ヘリコニア談話室ログ(2009年3)





ロボットの反乱  投稿者:管理人  投稿日:2009 331()232157

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脳でロボット操作http://www.asahi.com/science/update/0331/TKY200903310318.html

これって、「Live me Me」ですやん。すごいなあ。
マクロが十分に蓄積されたら、意識が生じて、「お前は私ではない」といいだすかも(^^;

ハワード『黒の碑』を読み始めたのだが、なかなかノッていかない。もともとクトゥルーとは相性が悪いのですが、わがお気に入りのハワードでもダメなのか。訳文が合わないのかなあ。

 





「ウィアード2」  投稿者:管理人  投稿日:2009 329()215742

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H・P・ラブクラフト他怪奇幻想小説シリーズウィアード2』大瀧啓裕編(青心社文庫90)読了。感想を「チャチャヤン気分」に掲載しました。http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/192.html

1巻に負けずおとらず面白かった。異色はロバート・ブロック「ノーク博士の謎の島」で、これはもうモダンSFですね(^^)

 





「フリーランチの時代」感想  投稿者:管理人  投稿日:2009 329()000830

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小川一水『フリーランチの時代』(ハヤカワ文庫08)

冒頭の表題作が、ヨコジュンのセンを狙ったのかも判りませんが中途半端な凡作で、これは最後まで完走できるかと危ぶんだのですが、次の「Live me Me」は力作でした。

「Live me Me」は、大事故でわずかに脳組織のみ「生かされていた」主人公が、電算機と繋がれることでまず最初はヴァーチャル界に、次の段階ではラジコンのロボットを遠隔操作することで現実界に復帰する。ところが大地震が発生し、脳も含めた肉体(植物状態)が落ちてきた天井の梁に押しつぶされてしまう。ところが主人公が遠隔操作している筈のロボットの視覚はその肉体の惨状をとらえて思考していたのです(本来脳が破壊されたらそんな事態はありえない)。

実は主人公はロボットの体を動かす訓練をしている過程で、たとえば手を上げたり首を曲げたりする動作、これを人間はいちいち意識せずとも無意識に体が動いて行なうわけですが、脳的存在である主人公もまた、ロボットの体の運動において同様の無意識的な動作(マクロ)を組み込み得ていたのです。

マービン・ミンスキーは人間の意識をエージェント(≒マクロ)のインタラクティブな積み重ねの結果生じるものだと考えるらしいのですが、本篇の主人公も、最初は脳がロボットの体を遠隔操作で動かしていたのでしょうけど、マクロが積み重なった結果、いつのまにか主人公の意識は、ロボットの体(正確にはロボットとコンピュータの統合体)全体に遍在するようになっていたのだった……

この説明は一見奇矯な感じがしますが、実は現象学における「体験我」と同じなんですよね。現象学では体験なくして私はないとの立場をとり、人間は人間として生まれてくるのではなく、生まれた後、人間と「なる」と考えます。

この考え方は、その論理の必然性において、ロボットにも「意識」が生じてくる可能性を示唆するものです。
また、幽霊(肉体より離脱した霊)というものが、もし存在するとしても、それは肉体(マクロ)という契機(下部構造)を失うのだから時間が経つにしたがって「劣化」していかざるを得ず、最終的には霧散してしまう、という考え方に辿りつかざるを得ない。実際幽霊(霊魂)の目撃例(をそんなに詳しく調べたわけではありませんが)を仄聞するに、たとえば番町皿屋敷では怨念の向かうべき先が劣化してただ枚数に固着するだけですし、トンネルの地縛霊なども祟る相手を忘却した劣化であるといえます。いずれにしても「理性的な」幽霊というのは考えにくい。やはり霊的存在は意識の劣化体というべき。
同時にSFによくある高次存在は肉体を離脱して精神的存在となるというのは逆であるということになります。

かくのごとく本篇のアイデアは実に魅力的で、上記のような妄想に暫し誘われました。

つづくSlowlife in Starship」は宇宙SF。小惑星帯以遠の深宇宙は人付き合いの苦手な人のパラダイスであるというのはありがちなアイデアですが、それをとことん突き詰めていて楽しい。スピノールとべルターが対峙する世界設定(宇宙設定?)も魅力的です。シリーズ化希望。
主人公の相棒のロボットが、前作を読んだ目には意識を獲得しつつあるようにみえて、それもなかなか興味深く面白かった。

「千歳の坂も」は、一種オデッセイ的感覚を狙ったのかの知れないが、やや焦点がボケた。

「アルワラの潮の音」『時砂の王』の番外編。面白かった。しかし古代人や未開人(レヴィストロース的意味で)に20世紀西欧的ヒューマニズムを付託するのは不自然でリアリティがないように思わないでもない。

 





Re: 神戸の古書店  投稿者:管理人  投稿日:2009 328()114726

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> No.1750[元記事へ]

雫石さん

投稿ありがとうございます。

>この人、乱歩がお嫌いですか

と聞かれましても……(笑)

私の知る範囲での想像ですが、野村さんが乱歩を嫌いということはありえないのではないかと思います。
ただ乱歩が単なる職人馬鹿な作家ではなかったのは確かなようで、それはつとに中さんが語っておられたと思います。今、中さんのサイトを見ていたのですが(2007年10月の日記が欠落していました)、たとえばこのページの3月4日に「乱歩が例のごとく戦略的であっただろうことはいうまでもありませんが」という記述があります。乱歩が自身の作家としてのイメージやポジションに「戦略的」に敏感であったのは事実かと思います(例の星評伝によれば、星新一にもそういう面があったようですね。もっと純粋な人というイメージをいだいていた私は意外の感を持ったのでしたが、これは雫石さんが野村講演に感じた意外感と同じかもしれません。あるいは、好むと好まざるとにかかわらずジャンルの第一人者(象徴的にジャンルと同一視されがち)となった者の、これは宿命なのかも)。

雫石さんは、ブログ「乱歩が自分の名を後世に残すことのみを考えていた作家だったからと、講師の野村氏はいっていたが」とお書きですが、私の想像では、野村さんは「そういう面も併せ持った作家だった」という意味でしゃべられたのではないかと思うんですけどね。まあライブということで極端な言葉を使ってしまったのではないのかな。

もとより以上は私の想像であり、野村さんの真意とは違うかもしれません。ゴールデンウィークの「風の翼宴会」には出席されると思いますので(中さんも)、そのときじっくりと鼎談なさったらよいと思います(^^;


ということで(どういうことだ)、『ウィアード2』に着手しました。

 





