ヘリコニア談話室ログ(2009年8)



Re: リドルはおどる

 投稿者:理人  投稿日:2009年 8月30日(日)09時56分50秒

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> No.2040[元記事へ]

高井さん
ご教示ありがとうございます。「詭弁論理学」は筒井さんの奇想天外連載で知りすぐに買って読んだのですが、実はあんまり覚えていません。ちゃんと読んでなかったかもです(汗)。いまなら楽しめると思いますので、改めて読んでみますね。と思って、ざっとさがしてみたんですけど、本も残ってないみたい。しかしまあブックオフでは比較的よく見かけるので、すぐ入手できると思います(^^;。

ところで、クイズと、クイズに近い(クイズ的な面白さを利用した)ショートショートの違いは、前提条件や定義がきっちりしているか否かではないかと、高井さんのレスを読んで思いました。クイズはそもそもそれが目的ですから定義の確定は必須でありますが、ショートショートの場合は故意に曖昧にする(ずらして利用する)ことで、別の効果を狙う場合がありますね。

リドルなんかも「別の効果」の一種といえるのでは。もっとも理想的なリドルストーリーはクイズ的定義を完璧に満たした上で別の効果も発揮する作品になる「はず」ですけれどもね。

 




Re: リドルはおどる

 投稿者:高井 信  投稿日:2009年 8月30日(日)05時14分13秒

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> No.2038[元記事へ]

> 「この世でもっとも短い(たぶん)リドルストーリー 」(一本足の蛸)

 これは有名な論理クイズのアレンジですね。
 論理クイズには正直者(必ず真実を言う)、嘘つき(必ず嘘をつく)、気まぐれ者(真実を言うか嘘をつくか決まっていない)が登場しますが、この作品の場合は、はて? です。
「天国への道」の設問は、多くの本に採り上げられています。
 野崎昭弘『詭弁論理学』中公新書(76)は読まれました? この分野の名著です。読まれてなければ、ぜひ。>137〜143ページ
 続編の『逆説論理学』中公新書(80)も含めて、私はハマりました。

 




リドル考/「ゼロの焦点」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月29日(土)21時46分21秒

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高井信さんの最も短いリドル・ストーリー(^^)
――で、気がついたのは、高井さんが解説されているとおり、リドルの契機は「全然」の内包が一義的に確定できないことに拠っている。これは安眠練炭さんの作品でも機能しているもので、「嘘つき」は常に100パーセント嘘をつくのか、たまには本当のことをいうのかが読者に確定できないからリドルになってしまうのですよね。
うーんリドル・ストーリー、考えるほどに深いですなあ(^^ゞ


「ゼロの焦点」を観ました。61年度野村芳太郎監督作品。

いうまでもなく原作は、松本清張の超代表作。原作が原作だけにストーリーに厚みがあって堪能しました。とかいいながら原作は未読なのでした(^^;
北陸能登の風景を織り込みつつ、ラストは断崖上の対決であったりとか、構成的には実にテレビの2時間ドラマそのままなんですよね。いやいやそれは逆で、2時間ドラマのお約束の原点が、本篇であるのかも知れません。
原作未読につき、どこまで映画が原作に忠実なのかは判らないのですが、ストーリーの契機である久我美子演ずる主人公の夫の「行為」が私には腹に嵌まらなかった。映画での性格設定ではまさに「よい人」以外の何者でもない。そんな人がなぜこのような無理なことをしていたのか。

このシナリオを虚心坦懐に理解するならば、「よい人」で常識人である主人公の夫は、実はエゴイストに他ならなかったということになります。すなわち元パンパンよりもふつうの家柄の女を選んだということになる。世間体? いずれにしてもそれが当時の(50年代、60年代の)「基本設定」であるが故に、説明を省いたのだろうか?

たしかに本篇の主題はもちろん戦後の一象徴である「パンパン」に焦点を当てることではあります。が、加藤嘉演ずる社長ですら(知らなかったとはいえ、いや実は薄々は知っている訳ですが)正式に結婚しているのだから説得力は減じます(有馬稲子に対して気持ちが醒めていて乗換えを図ったというのならわかる。でも本篇ではそれを暗示するエピソードはない)。

小説からのシナリオ化の不備なのか原作自体の足らざる視点なのか、これは原作を読むしかありませんね。まあそのうち読みましょう(>オイ)。
久我美子、高千穂ひづる、有馬稲子の三大女優競演というのも二時間ドラマ的コンセプトですが、わたくし若々しい久我美子を初めて見ました。おばちゃんかおばあちゃんというイメージしかなかったのである意味新鮮でした(^^;。

いやあ昔の日本映画って、若い頃は偏見があって全然見てなかったのですが(日本映画は角川映画とATG系をポツポツ観ているだけ)、今観ると海外映画と遜色は全然ないですね。

 




 

リドルはおどる

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月29日(土)01時23分38秒

返信・引用

 

 

「この世でもっとも短い(たぶん)リドルストーリー 」(一本足の蛸)

「女を選ぶか虎を選ぶかに、各々の女性観が反映されそうな気がします」(そのナース、本読みにつき!)

今日は1ページも読めなかった(ーー;

 




「黒の試走車」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月28日(金)13時01分2秒

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を観た。1962年増村保造監督作品。梶山季之原作、田宮二郎主演。

<黒シリーズ>第1作とのことで、この作品も産業スパイものです。「黒の凶器」では家電メーカーが舞台でしたが、本篇は自動車メーカーの新車発売をめぐる話、というわけで、まさに高度成長、大衆社会到来前夜の時代性が明瞭に出ています。
産業スパイとは言い丈、手口が非常に素人っぽく(というかマンガっぽく)、こんなんでライバル社の機密情報が盗めるんかいな、とその薄っぺらさを笑いつつ観ていたのでしたが、おそらく当時というのは、産業スパイという存在がようやく世間に知られはじめ、ゆえに原作が書かれもした訳でしょうから、一種原初形態が描かれているともいえ、むしろこのような杜撰なのが実は現実だったのかも知れないなあ、と思い直しました。

田宮二郎も(第1作だからかもしれませんが)、「黒の凶器」に比べればそんなに存在感がなく、可もなく不可もない演技で(ただしラストの回心はいかにも唐突)、むしろ高松英郎が事実上の主役だったような。
と、最初は欠点が目に付いていたのですが、話が佳境に入るとさすがに面白く熱心に見てしまいました(^^;

 




「最も短いホラー」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月27日(木)22時36分48秒

返信・引用

 

 

高井信さんがブログに「最も短いホラー」という大変おもしろい投稿をされ、私もコメントしています。しかも石川喬司さんまで巻き込んで(笑)。

非常に興味深く、且つ資料的価値も高い内容ですので、ぜひご覧になってください。→http://short-short.blog.so-net.ne.jp/2009-08-26?comment_success=2009-08-27T22:10:41&time=1251378641

この内容で再構成すれば、十分<ミステリマガジン>や<ミステリーズ!>に掲載できるエッセイになるんじゃないでしょうか(^^)


ミステリーといえば、ミステリー文学資料館から封書が届いていて、
ミステリー文学資料館開館10周年記念トーク&ディスカッション「『新青年』の作家たち」のご案内」と、申込書が入っていました。HPにも掲載ありました→http://www.mys-bun.or.jp/course/index.html

中さんが講師の一人のようなので、ご都合よければお申し込み下さい。

「新青年」の作家たち  トーク&ディスカッションの
     日 程   演 題      講演者
第1回 10月03日(土) 江戸川乱歩      中 相作
第2回 10月10日(土) 横溝正史        浜田知明
第3回 10月17日(土) 海野十三        末永昭二
第4回 10月24日(土) 小酒井不木と「新青年」  山前譲
第5回 10月31日(土) 渡辺啓助・温    小松史生子
第6回 11月07日(土) 小栗虫太郎      平山雄一
第7回 11月14日(土) 夢野久作        新保博久
第8回 11月21日(土) 森下雨村        湯浅篤志
第9回 11月28日(土) 「新青年」作家の魅力 特別ゲスト 北村薫

 




大塚善升

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月26日(水)22時10分41秒

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下に書き落としたのですが(というか今まで調べていたのですが)、「黒の凶器」の音楽が実に映像にピッタシなんですよね。
マイルスかなと思って調べていたんですが、大塚善升という人でした→http://www.cinema-today.net/0308/02p.html

大塚善升は大塚善章か。ウィキペディアによりますと、1934年天王寺区生まれとのことで、眉村さんと同い年同じ地域の出身となりますね。尼信のCMにも元気に出ている古谷充さんと組んでいたのか。でもピアノ。映画のマイルスっぽいトランペットは誰だったんでしょう?

 




「黒の凶器」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月26日(水)21時12分41秒

返信・引用

 

 

京都テレビで、田宮二郎主演「黒の凶器」(原作・梶山季之、監督・井上昭、1964)を見ました。
舞台は昭和39年の大阪。家電メーカー間の競争に巻き込まれた産業スパイもので、おそらく007シリーズの日本的受容作品なんでしょう。
内容も、最近の日本映画と違ってポストモダン的なメタ視点が毫もないのが清々しい(笑)。
それにもまして、昭和39年の大阪の町並みが興味深くて楽しめました。やはり昭和39年(東京オリンピック)から45年(大阪万博)にかけての6年間で、日本は様変わりしたんですね。39年と45年の間に断絶を感じます。45年以降は案外変化は少ないんですが。

クイズ・タイムショックの田宮二郎しか知らなかったので、若い田宮二郎は意外に良かったです。

仁木稔『グアルディア』に着手。
うーむ、と思って検索してみたら……やっぱり女性だった。

 




Re: リドルストーリー

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月25日(火)22時07分14秒

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> No.2032[元記事へ]

高井さん

『夢中の人生』はいまだ読むあたわずなんですが、「不思議な能力」は読みました。でもかなり忘れているので『自選ショート・ミステリー2』を引っ張りだして来ました。

――そうそう嘘男の話でしたね(^^)
嘘男というのが本当ならば、周りの連中は嘘をついているので真です。でも嘘男というのが(連中をからかった)嘘ならば……
嘘男というのが嘘なのかまことなのかは本文中では明らかにされませんから、本篇は正真正銘のリドルストーリーですね。

リドルストーリーの理想的なかたちは、本篇のような、言表Aが真であるか偽であるかによって結論が異なる(理想的には逆になる)状況で、言表Aの真偽をあきらかにせず収束させる作品だと思いました。
つまりパラドックスにオトすのが、リドルストーリーとしては一番うまい方法なんですよね。
その意味では親殺しのタイムパラドックスをオチに持ってこれる前段がうまく作れたら、それはまさに完璧なリドルストーリーですよね。

いやまあ、言うは易しですけどね。言うだけなら。

>難しいです。
はい・・

 




Re: リドルストーリー

 投稿者:高井 信  投稿日:2009年 8月24日(月)21時03分31秒

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> No.2031[元記事へ]

 ありがとうございます。
 拙作「女か虎か」は、私自身も気に入っている作品です。もし新たなショートショート集を出す機会があれば、収録したいと思っています。

> リドルストーリーは、一種の奇策なので、1試合中に何度もやるものではないように思います。切れ味鋭いオチSSのなかにポツンと一つ混じっているから効くんですよね。

 私が書いたショートショートで、リドルストーリーっぽいかなと思うのは2編。
「勝負の掟」――『夢中の人生』講談社(88)に収録。
「不思議な能力」――日本推理作家協会編『自選ショート・ミステリー2』講談社文庫(01)に収録。
 難しいです。>リドルストーリー

 




リドルストーリー

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月24日(月)17時01分40秒

返信・引用

 

 

高井さん

>ちなみに、パロディ・ショートショート「女か虎か」は拙ブログでも読めます
や、失礼しました。こちらですね→http://short-short.blog.so-net.ne.jp/archive/200903-3

パロディとはいえ典型的なショートショートの形式を踏んでおり、ちゃんとオチがつくんですよね。しかも「えっ?」と一瞬(3秒くらい?)考えて気がつくという微妙さがたまりません。というのは私だけかも知れません。なかには途中で気づく人がいるかもしれませんが、気づいたとしても、ポンと膝を打つのが早いか遅いかだけで、面白さが減じられることはないでしょう(でもこのオチに気づく人はほとんどいないと思います>だから傑作なんですけど)。

それに対してリドルストーリーは、下手にやると手抜きと思われても仕方がない面がありますね。雫石さんも書いてましたが(笑)
あるいは多用しても白けられますよね。ヨコジュンが一時多用して(「あっ」で終わったりとか)、また手抜きかよ、と読まなくなった時期がありました。

