ヘリコニア談話室ログ(2009年7)




Re: 役人根性の除根

 投稿者:管理人  投稿日:2009 731()210625

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> No.1981[元記事へ]

トマトさん

返信遅くなりました。

>誤字脱字
大丈夫です。全然問題なしですよ(^^;
それよりも貴重なストーリー紹介をありがとうございました。
もし気になるのでしたら、このページの一番下の「自分の投稿の編集・削除」ボタンを押せば、訂正可能です(ただしクッキーが切れていたらこの機能は使えません)。

役人はしっかり根性を入れ変えてもらわなければいけません。
というのは、こんなていたらくでは、役所仕事の民間委託なんてことをいうアメリカ追随ネオリベの主張が一定の支持を集めてしまいます。
しかし私は行政サービスは利潤原理で動く民間に任せてしまってはやはり無理があると思うのです。なんだかんだいっても、市役所は市民にやさしいと思います。よい面は残し、悪い面は改めていく一種の綱渡りが求められるのですが、そのためにはまず公務員が変わらなければなりませんね。

話はころっと変わって――
今日は巨人も中日も負け、ゲーム差は変わりませんでした。
プロ野球の順位は、「勝率」ではなく「勝ち数」で決まるんでしたよね?
現在、引き分け巨人7、中日1。
これが終盤でじわじわ効いてくるのではないでしょうか(^^;

 




大正区平尾

 投稿者:管理人  投稿日:2009 730()213020

返信・引用

 

 

かんべむさしさんの大阪ランダム案内によると、大正区は江戸時代に新田開発で生れた土地だそうで、開拓者の一人として平尾与左衛門の名が挙げられています。
地図で調べると丁度木津川の右岸が平尾なんですね。
実は小学校に平尾という同級生がおり、当時は知らなかったのですが、何年か前の同窓会で、父親は木材の水運の元締めだったと聞いたのを思い出したのでした。

調べてみました。

大正区では、大正中期から昭和初期にかけて千島新田と泉尾新田一帯に土地会社が運河・貯木場・水路の開削と道路・橋梁・宅地盛土などの開発工事を総合的に実施して市内中心部の材木業者を誘致した結果、最盛期の昭和7、8年頃には業者数約600戸に達する全国有数の木材街が出現し、その木材市場は業界の一大中心地となりました。
 なお貯木場は、大正区の中心部に位置し約20万坪の広大な面積を占め幅員25間の大正運河で木津川と尻無川に通じ、大阪港から木材を搬入していました。
http://www.city.osaka.lg.jp/taisho/page/0000000425.html

今でも環状線からは木津川に木材船が係留されているのが望めます。
平尾の木津川の対岸は住之江区平林で、今でもここには材木会社が集中してますよね。

うーん。単なる偶然かも知れませんが、平尾新田を開いた平尾家が、日本資本主義勃興期に国策的に材木の水運を手がけたというのはありうるのではないでしょうか。
次の同窓会(いつだ?)で詳しく聞いてみよう(^^;

追記。こちらのページ(http://www.oml.city.osaka.jp/net/osaka/osaka_faq/69faq.html)によれば

大阪の木材団地は江戸時代始めに今の西区に起こり、大正7年に大正区に移転、木材街を形成しました。昭和7、8年の最盛期には業者数が500件を越え、西日本はもとより旧満州、朝鮮に商圏を広げ、豪商が軒を並べていました。
が、
第二次世界大戦を経て、戦災と高潮災害により大正区は壊滅的な被害を受け
その結果
平林地区を近代的な貯木場として整備し、大正区内の貯木池、製材・合板工場、木材市場を平林地区に移転させることになりました
ということみたいですね。

 




役人根性の除根

 投稿者:トマト  投稿日:2009 730()204912

返信・引用

 

 

「ガラスのわら人形」のあらすじ、誤字脱字多くてすみませんでした。あわてて書いたものなので・・・。

役人根性、恥ずかしながら私の身内も田舎の市役所に勤めていましたが、市民のためなんてぜんぜん考えていなかった…みたいな感じでしたね。とにかくヒマなんです。ヒマだからなんとも活気もないんですね。で忘年会や花見が最大のイベントという感じなんですね。役所の仕事の多くはやりがいという点で見ると…なのであの体質というのは変わりようも無いかもしれませんね。(役所の仕事は裏金を作ることだったような・・・)しかしそれでも以前に比べれば最近はかなりよくなったとは思いますが・・・。

 




「ニュー・ワールズ傑作選No.1」より(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 729()221421

返信・引用  編集済

 

 

ブライアン・オールディス「小さな暴露」浅倉久志訳

(承前)
気がつくと主人公は兄弟に抱きかかえられて、車へと戻る途中だった。主人公の容態に、兄弟もこんなところで愚図愚図している場合ではないと覚ったのです。
ここでも主人公は、一瞬兄弟の顔が毛だらけに見え、悲鳴をあげるも、すぐ錯覚であったことに気づきます。
とはいえ、兄弟の主人公に対する扱いがとても邪険なように思われ、そんな被害妄想じみた想念が浮かんでくると共に、ふたたび兄弟が異人類であるとの印象を強く持ちはじめる。車に乗り込みんでもその印象は消えません。
主人公は気のせいなのだと思い込もうとして考えます。

「おまえは病気だ。かけ値なしに病気だ(…)実際にはなんの事件も起こってはいない」
そして、
「おまえはこんな仮説を考えた。もしヒトがその進化の初期段階で一度も海中に棲まなかったとしたら、どんなちがった姿に――どんなちがった生物に――なっていただろうか、と。」

お気づきでしょうか。ここに至って主人公は完全に、現人類は海からやってきた、と取り違えてしまっています。まさに一人称のトリックといえるでしょう。

「そこへもう一つ、宇宙の別の位相、別の地球へ転移できるんじゃないかという」ウォルターに示唆された「考えが加わった。(…)おまえはそのきちがいじみた仮説が二つとも現実になったと思いこんでしまったのだ」

人類がサルから直接進化したという事実が、いつのまにか
「きちがいじみた仮説」と認識されている。
すれ違った対向車の横に書かれた文字が「MANTRAPS」と読めたとき、ここで更なる妄想に囚われる。

「数百万年に及ぶ海への寄り道を経験しなかった生物は、当然、進化の面で先にスタートを切ったわけだ。本物のほうのヒトがやっと陸に上がっ」たとき「すでに多毛人がそこをわがもの顔に占領していた(…)この変種の世界の中では、わたしの属する方の人類はずっと被圧迫者であり(…)無毛の侵入者から土地を守るための道具を支配種族に提供するような商売がまかりとおっているのでは」
それがMANTRAPSというわけです(^^;

車はようやくサナトリウムのある海岸の町に至る。主人公は6年前にもここへ来たことがあった。それで彼は、窓に顔を押し付けるようにして「ディテール」を捜します。何か変わっていないか? 「小さく暴露したディテール」を……。

もう完全に一種の狂気ですよね。ふつうに読めば(笑)

町のたたずまいに変化はないようだった。だが、主人公の視線が浜辺の海水浴客の方に向かったとき――そのとき、主人公はとんでもない事実に気づいたのだった!

と本来ならばここで筆をおけば「ネタばらし」にならないわけです。
でも本篇はオールディスの、どの邦訳短篇集にも収録されていません。つまり久野四郎の「ガラスのわら人形」と同じなのです。
というわけで、どうせ皆さんは読めないのですから(また本書を所持している人は既に読んでしまっているでしょうから)、ネタバレしてもなにも問題ないでしょう(^^;。
それにネタバレしたからといって、これから読まれる方にとって本篇の価値が減じることもありません。そんな読み捨て小説では、本篇はないからです。

主人公はその事実に気づいて、がんと頭を殴られたように
「ある明白な認識が私を見舞った。砂浜の人々は、立っているものも坐っているものも、みんな陸の方を眺めている。だれひとり、海のほうを向いていないのだ……」

おお!
この結末は何を意味するのか?
昨日引用した中に
「海を愛さない、毛深いヒト」とあったのは、当然このラストの伏線だったわけですが、でも、そもそもわれわれ人類は、著者のいう「毛深いヒト」なのですよね(^^;
それとも、「毛深いヒト」という定説の方が間違いで、実はハーディやモーガンが主張したように、われわれ人類はアクア人類だったということなのでしょうか。
だとしたら、海に背を向ける人々が住むこの(小説)世界は、いったいどこなんでしょう?(笑)

様々な解釈が考えられます。結局ラストはリドルです。本篇は一人称形式をトリックに使った巧妙きわまる傑作SFといえると思います。

 




大橋さん、雫石さん、トマトさん

 投稿者:管理人  投稿日:2009 729()202056

返信・引用  編集済

 

 

大橋さん
>レスできなくて申し訳ありません
お気になさらずに。
そもそもレスなんぞしている余裕はないはず(^^;

>本になるとしても、あと、2年くらいかかります
あ、そうなんですか。いずれにしろ、楽しみにしております!

>佐々木侃司先生もぜひ、取り上げさせて頂きたいと
ぜひぜひ。来阪の節はお声をかけてくださいね(^^)

雫石さん
拝読しました。

>1620円
単行本が買えますがな(^^;

>ではなぜ、早急に判りやすい文に訂正しない。
訂正するはずがないじゃありませんか。連中は全てに付けわざと手続きを複雑怪奇にすることで、自分たちの保身をはかっておるのですよ。

>社会保険庁はまったく反省していない
反省するどころか、何をほざいてけつかんじゃい、わざとこないしてんやんけ。と心中ではせせら笑っておるのですぞ。

トマトさん
「ガラスのわら人形」のあらすじ紹介ありがとうございました。おお、そういう話でしたか。単行本未収録の作品であり、このままでは内容が永遠に失われてしまいかねないので、とても貴重な書き込みをしていただきました(もちろん日下さんの久野四郎短篇集に収録してもらえればもっとありがたいわけですが)。

>税務署員の持ち物を子供にご祈祷しながらひねくってもらったら…と考えてしまいました。
いや、個々の税務署員を呪い殺しても何の解決にもなりませぬ。税務署員(ひいては役人全般)の心に巣食った「役人根性」をこそ、除霊じゃなかった除根性(?)してもらわないと駄目です(^^;

 




久野四郎の醍醐味

 投稿者:トマト  投稿日:2009 729()123621

返信・引用

 

 

 久野四郎「ガラスのわら人形」は私鉄沿線の場末のアパートが舞台になったいわゆる「通俗的な奇妙な味のファンタジー」です。筆者が学生時代に下宿していた「便所も炊事場も共同の」アパートに「なにやら怪しげな新興宗教の祈祷師」が住んでいて、この祈祷師せ毎日決まった次回にご祈祷をするというところから始まっています。このアパートの住民ですが、この祈祷師のほかに「とてもまともな職業についているとは思えない女性、パンスケ」「焼酎ばかり飲んでいて半分アル中のダンプの運ちゃん」「おでん屋夫婦」「精神薄弱児を抱えた管理人夫婦」「腕力も胆力も無く空意張りするしか能が無い自称やくざ」という設定です。ストーリーは祈祷師と自称やくざがこう中になり、アパート中をベタベタと歩き回るところから始まります。それをパンスケやダンプの運ちゃんなどが揶揄するのですが、パンスケの挑発で祈祷師とパンスケが乱闘騒ぎになり、けんかを鎮めようとしたダンプの運ちゃんが祈祷師をKOしてしまうことで収まります。が翌日からご祈祷の声が違っていて祈祷師は本気でパンスケを呪い殺そうとしました。しかし一向に祈祷師は効果はありませんでした。そこで祈祷師は真夜中にわら人形に五寸釘を打ち込むという「丑の刻参り」を行います。がそれも効果が無かったばかりかその現場をおでん屋夫婦に目撃さ。そしてあちこちに流布されてしまいます。
 しかしあるきっかけで祈祷師は管理人夫婦の知的障害児に「霊力」があることを知り、この障害児を使ってまずパンスケを呪殺します。パンスケは連込み宿で医者か肉屋のような職業の変質者に内臓をつかみ出されて殺害されます。その事実を知ったとき祈祷師は
「やっば゜り、あの新聞に載っていた身元不明の女があいつなの。」
とうれしそうにいいます。さらに
「私のことを馬鹿にした人はみんな死ぬのことになっているのよ。ダンプでつぶされたり、屋台ごと跳ね飛ばされたり・・・あなたを気をつけなさい、私を怒らせるとまともな死に方が出来ないわよ。」
という調子です。そして彼女の言うとおりにダンプの運ちゃんが電車とぶつかって運転台ごと真っ二つになってしまいます。筆者は偶然だと思うもののおでん屋夫婦のだんなのほうは「祈祷師の呪い」といって怯えます。そしてその場で今度はおでん屋夫婦も屋台ごと跳ね飛ばされてしまいます。これには筆者も祈祷師の呪いと感じて、祈祷師の部屋に
「やい、てめぇねなんでぇ、今おでん屋が死んだ、あれもあんたの呪いか!」
と怒鳴りこんでいきます。しかし祈祷師に
「なんだったら警察に訴えてごらん、あの女が四人を呪い殺しましたってっ。」
と冷ややかにつき返されます。そしてやりきれない気持ちで自室に戻ると、友人がコレクションしていた小さなガラス細工の豚がノートの間から出てきたことになにかほほえましい気持ちになってねむりにつきます。しかしその翌日、今度は筆者の友人が事故死します。それは祈祷師が筆者を呪殺しようとしたもののの失敗したためでした。その失敗を祈祷師が障害児の責任として責めているのを聞きます。
「本当にご祈祷しながら割ったの、うそついたってちゃんとわかるんだから。」
「した、豚を割った。ご祈祷しながら割った。」
「でもあの人帰ってきたわよ。」
という具合にです。(筆者の友人のガラス細工の豚を障害児たちがご祈祷しながら割ったために筆者の友人が事故死した。)
しかし今度は障害児が祈祷師を恨み、祈祷師を呪殺しようとしました。さそこで祈祷師はこんどは障害児を絞殺してしまいます。が筆者が警察に通報しに行って警官を連れて帰ってくると祈祷師が縊死していました。そして筆者は近くの公園で子供たちがご祈祷しているのを目撃しました。その茂みで発見したものは真ん中を引き裂かれて詰め物が飛び出したぬいぐるみ、二つに割られたコップ、粉々になった夫婦茶碗、ピンクのガラスの破片、そして真ん中でしっかりと結ばれたハンカチでした。
 この短篇のオチは霊力を持っていたのは子供たちて障害児でも祈祷師でもないということで、冒頭と結びは「子供のそばに壊れやすいものを置くのは危ないことだ、考えものだ。」というフレーズです。
ツッコミを入れようとすればいくらでもツッコミを入れる箇所はありますが、さすがに広告関係というだけ登場人物の台詞や感情描写などがうまいですね。

 私はこの短篇を中学のときに読みました。性描写も含めていわる「大人の世界」ですが、久野四郎は感情描写は上手いとおもいます。刑法第134条では医師や弁護士などとともに「祈祷の職にあるもの」も職務上知りえた事実を口外した場合刑事罰の対象となっていたことから(同条第二項)祈祷師が社会で重要な存在だったようですね。(それだけ祈祷師の霊力というものにも畏怖を抱いていたとのかもしれません。)

この短篇は当時中学生だったクラスメイトにもかなり受けました。自分たちの学校やクラスに置き換えることも出来たわけですね。下の記事に関連してですが、税務署員の持ち物を子供にご祈祷しながらひねくってもらったら…と考えてしまいました。

 




Re: これがお役所仕事?

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 729()074028

返信・引用

 

 

> No.1975[元記事へ]

私も、年金の手続きで、社会保険事務所に行って、同じようなお役所仕事を体験しました。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/a64463686b9cbf4c8c004922c598dc61
ちょっと書類を修正すればいいものを、それができないんですね、連中は。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




Re: 眉村さん情報 句集刊行!

