ヘリコニア談話室ログ(200910)


 

 

今日の予定

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月31日(土)18時46分6秒

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今日は仕事を休みにして休養した。てゆーかずーっと寝ていた。というか横になってうつらうつらしていたら忽ち日が暮れてしまったのであった。そんなに残ってるわけでもない生存時間をあたら無為に過ごす。なんたる贅沢。哀号。

というわけでもそもそ起き出してきました。これから日本シリーズを見る。終ったら樺山三英を読む。昨日パラパラと見たら別に繋がった長篇の一部ではないみたいだったので。で、できれば今日中にSFMの感想を終らせたい。時間があれば「所有せざる人々」に戻る。無理なら寝る。そんなところ。それ以降は未定。

うーんと。まあどんなに頑張ったって、私に予定できるのは12時間以内までなんだよな。なんという射程の短さだ。哀号。

あ、そういえば昨日チャチャヤン気分のカテゴリーを作家別にしようとしたらこれ以上カテゴリーは作れませんとなった。使えないなあ。別のカテゴライズを考えなければ。

 




感想文格納

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月31日(土)00時16分48秒

返信・引用

 

 

昨日はなおっていた右目が、また今日は調子が悪い。ころころした感じで、肩こりの症状も出てきた。睡眠不足なのかな。

「方舟さくら丸」と「ブレイクニーズの建てた家(らっぱ亭奇譚集ラファティ以外のお蔵出し総集編)」の感想文をチャチャヤングに追加。

 




SF短歌のBNF

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月30日(金)17時36分12秒

返信・引用

 

 

今気づいたが、<エトセトラ>欄にSF短歌誌〈フロンティア〉の終刊号の告知がのっています。
松宮静雄さん難病のためとのこと。

倒れてはならぬ身つひに倒れたり 自室より廊下に出でしばかりに

うーむ……

 




SFM12月号(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月29日(木)22時24分33秒

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エレン・クレイギス「図書館と七人の司書」
一見さわやか風の話ですが、これ、よく考えたら実にいびつでおぞましい話なんですよね。

M・リッカート「王国への旅」
前半(作中作)は見事なケルティック・ファンタジー。特集解説で「作中作だけでも短篇として成立するクオリティがあります」と書かれていますが、まさにそのとおり。
ところが後半はホラー寄りのありがちなモダンファンタシーでがっかり。

菅浩江「鎧と薔薇」
本篇、目次には<読切>とあるが、実際は不定期連載の長篇なのではないだろうか。リアリティのまったくない古代史部分にのけぞる。「外人」と書いて「そとびと」と読ませているがありえない。あえてよむなら「とつびと」だろう。「そと」は室町以降の読み方(岩波古語辞典に拠る)。そとびとの誤用がトリックの伏線だったら謝るけど(汗)。高床式の建物を「二階家」と書いているのも変。一階があってこそ二階家。
古代史パートと現代パートが繋がってないのも本篇が長篇の一部だからだろう。民俗学的な「化粧」との関連で繋がっていくのなら楽しみ。

次の樺山三英作品も、<読切>とあるが不定期連載みたいで大丈夫なのか? とりあえず跳ばして、<リーダーズ・ストーリイ>
齋藤想「太陽系の果てで」を読む。酷寒で大気もないトリトンで発見された「白骨」死体の謎。これは面白かったです。

 




SFM12月号(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月29日(木)21時06分44秒

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「アボラ山の歌」追記。

「一瞬の心変わり」と書きましたが、主人公が自身の心変わりを明確に意識して、その行為――母親にボーイフレンドを紹介するという行為に及んだとは、必ずしもみなすことはできないのです。
本篇を既に読まれた皆さんの中には、かかる行為を「心変わり」とみなす私の想定では、
「もしかすると、マイケルは母に恋してしまうかもしれない。だけどときには、危険をおかさなければいけないときもある」という主人公の「意識」と矛盾するのではないかと思われるかもしれません。
たしかに一見そう見えます。
しかしなぜ、当初は
「ぜったいに会わせないわ」とかたく思っていた主人公が、突如、母親と恋人を引き合わせようなんて、そんな危険な行為に出たんでしょう。まったく筋が通りません。この心理の変化こそ不可解ではないでしょうか。

私にいわせれば、主人公は――いや主人公の意識は、自身の「心変わり」に、実はまだ気づいていないのです。しかし無意識では既に、気持ちはコールリッジに向いてしまっている。コールリッジを知ったことでマイケルへの気持ちはその瞬間に醒めてしまったのです。そこで彼女の無意識は、マイケルと母親とを会わせることで、結果としてマイケルが母親に恋してしまうことを、未必の故意に(但し可能性は100%に近い)望んだ。それはとりもなおさず、(形式的には)自分が振るのではなく、彼女がマイケルに捨てられるというかたちになるわけです。それが彼女には最も「都合のよい」結末なんですね。繰り返しますが主人公(の意識)は、まだそのことに気づいていませんから、意識は
「もしかすると、マイケルは母に恋してしまうかもしれない。だけどときには、危険をおかさなければいけないときもある」と合理化して辻褄を合わせてしまっているのです。ふられることで、ふられるようにしむけることで、マイケルとの関係の清算を、主人公は無意識裡に図った。そう考えれば、この一見不可解な彼女の行為が、実はまさに合理的合目的な行為であったことが浮かび上がってくるばかりか、この言葉がそこにおかれていること自体が、私の推理の正しさを証明しているように思われます。

 




SFM12月号(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月28日(水)21時53分42秒

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「アボラ山の歌」を再読。
初読時よりずっと評価が上昇。面白かったけど世界幻想文学大賞を取るような話かな、と思っていたのですが、たしかにこれは世界幻想文学大賞を取るような大変な話でした。訳文の解釈も明快でグッド(^^;

主人公は、54歳なのに27歳のロックスター(ロニー・ウッド?)と浮名を流すような、そんなとんでもない美貌の母親を持つボストンの大学の女子学生(院生)。小説(神話的ファンタジー)を書いており、その小説には、どうやら主人公を取り巻く人間関係が反映されている。
それは母親から(精神的に)自立しボーイフレンドと結婚するという願望を作中人物に託した物語になっており、お話では、主人公(に擬すべき女性)が、仕える皇妃(母親と名前が同じ)から、暇を貰って結婚する許しを得たいというのならば、あなたと同じくらいに私(皇妃)の夜伽ができる人物を見つけてきなさい。そうすれば許す。といわれ、探しに行くという試練譚になっており、そうして見出された人物が、実にコールリッジ(クブラ・カンや老水夫行の)を反映した人物が想定されているのです。彼女は当初コールリッジを知らず、コールリッジの熱烈なファンであるボーイフレンドから教えられ、自分もファンになった経緯があり、それで物語に取り入れたのでしょうか。
現実のコールリッジが、ほとんど作品を完成させることができなかったのは(未完ばかりなのは)、夜毎ファンタジー世界に召喚されて皇妃のために詩を書いていたからだとされます。なるほど。

話は変わって、主人公の父親は、文脈からハイレ・セラシエの側近で、皇帝と共に飛行機で脱出しようとして国境で追撃され命を落としたことになっている。これは史実と異なるが、そういう民間伝説があったのかも(義経北行伝説のような)。革命が1974年であり、主人公が大学で授業助手をしているくらいだから現在、まあ20代半ばか。仮に25としましょう。母親が現在54歳ですから29歳の時の子供となり妥当。革命時15歳とすれば小説の現在は1984年となる。ところで1947年生まれのロンウッドは、この時点37歳のはずで、ずいぶんずれてしまいますが、これは単純に37歳を27歳といい間違ったか、ロニーの27歳は丁度1974年なので、主人公が革命時のロニーの年齢を勘違いしたのです。そうに決まってます(^^ゞ。

