ヘリコニア談話室ログ(2009年2)





「未来形の読書術」とその応用  投稿者:管理人  投稿日:2009 228()222214

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石原千秋『未来形の読書術』(ちくまプリマー新書07)、読了。

いやーこれも滅茶苦茶おもしろかった。
前著の感想でケータイ小説が実話を装う理由をリアルによってオペラを既成事実化すると書きましたが、それと同時に「実話」でなければ受け入れられない人を対象としている面があることが本篇で判った。虚構を虚構として受け入れて楽しむ為にはかなり高度な操作が必要なんですね。

さて本書は、ある意味「受容理論」のきわめて平易な解説書でもあります。小説はすべて「未完成」なのであって、最終的に(ただし「とりあえず」)完成させるのは読者なのだという考え方は実に百万の援軍を得たような心強さをもたらしてくれました。本は自由に読んでいいのですよね(とは言い条、悲しい小説を愉快な小説だったというためにはとてつもない論理の冒険が必要なわけで、やはりある範囲内に着地せざるを得ません)。
「期待の地平」に着地する(既視感に安心する)娯楽作品がある一方で、私たちはそういうのに安住することなく「期待の地平」を裏切ってくれる小説を読みたいと思わないではいられません。そういう小説を読むときにこそ、読者の完成させたい欲求は満足させられるのですから。

昨日の「自己相似荘」評を例に取りますと、
>解決法が酷い
の「酷い」の内容は推測する他ないのですが、仮に「これだけ引っ張ってきたのに、このラストは何よ」という感じだったとしましょう。
「これだけ引っ張ってきたのに」というのは、言い換えればこの方が、ストーリーにぐいぐい引っ張られてきた、ということです。
ところが、もっと違うラストを期待していた。少なくとも「このラスト」ではなかったんでしょうね(いやまあ想像ですが)。
たしかにこのラストはある意味「ストーリーが読者に期待させる結末」(期待の地平=ホラー小説)を裏切る「アンチクライマックス」なのです。いやそうなのです!(笑)

だから私自身には「期待の着地点」をはずされて快感だったのです。
「視座の位置が変わると同じ部分を見ていても評価が逆になってしまう」とはそういう意味です。

その意味でわたし的にはあの解決法で(いちおう)オッケーだったのですが、一方で私には上記とは「別の」、私が期待する「全体像」(ゲシュタルト)というものがあって、そこにおいては「なぜ3博士は自らの望みを成就して永遠の(別の)生を獲得したのに、獲得するや否やそれを拒否しようとしたのか」が明かされる「SF小説」を「無意識に」望んでいたということだと思われます(まあ実際には永遠ではない(減衰する)わけですがそれはさておいて)。

その意味で、理由が明かされないまでも、そういう疑問を待田がラストでつぶやくだけでもある程度解消されたのかも知れません(それを発展させると「神狩り」的な話になりそう)。
ともあれわたし的見地からいえば「自己相似荘」は「期待の地平」に収まらない読者の参加を許容する小説として面白く読んだといえるようです。

 





ある「自己相似荘」評  投稿者:管理人  投稿日:2009 228()000255

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>解決法が酷い http://swimmingpool.seesaa.net/article/114737440.html(リンクの中継点が見えなくなっていますが10秒で自動で飛びます。またはurlをコピーしてパソコン上部のurl欄にペーストしてエンターしてください)
たしかに酷い(笑)
でも私はそれが好くて得点が高くなったんですけどね(^^;
言われていることは当っているわけで、視座の位置が変わると同じ部分を見ていても評価が逆になってしまう例といえる。ちょっと興味深かったのでメモ。でも三博士の「心変わり」(予想に反して居心地が悪かったんでしょうけど(^^;)の理由は説明して欲しかったかも。

その平谷さんの義経の影武者に焦点を当てた特異な空想歴史小説(?)『沙棗(さそう) 義経になった男』が現在新聞連載中で、新聞社のサイトにコミュが立ち上がっています。→http://flat.kahoku.co.jp/s/sasoh/(同上)
著者インタビューやSNSもありますので、興味のある方はどうぞ。

 





広角作家・小川一水  投稿者:管理人  投稿日:2009 227()214843

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ちょっと思うところがあって、小川一水作品のネット書評を見回っていました。気づいたのは「SFはあまり読んでない」とか「SFなのに読みやすい」とか、どうもSFのジャンルファンでない人が読者に多いように感じました。SFのジャンル的見地からいえば小川一水って期待のハードSF作家というイメージがあるわけですが、そうしますと濃SF者、薄SF者(非SF者)両方から支持されているのが小川一水の強みなのかも。と同時に引き裂かれる要素なのかも。(>メモ)

『ライト』100頁強。まだまったく全体像がつかめません。

前著↓が面白かったので、石原千秋『未来形の読書術』にも着手。

 





「ケータイ小説は文学か」  投稿者:管理人  投稿日:2009 226()233742

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石原千秋『ケータイ小説は文学か』(ちくまプリマー新書08)、読了。

いやーなぜ昼メロが「ソープオペラ」と呼ばれるのか、はじめて腑に落ちました。結局この文脈でのオペラとは、「荒唐無稽譚」という意味なんですね。スペースオペラが大宇宙を舞台の荒唐無稽譚であるように、昼メロ(主婦)やケータイ小説(少女)では、日常生活において、「リアリティ」がない程、レイプや不治の病などが都合よく次から次へと主人公に降りかかる。それを「実話」を「装う」ことによって、すなわち「リアル」であるのだから何でも起こりうる、と言いくるめてしまうわけです。小説の世界では認め難い「偶然の連続」も、リアルな実話としてなら「あったのだからあったんだ」と強弁できる。

後半は個別ケータイ小説(「Deep Love」「天使がくれたもの」「恋空」「赤い糸」)の構造分析が試みられ、ケータイ小説がジャンルとしての強度を持っていることが確認されます。
すなわちケータイ小説は(ジャンルとして)現実の「ホモソーシャル」な社会を強化し安定させる方向に構造化されており、結局交換可能な「商品」としての「女性」が肯定される。もとよりかかる構造を受け入れていても、それを逆手にとって(松本清張の主人公のように)男を手玉にとり自己実現していくことは可能なので、個別的にはこのホモソーシャル社会が女性にとって不利益だとは必ずしもいえませんが、少なくともケータイ小説の主人公たちはそのようなタイプではなさそうです、というかそれではジャンルから離れてしまう。通俗的なディストピアSF(たとえばハインライン)が現実(現在)よりも抑圧的な社会を未来に仮構することで、結果的に現在を肯定する(読者に肯定させる)機能を有するのと同じ仕組みが、ケータイ小説にもあるのかも知れません。

でもそれではあかんのですよね。オールドウェーブにアンチを突きつけてニューウェーブが勃興したようなジャンルのダイナミズムが動き出さなければならないのですが、筆者はどうも悲観的なようです。

 





ケータイ小説と「ライト」  投稿者:管理人  投稿日:2009 225()210835

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ちくまプリマー新書『ケータイ小説は文学か』を読んでいるんですが(半分くらい)、これがめちゃくちゃ面白い。いやケータイ小説はどうでもよくて(というと語弊があるか)、実質「読書論」というか「いかに読むか」を論じていて、普遍的な理論書のレベルに達しています。リアルとリアリティの違いは私も同じようなことを考えていて、本板で開陳したことがあります。

ところでここで要約されているケータイ小説(ex「DEEP LOVE」)のストーリーって、全然新しいものではなく、というよりも既視感ありありで、要するに「昼メロ」なんかのシナリオそのまんまだと思いました。こういうのって、たぶん(少なくとも)江戸時代から連綿と「再話」されてきているのではないかな。噴飯ものは噴飯ものですが、とりたててケータイ小説だからというものではなさそうです。

小説は『ライト』を選択。
この本も、実は読む気がなかったのでしたが、森下さんがベストSF2008に選んでおられたので、ちょっと気が変わりました(^^;→http://www2.ocn.ne.jp/~nukunuku/MyPage/BEST2008.HTM#MORISHITA

なぜ読む気がなかったかというと、帯には「イギリスSFの巨匠」とあるし、解説でも「イギリスにおいては、M・ジョン。ハリスンの名前は絶大な威光を放つ」と大変な持ち上げようなのですが、これに違和感を感じたのですね。
「うそやろ。そんな凄い作家ではないやろ」と思ったわけです。
私の記憶によれば、本場はいざ知らず、『パステル都市』は、日本では全然問題にもならなかったはず(翻訳が81年なので私のレーダーもかなり精度は悪くなっていましたけれども)。よく憶えていませんが、中途半端なファンタジーというのが世評だったような。
ちなみに復刊ドットコムでもわずか5票。うち2票は「ライト」刊行後、それ以前のはまさにファンタジーとの認識みたいだし、やはりMJハリスンの上記の持ち上げかたは誘導的で胡散臭いものを感じないではいられません。→http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=23731

