ヘリコニア談話室ログ(2009年4月)




警察小説  投稿者:管理人  投稿日:2009 430()220537

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ハードボイルドの次はやっぱり警察小説だな、と、何の根拠もなくそう思ったので、以前、高村薫の評論を読むために購入した『警察小説大全集』(小説新潮臨増04年3月号)を引っ張り出してきた。
で、当のその高村評論を読み始めたのだが、いまいちピンとこない。いや初読時はとても感心したのですよ。私の関心が当時とは変わってきたということだろうか。
それと関係するが、本稿が日本の警察小説に視野が限定されていることにも、今回は違和感を持った。なんとなく警察小説が特殊日本的な要因によって自生したジャンルであるように読めるのだ。
しかしながら警察小説というジャンルも、他のミステリのサブジャンルと同じく、海外作品の影響のもとに出てきたものではなかっただろうか? まずはそこから始めなければ片手落ちなのでは?
とはいえ本稿は、毎年名張市で開催されている乱歩便乗企画「なぞがたり名張」という講演会での高村氏の講演の筆録なので、時間が限られた講演ではそんな微に入り細を穿った論述を望む方が間違っているわけだが。

私は、警察小説というジャンルは、黄金期の本格ミステリでは頭脳明晰な警部や刑事が輩出したとはいえ、彼らは個人的な能力によって犯罪をあばいたのであって、そこに警察組織というものはまったく等閑視されていたのではないか。
ところが犯罪を裁く警察組織そのものの中に、犯罪が巣食っている場合がある現実が次第に見えてきて、ハードボイルド(私立探偵小説)では悪徳警官も現れてきた。しかし私立探偵はアウトサイダーだ。
警察小説はそのような犯罪組織としての警察機構の中で、警官が目の前の「悪」に立ち向かいつつ、背後の「悪」にも目をつぶらない、いわばミステリにおける「インサイダー論」小説であることによってこそ、警察小説は真の存立基盤を持つのではないだろうか、と「演繹的」に考えているのですが、87分署すら読んだことがない者が何をかいわんや、ではありますが、まあ清張はこのパターンに嵌まりますよね。

高村講演のPDFがありました→http://www.city.nabari.lg.jp/ct/other000000800/089001400-13nazogatari.pdf

 




「かわいい女」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 429()164934

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 ――人間が生活を生存に、野心を保証に交換したときに生れる生物なのだ。(250p)

レイモンド・チャンドラー『かわいい女』清水俊二訳(創元推理文庫59)読了。

『黒と赤の潮流』の伝でいうなら、(まあ言わずもがなだが)マーロウが<ハードボイルド>を体現し、そのマーロウが<触媒>となって周囲の人物を(いっとき)変化させる、という同じ物語(瀬名のいうそれではなく形式としての物語)を、マーロウものは何度も変奏しているのだといえる。
ただ福田固茹とは違って、チャンドラーのそれでは、ハードボイルドが眩しすぎて(もしくは立場の拘束が強すぎて)目を背けてしまう輩も書き込んでいる点だろう。実際マーロウの存在は立場に強く縛められているものには、自らの卑しさを自覚させられて、かといってどうしようもなくて、苦しいだけですよね。ラストの顛末は、マーロウが眩しすぎた結果といえなくもない。いずれにしても作中に「悪人らしい悪人」という存在は一人も登場しません。

本篇には3人の女が登場しますが、どの女が「かわいい女」だったのか? 一概にはいえないと思いますが、少なくともラストで心中する女優と化粧ッけのない最初の依頼人の女とは、登場時と退場時でその役柄が入れ替わってしまう。ここまで書き込んだチャンドラーは、たしかに福田和代よりも一日の長があります(^^;。

マーロウというハードボイルドは(現実にはありえないだろう)完璧な(しかしかくあるべき)「人間」像であることで(もっとも野村監督並みに休みなく愚痴りつづけるのですけど(^^;)、ほとんどファンタジーなんですが、そのファンタジーの照射が、逆に世界の「影」の部分をくっきりと際立たせる。ファンタジーがリアリティを保証しているわけです。リアル世界の人間はマーロウのようには生きられないのです。
そういえば福田作品に対するネット書評に、若い主人公が「これだけの危険な状況に自ら飛び込んでいくのはリアリティに乏しいように思える」という感想がありましたが、それをいうならマーロウの存在はもっとリアリティがないといえる。ファンタジーなんだから当然なんですね。

 




ごあいさつ  投稿者:管理人  投稿日:2009 428()215656

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『かわいい女』150ページ。半分を越えた。本書を読む理由は、ハードボイルドが人間賛歌であることの検証。>備忘

昨日書いた文章>「いらちな私は50ページほど読んだところで放り出してしまいました」、ほんとうは「いらちな私はまどろっこしくて、50ページほど読んだところで放り出してしまいました」と書きたかったんですよね。ところが「まどろっこしくて」という言葉が全然出てこない。しばらくウンウンうなって、それこそまどろっこしい思いをしたのでした(ーー;。
最近言葉が出てこないのよな(名前も)。歳だね。

 
"そんなわけで、ナニのほうは、いずれナニして、その節ゆっくり、いやどうも"

も、そんなに遠い話ではない。

 




「かわいい女」着手  投稿者:管理人  投稿日:2009 427()232624

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『ロボットの心7つの哲学物語』という講談社現代新書があって、目次を見ると、チューリング・テスト、中国語の部屋、フレーム問題などという章題が……。おお、『デカルトの密室』やん。そう思って読みかけたのだが、いかにも哲学者の文章らしく、下から律儀に順々に、悠揚迫らず積み上げていて、いらちな私は50ページほど読んだところで放り出してしまいました。もっと精神的にゆとりのあるときに読むとしよう。

ということで、チャンドラー『かわいい女』に着手。

 




「日本と朝鮮半島の2000年」  投稿者:管理人  投稿日:2009 426()23563

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ETV特集「日本と朝鮮半島の2000年」第1回を見る。面白かった。と同時に自分の知識がずいぶん古びていることに改めて気づく。ぜんぜんインプットしてないからなあ。
大和朝廷が鉄を得るために、見返りとして提出した生口が、伽耶側により一種の傭兵として利用された、というのは面白い。考えてみれば半島で生口なんて、それ以外の使い道は考えられないものね。逆向きならば東国の開拓移民(屯田兵)がありうるわけですが。それを大和朝廷側が救援軍の供出と(たてまえ的に)認識することもありうる。

次回は5月末。視聴したいけど覚えているかな。

追記>書き忘れていましたが、最古の水稲耕作遺跡である菜畑形跡や板付遺跡は、発見された人骨から遺跡の住民が半島(大陸)渡来系の可能性が高いことが分かったらしい。
また九州大学の先生が、稲作受容後の北九州で、稲作民の人口がまたたくまに増大し、原住民の人口比は2割程度になってしまったと解説していた。
つまり紀元前すでに北九州は半島系(大陸系)住民の地となっていたということですね。
放送でははっきりとはいいませんが、いかにも半島から水稲文化が流入したようなニュアンスでしたが、稲作文化は大陸から直接来た可能性が高いのではないか(半島はそんなに稲作の適地ではない)。とすれば北九州の住民は越人とか淮人だったかも、と思った。

それから4世紀に大和朝廷が鉄と交換した生口は、その鉄器で制圧した東国の蝦夷や南九州の隼人だったんでしょう。

 