話を戻して――
ところが、ここに第3の世界が出現する。主人公はパソコンで執筆中に、ふと気づけば、いつのまにかザナドゥのクブラカンの宮殿におり、同じく(「クブラ・カーン」を)執筆中であったとおぼしいコールリッジと出会ってしまうのです。そこで主人公はコールリッジにダルシマーを弾き聴かせたりするのですが、現実の部屋をノックする音で「こちら」に引き戻されてしまう(コールリッジもまた、ノックを耳にし、「待っていたポーロックよりの客が来た」といって消える)。「こちら」のノックの主はボーイフレンドだった。「あなたたちポーロックからの客人ときたらいつでも邪魔するんだから」という主人公のセリフは他でもなく、コールリッジが「クブラ・カーン」の詩を書いている最中、ポーロックから客人があり、応対して机に戻ってみたら、なんと続きを完全に忘却してしまっており、「クブラ・カーン」もまた未完となったという事実をふまえているわけです。
主人公はボーイフレンドに作家になろうかなとふと洩らす。そしてだしぬけに母親に電話して、ボーイフレンドと一度あってほしいという。ところがそれ以前に、「きみのお母さんに会ってみたいよ」というボーイフレンドに対して、「ぜったいに会わせないわ」と彼女は思っているのです。母親に会ったものは皆母親に恋をしてしまうからなんです。

ところが突然こうなるのは、夢の中でコールリッジに出会ったからではないか。とすればだしぬけの母親への電話の意味は180度変わってしまうのですが……。この一瞬の心変わりをとらえた描写があざやか(^^;

「クブラ・カーン」(1798年作)の最後の方にあるこの部分は、コールリッジが実際に夢の中で1984年のアビシニアンの娘と出会っていた動かぬ証拠なのかも。

   
ダルシマーを手にした乙女を
   私はかつて夢の中で見たのだ――
   彼女はアビニシアンの乙女で
   ダルシマーをなで弾きながら
   あのアボラの山を讃えていた。
   今一度私の心の中にあの乙女の調べと歌とを
   よみがえらせることができるなら
   私は深い喜びを感得し、いたみいって
   声高の長い長い調べでもって
   空中楼閣を建てるだろう。
Kubla Khan Samuel Taylor Colerige

 




旧松坂屋

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月28日(水)19時46分48秒

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日本橋3丁目の高島屋東別館は、10年ほど前、商談で入ったことがあります。昔ながらの、あのドアが開いて檻が開く式のエレベータが健在でした(^^)。現在でもそうなんじゃないですかね。松阪屋時代のをそのまま使っているんでしょうね。

追記>検索したら店舗になっているようですが、10年前は店舗としては使われておらず、照明も落として薄暗くがらん堂でしたけど。

 




SFM12月号(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月27日(火)22時50分8秒

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なんとなくシオドラ・ゴス「アボラ山の歌」を読んでしまう(^^;
小説内現実界とファンタジー界が重構造になっていて、現実の行動がファンタジー界に反映しちゃう。あ、これがいわゆる<セカイ>系なのか?
長さ的にも適度な複雑さも、仕事の合い間のパスタイムなんかに丁度よい話でした。

 




SFM12月号(1)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月27日(火)19時08分56秒

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体調は回復したようだが、目が相変わらず気持ち悪い。頻繁に目薬をさすのですが、さしたときだけ少しましな程度。
SFM12月号は<秋のファンタジイ特集>ということで、まずは冒頭の
イアン・R・マクラウド「最後の粉挽き職人の物語」を読む。案外支障なく読めました。しかし読後枚数を数えれば100枚程度の中篇だったのだが、読み終わった瞬間は200枚くらい読んだような読後感。目のせいなのか、初読では作品に乗り切れなかったせいなのか(私にはよくあること)よく判りませんが。
意味の通らない記述が数箇所あり、ラストもよく判らなかったので再読に入る。再読は一気に読めました。再読だからすらすら読めて当然。しかしやはり意味が通らないのは解消されなかった。
そんなところが数箇所あったのだけれども、たとえば32ページ
「ネイサンは取引のコツを知っており、老人には安く売る必要などないとわかっていながら、興奮し、気が急くのを抑えられなかった」
このシーンで老人って誰よ。風売り? でも目下やっているのは風売りから安く買うための交渉では?
どなたかご教示いただければうれしいです。

内容自体は悪くない。パヴァーヌをよりケルト化した感じで、原題The Master Miller's Taleですが、主題に即したわがあらまほしき邦題は「バーリッシュ・Mの風の結び手」(>おい(^^ゞ)
守旧派(ギルド派)の秘密結社<未来の人びと>を実質動かしている「都会から来た色白の細面の人々」の正体が(仄めかしはあるが)謎のままで、これはシリーズ長篇を読めば判るんでしょうね。その意味でこれだけでは評価しづらい作品です。

――読書は問題なさそうなので、SFMはとりあえず棚上げして、『所有せざる人々』に戻る予定。

 




定義

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月27日(火)00時19分38秒

返信・引用

 

 

【今日の名セリフ】
少し驚いたのは、「主体がない」=「心がない」としている作品が2作もあったことだ。「七パーセントのテンムー」と「うつろなテレポーター」である。主体が希薄な人は私の周りにもけっこういる。それに対して「主体がない」ことが「心がない」ことだとは全く思ったことがなかったので、同じ発想の作品が同じ年に2作も書かれて収録されていることに驚いた。

なるほど。どんな話だったっけ(汗)。でも定義にもよるのではないかな。どちらも確定した一義的な定義がある概念じゃないからなあ。

今日はだいぶ目がましになったので、リハビリを兼ねて届いたばかりのSFマガジン12月号を読み始める。

 




Re: 会心と追記

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月26日(月)21時26分57秒

返信・引用

 

 

> No.2127[元記事へ]

かんべさん

投稿ありがとうございます。そうなんです。御作に触発されて私の中から出てきたものなんです。
なんですが、どうもそれだけではない気も実はしているんですよね。実際、堀さんのおっしゃったことがやはり当たっているのではないか、と。
でなければ、「原魚ヨネチ」と「三部作」、あまりにもぴったりと符合しすぎるじゃないですか。
近代社会というクライテリオンを導入したのは私のアイデアですが、その結果、この2作がパズルのピースのようにぴったり繋がっていくのを(自分で書きながらこういうのも変ですが)目の当たりにして、私、書きながらゾクゾクして鳥肌が立っていました(実際あの部分、ほとんど自動筆記状態でした)。一種のセンスオブワンダーがありました。
やはりこれ、堀さんがおっしゃるように、かんべさんの「意識」は気づいてなかったのかも知れませんが、意識をしてそれを書かしめたのはかんべさんの「無意識」なのだと思います。両作品ともその底が、かんべさんの内的世界と通底しているからこそ、私に共通性が見えたのですよきっと。単なる私の恣意や嗜好でここまで繋げることはできないように思います。
でも私の中から引き出されたものである感じも依然強くあり、あるいは両方とも正解なのではないか、とも思われます。つまり私の無意識とかんべさんの無意識のうしろに、集合無意識を想定すれば、そういうこともありえるのではないか――あらら、なんか荒巻ロジックみたいになっちゃいました。飛躍しすぎですね(汗)

いずれにしても感想文を書きながらセンスオブワンダーを感じるという、実に稀有な体験をさせていただきました。今後こういうことがまた訪れることがあるのか、あったらいいな、と思わずにいられません。

 




会心と追記

 投稿者:かんべむさし  投稿日:2009年10月26日(月)17時48分48秒

返信・引用

 

 

当方と堀晃氏とで定員2名の、SFもしくは創作検討会。
以前、そこでかわした会話は以下のごとし。
「ヘリコニアの書評、とりあげられてる他作家他作品のなかには、
そんな大層な小説かなあと思うのもあるけど、
私の原魚ヨネチについて書いてくれたのを読んで、わかりましたわ。
ヨネチにしてもトロッコにしても、そこまで考えて書いてないわけで。
管理人氏は、他者の作品を素材にして、自己の内的世界を表出してはるんですな」
「いやいや。それはしかし、そこまで考えて書いてなくても、
かんべの内的世界が、おのずと出てたわけであって」
「はあん。そんな、ええもんですかなあ」
今回、会心を読んで再納得。追記は、おっしゃる通りなんですな。

 




脚本

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月25日(日)22時18分57秒

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まだ調子が出ない。右目がちくちく気持ち悪い。ということで読書封印中。各位にはご迷惑をおかけしております。ともあれなぜかPC画面だと(拡大できるからか)負担がいくらか軽いので、とうにメールで送ってもらっていた「西には果てがないから」の脚本をさっき通読。150枚の(実演時間にして2時間強の)の大作。やっぱり私は観劇に慣れてないので脚本読んで霧が晴れるところ多数でした(汗)。感想文は改めて書きますが、それにしてもこんな複雑な話、1回見ただけでみんな判るんかねえ(と自分の理解の遅さを棚に上げる)。しかもこれ小説の分類でいったらウィリアム・バロウズ系の、ストーリーの連続性をズタズタにしちゃう話なんですよね。読んで判るこの面白さ、という部分が確実にある。イワハシ脚本すばらしすぎる。