ところがネット書評を見ておりますと、上記の(やや胡散臭い)評価をそのまま鵜呑みにしている人が多い。情報操作とまでは言いませんが、どうも当時を知らない若いファンが誘導されて、または勝手にお先棒を担いで踊ったり踊らされたりしているのは傍目かなりイタくていささか引いてしまっていたのでした(根拠もなく信用しすぎ)。

でもまあ、森下さんが評価しているんですから面白いのは間違いないでしょう(だから読もうという気になった)。ただそれは(私の予想では)ニューウェーブ的な面白さではなく、オールドウェーブ的な(ただし些かひねくれた)スペースオペラとしての面白さであるはず。

この「推理」、単なる直感ではありません。いささか自信があります。というのも解説が加藤逸人さんだからです。実はハヤカワ文庫にニュースペースオペラ路線を敷設したのが他ならぬ加藤さんらしく、それからの推論なのであります(^^;

とまれ読み終わって高らかに勝利宣言するのか、ごめんなさいと土下座するのか、乞うご期待(^^ゞ

 





「方舟さくら丸」  投稿者:管理人  投稿日:2009 224()000551

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安部公房『方舟さくら丸』(新潮社84)、読了。
結局やめられない止まらないで、昨日夜更かしして一気に読了。面白かった!

或る海辺の地方都市。かつて建築石材の採石場があり、今や住宅地となっている山の斜面の地下は採石の結果できた巨大な洞穴が縦横に広がっています。かつて採石の会社が5社あり、その5社がわれがちに無計画に地中を掘り進んだため、地下洞穴は入り組み迷路となっている。8年前落盤による大事故が発生したのですが、それはそのような無闇矢鱈な穴掘りの結果だった。それがもとで5社は撤退し、採石場は閉鎖され、地上は住宅地として分譲された結果、町では地下洞穴など存在しないことになっています。

その無人の地下洞穴に、主人公が一人で住んでいました。この大洞穴、人が数千人は住める広大なもので、主人公はそこを巨大核シェルターとすべく営々と整備してきたのです。核シェルターは、いわば現代の方舟ともいえる。少なくとも主人公はそう考えている。主人公はそこに選ばれた者たちを収容して未来に備えるべく、自らを方舟の船長と称し、共に生き残るものを求めてデパートにやって来ます。そこでユープケッチャという奇妙な昆虫を売っている男と、サクラを商売にしている男女のカップルと出会う……

この巨大な洞穴が実に好いのです。乱歩の「大暗室」を髣髴とさせられます。同時にこの方舟は「箱男」の拡大版ともみなせる。巨大方舟は箱男の段ボール箱と同じ意味を担ってもいるわけです。いずれにせよそこに子宮願望を見出すのは容易です。
主人公は船長を自称しているが、実は「ひきこもり」なんですね。上記3名を、主人公は最初の乗船者として連れてくるのですが、乗船させるや否や、早くも乗船させたことを後悔しています。

核シェルターが持て囃されたのは60年代で、70年代には既に人々の意識の上では無用の長物化していたように思われます。本篇は84年の書き下ろしで、当時としてもその設定はずいぶん時代錯誤感があったのではないでしょうか。大江「洪水はわが魂に及び」が73年で、そういえば本篇は大江作品と照応する面があります。

ところで核シェルターはいうまでもなくエコロジカルなシステムでなければ意味をなしません。それゆえここには70年代に意識され始めた「宇宙船地球号」的な観念も見出せる。ところが笑わせることに大洞穴のエコロジーを担うのが巨大便器なのです。これはほとんど魔法の便器(笑)で、機構的には地下水の水圧差による自然水洗トイレという説明が一応なされますが、ほとんど「おーいでてこい」の「穴」と同じ。主人公は工場の有毒廃液を引き受けてこのトイレに流す商売もしている。小動物はもとより、人間の死体でも分割すれば流すことが出来るのです。理論的には海へ流れ出しているはずなんですが、海が汚れている気配はない、ということで、本篇はある意味「おーいでてこい」へのレスポンスにもなっています。

それに関連して興味深いのがくだんのユープケッチャという昆虫。動かないので脚が退化し胴体だけになっており、フンをしながら回転し24時間で一回転する。餌は自分のフン。ただし排泄24時間後に食べることになるので、その間にフンに有機物が発生して栄養的に問題はない。これまたエコロジーの鑑というべき昆虫で、主人公は気に入って方舟のシンボルに持ち帰るのです(実在の昆虫かどうかは結局明らかにされません。くだんの昆虫屋がハサミと接着剤をつかってでっちあげたものとの仄めかしが作中にありますが)。

メリハリもなく作品の設定や要素を羅列していますが、ある意味そのような混沌とした作品で、主人公は主人公で何十年も非モテで女の子に接したことがなく生きてきて、生まれてはじめて、ちょっとイカした女(サクラの片割れ)が手に触れられるほど近い距離にいることでコーフンして足を滑らし、あろうことかくだんの便器にはまって抜けられなくなってしまい……そうしてようやく、物語は動き出します(^^ゞ

いわゆる「少し不思議な」小説であり、とりわけ奇想コレクションの読者には楽しめるのではないでしょうか。

 





「ウィジェット……」補足  投稿者:管理人  投稿日:2009 222()183919

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以前に書いたように、この本をなかなか読まなかったのは「落穂ひろい」だったら嫌だなと思っていたからでした。で、やはり落穂ひろいの感は免れなかった。ところが、これがスタージョンの特殊性で、落穂ひろいであるにもかかわらず楽しめた。それは一にスタージョンの作風がテクニック本位のアイデアストーリーではなく、主観的な観念の表現にこそあるからだと思われます。結局何を書いても同じことの堂々巡りなんですよね(よい意味で)。だから表題作のように構造が透けて見えていても面白い。こういうのって、純文系の作家によくありますよね。
同様の理由で読む気のなかった『TAP』も読んでみようかなと思ったり(^^;

ところで、スタージョンのライバルだったブラッドベリが気になっています。ブラッドベリの後期の作品を、私は読んでいませんが、たぶん間違いなく小説的には初期の煌めきはきっとないに違いない。でも、その煌めきに隠れて見落とされがちですが、ブラッドベリにはスタージョンとはまた違う情念の作家だった面があったと思うんです。そういう面が逆に後期作品では前面に出ているのではないか、その辺を確認したいと思い始めているところ(>備忘)。

などというのとは関係なく(汗)、安部公房『方舟さくら丸』に着手。100頁まで。海外ものがつづいてしまったので、目先を変えて(^^;

 





[ウィジェット][ワジェット]とボフ」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 222()105946

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表題作を読む。150頁の長中篇。
宇宙人がやってきて、文化的危機回避能力すなわち「シナプス・ベータ・サブ16」という超反射が人類に備わっているかどうかひそかに観察をしているのだが、あまりの反応の鈍さに業を煮やした宇宙人の一人が積極的な介入を開始する、というストーリーは、本篇を成立させる条件ではあるのですが、小説の本質にかかわるものではない。結局本篇はそのようにして設定された条件下で、或る人間の存在の型が考究されている。

本篇に登場する「被験者」は、各人各様の存在形態を示していますが、つまるところ「過去」に囚われた「受動的」な人格であるという共通項がある。法律家は法を先例の集積と考え(母親の影響大)、職業安定所の職員は自分が「平均」から離れた存在であることに悩み、司書の女は「かくあるべき」という幻影から逃れることが出来ない。
そのなかでは反受動的な反応を示していた(ようにみえた)女優志望の女も、実は過去(故郷・両親)にがんじがらめにされている結果の行動パターンであったことがわかります(サンドイッチのシーンに彼女の本来の資質があざやかに描写される)。

かかる「真に思考していない」あるいは「未熟である」ことに起因する「受動性」が、実に著者自身の性向の中に確実に存在することを、著者は「知って」いた。その一方で、そのような「認識できる」客観的な理性も、著者は備えており、その乖離こそがスタージョンの懊悩(劣等感)であり小説のテーマであったわけです。本篇はかかるスタージョン的テーマが、ある意味剥き出しに顕われた作品で、非常に判りやすい。人間は変わらなければいけないという結論がすがすがしい読後感をもたらしますが、現実にはこんなに易々と回心できるはずもなく、事実著者は、挫折し断筆を繰り返しながら、同じテーマの物語を、シジフォス神話よろしく終生書き続けるわけです。