リドルストーリーは、一種の奇策なので、1試合中に何度もやるものではないように思います。切れ味鋭いオチSSのなかにポツンと一つ混じっているから効くんですよね。
その意味で、ミステリの「叙述トリック」と似ていますね。叙述トリックも読んでいて何度も当ると、がっかりしてしまいます。

 




Re: 無為な日曜日

 投稿者:高井 信  投稿日:2009年 8月24日(月)05時35分49秒

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> No.2029[元記事へ]

> すると今日は今日とて安眠練炭さんのブログで、「世界三大リドル・ストーリー」を話題にするなかで高井さんのブログの記事『ショートショートの世界』に言及がなされていて、なんか不思議なシンクロニシティを感じてしまったのでした。

 ご紹介、ありがとうございます。さっそく読みに行きました。
 ブログを開設して半年近く経ちました。ここのところ、さまざまな検索ワードで拙ブログを訪れる人が急増していて、少しはショートショート・ファンの役に立っているかなと嬉しく思っています。
 ちなみに、パロディ・ショートショート「女か虎か」は拙ブログでも読めます。興味のある方は、どうぞ。

 




無為な日曜日

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月23日(日)23時28分1秒

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【今日のお言葉】
ある意味で官僚天国は官僚の無能さや就労意欲の低さによって支えられている面があり、有能なら仕事熱心なら、無駄もなくすし、組織防衛よりも行政に熱心になって官僚天国ではなくなるだろう。(山野浩一WORKS)

雫石さんが昨日ブログで「女か虎か」に言及されていて、そういえば高井さんのショートショートに「女か虎か」の傑作パロディがあったな、と思い出したのでした(>高井信「女か虎か」<創刊号>誌第3号所収)。ただしパロディではありますがリドルではありません(^^;
すると今日は今日とて安眠練炭さんのブログで、「世界三大リドル・ストーリー」を話題にするなかで高井さんのブログの記事『ショートショートの世界』に言及がなされていて、なんか不思議なシンクロニシティを感じてしまったのでした。
そんなこんなで、あと野球を見てマラソンを見てバレーボールを見ていたら一日が終わっちゃった。
あ、GyaOで「悪魔の手毬歌」第2回も見たのでした。茶木みやこのテーマソングが懐かしかった。
これから「八つ墓村」第2回も見ようかな。

 




野球よりも

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月21日(金)22時10分4秒

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バレーボールの方が断然面白いですなあ。

そういう次第でテレビを見ていたわけです。すると麻生さんが、ニュースだけでなくCMにまでしつこく出てきて、民主党に任せたら日本は潰れるみたいなことを言っているわけです。
麻生さんは、今のような社会に日本を潰してしまったのは一体何党政権なのか、わかって喋ってるのでしょうかね。よくもまあいけしゃーしゃーといえるものだと呆れてしまいましたが、麻生さんのことだから、実際わかってないのかも知れませんね(ーー;。

で、ちょっと興味が出てきたので、ネットで各党のマニュフェストをざっと読んでみました。
今私が一番関心があるのは、税制なんですが、累進税率を以前に戻すとはっきり言っているのは、社民党と共産党ですね(社民党は50%。共産党は所得税、住民税併せて65%)。

私は、現状の(一律の)ままでの消費税アップは事実上高額所得者優遇政策に他ならないと思います。消費税を奢侈品や食品などで税率を区別するのなら話は別ですが(そんなことはざっと見た限りでは自民も民主もいってませんね)。

積読消化は、朝松健のナチス・クトゥルー連作『邪神帝国』を選択。

 




田中光二

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月20日(木)21時18分6秒

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雫石さん

海洋SF三部作とは、「怒りの大洋」三部作のことですね。あれは最高傑作ですよね。
私は怒りシリーズでは「怒りの聖樹」も好きです。
ちょっと似た設定ですが、人類に怒った縄文杉が屋久島から海を渡って東京湾に上陸する「裁きの日――怒りの巨樹」も面白かった。もちろん「ゴジラ」を踏んでいるわけです(^^;

「怒りの大洋」といえば山田正紀「崑崙遊撃隊」も水生命SFで、これらの傑作群がいま全然顧みられない(というか忘れられてしまっている)のは残念で仕方ありません。
ハヤカワ文庫SFは近年復刊に力を入れていますが、JAもこういった「埋れた名作」を発掘していけばいいのにと思いますね。

>また、戻ってきてもらいたいですね
要は注文がないだけで、ご本人はなんぼでもアイデアを溜め込んでいるのではないでしょうか。
それは田中光二に限らないはずで、これもハヤカワが、たとえば新書版の日本SFシリーズを復活して第1世代、第2世代に注文すれば、傑作がぼんぼん出てくるのでは(^^;
しかも70年代に読んでいて、今やSFから離れてしまった層を(時代小説や教養新書から)引き戻せるやも知れません。そうなればハヤカワの購読者層の底辺拡大にもつながり出版社としてもいいことだらけのはずなんですけどね。なぜこんな簡単なリクツがわからんのですかねえ(^^ゞ

 

 

 

 

(管理人) 追記。
70年代日本SFの復刊は扶桑社文庫がいま手がけ始めていましたね。失念していました。
筒井、光瀬の最初の復刊を「馬の首風雲録」や「多聞寺討伐」にする選択眼が、すれていてなかなかナイス。期待していたのでした(^^)

 




Re: 「ヒトラーの黄金」

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009年 8月20日(木)09時12分35秒

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> No.2025[元記事へ]

 田中光二、いいですね。私、ファンでした。
一時、追っかけをやってました。ご本人にもお会いしたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/sfish/seigun/sfm-12.htm
SFから遠ざかって久しいけれど、さみしいかぎりです。
また、戻ってきてもらいたいですね。

http:////6823.teacup.com

 




「ヒトラーの黄金」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月19日(水)22時22分15秒

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田中光二『ヒトラーの黄金アマゾン大樹林(徳間文庫00、元版97)読了。

敗戦も間近に迫ったドイツから一隻のUボートがヒトラーの密命をおびてひそかに出航する。単なるUボートではありません。遅きに失したけれども漸く完成し試験航海が終ったばかりの新型Uボート]]T型です。その高性能は、いとも易々と連合軍の包囲網を突破し大西洋へと潜水艦を脱出させる。一気に大西洋を渡りきり、ブラジルアマゾン川河口に達する。そして――なんとアマゾン川を遡り始めるのです!(で、結局コロンビア国境手前の源流までさかのぼっちゃいます)

という魅力満点の冒頭シーンはまさに掴みオッケー。あとは一気呵成(^^)
いやー久しぶりに本格冒険小説を堪能しました。

とはいえ元版97年である本書は、70年代の田中光二とはひと味もふた味も違っていました。500ページになんなんとする大長編で、初期のスピードあふれるドライブ感は薄れています。その分じっくりと書き込まれているからです。冒険小説でありますが、同時にブラジル(若しくはアマゾン)に関する知識・薀蓄が(歴史から文化から観光案内まで。さらにナチスやオカルトの薀蓄まで)目一杯詰め込まれていているのです。場合によってはストーリーをほっぽり出して雑学が披露される。その意味では荒巻義雄の筆法に近いです。でもそれがストーリーを邪魔することはない。むしろストーリーをうしろから支えて作品を重厚に仕上げている(それは荒巻と同様です)。

しかしまあ、そう感じるのは私がSF読者だからで、一般の、専らストーリーを追いかける読者は、たぶん飛ばして読むんでしょうな。SFの読み方を知らない読者は可哀想ですよね。
そういう意味で、本篇はSFではありませんが(ラストはややオカルティックですが)、やはりSF作家が書いた冒険小説というべきでしょう。

ただし、上にオカルティックと書きましたが、著者自身の「基本設定」がかなりそちら寄りであるのは間違いない。近頃の若い(SFMを熱心に読むような)コアなファンは少し違和感を感じるかもしれません。昔のSFファンはその点おおらかでしたけどね(^^;。

田中光二は積読がまだ何冊かある。本書が面白かったのでまた読んでみようと思いました。

 




すごい人

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月18日(火)23時17分1秒

返信・引用

 

 

【本日の至言】
mixiの、友達による紹介文を見ていると「すごい人」というのがやたら多い。はじめは本気にしていたが、この様子では日本中に二千万人くらい「すごい人」がいるようだ。(猫を償うに猫をもってせよ)

『ヒトラーの黄金』>もうすぐ半分。面白い。

 




「霧を行く」情報

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月17日(月)20時43分50秒

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いつのまにかジュンク堂が「在庫なし」になっていました。売れちゃったんですねえ(^^)
取り寄せ注文は可。
「お取り寄せした結果、品切れの場合もございますので予めご了承下さい」とありますが、まだ大丈夫だと思います。→http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0011039533

でも句集は句集ですからね、部数はきわめて少ないそうなので、あまり余裕をかましてるのはキケンかもですよ(^^;

ネット書店でも、ぼちぼち取り扱いが始まりました。
○JBOOK→http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/3831890/s/~6b19cf0ce

○セブンアンドワイ→http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32293972

○e-hon→http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032293972&Action_id=121&Sza_id=GG

『ヒトラーの黄金アマゾン大樹林に着手しました。

 




「金星の独裁者」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月16日(日)22時16分34秒

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エドガー・ライス・バローズ『金星の独裁者』厚木淳訳(創元文庫69、原書39)読了。

初出はアーゴシー38年連載。前作より実に4年ぶり、久々の金星シリーズとなります。
その間現実世界では、37年ラインラント進駐、38年オーストリア併合があり、翌39年には独ソ不可侵締結・英仏に宣戦布告と突き進む歴史の転換期で、バローズが久々に続篇を思い立ったのも、そしてまたそれが前作以上に直接的なナチス戯画であったというのも頷けようというものです。
(訳者あとがきで、本篇をナチスと関係付けているのはもとよりそのとおりですが、前述のように実際は第2巻から既にナチスを照準にしていたのは間違いないと私は思います)

訳者が書いているように、本シリーズのそもそもの動機はスターリンをくそみそにやっつけることだったのでしょう。たしかに第1巻はそのような意図がみとめられるようです。ところが、あれよあれよという間にヒトラーがのし上がってきた。で、第2巻では急遽方針を変更、まずはヒトラーを叩き、しかしてのち電撃的に東方へ転進するという2面作戦となったのではないかと推測するのであります(>ほんまか(^^;)

さて本篇は、上述のとおりまさにナチスのカリカチュア以外のなにものでもなく、親衛隊、秘密警察、ユダヤ人、強制収容所、密告制、広告手法の応用など、第3帝国の現実がそのまま金星世界に持ち込まれています。ただしその描写の仕方がほとんどゴロツキ集団なみなのは(著者の理解がその程度だったとはいえ)いかがなものかとは思います(笑)。

ストーリーは――例えていえば、ホーエンツォレルン家ゆかりの者を戴いた反ナチ旧勢力がユトランド半島辺の港町に篭城しており、それをナチス軍が囲んでいる。ひょんなことでその港町にやってきた一介の風来坊が旧勢力に肩入れすることになり、密命をおびて(これが実は……なんですが(^^;)本土に潜入し、独裁者に信頼されているがその実体は地下組織(但し港町の旧勢力とは無関係なグループ)の幹部である者の知遇を得、ナチスに入党、暗躍工作の末ヒトラー政権を転覆するといった体の、まあ典型的スパイ冒険小説です。相手がほとんど単なるゴロツキ集団なので、チャチといっちゃチャチですが、それなりに読ませます(^^;

でも自立した虚構のストーリーとしては、これではやはり弱い。単なる異世界冒険ファンタジー(スペースオペラ)として、そのままで読むには安普請すぎます。
実際、この作品がナチスドイツのカリカチュアであることを常に脳裏に置いて、歴史的事実を参照しながら、しかもダリのように一種「偏執狂的批判的」な態度で読んでこそ、はじめて本当に面白く読むことができるんだと思います(笑)。

もっとも、いまの時代、どれだけナチスに関する歴史的知識が一般化しているでしょうか? その意味では今となっては「読者を選ぶ」小説であるともいえそうですね。

――という意味では、先日読んだ『激しく、速やかなる死』と実は同じ読み方が要求されるわけなんですよね。
たとえば「アナートリとぼく」は、著者の佐藤亜紀の眼力がひっぺがした「戦争と平和」の深層なのですが、それは読者が「戦争と平和」を脳裏において参照しつつ「アナートリとぼく」を読むことで、著者の企図した意図を鑑賞できるものになる。