神戸の古書店  投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 328()050621

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私もコレクターの気はまったくありませんが、神戸の地元民ですから、若い頃、三宮や元町の古本屋を見て回ったことがあります。
早川の銀背やSFマガジンの100号以前を、よくかっていました。SFマガジンの創刊号を手に入れたのも。元町の黒木書店でした。
シンコンの前後に神戸の古本屋に上記のたぐいの本が増えていたような気がします。
野村さんは、去年10月、神戸高校の神高公開ゼミで講演を聞きました。
この人、乱歩がお嫌いですか。
乱歩は自分の名を残すことのみ考えていた、とおっしゃっていました。
私のブログの2007年5月18日の日記でも書きましたが
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/d/20070518
私はSFファンとして乱歩は日本のSFの大恩人だと考えます。
筒井康隆を発見し、星新一を発見し、渡米前の矢野徹にアドバイスを送ったのは乱歩でした。また、SF作家ではありませんが、大藪春彦を発見したのも乱歩でした。
野村さんは、こういう乱歩の仕事を無視されるのでしょうか。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 





「神戸70s青春古書街図」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 328()003554

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野村恒彦『神戸70s青春古書街図』(神戸新聞総合出版センター09)、読了。

いや面白くて一気に読了。1970年に高校に入学し79年に社会人となった著者は、その青春時代そのものというべき70年代を、古書店めぐりとミステリに明け暮れていた。本書は著者が通いまくった神戸と阪神間の(その多くは今はない)古書店の思い出を、それぞれの店で出会ったり、あるいは(諸般の事情で)買いそこねてしまった本たちに託して語ったエッセイ集です。

つまり古本屋と古本の話で1冊の本ができあがっている。これが凄い。よくもまあそれだけエピソードがあったもんだな(よく憶えているなあ)と感心しました。もっとも著者にすればこのボリュームでもまだ語りつくせないという気持ちが強いのかも知れませんが。ともあれ古本屋通いが著者の「青春そのもの」であった証左でありましょう。

本書に伺える著者の古本にかける情熱は、コレクター気質が微塵もない私には、ほとんど笑いに誘われるところがあり、捜していた本を発見し、ただ持ち合わせがなかったり油断していて翌日買いに行ったらすでに売り切れていて切歯扼腕する話が少なくとも三回は出てくるのですが、本人にとっては、内的には生きるか死ぬかに匹敵することなんでしょうが、私は一読笑ってしまわずにはいられなかったのでした。とにかく出てくるエピソードの面白いこと面白くないこと(面白いんです)。

その一方で、震災の影響もあるのでしょうが、本書に取り上げられた古書店の多くが廃業しており、そういう古書店を記憶のなかだけでなく活字(慣用表現です)として残しておきたいという想いも、本書を書き上げられた動機のひとつなのでしょう。「古きよき70年代」グラフィティとして出色のエッセイ集でした。

 





「フリーランチの時代」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 326()232843

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小川一水『フリーランチの時代』(ハヤカワ文庫08)読了。

このところちょっと帰宅が遅いので、感想文を書いている余裕がない。後日書きます。
とりあえずLive me Me」について備忘。

 ・本篇の肝は「私(意識・心)」は脳にあるわけではなかったということ。
 ・心は体全体にある。心は「マクロ」(マービン・ミンスキーのいわゆる「エージェント」?)のインタラクティブな積み重ねの結果生じる。
 ・体なくして心は生まれないということで現象学の考えに近い。
 ・人は最初から心を具えて生まれてくるのではなく、心は誕生後、発達の過程で生成される。

ということが含意されている。
そこからいえるのは、つまり――
 1)ロボットにも心が生まれ得るということ。
 2)幽霊(霊魂。肉体を離れた「意識」)という存在が実際にあるとしよう。しかしそれは肉体(マクロ)という契機(下部構造)を失うのだから時間が経つにしたがって「劣化」していかざるを得ない。最終的には霧散してしまう。この事態は山本弘の「神は沈黙せず」でも描写されていたはず。

(後でちゃんと書きます)

読書は、野村恒彦『神戸70s青春古書街図』に着手の予定。

 





「フリーランチの時代」読み中  投稿者:管理人  投稿日:2009 325()232257

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『フリーランチの時代』を読んでいます。全5篇中4篇読了。面白い。「Live me Me」は(読んでないけど)マーヴィン・ミンスキイではないのか? 違うのか?
残りの1篇も今日中に読み終わる予定。

 





「魔法の国の旅人」  投稿者:管理人  投稿日:2009 324()000257

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ダンセイニの『魔法の国の旅人』を読み始めたのだが、なんとなくいやな予感がして自分のサイトを検索してみた。あ、やっぱり読んでいた(ーー;。
ここに「感想は後日」なんて書いている(汗)。でも結局感想はアップしてないもよう。完全に忘れてしまっていたみたいです(こんなパターンがずいぶんありそう)。
で、ミクシイの6年5月頃の日記に当ってみたら……ありました。とりあえずそのままコピペしておきます。


○「魔法の国の旅人」に着手。

今日は「ジョーキンズの奥方」、「柳の森の魔女」と「妖精の黄金」を読んだ。
前2篇は、共に40p前後の短篇で、やはり幻想掌篇とはかなり印象が違う。幻想譚ではなく、しっかり「小説」の結構を具えいる。が、その分冗長の感を免れない。
まあ作家は歳をとれば例外なく無駄に長くなっていくのだが、とはいえ「ジョーキンズの奥方」も「柳の森の魔女」も、どちらも山場のシーン(人魚が海に帰っていくシーンと魔女が消えていくシーン)はさすがに非凡で、そのあたりで突如引き締まる。

10pの「妖精の黄金」は、ジョーキンズが語るという仕掛けが幻想掌篇的には余分だが、それを差し引けば往年の幻想掌篇そのもの。

○ジョーキンズ選集、読了

いやあ、まる二日で読んでしまったよ。つまり意外に「面白かった」というわけなのであった。

そうなると昨日書いた感想が心許なく感じられてきて、途中いちばんダレた「柳の森の魔女」を読み返してみた。

ありゃりゃ、面白いやん。もとより無駄な描写はたしかに多い――多いのは多いんだけど、作中で作者が二度も、脱線しがちなジョーキンズをたしなめてもいる。ということは、この冗長さはダンセイニとすれば意図的な織り込み済みのものなのだろう。

それもそのはずで、ジョーキンズものとは結局<酒場のホラ話>の伝統を踏襲するものなんだよね。酒場での馬鹿話は当然ながら無駄話、与太話、地口洒落を欠くべからざる要素として内包するものであるのだから。

そういう「まったり」(註:最近の用法です)した展開は、とりわけ神話ものにはありえなかったものなので、ついうっかりそのような読み方をしたため、かかる「まったり」を「冗長」と勘違いしまったようだ。

さて本集は、「あとがき」によればジョーキンズものの第1作品集(31)と第4作品集(46)からセレクトされたものらしい。
読んで気づいたのだが、面白いことに第1と第4で作風が異なっているのがはっきり読み取れる。
第1作品集からは、
1-1「ジョーキンズの奥方」38p
1-2「柳の森の魔女」40p
1-3「大きなダイヤモンド」21p
1-4「ラメセスの姫君」27p
1-5「電気王」41p
1-6「われらが遠いいとこたち」56p

