考えます(もちろん無意識に)。
私は昔スーパーに勤めていたのですが、商品によって売れる時期(季節変動)がありますし、特売商品ならば設定価格で売れる量が変化します。それは過去のデータがあればそれから類推できますが、最終的には担当者の経験とカンで仕入れ量を決定するわけです。経験を積むと、単価が同じでも時期によって仕入れ量を増減できるようになります。ところが担当して日が浅い場合、たとえデータはあったとしてもカンに自信がもてません。特売商品ならば特に品切れが怖いですから、最大限で在庫を抱えがちです。これなら少なくとも切らすことはありませんから(ただし品切れしないとは売れ残るということですから商売としてみた場合無駄な在庫を抱えることになる)。
何を言いたいかというと、社会的スキルが低い人の対人態度も、押したり引いたりのカンどころが分からないので、とりあえず最大限に相手を持ち上げておこうという態度で硬直化しがちであるということです。しかもそれは体験的な確信から出た態度ではありませんから、柔軟性がなく、たまたま外してしまうとあっけなく(ガラスのように)壊れてしまう(切れる)。一種借り物の態度なので、昨日引用した洞木のような、見る人が見れば背中が痒くなるような言葉を平気で発するわけです。

山本弘「七パーセントのテンムー」では、脳の活動を精緻にモニターできるようになった結果、「I因子」というものが発見されます。この因子が欠落している者は七パーセントの確率で存在し、その特徴として、感情移入が苦手で、創造性や想像力において通常人より低い傾向があることが分かってきます。つまり私のよく使う言い方で「脊髄反射」的というのがこれに当ると思われるのですが、結局I因子の「I」とは私の「アイ」のことなのでした。では「私」とは何なのかというと、人間が無意識に受容している情報量はあまりに大量すぎて、これをすべて自覚してしまうと、忽ち脳がパンクしてしまう。人間の脳のある場所に(海馬ですが)、その大量の情報の中から取捨選択して「意識」に送り込んだりストップしたりする機能がある。それがI因子なのでした。I因子はしたがって記憶と関連しており、記憶である意識こそ私なのでしょう。これがない人は「体験知」を蓄積できず、上記感情移入や創造性や想像力を十全に発揮できない。これが本篇の肝になっています。

面白い! これぞ「SF」! 山田正紀が読んだらきっと机をバンバン叩いて悔しがるに違いありません(^^;
ただ、この説では「対人態度」の硬直化が器質的なものに還元されてしまい、その意味では私の趣味ではありません(^^; 社会的スキルの未熟ならば、経験の積み重ねで克服することが可能ですが、器質的なものだとすれば、救いがなくなってしまうからです。

 





「虚構機関」より(1  投稿者:管理人  投稿日:2009 114()22389

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そういえば、昨日なぜ唐突に『みだれ撃ち瀆書ノート』なんか引っ張りだしてきたのかというと、筒井さんも某氏と同様、「論点のすりかえ」を例として提示していたよ、と伝えたかったからなんですが、その肝腎の理由を、昨日は書き忘れていました(^^;

ところで、パラパラ見ていて気がついたのですが、メリル『年刊SF傑作選7』の感想文も載っていて、丁度『虚構機関』に着手したところだったので、不思議な暗合を感じた次第。

というのは他でもなく、『虚構機関』の大森氏による序文に、「本シリーズが受け継ぐべきは、ジュディス・メリルと筒井康隆だ」「『年刊SF傑作選』と『日本SFベスト集成』のいいとこどりを試みた」(11p)と書かれていたからです。
実はメリル編『年刊SF傑作選』はこの第7巻(ただし日本版での巻数)で終了してしまうのです。なぜ終了してしまったのか、その理由として筒井氏は、ことさら「SF」という枠を設ける必然性がもはやなくなったからであろうとする。そして自らの『日本SFベスト集成』もそろそろやめてしまいたいのだが、その理由もやはり出版界の状況より編む必然性がなくなったからということのようです。

そういう(メリルと筒井の)一種「解党的」(解SFゲットー的)コンセプトを受け継ぐとは一体どういうことなのか。必然性がなくなったものを受け継ぐとは矛盾ではないのか。「SFは元気です」(7p)というコンセプトとどう折り合いがつくのか。などと、(個別作品を純粋に楽しむのとはまた別に)そのようなことを考えつつ、読み進めているところ。

小川一水「グラスハートが壊れないように」は、非常に面映い小説で、ときどき体が痒くなってきます。登場人物は全員、いかにも最近の若者らしく、他者に対して、私などからすれば不自然なほど過剰に気を使っている(それは主人公も例外ではない)。これは対人態度の一種の硬直化であるはずです。
しかしどうやら著者は自覚的で、これは小説の論理的要請による誇張とみたほうがよいようです。

小川一水といえば、ハヤカワ用語のリアルフィクションの代表選手ですから、このような「及び腰の」対人態度は最近の若者の間ではスタンダードなものと考えてよいのでしょうか。よく分かりません。ただ社会的スキルの習熟は、我々の頃と比べてずいぶん未熟であると思います。「未熟さ」と「硬直的及び腰」は繋がっている筈です。そういう意味であるいは、若い世代のリアルな姿ではなく、(若い人に限りませんが)社会的経験値の低い人々が「思い込み」がちな、かくあるべしという彼らなりの<理想像>を描いているのかも。
それが証拠に、洞木という主人公の友人が主人公に向かってこんなことを言っています。

「おまえはしっかり付き合いたいやつの一人だから……」(44p)

こんなことを、しかも当の本人に向かって、たとえそう思っていても、いうやつは現実にはいませんよね。○○しいやないですか(^^; まさに現実の社会を「直接」体験していれば、絶対に出てこない言葉だと思います。こういう言葉が存在するのは、書物の世界かドラマの世界か電脳空間だけでしょう。
作中人物にこんな言葉を吐かせるのは、非常に意図的なものを感じざるを得ません。これで私は、著者が本篇の小説世界を必ずしも肯定的に描いているのではないことに気づきました。

著者はまず、このような<現実未体験者>の世界を設定します。この世界の人間は基本的に「間接的」にしか現実社会を知りません。その良い例が 21ページに描かれています。小枝は交差点で盲導犬が自信なさそうにしているのを見、信号機が「発光ダイオードのせい」だと思い込む。事実はふつうの電球の信号機だったのです。発光ダイオードか電球かは、一目瞭然のはずですよね。ところが小枝は違いを「事実」として知っているのではなく、書物やテレビなどから得た知識として間接的にしか知らなかったのでしょう。「現実」を見るという基本的な行動になれていない小枝は、主人公の訂正に対して、「そういう問題じゃないでしょ!」と筋違いな(しかも硬直化した)反応を示す。まさに「論点のすりかえ」なのですが、本人は無自覚です。因果的思考が鍛えられていないというべき。
実際、小枝が示したこのような態度の集積が、「グラスハート」現象を惹起しているんですよね。

ここに至って、著者は事実を「直接」見る訓練を蔑ろにするところから、グラスハート騒動のような現象が惹起されることを言いたかったのだと気づかされるのです。
で、そのような態度が、最近の若者の一面である「異常なほどの思いやり」(自分ではそう思っている。実は観念的で現実に即していない、○○しい態度。しかもこわれやすい)をも基礎付けているということを、示したかったのではないか。その意味でタイトルは非常に示唆的です。グラスハートは茸の一種ですが、そもそも「ガラスのハート」も意味しており、それは直接体験(因果的理解)よりも間接体験(読書等による吸収)によって世界(視界)を構成している「リアル世代」の暗喩なのだろうと思いました。そういう意味では、今気づいたのですが、「リアル世代」は若者とは限らないですね。