本篇においても同じで、歴史的事実を参照しつつ本書を読むことで、いわばステレオグラムのような効果で、つまり差異の効果で、浮かび上がってくる或る感覚がある。それを掴まえればよい。但し本書の場合は著者が企図したものではありませんが、結果としての効果は同じ(というか厳密には、本書を読む読者は「戦争と平和」に対する佐藤亜紀と同じ位置に立っていることになるわけです)。
本書ではその上バローズ自身の「歴史的現実の誤読」(偏見ともいう)も楽しめて更にお買い得です(^^ゞ

余談ですが、ディレーニイの「マルチプレックス」はこのような小説の効果をいうものだと思うのですが、それをM27は「マルチ・リフレクティブ」と言い換え、私としては後者の方がより理解しやすいように思います。なぜならそう捉えればその効果の主体は読者の側にあるからで、小説とはそもそもマルチプレックス(マルチリフレクティブ)な鏡といえるでしょう。

なお、本篇をもって第1巻から続いていた一連の物語は一応完結し大団円を迎えました。第4巻、第5巻(といっても金星シリーズ作品は収録中の1篇だけ)は枝篇というべき単発的な中篇集であり、内容も
「政治的諷刺を離れ、ふたたび奔放なスペースオペラ作家としての面目を存分に発揮」(本書訳者あとがき)するだけなので(笑)、金星シリーズ再読は、これにて読み終わりとします。

 




「金星の海賊」「金星の死者の国」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月15日(土)17時22分53秒

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エドガー・ライス・バローズ『金星の海賊』厚木淳訳(創元文庫67、原書34)
エドガー・ライス・バローズ『金星の死者の国』厚木淳訳(創元文庫68、原書35)

読了。

初読が1969年。第1巻は読み返してないので正味40年ぶり。第2巻以降は何度か読み返してますが、それも前世紀の話。今回読み直して、第1巻は良くも悪くも単なる導入部でした。これから金星シリーズを読む予定の人は第1巻は飛ばしてもいいかも。第2巻から入ってもストーリー理解に問題はないでしょう。

本シリーズは、おそらくヒトラーの台頭に触発されて書かれたのではないでしょうか。ナチスが第1党になったのが1932年7月の総選挙。一方『金星の海賊』は1932年アーゴーシー9月掲載です。

ナチスはこのあと、33年1月末に組閣するや2月1日には国会議事堂放火事件を起こし、7月には1党独裁を確立し、公然と再軍備化を開始します。第2巻はまさに1933年3月アーゴシーに掲載されました。

第1巻で地球人カースン・ネーピアが不時着したのは金星のヴェパジャ島。ヴェパジャはかつては南半球殆どを版図とする大国だったが、一部の奴隷階級が起こしたソーリスト革命でいまはヴェパジャ島の大森林の樹上で細々と命運を保っている。
ソーリズムは最初は民衆の絶大な支持を得たが、実際は寡頭政治家の支配する搾取政治であることがあきらかになる。このソーリズムはコミュニズムを想定しているはずですが、この政治体制を詳細に描く前に舞台は第2巻に移り、第2巻では死者をゾンビ化する技術を持った男が、ゾンビ化した国民に君臨する死者の国と、いわゆる優性技術を極限まで駆使し、優秀な国民を作り出した社会ダーウィニズム計画国家が描かれます。

私はいずれもナチスの一面を表現しているように思われます。死者の国は、すべての言論を圧殺し、国民を象徴的にゾンビ化したヒトラーの国家そのものですし、優性技術が支配する計画国家はナチスのアーリア人至上主義を髣髴させるのみならず、国民は情操的にも優れていてきわめてよい国のように描かれているんですが、国家の最善の利益のためには個人の自由意志が許されない国でもあります。
もっともバローズ自身は、優性思想に対しては半分賛成している面もみとめられます。実際ナチに対しては激しい憎悪感をあらわすアメリカ人が、実はナチというレッテルを剥がせばそんなに違いのない思想の持ち主であることが多いのは周知のことかと思います(^^;

さて第3巻『金星の独裁者』では、いよいよ金星世界にナチズム(ザニズム)が台頭します(^^;

 




「笑う警官」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月15日(土)12時06分32秒

返信・引用

 

 

佐々木譲『笑う警官』(ハルキ文庫07)読了。

警察小説というジャンルの契機・構成要件が何であるかということは、本板において何度か思いつきを開陳してきました。簡単にまとめますと――

黄金期の本格ミステリでは頭脳明晰な警部や刑事が輩出したとはいえ、彼らは個人的な能力によって犯罪をあばいたのであって、そこに警察組織というものはまったく等閑視されていた(名探偵としての名警官)。
ところが犯罪を裁く警察組織そのものの中に、犯罪が巣食っている場合がある現実が次第に見えてきて、ハードボイルド(私立探偵小説)では悪徳警官も現れてきた。しかし私立探偵はアウトサイダーであり、犯罪も概ね悪徳警官個人の犯罪。

ところが更にズームを引いてみると、警察機構という組織が、組織であることによって犯す犯罪があることが見えてくる。
警察小説は、そのような警察機構の「組織犯罪」を主題にする小説をいうべきだというのが私のジャンル認識。
警官が目の前の「犯罪」に立ち向かうことで、不可避的に自身の属する組織そのものの犯罪をあぶりだすものでなければならない。当然組織は圧殺にかかる。そこで前門の「悪」にも後門の「悪」にも目をつぶらない、いわばミステリにおける「インサイダー論」小説としての「警察小説」が、いわば演繹的に導き出される。
で、現実にこういう例があるのかと見回してみると、どうやら佐々木譲の仕事が一番近そうではないかと目星をつけていたのでした。

『警察小説大全集』(小説新潮平成16年3月臨時増刊号 04)所収の佐々木譲
「逸脱」はまさにそういう小説でした。そのときの感想が以下。

「現実にあった北海道警稲葉事件の余波で、道警がまさに「お役所仕事的」配置転換をやった結果適所から適材が消えた状況を背景に、アメリカ小説的な地方都市の澱みが浮かび上がる。結末が偶発であるのは弱い」(本板09/05/04)

本書もまた稲葉事件の余波の一つを扱っており、「組織犯罪」を糊塗するために仕組まれた冤罪を配置転換で不慣れな部署に回された主人公たちが「長いものに巻かれるのを拒否し」、一致協力して警察組織に立ち向かう。一種の謀反ですから冤罪であることがわかっていても組織思考から脱却できず脱落する警官も描かれて実にリアル。

あまりの面白さに徹夜してしまいました(^^)
ただ本篇でも組織が糊塗しようとして無実の警官を冤罪化することに利用される犯罪が、組織上位者の「個人的な嗜好」であった点が不満といえば不満。
でもまあおおむね満足でした。

 




Re: 「ハイカラ神戸幻視行」情報

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月15日(土)11時01分11秒

返信・引用

 

 

> No.2018[元記事へ]

庭の木がツクツクボウシに変わりました。
背景輻射的に全方向から聞こえてくるのはまだクマゼミ主体ですが。
今年は梅雨から秋に移行するのでしょうか。いやいや、たぶん残暑が11月頃まで続くのでしょう。近年は全てうしろへズレ気味ですもんね。

柳生さん

> 今、「霧を行く」読んでます。
おお、今度また感想を聞かせてください(^^)

 




Re: 「ハイカラ神戸幻視行」情報

 投稿者:柳生真加  投稿日:2009年 8月15日(土)06時04分10秒

返信・引用

 

 

> No.2009[元記事へ]

ありがとうございます。
今、「霧を行く」読んでます。

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/tea/

 




Re: 「ハイカラ神戸幻視行」

 投稿者:柳生真加  投稿日:2009年 8月15日(土)06時02分26秒

返信・引用

 

 

> No.1998[元記事へ]

ありがとうございます! いってきます。

http://kazenotubasa.cocolog-nifty.com/tea/

 




「激しく、速やかな死」(終)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月14日(金)18時21分34秒

返信・引用

 

 

「漂着物」

本篇の話者はボードレール。
解題に著者による「白鳥」の訳が載っており、本篇がほぼこの詩にもとづいていることが判ります。あるいは「白鳥」の詩を成さしめたボードレールの心境が、著者の想像力によって定着されたものでしょうか。

ナポレオンゆかりのカルーゼル広場のたたずまいに、本篇の話者であるボードレールは今昔を思う。2月革命でウィーン体制すら過去のものとなっています。彼がかつて愛した混血女も
「すっかり老いぼれて、乾涸びて、往時の魅力ある意地悪さもただの性根の悪さにすぎなく」なっている。折り合いの悪かった(往時、爛熟の文化人タレイランに馬鹿にされた)義父も既になく、ボードレール自身も寡婦となった母親に無心するばかりの日々です。

それら全てを含めて、あの猥雑で輝かしい過去はどこへ行ったのかと話者は嘆くのです。
パリは変わり、彼自身の境涯も変わりましたが、
「だが私の記憶の中では、何一つ動かない」

結局、ボードレールの心境にことよせて愛惜されているのは、実は本書の6篇の短篇で描き出された18世紀から19世紀にかけての、動乱にみちた安定することのない激動の時代そのものだったのかも知れません。
まさに本書の掉尾を飾るにふさわしい作品といえるのですが、本篇は書下ろしであり、そもそも本作品集の「締め」として構想されたものなのでしょう。


――以上、
佐藤亜紀『激しく、速やかな死』(文藝春秋09)の読了です。

 




「激しく、速やかな死」(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月14日(金)12時25分10秒

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「アナートリとぼく」

本篇は「戦争と平和」を下敷きにしています。
「戦争と平和」は40年以上前の大昔に読んだきり、「なんとなく」主人公が嫌というか不快だったのはかすかに覚えていたのですが、解題で著者が、
「(主人公の)ピエールは道徳フェチの糞ナルシストであり、救いがたい利己主義者である」と述べていて、腑に落ちました。もし当時の小学生の私に「言葉」を操る能力があったならば、「なんとなく」のかわりに上記引用文を当て嵌めた感想を持ったのかもわかりません。

知識によれば、トルストイは一面で高潔な理想主義者で、ロシアの現実に厳しく否を突きつけた農奴解放等の社会主義的な思想家であり実践家でした。
トルストイは主人公ピエール(本篇ではペトルーシュカ)にほぼ自己を投影して造型したらしく、本篇を読めば、その理想主義とは、むしろ老子の小国寡民に近いものであったことが判ります(実際トルストイは「老子」を翻訳しようとしている>日本大百科全書に拠る)。
すなわちつまらない知識があるからつまらないことを考えて不幸になる。民に知識は不要であり無知であればこそ幸福になれるとして、動物的に生き死ぬ社会を理想としたのではないでしょうか。

本篇でペトルーシュカと結婚したエレナの言葉――
「あたしがすこしでもすじみちだったことをいうとふきげんになったわ。ロストフのばあさんはこどもを12にんもうんで、からだがまいって、あたまがぼうっとして、いまじゃりくつのとおったことなんてなにひとつかんがえられやしない。なんてりっぱなおんなだ、ですって」(154p)

彼の理想主義がそのようなものであったとしたら、しかしそれはある意味傲慢な思想ですよね。人は寝て起きて糞して働いて性交して寝て起きて……の無限の繰り返しでヨシとするなんて、あまりにも人間を貶める考え方です。それでは人でなくヒトでしかない。そんな風に扱われたエレナが怒るのも道理です。

他面、トルストイ(ピエール)本人は貴族の教育を受けた大知識人・大教養人ですから、そんな無学無教養な連中の動物的生活を是とするような(彼の理想とする)社会は、実は間尺に合わないのです。というか実際のところ彼はそんな人間の動物的な部分を嫌悪していた。

上記引用文の続き――
「でもそうなったらあのひと、いまよりももっとあたしをけいべつして、今よりもっとひどいあつかいをするにきまってる。あたし、ほんとにあのひとのしびんにされちゃうわ」

彼自身の人間観といえば、むしろ逆に妙に高いところに「人間」を設定しているのです。ところがそもそも彼もヒトから進化した人間ですから、根源的に「ヒト」を内在させているわけです。本能的な欲求を当然持っている。それがまた(自己の人間観と照らして)彼を打ちのめさないではおかない。
「そしたらあいつ、ますますじこけんおにおちいるわ。じこけんおがすきなのよ」(155p)

