ヘリコニア談話室ログ(2009年6月)


「超弦領域」売っていた!

 投稿者:管理人  投稿日:2009 630()20239

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当地の書店に『超弦領域』が入荷していてびっくり。早速購入しましたが、東京創元社、かなり強気に刷ったとみた(笑)。

本文に入る前に、まず序文後記その他に目をとおしてみました。

大森望「2008年の日本SF界概況」
訃報が相次ぎ、
「ジャンルSFもいよいよ寿命か」というのはある意味そのとおり。
今書かれている
「新しい時代」のSFが、確かに「SF」なのは間違いないにしても、「かつてのSF」とは明らかに「切れている」と感じます。連続性というか影響関係があまり感じられないのですよね。
やはり冬の時代といわれた1995年あたりで、旧SFはいったん絶滅したのかも。
というのは図式的すぎるかもしれません。もちろん「ダイオフ」をまぬかれた旧作家や継承した新作家がいないわけではないので。
そういう意味で、今のSFジャンルを細かく見ていくと、「2種類のSF」の並在、という状況が浮かび上がってくるかも。(読者の変質もしくは交替も含めて)そういう印象(あるいは違和感)を私は強く感じるものです。

<概況>によりますと
「創元SF文庫の日本SF再刊路線」での「最大のヒットは眉村卓の『司政官』と『消滅の光輪』」だったらしい。これは嬉しい報告(^^)。だったら『引き潮のとき』の創元文庫復刊も夢ではない?(^^; いやまあ『引き潮のとき』が心配なら、『不定期エスパー』の復刊もありかも。『銀河英雄伝説』が成功しているんですからね。

またノンフィクションの成果のひとつとして大橋博之が編集した『金森達SFアート原画集』が挙げられています。その大橋さんの新著『光瀬龍の曳航』が近日刊であるのは当掲示板でお知らせしたとおり。

「初出一覧」をみると、前巻よりも初出先がさらにバラエティにとんでいますね。

 野生時代 1篇
 異形コレクション 1篇
 SFジャパン 2篇
 早川書房単行本 1篇
 小説すばる 1篇
 モンパルナス(>ってなに?)1篇
 モンキービジネス(同上)2篇
 週刊モーニング 1篇
 パンドラ(同上)1篇
 NTT出版単行本 1篇
 SFマガジン 2篇
 書き下ろし 1篇


こうしてみると、前巻に比べてSF専門誌の退潮は目を覆うばかり。これはとりもなおさずプロパー作家が不振だったというこということになりはしないか。次巻ではプロパー作家の奮起を期待したいものです(^^ゞ

日下三蔵「序文」によれば「シード枠」がなくなって、実質、席がひとつ増えるはずなので、その席をノンプロパーにかっ攫われないよう、かたがたお願いしたいと思います(^^;

また今回は、
2008日本SF短編推薦作リスト」が載っていてなかなか便利。これはよいですね。つづけてほしい。
で、つらつらながめていたら、ややっ、このたび『ハイカラ神戸幻視行』が上板された西秋生の名前が!「時の獄」が候補だったんですね。 『未来妖怪』はたしか持っていたんじゃなかったっけ。発掘して読んでみたいと思います。

最後に大ニュース。
大森望「後記」によると、創元SF短編賞が募集されるそうですよ! これは楽しみ! 出来がよかったら即、年刊傑作選収録もありえるらしい。皆さん応募しましょう!

ということで、これから本文に入ります。




「ピラミッドの日」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 629()210446

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川田武『ピラミッドの日』(角川文庫78)読了。

これは予想以上に面白かった。
著者は74年の復活ハヤカワSFコンテスト(いわゆる3大コンテスト)において、かんべむさし、山尾悠子、田中文雄という、今から思えばとんでもない競争相手を制して第1席入選を果たした実力者です。その受賞作「クロマキー・ブルー」は並みいる強豪を蹴落としただけのことはあるすばらしい傑作でした。が、なぜか早川からは1冊も本を出さなかった。どういういきさつがあったのか私は知らないのですが、主に角川文庫から本が出ました。なかでも長篇「戦慄の神像」(角川文庫)は伝奇SFの傑作。
しかしながらそのうちに本業のテレビ屋(NHK)が忙しくなったらしく、断筆していたのですが、近年復活しました。おそらく定年退職で執筆活動を再開したのかも。ミステリチャンネルとも関わりがあるみたいです。

本書は(たぶん)著者の唯一の短篇集。これがなかなかよかった。これぞ「70年代SF」、と私は思いましたね。つまり少数の愛好家のものであったSFが中間小説誌に進出していき、(良くも悪くも)軽く読みやすくなって一般読者にも受け入れられるようになった、いわゆる「軽SF」、そういう作風をまさに体現した作品群が収録されています。つまりSFアイデアを複雑化(加工)せず、いわばほとんどそのまま、生とはいわないにしても、軽く焼いたり炙ったりする程度で読者に提供される素朴な味わいの、そんな小説になっている。

「ハロー商会」(SFマガジン74.10)では心理学の「ハロー効果」が――
「ニュース・キャスター」(小説現代77.3)では今でいうヴァーチャルな「AI」(実は、というどんでん返しあり)が――
「ずれる……」(小説推理77.8)ではあまりにも鋭敏な耳を持っていた職人的フィルムエディターが、その神の耳を通俗に合わせるために陥った陥穽が――
「残響室」(小説推理77.11)では文字通り放送局の残響室の怪異が――
「実力行使」(SFマガジン75.2)では自販機の近未来図が社会派的文脈で――、
「ピラミッドの日」(小説推理78.4)はピラミッド製作者はヒクソスだったという仮説が――

――実にストレートに語られます。ストーリーはまさにアイデアを乗せるための道具にすぎません(人間関係は必要最小限)。最近の分厚い小説を読みなれた読者には、あっさりしすぎのように感じられるかも知れませんが、わたし的にはこれがよいのです。これが70年代軽SF(というか角川文庫SF)の味わいだったんですよね。

あと、
「飛んでもスタジオ」(小説推理78.2)はヤケクソなドタバタ。
「車窓の風景」(奇想天外76.5)はファンタジー。

ところで今書いていて気づいたのですが、著者唯一の短篇集である本書に、「クロマキー・ブルー」が収録されていない。「クロマキー・ブルー」は単行本未収録のままなんですよね。コンテスト入選作なので版権が早川にあり、早川と著者のあいだで何か問題があるのかも。「決戦・日本シリーズ」は他社からも出ていますから、やはりこれは異常な事態ではないでしょうか。

追記>ちょっと不安になって確認したところ、「決戦・日本シリーズ」はハヤカワ文庫版だけのようですね(徳間の年間SF傑作選には収録されましたけど)。これは意外でした。




「多聞寺討伐」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 628()233814

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光瀬龍『多聞寺討伐』(ハヤカワ文庫版)読了。

つい最近、扶桑社文庫より同タイトルの作品集が出ましたが、これって、岡本さんのレビュー(→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fbookreviewonline.blog.eonet.jp%2Fdefault%2F2009%2F06%2Fpost-e312.html)によりますと、
『多聞寺討伐』1974)の全編と、『歌麿さま参る』(1976)から3編、その他3編からなる」光瀬龍時代SF傑作選とのことで、いわばハヤカワ文庫版⊂扶桑社版と表せる関係なんですね。単純な復刊ではないのでご注意。

私自身は、単行本未収録の「大江戸打首異聞」以外は既に読んでいます。しかも『歌麿さま参る』は去年読んだばかり。
ということで、今回はハヤカワ文庫版『多聞寺討伐』収録の作品を読んでみることにしました。
といって、ハヤカワ文庫版で読み返すんではありません。というかハヤカワ文庫版は持ってさえいません。

ではどうするのか?

実はハヤカワ文庫版も再録短篇集なのです。扶桑社文庫版収録作品の初出情報を下に掲げます。

「追う」(『異境』
「弘安四年」(『落陽2217年』
「雑司ケ谷めくらまし」(『異境』
「餌鳥夜草子」(『異境』
「多聞寺討伐」(『異境』

「紺屋町御用聞異聞」(『歌麿さま参る』
「大江戸打首異聞」*扶桑社文庫版初収録
「三浦縦横斎異聞」(『歌麿さま参る』
「瑞聖寺異聞」(『火星兵団を撃滅せよ』
「天の空舟忌記」(『消えた神の顔』
「歌麿さま参る」(『歌麿さま参る』

となります。これらの作品を、私は初収録1篇を除いて上記の初出作品集で読んでいるわけで、今回も
それで読んだのであります。

いや、オレはこんな本を持っているんだぜ、と、かこつけてひけらかしたい訳では決してありませんよ。決してあーキミ達、光瀬の銀背なんか触ったこともないでしょ?なんて自慢したいわけではありませんからね。ただこれらの本で読むしか、私には再読するすべがないだけの話なので。為念。

閑話休題。
まえがきが長くなりましたが、今回読んだのは、そういうわけで
赤字の作品。光瀬の時間ものは、大概同じモチーフの変奏で、おおむね時間犯罪者が歴史の大海のなかに紛れて隠れ潜んでいるのをタイムパトロール員が発見し、戦うというパターンになります。このシチュエーションはきわめて光瀬独特のもので、世界SFを見回しても類例がないのではないでしょうか(ブラッドベリ「狐と森」は近いかも)。『歌麿さま参る』の感想にも書きましたが、このような「江戸の廃寺や社に隠れひそむ時間逃亡者」というオブセッションが、実にもって強烈な無常観を発散するんですよね。たまりませんです。
光瀬の時代SFは、『歌麿さま参る』あたりから、矛盾や破綻をまったく意に介さない独特の筆法が明瞭になってきます。いわば江戸かたぎの戯作者を気取ったような、ある意味クセのある小説になっていくので、読者によっては受け入れられなくなる場合があると思うのですが、少なくとも今回読んだ初期作品では、そういう筆法はまださほど明瞭ではなく、読みやすいのではないかと思われます。

尚、「歌麿さま参る」は長篇「征東都督府」の前日譚というかプロローグに当るものなので、ひょっとしたら扶桑社文庫で『征東都督府』も復刊されるかも知れませんね。だったらいいな。




Re: お久しぶりです

 投稿者:管理人  投稿日:2009 628()233229

返信・引用

 

 

> No.1901[元記事へ]

雫石さん
> 三ノ宮センター街のジュンク堂で買いました。
> なんとエスカレーターを上がって2階の正面に、立てて置いてありました
書店で大きく扱ってくれているのはありがたいですね。沢山売れてほしいと思います(^^)

柳生さん
ローマ領のブリテン島に最近興味があるので、アーサー王関係ももっときっちり押さえなければなあと思っているところです。今までほとんど関心がなかったのでまったく知識がないんですよね。




Re: お久しぶりです

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 628()222442

返信・引用

 

 

> No.1901[元記事へ]

今、「新・幻想と怪奇」を読んでいます。
次は星群ホームページの「SFマガジン思い出帳」の原稿書き用に
SFマガジン1968年1月号潤・P03を読まなければなりません。
その次に「ハイカラ神戸幻視行」を読むつもりです。

ところで昨日谷甲州30周年のパーティーがありましたね。
私のところにも招待状が来ていましたが、あいにく今日も出勤で欠席しました。
甲州とも久しく会ってません。久しぶりに会いたかったのですが残念です。
これをご覧になっている人で、出席した人はいますか。どんな様子だったか知りたいですね。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ftotuzen703




Re: お久しぶりです

 投稿者:柳生真加  投稿日:2009 628()201259

返信・引用

 

 

> No.1899[元記事へ]

> 三ノ宮センター街のジュンク堂で買いました。
わ、もうお買い上げいただいたんですね、ありがとうございます。
また、感想をお聞かせくださいませ。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fkazenotubasa.cocolog-nifty.com%2Ftea%2F




Re: お久しぶりです

 投稿者:柳生真加  投稿日:2009 628()20083

返信・引用

 

 

> No.1898[元記事へ]

> >「ハイカラ神戸幻視行」
>>私も早速に注文することにしますね。
ありがとうございます!