 投稿者:大橋博之  投稿日:2009 729()073538

返信・引用

 

 

> No.1966[元記事へ]

大橋です。
レスできなくて申し訳ありません。

> 大橋博之さんがSFMで「SF挿絵作家の系譜」を連載されています。
> もうすぐ本にまとまるらしいので、私も楽しみにしています(^^)

本になるとしても、あと、2年くらいかかります(笑)。


> 中島靖侃といえば、私は佐々木侃司が好きだったです。主にかんべむさしさんの挿絵をなさってました。あのトリスのイラストを描いた画家です。かんべさんは最初は楢喜八が多かったですが、次第に佐々木侃司が専属同然になりましたね。最初サントリーの宣伝部に所属していて、たぶん開高健と同僚だったのではないでしょうか。
>
> 非常にユーモラスなタッチで、私は眉村さんのイラストとなんか似た雰囲気を感じてしまうのです(^^;

佐々木侃司先生もぜひ、取り上げさせて頂きたいと思っているのですが、ご遺族の方は関西の方にお住まいですよね。行きたくとも行けなくて……。

 




これがお役所仕事?

 投稿者:管理人  投稿日:2009 728()233810

返信・引用  編集済

 

 

その存在は以前から知っていて、かつてはたまに見に行ったりしていたのだが、ここ数年はとんとご無沙汰になっていた山野浩一さんのブログの、ワールドコン後あたりの記述から読み進めて、二日ほどかけてようやくさっき読み終わった。

SFとは関係ないのですが、とても引用したい記述があり、プロ作家の、しかもかなり長めの文章を、どうかなと思いつつも、えいままよと引用しちゃいます(^^;

 税務署から確定申告が為されていませんので、何月何日何時に出頭せよという
 「ご案内」なるものが届いた。今度は私自身が電話した。「税務署間に申告署の変更を
 連絡するシステムはないのかね」というと、「ごめんなさい。昨年の8月に八王子署
 からとどいていました」という。それでも「何分にも多数の納税者を扱うもので処理に
 時間がかかって」という。「8月に入った書類を処理していないのなら会社が変わっ
 ての二重取りの詐欺も発生するし、徴収漏れもいっぱい起こるのじゃないだろうか」
 というと、「こちらで調査できる範囲では調べたのですが」というので「確定申告には
 前年度の申告署をを記入する欄があるでしょう。そちらに提出された書類は調査範
 囲に入らないのか」というと、さすがに言い訳ができないとわかったようで「申し訳あ
 りません」を繰り返すようになった。「これはあなた方がしなければならない仕事をし
 ていないから生じることで、銀行で他の支店で引き出せなかったらどうなると思う?
 社保庁も同じようにすべき仕事をしていなかったから行く方不明の年金が膨大になっ
 たのでしょう。国家機関でも社保庁と国税庁以外はもう少し仕事をしているんだよ。
 年金や税金をもらって金銭感覚がなくなっているからそうなるんだ」とののしり、この
 件をちゃんと上司に伝えるよういった。さすがに「武蔵野署長と八王子署長には申し
 伝えます」というので電話を切った。
http://yamanoweb.exblog.jp/11758895/

ヤンヤヤンヤ! いやー胸がすっとしました(^^;
結局処理能力がないのではないんだろう。それ以前に「やる気」がないだけなんでしょうな。上の引用にもありますが、年金記録問題が進まないのでも「なにぶん数が多くて」と同じような言い訳をしていたけれども、要は職員に真剣に取り組む気がないだけなのではないのかな、と思ったことでありました。

 




「ニュー・ワールズ傑作選No.1」より(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 728()201343

返信・引用

 

 

ブライアン・W・オールディス「小さな暴露」浅倉久志訳

いかにもオールディスらしくテクニックに淫した超絶技巧的作品(^^)

主人公のわたしは結核が悪化し、妻のいとこであるリッチモンドとウォルターのベッツ兄弟に、車で海辺の療養所へ送ってもらう。
その途上、アマチュア考古学者であるウォルターが、グリマーの墓穴という新石器時代の遺跡に立ち寄りたいと言い出す。体の調子が悪くて早く療養所に行き着きたい主人公だったが、しぶしぶその寄り道に同意する。

遺跡は淋しい荒野にあった。主人公が何気なく
「別世界に入り込んだみたいだ」と軽口をたたくと、リッチモンドも、それにしては移行の兆候がなかったな、と話を合わせる。するとウォルターが、やけに真剣に「われわれの生活がひとつの位相から次の位相に移るとき、めったに兆候なんてないもんだよ。せいぜいあとになって、『さてはあの瞬間に……』とかなんとか、気づくぐらいのことさ。だから別の世界への転移(…)も、はっきり感じとれるとは限らないだろう」
というのです。異世界とは往々にして
「一見したところはそっくりに見える」ものであり、ただ「どこかに小さく暴露したディテール」だけが違う、そういうものだと……。

この言葉が本篇の<鍵>でありまして、病気で神経が弱った主人公に強迫的にまといついて後々まで尾を引きずることになります(ちなみに「暴露」は「露呈」のほうがいいと私は思います)。

遺跡は深い竪穴で、その地下30フィートで主人公は気分が悪くなり喀血する。その直前、主人公は、暗闇の中で(ろうそくの炎の加減でか)ベッツ兄弟が毛むくじゃらな獣人のように、一瞬見え、ふとアリステア・ハーディの<アクア人類>仮説を思い出すのです。

少し本題から離れます。
<アクア人類仮説>は、いうまでもなくエレイン・モーガンの所説で、これがエムシュウィラー「ビーナスの目覚め」の元ネタであることは、以前らっぱ亭さんにご教示いただきました(→ヘリコニア談話室過去ログ)。

実は1970年代に発表されたこの仮説の母体となったのが、本篇の主人公がふと思い出したところの、アリステア・ハーディの説であるのです。
ハーディ説は1960年代で、本篇がニューワールズに掲載されたのが1965年ですから、エレイン・モーガン説はまだ世に出ていないどころか、ほやほやの新説を早くも自作に取り込んでいるわけですね(→http://homepage2.nifty.com/ToDo/cate1/sinkacua.htm)。

閑話休題。
アクア人類説では、海棲で人類は体毛を失い現在のような姿となったと考えるのですが、本篇の主人公は、殆ど喪神状態で毛むくじゃらに見えた兄弟の姿から、突如脈絡もなくハーディ説を思い出してしまう。そして
「きっと、わたしは気が変になりかけているのだ」との意識は辛うじて保ってはいますが、同時に「この地球と一見そっくりな別の地球――ただし、われわれとはまったく異質な、水棲の祖先を持たぬ、海を愛さない、毛深いヒトの住む地球が存在するのではなかろうか」と妄想しているのです。

ここで注意を促したいのは、主人公が、いつの間にか自分たち人類を<アクア人類>であると思い込んでしまっている点です。
と同時に、兄弟たちをサルから直接進化した別人類(実はこちらが本当なんですが)と思い込んでいるわけです。
「いま、わたしの眺めている毛深い生き物にそっくりなヒト……わたしとよく似てはいても、どこかで不可避的に、どうしようもなく異なった、そして敵意さえ持っているかも知れぬ生物……狩猟型の生物、そいつが穴の中からのそのそ後ずさりして、わたしに向きなおろうと……」しているのを見て、主人公は気を失う。

<つづく>

 




運命

 投稿者:管理人  投稿日:2009 727()212832

返信・引用  編集済

 

 

レッツゴー運命 ←懐かしい。このレコードは小学6年のとき友人に借りて聴いていたのでした(^^)

かたや、ジョンイルの「運命」は? →うーん、衰えたな(ーー;

マイクル・ムアコック編『ニュー・ワールズ傑作選No.1』に着手。

 




「句集 霧を行く」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 726()230549

返信・引用  編集済

 

 

眉村卓句集 霧を行く』(深夜叢書社09)

あとがきにありますように、著者が俳句を本格的に始めた高校時代から現在までに作った句のなかから
「自分の好きなのばかり抜き出し」てまとめたものとのこと。
俳句のことは分かりませんが、映像的な句が多くて素人の私にも十分楽しめました。

内容に触れる前に、このあとがきが力作。俳句という主題に沿って著者の経歴がすっきりとまとめられていて資料的価値が高い。著者がご両親のことを語られたのは、私が知る限りでは本稿が初めてです。眉村卓研究者、いやSF研究者はこの「あとがき」を読むだけでも必携でありましょう。

それはさておき、帯にも引用されていますが
「私の俳句とは、時空の集約が感じられるものでありたい」(あとがき)というのが著者の俳句の肝であるのは間違いありません。

有名な、

 
「渡り鳥空の一点よりひろがる」
がその典型で、静止した空の一点から、ぐわっと拡がる時間感覚(動)が、空間的布置に内包されている。<未来派絵画>を彷彿とさせるものがありますね(ここで訂正。この句は高一のとき作ったものだそうです)。

 
「いっせいに駆け出し渦となる落ち葉」
も同様で、画像の中に時間が籠められている。静と動がひとつの画面の中に共存しているのです。

著者の俳句の特徴がよく出ていると思います。この辺がいかにもSF作家の句ですね。SFとして読んでも十分楽しめます。というか私はそのように楽しみました(^^)
これはぜひ、今年の「年刊SF傑作選」には、このなかから何句か選んでいただきたいものであります(^^)

あと、気に入った句を挙げます(付箋を付けていたら30句近くなってしまったので、さらにその一部です)。

「車庫の灯の届く限りを雪降れり」
 周囲は闇。スポットライトのように白い雪。

「合宿にひとり残りし遠花火」
 夏休みの合宿で夜遠くで花火が上がり、みんな見に出かけていき、ひとりだけ留守番させられているのでしょうか。

「湯気立てて少し酔いたる妻の歌」
 いいですねえ。

「夏野中暗く先史の巨石群」
 イギリス旅行中の句か。幻想的です。

「夜も暑し電球色の満月よ」
 たしかに電球色だ。蛍光色だったら少しは涼しかったのに(笑)。見立ての勝利。

「秋草の堤防翳りくる速さ」
 これも時間を含んだ光景。

まあこれくらいにしておきましょう。あとは実際に手に取ってお読み下さい。
なお、部数がごく少ないらしいので、購入は版元に直接注文するのが確実です→http://www.shinyasosyo.co.jp/index.htm
ネット書店にはまだ反映されてないようです。

 




Re: 夢書房シリーズなど

 投稿者:管理人  投稿日:2009 726()18399

返信・引用

 

 

> No.1970[元記事へ]

トマトさん
>「夢書房」は畑農照雄だったかもしれません
あ、そうでした。
畑農照雄って、あれ切り絵(かげ絵?)ですよね。あるいは切り絵っぽく見せかけたふつうのイラスト? ともあれくっきりとした画調で、郷愁があって夢書房にはぴったりでしたよね(^^)。

眉村卓句集 霧を行く』(深夜叢書社09)読了。
感想はあとで書きます。

 




夢書房シリーズなど

 投稿者:トマト  投稿日:2009 726()165528

返信・引用

 

 

 楢喜八も懐かしいですね。あとは新井苑子とか角田純男とか…。石川喬司の「夢書房」は畑農照雄だったかもしれません。夢書房の「夢の中の行く付けの古本屋」、世界女優恥部図鑑なんかがあったり、ストリッパーが舞台の上でオナニーしているという描写があったり(イラストにもオナニーしているストリッパーがかいてありました)当時中学生だった私は興味津々でした。そしてクラスの女の子が私の影響でこの夢書房シリーズをよんでハマりましたね。こういうお宅の人じゃない人も読んで面白いお話ってあのころのSFMや早川や創元のSF本にはたくさんありましたね。
「文学おじさん」といった感じの細身でメガネをかけた店主やその令嬢とおもわれるお姉さんが店番をしていましたね。で週末になるとこの田舎町の文学おじさんたち(たいてい学校の国語の先生だったりする)が数人やってきてはお茶のんで団子食べてお話していましたね。

 




眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2009 726()100556

返信・引用

 

 

版元の深夜叢書社のサイトに、
句集霧を行く』の記事が掲載されましたhttp://www.shinyasosyo.co.jp/01mayumurakusyu.htm

 




Re: 専属同様とは畏れ多い!

 投稿者:管理人  投稿日:2009 725()204418

返信・引用

 

 

> No.1967[元記事へ]

かんべさん

>故・佐々木侃司さんには、お願いして、描いていただいておりましたんですぞ〜。
や、そうなんですか。たしかにSF作家で佐々木侃司さんにイラストをつけてもらっていたのは、かんべさんしか思い浮かびませんね。
つまり出版社のお仕着せ(?)ではなく、かんべさんが自らの意志を通して、佐々木さんにお願いしていたということになるわけですね。なるほど。
それをかんべさんの専属絵師扱いにするとは、知らなかったとはいえ大変失礼いたしました。
お許しくださいm(__)m

で、それではなぜ、かんべさんは(出版社の意向を退けてまで)佐々木侃司にこだわったのか、という点に興味が行くわけです(^^;
私の推理が正しければ、かんべさんはおそらく北杜夫に触発されたのではないか、私はそう睨んでいるのですけどね(笑)

 




専属同様とは畏れ多い!

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2009 725()154612

返信・引用

 

 

故・佐々木侃司さんには、お願いして、描いていただいておりましたんですぞ〜。
同じくイラストの仕事をしてる息子さんが、記念HPを作ってはります。御参考までに。
http://www.kan-art.net/

 




眉村さん情報 句集刊行!

 投稿者:管理人  投稿日:2009 725()134440

返信・引用  編集済

 

 

トマトさん

>真鍋博とか中島靖侃とか深井国とか・・・
ああ、あの頃のイラストは本当によかったですよね(^^)

大橋博之さんがSFMで「SF挿絵作家の系譜」を連載されています。
こちらに一覧表が(08年12月までですが)載っています→http://d.hatena.ne.jp/kokada_jnet/20081203/p2
もうすぐ本にまとまるらしいので、私も楽しみにしています(^^)

中島靖侃といえば、私は佐々木侃司が好きだったです。主にかんべむさしさんの挿絵をなさってました。あのトリスのイラストを描いた画家です。かんべさんは最初は楢喜八が多かったですが、次第に佐々木侃司が専属同然になりましたね。最初サントリーの宣伝部に所属していて、たぶん開高健と同僚だったのではないでしょうか。

非常にユーモラスなタッチで、私は眉村さんのイラストとなんか似た雰囲気を感じてしまうのです(^^;

さてさて。
その眉村さんですが、以前予告してました句集が出ました!

眉村卓句集霧を行く』(深夜叢書社、09年7月25日刊)

深夜叢書社といえば、山尾悠子の歌集を出したところではないですか!