ジェン  投稿者:管理人  投稿日:2009 426()21457

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ギャッ。なんやねん。阪神負けてますがな。
テレビ中継終了後ひっくり返されたのか(ーー;
とはいえジェンというピッチャー、全然知りませんでしたが、いいですねえ。桑田みたいなタイプになりそう? まだ20歳らしい。久しぶりにフレッシュな生え抜き(といっていいんでしょうね)の登場ですね。

 




()瀬名  投稿者:管理人  投稿日:2009 426()110216

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瀬名氏のいう「物語」とは、「世界」と言い換えてよいのですが、ただし視者(行為者)である主体を必ずその中心に(視点として)含む「世界」の意です。
したがって同じ現象を捉えても視者(主体)が異なれば「違う」物語となる。

草なぎ事件において草なぎさん本人と最後に別れた友人とポテトチップスを貪りながらテレビでニュースをみている任意の個人では、同じ現象を見ていたとしても「物語」は個々別々ということ。
ここから私の理解ですが、客観世界はなく、世界とは無数の物語の重層であるというのが瀬名さんの認識では。メモ。

 




「黒と赤の潮流」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 425()220332

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福田和代『黒と赤の潮流』(早川書房09)読了。

これは面白かった。純然たるハードボイルドであるばかりか、青春アドベンチャーや海洋サスペンスまで加味されて、もう至れり尽くせり。

本篇のすぐれたところは、脇役にいたるまで、例外なくそれぞれがそれぞれの「物語」(©瀬名秀明)をかかえていることが、読者にそこはかとなく伝わってくるところでしょう。そういう人間本来の「了解性」に訴えてくる奥深さが本篇にはある。

たとえばあけぼの丸船長の川西が高見に対して示す絶対的な心服は、本篇以前のどこかで、別の「物語」があったことを想像させます。それが何なのか本篇を読んでも具体的なことは分かりませんが、本篇の「物語」が、本篇以前のその「別の物語」と確実に繋がっていることが了解できるわけです。本篇が、本篇のみで完結しているのでなく、もっと広い物語世界の一部であることが感じられ、それが翻って本篇に奥行きを与えているように思われます。

そういう意味で、読者としては、どういう経緯で川西が高見に心服するにいたったのか、とか、なぜ後藤が、古賀のことを冤罪で陥れようとするまで憎んだのか、とか、それらの周辺の物語もできるなら「番外編」として読んでみたい、と思いました。

ところで、ネットで検索しますと、本篇の感想として悪人らしい悪人がいないことに不満を述べているブログがありましたが、私は逆で、人間とはそんな単純なものではないし、そんな単純なうすっぺらな人間像を描いてもつまらないと思う立場なので欠点とは感じませんでした。

例えば苛烈な取立てをする金融業者が家に帰ればよくできたお父さんであることは矛盾しませんよね。むしろそういう事例は世にありふれているというべきでしょう。悪人らしい悪人なんて「通俗小説」の中にしか存在しない単純化の極致です。現実的には、「立場」(社会関係)が人間を悪人にしてしまう。

あるいはこういってもよい。
「悪人」に対して「てめえら人間じゃねえ」という常套句があります。これは「悪人」を「人間」の要素が何ほどか欠乏した状態であるとみなしているわけです。「人間」に対する「非人間」が「悪人」というわけです。これは結局「人間」とはそもそも「善人」であることが原状であるという態度であります。

本篇は、主人公の祐一と接触した「悪人」たちが、祐一を<触媒>に、「人間」を回復する物語と読むことも出来るのではないでしょうか。それはおそらく本篇における数日間の祐一の行動の「ハードボイルド」性に依っているに違いない。いわば祐一の体現する「ハードボイルド」に作中人物たちが「染まって」しまったのです。

とはいえそれは畢竟一瞬かもしれない。ラストで、小悪党の真木が祐一に、(娑婆に)
「出てきたら俺と酒を飲め。いいな」(393p)と声をかける感動の場面があります。しかしこのシーンは真木のいかがわしい仕事から足を洗うことを意味しない。次の瞬間から真木は、自分の生活へと戻っていく。人間とはそういうものなのであって、「立場」さえ許せば、基本的に人間は善人である、という人間観を、おそらく著者は持っているのでしょう。
いうまでもなく、「ハードボイルド」は人間賛歌の物語なのです。

ただ惜しむらくは、ラスト50ページで筆が走ってしまった。具体的には海洋サスペンスのパートで、書き急いだ分軽くなって浮いてしまった。ここは腰を落ち着けて、もっと紙幅を費やしてじっくり書き込んで欲しかったと思います。

 




「黒と赤の潮流」に着手  投稿者:管理人  投稿日:2009 424()201638

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福田和代の第3弾『黒と赤の潮流』に着手。
面白い! 一気に半分(200ページ)読んでしまいました(^^)
これ、ハードボイルドやないですか!

  
「死んだ人間との約束は、生きている人間との約束よりも重い」(152p)

  「生意気でない若い男などいない。もしいたらそいつは若くないか、男じゃないかだ」(153p)


うーん、しびれますなあ……。
1975年にタイへ出奔した男が、20年後、阪神大震災直後の神戸へ帰ってくる――というシチュエーションは、明らかに矢作俊彦『ららら科學の子』への挑戦ですね。その意気やよし(^^;

 




「デカルトの密室」読了。  投稿者:管理人  投稿日:2009 423()222855

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瀬名秀明『デカルトの密室』(新潮社05)読了。

とはいえ読み終わった気がしません。曖昧なもやもやしたものが残っている。実はそれは『あしたのロボット』『第九の日』からひきずっているもので、やっぱり本書を読んでもすっきりと霧が晴れることがなかったなあ、というのが正直なところ。

それはつまるところ「ケンイチ」の実体が見えてこないということに尽きます。
このシリーズを読むと、ある程度(人間の子供なみには)「知能」をそなえたロボット・ケンイチというものが存在するようにみえる。でもそれが事実なのかどうか、はなはだ曖昧なのですね。
シリーズの基本的な叙述はロボット・ケンイチの一人称なのですが、実はそれはケンイチの製作者であるロボット学者尾形の書いた小説である、という二重構造がそもそもあります(本篇ではさらに複雑に尾形自身も一人称で登場する)。で、その小説は、実際のケンイチの「行動」自体はそのまま描写している、ということになっている。ただしその行動をしたロボットの内面は、(著者の尾形は)ケンイチそのものではないのだから、想像によって(というより「理解」によって)いる。ところが、いうまでもなく「理解」は人間の本質であるわけだが、尾形がそう理解したからといってケンイチに知能があることが事実であると確定できるわけではありません。

たとえばケンイチは自分も小説を書きたいと望み、実践もする。その出来映えを、尾形は
「アシモフの小説「キャル」に登場するロボットのものよりずっといい」(462p)というのだが、一方379pで敵役真鍋がケンイチに見せたカードには「ひらがなや数字やアルファベットがべったり続いていて」ケンイチは「暗号かもしれない」と思う。ところが真鍋は言う。「ケンイチ、これはきみが書いた小説だ」!
それに反論するケンイチの言葉も変だ。
「そんなはずないよ!」「だってぼくの小説はユウスケ(尾形)が本にしているんだ!」
応答になっていません。案外こっちが現実なのかもしれない。

本篇の結末も、なぜこうなるのかよく分からない。まるで「ドグラマグラ」みたいな読後感(汗)。たぶん結論はないんでしょう。いろんなエピソードや観念が出てくるのだが、それらがひとつに焦点を結ぶことはない。おそらく本篇を含むこのシリーズは本来「全体小説」なのであって、本篇もその構成部分なのではないでしょうか。その意味で本篇のみで完結したものと捉えてはダメなんだろうと思います。