> さて、読書の方は、ハヤカワ文庫版『多聞寺討伐』の諸短篇を読み中。
わたしは、カーネギー賞受賞作品「アーサー王ここに眠る」というファンタジーを読んでます。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fkazenotubasa.cocolog-nifty.com%2Ftea%2F




Re: お久しぶりです

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 628()164936

返信・引用

 

 

> No.1897[元記事へ]

「ハイカラ神戸幻視行」もちろんすぐ購入しました。
三ノ宮センター街のジュンク堂で買いました。
なんとエスカレーターを上がって2階の正面に、立てて置いてありました。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ftotuzen703




Re: お久しぶりです

 投稿者:管理人  投稿日:2009 628()135138

返信・引用

 

 

> No.1897[元記事へ]

柳生さん

>「ハイカラ神戸幻視行」
お知らせありがとうございました。
や、いよいよ発売になりましたか。おめでとうございます。
ということでリンクをたどってアマゾンに行ってみました。

おお、なんとすでにアマゾン在庫切れではないですか! しかも早くもハゲタカマーケットプレイスに出品が……一時的な在庫切れと書かれているのに。ご苦労様なことです(^^ゞ

表紙は戸田さんですね。いいですねえ。
もちろん中身の方も! 柳生さんの紹介文を引用しますと、
《神戸をキーワードに、「細雪」を読み解くあたりは、とても興味深い。イナガキタルホ、竹中郁の本を読みたくなる》
とのことで、興味をそそられます(^^)

「モダン神戸」「幻想小説」のキイワードにレーダーが反応する方には、ぜひ読んでいただきたいですよね。私も早速に注文することにしますね。


さて、読書の方は、ハヤカワ文庫版『多聞寺討伐』の諸短篇を読み中。




お久しぶりです

 投稿者:柳生真加  投稿日:2009 628()095119

返信・引用

 

 

柳生です、やっと西秋生の「ハイカラ神戸幻視行」が出たのでお知らせにまいりました。
装丁がいいですよ〜。あ、中身もいいので、ぜひお読みください。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fkazenotubasa.cocolog-nifty.com%2Ftea%2F




「極楽船の人びと」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 627()224622

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 《僕は腸の中を歩いているのであった。狭い通路である。肛門はまだ見えぬ》(〈そうか。僕は糞だったのか〉より)

吉田知子『極楽船の人びと』(中公文庫87、元版84)、読了。

吉田知子版・プリズナー海洋編です(笑)。それもそのはず、本書あとがきで著者は、本篇と、「ビルディング」(『天地玄黄』所収<未読>)、先日読んだ「ユエビ川」(『聖供』所収)を、「とにかく、書き始めるときは、同じ主題だった」作品群とみなしているのです。共通点は「背景と状況」ということで、それぞれ「巨大なビルディング、荒野のなかのホテル、船」という「異常な世界、非日常」のなかに「捨てられ」た人びとが描かれている。

私が「プリズナー」だと感じるのは、作中人物たちがかかる非日常的世界につれてこられ、捨てられた人びとであり(本篇の場合は一応自発的に乗船するのだが、読み進むうちに「自発的に乗船するよう」仕向けられた、強制された人々であることが分かる)、そしてその世界が、そこから戻ることあたわざる収容所的世界であるからなんです。

本篇、84名の乗客と40名の船員・スタッフを乗せて客船が出航するのですが、その目的地は最後まで明らかではありません。それぞれの乗客がどうも勝手に目的地を想像している気配。最初は快適と感じられた船内ですが、チーフという人物が出現してからは、次第に統制が強まり、収容所っぽくなっていく。航海が長期化し積み込んだ食料が不足してくるようになったところに、大型台風の直撃を受け、難破する(少なくとも乗客はそう思わされている。後述)。船内は次第に地獄と化していき、チーフが夜毎行なう「ツドイ」で自殺を教唆するような講話をする。どんどん人が死に、死なないものも狂ったり、幻想の世界へ引きずり込まれる(腸内にも)……

という話で、読者は気分が滅入るばかりで「救済」は訪れません。同じく収容所でも「ユエビ川」には終末的な世界がひろがっていて、そこが魅力的だったんですが、本篇にはそういうパースペクティブはありません。なので視覚面ではあまり楽しめませんでした。

最後はチーフだけ救助されるのですが(一人だけ救命ボートに乗っているところを発見され、取調者を不審がらせる)、このチーフ、おそらく「聖供」の主人公と同一人物ですね。このメフィストフェレス的人物は、おそらく乗組員・乗客すべての破滅を使命として乗船していたに違いない。
最後に船長が帰港すると宣言(ということは難破ではなかった?謎です)した直後に爆発が起こり船が沈むのですが、けだしチーフの犯行か。

ただ「聖供」の主人公にしろこのチーフにしろ、なぜ著者はこういう人物を配置するのかが、私には了解できない。つまり著者の創作の根源動機が判ってないといえるので、読み切った!という感じはしないのですよね(ひょっとして宗教的(キリスト教的)観念?)。でもなんとなくヒントはつかめてきたので、さらに吉田知子、精進したいと思います(^^;。




承前

 投稿者:管理人  投稿日:2009 627()142836

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きのうのつづき。
NHKの取材時の様子がかかれたブログを見つけました。→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fkiyotaka.livedoor.biz%2Farchives%2F51616041.html
それによると、この古文書、末尾に天正15年と記されているそうです。天正15年は安土桃山後期の西暦1587年。リンク先の2番目の画像の右下の広げられた巻物が当の物。文字まで分からないのが残念。
画像の隣の古地図は「正応4年(1292)に作られ文明6年(1474)に加筆修正」されたものとのことで、古文書より300年古いものです。
当然古地図の方が古色蒼然としていて当然なのですが、それにしても比べて古文書の紙の色があまり古びていないようにみえませんか?
古文書の内容も、戦国末期に書かれたものにしては「七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる……」なんて、「記述」が私には「近代的」(さらにいえば「戦後的」)すぎる感じがします。

そもそも七夕の伝説が中国伝来であるのは間違いなく、ウィキペディアによれば、奈良時代に伝来し、日本固有の「棚機津女(たなばたつめ)の伝説」と習合したもののようです。したがって天正年間に七夕伝説は当然既にあったわけです。

しかしそれを星川皇子に比定するのはどうか。

その前に、棚機津女がよく分からなかったのでさらに検索しますと、ここにありました。悲恋物語の七夕伝説とは全然違うものですね。しかも古事記に由来するものではない、とも。
星川の皇子は言うまでもなく記紀の登場人物ですから、星川の皇子を七夕伝説に比定することがあったとしても、それは後世の想像の産物であるわけです。
したがって天正年間にそのような想像をしたものがいたとしても不思議ではないのですが、七夕伝説と星川の皇子を重ねる想像力の契機は、「星川」という名前にあるのは間違いありません。
で、ここにも私は「近代的な思惟」を感じるんですよね。
七夕伝説、天の川、そのほとりの星川皇子の宝篋印塔。それを三題噺的に妄想し結びつけた誰か、地元の近代人が、ひそかに偽作したもの、それこそが当の「古文書」なのではないか、というのが、わが「妄想」なのです(^^ゞ

ところで星川皇子は本来吉備勢力がバックなんですよね。その星川の皇子の宝篋印塔がなぜ息長氏の本拠地にあるのか。一見不思議です。
しかし息長氏が継体王が出た家であることを思い出せば、反河内王朝で吉備氏と連係していた証拠かもしれない。そう考えると、星川皇子の塚が息長川(天の川)のほとりにあるのは案外事実を反映しているかもしれません。なお、息長氏は神功皇后の実家であり河内王朝の礎でもあるわけですが、これも継体が天皇位にふさわしい家系であることを正当化するために捏造した系図なのかも。記紀の編纂の実質的な発案者が天武だとしたら可能性なきにしもあらずでは。天武は継体の子孫ですから)




不快な物語

 投稿者:管理人  投稿日:2009 626()21159

返信・引用

 

 

NHK「関西もっといい旅――ロマンはぐくむ地上の天の川〜滋賀・米原市 天野川」をたまたま見ていたら、近江町蛭子神社の古文書が映され、それには星川皇子と朝嬬皇女の悲恋が七夕伝説のルーツであることが書かれていると説明していました。
しかし――
その古文書が映っていたのですが、見た瞬間、「あ、にせものや」と私は思ったんですね。
どうみても「現代人が書いた楷書体」なのです。私は「昭和の字体」と感じました。古文書の字体なんてまったく素人なので、カンなんですけどね。

検索したら、『世継神社縁起之叟』という古文書で、このHPによれば「その発見当初は「七夕伝説の湖北発祥説が浮上」とマスコミで取り上げられて一躍有名になりました」とあります。

こちらでも、「十年程前、蛭子神社で『世継神社縁起之叟』という古文書が見つかり、その発見当初は「七夕伝説の湖北発祥説が浮上」とマスコミで取り上げられて一躍有名になりました」とあります。ほとんど同じですが、発見されたのが10年ほど前であるのが分かります。

気になるのが、「その発見当初」という文言なんです。深読みすれば「のちに偽書と判明した」という含意があるのではないかと思ったわけです。古文書自体の画像は見つけられませんでした。残念。

偽書なのかどうなのか、諸賢兄のご教示をお願いするばかりなのですが、原田さんは見てくれてないのかな?
とりあえずこの『世継神社縁起之叟』が偽書であることが判明しているとしましょう。そうであるならば「関西もっといい旅」の紹介の仕方は、まるでホンモノであるかのようで一般の視聴者を騙すものだと思います。
この番組自体が、変に「物語」を持ち込んでいて、見ていて非常に不快だったんですが(物語は専ら虚構の表現手段なのです)、それにこの文書も加担させられているわけですが、その方針を認めても、もしにせものであるならばその旨をちゃんと知らせなければなりません。またたとえ知らせても、なんぼでも加担させることは可能なはず。非常に安易な作り方であるように感じられてがっかりしたのでした。

吉田知子『極楽船の人びと』に着手。




「謎の宇宙人UFO」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 625()202416

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「水泳がどれだけ水着にお金を投じられるかになってしまっている。もはや競技者がどれだけ速く泳ぐのかではなく、水着がいかに速く泳ぐかになっている」

ジョーンズ選手のおっしゃるとおりですね。これでは、水着を購入できない貧しい国の選手は、素ではいくら速くても、公式試合でまともに伍して戦うことすら出来ません。
国際水連も、規制するなら、昔の素朴な水着以外はダメという方向で規制しなければ。
いっそ公式試合は裸にすればいいのではないでしょうか? そもそもオリンピック発祥のギリシアでは、競技はすべて全裸で行なわれていたんですから。
それでは試合を公開できないって?
なぜ公開しなければいけないのか。別に観客がいなくても問題ないはず。
問題と思うのは、入場料を取ったり放映したりして金儲けしようとするオリンピックゴロだけでしょう(あるいは「経済効果」を計算したくて仕方がないエコノミスト)。

横田順彌『謎の宇宙人UFO』(早川書房78)読了。

あーしんど。笑い疲れてしまいました。
とはいえ、当時のヨコジュン旋風のまっ只中ならば別ですが、いま、それも一気に読むとさすがにきつかった(^^;
有体にいって、客観評価で今でも充分読むに値するのは表題作だけですね。
いやいや、この作品に関しては、読む価値があるなんて消極的な評価ではなく、日本SFに燦然と輝く大傑作といって過言ではありません。
あとの作品は、かなり落ちます。というか作者自身があんまりやる気が見えません。使いまわしも多いですし(^^;
ただし読者が表題作に驚倒し、その余韻の圏内にある間ならば充分たのしめることは請け合いなので、本作品集自体読んで損はありません。

やる気が見えないように感じられるのは、おそらく作者は、この数行ごとにダジャレを連発するハチャハチャに対して、たぶんどこまで続けられるかという不安があり、それがこの手の作品にはあまり深入りしたくない、出来れば早々に縁を切りたい、逃げ出したいという気持ちが、意識の底にあったからではないでしょうか。またハチャハチャ自体、作者的に自分のやりたい方向ではなかったのかも。そんなこんなで無理矢理書かされている感が、今となっては強く感じられます。
とはいえハチャハチャという、70年代-80年代日本SFの特異な「あだ花」を開花させた功績は、もっと評価されてしかるべきだと私は思います。




「格差はつくられた」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2009 624()22014

返信・引用

 

 

ポール・クルーグマン『格差はつくられた保守派がアメリカを支配し続けるための呆れた戦略三上義一訳(早川書房08)

人種差別に起因する格差社会であったアメリカ(金ぴか時代)は、ニューディールを契機に格差を縮小する方向に転じ(大圧縮の時代)70年代まで格差の小さい中間階層の国が出現した。しかしレーガン、ブッシュの共和党政権で「小さな政府」に代表される以前の自由主義市場経済に再転換するや、またたくまに20年代に匹敵する不平等と格差の社会に戻ったばかりか、それすら凌駕する超格差社会に突入したのだそうです。
80年代以降アメリカは緩やかな好況がつづき、小さな政府の成果であるとみなされていますが、その中身を仔細に見ると、80年代以降に拡大した富はすべて富裕層によって吸収され(それも零点何パーセントという頂点の超富裕層によって)、大多数の国民の富は70年代と同じか縮小しているとのこと。
しかもこれは、技術革新とかグローバリゼーションとかの歴史の不可逆性というようなものではない、というのが著者の主張で、要は政府の政策の転換によってもたらされたとします。
どういうことかというと、税金を払いたくない上記零点何パーセントかの「保守派ムーブメント」という急進勢力が共和党を乗っ取ったということで、でもそれだけでは選挙に勝てるはずがないのですが、豊富な資金とアメリカ特有の人種差別心理をたくみに操ることで、カトリックやとりわけ南部の貧しい白人(本来まっさきに反対票を投ずべきはずの)を取り込み、かつ移民に参政権を出来るだけ与えない。黒人を投票所へ行かさないとの姑息な手段で、政権の安泰を図り、もともと脆弱だった福祉国家を完璧につぶしてしまった。この辺は小泉政権が、その政策によってもっとも影響を被った層に最大の支持基盤があったという矛盾と呼応していますね。