一般論としては「小国寡民」を是とするのですが、自分自身はそれを嫌悪している。したがって一般論を適用できない個別的な、彼の周りの人物が「小国寡民」であるのは(無意識では)許せない。しかも本人の裡に厳然と存在する「小国寡民」(生理的ヒト)が常に彼を裏切ろうとする。そういう幾重ものアンビバレンツを抱えているのにも関わらず、しかし彼はそのアンビバレンツをあんまり認識していないんですよね。というか目をつぶってしまっているのです。

それを本篇の著者は
「(主人公の)ピエールは道徳フェチの糞ナルシストであり、救いがたい利己主義者である」と喝破したわけですね。

確かにこのようなアンビバレンツは「戦争と平和」を注意深く読めばに明瞭に顕れている(のかも知れない)のだけれども、なかなかそこまでは深く言語化しては読み取れないものだと思います(せいぜい、何となく不快)。またそれがトルストイが意図したものではないのは明らかです。
バラード流に言うならば、トルストイ自身の精神病理学的な風景が「戦争と平和」に、いわば地層として埋め込まれているのであって、注意深い読者のみが、それを考古学者の視線で読み取ってしまえるのです。

本篇は、そのような佐藤亜紀の慧眼によって読み直された「戦争と平和」であり、トルストイ本人の隠された真相を、いわば顕層として提出する作品であるといえるでしょう。

ところで本篇の話者は、なんと「くま」(!)なんですが、この突飛な設定にはどのような意図があったのでしょうか?
この点についてはこちらのブログの論考(事実だけとは限りません)をぜひご参観頂きたく思います。一読私はおおーっと叫んでしまいました(^^;

 




「激しく、速やかな死」(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月12日(水)23時18分58秒

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「金の象眼のある白檀の小箱」

本篇も書簡体小説です。パリにいるメッテルニヒ夫人がウィーンの夫に書き送った手紙の体裁。
話は前作で舞台となったオーストリア戦の、開始に伴う大使の身柄交換により、メッテルニヒがウィーンに帰されるのですが、その後も(敗戦後も)夫人はパリに残っています。そしてどうやらオーストリア外相に就任したメッテルニヒの画策したナポレオンとオーストリア皇女との縁組を側面支援する一種スパイ活動に従事していたようです。

手紙ではその縁組話が順調に進んでいることを報告しているのですが、ひとつ困ったことが起きたとして、メッテルニヒが在仏中ジュノ将軍夫人ロールと不倫していたことが夫にバレ、ひと騒動あったことが報告されます。

その口調が辛辣で滅法面白いのです(^^;
「ウェルテルまがいの恋文を書くのがあなたの趣味なのも、未決済書類の下にいつも2通か3通、書き掛けを隠しているのも知っています。別に気にしていませんから御心配なく」

うう、きっついなあ。メッテルニヒさん全身から冷たい汗が噴出したことでしょう(^^ゞ 本集中ではもっとも気に入った作品です。

将軍に告げ口したのはナポレオンの妹カロリーヌらしく、でもなぜそんな告げ口をしたのか理由が判らないと書き送るその筆致は、そこにわが夫が関係しているのではないかとの仄めかしが濃厚に漂っていて毒にみちています(^^; 
「あなたに対する嫌がらせかしら」

不倫を知らされたジュノ将軍の、まことにみっともない逆上ぶりが容赦なく描写されます。間男された恥辱と狼狽と妻への怒り、しかしそれで妻から見捨てられたらどうしようという女々しい未練がない交ぜとなった、傍から見て実に情けない姿がこれでもかとばかり攻撃的でサディスティックな筆致で書き立てられている。同性として読むに耐えません。なんてことは全然なく、実に小気味よくて腹を抱えて哄ってしまわないではいられません(爆)。
実際攻め立てられている当のロールでさえ、最初こそ殊勝ぶっていましたが、そんな夫のあさましい様子に愛想づかして最後は居直ってしまいます。
ジュノ将軍はエジプト戦で勇名をはせた武断派らしいのですが、男らしい男ほどそんな執着的な女々しい部分があるのでしょうか。唐突ですが柴田勝家もこんな人物ではなかったのか知らんと想像してしまいました(もしお市の方が不倫したら勝家どうだったでしょう>汗)。

それはさておき、タイトルはロールがメッテルニヒから送られた恋文を捨てずに隠していた小箱のことで、将軍はその夜、ロールから取り上げたその恋文の束を夜通しかけて読み尽くします。おお見苦しい!一体どんな顔で読んだんでしょうねえ(^^ゞ

とにかく、いちいち当てこすりや毒がある描写が読んでいて楽しい。しかし、実はこの手紙は、ジュノ将軍のみっともない姿を暴くようでいて、実は夫であるメッテルニヒへの当て付けなんですよね。
「自惚れてはいけません」
けっきょく本篇はメッテルニヒ夫人が夫を懲らしめるためにしたためた手紙であるというべきでしょう。
「(小箱の)手紙は私の手元にあります。取っておくのか焼いてしまった方がいいのかを知らせて下さい」って……メッテルニヒさん恥辱と怒りで心臓発作を起こしかけたのではないでしょうか(汗)

それにしてもメッテルニヒ夫人、凄い女性ですね。賢くて頭の回転が速いんでしょうけどね、あまり妻にしたくはないように思念されるのでありました(^^;

これから読まれる方におすすめしますが、この書簡体小説は、まずもってメッテルニヒ本人がウィーンの執務室でこの手紙を読んでいるところを想像しながら読むべきです。
きっとメッテルニヒの顔が、青くなったり赤くなったり白くなったり黒くなったりする図が浮かんでくるはずです。それを楽しむべき小説なのだと私は思います(^^;

いや本篇を読んで私は、夫人からの手紙を声に出して読みつつ、合い間にひや汗を拭ったり訳もなく部屋の中をウロウロ歩き回ったり、「ウヌレ」とか「チョコザイな」とか「ケシカラヌ!」を連発するメッテルニヒの様子を芝居で観てみたいなあと思ったことでした。一幕もののひとり芝居ですね。オリゴ党で演ってくれないか知らん(^^ゞ。

本篇は書簡体小説のもつ特有の効果を十二分に意識し活用した快作であると思います。

 




「激しく、速やかな死」(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月11日(火)22時39分56秒

返信・引用

 

 

「フリードリッヒ・Sのドナウへの旅」

世紀は変わり、既にナポレオンは皇帝になっています。
本篇の主人公は、無名のザクセンの若者。当時ザクセンを含むライン同盟というナポレオンの傀儡国家があり、対オーストリア戦ではザクセン軍がフランス軍の先陣を担わされていた。当然戦死者は甚大で、その惨状を目の当たりにした若者は、すべての災いの元はナポレオンにありと、その暗殺を企図して当時ナポレオンが駐留していたウィーンへと向かいます。

さて、ここで指摘するべきは、かの若者が
「僕の国の不幸を見て、ナポレオンがその原因だ」と思ったところの、当の「国」とはどこか、ということです。
彼は(素人の悲しさで)簡単に捕まり、ナポレオンの前に引き出されます。
「なぜ私を殺そうとする」というナポレオンの問いに、「僕の国を不幸にしたからです」と応え、つづけて「ドイツ人ならみんな一緒です」という。

ここが本篇の肝ではないか。つまり彼にとって「国」とはザクセンではなく、ドイツなのでした。すでにナショナリズムの意識が生れていたのです。これはまさに市民革命・フランス革命の理念が、ヨーロッパ諸国に波及していたことを示しているといえるでしょう。当時諸侯国に分裂しヨーロッパで最も纏まってなかったドイツにおいてすら、ナショナリズムは浸透し始めていたというわけです。

若者の言葉に
「ナポレオンは動揺したらしい」。たかが素人暗殺者風情にいったい何故?
実にナポレオンは、そこに「ナショナリズム」の萌芽をみとめて戦慄したのです。ただ祖国を救いたいという、自発する意志――
「誰から吹き込まれたわけでもなく、ただナポレオンが平和の敵だから死ななければならないと考えてやってくる暗殺者は、ベルリンから送り込まれる暗殺者よりよほどたちが悪い」のです。

いやそれはナポレオンだけではない。敵国のオーストリアの外交官も
「狂人に地図を書き換えられるのは堪らない」という。
この点においては、ヨーロッパの旧支配者はすべて同じ側となる(ナポレオンを単純に旧支配者とみなすことはできません。本篇に描写される「一体感」のある軍隊はまさに革命から継承したものですが、その二面性の一方の面が脅かされた。ナポレオンの存在自体が矛盾なんですよね)。国家はもはや貴族や国王などの領主支配者のものではなく、郷土に根ざす愛国心をもった市民のそれに、国民国家に、移ろうとしていたのです。
彼は処刑されますが、
「罪状は暗殺未遂ではなく、スパイ罪」とされたのは、まさにそうでなければならなかったわけです。
歴史の転換点を象徴的に捉えた歴史小説。

 




酒井といっても勝軍の方

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月11日(火)20時44分3秒

返信・引用

 

 

トマトさん

押川春浪ですか。私は「海底軍艦」しか(しかも子供向けアブリッジ版しか)読んだことがないので、そういうことは全然知らなかったです。勉強になります。
酒井勝軍も前から気になっている人物ですが、まだ手つかずでした。
その酒井と春浪が、春浪の親父を介して繋がっていたとは! いや妄想を刺激されますねえ。

で、いま思いついたんですが、ヨコジュンの春浪ものがいまいち突き抜けないのは、そういう背景をぜんぜん小説に取り込まないからではないでしょうか。だから「怪作」にならないのです。悪い意味で「毒にも薬にもならない」感が漂ってしまう(いやヨコジュンのを全て読んでいるのではないので事実誤認でしたらすみません)。

うむ。春浪と酒井を配し、竹内文書、シベリア出兵、麻原彰晃を絡めれば、胡散臭さ満点の伝奇SFになりそうです。舞台が東北ならば、これはもう平谷美樹の世界ですよ(^^;

 




のりぴーと薬物、押川春浪とキリスト教教育

 投稿者:トマト  投稿日:2009年 8月11日(火)17時23分47秒

返信・引用

 

 

のりぴーが薬物依存状態だったようですね。

薬物依存に陥る全坦懐には同じように薬物依存者の社会たちとの接触というものがあり、彼女の場合夫がその該当者でした。
 薬物依存彼女は「自分の帰るべき場所が無い」という不遇な人生初期をょすごしていたのですがサンミュージックの相沢社長に拾われてタレントとして育ててもらったのではないかと思います。が相沢社長のもとから巣立ってたどり着いたところがサーファーの夫だったのではないでしょうか?
覚せい剤はアンフェタミンといい、コカイン、カフェイン同様「中枢興奮剤」で「帰属するところの無いさびしく荒涼とした心理状態」から飛翔させてくれる作用があります。またヘロインなどのモルヒネ誘導体やアルコールは「帰属感」わ感じさせてくれる作用があるといわれ、大麻については諸説あります。
奇しくも先月にのりぴーの弟が覚せい剤で逮捕起訴されていたことも報道され、さらにこの弟の存在をのりぴーも知らなかったというところに彼女の不幸な運命を感じます。

さて、「海底軍艦」の押川春浪ですが、彼は仙台のきわめてストイックで厳格なキリスト教教育者(士族)の家に生まれ、その厳格な家風から逃避するようにまわり道をして
早稲田大学にたどり着き、そこで書き上げたのが「海底軍艦」であるといわれてます。彼も酒びたりのような状態で夭折していますが、海底軍艦が「息も詰まりそうなキリスト教教育」とかいう代物に対するカウンター的かつ逃避的な手段だったのではないかとわたしは感じています。ヒロシマ名物である「平和教育」に「被爆」して右傾向化する若者と同様かもしれません。
 そういえばかつて四谷のカトリック教会にはまるで「エホバの証人」のようにストイックな人たちが御ミサにはいっていきましたが、今ではフィリピーナたちがメインの場で、日曜日にあの教会の前には屋台やコピーブランド物屋がたくさん出ていますね。

 しかし押川が「息も詰まるようなストイックなキリスト教教育者」の家庭からテイクオフして「海底軍艦」にたどり着いたのともうひとつ意味深いのはオウム真理教麻原の教義に多大な影響を与えた酒井勝軍という「怪学者」というかSF作家みたいな人はじつは押川春浪のオヤジの弟子だったということですね。酒井のほうは「模範的なキリスト者」であろうとして人類友愛をとき賛美歌を編纂していたりしたけれどもあるときブチ切れ、和製ノストラダムスのようになり、偽史や予言を連発していったそうです。

