ヘリコニア談話室ログ(2009年9月)




Re: SFMより「太陽の知らせ」(1)

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009年 9月30日(水)21時51分53秒

返信・引用

 

 

> No.2081[元記事へ]

私は、10月11日の本会に出席する予定でおります。
朝、出社してそれからの出席になります。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ftotuzen703

 




Re: SFMより「太陽の知らせ」(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月30日(水)20時30分5秒

返信・引用

 

 

> No.2080[元記事へ]

雫石さん

>なんだか、SFM、少し良い方向に転がっていっているように感じるんですが
私は久しぶりに読むので、良し悪しを言う資格はないのですが、今月号は読みがいがありそうですね(^^)
ところで雫石さんは京フェスどうされるんですか? 私は迷っているところ。行けるとしても本会は仕事で無理で、合宿のみなんですけど……

 




Re: SFMより「太陽の知らせ」(1)

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009年 9月30日(水)09時29分52秒

返信・引用

 

 

> No.2079[元記事へ]

SFM,先月号は及第点をつけました。
私も11月号を、今、読んでます。
「太陽からの知らせ」ほんとバラードしてますね。
なんだか、SFM、少し良い方向に転がっていっているように感じるんですが、

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2F%2F%2F6823.teacup.com

 




SFMより「太陽の知らせ」(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月29日(火)20時33分5秒

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「太陽からの知らせ」を読み始めたところなんですが、これ以上は望めない完全無欠のバラードワールドでびっくりするやらうれしいやら! 今頃になってまたこのようななつかしいランズケープがのぞめるなんて、いや眼福眼福(^^)。
ところで巻頭、パラボラ集光器によって主人公が
「自分自身が空に舞い上がり、白いジャケットを伸ばした袖が奇形の鳥の翼のようにたなびく姿」を見るシーンが出てくるんですが、私は一読これはあれだな、と思いました。
あれとは、近頃またニュースを賑わせているロマン・ポランスキーの学生時代のシュルレアリズム映画「タンスと二人の男」です。この映画、タンスの鏡に魚を乗せる場面があるのです。一瞬あたかも魚が空を飛んでいるように見える美しいシーンなんですが、本は読まないけど映画は観るよ、とどこかで語っていたバラードがこの有名な前衛映画を観ていないはずがなく、おそらく上記の場面はそのオマージュだろう。
また打ち捨てられ廃墟と化した黄昏のヴェガスの路上で、「遁走」という時間が固まる奇病で佇立したまま凝固し長い影を曳く人びとの姿は、さながらキリコの描く黄昏のイタリア広場にたたずむマヌカンを髣髴とさせられます。

もしやと思って検索したら、ありました。なんでもあるなあ、youtube(^^)
  2-1↓
  2-2↓

 




SFM11月号

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月28日(月)20時26分30秒

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SFマガジン11月号が届きました。
SFMを買うのは久しぶり。表紙の「すばらしさ」に思わず購入しちゃいました(笑)
ぼちぼちと読んでいこう。まずはバラードの中篇から。

や、長山靖生さんのブックスコープに『ハイカラ神戸幻視行』の書評ががっ!!

 




「スフィア」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月27日(日)22時27分54秒

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yaOでマイクル・クライトン原作「スフィア」(98)を見る。ダスティン・ホフマン、シャロン・ストーン出演。
面白かったけど、結局館ものホラーの海底版なんだよね。いうなれば海底ゴシック(+イドの怪物)。いまやSF映画の99パーセントはこのパターンでは?
さすがにスコープサイズをパソコンモニターで見るのは辛いですね。ブラウザの拡大ボタンで210%に拡大して横幅を合わせたけど、それでも縦は画面の半分なんだもんな。

 




「検索バカ」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月27日(日)18時27分20秒

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藤原智美『検索バカ』(朝日新書08)、読了。

本書は、一面ではいわゆる<動物化>の事態を別角度から述べたもので、著者は情報検索がきわめて容易になった結果、コピペが思考に取って代わりつつあるのではないかと憂う。これは私も耳の痛い指摘で、検索したものをコピペするとき、確かに私は「思考」しているとはいえません。思考する代わりに、ずらりと並んだ売り場から気に入った吊るしのスーツを選んで身につけただけ。我々はいまや思考から嗜好まで検索に代替させていっていると著者は考えます。

他面、最近よくいわれるのが「空気を読め」ということでだそうで、著者は、小さな子供がわがままな行動をした時、父親が「空気を読め!」と怒ったという驚くべき場面を目撃するのですが、小さな子供は「空気を読め」といわれても判断するにたるリソースをいまだ蓄えていないわけできょとんとするばかり。実際は具体的に、たとえばの例ですが「病院では走リ回るな」といってあげなくてはいけなかったのです(この例は私がいま思いついたものです)。「空気を読め」にはこのような具体性のなさがあるのであって、社会的スキルをいまだ持たない社会成員にそんなことをいっても萎縮するだけなんですよね。
その結果「空気を読め」という「同調圧力」にストレスを感じる成員は、とりあえず「みんないっしょ」であるように、「各種ランキング」に留意しそれを取り込もうとする。今日ほどランキングの支配力の強くなった時代はないかもしれません。又聞きですが家電業界ではシェア2位ではすでに採算が合わないらしい(しかもいまや書評にまでランキング化が及びまがい物の統計が幅をきかせている!)。

ここにおいて「一面」と「他面」が合体します。ランキングに従った行動様式とは、とりもなおさず「検索→コピペ」に他ならないからで、結局「空気を読め」が充満する社会とは思考が衰退した「動物化社会」であるといえるのです。

では昔の人間に比べて今の人は思考力がないのか? そうではないと著者は考える。かつての日本には「世間」(阿部謹也)があり、それに人びとはやはり思考を棚上げして自身を丸投げしていたのです。「世間」とは個人の名前が認識されている社会(地縁血縁社会)です。世間が機能する社会では、たとえばどんな暴走族の若い衆も、自分の住んでいる家があるムラに帰宅するときは、その手前でスピードを落とし静かに村に入ってきたものでした。それはムラの全員が、その若い衆がタバコ屋の武田ん方のバカ息子であることを知悉していたからに他ならない。そういう相互監視の網の目が機能する社会が「世間」で、実際「世間」が崩壊した今日、スーパーで高齢者の万引が増えているらしいのですが、それこそ昔の人は「品格」があったというのが嘘である証拠だと著者は指摘します。