小説としての出来(アイデア小説としての出来)は大したことない作品ですが(なぜなら「救われた」のは「介入された」人類のうちの数名だけ)、その内的懊悩はもとより読者の共有するところですから、実に面白く読めてしまう。そういう意味でいかにもスタージョンらしい作品であったといえましょう。

以上で、シオドア・スタージョン[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ」』若島正編(奇想コレクション07)、読了。

 





Re: ラヴィ・コルトレーン  投稿者:管理人  投稿日:2009 221()17303

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> No.1704[元記事へ]

調べたらラヴィは1965年生まれでした。父親を2歳で亡くしたのか。現在43歳で、すでに父親の享年(41歳)を2歳ほど越えています。しかし父母が偉大すぎるのもしんどそうですね。

 





Re: ラヴィ・コルトレーン  投稿者:堀 晃  投稿日:2009 221()14527

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10ほど前に山下洋輔ニューヨークトリオにゲスト参加してるんですね。
CDでは聴いているのですが、ライブには行けなくて、実物は見てません。
その頃に30歳くらいだったはずで、もう40歳を過ぎてるんじゃないかな。
それにしても、御大連中、みんな元気ですねえ。

 





Re: ラヴィ・コルトレーン  投稿者:管理人  投稿日:2009 221()134744

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> No.1702[元記事へ]

堀さん
息子がいたなんて完全に忘れていました(爆)。ラヴィって名前はシャンカールから貰ったんでしたっけ。
ソロの途中、チック・コリアが左の方を向きますね。切れてますが左にウェイン・ショーターがいるんですよね。おお、2代目なかなかやるじゃん、て感じで目配せしあったんじゃないかと想像しました(^^;

それにしてもサンタナ、気分はすっかりマイルスになりきってますね(^^ゞ

 





ラヴィ・コルトレーン  投稿者:堀 晃  投稿日:2009 220()230921

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わ、似てますねえ。
映像では初めてみました。
年齢は、もう親父の没年を超えているんじゃないですか?

 





コルトレーンの息子?  投稿者:管理人  投稿日:2009 220()223628

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ソプラノサックス

 





[ウィジェット][ワジェット]とボフ」(2  投稿者:管理人  投稿日:2009 220()205653

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「解除反応」「火星人と脳なし」を読む。
どちらも単なるアイデアストーリーだと思う。そんな筈はないと前者は再読してみた。でもわが裡から引っ張り出されてくるものが何もなかった。なので間違いなかろう。アイデアストーリーは内的に迫るものがない分、専らテクニックが問われるわけで、その意味では前者は退屈なだけだった。後者は主人公の父親がいかにもスタージョンらしい狂気一歩手前の稚気を発散していたのでそこそこ楽しめたけれども、読み終わって満足しなかったのは、もちろんアイデアストーリーだから満足しなかったという意味ではなくて、スタージョンはやはりブラウンではないということなんでしょうな。

気分直しにyoutubeを聴く。

 





[ウィジェット][ワジェット]とボフ」  投稿者:管理人  投稿日:2009 219()221411

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シオドア・スタージョン[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』に着手。
「帰り道」、「午砲」、「必要」まで読む。
おお、どこを切ってもスタージョンです(^^;
テーマの一つに「未熟」がある。「帰り道」では甘ったれた(別の角度から見れば「夢見がちな」)家出少年が見事に描き出されます。保安官はたぶん判っていて車を発車させた。そうすれば追っかけてくるのが判っていたから。
「その目に浮かんでいたのは当惑以外のなにものでもなかった」というのはまさにそうだったのでしょう。そのときすでに少年の脳内でaway homeは、a way homeにきれいさっぱり変換されていたのです。

「午砲」はスタージョン版平井和正(^^; まさに典型的アメリカン青春グラフィティ。ベタベタなんですが、前作とは違って本篇の主人公は「成長」します。

「必要」は100頁の中篇。本篇では既に大の大人になっているのに成長しきれていない(成長が途中で止まってしまった)主人公(?)の男が、周囲の善意で自覚し、回心するゆくたてが丁寧に描かれる。

「午砲」と「必要」に出てくる主人公のガールフレンドと妻は、ほぼ同じ性格が付与されていて、出来の悪い未熟な男を包み込みすべてを許容する。これまた甘い設定で、スタージョンには確かに「包み込まれたい」という子宮願望すなわち未熟な甘さと、それを冷徹に観察し暴き立てる視線が共存しているんですよね。

 





眉村さん情報  投稿者:管理人  投稿日:2009 218()220733

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さるお方が眉村さんの新資料を送ってくださいました。

1)「オートバイ」62年2月号所収のショートショート「誰れでも乗れる訳ではない」
2)「朝日新聞大阪版(47面)」70年1月1日に掲載のショートショート「EXPO2000」
3)「週刊ぼくらマガジン」70年5月5日号、「エクスポ大怪戦」原作/眉村卓、構成とまんが/堀江卓、絵/小松崎茂

2)と3)は、どちらも万博企画なんでしょうが、日本中が万博一色に沸きかえっていたのが目に浮かぶようです。
2)は、筒井康隆さんと同じタイトルでの競作。47面全面を二人で(顔写真付きで)占有しています。
3)は、万博の各パビリオンの形態が重要な要素になっていて、5月といえばすでに万博は3月から始まってますが、月刊誌の締め切りはもう少し早いはずで、眉村さんも開幕直後に早速見に行かれてこのアイデアを得られたんだろうな、などと想像して悦にいっております。

3つとも単行本未収録だと思います。眉村さんにお知らせして、可能なものは拙HPにて公開させていただきたいと思っています。個人的には「エクスポ大怪戦」をぜひ見ていただきたいんですが(^^;

  BGM

 





松岡正剛による  投稿者:管理人  投稿日:2009 218()004637

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中谷巌『資本主義はなぜ自壊したのか』要約←よくまとまっています。

 Mclaughlin-Santana 12

次はスタージョンの予定。

 





「ポジオリ教授の冒険」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 217()170556

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「銃弾」
あとがきにアンフェアとありますが、確かに動機は読者にはわからないのでそのとおりですが、事前に「このなかに犯人はいる」ということは判っており、決め手として「弾道学の件」が提出された段階で、私は「なるほど!」と膝を打ちました。詰め方としてはわたし的にはこれでオッケー。

「海外電報」から以降の作品では、次第に活劇的冒険小説的比重が高まっていき、それはそれで楽しい。本篇では南米の元独裁者にポジオリがいいようにあしらわれてしまいます(^^;

「ピンクの柱廊」では始末屋の被害者が柱廊を完成させたのに大量の材料を余らせた謎、目先に現金が必要なのに手形を受け取った謎から真相が明らかにされる。

「プライベート・ジャングル」では、いかにも南部的な家同士の抗争を背景に、ポジオリが大岡裁きをみせます。

「尾行」は、これはハードボイルド派のシチュエーションです。主人公は名無しの探偵であった方がよかったかも。ポジオリではややキャラクター的に違うような気がします。この作品と「つきまとう影」はポジオリものとしては異色ですね。

「新聞」「海外電報」の続き。これまた禁酒法が背景にあり、ハードボイルド的なシチュエーション、ではあるんですがとんでもないことにこれがドタバタ(^^; 探偵志願のタクシードライバーがポジオリの捜査を引っ掻き回し、最後にはお手柄を上げます。これは面白い。吹きだすところ随所。

以上で、T・S・ストリブリング『ポジオリ教授の冒険』霜島義明訳(河出書房08)読了。
通読すると、1930年代の南部世界が目の前に広がってきて興味深い。社会派としての著者の一面が生かされている。モームの南太平洋ものを思い出した。
と同時にユーモアが全体を包んでいるのも特徴で、これほどの秀作群が、近年まで雑誌の中に埋れていた(あとがき)というのは、逆の意味で1930年代がミステリ黄金時代であったことの証左なのかもしれませんね。

 





「ポジオリ教授の冒険」(3  投稿者:管理人  投稿日:2009 216()224342

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「チン・リーの復活」
昔の日本人が(ほとんど接触がなかったため)外人の顔の区別がつかなかったように、マイアミのど田舎に住む白人には中国人の顔の区別がつかない、というのがトリックになっているように、「一見」みえる(あとがきの解釈もそう)。
でも実はそうではなく、さらにもうひとひねりしてあって、「自分の知っているたった一人の中国人の顔が、見るたびに、その前に見たときの当人の顔とつながらない」(139p)事実にこそ、トリックが仕掛けられていたのです! それをもって「中国人の顔は区別がつかない」と思い込んだのは「決め付け」の落とし穴。
だからこそポジオリは中国人は一人しかいないのに……と不審がったわけですね。なるほどたしかにチェスタトン的(^^)