 




会心

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月25日(日)11時40分56秒

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本板に分散していた「原魚ヨネチ」の感想を纏めてみたら、何と30枚になっていました(汗)。チャチャヤン気分の記事としてはたぶん最長。私としては会心作なので、みなさんぜひともご高覧ください。
ただ、なんか断定的に「著者の意図はこうだ」という書き方になっているのが今読み返すと気になる。それは私の書き方が稚拙なだけ、というか当時はこのレトリックが気が効いていると思っていたようです。当然ですが、著者の(意識的な)意図とは必ずしも一致していません(^^; 正確には私が読みとった「原魚ヨネチ」ですので念のため。ただし書き込んだ(読み取った)内容については確信を持っており、そんなことは仮にもありえませんが、たとえもし万が一にも当の著者ご本人がそれは違うといってこられたとしても、いや私はそう読んだ。作品がそう主張しているのだからこれでいいのだ、と言い切るだけなのであーる(>強気)。完成し上梓された著作はもはや作家の手を離れて独立した存在物なのであって、作者にはあきらめてもらうほかありません。すまんのう(>あー、すみませんすみませんm(__)m)。

追記>小説は元来マルチリフレクティヴな機能体(ファンクター@M27)なので、私の読みは畢竟私の内部から、読むことによって引きずり出された何かが、それに反射して再び返って来たのを認識したものであるといって過言ではありません。そのような機能が働く小説こそゆたかな小説といえる(誰が読んでも一義的なものしか出てこない小説はやせた小説)。本書はその意味で読み甲斐のある豊かな小説でありました。

 




退場

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月24日(土)21時16分48秒

返信・引用

 

 

わ、今日はデーゲームだったのか。見逃しちゃいました。最後は両チームの選手で胴上げしてもらったようで、月見草の人とは思えない華やかな退場シーンは、らしくないなと思ったり。野村が三冠王を取ったのが昭和40年で私が小学4年生のとき。爾来44年間ファンでした。球界に影響力を残せるかたちでの退場ですし、まあよい潮時でしょう。

チャチャヤン気分に
「原魚ヨネチ」「大江戸神仙伝」を追加。

 




絶対的エース

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月23日(金)21時28分43秒

返信・引用

 

 

いやー今日も面白かった。8回裏はしびれましたね。解説の光山も舌を巻いてましたが、田中、ハートがすごいね。阿修羅の形相もとい貴乃花の形相。ピンチになるほどに存在感がいや増してくるんですよね。絶対的エースとはかくの如しかと、阪神しか見たことのない私は強く感銘を受けたのでした。ピンチになると目が泳ぐ安藤福原とは格が違う。と比べるもおろかですね。失礼しました(田中に)。

チャチャヤン気分に
「黒と赤の潮流」「かわいい女」を追加しました。

 




KS

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月22日(木)21時47分12秒

返信・引用

 

 

観戦終了。いやー面白かった。岩隈は充分勤めを果たしたのと違う? 楽天は山崎武が機能しなかったらしゃーないですね。ハムの糸数というピッチャーはいいねえ。その好漢さに好感。
さあ、あしたも楽しみ(^^)

 




CS成就

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月22日(木)19時44分36秒

返信・引用  編集済

 

 

高井さん
おお、ご教示ありがとうございました。いま見ています。快適です〜(^^)
こんな番組があったなんて、昨日のオレの辛抱はなんだったんだあ、という感じです(^^;
現在1対1、試合はこれからですね、ということで観戦に戻ります。

 




Re: 観戦には向かない速報

 投稿者:高井 信  投稿日:2009年10月22日(木)07時34分32秒

返信・引用

 

 

> No.2118[元記事へ]

> nikkansports.comのリアルタイム速報で観戦(じーっとみてるとよけいに画面が動かないんだこれが。ストレスたまりますね(^^;)。
 yahooで、パリーグ主催の全試合を生中継してくれますよ。もちろん、CSも。
 私はちょくちょくここで観戦しています。
http://baseball.yahoo.co.jp/npb/

 




中谷仁

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月22日(木)01時13分30秒

返信・引用

 

 

楽天の試合など普段見ることがありませんから、あの中谷が楽天にいるなんて今日までまったく知らなかった。スコア表に捕手中谷の文字を見かけて何となく引っかかり、検索して気づいた次第。もちろん阪神にドラフト1位で入り正捕手を期待されるも、中込にケータイを投げつけられ片目を失明しかけた、不運を絵に描いたような、あの中谷。移籍してもう4年になるみたいなんですが、今年は嶋と併用されたようで、つまり野村に認められるまでに成長したんでしょう。年棒も嶋2900万に対して650万。まさに地獄から這い上がった選手です。私はこういう選手が大好きです。花ひらくのを見るととてもうれしくなります。野村がいなくなっても精進して、正捕手を目指して頑張ってほしいと思います。

 




観戦には向かない速報

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月21日(水)22時27分49秒

返信・引用

 

 

9回裏満塁HRで逆転負けって何やってんだよー(笑)
nikkansports.comのリアルタイム速報で観戦(じーっとみてるとよけいに画面が動かないんだこれが。ストレスたまりますね(^^;)。

「ピラミッドの日」「カンガルー作戦」を追加。

 




CSは中継しろの略号さ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月21日(水)17時39分28秒

返信・引用  編集済

 

 

プヒプヒ氏がシュルツを強くプッシュしていてわが意を得たり→http://d.hatena.ne.jp/puhipuhi/20091007
まさしくすべからく読むべしだと思います。*中井全集は全然読破していませんが。
ときにほんとに「気が遠く」なってしまうこともあるけれども、それもまたよし。目覚めてまたつづきを読めばいいだけのこと。

CS第2ステージもテレビ中継なしなのか(←わ、そもそも巨人など眼中にないという態度。傲慢なり)。

 




戻らない

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月20日(火)22時26分6秒

返信・引用

 

 

なかなか調子が戻ってきません。日中はいいんだけど夜になると熱っぽくどんよりした感じになる。目ももひとつすっきりしないので、しばらく読書は中断の予定。感想文のなおしとか、買い換えたケータイの習熟(4年ぶりに買い換えたのだが機能の充実ぶりにびっくりしますね)に費やしたい。

ということで、
「ヴァーミリオン・サンズ」「地球巡礼」「刺青の男」の感想文を改稿し、<チャチャヤン気分>に格納。

 




セカイVS実存

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月19日(月)21時22分38秒

返信・引用

 

 

【今日の御言葉】
「この世界観は拡張現実のみならず、拡張幻想(Augmented Fantasy)でもある。仮想空間のほうを操作すれば、現実空間をも変えることができるという発想を必然的に孕んでいる」(a day in the life of mercy snow)

『ほしのこえ』、『最終兵器彼女』、『イリヤの空 UFOの夏』に共通するのは「語り手である少年が出逢った少女は、じつは世界の運命を担った特別な戦士としての運命を担わされており、そのために少年と引き裂かれる運命にある」というような設定でございます(アレクセイの花園)

セカイは知らんけど、世界はわたしにもあなたにも無関心なんですよ。善意も悪意も持ってないの(a day in the life of mercy snow)

なるほど、つまりサルトルの対極にある世界観なのか。よし、ものはためしひとつ後学のために読んでみるか。読まんかったら話にもならんもんね。

今日は
「聖供」「極楽船の人びと」を、<チャチャヤン気分>に格納。また昨日までの分を時系列に沿って並べ替えました。

 




オリゴ党観劇

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月18日(日)19時13分4秒

返信・引用

 

 

加藤和彦「もうやりたいことがすべてなくなった」

そ、そうなのか(ある意味羨ましい心境ではある)。とはいえ私もそろそろ他人事ではない年齢。あ、てことは……何かやりたいことを残しておけばいい訳ですね。私の場合それはなんだろう? やはり創作かねえ。うん創作、まともなのを1篇書き上げてから死にたいものだ(>永遠に書けないから永遠に死ねないのだ(^^;)。