 




「激しく、速やかな死」(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月10日(月)23時28分20秒

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「荒地」

本篇の主人公はタレイラン。タレイランが本国の元愛人に書き送った手紙という体の、いわゆる書簡体小説です(解題による)。
本篇で知ったのですが、タレイランは失脚してアメリカに滞在していた時期があったのですね。
丁度イギリスに出かけていたときジャコバンが政権奪取してしまったので、彼はそのまま英国に亡命するのですが、しかしその英国にも居辛くなり、独立したての新大陸アメリカに渡ったようです。

本篇は、アメリカに船で到着し、ジャコバン政権崩壊でフランスに帰国するまでの、かかる滞米期の話です。
非常に巧緻な作品で、冒頭(アメリカ到着のシーンの前に)嵐の船上で苦しむシーンから始まる。なんとこれが(最後まで読むと分かるのですが)帰国の船でのシーンなのですね。それは
「わたしはまた棺に似た小部屋の中だ」(58p、下線管理人)で判る(その巧緻さは後述のT***のエピソードにも遺憾なく発揮されています)。

彼がパリから持ち出せたものは知れていた。アメリカに着いたときは殆ど着の身着のままだった。で、フィラデルフィアに住む知合いの銀行家を頼る。当地にはやはりパリから逃げてきた人々がいてサロンを形成していたようです。

タレイランは、まず新大陸の「歴史(伝統)の欠如」を目の当たりにする。道路はまっすぐで立ち並ぶ家々はどれも同じで区別がつかない。一番古い教会でさえ、たった半世紀前に立てられたもの。物だけではない。人もまた、開拓地の村には老人から子供まで揃っているが、皆その地に同じ年月しか住んでいないわけです。タレイランは旧大陸の自分たちが、生を享ける以前から死んだ後までも、土地(自然)との共同体の中で永遠に組み込まれていたことと比較して、この地を「荒地」のように感じます。翻って、彼の国もまた、いまや「荒地」となっていることを深く意識する。

「世界は自分が生まれるはるか以前から続いていて、わたしが死んでもそのまま、何事もなかったかのように続く」、わたしという存在(の記憶)は「驚くほどやすらかに世界のまどろみに溶け込んでしまう」(90p)
しかし――
「人間がそんな死に方をすることは二度とない。わたしたちが世界を包んでおいた穏やかな幕は裂けて落ちた。むき出しになった荒地では、人は並ばされ、指差され、殺される」(同上、下線管理人)

かくのごとくタレイランは、政治的には王党派でもなくカトリックを破門されたように宗教を信じているのでもないが、しかし伝統主義者なのですね。話は飛びますが、彼は変わり身の早い政治屋の印象が強いけれども、土地との繋がりに最も重きを置く意味で伝統主義的な愛国者(愛地者)だったのかも。そういう観点を導入すると、案外筋の通った政治家だったのかもしれません。本篇を読んで、そんなタレイランのイメージになりました(^^;

閑話休題。
着の身着のままでやってきたタレイランは
「あとは稼ぐことに身を入れるしかない」と観念します。銀行家の投資の手伝いをしたりしているんですが、昔の知り合いで、いまはフィラデルフィアで株屋をやっているN***が、ちょっといかがわしい儲け話を持ってくる。タレイランは一笑に付すのですが、あとで引っかかった男がいることを知る。T***というのですが、N***の話に引っかかって破産してしまう。このT***はそれまで一度も登場しなかった男で、それが突如、話の中に、なんの身分の紹介もなくだしぬけに現れるのです。あまりの唐突さに、私は読み落としたのかなと思って頁を繰りなおしてみたのですが、やはり出ていない。
で、はたと気づく。
T***はタレイラン本人なのだ!……と。

本篇は本国の元愛人(ただし勢力家でタレイランの復権に尽力している)にあてた書簡という体裁でした。タレイランはこの愛人であるフラオー伯爵夫人(解題による)に、自らの失敗をありのままに書くのは、ちょっと面目なかったのではないでしょうか(^^;
だからタレイランからできの悪いT***を分離させて報告したのです。
もとよりフラオー夫人も馬鹿ではありませんから、一目で見抜いたことでしょう。ただニヤリとはしたかも判りませんね(笑)。恋人の失策をほほえましく感じたかも。だとすれば、さすが稀代の策士タレイランらしいではありませんか(^^ゞ。

この直後、イギリスから行を共にしていた***Zが、境遇に嫌気がさしてインドへ行こうと言い出す。タレイランもその気になるのだが、船に乗る寸前に気が変わって取りやめ、***Zだけ乗せて船が出て行く。そしてタレイランは、わずか十日後のヨーロッパ行きの船に乗り込むのです。
これもなんか陰謀臭い。十日後というのはあまりに手際が良すぎる。
すでにロベスピエールは断頭台に消えていますから、タレイランはいつでも帰れる情勢だった。フラオー夫人から帰ってきても大丈夫との手紙が来ていたかもしれない。そうなるとジャコバンとは違うけれども急進的な思想を持つ(ことが既に述べられている)***Zは、もしタレイランが帰国するとなると一緒に帰国しようとすることは間違いない。それは案外タレイランにとって都合が悪かったのでは?
で、インド行きの船に押し込んだ。書簡では***Zの思いつきにタレイランが乗ったように書いていますが、本当は逆だった可能性があります。タレイランが邪魔な***Zを甘言でインド行きの船に乗せてしまったのではないか?

さて、帰国の船に乗ったタレイランですが、船上で「退屈」していると何度も繰り返します。これは何を意味するのか。
おそらくタレイランは、このとき既にフランスの政界でいかに動いてやろうかと、やる気満々で腕を撫していたのではないでしょうか。それが「退屈だ」という言葉となったのではないかと思いました。

「これを書き終えたら、甲板に出るとしよう。(……)わたしたちがあれほど愛した世界とは似ても似つかない、略奪者に開かれた新しい大地が、そこには横たわっている」(103p)

 




「ハイカラ神戸幻視行」情報

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 9日(日)23時39分29秒

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森下一仁さん→惑星ダルの日常
〈遊歩人〉8月号にてご紹介下さったそうです。


【本日の名言】
本当にデモクラシーを実現させるには、やはり国家を消滅させなければならないと改めて感じた。(山野浩一WORKS)

おお、小松さんと山野さんの意見が一致した(^^;
しかし山野がデモクラシーなんていっても違和感があるなあ。デモクラシーの構成単位は現状でいいのかな?

 




「激しく、速やかな死」(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 9日(日)21時53分48秒

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「激しく、速やかな死」

本篇はコリリアーノ「ヴェルサイユの幽霊」へのオマージュなのだそうです(解題による)。寡聞にして「ヴェルサイユの幽霊」を知らないので検索してみました(→ここ)。
 
「処刑されたマリー・アントワネットやルイ16世をはじめとするフランス貴族たちの幽霊が暮らしている」「廃墟になった宮殿」が舞台の歌劇のようです。

してみると本篇の舞台である
「改築に改築を重ねる間に歪んでしまった建物の、半ば地下になった空洞」に入れられている作中人物たちもまた、幽霊なのでしょう。
「かつていた場所もそうだった」(25p)とか「以前は――」(同)という表現が、それを傍証しているように思われます。
また
「階段はご免だ」(26p)、あるいは38ページで階段を何度も(強迫的に)上り下りする男がいるのですが、それを見て「またあれだ。哲学者も振り返って、顔をしかめる」(38p)と嫌がるのは、この二人が断頭台へ上がる階段を、既に経験しているからに違いありません。

ストーリーは、ほぼ「わたし」と「自称哲学者」の対話ですすむ。「わたし」は子供のころから死ぬのがこわかった。実は「わたし」は、もの心つく前に母親を馬車の事故で失っている。その母の死は、いわゆる即死であり、
「激しく、速やかな死」に他ならなかった。それが無意識裡にトラウマとなっていたのでしょうか、「わたし」は死を極端に恐れる子だったようです。それを見た祖母が「わたし」の前から一切の「死」を遠ざける。彼が「死」を実際に見たのは、その祖母の死が初めての経験だった。「わたし」は「(それまで)人が死ぬということを知らなかったんだよ、そんなのは芝居や詩の中のことでしかないと思っていた」(42p)のです。
その祖母の死もまた
「激しく、速やかな死」でした。当然これは「わたし」が断頭台で「激しく、速やかな死」を迎える伏線となっているわけです。ギロチンこそ「激しく速やかな死を、素早く効率良く犠牲者に恵む」(42p)道具に他ならないのですから。

その意味で本篇は、フランス革命時における一貴族の運命を描く歴史の一挿話とであると同時に、既に死者となっている「わたし」が「死」について語るという、いかにも捻くれた皮肉な構成になっているところに、著者の機知を感じないではいられません。実は本書が佐藤亜紀初体験だったんですが、このようなちょっとすかした、まっすぐに見ようとしない、捻らなければ気がすまないベクトルが、この著者の特徴なんでしょうか(^^;

ところで、貴族の出で厳格な祖母に育てられ、画家乃至画家の卵で、祖母の死後イタリアに旅行し、貴族にとって冬であるジャコバン政権下のパリへ敢えて戻り断頭台の露と消える「わたし」には、おそらくモデルがあると思われるのですが、私には見当がつきませんでした。

 




「激しく、速やかな死」(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 9日(日)14時24分9秒

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佐藤亜紀『激しく、速やかな死』(文藝春秋09)読了。

本書は、フランス革命前夜からジャコバン独裁、ナポレオン時代、二月革命と連続していく、18世紀後半から19世紀前半にかけての主にフランス史を中心に、フランスのみならず新大陸、オーストリア、ロシアまで舞台をひろげた歴史小説集といえると思います。
ただし類書とは違い著者の主体性がきわめて強く投影されたそれである点が、爾余の歴史小説とは際立って異なっているといえる。

「弁明」
本篇の主人公はサドです。1778年、サドは本篇に詳述されるマルセイユの事件に関して投獄されていたヴァンセンヌ監獄を脱獄する。しかしすぐにまた捕まり監獄に戻されるのですが、その間数日、自宅に身を潜めていました。ところが追っ手がやってきて屋敷を取り囲みます。本篇は、このときサドが女中部屋に隠れながら、ふたたび拘引される直前まで、これまでの「行状」を回想するという形式になっています。
サドについてはよく知らないので、こちらを参照したのでしたが、本篇に記述されている事柄はおおむね歴史的事実どおりのようです。

で、サドは回想しつつ、それらの行状に対して「言い訳」するのです(ここに著者の解釈=主体性が投影される)。タイトルに従えば「弁明」するわけですが、これが実に「軽い」のであります。やはり弁明というよりも言い訳ですな(^^;

その弁明に耳を傾けるならば、本篇で描かれるサドには、まったく悪いことをしたという意識がありません。せいぜい「ちょっとやりすぎたかもしれないが」これくらいお目こぼしされて当然だろうとばかり、実にあっけらかんとしています。

「全く、不当な話だ。私がする程度のことは、誰だってしている」

そのとおりなんでしょう。でも「彼ら」は、賢明にもそれを大っぴらにはしなかった。隠れてやっていたはずなんです。
しかし、サドの辞書には「社会的常識」や「道徳」なんて言葉はないのでしょうね。一種のボンボンだったのでしょうか。私のイメージでは、最近の、ヤクのやりすぎでガールフレンドを死なせてしまった(しかし罪の意識はない)金持ちの兄ちゃんみたいな感じですね(^^;
ところがそれが、ある意味読者をして「スカッと」させるところがあって(あの「聖サド」が!?)、本篇に一種涜神めいた軽みと切れ味を与えています。

上記リンクで、松岡正剛が
「サドにしてみればそれは人間の本来の快楽にとって、普通のこととか尋常のこととはいえないものの、ヴォルテールの哲学同様に「普遍」の思念と行為だと思っていた」と書いているのは、本篇と通ずるものがあります。

実はサドは、この後が大変で、フランス革命で一時釈放されますが、死ぬまでの40年近く、バスチーユや精神病院での監禁生活が続く。そこであの厖大な著作群が書かれ、のちの崇拝者に
「聖サド」(著者解題)に祭り上げられていく。
でも本篇はそれ以前の、38歳の若く、そして相応に軽薄なサドが活写されていて、実に面白く読めました。
なお、奥さんが(ある意味諦めきってでしょうか)サドの保護者めいて接している(サドもある程度甘えている)のも面白い。