 





「ポジオリ教授の冒険」(2  投稿者:管理人  投稿日:2009 216()005331

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今気づいたのだが、「カルメン・ドッグ」の帯にコニー・ウィリスの推薦文が載っていて、「フェミニズムとオペラと一匹のクズリを取り上げて、これほど魅惑的な作品をつくりだせる人は、彼女しかいない」と持ち上げています。持ち上げるのは結構なんですが、クズリはイザベルでプーチはセッター犬なんですよね。イザベルはかなり端役。
この文の出典が不明なんですが、私が思うにウィリスは「カルメン・ドッグ」を読んでないね。パラパラとめくってみたことはあったかもしれませんが。しかしまあいかにもウィリスらしい、お気楽というか軽いというか。アメリカの栗本薫と呼ばせてもらいましょう(^^ゞ

ポジオリ教授は「つきまとう影」を読む。
いきなり100頁を超える中篇でびっくり。途中まで気づいていなかったもので。
異様なまでに面白い。ほとんどドタバタ(カー的な意味で)。
途中まで一般衆生の根拠のない(第1話の夫人のような)超自然信仰を揶揄するゆくたてだったのに、終わってみれば超自然が勝利していたのには呆然。

でもここで終わってちゃ、形式的には単なるホラーなのでは?
ここから(つまり超自然を「ある」と認めた地点から)それを科学的に(もしくは論理的に)説明する視点が必要なのではないのかな。でないとSFにはならない(いやそもそも作者がSFを目指していたとは思ってませんが)。

 





「ポジオリ教授の冒険」  投稿者:管理人  投稿日:2009 215()155624

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『カルメン・ドッグ』の感想文をチャチャヤン気分に掲載しました。http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/188.html

しばらく海外作品には興味を失っていたのですが、本書のおかげですこし回復のきざし。

とりあえず安心な『ポジオリ教授の冒険』に着手。
で、冒頭の「パンパタールの真珠」を読む。面白い(^^)
しかし――
あとがきの解題で、
「……という意地の悪い見方もできなくはない」
とあるのだが、ふつうに読んでもそっちの解釈でしょう。でなければ冒頭の夫人の言葉「念ずれば実現する」が生きてきませんやん。
それともSF読みはミステリ読みよりも見方がひねくれているのでしょうか(^^;。

持続するようならば、興味を失った原因であるところの・売れ筋とみれば擦り寄ってくる商売根性を不愉快に感じた・しかし著者的には興味がある・でも落穂拾い的な内容ならがっかりだなあ……と激しく心が揺れる『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』に進んでみるかも。

 





「カルメン・ドッグ」  投稿者:管理人  投稿日:2009 214()223457

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キャロル・エムシュウィラー『カルメン・ドッグ』畔柳和代訳(河出書房08)読了。
傑作! 前作の翻訳で印象が悪かった同一訳者ということで、読むつもりはなかったのですが、「らっぱ亭奇譚集」を読んで無性にエムシュが読みたくなり、読んだのでした。読んで大正解。これは無類の面白さでした。
長篇だからでしょうか、エムシュは短篇ほど「いっちゃって」ません(^^; なのでずいぶん読みやすい。むしろ入門編として最適かも。本書を読んでから短篇集に進んだほうがいいかも知れませんね。
いやこれは森下さんの年刊ベストSFの投票、もう一度よく考え直さねば(^^;
感想はあとでチャチャヤン気分にでも(再読するかも)。

 





仮面と着ぐるみ  投稿者:管理人  投稿日:2009 213()224425

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『カルメン・ドッグ』は残り50頁。
ローズマリー仮面が出てきたあたりから俄然『おんたこ第三部』との類似が気になってきました。本書「カルメン・ドッグ」の初出は1988年。エムシュが「おんたこ第三部」を読んでいるはずがない。また「おんたこ第三部」の発売も本書より8か月前ですから、これまた笙野頼子が本篇を読んでいるはずがない。
つまり類似性には影響関係は皆無で、それぞれ独自に同じようなシチュエーションに達していたことになります。うーむ。
それにしてもこのカルメン・ドッグの「世界」はいいですねえ。コードウェイナー・スミスの「世界」に引けを取りません。そういえばどちらも知性化した動物が出てきますが、そういう表面的な類似ではなくて……。

翻訳は前著に比べて格段に改善していますが、まだところどころ不用意な訳語の選択が出てきてがっかりする。
「太陽および自分が踏みしめている土をときには礼拝するだけの穏やかさを備えていたか?」(123p)

しかしまあ、これも訳者の「解釈」と認めましょう。でき得れば(カフカのように)複数の翻訳家の「カルメン・ドッグ」を読めたらこれに越したことはないのですが。

 





エムシュ版オデッセイ  投稿者:管理人  投稿日:2009 212()213949

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『カルメン・ドッグ』は丁度半分。こ、これはエムシュ版オデッセイでは?
人間の若い女性に変化し続ける犬・プーチ。彼女の前に立ちはだかる男たち。試練また試練。巨大な波に翻弄されつつもそれによって逆に女性と母性を発現させていくプーチの運命やいかに!?
面白い〜!

追記。
今日の読売夕刊に小松左京さんのインタビューが載ってますね。今気がつきました。
『日本沈没』は第二部が本当に描きたかったというのは、第一部を読めば自明ではありますが、ご本人がはっきり明言されたのは、私の知る限りでは初めてではないでしょうか。もっとも小松さんのトレースをきっちりしているとはとてもいえないので、私が知らないだけということは大いにありえますけどね(^^;
『虚無回廊』の結末についての言明もあるのですが、これも周知のことなのかな?

 





「らっぱ亭奇譚集」  投稿者:管理人  投稿日:2009 211()115933

  返信・引用  編集済

 

 

出版物ではないが、らっぱ亭さん編訳のPDF作品集『ブレイクニーズの建てた家(らっぱ亭奇譚集ラファティ以外のお蔵出し総集編)読了。
副題でわかるように、本集は去年上板、否、上網された『満漢絶席(らっぱ亭奇譚集ラファティ総集編)につづくもので、これでほぼ編訳者の「作品」は網羅されています。

内容は、
イドリス・シーブライト「ヒーロー登場」 (初出>「タッツェル蛇の卵」)
アヴラム・デイヴィッドスン「ブレイクニーズの建てた家」  (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)
ジーン・ウルフ「ゲイブリエル卿」  (初出>らっぱ亭mixi日記)
クレイグ・ストレート「曾祖父ちゃんを訪ねる日曜」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)
リサ・タトル「骨のフルート」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その壱」)
アヴラム・デイヴィッドスン「最後の魔術師」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その壱」)
キャロル・エムシュウィラー「妖精 ― ピアリ ―」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その壱」)
ジェラルド・カーシュ「人じゃなく、犬でもなく」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)
キャロル・エムシュウィラー「石環の図書館」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)

私はたぶん初出誌で全て読んでいるはずなのですが、かなり忘れていて、タイトルみただけでは甦ってこないものもありました。読み始めたら「ああこれか」と思いだすんだけど、読み始めても思い出せず、読み終わってからも戻ってこないのが一篇あった。ひょっとしたら読んでなかったのかも(^^;
それが実に「骨のフルート」で、そう判断したのは他でもありません、この作品一度でも読んでいたら忘れるはずがない傑作だったからであります。
内容は、いわば文化人類学風味の音楽SF。ラストの、骨のフルートと作中人物であるベンが出会うシーンで、何となく結末は見えてくるんだけど、逆にそれゆえにゾクゾクしてしまいました。そういう構成も見事。尾篭な話で恐縮ですがちょっとM27っぽい(^^; 彼は人間的に最低だったけど確かに小説は面白かった。ってここで書いても仕方がないか(汗)
ムード派といいますか、ムーアとかブラケットを現代的に甦らせた感じがしました。嫋々たる余韻がいいですねえ。こういうのは好きです。
しかしらっぱ亭さんのHPの紹介文では「何とも居心地と後味の悪いホラー短編を特徴」としていると記されており、本篇みたいなのは異色作品なのかな。いやいや、とはいえ本篇も「男女間の嫌な話」であるのは間違いありません(^^;

「ヒーロー登場」の初読時の感想http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/133.html

「ブレイクニーズの建てた家」は、異様な迫力があり、本集のベストを争う。さすがタイトルに冠されただけのことはあります。

「ゲイブリエル卿」はどっちの方向からも意味が通りますが、現代生活、夫婦生活に押し潰されそうな英雄が泣かせます(^^; ちなみに聖燭祭は2月2日。ハリー・アップルドルフはハリーアップ・ルドルフ(トナカイ)?