こういうのを読むと、アメリカという国が先端部分で優れているとしても、全体としてはきわめて遅れた国なんだなと、びっくりもすると同時に、がっかりもしてしまったのでした。いわば「田舎」国家なんですよね。

著者によれば、格差社会は「人為的」な政策で生れたのだから、政策を変更すればあっという間に逆に振れるとの考えで、累進税率の復活などいろいろ提案しており、それが民主党政権によって行なわれるだろうと、楽観的です。楽観的過ぎる気もしますが、たしかにリーダーシップをもって遂行できれば可能であるのは間違いないように思われます。

翻って、日本の状況は、いまだに小泉ネオリベ路線が「なんとなく」支持されており、それは「反ネオリベ」が単に、旧来の利権体質の復活を目指す路線でしかないせいで、私にいわせればどっちも駄目なんですが、第3の方向はまったく見出せないのがなんとも。
それが証拠に、累進税率復活なんて自民も民主もだれも言いだしませんものね(社民も)。アメリカの状況よりなお悪いかもしれません(ーー;

心が暗くなったので、横田順彌『謎の宇宙人UFO』を読み中。

  BGM>http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3Dr-wl-QXqRPU%26fmt%3D18




レス

 投稿者:管理人  投稿日:2009 623()235428

返信・引用  編集済

 

 

雫石さん
児島冬樹氏の「司政官制度概観」は労作でしたね。ただ『司政官』に転載された際、司政官になぜ日系人(を示す名前)が多いかの考察が省かれていたのは(あれが肝なのに)残念でした(^^;

高井さん
>非商業出版ゆえの情熱、こだわり。素晴らしいと思います。
私もそう思います。情熱、こだわり、を私流に言いかえるならば、「突破してしまう狂気」となります(^^; 商業出版が、その過程で角を撓められ、常識的で無難で行儀よいものにちんまり収まってしまう(それは商品なのだから仕方がないのです)のに対して、ファンジン、同人誌は、多かれ少なかれ偏向し「一線」を超えちゃうんですよね。またそうでなければ価値がありません。商業出版が正気の産物とすれば、ファンジンは狂気の産物といえると思います。

その意味で上述「司政官制度概観」は、商品に組み込まれたことで、突破した部分(狂気)を失ってしまったと言えるんではないでしょうか。

大橋さん
ここ10年の眉村さんのエッセイの類は全部ではありませんが蒐集しています。よかったらぜひ利用してください(^^)
最近はさる方の好意で、「東光少年」に掲載された眉村さん16歳のマンガと俳句を入手しましたよ!

雫石さんが所属なさっている「星群」も、眉村さんとは昵懇の関係ですので取材されたらよいと思います。いろんなエピソードが出てくるのでは(^^ゞ

ポール・クルーグマン『格差はつくられた保守派がアメリカを支配し続けるための呆れた戦略三上義一訳(早川書房08)、読了しました。




「光瀬龍 SF作家の曳航」

 投稿者:大橋博之  投稿日:2009 623()213127

返信・引用

 

 

管理人さん

> いや届けば判りますから返事は不要です(^^;
とのことなので返答しません(笑)。
初版の部数は少ないです。でも売り切れたら増刷しますので大丈夫です。

高井信さん

はじめまして。
『ショートショートの世界』は購入させて頂きました(笑)。

〈東キャナル市民の会〉の会報「キャナリアン 3・4合併号」(昭和53年5月7日)の巻頭言において、ヤナ・ヒロミ氏は、
「私はファン・ジンそれ自体が一つの世代、一つの作品たる主張をもっていなければならないと以前から信じている一人である。
 市長室からは、印刷費用がかさむ点、プロ作家の原稿を載せる点などについてのクレームが、幾度も来ているが、残され、再読それてゆくという印刷物の重要な特徴や意義を思うと、いい加減な代物を、これが『公認光瀬龍ファン・クラブ』の正式発行物ですと言って、世に出す気にはなれない」
と語っています。そのおかけで、光瀬先生のとても貴重な証言が残されたのです。光瀬先生のファンのひとりとして〈東キャナル市民の会〉の活動にはとても感謝しています。




Re: 「深川まぼろし往来」

 投稿者:高井 信  投稿日:2009 623()194223

返信・引用

 

 

> No.1887[元記事へ]

 大熊さん。
> ところが、それがファンジンやファン個人のファイルの中にひそかに保存されていたりする場合があるわけです。これぞ本来のファン活動の意義だと思います(SF祭りで踊る〈踊らされる〉だけがファン活動ではありません)。
「これぞ本来のファン活動の意義」とまでは思いませんけれど、「これもファン活動の意義」とは思います。
 現在、そういった活動はネットに移ってしまっているような感があります。ファンジンを出版するとなると、決して少なくはない金銭的負担が必要になるわけですが、ネットではそれは必要ありません。また、発行者の住所や名前を明らかにしてきたファンジンとは違い、ネットでの情報はほとんどが匿名です。
 そのせいかどうか知りませんが、昔のファンジンと比べるとネットの情報は極めていいかげんなものが多く、とても残念です。
> でもそれは、見方を変えれば「死蔵」でもあるわけです。ただし貴重な死蔵ではあります。
> そういうのを発掘し日の目を見せさせることは、私はとても大事な仕事だと思います。
 その通りですね。うちのファンジンも死蔵させないよう頑張ります。

 雫石さん。
 ここでは、はじめまして、でしょうか。
> このようにしてみると、各作家のファンクラブはある意味宝庫ではないでしょうか。
「ある意味」なんて限定するまでもなく宝庫と思います。
> 星新一「エヌ氏の会」小松左京「コマケン」半村良「半客会」などなど。
 特定SF作家の熱狂的なファンがその作家に対する情熱には尋常ならざるものがありますよね。
 私のショートショート研究においても、彼らの作ったリスト類は重宝しています。非商業出版ゆえの情熱、こだわり。素晴らしいと思います。




Re: 「深川まぼろし往来」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 623()102028

返信・引用

 

 

> No.1887[元記事へ]

> ファン活動があったればこそ保存、蓄積されてきた情報というものが確実に存在しますよね。
> 雑誌や新聞に載ったきり単行本に収録されることのないエッセイの類いがそうで、60年代、70年代にはチェックした人もいたかもしれませんが、日本SFも半世紀経過した現在、そういったものは今さらどこをさがしたってないどころか、存在した事実さえ失われています。
> ところが、それがファンジンやファン個人のファイルの中にひそかに保存されていたりする場合があるわけです。これぞ本来のファン活動の意義だと思います(SF祭りで踊る〈踊らされる〉だけがファン活動ではありません)。
> でもそれは、見方を変えれば「死蔵」でもあるわけです。ただし貴重な死蔵ではあります。
> そういうのを発掘し日の目を見せさせることは、私はとても大事な仕事だと思います。

まったくその通りです。
SF大会で酒盛りして、コスチュームショーして、浮かれているだけがSFファン活動ではありませんね。
眉村さんに関しては、管理人さんの仕事や、星群がやって来た仕事が、こういう本当の意味でのファン活動ですね。星群の仕事では「司政官の世界」から、児島冬樹の「司政官制度概観」が創元文庫版に転載されました。
このようにしてみると、各作家のファンクラブはある意味宝庫ではないでしょうか。
星新一「エヌ氏の会」小松左京「コマケン」半村良「半客会」などなど。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ftotuzen703




「深川まぼろし往来」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 623()003644

返信・引用  編集済

 

 

高井さん
ファン活動があったればこそ保存、蓄積されてきた情報というものが確実に存在しますよね。
雑誌や新聞に載ったきり単行本に収録されることのないエッセイの類いがそうで、60年代、70年代にはチェックした人もいたかもしれませんが、日本SFも半世紀経過した現在、そういったものは今さらどこをさがしたってないどころか、存在した事実さえ失われています。
ところが、それがファンジンやファン個人のファイルの中にひそかに保存されていたりする場合があるわけです。これぞ本来のファン活動の意義だと思います(SF祭りで踊る〈踊らされる〉だけがファン活動ではありません)。
でもそれは、見方を変えれば「死蔵」でもあるわけです。ただし貴重な死蔵ではあります。
そういうのを発掘し日の目を見せさせることは、私はとても大事な仕事だと思います。

さて、
倉阪鬼一郎『深川まぼろし往来素浪人鷲尾直十郎夢想剣(光文社文庫09)読了。

著者による本格的な時代小説で、面白かった!
いま本格的と書きましたが、時代小説ジャンル的には「変格」かも(^^;
最初のシーンは流麗な文体で読ませるも、前半はドタバタ調、中盤からシリアスになり、後半はこの世に思いを残した魂魄が出てくるのホラー調と、スタイルが変化するのはサービス万点ともいえるのだが、小説としての統一感が減殺された憾みも。
時代小説をほとんど読まないので、ジャンルとしてどうなのかということは分かりませんが、読み物として充分合格点だと思いました。




Re: 「光瀬龍 SF作家の曳航」

 投稿者:高井 信  投稿日:2009 622()19524

返信・引用

 

 

> No.1884[元記事へ]

 大橋博之さま

 はじめまして。高井信と申します。
 これは嬉しい本ですね。
 私は〈東キャナル市民の会〉の会員ではありませんでしたが、若いころ、会の重鎮であった金田真義(三村遼)さんとは親しくさせていただいていました。何年前でしたか、夭逝されたと聞き、愕然としたことは忘れられません。

> 『光瀬龍 SF作家の曳航』(ラピュータの社長がタイトルを命名)では、〈東キャナル市民の会〉の会報に掲載されたエッセーとかいろんなものを収録しているので、初見のものも多いかと思います。
「東キャナル年鑑」は資料的価値も高く、素晴らしい同人誌でした。今でも大切に保存してあります。

> 「シリーズ化」としては、某河出書房さんなんかの文芸路線とは違う、エンターテイメント系でやりたいと考えています。次はもう少しライトなものを考えてます(ネタ求む)。
 期待しております。




Re: 「光瀬龍 SF作家の曳航」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 621()23575

返信・引用  編集済

 

 

> No.1884[元記事へ]

大橋さん

「光瀬龍 SF作家の曳航」 >楽しみにしております。
ところで「ロン先生」の長篇って何枚くらいなんでしょう?
「暁はただ銀色」は、ソノラマ文庫のと同一作品?

296ページ程度でそんなに入れられるのかな?
いや届けば判りますから返事は不要です(^^;

しかしこれは楽しそうですね。すぐ売り切れそう(部数は知りませんけど)(^^;
ともあれ、今後も面白く、且つ、SF史の欠落を埋める仕事を期待しております。




「光瀬龍 SF作家の曳航」

 投稿者:大橋博之  投稿日:2009 621()230249

返信・引用

 

 

『告知を書かせもらおう』と覗いてみたら、もう、こんなに大きく取り上げていただいてビックリ。感謝!! 本当にありがとうございます。

「あっちへ行ってしまった」とか「帰ってきた」とか、私としてはちょっと意味不明なんでけど(笑)。とりあえず、補足。

『光瀬龍 SF作家の曳航』(ラピュータの社長がタイトルを命名)では、〈東キャナル市民の会〉の会報に掲載されたエッセーとかいろんなものを収録しているので、初見のものも多いかと思います。

小説は、
「帝都上空に敵一機」(短篇)
「見果てぬ夢を ロン先生の青春記」(長篇)
「肖像」(短篇)
「二十年前、新宿で」(短篇)
「タイタン六世」(短篇)
「晴の海1979年」(短篇)
「暁はただ銀色」(長篇)
「残照一九七七年」(短篇)
「ある日の阿修羅王」(短篇)
「説法」(短篇)
「廃虚の旅人」(短篇)
「決闘◎毒蜘蛛亭 少女イル外伝」(短篇)
「暁の砦」(短篇)
で、他はエッセイです。
第四章の「アンドロメダ・ストーリーズ」もエッセイです。
〈東キャナル市民の会〉の会報に掲載されたもので、連載前の構想を書いています。

元々、SF辺境探査船さんが作ってくれた書誌があって、
http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fsf-henkyo.jpn.org%2Fhenkyo%2F
それを見て私は単に集めて並べただけなので、苦労はありませんでした。
光瀬先生も、自身のことを沢山、書き残してくれていて、しかも、けっこういろんな時代のことを書いてらっしゃったので、いろんなエピソードが盛り込まれていて、結構、面白い本になったと思います。

「シリーズ化」としては、某河出書房さんなんかの文芸路線とは違う、エンターテイメント系でやりたいと考えています。次はもう少しライトなものを考えてます(ネタ求む)。




「光瀬龍 SF作家の曳航」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 621()121032

返信・引用  編集済

 

 

最近はアート世界に重心を移していたかにみえた大橋博之さんが、満を持してSF世界に還って来ました!
というのは冗談ですが、大橋さんの新著『光瀬龍 SF作家の曳航』が来月刊行とのことです(曳航は栄光にかけられているのかな)。

冗談と書きましたが、半分ホンネで、ああ大橋さんあっちへ行ってしまったのね、と少しだけ思っていたのは秘密でもなんでもありません(^^; でもその間、こんな必殺兵器の準備をなさっていたんですね。大橋さん、帰ってきてくれてありがとう!