 




『句集 霧を行く』、ジュンクドーに入荷

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 8日(土)23時00分5秒

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池袋本店に3冊入荷。

ネット購入はこちら→ジュンクドー

 




ロマンロランやトルストイ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 8日(土)19時12分49秒

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【今日の名言】
「××をバカにしてもいい」という空気が充満している時に××をバカにするというのは、愚かなのである。(猫を償うに猫をもってせよ)

わが言い換え>「○○をほめなければならない」という空気が充満している時に○○をほめるのは、愚かなのである(^^ゞ

今年は冷夏らしいですが、特殊ワタシ的には例年にないクーラー使用率です。年々体力が低下しているのは分かっているのですが、今年の場合はせっかく冷夏にもかかわらず、気温の低下よりも体力の低下が上回ってしまっているのだと思われます。
数日前から湿疹のようなニキビ(嘘。吹き出物)のようなのが顔や背中や足に出ているのも暑さ負けのせいなのかも。
ということで、今日も今日とて、日中はぐったりとクーラーをかけて死んでいたのでした(ーー;。

トマトさん
>ロマンロランとトルストイ
「!」 いやあ、ど真ん中の直球ですなあ(笑)
そういえば小さい頃、世界文学全集(グリーン版というやつです)なんか読んでいたわけですが、たいがい主人公に反発しながら読んでいたことを卒然と思い出しました(実際はもっと深いのかも知れませんが私の当時の読みではそうでした)。
それでSFと出合ったときバチンとハマッてしまったのですね。SFでもジョン・カーターはキライで、ジョン・カーターの敵役を応援する読み方でした(^^;

 




(無題)

 投稿者:トマト  投稿日:2009年 8月 8日(土)05時44分37秒

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あの同級生の父親の内科医は変わった人でしたよ。小学生の入院患者に「赤毛のアン」を自腹を切ってプレゼントしたり・・・。ていうことは暗に「赤毛のアン」なんかの「良書」を読めと無言のプレッシャーをあたえたりすることですね。それって「未踏の時代」でSF黎明期に福島正美が戦った「児童文学の立場」系の人ってこういう人だったのかも・・・。どうもこの人は「良書」を読むことで「館山の雷鳥」のように心が清らかになるとおもっていたみたいですね。この内科の○○先生夫妻は地元の読書会に入っていたんですが、ロマンロランとトルストイが好きだったようですが、この人の子供(わたしの同級生)はまったくみんなと話が合わなくて、女の子によくからかわれていたけどからかわれると泣いて石もって追いかけてくるんですね。わたしも石投げられたこと、ありました。中学に入ってからも女子たちにからかわれて校庭で泣きながら石もって追いかけていました。

 




Re: 図鑑「星と天体」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 7日(金)21時34分28秒

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> No.2002[元記事へ]

トマトさん

>あれは学校図書館じゃなくて、近所の児童館の中の図書館ですよ〜
あらま、想像ははずれましたか(^^;
でも、(「図書館の本ではない本」置き場ではなく)図書館のふつうの書棚に、紛失したと思っていた自分の本が、オラも図書館の本だぜとばかり、ふんぞりかえって刺さっているのを発見したと思いなんせ。驚くことか驚くまいことか(驚くんですが)、屹度、エエー?と西川きよし師匠のように目を剥き、「ナンジャ、コリャー!」とジーパン刑事のように叫んでしまうのではないでしょうか。そんなシーンを目に浮かべてしまったのでした(^^ゞ

>「心が汚い人間の患者はどうでもよくそんな『正しい心に入れ替えるつもりもない人間』よりも心の清らかな館山の雷鳥や高山植物チングルマのほうが心配な人」
というのも妄想を喚起されちゃいますね。
いま読んでいる本に「戦争と平和」の主人公が再解釈されて出てくるんですが、そういう感じ(^^;

 




図鑑「星と天体」

 投稿者:トマト  投稿日:2009年 8月 7日(金)19時07分25秒

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 あれは学校図書館じゃなくて、近所の児童館の中の図書館ですよ〜。
友達に小学館か学研の図鑑「星と天体」をかしたら消息不明になって、そしてその友達と児童館の中の図書館に行ったらに「図書館の本ではない本」のなかにあったんです。あのときはアンタレスの直径は太陽の230倍になっていたけど、今ではその倍ということになっていますね。

ヒロシマナガサキのヒステリー女教師ですが、イデオロギーの問題というより感覚の問題でしょうね。よく「正しい心に入れ替えなさい。」といわれたものです。なんだか「ものみの搭」とかいうパンフレットを持って訪問してくる「エホバの証人」とか、エコエコと環境にいい洗剤を使わないと罪悪みたいにいってくるマルチ商法に取り付かれた主婦(ウチのカミサンの同級生で、突然電話が掛かって来たとおもったらマルチのセミナーに来いという勧誘だったそうで・・・)とか・・・

あのヒステリー女教師にとくにほめられていた男子がいたんですが、彼とは児童館の図書室でよくあったけど少なくとも私とは感覚がズレれていましたね。彼の父親は病院勤務の内科医師ですが、「心が汚い人間の患者はどうでもよくそんな『正しい心に入れ替えるつもりもない人間』よりも心の清らかな館山の雷鳥や高山植物チングルマのほうが心配な人」と揶揄されていましたね。

 




Re: SFMなど

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 7日(金)11時43分52秒

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> No.1999[元記事へ]

【本日の名言】
おそらく21世紀は米中の動物化が世界を席巻するのだろう。(志紀島啓blog)

トマトさん
>図書館に返却されていたりとか
いやそれは、私は経験ないですねえ(笑)。でも学校図書館なら十分ありえそうですよね。
自分の本を図書館で発見したところを想像して思わず笑ってしまいました(^^;

9条護持が、こういうヒステリー女教師的な(笑)ドグマになってしまっているのはいけませんよね。
どちらの陣営も姑息な修正解釈に終始せず、堂々と「自衛隊じゃなく軍隊が必要だ」「自衛隊も含めてあらゆる軍隊は放棄すべきだ」と論戦し、憲法をすっきり改正すべきだと思います。

ただネットで見かける(多分若い人たちなんだろう)右翼言説にはいいたいことがあります。われわれ老人に赤紙が来る事はちょっとありえないですが、軍隊ができ戦争となれば20代、30代、40代の若い人は徴兵される可能性がある。自分らが兵隊に行かなければならなくなる。きみたちはそういう事態を「自分自身の問題として」本気で想定して言っているんか?と問いかけたいです(アメリカが徴兵制度をやめられたのは移民(希望者)を兵隊化する、一種の傭兵制を取り入れたからで、日本では不可能です)。

しかし憲法9条改正、国民投票ともなれば、野次馬評論家的ネト右たちも、自分が軍隊に呼ばれる事態も想定して、真剣に考えるざるを得なくなります。そういう意味でも、「護憲」は曖昧化するだけなので、憲法を変えるアクションは必要だと思いますね。

 




SFMなど

 投稿者:トマト  投稿日:2009年 8月 7日(金)06時57分20秒

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人に貸した本って返って来ないことってよくありますね。図書館に返却されていたりとか・・・。

私はSFM、中学の時学校帰りの古本屋で見つけました。そこにはたしか33巻から全部バックナンバーそろっていました。買わないで立ち読みで済ませていました。あの古本屋って石川喬司の「夢書房」みたいですね。さすがに「世界女優恥部図鑑」はありませんでしたが・・・。

小学校の時の担任の先生が「ヒロシマ ナガサキ 憲法九条」でした。
ヒロシマナガサキ憲法九条思想が思想の自由だったら日本核武装論も思想の自由のはずですが、この先生に核武装論なんかを言ったら基地外みたいになって
「その考えは間違っている。」と徹底的に洗脳させるの違いありません。
なんでも昨日の式典は「○○マニアにはたまらない式典」なのだそうですが、毎年八月六日が来るとあのヒステリックな女教師を思い出してしまいます。

 




「ハイカラ神戸幻視行」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 6日(木)22時12分53秒

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岡本俊弥さんのレビュー→岡本家記録とは別の話

 




雫石さん トマトさん

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 6日(木)20時44分47秒

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雫石さん
>いくらなんでも連載6本は多すぎです。
だからゆうてますやん(^^;
SFM購読者の最大購買層(昔から購入し続けている層)が、実際にはSFMを読んでないのです。ただ購入しているだけ。
読んでないから、現状の問題点なんかまったく見えていない。当然「不満」も喚起されません。「けっ、最近のSFMはつまらんのう、もう買うの止めじゃ!」という行動には絶対に至らないのです(^^ゞ。

しかしこんな雑誌の編集部は天国でしょうね。どんな誌面を作ろうと販売部数減という編集者にとって最大のストレスが予め回避されているわけですからね(ーー;
その代わり[問題→解決]のフィードバックが機能しないので、連載6本なんていうのが、どんなにとんでもない事態であるか編集部に認識されないのです(長篇をストックしたいという完全に出版社サイド優先・読者無視の誌面づくりですよね)。
私にいわせれば、けっきょくオールドファンが癌なんです(汗)

>SFマガジン思い出帳
これ、とってもいい企画だと思います。末永く続けてください(^^)
一つ要望。できればバックナンバーで検索できるようにしていただけると重宝なんですがm(__)m

あ、それから小浜さんは、おそらく、と言うか100%当掲示板は読んでおられないと思います(笑)


トマトさん
>しかし暑いですね
本当に暑いですねえ。昔は暑さに強かったものですが今や(ーー;

>ぼくのスペースオペラ
や、トマトさんも古いSFMをよく読まれていますねえ。
私が読み始めたのは1970年10月号(脱走と追跡のサンバ第1回)から、自分で買い始めたのは71年12月号からなので、この作品はSFMでは読んでいません。
収録短篇集の『両面宿儺』で読んでいるはず。でもこの作品はあんまり記憶がありません。いま本を探していたのですが、残念ながら発掘できませんでした。おかしいなあ。勘違いかな。

ということで、目次を確認しました。
両面宿儺/渡り廊下/白く塗られたバナナ/白村江/いまひとつの日本/ぼくのスペースオペラ/未来の翳
となっていて、大体覚えているので読んだのは間違いないのですが(「白く……」と「ぼくの……」だけ記憶にない)。

1)どこか深いところに埋れている
2)誰かに借りて読んだ
3)誰かに貸したまま返って来ていない
4)その他
のうちのいずれかなんだと思います。うーん。


『激しく、速やかな死』は半分まで。面白い(^^)

 




(無題)

 投稿者:トマト  投稿日:2009年 8月 6日(木)12時23分35秒

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「僕のスペースオペラ」なつかしいですね。
あのころは第一世代が若くはつらつとしてといたという感じです。

しかし暑いですね。

 




Re: 至言

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009年 8月 6日(木)11時03分47秒

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> No.1994[元記事へ]

SFマガジン、編集長が替わってから、ますますひどくなりましたね。いくらなんでも連載6本は多すぎです。
星群のホームページの企画で、大昔のSFマガジンを読み直しています。
http://homepage2.nifty.com/sfish/seigun/archives.htm
昔のSFマガジンは面白いですね。
東京創元社あたりから、SFの新雑誌を出してくれないかしら。
どうでしょうかね。小浜くん。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




至言

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 6日(木)02時36分58秒

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【本日の名言】

まことに失礼ながら、ミエヴィルと訳者の田中一江さんは、米朝師匠ほど名人上手ではないだろう。もうすこし親切な創作と翻訳をするべきである。(とつぜんブログ)

いい加減、円城塔作品についてなにか書く際に、「なにが書いてあるのかさっぱりわからないけれど、おもしろい」という言い回しを用いるのはやめていただきたい。(ユはゆかりんのユ)

『激しく、速やかな死』に着手。

 




「ニュー・ワールズ傑作選No.1」より(完)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 5日(水)22時48分7秒

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以上、収録7篇の感想を述べてきました。ついては各著者が、生年において日本人作家では誰が近いかも併せて記入してみました。その意図は慧眼の皆さんは既にお察しのことと思います。本篇収録作家たち即ちニューワールズ誌の主要作家たちということになりますが、彼らは日本人作家では「第1世代」とほぼ同世代なんです。