「曾祖父ちゃんを訪ねる日曜」は、オチをまったく忘れていて面白かった(^^;。設定自体は「クロニカ」のそれと同じなのだが、それを趣向として謎にしておいてオチに持ってきているので楽しめるわけだ。もちろん「クロニカ」を楽しめる読者もいるんだろう。私の読みとは全然重ならない読者がきっと。

「最後の魔術師」は、ブラウンっぽいともいえるけど、ちと違う。英語に不自由な移民が綴り(スペル)を聞きたかっただけなのに、なんでこんな魅力的な話になってしまうのか? まさに錬金術。

「妖精 ― ピアリ ―」
茶色の服しか着ない、持ってない、それが全てを言いあらわしている、そんな初老の男が、ひょんなことで(男とはまったく正反対な撥ねっ返りの)孫娘を預かることになる。僅か5週間だったが、孫娘の「毒気」にあてられた男は……。
燃え尽きる一歩手前の蝋燭の最後に大きく伸びて揺らめく、炎のようなラストが切ない逸品。

「人じゃなく、犬でもなく」
カーシュ十八番の海洋もの。人生の達観者がかつて一度だけかけがえのない友情を感じたのは……。
皮肉且つ真摯、笑ったらよいのか涙すればよいのかよく判らん怪篇。

「石環の図書館」
これはもう10回は読んでいる。ボルヘス的雰囲気の傑作。憚りながら私も、今やずいぶんエムシュを読んできたからいえるのだが、ボルヘス的なエムシュって、実は異色なんですね。とはいえボルヘスはこんな主人公は配置しないからやはりエムシュでしかありえない。

ということで、いかにもらっぱ亭さん好みの奇妙な作品が蒐集されていて読み応え充分。逆にいえば非常に翻訳しづらい翻訳家泣かせの作品ばかりを並べたとも言い換えられます。
「ブレイクニーズの建てた家」 なんて、浅倉久志さんが「翻訳不可能」な作品だといわれたのではなかったかしらん(^^;

で、昨日の投稿に繋がるのですが、このような作品群は、逐語訳ではなにも伝わらないのです(大衆小説はこの限りではない。用いられている観念やセンチメントが既成のものだから)。実質「翻案」に近くなるかもしれませんが、翻訳者の「解釈」で訳していかなければどうしようもない部分に必ず直面するはずなんです。それはいきおい「批評性」を含まないではおかず、その翻訳は翻訳でありながら不可避的に翻訳者の「オリジナル作品」の様相を呈してくる。
らっぱ亭さんの訳業は、たしかに翻訳者名を隠して読まされても、あ、らっぱ亭訳だな、とただちに気づかせる独自の文体があるように感じられるのですが、それはまさに「翻訳」でありながら同時に「オリジナル」であることに因っているように思われます。その独自性の部分が、またセンスがあって素敵なんですよね(^^)
購読希望者はメール下さい。添付ファイルにてお送りします(編者承認済み)。

さて、上に記した2冊のPDF作品集ですが、私の計算に間違いなければ、併せれば優に四六版単行本一冊分のボリュームがあるはずなんです。これはもう本にすることを考えてもいいんじゃないでしょうか、国書さんあたりで(^^;

エムシュが読みたくなったので『カルメン・ドッグ』に着手。

 





翻訳は批評であり創作だ  投稿者:管理人  投稿日:2009 210()224949

  返信・引用

 

 

>直訳( 逐語訳)が必ずしも正しい訳とはいえない。内的な意味を正確に伝えるのが翻訳の奥義ではないのか
と昨日書きましたが、ちょっと筆が滑りました。
上記も間違っているとは思いませんが、どちらかというと建前論。
現実の翻訳は、むしろジャズでオリジナルを新解釈で演奏するようなものとして考えたほうが実情に沿っているのではないでしょうか。そういう意味で、翻訳とはある意味オリジナルに対する「批評」であり、もはや「創作」の一種と考えていいと私は思います。
いま、「判決」を柴田翔訳、池内紀訳、長谷川四郎訳の3種を並べて読み比べて、その感を強くしているところなのですが、だとすれば翻訳者の「解釈(批評)」は必須であって、「直訳(逐語訳)」とは、自らの読みに自信がないため「解釈」を避けて訳す逃げの一手というべきなのかも。

 





「カフカ・コレクションU」  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 9()22156

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どうも風邪をひいていた模様。微熱があり、日曜は日がな一日パソコンの前でぼーっとするか炬燵でうつらうつらしていました。今日も午前中は引きずっていて、ようやく夕方ぐらいから背中の痛みも取れ、復活の気配。
ということで読書は殆ど進まなかったのですが、とりあえず――

平野嘉彦編『カフカ・コレクションU運動/拘束』柴田翔訳(ちくま文庫08)読了。

生前にカフカが発表した作品はほんの僅かな短篇だけしかありません。しかし、周知のように、遺言で焼却を託された友人マックス・ブロートの「裏切り」によって、三大長篇は言うに及ばず、「幸いにも」かなりの量の草稿、メモ、日記の類が世に残ることになりました。
『カフカ・コレクション』全3巻は、三大長篇を除いた「重要な中篇、短篇小説は、これで網羅していることになる。それだけでなく、日記、ノートに残されていた未完の小説、そもそも未完なのかどうか、それすら定かでない断章にいたるまで、かなりの量の短いテクストを含んでもいる」(編者によるT巻のあとがき)文字通りのコレクションです。
但しその配列は、一般的な時系列ではなく、編者の「恣意」により、「時空/認知」「運動/拘束」「異形/寓意」の3種に分類され、各巻も短い断章から長い中篇へと長さに基いて配置されています。つまり「編集の過程において、すでに一定の解釈が入り込んでいる」(T巻あとがき)わけです。
「このような構成によって、それらのテクストに通底しているものが、あえていえば範疇的な何かが、おぼろげながらかたちをなしてくることになるだろう」(同上)

本書(U巻)においても、例えば「流刑地にて」は代表的な短篇で既読の方も多いかと思われますが、本書ではその「定稿」のあとに、日記から抽出されたその部分的なヴァリアントが付加されていて、「定稿」によって「確定」される以前の、いわばシュレディンガーの猫というべき「可能世界」が味わえるようになっていてなかなか興味深いです。とりわけ「流刑地断片群3」のラストは実に魅力的なシーンで終わっていて、このラストで終わる「流刑地にて」をしばし妄想してしまいました。

柴田翔の翻訳は、「カフカの語りの息づかいのようなものが好きなので、それを日本語でどれだけ出せるか、やってみたかった」(U巻の柴田翔あとがき)との言葉どおりの平明な、しかし息の長い文章でとてもよい。柴田翔のこの「あとがき」は翻訳論としても読むべき価値があると思います。直訳( 逐語訳)が必ずしも正しい訳とはいえない。内的な意味を正確に伝えるのが翻訳の奥義ではないのかと私は思うのでとても共感しました。

池内紀訳の、ほとんど翻案に近いそれは、しかしきっちり解釈を確定していて、読者が悩むところは殆どないのに比べて、柴田訳はそこまでドラスティックなものではありません。ただ「語り」というのは、池内もどこかで、カフカの文章は朗読を想定して書かれたものといってましたから、原文で読むとそういう感じがする文章なんでしょう。池内は、だからカフカの原文が改行もなく蜿蜒と続くからといって、蜿蜒と翻訳するのは間違い。なぜならカフカは朗読する際に、思い入れをこめたり間を取ったりして読み聞かせているはずだから、翻訳はそれをも勘案解釈して改行を加えたり、複文を分解するのは当然の作業だと考えていたようです。柴田訳は文を分解することはしていないようですが、改行は随時行なっているようです。

 





小学校唱歌に於けるケルトの影響  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 8()013348

  返信・引用

 

 

うう、背中が痛い……肝臓か。

村田さん
あんまり期待しないでね(^^;
村田さんの期待とはちょっとずれた方向かもです。

>若いです、未熟です、弱いです
これって、「いまどき」ではなく「永遠の」若者の特徴ですよね。モラトリアム。ただモラトリアムを30過ぎても続けているというか、続けられる環境は、たしかに「いまどき」ではあります。でもそれはとりもなおさず、環境が揃っていたら団塊の世代でも30過ぎのモラトリアム人間はありえたということでもあるわけで、これも面白いテーマです(^^ゞ