まだ読んでませんので書影だけ出しておきますね(表紙はその眉村さんのユーモラスなイラスト付き!)
巻頭句はいうまでもなく、

    
渡り鳥空の一点よりひろがる

です。
星新一を感嘆せしめた、眉村さんではもっとも人口に膾炙している秀句ですが、なんとこれ、中学のときの作品だそうです。かないませんなあ(汗)

               ↓クリックで拡大↓

 




(無題)

 投稿者:トマト  投稿日:2009 724()22192

返信・引用

 

 

>『日本SF全集』を読んで「やっぱり第一世代のSFは面白い」と書かれてましたが、まったくそのとおりで、ジャ>ンルの勃興期というのは、そういう奇跡みたいな才能の集中が起こるんですよね

確かにそうかもしれませんね。あのころのSFMの表紙や挿絵もいいですね。真鍋博とか中島靖侃とか深井国とか・・・。

 




見つけた(笑)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 724()210535

返信・引用  編集済

 

 

偽チャチャヤングhttp://www.youtube.com/watch?v=EqOXwtTbdL8&feature=related

  親愛なるQに捧ぐ

 




「ミステリーの人間学」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 723()210244

返信・引用  編集済

 

 

廣野由美子『ミステリーの人間学英国古典探偵小説を読む(岩波新書09)

まず著者はE・M・フォースターのストーリーとプロットの定義を引用し、
「フォースターの区別によれば、ストーリーはたんに、次がどうなるかという原始的な好奇心のみを刺激するものであるのに対して、プロットは、新しい事実を「孤立したものとして見ると同時に、すでに読んだページに書かれていたことと関連づけて見る」ための知性と記憶力を、読者に要求する」(3〜4p)として、かかるプロットは必然的に(一般名詞としての)「ミステリー」を契機とするとします。

もとより(時系列的な)ストーリーを、小説として成立させるのがプロットなので、元来ストーリーとプロットは別のものではありません。
著者も
「物語に対する人間の心の作用を「それから?」と「なぜ?」とに振り分け前者の出所を好奇心に、後者の出所を知性に」(5p)帰すフォースターの所論を「実際にはそれほど単純に割り切れるものではない」とします。
ストーリーのみで成立する小説はありえないので、実際のところは、(ストーリーから)
「高度に組み立てられた小説」(4p)をプロットの小説と便宜的にいっている訳です。

繰り返しになりますが、かかるプロットは必然的に(一般名詞としての)「ミステリー」を契機とするわけですが、そのような「ミステリー」に特化したのがミステリー小説(探偵小説)で、文学から切り離してゲームであるという観点(ノックスの十戒、ヴァン・ダインの二十則)があるのを認めた上で、しかしミステリーも小説の一形式である以上、また犯罪を主題とする特性ゆえに、他にもまして
「探偵小説とは人間を描くものであり、とりわけ人間性の暗部を描き出すうえで、特殊な方法論を有するジャンルである」(23p)として、その観点よりイギリスの探偵小説を「読み直」したのが本書です。

そういう訳ですから「ネタバレ禁止」みたいな一般に流布する「ミステリの常識」を著者は認めません。
「読み捨てにされるべきゲームならばいったん種明かししてしまえば元も子もないが、人間性を探求するミステリーならば、再読の価値がある。いや、読み返すたびに新たな発見がある」(32p)
「犯人を知ったうえでふたたび読み直してみると、この作品(「アクロイド」)には、心に後ろ暗いものを持つ人間が、いかに追い詰められてゆくかが、行間から読み取れるように、作者によって周到に仕組まれていることがわかる」(170p)
というのが著者の立場です。

そのような著者が考えるイギリス探偵小説の嚆矢は、当然ディケンズとなります(ディケンズが探偵小説であるのは「バーナビー・ラッジ」連載途中でポーがその殺人事件の謎を解いてしまったことから明らかです。余談ながらポーとディケンズの関係は、乱歩と谷崎の関係を髣髴とさせて興味深い)。そしてディケンズ→コリンズ→ドイル→チェスタトン→クリスティと著者による「読み直し」が行なわれるわけです。ドイルの科学的探偵法に対して、チェスタトンの方法をいわゆる「内観法」とするのが面白い。つまりドイル対チェスタトンは自然科学対現象学といえるかも。

以上のように、著者のアプローチは、日本の一般的なミステリ読解としては少数派だと思われます。しかしかかるアプローチは、SF界では、つとにニューウェーブにおいて実践されているもので、わたし的には全く違和感なく楽しめました。ミステリ小説全体を網羅しうるものではないけれども、本来ミステリ小説が原理的に担わなければならなかったのはこのような役割だったのではないでしょうか。

 




Re: 七十年代の一こま

 投稿者:管理人  投稿日:2009 723()184425

返信・引用  編集済

 

 

> No.1961[元記事へ]

トマトさん

北杜夫は好きな作家なのですが、刑事が主人公という話は読んでませんね。ちょっと見当がつきません。怪盗が主人公の話は、馬鹿馬鹿しくてとても面白かったんですけど(^^;

>SFが一般の人たちのものからおたく的な人たちのものへと特化していく過渡期だったのかも…しれません。
80年代後半くらいからでしょうか。第2世代からすでにその傾向がありましたが、決定的には第3世代の作家自身が、(良くも悪くも)ひたすら特殊化の道を自ら選び取り突っ走っていった(あるいはSFMの要求がそういうものだった)のが一般性を失っていくきっかけだったのではないかと考えています。

>祈祷師のお話
地方都市を牛耳る地回り(オモテ向きは土建屋)と政治家を、実は裏で祈祷師が操っていた??
なんか半村良の世界ですね(^^ゞ
人間界と自然界の境界である里山の祈祷師は、実は<郷里>そのものが人間の皮をかぶった、そんな存在だったのではないでしょうか!(>実体は狸か!?)

や、すみません。また妄想世界に入り込んでしまいました(^^ゞ

さて、ここ数日、
廣野由美子『ミステリーの人間学英国古典探偵小説を読む(岩波新書09)を読んでいたのですが、読了しました。あとでまとめます。

 




七十年代の一こま

 投稿者:トマト  投稿日:2009 723()130526

返信・引用  編集済

 

 

私の時にはSF話を執筆しているのは私だけでした。ノートにびっしり書いて回覧しましたが、読者は居ましたがほかに執筆希望者は現れませんでした。ただイラストを描いてくれた女の子はいましたね。

 ところで私が中学生のころ、「なぞの転校生」が放送されていて、あれはクラスのほとんどが見ていましたね。そうすると必然的に眉村卓の原書を学校に持ってきてみんなで廻し読みしていました。ということはSFがおたくの人たちだけのものという時代ではなかったんですね。

 一方クラスから浮いた読書オタク的なクラスメイトが北杜夫の本(主人公が刑事という設定)を読むように薦められたことがありました。しかし北杜夫自身が刑事の経験がないためか臨場感にとぼしくつまらなかったという印象でした。

中学生ともなれば異性(教師も含めて)に胸をときめかせたり、たまたま自転車やバスにのって繁華街に繰り出すと他校生や高校生に「生意気」だとシメられたり、(もちろん校内でも高級ブランドであるアディダスなんかをもっていると上級生にシメられたりしますが…)という社会の中に身を置いているわけですね。ときに因縁をつけてきた他校生が友達になったり上級生が頼りになる先輩になったりする場合もあるわけですが、一方外車から降りてくるどうみても普通ではない男たちが何者であるかがわかり始めたころです。
一方オタクっぽい同級生は服装も無頓着、書店や図書館にしか行かないという感じでしたから上級生や他校生にシメられるということもない(彼らに相手にされない)ので上述したような感覚というものはわからなかったようですね。(ちなみに彼は私のSF話の読者ではありませんでした。)
七十年代半ばというのはもしかしたら、SFが一般の人たちのものからおたく的な人たちのものへと特化していく過渡期だったのかも…しれません。


 ところで久野四郎の「ガラスのわら人形」は傾向的には「獏食らえ」と同じようなものだと私は思います。この二編にはかつて日本社会に存在していた「祈祷師」という存在が出てきました。

 ここの二編を読むと、私は私の郷里にいた祈祷師のことを思い出します。この祈祷師は農地のはずれ里山のふもとに住んでいて、本業は鍼灸マッサージ師だったようですが、占いやら護符を張ってのご祈祷やらサルノコシカケなど得体の知れない漢方薬による民間療法などもしていたようです。この家の庭には石灯篭やら陶製の変な神像などが並び、何かどくとくの雰囲気をかもし出していました。
 わたしの父は「あそこには近寄るな。」「あそことは関わるな。」とわたしにいっていました。しかしある日友達がこの祈祷師の家に近くにいったことがありました。未舗装の道に大きな外車が止められ、家のなかから黙々とモグサの煙が立ち込めていたそうで。そして何を除いてみると刺青を彫った男性がベットに寝ていて、背中に何本も針を刺されそしかもその針の頭には火の付いていたもぐさの塊が載っていたとのことです。
「おい、何見てんだ。」
とドスの聴いた声で級友がわれに返ると、外車の中から怖そうなお兄さんが級友たちをにらみつけていたとのことです。級友たちは
「ヤバイ。」
と本能的に感じて一目散に自転車で逃げてきたのことです。この祈祷師のところには地元政治家(議員)や(農協の)組合長などもよく訪れるという話を聞きましたが時代は変わって今では祈祷師も故人となり、あの得体の知れない陶製の像が並んでいた家は建て替えられて模造石タイル張りの洋風の洒落た家になったそうです。また当然ですが祈祷師には超能力はなかったようでしたね。

 




Re: 生活人久野四郎

 投稿者:管理人  投稿日:2009 722()213514

返信・引用  編集済

 

 

> No.1959[元記事へ]

トマトさん

昔はどこにでもSFがあふれてましたよね(70年代)。駅前商店街の変哲もない書店に、ふつうにSFMが入荷していました。
また、クラスの半分はSFを読んでいました。

>ノートにびっしりと書いてクラスメイトに廻した
や、同じようなことをしていますねえ。私の場合は、「回し書き」でした(^^;
つまりリレー小説(のようなもの)で、上記のようにクラスの半分はSFを読んでいて、そのうちの4、5名で授業中にノートを回して書いたものでした。なかには自分の好きなクラスメートを登場させてくるのがいて、私がその子を「殺す」と次の順番でまた「復活」させやがるのです。それをまた当の女子に読ませるのです。悪趣味ですな。本人は笑って読んでいましたけど。
あるいは、SFの同人誌を作る、というと、またたくまに作品が集まりました(全然面識のない別のクラスの同級生が載せてくれ、と作品をもって来ましたっけ)。
とにかくSFがあふれてました。私は遠からずSF新潮、SF群像、なんて雑誌が出るに違いないと、半ば本気で信じてましたもんね。
今から思えば信じられない気がしますが、そんな「時代」を現出したのは、いうまでもなく「第1世代」なんですよね。
ある方がミクシイ日記で、『日本SF全集』を読んで「やっぱり第一世代のSFは面白い」と書かれてましたが、まったくそのとおりで、ジャンルの勃興期というのは、そういう奇跡みたいな才能の集中が起こるんですよね(60年代日本映画しかり)

 




生活人久野四郎

 投稿者:トマト  投稿日:2009 722()19489

返信・引用

 

 

手元に5分前が掲載されているSFMがあるのですが、
「書斎派」ではない「生活人」という感覚が本当に臨場感をともなって感じられますね。
半村良の作品名では「わがふるさとは黄泉の国」「庄ノ内民話考」が印象深いです。わたしは田舎育ちだし、学校に行くのに畑の中を通っていった人間ですから、庄ノ内(たぶん山形県庄内地方)民話考はなんとも好きなのです。
 そんな田舎町でも古書店があり、しかもSFMや早川だとか創元のSF本がかび臭い中にひしめき合っていました。一方新本を扱う書店もあり、木製の書棚にやはり早川SF文庫がずらりと並んでいましたね。そして今の季節になると、父や祖父が法被着て鎮守の祭りだの踊念仏だのと何だのとわいわい騒ぎだしていたものです。小学生のクラスメイトの女の子の浴衣姿にはっとし始めたのもこのころではないでしょうか。いずれにしてもあの田舎町のかび臭い古書店でSFMを立ち読みしたとの感動を再現したいものですね。例の浴衣姿が似合う女の子と鎮守の神社の石段であったという夢をみましたが、彼女が超古代神権王国日本の皇女だったという空想物語をノートにびっしりと書いてクラスメイトに廻したところ、先生におこられたものでしたね。

 




共同企画・久野四郎復活計画

 投稿者:管理人  投稿日:2009 721()22186

返信・引用  編集済

 

 

トマトさん
あ、情報ありがとうございます。

>ビールうんちく読本―ニガ味にこだわる男たちへの48話 (PHP文庫)
久野四郎はサッポロビールで広報誌の編集長だったとのことですから、間違いなさそうですね。

>中小企業経営者
眉村さんと似ていてちょっと違うんですよね。眉村さんがサラリーマン(ビジネスマンにあらず)だとしたら、久野氏は中小企業経営者という感じがします。ちなみに半村良は水商売の経営者(笑)
この三人は「生活人」を描いている点で共通性があるように思っています。

雫石さん
久野四郎再評価>現実味を帯びてきましたね。楽しみになってきました(^^)

高井さんの「ショートショートの……」でも『夢判断』のエントリーが(^^;→http://short-short.blog.so-net.ne.jp/2009-07-21
共同企画<久野四郎復活計画>の一環です(>ウソです(^^ゞ)

 




Re: 久野四郎

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 721()09591

返信・引用

 

 

> No.1956[元記事へ]

久野四郎、いいですね。
星群ホームページのコラムを書くために、SFマガジン1968年1月号を読み直したのですが、
もちろん、久野さんの「砂上の影」も、まったく久しぶりに読みました。やっぱり久野四郎はいいですね。
早川の「夢判断」を読み直したくなりました。
こうした声がホーハイと沸きあがると、久野四郎の本がまた出版されるでしょう。その時が楽しみです。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




久野四郎

 投稿者:トマト  投稿日:2009 721()071526

返信・引用

 

 

おはようございます。
久野四郎、再評価されているようですね。
彼の作品は文庫本「砂上の影」(かつての夢判断と同じ内容)に載っている
「ワム」などのほかに、「ガラスのわら人形」「勇者の賞品」などかあります。
福島正美氏が降板したのちSFマガジンに登場することはなく、勇者の賞品が事実上最後の作品のようです。


ビールうんちく読本―ニガ味にこだわる男たちへの48話 (PHP文庫)
  「ビールうんちく読本―ニガ味にこだわる男たちへの48話 (PHP文庫) (文庫)
浜口 和夫 (著) 」も彼の著書ではないかと思いますが・・・。
久野四郎が(東京の下町の)中小企業経営者という感覚というご感想でしたが、私も田舎育ちで選挙のたびに地縁血縁で奔走したものです。そんな感覚と近いのではないかと思います。

 




高井さん 土田さん

 投稿者:管理人  投稿日:2009 720()232155

返信・引用

 

 

高井さん

書き込みありがとうございます。
あ、早速「ショートショートの……」で、宮崎惇の書誌情報をまとめて下さったんですね。ありがとうございます。

こんな風に、リストが手軽に検索できるようにしていただけるだけでも、「このままでは遠からず完全に忘れ去られてしまいそうです」という流れに対する抗力となるはずです。
リストが存在すれば、そのリスト片手に古本屋巡りをする若い読者も出てくるというものです。インターネットのそこここに、彼らの名前(やタイトル名)を消さずに残しておくことはとても重要ではないでしょうか。

その一方で、やはりふつうに新刊本としてこの人たちの作品が読めるようになっていることも大切で(私みたいなのが若い読者だったら、古本屋回りなんてメンド臭いことは屹度しないと思います)、その面で日下さんのような信頼できる編集者の方(そして青心社や出版芸術社や東京創元社のような良心的な出版社)には期待しないではいられません。


土田さん

ご無沙汰しております。
久野四郎の新情報をありがとうございます。これはうれしいニュースですね(^^)
ぜひ実現してほしいものです。
そういう個別的単行本化も必要不可欠ですが、彼らの作品が一堂に読めるものも私は必要だと考えています。
そもそも私自身、まず世界SF全集の日本作家編を読み、それから気に入った作家を見つけて単行本に進んでいったんですよね。

>いろいろと考えてしまいました
それはある年齢になったら皆そうですね。
私の歳で、眉村さんは「引き潮のとき」連載が5年目に入り、既に第1巻を上梓されているんですよね(トホホ)。え、比較する相手を間違えている?おこがましいにもほどがある? 失礼しました(^^;

 




久野四郎

 投稿者:土田裕之  投稿日:2009 720()213912

返信・引用

 

 

ご無沙汰しております。

だいぶ前に日下さんにお会いしたときに
「夢判断」はすごく好きな作品集ということで意気投合しました。
数編足せば全作品になるのでぜひ出したいとおっしゃられていたので
ふしぎ文学館とかで単独で出そうと思われているのかもしれません。
スパイ小説の訳書を1冊出されていることも、
そのとき教えていただいたのではなかったかな。
「夢判断」は数年前にも再読しましたが、古びていなくて面白かったです。

実は偶然、今日から日本SF全集を読み始めたんですが、
巻末の座談会で福島正実氏が亡くなった年と
自分の年が3年しか違わなくなっていることにあらためて気がついて、
いろいろと考えてしまいました。

 




Re: お久しぶりです。

 投稿者:高井 信  投稿日:2009 720()134758

返信・引用

 

 

> No.1952[元記事へ]