視界の悪い感想文になってしまいました。後日書き直すかも。少なくとも本篇はリアルフィクションではなく「観念小説」であることを言いたかったんですが。

 





ジャンプ・シューズ?  投稿者:管理人  投稿日:2009 114()003955

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某氏が『詭弁論理学』を読んでいると聞いて、久しぶりに『みだれ撃ち瀆書ノート』を引っ張り出してきた。『詭弁論理学』の感想が載っているのです。それはいいのですが、ぱらぱら見ていたら、『密会』の感想に、作中で主人公が「ジャンプ・シューズ」なるものを履いてピョンピョン飛び回ったり逃げ回ったりするとあった。
――はて、そんな場面あったっけ。
この作品、筒井も書いているように主人公が「大いに暴れまわ」ったりするので、通例ひんやりした感触の安部作品には珍しく、たしかに異様な熱気があったことはおぼえているのですが……。
ちょっと読み返してみたくなりました。
そういえば安部公房、『密会』までは出れば飛びついて読んでいたのに、次の『方舟さくら丸』以降は、辛うじて購入はしているのですが、読んでないなあ。『密会』が面白くなかったわけではなく、むしろ「みだれ撃ち」にも書かれているように、ある意味(というか「悪夢」的に)「痛快」な、派手派手な話で、面白さでは図抜けていたはず。なぜ読まなくなったのか、今となっては不可解。
丁度いい機会なので、『密会』読み返して、返す刀で未読消化と行ってみるかも。

明日から『虚構機関』に着手の予定。

 





『「小さな政府」を問いなおす』  投稿者:管理人  投稿日:2009 113()000848

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岩田規久男『「小さな政府」を問いなおす』(ちくま新書06)、読了。

先日読んだ『格差社会の結末』とほぼ同時期の出版で、参考文献もかなり重複しています。「小さな政府」自体は間違った方向ではないが、それは必ず格差を生むので、フリードマン的なネオリベ一直線は問題がある、という立ち位置はほぼ同じといえます。「小泉政権に格差拡大の責任があるとすれば、小泉政権が「したこと」(すなわち小泉改革)にではなく、「しなかった」ことにある」(223p)という評価も同じですね。

とはいえ本書のほうがより「小さな政府」に対して好意的で、前掲書は累進税率の復活も必要との立場だったのに対し、本書では累進課税は一顧だにもされません。
また前掲書がジニ係数の悪化を問題にしたのに対し、本書はジニ係数はある意味「見かけ」であって、「機会の平等(註、つまりは「小さな政府」路線です)を進めると、どの所得層の所得も増加するが、中所得層以上の所得がより大きく増加するため、ジニ係数で測った格差は拡大する。しかし絶対的貧困は減少する」(141p)としてさほど問題視していないところが違いますね。私自身の感じでは、こういう認識を示す本書は、前掲書よりもやや理屈重視で冷たい感じがしないでもありません。

それは「地域格差」に対する認識にもあらわれていて、小泉改革によって「地域格差」は確かに進展したとするのですが、著者の考え方は地域格差を埋めるよりも大都市に力を傾注するほうが効果的であるというもので、むしろ地方の人間は大都会へ出ていくべし、と述べます(もちろん大都会で受け皿を整備するわけです)。

これには意表を付かれました。私の解釈が間違っていなければ、日本国はかつての東海道メガロポリス(もうちょっと広く仙台から福岡までくらい?)でじゅうぶん。あとの土地は放棄しよう、ということなのではないでしょうか(ただちに連想したのが田中光二の近未来ディストピアニッポンもの。SF的にはとても面白いんですけど(^^;)。考えてみれば非常に合理的で、アイデアとしても面白いのですが、いかんせん割り切り方が学者的すぎて、やはり現実感覚的には冷たいものを感じてしまいます。

にしてもやはり、金持ちはもっと金持ちになってもかまわない、貧乏人の絶対的水準は上がるのだから、といった格差の拡大は問題ではないという発想は、私には認め難いものがありますね。

 





斎藤和明氏逝去  投稿者:管理人  投稿日:2009 112()100412

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   →GARAMON

私は1971年12月号からSFMを購入し始めました。それ以前より友人に借りたりして読んでいたのですが、購入したのはその号が初めて。表紙は斎藤和明氏の宇宙画でした。今でもありありと目に浮かんできます。大宇宙の背景に渦巻き星雲が正対しており、手前にギザギザした小惑星というか星の破片がある。その星の破片に赤い鉄塔が立っている、そんな図案でしたね。
斎藤氏は上記リンク先の大橋さんによると、70年1月号から72年6月号まで(26回)SFMの表紙を担当されていたとのこと。まさに私が同誌を一番熱心に読んでいた時代で、上記号以外にも何葉も表紙絵を脳裏に甦らせることができます。宇宙描写は素晴らしかったのですが、人間が出てくると、何となくぬっぺりしていてわたし的にはいまいちでしたけど(^^;。合掌。

 





「鬼女の鱗」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 111()232122

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泡坂妻夫『鬼女の鱗 宝引の辰捕者帳』(文春文庫92、元版88)、読了。

いやスマン。悪かった。申し訳ない。私が間違うとりました。面白かった〜(^^;
何重にも手の込んだ拵え物という感じで、その仕上がりの素晴らしさに驚嘆。うーむ。一通り読み終わってから何かいうべきでした。印象で喋ってはいかんと反省(汗)

この作者の持ち味は、本格ミステリのパズラー部分を、ちょっとずらして使うところにあるのではないでしょうか。それはある意味、本格ミステリの後ろに回るということなのではないかな。そんなにミステリを読み込んでないので強く主張はしませんが(こういう手は泡坂の専売特許じゃないよと叱られるかもしれないので)(^^;
以下、ネタバレ気味なので注意。

表題作「鬼女の鱗」がやはり一番よかった。三つ鱗の紋を豪華な能衣装の中に隠すのは、チェスタトンのひそみですが、それが主題として大上段に振りかざされているわけではない。このあたりがずらしていると感じるところで、結局主題は人間の運命の不思議なのであって、本格ミステリ要素は、それをさりげなくうしろから支えるように使われている。名作というべきです。

「運命の不思議」は全篇を通しての主題で、次の「辰巳菩薩」は本格要素は希薄ながら、「生き菩薩」というべき紅山=小兵衛の生きざまの謎が最後に明かされる。ちょっと感傷に依りすぎの気もしますが。

「伊万里の杯」でも、離れ離れなのに心中である背理が明かされた瞬間にワッと拓ける展望がすばらしい。

「江戸桜小紋」は表題作にまさるとも劣らない快作。連続犯行の動機が、ある観点の導入でピタリと一つの絵におさまる切れ味がたまりません。それにしてもこの奇天烈な動機は往年の倉阪氏を髣髴とさせますなあ(^^;。もっとも倉阪氏ならこういう間接的なテクニックは使わず、犯人の主観を描くでしょうけど。

間接的と言いましたが、「改三分定銀」ではじめて宝引の辰親分が話者となります。それまではすべて話者が別で、宝引の辰は舞台を形成するための道具でしかない。この辺も捕物帳としては異質な作りで、この拵え物の凝った部分といえる。あらゆるレベルにおいて一筋縄ではいかない「横から攻める」著者の都会的なセンスが横溢していて楽しめました。いや泡坂妻夫、クセになりそうです。雑誌<幻影城>で抜群の人気を誇っていたという理由がよく分かりました。