したがって「空気社会」も「世間」も、根本は同じなんですが、「世間」の方が身元の把握による相互監視が機能している分、社会の混乱度は低かった。
だからといって今さらあの陰鬱な「世間」には帰りたくないというのが、ホンネなんだそうで、実は「世間」は、成員の主体性の強化確立と共に西欧型の「社会」へと移行していかなければならなかったのです。本書で不良グループ(?)の喧嘩に、無謀にも(と著者並びに見物人は思った)仲裁に入った外国人青年こそ「社会の成員」であると著者は考える。
ところが日本では主体の確立が不十分なまま「世間」だけ先に崩れてしまった。その結果が「空気社会」なんでしょう。
では「空気社会」に抗するにはいかにすればよいのか。著者はいろいろ提言していますが、結局個々人がしっかり「思考」せよということになるわけで、ところが「思考」を妨げる「コピペ」がツールとしてさらに深く社会に根を下ろしていく現状では、きわめて頼りない印象しかないのでした。

以上、今回は異例にも一度もコピペしないで書いてみました。結果として著者の意見と私の意見が混在してしまいましたが、書評ならぬ感想文ですから、これでいいのだ――ということで(^^;

 




「いさましいちびの駆け出し魔法使い」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月27日(日)13時50分13秒

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だって(笑)→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.tsogen.co.jp%2Fnp%2Fisbn%2F9784488535056
原題調べたら「High Wizardry」。
大体こういうのって、内容に自信がないから小細工に走るんだよね。
――と読者に思われてしまうので、実は結局マイナス効果しかない(汗)
いずれにしろ著者は無関係で、二重の意味で失礼な話。
訳者の人も穴があったら入りたいでしょう。山の穴穴(>それは違う)。

 




ボルヘス「聊斎志異」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月26日(土)20時22分25秒

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ボルヘス編『聊斎志異』中野美代子訳(バベルの図書館88)読了。

本書は400篇をゆうに超える『聊斎志異』のなかから、ボルヘスによって精選された14篇(プラス『紅楼夢』より2篇)が、中野美代子の名文によって――ということはすなわち原著からではなく原典より直接――訳出されたもの。

一般的には怪談集であると認識されている『聊斎志異』ですが、その厖大な収録作品中から、ボルヘスがどういう意図でこの14篇をセレクトしたのでしょうか? それは序文を読むと判ります。

序文で編者ボルヘスは、この怪談集『聊斎志異』について、意外にも、ポーやホフマンではなくスウィフトを思い浮かべるほうが理に適っているといいます。それは風刺的意図が強いからであると。
ではこの作品集が一体何を風刺しているのか? それは
「不透明な役人の世界」であるとする。

実際、本書に採録された作品の殆どが、あの世であれ仙境であれ地獄であれ、その世界では現実世界さながらに役人が幅をきかせているのです。
「迷信深い性格を付与された中国の人たちが、ともすればこれらの物語をあたかも現実のことであるかのように読みがちであった」とボルヘスは述べますが、それはまさに「聊斎志異」の幻想怪異の世界が、スウィフトの描き出した世界同様、中国の現実そのものをそのまま仮構世界に移し変えたものであったからに他ならない。すなわち賄賂の前には真実や義などなきに等しい官僚世界を――

ところでそれは中国だけのものではないと私には思われます。けだし東アジア世界に共通するもので、日本も例外ではありません(ボルヘスは
「およそこの地上のいかなる所、いかなる世紀にも見られるそれらのもの」と書いていますが)。小室直樹が中国的なそれ(賄賂体質)と峻別して、日本には中国にはない仏教の倫理によって、独自の資本主義の精神を発展せしめたと主張したわけですが、今日暴かれ始めた日本の現実(官僚の腐敗)が、それが虚構であったことを如実に証明しています。やはり日本は中国世界との共通性のほうが強いのです。

ただ悪にしろ何にしろ、それを徹底することにかけては日本人は中国人の足元にも及ばないのは事実でしょう。例えば
「孝子入冥」を読むと、主体性が薄弱で和を以って尊しとする(それもまた良し悪しではあります)我々日本人には、作中人物たちの苛烈さは、それはちょっと誇張がすぎるとして虚構っぽく感じるかもしれません。しかし、実際中国人にはそれが日常的なのかも。白髪三千丈的描写も、実は中国人とすればそのままを述べたものなのかもしれない。それを誇張と思ってしまう日本人とは、たしかにその面では違いがあるかも知れません。
そういう風土だからこそ、科挙というとんでもない制度が発明されたんでしょう。でも結局科挙もまた現実には賄賂の温床となってしまっているのが本書を読むとよく判りますね。

ボルヘスが本書を編纂しようと思った動機は、『聊斎志異』が単なる怪異譚ではなく、そこには中国社会の現状への諷刺があったことを強調したかったのではないかと思われます。

 




「暗黒の城」妄想編

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月26日(土)15時05分59秒

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麻希名という名前は一般的ではないだけに、どうしてもmachinaとダブってきますね。ひょっとしたら実際、麻希名は機械仕掛けなのではないのか。そう著者によって想定されているのではないでしょうか?
そうだとすれば美咲という命名も意味を帯びてくる。ミサキとは霊の一種ですから。
「ミサキは、日本の神、悪霊、精霊などの神霊の出現前に現れる霊的存在の総称。名称は主神の先鋒を意味する「御先」(みさき)に由来する」wikipediaにあります。
つまり生身の美咲は人間でも、その「内部存在」は、高位存在のミサキ(人間界との接触点)だったのかも。うーむ。背が高いと再三描写される佐藤美咲について、私は、この作者安易に伊東美咲のイメージを流用してるなあ、と考えていたのですが、いや浅墓でした。

という私の想像が正しければ、「ダーク・キャッスル」第2部は機械仕掛けの麻希名vs霊的存在(ミサキ)の美咲の人間界を超えた闘争となるはず。
というのはほかでもなく、マキナという機械仕掛けを創造した存在が当然そこに想定されていなければならないからで、美咲の後ろ楯が善神だとすれば、もとよりそれは悪神となる道理でありましょう(但し逆の可能性もあり)。
第二部は一転神々の闘争の物語となる可能性があります。少なくともそういう背景設定が明かされるに違いない。――と私はここではっきりと予測し記録しておきます(^^ゞ