というのが現時点での感想。要再読。それもシリーズ通しでないと意味がなさそう。ともあれ認知社会学(知識社会学)の足元を固めなおしてから。

 




「デカルトの密室」シェアワールド  投稿者:管理人  投稿日:2009 421()221312

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『デカルトの密室』は第二部を終わり、第三部に入ったところ。
これ「魍魎の匣」ですやん(^^;

「宇宙の密室」の「宇宙」って、<世界内存在>の世界のことだろう。だったら「世界の密室」のほうがわたし的にはしっくりと馴染むんだが。違うのか? ――メモ

第三部で柏市にある「科学警察研究所」というのが出てきて驚く。この名前、聞いたことがあるなあ。と思ったら、平谷美樹さんの最近の作品によく出てくる組織ではないか。しかもあっちは「フラクタルハウス」で、こっちは「ヴィトゲンシュタインハウス」だ。これはひょっとしてシェアワールド? や、まだ誰も気づいてないかも。
と、一瞬凄い発見をした気になったのだった。でもまあ一応、と検索して再度驚く。「科学警察研究所」って実在の組織なんですね(^^ゞ

 




訃報  投稿者:管理人  投稿日:2009 421()202738

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森下さんの日記にJ・G・バラード逝去の報。→http://nukunuku.blogzine.jp/nukunuku/2009/04/post_021a.html
私は初期の破滅三部作では『結晶世界』が好き(ただしこれから読まれるなら峰岸久訳(早川SF全集版)で読まれることをおすすめしておきます)。
コンデンスト・ノベルの『残虐行為展覧会』を読んだのは大分あとになってからですが、これも痺れました。
資質は短篇作家で、とりわけ初期短篇群の耽美でデカダンな小説世界は、ちょっと類例がありません。
70年代三部作の『コンクリートの島』は、あまりに翻訳が出ないのでしびれを切らして原書のペイパーバックで読んだんでした。今では信じられない暴挙でしたが、後日翻訳を読みそんなに解釈が違ってなかったのでほっとした記憶があります。それほど傾倒していたということですが、でも、このあたりまででしたね、熱狂的に読んでいたのは。
『コンクリートの島』も傑作でしたが、安部公房的な解釈可能な世界で、以後それまでの解釈を一切無化する麻薬的なエーテルは次第に薄れていったように思います。

またネットではあまり報じているところをみないのですが、田中文雄(滝原満)も4月12日に亡くなっています。私自身はよい読者ではなかったですが、田中光二と同じ昭和16年生まれで、かんべむさしとは74年のSF3大コンテストの同期生。第2世代の一翼をになってSF夏の時代に活躍しました。でも資質はホラーもしくは怪奇幻想系でしたね。

おふたりのご冥福をお祈りいたします。

 




「デカルトの密室」情報知性体の発達  投稿者:管理人  投稿日:2009 420()222146

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『デカルトの密室』260ページあたり。最初の頃に比べて、ぐんと筆が伸びて読みやすくなってきた。とともに描写に臨場感が出てきた。
作中人物が勝手に動きはじめている。といっても(結末が予め決まっているSFやミステリの場合)実際に動き始めるわけがなく、いわば作者(の意識)が手綱を緩めても、筆がおのずと走り始めているということ。最初は(頭で考えた)設定に、いちいち意識しなければ動かせなかった作中人物が、次第に馴染んできて(作家が)ことさら意識しなくても自然と動かせるようになったということだ。

ところで222ページで、
文法を身につけた映像は、インターネット上に置かれている情報の中から文脈依存的に言葉を探し出して、それを自分の中に組み込もうとし始める。文章が自己組織化してくるんだ。うまく文章を作れた映像は生き残って、そうでなかった映像は死滅する

という仮説が開陳されている。これはそのとおりだ。とそう認めた上で、しかし小説内のこの状況では楽観的すぎるのではないかと思った。つまり受け手がソフト(情報知性体)を教育(善導)していく、母親役になる、ということを述べているのだが、そして実際ケンイチはこのような方法というか「教育方針」に基いて育ってきたわけだとしても、ネットにおける不特定多数の受け手は決して「母親」にはなれないと思うのだ。実際の場面を想定して、(育ててやろうという意識を持たない)受け手はどんなチンプンカンプンな文章であっても、むしろそうであればあるほど消去するようなことはしないのではないか。むしろフリークなものほど珍重されるはず。なので淘汰は働かない。受け手の側に「教育」の意識があってはじめて上のメカニズムは働きだす。やはり「母親」の存在は欠かせない。ケンイチにレナが契機として内在しているように。(メモ)

 




「作家とは何か」未来派なのだ!  投稿者:管理人  投稿日:2009 419()22232

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かんべむさしさんが、「いやしくも作家たる者、常に下降のエスカレーターを全力で駆け上がるような気合で書きつづけるべきである」という言葉に強く共感されてますhttp://www.ne.jp/asahi/kanbe/musashi/memo.html

つまり作家たるもの、駆け上がる際は何もかも振り捨てて駆け上がらねばならない。たとえ駆け上がっている最中に財布を落としても、それを拾うために立ち止まるような態度では、作家なんぞになる資格もないしたとえなっても続かないということでしょう。
なるほど。そういえばかんべさんの作品にはこういうシチュエーションが多いですな。トロッコ三部作がそうですし、「道程」なんか、私は70年代サラリーマンの揶揄かと今の今まで思っていたんですが、これ、作家としてのかんべさんの私小説というか「作家宣言」やったんですね!

うーむ。深いなあ。

ところでそうしますと、逆にエレベーターで下へ下へと降りつづけたディッシュは、まさに「反・作家」といえるわけで、しかしながら「反・作家」だからこそ「334」が書けたのは間違いない。でもそのアンビバレンツゆえに「作家」としては自死するしかなかったというのも、上の定義から導出できるわけです。
や、ある時期から星新一は、新作を発表せず自作の改稿(つまり落し物を拾う)に専ら着手していったそうですが、その段階で星は「作家」ではなくなったといえるのかも。

 




「デカルトの密室」未来派宣言!  投稿者:管理人  投稿日:2009 419()21426

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『デカルトの密室』は第1部を読み終わったところ。遅い。あまりにも遅い。youtubeばかり聴いてるからだけど。「もっと速度を!」だ。とりあえず今日はもうすこし読み進めておこう。
「ぼく」に傍点が付されている部分は、「ぼく」の指示対象がそこで交替するからなのか?
たとえばここなんか、効果を狙っているつもりかもしれませんが、わざわざ分かりにくく書いている気がするなあ(下線部が傍点)――

ケンイチはたったひとつの言葉を繰り返していた。ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくはケンイチを抱きながら喚いた。
「フレーム問題だ。世界の記述が爆発したんだ!」(141p)

 




Re: 自動車産業  投稿者:管理人  投稿日:2009 418()22026

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> No.1781[元記事へ]