4集からは、
4-1「妖精の黄金」9p
4-2「最後の野牛」8p
4-3「クラコヴリッツの聖なる都」11p
4-4「ジャートン病」14p
4-5「ビリヤード・クラブの戦略討議」11p
が収録されている。

一目瞭然で、第1作品集からセレクトされた作品の方が長く、いわば短篇小説らしい読感があるのに対して、第4作品集は掌篇であり、むしろ<三半球>ものに近い感じがする。
オレの趣味は<三半球>的なので、やはり第4作品集からのセレクションの方が好みというわけで、評価も高くなってしまうのだが、もとより第1作品集も面白かったのは間違いない。

4-2は結末であっと叫んでしまった。この人を食った結末はなんなんだ。うまい! おそらく浅倉久志さんは大好きだろうなという感じのトールテール。
4-3は、これはラファティではあるまいか。違うかな。うーん、オレ的には読み中、あ、ラファティだと確信した傑作。
4-4は、ラストの一行が皮肉が効いていてニヤリ。
4-5は、1-6と共にSFの影響を感じさせる。

その1-6だが、これはヴェルヌとウェルズの直接の影響のもとに描かれたことは明らか。サービス「エジソン火星征服」とはまた別のインスパイヤ作品では。
1-5は、傑作。これを読んで、当初の勘違いに気づいた。1-2では冗漫と感じた細部が、本篇ではとても面白かったのだ。視覚的で、まるで映画を見ているような愉しさがあった。
1-4と1-3は、いまいち。特に1-3はツングースカ謎の爆発が取り込まれているのだが、素材があまりに有名すぎてジョーキンズの説明に鼻白んでしまった。

さて、あとがきによると、本書が好評なら第2集を編む用意があるとかかれている。ということは好評ではなかったのね。
おそらく第2集は第2、第3、第5作品集からのセレクトのはずだったんだろうけど、文面から察するに、たぶんセレクトはできていたように思われる。タイトルだけでも知りたいなあ。
ちなみに私の本は、82年初版の03年3刷本。20年間で3刷ならばハヤカワとしては売れている方じゃないのか(汗)

以上。

ところで上の文、理解できます? 私には何が書いてあるのかさっぱり判りません(爆)。いくらメモとはいえ、これではだめですね。うーむ、再読すべきか?

 





「ウィアード1」読了。  投稿者:管理人  投稿日:2009 323()011643

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H・P・ラヴクラフト他『怪奇幻想小説シリーズ ウィアード 1』大瀧啓裕編(青心社文庫90)読了。

感想をチャチャヤン気分に掲載しました→http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/191.html

「ミステリーゾーン(トワイライトゾーン)」や「ウルトラゾーン(アウターリミッツ)」は、はっきりいって「ウィアード・テールズ」の映像化といって過言ではないですね。その伝で言うと「異形コレクション」は再話かも。

面白かったです。でも続けて読むと(私の性格的に)飽きてきそうなので、しばらく間をあけてから続巻に取り掛かろうと思います。

 





アイルランド史(続続)  投稿者:管理人  投稿日:2009 322()113235

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ヴァイキングと違ってノルマンは<封建領主>としてアイルランドに君臨します。ここにおいて自由民であったアイルランドのゲールは農奴化されてしまう。
しかし実際はこんな簡単にまとめられる訳でもなく、圧倒的少数のノルマン人(カトリック)のゲール化も同時進行していたりします。後にプロテスタントのイギリスに対してはアイルランド人の立場をとります。(ちなみにプロテスタントイギリスはノルマンのような荘園的支配ではなく、入植者をどんどん送り込んで完全植民地化をはかる(中世の終焉、近世の開始)。アイルランド人は地味の悪い西部地方へ強制移住させられる)。
宗教がからんでくると、日本人の私にはなかなか理解が届かなくなってきますね。

15世紀は(イギリスがバラ戦争で疲弊していた時期で)ノルマン諸侯がほぼ半独立を達成していました。
ブランケット家は1439年にイギリスから男爵に叙せられているのですが、これはほとんど<追認>のようなものだったのではないか。あるいは叙官の乱発でイギリス離れを食い止める政策だったのかも(後醍醐天皇が官位を乱発して尊氏の離反を防ごうとしたようなもの?)。
この当時のノルマン貴族の使う言葉はほぼゲール語化していたようです。

『ウィアード 1』230ページ。さながら字で読むミステリーゾーン(あるいはアウターリミッツ)というべき(^^;。

 





亀ちゃん復帰  投稿者:管理人  投稿日:2009 320()232752

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帰宅途中でふとカーラジオをオンにしたのでした(たまたま夕方大相撲を聞いていたのでNHK第1になっていた)。すると、あの亀ちゃんがDJしていてビックリ。もちろん亀渕昭信・元ニッポン放送社長であります。なんですか、この4月からNHKでDJの番組を受け持つらしく、今日はそのプレ放送だったらしい。
私の青春時代に全盛期の人気DJでしたが、私は殆ど聞いたことがなかった。今から思うに、当時関西ローカルで面白い深夜放送が一杯あったわけで、なぜわざわざ東京の番組を聞かにゃならんの、という感じだったのかも。
でありますから、亀ちゃんに思い入れは何もないのですが、今日きいて、軽いなあ、とまず思った。こんなんでよく社長が務まったもんであるなと(まあ使い分けていたんでしょうけど)。

ともあれ帰宅後調べたら、「亀渕昭信のいくつになってもロケンロール!」(隔週火曜午後9時5分)という番組で、4月7日スタートのようです。私は聞かないと思いますが、私と同世代の関東圏在住の方は興味があるのではないでしょうか。一応告知しておきますね(^^;

アイルランド史について書きたかったのですが、疲れているのか酔いが醒めないのでまた後日にでも。

読書は、青心社文庫版『ウィアード 1』に着手の予定。

 





↓のつもりだったのですが  投稿者:管理人  投稿日:2009 320()111929

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意外に長くなってしまったので「チャチャヤン気分」のほうにアップしました『イルーニュの巨人』

 





「イルーニュの巨人」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 319()15594

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C・A・スミス『イルーニュの巨人』井辻朱美訳(創元推理文庫86)、読了。

訳者あとがきの「いずれ(の作品)もその濃密な雰囲気と、イメージの強烈さ、感覚的描写の切れのよさで、詩人の作品らしい鮮やかな余韻を残す。ストーリー自体が独創的というよりは、それらのストーリーを成立させている幻想の風土がよく描きこまれている」という評言が著者の特質を過不足なく言いあらわしています。

「幻想の風土がよく描きこまれている」のはラヴクラフトも同じですが、私はスミスのほうが華やかで好ましい。スミス特有の詩的感覚による切れのよい描写、これがラヴクラフトには欠けているのです(だからラヴクラフトの作品は絵にたとえるならば、びっしり描き込まれているのはいいのだが、その結果全体に黒っぽさが勝ってしまって解像度が落ち、印象が鈍い)。