『光瀬龍 SF作家の曳航』
  定価:2520円(本体価格2400円+税)

  出版社:ラピュータ
  http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.laputa.ne.jp%2F
  刊行日:2009年7月3日
  サイズ:A5版/296頁

  -----------------------
  Amazon 商品の説明 より

  光瀬龍没後十周年メモリアルとして刊行。
  大学生時代に菊川善六名義で書かれた未発表習作「肖像」を含む、
  単行本未収録作品13編(加筆され単行本化される以前の雑誌での
  初出バージョン等を含む)とエッセイ39編。
  光瀬自身が単行本のあとがきや雑誌のエッセイなどで語った心象風景や
  こだわりが、各作品へと昇華される過程を、徹底検証してつまびらかにした「光瀬龍自伝」。
  -----------------------

目次を転載します――

第一章 幼い頃 [記憶の中に灼きついて消えないもの]

  幼い日の記憶
  私のUFO体験
  ある疑惑
  夢は哀しいか
  懐かしきブリキ製の夢
  あとがきにかえて 多聞寺討伐
  私の《ファーブル昆虫記》
  あとがきにかえて 失われた文明の記憶
  三月が来ると
  有明と無明の間
  あとがきにかえて 明日への追跡
  帝都上空に敵一機
  【解題】大橋博之

第二章 青年の頃 [意欲と情熱だけを抱いて彷徨う]


  岩手県南、前沢町 茫洋と流れる北上川
  《上野原》の想い出
  私の正月
  あとがき 吹雪の虹
  見果てぬ夢を ロン先生の青春記
  遠い海鳴り ロン先生の虫眼鏡
  後記 闇市の蜃気楼
  ここは遠きブリガリヤ・ドナウのかなた
  幸福な作家、団鬼六氏
  アメリカ・カンゴッタン
  美人するとき
  ああ青春 ロン先生の公開日記
  夢のあとに または私のディエンビエンフー
  肖像 菊川善六
  二十年前、新宿で
  【解題】大橋博之

第三章 作家の道 [流浪の末に辿り着いた終着点]

  火星年代記から漢書に托したもの
  タイタン六世の頃
  あとがきにかえて 宇宙塵版「派遣軍還る」
  あの頃とSFマガジン
  タイタン六世
  晴の海1979年
  【解題】大橋博之

第四章 時空の旅 [人はそれを東洋的無常観とよぶ]

  あの頃のこと
  あとがきにかえて あばよ! 明日の由紀
  暁はただ銀色
  作者の言葉 派遣軍還る
  『派遣軍還る』あれこれ
  《派遣軍還る》を書いた頃
  あとがき カナン五一〇〇年
  私の『東キャナル市』──異境
  残照一九七七年
  ある日の阿修羅王
  説法
  廃虚の旅人
  アンドロメダ・ストーリーズ
  決闘◎毒蜘蛛亭 少女イル外伝
  【解題】大橋博之

第五章 今、再び [虚無を呑み込む暁の砦]

  ある女性
  青坊主万歳!
  わが家のフクロウ 龍おじさんのへそまがり動物記
  ハナと歩く ロン先生の虫眼鏡・番外編
  暁の砦
  【解題】大橋博之

光瀬龍 年譜

光瀬龍は、なぜ光瀬龍なのか(大橋博之)

  ――――      ――――      ――――

いやあ、こういうの待望しておりました。はっきりいって日本のSF特に第1世代の作家たちのある意味「生の声」であるエッセイの類は、小松筒井を除けば、公的にまとめられることなく「散逸」の危機に瀕しています。いやこのまま放置すれば遠からず「どこにも残っていない」状態になることは言を俟ちません。
その意味で大橋さんは大変重要かつ必要な仕事に取り組まれたといえると思います。
そう思う理由は、大橋さんは当然「シリーズ化」を考えられているはずだからで、そのためにも第1弾である本書はいろんな意味で「大事」です。

でもこれって本来早川書房SF編集部が10年前に
やっていなければいけなかった企画なんですよね。
しかしながら出版資本主義の現状からすれば、たとえ編集者がやりたくても到底許容されない企画であることは、まあ誰もが分かることではあります。

そういう次第で、敢然と立ち上がった大橋さんの「勇気」を讃えたいと思います。
と同時にそのプロジェクトの貫徹を支援するためにも、SFファンたる自覚者は、すべからく本書を購入することでその「責務」を果たすべしではないでしょうか。そう、これは「責務」なんですよね。

私も早速、アマゾンに注文するつもりです(予約注文は以前ひどい目にあった経験があるので利用しません(^^;)。当板ご閲覧の皆さんもぜひ続いていただきたいと、切にお願い申し上げます。

  amazon→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2Fdp%2F4947752890%2F
尚、左リンクより購入されても管理人にアフィリエイト等の利益が発生することはありません。ご安心してご利用下さい。




「格差はつくられた」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2009 619()223431

返信・引用  編集済

 

 

ポール・クルーグマン『格差はつくられた』はちょうど半分。
ニューディール以降、50年代を頂点に、70年代あたりまでは、アメリカもそんなに格差のない中産階層の国だったんですね。これはびっくり。累進課税の最高所得税率が91%なんて、日本より進んでますがな(これは軍事費のためのようですが)。

結局(良くも悪くも)ソ連が存在する間は、対抗上、資本主義国は社会政策に力を入れた福祉国家を目指していた。それがソ連が崩壊した途端、あっというまに資本主義は本来の姿に戻った――というのが、私の素朴な実感であります。

あ、著者はそんな歴史の必然性みたいな立場はとらず、結局は人(政治)の恣意性を重視しているようです。

 BGM>http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fview_play_list%3Fp%3D588A6CF799BAFF5A




瘋癲老人の境地未だし

 投稿者:管理人  投稿日:2009 618()215521

返信・引用  編集済

 

 

かんべむさしさんの大阪ランダム案内http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.ne.jp%2Fasahi%2Fkanbe%2Fmusashi%2Fosaka.html

知り合いで大衆演劇に嵌まった男がいます。お母さんがファンで、付き添いで行っているうちに本人もファンになってしまったそうです。鶴見橋ではなく新世界らしいですけど。
で、その男がのたまうに、低料金で半日遊べる。あんな至れり尽くせりの娯楽もないぞ、とのこと。いろいろ詳しく力説してくれたのですが、忘れちゃいました。すみません。
こんなところ参照してください→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fmugzousi.jugem.jp%2F%3Feid%3D47

ところでエコノミーな娯楽といえば、なんといっても甲子園観戦ですよね。駐車場がなくなったのと子供が大きくなったのとで行かなくなっちゃいましたけれども。調べたら、今、外野で1900円くらいのようですね。高くなったなあ。それからすれば1500円前後というのは確かに割安感がありますね。といって大衆演劇へ通う気にはなれませんが。荷風の境地にはいまだほど遠いようです。
あ、荷風なら関西ニューアートの方か(^^;

 BGM>http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fview_play_list%3Fp%3D588A6CF799BAFF5A




「地球巡礼」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2009 617()213342

返信・引用  編集済

 

 

ロバート・シェクリイ『地球巡礼』宇野利泰訳(ハヤカワ文庫78 原書57)読了。

シェクリイという人は、ソニー・ロリンズに似ていると思うのです。その歌ごころ、その豪放磊落なプレイには天性のものがあるのに、そういう資質に安住できず、右顧左眄してしまい、おのれを見失ってしまうところが、そう感じさせるのです。

本書は第3短篇集で、デビュー以来の絶好調が継続しており、つまり(ロリンズがいっときニュージャズに引き寄せられたように)ニューウェーブっぽくなる以前、まだスランプを知らなかった著者の、良くも悪くも童心、無邪気に書かれた作品が収録されています。
従ってここでは、著者のよき資質、歌ごころがのびのびと展開させられていて、素直に楽しむことが出来ます(といって、60年代の長篇も私はきらいではありませんよ。でも誰でも楽しめる作風でないのもまた確か。ちなみに私はロリンズ「橋」も好きです)。

「無邪気」と書きましたが、それはF派として並び称されたブラッドベリと比べれば明瞭です。ブラッドベリがそのベースにマイノリティへの共感を確実に持っていることは、先日の『刺青の男』の感想にも書きましたし、『火星年代記』を読めば一目瞭然でしょう。

対するシェクリイですが、本集中の
「人間の負う重荷」で主人公に尽すロボットたちは、明らかに黒人のメタファーになっており、むろん黒人への積極的な差別意識はありませんが、「主人(白人)に尽す忠実な黒人使用人」という構図が無意識裡に肯定されている。たぶんブラッドベリは、こういう描き方は認めないでしょう。

この辺が、シェクリイのボンボン的な甘さで、あるいは後に示される「腰の据わらなさ」も、このあたりに起源しているのかも知れません。とはいえこのような立ち位置は、ある意味SFの主要読者層にモロ重なっており、それゆえその健全で「安心」な作風が熱狂的に受け入れられたのでしょう。

ただ本人は、その現状に安住できればよかったのですが、そこまで鈍感でも馬鹿でもなかった。それから何とか脱しようとする努力の成果が、60年代長篇だったのだろう、と私は認識しています(しかしその志向性が、自身の資質をねじ伏せる方向だったのは間違いなく、それがある意味シェクリイの不幸であったというのは言い得ると思います)。




「地球巡礼」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2009 617()001115

返信・引用

 

 

「この店での経験からいいますと、赤毛とブロンドのかたは精神分裂症に罹りやすいし、ブルーネットの人は躁鬱症になる傾向があります」
「おもしろい話だな。するときみは、この店にながいことつとめているのか?」
「1週間です」  (「悪薬」162p)


今日は時間が取れず、60ページほどしか進まなかったのだが、
「災厄を防ぐ者」がヨコジュンぽくてよかった。というか、これ荒熊雪之丞もののイレモノに入れたほうがずっと面白くなるのに、と読中ずっと感じていました。
荒熊ものは、宇宙人であるとか、「この世のものならぬ」(笑)存在が、荒熊の部屋に飛び込んできて話が始まるというのがパターンなのですが、本篇も主人公が望みもしないのに、未来予知能力のある宇宙人(まあそんなものだ)が、まとわりついて主人公の危機を予知して避けさせる、という筋立て。ただし、その予知たるや、NYに住む主人公なのに、アジアやヨーロッパで起こる事故や災害まで気をつけさせようとして主人公にうるさがられる、そんなやつなのです。
これでも十分におもしろいのですが、ヨコジュン体験をしてしまった日本のSFファンにはなんとももどかしい筈(^^;
ぜひヨコジュンにリライトして欲しいものだ、と思ったことでした。




シェクリイは新喜劇だ

 投稿者:管理人  投稿日:2009 615()23124

返信・引用  編集済

 

 

「おれはときどき、お前たちロボットがうらやましくなる。いつも笑って、気苦労がなく、元気で」
「それはたましいをもってないからです」(「人間の負う重荷」128p)


『地球巡礼』は半分。シェクリイって、気の抜けた筒井康隆(あ、逆だっけか)とかいわれますが、ヨコジュンの方がイメージとして近いんじゃないか。そんなことを読んでいてふと思った。共通イメージは「安全」。対して筒井さんは「危険」という感じですからね。
「人間の負う重荷」なんか、これ新喜劇です(笑)。最後の無理矢理予定調和的大団円といい(^^;。
実は松竹新喜劇と書きかけて、もはや松竹新喜劇をほとんど思い出せないことに気づいて松竹をはずしたのでした。吉本的なシーンもあるので、新喜劇と書くのは間違っていないと思う(例えば男女がいい雰囲気のところへ、女の護衛ロボットが無粋にもというかKYにも職務忠実に「護衛」しに行こうとするのを、男のロボットたちが護衛ロボットの上に折り重なって阻止する場面とか)。

並行して、クルーグマン『格差はつくられた』を読み始める。




「IQ84」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 614()22551

返信・引用

 

 

きっとそのうちに誰かが書くに違いない→「IQ84」

あ、「JQ84」かも。

  




1Q84」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 614()174854

返信・引用  編集済

 

 

鴻巣友季子http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fbook.asahi.com%2Freview%2FTKY200906090102.html
反ディストピア小説って何?