雫石さん

今のまま進んでいけば持てる者と持たざる者の二極分化はさらに拡大するでしょうね。富裕層はますます肥え太って自家用車どころか自家用飛行機やヘリコプターも所有するようになるかも。家にヘリポートがあり、富裕層が出向く場所にも必ずヘリポートが(今の駐車場のように)設備されている。遠方への旅行の際は郊外の自家用滑走路まではヘリコプターで移動し、そこから飛行機に乗り換えてどこへでも自由にすばやくラクチンに出かけるでしょう。
一方貧民の交通手段は自転車です。その頃までに貧民の大半は土地を手放さざるを得なくなっており、日本の個人私有地の大部分が少数の金持ちによって所有されます。その手放された土地が個人や法人の滑走路やヘリコプター駐機場に転換されるわけです。貧民は巨大な集合住宅に押し込められ(その一つ一つの建物には、331、332と棟番号が付されている)、その部屋さえもてないホームレスが階段に鈴なり状態で寝床を確保している。実際やがて「334」のように巨大なスラムとなっていくかもしれません。
日本社会は、閑静で広々とした(「裸の太陽」の)惑星ソラリアのような富裕層居住地区(ロボットが召使になっているかも)と、「鋼鉄都市」のように狭隘な空間に詰め込まれスラム化した貧民地区(たぶんかつての部落のように、小分けに産業地区周辺の河原=芦原のような劣悪な地区にそれは作られる)に截然と分化して、いずれにしましても、(富豪も貧者も)自動車は必要としなくなるのではないでしょうか。そういう次第で、自動車産業が衰退するのは必然の帰結というべきかも(ただしトヨタなどが指を咥えて何もしないわけがなく、航空産業に重心移動していくはず)。

冗談はさておいて、自動車に限らず、生活のダウンサイジングは緊急の課題だと思います。ところが、(雫石さんは神戸市内ですからそんなに感じてはらへんかもしれませんが)、大都市の衛星都市の近隣の商店街は、今や全滅しており車なくしては生活できないんですよね。なかなか難しいですね。

ショートショート「逃げる」読ませてもらいました。→http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/c/7e5ac65c4defe90d70f3eeac570bfdd3
エスカレーションのさせ方がちょっとかんべむさしっぽくて面白かったです(^^)
一種の不条理ショートショートで、こういうの好きなんです。

>5月3日の宴会、私も出席します
楽しみにしております(^^)

 




自動車産業  投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 418()08471

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自動車産業ですが、私のブログに書きましたが、長い目で見れば衰退の方向に向かっているのではないでしょうか。個人で自由に移動することは、とんでもなく贅沢なことになると思います。
その兆しが、もう出ているのでは。
アメリカのオバマ大統領も、そのへんのことは判っているらしく、高速鉄道網をアメリカに作る構想を持っているようです。今の日本の政権の近視眼的な発想は、大いに心配です。
5月3日の宴会、私も出席します。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




「デカルトの密室」読み中  投稿者:管理人  投稿日:2009 417()231942

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『デカルトの密室』はまだ80ページそこそこなのだがこれは面白い。著者が腰を据えて書いているのがよい。既読の著者のロボットもの2冊は、短編もしくは中編ということもあってか、枚数的に書き込み不足が感じられ、読者としてやや置いてけぼりを食わされるようなところが(少なくとも私には)あったのですが、本作ではしっかりと読者に向き合ってくれている印象。この作家はこのくらいの長さが最低必要なのかも。
内容はかなり歯ごたえがあり、私としては、理想的には自分の(もともと中途半端であるばかりか記憶の彼方に消えかかっている)知識のチェックを、並行的に進めながら読んでいきたい気持ちが強く、そうすると読書時間の殆どが出先という現状との乖離に悩むところではあります。ま、とりあえず一読してから考えましょうか。

最近のテレビ、車のCMがやたら目立つ気がするのですが……。まあモデルチェンジの時期ということなのかも。とはいえやはり買い替え優遇措置とか高速道路一律1000円とかの、一連の自動車産業てこ入れに乗じようということなんでしょうな。ま、企業としては当然のことですね。
それはいいのですが、自動車産業ばかり国家的に優遇されているようで気に入らんなあ。裾野が広い業界からまず立て直せというのは建前としてよくわかるのですが……そういう施策が組まれた初期動機には、なにか陰謀的な陰湿なものがあるんじゃないかと想像してしまうのは私の品性が卑しいからですかそうですか。

 




「デカルトの密室」着手  投稿者:管理人  投稿日:2009 416()232429

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先回述べたように、似たような感興をもたらすチャンドラーと笹沢佐保ですが、しかし小説のスタイルは正反対。前者がリアリズムに徹して作者自身は何も語らないのに対して、後者は一から十まで作者が解説してくれます。
前者にはマーロウの視界に映じたシーン、マーロウの耳に聞こえた音声情報があるのみで、それに著者は何も付託しない。そしてマーロウの心の中も、かれがしゃべる言葉から推察する以外にない。
他方寡黙なる紋次郎は、自身では何も言わないけれども、その行為の意味や心中の考えは、作者がすべて代行して説明し尽くしてくれる。
そういうわけで、チャンドラーの小説は(リアリズムに徹することでリアリティを拒否するため)一見ではごたごたとそれぞれのシーンが意味的な繋がりを持たずに放り出されてあるように見え、大衆小説の語法しか知らない読者はなかなか理解が及ばない。一方の笹沢は大衆小説そのものの語法に依っており、実に分かりやすく作者によって整理され、読者は受身の姿勢で待っていれば理解が向こうから訪れてくれます。どっちが「小説」なのかといえば、これはもうチャンドラーに軍配を上げる他ないのですが、「読後感」はさほど違いがないのですよね。どっちも「ハードボイルド」なのです。

ということで、『デカルトの密室』に着手。
この「小説」では、(ブラックボックスとして)意識があるようにみえるロボット・ケンイチが、(チャンドラーのように)一人称の「ぼく」として、この小説世界を物語っているのですが、しかし実際はケンイチの製作者によって書かれたものであり、小説内のケンイチの「意識」の内容は、実は(笹沢佐保のように)この製作者によって解釈・説明されている。小説に書かれたケンイチの行動は、小説の「外」で実際に行為されたことそのままなのだが、その行為についての「小説」が、実際のケンイチの「意識」であるのか、当のケンイチにも「信用できない」。そんな話みたいです(^^;

 




「夜泣石は霧に濡れた」  投稿者:管理人  投稿日:2009 416()00541

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笹沢佐保『木枯し紋次郎(五) 夜泣石は霧に濡れた』(光文社文庫 97)読了。

「馬子唄に命を託した」(天保10年9月)
「海鳴りに運命を聞いた」(天保10年1月)
この2作を読んで、ああとうとう5巻目にしてこのシリーズも続きものの悪弊に怠落してしまったか、と思った。あまりにも緩い筆致でシリーズを縮小再生産的に消費してしまっている。例えばこれまでは1巻で大体1年の時が経過していたのが、既に前巻から殆ど時間が進まなくなってはいたのですが、本書にいたって遂に時間が逆戻りをはじめてしまっている。いうまでもなく従来の速度で時間を流していったら、またたくまに紋次郎が中年、老年になってしまうことを慮ったからだと了解するのですが、同時にシリーズに安住する姿勢のあらわれでもあるわけです。「もうこの巻で読むのやめよう」と私は思ったのでした。ところが――

「夜泣石は霧に濡れた」(天保9年9月)
で、あざやかに建て直されていました。それは作者も自覚的なようで、ここまでの4巻はすべて冒頭の作品タイトルが自動的に書名として使われており、その通例に従うならば本書のタイトルは
「馬子唄に命を託した」となっていてしかるべきところを、この巻に限ってそれが破られて、本篇の「夜泣石は霧に濡れた」が採用されているところから明らかであると思われます(>本シリーズの構成は、単純に自動的に雑誌掲載順に配列されているのです)。つまり著者も前二作の出来に満足していなかったということで、シリーズ化の「悪しき惰性」に陥りかけたことに素早く気づいて、本篇でしっかり軌道修正したわけです。この辺が並みの作家ではないところですね。そうして次の――