  《個々の感想はあとで追加します。》

 





ウィアード・テールズ  投稿者:管理人  投稿日:2009 318()23205

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『イルーニュの巨人』350ページ。あと残り50ページ。

クラーク・アシュトン・スミスはウィアード・テールズ誌をホームグラウンドにしていました。この雑誌、常連寄稿者にR・E・ハワードやラヴクラフトやシーベリイ・クインやエドモンド・ハミルトンらがいて、今から見ればとんでもなく凄い雑誌なんですよね。雑誌をそのまま読んでみたい(>無理)。

翻訳がないか調べたら、国書から、全5巻別巻1巻のアンソロジーに編集したセレクションが出ているようです→http://homepage1.nifty.com/ta/koku/wt.htm

どんな内容か検索してみたところ、案の定玉石混淆のようですね(青心社文庫のアンソロジーの方がよいみたい)→http://kimyo.blog50.fc2.com/blog-entry-190.html
うーん。私は偏狭で、愚作を笑って許す心の広さを持ち合わせてないので、この手の企画は合わない可能性が高い。触らぬ方がいいかも。

そういえば異形コレクションって、日本のウィアード・テールズといえるかも。凄い傑作があるかと思えばとんでもない駄作も平然と並べられているところなど(^^;
というのは他でもなく、先日『幻想探偵』をつまみ読みしていたら、高野史緒作品の次に読んだ芦辺拓作品が、実にもってヘンテコな話で「これはフレドリック・ブラウンではないか[註]、愉快愉快」と大いに楽しんだのでしたが、そのあとに当ったのがまさしくとんでもない駄作でがっかりしてしまい、『幻想探偵』自体を読む気が失せてしまったという経験をしたばかりなので……。
大体吸血鬼を出しゃあそれでよしというものではないでしょう。それなりの必然性を書き込んでくれなければ(この話は別に吸血鬼を措定しなくても成立します。探偵と吸血鬼とあとひとつの三題噺なのだが、三つのお題間に有機的な関係性はなくモザイク的。従ってストーリーに一本の線がない)。しかも吸血鬼自体も何の工夫もなくありがちな美少年で、がっかりの2乗。ハゲとかデブの吸血鬼ではいかんのか?

[註]というか「みみず天使」。論理が換喩的に現実を侵蝕し変容してしまうところが。

 





アイルランド史(続)  投稿者:管理人  投稿日:2009 317()170558

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承前。
イ・ニール族は12世紀中頃には衰退していたみたいですね。で、この頃はダーモット・マクマローがダブリンのあるレンスター地方の覇者だったようです。北のティアノン・オロークと共にアイルランドを二分する現地勢力だった。
ところがこの両者の間でトロイ戦争の再現があり(^^;、敗れたマクマローがヘンリー2世に助太刀を要請した。そこでヘンリーによってストロングボウ(強い弓)の異名を持つウェールズのノルマン領主のペンブローク伯リチャード・デ・クレアが派遣される。これが下に記した1169年の事件です。

ちなみにその後ストロングボウはマクマローの女婿となり、レンスター王を継ぎます。この事態を、イギリスとは別のノルマン国家の建設ととらえたヘンリー2世は1171年自らアイルランドに上陸し、ノルマン入植者とゲール人から服属の誓約を取る。調べるほどにだんだん合わなくなってきましたが(^^;、頼朝の平泉出征はこちらに喩えられるかも。

『イルーニュの巨人』280ページまで。

 





アイルランド史  投稿者:管理人  投稿日:2009 316()224046

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勉強(妄想)中。
ブランケット家はアングロ・ノルマンなんですね。バイキングの侵攻には何とか持ちこたえていたケルト(ゲール)ですが、ノルマンの侵攻(1169)にはひとたまりもなかった。それも統一国家を結局作れなかったアイルランドの部族間抗争に付け入ったかたちでなされた。
ブランケット家が入植したタラの丘(ダブリン郊外)は、ケルトの雄族、南部イ・ニール族の本拠地でしたから、この地を蚕食したブランケット一族はよぽどの武断派であったことは間違いないのではないでしょうか。
結局、1250年までにアイルランド島の4分の3以上がアングロ・ノルマンによって征服されました。
さて、衣川の合戦は1189年ですから、年代もケルト=蝦夷説に有利(^^;
つまりイ・ニール族=藤原氏、アングロ・ノルマン(ヘンリー2世)=源氏(頼朝)となります。してみるとブランケット家は葛西家(奥州総奉行)か、もしくはその有力な家臣に比定できるかも(無理すじか)。

『イルーニュの巨人』210ページまで。

 





CA・スミスからアイルランドへ  投稿者:管理人  投稿日:2009 315()21207

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『イルーニュの巨人』130ページくらいまで。いいですねえ。「星々の間から風が吹き降ろしてくる」感じがこたえられませんな。まさにアメリカのダンセイニ。

アイルランドの歴史に関する参考書を読んでいたら、以前にも言及しました19世紀中頃の「大飢饉」とそれに伴う海外移民の結果、人口が激減し、150年後の今日でも、未だ人口は当時の水準を回復していないらしく、これは世界でもアイルランド以外に例がないのではないかと書かれていました。

これは「19世紀はじめ、イングランドによって土地を奪われたアイルランド人は小作農にならざるを得なかった。おもに麦を栽培していた小作農家たちは、地主に納めなくてもよいジャガイモの栽培を始め、農民たちの唯一の食料となっていった」(wikipedia)ことが最大のというか唯一の原因でしょう。単一栽培の結果、その種が壊滅的打撃を受けるともはや代替するものがないのですね(近世、アイヌが日本の市場に組み込まれてサケ漁に完全に特化してしまい、森の民から川の民となったのと、経緯は違いますが暗合を感じます。ところで、私はアイヌをケルトに比定している(というか比定したい欲望がある)のですが、蝦夷に比定する方がいるのです。そういわれれば人口的にもその意見の方がリアリティはありますね。でも文学的にはユカラやウエペケレを持つアイヌの方がケルトっぽい感じがします)。

それはさておき、このような事態を結果として招いたイングランドからやってきた地主のなかに、ダンセイニのブランケット家もあったわけで(ダンセイニは大飢饉の直後に生まれている)、そのダンセイニがアイルランドを体現したような物語を発表するようになるわけですから、何とも複雑なものを感じないではいられません。

 





「ペテルブルクの昼、レニングラードの夜」  投稿者:管理人  投稿日:2009 314()163123

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高野史緒「ペテルブルクの昼、レニングラードの夜」(異形コレクション『幻想探偵』《光文社文庫09》所収)、読了。