> 件の<日本SF全集>では収録漏れになっています。
 私の名前まで出していただき、ありがとうございます。
 私はともかく、同世代の中原涼とか村田基とか……。私が編者なら絶対に外しませんが、編者には編者なりのポリシーがあるんですから、それでいいのではないでしょうか。

 そういえば……。
 ちょっと前、中原涼さんと話しました。ミステリの執筆に、かなり意欲を持たれているようでした。勝手に期待しちゃっています。

 




Re: お久しぶりです。

 投稿者:管理人  投稿日:2009 720()13099

返信・引用

 

 

> No.1951[元記事へ]

雫石さん

久野四郎、いいですよね(^^) 昔の感想文(→http://kuma-gor.hp.infoseek.co.jp/kakolog/herikonia-log0305.htm#yumehandan)にも記しているんですが、書き続けていれば半村良みたいな作家になれたかも、とさえ私は思っています。

きっちりした短編も書ければ、ストーリー主体の長篇小説も書け(実際には書いてませんが)、中間雑誌からの注文にも応えられる間口の広さを潜在能力としてもっていたと思います。

その理由は、マニア上がりではないので、SFや小説に対してそんなに入れ込まず、距離をおいて見ることができたであろうからで、もし悪名高い<立風ネオSFシリーズ>から注文があったとしても、他の作家のように、何でオレが娯楽作品を書かなあかんねん、なんて悩むことはなくホイホイ書いたのではないか。そんなイメージがあるんですよね。

逆にそういう、よい意味での非マニア性が、福島さんが引いたあとはすぱっと断筆し、未練もひきずらなかったということなのかも知れませんが。

>もっと再評価されてもいい作家だと思います
日下三蔵さんあたりに期待したいですね。
久野四郎だけでなく、高井信、川田武、ユーベルシュタイン、藤本泉、五代格、殿谷みな子、岸田理生、津山紘一、田中文雄(滝原満)、亀和田武、宮崎惇、瀬川昌男、橋元淳一郎あたりが、件の<日本SF全集>では収録漏れになっています。

ショートショート研究で第1人者の名を縦にしている高井信も橋元淳一郎も現役ですからここに入れるのは不適当かも知れませんね。ですがそれ以外の名前は、このままでは遠からず完全に忘れ去られてしまいそうです。
ユーベルシュタインや五代格によい短編がないのがいたいですが、この名前だけで一冊作れそうですよね。
あと、奇想天外廃刊で消えてしまった作家も発掘してほしいところ。宮本宗明なんか面白かったです。ミステリではそんな雑誌発掘企画を日下さんはやっておられたのでは。SFでもお願いしたいですね。

 




Re: お久しぶりです。

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 720()094157

返信・引用

 

 

> No.1947[元記事へ]

> ところで、ご存知かもしれませんが、日本SF全集(→http://www.spng.jp/sf.html)というのが刊行開始となりました。久野四郎は収録されませんでした。あれが入ってない、これはいらんというのは詮ないことですが、正直なところ残念でした。

管理人さんは久野四郎がお好きですか?
私は好きでした。
http://homepage2.nifty.com/sfish/seigun/sfm-27.htm
もっと再評価されてもいい作家だと思います。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




「新・幻想と怪奇」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 719()234249

返信・引用

 

 

ローズマリー・ティンパリー他『新・幻想と怪奇』仁賀克雄編・訳(ハヤカワミステリ09)読了。

ポケミス版『幻想と怪奇』の続編ではなく、NV文庫版『幻想と怪奇』の続編の位置づけとのこと。というのは、文庫版は本書と同じ仁賀克雄編であるのに対し、ポケミス版は都筑道夫編集なのだそうです。といってもどっちも未読なんですが(^^;

海外版異形コレクション(時系列的には逆ですが)という感じで、SF、ダークファンタジー、ホラー系の短編が集められていて、なかなか楽しめる作品集でした。

1)
ローズマリー・ティンパリー「マーサの夕食」
2)
ゼナ・ヘンダースン「闇が遊びにやってきた」
3)
ロバート・シェクリイ「思考の匂い」
4)
チャールズ・ボーモント「不眠の一夜」
5)
ジョージ・フィールディング・エリオット「銅の鋺」
6)
ゴア・ヴィダール「こまどり」
7)
アンソニイ・バウチャー「ジェリー・マロイの供述」
8)
アラン・ナース「虎の尾」
9)
フィリップ・ホセ・ファーマー「切り裂きジャックはわたしの父」
10)
リチャード・ウィルスン「ひとけのない道路」
11)
ウィリアム・テン「奇妙なテナント」
12)
マンリー・ウェイド・ウェルマン「悪魔を侮るな」
13)
A・M・バレイジ「暗闇のかくれんぼ」
14)
リチャード・マシスン「万能人形」
15)
ロバート・ブロック「スクリーンの陰に」
16)
レイ・ラッセル「射手座」
17)
ローズマリー・ティンパリー「レイチェルとサイモン」

私の嗜好からして、やはりSF作家系の作品の評価が高くなります。2)3)7)8)9)10)11)12)14)15)
なかでも、7)は読み終わってみればよくあるパターンかもですが、私自身は最後まで見抜けず、ラストであっと驚かされました。
8)は本集ではやや異質な純理SFで、短編ながら壮大なラストにセンス・オブ・ワンダー。
9)もまた、よく出来たショートショートで、切り裂きジャックの息子は何と……(^^;
10)は、小松左京『こちらニッポン』と同じシチューション。たったひとり深夜のハイウェイを突っ走る主人公の描写が実によい。
11)は、奇想SF。表記上13階の存在しないビルに、13階のフロアを借りに来た奇妙な二人組み……。本集中ではマイベスト作品。
15)はまさに「異形」的作品。前から思っていたがブロックの感性は日本人によく馴染む。

SF以外では、4)は純然たるショートショート。6)は生理的ホラーかと見せかけて、ラストであざやかにひっくり返す手際が鮮やかで読後感もよい。16)はドラキュラものは数多いがジキル博士とハイド氏を下敷きにした作品は珍しいかも。力作だが読後感は案外ふつう。17)は1)と同じ作者。編者は買っているようだが、両作品とも筆力がプロの域に達していないと思う。

1)5)13)のような生理的ホラーは趣味ではないなあ。

 




Re: フェミニンなスペオペ

 投稿者:管理人  投稿日:2009 719()222911

返信・引用

 

 

> No.1948[元記事へ]

トマトさん

や、フェミニンなスペオペですか(^^;
今なら女性作家の(フェミニズム的な)スペオペは沢山あるんですけどね。昔は確かになかったですね。ぱっと思いつくのはC・L・ムーアの<処女戦士ジレル>シリーズ(『暗黒神のくちづけ』ハヤカワ文庫)くらいです。女性が主人公ですが内容はハードかも(^^;

>「女性的な優しさと愛があるきれいで繊細なスペースオペラ」
となると、ちょっと違うかもしれませんが、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』なんか薦められたら気に入ったかもですね。まあ昔を今にではありますが(笑)。

 




フェミニンなスペオペ

 投稿者:トマト  投稿日:2009 719()194614

返信・引用

 

 

早速のレス、ありがとうございます。
福島さんの住所は世田谷の東経堂団地になっていましたね。
秋田書店「SFエロチック」で昭和四十一年初版となっています。
どうして手元にこんな本があるのかも不思議です。アマゾンみたらすごい値段になってしますね・・・。

ここに浜口和夫(久野四郎の本名)「結婚エージェント」が載っています。
挿絵は真鍋博で、「あの当時のムード」ぷんぷんですね。
今はパソコンで仮想世界に入りことができますが、あの当時は活字やイラスト、そして書店や古書店名とが仮想世界への入り口でした。

あとがきは福島さんですが、福島さんの切れのある文章はやはりいいですね。

ところでブランバンド部でクラリネットを吹いていたSF好きの女の子ですが、
いわゆる外国文学も読んでいたようです。私の通っていた古書店に彼女も顔を出していましたが、レンズマンやスカイラーク、ペリーローダンなどのタイピカルなスペースオペラ志向だったようで久野四郎には関心はなかったようです。
そんな彼女は究極かつ本当のスペースオペラを探求していったようで、レンズマンにもローダンにもどこか不満で本当に自分の求めているものではないという話を私に地元スーパーでしていました。

今思えば「女性的な優しさと愛があるきれいで繊細なスペースオペラ」を彼女は捜し求めていたのかもしれません。米製や独製のスペオペにはない和製の繊細さと神秘的な要素(手塚治虫的感性)も求めていたのかもしれませんね。

 




Re: お久しぶりです。

 投稿者:管理人  投稿日:2009 719()150355

返信・引用

 

 

> No.1946[元記事へ]

トマトさん

お久しぶりです(^^)

>当時の本には福島氏の住所まで記載
そうでした! 光瀬龍が赤羽団地であることを何で知ったのか、それは思い出せないのですが(HSFSかと思って見てみましたが住所は載ってませんね。図書館で読んだジュブナイルかも)、高校生のとき本気で尋ねていこうと思った(但し思っただけ)ことは鮮明に覚えています(^^;
石原藤夫は渋谷区神南でしたっけ(これは自信なし)。

ブラスバンド部の彼女のお話、いいですねえ。まるで当時のジュブナイルの発端を彷彿とさせるエピソードで、よい思い出ですね(^^)。でも今お会いになりたいとはゆめ思われませんよう。時は平等ですが残酷です(^^ゞ

ところで、ご存知かもしれませんが、日本SF全集(→http://www.spng.jp/sf.html)というのが刊行開始となりました。久野四郎は収録されませんでした。あれが入ってない、これはいらんというのは詮ないことですが、正直なところ残念でした。

 




お久しぶりです。

 投稿者:トマト  投稿日:2009 719()111259

返信・引用  編集済

 

 

お元気ですか?

最近はSFから遠ざかっていましたが、先日実家の奥から福島正美氏の本が出てきました。
当時の本には福島氏の住所まで記載されていることに時代の流れを感じます。
わたしがSFを知ったのは中学生時代(70年代)で、近くの古書店にSFマガジンバックナンバーがあったことがきっかけでしたが、その後ブラスバンド部の女子生徒もSF読者であることがわかり、かび臭い古書店やマイナーな地元スーパーで話し込んだという経験があります。彼女は後に国立大の教育学部に進みましたが、細身で端正な顔立ちながら話というとSFの話しばかりで恋人が居なかったということは小耳に挟みました。
中学時代、SF仲間は新刊でるのを楽しみにしていましたが、私は逆で古書店で古いSFを発掘していました。

 




Re: 5連打3ホーマー

 投稿者:管理人  投稿日:2009 719()101238

返信・引用  編集済

 

 

> No.1944[元記事へ]

堀晃さん、柳生さん

ご投稿ありがとうございました。
一読、「え、こんな事件あったっけ?」と驚き、日付を見て「これは未来からの投稿ならん」かと二度びっくりするも、マッドサイエンティストの手帳を拝見して氷解(^^;

そういえばジャズも「ハイカラ神戸」の構成要素ですね。
このページによりますと、
「大正時代にはすでに貿易港で賑わっていた横浜や神戸でアメリカの船員達がニューオリンズ・スタイルのジャズが演奏され」
「宝塚オーケストラで有志を募って23年(大正12年)に日本初のジャズ・バンド・ラフィング・スターズを神戸で旗揚げした井田一郎(bjo,vin)がパイオニアとしてしられています」

先年亡くなられた昭和プロ創業者遠山新治も(大阪出身ながら)ハイカラ神戸に関係が深そうです。

ともあれ東京へのジャズの旅、どうぞお気をつけて楽しんできて下さい(^^)

ジャズといえば、7月17日はコルトレーンの命日でしたね。この日はジャズ喫茶の顰に倣ってトレーンを何枚か聴くのが通例だったのですが、そして前日までそのつもりでいたのに、体調がすぐれなかった事もあってすっかり失念していました。今日こそ何か聴こう。

 




Re: 5連打3ホーマー

 投稿者:堀 晃  投稿日:2009 718()22068

返信・引用

 

 

> No.1942[元記事へ]

>私の認識が確かならば、夏山登山なんて大半が中高年ではないでしょうか。

(神戸)デキシーランド・ジャズ・フェス(7/26神戸)で火災事故!
(東京)サッチモ祭(7/20恵比寿)で一酸化炭素漏洩事故!
犠牲者の9割が70歳以上……

>現役時代何をしていたか

ハードバップ世代も還暦ですからねえ。

 




Re: 5連打3ホーマー

 投稿者:柳生真加  投稿日:2009 718()205420

返信・引用

 

 

> No.1941[元記事へ]

ありがとうございます
さっそくいってきます!

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/tea/

 




Re: 5連打3ホーマー

 投稿者:管理人  投稿日:2009 718()161028

返信・引用  編集済

 

 

> No.1941[元記事へ]

>こちらのブログでも紹介されていますよ
あ、青山さんだ(^^ゞ
ハイカラ神戸<創作編>、期待しております!

雫石さん、お知らせありがとうございました。

mixiニュースより
  [山岳遭難多発、中高年が8割]→元サイト

私の認識が確かならば、夏山登山なんて大半が中高年ではないでしょうか。
もし登山者の8割が中高年だとしたら、遭難者8割が中高年というのは、きわめて妥当な数字のはず。
当該記事はこの登山者一般の年齢構成比を提出しなければ何の意味も発生させないのです。つまりこのコンテキスト上の「8割」という数字は何も意味していない。それは上記のようにコンテキストが不完全だからで、すべからく「数字」というものは「論理」(理屈)を背景にしない限り全く中立、没価値なんですよね。

下はそれに対する(たまたま私が見たときに出ていた)コメント。

 こういう事故に巻き込まれてしまった人が現役時代何をしていたかをデータとして出して、山岳に向かう人たちに提示しておけば、もう少し被害者は減るかと思う。てゆうかそれこそマスコミの仕事では?