それはさておき、かんべむさしさんがHPにおいて、カントリーミュージックとアイルランド民謡がよく似ている理由について言及されています。私もずっと似てるなと感じていました。
で、これは「初期のアメリカ移民にはアイルランドからの集団が多かった」からなのだそうです。
そういえば、ピーター・トレメイン『アイルランド幻想』によれば(今引っ張りだして来ました(^^;)、1845年からの数年間、アイルランドでは主食のポテトが大凶作となり「大飢饉」に見舞われ、その結果、餓死や病死、海外への移民などでアイルランドは200万人の人口を失ったんだそうで(447p訳註)、この海外移民は、ほぼアメリカ移民と同義なのです。集中の「大飢饉」という短編は、大飢饉が遠因で起こった或る事件のせいで、アメリカへ渡った男の因縁譚でした。
wikipediaのアイルランド系アメリカ人によっても、1845年から1849年にかけて起こったジャガイモ飢饉の際には、数百万人のカトリック教徒が北アメリカへと押し寄せた」となっています。

ですからアメリカ民謡といわれるものは、アイルランド民謡のヴァリエーションが多いのです。当然オリジナル・カントリーミュージックもアイルランドの香りが強くなるわけです(アイルランド民謡は→ここで試聴できます)。
こうやって聞いてみると、我々日本人にも非常に懐かしい感じがします(「ロンドンデリーの歌」(ダニーボーイ)なんて、しびれますなあ)。日本の小学校唱歌にこんな感じの曲が多いですよね。最近中島美嘉が歌った「おぼろ月夜」とか。日本人とケルトは感性が近いのでしょうか。例の「埴生の宿」もそうですが、調べたらこの曲の作者はイギリス人でした(^^;

 レオン・ラッセルのアメイジング・グレース マイ・クリケット

 





>『日本人論としての若者論』  投稿者:村田耿介  投稿日:2009 2 7()223516

  返信・引用

 

 

 期待しております。
 先の投稿、言葉足らずのところを汲み取っていただき、ありがとうございます。

>実はですね、本書に共感する直接の契機となったことがあって、つい最近ミクシイのあるコミュで、管理人の人(学生らしい)が載せた意見に対して理路整然たる、併しかなりきつい言いようのレスが載ったのです。私は管理人がどんな反論をするか楽しみにしていたのですが、なんとこの管理人、何の反論もせず突然管理人を辞めてコミュから抜けてしまったのですよ。がっかりです。レスした人もびっくりしたのではないでしょうか。私思わずああ今の若い奴はと呟いてしまいました。

 実はですね(笑)、先日、僕も9歳程年下の、最近の友人を切れさせまして。その友人が、肥満している女性を罵倒するようなことを自分のブログに書いていたので、ちょっときつく注意したのですね。反論に反論したあたりで案の定、切れられまして、「もう見ないでいいですよ」「嫌いなら放っておいてくれればいいのに」と、その後も書き綴られました。
 喧嘩するつもりはなかったので、どうしたものかと頭を抱えたのですが、その友人、だいたい3日後に頭が冷えたのかその罵倒的な言説を全て削除し、私には何事もなかったかのように接してきたのですよ。

1)すぐ音を上げて逃げる若者、2)「キレた」「オチた」「真っ白になった」といえば許されると思う若者、3)自信がありすぎたりなさすぎたりする若者、4)自分のことしか考えられない若者、5)簡単に傷つき過ぎる若者

 なるほど、確かにこれらだいたい当てはまるようで、僕も「最近の若い者は」と思わないでもありませんでした。しかしながら、僕には釈然としない思いが残りましたが、こちらの言っていることは伝わって、反省もした模様だったので、別にいいかと思っておりました。それが1月の半ば。
 で、ついさっきその友人とひさびさに色々とおしゃべりをしてたんですけど、途中でふと真顔になり、

「今更ですが、あの時はすいませんでした」

 おせえよ、と思いつつもほっとしました。
 若いです、未熟です、弱いです、確かにダメです。でもこの友人はそう捨てたもんでもないし、僕ら年長者が辛抱強く接すれば、変わる事だってあるんじゃないかという思いを抱きました。

 香山氏の言説の誤謬を指摘する場合、「印象論」である、というのがまず思いつく指摘であります。ただ実際に経験則に照らすとそういう事例ばかりであった、というなら、わからないでもありません。
 しかし、今回の著作の扇情的なタイトルも含め、もはやそもそも「印象操作」のために書かれているのではないか、という疑念までもが拭えないんですよね。
 最近、まだ若者なつもりだけど、もっと若い奴なんていくらでもいるという中途半端な歳になりまして、だからこそあまりあっさりと「若者は……」なんて言う気にはなれないでいます。

http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/

 





「日本人論としての若者論」  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 7()14426

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>泡坂さん
昨日がお通夜で、今日告別式だったそうです。
伝え聞くところによりますと、その日の朝までお元気にされていて、昼過ぎ救急車で運ばれ夕方に亡くなられたとのこと。
不謹慎かもしれませんが、私のような年齢になりますと、本当に理想的な辞世のあり方のように思われて羨ましいかぎり。願わくは私もかくありたいと思わずにはいられません。改めてご冥福をお祈り致します。
なお現在発売中の「小説宝石」に亜智一郎ものが掲載されているそうですが、今後掲載される「遺稿」も3つほどあるそうです。お元気なまま逝かれた証拠ですね。

村田さんにインスパイアされて若者論についてあれやこれや考えをめぐらせています。いろいろ妄想が湧いてきて楽しい(^^; 時間ができればとりあえずサマリー的なのを掲示したいと思います。

『カフカ・セレクションU』26篇中残り3篇。なんですが、ページ数でいえばようやく半分(^^;

 





「主人公は死んでる」  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 6()20534

  返信・引用

 

 

来たる2月28日(土)、3月1日(日)、シアトリカル應典院にて、岩橋貞典氏率いる劇団オリゴ党第26回公演が開催されます。

タイトルは『主人公は死んでる』

「主人公」をめぐるお話だそうです。
「あなたは主人公ですか?」「あなたを取り囲む世界に対して、あなたは主人公でいられますか?」
うーむ、なかなか難しそう(^^;
「主人公になんかなりたくない」ですって? いやいや、「あなたの見る、参加する、『あなた』という物語の、しかし主人公があなたではないとしたら、ではあなたは誰でしょう?」
ということで、いかにも岩橋脚本らしく「相変わらずぐちぐちと面倒臭い思考の袋小路」てな感じなんですが、実際はそんなんとはまるっきり関係ない「映画の撮影の話」で、「オリゴ党史上、最高SFアクション超大作!」なんだそうです(^^;。「まあ、CGだしな」(>おい)

公演の詳細はHPをご覧下さい。
私は日曜の昼の部に出掛けるつもりです。前売り価格で入れる当日精算券を持ってますので、興味がある方はご一報下さい。

クリックで拡大

 





Re: Re: 「私は若者が嫌いだ!」  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 6()001712

  返信・引用  編集済

 

 

> No.1681[元記事へ]

村田さん
ご無沙汰しております。
さて、のっけから痛いとこを突いてきましたねえ(^^;。たしかにおっしゃるとおりまさしく「若者に限った話」ではなくて、日本人一般の傾向なんですよね。
年取ると、「最近の若いモンは」と言いたくなるんですよ。どうか堪えてつかーさい(^^;

でもそれが年寄りの感覚だとしても、やはり私には、かつて日本人論で指摘された傾向が、最近の若者において増幅して顕在化しているという「印象」が拭えないのですよね。下の文における私の趣旨は「70年代において改善された(という言い方が西欧的すぎるならば「変化した」)日本人のある傾向が、結局元に戻ってしまった」というものなんですが、きちっと書けてませんね。すみません。
で、それはどうしてなのか? というのが私の関心事項なんです。ですからこの点においては、私と著者の間には認識の相違があります(著者はこういう若者の傾向を「再現」とは捉えてないようにみえます)。

実はですね、本書に共感する直接の契機となったことがあって、つい最近ミクシイのあるコミュで、管理人の人(学生らしい)が載せた意見に対して理路整然たる、併しかなりきつい言いようのレスが載ったのです。私は管理人がどんな反論をするか楽しみにしていたのですが、なんとこの管理人、何の反論もせず突然管理人を辞めてコミュから抜けてしまったのですよ。がっかりです。レスした人もびっくりしたのではないでしょうか。私思わずああ今の若い奴はと呟いてしまいました。