ロバート・シェクリイ『地球巡礼』に着手。




「女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 614()004214

返信・引用  編集済

 

 

三浦展・柳内圭雄『女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか?「承認されたい自分」の時代(光文社新書08)読了。

図表がたくさん挿入されており、それらをほとんど参照せずに読んでいたら1時間ちょっとで読み終わってしまった。
「15〜22歳の女子の2割がキャバクラ嬢になりたい」と思っている、という調査結果からいろいろ考察がなされています。結局は下流社会論なのだが、格差の拡大と固定化により、高卒(あるいはそれ以下の)女子は正社員への道をほぼ断たれており、そういう女子のうち上昇志向の強い(ただし容姿に自身がある)者が自己実現するには、そんな道しか残されていないという現実の反映であるらしい。いわばアメリカの黒人の少年が、かつて(今もか)スポーツ選手をめざしたのと同じ状況に日本もなりつつあるということですね。その意味で、表題を見て「近頃の娘っ子は」などと短絡する前にまず読んでみるべきかも。
ただ彼女らが、キャバクラの実態というものをあんまり知らずに(テレビやマンガの虚像だけ見て)あこがれている面なきにしもあらずとのことで、まあ実際に従事してみれば分かることですが、おそろしく向き不向きのある仕事であるのは間違いなく、キャバクラ嬢の定着率(たとえ2年か3年の腰かけにせよ)は示して欲しかった。そういうあこがれと現実とのギャップが主題ではないのですが。
そんな社会的知識の不足もまた、格差社会(教育格差)に起因しているといえるかもしれません。




「聖供」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2009 613()180542

返信・引用  編集済

 

 

吉田知子『聖供』(新潮社73)

高橋たか子が中村真一郎との対談で、自作のテーマについて「内面の悪」であるといったとき、中村がちょっと首を傾げて(だろうと想像する)、それは社会的な悪なのかと問いかけるのですが、高橋は人間本有のサディズムであるとこたえます(「空の果てまで」挟み込み付録)。

中篇の表題作は、「空の果てまで」に比べてもずっと世界に拡がりがあり、重層的で、主人公以外の登場人物の存在性、特異性も半端ではないのですが、やはりそれもこれも、主人公の「内面の悪」によりもたらされたものであるといえる。それはたしかに「人間本有のサディズム」の極限的顕現といえるのですが、その観点では何か取り零してしまっているようにも思えます。しかもなぜそのような「悪意」を主人公が帯びるに至ったのかといった「病理学的」解釈は皆無。彼は最初から「悪意の人」として存在し、最後まで一貫する。小説世界は主人公の磁力の圧倒的な支配におかれ続け、悲惨を極めるのです。
そのなかにあって、家族の中では長女のみ主体性を持つものとして設定されており、主人公に抗い続けるのだが、それも磁力を断ち切る力はない。
ただ終盤に至って、林田という主人公の「不肖の教え子」が主人公を鋭く弾劾します。本作品世界の中にあって、彼のみがいわゆる我々の<現実界>と通底する存在で、ここでようやく極限にまで高まっていた「イヤ」度に少し風穴があき、読者は多少溜飲を下げるのですが、作品的には不要な場面だったような気もします。想像するに著者自身不快感が満杯となり、自衛的に書き込んだ場面ではないかと思ってしまいました。この場面から後、作品から緊密度がすこし緩んでしまいます。
天使のような可愛さを持ち、しかし内面には父親から継いだような悪意を持つ末娘。精薄だがけなげな次女、聖痕をおびて生れてきた成長しない赤ん坊、彼を生んだのち完全に狂ってしまった妻等、魅力的(?)な登場人物が、さほど生かされずに終わってしまった感があり残念。彼らをもっと十全に書き込んで欲しかった気がしました。

併録の短篇、
「ユエビ川」は、吉田知子版プリズナー。戦時中でしょうか、外地の、満州かどこかの大平原の中にぽつんと建つ療養所。そこにトラックから捨てられるようにほうり下ろされた主人公。宿泊者は奇怪な連中ばかり。ときどき主人公は命を狙われる。ユエビ川のほとりに建物は建っているというのに、どこにも川筋は見当たらない。野火が発生し次第に迫ってくる。とはいえなかなか火は近づかない。一人減り、二人減りと宿泊者が消えていく。ある夜、主人公は残りの宿泊者全員に襲われる。なぜか宿泊者同士でも相打ちしている。朝、意識を回復すると、主人公一人だけ生き残っている(他の死体はどこにもない)。と、爆音が聞こえ、戦闘機が近づいて来、主人公は狙撃され倒れる。倒れたくぼ地から水が染み出している。ユエビ川は流れる川ではなく、染み出す川だったことに、最後に主人公は気づく。野火が到達する。
――という話。面白かった。




「聖供」読み中

 投稿者:管理人  投稿日:2009 612()221317

返信・引用  編集済

 

 

吉田知子『聖供』着手。実は『刺青の男』よりも先に読み始めていたのですが、あまりのイヤ度に耐え切れず『刺青の男』に逃避していたのでした。
歳のせいか、イヤ小説に対する耐性がすっかり低下してしまっているのですね。若い頃のようにはいきません。若い頃は鈍感だから平気で読めたのだなとあらためて気づいた次第。
とはいえ読み終わってしまったからには戻らねばなりません。あんまり気が進まなかったのですが、気持ちを奮い立たせて再開。するとどうしたことか、俄然面白くなり一気に半分越してしまいました。
ちょうど中断部分が起(設定)と承の変わり目だったようです。このまま残り70ページ(160ページの中篇なのです)駆け抜けたいものです。それにしても何という異常な、いびつな物語でしょうか。この、「イヤ」の権化というべき主人公の「謎」を、早く知りたい!しかし明らかになるのだろうか?著者の作風からしてちと疑問。




「刺青の男」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 611()230127

返信・引用

 

 

レイ・ブラッドベリ『刺青の男』(ハヤカワ文庫76、原書51)読了。

ほぼ10ページから20ページ程度の作品が収録されており、私の感覚ではショートショート集の印象でした。そういう印象からか、読中、星新一が思い出されてならなかった。星ショートショートはブラウンの影響がよく指摘されますが、描写が極端に切り詰められ、会話主体で進行する手法は、ブラッドベリの影響が大きいのではないかな、とふと思いました。

それはさておき、本書は「珠玉の作品集」と言い切りたいと思います(今さらですが)。で、あとは何もいうことなし(^^; 瑞々しさ横溢するブラッドベリワールドを堪能しました。

今回気づいたのは、
1)著者はおそらくカトリックなのではないかなということ(
「その男」、「火の玉」)。
2)また、これは以前から気づいていましたが、意外にリベラルな思想の持ち主であること(
「形勢逆転」51年作)。
3)戦後という時代性か、終末観というか最終戦争観、文明の自走への警戒感が濃厚なこと(
「街道」、「今夜限り世界が」、「狐と森」)。
4)、前3者とも重なりますが、非常に社会性が強いこと。また視点が弱者やマイノリティ等非エスタブリッシュ側にあること。これらは案外サイエンスファンタジーということで見落とされがち(
「草原」、「ロケット」、あと「コンクリート・ミキサー」は「今」書かれたといわれても全然違和感ない「資本主義の本質」を見抜いた作品です)。そういう意味で、「ゼロ・アワー」とか「町」、「長雨」など社会と通底しない作品は、やや退屈しました(「長雨」は40年前に「ウは宇宙船……」で読んだときは面白いと思った記憶があるんですけど)。




Re: 創元SF文庫ベスト20

 投稿者:管理人  投稿日:2009 611()204325

返信・引用  編集済

 

 

> No.1869[元記事へ]

雫石さん、山岸さんの書き込みも踏まえつつレスします。

>こういうベストなんとかは、いまどき、意味あるのでしょうか

これに関しては私も山岸さんと同意見で、
>>いろんな切り口のベストなんとかが、ときどき発表されることは、じゅうぶん意味があるといえる

と私も思います。

ただ、雫石さんがおっしゃるように、30年前とは状況がまったく変わっていて、
>SFファン100人いれば100のベスト20で、しかも全て違う作品を上げている、という具合になるかも知れません。

というのは、大いにあり得る事態ですね。それでは結局のところ情報洪水で、初心者は溺れるばかりです。

そういう意味で、
>今はSFを見る目も大切ですが、SFを紹介人を見抜く目も必要でしょう

として、一種のオピニオンリーダーの役割を重視されるお考えは、まさにわが意を得たりであります。巽氏が昔SFの特性として啓蒙の必要性を説かれていたと記憶しています。
私も以前から、そのようなオピニオンリーダーによる協同組合制が、SFが死滅しない選択肢の一つだろうと思ってました。端的にいって、SFのような「敷居の高い」ジャンルが、現状出版資本主義の世界で生き残るのは難しいと感じています。まあ私自身は、私が死ぬまで存続していてくれたらオッケーなんですけどね(爆)。

>あのような不特定多数の人が対象のベスト20はいかがなものか

というのも同感です。ただし下に述べたように、ベストとして集計するからフィクションと化してしまうわけで、生の声をそのまま並べるのならば、大いに価値があると思います(もちろん今回のようなのではなく、投票基準がきっちり共通化できたアンケートならば集計も有意になります)。

山岸さんは、こういうベストの利用者は、
>>ベストテンに入っているから無条件で傑作などと思っているわけではなく、ベストいくつの類は選者や評価軸によって変わるものでイベント的な性格を持つ場合も少なくない、ということを理解した上で

利用しているだろうとお考えのようですが、どうでしょうか。少なくとも30−40年前の私は、ベスト10なんてのは当時なかったかもですが、たとえば<創元文庫解説目録>の記述などは(今から思えば出版社の宣伝文なのに)、金科玉条のようにその無謬性を信じきっていましたけどね(^^;

そういう意味では、
>>(まあ、こうした認識も、読書ガイドにしているのも、30年前のぼくたちと別に変わっていないわけですが)

という山岸さんに比べればずいぶんナイーブだったみたいです(^^;
でも私は、入門したての若い衆は、やはり今でもある一定の割合で、昔の私のようにナイーブなんではないかと想像しているので、あまりにポストモダンなベストばかりになるのは問題だと思います。




Re: (無題)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 611()134020

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> No.1867[元記事へ]

山岸さん

>ベスト20を集計しても意味がない
と書いた真意は、20という数字を問題にしているのではなく、「集計」という操作自体が、(このようなアンケートでは)無意味だろうということです。
順を追って説明します。

>この投票ではなにか客観的視点を要求されたわけではなく、単に「代表する1冊」といわれたのですから、そんな風な自分の読書遍歴や思い入れを基準に投票した人も多いでしょう。

という山岸さんの説明を読み、そういうアンケートだったのかと納得したわけです。で、その結果、そのような性質のアンケート結果を集計して、一体どういう意味があるのかと思ったと、そういう順番になります。

そういう次第で、
>でもそういう性格のアンケートならばベスト20を集計しても意味がないですよね
と返信したわけなのですが、もうちょっと説明します。山岸さんの上記説明を念頭におくならば、次のようなことがいえると思います。

例)
Nという作家の「X」というSF文庫が4票獲得しました。投票した4名の投票者の投票動機(アンケートのコメント内容)は――

A:40年前、はじめて購入した創元SF文庫が「X」だったので。

B:この作品は自分の趣味ではないがよい作品に間違いはない。しかも長期間品切れ状態が続いていて最近の読者は知らないはず。よって自己の好みは度外視して、こういう佳作もあるよという意味で。

C:最近SFに目覚め、創元SF文庫はまだ3冊しか読んでない。そのなかで一番面白かったので。

D:Nの大ファンなのだが、Nの作品は本文庫からは「X」しか出てない。「X」はN作品としてはさほどいいとは思わないけれども、N作品を選ぶとしたら「X」しか選択の余地がなかったため。

だったとします。これは蓋然性としてありえると思います。

この例ですと、作品「X」に投票したという行為自体は同じですが、その理由はまったくバラバラですよね。つまり「X」を選択した内的意味において志向する共通性はないと言い得るように思います。ここで意味があるのは、「X」を選択した4名のそれぞれの(多様なレベルにわたる)「動機」なのであって、その内的要素を閑却して「X」4票獲得しました、と集計し、その結果を発表しても、そこには有意なものは何もないはずです。むしろアンケートの志向する(山岸さんがおっしゃる)意義自体を無化してしまっているのではないでしょうか。

このようなそれぞれ異なった理由により投票された4票を、集計するとは、いったいどういうことなのでしょうか? この「4」は、いったい何をあらわしているんでしょう?