「駈入寺に道は果てた」(天保9年11月)
も十分に楽しめる作品で安心した。これでまた続巻を読み継いでいこういう意欲も復活しました。
ところでこの作品、どうも読んだ記憶があるんですよね。で、小一時間ほど自分のサイトを検索していたんですが、そんな記録は見当たらないのです。でも私は最後の仕掛け(身代わり)と結末まで、はっきりと覚えていたので、確かに読んでいるのです。うーむ。
そういえば
「夜泣石……」も次の「明鴉に死地を射た」(天保10年2月)も、なんとなく記憶があるような気もだんだんとしてきて、謎は深まるばかりなのですが、たぶん読んでいるんでしょう。

なぜ読んでいるにも関わらず覚えていないか。結局チャンドラーと同様この著者もストーリーというよりはその雰囲気に浸って気持ちよくなるタイプだからではないか。いわば風呂につかって気持ちよくなるのと同じ効能を読者にもたらす小説なんですね、ヘンなたとえですが。風呂は、当然湯船の湯は入るたびに入れ替わっているわけです。ところが湯は変わっていようと、それに関係なく或る一定の気持ちのよさをもたらします。

フィリップ・マーロウものも木枯し紋次郎ものも、毎回筋立ては異なるけれども、そのもたらす気持ちよさは一定といえる。その意味でストーリーは湯のようなものであり、だから読者はストーリーに浸かっても、そのストーリーの個別性は基本的にどうでもいいということなのではないか。
ただこの作品は、めずらしくストーリー的にも一応緊密な構成があってよく出来ていたので、かすかに記憶が残っていたということなんではないでしょうか。

 




Re: チャンドラー  投稿者:管理人  投稿日:2009 415()170610

  返信・引用

 

 

> No.1776[元記事へ]

雫石さん
や、そんな番組があったのですか。気がつきませんでした。というかハイビジョン放送は見れないのでした(^^;。

>マザコン
ということに関して思い当たるのは、愛妻セシリアと18歳の年齢差(チャンドラーのほうが年下)があったことですね(稲葉明雄の解説に拠る>291p)。ペタジーニ夫妻(25歳の差)ほどではないですが、これはかなり特殊な関係のような気がします。マザコンの代償行為としてそういう伴侶を求める傾向というのがあるのかも知れませんね。
あ、とすればペタ(以下略)

 




チャンドラー  投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 415()10510

  返信・引用

 

 

昨日(4/14)NHKハイビジョンの番組「偉大なミステリー作家たち」で、
レイモンド・チャンドラーを特集していました。
なんでも、チャンドラー、アル中でマザコンで、どーしようもない、おっさんやったそうですね。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




固茹で時代小説  投稿者:管理人  投稿日:2009 415()011738

  返信・引用

 

 

アメリカのハードボイルド小説もそんなに読んでいるわけではなく、日本人作家にいたっては、これはもう殆ど読んでいません。読んでもないのに知ったかぶりですが、日本の場合、ハードボイルドは冒険小説や情報小説、社会派推理小説と混ざり合ってしまって、純粋な形態を維持しているのは原りょうくらいしか思いつきません(たぶん知らないだけでしょう)。そんななかで時代小説ではありますが、笹沢佐保の股旅小説は、いちおうミステリ的構造を持っており、且つチャンドラーとは似ているようで違う東洋的無常観に裏打ちされた感傷を湛えた作風で、一種風変わりなハードボイルド小説となっているのではないでしょうか。

そんなことをちょっと思いついたので、木枯し紋次郎シリーズ『夜泣き石は霧に濡れた』に着手(>無理矢理だ)。

  BGM>http://www.youtube.com/watch?v=HI4vbfJhsNw&feature=related&fmt=18

 




「フィリップ・マーロウ」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 414()215918

  返信・引用

 

 

「碧い玉」は、ダイム・デテクティヴ・マンスリー(37)初出。早速予想どおりの展開に……(汗) 私、この作品のあらすじを説明できませぬ。一体何がどうなっているのやら。複雑に入り組んでいるのか、そもそも筋がとおってないのか。いや筋がとおってないなんてありえませんね、私の理解力が本篇の水準に及んでいないだけなんですよねっ!
今回の副主人公(?)は数年前に町のチンピラに殺された高潔な警察署長の娘。いささか母性本能が強く頼まれもしないのにマーロウの世話を焼きます(^^;

「うぬぼれた殺人」は、ブラック・マスク(34)初出。デビュー第2作で、第1作「脅迫者は撃たない」と同じく著者には珍しい3人称描写。探偵の名前は異なりますが、世界は同じで同一人物とみなしてよさそう。確認したら映画会社名や市警署長の名前も共通のままでした。いずれにしろ著者は、マーロウの名に後になって統一される探偵を第1作から同じイメージで書き継いできたそうです。

ところであらすじがわかりにくいということに関して――
探偵があるパーティに潜入したシーン、金髪女が探偵の方につかつかとやってきて
「あら、珍しいところであったわね!」と声をかけます(222p)。実はこの女が242pで探偵から「きょうの午後、スートロの邸できみを見かけたよ。深酔いしていたから覚えてないんだろう」と指摘される当の金髪女なのです。つまり222pではまだ初対面というかお互いに誰であるか知らない状況。なのに女が上のようないかにも親しげな発言をするのはこういうことではないか。おそらくパーティでは女は退屈していたんでしょう。そのようなシーンで、女のほうからめぼしい男に声をかけるときには、そのような声のかけ方を(当時のアメリカでは、あるいは今でも)したのではないでしょうか。こういうシチュエーションは、特に文化の違う読者はよほど気をつけて(小説世界に溶け込んで)読んでいないと、「あれ、こんな女と探偵は出会っていたっけ」とページを繰りなおしてしまいかねない。非常にリアルなシチュエーションではあるけれども、一方で読者にとって非常に「不親切な」描写方法でもあります。

実はこのようなリアリズム筆法が随所で使われているため、チャンドラーの小説はなかなか筋が掴みにくいのかもしれない、と思ったことでした。

さて、チャンドラーといえば感傷的な気のきいた台詞回しが特徴ですが、本集収録作品には、意外にもそういう面はあまり目立たなかった。実はチャンドラーは初期の10年足らずの間に書いた中篇を「使いまわし」して、その後の長篇小説に生かしていったようです。訳者も巻末解説で、
「ほとんどの長編はそれまでに書いてきた中編をさまざまに組み合わせ、あいだにつなぎを入れて完成している。(……)ところが皮肉にも、そのつなぎの部分に私小説的、叙情的な味があり、大いに受けることになった」(293p)と書いています。
つまり、いわゆるチャンドラーらしさは、実は専ら長編のみに該当する特徴だったのですね。上に書いたように中編では殆どそんな要素は認められません。ただただ探偵が「ハードボイルド」に、ぼこぼこ殴られ、死体の山が築かれていくばかり、といえば言いすぎですが(笑)。

訳者は
「長編では曖昧でわかりにくい部分も中編で読めば、ストーリーがはっきりわかる」(同上)と書いていますが、いやいやなかなかどうして。確かに長編化されて「より分かり難く」なっているのが因数分解されることで、些かましになったかもしれませんが、やはり上記のような叙述法(リアリズム)は、読者に「体験」の蓄積がないと判りづらいものであるのは確かではないでしょうか。
本格パズラーは「1+1=2」(論理)が基本ですから中学生でも完璧に理解できますが(だからハードボイルドより劣るといっているのではない。為念)、チャンドラーの小説はそういうわけには行かないようです。
巻末の鳴海章によるエッセイにあるとおり、
「チャンドラーを読むのは実に20年ぶりだった。あの頃は若すぎたのだろう。一行一行に込められた切なさを読み取れなかった気がする。今もちゃんと読みとれているのか自信はない」(302p)。私も同感ですねえ。