オリゴ党の芝居を観てきました(於シアトリカル應典院)>
「西には果てがないから」
2時間を越える大作でした。今回もまた、オリゴ党らしく一筋縄でいかない重構造劇。最初は世界がよく把握できないのはいつものこと、次第にわかってくるにつれ、ばちばち繋がっていく快感。
玄奘法師が二人いて、片やヤクザと見紛う暑苦しいオッサン、こなた夏目雅子と見紛う涼やかな美女。どうしてこの二人の区別が、作中人物たちには付かないのか、その疑問が氷解するのがほとんど終幕に近づいた頃であったのは、われながら迂闊というか鈍いというか……慙愧に耐えないのでした。
あー面白かった(^^) 感想は(脚本を送ってもらえることになっているので)後日書きますね。

ル・グイン『所有せざる人々』に着手。おお、これはまさしく『精霊のクロニクル』です!

  origo

 




ホモ・フロレシエンシスの石器

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月17日(土)23時40分56秒

返信・引用

 

 

「ヒトラーの黄金」「笑う警官」「警察小説大全集」「毒薬」「フィリップ・マーロウ」の感想文を、一部改稿の上<チャチャヤン気分>に格納しました。時系列無視で放り込んでいるので前後辻褄が合わない部分が生じていますが、日付は変更可能みたいなので、後日前後関係を合わせます。

サイエンスゼロのホモ・フロレシエンシスを見る。脳の容量に比して石器が精巧である点が謎とのことだが、島嶼化説を認めるならば、矮小化する以前の元の原人が存在したはず。その原人が持っていた石器技術が矮小化した後も既成文化として残存したとは考えられないか。
だとすれば、ホモ・フロレシエンシスには、石器は巨神によって与えられたとの神話が存在したのではないか。そしてその神とは実は祖先だったのだ――というシナリオはどうだろう?<メモ>

 




「エイリアンVSプレデター」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月16日(金)23時35分31秒

返信・引用  編集済

 

 

楽天・ソフトバンク戦をどのテレビ局もやってないので、仕方なく「エイリアンVSプレデター」を見る。この話もやっぱりSF映画の99パーセントの例外ではない館ホラーだった。結局は遊園地のお化け屋敷(ただしゴシック成分あり)ですな。面白かったけど。

終了後ニュースステーションに変えたら、丁度楽天勝利を伝えていた。山崎武重盗ですか(笑) 早くも得意の奇策敢行に、相手のキャッチャーがびっくりしてボールこぼしちゃいましたね。短期決戦は野村用兵に向いているので、これは面白くなってきました。

  

 




眉村さん情報

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月16日(金)18時53分2秒

返信・引用

 

 

みなさん、今日の毎日新聞夕刊の眉村さんの記事、「プラス思考でいこうよ」はもう読まれましたか?
私は早速コンビニに買いに行ったのですが、あろうことかケシカランことに、コンビでは夕刊は扱ってないのでした!
あわてて新聞配達所に出向き、事なきを得ました。まだ確保されてない方は、今ならまだ間に合いますから、駅売店もしくは新聞店へゴー。
さて記事は3面半分使った大々的なもので、<新幸福論>というシリーズのようです。眉村さんへの一問一答形式となっています。
ところで写真が載っているのですが、これはいいですね。最近の眉村さんの写真は頬がこけていているのが多かったと思うのですが、この写真ではふっくらとされて10歳は若返っておられます。いい写真です。
それはさておき、読ませていただき、とりわけ
「人が亡くなるということは、その中にある自分が消えるということ」というお言葉に強く感じ入りました。
「子どものときの経験を話すでしょ。そのとき、おやじがいれば「そうやったなあ、あのときお前は……」と言ってくれた。でも今はいない。/証明してくれる人がどんどんいなくなるんです」
本当にそうですよね。若い人には判らんでしょうが(若いときにわかる必要も意義もありませんけど)。「あ、これってSFのアイデアになるな」と思いました(笑)

ついでに眉村情報を――
○9/24毎日新聞朝刊1面坪内稔典選の俳句欄にて『霧が行く』より
「ケータイが腰で震へてゐる花野」が掲載。

○9/10読売新聞朝刊<近況>「眉村卓さん 俳句60年の結晶」のタイトルで『霧が行く』の紹介記事。

○8/28産経新聞朝刊9面に『霧が行く』紹介の記事。

最新情報としては10月20日発売予定の、『NHK俳句』11月号の宇多喜代子選<巻頭名句>にて取り上げられているそうです。→amazon

眉村先生、昨今はほぼ俳人フィーバーとなっていますが、本人曰く「なんかシンドクなってきた」とのこと(笑)。早く小説書きに戻りたい心境なのかもです。

 




Re: Pink Floyd

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月16日(金)01時36分23秒

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> No.2109[元記事へ]

臼田さん
ご無沙汰してすみません。
映像いいですよねえ。

>今ならもっと牧歌的に聴けるんですけど
たしかに。今でこそBGMで聴けちゃいますけど(聴けるようになりましたけど)、昔はステレオの前に正座して(笑)、一音も聞き漏らすまいという勢いで聴いてました(聴かないではいられなかった)ですもんねえ。BGMで聴こうとしたって、脳が音の聴き取りにかかりきりになるので、BGMの用を果たしませんでした。
そういう意味では、今は堕落してしまっているんですが、でもそれは感性が鈍ってしまった結果でもあると思います。あー年は取りたくないですね(ーー;

  

 




Pink Floyd

 投稿者:臼田惣介  投稿日:2009年10月15日(木)23時45分4秒

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ご無沙汰です。
下記に掲載のピンクフロイドのyoutubeのイメージ映像凄いよねぇ。特にPt.2の「Breast Milky」はいやー感動モノでした。まだ日本に「Atom Heart Mother」のLPが輸入されていない頃、初めてラジオで完全版を聴いて涙を流した、そんな多感な?時代のイメージそのままですもん。今ならもっと牧歌的に聴けるんですけど。なんか妙なレトロ感と懐かしさで新鮮でした。

 




箸墓古墳も泣いているぞ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月15日(木)20時21分31秒

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みなさん、本日発売の週刊文春の記事、「箸墓古墳「卑弥呼の墓」にダマされるな」はもう読まれましたか? 私は早速コンビニで買ってきました。
国立歴史民俗博物館が、箸墓の築造年代は「240年〜260年」で確定したとして、卑弥呼の墓に間違いなしと発表したことに対して、各所より(畿内説の学者からすら)猛反発が起こっているんだそうです。安本美典がその急先鋒らしいのですが、それはある意味当然なんですが、意外にも橿原考古学研究所の方も否定的であるとなると、これは等閑視するわけにはいきません。
記事をよく読むと、要は現代の技術では、ピンポイントで「240年〜260年」と限定することは不可能なはずなのに、牽強付会すぎるということのよう(記事によれば年輪年代法による較正も決め手にはならないらしい)。「はじめに結論ありき」「強い操作性」「出したい結果」「奈良には畿内説の研究者が多いのですが、歴博の結論に賛成している人はほとんどいないと思います」といった強い調子の言葉が並んでいます。
いまや畿内説はほぼ確定しており、箸墓卑弥呼陵説はオロモルフ博士も主張されているようにきわめて信憑性が高いと私も(今では)思っています。
しかしそれを、「強い操作性」で結論付けられては、むしろマイナスにしかならない。畿内説論者がほとんど賛成していないのもそういうことなのでは。
ではなぜ歴博は結論を急ぐのか。
「この研究には文科省から4億6千万円の補助金が出ている」ことが関連しているのならば、学問とはなんであるのかと首を傾げてしまいますね。

 




「精霊のクロニクル」(なお)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月14日(水)20時06分29秒

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体調不良は相変わらず、今日も帰宅後しばらく仮眠していました。日中は忙しくて読書タイムはなし。もっとも読書意欲も低下中で、テレビでも見ようかとスイッチをつけるも、つまらない番組ばかりだなあ。けっきょく消してしまい、今、下のyoutubeを流しつつこの文章を書いているところ。
ル・グイン『所有せざる人々』『精霊のクロニクル』と同じテーマらしいことを知ったので掘り返しているんですが、あれ、持ってなかったっけ?