            ――トリックのネタを割っていますので未読者はご注意下さい――


こ、これは探偵小説ではないですか。探偵役は著者。「物語」は「昨年四月にペテルブルクの出版社が主催するストラーニク(ロシア幻想文学作家会議)に出席した高野史緒が、「SFマガジン」八月号のレポートには書けなかったプライベートな「ドキュメンタリー」として試みた記述」(編者紹介文)「の・ように」始まる。
実は著者のペテルブルク行きにはいまひとつの目的があったのです。それはかねてから愛聴していた、夭折したとある指揮者の不思議な自筆の文句が記された写真の謎に迫ることだった……

そうして探偵がたどり着いたのは、いわば45億年に遡る太陽系の形成が予め準備していた、黄道面に対して地軸が目論む「日本では実行不可能な」アリバイ・トリックのアクロバットだった!?
そう、それはペテルブルクのような都市でしか実行不可能な完全犯罪(いえ犯罪ではありませんが)で、名探偵の快刀乱麻の名推理によって(実は実行犯の教唆によって(^^;)明らかにされた驚愕の真相とは、それが実に40年もの間、衆人環視のなか正々堂々と隠れもせず姿をあらわしていたのに、誰も気づくことがなかった事実なのでした。

しかしながら、この謎解明は、作中の著者自身にも甚大な影響を与えずにはおかなかったのです。そのとき昼の(現実の)ペテルブルクは夜の(幻想の)レニングラードへと変貌し、著者はそれに取り込まれてしまう。
つまり謎解明の結果、作中の著者は、それによって新たに発生した、別の時間線がへと入り込んでしまったのでした(後年著者は「私は時々、自分があれ以来ずっと青銅の騎士やライオンやグリフォンたちの魔法の園にいるような気がすることがある」(418p)と回想している)。

すなわち本篇は、我々の時間線から分岐した時間線の著者が、それから数十年後の晩年に回想した記録だったのです。いやそうなんですって。
この時間線の著者に対して、それ以後どんな運命が待ち受けていたのでしょうか。波乱万丈の運命だったのでしょうか。著者は「そう、私のその後の人生を知っている者たちは、もうとっくに私がここで何を書こうとしているか気づいているはずだ」(同)と述べるのですが、悲しいかな時間線を異にする私には、その経緯は不明のままなのです。ただしそれが著者にとってさほど悪い事態ではなかったのではないか。それを、「いいえ、これは文句を言っているのではないのです。不満だというわけではないのですよ、皇帝陛下」という最後の文に、私は読み取るのですが……。

――以上、「評論する気満々でフィクションを」(400p)「テクスト」として読んでみました。戯言妄言多謝(^^ゞ

 





「魚舟・獣舟」の感想を  投稿者:管理人  投稿日:2009 313()22522

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チャチャヤン気分に掲載しました。http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/189.html(リンクの中継点が見えなくなっていますが10秒で自動で飛びます。またはurlをコピーしてパソコン上部のurl欄にペーストしてエンターしてください)

「ペテルブルクの昼、レニングラードの夜」を読んでいます。

 





「魚舟・獣舟」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 313()00147

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今帰宅したところ。へろへろなので、感想は明日にでも。酔いがさめるまで起きていたら書くかもですが。

『イルーニュの巨人』に着手。

 





「魚舟・獣舟」読み中  投稿者:管理人  投稿日:2009 311()224523

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『魚舟・獣舟』を読み中。6篇中5篇まで一気読み。
しかしページ数でいうとまだ半分弱なのでした(最後のが170ページの長中篇なので)。今日中に読了できるかな。

 





「TAP」(読了)  投稿者:管理人  投稿日:2009 311()001350

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「TAP」
TAPとはTotal affect protocolの略で、脳にインプラントされたチップ。これにより人は「全て」を表現しうる(しかも一語で)まったく新しい言語を獲得する。要はディレーニイの「バベル17」言語みたいなものだと思います(^^;。
このチップの助けを借りることで、人間は完璧なコミュニケーションを達成できます。誤解はありえず、謎というものは消滅する。もっともそんな言語、私自身はちっともよいとは思いませんがね。まずジーン・ウルフの小説の魅力が陳腐化してしまいますがな(汗)。大体、言語とは人間が自然的状態での(記憶の)容量を超える情報量を処理するために獲得した技術ですから、圧縮や置き換えなどの変換が駆使されているわけです。アルファベットならばわずか26文字で無限に近い情報を処理する(あ、コンピュータならば0と1だけか。不適切なたとえでした>追記(^^;)。その過程で「詩的表現」みたいなものも発達してきた。それをチップの厖大な容量によって、すべてのシニフィエにシニフィアンを1対1対応させてしまうのがTAPなのです。ダジャレの楽しさなどもありえなくなりますね。

その一方で、同様インプラントするものにVR(ヴァーチャル・リアリティ)がある。これはTAPとは正反対に思考停止を使用者にもたらします(宗教や広告によって活用される)。

以上が本篇の前提。

人間にとって自然言語の習得は発達過程に欠くべからざる契機(Moment)になっていることから、14歳以下でのTAPのインプラントは禁じられてきたのですが、子供にも使用を認めよとの声が高まりつつある。そんななかで或るTAP使用者が不思議な死に方をし、TAPの影響が取りざたされる。主人公の探偵は、TAP使用者の団体からそれが悪意ある中傷であり、真相を究明して欲しいと依頼されるのですが……

本篇には二つのテーマがあり、ひとつは宗教的信仰や広告に隷属する人々のような、真に考えようとしない態度(VR的人間)へのペシミズムと、もうひとつはTAPのような手段によって人間は高次の階梯に達することができるという人類の未来へのオプティミスムです。これはある意味クラーク的で、二者択一を著者は迫っています。主人公もラストで「決断」しようとします。「従来つねに変わらずに来たような、ものごとのありかたを選ぶのか――それとも、そのすべてを一掃してしまうような、理解の奔流を選ぶのかを」(353p)

これはまた安部公房的な「未来からの断罪」とみることもできます。
著者はさすがに英米的で両者を峻別しますが、私自身はそこまで一刀両断的な考え方は持てません。全てが明晰に分かりあえ、謎や小暗い領域は微塵もない光にあふれた清潔な未来では、隠す楽しみも失われてしまうのではないでしょうか。

平谷美樹の『約束の地』も、同系の(クラーク的な)構成なのですが、この作品では新人類と旧人類の断絶感が強く際立たされています。新人類は非常に「非人間的」(非旧人類的)な様相を示していて、日本的なSFだったんだな、と本篇を読んで思い出し納得しました。

以上でグレッグ・イーガン『TAP』山岸真編訳(奇想コレクション08)、読了。
すべてオーストラリアやアメリカを舞台にした近未来社会SFで、全体としてゆるやかな背景世界を共有しており、シリーズものではありませんが、それに近い読後感があって楽しめました。編者のセレクションが効いた作品集に仕上がっています。訳文は完璧。

 