 




オリゴ党公演のお知らせ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月25日(金)21時57分4秒

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     origo

大阪を中心に活躍する劇団、オリゴ党の公演案内が届きましたので、お知らせします。

今回、オリゴ党さんは「西には果てがないから」というタイトルで、なんとあの「西遊記」に挑戦らしい。
ただしあらかじめお断りしておきますが、脱構築劇団オリゴ党が打つ芝居でありますからして、多分というか間違いなく原典とはまったく別物になっているに違いありません。関係者でもない私がいうのもなんですが、ベタな作品ではないと思われます。西遊記かあ、じゃ幼稚園の子供連れて行こうというのはちょっと違うと思われますので念のため。そんな勘違い誰もしませんか、失礼しました(^^;

三蔵法師役には可愛い三枚目役が多かった田中愛積嬢が大抜擢とのこと。そういえば田中愛積さんってなんとなくどことなくかすかにほのかに夏目雅子似ですよね。適役かも(アタマは剃らないらしい(^^ゞ)
前回の公演は行けなかったので、今回は万難を排してでも見に行くつもり。公演詳細はこちらから→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.origo-tou.com%2F

 




「暗黒の城」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月24日(木)22時28分35秒

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有村とおる『暗黒の城ダーク・キャッスル(角川春樹事務所04)、読了。

結局300ページあたりで寝落ち、朝起きて残り30ページを読み終える。いやー面白かった。SFサスペンスです。SFの冠は別に要らないかも。先々回の『セカンドムーン』の感想文で、福田和代を引き合いに出しましたが、むしろ本篇こそ福田作品ともろ競合する作風かもしれません。文体はミステリ的に手がたく、残った謎はありません。本格ミステリではありませんが、ミステリーの文脈で読んでも十分満足できると思います。

堀さんが本書の感想をアップロードされています。
「女性の造形がうまくて」と書かれているんですが、それは私も同感でした。ただケチをつけるなら、主人公の男がちょっとバカすぎというかニブすぎなのが気になった。この作品、主人公が作中の女性なみの頭脳を持っていたら展開はもっと変わったのでは(^^ゞ

小松さんが「ドストエフスキー的」と評したそうですが、なるほど。私は読中ヴァンダインの描く犯人を二重写ししていましたね(^^;。そちらに着目して読むならば、本書は本格SFといってもよいでしょう。その意味では、本篇はアンダースン『脳波』なんですよね!
さてラスコーリニコフは死にましたが、もっとおっかなそうな麻希名とその息子は生き残っているんですよね。当然続篇では麻希名との対決が準備されているのでしょうか。あ、そういえば霊的存在と化した(のか?)美咲の謎が残っていますし(笑)。うーん続篇出ないのかなあ……。

 




「暗黒の城」着手

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月23日(水)22時44分3秒

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有村とおる『暗黒の城ダークキャッスルに着手。
小松左京賞シリーズ第4弾! 一気に半分(150p)読んでしまった。ちょっと休憩がてら書き込みしています。面白い! 小松左京賞、今までのところハズレなしです(^^)
この作者、調べたらこの作品だけなんですね。筆も手馴れていてなんぼでも書けそうに思うんですけど。どうしてなのかな?

 




「妖精のクロニクル」(又)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月23日(水)01時00分28秒

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『妖精のクロニクル』の再読に入っているんですが、読むほどに妄想があとからあとから湧きあがって来て想念が次から次へと拡がっていくので、なかなか進みません&まとまりません。もともと脳の容量が小さいため一遍に入れようとしても忽ち溢れてしまう。零れないよう少しずつ進めていくしかないのです。そのためにあとから読み始めた本にどんどん抜かれて行っている現状ですが、致し方ありませんな。

今日も今日とてさる方と話していて、芸術の発生には「<お大尽>がパトロンとなって文化を保護してきた」という経緯があるという話になり、そういう意味では芸術は「所有」と共に生まれた表裏一体のものなんだなあ、と改めて気づいた次第。文化とは自然の対概念ですが、芸術とはまさに文化の代表なんですよね。

加川良によって採録された高田渡の有名な「歌わずに済めばそれが一番いいんだ」という命題がまさにそれで、理想的なユートピアでは芸術は消滅しなければならない。
縄文的世界観に還るとは、当然そのような事態も内に含んでおり、著者が弥生的世界観を必ずしも否定しないのはそういう状態に肯んじえないからだと推測されるわけです。

なんてことを妄想していたりしますから、今日も「妖精」再読は数ページも進まないのであります。

 




「アドルフに告ぐ」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月22日(火)10時28分11秒

返信・引用

 

 

手塚治虫『アドルフに告ぐ(1)』(文藝春秋85)
手塚治虫『アドルフに告ぐ(2)』(文藝春秋85)
手塚治虫『アドルフに告ぐ(3)』(講談社手塚治虫漫画全集96、元版85)
手塚治虫『アドルフに告ぐ(4)』(講談社手塚治虫漫画全集96、元版85)
手塚治虫『アドルフに告ぐ(5)』(講談社手塚治虫漫画全集96、元版85)
、読了。

私は本篇を「漫画」としては読んでいなかったように思います。その圧倒的な読後感(読中感)は、さながらに見事な「長篇小説」を読んだ(読んでいる)という感じだったようです。雫石さんのところでコメントされていたように、まさしく「上質のミステリー」の感触があって、漫画でもこんなことができるのかと驚かされました(私にとって漫画とは専らギャグや諷刺のジャンルであったので)。とはいえこれは漫画に普遍的な出来事ではなく、そもそも(逆説的ですが)「漫画世代ではない」手塚だからこそなしえたことではないでしょうか(70年代の少女漫画家は知りませんが)。筒井のある種の作品が小説をもって漫画に殴り込みをかけた作品であるとするならば、本篇は漫画で長篇小説に挑戦した作品といえるに違いない(発表媒体の「理解」も大きく与っているでしょう)。いずれにせよジャンルを超越する普遍性を獲得しえた傑作漫画で楽しめました。

 




そうだ京フェスだ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月21日(月)20時54分2秒

返信・引用

 

 