 





「鬼女の鱗」読み始め  投稿者:管理人  投稿日:2009 111()150229

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ちくま新書『「小さな政府」を問いなおす』を読むつもりだったのだが、目次を見ると、昨日の本と内容的に重なる部分が多そう。あとで印象がごっちゃになりそうな気がしたので、ひとつ間をあけることにしました。
で、選択したのが泡坂妻夫『鬼女の鱗』『幻影城の時代 完全版』で読んだ亜智一郎ものがとても面白かったのです。で、ブックオフで捜したのだけれど、亜智一郎ものはなくて(というか泡坂妻夫自体が殆ど全滅なんですよね)、この本だけ棚にあったので買って来た。
副題が<宝引の辰捕者帳>というわけで、江戸ものだし感じが近いかなと期待して読み始めた。最初から2篇読んだところなんですが、ちょっと違うんですよね。『幻影城の時代 完全版』のは設定がSFとして機能していたんですが、この連作にはそういう後ろに回る要素がない。
というか、私の(非常に個人的な感覚)では、『幻影城の時代 完全版』のは野田昌宏的な味わいが感じられ、一方本書はヨコジュンの明治ものの感じがする。つまりヨコジュンの明治ものは、私にはいまだにその面白さがわからないということなんですが……まあもうちょっと読んでみよう。そのうちにスタンスが決まってくるかも。

 





「格差社会の結末」  投稿者:管理人  投稿日:2009 111()00536

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中野雅至『格差社会の結末 富裕層の傲慢・貧困層の怠慢』(ソフトバンク新書06)読了。

著者は小泉政権によって格差社会が急速に進行したというのは言いすぎだとします。小さな政府志向は、90年代を通しての歴代の自民党政権の方針だったのであり、その意味で小泉政権もまた、歴代の自民党政権に連なるものだった。ただし小泉以前の政権が、一方で構造改革を叫びながら、他方ではそれとは正反対な公共事業まきちらしを行なっていたのを改めようとした点で、以前の政権よりは少し筋が通っていたと評価します。

とはいえ、小泉のせいかそれ以前からの積み重ねの結果かはどうであれ、小泉時代において格差の拡大が顕在化したのは間違いないと著者はいう。
ただ自由競争の立場に立てば、格差は当然発生するのであり、格差そのものを悪とし、極端な平等化へ方向転換することは正しい道ではないし、実際問題としてそのような方向へ「後戻り」することはありえないだろうとの見方を示す。
格差は「必然」であるが、ただしいったん開いた格差が、「固定化」してしまうほどになるのは問題で、政府はそのような事を避けるような政策を行なわなければならないとします。しかもそれは失業手当を増やすとか、そういう方向ではなく、負け組が、開けられた格差を、自らの力で埋め、ひっくり返す、そういう方向での支援的なものでなければならない。ケインズ型福祉国家ではなく、シュンペーター型ワークフェア国家へと著者は言います。ワークフェアとは「働くことを福祉とする」という意味だそうです。
そういう意味では小泉政権は、そのような施策にまったく関心をしめさず、いわば手をこまぬいて格差の拡大を放置していたのは間違いないとします。
「内閣府の「ここまで進んだ小泉内閣」によると、平成11年から16年までに増えた事業所の上位5業種は、1)訪問看護事業などの社会福祉、介護事業、2)労働者派遣事業、3)老人福祉、介護事業、4)障害者福祉事業、5)ソフトウェア事業である。(……)構造改革の結果が人材派遣業というのはどういうことなのだろうか」(64p)2006年現在の著者はあきれているのですが、その僅か3年後、政府が高らかに誇ったところの、人材派遣業が盛んになるとはどういうことであったのか、現実が明らかにしてくれていますね。

著者の考え方は、小さな政府に代表されるネオリベ政治は、必ず(合理的なレベルを超えて)格差を拡大する。それはサッチャー以降のイギリスやアメリカなどの先行する小さな政府の国々の現実が証明している。ブラックホールのようにあるサイズに達すると、周囲のすべてを吸収しつくしてしまう「市場至上主義」は「一人勝ち市場」になりがちなのであり、「構造改革の宴のあと」にはペンペン草も生えないのです。とりわけ著者が心配するのは教育格差で、東大生の親の平均収入は1000万円弱であるように(2003年度で977万円)、富裕層と貧困層の格差が教育においても反映しており、教育格差がさらなる身分格差を固定化していくわけで、この改革がとりわけ望まれるとします。わが国の構造改革は90年代より開始されますが、イギリスではそれより10年早く、79年のサッチャー政権以来なので、先輩国といえるわけですが、そのようにわが国の先を行くイギリスでは教育が相当荒廃しているらしい。「基本的な読み書きができない大人の比率は24%に上るという指摘もある」(227p)とのことで、この事態が日本の近い未来を示唆していないとはいえません。

そういう意味ではまた話がワープしますが、先日読んだ『現代日本の小説』で、「書き言葉の衰退、取って代わる話し言葉による文学」などと最近の文学事情を単純に評価してよいものか、単に盲人の国では片目が王様というだけの話なのではないかと疑いたくもなるわけです。60年代ニューウェーブを生んだ国が、今やあしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながしくメリハリもなきニュースペースオペラの国であるのもまた(汗)

 





不自然ではなかった  投稿者:管理人  投稿日:2009 110()10439

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睡眠中もいろいろ考えていたらしく、朝起きてすぐチェックしてみました。
         ↓

■SF Japan 2007年WINTER >9篇
自・我・像 神林長平
コンセスター 山田正紀
馬と車 木立嶺
うつろなテレポーター 八杉将司
たたりつき 青木和
栗塚哲矢の軌跡 梶尾真治
超鋼戦士カメダキクオ最後の戦い 坂本康宏
靄の中 北國浩二
親友 タタツシンイチ

■SF Japan 2007年SUMMER >8篇
宇宙の中心のウェンズデイ  山本弘
金輪の際  林譲治
球形世界 橋元淳一郎
静寂に満ちていく潮  小川一水
渦の底で  堀晃
あたしたちの王国  森奈津子
最終結晶体  倉阪鬼一郎
金のなる木  井上剛
 (バースディ・ケーキ 萩尾望都)

■SF Japan 2007年SPRING >7篇
ぬばたまガーディアン 梶尾真治
グラスハートが割れないように  小川一水
  樺山三英
月のない夜に  梅村崇
うさぎがぴょん!  森青花
海辺の教室  大塚英志
ダラス・12(ダズン)――サンタフェ  平山夢明

 ―――― 計24篇 ――――

■SFマガジン 2007年1月号 >1篇
仕方がない腕なんです 久道進

■SFマガジン 2007年2月号 >6篇
盗まれた昨日  小林泰三
羊山羊  田中哲弥
陽根流離譚  森奈津子
口紅桜  藤田雅矢
団欒アーカイブス 井上裕之
ノアズ・アーク  梶尾真治

■SFマガジン 2007年3月号 >1篇
怠惰と勤勉  曽田修

■SFマガジン 2007年4月号 >5篇
蜜柑  飛浩隆
七パーセントのテンムー  山本弘
千歳の坂も  小川一水
タイムパラドックス・クライシス  八川克也
大使の孤独  林譲治