「TAP」(7)  投稿者:管理人  投稿日:2009 310()000349

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「自警団」
ラストの一行がオチになっているんだろうけれども、それに至るまでの経緯がよく判らない。だいたいこの主人公は何なんでしょうか。夢と現実が同じ位相で混然としているような話で全然鳥瞰できなかった。
プロットの立て方が「悪魔の移住」と同型で、こういう形式は私には合わないのかも。

「要塞」
これは「奇妙な小説」。テーマは「隔て」。海面上昇による環境難民問題(というのはオーストラリア的には焦眉の問題なんでしょうね)が白豪主義的な右翼の台頭を招いている現未来のオーストラリアで、すべてのウィルスに対して等しく人体を免疫化を促すDNAの改変がなされた痕跡が発見される。そのような改変は費用的に全人類のためというものではなく、有体にいって裕福な層にしか意味を持たない。
白豪主義はオーストラリア大陸を有色人種から「隔て」るものですし、改変DNAは裕福な層とそれ以外の人々との間を「隔て」ます。タイトルの「要塞」とは「隔て」によって「われわれ」と「やつら」を区別し、選別された「われわれ」を守る「要塞」の意でありましょう。著者の主張がはっきりと出た小説で、好感度高し。
ただし、この2種の「隔て」が主題として要素に組み込まれて作品を構成しているのではない。後者などは殆ど実体的ではなく、いささか拍子抜けの感。つまりSFではなく、普通小説なんですね。冒頭に「奇妙な小説」と書いた所以です。

「森の奥」
前短篇集『ひとりっ子』に出て来た「インプラント」が本篇にも使われているのですが、このラストがよく判らない。つまりなぜこんなことをしたのか、「動機」が私には納得できなかった。アイデンティティに関する議論は非常に面白かったのですが、それとラストが(再読もしてみたんですが)、私には繋がらなかった。また読み返してみるつもりですけど。

 





「TAP」(6)  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 9()014611

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「銀炎」
田中光二的シチュエーションの、ある意味ロード・ノベル。
で、ホラー小説です(とりあえず)。
ただしホラーの指し示す方向は180度転倒している。ホラー小説は超自然の存在を欠くべからざる要素として成立するジャンルですが、本篇の場合、主人公は、「世界」がいつの間にかスーパーナチュラルなものをアプリオリに受け入れてしまっている人々の住む見知らぬ世界と化してしまっていることに気づいて愕然とします。
「ここは、もはやわたしの世界ではないのだ」(192p)
この引用文の後に、「わたしの世界」は両親の世代で始まり、子の世代で既に死にかかっているのかもしれないと苦く呟いていて、著者の焦燥感が痛いほどに感じられて(どこの国でも同じなのだなと)共感しないではいられません。たとえばここ→http://d.hatena.ne.jp/hibigen/20090308(リンクの中継点が見えなくなっていますが10秒で自動で飛びます。またはurlをコピーしてパソコン上部のurl欄にペーストしてエンターしてください)
つまり本篇は、正確にはホラー小説の後ろに回った反ホラー小説なのですね。

 





「TAP」(5)  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 8()222723

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「散骨」
間然するところのない傑作「小説」。ケリー・リンクっぽいシチュエーションで、いつもとは違うエーテルが作品世界をみたしていて異色ながら、殺戮現場をあくびしながら窓から見ているというシーンなどには著者本来の社会SF的的なセンスが光っていますし、実存的な問いかけも健在で……要は言う事なし、なのでした。
なんとなく大江健三郎が喜びそうな気がしました(^^;

 





「TAP」(4)  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 8()205114

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「悪魔の移住」
本篇もまた安部公房的シチュエーションの話で、語り手である「脳腫瘍」は、まさに「未来」のメタファーといえます。「未来」は現人類を断罪しているのに、当の人類は「未来」というだけで思考停止的に崇め奉っている。「悪魔」なのに……。
まさに「いま・この世界(当然象牙の塔を含む)」のアレゴリーとなっています。ただ小説としては、著者の魂の叫びが直截すぎていまいち。

オロモルフ博士の掲示板で「野田昌宏宇宙大元帥を偲ぶ」の連載が始まりましたね。これは楽しみです(^^)
http://8227.teacup.com/ysknsp/bbs/6622(リンクの中継点が見えなくなっていますが10秒で自動で飛びます。またはurlをコピーしてパソコン上部のurl欄にペーストしてエンターしてください)

 





「TAP」(3)  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 8()142356

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「ユージーン」
クック医師は、遺伝子工学その他の技術革新を有効に用いることによって、ユージーン君を「完璧な天才」としてこの世に生あらしめる事が出来るのです、と主人公の夫婦を説得する。応分の支払いをしていただけるのならば……
この夫婦は富くじに当った財産を、しかるべき環境保護団体に寄付するか、さもなくばユージーン(まだ生まれていない息子)を天才としてこの世にあらしめることで、地球の危機を回避すべきか、二者択一を迫られます(笑)
と、そのとき、テレビの画像が乱れて……

これは安部公房ですね。「第四間氷期」と同じテーマ。未来が現在を断罪します(イーガンが「第四間氷期」を読んでいたかどうか気になります)。

「時砂の王」では実際に過去(一種の復元ポイント)に戻ってよりよい未来へ新たな時間枝を延ばすわけですが、本篇では実際に時間遡行するわけではなく、「第四間氷期」同様コンピュータの外挿が「数学的に」存在せしめた「未来」のユージーンが、その「時間枝」を存在させなくするために「現実」に作用させるところが面白い。
いや、まったくもってクックの研究は完璧だったのです(^^;

 





「TAP」(2)  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 8()134223

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「視覚」
前作の「聴覚」に対して本篇では「視覚」の「構成」が考察されます。
事故で脳に損傷を受けた主人公は、視界というか視座が「目の前方」ではなく、「天井(頭上)」に設定されてしまう。一種の「体外離脱体験」といえる。

これは荒唐無稽ではなく、実際論理的にはありうると著者は考えているはずなんですね。なぜなら一般的な「目の前に拡がる視界」においても、人間は「カメラ」のように「現実」を捉えているわけではなく、「見なくてもいいもの」は見えないし、「見えるはずがないもの」を見たりしている。視覚映像(第1次の現実)は、それが脳で「分析されるまではなんの意味も持ちません。分析とはすなわち、境界を認識し、動きを認識し、ノイズから特徴を抽出し、単純化し、推定し(……)仮定の物体を構築し、それを現実に照らして吟味し、あるいは記憶や予想と比較することにまでいたる、あらゆることを意味します……その最終結果は、頭のなかで上映される映画などではなく、世界に関するひと組の推論なのです」(56p)ということなのであって、結局我々が目で見ていると思っていることは、脳によって構成された「2次的現実」なのです。その視座が目から(体を離れた)天井に移ろうと、その原理に変更はないわけです。