  

 




だらだら

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月13日(火)22時51分39秒

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風邪がまだ完治していないようで、しんどくなって早めに帰宅。パソコンをつけたのだが、つらさで我慢できず、ひょいと横になったら即寝てしまってました。
目がさめたら部屋がうす暗い。「や、早く目覚めてしまったか」と時計を見ると6時半。ほお、ずいぶん夜明けも遅くなってきたな、などと更に数分間寝ぼけたままでした(^^; いや短時間ながら熟睡したもよう。すっきりしました(笑)

いま、保証協会で中小企業向けの不況緊急融資制度(年利1.6%)があり、まあ威張るわけじゃないが売り上げ減少で資格もある(笑……ってられん)。今借りている保証協会(年利2%)のをこっちに借り換えようと書類を作っていて、実はきのうは徹夜してしまったのでした(この制度、殆どの業種を網羅しており、これはいいですよ。使わないと損。中小企業主の方はぜひ!)。

余談ながら今借りてるのは連帯保証人付きなんですが、今度のは連帯保証人不要の制度なので、金利だけでなく、こっちの方が有利なんですよね。ところが銀行はそう考えない。リスクヘッジでできるだけ連帯保証人をはずしたくないのだろう、あれこれ難癖をつけなかなか動いてくれない。痺れを切らして直接中小企業信用保証協会に出向いたら、あれま、何の問題もなく切り替え可能となりました。拍子抜け。しかし直接出向かなかったら保証協会の意向で難しいのかと思うところだった。何のことはない、銀行のエゴだったわけです。これぞ貸し渋り貸し剥しの実態というわけで、まさに本末転倒の、銀行の使命とはなんなのかと情けない限り(ーー;。

という次第で、風邪だけでなく、慣れない机仕事で徹夜したのとの併せ技が効いたんでしょうね(読書の徹夜なら全然こたえませんから)。けっきょく晩飯後も何をする気力もわかず、youtubeを聴きまくるばかり。今日はこのままだらけてしまうかもです(^^;

 

 




ブログ実用化計画

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月13日(火)01時06分3秒

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思い立って「ミステリーの人間学 英国古典探偵小説を読む」「グアルディア」「検索バカ」「SFマガジン2009年11月号」「ボルヘス編 聊斎志異」「暗黒の城 ダーク・キャッスル」「神の血脈」「セカンドムーン」「ラヴィン・ザ・キューブ」の感想文を、一部改稿の上<チャチャヤン気分>に格納しました。かなり見やすくなったと思います。この作業は継続するつもり。
10年近くやっていると、掲示板の過去ログがあまりに厖大になりすぎ自分自身でも探し出すのが困難になってきたので、出来るだけ移していこうと思っています(>飽きなければ)。ブログもカテゴリをもっと細かく分類しなければ同じなんですけど、それは移し変えておきさえすればいつでも出来るので。

 




「黒十字サナトリウム」読了

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月11日(日)18時25分45秒

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中里友香『黒十字サナトリウム』(徳間書店08)読了。
(承前)
うーむ。5章までは完璧だったが、6章以降突如ぐだぐだになって唖然。
というか、長篇小説として完結してないのではないか。チェルノブイリ云々はただ終らせるだけのエピソードであり、しかも本筋から必然的に結果されるものでもありません。6章、7章は同じ背景の別の短篇とみるべきで(つまり併録の番外編「逆十字入門」と同じ位相)、長篇としては5章までで未完というのが実態でしょう。

著者あとがきを見ると、6章と7章は番外編執筆後に書き上げられたもので、つまりは授賞したオリジナル原稿(新人賞選者が読んだ原稿)にあとから付加されたものであることがわかります。
これはいわば、バローズ火星シリーズが1巻から3巻までが本筋で残りは全て主筋から離れたそれぞれ独立した番外編であるのと同じような形になっているわけです。ところが火星シリーズの主筋は完結しています。本書は、いうなれば火星シリーズの主筋が完結されないまま、番外編が書き継がれたのと同じ状態といえる。バローズ第三巻が完結しない、即ちデジャーソリスが救出されないままにほったらかしにされて、別の話を読まされたとしなんせ、これは読者としては宙ぶらりんの変な気分になろうというものじゃありませんか、皆さん。

本書もまあそんな感じの読後感になりました。結局黒十字サナトリウムとはなんだったのか? 無論そんなものは存在しなかったというのでもかまわないわけですが、前半(3章まで)は「神聖代」ばりの前言撤回手法が良いほうに効いて「黒十字サナトリウム」が底なしの<謎>として機能していてゾクゾクするほど面白く読まされたのです。ところが4章である程度謎が明かされてしまって、深い霧のような濃密な雰囲気が減退してしまう。でもまだまだ面白い。投稿原稿はここまでのあとにチェルノブイリのエピソードで終っているんだと思います。

しかし上に述べたように、チェルノブイリのエピソードは主筋とは内的必然的な関係がなく、まあ終らせるための道具でしかない。本来あるべきストーリーは、必然的にキリストが吸血鬼と化す意味まで踏み込んで何がしかの結論(それが更に謎を深めるものであったとしても)を要求されるものであるはずなんです。その意味では逃げており、ちょっと肩透かしでした。

もっとも6章も7章も、独立した短篇と考えればどちらもよく出来ていると思います。まあ6章は意図的なのか(というのはすべての章で文体が書き分けられている)文体が栗本薫を連想させるのが難ですが(笑)。5章の前半の鏡屋のエピソードはまるで山尾悠子を読んでいるかのようでしたし(この部分だけ取り出せば珠玉の短篇)、基本短篇作家なのかも。逸材であるのは間違いない。願わくは耽美小説に行ってしまわないで幻想SFを書いてほしいと思いました。まずはこの背景世界とはまったく別の世界の話が書けるかが試金石かも。

 




「精霊のクロニクル」(まだまだ)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月11日(日)14時45分26秒

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現在大量に発汗中(室温27℃)。私の場合汗が出たら治りかけの証拠。人間を50年もやってますと身体の自己防衛機能の動向も大体先が読めるようになります。ところで皆さんも経験がおありでしょうが、風邪をひいたり熱が出たりするのは決まって休日か正月か盆なんですよね。不思議ですねえ。人間が《心身体》である証拠ですね。
話が飛びますが、そういう次第で身体から遊離した霊魂は存在が不可能というのがわが信念なんです。たとえ存在するにしても、それがアイデンティティ(私)を保持していたりすることはありえず、事故死などで死んだ場所に執着する類の固着霊にしかならない。
番町皿屋敷がこの例で、明らかに執着霊です。それが証拠に主家が滅んだのに霊は消えません。つまり菊の霊が恨みによって析出されたものではなく、一枚足りないという枚数への執着がそうなさしめたと想像されるわけです。だからこそ「10枚」と先に言ったら「あなうれしや」と消失してしまったのですね。

少なくとも霊として存在している期間が長ければ長いほど、霊そのものはどんどん劣化していくはずであり、その意味で『精霊のクロニクル』の浮遊霊の描写は納得できるものです。

追記。
死んだ学者の脳から重要な知識や記憶を取り出すというSFがありますね。記憶が脳において蓄えられているのだとすれば、これはあながちありえない話ではない。脳は身体の一部です。
だとすれば身体から遊離した霊の「記憶」とは何か? 私はありえないのではないかと思います。たとえば、霊が、霊となってから経験した記憶は一体どこに蓄えられるのでしょう。この点からも霊が「私」を保持することはありないと思う。「私」とは時間内存在(記憶ない存在)なのですから。
したがって霊として残るものがあるとするならば、それは、死んだ瞬間の「一瞬」の気分なのではないでしょうか。タクシーに乗ってくる幽霊が、タクシーに乗って事故にあって亡くなった人の霊だとしますと、死んだ瞬間の状態、「タクシーでどこかへ行こうとしていた」というその気分だけが霊化したものなのではないかと思われます。霊に因果関係を前提とする「目的」はありえないのではないでしょうか。幽霊には時間は流れないと思います。
なおこれは死後身体から遊離するとされる「幽霊」が存在するならばそれはどういう形態のものかついての考察であり、「精霊」はまた別の観念です。

追記。
ではゾンビとは何かとふと思う。
ゾンビとは精神(心)が霊として抜けてしまった残存肉体という位置づけ?
要考察。

 




SF全滅

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月11日(日)10時08分59秒

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> No.2101[元記事へ]