海外SF企画でなんか面白そうなのあるのかな(^^)

『最後のユニコーン』新旧比較続篇→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fd.hatena.ne.jp%2Fkawaikyo%2F20090921%23p1

『アドルフに告ぐ』は2巻まで。トアホテルが出てきました(トアロードホテルとなってるがトアホテルだよね)。ゲシュタポの悪役ランプが宿泊するんだが、そのことから判るように、トアホテルはおもに外国人が宿泊したんでしょうね(それと上流階級)。

 




「Quijinkyo」59号

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月21日(月)11時23分28秒

返信・引用

 

 

久しぶりの畸人郷会誌「Quijinkyo」59号)が届いていたのですが、連休前は何やかやとあり、今日に至ってようやく通読するを得ました。

ほとんど会長個人誌の趣きの本誌でありますが、なんといっても集中の白眉は、
「神戸を中心に活躍した」(探偵小説に疎い私も名前だけは知っています(^^;)酒井嘉七の出生地の確定がなされたことでしょう。今回はかなり簡単に特定できたとのことですが、それに至るプロセスは、まさにフレンチ警部なみに足を使っての地道な捜査の結果というべきで、アリバイ崩しはありませんでしたが、そういうミステリ読書にも似たパズルのピースがどんどん嵌まっていく興奮と快感がありました。(「神戸市内の酒井嘉七ゆかりの地を訪ねる」

そのフレンチ警部の作者を取り上げた
亜駆良人「クロフツ氏の探偵小説に就いて」は、日本でのクロフツ受容に欠けたところがあり、それは実に英国探偵小説そのものの必須要件である「冒険小説」的要素が、日本ではきちんと受容されなかった反映ではないかという論旨で、深く頷かされました。私自身もホームズものの、とりわけ長篇はむしろ「冒険小説」だろう、と常々思っていましたので、説得力を感じました。

そのクロフツに就いては山沢晴雄先生の力作エッセイ
山沢晴雄「クロフツ昔ばなし」がすばらしい! クロフツ=鮎川=山沢の黄金三角の形成が熱いです(^^)。

須川毅「創元推理コーナー」は、創元推理文庫の挟み込みオマケ「創元推理コーナー」あれこれ。いかにもマニアらしいウンチクが楽しい。99年3月号に「創元推理コーナー(全)」の出版予告が載っていたという衝撃の事実が!!!

また今年は
「戦前本格派の弧峰」(紀田順一郎)蒼井雄の生誕100年に当たるそうで、「メモリアルブック」企画の提案がなされました。(「最近思うこと――生誕100年の作家」
原稿募集中とのことで、興味のある方は畸人郷ホームページの一番下の連絡先へどうぞ。なお当会は通信費のみ1000円(80円封書で12回分)徴収しますが、昨今メールでの連絡が殆どとなったため、一回の通信費で5年くらい大丈夫です(^^ゞ

 




「神の血脈」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月20日(日)22時01分49秒

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伊藤致雄『神の血脈』(角川春樹事務所05)読了。

小松左京賞シリーズ第三弾(笑)。
わ、これは傑作でした。出版時点で読んでいたら森下さんの年間ベストSFには当然入れていたと思います。でも当時は(少なくともネットでは)全然反響がなかったんですよね。いまも検索してみたんですが、純然たる感想や書評は片手にも満たない。
この10年くらいは本の情報収集の90パーセント以上をネットに頼っており、そのネットで反響がないとなかなか当方へ伝わってこない。しかしまあ、考えてみるまでもなく、ネットでの情報発信者(つまり書評サイト)の大半はせいぜい40代までの若い人たちであるわけで、ネットってある意味偏った情報発信装置なんですよね。こういう作品は我々より下の、歴史の授業をないがしろにされてきた世代にはけっこうきついのかも、と感じさせられた次第。
その意味で、情報を得るにネットだけを頼るのは問題がありますね、と今更気づく私。ではどうすればいいのか。やはりSF雑誌の定期購読すべきなのか。SFのサークルに入ればいいのかね。でもこの年齢でなあ……

とまあ、のっけからわき道にそれてしまいましたが、本篇はいわゆる《文系本格SF》であります。舞台は幕末。ペリー来寇に際して、隠密裏に幕府にアドバイスする影の一族が存在した。彼らは4500年前の縄文時代より250代以上連綿と続く万世一系の超家系イヌイ一族で(ちなみに天皇家は125代)、その秘密は彼らが4500年前に宇宙より飛来した宇宙人(?)と特別な関係があったことによるのです。
4500年前、やってきた宇宙人のひとりである結晶人ジュジュが地球で行方不明になる。しかし開いていた<時限航路>の閉じる刻限は迫っており、やむなくもう一人の精神生命型宇宙人ヨサムを救出者として残し、宇宙船は出発する。その211年後にジュジュは救出されるも、次に航路が開くのは遙か未来の21世紀初頭。そのときに出発のサポートを頼むために、イヌイ一族はヨサムとジュジュより「英才教育」を受けていたのです。そうして幕末も近くなった19世紀、「新人類」に近づいた個体が生れ始め、なかでも当代の乾風之介は抜群の能力を発揮し、ペリーでさえ手玉に取る。そしてその風之介の明晰な頭脳は、教育係のヨサムとジュジュも知らなかった或る真相に気づくのであった……!

というゆくたては、本邦版『幼年期の終り』と言っても過言ではありません。いやむしろその円環構造は『果しなき流れの果に』か。いずれにせよ小松左京が好みそうなテーマであります。しかも文章がよい。前作『セカンドムーン』は生硬な文章でずいぶん損をしていましたが、本篇はまさに時代小説のスタイルで飄々と綴られていて、この辺は余人もとい余SF作家にはない独自性といえましょう。大衆性を獲得する基本条件をクリアしています。時代小説を書かせても面白いでしょうね(と思ったらすでに何冊か書いていました(^^;)。