次に

>ネットだからといって全部掲載しては読む気が最初から失せる
というのはありえないと思います。
こういう刊行物に興味をもって読もうとするのは、ジャンルに入門して間もない若い人でしょう。彼らは情報が欲しいわけです。
山岸さんもそうだったと、確信をもって思うのですが、きっと若い頃は、<創元文庫解説総目録>を日夜携行して、ボロボロになるまで読み、ほとんど書かれている内容を暗記してしまわれたのではないですか?どうでしょうか?。
私はまさしくそうでした。このアンケートが対象とする読者はそのような人たちのはずです。「読む気が失せる」ような人ははなから対象外でしょう。

彼らが欲するのは、選択根拠がバラバラな投票結果の(何も意味を志向しない)集計ではなく、投票者個々の「理由」なのだと思います。そしてどんなにそれが大部になろうとも、彼らは一向に困りませんし、ネットという媒体ならばこそ、彼らの欲求に応えられ得るのではないでしょうか。

山岸さんが、

>年齢か創元SF読書歴(ともに5年刻みとかで)もいっしょに聞いて集計すればいいのに
と思われたのも、おそらくこの根拠の曖昧さを懸念されたのではありませんか?




Re: 創元SF文庫ベスト20

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 611()10563

返信・引用

 

 

> No.1868[元記事へ]

山岸真さま

お名前はもちろん存じ上げております。
「このミス」のようなブックガイドの必要性は私も感じます。
よく、「美味しんぼ」のごときグルメ漫画で、「自分自身の舌で判断しなくちゃダメ」なんぞいってますが、すべての店を試食して回るには、人間の一生は短すぎます。だから、ある程度の目安、よるべ、ガイドは必要でしょう。
これはSF(SFに限りませんが、他の本、映画でもそうかな)にも、同じことがいえるのではないでしょうか。だから、今はSFを見る目も大切ですが、SFを紹介人を見抜く目も必要でしょう。
大森さんの勧める本なら間違いないとか、大森さんの勧める本はロクなのはないとか、三村さんの勧めるファンタジーは間違いないとか、いや、おれは巽さんのいう本しか買わないとか。
ということだと、あのような不特定多数の人が対象のベスト20はいかがなものかと思うわけです。
確かに、このようなベスト、このミスの類いを頼りに読書することは、私も上記の趣旨で否定はしません。
しかし、それだと、私だけの作家、私だけのSF,マイ・フェイバリットSFといったようなものは見つけ難いのではないでしょうか。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ftotuzen703




Re: 創元SF文庫ベスト20

 投稿者:山岸真  投稿日:2009 611()013926

返信・引用

 

 

> No.1866[元記事へ]

雫石鉄也さま
 はじめまして。SFの翻訳をしている山岸真と申します。創元推理文庫SFマークの最新刊を買いはじめたのが、まさにベスト・テンの「解説目録」がついていたときという、この掲示板に書かれている方々からすれば若輩者ですが、よろしくお願いします。
>こういうベストなんとかは、いまどき、意味あるのでしょうか。
 創元のアンケートのことはおくとして、一般論としてですが――。現在の若い(新しい)読者と接していて、ベストなんとかを読書ガイドとして参考にしているという話はよく聞きます。参考にしているというのはむろん、ベストテンに入っているから無条件で傑作などと思っているわけではなく、ベストいくつの類は選者や評価軸によって変わるもので、イベント的な性格を持つ場合も少なくない、ということを理解した上での話(まあ、こうした認識も、読書ガイドにしているのも、30年前のぼくたちと別に変わっていないわけですが)。また、このミスの1位ばかりがよく売れるという話は毎年聞くものの、継続的に本を読む人はベストいくつしか読まないわけではありません(むろん、こうした楽観的なことばかりいっていられる状況ではないわけですが)。
 なので、いろんな切り口のベストなんとかが、ときどき発表されることは、じゅうぶん意味があるといえると思います。
>今回は小浜君独自の考えではないでしょう。
「代表する1冊」というかたちの設問をいちばん最初に思いついたのが彼なのかはわかりませんが(身近な人と雑談の中で出た話だと聞いた気もします)、50周年イベントの一環としてアンケートを実施するのを思いついた(決めた)のは彼だと聞いています。違ったらすみません。

 なおこの掲示板だけご覧の方にはわかりにくいと思いますので説明しますと、今回のアンケートは、
>「あなたにとって、創元SF文庫を代表する1冊とは何か?」
>読書歴によってさまざまな選び方があると思いますが、できるだけ直感的に御回答ください。
 という投票ページを創元のサイト内に約1カ月設けて、それに対する回答(ひとり1作)を集計したものです。回答者は当然不特定多数で、ベストいくつといういいかたは30年前のものと同じですが性格はまったく違うわけです。
 今年は東京創元社の文庫創刊50周年で、それにあわせていろいろなフェアやイベントがおこなわれており、このアンケートもその一環です。




Re: (無題)

 投稿者:山岸真  投稿日:2009 611()012338

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> No.1865[元記事へ]

管理人さま
> や、ベスト20を選ぶのではなく(勝手にそう思い込んでいました)
 こちらも「代表する1冊は何か?アンケート」の話なのだから当然……という思いこみから、最初の書きこみにちゃんと、
>まあ個人個人いろいろベスト20はありえると思います。
 と書いてあるのを読み落として管理人さんの勘違いに気づかず、長々と書いてしまいました。失礼しました。
>ベスト20を集計しても意味がない
 これは単に、集計してみたら四票までの作品が22個になって、三票までにすると数が多すぎるし(じっさい何作あったかは知りませんが)、かといって10個じゃ物足りないので、こういうかたちで発表したにすぎないのでは(未確認ですが)。その点をわざわざ「意味がない」という見方をすることが意味がないと思います。ちなみにこの数字だと、総投票数がたとえば倍あっても順位が変わらなかったろう“という意味あいで”「意味がある」といえそうなのは、3位まででしょうかね。
>ぜんぶコメントと一緒に掲載すればいいのにね。そっちの方がずっと面白いし参考にもなる。またそういうことが出来るのが、紙媒体にはできないネットの強みなのに、と思いました。
 ここを読んで、「売れ筋作品を長期間品切にしていたせいで、重要な作品がベスト20落ちするほど読まれなくなったのでは」といったところまで気をまわされる管理人さんのことだから、もし全部掲載していたら、「ネットだからといって全部掲載しては読む気が最初から失せる。数を絞って載せて、こういう機会を販促に利用することをなぜしないのか」という発想をされたのでは、とふと思いました。
 ちなみに「面白いし参考にもなる」といえば、年齢か創元SF読書歴(ともに5年刻みとかで)もいっしょに聞いて集計すればいいのにと思って投票開始数日後に関係者にも話したのですが、そのときにはとっくに投票数が三ケタに達していて手遅れだったのでした。ちょっと惜しかったかも。まあこういうことは外野から見てるから思いつきやすいことなので、しかたないんですが。




Re: 創元SF文庫ベスト20

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 610()224811

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> No.1863[元記事へ]

こういうベストなんとかは、いまどき、意味あるのでしょうか。
大昔、私がSF者になり始めたころなら、SFの出版点数も少なく、こういうランク付けも意義あることでしょう。
実は今から30年前、創元推理文庫の解説目録(加藤直之のイラストのやつ)で、「全国SFファンダムが選出した創元推理文庫のSFベスト・テン」という企画をやっていました。私たち星群にも協力の依頼が来ました。創元は昔からこんなことやってるんですね。今回は小浜君独自の考えではないでしょう。
発表は当時の代表者名で出しましたが、例会でいちおう話し合いました。すんなり決まった記憶があります。出版件数が今ほど多くなかったからです。
その目録を見ながら、これを書いてますが、各グループそれぞれ独自色を出していますが、重なっている作品数は、結構あります。この時は20グループのベスト10が掲載されていましたが、今回は1つのベスト20ですね。今回も前回同様20グループにベスト10を出してもらうと、30年前よりもっとバラけるでしょう。
これだけSFの出版件数が増え、多種多様になると、100のグループのベスト20を出してもらえれば100のベスト20ができるでしょう。SFファン100人いれば100のベスト20で、しかも全て違う作品を上げている、という具合になるかも知れません。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ftotuzen703




Re: (無題)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 610()21179

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> No.1864[元記事へ]

山岸さん、お久しぶりです。
や、ベスト20を選ぶのではなく(勝手にそう思い込んでいました)、「代表する1冊」だけを選ぶのでしたか。ならば山岸さんのおっしゃるとおりかもしれませんね。ご指摘ありがとうございました。
でもそういう性格のアンケートならばベスト20を集計しても意味がないですよね。それよりも、わずか500件の回答しかないのですから、ぜんぶコメントと一緒に掲載すればいいのにね。そっちの方がずっと面白いし参考にもなる。またそういうことが出来るのが、紙媒体にはできないネットの強みなのに、と思いました。

さて、私なら何を選びましょうか。最初に買った創元SF文庫という観点ならば「金星の死者の国」、これは誰も投票してないだろう、でも傑作だよ、という(ひねくれた)観点ならば「ありえざる星」ですかな(^^ゞ




(無題)

 投稿者:山岸真  投稿日:2009 610()175647

返信・引用

 

 

『ウは宇宙船のウ』は、何年間も品切のままだったことはないはずです。
 ぼくも創元のブラッドベリから1冊薦めるなら『ウは…』を選びますが、こういう投票でもしブラッドベリをあげるとしたら、最初に読んだ『何かが…』にするかもしれません。昔の表紙もインパクトありましたし。
 この投票ではなにか客観的視点を要求されたわけではなく、単に「代表する1冊」といわれたのですから、そんな風な自分の読書遍歴や思い入れを基準に投票した人も多いでしょう。
 まして、総投票者五百でひとり一冊ずつ投票したのですから、『何かが…』のように四票で上位20作に入ったか、三票以下(『ウは…』が何票だったかは知りませんが、ゼロということはないでしょうから)でここに挙がらなかったかの差は偶然にすぎず、謎に思ったり、わざわざ理由をひねり出したりするようなことでもないと思います。




創元SF文庫ベスト20

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月10日(水)15時34分20秒

返信・引用

 

 

東京創元社のホームページに「発表! 創元SF文庫を代表する1冊は何か?――読者投票によるベスト20結果発表」→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.webmysteries.jp%2Fsf%2Fsfbunko0906.html
というのが掲載されています。
まあ個人個人いろいろベスト20はありえると思います。この投票結果は、アシモフもハインラインもバラードも入っていますし、まあ妥当なところかもしれません。いわずもがなブラッドベリも2点入っています。「10月は……」と「何かが……」なんですけど、もちろんこの2作は入選して当然だとは思います。
しかし創元SF文庫というくくりの中から選ぶのであれば、なんといってもまずは「ウは宇宙船のウ」を選ばなければならないのではないか。自選集であり、精華集であるこの文庫本がなぜ入選しなかったのか、私には不思議でなりません。
考えられるのは、「ウは……」がしばらく品切れしていて、投票者が読んでない可能性が考えられます(読んでいたら落とすはずがない)。しかし本作のような売れ筋を長期間切らすなんて事は、ちょっと考えられない気がします。
うーむ。わたし的には非常に謎な投票結果なのでした。

ということで、『刺青の男』に着手しました。

 




「やっぱり見られない」

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 9日(火)22時08分3秒

返信・引用  編集済

 

 

>改めて言葉表現のニュアンスをしっかり持っている人がたくさんいることを実感した(→定年再出発

それは違うと思いますね。

[例]
「いわゆるカリスマ的支配における体験、すなわち神秘的・非日常的能力を想定せられた相手に対する従属体験はこれに属するといえよう」(222p)

「近代において社会的に確立せられ、尊敬せられている芸能も、かつては良民の外に脱落した人々によってになわれ(……)」(259p)

             <引用、蔵内数太『社会学 増補版』(培風館66)より。太字化、管理人>


たまたま机の上にあったので利用。この2例の「せられ(た)」は、現在では「され(た)」と書かれるのが一般的であると思います。しかしながら昔の人は受身の意味では「され」は使わなかったのではないでしょうか。すなわち受身「される」はそもそも「せ・られ(る)る」が発音しているうちに短縮されていったものだというのが私の認識です(大体「す」はサ変動詞)。
現在のいわゆる「ら抜き言葉」(見られる→見れる)も、上と同様のメカニズムによる短縮化だと思います。しかも受身と可能を意味する「見られる」からの可能の独立と考えることが出来、ある意味日本語の進化(細分化)であると思います。

ら抜き言葉を気にするところの或る年齢層の人々は、たぶん上記引用の表現にも違和感を覚えるはずで、要は、たんに自分が親しんできた「言葉表現のニュアンス」から外れるものを否定しているだけなのかも。一種のエスノセントリズムなんですよね。

 今日も→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DtePeHM7bL64%26feature%3Drelated%26fmt%3D18

 




「目白雑録3」

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 8日(月)21時58分43秒

返信・引用

 

 

【今日のお言葉】
「豊崎・大森両氏に文学賞に向ける「批評眼」を代表してもらいたいなどとは、文学という「制度」の中にいる読者であり書き手でもあるものとして思いもしないし(……)」(40p)

「誰の書評であれ、「変なことを書いたら」書評者は読者の信用を失うだろうが、誰もたいていの書評など、最初からそう信用していないのが、ほんとのところだろう」(61p)