雫石さん
ブログ拝見。うらやましい(^^;
ところで昨夜は次第に頭が痛くなってきて、慣れないmidiに根をつめたせいかと思って早めに寝たのですが、今朝起きたら喉が痛い。ひょっとしたら風邪かも。インフルではないとは思うのだけれども、合宿に行かなかったのは、迷惑をかけずにすんで結果的によかったかもです。

で、気がついたのですが、繁栄するSFジャンルを羨望する別ジャンルがSF殲滅を思い立ったら簡単ですね。他ジャンルに比してきわめて集団性の高いジャンルですから、京フェスとセミナーとSF大会の3箇所でテロを仕掛ければよい。この3箇所でSF活動家はほぼ一網打尽ではありませんか。実に簡単。SFはもっとリスクヘッジに留意すべきかもです。え、そんなに繁栄してないから羨望されることもない? 失礼しました。

 




Re: 京フェス

 投稿者:雫石鉄也  投稿日:2009年10月11日(日)04時50分34秒

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> No.2100[元記事へ]

 私は行きました。なかなか盛況でしたよ。
ま、ブログにも書きましたが、
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/ccd7d1ee47dc73dd9f862a16b346fe36
企画もさることながら、久しぶりの人らと会うのが楽しみですが。
四つの企画、それぞれ面白かったですよ。

http://blog.goo.ne.jp/totuzen703

 




京フェス

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月10日(土)21時00分55秒

返信・引用

 

 

帰宅したのが5時すぎ、結局京フェスへ行きそびれちゃいました。
いやまあそのまますぐ出発すれば、遅刻は遅刻ですが、1限目途中くらいには間に合ったんです。でもお目当ての<未来の文学>がその1限目なのでした。しかも空もしだいに暗くなってきますし、殆ど和歌山の手前の当地から京フェス合宿所まで、ほぼ新幹線東京大阪間くらいの時間がかかるんですよね。向こうへは8時半ごろか、折角到着しても、もし万が一満杯で入場を断わられたら洒落にならんなあ、などと思いついたら、腰が砕けてしまいました。<未来の文学>聞きたかったんよねえ……うーむ、やんぬるかな。
という次第で、なんとなく空白の時間が生じたので、久しぶりに、昼間から脳内で鳴っていた加川良「白い家」を一気呵成でMIDI化してみたのであった(笑)。
             ↓
   http://kuma-gor.hp.infoseek.co.jp/shiroi-uti.mid

 




Re: 「ヨコジュン・ハチャハチャ傑作選」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 9日(金)21時20分2秒

返信・引用

 

 

> No.2098[元記事へ]

や、早速ありがとうございました。
初出確認してみました。

 「日本ちんぼ*」<『脱線!たいむましん奇譚』
 「おたまじゃくしの叛乱」<『脱線!たいむましん奇譚』
 「真夜中の訪問者」<『対人カメレオン症』
 「おお! ファンタスティック」<『対人カメレオン症』
 「決戦!! スペース・オペラ」<『謎の宇宙人UFO』
 「まだらのひもの」<『銀河パトロール報告』
 「太陽族最後の日」<『銀河パトロール報告』
 「代償」<『銀河パトロール報告』
 「宇宙からきた女性」<『反世界へ行った男』
 「ある朝、突然に」<『反世界へ行った男』
 「わんだあぶっく」<『世にも馬鹿げた物語』
 「秘話 父かえる」<『ふぁんた爺さんほら吹き夜話』
 「仮説 大宇宙の危機」<『ふぁんた爺さんほら吹き夜話』

本ベスト集が編まれる(82-02)までに発表された短篇集が以下です。

 『宇宙ゴミ大戦争』77-01
  『2095年の少年』77-09
 
『謎の宇宙人UFO』78-06
  『宇宙のファイアマン』78-09
 
『脱線!たいむましん奇譚』78-12
  『ポエム君と……』79-06
 
『銀河パトロール報告』79-08
 
『対人カメレオン症』80-06
  『小惑星帯遊侠伝』80-08
 
『世にも馬鹿げた物語』81-04
 
『反世界へ行った男』81-01
 
『ふぁん太爺さんほら吹き夜話』81-03
 『予期せぬ方程式』81-05

ジュニア文庫と、明らかにハチャハチャではない「ポエム君」と「遊侠伝」をはずせば、ほぼ万遍なく選ばれていて、バランスがいいセレクションですね。範囲もこのあたりまでで十分です(今なら「初期ハチャハチャベスト集成」となりますか)
ただ、表題作が(出版社に遠慮してか)外されていますね。これは少し不満かも(^^;
やはり「謎の宇宙人UFO」は新たなベスト集には不可欠だと思います。

 




Re: 「ヨコジュン・ハチャハチャ傑作選」

 投稿者:高井 信  投稿日:2009年10月 9日(金)18時09分20秒

返信・引用

 

 

> No.2097[元記事へ]

 収録作品は「日本ちんぼ*」「真夜中の訪問者」「決戦!! スペース・オペラ」「まだらのひもの」「太陽族最後の日」「宇宙からきた女性」「おたまじゃくしの叛乱」「代償」「ある朝、突然に」「わんだあぶっく」「おお! ファンタスティック」「秘話 父かえる」「仮説 大宇宙の危機」です。巻末には、永井豪vs横田順彌「――あとがき対談――マッドをあければ!?」が収録されています。
 ちなみに、この本のことは以前に拙ブログで、ちらと採り上げました。書影も掲載しています。
http://short-short.blog.so-net.ne.jp/2009-07-03

> それにしてもwikipediaの該当項目は全然役に立たないですね。しょうもないエピソードよりもまず、書誌データを充実させてほしいと思いました。
 間違いも多いですしね(苦笑)。

 




Re: 「ヨコジュン・ハチャハチャ傑作選」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 9日(金)16時37分27秒

返信・引用

 

 

> No.2096[元記事へ]

高井さん
いつもご教示ありがとうございます。
あ、やはり存在しましたか>ハチャハチャ傑作選
早速、収録作品は何かなあと検索したんですが、全然引っかかりませんね。もし(書庫の奥に埋れておらず)参照可能でしたら、収録作品を教えていただけませんか? よろしくお願いします。
それにしてもwikipediaの該当項目は全然役に立たないですね。しょうもないエピソードよりもまず、書誌データを充実させてほしいと思いました。

 




Re: 「ヨコジュン・ハチャハチャ傑作選」

 投稿者:高井 信  投稿日:2009年10月 9日(金)08時19分54秒

返信・引用

 

 

> No.2095[元記事へ]

“横田順彌ハチャハチャSF傑作集”として、永井豪選『原色馬鹿図鑑』(有楽出版社・発行/実業之日本社・発売)が1982年に発行されています。
 これを文庫化するのも一案ですね。

 




「ヨコジュン・ハチャハチャ傑作選」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 8日(木)20時56分30秒

返信・引用

 

 

まだどこも出してませんよね。ハルキ文庫の復刊でもでなかったはず。
これ、いいアイデアだと思いません? 創元文庫かどっかでやりませんかねえ(いや、どこででもいいんですが)。ヨコジュンのハチャハチャは、今から振り返れば出来不出来が激しく、文庫一冊分というのはちょうどよいボリュームでは。

 




キリストは吸血鬼だった!(誇大表示)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 8日(木)12時41分26秒

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 *正確には「ナザレのイエスは吸血鬼になった」です(^^;

『黒十字サナトリウム』は200ページ超。
突如「復活イエス=吸血鬼」説が出てきてのけぞる。いや納得の推理だ。小森健太朗のイエス復活の真相とは数段スケールが違う(まあSFですから(^^;)。面白い!!!
吸血鬼(伝説)誕生の民俗学的説明も私には目から鱗。オリジナルなのか、定説で私が知らなかっただけなのか、知識がないので判りませんが、とにかく面白い。

 




亀に乗りたい人

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 6日(火)22時11分3秒

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大毅戦オモロかったです。演出がバカ派手だと、負けるとよけいミジメであるなあ。
ところで鬼塚の解説はもろ御用解説でげんなり。どう見ても勝ちはありえなかったでしょう(引き分けはあったかも)。そういえばこいつ興毅戦でも解説じゃなかったっけ。懲りてないなあ。というかテレビ局の指示なのかな。だから御用解説なんですけどね。もうひとりの解説者の佐藤が困ってしまってあんまり喋らなかったじゃないか。と思ったら、大毅大介戦でやはり鬼塚とコンビで解説していたのか。日和ったらいかんがね。ある意味鬼塚の方が腰が坐っているのかもですな(^^;