私が気に入ったのは幕末期の支配階級の自然の知識を描いているところで、老中は既に地球が球体であること、地底が岩石が溶けた溶岩であることなどを知っています(地球核の知識はまだない)。この辺が実に面白い。これらはいわゆる蘭学の知識なのであり、著者の恣意によりテキトーに書かれたものではないことは、作中で風之介が、すでに大西洋横断海底ケーブルが敷設されており、ペリー自身が持っている情報は実は古いものだとして、風之介がペリーを恫喝する場面からあきらかでしょう。と書いた後で調べたら、大西洋海底ケーブルは1858年ですね。ペリーの浦賀入港は1853年で、ドーバー海峡横断ケーブルが1850年。つまりここは著者の作為があるわけですが(汗)、なるほど日本が鎖国している間に海底ケーブルが少なくとも完成目前だったのかという落差の驚き《断知識膨張》は確かに喚起されます。

乾一族という「未来の視点」を導入することでステレオグラムの効果が働き、そのような歴史をくっきり立体的に浮かび上がらせることに本篇は成功しているわけです。これまた小松左京好みの設定ですよね。これで受賞しなければ誰が取るというまさに鉄板(^^;
非常に面白いSFで堪能しました。

 




散歩

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月17日(木)21時51分49秒

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運動不足なので、夕刻、防潮堤を散歩しました。30分を目標に防潮堤の上を歩き、15分時点で引き返す。で、丁度30分。
歩いているあいだ、眉村さんのように何か考えればいいのだが、あいにく歩いているとそれに集中してしまうタイプなので、何も考えられないのであった。仕方なく歩数を数えながら歩いた。
往復3400歩であった。
合っているかどうか検算する。だいたい一秒で二歩見当なので、3400歩で1700秒。1700÷60=28.3分となるので、妥当な数字。
では距離は?
いま一歩を計ると50センチでした。したがって0.5mx3400=1700メートル。1.7キロ。
時速に直すと3.4キロとなり、これは人間の平均時速(4キロ)より随分おそいではないか。嗚呼、衰えてるなあ(ーー;

 




「セカンドムーン」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月17日(木)21時06分25秒

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上杉那郎『セカンドムーン』(角川春樹事務所08)読了。

小松左京賞シリーズ第2弾(笑)。
いろいろ否定的なウェブ書評を読んでいたのでいささか腰が引けつつ読み始めたのですが……面白いではないですか!
たしかに頓珍漢な会話があって鼻白むところもあります。特に女性の描き方が男性から見たある種類型的なものです。その意味で「人間」は描けてない。でもそのことを貶すんだったら広瀬正も石川英輔も貶さなければいけません。通俗SFで人間が描けてないというのはむしろ標準でしょう(>ハインラインを見よ)。でもそういうのでもオールタイムで残っている作品は多い。それは「人間」以外の部分で素晴らしいからに他なりません。本篇もそういう作品。「ヒト」ではなく「モノ」の部分が素晴らしかった。後半はもうノンストップでありました。

ハードSFです。ただしハードSFといってもクライン・ユーベルシュタイン系。いやまさに「ストーリーが面白い(谷甲州が入った)ユーベルシュタイン」でした(笑)。どうせなら巻末に用語集つけたらよかったのに(^^ゞ
メインアイデアの「セカンドムーン」がよく考えられています。アマゾンの読者書評で「肝心のセカンドムーンの正体が不明のまま終わる残念さ」などと書いているバカがいますが、どこを読んでいるのか。一番面白いところを読み落としている(ーー;。製作者の星系まで明かされていますがな。しかも周到にも突っ込みを避ける伏線もちゃんと張られています(^^;。その恣意性が謎だった攻撃契機もラストで合理的な解が与えられるし、メインアイデアに関しては謎は全て回収されていると思います。あ、これはもしかしたらミステリ系の面白さかも。

ハードSF(ただし科学ライター系の)ではありますが、本格SFではなく、むしろパニックノベル的な通俗娯楽作品で、この作品なんか映画化したら面白いんじゃないでしょうか。福田和代が好きな人向きの話というか……。
そういう意味でハヤカワ用語とは別の意味で「リアルフィクション」といってよいかもしれません(^^;。

 




「チャーリーとチョコレート工場」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月15日(火)23時30分50秒

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ティム・バートン監督「チャーリーとチョコレート工場」(05)をGyaOで見る。面白かった。背景はCGですね。CGで背景を作って人物は実写なのか。しかし解説を読むまでクリストファー・リーに気づかなかったのは不覚。
ウィリー・ウォンカ(ジョニー・デップ)はマイケルが入っているのかな。そういう面でか大林をちょっと思い出した。たとえば「ハウス」とか(比較対象が古いのは新しいのを見ていないからです(^^;) 筋自体はアメリカンドリームを寓意した道徳的ファンタジーなのだが、そういうおたくっぽい捻りというかゆがみがあって面白く見れた。

 




「時をかける少女」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月15日(火)00時36分20秒

返信・引用  編集済

 

 

細田守監督「時をかける少女」(06)をGyaOでやっているのに気づいたので、いままで見ていました。オリジナルとは別の話ですがいちおうオリジナルを踏まえているんですね(原田知世の姪が本篇の主人公?)。映像がきれいでよかった。ところどころ大林を意識した絵になってますよね。背景はCGなのかな? CGで背景を作って人物はアニメなのか。はじめて見たのですが意外に面白かったです。今劇場に掛っている「サマーウォーズ」もこの監督なのか。GyaOに下りてきたら見てみよう(>いつだよ(^^;)

 




「最後のユニコーン」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月14日(月)18時52分37秒

返信・引用

 

 

雫石さん
実は貴ブログをみて「アドルフに告ぐ」読まなくちゃ、と思っていたところでした(^^)
検索で調べたら近所の図書館にあるようなのです。小さな図書館でSFMもJコレも扱ってないんですが、手塚は置いてるらしい。さすが手塚ですね、というべきなのかどうなのか(^^;。今度行って借りてきますね。


『最後のユニコーン』の新旧の翻訳を比較してるブログ→【その1】【その2】

ふんふん。まあ意見は言わないでおこう(>実は言えるだけの英語力がない(^^;)
「最後のユニコーン」の旧版は所持して積んでいるんですが、しかしながら、少なくともこれでは旧版で読む気は起きませんな(汗)

 




Re: 賀川豊彦とハイカラ神戸

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009年 9月14日(月)09時25分40秒

返信・引用

 

 

> No.2058[元記事へ]

