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伊藤計劃「From the Nothing, With Love」
皆さんは、ジェームズ・ボンド氏の姿かたちが、何年かおきに、まるで別人のように変化することにお気づきだったでしょうか。
私はかねがね不思議に、かつ不気味に思っていたのですが、本篇を読んで氷解しました。そういうことだったのか〜(^^;
本篇にはその固有名詞こそ出てきませんが、007号ジェームズ・ボンドの物語に間違いありません。タイトル(From
Russia With Loveのもじり)と、「#7計画」(479p)というプロジェクト名が端的にそれを表しています。
さて、「#7計画」とは何か。ドイツ降伏時、連合国が争ってナチスの汚らわしくも優れた科学技術を火事場泥棒よろしく略奪していったことは周知の事実。ソ連はロケット技術を、アメリカはフォン・ブラウンを、そしてイギリスは……人間の脳に別人の「脳の内容」を「上書き」する技術を、掠め取ったのです! それが#7計画。但しその技術が実地に試されたことはなかった。
一方、MI6に飛びぬけて優秀なスパイがいた。その男が殉職したとき、イギリス情報部は大変な、いわば国家的損失と感じた。このとき#7計画は現実と接点を持ったのでした。
男の天才的なスパイとしての能力が、別の(ただし身体能力は同等な)男に上書きされ、SISは貴重な戦力を失わずに活用することができた(原理上永遠に!)。ちなみに本篇では5代目ということになっています(ラストで現在の6代目と交替)。
ところが、上書き技術に欠陥が見つかる。それは度重なるコピーによって「意識」(私)が劣化していく事態だった。しかしそれは、事実上何の問題もなかったのです。
一般的に、人間の行動はほとんど「意識」を介在させずとも「自動的」に行なわれています。いわゆる体が覚えているわけです。本当に「意識」が身体をコントロールしなければならない事態など実は殆どないのですよね。
たとえば車の運転――目をしっかり見開いて注意を全方向に向けてなければならない行動のようですが、実際には半無意識状態で運転していませんか? 少なくとも私はそうです。気がついたら目的地に着くところだった、というのは私の場合しょっちゅうです(あれ、何でそんな慌てて降りようとするの?)。
ボンドの場合、優秀なスパイ5人分の経験をもっていることになりますから、その活動はほぼ意識を介在させる必要がないほど習熟してしまっており、実際のところ意識(私)は必要なくなっていたのです。それでコピーのたびに不必要な「自己」は薄れていっていたのです。
それに気づいたオリジナル・ボンドの(われ思う故にわれありの)「意識」は……
うーむ。面白い(^^)
実はこの話、堀作品の逆なんですよね。堀作品では、ロボットが経験を積み重ねることで「意識」が芽生えるというものだった。本篇では経験の習熟が逆に「意識」を退化させるのです。
どっちが正しいというものではないと思います。私はどっちも納得できます。
でも現実を見回すと、大半の人間は「私」を駆動させていません。それで十分日常生活している。むしろ「私」を動かす方が軋轢が生じる場合が多い。眉村さんはこれをコンフォーミズムとして批判しましたが、現実には人間というよりロボットな人のほうが圧倒的というか一般的だと思います。
実はボンドほど経験を先鋭化させずとも、そもそも人間には「意識」は不要なのではないでしょうか。不要なものは退化します。オリジナル・ボンドはそれに抗しようとしましたが、一般の人々はそんな意識もなく、いつの間にか「私」を失っていくのではないでしょうか。
つまり本篇は、個別ボンドの物語ではなく、一般的な人間そのものの物語だったのです!
私は初代ボンド(の意識)に与しますが、一般の人々は家畜化されたほうが「幸福」と思っているのかもしれません(ーー;
さすがにラストバッターにふさわしい、考えさせられる力作で、堪能しました。
And did those feet in ancient time
以上、大森望・日下三蔵編『超弦領域年刊日本SF傑作選』(創元文庫09)全巻の読み終わりと致します。
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