■SFマガジン 2007年5月号 >2篇
ハッピーエンド  梶尾真治
下から見上げた気象予報図  井上裕之

■SFマガジン 2007年6月号 >1篇
永き人生の終わり  黒井謙

■SFマガジン 2007年7月号 >2篇
A to Z Theory from Self>Reference ENGINE  円城塔
鏡の国の王女様  黒井謙

■SFマガジン 2007年8月号 >1篇
絶滅種 井上暁

■SFマガジン 2007年9月号 >2篇
Boy's Surface  円城塔
オレンジ色の孤島  井上裕之

■SFマガジン 2007年10月号 >2篇
何かが違う  杼屋猶人
蝉とタイムカプセル  飯野文彦

■SFマガジン 2007年11月号 >5篇
さまよえる特殊戦 神林長平
Your Heads Only  円城塔
The Indifference Engine  伊藤計劃
博士の迷惑な発明  深井健恭
棕櫚の名を  平山瑞穂

■SFマガジン 2007年12月号 >1篇
僕たちの放課後 谷中悟

 ―――― 計29篇 ――――

赤字が収録作品です(萩尾望都は漫画)。小説に限れば、SFJが24篇中3篇で、確率0.13。SFMが29篇中4篇で、確率0.14となり、全然不自然ではありません。印象で喋ってはいかんと反省m(__)m

 





行き着く果ては闇の果て♪  投稿者:管理人  投稿日:2009 110()005555

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『格差社会の結末』はあと30頁くらい。
著者によれば(2006年現在で)今後、日本社会や世論は(格差を自由競争の必然として受け入れることはできず)「格差を容認できない」という方向に流れていくだろうとのこと(貧困層の救済「策」が要求される)。ただし「怒り狂う」レベルには至らないだろうとも。それは富裕層のみならず中間層にも応分の負担を求められるからで、富裕層よりも中間層にしわ寄せが強く行き、結果中間層と貧困層が分断されてしまうからだと。
うーむ、私は「怒り狂う」レベルに達したとき、真っ先にその先頭に立つのはタクシードライバーで、その後をハケンやフリーターの若者が歩兵よろしく行進する図を妄想しておったですが、そういう状況は考えられないのですね(^^ゞ
あともう少しなんですが、文字情報が次第に意味を伝えなくなってきたので、今日はここまで。

 





「虚構機関」  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 9()195426

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梶尾真治が昨年末に出した作品集『時の"風"に吹かれて』にはカジシン・バカSFが多数収録されていて、なかなか面白いらしい。しかし、ちょっと出版社のセンスが悪すぎて買う気にならない。
だいたい「時の"風"に吹かれて」というタイトルがダメ。はっきりいってこれでは大概の読者は引いてしまうとですよ。
しかもこの表紙カバーがまた……
なんなんだこれは。引きの二乗でどん引き。まるで「売る気」が感じられません。商売する気あるのでしょうか>光文社文庫。
なんかカン違いしているのでは? ここまでやられると、さすがの私も買う気になりません(ーー;

ということで(どういうことだ?)、『虚構機関』を注文しました(近所の本屋を回ったけどなかった。銀英伝は置いてあったのですが)。
この年刊SF傑作選は最初かなり期待していたのですが、収録作品中SFマガジンからのと、SFジャパンからのが、4篇ずつ同数であると知って、このあからさまな政治性に一気に買う気が失せてしまっていたのでした(思い過ごしだったらいいのですが、SFJは去年3号しか出なかったのですよ。その3号すべてからセレクトされているのでSFJからの合格率は100%。確率的にありえないような)。
しかし読みたいと思いながらも手が出せてなかったSF作家も何人か収録されており、やはり読んでみようかなと思いなおした次第。
いろんな意味で楽しみ〜(^^;

『格差社会の結末』は半分強。

 





「現代日本の小説」  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 8()233422

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『格差社会の結末』のつもりだったんですが、出かけるとき、間違って手に取っていたのが尾崎真理子『現代日本の小説』(ちくまプリマー新書07)で、そのまま読み終わっちゃいました。
「春樹&ばななが与えたインパクトと電子機器の進化によって、日本人の文学的感受性は劇的に変貌していった。小説は、日本語表現はどこに向かって進んでいるのか」という裏カバー惹句そのままの内容。
なんですが、はっきりいって春樹以降の純文学はまったく読んでないので、ふーん、そうなの、という感懐しかないのであった。これからも読む気ないし。あ、「ニッポニアニッポン」の阿部和重は読むかも。
書き言葉の衰退、取って代わる話し言葉による文学という構図は、わたし的には眉唾ですな。著者は読売の文芸記者。「定年再出発」の山登氏にも感じることなんですが、記者とかディレクターといったマスコミの人って、仕事の性格上、対象に入れ込み過ぎなことが多いような。対象を絶対化してしまいがちで、突き放して相対化して見ることが苦手になるのかもと思いました。で、対象が変わればまたその都度入れ込む。対象に相関的なので対象同士が相反する立場であっても関係なく入れ込める、そんな人種なんですよねマスコミの人ってわが独断と偏見によれば。

 





「イスラム急進派」  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 7()214445

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岡倉徹志『イスラム急進派』(岩波新書87)、読了。

本書は20年前の岩波新書。そもそも新書本とは(とりわけ最近のそれは)、その名が示すように出たときが即旬であって、しかも旬の時期は短く、急速に鮮度を落としていくのが通例だろう。
1987年刊行の本書も、ホメイニ革命は重要な主題となっていますが、ソ連崩壊(1991)もフセイン失脚もまだ起こっていず(フセインは既に独裁者として君臨しているのですが著者はその未来にひどく懐疑的で一種予見的ですらあります)、まさに旬はとうに過ぎてしまっている訳です。

ところで、現在のわれわれは、「イスラム原理主義」と聞けば「ああ、あれか」といった或る種出来合いのイメージに囚われてしまっていて、その実体をあらためて確認することもなく、つまり実体を知りもしないのに脊髄反射的にアプリオリな風評的観念を受け入れてしまっている場合が多いのではないでしょうか。
本書は、イスラム原理主義(原理主義そのものはそれこそムハンマドの死後から存在したことが本書にも示されていますが)が、急激に勃興(活発化)した70年代を、最初は特派員として、後半はカイロ支局長としてその「今」を見聞してきた著者による、いわば同時代史的著述であるだけに、上記のような手垢にまみれたイメージ以前の原理主義の実体がうかがわれて、むしろ今こそ読まれて然るべき「旬」なのではないかとさえ思われます。

さて原理主義はなぜ勃興したのか。それはどのイスラム国においてメカニズムは同じで、上からの近代化(エジプト=サダト、イラン=パーレビ、イラク=フセイン)による開放経済政策(=グローバル経済体制への組み入れ)によって貧富の差の拡大と、大富豪・エリートによる国家の私物化が引き金となっている。そこにイスラム独特の原理主義が貧者の拠りどころとなって行くのですが、このあたりの大富豪の生活世界は殆ど欧米圏内といってよく、とりわけ子弟は欧米の教育が施されてメンタリティは西欧のエスタブリッシュメントと殆ど違わないのではないでしょうか。それに対して虐げられる側は教育を受けられず(教育とはとりもなおさず欧米化教育のことですが)伝統的メンタリティを保持しており、そのメンタリティの二極分化も大きく作用した。
こちらは21世紀の話ですが、小泉開放経済政策により格差が広がると共に、経済エリートによる犯罪が多発しているわが国も同じ道を進んでいるはずなのですが、暴動は起きていないのは、イスラムで暴動の担い手となった若者と比べて日本の若者が中途半端に教育され欧米的生活に馴染まされ飼いならされてしまっているからかもしれません。本来ネトウというのは暴動のお先棒担ぎの潜在勢力のはずなんですがね。いや、ままだまだ虐げられ方が甘いのかも。もっと痛めつけられたらさすがの日本の若者も立ち上がるかな。でも原理主義に対応する中核となる容器が見当たりませんね(^^ゞ