記事の不完全さを認識せず鵜呑みにして書いている。「主体的」(批判的)に読まないからこういうことになる。あ、この人は「意識」がないのか(伊藤計劃「From the Nothing, With Love」参照のこと)。
いずれにせよ記事も馬鹿ならコメントも馬鹿。

 




Re: 5連打3ホーマー

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 717()224743

返信・引用

 

 

> No.1940[元記事へ]

こちらのブログでも紹介されていますよ。
http://kobeblog.net/u/53196a/MeT3CS0nx8gVKJsXb4lq/

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




5連打3ホーマー

 投稿者:管理人  投稿日:2009 717()21530

返信・引用

 

 

柳生さん
また見つけたら報告しますね。

>5連打3ホーマー
ほんまに阪神ですか? 阪神半疑(^^;

>朝青龍
いやー今日は凄かった。右上手を切られたのだが、その瞬間、その右腕が琴奨菊の差し手を強烈におっつけて浮き上がらせて突き落としていました。40年以上相撲を見ていますが、こんな技の繰り出しは、はじめてみた。これはもはや芸術ですね。無形文化財級。素晴らしかった。未見の方は相撲ダイジェストでぜひご確認を(^^)

『新・幻想と怪奇』
残りあと2篇。

 




Re: 「ハイカラ神戸幻視行」感想

 投稿者:柳生真加  投稿日:2009 717()20354

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> No.1937[元記事へ]

ありがとうございます!
知らない人ですがうれしいですね。

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/tea/

 




「捕物時代小説選集4」と光瀬龍

 投稿者:管理人  投稿日:2009 717()200435

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志村有弘編『捕物時代小説選集4釘抜藤吉捕物覚書 他6編(春陽文庫00)

本集は前集よりさらに時代を遡って、大正末年・昭和初年の作品が主に収録されています。奇しくも『ハイカラ神戸』の時代(大正11年から昭和16年)にすっぽりと収まります。

林不忘「釘抜藤吉捕物覚書」(平凡社刊『現代大衆文學全集 第35巻 新進作家集』所収、昭和3年)
    「梅雨に咲く花」
    「三つの足跡」
    「槍祭夏の夜話」
    「宇治の茶箱」
林不忘はいうまでもなく牧逸馬、谷譲次の一人3役作家。本集には<目明し釘抜藤吉シリーズ>4篇が一挙掲載。
前集で、私はミステリ要素が時代小説の速度を損なっていると書きましたが、本篇は堂々たる本格ミステリで、思わず楽しんでしまいました(汗)。それで気づいたのですが、時代小説にもいろいろな分野があるということですね。捕物系はミステリの筆法で書かれていて、出来のいい話は面白いし、出来の悪いのは詰らない、そういうことなのでした。ただ、この分野は時代小説に新たに注入された「血」ではあるでしょう。実際、本篇は現代の作家によって書かれたといわれても全く違和感がありません。並みの現役ミステリよりも数段面白い。
ただ、光瀬が影響を受けた(継承した)筆法とは違うものでは……と思いつつ、『光瀬龍 SF作家の曳航』の「多聞寺討伐」のあとがきを読み返してみると、直木三十五、土師清二、長谷川伸の名前がちゃんと出ているではないですか(いずれも本集収録作家)。ただ捕物帳を「変格探偵小説」と認識していたようで、本篇のようなオーソドックスな本格探偵小説の評価はどうだったんでしょうか。
私の独断と偏見でいえば、光瀬は歌舞伎的な物語性ゆたかな時代小説をSF的設定に復活させようとしていたのではないかと思っているのですが。

長谷川伸「八百蔵吉五郎」(大衆文藝第2巻第1号、昭和2年)
その長谷川伸の「戯曲」です。一種の義賊の吉五郎(但し本人にその自覚はない)が、本人の与り知らぬところで噂が噂を呼び、江戸で指折りの役者八百蔵そっくりの義賊という虚構・架空キャラが先行していき、次第に本人がその気になっていき……という筋立てが斬新で面白い。とはいえ戯曲ですから、背景設定は「小説的見地」からいえばうすっぺらい(当然ですが)。で、光瀬の(目論んだ)時代小説には、同様の薄っぺらさがあるように私には感じられるのです。「芝居」というのがやはりキイワードか。

土師清二「からす金」(大衆文藝第2巻第5号、昭和2年)
本篇は映画のシナリオですがやはり戯曲的。光瀬が上記エッセイに名前を挙げているのが示唆的です。猿使いの盗賊というのがいかにも光瀬の好みそうな設定です。ただし内容はありがちなセンチメントに収束するもの。

長谷川伸「蝙蝠安」(大衆文藝第1巻第8号、大正15年)
長谷川伸の戯曲。しかしこういう暗い話は光瀬の好みではなさそう。

直木三十五「新説天一坊」(大衆文藝第1巻第1号、大正15年)
新説というのは、天一坊の心理に新解釈を施したというものでしょう。その意味で芥川的な作品。

木村哲二「春宮冊子畸聞」(大衆文藝第2巻第6号、昭和2年)
これまた捕物帳の形式ですが、編者がいうように芸術家小説「地獄変」を思い出させる小説。

玉木重信「巷説人肌呪縛」(裏窓、昭和34年)
本篇のみ戦後の作品。ストーリーは無茶苦茶でバラバラなまま収束せず。編者はそれを
「官能的な伝奇小説」と好意的に書いていますが、要は「いかにも雑誌「裏窓」にふさわしい」作品とのこと。前集に引き続き中山勘解由再登場。本篇でもサディストながら、著者は一定の理解を示しているのが面白い。

 




Re: 「ハイカラ神戸幻視行」感想

 投稿者:管理人  投稿日:2009 716()22225

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> No.1936[元記事へ]

柳生さん

検索したら、ここでも紹介されてました→http://sumus.exblog.jp/11366653/
お知り合いでしょうか?

それはそうと、頭が痛い。ビールの呑みすぎか、熱中症か。というか両方合わさってでしょう。
ここ数年、夏場の体温調整がうまく働いてないみたいで、どうかすると熱中症っぽい症状が出ます。
冷房の効いた車から降りると、気持ち悪いくらい体温というか皮膚の表面温度が高くなっているんですよね。これはクーラーの効きすぎで車中では表層温度を上げて均衡をとっていたのが、降車してもすぐには切り替わってないということなのかな。
そういう過熱気味の状態で帰宅してすぐ缶ビールを二本飲んでしまったのですが(こういうことも普段はしません。よほど暑さが堪えていた模様)、冷却できてないところにビールを入れた(しかも最近飲んでいるのは度数7%の第三のビール)のが、どうもよくなかったみたい。
今年は空梅雨気味で、先が思いやられますな。

頭が痛いので、昨日読了の感想文は明日にでも。


仁賀克雄編訳『新・幻想と怪奇』に着手。ほぼ半分。

 




Re: 「ハイカラ神戸幻視行」感想

 投稿者:柳生真加  投稿日:2009 716()194140

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> No.1934[元記事へ]

あ、ほかにも紹介記事が!
教えていただいてありがとうございました。

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/tea/

 




悪名シリーズ

 投稿者:管理人  投稿日:2009 715()222723

返信・引用  編集済

 

 

先週(水)、今日と、二週続けて京都テレビで映画「悪名」シリーズを観た。本当はシリーズをずうっとやっていたのかも知れないが、私が気づいたのが先週からだったわけです(今週でシリーズ終了みたい)。
はじめて観ましたが、これは面白いなあ(>野球は見なかったのかって?そんなもん見ますかいな)。
原作は発表時期こそ50年代ですが、朝吉のモデル人物が実際活動したのはおそらく30年代、ということで、神戸がハイカラだった丁度その時代の河内八尾が舞台なのです。細雪の主人公が元居留地のユーハイムでスイーツを食べ紅茶を飲んでいた同じ頃、八尾駅前の「珈琲屋」で朝吉はどろっとした不味いコーヒを飲んでいたのです。

うーん、やっぱり私は「ハイカラ」より、地を這う泥ッ臭いものにひかれるらしい(^^;

なお朝吉はヤクザものですが、ヤクザを美化しているわけではない。ヤクザ(但し資本主義と結託した)はやはり人間のクズとして描かれている(侠客というか古いタイプの親分はいる)。ただ朝吉のみが特殊なヒーローなのです。
さだめし朝吉はアウトサイダーの世界での<インダイダー>@眉村というべき存在といえるかもしれません。

 




Re: 「ハイカラ神戸幻視行」感想

 投稿者:管理人  投稿日:2009 715()184846

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> No.1933[元記事へ]

柳生さん

>後半の文化論あたり、いらないかも
そうですね。ここでがらりと雰囲気が変わってしまいましたね。
とはいえ、そういう面も含めて非常に刺激的な(論争を引き寄せる(^^;)本であることは間違いなく、興味をもたれた方はぜひ一読してほしいですね。
しかも現在、神戸新聞において続編が連載中とのことで、この結論からどんな風に展開がなされていくのか、とても興味津々です。続編も期待しております(^^)

あ、講演会があるのですね。私は土曜日はふつうに仕事なので残念ですが、お近くの方はぜひ!→「ハイカラ神戸幻視行」講演会のお知らせ

高井信さんによる紹介記事→ショートショートの……

  ――――    ――――    ――――

志村有弘編『捕物時代小説選集4釘抜藤吉捕物覚書 他六編読了。感想は後で。

 




Re: 「ハイカラ神戸幻視行」感想

 投稿者:柳生真加  投稿日:2009 714()233237

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> No.1931[元記事へ]

感想と解説をありがとうございます。
後半の文化論あたり、いらないかもというのがわたしの感想なんですが……。

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/tea/

 




「捕物時代小説選集5」と光瀬龍の観劇体験

 投稿者:管理人  投稿日:2009 713()221143

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岡本俊弥さんの『光瀬龍 SF作家の曳航』レビューhttp://bookreviewonline.blog.eonet.jp/default/2009/07/sf-2068.html

志村有弘編『捕物時代小説選集5幽霊陰陽師 他8編(春陽文庫00)読了。

『光瀬龍 SF作家の曳航』で、光瀬龍後期の、時代小説に顕著ですが宇宙小説にもその気配があった、様式性の卓越について、江戸文学の影響ではないか、みたいなことを書きましたが、実は江戸文学なんて全然知らないんですよね。まあ筆が滑ったわけですが、それではあまりに無責任だろうとずっと思っていて、今回、その出所探しとしてとりあえず古い時代小説を読んでみようと思った次第。

小島健三「妖肌秘帖」(大衆小説、昭和32年)
小島健三「隠密奉行」(大衆小説、昭和34年)
は、遠山の金さんもの。遊び人の金八が最後に金四郎になるのはドラマと同じ。ストーリーはあってなきも同然で、軽妙な会話主体にはずむように話が進んでいきます。この著者の作風が「ジャンル時代小説」の典型ではないか。読者は濃いストーリーを望んでいるわけではなく、構成要素として、武士、町人、奉行所、目明し、等々を含む「江戸」という共通舞台、「共通形式」を楽しむわけです。丁度怪獣映画やドラマが、ストーリー等の形式は同じでただ怪獣の「外見」が異なるだけの物語を蜿蜒と楽しめるように。

水谷準「鼻欠き供養」(文藝、昭和31年)
矢桐重八「幽霊陰陽師」(裏窓、昭和34年)
は時代小説にミステリ要素を付加したもの。ミステリとして大したものではないこともあるが、ミステリ要素は時代小説の「速度」を停滞させてしまいますね。時代小説ジャンル読者にとっては、ミステリ要素は案外いらんお節介なのかも、と思いました。

木屋進「巷説闇風魔」(別冊讀切雑誌、昭和43年)
将軍家斉のあまたいる子の一人である新八郎は願い出て三千石の捨扶持と手ごろな屋敷を貰い受けて一介の浪人となっている。将軍家に厄介ごとがあると、老中水野越前守忠邦がその葵新八郎に隠密めいた仕事を依頼する、という連作なんだろうと思います。どこにも書かれていませんが(^^;
という、いわゆる明朗剣士時代劇パターン(今私が命名した(^^;)の一篇。

鈴木泉三郎「石川五右衛門」(『生きてゐる小平次』所収、大正15年)
は日本初の「ねじの回転」型モダンホラー(幽霊の出ないホラー)「生きている小平次」の作者の戯曲。

土師清二「麝香下駄」(オール読切、昭和29年)
はミステリー時代劇ながら、ホームズ型の同心を配してそこそこ読める。

青木憲一「悔心白浪月夜」(讀切傑作集、昭和32年)
これはまさに「字で書いた芝居」と呼ぶのがふさわしい。盗賊団の美しい女首領。その大姉御の弱みを握ってゆすろうとする悪徳御家人。心中しそこなって御家人に助けられ、嫌々その手足となっている美女。心中の片割れの男も死にきれず、今は大姉御の情夫となっている。お互い生きていることを知らなかったのが、今回のゆすりで互いの生存を知った二人は……
見得あり、啖呵ありの極彩色の絵巻物。

朱雀弦一郎「つぶて新月」(讀物キング、昭和25年)
日本駄右衛門の白浪五人男が新任盗賊奉行中山勘解由の徹底取締りに都落ちをはかるも、一人討たれ、二人討たれして、最後は南郷力丸と弁天小僧菊之介だけに……

ということで、光瀬が影響を受けたとしたら、やはり「悔心白浪月夜」や「つぶて新月」このあたりではないかと思われます。ということは、つまり時代小説というよりは時代劇、歌舞伎ということになるのかも。
そういえば、若き日の光瀬は劇団を作っては潰していた、と『光瀬龍 SF作家の曳航』にありました。ただどんな傾向の劇団だったのかは書かれてなかった(今読み返したら時代小説は沢山読んでいたようですね)。
そういうことも含めて、光瀬の観劇体験を知りたくなりました。

 




「ハイカラ神戸幻視行」感想

 投稿者:管理人  投稿日:2009 712()133730

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西秋生『ハイカラ神戸幻視行コスモポリタンと美少女の都へ(神戸新聞出版センター09)

前回書いたように、本書のいう「ハイカラ神戸」とは、著者が「幻視」した神戸なのであって、言い換えれば「見ようと思ったものを見た」(見たくないものは見なかった)神戸であるというべきです。それを著者は「ハイカラ神戸」と命名します。モダン神戸という概念は従来からありましたが(google検索74万1000件。対するハイカラ神戸は5万1800件。しかも上位は全て本書関連)、後述するようにハイカラ神戸という「概念構成」は著者の(ほとんど独創的な)発明といってよいと思います。

それは、時間的には大正11年(1918)から昭和16年(1941)まで。空間的には北のトアホテルをランドマークとする「雑居地」と、南のオリエンタルホテルをランドマークとする「元居留地」を結ぶ「トアロード」――この点と線の両側に、東西がせいぜい三ノ宮から元町にかけての「神戸」を差すもので、その時空間に、或る「夢のような」独特の文化が花開いていたと著者は夢想します。
ここにタルホの戦略がある(31p)。じゃなかった。ここに著者の戦略があります(^^;
それが「ハイカラ神戸」という文化であり、それは文学においてはタルホや竹中郁や横溝正史ら戦前の探偵小説を生んだとします。そして、その「えな」となったのが、「細雪」に活写された阪神間の有閑階級の人びとだった……。つまり「ハイカラ神戸」という文化はけっして「地の」文化ではなかったのでした。

すなわちそれを現出せしめたのは,あくまで神戸市民ではなく(横正のようにブルジョワでない神戸市民で影響を受けた場合ももちろんあるでしょうが)、芦屋・夙川・六麓荘の阪神間に住んだ人々だったのであり(念のため付け加えると、阪神といっても、阪神タイガースではなく阪急ブレーブスを支持した人々で、結局1910年代以降小林一三が作り上げた阪急文化圏と同義。その意味で本書が阪急についての言及がないのは些か意外です)、しかもその彼らは、実は船場から逃れてきた人々であった。すなわち阪神文化(≒阪急文化)とはそもそも船場文化であったことは本書に述べられているとおり。

その船場→阪神文化が、旧居留地・雑居地の外来文物を吸収して成立したのが「ハイカラ神戸」なのであります。

それに対して、現実の神戸は、湊川新地で遊ぶ鉄工所で働く労働者であり、現長田区の皮革業であり屠殺場でしょう。今日ヒロシマと並ぶヤクザの町であるのは、実際のところ、夢のハイカラ神戸と同じ成立契機に拠るのは間違いありません。

このような、きわめて脆弱な(外国と船場という二種の非地場的なという意味で)外来的な基盤の上に成立したハイブリッド文化である「ハイカラ神戸」でありますが、それは言い換えればヌエ的文化であったといってもよい。それを《こちら側》から見れば、よくいえば高級舶来文化を自家薬籠中のものとする人々ということになるでしょう。著者はそれを象徴的に
「美少女の都」といっています。

けれども同じ日本人なのですから、形態的に美人が神戸に揃っていたということはありえず、結局は着こなしなどのセンスが、他所よりも洗練されていたということに他ならない。
それを小出楢重は、
《殊に神戸は西洋人と支那人とインド人とフランス人の水兵等、あらゆる人種が混雑せるがために、神戸を中心とする女の洋服は多少本格的だが、多少植民地臭くはある》(158p)と表現している。

小出の言には、そのセンスのよさハイカラさに、ある意味「外人かぶれ」的なものを感じていることが窺えるように感じられます。ハイカラ神戸をこよなく愛した小出ですらそうなのですから(尤も基礎にある大阪人が言わせたのかも)、当の文化人以外の日本人からは「ガイジンかぶれの人たち」とみなされていたであろうことは想像に難くありません。

一方、《あちら側》から見ればどうだったのか。神戸在住の異人さんの目には、正直なところ「手足の短いイエローモンキーのサル真似、笑止デアリマース」という感覚も、一面としてあったのではないでしょうか。

平井呈一の言葉として、
《神戸へ移ったラフカディオ・ハーンは、徹頭徹尾、神戸に失望しました。/その醜悪陋劣な欧州文明の模倣を目賭して、おどろきかつあきれ、目をおおいたいほどの不快を感じた》(145p)とあるのは、「ハイカラ神戸」成立の20年以上前の話で、それに対して著者が「(その後)第1次大戦を契機に経済成長を達成した日本人は、外国人に対して卑屈に接することなく、その美点をハイカラ文化として享受することができるようになったのである」(146p)というのはそのとおりであるにしても、逆にその対等意識が、ハイカラ神戸に対して上の小出の言葉のような屈折したものを感じさせたというのは十分に想像されると思います。