以上で、
レイモンド・チャンドラー世界の名探偵コレクション10 フィリップ・マーロウ』稲葉明雄訳(集英社文庫97)読了。

 




「フィリップ・マーロウ」着手  投稿者:管理人  投稿日:2009 414()000717

  返信・引用  編集済

 

 

パルプ・マガジンといえばウィアード・テールズ(1923年創刊)と、馬鹿のひとつ覚えのようにいってますが、ミステリの人なら、たぶんブラック・マスク(1920年創刊)をまず想起されるのではないでしょうか。というわけで(無理矢理ですが)ブラックマスク御三家の一人、チャンドラー世界の名探偵コレクション10フィリップ・マーロウ』(集英社文庫)に着手。冒頭の「犬が好きだった男」を読みました(ただしこの話はアーゴシー(36)初出です)。

チャンドラーは、長篇は『かわいい女』以外は読んでいるはずなんですけれども、短篇は創元の短編全集の1巻と3巻を読んでいるだけ。なので、たぶんバッティングすることはなかろうと高を括っていたのですが、帰宅して確認したところ、なんとこの
「犬が好きだった男」がかぶっていた(3巻所収)。
でもタイトルを見て気がつかないくらいですから、全然覚えてなくて、実際のところはノープロブレムでした(汗)。というかチャンドラーは何を読んでも、ストーリーを覚えられません。

さて本篇は、犬好きのお尋ね者、腐敗した町の警察を辞めて(辞めさせられて?)港でブラブラしている男など、いかにもチャンドラーらしい登場人物がマーロウに絡んでいき、しかして(法的な意味での)善悪を超越した哀感で収束する、まさに典型的なマーロウもの。堪能しました(しかし、うーむ残りの2編も同じ感想を書きそうな予感が(^^;)

 




「時計仕掛けのオレンジ」  投稿者:管理人  投稿日:2009 413()000259

  返信・引用

 

 

いま、ギャオでをやっているのに気づいて懐かしいなあとちょっと覗いてみたら、けっきょく最後まで見てしまった。20年ぶりくらいでしたが、あらためて凄い作品だと感心。バイオレンス映画で括れる内容ですが、暴力を描写しても様式的なので、あまりそういう感じはしません。だからジャズやロックは合わない。まさに第九とか雨に唄えば的世界です。たしかにクラシックというかシンフォニーって、多分に管理音楽の面がありますから。前半の鬼面人を驚かす類の特異な未来的セットは、後半とは断絶している(同じ世界としての繋がりを感じられない)ことに気づく。単なるこけおどし、といえるものですが掴み的にはばっちり。この辺もよく出来た映画です。

 




  古典新訳文庫のカフカ訳文雑感  投稿者:管理人  投稿日:2009 412()112950

  返信・引用  編集済

 

 

光文社古典新訳文庫の『変身/掟の前で 他2編』のあとがきと解説で、訳者の丘沢静也が、白水社版つまりは池内紀を貶していて、わたし的にちょっとどうかな、と思ったのだった。そういうふうに引っかかったところが何箇所かあった。
丘沢によればカフカテキストは3種類あるらしい。新潮社版が依拠した1)マックス・ブロート版、白水社版が依拠した2)批判版と、丘沢が使った一番新しい3)史的批判版がそれ。周知のようにカフカは生前に上梓したごく僅かな中短編以外は全て自分の死後は破棄するように友人のブロートに遺言していた。そしてこれも周知のようにブロートは遺言を裏切り、世界文学に多大な寄与をした。丘沢ならずとも「いくら感謝しても感謝しすぎることはない」(160p)。
けれどもこのブロート版にはブロートの編集が介在していた。ブロートの死後、ブロートが独占していたカフカの真筆にようやく触れることが可能になり、判ったのだ。その結果ブロートの手が入ってない2)が上梓されるに至る。この2)も、本の体裁に合わせるための―必然的な―編集があり、それをも問題にする立場からさらに徹底したのが3)で、いわば直筆原稿をそのままコピーするといったのも含めた原文(手稿)そのものと考えてよいみたい。

という前提を踏まえて、丘沢は2)に依拠するはずの白水社版が、ブロート版と同様の編集が入っていることを問題にする。ひとつは(原文では行なわれてない)会話文での頻繁な改行、もうひとつはまるでカフカを見下ろしているような(校閲者的な)「解釈」による改変、大きくこの2点を問題にし、例を挙げている。

前者に関して、私自身は池内訳と出会うまではカフカの既存翻訳の、その改行の少なさに辟易していたこともあって諸手を上げて歓迎した口である。だから丘沢の批判には首を傾げないではいられなかった。
さらにまた池内自身が書いているが(何で読んだか憶えておらず確認も出来ないのでなんだけど)、カフカはまず作品を朗読するために原稿を書き上げた。したがって活字媒体の「小説」としての結構にそれほど(草稿自体は)こだわっていない。朗読する際の緩急で、活字で読めばうねうねと長いワンセンテンスを、実際の聴衆にはそのように感じさせずに朗読したはずだ。したがって(カフカが想定していなかったもしくは望んでいなかったところの)活字化に際しては、むしろ(カフカの意を汲んで)分かち書きにするのは当然の配慮だ――と書かれていたように「記憶している」。

ところが丘沢によれば、カフカはワンセンテンスを流れるように読んで欲しいと思い、だから会話文もその中に落とし込んだと主張している。
というわけで、丘沢訳を、随時池内訳で対照させつつ読んでみたのだった。うーむ。そうしてみたら丘沢の言にも一理ありそうな気もしてこないでもなかったのだ。実際のところ丘沢訳は優れていて、うねうね続く長文でも(池内訳なみに)すいすい読めるんだよね。だとしたら上に挙げた私の「辟易」は単に先行訳の生硬さのせいだった可能性も出てくるわけです。

後者に関して、丘沢のあとがきをよく読み返せばこんなことが書いてあった。

 
姿かたちを全て翻訳に反映させることなどできない。とくに長文のドイツ語(屈折語)を日本語(膠着語)に翻訳するとき、句読点を律儀に反映させようとすれば、昔の岩波文庫のドイツ観念論みたいに、どの言葉がどの言葉にかかっているのか、チンプンカンプンになる。1対1対応にこだわる必要はない。
 だから白水社の『城』では、例のワンセンテンスを、7つの短文で処理している。短文をうまく連ねることによって、意味がすっきり伝わり、リズムも生まれている。


と誉めてもいるのです。しかしつづけてこうも書いている。

しかし、改行を翻訳に反映させることは簡単なのに、なぜオリジナルの段落を無視するのか。たぶん日本の文芸物の改行の慣習にしたがって、読みやすくしようと思ったのだろう。(176p)

「改行を翻訳に反映させることは簡単なのに」の意味が私には不明なのだが、日本語で理解しやすいように短文に切り分けるのはかまわないが、それは段落の中で行なうべきであり、段落そのものを恣意的に分解してしまってはいけない、という考えなのだろう。まあそれもよく判る、と最初の違和感からすればかなり丘沢訳に寛容になってきている私がいる(あ、これは英文構造の新しい日本語ですね)。

ところで白水社版は2)ではあるのだけれども、池内はそれ以前に岩波文庫で『カフカ短篇集』を上梓している。これはあとがきに1)を底本にしていると記載されているのだが、たとえば所収の「判決」を白水社版のそれと対照してみたところ、まったく異同は見つからなかった。よく考えればこれは当たり前の話で、「判決」はカフカ存命中に公開された数少ない短篇のひとつなので、ブロートが改変する余地はなかったもの。したがって1)でも2)でも同じテクストなのだ。
この「判決」の池内訳文の中から、丘沢は池内によるカット処理部分を取り上げて(丘沢177-178p)、2)を底本にしているにしては操作が1)的だと貶しているのだが、そういう次第で少なくともこの池内訳文は1)から翻訳されているので、この非難は「ある意味」的をはずしている(本質論では瑣末な指摘ではあるが)。