 




「精霊のクロニクル」(まだ)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 5日(月)23時27分6秒

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「第二章 白い精霊」では、土器の使用が始まっており、しかもその土器が尖底土器であることから縄文時代の最初の頃と判断されます(説明はない。説明は別途現代パートにあり、無粋な説明で作品世界を台無しにするのを回避するとともに、エンターテインメントらしく読者を放り出さない機能を果たす)。既に精霊との交感は日常的なものではなくなっており、本章の主人公は半分疑っているが、父親の死に際して祖霊の存在を軽視したことから死にゆく父や村に多大な迷惑と損害を与えてしまう。すなわち禁忌破りの顛末を描くことで社会の維持を図るという「昔話」の構造を忠実になぞっており、タブー侵犯者は村から追放されます。本篇はまさに後代の「昔話」であり、それを現代人の主人公が幻視しているといえる。
ただ、この時代人口はまだまだ少なく、資源は十分に豊富であり、追放者が生きていくための
「競合しない場所はいくらでもある」(85p)ので、「市場」の意義はきわめて低い。とはいえ石器時代において乱獲で大型哺乳類を絶滅させた記憶(それは世界的事実)は残っており、それの反省からいわゆる「アイヌ的世界観」が発達している。つまり今は十分とはいえ「資源には限りがある」という意識が強く彼らの行動規範となっており、それを維持するために「昔話」はその一端を担っている。(メモ)←小説からインスパイアされた断想であり、必ずしも小説の感想ではないので念のため。

 




日本SF新人賞

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 5日(月)21時15分46秒

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小松左京賞シリーズは、「神様のパズル」の表紙を見て続行は困難と断念しました。替わりに日本SF新人賞シリーズに着手。まずは『黒十字サナトリウム』。まだ50ページですが、おおこれは怪作では! 文体がよいです。擬古的ではあっても擬古ちなくはありません。今のところ戦前変格探偵小説の味わいが成功している。しかしこれは著者のたくらみなのか、主観的描写はバラードっぽいのですが、ただ単に稚拙なのかも。期待と不安が相半ば。

 




「精霊のクロニクル」(又又)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 4日(日)22時56分49秒

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「第1章 紅い狼」は、旧石器時代の話。ただしもろ神話(あるいは昔話)の形式で、精霊が実際に機能する世界。それでも既に「交易人」が存在し、外部の武器(弓矢、水晶の鏃)が主人公の(元)部族にもたらされている。実際産地が限定される黒曜石(ナイフや鏃に使われた)が後期旧石器時代には既に広く日本全国にいきわたっていたという考古学的事実があり、著者はその伝播に「交易人」の存在を類推したのだろう。つまり旧石器時代という一種の(擬似)原始共産制の時代に、早くもそれぞれの原始共産制社会を繋ぐ「動く市場」があったとするわけです。市場は所有と表裏一体であり、弥生的思考は縄文的世界にそもそも存在したとの設定。まあそのとおりでしょう。
著者はかかる原始共産制社会をかつてあったアイヌ社会から借用している。それは用語がアイヌ語(若しくはそれに似せた造語)であることから明らかで、あるいは旧石器時代から日本列島はアイヌ人の祖先が原住民だったと考えているのかも。もちろん小説だからそう設定したのならそれでオッケーなのだが、実際そうであったかは私はわからないと思います。旧石器人は北から来たはずだが、アイヌ人の彫りの深い顔立ちは南方起源を想像させます。
あ、実は主人公の部族が後に海を渡ってアイヌ人の祖先になった――と類推される――ことが後の章でわかるから、別に北方民族説ではないのか。(メモ)

 




「印象派はこうして世界を征服した」

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 4日(日)20時57分28秒

返信・引用

 

 

【本日の名セリフ】
「芸術家は市場に対抗するという通念がある。しかし、そんな芸術家は印象派以前にはいなかった。彼らは市場に向かって制作したのではないからだ。彼らがパトロンに支えられた職人(アーチザン)だとすると、印象派以後の画家は市場に支えられて初めて存在する芸術家(アーティスト)なのである」(柄谷行人)

なんか、来シーズンは星野が復帰するとか(だから岡田はオリックスに行く気になったらしい)。ほんとかよ。
今シーズン真弓は、岡田が目先の勝利にとらわれて若手の育成を怠ったツケ(去年の後半で既に戦力は崩壊していた)、あるいはリリーフ陣の酷使のツケ(そのため今年前半は使い物にならなかった)をまんま押し付けられたにしては、特に後半、よくここまで建て直して来たと思います。しかしながら岡田の尻拭いで責任を取らされては、真弓もやってられんのではないか。ここはひとつ、CSに進出し優勝をもぎ取って無責任な球団の鼻を明かしてほしいものです(もっとも無責任は阪神球団の伝統ですが)。優勝しても球団は真弓をクビにするのでしょうかね。しかしたとえクビでも、優勝してのそれなら、真弓も望むところだろう。ぜひとも岡田と球団に最後っ屁をかましギャフンと言わせて、我々の溜飲を下げさせてほしいと思うものであります。

BGM>http://www.youtube.com/view_play_list?p=06C47B9A0D81D77C

 




SFM11月号(終)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 4日(日)10時26分20秒

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大橋博之「SF挿絵画家の系譜 ピースメーカーとウエスタン◎小林弘隆」
小林弘隆は
「銃や映画のマニアの世界ではかなり知られたイラストレーターだ」そうですが、私自身は寡聞にして知らなかった。軍事SFのマニアなら知っているのかもしれませんね。でもごく一般のSF読者には無名の存在でしょう。つまりそういう標高線にまで本連載の領野は下りてきているということで、連載が完結し出版されたあかつきには、ある時代の挿絵作家に就いては殆ど網羅された、きわめて詳細な、そしてその分野に関しては誰もが最初に参照するような、堂々たる本が出来上がることでしょう。完成が楽しみ(しかしまだまだ続きそう)。

森奈津子「ナルキッソスたち」
超つまらなかった。<カメレオン型八百比丘尼>というアイデアは面白く期待したのだったが、展開がまったくダメで、全然(形而上へと)突き抜けていかない。形而下の同じ地点をぐるぐる低空飛行しているだけなのでした。
まあバラード特集と同じ号に掲載されて著者としては「何の因果で」と内心忸怩たるものがあるかも知れませんが、やりきれない気持ちは読者も同じ。「何の因果で」バラード特集の直後にこんなん読まされなあかんねん、となってしまう(しかも読み切りは本号ではこれ1篇きり)。
前記の、説明だけで描写がない小説の典型。だから重層性を形成せず平板。告白体・日記体は当然そうだろうと思われるかもしれませんが、「太陽の知らせ」の日記部分を思い出されたい。日記体で書かれた内容が即小説世界の「事実」とイコールではない構成になっていてマルチプレックスな(つまり読み甲斐のある)小説となっているわけです。

柳下毅一郎編訳「J・G・バラード著作リスト&自作コメント[改訂版]」
「広々としたケープケネディは遺棄されて錆つき、打ち上げ台は見捨てられ、人のいないスーパーやモーテルには《売ります》の看板が下がっている。だが、そこはいまだに魔法の土地だ」(260p)

「(「プリマ・ベラドンナを書き上げた」)1956年には、英国に来てもう10年たっていたが、いまだそこに根を下ろせぬままだった」(264p)
むしろ中国から帰国して10年そこそこだったというのが新鮮な驚きで、さもありなんと納得もさせられたのでした。

「ヴァーミリオン・サンズに戻りたい気持ちはますます強まっている。今度はもう戻ってこないつもりだ」(274p)

以上で、
『SFマガジン2009年11月号J・G・バラード追悼特集の読み終わりとします。

 




ノムニーニョ到来

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 3日(土)22時52分50秒

返信・引用

 

 

楽天がCS進出を決めましたね。これは面白くなりましたね。
野村といえばプレイングマネージャー時代、初めて導入されたプレーオフ制の特性を窮めつくした「死んだふり」というとんでもない奇策で実力では数段上の阪急を破ったことは、皆さんも記憶に新しいことだと思います(>いつの話や)。
短期決戦は実力以外の要素が勝敗に大きく作用する形式ですから、野村野球には向いているんですよね。既に野村の頭の中はCSの特性を研究し尽くした「死んだふり」に匹敵する奇策が用意されているのではないか。いや楽しみじゃあ、ありませんか皆さん(と突然鳩山口調(^^;)