ということで、次は「小泉後」の格差社会の行方を予測した『格差社会の結末』に着手しようと思います。2006年刊でこれまた旬をすぎた本ですが、逆に現在を照射し返してくれるかも。

 





本多さん情報  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 6()225829

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今読んでいる『イスラム急進派』があと20ページ足らずなので、夕食後に読んでしまって感想文も書いてしまおうと皮算用していたんですが、今、本を仕事場に忘れてきたことに気づいた。あちゃー。しかも読書用眼鏡も……。眼鏡がなければ代替本も読めないわけで、さて今から何すべえ。

と思ったら、『幻影城の時代 完全版』の編者本多さんの写真展の告知をまだしていなかったことを思い出しました。

本多正一展
1月26日(月)〜2月14日(土) 於、Gallery Bar Kajima03-3574-8720 [map]

期間中に『幻影城の時代 完全版』刊行記念として、以下のイベントが挟み込まれているようです。
2月7日(土):竹本健治&新保博久サイン会+トーク
2月7日、14日(土):津原泰水ライブ(チャージ+投げ銭)
・両日とも19:00start(詳細はお問い合わせ下さい)

お近くの方はぜひ(^^)

 





眉村さん情報  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 6()003229

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本日(1/5付)読売新聞〈人生案内〉欄はお読みになりましたか。眉村さんが回答されています。
私はさっき読ませていただきましたが――これって文章にかなり神経を使いそうですね。眉村さんの文章にも、なんとなく呻吟の跡が感じられるような気が(^^; 七転八倒は大袈裟かもしれませんが、これだけ書かれるのに相当時間を費やされたんじゃないかと思いました。

そもそもあんまり極端な意見は書けないだろうし、そうなると行き着く結論は予め決まっているも同然。それをマンネリめいた印象を与えないよう表現するのが眉村さんに与えられた使命ということかも。

となると、案外眉村さんの闘争心に火をつける仕事なのかもしれません(^^; 制約があればあるほど、よーしやってやろうじゃないかと奮い立つ眉村さんですから。

 





「幻影城の時代 完全版」より(補遺)  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 5()21226

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昨日の投稿、半分眠りながら書いていたので、読み返してみると補足したい部分が……

堊城白人「蒼月宮殺人事件」の感想で、
動機も「反・清張」的で申し分ない
と書いたは、この、ブッ飛んだ設定において発生した殺人事件の、殺害に至る動機が、清張亜流の社会派推理小説のそれのような、「リアリティにみちた」常識塗れの(たとえば「金銭関係のもつれ」のような)動機であっては、それこそ設定そのものの耽美性・超俗性を台無しにしてしまいかねないからです。実際、一時は遺産相続問題が仄めかされるのですが、もとよりそんなはずはなかろうと、自慢するわけではありませんが、私は小説の「スタイル」そのものから見切っておりましたですよ(^^; そういう意味で、この動機は、まさに小説の結構に拮抗した「ぶっ飛んだ」もので、それで申し分ないと書いたわけです。一概に「清張的」動機を否定しているわけではなく、動機にはそれぞれ生きる場所があるということですね。

70年代前後以降、「純文学サイドが大衆文学的な世界の中に延命策を見出した」(370p)
というのはやはり違うと思いました。実際のところ、60年代、70年代ほど純文学作家が潤っていた時期は、明治以降においては空前にして絶後ではなかったでしょうか(おそらくは団塊効果)。「1970年前後、文壇は一種の閉塞状況に陥っていた」(同)というのは信じられません。ただ「長く異端視していたり、大衆文学として黙殺されていた作品が注目を集めるようになる」(同)は事実で、しかしそれは「(閉塞状況を)打破し、純文学を活性化させるため」(同)などではなく、パイがひろがったことでそのような作品にまで需要が及んだということだろうと思われます。

さて、そういう次第で一応読了ということにした『幻影城の時代 完全版』ですが、虚心坦懐に申し上げて読む価値は大いにあります!
私には、中心に「幻影城」という太陽が自転しており、その回りを168個の、それぞれあい異なるいろんなタイプの惑星が、「幻影城」太陽からの光を受けて反射しながら公転している、そんなイメージが浮かんでおります(本書の執筆関係者は168名だそうです)。
それらの惑星群は、それぞれ反射の仕方が違っており、その光り具合を楽しめるのも本書の大いなる魅力といえましょう。
ややお高いのが難点ですが、つまらない(時代の制約を受けた)ハードカバー3冊買うくらいなら、本書を購読される方がずっとよいお金の使い道であると確信しております。なんですか、横井氏に言わしめれば今流行の「告白」は俗流ロマンらしいですよ(293p)、いえ私は読んでないのでその当否は分かりませんが(^^ゞ。

 





「幻影城の時代 完全版」より(5)  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 5()014921

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堊城白人「蒼月宮殺人事件」を読む。
出だしの超絶硬質文が続いたら、こりゃ大変だなと思っていたのだが、そんなことはなかった(ある意味当然かも)。でももし最後までこの調子で続けられていたら、私は拍手喝采したと思います。
本格謎解きの見地からも、なぜ両手両足だけ残して頭や胴が持ち去られたのかという理由はそれなりになるほどと思いました。動機も「反・清張」的で申し分ない。
傑作とは言い難いが怪作であるのは間違いなく、異様な熱気を発していて面白かった。私は好感を持ちました。
とはいえ「冥府大河」とか「紫の古城」といったキラキラした魅力的な設定(名前)が、結局全然生かされていないのですな。この作品世界がどういう世界であるのか、もっと知りたい(ふつうの日本国のどこかだったら哀しい。バーミリオン・サンズのような空間であってほしい)。これは第2作の「異端焚殺」もぜひ読みたいと思わされました。
ただ、たぶん若書きであることが本篇の熱気をあと押ししており、30年後の現在、同じものを作者に要求しても無理でしょう。著者が本多さんに書く気はないといったのも当然の返答だったと思われます(^^;

横井司「「幻影城」作家論」は、「ロマン」という観点から幻影城出身作家を分類したもの。島崎編集長が「僕はロマンという言葉が好きなんですね」(「インタビューPARTU」353p)と語っているように、幻影城の謂う「探偵小説」とは清張の亜流と化した「推理小説」にロマンを復権させるものであるようです。
ところがそのロマンにも、(当時流行した・時代の制約を受けた)ディスカバー・ジャパン的俗流ロマンと、(時代を超えた)アンチ・リアリズムとしてのロマンの2種があったとするのが著者の考えで、栗本論文とはまた別の観点から幻影城作家を分類しています。

さて、本書は同人誌版『幻影城の時代』の増補「完全版」という位置づけでありますから、既に同人誌版を読んでいる私は、記事の半分は既読ということになります。で、ここまで「完全版」に於いてはじめて収録されたものを、前から順番に読んできたわけですが、いよいよ初読分で残っているのは、"もう一人の島崎博"が欲しかった――島崎博インタビューPARTU」と末國善己「「獲得言語」編集者の果たした役割――馬海松と島崎博」のみとなりました。