疲れてきたのでこの辺にしておくが、結局のところ翻訳の出来不出来が全てに優先するとすれば、丘沢訳は良訳であるといえよう。読みやすさは池内訳に引けを取らない。だからいいとしよう。しかしながらここまで啖呵を切るならば、池内みたく個人全訳とまでは言わないが、少なくとも主要な長篇はその主張にしたがった訳業を実際に示してもらいたいものだ。それが存在しない間は、やはり日本の読者にとって池内訳全集が最良のカフカ全集であり続けるだろうと思うのであった。

<お遊び>
「変身」の最初の部分で、寝坊したことに気づいたザムザが素っ頓狂な声を上げるのだが、翻訳者によってというか時代的変遷があって面白い。

・1952年 
「これはいかん」と彼は思った。6時半であった。(8p)高橋義孝訳/新潮文庫版
・1958年 
「しまった!」と彼は思った。時刻は6時半だったが、<以下略>(10p)山下肇訳/岩波文庫版
・2001年 
「ウッヒャー!」
      と、彼はたまげた。もう6時半。(96p)
池内紀訳/白水社版
・2007年 
「な、なんだっ、これは」。6時30分だった。(35p)丘沢静也訳/光文社古典新訳文庫版
・2008年 
「あっりゃーっ!」と彼は思った。6時半だった。(215p)浅井健二郎訳/ちくま文庫版

次に翻訳される方はぜひとも
「どっひゃー!」を採用していただきたい(^^ゞ

 




「ウィアード4」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 411()225014

  返信・引用

 

 

H・P・ラヴクラフト他怪奇幻想小説シリーズウィアード4』大瀧啓裕編(青心社文庫91)読了。
感想はチャチャヤン気分に→http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/196.html

これで刊行されている『ウィアード』4巻はすべて読了。でも刊行予定表を見ると、第5巻というのが予定されていたようです。これも読んでみたいなあ。当然原稿は揃っているはずなので、なんとか発刊にこぎつけてもらえないか知らん。

 




「ウィアード4」  投稿者:管理人  投稿日:2009 410()170141

  返信・引用  編集済

 

 

『ウィアード4』に着手。丁度半分。

光文社古典新訳文庫のカフカをパラパラ見ていたのですが、訳者の解説とあとがきに違和感。ちょっと考えてみて、書きます(>書かないかも)。

 




「真紅の城砦」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 4 9()22024

  返信・引用

 

 

感想文をチャチャヤン気分に。http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/195.html
これで<新訂コナン全集>もいよいよ残り1巻となりました。最終巻はあまり待たさないで刊行していただきたいと思います(^^;

 




「真紅の城砦」に着手  投稿者:管理人  投稿日:2009 4 8()204911

  返信・引用  編集済

 

 

『ウィアード3』の感想文をチャチャヤン気分に掲載しましたhttp://wave.ap.teacup.com/kumagoro/194.html
いよいよパルプ雑誌らしい作品が並んできました(^^;

『真紅の城砦』は巻頭の(160ページの)長中篇
「黒い異邦人」を読む。面白かった。でもこれは没原稿だったらしい。どこでボツられたか記載がありませんが当然ウィアードテールズでしょう。でもなぜこれがボツなのか? WTの主要読者にはプロットが複雑すぎたのかも(並行的というか集中的ではない)、というのは馬鹿にしすぎですか(汗)

 




「ウィアード3」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 4 7()153318

  返信・引用  編集済

 

 

H・P・ラヴクラフト他怪奇幻想小説シリーズウィアード3』大瀧啓裕編(青心社文庫90)読了。
今日はこれからいろいろあるので感想は明日以降になると思います。

ということでいよいよ、ロバート・E・ハワード新訂版コナン全集5真紅の城砦』中村融訳(創元推理文庫09)へ着手の予定!

 




「モダンボーイ」  投稿者:管理人  投稿日:2009 4 7()012228

  返信・引用  編集済

 

 

エゴラッピンで検索していて、偶然「モダンボーイ」という韓国映画を見つけました。http://www.youtube.com/watch?v=BWiVDB6tYH4&feature=related&fmt=18
予告編→http://www.youtube.com/watch?v=8nR2cXiUddg&feature=related

ここにあらすじ→http://www.wowkorea.jp/profile/300238.html

>日本植民地時代の京城で新文物の恩恵を受けたモダンボーイと、歌手やダンサー、デザイナーなどさまざまな職業を持った正体不明のモダンガールの愛を描いている

世界設定がわたし的にもろツボなんですが、この映画、日本で公開されたのでしょうか、まだ? それとも公開予定なし?
ツタヤやamazonで検索しても出てきませんね。

 




変り種ショートショート?  投稿者:管理人  投稿日:2009 4 6()18061

  返信・引用  編集済

 

 

『ウィアード3』は180ページまで。
デイヴィッド・H・ケラー「地下室になにが」の形式が面白かった。

11ページのショートショートなのだが、小さな家に不釣合いな地下室があって台所と扉で繋がっている。どうやら地下室の地上部分にあった館がなくなった後に小さな家を建てて地下室と繋いだらしい。誰もその地下室の奥のほうまで検分していないという設定。

その家を買った夫婦に赤ちゃんが出来る。この赤ちゃんが異様に地下室を怖がり、少年になっても治らない。親が精神科医の見せると、逆療法で地下室の扉を閉まらなくして台所にしばらく閉じ込めたら、その恐怖が何の根拠もないものだと判るだろうとの診断。で、親がそれを実行し、子供を閉じ込めると……

という話。読者の方は(とりわけウィアードテールズの読者は)、地下室に古き何かがいて、赤ちゃんの鋭敏な感覚がそれを捉えているんだろうと先回りして気づいているわけです。知らないのは作中の両親と精神科医だけ(^^;

で、何かが起こるわけですが、精神科医が逆療法と言い出した瞬間に読者はラストを予想して戦慄しているわけです。で、そのラストに向かって粛々とストーリーが進んでいく。この間のサスペンスが本篇の肝。

これって映画やドラマの常套手段ですが、ショートショートでは珍しいのではないか。ふつうはラストでオチがついて、気がつかなかった真相に読者が気づいてアッと驚く、という展開ですよね。

この(オチショートショートとは逆の)進め方が面白かった。
本篇では(ウィアードテールズですし)最後まで(残虐にも)描写されてしまうのですが、ショートショートにこだわるならば精神科医がこうしましょう、というところで終わらせるのも手ではないでしょうか。どうでしょうか(^^;

追記>あ、「ボッコちゃん」はこの手か? ロボットだと(読者に対して)明示しているから変則ですね。これでロボットだという明示的描写がなく、動きを描写するだけでロボットであることを暗示するに留めたものだったらまさにこの手かも。

 




「アトランティスは南極大陸だった」中止  投稿者:管理人  投稿日:2009 4 5()15068

  返信・引用

 

 

高田渡は56歳で死んだのか。なんとあと3年後ではないか。あせるなー(*)、と思って、そういえば加川良はいくつだっけ、と調べてびっくり。加川の方が高田よりふたつ年上なのでした。これは全然気がついてなかった。迂闊。