 




SFM11月号(5)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 3日(土)22時20分33秒

返信・引用  編集済

 

 

マイクル・ムアコック「J・G・バラード」中村融訳
前記の「ムツカシサ」と関連するんですが、バラードが自作について
"黙示録的"と称すことが多かった」(94p)というムアコックの証言は示唆的です。
「黙示」とは字義通り「黙って示す」ということ。つまり一切の解説や説明をせずただそこに(作品を)提示するのがバラード流であった。
確かにバラード作品は描写のみで成り立っており説明は一切ない。それゆえ<視覚的>でもあるわけですね。
たとえば「太陽の知らせ」では、遁走中の時間の進行は遁走者には意識の埒外であるから、遁走者の視点での描写は、当然遁走中をすっ飛ばして前後が繋がっています。バラードはそれをそのまま描写するので、読者には、最初は何が何だかわからなくてまごつかないではいられません。黙示録的な描写は通常エンターテインメント小説では回避され、必ず神の視点からの説明が読者を助ける。その意味でもバラードの小説は「わかりにくい」といえるのですよね。
ただある程度読み込めば、説明過多の小説よりも黙示録的小説のほうがずっと奥行きがあって味わい深いのは間違いありません。一般に黙示録的小説を楽しめるものは解説的小説もまた同様に楽しめます。しかし解説的小説しか読んだことがない読者は、黙示録的小説を面白いと感じるのはなかなか難しいというのはいえるでしょう。

ムアコックとバラードとベイリーの三人で論じ合ってニューワールズの編集方針が決まっていったというのも興味深かった。オールディスではなくベイリーというのが意外でした。ベイリーってどっちかというと天然で書いていて、ニューワールズでは異色なイメージがあったんですよね。ベイリー再読すべきか。

荒巻義雄「J・G・バラードの文体の秘密」は、いかにも著者らしい躁的観念連合が懐かしく、嬉しかった。

伊藤典夫「苦い思い出」
「エンサイクロペディア・ファンタスティカ」末期の著者の右往左往振りは、傍から見ていて実に見苦しかった。本篇で「ディレーニイは判ったんだけどバラードは……」みたいな書き方をしているけど、連載最後の二回くらいの記述とは180度逆。ディレーニイが判ったのはもっと後の話なのでは?

 




SFM11月号(4)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 3日(土)17時39分46秒

返信・引用  編集済

 

 

巽孝之「追悼評論 真珠湾攻撃の内宇宙――バラードまたはSFの変容」
追悼評論とはいい条、3分の1は自慢話ですな(^^; 若き俊英と謳われた著者も、はや50代半ば。老人の語り口が出てきてもそれは当然なのです(とフォローするのは自分のためでもある>汗)
「40年近い歳月を経て振り返るなら、このとき」(つまり初期作品で)「バラードが念頭においていたのは(…)20世紀前半のモダニズム芸術にすぎないので、その意味では先端的というより懐旧的である」(80p)というのはまさにそのとおりですね。私は濃縮小説も一種の抽象絵画のつもりでバラードは制作したのだと思います(ポップアートの影響もあるかも。むしろポップアートですね。>追記)。

牧眞司「バラード読書ガイド やさしいバラード」
バラードは全然ムツカシクない、というのが論旨。本篇を通読すれば「そのとおり」と頷けるものではありますが、それでもやはりそれは「嘘」になると思う。
「定石を捨てよう、コードをはずそう」(89p)とすることが、<文化内存在>である人間にとって、どれだけ困難なことなのか、著者に判っていないとはとても思えないのですが。実際ベストセラー小説を筆頭に、書店に並ぶ小説の殆どは「定石」や「コード」をアプリオリに、無意識に自明なものとしてまったく疑わず前提としている。だからこそ沢山の読者を獲得できている。逆に言えばコードをはずさなければ楽しめないものは<自然的態度>のままでは「読めない」のです。楽しむためには文化という重力に抗する絶え間ない「意志」の励起(いわゆる現象学的還元)が必須なので、だからバラードはムツカシイといわれるんだと思いますがね。「健忘症」になるには、一般的にはある種の「訓練」が必要です(一般的には、と書いたのは実は訓練を必要としない「センス」をそもそも生得的に備えている人もいるからで、著者はその一人でしょう)。

 




SFM11月号(3)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 2日(金)22時54分47秒

返信・引用

 

 

J・G・バラード「コーラルDの雲の彫刻師」浅倉久志訳
角書きに「再録」とあるが、再録どころじゃないだろう。確認はしてませんが三録、四録目くらいではないのか。大体『ヴァーミリオン・サンズ』は著者の中ではよく売れた本のはず。SFMを購読するような読者なら大概既読でしょう。そんなところから再録じゃなかった三録、四録したって仕方がないように思った。新訳が間に合わなかったのならば、今入手困難なNW−SFから再録する手もあったのではないのかな。創作ではなくてもインタビューとかエッセイとかダリの評論もありましたよね。

J・G・バラード「ZODIAC2000」増田まもる訳
精神病院に10年以上入院している身元不明の元孤児の青年、ひょんなことからDNA螺旋が逆巻きであることが判明し、どうやら鏡宇宙からの闖入者であることが確認される。時の人となった青年は、しかし人々の注視に耐えられず脱走する。秘密組織が彼の脱走を助ける。どうやらテロリストグループらしい。彼らのアジトを転々とする間に彼が遭遇する奇妙な出来事。……
と書くと、派手なバロック的作品かと想像されますが、じつは(^^ゞ

むしろウィリアム・バロウズの世界に近く、濃縮小説ではないが、そういうのに近い読後感があって面白かった。

J・G・バラード「メイ・ウエストの乳房縮小手術」増田まもる訳
わずか2ページのショートショート。メイ・ウエストは1930年代のアメリカ実在のセクシー女優。50代になったメイが肥大しすぎた乳房をちっちゃく形のよいものに整形する(乳首を抜き取って最もかっこいい場所につけなおす)その手術の過程が医学的に詳細に記述されます。

角書きに「濃縮小説」とあるが、どこが? 全然濃縮小説ではない。それなら
ZODIAC2000」のほうがまだしも濃縮小説っぽい。
まあファルスです。読んで、あははと笑うかにやりとすれば、それでいいのではないでしょうか(^^;

柳下毅一郎「J・G・バラード追悼特集 解説」
上記
「メイ・ウエスト……」90年新版の『残虐行為展覧会』に収録されたとあり、上の角書きの出所がわかる。でもやはり私には濃縮小説とはとても思えない。いったい『残虐行為展覧会』のどこに嵌め込んだんでしょう? ちょっと想像がつきません。<残虐行為展覧会>に展示するにふさわしい内容ではあるのは確かかもしれませんが……並べたらかなり浮くのではないのかな。

 




SFMより「太陽の知らせ」(2)

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 1日(木)20時37分27秒

返信・引用  編集済

 

 

雫石さん
本会のみで合宿はパスされるんですね。
ふむ、どうしようかな・・

J・G・バラード「太陽の知らせ」読み終わる。

承前、後半で主人公は「遁走」の最中にもある程度意識を維持できるようになる。それはとりもなおさずリニアな時間線から逸脱してしまうということに他ならないわけであって、それによって「継時的な風景」が「同時」に視えてしまうということになる。すなわち「未来派の絵画のような視界」を獲得するわけです。この描写がまた圧巻。
そしてそのようにして見える風景は、主人公にとってまさに光の帝国、一種視覚のユートピアというべき至福の境地なのです。客観的にはディザスター・エリアである場所が主人公の内宇宙(実際に視えているのだから内的体験にあらず。念のため)においてユートピアと化すのは、破滅三部作と同じですね。
かくのごとく本篇は、シュルレアリスム、スクオラメタフィジカ、フュチュリスムといった初期のバラードに顕著な20世紀幻想絵画の小説化(豊田有恒のひそみに倣えば字で書いた幻想画)の意志が特に強く感じられ、これはある意味バラード自身の「郊外への戻り旅」といえるものなのではないでしょうか。面白かった(^^)

デルヴォーじゃなくてキリコの美神(25p)
  muse

 


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