前者は島崎編集長へのインタビューで、同人誌版に掲載されたインタビュー「島崎博さんに聞く」が、古本談義が多かったため、PARTUとして、よりミステリの話、「幻影城」編集の裏話的な話に焦点を絞ったものとなっています。個人的な感想として、私は、編集者としての島崎氏以上に、経営者であった島崎氏の「食えない」「したたかさ」みたいなものが感じとれていろんな意味で興味深く感じました。

後者は、最近楊逸が芥川賞をとったことで注目された「獲得言語」作家は実は先例も少なくなく、日本語を母国語としない作家の小説がそのことに於いて文学の新たな可能性を開く可能性があるとし、編集者にもそのような例があったとして「モダン日本」の馬海松と、「幻影城」の島崎博を論じている。島崎に関して著者は純文学に於いても貢献があったとするのですが、それはいいのですが、70年代前後以降、「純文学サイドが大衆文学的な世界の中に延命策を見出した」(370p)というのはちょっと違うと思うのですが(むしろ「J文学」などと自称し始めてから大衆文学化は始まったと私は考えますが)卓見ではあります。稲垣足穂らモダニストの再発見も含んでいるようですが、確かに新潮社の純文学特別作品シリーズなんか、そういう観点で見ると面白いかもしれませんね。

ということで(一応)、本多正一編『幻影城の時代 完全版』(講談社08)の読み終りとします。

 





「幻影城の時代 完全版」より(4)  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 4()211818

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「静かなる祝祭」と「人形館殺人事件」はのちに「匣の中の失楽」に結実する原型となった草稿、「「匣の中の失楽」ノート」はまさに執筆のための図や覚え書きなので、これらはまず「匣」を読んだ、その暁に読むことにします。

栗本薫「幻影の党派」は力の籠った評論。そもそも「ノスタルジーとしての「古さ」志向、小説におけるアンティーク趣味、はそれだけでは意味をなさない」(224p)と考える著者による幻影城から登場した新鋭作家たちのポジショニング地図ともいうべきもので、大きく二つに大別する。すなわち「幻影城がなくてはその作品を世に問うことが不可能であった人と、必ずしもそうとはいいきれない人」(225p)。前者には泡坂妻夫、竹本健治、堊城白人、連城三紀彦が、後者は村岡圭三、滝原満、李家豊が比定される(微妙なところにいるとされたのが筑波孔一郎と霜月信二郎)。
で、結局著者の思い入れは(いろいろエクスキューズしていますが)前者にあります。つまり、前者が「所詮は一定数以上の理解者には出会わない」(227p)、「マイナー・カルチュア」であるに対して、「マス・カルチュアは、大量の理解を基礎とするために、つねに最大公約数の感性を求める。しかしそれはつねに水割の酒、うすめた毒、濾過した理想によってぼくたちをいっそうの焦燥と飢渇に追いやってしまう」と考える著者は、「今こそ希薄なまぜものでは癒しえないかつえを胸いっぱいに癒すか、或いは路傍の無縁な石さながらに通り過ぎていくか、さあ何方(いずかた)だ」(228p)と読者を挑発します。
本篇はあきらかに「日本のSFの原点と指向」を意識しており、「幻影城あるいは探偵小説の原点と指向」というべきアジテーションとなっています。

上の論考において「前者」に分類され、しかし幻影城休刊後杳として姿を消してしまった堊城白人ですが、最近、本多氏によって消息が確認されたとのこと。
本多正一「蒼月宮の門前に佇んで」は、本多氏が電話と手紙によって聞き出した、幻影城屈指の伝説的作家の近況報告というべきもの。
ふーん、私と一つしか違わず当時大阪在住だったのか。
とすれば休刊と、社会人となり仕事に追いまくられるようになったのが、ほぼ同時にこの作家を襲ったことは想像に難くなく、運が悪かったとしか言いようがありませんね(昭和54年の幻影城休刊時、昭和29年生まれの堊城氏は25歳)。と同時に、幻影城がなくては存在し得なかったという栗本の言が当を得ていたことを示してもいるわけです。
興味が出たので、なにやら超難解そうですが(字づらは日夏耿之介みたいです)、『幻影城の時代 完全版』に復刻掲載された「蒼月宮殺人事件」を読んでみようと思います。

 





「幻影城の時代 完全版」より(3)  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 4()134420

  返信・引用

 

 

柳生真加さん
昨日はお疲れさまでした。楽しかったです(^^)
北野天満亭のご案内ありがとうございます。実は最近は土曜日もまるまる働いており、毎月第3土曜のK人郷の例会へも不義理している為体。残念ながら北野亭も折角ご案内下さいましたけれども、まあそういう次第で……ごめんなさい。
とまれ会のご盛況を祈念しております。講談も落語も楽しめるよい会ですので、お近くの方はぜひ。

『幻影城の時代 完全版』は、友成純一「夢を見た怪物」、竹本健治「匳(こばこ)の中の失楽」、本多正一「いかにして「匣の中の失楽」はつくられたか」を読んだ。

「夢を見た怪物」は、ストーリー的にはSFであり一番面白かったのですが、SF的な説明と伝承風描写が混在しているのが小説としての欠点。リアルな(に読まれてしまいがちな)SF部分と、どうやら別の地球らしい(非リアルな)民話的部分が互いに打ち消しあっている。民話風描写で統一して(とすれば主人公の女の無駄にリアルな描写は不要となる)、SFは怪魚の思考部分のみにしてきっちり分ければよかったのではないかと、読者として私はそう感じたのですが。

「匳(こばこ)の中の失楽」は、後述の本多論文によれば「匣の中の失楽」のサイドストーリーらしいのですが、元作品を未読なので、本篇のみで読み取れた感想を述べておきます。
本篇はまさに細工物の小匣をめぐって「入れ子」構造になったものですが、その趣向はこの長さの限りでは(本多論文によれば「作者は連作としたい意向を洩らしている」とのことですが)中途半端に終わって殆ど感興をもたらさない。むしろ私が注目したいのは、篇中で開陳される著者(?)の小説観(世界観)です。

そもそも「世界を区分けして、整理して操作しやすいようにする」(174p)のは人間の認識の構造そのものなんですが、そのような「世界の抽象化」(同)の結果として「そのぶん、弧絶や疎外は深まっていくわけなんだ」(同)
ところで70年代以来の管理社会化、情報社会化とは、そのような抽象化が個人を超えた社会のレベルでも行なわれてきた過程であります。そしてその進展(抽象化)は、社会的弧絶や社会的疎外を顕在化してしまった。すなわち社会と個人の両方においても、「入れ子」構造ができあがってきた。その結果、個人の内面においても現実の社会においても「黙示録的な救済だとか弥勒菩薩の到来だとか、科学や資本主義の勝利だとかいった大きな物語はもはや成立しない」「今にしてなお想像しにくいほど弧絶と疎外が深まっていくばかりだろうとね」という、ホランドに言わせれば「いささか悲観的」な観念が述べられています。
ただ思索はここで打ち止めにされており、本篇の中途半端さと帯同するように、だからどうだという展望は認められません。だから小説も大きな物語は不要で、その場その場の雰囲気や気分を写し取ればいいんだという方向に「逃げ」を打つための周到な言い訳の可能性だってある(笑)。
その意味でも連作化は楽しみです。