ムー・ブックス『アトランティスは南極大陸だった!!』に取り掛かる。地球は地殻であるリソスフェア(プレートと同義)とマントルの間にアセノスフェアという層があり、これの可動性により、上の地殻がずるりとすべって(したがって大陸相互の位置関係は変化しない)、南極が今の位置におさまるような大地殻移動が、約1万2000年前に起こったとします。
というアイデアは実に面白いのだが、本書には上に書いた以上の説明がない。で、それを傍証するために各地の国生み神話や洪水神話がいかに共通の出来事を語っているかという方向にいってしまう。

ああ、やっぱりということで読むのをやめました。

本来、この地殻移動のメカニズムを(嘘を交えてもいいから)もっと精細に説明しなければ説得力を持たないのです。いくら神話を解釈したって、それでメカニズムの信憑性は導出されません。逆にメカニズムを納得させてはじめて、「神話が真実を物語っていた」という証明となるのですから、論の進め方が逆なんですね。著者の経歴を見ると、図書館勤務らしい。科学者ではなく、分類家なんですね。分類には因果的な矢の向きは必ずしも必要ない。なるほどと納得。

ということで、気を取り直して『ウィアード3』に着手しました。

(*)とはいえ何をあせっているのか(^^;

  http://www.youtube.com/watch?gl=JP&v=ozWlAlvDZpQ
  http://www.youtube.com/watch?v=VlAjCllTD0Y&feature=related

 




「黒の碑」読了  投稿者:管理人  投稿日:2009 4 4()225957

  返信・引用

 

 

ロバート・E・ハワード『黒の碑 クトゥルー神話譚』夏来健次訳(創元推理文庫91)の感想を、チャチャヤン気分にアップしました。http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/193.html

さて、先日「エキスポ大怪戦」をアップさせていただいたばかりですが、今度は、学習雑誌<小学三年生>1961年11月号に掲載された、眉村卓・文/手塚治虫・え「火星っ子と地球っ子」という科学よみもの(要は絵物語)のコピーを、さる方のご好意で入手いたしました。
これはいろんな意味で貴重なものだと思います。うまくいけばこの作品も、アップしてお見せしたいと思っています。乞うご期待。

読書は「ウィアード3」にするか、間をあける意味で別ジャンルにするか迷い中(^^;

 




アカシアの雨(ちがう)  投稿者:管理人  投稿日:2009 4 3()22536

  返信・引用  編集済

 

 

雫石さん
ブログのショートショート、楽しませてもらっていますよ(^^)

高井さん
高井ショートショート学の体系構築の成就を祈念しております!
ブログがショートショート者のサークルみたいになればいいですね。

ということで(どういうことだ)、ラヴクラフト・サークルの麒麟児、
ロバート・E・ハワード『黒の碑』夏来健次訳(創元推理文庫91)、読了。感想は今日か明日にでも。

話はころっと変わって、最近きいておおッと思った曲→http://www.tombori.com/acacia/
とてもよいです。とくにピアノがセンス抜群。
私が知らなかっただけで有名なのかも知れませんが(^^;

もう1曲→http://www.youtube.com/watch?v=FvVZGvf6xbM

 




ありがとうございます。  投稿者:高井 信  投稿日:2009 4 3()061546

  返信・引用

 

 

 拙ブログをご紹介いただき、ありがとうございます。雫石さんも、さっそくのご訪問、ありがとうございます。
 今後も気ままに書き続けていきます。
 お楽しみいただければ幸いです。

 




あいりがとうございます  投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 4 3()045942

  返信・引用

 

 

面白そうなイベントの情報、ありがとうございます。
南半球さんの講談、興味ありますが、こんどの日曜は少々、やぼ用がありまして・・・・。
それに、今日(4/3)桂米團治さんの独演会に行きますし・・・。
高井さんのブログ、お気に入りに入れました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




Re: 高井さんのブログ  投稿者:管理人  投稿日:2009 4 2()232737

  返信・引用  編集済

 

 

> No.1757[元記事へ]

雫石さん

早速反応していただきありがとうございました。この記事、正直な話雫石さんとか深田享さんを念頭においていましたので(^^;
まだ始まったばかりですが、どんどん蓄積されていけばとんでもないショートショートの情報データベースになるのではないでしょうか。若い人はプリントアウトして古本屋へGOですね(^^;

あ、そうだ。今週の土日、こういうイベントがあるようです(知り合いが演出したり出演したりしています)。日曜夜の部には、雫石さん注目の旭堂南半球さんがゲスト出演されるみたいです。私自身はガンダムになんの思い入れもないので行きませんけど(汗)、一応お知らせしておきますね。

『黒い碑』は残りあと一篇。前回の記事投稿の後から俄然面白くなってきました(^^) 訳文も申し分なし(>失礼しましたm(__)m) 解説にあるとおり、結局クトゥルーの定型を踏んだ作品がダメダメなのでした(もちろん表立っては貶してませんが)。後日ちゃんと書きますが、倉阪氏の解説は実に的確で感心しました。

 




高井さんのブログ  投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 4 2()22127

  返信・引用

 

 

「チャチャヤング」のころから、40年、いまだにしつこくショートショートを書いている私にとって、非常に参考になるブログを紹介していただきました。
高井さんのブログです。さっそく訪問させていただきました。
どうも、ありがとうございました。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




「大怪戦」補足とSS専門ブログ  投稿者:管理人  投稿日:2009 4 2()170749

  返信・引用

 

 

『エキスポ大怪戦』について補足。
本篇の肝は、パビリオンを一種の怪獣に見立てているところで、眉村さんの柔軟な想像力が妄想したパビリオン怪獣が実に楽しいのです。たとえばオーストラリア館は雷竜が円盤状の武器を振り回して戦う見立てとなっています。ここでひとつ浅薄な知識をひけらかせて頂くならば、あの特異なオーストラリア館の造型は、実に北斎の富岳三十六景を模したものなのでした。この事実は当然眉村さんもご存知のはずですが、たしかに恐竜にみえますわな(^^;

○もはやショートショート研究の第1人者といってよいでしょう(むしろパイオニアか)高井信さんが、最近ショートショート研究のブログを開設されました。→http://short-short.blog.so-net.ne.jp/
これははっきりいってショートショートに関心のある方(創作を志す者、蒐集家、研究者すべて)は必見のブログだと思います。
名著『ショートショートの世界』(集英社新書05)において、ページ数の関係で割愛したこと、発行時に資料不足で書けなかったり推測で書いてしまったりしたことがあるのだそうですが、このブログでその辺の書き尽くせなかったことなども順次掲載されていくとのことで、『ショートショートの世界』の補完的もしくは改訂版的要素もあります。ショートショートを志す方はぜひ定期的にご覧いただきたくおすすめしておきます。

さてそのブログ「ショートショートの……」の最新記事は、なぜか『神戸70s青春古書街図』の感想(笑)。
しかしこれは考えてみれば当然なのであって、ショートショート研究者たる者は必然的に古書渉猟者とならざるを得ないからであります。とりわけ本書で取り上げられている古書店の多くは、最近まで神戸にお住まいだった高井さんにとっても馴染みのお店だったようで、感慨も一入のようですね。

クリックで拡大

 




「エキスポ大怪戦」  投稿者:管理人  投稿日:2009 4 2()032249

  返信・引用  編集済

 

 

2月18日の当掲示板でお知らせしていました、
眉村卓・原作の絵物語「エキスポ大怪戦」(堀江卓/構成とまんが/小松崎茂・絵)ですが、
ようやくHPに掲載しました。遅くなってしまいましたが、どうぞお楽しみ下さい!

http://www3.ocn.ne.jp/~kumagoro/index.htm#daikaisen

 



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