手塚治虫の「アドルフに告ぐ」を読み直しました。
http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ftotuzen703%2Fe%2F8f9442f8d8530d3f4f8ea5e20d3de78f
手塚がこの作品の舞台としたのも、戦前の神戸。西氏の「ハイカラ神戸幻視行」で紹介された「神戸モダニズム」の時代の神戸です。
去る9月5日の神戸文学館でも、西氏の講演を聞きました。ここで同氏は、「夢の世界モダン神戸」と、おっしゃってました。
「ハイカラ神戸」は神戸の明るい面、文化の薫り高いめんを現していました。それに比べて手塚の「アドルフに告ぐ」は、神戸が受けた暗い一面を現しています。阪神大水害、戦争、空襲。
「ハイカラ神戸幻視行」は神戸に対する愛に満ちた好著です。もし、これから読まれる方がおれば、ぜひ手塚の「アドルフに告ぐ」と合わせて、お読みになることをお勧めします。
両方の作品を、より一層深く理解でき、非常に興味深く、私は読めました。

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ftotuzen703

 




賀川豊彦とハイカラ神戸

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月14日(月)00時07分45秒

返信・引用  編集済

 

 

http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.yomiuri.co.jp%2Fnational%2Fculture%2Fnews%2F20090913-OYT1T00683.htm%3Ffrom%3Dmain3

「死線を越えて」は1920年。「一千一秒物語」が1921年。
谷崎1886年生。賀川1888年生。足穂1900年生。
つまり賀川はまさにハイカラ神戸の時代を生きていたわけです。賀川とハイカラ神戸の相性やいかに(^^; キリスト教から説明できるような、できないような。
もっともハイカラ神戸と言うのは西さんの主体性にとって必然ですが、客観的には一種の捏造なので、説明できなくても無問題ではあります。ただこのコンセプトを「神戸と言うブランドのイメージ戦略」として用いるんだとすれば、ちょっと待て賀川はどうなる、という話にはなり得るわけです(^^;

 




「精霊のクロニクル」(続々)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月13日(日)22時28分48秒

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前提の確認。
このような構成にしたもうひとつの理由は、やはり主人公中学生の夢である可能性を残しておきたかったからでしょう。それは過去のパートがまさに精霊が実在する世界として、すなわちファンタジー小説の世界として描かれているからであるに違いない。あるいは主人公の無意識を介在させることで、現実の過去がこのようなファンタジー世界に変容されているとの解釈の可能性を残した。
というのは、主人公が幻視した世界をそのまま事実とすると現代パートとの整合性がずれてしまうことを著者は危惧した、その結果であると思われます。
さて、このような事前の設定上の手続きを施した上で、ようやく著者は想像力を羽ばたかせる余地を獲得するわけです。

 




「ラヴィン・ザ・キューブ」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月13日(日)13時01分51秒

返信・引用

 

 

森深紅『ラヴィン・ザ・キューブ』(角川春樹事務所09)、読了。

これは面白かった。内容は――女・小川一水です(笑)
人間と見分けのつかない(相同率80%以上)アンドロイド特注しかも僅か5ヶ月で納品という企業プロジェクトに、そのサイトメモリー(これってかんべむさしさんの記憶術ですよね)能力を見込まれてプロジェクトリーダー(日程管理者)に抜擢されたハケン上がりの若い女性が、プロジェクトを期間内に完遂させるべく、けなげに、前向きに頑張る姿が活写されます。

まさに小川一水であり、メーカーSF!
しかもこのメーカーSFの「部分」がしっかりしていて、かなり体験の裏打ちがあるのではないでしょうか、信頼できる描写になっている。瀬名秀明のケンイチは、筐体としては既に完成型で登場するわけですが、いわばケンイチが製造される過程が本篇のテーマともいえ、「モノづくり」が作中何度も肯定されます。メーカーの現場で働いている読者も(企業としての否定面も含めて)共感できるのではないでしょうか。そういう意味で企業小説であり、SF的にはギャラクシー系といってあながち間違いではないと思います。

小説の雰囲気は、もろ「テレビドラマ」(^^;
頑張る女性主人公が、才能はあるが社会的人間としては欠陥がある天才的技術者の(かなりカリカチュアライズされた)子供じみた職人気質に悩まされながらも尻を叩いたりしてプロジェクトを期間内に終了させ納品する(技術者も次第に本気を出していく)というゆくたては、テレビの5週完結くらいの連続ドラマにぴったりではないでしょうか。
いやこれは否定的にいってるんじゃありませんよ。内容と形式がマッチしていればテレビドラマだって楽しめるのはいうまでもありません。
とはいえ別に現実にドラマ化を希望しているのありません(してもいいけど)。そういう意味ではなく、本書を読めば、誰だってきっとそんな風にドラマ的な脳内映像が浮かんでくるでしょう、ということです。そういう意味で本格SFではなく、軽SFというべきかも。なんといっても無駄にびっしり書き込みされていないところがよいです(^^; ともあれ生産現場に密着したリアリティが読みどころで、そういう近代精神が根底にあり、むろん著者にはそんな意識は毫もないでしょうが、アンチ・ポストモダンを感じられて爽快でした。

ラストでラカンが出てきてびっくり(^^)

 




「梅田地下オデッセイ」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月12日(土)23時49分9秒

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の詳細地図発見→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fhomepage1.nifty.com%2FbeHungry%2Fneverwhere.f%2Ferewhreven-library.html%23%2583G%2583X%2583g%2583J%2581%255B%2583v(このページの一番下です。詳細図へのリンクあり。製作者は架空地図マニアの方みたいですね)

 




「ラヴィン・ザ・キューブ」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月12日(土)21時02分11秒

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そうだ。小松左京賞、読まなくちゃ。と突然そんな気分になってしまい、(現時点では)最後の受賞作品である森深紅『ラヴィン・ザ・キューブ』の冒頭をちょっと読みかけたんですが――あらま気づけば100ページ。何と半分読んでしまったではないか!
なにこれ、めっちゃ面白いやないですか(^^)

ということで、『精霊のクロニクル』再読の前に、先にこっちを片付けてしまうことにしました(^^; ほんの200ページのノヴェラですから今日中に読んでしまえるでしょう。

 




「ゾティーク幻妖怪異譚」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月11日(金)21時10分26秒

返信・引用

 

 