巻末の「ニュー・ワールズ小史」によればジョン・カーネルからムアコックに編集長が交替し、新生ニューワールズとなったのが1964年とのこと。ただしこのときバラード、オールディスは既に一流作家でした。
一方SFマガジンは、5年早く1959年に創刊されていますが、プロパー日本人作家の登場は、なにはともあれ1961年のSFマガジンコンテストを待たなければならなかった。さらに単行本の出版となると、星新一を別格とすれば、最も早い小松左京と眉村卓が1963年ですから、いわゆる<ニューウェーブ>と<第1世代>は、世代的にも、またデビュー時期においてもほぼ同時期ということになるのです。

さて本篇の内容ですが、感想で書いたように、バラードのような従来にはないまさにニューウェーブ作品からイギリス伝統の風刺小説・ユートピア小説、ギャラクシー系の社会派SF的な作品まで、かなり幅広いことが判りました。
ニューワールズに発表された作品がニューウェーブであるとするならば、従来考えられていたというか私が何となく思い込んでいた(一種文学的な)ニューウェーブは、その一部分でしかないのかも知れません。

そしてその幅広さにおいても、実に日本第1世代と類似性が高い。
今回読んでそのレベルの高さを認識しました。とはいえ、だからといってとんでもない至高の高みにあるわけでもない(皆が皆バラードではない)ことも、よく分かりました。
「アメリカ的パルプSF」(@伊藤典夫)へのアンチな面は確かに窺えるのですが、それはポールやコーンブルースらの「改良」とそんなに離れた位置にあるわけではない。
つまり第1世代を読んできた日本の読者が、当時虚心に本集を読んでさえいたら、従来何となくイメージ的に認識していたような「隔絶した」「革命的集団」ではないことに気づいたはずなんです。すなわち内容的にも第1世代とニューウェーブは、かなり近似した部分があるのですね。

本書を読んで「暗殺凶器のような作品がSFマガジンに載るようになったらぞっとする」といった人がいるという有名なエピソードがありますが、多分その人はバラードをつまみ読みしただけで本書を完読しなかったに違いない。ちゃんと読めば「あ、イギリスにも第1世代みたいな作家がいたのね」と思ったんではないでしょうか(^^;。

バラードの印象が強烈ですから(それとカリスマだった山野浩一のアジテーションで)、ニューウェーブをすべてそのような実験小説と思いがちなのはよく分かります。しかしよーく読んでみれば、もっと幅の広い、日本人読者からすればごくふつうのSFが、ニューワールズには載っていたのだと思います。その意味で、このアンソロジーはこの巻のみで翻訳が中断してしまいましたが(イメージで端から読もうとしない人が多かったのだと想像します)、もし継続していたら、ニューウェーブに対する我々の印象も、あるいは変わって行ったかもしれないと思いました。

ところで「ニュー・ワールズ小史」によりますと、ムアコック編集長になってからもセールス的にはまったく上向くことがなく、69年に実質的に幕を閉じてしまいます。
実はこの点が唯一、日本第一世代と英国ニューウェーブの大きく異なる点なのですね。日本ではむしろ第1世代が読書人の支持を得て、一気にSF市場を拡大するのですから。

それを考えますと、どうやら日本の読者の方が、あちらの読者よりも知的レベルは高い、という結論に達してしまうわけなんですが(^^ゞ

ということで、
マイクル・ムアコック編『ニュー・ワールズ傑作選No.1』浅倉久志・伊藤典夫訳(ハヤカワSFシリーズ、71)の読み終わりとします。

 




「ニュー・ワールズ傑作選No.1」より(8)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 4日(火)22時19分21秒

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トーマス・M・ディッシュ「リスの檻」伊藤典夫訳

邦訳作品集では『アジアの岸辺』に収録。
今回読み返すにあたって、閉鎖空間、囚人的状況ということ以外、ほとんど内容を覚えていないことに気づいてびっくり。
これは自分でも意外でした。ディッシュの代表的短篇というレッテルに惑わされて(なのか?)、秀作のような記憶があったのですが、今回読み返して、「覚えてないのもある意味当然かな」と思ったことでした。はっきりいって凡作かも知れません。なんというか、読んでみて安部公房の二番煎じという感じがきわめて強かったんですよね。

シチュエーションがもろ安部公房なのです。著者名を安部公房に変えて本篇未読者に読ませたとしましょう。(ちょっとスカしたような一人称文体の類似も含めて)10人が10人そう信じてしまうのではないか。そんな風に私には思われたのでした。

本篇は1966年ニューワールズ掲載で、その1966年までに安部作品がどれだけ英訳されていたのか判らないのですが、少なくとも68年にはフランスで『砂の女』が文学賞を受賞しており、多少のタイムラグはあるにせよ、ある程度は英語で読めたのではないでしょうか。

その安部は、当の『砂の女』(1962)で少し作風が変化するというのが私の理解なのですが、本篇は『砂の女』以前の、つまり50年代の初期安部公房によく似ていると思います。そういう意味で上記タイムラグを想定しても、ディッシュが本篇執筆以前に(初期)安部を読んでいた可能性は高いと私は思ったのでした。

とはいっても、作品内で主人公が執筆する小説は、さすがにディッシュらしい片鱗が伺えます。とりわけ「ひげ虫」なんか最高に奇妙奇天烈で楽しいのですが、これまた安部の「ユープケッチャ」を連想しないではいられない。
ユープケッチャは『方舟さくら丸』で登場する奇虫なんですが、もともとは70年代前半に雑誌「波」に「周辺飛行」のタイトルで連載していた夢ノートというかアイデアの覚書みたいなのに載ったのがユープケッチャの初出だと思います(記憶が正しければ)。
だとすれば、66年ニューワールズ掲載の本篇の元ネタではありえないということになる(少なくとも「ひげ虫」のアイデアは)。

案外ディッシュという作家は、安部公房と同じような思考(嗜好)性の持ち主なのかもしれません。いやそれはそのとおりでしょう。どちらも「カフカの子」であるのは間違いありませんから。
でもそうだとしたら、本篇が安部の影響とは独立に成立した可能性も浮上してくるのですよね。しかしながらたとえそうであったとしても、安部公房読者にとって(つまり日本の読者にとって)本篇が既視感に満ち満ちているのは如何ともし難く割りを食ってしまうのは避けられないのですね。それが日本の読者にとっての不幸なのか、ディッシュにとっての不幸なのか、一概には言えませんけれども(^^ゞ

なお、本書の記載を信ずるならば、1939年生れのディッシュは、山野浩一と同い年です。

《次回で完結》 

 




「ニュー・ワールズ傑作選No.1」より(7)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 3日(月)22時24分18秒

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ラングドン・ジョーンズ「音楽創造者」伊藤典夫訳

邦訳短篇集には未収録の作品。
火星に演奏旅行に来たヴァイオリニストの主人公は、地元の素晴らしい指揮者を得、快心のパフォーマンスを成し遂げる。観客は拍手を送ります。が、それに笑顔で応えつつも主人公は心の中で観客を憎悪する。
なぜならば観客には、その演奏がいかに高みを行くものであったか理解できてなかったことが、主人公には肌で分かったから。

「わかってないんだ。やつらにとっては、いい曲がまた聞けたというにすぎないんだ。バカどもめ!」

火星には火星人の廃墟が見つかっており、その廃墟は火星人が非常に洗練された種族であることを物語っていた。また火星人の幽霊が出るという噂があった。

「もし火星人が存在するとしたら、われわれのことをどう思うだろう」との指揮者の問いに、主人公は、「あの聴衆をみたあとでは、考えるのもいやだね」「もし、わたしが火星人なら、われわれを殺すだろうね」と応える。

これまでで分かるように、本篇はSF版「地獄変」なのです。

そんな主人公ですが、(今回の演奏も含めて)いまだ完璧な音楽に届いたことはありません。すぐそこまでは達するのですが、最後の一線がどうしても越えられないのです。それが主人公にあせりにも似た不定愁訴感をもたらしている。

指揮者と別れた主人公は、夜空を映して凄いほど青みを帯びた砂丘を散歩します。その世界のたたずまいが、彼にヴァイオリンを取り出させて演奏させます。

「ヴァイオリンの音色が、火星の無人の砂丘にこだましはじめた。砂丘の曲面が音を増幅し散乱させるので、巨大なホールの中で演奏しているような効果を生んだ」

素敵な描写ですねえ。でもこれがイカン。本篇で唯一の欠陥なのです。最初の方で、人間が
「鼻の呼吸補助装置」を装着していると書かれているのですから、火星の大気は薄いのです。この描写はありえません(^^;

閑話休題。演奏しているうちに主人公はある観念に行き当たる。
「音楽とは、人間的なものなのだ」と。「マーラーやベートーベンは、なぜ10番目の交響曲を書くことなく死んでいったのか? その理由は、それ以上書いていたら、それまで到達した以上に進んでいたら、彼らは非人間的なものにならざるを得なかったからだ。だからこそ、彼らは死んだのだ」。彼の演奏が「先人の到達した点を越えられなかった理由は、そこにあったのだ。音楽が平和と充足を与えることができなかった理由は、それなのだ」……

そのとき、彼の耳に不思議な音楽が届く。それは「越えて」いました。それを聞いている主人公は呼吸することも満足に出来なくなる。既に彼は生きる意欲を失っています。もちろん人間(生)を越えた音楽を聴いてしまったからです。

不思議な一団が、砂丘の向こうからやってきて、ドーム都市のほうに向かっているのが、主人公の目に映る。音楽は彼らが演奏していた。
主人公は気づく。火星人が、地球人を駆逐しようと遂に攻撃を開始したのだと。音楽という武器で……

でも、主人公の喉から笑い声が洩れます。火星人は勝てない!
確かに指揮者や楽団員は死ぬだろう。しかし一般の植民者は――この至高の音楽の真の価値を理解し得ない「バカども」には何の痛痒も与えないに違いない! 
「彼らの前にあるのは、俗物根性の壁であり、それは想像を絶するほど強力な砦なのだ」。そう思いながら主人公は死んでゆくのですが……

 そのあいだも、やせ細った火星人の軍隊は、黒い砂丘のあいだをドームめざして進んでいた……

ああ、いいですねえ。抒情的な古式床しいサイエンスファンタジーが、ラストで意地悪な哄笑に転じ(「地獄変」すら超えて)ニューウェーブとなります。秀逸でした。

1943年生れのジョーンズは、堀晃の一年先輩になります。

 




「ニュー・ワールズ傑作選No.1」より(6)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 2日(日)22時35分11秒

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デイヴィッド・I・マッスン「二代之間男」浅倉久志訳

これはまたイギリス伝統の(スィフトからウェルズを経てニューウェーブへと至る)諧謔精神に満ちた風刺的「未来小説」です。
ただし本篇での未来は何と1964年。で、現在が1683年なのです(^^;

英国教会の敬虔なる信者すなわち17世紀のごくふつうの常識人である主人公は、たまたま未来からのタイムトラヴェラーがタイムマシンから降りたところに出くわし、興味本位でタイムマシンに乗り込んでみるのですが、ふとしたはずみでタイムマシンは作動し、1964年のイギリスにやってくるのです。

つまり本篇は17世紀の常識的イギリス人が見た現代イギリス見聞録(本篇は1966年ニューワールズ掲載)というわけ。ちなみに1964年といえば東京オリンピックの年。本篇でも東京オリンピックが話題になっています。

さて、いうまでもなく17世紀人から見た20世紀は、風俗習慣が大きく異なっており、主人公は驚くことばかり。ただしそれはわれわれ現代人からすればきわめて当たり前のことに驚いているわけです。つまり異時代の目で現代を見ることで、われわれには当然すぎて見えていなかったことが、まるでマジックミラーに映し出されたように歪みが拡大されて見えてくる。たとえば――

「是は婦人専用に出版されて居る極彩色の雑誌を読んで知つたのですが、身分の高下を問はず衣装道楽に耽つて、小児の躾は何処吹く風で、専ら浮気遊びや男を蕩込むことに現を抜かして居るのです。戸外を出歩くにも素足の儘か、精々密着した極薄地の長靴下を穿く位で、膝の上まであられも無く脚を露はした姿です(……)然し男子の雑誌の或物に至つては、文章と云ひ、画と云ひ如何はしさを通越て猥雑至極でした」(元文は正字)

などは失笑せずにはいられませんし、

「然し、実際には英国の半分の王様は金銭で有つて、大商人や商館の偉方は随分好き放題なことが遣れるやうです。残り半分の王様は職人たちで、待遇に一寸でも不満が有ると、直に其所属の組合が全員に道具を捨てゝ持ち場を離れるやうに呼掛け、思ひ通に成る迄幾月間も粘ります」(元文は正字)