しかし――著者はそのようなものは見ない。わかってはいるけど(というのは上に引用した文以外にも現実の神戸とは異なるものであることはたびたび言及されているからです。
《神戸に於て遊離されたるもの――神戸の幻想》(31p、45p)とは至言)あえて見ない。

むしろ、
「湊川新開地の賑わいは逆向きの光線として<ハイカラ神戸>にさらなる輝きを与えたのである」(198p)と捉えるのです。

著者が見ているのは、著者に見られていることによって、あるいはハイカラ神戸という「言葉」を与えられることによって、はじめて成立し現実化した一連の文化的集合であり、新しい切り口の断面といえます。文学的には、谷崎とタルホと戦前探偵小説を、ハイカラ神戸というひとつの視野のもとに納めた視点は、十分に有効だと思われます。

終章の文化論は、しかしその<戦略性>ゆえに難解で、私のソザツな頭では理解できませんでした。とはいえ本書が優れた文化論を提出していることは間違いなく、神戸っ子であるなしにかかわらず、ぜひその切り口の斬新さを味わっていただきたいと切望します。

 




Re: 「ハイカラ神戸幻視行」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 711()231816

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> No.1929[元記事へ]

雫石さん

>近日中に、私のブログにて、ブックレビューをアップします
読ませていただきました(^^)→http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/9d71457e9f39b5c046868a8ac370ec8a

というわけで、私も
西秋生『ハイカラ神戸幻視行コスモポリタンと美少女の都へ(神戸新聞出版センター09)読了しました。感想は後で。

それにしても2日連続の延長12回はどっちもぐったりする展開で疲れました(ーー;。完全に10年前の戦い方に戻りましたね。これでにわかファンが減って、当日券で入場できるようになればいいですねえ。早くならないかな(^^)

実は阪神なんば線の開通で、甲子園がかなり近くなっていることに今さら気づきました。
うちからは、車だと45分かからないくらいなんですが、従来の梅田経由なら1時間半かかってしまうのですよね、駐車場が廃止されてからはとても行きにくくなっていたのでした。ところがなんば線を利用すれば1時間ちょっとで行けそうな感じ。これは便利です。早く最下位にならんかね。

それはそうと、能見は琴欧洲に似てると思いました。負け方がそっくり。
似ているといえば、巨人の松本は、フォームが(もうちょっと右ひじを上げたら)大洋の近藤和そっくりですね。懐かしい。巨人は良い選手がいっぱいいますね。

 




Re: 「ハイカラ神戸幻視行」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009 711()091616

返信・引用

 

 

> No.1928[元記事へ]

私は、もう読了しました。
近日中に、私のブログにて、ブックレビューをアップします。
私は、谷崎の「細雪」を読みたくなりました。
私は、神戸人で、自宅も勤務先も神戸です。だから非常に興味深く詠みました。
トアロード、旧居留地、南京町などは、よくぶらぶら歩きをします。
岡本の谷崎宅跡は、岡本梅林のとなりで、毎年2月に梅見に行く時に目にします。今は、ちょっとさみしい状態です。
北野は柳生さんのお誘いで行く講談の会が北野であります。8月にまた行きます。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




「ハイカラ神戸幻視行」

 投稿者:管理人  投稿日:2009 710()230712

返信・引用

 

 

西秋生『ハイカラ神戸幻視行』に着手。半分くらい。

神戸新聞連載ということで、軽い文学案内、エッセイの類かと想像していたら、どうしてどうして、これは本格的な文化論であり文学論ではありませんか。あわてて坐りなおしました(^^;
ただしそれは冷たい学術的・客観的なそれではなく、西秋生が、自らの嗜好の眼鏡を通して見た、いわば<幻視人>の目が捉えたモダン神戸というべきもので、タイトルはそのような意味でしょうか。

「東京の都市小説の主人公には高等遊民が多く登場するのに対して、タルホの神戸の街を闊歩するのは幻視遊民がよく似合う」(35p)

いやー、タルホを読み返したくなってきちゃいました(^^)

 




「超弦領域」(完)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 9()225051

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伊藤計劃「From the Nothing, With Love」

皆さんは、ジェームズ・ボンド氏の姿かたちが、何年かおきに、まるで別人のように変化することにお気づきだったでしょうか。
私はかねがね不思議に、かつ不気味に思っていたのですが、本篇を読んで氷解しました。そういうことだったのか〜(^^;

本篇にはその固有名詞こそ出てきませんが、007号ジェームズ・ボンドの物語に間違いありません。タイトル(From Russia With Loveのもじり)と、「#7計画」(479p)というプロジェクト名が端的にそれを表しています。

さて、「#7計画」とは何か。ドイツ降伏時、連合国が争ってナチスの汚らわしくも優れた科学技術を火事場泥棒よろしく略奪していったことは周知の事実。ソ連はロケット技術を、アメリカはフォン・ブラウンを、そしてイギリスは……人間の脳に別人の「脳の内容」を「上書き」する技術を、掠め取ったのです! それが#7計画。但しその技術が実地に試されたことはなかった。

一方、MI6に飛びぬけて優秀なスパイがいた。その男が殉職したとき、イギリス情報部は大変な、いわば国家的損失と感じた。このとき#7計画は現実と接点を持ったのでした。

男の天才的なスパイとしての能力が、別の(ただし身体能力は同等な)男に上書きされ、SISは貴重な戦力を失わずに活用することができた(原理上永遠に!)。ちなみに本篇では5代目ということになっています(ラストで現在の6代目と交替)。

ところが、上書き技術に欠陥が見つかる。それは度重なるコピーによって「意識」(私)が劣化していく事態だった。しかしそれは、事実上何の問題もなかったのです。

一般的に、人間の行動はほとんど「意識」を介在させずとも「自動的」に行なわれています。いわゆる体が覚えているわけです。本当に「意識」が身体をコントロールしなければならない事態など実は殆どないのですよね。

たとえば車の運転――目をしっかり見開いて注意を全方向に向けてなければならない行動のようですが、実際には半無意識状態で運転していませんか? 少なくとも私はそうです。気がついたら目的地に着くところだった、というのは私の場合しょっちゅうです(あれ、何でそんな慌てて降りようとするの?)。

ボンドの場合、優秀なスパイ5人分の経験をもっていることになりますから、その活動はほぼ意識を介在させる必要がないほど習熟してしまっており、実際のところ意識(私)は必要なくなっていたのです。それでコピーのたびに不必要な「自己」は薄れていっていたのです。
それに気づいたオリジナル・ボンドの(われ思う故にわれありの)「意識」は……

うーむ。面白い(^^)

実はこの話、堀作品の逆なんですよね。堀作品では、ロボットが経験を積み重ねることで「意識」が芽生えるというものだった。本篇では経験の習熟が逆に「意識」を退化させるのです。

どっちが正しいというものではないと思います。私はどっちも納得できます。

でも現実を見回すと、大半の人間は「私」を駆動させていません。それで十分日常生活している。むしろ「私」を動かす方が軋轢が生じる場合が多い。眉村さんはこれをコンフォーミズムとして批判しましたが、現実には人間というよりロボットな人のほうが圧倒的というか一般的だと思います。
実はボンドほど経験を先鋭化させずとも、そもそも人間には「意識」は不要なのではないでしょうか。不要なものは退化します。オリジナル・ボンドはそれに抗しようとしましたが、一般の人々はそんな意識もなく、いつの間にか「私」を失っていくのではないでしょうか。
つまり本篇は、個別ボンドの物語ではなく、一般的な人間そのものの物語だったのです!
私は初代ボンド(の意識)に与しますが、一般の人々は家畜化されたほうが「幸福」と思っているのかもしれません(ーー;

さすがにラストバッターにふさわしい、考えさせられる力作で、堪能しました。

  And did those feet in ancient time

以上、
大森望・日下三蔵編『超弦領域年刊日本SF傑作選(創元文庫09)全巻の読み終わりと致します。

 




訃報

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 9()202448

返信・引用

 

 

クライン・ユーベルシュタインさんが亡くなられたそうですhttp://8227.teacup.com/ysknsp/bbs/7283

ちょっとトンデモも入ったハードSFという独特の立ち位置から、一風変わった面白い作品を発表されました。
だんだんうまくなっていて、最後の長篇『白い影』(79)が代表作と私は認識しています。
ただ発展途上でのリタイアという感じで、書き続けておられたら、もっともっと面白い作品をお書きになったのではないかなと思います。
たぶん発表場所がなかったのではないでしょうか。ああ悔しい。

ご冥福をお祈りいたします。

 




「超弦領域」(幕間)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 9()085335

返信・引用

 

 

快音を残して、打球は高く、遠く、どんどん伸びていき、やがて降下にうつる。その放物軌道の先に――外野のポールがぐんぐんと迫ってくる……

ポールを巻くのか、それるのか、固唾を呑む観衆。と、打球が一瞬停止し、次の瞬間、消える。驚き騒ぐ観衆。観客席を隈なく調べるも打球は発見できない。
あまりの変事にオロモルフ博士の出動が要請され、ドラの試合を茶の間観戦中のオロモルフ博士が拉致同然に連れてこられる。博士の慧眼忽ちにして原因を看破する。

「ムーンシャイン」入魂の一打により、まさにその魂が打球にのり移ってしまったのだという。すなわち打球に自我が宿ったのだ。その自我が、ふと「自分はいったいどこに落下するんだろうか」と考えてしまったのだという。それがそもそも間違いだったのだ。しかも「ムーンシャイン」から乗り移ったものだけに、考え方が数学的なのもよくなかった。

オロモルフ博士いわく、打球は次のように考えてしまったに違いないと推理する。
打球が落下するとは、数式的に表現すればボールの重心点gが、球場のある一点xに衝突するということである。ところが球場は無数の点からできており、その中の一点xに衝突する確率は実に無限大分の一であり、事実上ゼロといえる。それは別の点yにおいても、さらに別の点zにおいても同じである。つまり意識を持った打球が、自己の落下先を予想しようとしたために、逆にどこにも落下することができなくなってしまったわけだ。これは矛盾である。<自然>はこの「あってはならない」矛盾を回避するため、ボールをどこか別次元に瞬間移動することで、「なかったこと」にしてしまったということらしい。

大変なことになってしまいうろたえる関係者。解決策としてさっきの打球を「暫定球」として棚上げし、再度打ち直すという案が出るも、それはゲーム違いであるという反論が出たりでなかなか衆議一決しない。
皆がそれぞれ、あれこれ勝手な言い分をわあわあゆうておりますと、突如ピッチャーマウンドにあやしい人影。
「あっ、喜多北杜夫だ!」

そう、あの決戦日本シリーズ事件以来、杳として行方知れずだった喜多北杜夫が、トレードマークの毛糸の正ちゃん帽をかぶって立っているではないか。
その瞬間世界が凍りつく。時間の停止。その無音の中、喜多氏が何か呟いている。どうやらケシカラヌ、ケシカラヌと叫んでいるようだ。

「野球にゴルフを導入するなぞケシカラヌですぞ。ここはわがヨガ式必勝法で決戦日本シリーズの奇跡再現ですぞ。神もヒョータンツギもいざご照覧!!」
やおら奇怪なポーズをとる喜多氏。天に稲妻が走る。
喜多氏の姿が消えた。と同時にウェイティングサークルに別の人影が……。
なんと先日、鬼籍に入ったはずの某氏ではないか。

そのとき時間の停止が破れる。再び球場に喚声が満ち溢れる。さっきまでのことが何もなかったかのように(どうやら記憶が消された模様)。某氏の存在を怪しむものは誰もいない。「9番バッター某」とのコールに、某氏はびゅんびゅんバットを振り回しながら、おもむろに打席に入る……

参考文献:石原藤夫「助かった三人」

かんべむさし「決戦・日本シリーズ」

北杜夫「ヨガ式・阪神を優勝させる法」

 




「光瀬龍 SF作家の曳航」メモ(終)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 8()21080

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「ショートショートの……」『光瀬龍 SF作家の曳航』が取り上げられています(^^)。


第四章「時空の旅――人はそれを東洋的無常と呼ぶ」
……の、残りを読む。

「残照1977年」の大橋解題より。
「よく年代記を書いてくれ、(といわれるんだけれど)もう、そういうのを書いていたころの自分から随分遠ざかってしまったような気がするんですよ/ほんとに生々しい気持ちで書いてたのはもう数年、もっと前じゃないかな/そういうのがもはや私のものではなくなってしまったんだな」
1981年の言葉。自覚があったんだな。私の感覚では『カナン5100年』までで、『異境』(71)ではすでにHe is not he was だった。『異境』は過渡期的作品集で、その後主流となる江戸期文学的(実はよく知らないのでイメージですけど)な<様式的>な作品が姿をあらわしている。このスタイルは今日泊亜蘭と共通すると思う。
先に挙げた「ショートショートの……」によれば、光瀬さんと今日泊さんはウマが合ったみたいですね。何となく納得するのですが、そうだとしたら光瀬のスタイルの変化は今日泊の影響もあるのではないか。この辺の事情とかもうちょっと知りたい。

「ある日の阿修羅王」「説法」「廃虚の旅人」
阿修羅王もの。ヒロイックファンタジーとも創作神話ともつかぬ独特のタッチがよい。ただしほとんどエスキース。

「決闘・毒蜘蛛亭――少女イル外伝」
これはヒロイックファンタジーかと思いきや、やはり主人公は少女で、タカラヅカになってしまう。これまたあしゅらおうもののヴァリエーション。
ところで私は、「百億の昼……」はもう何十年も読み返してないけど、あしゅらおうをそのようなイメージで読んではいなかったな。

光瀬のヒロイックファンタジーを読みたかったな。

第五章「今、再び――虚無を呑み込む暁の砦」

「わが家のフクロウ――龍おじさんのへそ曲がり動物記」
SFMに連載された「ロン先生の虫眼鏡」にもフクロウの話が載っていて、私も飼いたいなと思ったものだ。そういえばフクロウくらいの大きさのギャオスならもっといいなと思った記憶が(^^;
調べたら連載開始が176号(73年9月号)だったらしい。18歳か……18歳にしては幼い発想ですな(汗)


「光瀬龍は、なぜ光瀬龍なのか」大橋博之
ペンネームの由来を今までずっと「ミステリー」だと思っていた。でもSFなのになぜミステリーなのかという疑問はかすかにあった。作風がミステリタッチ(ハードボイルドタッチ)ではあるので、ミステリにも造詣があるのかなと思った記憶がある。
字面は実にSF的だった。若い頃は「光瀬」という活字を見るだけで茫々たる宇宙空間が感じられたものだ。こんな由来があるとは思ってもみなかったな。

まとめの感想文は後日。
読み終わったので、いよいよ『ハイカラ神戸幻視行』に着手の予定。

 




「超弦領域」(8)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 7()220836

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一塁に走者をおいて、9番打者に打順が回ります。

円城塔「ムーンシャイン」

いやーこれは超面白かった(^^)
著者の作品はこれが2篇目なので、あたっているかどうかなんですが、本篇は著者のなかではおそらくもっともわかりやすい作品ではないだろうか。
ぜーんぶ著者によって説明され尽くしているから。その意味で表面ウルフみたいで、実はウルフとは正反対ですな。
いやもちろん数学のことは判りませんよ(汗)。私に分かるはずがないではないですかっ! でもこの小説は、数学的な知識や理解をブラックボックスにしたままでオッケーな話なんですよね。

分散して提示されるとはいえ、通時的ストーリー自体は次のとおり。
ある少女がいて、彼女は通常の社会的応答ができない。ひきこもりとかそんなもんじゃなく、
「人語を解さず、挙動は不明で、何の秩序に従うのか常人の理解を遙かに超えた、細胞の巨大な集積物」(449p)。この社会とは完全に切れています。