「今や、マルケスという名前を目にしても、ガルシアではなくバルサのディフェンダー、ラファエル・マルケスの方を先きに思い浮かべるくらいだから、もちろん、ガルシア・マルケスの新作の小説も読まない(もともと好きなタイプの小説ではないし)」(77p)


ということで、
金井美恵子『目白雑録3』(朝日新聞出版09)読了。
著者は網膜はく離の手術をしてから予後がもひとつ思わしくないようですね。そのせいか(愛猫トラーも逝き)手術より後の文章が急激に老け込んでいます。上の引用は全て手術前。

  BGM>http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DtePeHM7bL64%26feature%3Drelated%26fmt%3D18

 




「日本人の起源」

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 8日(月)00時25分50秒

返信・引用

 

 

中橋孝博『日本人の起源 古人骨からルーツを探る(講談社選書メチエ05)読了。

本書の特徴は、今はやりのDNA分析について殆ど紹介していないこと。それと関連するのかどうか、DNA重視者の金科玉条である出アフリカ単一起源説に対して、(それを否定するわけではないにせよ)ちょっと身を引いた所にいること。以前書きましたように、北京原人に見られるシャベル状歯が現代(北方)モンゴロイドに受け継がれている(ように見える)のはなぜか、という問題を、著者も気にしています。しかしながらDNA分析は新人の出アフリカを明確に指し示している。混血はなかったのか。著者は第1次出アフリカの原人たちがボトルネック現象で遺伝子に刻まれた100万年の歴史を失ってしまったのではないか。だとしたらその後やってきた新人と混血しても、原人たる痕跡は見出せないという仮説を提出します。なるほど。しかしそういうボトルネックで経歴は消えてしまうものなんでしょうか。よく分かりませんが何となく疑問。要勉強。

さて、著者の専門は弥生人の渡来以前の原郷の確定にあるようで、ほぼ『稲作渡来民』の内容と重なります。同書の感想で、
「越人そのものがいわゆる大陸的な高身長細長顔の形質を持っていたのでしょうか。そのへんが明記されていません」と書きましたが、本書ではその辺のところにかなり突っ込んでいます。『稲作渡来民』(08)よりも出版は古いのに、詳しいのはちょっと不思議ですが、それはさておき、半島南端の礼安里遺跡(弥生末〜古墳時代に相当)の古人骨は顔立ちも体つきも土井ヶ浜人とそっくりで、半島と北九州・山口の弥生人との繋がりを想像させることが判明しており、さらにその先の長江流域では、南岸の扜墩遺跡人(5000年前)が、また北岸の揚州市前漢墓の古人骨が、土井ヶ浜人と見分けがつかないほど似ていることを、著者自身が確認しており、古人骨からは弥生人の江南起源がかなりの確かさをもって分かってきたようです。もちろんこれは、Y染色体O2祖型(もしくはO2a)の分布と重なるわけです。本書によって上記のわが疑問点がある程度解明されたことになります。これが本書を読んだ最大の収穫でした。

あと、稲作渡来民の北九州における縄文人の(平和的な)圧倒を、渡来民集団が男性主体のグループで渡来したと仮定して計算することで、きわめて妥当な人口増加率でもわずかな期間で入れ替わりうることを示しているのも参考になりました。

思うに今後出版される類書は、おそらく古人骨の知見とDNA分析を連関させ、且つ弥生期の500年加上を加味した総合的なものが上梓されることになるのではないでしょうか。

 




僻読「杜子春」

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 7日(日)13時31分1秒

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武田泰淳「唐代伝奇小説の技術」(岩波文庫版『滅亡について』所収)によれば、芥川の「杜子春」は原作を改悪しているのだという。

「芥川の『杜子春』は、この短篇を淡いヒューマニズムの水で割り、濃厚な熱気を薄めたにすぎない」(107p)

芥川と原作を読み比べると、ラストが大きく違う。芥川「杜子春」のストーリーは学校でも習って先刻ご承知でしょうから省略しますが、最後で母親の言葉に禁じられた声を上げてしまう。原作は(杜子春は女に変えられており)生んだ子供が叩き殺されたのを見て声を上げる。いずれも「愛」を断ち切れずに禁を破る。
この後が違う。
芥川版では、仙人は、もしあの状況で声を上げなかったら
「おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」というのです。(岩波文庫版『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ』189p)
原作では
「書生めが! わしをこんな有様にしくじらせた!」と怒り、「声をもらさなかったら、わしの(仙)薬も完成し、あなたも仙人になれたろう」として「肉身のあなたは、人間の世にもどらなければならないのだ。しっかりおやんなさい」と、杜子春を送り帰す。(岩波文庫版『唐宋伝奇集(下)』25-26p)

たしかに、芥川の結末は甘く薄く、泰淳のいうのはもっともな気がします。原作のほうはクラークの「幼年期の終り」を彷彿とさせます。

しかし――待てよ。こうは考えられないか。
芥川の仙人は、人間が仙人となる(脱人間)ことは、そもそも不可能なのであり、身の程知らずなのだ、といっているともとれる。もし杜子春が声を上げなかったら、杜子春は仙人になれたのか。なれなかったのです。そのとき杜子春は仙人とは似て非なる、別の何か(悪魔?)になってしまうところだった。それを仙人は分かっていた。だからそうなる寸前に、仙人は杜子春の命を絶ってしまおうと考えたのだとしたら……
これまた「幼年期の終り」が私の頭の中に迫ってきます。

原作の考える「人間」(人類)は、ヒューマニズムを超越して超人類となる、少なくともその可能性は有した存在である。それに対し芥川は、その可能性すら認めていない。所詮人間はヒューマニズムから脱しきれないのだ、と。分をわきまえなさいと。
こう考えれば(つまり「幼年期の終り」という尺度を持ち込めば)、案外芥川の人間観のほうが冷徹でニヒリスティックなのではないか。そんなふうに感じたことでした(^^;。

 




Re: 御教示御礼

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 6日(土)20時04分20秒

返信・引用

 

 

> No.1857[元記事へ]

堀さん

>荷風というには「仕事」もきちんとしてはるようだし
パソコンもお手のもんみたいですし……と思ったら、なるほど某門真のほうの会社にお勤めなのかな。
私も子供が巣立ってくれたら……そのうち安部公房の主人公のように……出来るかしら(汗)。
とりあえず「新刊? ベストセラー? なにそれ」という境地に早く達したいものです(^^;

 




Re: 御教示御礼

 投稿者: 堀 晃  投稿日:2009年 6月 6日(土)17時22分33秒

返信・引用

 

 

> No.1855[元記事へ]

> いま○○○ミュージックでぐぐってみたところ、なんと1−10件目に当掲示板が!

へぇーっと思って試してみたら、確かに。
で、ついでに、上の方にある荷風○人さんのブログを見たら、これ、凄い人ですなあ。
十三が本拠地らしいけど、ウロウロしてはる場所といい、近代文学には詳しいようだし、教会にも行ってはるようだし……平成の荷風というには「仕事」もきちんとしてはるようだし……

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Frossana.cocolog-nifty.com%2Fearima%2F

 




「騎馬民族は来なかった」

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 6日(土)14時32分55秒

返信・引用

 

 

佐原真『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス93)読了。

本書は一義的には「江上波夫・騎馬民族征服説」批判の書でありますが、而してその実体は、著者佐原の、江上へのルサンチマン大爆発の書であるといって過言ではないでしょう。つまり公的な一般書の皮を被った私怨の書である。それは一読明らかであると思います。
なぜそうなのか。その面については興味がないのでスルー(^^;。

内容は、江上のいうような騎馬民族による列島征服はなかったということを考古学的に検証しているのですが、結局、著者が検証するのは、江上の言う「騎馬民族」という概念自体の虚構性であるわけです。
これは納得できる。「江上・騎馬民族征服説」とは「伝説」であり、それを支えたのは、戦前戦中に徹底的に叩き込まれた万世一系の歴史、それを打ち壊す痛快さ、斬新さによって、ある世代が「解放」の感覚を得た、その解放感だったということです。
学問の仮説としての「騎馬民族征服説」はいかにも杜撰な(言い換えれば大らかな)観念連合だったというのが著者の結論。

ただ、著者もいうように、
「江上さんが考えるように、騎馬民族の王侯貴族が組織的な騎馬軍団を率いて日本にやってきて征服王朝を立てるということはなかっただろう」という意味で、「それを端的に「騎馬民族は来なかった」と表現しているわけです」として「実態としては、何人か、ウマについての知識を持った騎馬民族系の人々の来た可能性は認めている」(41p)

著者によれば
「日本に確実に馬が出現するのは4世紀末」、「馬が沢山わたって来るのは5世紀後半」(16p)ということで、ただし4世紀の狩猟紋鏡にズボンをはいた男の姿が描かれているのがあり、乗馬服があったとすれば前提として乗馬の習慣→馬の存在を傍証しており、4世紀には騎馬の風習が日本に届いていた可能性を否定していません。
著者がこういう書き方をするのは、江上が、半島からやってきた征服者を、端的に3世紀末〜4世紀初頭の王である崇神に比定しているからなんですね。

ここから妄想。
崇神ではなく応神を征服王朝初代と見る騎馬民族説もあり、こちらを採るならば考古学事実と矛盾しません。
著者は、いかに日本人が「騎馬民族」的な風習や心性を欠いているか、本書の半分以上を使ってこれでもかと説明しています。しかし、騎馬とは文化(環境)なのです。つまり遺伝子に書き込まれたものではないので、たとえば生れたばかりのモンゴル人の赤子を、日本人の養親が日本国内で育てれば、彼は日本人そのものの習慣と心性を獲得してしまう。いかに今の日本人が非騎馬民族的かと論じても意味がないように思われます。
翻って半島の騎馬の民が日本列島を征服したとする。やってきた集団の中に女性の数は少なかったはずです。彼らの大半は日本の原住民の女性と結婚し、もし(騎馬民族らしく)日本の風習に従うならば生れた子供は母親の里で育つ。そうすればもうイチコロで、騎馬民族の男と日本の女に生れた子供は日本の土着文化を「刷り込まれて」しまうのではないか。2世代、3世代後にはもはや騎馬の風習など(必要な軍事的な面を除けば)雲散霧消している可能性は高い。そのように考えれば、騎馬民族の「征服」も生き残る余地があるように思います。

閑話休題。さて広開土王碑文によれば、4世紀末に倭は半島に出兵している。これはもはや事実とみてよい。だとすればこの倭兵はどのような軍隊だったのか。高句麗の強盛な騎馬軍団に、徒歩で立ち向かったのか。これは考えられないような気がします。やはり倭軍も騎馬兵主体だったのでは?
著者によれば4世紀末には日本にも馬は来ているので、辻褄は合います。しかしながらずぶの素人が簡単に騎馬に習熟するとは思えない。とすれば、騎馬の習慣を持った人々が日本にいて、彼らが倭軍の主力を形成したと考えた方が、理解しやすい。むしろ4世紀後半に日本に渡ってきた征服者のその第1世代が現役であったろう391年頃の倭の騎馬兵は、日本の歴史上もっとも強力な騎馬隊であったんじゃないか! だから騎馬の本場の高句麗にある程度対抗しえた(碑文によれば結局退散させられた)のではないでしょうか。

江上騎馬民族説がきわめて脆弱な基盤の上に立てられていたことは本書の説明でよく分かりましたが、それに対する著者の見解もまた、(怒りに目がくらんだんでしょうか)非常に感情的な反論がそこにほの見えるような感想を持ちました。

 




Re: 御教示御礼

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 5日(金)18時14分15秒

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> No.1854[元記事へ]

かんべさん

いま○○○ミュージックでぐぐってみたところ、なんと1−10件目に当掲示板が! あーびっくりした(^^;
公式ブログが、ぐぐってもひっかかりませんが……つぶれた?