というのはなるほどな、と頷かされてしまう。これらはSFの大いなる効用であります(逆に17世紀の国教会の信徒である主人公のアイルランド人への強烈な差別意識も、著者は怠りなく挿入しています(^^;)。

ところで、こういう手法は小松左京がよく使いましたね。『ゴエモンのニッポン日記』は現代ニッポン社会を宇宙人に観察させることによって、当事者(内存在)であるわれわれには当たり前になってしまって見えにくくなっていることをわれわれの眼前に再提示する効果がありました。

閑話休題、「元文は正字」と注意書きしたのは他でもなく、英語の原文では本篇は17世紀の英語で書かれているらしい。それを(17世紀といえば江戸時代。しかし西鶴の文体を真似て書いても誰も読めないだろう(笑)とのことで)戦前風の正字旧かなで対応させているのですが、訳者の苦労は充分に報われていると思います。

結局イギリスニュー・ウェーブは、一面ではイギリス伝統の風刺小説の衣鉢を継ぐ(ウェルズに回帰する)ものであることが、本篇によって窺えるわけです。

本書では著者の生年を把握できなかったようですが、調べたところ1915年生れのようです。今日泊亜蘭より2歳年下になりますね。

 




「ニュー・ワールズ傑作選No.1」より(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 2日(日)17時04分11秒

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ジョン・ブラナー「ノーボディ・アクスト・ユー」伊藤典夫訳

この作品は本書でしか読めません。というか著者の短篇集はたぶん日本では出ていないと思います。日本で出ているのはニューウェーブ以前の書き飛ばした通俗SFばかり(とはいえそれはそれで奇妙な小説で、なかなか味わいがあるんですが)。非常に不遇な作家といえるでしょう。

そういう次第で、私自身もブラナーについては確固とした作家像を持つことができなかった。ほんとうにバラード、オールディスと並び称される作家なの??? という感じだったのですが、本篇を読み、なんとなくイメージが確定してきたように思います。
巻末解題で訳者が述べているように、
「むしろフレデリック・ポールの書くものに近い」のかも知れません。

本篇は、ハリスン『人間がいっぱい』やディッシュ『334』と同様「人口の増えすぎた地球」という、1960年代当時に想定された「もっともありえるかもしれない近未来」であり、かつテレビが民衆の動向に直接影響力を持つようになった社会が舞台の「ディストピアSF」です。

テレビ各局では(視聴者に死にたがるように仕向ける)擬似イベントドラマがしのぎを削っており、視聴率ではなく、そのドラマを見ることで何人の人間が自殺したかというDOA(Dead On Arrival)の数値で競い合っています。プロデューサー兼役者の主人公の番組はDOAも高く好評を博していたが、最近ライバル局の追い上げがきつくなっていた。そんな折も折り、看板女優でもある妻が子供ができたという。子供を作ったなんてことが広まったら番組は壊滅だ。主人公は妻に下ろすように説得するも、噂は早くも広まっていた……

という、ある意味コミックストリップめいた話なんですが、人口問題をテーマとしているらしい未訳の代表的長篇『ザンジバルに立つ』とおそらく同系列なのでしょう。

つまりわれわれ日本の読者の考えるニューウェーブとはちょっと毛色が違って、先ほど挙げたポールやハリスンのイギリス版というところが評価されていたのではないでしょうか。イギリス人にとっては、いわゆる社会派SFもニューウェーブとみなされていたのかも知れません(そういえばオールディスとハリスンは親友でしたね)。

原書では、テレビに飼い慣らされた人々らしく
「ドラマのなかの会話は、日常生活において使用頻度の特に高い語句を用いて」おり「語り手の言葉のなかにも常套句が頻出する」とあり、それをうまく日本語化できなかったかもしれないと心配しています。
おそらく今なら「2ちゃんねる用語」で喋らせれば、それなりに感じが出てくるかもしれません。2ちゃんねらーはことさら2ちゃんねる用語で喋ろうとしますから(^^;

以上のような作風を、訳者は
「アメリカ的パルプSFの悪癖から脱したとはいえない」というのですが、こういう物言いが実にこの訳者の悪癖で、現実を見ずに二元論的観念論で喋ってしまっている。それならば初期の筒井康隆を訳者はどう認識していたんでしょうか?
上述したようにギャラクシー系の社会SF(の秀作)は、イギリスではニューウェーブとみなされていたのかもしれないのです。

なお1934年生れのブラナーは眉村卓、筒井康隆と同い年になります。

 




Re: 暑い。

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 2日(日)16時58分46秒

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> No.1987[元記事へ]

トマトさん
>私用の東芝ノートが壊れてしまいました
それはお気の毒に。
私のPCも最近不安定で心配しています。夏場の高温はPCには非常によくないらしいです。しかもわがPCのある部屋はクーラーがないのであります(ーー;

>甲子園
母校は駄目でしたが、大学の高等部がウン10年ぶりに出るらしいです。
春は10年ほど前に出たことがあるんですが、そのときは大学のチアガールが応援団に加わっていたのでした。それが(まあ当然なんですが)高校野球にあるまじきなまめかしさで、何をすんねんという感じでした。私は大学生が応援するのはイカンと思ったことでした。今年も楽しみ(^^;

 




暑い。

 投稿者:トマト  投稿日:2009年 8月 2日(日)16時30分33秒

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私私用の東芝ノートが壊れてしまいました。
娘のデルノートも買ってすぐにCall your heardwear venderの青画面でたそうですから泣。

 野球といえば今年郷里の学校が甲子園に出られなかったのでなんとも私的には盛り上がりに欠けてしまいます。甲子園というと野球部はもちろんだけど、応援のブランバンドも憧れの舞台です。
甲子園の中継が流れる傍らにセミの声とスイカがあるっていうのは夏の風物詩ですね・・・。丸亀商業、天理高校、桜美林、「LP」学園に「調子」商業、丸子実業に作新学院…子供のころから甲子園というとあの感動がありましたね。

甲子園、そして夏祭り、ショートパンツの似合うお姉さんにドキッしたとおもったら気になるあのコは浴衣姿で夕涼み、そして向こうから聞こえる暴走族の爆音・・・郷里の夏の思い出です。そこにUFOでも着陸すれば・・・というより後は中岡俊哉の「恐怖の心霊写真集」ですね。霊よりもきれいなお姉さんを探していた私でしたが・・・。

 




「ニュー・ワールズ傑作選No.1」より(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 2日(日)13時42分5秒

返信・引用

 

 

J・G・バラード「暗殺凶器」伊藤典夫訳

本篇は、元来コンデンスト・ノベル連作集『残虐行為展覧会』の1ピースであり、本作のみで自立した作品ではありません。が、下に述べるように本篇を独立した絵画として充分に楽しむことができます。

このコンデンスト・ノベル(濃縮小説)という形式の発明が、既にして本篇(というより作品集そのもの)を傑作たらしめています。
濃縮小説とは、その字義のとおりぐつぐつ煮込んで水分を蒸発させてしまった小説です。コンデンスミルクやコンデンススープと要は同じですね(>おい)。

一般的な小説を加熱し濃縮していくと、最後に塩分(結晶)が析出されます。濃縮小説とは、最終的にはこの塩分結晶をそのまま提示したものといえるでしょう。
つまり小説世界が「結晶化」されて、われわれの現前に開示されるわけです。

するとそのとき、あたかもシュールレアリズム絵画のような(あるいは50年代の前衛映画のような)、異様な風景が立ちあらわれてきます。水分を失った風景は歪み、変形されており、唐突のように現前します。水分とは、いうまでもなくリニアな因果律的ストーリー成分です。

余談ながら、もしブルトンが生きていたらば、濃縮小説もまたシュールレアリズムの有力な一手法として認定したかも判りません。1966年に亡くなったブルトンは、奇しくも同年から開始されたバラードのかかる試みを知らなかったのは疑いありません。

閑話休題。水分が飛ばされていますから、もちろん潤いなど微塵もありません。酷薄苛烈な異様な風景が、なんの糖衣もなく直接目に飛び込んでくる。ある意味「目に辛い」形式ではあります。
ストーリーを飛ばされていますから、その相はいきおい絵画に近づきます。つまりストーリーを求めて読むのは無意味。結晶化された小説世界を、絵画のようにそのまま味わえばいいということになります。

それは当然、線的に「前から順番に」読んでいく必要はないということです。
われわれは絵画をどのように鑑賞するでしょう。まず全体を見、それから近づいて細部を、上から下へ、下から上へ、あるいは右から左へ、左から右へ、自在に視線を移動させて見ているはずです。
本篇もそのようにして読む必要があります。線的に読むのは無意味です(ですから個別の感想も無意味)。
結晶化した小説世界の、その結晶の輝きを愛でてほしいものです。
そうしますと、飛んでしまったはずのストーリー成分が、ふたたび、炙り出しのように浮かび上がってくるはずです。

その効果は連作集全体にもいえるもので、一種の「絵小説」といってもよいかもしれません。
連作を構成する個々の小説は、それぞれ一幅の絵画なのです。連作集『残虐行為展覧会』は、同タイトルのテーマのもとに制作され、美術館の一室に展示された一連の絵画にひとしい。まさに一冊の本が「展覧会」なのです。
観客はその室内を行ったり来たりして見ていれば、おのずと(総合)主題が了解されるように、連作集を通読すれば、そこにやはり炙り出しのように、物語が浮かび上がってきます。ぜひ作品集で通読していただきたいと思います。

NW-SF誌にぽつぽつと載る濃縮小説は、強烈でした。そのように単体でもバラードの描く結晶世界はとんでもないイメージにみちています。でもやはりそれは畢竟風景画でしかない。全体像は連作集『残虐行為展覧会』を通読して初めて、たち現れるのです。

なお1930年生れのバラードは、小松左京より1年上級になります。

 




「ニュー・ワールズ傑作選No.1」より(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 2日(日)10時48分8秒

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ロジャー・ゼラズニイ「12月の鍵」浅倉久志訳

この作品は作品集『伝道の書に捧げる薔薇』に収録されています。
編者ムアコックの寸評が当を得ている。
「人類の生物学的変形とテラフォーミングという、SFにはなじみ深いテーマを取り上げて、力強いラブストーリーを書き上げただけでなく、そうした改変を試みることの倫理性をも論じている」(まえがき)
かかる「倫理性」(再考性)が本篇をニューウェーブたらしめているのですが(60年代後半という時代性の反映でもある)、なんといっても本篇で味わうべきはその文体というかスタイルの非凡さでしょう(編者はスタイリストといっている)。ストーリーをそのまま他の作家が書いても、絶対に「この話」にはならないと思います。いわば小説がそのまま「詩」になっているのです。この資質はブラッドベリに匹敵するものがあります。

その意味で、基本、著者はサイエンス・ファンタジーの作家といえるようです。訳者もあとがきの解題で
「ブラッドベリやスタージョンを思わせる情感ゆたかな文体」と書いています。
続けて
「ハードな科学的エキスポラポレーション」とも書いているのだがこれはどうでしょうか?
高重力酷寒の惑星に適応する形態がキャットフォームである科学的根拠は?(笑) やはりサイエンスファンタジー派ですね。

ただキャットフォームという設定からか、コードウェイナー・スミスっぽいところもあって、この設定自体は成功しています(やはりSF作家であるより詩人です)。
なお本書の記載を信ずるならば、1938年生れのゼラズニイは豊田有恒、平井和正と同い年になります。

 




向日葵

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 8月 1日(土)22時51分33秒

返信・引用

 

 

こう蒸し暑くては何をする気にもなりません。畳に寝ころがって『霧を行く』をぱらぱら読み返していました。

本書には眉村さんの句が400句収められています。400句も集中的に読むと、そこにいくつかのオブセッションめいた感じ方が発見できて面白い。
そのひとつに向日葵があります。向日葵は、眉村さんにとって視線を感じる存在みたいなんですね。

 
深夜物陰に向日葵潜み立つ

この句は、ひとけの絶えた夜道を歩いていて、ふと見ると向日葵がこっちを向いていて、おそらく眉村さんはギョッとされたのではないでしょうか。
たしかに向日葵の黄色は暗闇でもぼんやり浮き上がっているでしょうし、背の高さも丁度人間の顔のあたりになります。
枯れススキは定番ですが、向日葵もそうやって改めて見れば不気味ですね(^^;

他に――
 
向日葵が全部目となるさやうなら


『ニュー・ワールズ傑作選No.1』は、あと残り1篇。
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