で、この管理人の行動は、まさに香山氏が箇条書きにした「最近の若者の嫌いなところ」を殆どすべて備えていたように私には思われました。すなわち1)すぐ音を上げて逃げる若者、2)「キレた」「オチた」「真っ白になった」といえば許されると思う若者、3)自信がありすぎたりなさすぎたりする若者、4)自分のことしか考えられない若者、5)簡単に傷つき過ぎる若者です。あれ5つしかないや(汗)

しかもたしかにきつい言いようではありましたが、私が客観的に判断するに、その文は管理人を個人攻撃したものではなかったのです。でも管理人の人は「僕は嫌われている」と思ったのではないか。香山氏の言う「好き−嫌いの二分法」に当て嵌まります。
そういうごく最近の出来事があったため、より香山氏の言説に共感してしまったかもしれません。

しかしながら、村田さんに指摘されて、たしかにこれでは特殊な例をもって一般化していると言われても仕方がないかもと反省しています。香山氏の議論は印象論であり論証性が弱いのは確かですが、それでもまるきり間違いでもないように思います。ただおっしゃるように、「これらを一括りにして「若者論」に結びつけるのは無理があるんじゃないか」というのはそのとおりで、本書の内容を、今の若者に限定せず日本人論として読み替えるべきなんでしょうね。いろいろ私のなかでもはっきりしてきたような気がします。ありがとうございました。
でも……やっぱり「最近の若いモンは」って言いたくなるんだよなあ>おい(^^;

 





Re: 「私は若者が嫌いだ!」  投稿者:村田耿介  投稿日:2009 2 5()213740

  返信・引用

 

 

> No.1678[元記事へ]

どうも〜、ご無沙汰してます。
またちょっと畸人境にも顔出そうかと思ってますんで、よろしくです。

> ところでこういう<私>の薄さって、実は昔から日本人の特質とされていたのではなかったでしょうか? 現在の若者の付和雷同の姿は、70年代に雨後の筍のように発表されたあまたの日本人論が問題にしていたことでは?

> それが再び表面化してきた、顕在化させたメカニズムがなんであるのか、本書ではもひとつハッキリしません。

ほんとに仰るとおりでして、本書に関しては、これが最近の若者に限った話として展開されていいのか、という疑問があるんですよね。
これらを一括りにして「若者論」に結びつけるのは無理があるんじゃないか。今、若者にそれが表面化しているというなら、それが事例なり何なりで論証される必要があるんじゃないか。
なぜ「日本人論」でなくて「若者論」になるのか、そこに何らかの悪意、レッテル貼りの意図はないか。

>ところで、幸いにしてわが友人の若者たちは例外なく本書の規定から外れています。

そうそう、これが証拠……ワタクシもまだこの「若者」に入ってますかね(笑)。
ちょっと最近、こういった問題に興味持ってまして、色々と読もうかなと思ってます。

そもそも香山氏は『なぜ日本人は劣化したか』というそのものズバリなタイトルの本も出しているんですよね。
下記もちょっとご参照下さい。

http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2007/04/post_6cb6.html

ではでは。

http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/

 





Re: Re: 眉村さん50周年  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 5()160342

  返信・引用

 

 

> No.1679[元記事へ]

大橋さん
ありがとうございます。よろしくお願いします。
大橋さんは眉村さんの住吉高校の後輩であり、同じ区域で育ったんでしたっけ。ジュブナイル関係でぜひ協力をお願いしたいのはもちろんですが、そういう地域的なのもお願いしたいなあ、と今漠然と思いました。もっとよいアイデアがありましたらご提案下さい!

『カフカ・セレクションU 運動/拘束』に着手。訳は柴田翔。

 





Re: 眉村さん50周年  投稿者:大橋博之  投稿日:2009 2 5()072125

  返信・引用

 

 

> No.1670[元記事へ]

私にも出来ることがあれば、ぜひ、協力させて下さい。

 





「私は若者が嫌いだ!」  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 4()234024

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泡坂妻夫さん逝去http://mainichi.jp/select/person/news/20090204k0000e040062000c.html
実は私、年末に出た『幻影城の時代 完全版』の短編が初泡坂だったのです。面白かったので即『鬼女の鱗 宝引の辰捕者帳』を読み、これまたとても面白かった。というわけで、まさに興味を持った矢先の訃報で、愕然としました。
でも見方を変えれば、『幻影城の時代 完全版』は間に合ったわけで、本当によかったですね。合掌。


香山リカ『私は若者が嫌いだ!』(ベスト新書08)、読了。
うんうんと頷くことしきり(^^; 著者の「何ともいえない」焦燥感、よく判ります。
ここに書かれている若者像を(わたし的に)突き詰めれば、結局<私>が希薄(未発達)ということに尽きるのではないか。<私>が薄弱だから、主体的でなく受身的な構えがすべての行動の基準になる。
<私>が薄弱だから<客観性>も身につかない。だから積極的に世界理解に努めようと思う(知識欲求)動機も発動せず世界が広がらない。知識がないから(客観的に)根拠がないものにも容易にすがりつくし、すがりつける。
好き-嫌いの二分法でしか世界を整理できないのも主体と客観の未発達(未分化=セカイ系)による主観の肥大化の帰結(もとより主観は私(主体)にあらず。客体が確定して初めて主体は現われる)。
教育格差は確かに重要な問題ですが、教育格差の上と下の両方で同じく<私>の希薄化が進んでいるのだとしたら、根本的な原因ではない(もちろん教育格差による身分の固定化は別途問われるべき重要な課題です)。

ところでこういう<私>の薄さって、実は昔から日本人の特質とされていたのではなかったでしょうか? 現在の若者の付和雷同の姿は、70年代に雨後の筍のように発表されたあまたの日本人論が問題にしていたことでは?
そういう意味で、今の若者はどんどん昔に先祖がえりしているともいえるような気がします。
ただ昔と違うのは、「耐性」のぜい弱さかも。これもある意味「2代目」的性格として既知といえる。

いろいろな意味で、現代の若者像の(我々から見た)マイナス面は、彼らにおいてはじめて出現したといったものではなくて、そもそももともと存在していたものではないでしょうか。
それが再び表面化してきた、顕在化させたメカニズムがなんであるのか、本書ではもひとつハッキリしません。だから処方箋が書かれてあるわけではない。もちろん私にも判らない。何となく感じるものはあるのですが。ところで、幸いにしてわが友人の若者たちは例外なく本書の規定から外れています。これはわが友人たちが「読書家」だからでしょう。いうまでもなく読書とは「知識欲求」そのものに他ならないからです。

次は『カフカ・セレクション』にしようかどうか、思案中。

 





「大江戸神仙伝」の感想  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 4()211236

  返信・引用

 

 

『大江戸神仙伝』の感想文を、昨日の記事に追加しました。

ひきつづき、『私は若者が嫌いだ!』読了。これは面白かったというか共感しました(^^;
というか昨日うちに上記感想文をアップできなかったのは、この新書があまりに面白いので読み耽っていたためなのでした。
感想はのちほど。

 





Re: ちょっとお知らせまで  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 3()224230

  返信・引用  編集済

 

 

> No.1675[元記事へ]

かんべさん

いつもありがとうございます。
「大阪ランダム案内」は毎回愛読させていただいております。
お写真の阪南団地は『なぞの転校生』の舞台のモデルなんですよね。もし日本SF文化財保護法というものがあれば真っ先に保護の対象となるべきところ、残念ながら取り壊されてしまい、まことに残念という他ありません(先週金曜に車で前を通りましたが、まだ無事でした(^^;)。そういう意味で、「大阪ランダム案内」の記事とお写真は、まことに貴重であり、とてもありがたく感謝いたします。
そのお写真の、しかも「デスクトップの背景にできそうな大型写真」をいただけるのですか?
おお、ありがとうございます。ということで早速メール送らせていただきました。よろしくお願いいたします。
なお、メールにてひとつお願いを致しております。よろしければご許可賜りたくお願い申し上げます。

 

 

 

 

(追記や、いま、添付ファイル届きましたです。早速壁紙にさせて頂きました(^^;
ありがとうございましたm(__)m

 





ちょっとお知らせまで  投稿者:かんべむさし  投稿日:2009 2 3()20536

  返信・引用

 

 

御存じかもしれませんが、当方のホームページ中の「大阪ランダム案内」
もっかは住吉区ですが、その下の方を見てもらうと阿倍野区で、
そこに阪南団地を入れて、眉村さんのことを書かせてもらっております。
管理人様、デスクトップの背景にできそうな大型写真がお入り用なら、
当方までメール・アドレスをお送りください。添付ファイルで、差し上げます。

 





「大江戸神仙伝」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 3()20367

  返信・引用  編集済

 

 

雫石さん
>編集の椎原からは、大賛成との返信がきました。
ありがたや(^^) 星群にバックアップしていただけるとなると、百万の援軍を得たようなもので、心強いです!