その少女に、「僕」の指導教官(ボス)である数学教授が、彼女は一種のサヴァンではないかと関心を示します。で、
「この超絶的なガジェットに、ボスは確かな秩序を見出す。手に負えない代物だと慄然とする」(同上)のです。

それがとんでもないところに洩れ伝わり、どこかの情報機関が関心を持ってしまう。そんな少女(サヴァン)なら暗号解読機として利用できないか、と略取を試みる(実際のところ、少女にはその能力がある)。
1週間ほど追いかけっこがあって(その間も研究はつづく)、ついにエージェントが僕たちのアジトを発見、飛び込んでくる。

そのとき辛くも、ボスが少女の心を召喚する呪文(「魔法陣」422p)を見つけ、少女にかざす。
「紙に記された、謎の図形。対モンスター用に調整され、多段の認知機構を励起して、少女のどこかに埋まる計算機部分を呼び出す召還呪文」(451p)を。

と、少女はめざめ、エージェントに向かって挨拶する。
が、その挨拶したものは実は少女そのものではなく、数「17」なのだった。

実は少女は、最大の有限散在型単純群、モンスター群の中におり、それを風景として認識していると同時に数を人としても認識しており(既存例が430p〜436p)、特に「17」と「19」と仲がよい。17と19は双子である。それは多分
「モンスター群の表現とモジュラス関数のフーリエ展開の係数の間の奇妙な類似」(435p)による(筈)。

しかし、呪文は完璧なものではなかったため直接本人には届かず、
「少女を構成する一部分だけに」届き、17が呼び出された次第。「何故17なのかという問いの答えは」→448p。

こうしてあらわれた17は、事実上チューリングマシンであり、エージェントに対して「中国人の部屋」のようにふるまう。同時にチューリングマシンは、つきつめればコンピュータそのものなので、暗合解読に関してはそこらへんのコンピュータと異ならないことをエージェントに印象付ける。情報機関としては単なる「電子計算機・彼女」ならば通常のコンピュータの方がずっと扱いやすい道理。というわけで失望して少女を解放する。

こうして少女(実はインターフェイス17)は晴れて自由の身となり、研究室に挨拶に来る。

というのがオモテのストーリーです。いや全くもって解消されずに謎のまま残っているものは何もありません。京極堂ではありませんが、不思議なことなど何もないのです。たぶんパズラー小説の好きな読者は堪えられないんではないでしょうか(^^;

閑話休題。
少女自身は「多重共感覚者」(共感覚的変換が永遠に続くので現実にいつまでも浮き上がれない)で、それを説明する437ページから443ページにかけては圧巻です。

しかし最終的に少女は現実に還帰する気はなく、反対側へと向かう。
80恒河沙……680億基の塔を一息に、別のものに置き換えようと考えている。その先に繋がり伸びる細い道。頂点作用素代数の、更に向こう。既知宇宙最大の複雑さの果ての向こう側。月光に照らされる橋を渡った、弦理論の深奥にかかるカーテンのあちら側。宇宙の始点」(456p)へと……

それをみた19がびっくりして叫びます。
「そっちに行くんだ」(453p)と。「人の側には行かないんだ」(同上)と。
――何故に?

「なぜかと真顔で問われても困る。多分、そういうこともあるのだろうと軽く考えて頂くのがよい。第一、書いた当人がそう思っている」(著者のことば)(汗)

この(ある意味)単純なストーリーを、こんな風に書いてしまう著者のセンスに脱帽するばかり。

有限散在型単純群、モンスター群の共感覚的変換都市・
「地球を構成する原子の数より多い塔を持つ街」(427p)のイメージも素晴らしいが、ラストもかっこいい。

「月光に照らされ乱反射して降り注ぐ不可視の破片の雨の中、私は橋を渡りはじめる」(459p)

うーん。痺れました(^^;

快音を残して、打球は高く、遠く、どんどん伸びていき、やがて降下にうつる。その放物軌道の先に――外野のポールがぐんぐんと迫ってくる……

 




「光瀬龍 SF作家の曳航」メモ(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 6()21528

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第三章「作家への道――流浪の末に辿り着いた終着点」

「タイタン六世」
これは初めて読んだ。作品集に収録しなかった習作。後の作品に何度も出てくるモチーフが既にあらわれている。

「晴の海1979年」
これは何度も読み返している。『墓碑銘2007年』に収録。大橋解題に記述はあるが書き方が少しわかりにくいと思うので屋上屋を重ねる。

第四章「時空の旅――人はそれを東洋的無常観とよぶ」

……の、
「私の『東キャナル市』――異境」まで読む。

「暁はただ銀色」
ソノラマ文庫版の元版(「中三コース」連載版)。これも初読だが、一気読了。中三のくせに東北(岩手県前沢町)に一人で調査に出かけたりとか、少年探偵団的に荒唐無稽なんだが、それがまた楽しい。しかし当時は花形満がスポーツカーを乗り回していたくらいだから、こんなのは当たり前か。

気に入った題名は二度も三度も使いたくなる。自分の好きな題名は、『たそがれに還る』、『百億の昼と千億の夜』、『墓碑銘』、『暁に風はやむか』、『レイ子、クレオパトラね』など。(222p)
『レイ子、クレオパトラね』が好きだったとは(^^; 『カナン5100年』でこのタイトルを見つけたとき、「何やこのへんちくりんなタイトルは!」と呆れたものだったが。でも考えたら、このタイトルずっと覚えているのだ。たしかに印象は強烈ではあったかも。

ところが検索したら、菅浩江が
「光瀬龍の「シンシア遊水池」「レイ子、クレオパトラね」という題名の響き(内容は忘れ果てている)も好きだった」と書いているではないかhttp://www.page.sannet.ne.jp/toshi_o/NOVAQ/suga.htm
ふーん、響きがいいのか……

 




「超弦領域」(7)追記

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 6()165738

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きのうの訂正。

人類から進化したスターチャイルドが宇宙に飛立ち、残された人類は地球と共に滅んだのでした。
おそらく、エクスの前身が出発した後に新人類が誕生し地球は滅びた、という設定で、地球滅亡の事実をエクスは知らなかったということでしょう。だから
「地球人類との交信は数百年たつと途切れてしまった」という認識しかなかったのですね。
エクスはスターチャイルドになる資格を有していたが混血してしまったため資格を失った。しかしその悪しき半身を自己否定しえたことで、スターチャイルドはダメですが、オーバーロードの資格は得ることが出来た。
つまり著者は、元ネタの滅びさる旧人類、オーバーマインドに至る新人類に加えて、オーバーロードを継ぐエクスという3番目の人類のありようを提示したのではないでしょうか。

ということで、昨日の判定はくつがえり、一塁セーフ。

 




「超弦領域」(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 5()231042

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小川一水「青い星まで飛んでいけ」

小川一水によるクラークトリビュート作品。
作品自体としては、ハードSFらしい時間スケールの拡大感で一応センス・オブ・ワンダーはある。
ただ、オーバーロードが、自己の後継者にエクスを任じるのですが、これって「降格」では?
もっとも元ネタを読んだのが何十年も前なのでほとんど忘却しており、確信を持っていえないのですが。私が勝手に創作して記憶している可能性もあるので……
うーむ。元ネタ再読しなければ。

ということで、これはめずらしいライトゴロ。当否微妙で監督飛び出して抗議するも判定覆らず。監督提訴を言明(^^ゞ

 




「光瀬龍 SF作家の曳航」メモ(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 5()225026

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第二章「青年の頃――意欲と情熱だけを抱いて彷徨う」

……の、後半読了。
著者のエッセイは大概フィクションが埋め込まれているなあ。あるいは偽記憶か(^^;
それか超自然現象を招き寄せる体質なのかも。母方が阿倍氏で、祖母が蝦夷の大首長であったらしいから霊媒体質か。いやいや作家という種族は井上光晴を例に持ち出すまでもなく、先天性ウソツキなんでしょう(笑)。

「遠い海鳴り――ロン先生の虫眼鏡」
ほとんど小説だと思います。小説として秀作(^^;

「幸福な作家、団鬼六氏」
これもかなり作っていると思う。なぜならあまりにも面白すぎる(^^;
団鬼六について何も書かれてないじゃん、と思ったら、鬼六の人となりを語った後半がカットされていたのか(大橋解題による)。

「肖像」
草稿が発見された大学時代の習作。スタイルが戦前の探偵小説っぽい。

「二十年前、新宿で」
SFM70年11月号掲載の私小説の体裁の、幻想小説。
これが意外にもメリットを彷彿とさせる佳篇。ウィアードテールズに載っていそうな話でよかった(^^)

 




「超弦領域」(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 5()192639

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7番バッターは大ベテランの登場(^^; この打順は、ヤクルト宮本と同じ監督の意図ですね(^^ゞ

堀晃「笑う闇」

これは傑作。
実は初出で読んでいるのですが、読み返してあらためて傑作であると再認識しました。
まずは初読時の感想(当板08/07/12)を再録。

内容は、何とロボット芸人魂SF(^^;
ニュータイプの演芸を模索中の「メディア実験シアター」、まずは人間国宝大名人を7回忌(笑)*に、そっくりなヒューマノイドロボットで復活させ当てる。味をしめたシアターは、ゴローシロー**という実力派しゃべくり漫才コンビで相方のシローが亡くなって以来、高座に上がれなくなってしまっていたゴローに着目、シローそっくりなヒューマノイドロボットを作ってゴローと漫才させる企画をもくろむ。ロボット工学の粋を集めて完成されたシローに、もともと座付き作者兼演出家役であったゴローは稽古を繰り返す。それは一種の「魂入れ」だった……

いやこれはすごい! ロボットSFの新たな局面が開示されています。ロボットが相方と、瞬時に阿吽の呼吸で心を合わせ、三原則もなんのその、ついには「芸のためなら女房も泣かす」境地に達してしまいます。
出だしは眉村さん風になるのかと思っていたのですが、途中かんべさん的漫才分析的考察が加わり、結局最後はやはり堀ハードSFなのでした。人間を超える科学的技術的観念を突き詰めた先に、古い、というか生身の人間の感覚が再び見出されるというのが、堀さんの基本パターンのひとつだと思います。
ある意味「梅田地下オデッセイ」のエクストラヴァージョンといえるのですが、むしろ今後書かれるのかも知れない《梅田地下クロニクル》に組み込まれる作品なのではないでしょうか。私はそう予感しました(^^)


今回気づいたのは、この作品が、ロボットが自由意志(心)を持った瞬間が描かれていること。結局ロボットであろうが人間であろうが、身体活動、身体的経験値の蓄積が可能であれば、心はおのずと生じてくる。そういう著者の信念が表現されているのではないでしょうか。

「笑う闇」とは何なのかを想像するに、どうやらこの世界の人間はまだ気づいていないようですが、その人間の与り知らぬところ、コントロールの外で、すでにしていろんな場所で心がおのずと生じており、ひそかに人間の行動を観察している。そんな不気味さも感じたのでした。
この世界の「未来」がいったいどうなっていくのか、ロボットは敵になるのか人間の味方なのか、非常に気になってきました(笑)。
大阪を舞台にロボットと人間の未来を短編連作で点描するシリーズの開始を切望します!

ということで、先頭打者いきなりのHRで突き放す!

 




「光瀬龍 SF作家の曳航」メモ(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 5()165352

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第二章「青年の頃――意欲と情熱だけを抱いて彷徨う」

……を、
「見果てぬ夢を――ロン先生の青春記」まで読む。

周囲には、一面に紙の千切れたものが落ちていた。それは本の、千切れたページらしかった。/それはあとからあとから、雪のように降ってきた。まだ火のついているものもあった。/神田の古本屋街が灰になり、そこから飛んできたものだった。/本の燃えた灰は、翌日、一日中、降りつづけた。(67p)

私たちは、けっして、明日以降にわたるような約束はしなかった。(68p)

1)光瀬のよくいわれる特徴であるところの、悠久の時空間に比して人間の生命がいかに卑小なな存在かという無常思想を、私はアプリオリに受け入れてきていたのだが、それが光瀬に宿った契機については全く考えたこともなかった。
2)ただ彼と同じ年代の作家には多かれ少なかれ見られることは分かっていて、世代的特徴であることは何となく感じていた。
1)も、2)も、つまりは幼少時の戦争体験という共通項から発しているのだった。

 




「超弦領域」(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 5()114412

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以下、しばらく非小説が続きます。

岸本佐知子「分数アパート」は日記。この日記の記述から推測するに、どうやら著者は、(日本のどこかではあるにせよ)<この世界>とは少し位相がずれた世界に住んでいるようですね(^^; そのちょっとずれた日常が、かるいセンス・オブ・ワンダーをもたらします。

石川美南「眠り課」は短歌。眠り課という妄想設定が効いていて、そこそこ面白いのだが、眠り課の全体像がくっきり浮き上がってくるものではないのがもどかしい(SF読者としてはそういう展開というか構成を期待するわけです)。

最相葉月「幻の絵の先生」はそもそも創作ではなく、星新一取材から転がり出てきた新事実(?)。真相に至る過程がスリリングで、ノンフィクションとしてすぐれた作品だと思います。しかし当然ながらSFではなく、ここに収録するのは場違い。
なお
「著者だからこそ幻視できた」「あの部分を書くのは著者の権利」との日下さんの言葉にはまったく同感。

Boichi「全てはマグロのためだった」はマンガ。マグロの絶滅からの妄想を極限まで押し広げていて、これまたSFではあると思いますが、SF「小説」ファンの観点からはアセンションが荒っぽすぎて途中から置いてけぼりを食った。

倉田英之「アキバ忍法帖」は前4者と違って純然たる小説であり、ヨコジュンを継承するハチャハチャSFであります。ところが先日『謎の宇宙人UFO』で書いたように、当方の事情として、ハチャハチャだから楽しめるという歳ではもはやなく、ヨコジュンハチャハチャですら、その最良の数篇しか感応し得なくなっている。しかも本篇のバックグラウンドを、これははっきりいって私は共有しておらず、実は山風もそんなに面白いと感じたことがない体たらくで、結局途中で読むのをあきらめました。

以上5篇は、そういう特殊個人的事情も加味して(倉田さんには全く申し訳ないですが)、ちょうどうまい具合に6回が終了したところでもありますので、この5篇は、勝手ながらラッキーセブンのアトラクション的位置づけとしたいと思います(汗)。

ただアトラクションにしても5篇は多すぎる。私ならば
「分数アパート」と「眠り課」。マンガが必須ならばそれも残す。その程度で収めてもよかったのではないかと思いました。少なくとも最相作品は、作品自体はとてもよいものだとは思いますが、この場にはふさわしくないものだと思いました。

――ということでラッキーセブンの行事も滞りなく終わり、7回に入るのであった(汗)。

 




「光瀬龍 SF作家の曳航」メモ(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 4()223331

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第1章「幼い頃――記憶の中に焼きついて消えないもの」

幽霊やお化けが窓からのぞきこむというのは、いわば見馴れた設定だった。だが『人造人間』には、幽霊や化け物には絶対ない未知の何かがあった。/それは『人造人間』がブリキ製だったからなのだ。(23p)

光瀬が怪奇作家でもホラー作家でもなくSF作家となった原体験。

この本の内容は、今日から見れば古典中の古典であろう。/そして時間は"永劫の過去から永遠の未来へかけて流れてやむことなき実在"としている。/空襲の合い間にひろい読みをする星の世界は、迫ってくる死の恐怖から私を解放してくれた。(28-29p)

光瀬哲学の萌芽。今日が明日に持続するとはとても信じられぬ空襲下で、正反対な「永遠」へのまなざしが生れる。

凍りつく寒気にたまらず、私は10メートルほど離れたところで、まだ赤々とほのおを上げている物体のかたわらに移動してほのおに手をかざした。なみだが出るほどあたたかかった。燃えている物体が何なのか私にはわかっていた。足が一本失われていたが、それは子供の死体だった。/空襲が終って5時間もたつというのに、まだ赤い小さなほのおを上げていたのだった。火が弱くなると私は死体を足でつついた。またぱっと燃え上がった。(30p)