それが証拠に、主人公の天井からの視線は、見ている本人の身体が遮蔽物によって隠される全行程を観察する。推論によって視覚が補完されているわけです。
だから、この視座のままでも、人間は(慣れれば)充分に生活できるわけです(主人公のように)。いやむしろ新しい認識を獲得できるようになるのかも知れません。もっと客観的な認識を。ラストのシーンはそれを仄めかしているようです。
いや面白い。しかも原理的にも正しい(つまりファンタジーではない)センス・オブ・ワンダーに溢れた佳作でした。

 





「TAP」(1  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 8()122540

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「新・口笛テスト」
音楽SFです。広告用音楽の会社が脳の研究から「一度聞いたら忘れられない」メロディを作り出すことに成功し、それはまたたくまに広告の音楽を席巻してしまう。ところがある種の(メロディに敏感な)脳構造の持ち主は、そのメロディによって甚大な影響を被ることが判ります。その影響から逃れるためには脳のメロディの認識を司る部分を切除するしかなく、その手術を受けた主人公は……

メロディとは通時的な音階の高低(隣り合うA音とB音の差異)のつらなりが人間の脳にある感興をもたらすものといえるでしょう。つまり音と音の差異(断絶)の総合(連続)によってもたらされるもの。それを総合するの(を受け持つ部分)が脳の役割。その脳の役割を切除した結果は……
なるほど! と納得。「世界」とは結局人間(脳)によって構成された幻想とは言わないまでも「2次的現実」なんですよね。

音楽SFといえば、メロディ自体が宇宙人であるという話がありましたね。山之口洋でしたっけ。
そういえばある(強力に脳に食い込む)メロディがあり、世代を超えて伝えられていき、あるとき宇宙船が到着して、そのメロディを聞く。メロディは実は未来にやってくる同胞に託されたメッセージだった、という話って、ありませんでしたっけ。妖星伝やら何やらが混ざった偽記憶でしょうか(汗)

 





眉村さん情報  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 7()17091

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日経新聞3/5付夕刊の<ぶんか探訪>に、「文武両道、青春の地──眉村卓さんと歩く大阪・待兼山」が掲載されました。→http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news005351.html (リンクの中継点が見えなくなっていますが10秒で自動で飛びます。またはurlをコピーしてパソコン上部のurl欄にペーストしてエンターしてください)

眉村さんは現在の阪南団地にあった教養部(南校)で教養課程を修められたのだと思っていたのですが、教養課程も待兼山だったんですね。

次に復刊情報――
『地獄の才能』が「ぶんか社文庫」から4月に出ます。既にネット書店に近刊情報が出ていますね。→http://www.bk1.jp/product/03086381(同上)
ぶんか社文庫からはひきつづいて『一分間だけ』が予定されているようです。

先般(2/28の本板にて)ご案内しました「週刊ぼくらマガジン」70年5月5日号、眉村卓/原作「エクスポ大怪戦」、この掲載号をある方が古書店で見つけ、送って下さいました。先日見たのはコピーで白黒だったのですが、現物はカラー版でした(^^)
眉村さんには掲載オーケーとのご許可を頂きましたので、(問題がなければ)近々拙HPにカラー版にて掲載の予定です。お楽しみに!

 





「国家と神とマルクス」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 6()222048

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『TAP』を読むつもりが(^^;

佐藤優『国家と神とマルクス』(太陽企画出版07)、読了。

現実世界に関心がなく、週刊誌や月刊誌を読む習慣がないので、外務省のラスプーチンがいつの間にか右翼の論客になっていることを知ったのは、最近とはいわないまでもそんなに昔ではありません。だからといって別にそれほど興味があったわけではないのですが、最近の「国策捜査」関連で何となく手にとってみました。

著者が同志社神学部出身であるのも今回はじめて知った。そういう次第でバックグラウンドがドイツ観念論っぽく(ポストモダンに冷淡)、その辺は好感度アップ。天皇制に関してはちょっと違うのですが、グローバリズムやネオリベへの対峙の在り方は共感できる。ただそれらは、全体に守旧派としての立場から導出されるもので、護憲論もそれから派生しているわけで、原理的にいささかもぶれていないのは評価するにしても、ちょっと評価は保留。まあ本書は雑誌掲載の軽い文や対談集(ただし月刊日本や情況という左右両極端の雑誌掲載作収録が売り)なので、もっと本格的なのを読んでみようと思います。

 





「時砂の王」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 5()22033

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小川一水『時砂の王』(ハヤカワ文庫07)、読了。
これは面白かった。ラストは興奮した。
「時間枝」の概念は眉村さんの「時間流」(「カルタゴの運命」)と同じ。ラストで卑弥呼がある決断(選択)をします。その結果そこから新たな時間枝が発生し、その時間枝の未来から救援軍が到着する。なぜもっと早く来ないという卑弥呼に、今あなたの決断で我々の未来(時間枝)は確定した。だからこそ救援にこれたと説明する部分は膝を叩きまくり(^^;
でもよく考えたら、未来人は時間枝の枝分かれ部分を越えて共通時間枝にも進入できる(だからオリジナルではないことが判明したオーヴィルは10万年前の第1次出アフリカに来ている)。つまり改変した未来から共通時間枝へ遡行することは制限がないのに、枝分かれ前の「現地人(現時人?)」はその未来人に出会えないというパラドックスが起こるような……
頭が痛くなったので考えるのをやめた。というかセンス・オブ・ワンダーがあったので許す(^^;

かくのごとく、SFマニアはある一定の型にはまって視界が啓けると(ただしオールドウェーブに限る)、すべて許してしまうのです。終わりよければすべてよし(^^ゞ
長さも丁度よい。SFなんだからストーリー(というかドラマ)はこの程度の書き込みで充分。キース・ローマー的な軽SFの快作でした。

次は『TAP』の予定。

 

 

 

 

(追記先に卑弥呼の歳を20歳(248AD現在)と書きましたが、読み返したら違ってました。
「まだ10歳になるかならぬかという頃」(154p)卑弥呼となり、248年現在から振り返って「20年も前」は「巫王として国閣の推挙を受ける以前」(30p)とあるので、30歳か、それより1歳か2歳若いくらいでしょうか。これでしたら景初2年は20歳ですね。

 





Who said Mclaughlin can't swing?  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 4()23499

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http://www.youtube.com/watch?v=Om6HDUKBbzE&feature=related

(リンクの中継点が見えなくなっていますが10秒で自動で飛びます。またはurlをコピーしてパソコン上部のurl欄にペーストしてエンターしてください))

 





「時砂の王」着手  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 4()222229

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『時砂の王』に着手。130ページ。270ページの本なので、ほぼ半分なのだが、全然ストーリーは進んでいないのであった(^^; というか設定説明の合間にストーリーが挿入されるといった感じ。
設定は邪馬台国大和説で狗奴国は三河遠江(住民は蝦夷)みたいです。西暦248年なのに卑弥呼が20歳そこそこなのはわたし的にははなはだ違和感があるのですが(景初2年で10歳!)、それをいっちゃおしめえよですね(笑)。