「いかにして「匣の中の失楽」はつくられたか」は、四大奇書として称えられる「匣の中の失楽」が、完璧な決定稿として世にあらわれたのではなく、次第次第に現在ある形になっていった過程を、新資料も駆使して丹念にあとづけた労作。この論考から気づくのは、この作品には決定稿という概念はなく、今後も形を変えていく可能性がある、いや変わっていくに違いないということですね。

ということで、私もその高名に怯えて敬遠していても仕方ないので、そろそろ読んでみようかなと思いました。

 





Re: 「幻影城の時代 完全版」より(2)  投稿者:柳生真加  投稿日:2009 1 4()105632

  返信・引用

 

 

> No.1627[元記事へ]

おはようございます。
きのうの<風の翼>新年会では、楽しい時間をありがとうございました。ほんっとに、よく呑んでましたね。

きたついでにPRを。まだまだチケット発売中です。

平成21年1月10日(土)
会場/神戸北野天満神社(「三宮」下車徒歩20分)
開場/13:30 開演/14:00
料金/前売1500円・当日1800円
出演/旭堂南湖、笑福亭智之介
ゲスト・桂阿か枝

 





「幻影城の時代 完全版」より(2)  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 4()001458

  返信・引用  編集済

 

 

<風の翼>新年会より帰還しました。呑みすぎで頭が痛い。
NさんやUさんとは殆ど1年ぶり(K人郷に行かなくなってしまったので)。楽しかったです(^^)
次は眉村さんを囲む会ですな(^^)

『幻影城の時代』は、田中文雄「走屍の山」を読む。
著者十八番の北関東もの。ホラーらしく、SFのように膨張もミステリのように収束もせず、そのままラストに至る。私の苦手なジャンルで、アレゴリーがあるわけでもなく、一体どこを楽しめばいいのかよく分かりません(汗)
――と、霊感が閃く。これはマンガなんや。ただしつげ義春みたいな絵柄のマンガ。これで想像すると実によいのですね。オーソドックスなスタイルなのでついリアリティを求めてしまうんですが、リアルな実写で想像すると違和感がある。
うむ。以後は田中文雄、楽しめるかも。

  いま流しているもの>1 (2) (3)

 





「幻影城の時代 完全版」より  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 3()130220

  返信・引用  編集済

 

 

まずは、連城三紀彦「夜の自画像」、田中芳樹「男爵夫人の話」、栗本薫「誰でもない男」、泡坂妻夫「敷島の道」、同「丸に三つ扇」を読みました。

この中では「敷島の道」が一頭も二頭も抜きん出て面白かった。雲見番番頭亜智一郎もの。江戸末期(第2次長州征伐の翌年=1866年)の江戸城内大奥近くのご金蔵で不審火がつづき、智一郎らが警護に駆り出されます……
江戸城天守閣に(大奥にも城外にも通ずる)秘密の抜け穴「敷島の道」が存在するのですが、抜け道の性格上厳重に秘匿されていなければならないそれが、実際は日常的にお気楽に(笑)利用されているという「世界」の話です。わたし的には、絵島生島的「建前」のうしろへ廻ったSFとして読めて楽しかった。

同じ作者の「丸に三つ扇」も、これは古典的な意味で「私小説」(今ならエッセイといわれるかも)なのですが、実に味わい深くてよかった。

「誰でもない男」は、(相応に年齢を重ねた)伊集院大介もの。まともな文章でびっくり(^^; ミステリはちゃんと書くのでしょうか。だったらグイン読者は舐められとるね(いやまあ当然か、、、)
内容は名探偵型推理形式を茶化して(而して)開き直るもの。その意味でSFだが、開き直った段階でミステリに回帰するわけです。
――栗本さんは癌で闘病中なんですね。はじめて知りました。

「男爵夫人の話」はいちおう最後まで読ませるが、無理すぎる。

「夜の自画像」は、いかにも耽美的な戦前探偵小説風をなぞっているが、耽美が濁っていて私の趣味ではないのであった。

今日は<風の翼>新年会なので、もう少ししたら出かけます。

 





眉村さんの人生案内  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 2()134817

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ちょっと遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて本年最初の話題は標記のとおり。眉村さんが読売新聞の「人生案内」の回答者に加わられました。初登場は1月5日のようです。読売購読者はぜひご覧いただきたいと思います。ふだん読むことがないコーナーだけに(?)お忘れなきよう(^^;

ようやく正月らしいゆったりした気分になってきまして、『幻影城の時代完全版』を手に取りました。
いや〜改めてすごい本ですなあ(^^; 元版とどこが違っているのかと思ったら、大きくは書き下ろし小説と「匣」特集が付加されているようですね。
ただ所有しているだけなら世の愛書家と同じなので、ぼちぼちと読んでいきたいと思います(^^ゞ。
というかここは読書家らしくもっとアグレッシブに、3分割か4分割に切り分けちゃれと、カッターを握ったのですが……

すいません。手が震えてできませんでした。まだまだ修行が足りませぬ(汗)。

 





「原魚ヨネチ」より(終)  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 1()210720

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(承前)
「アプト式」の近代社会は、人間にとってちっともよい社会ではありませんでした。ではそれ以前の「ループ式」の伝統社会に戻ればいいのかといえば、それもまた問題が多そうです。

「スイッチバック式」とは、「ループ式」のようにレールがぐるぐる廻っていくのでも、「アプト式」のように一直線に最短距離を取るのでもありません。線路はいわば鋸歯状に、ジグザグに切り返しながらてっぺんに向かって伸びている。切り返し地点は平たくなっており、トロッコはここでは手を離してもずり落ちていくことはありません。押す者は、ここで(いったん休憩したあと)今まで前面だった方へ移動して押し上げ始めることになります。つまりそれまで後面だった面が前面となる。もちろんバックさせるのではなくそこでポイントが切り替わって、トロッコは上に向かうわけです。

この方式では、まずは休憩が行程の中に組みこまれるという利点があります。勾配はループ式並みの緩さですから、「アプト式」ほど労働は「きつく」はないと思われます。一直線ではありませんが、「アプト式」同様に到着地点が目視できます。このように前2方式に比べて、ずいぶん押すもの(労働者)には「やさしい」方式といえるでしょう。

しかもこの方式は、テクノロジー的な「技術革新」でなされたわけではありません。ただ、押す者が切り替え地点で前後を移動するだけの話なのです。つまりマテリアルな、「ハード」的な技術開発ではなく、「ソフト」な、人間の「創意工夫」によって開発された方式といえましょう。

もちろん、ポイントの切り替え自体はハード的な要素ですから、人間そのものが位置を移動するという「ソフト」と、そのような「ハード」の連動によって「スイッチバック式」は成立するものであることは間違いない。にしても、この方式が「アプト式」と決定的に異なるのが、「ソフト」的要素が組み込まれている点であることは重要です。
「親方」を根拠なく信用し、一本しかない一直線の道を(拙速に)無理矢理に押し上げるのではなく(しかも頂上にあるのはギロチン台のみ)、「同じような道を行きつ戻りつしているようやけど、僅かずつにせよ前へ上へと進んでる」(同234p)「スイッチバック式」の世界こそ、人類は建設していかなければならない、と著者は言っているのではないでしょうか。