「帝都上空に敵一機」
これは長篇のプロローグだな。むしろほとんど加工してないと思われる(大橋解題による)「哨兵」を読んでみたい。

 




「超弦領域」(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 4()175135

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3番打者会心の2塁打で、一塁走者長駆生還。打者走者2塁において、いよいよ4番登場――

ということで、
小林泰三「時空争奪」読了。
いやーこれは素晴らしい。最後は鳥肌が立ちました。
まさに理屈SFの王道を行くケッサク!(カタカナの方がふさわしい気がするので(^^;)

地質学的な川の形成の順序、「河川争奪」という現象からのアナロジーで、宇宙の形成が語られ「時空争奪」が示唆される。
それどころか、この宇宙が現実に「時空争奪」にさらされていることが判明します。
「鳥獣戯画」や「源氏物語絵巻」の変容から、どうやらこの時空の12世紀あたりの時間線の横っ腹に別宇宙の開闢点が接触し、侵入したらしい。
その結果、両時空が、束の間重なるのですが、最終的にこの宇宙は別宇宙に過去を収奪されてしまう。そのラストが実によい
(*)

でも考えてみると、この辺ちょっとおかしいっちゃおかしいんですよね。でも「見せかた」というのか「出し方」がSF読者の鋳型とぴったり嵌まるものなので、ほとんど気になりません。こうして感想を書いたりしない限り気がつかないのでは(笑)
まさにベテランの巧打であります。3塁打で2塁走者生還(^^;

 (*)
実は私も平行宇宙の交差という似たアイデアを書いたことがあるんですよね(^^ゞ

ひきつづき、
津原泰水「土の枕」
面白かったけど、これSFですか?(^^;
この作品に「魔術的な時間のコントロールによって(……)眩暈の感覚」を感じとった大森さんのセンスはさすが(^^;
時の偶然に翻弄される個人の姿はたしかにSFの「オデュッセウスもの」(と私が呼ぶところのもの)と同じ感興をもたらしますもんね。

ただ惜しむらくは、最後で主人公に自分の本名を叫ばしてほしくなかった。寅治として静かに生涯を終えてほしかったですな。小説の構成上そのようにしなければラストにならないのは分かるんですけど。

ということで、飛距離十分ながらフェンス直前外野飛(ここがSF球場だったのが不運。他のジャンル球場ならば文句なしHRかも(^^;)。走者タッチアップで生還。

2死で走者なくなり、6番打者登場。

藤野可織「胡蝶蘭」
女性らしい繊細な話。こういうセンチメントは、この歳になるともういいかなって思ってしまうんですよね。という個人的理由で、当りそこない内野ゴロ。チェンジ。

 




「超弦領域」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 3()231852

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走者を一塁においてクリーンナップに回ります(笑)。クリーンナップというからには当然強力な打者が並んでいるはず。『超弦領域』のクリーンナップは、樺山三英、小林泰三、津原泰水の3人。4番、5番はまさに貫禄のラインナップですが、3番打者は寡聞にして私は知りませんでした。経歴によれば、前の年に徳間新人賞を取った人なんですね。新人なのに3番を任されるとは、相当の実力者なんでしょうか。これは楽しみ。

――ということで、
樺山三英「One Pieces」を読みました。

いやー面白かった(^^)
といっても、前2篇のようなリニアな小説ではないですね。そうとうひねくれています(^^;
はっきりいって一筋縄なストーリーはありません。
むしろリニアに書けば連作短編が10本書けるエピソードがこの30ページに凝縮されている。「ヴァーミリオン・サンズ」はバラードにしてはリニアなストーリーなんですが、この連作9篇を、30ページに詰め込んだら、当然ストーリーは省かれざるを得ず、このような作品が出来上がるでしょう。そんな感じ。

メアリー・シェリーのかの怪物が現代に復活します。タイトルは
「寄せ集められた断片から作られた単一の個体としての人」といった意味か。
本篇は、(シェリー夫人のオリジナルも映画のそれも含む)「フランケンシュタイン」にインスパイアされて<妄想>された「物語」であるといえるのではないでしょうか。

こういう書き方は、しかし別段著者のオリジナルとはいえません。たとえば山尾悠子の「遠近法」がボルヘス「バベルの図書館」からの<妄想>であるように、荒巻義雄の「柔らかい時計」がダリのそれからの<妄想>であるように。つまり本篇は、まったく孤高の作品ではなく、そのような一種「二次創作的」幻想小説の系譜に属する作品であるといえるように思われます。

ただ上記二作と違うのは、最初の数ページでオリジナルが批評的に検討される点。このあたりは従来のSF系幻想小説と比べてユニークなところ。作中に批評的視点があからさまに導入されている点、本篇はよりポストモダンに傾斜しているのかも知れません。一種批評的創作といえるかも。

そして、かかる「フランケンシュタインの怪物論」のさなか、突如「怪物」へのインタビューが始まり、驚かされる。どうやらオリジナルではなく、現代にあらわれた、しかし同様にOne Piecesな、別の「怪物」であることが分かってきます。
「発見されたのは町外れの工場だった」(96p)に始まる発見のシーンが実に素晴らしい。散文詩ですね。あるいは表現主義映画のよう。

ここから現代の「怪物」のいる世界が<妄想>されます。それは当然オリジナルとは異なった物語で、この怪物は「社会」に受け入れられるんですよね。むしろ「被害者」として。で、現代のヴィクターが指弾され、民衆により私刑に処せられ、それにより怪物は社会的な影響力を獲得し、<フランケン化>という心的傾向を、主に若者に対して及ぼしたりする。注目すべきは、物語っている話者の視点が曖昧に位置を変える点で、あまつさえこの話者、「死後」のメアリを訪問してインタビューを敢行したりもするのです。
この話者は誰なのか。

話者はいう。
「その頃、よく同じ夢を見た」(109)。その夢では、どこか、火口のようなところから順番に飛び降りるのです。
ところが、このあとに、小説内の現実において、
「ある日、空からたくさん死体が降る。次から次へと、無数の死体が」(113p)に始まるシーンが描写されるのですが、おそらく降って来る死体は、火口から飛び込んだ人々のそれなんでしょう。つまりこの世界は、話者の「夢の世界」と繋がっているに違いない。かかる事態は、結局本篇が一種の内宇宙小説として構想されていることを示しているように思われます。

さて、ラストでは、怪物の体がもとの断片に戻っていくところが描写され、映像的に圧巻(映画にこんなシーンあったっけ)。
いずれにしろ曖昧で奇妙な小説世界が表現主義的な色調をおびてくっきりと自立していて、その世界を話者に案内されて垣間見るのは、充分に心地よい体験でした。

 




SFの原理

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 3()010314

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『超弦領域』は、試合が降雨中断中につきの実況はしばしお休みします(笑)
代わりにといってはなんですが、中断のあき時間を使って、昨日の補足をしておきましょう(^^;

というのはコジツケですが(^^ゞ
高井さんのブログ「ショートショートの……」で、ショートショートとジョークの相違についての思索がめぐらされていて、実に面白い。

私自身あんまり容器としての「本」そのものに興味はなく、容器の中身であるところの、ショートショートやSFや小説の、「構造」とか「機能」とかそういった方面に関心が向かうタイプなので、こういうエントリはいいですね。この3日ほどはとても勉強させてもらっています。

昨日の「実況」では、「理屈」がSFの必要不可欠な契機(Moment)であることを、くどいほど強調したのでした。たまたま上記高井さんの昨日のエントリ「ジョークと小咄」によい例があったので、紹介します。

それは小松左京の「ノミ」のジョークで、この咄の面白さは、まさにSFのそれなのですね。
いうまでもなくジョークとショートショートの違いを解説する素養は私にはありません。しかし、いずれであるにしろないにしろ、少なくともこの咄が「SF」であるのは間違いありません。

とりあえず読んでいただきたいのですが、この咄の面白さは、ノミの足を一本ずつちぎっていき(その都度必ず跳べと命ずる)、最後にぜんぶちぎってしまうとどうなるかという観察の記録(から読者が想定する<常識的>結論)と、実際に帰納された<非常識な>結論との落差の面白さであるわけです。

とはいえ、<非常識な>といっても観察結果を無視したとんでもないナンセンスが導入されているわけではない。その結論、すなわち「見出された因果関係」がどんなに<非常識>であっても、それが(記述された限りの)観察結果から、たしかに導出され得るものであるからこそ、面白いのです。まさに理屈をつきすすめた結果、屁理屈に至ったわけで、SFの面白さとは突き詰めればこれであるなあ、と得心した次第です。
まあとにかくリンク先をぜひご覧になってください(^^;

 




「超弦領域」より(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 1()222622

返信・引用

 

 

トップバッターはホームランでこそありませんでしたが、シャープなクリーンヒットを飛ばしました。そもそも一番バッターに求められるのはホームランではありませんから、これでオッケーなのです^^;
次の二番バッターがバントでもなんでも進塁させればいいのです。

で、二番バッター、
林巧「エイミーの敗北」

うーん。
しかしこれはSFではなかったですね。

<集合的無意識>が管理している遠未来の世界の話のようなんですが(そのわりには作中人物の心理が現代人ぽいんですけど)、まずこういう<集合的無意識>の在り方というか存在形態を、私は想像できないのですね。

本篇にも書かれているように、集合的無意識と個人は直接繋がっている(といよりも全個人の底に遍在している)ものであるはずなんです。主人公は機械(取り調べ用ディスプレイ)を介在して集合的無意識「エイミー」とコンタクトしているんですが、なぜそんな間接的な操作が必要なのか、理解できない。よしんばそういう設定にするんであれば、その理由を作者は説明しなければいけません(法月みたくハッタリでいいんです)。いわんや
「法に触れる」(68p)とか触れないとか、アレゴリーとしても不適切ではないでしょうか。

集合的無意識がエイミーという「個人名」を持つのもひっかかる。ある意味「一にして全」なる存在なんですから。でも「クー(KU)」だったらそんなに気にならなかったかも(^^;。由来が明らかだからです。エイミーだから引っかかる。そのエイミーってどっから出てきたん?と訊きたくなります。
かくのごとく一事が万事、SFに必須の因果的押さえが省かれているのがつらいところ。

次に、このエイミーが管理する世界っていったい何なのか? これもよく分かりません。ゲートで守られた街区と記述されていますけど、集合無意識って人類普遍なので、それでは狭すぎる。ゲートで区別されるということは世界の一部でしかないということですから。先に断わっておきますが、このゲートは、異世界間の通路といった類のものではなく、たんなる同一世界内の、区域を分けるゲートなんです。

実際のところ、そういう描写をしながらも、著者は一方で別の集合無意識が管理する世界として鳥居のある世界を描写しているのですが、ここだけみれば、一種の並行世界を想定しているのは明らかです。
これは矛盾しているというべきでしょう。どうも著者のなかで、設定の整理があんまりなされていないのでしょうね。全てにおいてシニフィエが確定してない。まさに浮遊するシニフィアンです。集合的無意識という語を使うならば、少なくともその意味するものはきっちり押さえておかなければなりません(その後でひっくり返すのはオッケー)。SFならば。

ところでいま、並行世界が異なれば集合無意識も異なるのか、という問題を思いつきました。並行世界が変わっても(そもそも分岐世界ですから)集合無意識は共通であると考えるべきかも、と思いついたんですが、各並行世界ごとに集合無意識があると考えるのは、SF的にはオッケーだと思います。

閑話休題。
因果関係といえば、ミディアムは媒介者なんでしょうけど、なんのために各世界間の媒介をはかるのか、その理由も全然判りません。ラストのシーンは、私には主人公が食われるか何かして「消滅」するような印象なんですが、それでは媒介させるという意味が通りません。
本篇で著者はいったい何を語りたかったんでしょうか。折角大きく膨らみそうな話が、理屈への志向(嗜好)の不足でいびつに縮こまってしまった印象です。

ということで、送りバントは失敗(^^;

 




「超弦領域」より(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 1()173317

返信・引用

 

 

トップバッターは法月綸太郎「ノックス・マシン」

これは愉快(^^) 2050年代、小説はコンピュータによって書かれるようになっています。パズラー探偵小説ファンで数理文学解析の研究者である主人公は「ノックスの十戒」を10次元マトリクス化したノックス場にゲーム理論のアルゴリズムを埋め込み、それにコンピュータの小説生成プログラムを走らせることで、過去の黄金時代の探偵小説の発展曲線に近似な解が求められるのではないかと予想するのですが、結果はそうならない。
第5項の例の「中国人」ルールが(あまりに無意味すぎて)解を乱しているようだと目星をつけた主人公、5項を外してみたところ、さらに解は無意味度をますばかり。
そこで思いつきに第5項に虚数を掛け、すなわち「No Chinaman」としてノックス場を複素数次元に拡張すると、ばっちし予想された解があらわれた。
どうやら第5項はメタ規則として全体を統御しているらしい。
しかもパズラー隆盛60年周期説(1920-30英米、1990日本、2050中印)を数学的に根拠付けるソリトン波まで発見してしまう(^^;
主人公は、虚の中国人の視線(観測)がノックス場を確定することから、これをNo Chinaman変換と名づけ、波動関数のコペンハーゲン解釈における<収束>の契機すなわち「観測者」に比定します。

ところで2050年代までに、タイムマシン理論が完成しており、実際有人タイムトラベル実験が行なわれているのですが、過去や未来に行ったものは誰も帰ってこない。つまりタイムトラベルの結果(未来に行ったものはそこから現在に帰る行為により)、並行世界が発生してしまうためこの現在に繋がる時間線から外れてしまうのです。この事実はコペンハーゲン解釈より多世界解釈が正しいことを示唆しています。

ところが多世界分岐が発生しない時間線の<特異点>が発見される。コペンハーゲン派の喜ぶまいことか。しかもさらなる観測の結果、その特異点(日)が1929年2月28日であることが判明します。あまりの意外な展開に科学者たちは動揺します。なんとなればこの日は、実にノックスが十戒を書き上げた当のその日だったのです……

いやー実にわくわくする設定ではありませんか(^^)
著者はたぶんイーガン「ディアスポラ」にインスパイアされていて、次の文は、イーガンの世界観へのレスポンスになっているように思います。

「(多世界解釈の)無限に分岐を続ける並行世界という宇宙観は、個人のアイデンティティや自由な意思決定という信念を土台から脅かすために、ある種の諦念とアパシーに結びつきやすい」(48p)(これは「ディアスポラ」読み中に私も思いました)

このようにセンスオブワンダーにみちた作品なんですが、ところが最後でそれが爆発しない。むしろコペンハーゲン解釈のように<収束>してしまう。というのは他でもなく、ノックス場と並行宇宙論の関係が、結局アナロジーでしかないからなんですよね。それが何の根拠もなく強引に関係付けられてしまっているのです。
と書けば明らかなように、本篇は、終わってみればなんとハッタリと紙一重の山田正紀的文系SFだったのでした(笑)。
さすがノンプロパーでありながらトップバッターに抜擢されただけのことはある超絶トンデモSFで面白かった(^^)

 




Re: 『超弦領域』

 投稿者:管理人  投稿日:2009 7 1()010921

返信・引用  編集済

 

 

> No.1907[元記事へ]

大橋さん
最近、「光瀬龍の曳航」等で検索して当板にたどり着く人がやたら多いです。かなり期待されているようですよ。

> 宣伝してくれているのなら、私も買わなきゃいけないということですか?
買っておくと、来年の巻では概況どころか、星雲賞のデータの方にも記載されているかも。あ、星雲賞は間に合わないか、じゃなくて再来年か(汗)

法月綸太郎「ノックス・マシン」読了。ノックスとはあの10戒のノックスです(^^;
感想は明日。

 




『超弦領域』

 投稿者:大橋博之  投稿日:2009 7 1()003623

返信・引用

 

 

宣伝してくれているのなら、私も買わなきゃいけないということですか?
最近、知らない間に文庫の解説に私の名前が書かれてあって、それを他の人から教えてもらって知るというケースが多いです。あれとかあれとかあれ……。

 

 


 

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