『精霊のクロニクル』は土日で軽く再読しようと思います。

その前に片付けてしまわねば――ということで、
クラーク・アシュトン・スミス『ゾティーク幻妖怪異譚』大瀧啓裕訳(創元推理文庫09)、読了しました。
うむ。最後まで面白さは落ちませんでした(^^)。
スミスの世界は、ラブクラフトではなくダンセイニの方に近いですよね。ストーリーも捻ってあってちゃんとオチがついて洒落ていて笑いもありますし。

「プトゥームの黒人の大修道院長」なんかもう最高。最後に、おいおいお前らもかよ、と一瞬思わせておいてさらにひっくり返すところなんか拍手喝采ものです(^^;
ラストの、これまた唐宋怪談風に玄妙な
「モルテュッラ」も、オチ(リドルかも)がばっちり効いた、掉尾を飾るにふさわしい作品でした(^^)

いやー、CAスミスよいですなあ。解説によれば僅か80篇(未発表を入れても90篇)しか作品はないんですから、ぜんぶ訳してほしいと思いましたです。
個別の感想は後日「チャチャヤン気分」のほうに掲載します。

さ、『精霊のクロニクル』だ!

 




小松左京賞

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月10日(木)22時56分0秒

返信・引用

 

 

森下さんのブログによれば、小松左京賞が休止とのこと。→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fnukunuku.blogzine.jp%2Fnukunuku%2F2009%2F09%2Fpost_f221.html
SFマガジン系とはちょっと毛色が異なった(いわばイフ/ギャラクシー系の)作家を輩出しており、SFM(自民党)の対抗勢力を形成しえたかもしれないのに。そういう意味でも残念です。

うーむ。想像ですが、小松さん、「もう勘弁してくれ」ということなのではないかな。
今回、最終候補作品に3作残っており、例年そのくらい最終に残ってくるんでしょう。長篇の、それもいい方は悪いですが、どこの馬の骨ともわからんのを3篇も読むのは、お歳もお歳ですから確かに身にこたえる作業ですわな。
ということで選考方法を変えて再開されるかもしれませんね。下の記事の平谷さんとか上田早夕里さんが選考委員になって復活するのかも。そうなったらまた面白い作品が集まってきますよ(^^;

 




「精霊のクロニクル」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月10日(木)22時10分32秒

返信・引用  編集済

 

 

平谷美樹『精霊のクロニクル』(角川春樹事務所09)読了。

いやー面白かった(^^)
所有(欲)は悪である。但し不可避的な悪である。というのが著者の立場なのか。たしかに稲作はエデンの林檎なのかも。
リアルな、というか近代的な小説ではなく、現代人の視点からも見る仕掛けの導入によるステレオグラム効果で批評性を獲得しており、ある意味ポストモダン小説ということもできるでしょう。ファンタジーというよりはアレゴリカルな寓話と見るべきで、しかも主人公は中学生だし、主人公が夢の中で見る旧石器や縄文の祖先たちも若い(だいたい寿命は30歳ですし)のだから、「大人のファンタジー小説」という帯惹句は二重の意味で違うと思う。私なら「大人のファンタジー小説」に「ジュブナイル」とルビを振りますね(^^; あるいは「SF」と書いて「スペキュラティブ・ファビュレーション」とルビを振るかも。

まだ想念がぐるぐるうごめいているので、感想は腑に落ちてからということで。

 




「精霊のクロニクル」(続)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月 9日(水)21時52分57秒

返信・引用  編集済

 

 

『精霊のクロニクル』400ページ弱。残り50ページ。ふだん私は「おすすめ」という言葉をできるだけ使わないようにしているのですが(あくまで「感想文」のつもりなので)、しかしこれはおすすめです(^^)。「所有」とは何か? 自他を区別するところから所有は発生するのか? 所有が発生したから自他の区別が生じたのか? 「所有」をめぐるアレゴリカルな思弁の物語(スペキュラティヴ・フィクション)!

 




「精霊のクロニクル」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月 8日(火)20時42分38秒

返信・引用

 

 

平谷美樹『精霊のクロニクル』が届いていたので、冒頭ちょっと読みかけたのですが――気がつけば(註)、200ページ超。なんと半分読んでしまってました!
旧石器時代が舞台の小説ってあまりないですよね(縄文もだが)。今思い浮かぶのは、鈴木光司の『楽園』ぐらい。

ということで、『ゾティーク』はしばしお休み。先にこっちを片付けてしまいます(^^ゞ まあ丁度よかった。しばらく空けたほうが内容が混ざらず脳に定着しますから。

(註)レトリックですよ(笑)

 




CAスミスと志怪小説

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月 7日(月)21時50分29秒

返信・引用

 

 

『ゾティーク』300ページ。わ、あと100ページしか……。
昨日は「永遠」が捉えられていると書きましたが、これは見方を変えれば「(予め定まった)運命」ということでもあり、一種東洋的無常観に通ずる諦念が作品の基礎にあるように感じられます。たとえば「ウルアの妖術」などはまさに怪談・志怪小説そのもので、人名や地名を中国風に変えれば、「聊斎志異」に収録されていてもおかしくないような話なんですよね。こういう作風のバックグラウンドは英米人にすればたしかに特異なのではないでしょうか。
その一方でラブクラフトの影響モロな作品があり、たとえば「地下納骨所に巣を張るもの」がそうなんですが、こういうタイプのはいまいちで不満が残ります。ただ妖異怪物が出てくるだけでラブクラフトはよしとする面があり、そういうのは読後にわっとひろがるものがありません。

 




星原則とラノベ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月 6日(日)21時17分28秒

返信・引用

 

 

『ゾティーク』200ページ。いかん。半分読んでしまったではないか。
たて糸という意味でのストーリーは殆どない短い話の集積なのだが、個々の作品それぞれに永遠が詰まっているのです。こういうのを読むと、私が求めているのはまさにこういう「小説」なんだとふと思ってしまいます(違うタイプを読むとまた違う思い込みをするんですが(^^;)。
そうか、私がラノベ調をどうしても受け入れられないのは、星新一の原則がまったく顧慮されてないからなのか!