かかるスイッチバック式世界が、原魚である「ヨネチ」の希求していた「ワシス」と共生する世界と同じものであることはいうまでもありません。この「スイッチバック式」世界のありかたを知り、次第に馴染んでいく男は、やがて「ああ、……しい」(239p)と口許を押さえるようになっていきます。かかる「……しい」という気持ちは、実に他者への「共感」「思いやり」の気持ち(レヴィ=ストロースの用法でのpity)があってこそ生まれてくるものだと私は思います。ですから男が「スイッチバック式」世界でこの言葉を吐くのはこれは当然の帰結というべきなのです。この言葉を言わせたことで、私は、著者の「スイッチバック式」世界に託した想いをはっきり確信できたように思うのですが……。
「マジかェ」
「うん、ちょっとだけ」
「おお、恥かし」(243p)

以上で、かんべむさし『原魚ヨネチ』(講談社文庫87、元版81)の読み終わりとします。

 





「原魚ヨネチ」より(8)  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 1()183431

  返信・引用  編集済

 

 

「トロッコ三部作」
この三部作は三作とも、頂上に向かって資材を運ぶトロッコのレールが敷設されている山が舞台となっています。レール上に資材を積んだトロッコがあり、それを新参者らしい男と、その男に兄貴と呼ばれている先輩の二人で押し上げているところが描写されているのですが、押し上げながら二人は会話しています。3篇とも二人の間で交わされる会話のみで成立しているのです。ただレールの敷かれ方が3篇で異なっており、作品タイトルである「ループ式」「アプト式」「スイッチバック式」は、それぞれのレールの敷設方式から採られています。

「ループ式」とは、山の斜面を螺旋状にレールが敷かれたもので、ふたりは山のへりをぐるぐるとまわりながら、すこしずつてっぺんに近づいていくわけです。あとの2方式に比べて一番「芸がない」、いうなれば「伝統的」な方式で、時間も無茶苦茶かかるとなっています。しかも斜度は緩いですが、常に傾きが存在するため、二人は休憩するときもトロッコを押し続けてないといけません。ちょっとでも手を抜くとトロッコがずり落ちてくるので。
本篇はいわば「シジフォス神話」の再話的な話で、ある意味もっとも人間の実存や不条理のアレゴリーとして読むこともできそうです。というか「まんま」アレゴリーなのです。すなわち――

「兄貴、やっぱり山は世間でレールは人生やなあ!」(「スイッチバック式」243p)

でもこれは、後述の「アプト式」にも、「スイッチバック式」にも当て嵌まることなんですよね。そういう意味で、同じ話を3篇も書く必然性がありません。3部作であるのは理由があるはずなんです。

「アプト式」とは、麓から頂上へ、レールがまっすぐ一直線に敷かれた形式で、当然斜度は急角度なんですが、「ループ式」と違って二本のレールの間には、第三の(ギザギザの付いた)レールが敷かれているのです。実はトロッコ自体にも歯車が取り付けられていて、この歯車がギザギザとかみ合わせることで、トロッコは前方には進みますが、後退はできないのです。そのためある程度斜面が急でもトロッコが自然にずり落ちることはなく、二人で押し上げることが可能になります。距離もぐるぐる回っていくのと比べれば格段に短い。
これは「ループ式」と比べてまさに「技術革新」といってよい。歯車と専用のレールを使用するという「テクノロジー」の勝利といっても過言ではありません。ただ単位時間当たりの人間の労働量はたぶん「ループ式」より「きつい」に違いありません。「きつい」ですが「速い」ので、効率はぐんとよくなっているはずです。

と書けばお気づきのように、「アプト式」という発明は、「原魚ヨネチ」における「巻き取り機」の発明と同じなんです。すなわち本篇「アプト式」の世界は、産業革命後の「近代化」社会をあらわしているといえる。この我々の現在の21世紀社会へまっしぐらに繋がった世界とみなしてよさそうです。

                ―――――              ―――――
ここでちょっと戻ります。
「アプト式」世界が産業革命からこっちの世界の謂であるとしたら、当然「ループ式」の世界は産業革命以前の「前近代社会」となるはずです。前近代社会とは(強引に言えば)「伝統社会」です。

「何しろ、こういうトロッコを、ぐるぐるぐるぐる山のへり廻って押し上げる現場におったときには、歳の功がどうとか世間ちゅうもんはこうとか言う兄貴がおったけど(……)」(「スイッチバック式」223p)

――上記は「ループ式」世界、「アプト式」世界を渡り歩いて「スイッチバック式」世界に到達した男の言葉ですが、まさに伝統社会(≒ムラ社会)の特徴をいいあらわしています。

                ―――――              ―――――

閑話休題。「アプト式」世界こそ、今日に通ずる「近代社会」そのものであると述べました。「原魚ヨネチ」において「巻き取り機」によって釣り上げられた世界は、著者によって「破滅」への至る道であるとされたわけですが、この「アプト式」世界はどうか。再び「アプト式」世界を逃げ出した男の、「スイッチバック式」世界での兄貴に語った言葉に耳を傾けてみましょう――

「ガチッとレールに歯車の噛んでいるトロッコを押す山におったときには、親方を信じればすべてうまくいくちゅう兄貴と仕事したけど、それでわしも一時はその気になったけれど、腹は減るし金は貯らんしで、辛抱できんようになって逃げてしもた」(同)

これまた近代社会の「現実」ではないでしょうか。しかも――

「いや、それだけならもっと辛抱もしたやろけど、その兄貴が大分あとになって首切られるとこを見たら、何やしらん、気持ち悪うなってナ……」
「首切られるて、それはつまり、クビになることかェ」
「そやなしに、ほんまの首をほんまに切られたんや。あの、ほら、ギロチンチンとかギロギロバッチンとかいう機械があるやろ」
「ギロチンな」(同223p-224p)

信じていればいいという「親方」とはだれでしょうか。私は「資本制」のことだと思いました。「カネ」(貨幣)の流通を保証しているのは「信用」ではないですか。その結果、「アプト式」世界の兄貴はギロチンに首を切られてあっけなく死んでしまう。しかもそのギロチンは、彼ら二人がアプト式のトロッコで運び上げた資材で建設されたものだったわけです。
このゆくたてが、「原魚ヨネチ」における「破滅」を、さらに具体的に(いや抽象的なんですが)説明したものであることは明らかだと思われます。

あともう少しですが、疲れたのでここまでとりあえずアップします。念のため。

 





今年最後の投稿  投稿者:管理人  投稿日:2009 1 1()002130

  返信・引用

 

 

-1を見終わった(まだやってるけど)。4時間近くずーっとテレビを見続けたのは去年のK-1以来です(笑)。つまらない試合はあんまりなくて(キン肉マンと武蔵くらいか)結構面白かったのだけど、K-1甲子園が一番よかった。去年も同じような感想を書いたっけ(^^;

今年の読了数は93冊。内訳は小説海外14冊、小説国内66冊、非小説13冊。去年68冊なのでまあよく読めた方でしょう。

今年のベスト5(但し暫定)は――
  川上未映子『先端で、さすはさされるわそらええわ』
  笙野頼子『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』
  高野史緒『赤い星』
  堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』
  眉村卓『司政官 全短編』
女性作家で統一してみました(眉村さんは当然別格)(^^;

今年最後の読了本は『原魚ヨネチ』、年越し本は『イスラム急進派』。

『原魚ヨネチ』の感想はこれから書くつもりですが、酔っ払っているので寝てしまうかも。考えてみれば「原魚ヨネチ」を参照して読み返すと書いた段階で、到達する結論は一つしかありません。わかる人には判ったのではないでしょうか。いやもちろん書きますけど……最後の最後でポカして予定が狂っちゃったなあ(ーー;

ということで今年もご愛読ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。といっているうちに既に年が変わっていますが(^^;

 

 


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