それにしても、どうして文学作品に出てくる卑弥呼って、若くて聡明で美人であることが多いんでしょうか。どこにもそんな史実はないのに(むしろ「年すでに長大」と記されている)。これぞ「期待の地平」のきわみではないでしょうか。最初の卑弥呼小説である横光の「日輪」がそういう設定だったのでそれを踏襲しているのか。いやそうではなくて、日輪の卑弥呼像からしてすでに「期待の地平」に捉えられているのだと私は思います。
もっとユニークな卑弥呼を読みたい。
私のイメージする卑弥呼は老女で醜女で、しかも両目は(現実を視てはいけないということで)潰されている。あるいはそもそも奇形で生まれそれゆえに強い精神感能力を有している。巫女になるくらいですから癇性でヒステリーで疑り深く嫉妬深い。国土を正しく明るくあらしめる為卑弥呼自身は悪と暗黒を吸収するために存在している。自身が不幸であればあるほど国土は幸福で栄える。そんな卑弥呼の物語が読みたいんですけどね。
あ、これは本篇とは独立した随想です(^^;

 





「ライト」追記  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 3()222228

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本篇(「ライト」)もやはりSFの定型をはずすことなく、マッドサイエンティスト(じゃなくて異星人ですけど)にラストで「世界」の解説をさせていますね。やはりこれ(世界が一皮めくれて真相が見える)があるかないかで、SF「マニア」の読後感は大きく変わってしまうようです(あれば評価が甘くなる(^^;)

たしかに人間の視点で進行して来た小説に、最後で一種の神の視点が導入されるのは論理的にというか「ソラリス」的にいえば矛盾ですし、ある意味安っぽくなってしまうのは間違いない。でもたとえ安っぽくなったとしてもSFに毒されてしまった読者は喜んでしまう。
まあ私の創作などぜんぜん箸にも棒にもかからないものですが、ともあれ作品のラストでは必ず(どんなにプロポ−ションが崩れようと)マッドサイエンティストに滔々と演説させなければ気が済まなかったものでしたね。いやだからモノにならなかったわけですが(ほっとけ)。

それがいいのか悪いのか、もちろんよくはないのですが、SFファンにそういう傾向があるのは事実ですね。

小川一水を読もうかブラッドベリを読もうか、考え中。

 





「ライト」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 3()002045

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M・ジョン・ハリスン『ライト』小野田和子訳(国書刊行会08、原著02)、読了。

面白かった。
本篇は3つのストーリーが並列的に語られています。そのうちのセリア・マウの物語は、解説にあるとおり、ディレーニイを彷彿とさせるきらびやかなスペースオペラになっています。またエド・チャイアニーズの物語は、解説ではサイバーパンクに比定されており、確かにそのとおりなのですが、私はむしろその風景描写に、サイバーパンクを透して、サイバーパンクの源流であるJ・G・バラードっぽいイメージを強く感じました。

最初こそキラキラした異質感に楽しく渋滞しましたが、前記のとおり150ページあたりから(良くも悪くも)急に読み易くなって、残り300ページ弱は一気に読み切ってしまった。これはいうまでもなくストーリーが流れ始めたからであって、ストーリーが流れ始めたとは、結局のところ「期待の地平」に向かってストーリーが「定型」に収束していったということに他なりません。

つまり設定や背景や描写こそディレーニイやバラードやサイバーパンクっぽいのですが、結局のところストーリーそのものはそんなに突飛なものではない。ある定型を踏んでいるのです。私はラストで気がつきました。

「ヴォークトやん!」(^^;

そう、ヴォークトなんですよ、この物語の「定型」は!
ラストのシチュエーションなんかまさにそう。もう無理矢理な結末としか思えません。でもそれがよい。まさにヴォークト的に混沌として面白い(ネットを当ってみましたが、ヴォークト説は見当たらないようですね)。

そういう意味で、背景はニューウェーブ的な借景だしストーリーはヴォークトの二番煎じだし(あ、川又千秋的でもある。もっとも川又を読んでいる筈がないので相互に独立的なのは間違いない)、あんまりオリジナリティのあるSFではありません(たとえばエムシュやスタージョンと比較して)。ただそういうのをごった煮にして合わせ技にしてしまう一種小器用な手つきこそが著者の本領なのかも。怪作としてなかなか楽しめました。

 





馬鹿なことをして  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 1()23142

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本掲示板の過去ログを全て消してしまいました。
あわててキャッシュから拾い集めた。一部キャッシュにも残ってない月があるのですが(ということはもっと以前に失われていた?)、大体回収することが出来ました。それだけの作業で2時間弱(ーー; とりあえず直近6か月分再アップしました。順次暇なときに復活していくつもり。

『ライト』は350ページ。最初は時間がかかりましたが、150ページあたりから一気呵成。のこり100ページですが、ひょっとしたら今日中に読みきるかも。

 





Re: >「自己相似荘」評  投稿者:管理人  投稿日:2009 3 1()112544

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> No.1714[元記事へ]

魚さん
書き込みありがとうございました。

「定型に身を委ねる快感」というのは確かにあるので難しいところですよね。

>「永遠の生が心地よくない」というのはいくつかバリエーションがあるアイデアですよね。
>なので一読者としては人工幽霊では具体的にどういう欠点があるのか、という「謎解き」を期待していたのでした。

期待しますよねえ。ですが著者は、視点が人間の側に固定されているので「人口幽霊」の側の「心理?」は不可知との立場を貫いたのだと思われます(それはそれで合理的な態度です)。しかし定型的なSFにおいては、最後にマッドサイエンティストがでてきて「解説」しないと何だか物足りなく感じてしまうんですよね(ミステリならば名探偵が滔々と謎解きをする)(^^;。

なので魚さんの「酷い」という一語にぴんと感応するものが私の裡にあって、それで言及させていただいたという次第です。なんだか「ダシ」にしてしまったようで申し訳ありませんでしたm(__)m


今日はオリゴ党の公演に出かけるつもりだったんですが、朝から体調が悪く、自重することにします。残念。岩橋さん、申し訳ありません。http://www.origo-tou.com/

 





>「自己相似荘」評  投稿者:  投稿日:2009 3 1()000231

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 お邪魔します。言及いただいてありがとうございます。
 仰られる通り、奇抜なアイデア堂に入った幽霊描写で「ぐいぐい引っ張られてきた」ので、がっかりしてしまったのです(ホラーやSFの約束ごとに囚われない主人公たちの立場を考えると、確かにあの方法は理に適ってるのかもしれませんが)。「永遠の生が心地よくない」というのはいくつかバリエーションがあるアイデアですよね。なので一読者としては人工幽霊では具体的にどういう欠点があるのか、という「謎解き」を期待していたのでした。ジャンル小説を読むときに先入観や期待から自由になるのは、まだ難しいですね。
 乱文失礼しました。


 

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