 




『句集 霧を行く』オンライン情報

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月 5日(土)22時50分55秒

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いつの間にか、bk1で購入できるようになっていました→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.bk1.jp%2Fproduct%2F03156737%3Ft%3DT
注文後24時間以内出荷対応ということは、や、在庫してくれたんですね(^^)

クラーク・アシュトン・スミス『ゾティーク幻妖怪異譚』に着手。130ページほど。
『グアルディア』の、まさにラテンアメリカ的沸き立つような腐敗する豊饒性死と再生の循環にみちたダイナミズムに圧倒されたあとだけに、本書の一種鉱物的な静謐さスタティックな無時間性はある意味ほっとさせられるのでした。
とはいえちょっと急ぎすぎたかも。一日一篇くらいのペースが丁度いいのです。あまりいっぺんに読むと個々の作品の印象が混ざってしまうんですよね。

ところで、今ネット書店を漫然と覗いていて気づいたのですが、平谷美樹さんの新刊が出ているではないですか(^^)→http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.kadokawaharuki.co.jp%2Fbook%2Fdetail%2Fdetail.php%3Fno%3D3369
『精霊のクロニクル』
中学生の瀬田暢は、いつも「ここは自分の居場所じゃない」という違和感をもっていた。唯一、心安らぐ場所は大きなブナの木がある小さな公園だった。そんなある日、一人公園にいた暢は、今までにない感覚に包まれて眠りについてしまう。そこで見たものは長くリアルな夢。それは、旧石器時代と思われる世界で生きていた自分の祖先の記憶だったのだ。その世界では、人々は精霊と交流し、精霊とともに森の中で生きていた。何度も繰り返し見る夢はやがて、旧石器時代から縄文時代、弥生時代まで進んでいくのだった・・・・・・。自分の祖先は、何を自分に伝えたいのだろう?大人のファンタジー小説の金字塔!


大人のファンタジー小説となってますが、SFではないのだろうか。ネット上に情報が全然ないんですが、とりあえず注文かけました。楽しみ〜(^^)

 




「グアルディア」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月 4日(金)22時26分53秒

返信・引用  編集済

 

 

仁木稔『グアルディア』Jコレクション04)読了。
ペンネームからはちょっと想像できませんが著者は女性。しかし私は始読即ピンときました(笑) 検索してビンゴ。てか読めば誰でも気づきますよね。
とにかくそういう話。
生殖という機能を好むと好まざるとに関わらず備えた生物がエポケーせずに書けばこうなる例といえる。つまり断絶ではなく連続の物語。それがアニメ調のシナリオと相俟って老残の身には読みにくいこと夥しかったのでした(^^;
後半はもう菊地秀行ばり(^^ゞ
世界設定は緻密なんですが、ただしその提出の仕方は難がある。後出しジャンケン的というか。しかもぜんぶ会話で説明してしまう。もっと描写しなければ折角の設定が面白くならないと思います。
その世界設定内でのドラマがどうにもアニメでこれは一種の「お告げ」(小松左京)であるなと感じた次第。まあラノベのつもりで書かれたのだったら仕方ないですが、Jコレで出たからにはそんな読者ばかりではないということ。
あれもこれも詰め込むのは決して悪いとは思いませんけれども、プレゼンテーションが下手くそなせいでとにかくごった煮感が強く、絵の具の色を混ぜ合わせると最終的に黒に近づいていくのですが、そんな感じで全体に黒く濁ってしまったのは残念。

――と、欠点の目につく小説でしたが、それは私との相性の問題がほとんど。客観的にはSF界に独自のフィールドを開拓しうる才能であるのは間違いない。作家として一番大事なオリジナリティは確かにあり(原石でまだ磨かれていませんが)期待の新人といえるでしょう。

しかしながら、相性とは無関係な欠点があって、それはこの長大な物語を通して遂に「他者」が出現しなかったことですね。小説世界を作者が完全に支配しているのは当然のことなんですが、小説とはその結果として、そうすればするほど「他者」が立ちあらわれてこないではいない。そうでなければ本当の「小説」ではないと私は思います。それは自らの女性性をエポケーできるか、あるいは自己の様々なレベルでの出自をいかに切断・断絶できるかとも関連しており、その辺をどれだけ自身の内部を「再考」していけるかが、今後真の作家(真の作家でない作家はもちろん掃いて捨てるほどいる)となりうるかの分かれ道といえるのではないでしょうか。

本篇以降すでに作品を上梓されているようなので、また読んでみたいと思います。

 




「チャチャヤン気分」更新

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月 4日(金)00時26分11秒

返信・引用  編集済

 

 

チャチャヤン気分に、『ニューワールズ傑作選1』『激しく、速やかな死』『金星シリーズ』の感想文を掲載しました。
いずれも当掲示板に分散投稿してみにくかったのを纏めてみました。

 




昔のドラマ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月 2日(水)00時44分22秒

返信・引用

 

 

GyaOで「悪魔の手毬歌」第3回を観る。面白いなあ。
放送当時はマンガっぽいなと感じたような記憶があるのですが、昨今の、マンガそのものというかマンガの実写版みたいなドラマばかり(当初はそのコンセプトが面白かったんですけどね、でもそんなんばっかりになるとねえ)の状況で観ると、しっかりドラマになっているなと思ってしまいますね。
それはそうと茶木みやこの主題歌は寺山修司作詞だったのか。初めて気づきました。
次回は来月か……。

ところでGyaOですが、「途中から見る機能」がなくなっている。これは不便。なぜだ?
上映アイテムもどんどんつまらなくなっていくし(実際私もほとんど利用していない)、末期的状況なのかもしれませんね。

つづいて「八つ墓村」第3回を観るか(or寝るか)思案中。ちなみに私は寝るのが(なんか勿体なくて)キライで、起きるのも(やはり勿体なくて)キライな人間です(^^ゞ

 




「グアルディア」の「お召し」的構造

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 9月 1日(火)21時06分26秒

返信・引用

 

 

『グアルディア』はようやく300ページ越えた。
うーむこの作品、ある意味「お召し」(小松)なんですよ。小説ってそもそもマルチ・リフレクティブなんだからそう読んだっていいのだ(笑)

『ゾティーク幻妖怪異譚』が届いた。それは予定通りなんだが、上記本がまあいろいろあって予定より遅れているんですよね。昨日読み終わるはずだったんですが(^^;
ということで、訳者による巻末の評伝風解説のみ読む。力作。文庫解説とはすべからくかくあるべし。
ともあれ御三家(とは訳者によれば「勝手な決めつけ」だそうですが)では最も好きな作家。早く着手したいなあ。

 

 


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