高井さん
>何かお手伝いできることがあれば、どうぞお申し付けください
ありがとうございます。もちろん高井さんにははなから何かお願いするつもりでした(^^; よろしくお願いいたします。
また、何かアイデアがありましたらぜひお知らせ下さい。

> あ、これ、20周年です。
や、大変失礼しました。DOUBLE DECADE』ですもんねえ→ちなみに私の感想文

石川英輔『大江戸神仙伝』(評論社92、初出79)読了。

面白かった。これって「火星シリーズ」というか「火星のプリンセス」のパロディになっているんですよね(^^;。いやあ愉快愉快!
と同時に、本篇は<男の願望充足小説>でもあるんですよね。まあ火星シリーズ自体が<男の願望充足小説>なので、これはある意味当然なんですが、本篇においてはさらに輪をかけてそれがあからさまで、あるいは女性の読者は不快感を持たれるかも。でも作者は意図的ではないでしょう。天然なんですね。実は昭和初期より以前の生まれの作家は多かれ少なかれこういう感覚はア・プリオリに無意識化されているんですよね(先般読んだ広瀬正『マイナス・ゼロ』にもこういう感覚は仄見えていました)。もちろん作家である以上想像力で補正できなければいけないのです(眉村氏や筒井氏には少なくとも作品にそういう気配は見えません。筒井氏は女性嫌悪をあからさまにしますが、それもむしろ対等な女性への恐怖心に由来するもので、ア・プリオリな刷り込まれたものの無意識的漏出ではない。石川氏は安心していますが筒井氏は全然安心していないのです)が、その辺がいかにもアマチュアなんですよね(それは高齋正、石原藤夫、荒巻義雄らアマチュア性を作家の基盤に据えている作家に共通しているかも>メモ)。

前回、ストーリーが渋滞してきたと書きましたが、その直後に、主人公は東京と江戸を自由に往復できる能力を(理由は明らかではないのですが)授かり、俄然ストーリーは賑やかになります。つまり両世界を往還することで、江戸と現代が比較対照されるという視点ができ、その結果、現代文明のひずみ(と著者が考えるもの)があらわになっていきます。すなわち江戸が循環型の経済として措定され、その視点から現代が逆照射されます。
現代と書きましたが、厳密には高度成長期のニッポンですね。つまり本書が刊行されたのは79年で、高度成長のひずみが喧伝され始めていた時期なのですね。カール・ポランニーが日本で脚光を浴びたのが70年代前半から半ば。玉野井芳郎「エコノミーとエコロジー」が1978年。そんな時代です。著者の想像した江戸は、この当時脚光を浴びたエコロジー経済学の影響があるに違いありません。

とはいえ著者は江戸をまるごと賞賛しているわけでもありません。結局二者選択の場面では東京を選んだりとかなり勝手(^^;。江戸文化を賞揚しつつも、現代文明の便利さを否定できない軟弱さは、まさに高度成長の恩恵で花開いた70年代的なんですよね。

設定で面白かったのが、タイムスリップできるのは同じ月日でなければならないというところ。これって手塚治虫に先例がありましたっけ。つまり空間移動はないので、別の月日に時間移動しちゃうと、そこに地球がなく、宇宙空間に出現してしまうという理屈です。太陽も惑星引き連れて銀河系の回転に組み込まれているのではないかと言うことはさておいて。まあそこまで突きつめればハードSFですが、このように限定的でも十分SFとして許容できるものです。

ひきつづき、『私は若者が嫌いだ!』に着手。

 





Re: 眉村さん50周年  投稿者:高井 信  投稿日:2009 2 3()072750

  返信・引用

 

 

> No.1671[元記事へ]

 本当に素晴らしいことですね。心から感謝と拍手を送りたいと思います。
 何かお手伝いできることがあれば、どうぞお申し付けください。

> 2)高井信さんの10周年記念誌のように、
 あ、これ、20周年です。

 





眉村さん50周年  投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 2 3()044255

  返信・引用

 

 

星群には声をかけました。まだ、2年先のことですので、メーリングリストでみんなには知らせず、現代表と現編集者の2名に知らせました。
編集の椎原からは、大賛成との返信がきました。
来月に会内連絡誌「星群報」を発行するので、そこで眉村さんが作家生活50周年を迎えることを、事情が許せば掲載するとのことです。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 





Re: 眉村さん50周年  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 2()222211

  返信・引用  編集済

 

 

> No.1670[元記事へ]

雫石さん

昨日はお疲れさまでした。楽しかったですねえ。

>星群には私から声をかけておきます
よろしくお願いします。

ところで昨日からどんなものにしたらいいのか、いろいろ考えています。
1)眉村さんに関係の深い方(星群の村上さんとか)にコメントなり何か書いていただく。創研のメンバーは当然全員(但し一名除く)。創研メンバーは創作も可(^^;
2)高井信さんの10周年記念誌のように、雑誌に載ったきりで単行本未収録作品を掲載させていただく(「夢まかせ」とか)。「日課」1000番以降からも。できれば新作ショートショートも。昨日も話題になった句集が出ますが、未収録の俳句からや若い頃の散文詩(昔星群が出した「司政官の世界」に載っていたようなの)もいただく。
3)ハヤカワ文庫版の自作解説。「日課一日3枚以上」の「卓通信」。最近の新聞や雑誌に載ったエッセイ。
4)詳細な年譜(拙HPを叩き台にして眉村さんにチェックしていただく)。

とかいろいろ思いつきですが(^^;
なにか良いアイデアがありましたら、ぜひぜひ。

そうそう、チャチャヤングに関するエッセイもいただきたいですね(^^ゞ

 





眉村さん50周年  投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 2 2()071037

  返信・引用

 

 

昨日はご苦労様でした。
とても楽しゅうございました。
ところで、眉村さん50周年、お世話になっている私たちとしては
なんらかのことをしなければ、なりませんね。
星群には私から声をかけておきます。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 





眉村さんを囲む会  投稿者:管理人  投稿日:2009 2 1()234738

  返信・引用  編集済

 

 

今日は吉例眉村先生を囲んでの新年会。今帰還しました。楽しかった〜(^^)
眉村先生及びご出席くださいました皆様、お疲れさまでした。幹事役の柳生真加さんには大変お世話になり、ありがとうございました。

さて、今回雑談のなかで、ひょんなことから飛び出してきたのが、そろそろ眉村先生の作家生活50周年になるのではないかということ。これは先生もにわかには答えられなかったのですが、今確認しましたら、私の記録が確かならば、<宇宙塵>38(1960年11月)号 「おたより」欄に「その夜」というタイトルの作品(?)が掲載されています。この作品が創作かどう判らないのですが、確実なのは同誌40(1961年1月)号で、<眉村卓掌篇集>として「役立たず」(『ながいながい午睡』収録)、「浜近くの町で」(『準B級市民』収録)、「やらなかったら」、「試写」、「遺産」、「くり返し」(『ながいながい午睡』収録)が掲載されています。商業誌初登場は、前記「くり返し」が<別冊宝石>61年4月(107)号。SFコンテストに入選した「下級アイデアマン」は60年脱稿、<SFM>61年10月号となっており、こうしてみますと、2011年が眉村卓作家生活50周年に当るのではないでしょうか。

で、50周年に当っては何かしなければ駄目でしょうという話になりました。当然大宴会は開かなければなりません(^^;。と同時に、なにか活字媒体で出したいなあ、という暗黙の圧力を、私はひしひしと感じてしまったのですが、勘違いでしょうか(^^;
ということで、2011年に何かかたちとして出すとすれば、2年の余裕があるわけですが、あと2年しかないともいえるわけで、むしろ早々に活動を開始しなければ間に合わないのではないかと……。そう考えると急に焦燥感に囚われてしまった次第です(まあ最悪、処女出版の『燃える傾斜』(63年)に合わせる手もあり(^^ゞ)。当然私一人の力では何もできないわけで(むしろ嫌われ者の私では逆に妨げになりそう)、これはひとつ服部さんあたりに頭になっていただかねばならないでしょう。当然<星群>の皆様にもご協力を仰がねば意味がありません。

まあ実現するかどうか現時点では何もいえませんが、もしプロジェクトが進行するという事になりましたら、皆様のご協力が不可欠であることは言を俟たず、ぜひともご尽力を賜らねばなりません。宜しくお願い申し上げる次第です。一番の問題は、私自身に往年の機動力は望むべくもないということなんですが(ーー;

 


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