 




御教示御礼

 投稿者: かんべむさし  投稿日:2009年 6月 5日(金)09時03分1秒

返信・引用

 

 

関西ニューアート。なるほど。ちゃんと、公式プログもあるんですな。
「あなたは成人ですか?」とかいう関門があって、そこを抜けると、
「キャバスト嬢募集」なんてのが出てくる。キャバストとは、どうじゃ。
いや、勉強になりました。

 




「ヴァーミリオン・サンズ」

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 5日(金)01時13分2秒

返信・引用  編集済

 

 

J・G・バラード『ヴァーミリオン・サンズ』浅倉久志・他訳(海外SFノヴェルズ80)読了。

シュールレアリズム小説です(^^)。まさに超現実派の絵画を「読んだ」という感じ。どっぷり耽溺しました。と同時に、本篇がSF以外のなにものでもないことを再確認。

本書収録作品群が書かれた60年代よりちょっと未来、70年代とおぼしきダリやジョン・ケージがまだ存命のこの地球のどこか、涸れた海と湖の岸辺にひろがる砂丘地帯に位置し、独自の生態系を持つ架空の別荘地ヴァーミリオン・サンズは、浜辺疲労症といわれる頽廃と倦怠にどっぷり浸かった有閑階級のトロピカル・リゾートであり(必然的に彼らに寄生する前衛芸術家の吹き溜まりでもある)、同時になぜか人間の精神状況がただちに外化しうるサイコトロピック(向精神的)エリアでもあります。
つまりは著者が唱える「外なる現実と内なる精神が出会い溶け合う場所」・<内宇宙>を、これ以上もなく体現したエリアとして設定されているといえる。

で、その<内宇宙>とは何かといえば、結局のところ、本書を通読すれば明らかなように、著者バラードが(おそらく)夜ごと訪れたのであろう、著者にとってなじみの「夢の場所」に他ならないようです。
実際のところ、宇宙小説の作家が、現実のデータと自己の想像力を掛け合わせて<外宇宙>のさまざまな「絵」をつむぎ出したように、バラードはそれを<内宇宙>という領域において行なっているわけです。向きは逆かもしれませんが、世界設定から出発する方法論自体は同じ。ですから見た目はSFとしては奇抜ではありますが、少なくとも本書に関しては、そんなに前衛的なことをやっているわけではありません。本書について、著者自身「エキゾチックな郊外への戻り旅」と称しているのですが、そういう意味で、「戻り旅」とはたしかに言いえて妙。上に「本篇がSF以外のなにものでもない}と書いた所以です。

とはいえふつうの「外宇宙SF」と違う面もやはりあって、それは作中に「夢の論理」が残存しているところ。ストーリー上の辻褄が合わない部分が多々見受けられるのです。たとえば「風にさよならをいおう」の146ページ、ガレージの2階で寝ているはずの運転手が、突如出現して「わたし」に殴りかかる場面があります。これはガレージで寝ているというのが「わたし」の思い込みだったのかもしれないけれども、これはやはり夢の論理で解釈するべきだと思います。
超現実絵画を彷彿とさせる魅力的な「風景」とともに、かかる「現実」の規則にとらわれない(逆にいえば夢の論理に則った)存在形式とが、本書をSFであると同時に「シュールレアリズム小説」でもあると感じさせるところです。

なお「歌う彫刻」、「ヴィーナスはほほえむ」にとりわけ顕著ですが、本書の作品群は基本的にファルスといえます。前者は恋にのぼせ上がって何も見えなくなった青年の愚かしい一人相撲ですし、後者は、これはもはやスラップスティックの極致であり、ラストのオチも壮大で笑わせます。著者が楽しんで書いている姿が目に浮かぶようです。総じて「夢小説」の愛すべき小品集という感じで楽しみました。

 




Re: あらま、勝ちよったがな

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 4日(木)18時33分2秒

返信・引用

 

 

> No.1851[元記事へ]

私もひょっとしたら完全試合かノーヒットノーランか、と一瞬思いました。8回は球威が落ちたのにサインに首を振ってストレートを投げ続け、読まれてしまいましたね。というか誰でも読めるでしょう。ちょっと阪神打線を見くびりましたね。打たれていい薬になったのでは?
狩野の打席では、今度は真弓が(野村幻術にあてられたのか)訳のわからん采配をして、有田に馬鹿にされてましたけど、結局最後は狩野に任せて結果オーライ。こうなると勝つためには監督は何もしないで選手に任す岡田型采配の方がいいみたいですね(^^;

 




Re: あらま、勝ちよったがな

 投稿者: 雫石鉄也  投稿日:2009年 6月 4日(木)10時37分32秒

返信・引用

 

 

> No.1850[元記事へ]

7回ぐらいから、阪神の負けを想定して、ブログの記事の文章を考えてました。
それが、桧山→葛城→狩野→平野、の、あれよあれよいう間の連打でマー君OK。
これだから阪神ファンは治りません。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ftotuzen703

 




あらま、勝ちよったがな

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 3日(水)23時47分20秒

返信・引用  編集済

 

 

珍しく阪神が勝ちましたね(^^ゞ
しかも田中ノックアウト。それまで完璧に押さえられてたのに。前の回の楽天スクイズ失敗から一気に流れが変わりました。
あそこで、1球目で成功していたら、田中のノックアウトはなかったでしょう。奇襲でしたから前に転がってさえいたら生還でした。
しかし楽天野球というか、野村野球は見ていて楽しいですね。その直後も、1死1、3塁で2-2からヒットエンドランで併殺! いやあ魅せますなあ(^^;
解説の有田が「策に溺れてる」といってましたが、全くそのとおり。しかし、だからこそ野村野球は面白いんです。もう、完全に野村の趣味でやってますからね。勝つよりもウケねらい。笑いを取る方に走ってる。まさに関西人ですね(といっても滋賀県ですが)。とりあえず選手に丸投げで何もしなかった岡田野球より格段に面白い。少なくとも主体的で主張がよく見える用兵ですよね。
とはいえ、2-2から理論上はストライクが来るのがふつうですから確率的には奇策とはいえません。あそこでボールが来たのは単に安藤の(気持ちで負けた)投げミス。それが逆に奏功したわけで、気持ちが負けた結果勝負に勝った。野球は面白いです。
野村にすれば「おっかしいなあ、理論的には間違ってないんだけどなあ」という感じでしょう。これまた必然の論理が偶然に敗れ去るという、(大衆受けする)ストーリー展開で、たまりません。ともあれ野村野球ってぜったい王道じゃないですよね。面白いですねえ。

 BGM>http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fview_play_list%3Fp%3DC5CC6C52AA4877DC

 

 

 

 

(私信) >かんべさま
鶴見橋ミュージックは、関西ニューアートに名称が変わっているそうです。

 




ETV特集より

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 3日(水)00時57分32秒

返信・引用  編集済

 

 

ETV特集第2回「任那日本府の謎」。

以下は番組を見て触発された妄想の備忘的開陳であり、必ずしも番組の内容に沿ったものではありませんこと、最初にお断りしておきます。当該番組のサマリーを求めてお越しになられた方がもしいらっしゃいましたら、無駄足でまことに恐縮であります。が、ここはひとつ、まあまあひとつまあひとつ、そういう訳で何分よろしく、ナニのほうはいずれナニして、その節ゆっくり、いやどうも。

前史として、1)広開土王碑文の「倭」(391)、2)百済南遷(475)と半島南西部の前方後円墳が取り上げられ、前者の「倭」と後者の被葬者について日韓の学者の説が並列させられる。

1)について、この倭を高句麗と対戦した主体と見ず、百済や加羅があくまで主体であって倭軍は従属的であるとか、倭国とは無関係な傭兵であるとかいった説が韓国側の定説のようです。
しかし、一般論として考えた場合、たとえば先の戦争で、ある作戦を遂行中の日本軍のなかにドイツからの援軍が組み込まれていたと仮定しましょう。そのドイツ軍が日本軍の指揮系統にしたがっている場合、連合側はそれをドイツ軍と認識するでしょうか。私はしないと思います。
その意味で、高句麗が「倭が海を渡って攻め込んできた」と石碑に書き残しているのは、実際に倭軍が(百済や加羅とは独立的な組織体として)高句麗と対戦したということでしょう。ごく自然に、ふつうに読めば、そうとしか読めないと思います。
かつて広開土王碑文改竄説があり、われわれはかなり信用していた世代なんですが、21世紀になって改竄はなかったことが確定しました。そこで改竄説に変わるものとしてひねり出された苦肉の解釈としか思えません。そういえば改竄説に一言も触れなかったのも問題ですね。

とはいえ4世紀末の倭国の国力が三韓を征服するほど彊勢だったとは考えられません。むしろ半島からの鉄の輸入経路を独占することで、河内王権は列島の覇者となりえたのですから、やはり鉄がらみでの派兵とみるべきでしょう。のちに磐井につながる九州勢力へのおさえの意味もあったかも(『倭と伽耶』によれば半島南西部の前方後円墳の出土品は北九州と関係が深いらしいので、被葬者は磐井と連係する勢力(反百済)だったのではないか)。

それにしても半島への派兵は大変な出費であったはずで、そこまでして百済に肩入れするヤマト政権(河内政権)は、やはり百済とは兄弟国的な特別な意識があったのではないかと想像されます(経済的動機だけではなく)。
その理由として、
1)応神に始まる河内政権は半島からやってきた一党だから(百済王族が騎馬民族であるのと同程度の騎馬民族)。応神の治世は4世紀後半で、391年はまだ、この初代が天皇であったろう。だとしたらなおさら、本国の存亡の危機には安閑と座してはいられなかったのかも。
2)百済から加羅にかけての地域は、弥生人と同種の稲作渡来民の地であり(倭韓雑居)、歴史的同族意識がまだ残っていたから。

1)は支配層が同種。2)は国民が同種ということで、両立しえます。
さらに妄想をたくましくするならば、百済政権内の倭名官僚(たとえば科野)は、日本から渡った人物かもしれませんが、半島の倭人(Y染色体O2b)で、科野のようないわゆる和名は、越人時代からの倭族の名前なのかも。江南の越人の(漢名ではない)読み(発音)を知りたいところ。

半島南西部と西日本の住民が同種であった(当時まである程度文化を共有していた)とすれば、任那日本府(という文字自体は記紀の創作でしょう)の性格も、ある程度合理的に解釈できそうな気がします。

 




あれこれ

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 2日(火)01時00分3秒

返信・引用

 

 

『ヴァーミリオン・サンズ』読了。積読消化なのだが、個々の作品は他で大体読んでいます。初読は「希望の海、復讐の帆」と「ヴィーナスはほほえむ」の2篇のみ。「歌う彫刻」は(第1期)奇天、「風にさらばを告げよ」はNW-SF、「コーラルD」はSFM、残りは創元文庫で既読。あの頃はしっかりSFファンしていたようです(^^;
ただし、ほぼ40年近く前のこととて初読と変わらず。永井淳の訳文が(私好みで)とてもよいと思いました。
ひきつづき再読開始。

さて、報告が出来てませんが、昨日は例のETV特集第2回「任那日本府」を、ちゃんと忘れずに観れました(^^; 仔細は明日にでも。

 




ハッピードラッグSSRI

 投稿者: 管理人  投稿日:2009年 6月 1日(月)21時41分5秒

返信・引用  編集済

 

 

今日の「クローズアップ現代」は、ハッピードラッグといわれるまでに広くいきわたっている抗うつ薬「SSRI」が、処方を誤まると「攻撃性を発現する」場合がある、という問題を取り上げていました。
万能薬SSRIの欠点が見つかったわけで、使用者はショックでしょうが、番組制作の姿勢はむしろ、根本的に患者の症状を「理解」しようとせず、「安易に」患者に薬を処方してことたりる一部の医師の姿勢を問題にしているように、私には思えました。もっと患者の内面に立ち入る「心理療法」を取り入れていかなければいけないのでは、というのが結論のようでした。

「SSRI」に頼りすぎて、精神科医がある意味「怠けている」現状については、すでに3年前に片田珠美『薬でうつは治るのか?』が問題提起をしており、チャチャヤン気分に感想文を書いたことがあります。こちらを参照下さい→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwave.ap.teacup.com%2Fkumagoro%2F124.html

3年前には、SSRIが「攻撃性を発現させる」場合があることはまだ判っていなかったのですが、放送でもあったように、これはSSRIのもつ負の特性として、それを「理解」したうえで適切に処方すればいいのだと思います。
問題は、個々の患者の状態や特性を診ようとせず、ただ単に、いわばマニュアル的にSSRIを処方する一部の「手抜き医師」にあるように(番組を見ていて)思われました。

もっと「心理療法」に力を入れるべし、というのは、『薬でうつは治るのか?』でも指摘されていたと思います。逆にいえば、現状はそうなってはいない、ということです。
このような心理療法(カウンセリング)は、非常に時間のかかるもので、「そのわりには報酬に見合わない」システムの現状があって、医師の側にインセンティブが働かないのだそうです。が、それは違うのではないかと思いました。

甘い甘い!――と、思うたのでした(笑)。

そもそも医療という分野に「経済」を持ち込むのは、発想として間違っていると思うのですよね。
それに大体、医者って一般のサラリーマンより給与面では恵まれていると思います。勤務医で平均年収1300万と聞いたことがあります(うろおぼえなので間違っているかもしれません)。医師が激務であるのは承知していますが、しかし、一般のサラリーマンで過労死した方の年収を調査したデータがあるかどうか知りませんが、そのほとんどの方は年収1000万円未満ではないでしょうか。平均年収掛ける医師の数の総額はそのままで、構成比率の変更で対処すべき問題です。

SSRIは、上掲書によれば、服用(というか医師の処方)さえ間違わなければ、劇的な効果がある有用な薬のようです。心理療法の重視は当然ですが、SSRIも適切に使用されなければなりません。
番組を通覧して、「経済」医師が「効率」を追求してSSRIを濫発することが出来なくなる「しくみ」の変更が、いま一番必要なのではないのか、と感じたことでした。

 


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